Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
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 第二章・私の出自(My Origins)①。
 (01) ここで、時計の針をまき戻して、私の出自を語ろう。//
 (02) 私は、1923年7月11日に、ポーランドのシレジアのCieszyn (チェシン、Teschen,テシェン)という小さな市の、同化した(assimilated)ユダヤ人家庭に生まれた。そこはチェコとの境界にあり、のちにアウシュヴィッツ最終収容所となる所から50キロメートル離れていた。
 父親のMark は、1883年にLwow (Lemburg, Lviv)で生まれ、若いときはウィーンで過ごした。
 祖先はもともとは「Piepes」と綴り、19世紀初めから、生まれた市の改革志向の市民の主要人物だった。
 Bernard という名だった我々の先祖の一人は、ユダヤ人共同体の書記として勤めていたが、1840年代に、率先してLwow に改革派ラビ〔ユダヤ教聖職者〕を送り、ほとんどが職業人で成る「進歩的寺院」を率いた。
 今日の基準からすると当時は全く保守的だったユダヤ教では「進歩的」だったとはいえ、正統派のユダヤ人は激しい怒りを感じたため、彼らの一人は新しいラビを殺害し、自分の娘を彼の台所にこっそり入らせて、食物に毒を入れた。//
 (03) 1914年、父親はポーランド軍団(Legions)に入隊した。それは、ポーランドの独立のために戦うために、ドイツ・オーストリアの援助を受けて、Joseph Pilsudski が組織していたものだった。
 彼は1918年まで現役兵のままでいて、「Marian Olszewski」という偽名で、Galicia のロシアと戦った。
 父親がどんな体験をしたのか、私は知らない。戦争をすぐ近くで見たほとんどの人々と同じく、彼は語るのを好まなかったからだ。
 彼はその間に、何人かの将校たちと親しくなった。彼らはのちにポーランド共和国を動かすことになり、友人関係は大戦間の時期や我々のポーランド脱出に役立った。//
 (04) 母親のSarah Sophia Haskelberg は、家族や友人には「Zosia」として知られ、Hasidic 〔ユダヤ教の一部—試訳者〕の裕福なワルシャワの事業家の11人の子どもたちの9番目の子どもだった。
 母親はその父親を、陽気な人で、食べて、飲む美食家で、大きなひどい声で歌ったと思い出していた。
 彼は事業を発展させてロシア政府とも取引をし、制服やロシア軍用の武器を売った。そして、ワルシャワとその郊外にかなりの不動産を獲得した。
 母親の兄弟の数人は、技術学校か船乗り学校に入るために、戦争前に、ベルギーへと送られた。
 家族は夏をワルシャワ近くのリゾート地で過ごした。そこには、祖父の別荘があった。
 家族はそこへ学校が終わる前のPassover 〔出エジプト記念のユダヤ人の祝日の日々—試訳者〕の頃に移り、9月に学校が始まる後まで、滞在した。
 ワルシャワでは、家族は祖父が所有するアパートに住んだ。1939年になっても、トイレはあったが浴室はなく、台所のシンクで洗う必要がああった。//
 (05) 1915年にロシア軍がワルシャワから撤退したとき、母親の父親は彼らについてくるよう強いられた。彼が裏切ってドイツ軍にロシア軍に関して知っていることを教えるのを阻止しょうとした、というのが最もありそうだ。
 彼はその後三年間、ロシアにいた。そのうち一年は、共産主義者の支配下だった。
 ドイツとの人的関係を通じて、1918年に、彼はポーランドに戻り、息子の二人、Henry とHerman が地位を引き継ぐとの取り決めがなされた。
 彼らは二人ともロシア人女性と結婚し、残る人生をソヴィエト同盟で過ごした。
 Herman は、スターリンの粛清(purges)で殺された。1937年11月に逮捕され、すみやかに処刑された。//
 (06) 我々は1902年のクリスマスの前夜が母親の誕生日だと受け取っていた。しかし、ロシア支配下のユダヤ人家庭は男の子が兵役に就くのを回避すべく息子たちの誕生日を「取引き」するのがふつうだったので、母親の誕生日も確実ではなかった(実際、1920年代にパレスチナへ移住した彼女の兄のLeon の誕生日は1902年12月28日とされていた)。
 私の母方の祖父は、私が生まれた年に癌で死んだ。
 母親の母親は、よく憶えているが、ポーランド語をほとんど話さず、私と最小限の会話しかしなかった。
 彼女は、73歳のときにホロコーストで殺された。強制的に送られて、Treblinka にあるナツィの死の収容所で毒ガスを吸わされた。
 学校の後でときおり、私は彼女のアパートに立ち寄ったものだ。そのときいつも優しくされ、食べ物をもらった。一方で、彼女がかつて我々を訪れたことは憶えていない。//
 (07) 私の両親は1920年に、父親がワルシャワに住んでいるときに逢った。
 母親はこう私に言った。彼のことを友人から聞いたのだが、その友人は仕事で彼の父親のところを訪れてもMarek Pipes は自分を気にかけてくれない、と愚痴をこぼした。
 母親には、彼をつかまえてデートに誘う自信があった。
 彼女は彼の事務所を訪れて、彼が頻繁に行っていると聞いたレストランで見たことがある、というふりをした。
 興味をそそられ、彼は餌に食いつき、彼女を誘った、かくして、ロマンスが始まり、二人は二年後に結婚した。
 結婚式は1922年9月に行われ、その後にCieszyn (チェシン)へと移った。そこで父親は、三人の仲間と一緒に—うち一人はのちに義兄弟になる—「Dea」というチョコレート工場を経営していた。
 それは今日でも、「Olza」という名前で存在しており、「Prince Polo」という名のウェハス棒を製造している。
 その市は川で二分されていた(今もそうだ)。東部はポーランドで、西半分はチェコスロヴァキアに属していた。
 ユダヤ人たちはその市に、遅くとも16世紀の初めから住み始めていた。//
 (08) 私はチェシンで4年間だけ過ごした。そして、この郷里について、ほとんど思い出がない。
 今でもある二階建ての家で、私は生まれた。
 70年後に、チェシン市長が私に名誉市民号を授与してくれたとき、式典で私は、憶えている幼年期のことを三点述べた。
 母親が、厚い層のバターとダイコンの付いたサンドウィッチかライ麦パンをくれたのを覚えている。
 家の前で食べていたとき、ダイコンがすべり落ちた。
 こうして私は、喪失を学んだ。
 そのような食べ物を、私はひどく欲しがった。
 こうして私は、羨望を知った。
 最後に、両親は私に、私は数人の友達を日用食料品店に誘って各人に一個ずつオレンジをあげたことがある、と話した。
 店主に誰が支払うのかと尋ねられて、私は「親たち」と答えた。
 こうして私は、結論的に言うのだが、共産主義とはどういうものか、つまり、誰か他人が支払うのものだ、ということを学んだ。//
 (09) 転居したあと何度かチェシンを訪れた。一度は1937-38年の冬休みの間で、つぎは1939年2月、ポーランド政府が、ミュンヘンで連合国から放棄されたチェコに、チェシン市の半分の割譲を強いたあとだった。
 荒廃した街路を歩きながら、母国の恥ずかしさで気分が悪くなった。//
 (10) 住民は、ポーランド語、ドイツ語、チェコ語を切り替えて使った。
 両親は、家では、ポーランド語とドイツ語のいずれかを選んで話した。
 私とは、もっぱらドイツ語で話した。ドイツ語を話すお手伝いも雇っていた。
 しかし、私と遊ぶ友達はみなポーランド語を話した。それで、私はその言語を向上させていった。
 その結果として、私は3歳か4歳のときに、バイリンガルだった。//
 (11) ヨーロッパの地理的中心 (*脚注) で出会う文化的な交錯の流れを、アメリカ人が思い浮かべるのはむつかしいに違いない。
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 (*脚注)  二つの線を北岬〔ノルウェー〕からシチリアまでと、モスクワからスペインの東部海岸まで引くと、それらはチェシン付近で交差する。
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 アメリカ合衆国には多数の民族集団があるけれども、イギリスの言語と文化がつねに主要なものだ。
 私が生まれた所では、諸文化が同等の基盤を持っていた。
 この環境によって、人々は、外国人の思考様式についての鋭い感覚を身に付けていた。//
 (12) 父親は1928年に、Dea を売って、家族とともに短期間、Cracow(クラカウ、クラクフ)へと移った。そこには父親の妹が夫と二人の男の子と住んでおり、また、彼の両親も一緒にいた。
 父親の父親のClemens(またはKaleb)は威厳のある背の高い紳士で、髭の生えた顔に私を接吻させたが、私に一言も発しなかった。
 彼は、1935年に死んだ。 
 Cracow で父親は、義兄弟ともう一人の仲間で新しいチョコレート工場、ウィーンのPischinger 商会の支店を設立した。チョコレート・ウェハスの製造に特化したものだった。
 (今でも、Wawel の名で稼働している。)
 Cracow には一年もいなかった。
 工場の経営を義兄弟と仲間に委ねて、父親は、小売販売業をする意図を持って、家族とともにワルシャワに移った。
 しかし、まもなく、不況がやって来た。
 父親はPischinger との関係を切って輸入事業を始め、主にスペインやポルトガルから果物を買い付けた。必要な資金は、政府内にいる友人から現金で割当てられた。
 母親の出身家庭がもつ不動産からの収入を加えた収入は、控えめな生活をするには十分だった。
  父親は本当は事業をするのに適していなかった、と追記してよいかもしれないと思う。
 彼には良い考えが浮かんだが、やり通す持続力が弱くて、毎日の管理業務にすぐに飽きた。
 私の両親は楽な暮らしを送ってきていた。
 のちに、事態がもっと悪くなったとき、父親は感傷をもって思い出していた。母親が毎日朝に直面していた主要な問題は、どのカフェで一日を過ごせばよいか、だったと。
 彼は、ワルシャワの男性の中のベスト・ドレッサーの一人という声価を得ていた。
 つねに、料理をし、掃除をし、朝早くにタイル貼りの暖炉に薪をくべるお手伝いを雇っていた。
 そのお手伝いは、台所で寝て、雇い賃は、部屋と食事込みで毎月5ドルか6ドルだった。//
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 ②へとつづく。