秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ツェレテリ

2216/R・パイプス・ロシア革命第12章第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 第9節・影響と意味(effects and implications)。
 (1)立憲会議の解散は、驚くべき無関心さで迎えられた。
 1789年には、バスティーユ襲撃を予期してルイ16世が国民議会を解散しようとしているとの風聞は、大きな憤激を生じさせた。しかし、そのようなものは、どこにもなかった。
 一年の無秩序状態(anarchy)のあと、ロシアは消耗していた。人々は、どのような方法で獲得されようとも、平和と秩序を乞い願っていた。
 ボルシェヴィキはそのような雰囲気に賭け、そして勝った。
 1月5日以降、権力を放棄するようレーニンを説得することができるとは、もはや誰にも考えられなかった。
 またそれ以降、ロシアの中央部には、影響力ある反ボルシェヴィキの武装対抗派が存在しなかった。そして、社会主義知識人は言いたくないことだが、常識的には、ここにボルシェヴィキ独裁が定着した、と叙述することができる。
 (2)直接の結果は、各省庁や民間企業の事務系就労者たちのストライキが終わったことだった。彼らは1月5日以降は、仕事へと押し戻された。ある者たちは個人的な必要に迫られて、ある者たちは、内部から事態に影響を与えることができる方がよいと考えて。
 反対派たちの心理はこのとき、致命的に砕かれていた。
 まるで、残虐性と国民の意思の無視が、ボルシェヴィキ独裁を正当化しているかのごとくだった。
 国全体が、混沌の一年のあとでやっと「本当(real)」の政府ができた、と感じた。
 このことは確実に農民や労働者大衆については言えたが、しかし、逆説的にも、<プラウダ>の言う「資本のハイエナ」や「人民の敵」である富裕層や「保守」的な人々についても当てはまった。この人たちは、ボルシェヴィキを軽蔑する以上に、社会主義知識人や街頭の群衆を侮蔑していたからだ。(*)
 ある意味では、ボルシェヴィキは1917年10月にではなく1918年1月にロシアの政府となった、と言ってよいかもしれない。
 当時のある者の言葉によると、「真正の、純粋なボルシェヴィズム、広範な大衆のボルシェヴィズムは、1月5日の後で初めて生まれた」。(130)
 (3)実際に、立憲会議の解散は、多くの点で、「全ての権力をソヴェトへ」という煙幕に隠れて実行された十月のクーよりも重要な意味をもった。
 ボルシェヴィキ党員を含むほとんど誰に対しても十月の目的は隠されたままだったとすると、その一方で1月5日以後に関するボルシェヴィキの意図は、疑いようがなかった。そのとき、人民の意思には気を配らないと考えていることを、ボルシェヴィキは間違いなく明確にしていたのだった。
 彼らは、字義通りの意味で、人民は「人民(people)」であるがゆえにその声を聴く必要がなかった。(**)
 レーニンの言葉によると、こうだ。「ソヴェト権力による立憲会議の解散は、革命的独裁の名による形式的民主主義の、完全なかつ公然たる廃絶だった」。(131)
 (4)民衆一般および知識人のこの歴史的事件に対する反応が予兆したのは、国の将来の悪さだった。
 もう一度事件を確認するならば、ロシアに欠落していたのは国民的結束の感覚だった。この意識があれば、善なる共通利益のために当面のかつ個人的な利益を断念しようと、国民は奮い立つだろう。
 「人民大衆」が示していた気持ちは、私的で地域的な利益、<duvan>の昂奮する愉しみだけを理解することができる、それらは当分の間はソヴェトと工場委員会によって充足されている、というものだった。
 「棒切れをひっ掴む者は伍長だ」というロシアの箴言と合致するように、彼ら人民大衆は、最も大胆で最も残虐な要求者に、権力を譲り渡した。//
 (5)証拠資料から明らかになるのは、ペトログラードの工業労働者たちは、ボルシェヴィキに投票した者たちであってすら、立憲会議が開かれて国の新しい政治的経済的諸制度を策定していくだろうと期待していた、ということだ。
 <プラウダ>が労働者の支持について不満を書いてはいたが、立憲会議防衛同盟の多様な請願書への彼らの署名によっても、このことは確認される。(132)また、立憲会議が招集される直前にボルシェヴィキが労働者に向けて発した、脅威と結びつける逆上しているがごとき訴えによっても。
 だがしかし、火を噴くことを躊躇しない銃砲に支えられて立憲会議を殺そうとする、ボルシェヴィキの断固たる決意に直面したとき、労働者たちの気持ちは挫けた。
 これは、抵抗するなと熱心に説いた知識人たちに裏切られたのが理由だったのだろうか?
 かりにそうであれば、帝制に反対した革命での知識人たちの役割は、思い上がった慰めだった、ということが際立ってしまうことになる。つまり、自分たちの刺激によらなければロシアの労働者は政府に立ち向かおうとしない、という思い上がりがあったように見える。//
 (6)農民たちについて言えば、彼らは大都市で進行している事態について全く関心がないというわけではなかった。
 社会革命党の煽動活動家たちが投票するように言い、そして彼らは投票をした。
 だが、「白い手」の別のグループが奪取したのであったとして、どんな違いがあっただろうか?
 彼らの関心は、その<volosti>の境界内の外には広がっていなかった。
 (7)こうして、社会主義知識人たちは選挙で確実な勝利を獲得してきたので国は従ってきていると自信をもって行動することができたのだが、その知識人たちが取り残された。
 トロツキーはのちに、社会主義知識人たちを嘲弄した。彼らはタウリダ宮に、ボルシェヴィキが権力を投げ棄てた場合に備えてキャンドルを、食料を奪われた場合に備えてサンドウィッチを持って来ていた。(133)
 だが、彼らは銃砲を携帯しようとはしなかった。
 立憲会議の招集の直前に、社会革命党のP・ソロキン(Pitirim Solokin)(のちにハーヴァード大学の社会学教授)は、立憲会議が実力でもって解散される可能性について論じて、こう予言した。
 「開会した会議が『機関銃』に遭遇すれば、我々はそのことを知らせる訴えを発し、我々を人民の保護の下に置くだろう」。(134)
 しかし、彼らには、そのような素振りについてすら、勇気が欠けていた。
 立憲会議の解散のあと、兵士たちが社会主義派代議員に近づいて来て、武装した実力行使でもって回復しようと提示したとき、恐れ慄いていた知識人たちは、その種のことは何もしないで欲しいと懇願した。
 ツェレテリ(Tsereteli)は、内戦を引き起こすよりは、立憲会議が静かに死んだ方がよかっただろう、と言った。(135)
 危険を冒そうとしない者たちは、つぎのようだ。すなわち、革命と民主主義について際限なく語る、しかし言葉と素振り以外によっては自分たちの理想を防衛しようとはいない。
 このような矛盾する行動、歴史の勢いに服従するふりを装う無気力さ、戦って勝利しようとする気がないこと、これらを説明するのは簡単ではない。
 その合理的な答えはおそらく、心理学(psychology)の領域に求めなければならない。-すなわち、チェーホフが巧みに描いた古いロシア知識人の伝統的態度であり、成功することを怖れ、非能率は「主要な美徳であって、光輪(halo)だけには勝つ」という信条をもっていることだ。(136)
 (8)1月5日の社会主義知識人の屈服は、その知識人たち自身の崩壊の始まりだった。
 武装抵抗の組織化を試みてできなかったある人物は、こう観察した。
 「立憲会議を守ることができなかったことは、ロシアの民主主義の最も深刻な危機だった。
 これが、分岐点だった。
 1月5日より後では、理想主義に執心するロシア人知識人がそのために存在する場所は、歴史上、ロシア史上に存在しなかった。 
 過去の存在として葬られたのだ。」(137)
 (9)対抗派の者たちとは違って、ボルシェヴィキはこの事件から多くのことを学んだ。
 武力で統制下に置いた地域では、組織されていない武装抵抗を怖れる必要がある、と分かった。
 彼らの対抗者たちは、民衆の少なくとも4分の3から支持されてはいたが、団結をせず、指導者がおらず、そして何よりも、戦う気概がなかった。
 この経験は、ボルシェヴィキが暴力に訴えるのに慣れさせることとなった。その暴力行使はもちろん、抵抗に遭遇すればいつでも、その抵抗を惹起した者を肉体的(physical)に殲滅することによって問題を「解決」する、ということを意味した。
 機関銃は、ボルシェヴィキが用いる主要な政治的説得の道具となった。
 彼らがそれ以来ロシアを支配した抑制なき残忍性は、相当の程度で、1月5日に彼らが得た、安心してこれを用いることができる、という知識から生じた。//
 -------------
 (*) 1918年5月1日、最も反動的な革命前からの政治家のV・プリシュケヴィチ(Vladimir Purishkevich)は公開書簡を発表して、こう書いた。ソヴェトの牢獄で半年過ごした後で、自分は君主制主義者のままであり、ロシアをドイツの植民地に変えたソヴェト政権に対して何ら釈明することはない。
 彼は続ける。「ソヴェト権力は堅固な権力だ。-ああ、しかし、私がロシアに作ろうとした堅固な権力の方向から生まれたものではない。ロシアの惨めで臆病な知識人層が、我々が蒙っている屈辱の主犯者だ。また、ロシア社会に統治の識見をもつ健全で堅固な権力を生み出すことができない、その主犯者だ。
 1918年5月1日付手紙、VO, No. 36(1918年5月3日), p.4. 所収。
 (130) Solokov in ARR, XIII, p.54.
 (**) このような姿勢をマルトフは1918年春に指摘した。そのときスターリンは誹謗中傷罪だと彼を非難して、革命審判所の前に立たせた。
 革命審判所はもっぱら「人民に対する罪」を裁くために設置されたと通告されて、マルトフは、「スターリンへの侮辱は人民に対する罪だと考えられるのか?」と尋ねた。
 そして自分でこう回答した。「スターリンは人民だと考える場合にだけだ」。
 "Narod eto ia", Vpered, 1918年4月1日/14日, p.1.
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (131) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (132) E. Iganov in PR, No. 5/76(1928年), p.28-p.29.
 (133) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (134) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.323.
 (135) V. I. Ignatev, Nekotorye fakty i itogi chetyrekh let grazhdanskoi voiny(Moscow, 1922), p.8.
 (136) D. S. Mirsky, Modern Russian Literature(London, 1925), p.89.
 (137) Sokolov in ARR, XIII, P.6.
 ----
 第9節、終わり。次節・最終節の目次上の表題は、<労働者幹部会の運動>。

1595/犯罪逃亡者レーニン②-R・パイプス著10章12節。

 前回のつづき。
 ---
 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁②。
 兵士たちは、7月6日から7日の夜の間に、ステクロフの住居にやって来た。彼らがステクロフの居室を壊して彼を打ちのめそうと脅かしたとき、彼は電話して救いを求めた。
 イスパルコムは、二台の装甲車で駆けつけて、彼を守った。ケレンスキーも、ステクロフの側に立って仲裁した。
 同じ夜に、兵士たちは、レーニンの妹のアンナ・エリザロワ(Anna Elizarova)のアパートに現われた。
 部屋を捜し回ったとき、クルプスカヤは彼らに向かって叫んだ。『憲兵たち! 旧体制のときとそっくりだ!』
 ボルシェヴィキ指導者たちの探索は、数日の間つづいた。
 7月9日、私有の自動車を調べていた兵団がカーメネフを逮捕した。この際には、ペテログラード軍事地区司令官のポロヴツェフの力でリンチ行為は阻止され、ポロヴツェフはカーメネフを自由にしたばかりではなく、彼を自宅に送り届ける車を用意した。
 結局は、暴乱に参加したおよそ800人が収監された。(*)
 確定的に言えるかぎりで、ボルシェヴィキは一人も、身体的には傷つけられなかった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの所有物に対しては、相当の損傷が加えられた。
 <プラウダ>の編集部と印刷所は、7月5日に破壊された。
 クシェシンスキー邸を護衛していた海兵たちが無抵抗で武装解除されたあと、ボルシェヴィキ司令部〔クシェシンスキー邸〕もまた、占拠された。
 ペトロ・パヴロ要塞は、降伏した。//
 7月6日、ペテログラードは、前線から新たに到着した守備軍団によって取り戻された。//
 ボルシェヴィキ中央委員会は7月6に、レーニンのレベルでの叛逆嫌疑の訴追を単調に否定し、詳細な調査を要求した。
 イスパルコムは、強いられて、5人で成る陪審員団を任命した。
 偶然に、5人全員がユダヤ人だった。このことはその委員会について、レーニンに有利だという疑いを、『反革命主義者』に生じさせたかもしれない。そこで、委員会は解散され、新しくは誰も任命されなかった。//
 ソヴェトは実際、レーニンに対する訴追原因について調査しなかったが、被疑者の有利になるように断固として決定することもしなかった。
 レーニンの蜂起は、5月以来のそれと緊密に連関して、政府に対してと同程度にソヴェトに対して向けられていた。それにもかかわらず、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕は、現実と向き合うことをしようとしなかった。
 カデット〔立憲民主党〕の新聞の表現によると、社会主義知識人たちはボルシェヴィキを『叛逆者』と呼んだが、『同時に、何も起こらなかったかのごとく、ボルシェヴィキの同志たちのままでいた。社会主義知識人たちは、ボルシェヴィキとともに活動し続けた。彼らは、ボルシェヴィキとともに喜んだり考えたりした。』(186)
 メンシェヴィキとエスエルは今、以前と今後もそうであるように、ボルシェヴィキをはぐれた友人のごとく見なし、彼らの敵は反革命主義者だと考えた。
 彼らは、ボルシェヴィキに向けられた追及がソヴェトや社会主義運動全体に対する攻撃をたんに偽ったものなのではないかと、怖れた。
 メンシェヴィキの< Novaia zhizn >は、つぎのように、Den' 〔新聞 ND = Novyi den' 〕から引用する。//
 『今日では、有罪だとされているのはボルシェヴィキだ。明日は、労働者代表ソヴェトに嫌疑がかかるだろう、そして、革命に対する聖なる戦争が布告されるだろう。』//
 この新聞はレーニンに対する政府の追及を冷たくあしらい、『ブルジョア新聞』は『嘆かわしい中傷』や『粗雑なわめき声』だとして非難した。
 これは、『意識的に労働者階級の重要な指導者の名誉をひどく毀損』している者たち-おそらくは臨時政府-を強く非難しようとしていた。
 レーニンに対する追及は『誹謗中傷』だとしてレーニンの弁護に飛びついた社会主義者の中には、マルトフ(Martov)がいた。(**)
 こうした主張は、事案の事実とは何も関係がなかった。イスパルコムは政府に証拠の開示を求めなかったし、自分たち自身で詳しい調査をしようともしなかった。//
 そうであっても、ボルシェヴィキを政府による制裁から守るのは多大な痛みにはなった。
 7月5日の早くに、イスパルコムの代表団がクシェシンスカヤ邸へ行き、この事件の平和的な解決に関するボルシェヴィキ側の条件を議論した。
 彼らは全員が、党に対する抑圧はもうないだろう、事件に関係して逮捕されている者はみな解放されるだろう、ということで合意した。
 イスパルコムはそして、ポロヴツェフに対して、いつ何時でもしそうに思えたので、ボルシェヴィキ司令部を攻撃しないように求めた。
 レーニンに関係がある政府文書の公表を禁止する決定も、裁可した。//
 レーニンは自分でいくつかの論考を書いて、自己弁護した。
 < Novaia zhizn >に寄せたジノヴィエフとカーメネフとの共同論文では、レーニンは、自分のためにでも党のためにでも、ガネツキーやコズロフスキーから『一コペック〔硬貨の単位〕』たりとも決して受け取っていない、と主張した。
 事態の全体は新しいドレフュス(Dreyfus)事件または新しいベイリス(Beilis)事件で、反革命の指揮をしているアレクジンスキー(Aleksinsky)によって組み立てられたものだ。
 7月7日、レーニンは、この状況では審判に出席しない、彼もジノヴィエフも、正義が行われると期待することができない、と宣言した。//
 レーニンはつねに、その対抗者の決意を大きく評価しすぎるきらいがあった。
 彼は、彼とその党は終わった、パリ・コミューンのように、たんに将来の世代を刺激するのに役立つだけの運命だ、と確信していた。
 レーニンは、党中央をもう一度外国へ、フィンランドかスウェーデンに移すことを考えた。
 彼は、その理論上の最後の意思、遺言書、『国家に関するマルクス主義』の原稿(のちに<国家と革命>の基礎として使われた)を、最後のものには殺される事態が生じれば公刊してほしいという指示をつけて、カーメネフに託した。
 カーメネフが逮捕されてほとんどリンチされかけたあとで、レーニンはもはや成算はないと決めた。
 7月9日から10日にかけての夜、レーニンは、ジノヴィエフとともに、小さな郊外鉄道駅で列車に乗り込み、田園地方へと逃れて、隠れた。//
 党が破壊される見通しに直面していた際のレーニンの逃亡は、ほとんどの社会主義者には責任放棄に見えた。
 スハノフの言葉によると、つぎのとおりだ。//
 『逮捕と審問に脅かされてレーニンが姿を消したことは、それ自体、記録しておく価値のあることだ。
 イスパルコムでは誰も、レーニンがこのようにして『状況から逃げ出す』とは想定していなかった。
 彼の逃亡は我々仲間にな巨大な衝撃を生み、あらゆる考えられる方法での熱心な議論を生じさせた。
  ボルシェヴィキの間では、ある程度はレーニンの行動を是認した。
 しかし、ソヴェトの構成員のうちの多数派の反応は、鋭い非難だった。
 軍やソヴェトの指導者たちは、正当な怒りの声を発した。
 反対派は、その意見を明らかにしないままでいた。しかし、その見解は、政治的および道徳的観点からレーニンを無条件に非難する、というものだった。<中略>
 羊飼いが逃げれば、羊たちに大きな一撃を与えざるをえないだろう。
 結局、レーニンに動員された大衆が、七月の日々に対する責任の重みの全体を負った。<中略>
 「本当の被告人(culprit)」が、軍、同志たちを捨てて、個人的な安全を求めて逃げた!』//
 スハノフは、レーニンの逃亡は、彼の人生でも個人的な自由行動でもあえて危険を冒さなかったほどの、最も非難されてしかるべきことだと見られた、と付け加える。//
 ------ 
  (*) Zarudnyi, in : NZh, No. 101 (1917年8月15日), p.2。Nikitin, Rokovye gody, p.158 は、2000人以上だった、とする。
  (186) NV = Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) 8月4日に、ツェレテリが提案して、イスパルコムは、7月事件に関与した者を迫害から守るという動議を、このような迫害は『反革命』の始まりを画するという理由で、採択した。
 --- 
 ③へとつづく。

1590/七月三日-五日の事件②-R・パイプス著10章11節。

 前回のつづき。
 ---
 第11節・七月3日-5日の出来事②。
 他の工場や軍事分団から集まって群衆は膨れ上がり、その数は数万人になった。(+)
 ミリュコフ(Miliukov)は、タウリダ宮の正面で繰り広げられた情景を-自然発生的だという見かけにもかかわらず、群衆の中に分散していたボルシェヴィキ党員によって緊密に指揮されていた情景を-、つぎのように叙述する。//
 『タウリダ宮は、言葉の完全な意味での、闘争の焦点(the focus)になった。
 全日にわたって、武装した軍団がその周辺に集まり、ソヴェトが最後には権力を奪えと主張した。<中略>
 (午後4時頃、)クロンシュタットの海兵たちが到着し、建物の中に入ろうとした。
 彼らは司法大臣のペレヴェルツェフ(Pereverzev)に対して、ジェレツニャコフ(Zhelezniakov)の海兵やアナキストがドゥルノヴォ(Durnovo)邸に拘禁されている理由を説明せよと要求した。
 ツェレテリが出てきて、反抗的な群衆に、ペレヴェルツェフは建物内にいない、すでに辞任してもはや大臣ではない、と告げた。
 前者は本当だったが、後者はそうでなかった。
 直接に釈明されることがなかったので、群衆たちはしばらくは、どうすればよいか分からなかった。
 しかし、ついで、大臣たちはお互いに連帯して責任を負っている、との叫び声が鳴り響いた。
 ツェレテリを拘束しようとする企てがなされたが、彼は宮の中へと何とか逃れた。
 チェルノフ(Chernov)が宮から姿を現わして、群衆を静かにさせた。
 群衆はすぐに彼に突進し、武器を持っていないかと探した。
 チェルノフは、こんな状態では話せない、と宣告した。
 群衆は、沈黙した。
 チェルノフは、社会主義者大臣たちの仕事ぶりについて、一般的にかつ、とくに農務大臣である彼自身について、長い演説を始めた。
 カデット〔立憲民主党〕の大臣に比べれば、まだ安全なこと(bon voyage)だった。
 群衆たちは反応して叫んだ。
 「なぜ以前に、そう言わなかったのか?
 土地は労働者に、権力はソヴェトに移されていると、すぐに宣言せよ!」
 一人の背の高い労働者が拳を大臣の面前につき突けて、怒って叫んだ。
 「おい、おまえたちにくれたら、権力を奪え!」
 群衆の中の数人がチェルノフを捕まえて、車の方向に引き摺った。他の者たちは一方で、彼を宮の方に引っ張った。
 大臣のコートは引き千切られ、クロンシュタットの海兵たちはその身体を車の中に押し込んで、ソヴェトが権力を奪うまでは解放しないと宣言した。
 何人かの労働者たちがソヴェトが会議をしている部屋に突入して、叫んだ。
 「同志たちよ、チェルノフをやっつけているぞ!」
 混乱の真っ只中で、チハイゼはチェルノフを自由にさせるべく、カーメネフ、ステクロフ(Steklov)およびマルトフを指名した。
 しかし、チェルノフはトロツキーによって解放された。トロツキーは、その場に着いたばかりだった。
 クロンシュタットの海兵たちはトロツキーに従い、彼はチェルノフを連れて会議室に戻った。』(*) //
 そうした間に、レーニンは、目立つことなくタウリダに向かっていた。そこで、現場の事態に関与することなく、事態の展開に依拠しながら、権力を握り取るか、それとも示威活動は民衆の怒りが自然発生的に暴発したものだと宣告するか、を考えた。そして、その情景から姿を消した。
 ラスコルニコフは、レーニンは満足しているようだと思った。(165) //
 全ての行動がタウリダ宮で起こったわけではなかった。
 群衆がソヴェト所在地に集まっている間に、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構が指令した武装分遣隊員が、戦略的な諸地点を占拠した。
 ボルシェヴィキが勝利する見込みは、ペトロ・パヴロ要塞の守備軍団、8000人余りがボルシェヴィキの側へと動いたことで、かなり良くなった。
 武装車のボルシェヴィキ分団は、いくつかの反ボルシェヴィキ新聞社から機械装備を取り上げた。
 アナキストたちは、新聞社の中で最も自由な< Novoe vremia〔新時代〕>を掌握した。
 他の分遣隊は、フィンランド駅とニコライ駅で警護任務を剥奪し、ネフスキー通りとその両側の通りに機関銃の砲台を設置した。この後者は、ペテログラード軍事地区の参謀がタウリダ宮から出てくるのを阻止する効果をもった。
 ある武装分団は、レーニンのドイツとの取引に関する資料が保存されている防諜機関の建物を攻撃した。
 抵抗には遭わなかった。
 リベラルな新聞社の判断によると、その日の推移の結果、ペテログラードはボルシェヴィキの手のうちに渡された。(167)//
 かくして段階は、正規の奪取へと設定された。すなわち、表面的にはソヴェトの名前での、現実にはボルシェヴィキのための、権力の奪取。
 この最高の事態を用意して、ボルシェヴィキは、54の工場から厳選した代表団をすでに編成していた。彼らは、ソヴェトが権力を掌握することを要求する請願書を持って、タウリダ宮で呼びかけることになっていた。
 この者たちは、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕が占有している部屋に強引に入っていった。
 そのうち数人が、話すのを許された。
 マルトフとスピリドノワ(Spiridonova)は、彼らの要求を支持した。マルトフは、これは歴史の意思だ、ときっぱりと述べた。
 この時点で、反乱者たちが身体を張って埋め尽くして、ソヴェト所在地を奪ってしまうことになるようにも思える。
 ソヴェトには、このような脅威に対する何の防御もなかった。ソヴェトを防衛しているのは、全体で6人の護衛だった。//
 だが、それでもなお、ボルシェヴィキは最後の一撃(coup de grace)を放つことに失敗した。
 これは組織が貧弱だったからか、決意のなさによるのか、あるいはこの双方のゆえか、を語るのは不可能だ。
 ニキーチン(Nikitin)は、つぎのように述べて、ボルシェヴィキによる権力奪取の失敗を、拙劣な計画によるとして非難した。//
 『蜂起は、即興的に行なわれた。敵方の全ての行動は、それらが準備されていなかったことを示した。
 連隊や大きな分団は、主要地域に入っても、自分たちの直接の使命を知っていなかった。
 彼らは、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕のバルコニーから、「タウリダ宮〔ソヴェト本部〕へ行け、権力を奪え」と告げられた。
 彼らが行ってつぎの命令を待っている間に、それぞれが混じり合ってしまった。
 対照的に、トラックや武装車に乗った10人から15人の分隊や車の小分遣隊は、完全に自由な行動をした。全市にわたって大きな顔をした。
 しかし彼らも、鉄道駅、電話局、食糧貯蔵所、兵器庫という重要拠点や広く開いている全ての入り口を奪い取れという具体的な命令を受け取らなかった。
 街路は血で染まった、しかし指導者がいなかった……。』(**)//
 しかし、最終的な分析をするならば、ボルシェヴィキの失敗は、不適切な戦力や拙劣な計画以外の要因で惹起されたと思われる。
 今日の研究者たちは、市〔ペテログラード〕は、求めているボルシェヴィキのものだった、ということで合意している。
 上のような要因ではなくて、最高司令官の側にある、最後の瞬間の精神力(nerve)の失敗が原因だった。
 レーニンは、たんに決心できなかったのだ。
 この数日間をレーニンの側にいて過ごしたジノヴィエフによると、今は『やる(try)』ときなのか、そのときではないのか、レーニンは声を出して迷い続けていた。そして、そのときではない、と決めた。
 何らかの理由で、レーニンは、飛躍をする勇気を呼び覚ますことができなかった。
 ドイツとの取引が政府によって暴露されるということが引っ掛かっていて、その暗雲が彼を思いとどまらせた可能性がある。
 のちに二人ともに収監されていたとき、レーニンへの隠れた批判をしていたラスコルニコフに、トロツキーは言った。
 『おそらく、我々は過ちをおかした。
 我々は、権力を奪うべきだったのだ。』//
 ------
  (+) ボルシェヴィキはその数を、50万人またはそれ以上だと推算する。V. Vladimir in : PR =Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.40。これはひどく水増しされている。示威活動に参加した群衆は、おそらくこの数の十分の一を超えなかった。参加したと知られる守備軍の一隊による分析が示しているのは、兵団のせいぜい15-20%が関与し、またはたぶんそれよりも少なそうだ、ということだ。B. I. Kochakov, in : Uchenye Zapski Leningradskovo Gosudarstvennogo Universiteta, No. 205 (1956), p.65-66、G. L. Sobolev, in : IZ, No. 88 (1971), p.77、を見よ。
 示威活動者の数をきわめて誇張するのは、そのときものちもボルシェヴィキの政策で、その目的は、自分たちは『大衆』を指揮しているのではなく彼らの圧力に対応しているのだ、という主張を正当化することにあった。目撃者による証拠資料である、以下を見よ。A. Sobolev, in : Rec,' No. 155-3-897 (1917年7月5日), p.1。
  (*) Miliukov, Istoriia Vtoroi Russkoi Revoliutsii, Ⅰ, Pt. 1 (ソフィア, 1921), p.243-4。チェルノフ事件に関する別の説明は、Vladimirova, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5-17 (1923), p.34-35、Raskolnikov, 同上, p.69-71 にある。
  (165) Raskolnikov, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5/17 (1923), p.71、No. 8-9/67-68 (1927), p.62。
  (167) NV= Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) Nikitin, Rokovye gody, p.148。ネヴスキーは、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構は、敗北する可能性を予期して、慎重にその戦力の半分を残したままだった、と語る。Krasnoarmeets, No. 10-15 (1919.10), p.40。
 ---
 第12節へとつづく。

1585/七月蜂起へ(2)③-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
 ---
 第10節・ボルシェヴィキによる蜂起の準備③。
 ボルシェヴィキの目的は、明白だ。しかし、その戦術は、いつもと同様に、用心深く、面目を維持しつつ退却する余地を残していた。
 この事件の参加者だったミハイル・カリーニン(Mikhail Kalinin)は、かくして、党の立場をつぎのように叙述する。//
 『責任ある党活動家たちは、微妙な問題に直面した。
 「これはいったい何か-示威活動か、それともそれ以上の何かなのか?
 ひょっとすると、プロレタリア革命の始まり、権力奪取の始まりなのか?」
 これがこのとき、重要な問題として現われた。そして、彼らは(レーニンの存在を)切望した。
 レーニンならば、答えるだろう。「我々は何が起きているか、分かるだろう。だが今は何も言うことができない!」<中略>
 これはじつに、革命家の力、その数、その質、そしてその行動力を再吟味することだった。<中略>
 再吟味すれば、重大な結果に遭遇することがありえた。
 全ては、力の相関関係に、そして好機が発生する多さにかかっていた。
 いずれにせよ、不愉快な驚きを防ぐ保障のためであるかのごとく、司令官の命令は、「我々は、分かるだろう」だった。
 これは決して、力の相関関係が有利であることが判明すれば連隊を戦闘へと投入する可能性も、あるいは他方で、可能な最小限の損失で退却する可能性も、いずれも排除するものではなかった。七月に現実に起きたのは、後者だった。』 (*)//
 中央委員会は、翌日の7月4日までの予定で、ポドヴォイスキーが長である軍事機構に、作戦を指揮する責任を委ねた。
 ポドヴォイスキーとその同僚たちは、親ボルシェヴィキの軍団や工場と連絡を取り合い、行動を留保するように助言したり行進の順序を教えたりしながら、その夜を過ごした。
 クロンシュタットは、クシェシンスカヤ邸のボルシェヴィキ最高司令部から、兵団出動の要請を受けた。
 武装の集団示威活動は、午前10時に開始するものとされた。//
 7月4日、<プラウダ>は、第一面に広い白紙面をつけたままで発行された。それは、前夜にはあったカーメネフとジノヴィエフの抑制を求める論文を削除したことの、見える証拠だった。
 この判断にレーニンがどういう役割を果たしたかは、あったとしても、確定することはできない。
 ボルシェヴィキの歴史家は、レーニンは仲間たちが何をしているかを知らないままでフィンランドの片田舎の平和と静穏を味わっていた、と執拗に主張する。
 レーニンがボルシェヴィキの行動を伝言配達者(courier)にょって初めて知ったのは、7月4日の午前6時だった、と言われている。その後で彼は、すぐに首都へ出立して、クルプスカヤやボンシュ-ブリュヴィッチと一緒になった、とされる。
 このような公式見解は、レーニンの支持者は彼の個人的な是認なくしていかなる行動も決して企てなかったことを考えると、信じ難いように思える。そんな莫大な危険のある冒険をするような行動では、疑いなく、なかったのだ。
 スハロフ(Sukhanov)によって(後述参照)、レーニンは叛乱の前の夜のあいだ、当該主題に関して<プラウダ>用の論文を書いていた、ということも知られている。
 当該主題、それはほとんど間違いなく『全ての権力をソヴェトへ』で、その論文は、新聞<プラウダ>が7月5日に掲載した。(158)//
 ------
  (*) M. Kalinin, in : Krasnaia gazeta, 1917年7月16日, p. 2。
 レーニンは現場にいなかったので、カリーニンは合理的に推測して、レーニンが次の日に語ったことを参照している。つぎの同様の評価を参照。Raskolnikov, in :PR= Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.59。
 ボルシェヴィキの戦術は、メンシェヴィキに漏れていなかったわけではなかった。ツェレテリ(Tsereteli)は、7月3日の午後にスターリンがイスパルコムに姿を見せて、ボルシェヴィキは労働者と兵士が街頭に出るのを止めるために可能なことは全てすると伝えたあとで事件が起きた、と叙述する。
 チヘイゼ(Chkheise)は微笑みながらツェレテリに対して言った、『今や状況は明らかだ』。ツェレテリは続ける、『私は彼に尋ねた。状況が明らかだというのはどういう意味か?』チヘイゼは答える、『平和的な民衆には、その平和的な意図を述べる原案など必要はない、という意味さ。我々は、指導者のいないままに大衆が放っておかれることはありえない、と言って、ボルシェヴィキが加わるつもりのいわゆる自然発生的な示威活動に関して議論しなければならないだろう、と思う』。
 Tsereteli, Vospominaniia, Ⅰ, p.267。
  (158) Lenin, PSS, XXXII, p.408-9。
 ---
 第11節につづく。

1576/六月騒乱の挫折②-R・パイプス著10章7節。

 前回からのつづき。
 ---
 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動②。
 ボルシェヴィキは、予定した日の4日前の6月6日、最高司令部の会議を開いて最後の準備をした。
 この会議の議事内容を、我々は削り取られた議事録からしか知ることができない。その議事録では、最も重要な最初の事項、レーニンの発言が粗々しく切断されている。
 蜂起するという考えは、強い抵抗に遭った。
 レーニンの『冒険主義』を4月に批判したカーメネフは、再び主導権を握った。
 カーメネフは、この作戦は確実に失敗する、と言った。ソヴェトの権力獲得に関する問題は、ソヴェト大会に委ねるのが最善だ。
 中央委員会のモスクワ支部から来たV・P・ノギン(Nogin)は、もっと率直に、つぎのように語った。
 『レーニンの提案は、革命だ。我々にそれができるのか?
 我々は国の少数派だ。二日では、攻撃を準備できるはずがない。』
 ジノヴィエフも、計画している行動は党を大きな危機に瀕せしめると述べて、反対派に加わった。
 スターリン、中央委員会書記のS・D・スタソワ(Stasova)、およびネフスキー(Nevskii)は、力強くレーニンの提案を支持した。
 レーニンの議論内容は、知られていない。しかし、ノギンの言っていることから判断して、レーニンが何を求めていたかは明瞭だ。//
 ペテログラード・ソヴェトとソヴェト大会は、示威活動を起こすことを考慮して、完全に闇の中に置かれたままだった。//
 6月9日、ボルシェヴィキの扇動者たちが兵舎や工場に現れて、兵士や労働者たちに翌日に予定された示威活動について知らせた。
 軍事機構の部署である<兵士プラウダ>は、示威行進者たちに詳しい指示を与えた。
 その新聞の論説は、つぎの言葉で結ばれていた。
 『資本主義者たちに対する戦争を勝利の結末へ!』//
 このときに開会中のソヴェト大会は、大会での弁舌に夢中になっていて、ほとんど遅すぎると言っていいほどに、ボルシェヴィキの準備について何も知りはしなかった。
 6月9日の午後になって、ボルシェヴィキのビラを見て初めて、彼らがしようとしていることを知った。
 出席していた全ての政党が-もちろんボルシェヴィキを除いて-、ただちに、示威活動の断念を命令すること、およびこの判断を労働者区画と兵舎に伝える活動家を派遣すること、を表決した。
 ボルシェヴィキは、新しい事態に対処すべく、その日遅くに会合を開いた。
 公刊された記録文書は存在していないのだが、彼らは議論の末に、ソヴェト大会の意思に屈して、示威活動を断念することを決定した。
 彼らはさらに、ソヴェトが6月18日に予定した平和的(換言すると、武装しない)示威行進に参加することに合意した。
 おそらくボルシェヴィキ最高司令部は、ソヴェト首脳部に挑戦するのはまだ時機が好くないと考えた。//
 ボルシェヴィキのクーは、回避された。しかし、ソヴェトの勝利の価値には、疑わしいところがあった。なぜなら、ソヴェトには、この事件から適切な結論を導く、道徳的勇気が欠けていたからだ。
 ボルシェヴィキを含めてソヴェトの全党派を代表するおよそ100人の社会主義知識人たちが、6月11日に、この二日間の事態について議論すべく会合を開いた。
 メンシェヴィキの代弁者であるテオドア・ダン(Theodore Dan)はボルシェヴィキを批判し、いかなる党派もソヴェトの承認なくして示威活動をするのは許されない、武装の集団はソヴェトが支援する示威活動にのみ投入される、という決議案を提案した。
 これらの規則の違反者は除名されるものとされていた。 
 レーニンは自ら選んで欠席しており、ボルシェヴィキの事案はトロツキーによって防御された。
 最近にロシアに到着したトロツキーは、まだ正式には党員ではなかったが、ボルシェヴィキ党にきわめて近い立場にいた。
 議論の途中でツェレテリは、臆病すぎるとして、ダンの提案に反対するように出席者に求めた。
 青白くなり、興奮して声を震わせて、彼は叫んだ。//
 『起きたことは、<陰謀に他ならない。
 -政府を転覆させて、ボルシェヴィキに権力を奪取させる陰謀だ>。
 彼らが他の手段では決して獲得できないと知っている権力を、だ。
 この陰謀は、我々が発見するや否や無害なものに抑えられた。
 しかし、明日にもまた発生しうる。
 反革命が頭をもたげた、と言う。
 それは違っている。
 反革命が頭をもたげたのでは、ない。頭を下げたのだ。
 反革命は、ただ一つの扉を通ってのみ貫ける。ボルシェヴィキだ。
 ボルシェヴィキが今していることは、考え方の情報宣伝ではなく、陰謀だ。
 批判を攻撃する武器は、武器を攻撃する批判によって置き換わる。
 ボルシェヴィキ諸君、許せ。だが、我々は、別の手段での闘争を選択すべきだ。
 武器をもつ価値のない革命家からは、武器を奪い取らなければならない。
 ボルシェヴィキは、武装解除されなければならない。
 彼らが今まで利用してきた異様な専門的用具を、彼らの手に残してはならない。
 機関銃や武器を、彼らに残してはならない。
 我々は、このような陰謀に寛容であってはならない。』(*)//
 ツェレテリはある程度の支持を得たが、多数は反対だった。
 ボルシェヴィキの陰謀だとする、どんな証拠があるのか?
 純粋な大衆運動を代表するボルシェヴィキを、なぜ武装解除するのか?
 彼は本当に『プロレタリアート』を、自衛できないものにしたいのか?
 マルトフは、とくに猛烈に、ツェレテリを非難した。
 社会主義者たち〔ソヴェト大会〕はその翌日に、ダンの穏健な提案に賛成する表決をした。これは、ボルシェヴィキの武装解除に、彼らから秘密の装置を剥ぎ取ることに、反対することを意味した。
 精神の、重大な過ちだった。
 レーニンは直接に、ソヴェトに挑戦した。そしてソヴェトは、その目を逸らした。
 ソヴェト多数派は、つぎのように信じることを好んだのだ。すなわち、ボルシェヴィキは、ツェレテリが言うような、権力奪取を志向する反革命の党ではなく、疑問のある戦術を用いている、ふつうの社会主義政党の一つなのだ、と。
 社会主義者たちはかくして、ボルシェヴィキを非合法なものにする機会を、敵に対してソヴェトの利益を代表し、その利益のために活動していると主張するという、強い政治的武器を奪い取る機会を、逃した。//
 ボルシェヴィキは、臆病ではなかった。
 <プラウダ>は、ツェレテリの提案が否決された翌日に、ボルシェヴィキは現在も将来も、ソヴェトの命令に服従する意思はないと、ソヴェトに知らしめた。
 『我々は、以下のとおり宣言するのが義務だと考える。
 ソヴェトに参加しても、かつソヴェトが全ての権力を獲得するために闘っても、一瞬でも、また原理的に我々の敵対物であるソヴェトの利益のためにも、つぎの権利を放棄することはしない。
 すなわち、分離しておよび自立して、我々のプロレタリア階級政党の旗のもとに労働者大衆を組織化する全ての自由を活用する権利。
 我々はまた、そのような反民主主義的制限に服従することを、範疇的に拒否する。
 <国家の権力が全体としてソヴェトの手に移ったとしても>、-そしてこれを言いたいが-ソヴェトが我々の煽動活動に足枷をはめようとしても、<我々は、温和しく服従するのではなく>、国際的社会主義の理想の名において、投獄やその他の制裁を受ける危険を冒す。』(112)//
 これは、ソヴェトに対する戦争開始の宣言であり、ソヴェトが政府になっても、なったときにも、それに反抗して行動する権利をもつことを強く主張するものだった。// 
 ------
  (*) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.2。これは非公開の会議だった。そして、他の根拠資料は存在しない。しかし、ツェレテリは、<プラウダ>からの本文引用部分は、若干の些細な、重要ではない省略はあるけれども、正しく自分の発言を伝えるものであると確認している。ツェレテリ, Vospominaniia, II, p.229-230。
  (112) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.1。強調の< >は補充。
 ---
 第8節につづく。

1574/ケレンスキー着任・六月騒乱①-R・パイプス著10章7節。

 前回のつづき。第7節は、p.412~p.417。
 ---
 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動①。
 ケレンスキーは、戦時大臣としての職責に、称賛すべき積極さで取り組んだ。
 ロシアの民主主義の生き残りは、強くて紀律ある軍隊にかかっていると、そして沈滞気味の軍の雰囲気は軍事攻勢に成功することで最も高揚するだろうと、確信していたからだ。
 将軍たちは、軍がこのまま長く動かないままであれば、軍は解体すると考えていた。
 ケレンスキーは、フランス軍の1792年の奇跡を再現したかった。フランス軍はその年、プロイセンの侵攻を止めて退却させ、全国民を革命政府へと再結集させた。
 二月革命前に取り決められていた連合諸国への義務を履行するために、大攻勢は6月12日に予定されていた。
 それはもともとは純粋に軍事的な作戦として構想されていたが、今や加えて、政治的な重要性を持ってきていた。
 軍事攻勢の成功に期待されたのは、政府の権威を高め、全民衆に愛国主義を再び呼び起こすことだった。これらは、政府に対する右翼や左翼からの挑戦にうまく対処するのを容易にするだろう、と。
 テレシェンコはフランスに対して、攻勢がうまくいけばペテログラード守備兵団にある反抗的な要素を抑圧する措置をとる、と語った。//
 軍事攻勢を行う準備として、ケレンスキーは軍の改革を実施した。
 彼は、おそらくロシアの最良の戦略家だったアレクセイエフについて、敗北主義的行動者だという印象を持った。そしてアレクセイエフに替えて、1916年の運動の英雄、ブルジロフ(Brusilov)を任命した。(*)
 ブルジロフは軍隊の紀律を強化し、服従しない兵団に対する措置について、広い裁量を将校たちに与えた。
 フランス軍が1792年に導入した commissaires aux armees を真似て、前線の兵士たちの士気高揚のために委員(commissars)を派遣し、兵士と将校の間の調整にあたらせた。これは、のちに赤軍でボルシェヴィキが拡大して使うことになる、新しい考案物だった。
 ケレンスキーは、5月と6月初めの間のほとんどを、愛国心を掻き立てる演説をしながら、前線で過ごした。
 彼が現れることは、電流を流すような刺激的効果をもった。//
 『前線へのケレンスキーの旅を表現するには、「勝利への進軍」では弱すぎるように思える。
 扇動的な力強い演説のあとは、嵐が過ぎ去るのに似ていた。
 群衆たちは彼を一目見ようと、何時間も待った。
 彼の通り道はどこにも、花が撒かれた。
 兵士たちは、握手しようとまたは衣服に触ろうと、何マイルも彼の自動車を追いかけた。
 モスクワの大きな会館での集会では、聴衆たちは熱狂と崇敬の激発に襲われた。
 彼が語りかけた演台は、同じ信条の崇拝者たちが捧げた、時計、指輪、首輪、軍章、紙幣で埋め尽くされた。』(103)//
 ある目撃者は、ケレンスキーを『全てを焼き尽くす火を噴き上げている活火山』になぞらえた。、そして、彼には自分と聴衆の間に障害物があるのは堪えられないことだった、とつぎのように書いた。
 『彼は、あなた方の前に、頭から脚まで全身をさらしたい。そうすれば、あなた方と彼の間には、見えなくとも力強い流れのあるお互いの放射線が完璧に埋め尽くす、空気だけがある。
 彼の言葉はかくして、演壇、教壇、講壇からは聞こえてこない。
 彼は演壇を降りて台に飛び移り、あなた方に手を差し出す。
 苛立ち、従順に、激しく、信仰者たちの熱狂が打ち震えて、彼を掴む。
 自分に触るのを、手を握るのを、そして我慢できずに彼の身体へと引き寄せるのを、あなた方は感じる。』(104)//
 しかしながら、このような演説の効果は、ケレンスキーが見えなくなると突如に消失した。現役将校たちは、彼を『最高説得官』と名づけた。
 ケレンスキーはのちに、6月大攻勢直前の前線軍団の雰囲気は、両義的だった、と想い出す。
 ドイツとボルシェヴィキの情報宣伝活動の影響力は、まだほとんどなかった。
 その効果は、守備兵団と、新規兵から成る予備団である、いわゆる第三分隊に限られていた。
 しかし、ケレンスキーは、革命は戦闘を無意味にしたとの意識が広がっていることに直面した。
 彼は、書く。『苦痛の三年間の後で、数百万の戦闘に疲れた兵士たちが、「新しい自由な生活が故郷で始まったばかりだというのに、自分はなぜ死ななければならないのか?」と自問していた。』(105)
 兵士たちは、彼らが最も信頼する組織であるソヴェトからの返答をもらえなかった。ソヴェトの社会主義者多数派は、きわめて特徴的な、両義的な方針を採用していたからだ。
 メンシェヴィキと社会主義革命党(エスエル)の(ソヴェトでの)多数派が裁可した典型的な決議を一読すれば、戦争に対する完全に消極的な性格づけに気づく。すなわち、この戦争は帝国主義的なものだ。また、戦争は可能なかぎり速やかに終わらせるべきだとの主張にも。
 また一方で、ケレンスキーの強い要求に従って挿入された、遠慮がちの数行にも気づくだろう。それは、全面平和を遅らせて、ロシアの兵士たちが戦い続けるのは良いことだ、と、曖昧な論理で、かつ感情に訴える何ものをもなくして、示唆する数行だった。//
 ボルシェヴィキは政府に対する不満や守備兵団の士気低下を察知して、6月初めに、この雰囲気を利用することを決めた。
 ボルシェヴィキの軍事機構は6月1日に、武装示威活動を行うことを表決した。
 この軍事機構は中央委員会から命令を受けていたので、当然のこととして、その決定は後者の承認を受けているか、おそらくは後者の提唱にもとづいていた。
 中央委員会は6月6日に、4万人の武装兵士と赤衛軍を街頭に送り込んでケレンスキーと連立政権を非難する旗のもとで行進し、そして適当な瞬間に『攻撃に移る』ことを議論した。
 これが何を意味するのかは、軍事機構の長のネフスキー(Nevskii)からボルシェヴィキの計画を知ったスハノフの文章によって分かる。//
 『6月10日に予定された「宣言行動」の対象は、臨時政府の所在地のマリンスキー宮(Mariinskii Palace)とされた。
 これは、労働者分遣団とボルシェヴィキに忠実な連隊の最終目的地だった。
 特に指名された者が宮の前で、内閣のメンバーに出て来て質問に答えよと要求することになっていた。
 特別指名の集団は、大臣が語ったとき、『民衆は不満だ!』と声を挙げて、群衆の雰囲気を興奮させる。
 雰囲気が適当な熱度以上に達するや、臨時政府の人員はその場で拘束される。
 もちろん、首都はすぐに反応することが予想される。
 この反応の状態いかんによって、ボルシェヴィキ中央委員会は、何らかの名前を用いて、自分たちが政府だと宣言する。
 「宣言行動」の過程でこれら全てのための雰囲気が十分に好ましいと分かれば、そしてルヴォフ(Lvov)やツェレテリが示す抵抗は弱いと分かれば、その抵抗はボルシェヴィキ連隊と兵器の実力行使によって抑止する。(**)
 示威行進者の一つのスローガンは、『全ての権力をソヴェトへ』だとされていた。
 しかし、ソヴェトが自らを政府と宣言するのを拒んで武装の示威活動を禁止すれば、スハノフが合理的に結論するように、権力がボルシェヴィキ中央委員会の手に渡されるということのみを意味したことになっただろう。
 示威活動は第一回全ロシア・ソヴェト大会(6月3日に開会予定)と同時期に予定されたので、ボルシェヴィキは既成事実を作って大会と対立するか、または大会の意思に反して、大会の名前で権力を奪うか権力を要求することを無理強いするかを計画していたかもしれない。
 レーニンは実際に、その意図を秘密にはしなかった。
 ソヴェト大会でツェレテリがロシアには権力を担う意思がある政党はないと述べたとき、レーニンは座席から、『ある!』と叫んだ。
 この逸話は、共産主義者の聖人伝記類では伝説になった。//
 ------
   (*) ブルジロフ(Brusilov)はその回想録で、最高司令官になったときにすでに、ロシア軍団には戦闘精神が残っておらず、攻勢は失敗すると分かったと主張している。A. B. Brusilov, Moi vospominaniia (モスクワ・レニングラード, 1929), p.216。 
  (103) E. H. Wilcox, Russian Ruin <ロシアの破滅> (ニューヨーク, 1919), p.196。
  (104) 同上, p.197。V. I. Nemirovich-Danchenko を引用。  
  (105) Alexander Kerensky, Russia and History's Turning Point <ロシアと歴史の転換点>(ニューヨーク, 1965), p.277。
  (**) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, IV (ベルリン, 1922), p.319。スハノフはこの情報の源を示していない。だが、メンシェヴィキ派の歴史家のボリス・ニコラエフスキー(Boris Nikolaevskii)は、ネフスキーから来ているのだろうと推測している。SV, No. 9-10 (1960), p.135n。ツェレテリは、スハノフが回想録を公刊した1922年に主要な人物はまだ生きていて、スハノフの説明を否定できたはずだったにもかかわらず、誰もそうしなかった、と指摘する。I. G. Tsereteli, Vospominaniia o Fevral'skoi Revoliutsii, II (パリ, 1963), p.185。
 ---
 ②につづく。

1563/五月連立・エスエルら入閣-R・パイプス著10章5節。

 前回からのつづき。
 ---
 第5節・社会主義者の臨時政府への加入。p.405-7。
 四月騒乱は、臨時政府の最初の重大な危機だった。
 ツァーリ体制(帝制)が崩壊して僅か二ヶ月後に、知識人たちはその眼前で国の統合が壊れていくのを見た-そしてもはや、責めるべき皇帝も官僚層もいなかった。
 政府は4月26日に、もう統治できない、『今まで直接で即時には内閣の一部を占めていなかった国の創造的な人たちの代表者』を、つまり社会主義知識人の代表者を、招き入れたい、という感情的な訴えを国民に対して発した。
 『大衆』の目から妥協しているとされるのをまだ怖れて、イスパルコムは4月28日に、政府からの打診を拒否した。
 イスパルコムが態度を変えた原因は、戦時大臣、グチコフの4月30日の退任だった。
 グチコフが回想録で説明するように、ロシアは統治不能になったと彼は結論していた。
 唯一の救済策は、コルニロフ将軍や実業界の指導者たちに代表される『健全な』勢力を政府に招き入れることだ。      
 社会主義知識人の態度が変わらなければこれは不可能なので、グチコフは階段を下りた。
 ツェレテリによれば、そのあとでミリュコフの任務から解放されたいとの要請がつづいたグチコフの辞任は、もはや一時凌ぎの方策では対応できない範囲に及んでいる、危機の兆候だった。
 『ブルジョアジー』が、政府を放棄しようとしていた。
 5月1日にイスパルコムは方針を変え、総会に諮ることなく、賛成44票対反対19票、保留2票の表決をして、メンバーが内閣の職を受諾することを許した。
 反対票は、ソヴェトが全ての権力を獲得することを願うボルシェヴィキと(マルトフ支持者の)メンシェヴィキ国際派によって投じられた。
 ツェレテリは、〔国際派以外の〕多数派を合理化する説明をしている。
 彼が言うには、政府は、迫りつつある破滅から国を救うことができないことを認めた。
 このような状況では、一歩を踏み出して革命を救う義務が、『民主主義』勢力にある。
 ソヴェトは、マルトフやレーニンが望むように、自らのために自らの名前で権力を得ることは、できない。そんなことをすれば、民主政を信じてはいないが民主主義勢力と協力するつもりのある多数の国民を、反動者たちの手に押し込んでしまうことになるのだから。
 別のメンシェヴィキのV・ヴォイチンスキー(Voitinskii)にツェレテリが語ったのは、つぎのようなことだ。
 『ブルジョアジー』との連立に賛成し、『全権力をソヴェトに』のスローガンに間接的には反対することになるのは、農民たちがソヴェトの『右翼側に』位置しており、おそらく彼らは自分たちが代表されていない組織を政府だと認めるのを拒むだろうからだ。//
 イスパルコムは、連立政府の設立に同意する際に、一連の条件を付けた。
 すなわち、連合国間の協定の見直し、戦争終結への努力、軍隊の一層の『民主化』、農民に土地を配分する段階を始める農業政策、そして憲法制定会議(Constituent Assembly)の召集。
 政府の側では、新政府を、軍隊の最高指令権の唯一の源泉であることはもとより、状況によれば軍事力を実際に行使する権限をもつ、国家主権の排他的保持者だと認めることを、イスパルコムに要求した。
 政府とイスパルコムの代表者たちは、五月の最初の数日間を、連立の条件を交渉することで費やした。
 5月4日から5日にかけての夜に、合意に達した。それに従って、新しい内閣が職務を開始した。
 安定感があって無害のルヴォフ公が首相に留任し、グチコフとミリュコフは正式に辞任した。
 外務大臣職は、カデット〔立憲民主党〕のM・I・テレシェンコ(Tereschenko)に与えられた。
 若き実業家のテレシェンコは政治経験がほとんどなく、公衆にはあまり知られていなかったので、これは不思議な選抜だった。
 しかし、一般に知られていたのは、ケレンスキーのようにフリーメイソンに所属しているということだった。この人物の任命はフリーメイソンとの関係によるという疑問の声が挙がった。
 ケレンスキーは、戦時省を所管することになった。
 彼もこの職へと後援するものは持たなかったが、ソヴェトでの卓越ぶりと弁舌の才能によって、夏期の攻勢を準備している軍隊を鼓舞することが期待された。
 6人の社会主義者が、連立内閣の大臣になった。そのうち、チェルノフは農務省の大臣職に就き、ツェレテリは郵便電信大臣になった。
 この内閣は、二ヶ月間、生き存えることになる。//
 五月協定は、究極的な権威について国民を当惑させる二重権力体制(dvoevlastie)の奇妙さを、いくぶんか和らげた。
 五月協定は、大きくなっていく失望の意識だけを示すのではなく、社会主義知識人の成熟さが増大したことをも示していた。そして、そのようなものとして、一つの明確な発展だった。
 表面的には、『ブルジョアジー』と『民主主義』を一つにした政府は、二つの集団が相互に敵対者となるよりは効率的だと、約束した。
 しかし、この合意は、新しい問題も生じさせた。
 社会主義政党の指導者が入閣した瞬間に、彼らは反対者〔野党〕の役割を失った。
 内閣に入ることで彼らは自動的に、間違う全てについての責めを分け持つことになった。
 このことが許したのは、政府に入らなかったボルシェヴィキが現状に対抗する唯一の選択肢であり、ロシア革命の守護者であるという位置を占めることだった。
 そして、リベラルおよび社会主義知識人の行政能力は救いようもなく低かったので、事態は、より悪化せざるをえなかった。
 ボルシェヴィキが、唯一の想定できるロシアの救い手として、現われた。//
 臨時政府は今や、崩壊する権威から権力統御権を奪う穏健な革命家たちの、古典的な苦境に立ち至った。
 クレイン・ブリントン(Crane Brinton)は、革命に関する比較研究書の中で、つぎのように書く。//
 『穏健派たちは、少しずつ、旧体制の反対者として得ていた信頼を失っていることに気づく。そして、ますます旧体制の相続人としての地位と見込みでは結びついていたものを失墜させていることに。
 防御側に回って、彼らはつぎつぎと間違いをする。防御者であることにほとんど慣れていないのが理由の一つだ。』
 『革命の進行に遅れる』と考えることが心情的に堪えられなくて、左翼にいる好敵と断交することもできなくて、彼らは誰も満足させず、十分に組織され、十分に人員をもつ、より決意をもつ好敵たちに、喜んで道を譲る。(79) //
  (79) Crane Brinton, Anatomy of Revolution (ニューヨーク, 1938), p.163-171。

 ---
 第6節につづく。 
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー