Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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第14章・第16節/連合諸国によるロシアでのいっそうの諸活動②。
(07) Archangel の占拠のあと、イギリスの将軍C. C. M. Maynard が指揮する第二次の連合諸国軍が、Murmansk に上陸した。そこにはすでに6月以来、イギリスの小さな分遣隊がいた。
Maynard の軍団はやがて1万5000人の兵士をもつに成長した。うち1万1000人が連合諸国の兵士で、残りはロシア人その他だった。
Noulens によると、Archangel-Murmansk 遠征軍(当時に2万3500人)は、東部前線を再活性化するのに十分だった。東部前線では、西側代表団の見解では、3万の兵士が必要だった(注191)。
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(08) 連合諸国には不運なことに、最終的に十分な兵団をロシア北部に配置するまでに—ようやく9月のことだった—、チェコ軍団は目に見える攻撃部隊としては存在しなくなった。
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(09) 既述のとおり、チェコスロヴァキア人は元々は、Vladivostok に至る通路を邪魔されずに確保するために、武力に依拠した。
しかし、連合国司令部が、再活性化された東部前線での、予定された連合諸国軍の前衛だと見なすに至ったからだ(注192)。6月に、彼らの使命は変化した。
かくして、チェコスロヴァキア軍団への6月7日の挨拶文書の中で、将軍のCecek は、彼らの任務をつぎのように明確に述べた。
「以下のことを我々の兄弟全員に知らしめたい。チェコスロヴァキア軍大会の決定にもとづき、国民会議の同意を得て、かつ全ての連合諸国との協議によって、我々の軍は協商国軍隊の前衛だと称される。また、軍隊参謀部から発せられた諸指令は、それらの唯一の目的として、全ロシア民族および我々の同盟とともに戦うロシアでの反ドイツの前線を生み出す。」(注193)
この構想に合致するように、チェコスロヴァキアの司令部は、その能力にも動機づけにも合わない任務をチェコスロヴァキア兵団に与えた。
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(10) チェコスロヴァキア軍団がドイツに対抗する戦線を構築するには、西から東への水平線に展開する部隊をVolga 地方とUral 地方に沿って北から南へと垂直に再配置しなければならなかった(注194)。
それに対応して、まだ西部シベリアにいたおよそ1万人から2万人のチェコスロヴァキア軍団は、Samara の北と南で攻撃作戦に着手した。
7月5日、Ufa を掌握した。7月21日、Simbirsk。8月6日、Kazan。
Kazan 攻撃は、彼らのロシアでの作戦行動の最高点に位置した。
チェコ軍団は、都市防衛に任じる、ひどく消耗した400人の第五ラトビア人連隊に退却を余儀なくさせたあと、2018年2月にボルシェヴィキが撤退していた場所でロシア帝国の財産である650万ルーブルの金の退蔵物を掌握した。それがあれば、ボルシェヴィキは、課税または強制適用穀物徴発に頼ることがなくとも、大規模の軍事作戦を行なうことができた。
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(11) チェコスロヴァキア軍団は、活力と技量をもって戦った。
しかし、前衛とだけしか認められていなかった。—いったい何の前衛だったのだろう?
連合諸国は進んで助けようとはしなかった。チェコスロヴァキア軍団は寛容に指令や助言に従ったけれども。
反ボルシェヴィキのロシア人たちも、彼らには役立たなかった。
チェコスロヴァキア軍団は、連合諸国に急かされて、Volga 地域とシベリアのロシア人政治グループを統合しようとした。だが、これは見込みなき企てだった。
7月15日、Komuch 代表部とOmsk 政府はCheliabinsk で会合したが、合意に達しなかった。
意見の相違は、8月23-25日に開かれた第二回のロシア政治会議も潰した。
ロシア人の言い争いは、チェコ軍団を憤慨させた。
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(12) Komuch は、チェコスロヴァキア人および他の連合諸国部隊とともに戦う軍を立ち上げようとした。だが、限られた成功しか収めなかった。
7月8日、Komuch は、将軍のCecekの総括指揮のもとにある義勇人民軍(Narodnaia Armiia)の設立を発表した。
しかし、ボルシェヴィキも設立したとき、ロシア軍を義勇的な基盤のもとで創出することができなかった。
農民たちは激烈に反ボルシェヴィキだったが、革命は国家に対する農民の義務を全て免除したという理由で、入隊して協力するのを拒んだ。これは、Komuch にとって、農民との関係でとくに苛立たしいことだった。
自発的意思による3000人が入隊したあと、Komuch は徴兵へと進み、8月末には5万〜6万人を新規兵とした。そのうち3万人だけが武器をもっており、1万人だけが戦闘の訓練を受けていた(注195)。
軍事史家のN. N. Golovin 将軍の推定では、9月初めに西部シベリアの親連合国兵団は2万人のチェコスロヴァキア人、1万5000人のUral とOrenburg のコサック、5000人の工場労働者で成っていた。そして人民軍には、1万5000人の兵士がいた(注196)。
この多民族軍隊には中央司令部はなく、政治的指導部もなかった。
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(13) そのあいだに、トロツキーは、東部で部隊を設立していた。
ソヴィエト・ロシアを危うくはしないとの6月のドイツ皇帝の誓約があったために、彼は、ラトビア人連隊を西部からUral 地域へと移動させることができた。そこで彼らは、チェコ軍団と接触する最初の部隊となった。
そしてトロツキーは、赤軍へ、数千人の旧帝制軍将校と徴兵による数十万人の兵士を入隊させた。
トロツキーは、脱走に対する死刑の制度を再び導入し、任意に適用した。
赤軍のチェコスロヴァキア軍団に対する勝利は、ラトビア人兵団によって最初にもたらされた。ラトビア人兵団は9月7日にKazan を再び奪取し、5日後にSimbirsk をそうした。
これらの勝利の報せは、クレムリンを歓喜させた。これが、ボルシェヴィキにとって、心理的には、潮の変わりめだった。
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第16節、終わり。
<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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第14章・第16節/連合諸国によるロシアでのいっそうの諸活動②。
(07) Archangel の占拠のあと、イギリスの将軍C. C. M. Maynard が指揮する第二次の連合諸国軍が、Murmansk に上陸した。そこにはすでに6月以来、イギリスの小さな分遣隊がいた。
Maynard の軍団はやがて1万5000人の兵士をもつに成長した。うち1万1000人が連合諸国の兵士で、残りはロシア人その他だった。
Noulens によると、Archangel-Murmansk 遠征軍(当時に2万3500人)は、東部前線を再活性化するのに十分だった。東部前線では、西側代表団の見解では、3万の兵士が必要だった(注191)。
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(08) 連合諸国には不運なことに、最終的に十分な兵団をロシア北部に配置するまでに—ようやく9月のことだった—、チェコ軍団は目に見える攻撃部隊としては存在しなくなった。
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(09) 既述のとおり、チェコスロヴァキア人は元々は、Vladivostok に至る通路を邪魔されずに確保するために、武力に依拠した。
しかし、連合国司令部が、再活性化された東部前線での、予定された連合諸国軍の前衛だと見なすに至ったからだ(注192)。6月に、彼らの使命は変化した。
かくして、チェコスロヴァキア軍団への6月7日の挨拶文書の中で、将軍のCecek は、彼らの任務をつぎのように明確に述べた。
「以下のことを我々の兄弟全員に知らしめたい。チェコスロヴァキア軍大会の決定にもとづき、国民会議の同意を得て、かつ全ての連合諸国との協議によって、我々の軍は協商国軍隊の前衛だと称される。また、軍隊参謀部から発せられた諸指令は、それらの唯一の目的として、全ロシア民族および我々の同盟とともに戦うロシアでの反ドイツの前線を生み出す。」(注193)
この構想に合致するように、チェコスロヴァキアの司令部は、その能力にも動機づけにも合わない任務をチェコスロヴァキア兵団に与えた。
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(10) チェコスロヴァキア軍団がドイツに対抗する戦線を構築するには、西から東への水平線に展開する部隊をVolga 地方とUral 地方に沿って北から南へと垂直に再配置しなければならなかった(注194)。
それに対応して、まだ西部シベリアにいたおよそ1万人から2万人のチェコスロヴァキア軍団は、Samara の北と南で攻撃作戦に着手した。
7月5日、Ufa を掌握した。7月21日、Simbirsk。8月6日、Kazan。
Kazan 攻撃は、彼らのロシアでの作戦行動の最高点に位置した。
チェコ軍団は、都市防衛に任じる、ひどく消耗した400人の第五ラトビア人連隊に退却を余儀なくさせたあと、2018年2月にボルシェヴィキが撤退していた場所でロシア帝国の財産である650万ルーブルの金の退蔵物を掌握した。それがあれば、ボルシェヴィキは、課税または強制適用穀物徴発に頼ることがなくとも、大規模の軍事作戦を行なうことができた。
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(11) チェコスロヴァキア軍団は、活力と技量をもって戦った。
しかし、前衛とだけしか認められていなかった。—いったい何の前衛だったのだろう?
連合諸国は進んで助けようとはしなかった。チェコスロヴァキア軍団は寛容に指令や助言に従ったけれども。
反ボルシェヴィキのロシア人たちも、彼らには役立たなかった。
チェコスロヴァキア軍団は、連合諸国に急かされて、Volga 地域とシベリアのロシア人政治グループを統合しようとした。だが、これは見込みなき企てだった。
7月15日、Komuch 代表部とOmsk 政府はCheliabinsk で会合したが、合意に達しなかった。
意見の相違は、8月23-25日に開かれた第二回のロシア政治会議も潰した。
ロシア人の言い争いは、チェコ軍団を憤慨させた。
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(12) Komuch は、チェコスロヴァキア人および他の連合諸国部隊とともに戦う軍を立ち上げようとした。だが、限られた成功しか収めなかった。
7月8日、Komuch は、将軍のCecekの総括指揮のもとにある義勇人民軍(Narodnaia Armiia)の設立を発表した。
しかし、ボルシェヴィキも設立したとき、ロシア軍を義勇的な基盤のもとで創出することができなかった。
農民たちは激烈に反ボルシェヴィキだったが、革命は国家に対する農民の義務を全て免除したという理由で、入隊して協力するのを拒んだ。これは、Komuch にとって、農民との関係でとくに苛立たしいことだった。
自発的意思による3000人が入隊したあと、Komuch は徴兵へと進み、8月末には5万〜6万人を新規兵とした。そのうち3万人だけが武器をもっており、1万人だけが戦闘の訓練を受けていた(注195)。
軍事史家のN. N. Golovin 将軍の推定では、9月初めに西部シベリアの親連合国兵団は2万人のチェコスロヴァキア人、1万5000人のUral とOrenburg のコサック、5000人の工場労働者で成っていた。そして人民軍には、1万5000人の兵士がいた(注196)。
この多民族軍隊には中央司令部はなく、政治的指導部もなかった。
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(13) そのあいだに、トロツキーは、東部で部隊を設立していた。
ソヴィエト・ロシアを危うくはしないとの6月のドイツ皇帝の誓約があったために、彼は、ラトビア人連隊を西部からUral 地域へと移動させることができた。そこで彼らは、チェコ軍団と接触する最初の部隊となった。
そしてトロツキーは、赤軍へ、数千人の旧帝制軍将校と徴兵による数十万人の兵士を入隊させた。
トロツキーは、脱走に対する死刑の制度を再び導入し、任意に適用した。
赤軍のチェコスロヴァキア軍団に対する勝利は、ラトビア人兵団によって最初にもたらされた。ラトビア人兵団は9月7日にKazan を再び奪取し、5日後にSimbirsk をそうした。
これらの勝利の報せは、クレムリンを歓喜させた。これが、ボルシェヴィキにとって、心理的には、潮の変わりめだった。
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第16節、終わり。



























































