Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
————
第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱②。
(09) 予期せぬ事件が、全ての計画をひっくり返した。
5月14日、西部シベリアの町のCheliabinsk で、チェコの兵士と本国へ送還中のハンガリーの戦争捕虜のあいだで、争論が起きた。
叙述できるかぎりでは、一人のハンガリー人が鉄の棒または何かの金属物体を鉄道のプラットホームに立っていたチェコ人に投げ、うち一人が重傷を負った。
喧嘩が勃発した。
Cheliabinsk のソヴェトが騒擾に参加した数人のチェコスロヴァキア人を勾引したとき、別のチェコ人が地方の武器庫を掌握し、仲間の即時釈放を要求した。
上回る力に負けて、ソヴェトは屈服した(注64)。
--------
(10) この時点まで、チェコスロヴァキア兵にはボルシェヴィキ政府に対抗して武力を取り上げる意図はなかった。
実際に、チェコスロヴァキアの政策の大きな趨勢は友好的な中立の立場だった。
Masaryk も親近的だったので、連合諸国に対してソヴィエト政府に事実上の承認を与えるよう主張していた。
チェコ軍団について、共産主義者のSadoul は、彼らの「ロシア革命への忠誠心は争う余地がない」と書いた(注65)。
--------
(11) こうした状態は全て、トロツキーの愚かな行為によって変わることになる。
トロツキーは、新たに任命された戦争人民委員として、その地位を示威したかった。自らの指揮のもとにある兵団を実質的には何一つもっていなかったのだが。
この野望によってすみやかに、適切な規律をもったチェコスロヴァキア人の一団は「反革命的」軍隊に変えられた。これはボルシェヴィキにとって、権力掌握以降で最も深刻な軍事的脅威になっている、というのだ。
--------
(12) トロツキーは、Cheliabinsk で明らかになったこと、そしてチェコ人が「チェコスロヴァキア革命軍大会」を開催したことを知った。そしてただちに、モスクワ在住のチェコスロヴァキア国民会議の代表の逮捕を命じた。
驚愕したチェコの政治家たちは、チェコ軍団の解体を含む、トロツキーの全ての要求に同意した。
トロツキーは5月21日、チェコ軍団が東へとさらに進むことを中止させた。軍団の兵士たちは、赤軍に加わるか、または「労働大隊」へと徴用されなければならない。—後者は、ボルシェヴィキの強制労働部隊の一部になる。
服従しない者は強制労働収容所(concentration camps)へと拘禁されるものとされた(脚注)。
----
(脚注)これは、ソヴィエトの諸発表の中で最も早い強制労働収容所への言及だと見られる。
----
5月25日、トロツキーはつぎの命令を発した。
「鉄道沿いの全てのソヴェトは、重い責任のもとで、チェコ人を武装解除することを指示される。
鉄道路線沿いの武器を持って発見される全てのチェコ人は、その場で処刑されるものとする。
<ただ一つ>であっても武器を持つチェコ人を運んでいる全ての列車(echelon)は、積荷を降ろされ、(列車内の人員は)戦争捕虜収容所へと収監されるものとする。」
これは、際立って不適切な命令だった。不必要な挑発だったというだけではなく、トロツキーはこれを強制的に執行する手段を有していなかったからだ。チェコ軍団は、シベリア地方で最も強力な軍事部隊だったのだ。
同時に、トロツキーはドイツからの圧力を受けて行動した、と広く信じられた。だが、これらの5月の諸命令についてドイツには責任がない、ということが確定されてきている(注67)。
トロツキーによるまさに非ボルシェヴィキ的な「力の相互関連」の無視だったのであり、これはチェコスロヴァキア人の反乱を誘発した。
--------
(13) チェコスロヴァキア兵は、5月22日、武装解除せよとのトロツキーの命令を拒否した。
「チェコスロヴァキア革命軍大会は、Cheliabinsk に集まって、…革命の強化のための困難な闘争を行なうロシアの革命的人民に対する共鳴の感情を宣言する。しかしながら、大会は、我々の兵団のVladivostok に向かう自由で安全な通行を保障するにはソヴィエト政府は無力であると確信して、満場一致で、兵団が出発することを許され、反革命的な列車からの保護を保障されるまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した。」(注68)
この決議をモスクワに伝達するに際して、チェコスロヴァキア兵大会は、こう言った。大会は「満場一致で、安全な旅行の保障が考慮されて、Vladivostok に到着するまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した」。
これが表明しているのは、チェコスロヴァキア兵団が出発するのを妨害するいかなる企てもなされないだろう、という希望だった。「あらゆる紛争は、シベリアの地方ソヴェト機関の地位を損傷するだけ」なのだから(注69)。
チェコ軍団はMurmansk やArchangel へと再迂回せよとの連合諸国の指令は、単直に無視された。
--------
(14) トロツキーの指示が知られるようになったとき、1万4000人のチェコスロヴァキア兵はすでにVladivostok に着いていた。だが、2万500人は、シベリア横断鉄道と中央ロシアの鉄道の長さで連なっていた(脚注)。
ボルシェヴィキは自分たちをドイツに渡そうとしていると確信し、また地方ソヴェトに脅かされて、彼らは、シベリア横断鉄道の支配権を握った。
しかし、そうしているときであっても、自分たちはソヴィエト政府と闘ういかなる組織とも交渉しない、ということを彼らは再確認していた(注70)。
----
(脚注) M.Klante, Von der Wolga zum Amur (Berlin, 1931), p.157.トロツキーから情報を得たかもしれなかったSadour は5月末に、軍団を異なって配分した。Vladivostok は5000、VladivostokとOmskの間に20000、Omsk の西のヨーロッパ・ロシアに20000。J. Sadoul, Notes sur la Revolution Bolchevique (Paris, 1920), p.366.
--------
(15) チェコスロヴァキア兵団が鉄道を奪取してしまうと、鉄道沿いの都市のソヴェトは崩壊した。
そして、その崩壊が起きるとすぐに、ボルシェヴィキに敵対するロシア国内の対抗者たちが、真空を埋めるべく入ってきた。
チェコスロヴァキア兵は5月25日に、Mariinsk、Novonikolaevsk にある鉄道線路の交差点を占拠した。これは、シベリアの広い地域との線路や電信でのモスクワとの連絡を切断する効果をもった。
2日後、彼らはCheliabinsk を掌握した。
5月28日、彼らはPenza を奪取した。6月4日にはTomsk、6月7日にはOmsk、6月8日にはSamara。Samara は、ラトビア兵団によって防衛されていた。
彼らの軍事作戦が拡張するにつれて、チェコスロヴァキア兵団は司令部を中央化し、最高司令官として、自己流の「将軍」、Rudolf Gajda を選出した。この人物は野心的な術策家で、もっている相当の軍事的才能は、政治感覚と釣り合ってはいなかった。
彼の仲間たちは、際限なくこの人物を信頼した(脚注)。
----
(脚注) オーストリア・ハンガリー軍の医療助手で、チェコスロヴァキア兵団で大尉のランクまで昇格した。1919年に、彼はKolchak 提督の軍にいて戦闘した。チェコスロヴァキアが独立を達成した後、軍事機密の漏洩の咎で逮捕されるまで、幕僚長として働いた。逮捕後の判決では無罪が言い渡された。さらにのち、彼はナツィスに協力した。
————
第七節へとつづく。
<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
————
第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱②。
(09) 予期せぬ事件が、全ての計画をひっくり返した。
5月14日、西部シベリアの町のCheliabinsk で、チェコの兵士と本国へ送還中のハンガリーの戦争捕虜のあいだで、争論が起きた。
叙述できるかぎりでは、一人のハンガリー人が鉄の棒または何かの金属物体を鉄道のプラットホームに立っていたチェコ人に投げ、うち一人が重傷を負った。
喧嘩が勃発した。
Cheliabinsk のソヴェトが騒擾に参加した数人のチェコスロヴァキア人を勾引したとき、別のチェコ人が地方の武器庫を掌握し、仲間の即時釈放を要求した。
上回る力に負けて、ソヴェトは屈服した(注64)。
--------
(10) この時点まで、チェコスロヴァキア兵にはボルシェヴィキ政府に対抗して武力を取り上げる意図はなかった。
実際に、チェコスロヴァキアの政策の大きな趨勢は友好的な中立の立場だった。
Masaryk も親近的だったので、連合諸国に対してソヴィエト政府に事実上の承認を与えるよう主張していた。
チェコ軍団について、共産主義者のSadoul は、彼らの「ロシア革命への忠誠心は争う余地がない」と書いた(注65)。
--------
(11) こうした状態は全て、トロツキーの愚かな行為によって変わることになる。
トロツキーは、新たに任命された戦争人民委員として、その地位を示威したかった。自らの指揮のもとにある兵団を実質的には何一つもっていなかったのだが。
この野望によってすみやかに、適切な規律をもったチェコスロヴァキア人の一団は「反革命的」軍隊に変えられた。これはボルシェヴィキにとって、権力掌握以降で最も深刻な軍事的脅威になっている、というのだ。
--------
(12) トロツキーは、Cheliabinsk で明らかになったこと、そしてチェコ人が「チェコスロヴァキア革命軍大会」を開催したことを知った。そしてただちに、モスクワ在住のチェコスロヴァキア国民会議の代表の逮捕を命じた。
驚愕したチェコの政治家たちは、チェコ軍団の解体を含む、トロツキーの全ての要求に同意した。
トロツキーは5月21日、チェコ軍団が東へとさらに進むことを中止させた。軍団の兵士たちは、赤軍に加わるか、または「労働大隊」へと徴用されなければならない。—後者は、ボルシェヴィキの強制労働部隊の一部になる。
服従しない者は強制労働収容所(concentration camps)へと拘禁されるものとされた(脚注)。
----
(脚注)これは、ソヴィエトの諸発表の中で最も早い強制労働収容所への言及だと見られる。
----
5月25日、トロツキーはつぎの命令を発した。
「鉄道沿いの全てのソヴェトは、重い責任のもとで、チェコ人を武装解除することを指示される。
鉄道路線沿いの武器を持って発見される全てのチェコ人は、その場で処刑されるものとする。
<ただ一つ>であっても武器を持つチェコ人を運んでいる全ての列車(echelon)は、積荷を降ろされ、(列車内の人員は)戦争捕虜収容所へと収監されるものとする。」
これは、際立って不適切な命令だった。不必要な挑発だったというだけではなく、トロツキーはこれを強制的に執行する手段を有していなかったからだ。チェコ軍団は、シベリア地方で最も強力な軍事部隊だったのだ。
同時に、トロツキーはドイツからの圧力を受けて行動した、と広く信じられた。だが、これらの5月の諸命令についてドイツには責任がない、ということが確定されてきている(注67)。
トロツキーによるまさに非ボルシェヴィキ的な「力の相互関連」の無視だったのであり、これはチェコスロヴァキア人の反乱を誘発した。
--------
(13) チェコスロヴァキア兵は、5月22日、武装解除せよとのトロツキーの命令を拒否した。
「チェコスロヴァキア革命軍大会は、Cheliabinsk に集まって、…革命の強化のための困難な闘争を行なうロシアの革命的人民に対する共鳴の感情を宣言する。しかしながら、大会は、我々の兵団のVladivostok に向かう自由で安全な通行を保障するにはソヴィエト政府は無力であると確信して、満場一致で、兵団が出発することを許され、反革命的な列車からの保護を保障されるまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した。」(注68)
この決議をモスクワに伝達するに際して、チェコスロヴァキア兵大会は、こう言った。大会は「満場一致で、安全な旅行の保障が考慮されて、Vladivostok に到着するまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した」。
これが表明しているのは、チェコスロヴァキア兵団が出発するのを妨害するいかなる企てもなされないだろう、という希望だった。「あらゆる紛争は、シベリアの地方ソヴェト機関の地位を損傷するだけ」なのだから(注69)。
チェコ軍団はMurmansk やArchangel へと再迂回せよとの連合諸国の指令は、単直に無視された。
--------
(14) トロツキーの指示が知られるようになったとき、1万4000人のチェコスロヴァキア兵はすでにVladivostok に着いていた。だが、2万500人は、シベリア横断鉄道と中央ロシアの鉄道の長さで連なっていた(脚注)。
ボルシェヴィキは自分たちをドイツに渡そうとしていると確信し、また地方ソヴェトに脅かされて、彼らは、シベリア横断鉄道の支配権を握った。
しかし、そうしているときであっても、自分たちはソヴィエト政府と闘ういかなる組織とも交渉しない、ということを彼らは再確認していた(注70)。
----
(脚注) M.Klante, Von der Wolga zum Amur (Berlin, 1931), p.157.トロツキーから情報を得たかもしれなかったSadour は5月末に、軍団を異なって配分した。Vladivostok は5000、VladivostokとOmskの間に20000、Omsk の西のヨーロッパ・ロシアに20000。J. Sadoul, Notes sur la Revolution Bolchevique (Paris, 1920), p.366.
--------
(15) チェコスロヴァキア兵団が鉄道を奪取してしまうと、鉄道沿いの都市のソヴェトは崩壊した。
そして、その崩壊が起きるとすぐに、ボルシェヴィキに敵対するロシア国内の対抗者たちが、真空を埋めるべく入ってきた。
チェコスロヴァキア兵は5月25日に、Mariinsk、Novonikolaevsk にある鉄道線路の交差点を占拠した。これは、シベリアの広い地域との線路や電信でのモスクワとの連絡を切断する効果をもった。
2日後、彼らはCheliabinsk を掌握した。
5月28日、彼らはPenza を奪取した。6月4日にはTomsk、6月7日にはOmsk、6月8日にはSamara。Samara は、ラトビア兵団によって防衛されていた。
彼らの軍事作戦が拡張するにつれて、チェコスロヴァキア兵団は司令部を中央化し、最高司令官として、自己流の「将軍」、Rudolf Gajda を選出した。この人物は野心的な術策家で、もっている相当の軍事的才能は、政治感覚と釣り合ってはいなかった。
彼の仲間たちは、際限なくこの人物を信頼した(脚注)。
----
(脚注) オーストリア・ハンガリー軍の医療助手で、チェコスロヴァキア兵団で大尉のランクまで昇格した。1919年に、彼はKolchak 提督の軍にいて戦闘した。チェコスロヴァキアが独立を達成した後、軍事機密の漏洩の咎で逮捕されるまで、幕僚長として働いた。逮捕後の判決では無罪が言い渡された。さらにのち、彼はナツィスに協力した。
————
第七節へとつづく。