秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

チェカ

2966/R.Pipes1990年著—第18章㉔。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設②。
 (05) しかしながら、1918年には強制収容所はほとんど建設されず、設置されたものは諸州のチェカまたは軍事司令部によって主導された、と思われる。
 強制収容所の建設が本格的に始まったのは1919年の春で、主導したのは、Dzerzhinskii だった。
 レーニンは、強制収容所が自分の名前と結びつけられるのを好まなかった。これを設立して構造や活動を定める諸布令は、人民委員会議の名によってではなく、ソヴェト中央執行委員会とその議長のSverdlov の名で発せられた。
 これら諸布令は、チェカの再構成に関する1919年2月17日のDzerzhinskii の報告書の中に含まれていた諸勧告を実施した。
 Dzerzhinskii は、治安妨害と闘うための現存の司法的手段は十分ではない、と主張した。
 「法廷が判決を下すこととともに、行政的な判決の言い渡し—つまり強制収容所—を保持することが必要だ。
 今日でも、拘置(under arrest)されている者の労働が公的な労働全体の中で役立っているとは、とうてい言い難い。だから私は、拘置されている者の労働を利用するために強制収容所を保持するよう勧告する。また、職業をもたず生活している者や強制がなければ労働することができない者についても。
 あるいは、ソヴィエトの諸組織に関して言えば、このような制裁の措置は、労働について無関心な態度の者、怠惰な者、遅い者、等々に適用されるべきだ。
 このような措置をとれば、我々自身の労働者をも引き上げることができるはずだ。」(注127)
 Dzerzhinskii、カーメネフ、およびスターリン(この布令の共同起草者)は、収容所を、「労働の学校」と労働の貯留庫(pool)を結合させたものと考えた。
 「全ロシア非常委員会[チェカ]は、強制収容所に限定する権能を付与された。全ロシア中央執行委員会により承認された、強制収容所への収監の規則に関する厳密な指示によって導かれる。」(注127)
 明確でない理由により、1922年およびその後、「強制収容所」(concentration camps)という用語は、「強制労働収容所」(camps of forced labor)に変更された。
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 (06)  1919年4月11日、CEC は、収容所の組織に関する「決定」を発した。これは、内務人民委員部—長は今やDzerzhinskii—の権威のもとで、強制労働収容所の網(network)の設置を定めた。
 「以下の個人または一定範疇の個人たちは、強制労働収容所に拘置される。行政諸機関、チェカ、革命審判審判所、人民法廷および布令や指令で権限を与えられている他のソヴェト機関が決定した者。」(注129)
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 (07)  画期をなすこの布令の若干の特徴について、注記が必要だ。
 1919年に装置化されたソヴィエトの強制収容所は、法廷と行政機関のいずれかによって判決を受けた、あらゆる種類の望ましくない者たちを監禁しておくための場所だと意図されていた。
 監禁される者の中には、個人だけではなく、「一定範疇の個人たち」—すなわち、全ての階級—も含まれていた。
 Dzerzhinskii は、「ブルジョアジー」のための特別強制収容所が設立されるべきだと、ある箇所で提案した。
 強制的に隔離されている被収容者たちは、ソヴィエトの行政部や経済部署が賃金を支払わないで用いることのできる奴隷労働の貯留庫になっていた。
 収容所の網状機構は、内務人民委員部によって、当初は収容所の中央管理機関を通じて、のちには一般にGulak として知られる中央収容所管理機構(Main Camp Administration、Glavnoe Upravlenie Lageriami)を通じて、運営された。
 ここで、原理としてではなく実務においても、スターリンの強制収容所帝国を感じ取ることができる。
 スターリンの強制収容所は、レーニンのそれと、規模についてだけ異なっていた。
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 (08)  強制収容所の設立を承認したCEC の諸決議は、収容所の活動を指導する詳細な指針を必要とした。
 1919年5月12日に発せられた布令は、細かい官僚的用語法を用いて、収容所の基本構成を定めた。どのように組織されるべきか、被収容者の義務と想定上の権利は何か。
 この布令は、全ての州都である都市に対して、300人またはそれ以上を収容できる強制労働収容所の建設を命じた。
 ソヴィエト・ロシアには(内戦の状況によるが)約38の州があったので、この規定は、最少で計11,400人の施設を想定していた。
 しかし、この数字は大きすぎた。布令は地区の首都にも強制収容所を建築する権限を認めており、こちらの数字は数百に達したからだ。
 収容所を組織する責任は、チェカが負った。建設されると、収容所を管理する権限は、地方ソヴェトに移ることとされていた。
 この条項は、ボルシェヴィキによる立法の一つで、ソヴェトは「最高」(sovereign)機関だという神話を維持することを前提にしていた。
 そして、実際には、機能しなかった。ソヴィエト・ロシアにある収容所の「総合的管理」の責任が、内務人民委員部内に新しく設置された強制労働局(Department of Forced Labor、Otdel Prinuditel’nykh Rabot)へと移されたからだ。そして、既述のとおり、内務人民委員部の長(人民委員)は、チェカの長官と同じ人物だった。
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 (09)  ロシアの政府には、受刑者の労働を利用するという古くからの伝統があった。「国家の経済それ自体の中で強制労働の利用が、ロシアの歴史ほどに大きい役割を果たした国はなかった。」(注131)
 ボルシェヴィキは、この伝統を復活させた。
 ソヴィエトの強制収容所の拘禁者は、1919年の最初から、つねに、拘禁施設の内部か外部で肉体労働をしなければならなかった。
 指示書は、こう定めていた。「収容所に到着するとただちに、全員が、仕事を割り当てられ、滞在中はずっと肉体労働に従事するものとする」。
 収容所当局が拘禁者の労働を完全に利用するのを促すために、また政府の財政負担を軽減させるためにも、各収容所は財政的に自立して運営していくことが、要求されていた。
 「収容所とその管理機構を運営する費用は、被収容者が定員いっぱいの場合には、被収容者の労働によって賄う必要があった。
 赤字の責任は、別の指令書が定めた規則に従って、管理者と被収容者に生じることになる。」(脚注5)
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 (脚注5) したがって、別の権威が行なったように、ソヴィエトの強制収容所はもともとは民衆をテロルにかけることに役立ったが、1927年にスターリンのもとでようやく経済的な重要性をもった、と主張するのは、正しくない。実際に、制裁的労働で元を取る、さらには国家の収入とするという実務は、帝政時代に遡る。かくして1886年に内務省は、重労働施設の管理者に対して、受刑者の労働が利益を生むことを確かめよ、と指示した。R. Pipes, Russia under the Old Regime, p.310.
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 ③へとつづく。

2965/R. Pipea1990年著—第18章㉓。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設①。
 (01) チェカの最も重要な職責の中に、「強制収容所」(concentration camps)を組織し、運営することがあった。ボルシェヴィキは、この収容所を全く新しく考案したのではなかったが、新奇できわめて邪悪な意味をこれに与えた。
 強制収容所は、その完全に発展した形態では、一党国家制や全能の政治警察とともに、ボルシェヴィキが20世紀の政治実務に影響を与えた主要なものだった。
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 (02) 「Concentration Camps」という用語は、植民地戦争(colonial war)に関連して19世紀の末に生まれた。(脚注1)
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 (脚注1) この装置に関する最良の歴史書は、Kaminsky, Konzentrationslager だ。この主題を、歴史家は驚くほどに無視してきた。
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 スペイン人は、キューバ人の暴乱に対する戦いのあいだに、このような収容所(camps)を最初に設けた。
 それらは、40万人を収容した、と推算されている。
 アメリカ合衆国は、1898年のフィリピン暴乱と戦うあいだに、スペイン人に見習った。
 イギリスも、ボーア(Boer)戦争のあいだに、同様のことをした。
 しかし、これらは、名前を別とすれば、ボルシェヴィキが1919年に導入し、ナツィスその他の全体主義体制がのちに模倣した強制収容所とほとんど関係がなかった。
 スペイン、アメリカ、イギリスの強制収容所は、植民地のゲリラとの戦いのあいだに採用された非常措置だった。それらの目的は、制裁ではなく、軍事的なものだった。—すなわち、非正規軍を一般民間人から分離すること。
 初期の収容所の条件は苛酷だった、と認めざるを得ない。イギリスに監禁されて、2万人ほどものボーア人が死んだ、と言われている。
 しかし、意図的な虐待は、存在しなかった。苦痛や死は、収容所が急いで完成されたことによっていた。急いだがゆえに、居住条件、食事等の供給、医療が不適切なままだった。
 被収容者たちは、労働を強制されなかった。
 三つの場合はいずれも、戦闘が終結すると、収容所は取り壊され、被収容者は解放された。
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 (03) ソヴィエトの強制収容所や労働収容所(lageri prinuditel’nykh rabot)は、最初から、組織、活動、目的が異なっていた。
  1. 永続的な施設だった。内戦のあいだに導入され、1920年に戦闘が終わっても、消滅しなかった。
 それどころか、様々の目的をもってその場所に維持され、1930年代には途方もない割合で膨張した。その頃のソヴェト・ロシアは平穏で、表向きは「社会主義を建設していた」のだが。
 2. ゲリラを支援したと疑われた外国人を収容しなかったが、政治的反抗者だとの嫌疑を抱いたロシア人その他のソヴィエト市民は、収容した。
 元来の役割は、植民地の人々を軍事的に制圧するのを助けることではなかった。ソヴィエトでは、自国の市民にある不満を抑圧することが任務だった。
 3. ソヴィエトの強制収容所は、重要な経済的役割を果たした。被収容者は、命じられれば、労働しなければならなかった。このことが意味したのは、彼らは隔離されるだけではなく、奴隷労働者として搾取される、ということだった。
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 (04) ソヴィエト・ロシアで強制収容所が最初に話題になったのは、1918年の春、チェコ人の蜂起や従前の帝制期の将校たちの採用に関係してだった。(脚注2)
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 (脚注2) ソヴィエトの強制収容所に関する最も包括的な解説は、Mikhail Geller, Kontsen-tratsionnyi mir i sovetskaia literature(London, 1974)だ。これには、ドイツ語、フランス語、ポーランド語の翻訳書がある。英語のものはない。
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 1918年5月末、トロツキーは、武器を捨てて降伏するのを拒む
チェコ人兵士を、強制収容所への監禁でもって威嚇した。(脚注3) 
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 (脚注3) L. D. Trotskii, Kak vooruzhalas’ revoliutiia, I(Moscow, 1923), p.214, p.216. Geller によると(Konrsentratsionnyi, p.73)、これは、この用語のソヴィエトでの最も早い使用例だ。
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 8月8日、彼は、モスクワからKazan までの鉄道路線を保護するために、近傍のいくつかの地方に強制収容所を建築することを命じた。それは、「その場で」処刑されていないまたは他の制裁を受けている、「悪辣な煽動者、反革命将校、破壊工作者、寄食者、投機者」を隔離するためでもあった。(注126)
 こうして、強制収容所は、訴追することができていないが何らかの理由で当局が処刑しないことを好む、そのような市民を抑留する場所だと理解された。
 レーニンは、8月9日のPenza への電信で、この用語を上のような意味で用いた。反抗する「クラク」は「容赦なき大量テロル」—すなわち処刑—を受けさせるべきだが、疑わしい者は市の外にある強制収容所に監禁せよと、その電信は命令していた。(脚注4)
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 (脚注4) Lenin, PSS, L, p.143-4. チェカの長官代理の地位にあったPeters は、武力でもって捕えた者は「その場で射殺され」、政府に反対して煽動した者は強制収容所に監禁される、と言った。Izvestiia, No.188/452(1918年9月1日), p.3.
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 このような威嚇は、1918年9月5日の「赤色テロルに関する決定」によって、法的および行政的制裁の効果をもった。この決定は、「階級敵を強制収容所へ隔離することによってソヴェト共和国を守る」ために行なわれた。
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 ②へとつづく。

2963/R. Pipes1990年著—第18章㉒。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する②。
 (03)  チェカは、徐々に、国家の保安に通常は影響を与えないと考えられる広い範囲の管理や監督の権能を掌握した。
 「投機」—すなわち私的取引—を取り締まる布告を執行するために、チェカは、1918年の後半に、鉄道、水路、主要道路その他の交通手段に対する統制権を握った。
 Dzerzhinskii は、この職務を効率的に実行するために、1921年4月、交通人民委員に任命された。(注121)
 チェカは、あらゆる形態の強制労働を監督かつ実施した。この義務を逃れる者や不十分にしか履行しない者に対しては、これらを制裁する裁量的権限をもった。
 銃撃による処刑は、このような目的のために使われた、一般的な方法だった。
 ある目撃者は、経済的成果を上げるためにチェカが用いた手段について、貴重な洞察を与えてくれている。この人物は、ソヴェトが雇用したメンシェヴィキの森林専門家で、レーニンとDzerzhinskii が材木生産の増大について決定したときに、たまたま在職していた。
 「あるソヴィエトの布令が公示された。この布令は、政府所有の森林の近くに居住する全ての農民に対して、1ダースの木材を用意し、輸送するよう義務づけた。
 だが、この義務づけは、森林労働者(foresters)をどうするか—彼らに何を要求するか—という問題を生じさせた。
 ソヴェト当局から見ると、これら森林労働者たちは、新政府が冷淡に処理をした妨害者的知識人の一部だった。/
 この特定の問題を議論した労働・防衛会議(the Council of Labor and Defence)の会合には、他の人民委員の中でも、Felix Dzerzhinskii が出席した。…
 彼は、しばらく聴いていたあと、こう言った。
 『正義と衡平のために、提案する。森林労働者は、農民への割当て量の達成について個人的な責任を負わされる。加えて、各森林労働者は一人ずつ、同じ量—1ダースの木材—を達成するものとする。』/
 会議の若干の構成員たちは、反対した。
 彼らが指摘したのは、森林労働者は重い肉体労働に慣れていない知識人だ、ということだった。
 Dzerzhinskii は、農民と森林労働者の間の年齢による不平等を無くす良いときだ、と答えた。/
 チェカの長官は、結論としてこう発言した。
 『さらに加えて、かりに農民が割当て量を達成できなければ、それに責任を負う森林労働者は、射殺されなければならない。
 残りの者は、真剣に仕事に取り組むだろう。』/
 森林労働者の多数は反共産主義者だと、広く知られていた。
 依然として、部屋にある、当惑した静けさを感じた。
 突然に、私は、無作法な声を聴いた。
 『この提案に、誰か反対するか?』/
 レーニンだった。彼の真似のできないやり方で、議論を終わらせようとしていた。
 当然ながら、誰もあえてレーニンとDzerzhinskii に反対しなかった。
 レーニンは、思い直したかのように、森林労働者の射殺の部分—承認されていたが—は会合の正式の議事録から削除するよう、提案した。
 これもまた、彼が望んだとおりに承認された。/
 会合のあいだ、私は気分が悪かった。
 私はもちろん、1年以上、処刑がロシアをひどく破壊していることを、知ってきていた。—だが、多数の無実の人々の運命にかかわる5分間の議論に、私自身が同席していた。
 私は、心底から動揺した。
 咳き込んだけれども、私の冬風邪の一つの咳以上のものだった。/
 1、2週間以内に森林労働者の処刑が行なわれても、彼らの死は先の事態を少しも変えないだろう、ということは、私には苦痛だった。
 このような恐るべき決定は、この非常識な措置を発動する者たちにある、憤懣と復讐の感情から来ている、と私は知った。」(注122)
 文書には何の痕跡も残さない、このような決定が多数あったに違いない。
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 (04)  チェカは、着実に、その軍事力を増大させた。
 1918年夏、その戦闘部隊(Combat Detachments)が、赤軍から分離した一つの組織となった。これは、Korpus Voisk VChK(AU-ロシア・チェカの軍団)と称された。(注123)
 帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)を範としたこの軍団は、「国内戦線」のための常備軍へと成長した。
 1919年5月、政府は、内務人民委員としての新しい権能をもつDzerzhinskii が主導して、これらの部隊の全てを、共和国の国内的保安の軍隊(Voiska Vnutrennei Okhrany Respubliki)へと統合し、戦争人民委員ではなく内務人民委員が監督するものとした。(注124)
 このとき、この国内軍には、12万人ないし12万5000人の兵士がいた。
 1920年代の半ばまでには、この数は二倍になり、全体でほとんど25万人になった。この兵士たちは、工業施設、輸送設備を守り、供給人民委員部が食料を徴発するのを助け、強制労働と強制収容所を護衛した。(注125)
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 (05)  重要なことを付言すると、チェカは、Osoby Otdel(特殊部署)として知られる、軍隊のための対抗諜報組織の事務局を設置した。
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 (06)  チェカは、こうした機能と権能をもつことによって、1920年までに、ソヴィエト・ロシアの最も強力な組織になった。
 警察国家の基盤は、かくして、レーニンがその職責にあるあいだに、その主導のもとで、築かれた。
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 第十節、終わり。

2962/R. Pipes1990年著—第18章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する①。
 (01) ソヴェト・ロシアは、1920年までに、つぎの意味での警察国家になった。保安警察、事実上の国家内部の国家が、その触手を、経済管理機関を含む全てのソヴェト組織に広げた、という意味での。
 きわめて短い時間で、チェカは、無害の政治的異論者を捜査し、判定を下す機関から、人の生か死を決定するだけでなく、全国家装置の日常的活動を監督する、政府を超える機関に変身した。
 このような発展は、必然的だった。
 共産主義体制は、国の運営全般を自分で行なうことを主張したが、数十万人の専門家たちを雇う以外に選択の余地はなかった。—専門家は「ブルジョア専門家」で、その定義上、「階級敵」だった。
 したがって、彼らを緊密に監督する必要があった。
 この監督が、チェカの責任となければならなかった。チェカだけが、必要な組織だったのだから。—この責任が、チェカがソヴィエトの生活の全ての局面に浸透することを可能にした。
 新しい機能に関する1919年2月のCEC に対する報告で、Dzerzhinskii は、こう述べた。
 「群衆をまとめて簡単に処理する必要は、もうない。
 我々の敵は、今では闘争の方法を変えた。我々の組織の中に、虫のように入り込もうとしている。
 その目的は、我々の隊列の内部で破壊工作をすることであり、外部の敵が我々を破滅させ、我々の権力の機関や機構を掌握して、それらを我々に向けるまでつづく。…
 この闘争は、する気があるならば、個人的に行なうもので、今までよりも繊細だ。
 探索しなければならない。とどまることはできない。…
 我々の敵は、ほとんど全ての我々の組織内にいる。
 だが、我々は自分たちの組織を破壊することができない。細い糸を見つけて、捕えなければならない。
 この意味で、闘争の方法は、今や完全に変わらなければならない。」(注119)
 チェカは、このような主張を、全てのソヴェト組織に浸透する言い訳として用いた。
 そして、チェカは人間の生命に対する無制限の力を維持したので、それがもつ行政的指示は、テロルのさらに新しい形態となった。この新しい形態のテロルを、共産党員か否かを問わず、ソヴェトで働く者全員が逃れることができなかった。
 したがって、Dzerzhinskii が、1919年3月にチェカの長官職を保持しながら、内務人民委員に任命されたのは、自然なことだった。
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 (02) 権能の拡大に沿って、1919年半ば、チェカの上層官僚には、いかなる市民をも逮捕し、いかなる組織をも捜索する権限が、与えられた。
 このような権能が実際に意味したことは、 チェカ役員会の構成員に発行された証明書から記述することができる。
 この証明書は、所持者に対して、つぎの権限を認めた。
 (1) 反革命活動、投機その他の犯罪を行なったとして有罪であるかその疑いがあるいかなる市民をも拘束し、チェカに引き渡すこと。
 (2) 全ての国家および公的官署、工業・商業企業、学校、病院、地域共同住宅、劇場ならびに鉄道駅・蒸気船港に、自由に立ち入ること。(注120)
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 ②につづく。

2961/R. Pipes1990年著—第18章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員②。
 (07) しかし、チェカ擁護論者は、その組織を防衛しただけではなかった。「プロレタリアート独裁」の勝利のために不可欠のものとして称賛した。
 チェカは、無限の闘争であるレーニンの「階級戦争」のテーゼを発展させて、自らを赤軍と相補関係にあるものと見た。
 両者の唯一の違いは、赤軍はソヴィエト国境の外で階級敵と戦い、チェカとその軍事部隊は「国内の戦線」で階級敵と戦う、ということにある。
 内戦は「二つの前線での戦争」だとする考えは、チェカとその支持者が好んだ主題の一つになった。赤軍で働く者とチェカに勤務する者は、腕を組む同志だと言われた。それぞれのやり方で、「国際的ブルジョアジー」と戦っているのだ。(注108)
 こうした類似性でもって、チェカは、自分たちにソヴィエトの領域内で殺害が許容されていることは、軍隊の兵士が前線で目に入る敵兵を殺害するのと同じ権利のようなものだ、いやじつに、義務ですらある、と主張することができた。
 戦争は、正義の法廷でなかった。Dzerzhinskii の言葉によると(Radek の報告によるが)、無実の者も、無実の兵士が戦場で死ぬのと全く同じように、国内の前線で死ぬ。(注109)
 これは、政治は戦争だ、という前提から演繹される見方だった。
 Latsis は、両者の類似性を、つぎのような論理的な結論へと押し進めた。
 「非常委員会(チェカ)は捜査機関ではなく、判決を書く法廷または審判所でもない。
 戦闘の機関であって、内戦の内部戦線で活動する。
 敵に判決を下すのではない。打ちのめすのだ。
 バリケードの向こう側の者たちを赦すのではなく、焼いて灰にする。」(注110)
 警察テロルと軍事戦闘との間のこのような類似性は、むろん、両者の重大な違いを無視していた。すなわち、兵士は生命を賭けて敵の兵士と戦ったが、チェカ機関員は、自らについての危険を冒すことなく無防備の男女を殺害した。
 チェキストが示すべき「勇気」は、身体的または倫理的な勇気ではなく、良心を抑えつけようとする意欲だった。その「不屈さ」は、被害を受けない能力にではなく、苦痛を被らせる能力にあった。
 それにもかかわらず、チェカは、この表面的な類似性を語るのを好むようになった。これでもって、批判に反駁し、ロシア人が抱く嫌悪感を克服しようとした。
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 (08) レーニンは、論争に立ち入らなければならなかった。
 チェカを好み、その残虐性を是認した。しかし、チェカの公的イメージを改善することによってでも、とんでもない悪罵は抑制される必要がある、ということにも同意した。
 〈週刊チェカ〉の記事が拷問の使用を要求していることに慄然として、Latsis の機関の閉鎖を命じた。レーニンは、Latsis を優れた共産党員だと呼んでいたのだが。(脚注2)
 1918年11月6日、チェカは、訴追されていない、または2週間以内に訴追できない収監者全員を釈放することを、指示された。
 「必要がある」場合を除き、人質も解放された。(脚注3)
 この措置は、共産党諸機関によって「恩赦」として歓迎された。審理されて判決を受けた者だけではなく、訴追すらされていない者にも適用されたので、「恩赦」という類のものではなかったけれども。
 だが、この指示も、空文のままだった。すなわち、1919年のチェカの監獄は、明確な理由なく投獄された収監者、その多くは人質、で溢れつづけていた。
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 (脚注2) レーニンは、1918年11月7日に、チェキストの「会合音楽会」で挨拶して、チェカを批判から防衛した。彼はチェカの「困難な仕事」について語り、チェカに対する不満を「愚痴」(〈vopli〉)だとして斥けた。チェカの特性として選び出したのは、断固さ、速さ、とりわけ「忠誠さ」(〈vernost’〉)だった。Lenin, PSS, XXXVII, p.173. ヒトラーのSS の標語は「Unsere Ehre heisst Treue」(「我々の栄誉は忠誠という」)だったことが、想起される。
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 (脚注3) Dekrety, III, p.529-530. これは、チェカは訴追しないままで抱えている多数の収監者を何とかしてほしいとの、10月初めのモスクワ・ソヴェト幹部会の要請に対する反応だった。Severnaia Kommuna, No.122(1918年10月18日), p. 3.
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 (09) 政府は、1918年10月の末にかけて、心ならずも、他の国家諸機関と緊密な関係をもたせることで、チェカの独立性を制限する方向へ進んだ。
 チェカのモスクワ本部は、司法人民委員部および内務人民委員部の代表者たちを受け入れるよう命じられた。
 州の諸ソヴェトは、地方チェカ機関員の任命や解任を行なう権限を与えられた。(注111)
 しかし、チェカによる政治的な濫用をなくす意味ある措置は、1919年1月7日に行なわれた、チェカの〈uezdy〉——への吸収だった。この〈uezdy〉は、酷い残虐行為や大規模な強要行為で悪名高い、最小の行政単位だった。(注112)
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 (10) チェカの権威は、ボルシェヴィキ党モスクワ委員会から不満が示されることで、慢心を原因として揺すぶられた。モスクワ党委員会は、1919年1月23日の会議で、統制されないチェカの活動に対する強い抗議の声を聴いていた。
 チェカを廃止しようとする動議が提出された。これは、「ブルジョア的」だとして採用されなかった。
 しかし、時期が到来していた。
 1週間のち、国の最も重要な同じモスクワ党委員会は、4対1の票差で、チェカから審判所として活動する権利を剥奪し、捜査機関というもともとの活動に限定した。(注114)
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 (11) 党中央委員会は、このような不満の増大に対応して、2月4日に、1918年12月のKrylenko の提案を再検討した。
 Dzerzhinskii とスターリンは、報告書を準備するよう求められた。
 二人は、数日後に提出した勧告書で、こう提案した。チェカは、治安妨害行為を捜査し、武装反乱を鎮圧するという二つの機能を維持する。だが、国家に対する犯罪に判決を下す権限は、革命審判所に留保される。
 この原則に対する例外は、ときに国の広大な領域に及ぶことのある戒厳令の下にある地域で認められた。この地域では、チェカは従前どおりに活動することができ、死刑判決を下す権利を保持した。(注115)
 党中央委員会は、勧告書を承認し、是認を求めて中央執行委員会(CEC)に提出した。
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 (12) CECの1919年2月17日の会合で、Dzerzhinskii は主要報告を陳述した。(脚注4)
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 (脚注4) これは、39年後に初めて公にされた。IA, No. 1, p.6-p.11.
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 彼は、こう語った。チェカが存在した最初の15ヶ月のあいだ、ソヴィエト体制はあらゆる分野での組織的抵抗に対抗する「容赦なき」闘争を展開しなければならなかった。
 しかし、今では、かなりの程度はチェカの活動が、「我々の内部の敵、元将校、ブルジョアジー、帝制期の官僚たちを、打ち負かし、解散させた」。
 今後の主要な脅威は、「内部から」破壊工作を実行するためにソヴェト組織に潜入している反革命者たちにある。
 チェカが大衆テロルを展開する必要は、もうない。これからは、犯罪者を審理して判決を下す革命審判所のために、証拠を提供することになるだろう。
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 (13) 表面的には、一つの時代の終わりが画された。当時の人々はある程度は、改革を歓迎した。2月17日、CECは、敵を粉砕した「プロレタリアート」がもうテロルという武器を必要としなくなった証しとして、この改革をいつものとおり承認した。(注116)
 しかし、この改革は、ロシアのテルミドール(Thermidor)ではなかった。ソヴィエト・ロシアは、当時もその後も、テロルなしで済ますことはできなかった。
 1919年、1920年、そしてそのあと、チェカとその後継組織のGPU は、革命審判所に照会することなく、逮捕し、審理し、判決を下し、収監者や人質を処刑しつづけた。
 まさに、Krylenko が説明したように、このことは大して重要でなかった。「質的に見て」(qualitatively)、法廷と警察の間に違いはないはずだったのだから。(注117)
 Krylenko の見方は、つぎのことを考えると、正しかった。1920年の時点で、裁判官は、被告人の有罪が「明白」と見えるときは、通常の司法手続を履行することなく被告人に判決を下すことができた。これは、チェカが行なってきたことと全く同じだった。
 1919年10月、チェカは自らの「特別革命審判所」を設置した。(注118)
 それにもかかわらず、改革を目ざす努力は、実らなかったとはいえ、記憶されるに値する。その努力は、少なくともボルシェヴィキ党員の一部には、1918-19年に既に、秘密警察は体制の敵のみならず自分たちや友人たちの脅威でもある、という予感があった、ということを示しているのだから。
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 第九節、終わり。

2960/R. Pipes1990年著—第18章⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員①。
 (01) 赤色テロルが二ヶ月めに入ったとき、ボルシェヴィキの中層および下位の党員のあいだに、テロルへの嫌悪が感じられるようになった。
 1918-19年の冬のあいだにその感情は強くなり、政府は1919年2月、チェカの権能を制限する一連の規則の発令を強いられた。
 しかし、この規制は、ほとんど紙の上だけのものだった。
 1919年の夏、赤軍がDenikin の攻勢によって後退し、モスクワが奪取される切迫感が生まれたとき、恐れ慄いたボルシェヴィキ指導部は、一般民衆をテロルする完全な自由をチェカに復活させた。
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 (02) 共産党組織の内部でのチェカに対する批判は、人道主義的な衝動からではなく、チェカが独立していることへの不満や、チェカを統制下に置かなければやがてそれが忠誠心ある共産党員を脅かすことになる、という怖れによって、掻き立てられた。
 チェカに付与された赤色テロルを行なう自由は、チェカの権能が党の指導層へすら及ぶことを意味した。
 チェキストがつぎのように誇るのを聞いたとき、ふつうのボルシェヴィキ党員がどう感じるかを、容易に想像することができる。—我々は、「好むならば」ソヴナルコムの一員を、レーニンですらも、逮捕することができる、自分たちはチェカに対してのみ忠実なのだから。(注99)
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 (03) 多数のボルシェヴィキ党員が思っていることを最初に語った最初の官僚は、〈プラウダ〉編集部員のOlminskii だった。
 Olminskii は、1918年10月早くに、チェカは党とソヴェトの上位にあると考えている、と非難した。(注100)
 州の行政を監督すると想定されていた内務人民委員部の官僚たちは、州や〈uezd〉のチェカが地方ソヴェトを無視していることに不満を表明した。
 1918年10月、内務人民委員部は、地方のチェカとの関係について調査するために、州と〈uezd〉のソヴェトに対して調査団を派遣した。
 回答した147のソヴェトのうち、20ソヴェトだけが、チェカが独立して行動していることに満足していた。残りの127ソヴェト(85パーセント)は、自分たちの監督のもとでチェカに活動させることを望んだ。(注101)
 司法人民委員部も同様に困惑しており、政治的犯罪者を審理し判決を出す手続から自分たちは排除されている、と考えていた。
 その長官であるN. V. Korylenko は、テロルの熱心な支持者で、無実の者を処刑することすら擁護していた。彼は、のちに、スターリンの見せ物裁判の、指導的な訴追者になる。
 彼は、しかし、全く自然に、自分の人民委員部が殺害を担当することを望んだ。
 1918年12月、彼は、党中央委員会に対して、チェカを本来の機能—すなわち、捜査—に限定し、司法人民委員部に審理と判決の権能を委ねようとする企画書を提示した。(注102)
 党中央委員会は、当分のあいだ、この提案を棚上げした。
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 (04) チェカに対する批判は、1918-19年の冬に、継続した。
 〈週刊チェカ〉の刊行については、編集部の論評はなかったが、州のボルシェヴィキ官僚の手紙によって嫌悪感が広がった。ボルシェヴィキ官僚たちは、レーニンの生命を狙って共謀したとして非難されたBruce Lochkart が「最も優しい拷問」すら受けることなく釈放されたことに対して、怒りを表明した。(注103)
 Olminskii は、1919年2月に、批判を再開した。
 彼は、無実の者の処刑に異議を挟んだ。そのような数少ない著名なボルシェヴィキ党員の一人として、こう書いた。
 「赤色テロルについては、異なる見解があり得る。
 しかし、いま諸州で行なわれているのは、赤色テロルでは全くない。最初から最後まで、犯罪だ。」(注104)
 モスクワで噂話として呟かれたのは、チェカの座右銘(motto)はこうだ、ということだった。—「有罪者一人を見逃すよりは、10人の無罪の者たちを処刑する方がよい」。(注105)
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 (05) チェカは、反撃した。
 反撃の仕事は、Dzerzhinskii のラトヴィア人副官であるLatsis とPeters に委ねられた。Dzerzhinskii は10月早くに、スイスへと1ヶ月の休暇をとりに行っていたからだ。
 彼は、レーニンの暗殺未遂が起きて以降の6週間を、レーニンによる赤色テロルに目を光らせながら、過ごした。
 髭を剃って、そっとモスクワから抜け出た。
 ドイツを経由してスイスへ行き、妻と子どもたちに合流した。彼ら家族は、ベルン(Berne)のソヴィエト代表部に落ち着いていた。
 赤色テロルが頂点に達していた1918年の10月に撮影された、彼の写真が、残っている。上品な私服を着て家族とともにLugano 湖畔に立って、ポーズをとっている。(注106)
 大虐殺に耐えられないかのごとき様子は、テロルのこの熟達者についてよく知られた最もよい写真だった。彼は二度と、このような非ボルシェヴィキ的弱さを示そうとしなくなった。
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 (06) チェカの報道官は、批判に応えて、彼らの組織を防衛するとともに、反対攻撃も行なった。
 批判者を、こう呼んだ。反革命と闘う実際的経験のない、そしてチェカに無制約の行動の自由を認める必要性を理解することができない「アームチェア」政治家だ、と。
 Peters は、反チェカの情報宣伝の背後には、「プロレタリアートと革命に敵対的な」悪辣な分子がいると非難した。チェカを批判するのは、国家反逆の罪を冒させることにつながる契機だとも、言った。(注107)
 チェカは、ソヴェトから独立して行動することによって、ソヴィエトの憲法(Constitution)を侵犯している、とする批判があった。これに対して、〈週刊チェカ〉の編集部は、憲法は「ブルジョアジーと反革命が完全に粉砕されたあと」で初めて効力もち得る、と答えた。(脚注1)
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 (脚注1) Pravda, No.229(1918年10月23日), p.1. この時期のチェカをめぐる紛議に関する資料の多くは、Melgunov Archive, Box 2, Folder 6, Hoover Institution にファイルされている。さらに、Leggett, Cheka, p.121-p.157 を見よ。
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 ②へ、つづく。

2959/R. Pipes1990年著—第18章⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第八節/人質の大量虐殺②。
 (07)  Belerosov によると、Kievチェカは、初め(1918-19年の秋と冬)は略奪、強要、強姦の「絶え間なき耽溺」の状態にあった。
 機関員の4分の3はユダヤ人で、その多くは他の仕事に就けない輩たちだった。そして、ユダヤ人仲間を失わないよう気にかけてはいたが、ユダヤ人共同体から切り離されていた。(脚注3)
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 (脚注3)Dzerzhinskii の指示にもとづいて、チェカは、ユダヤ人をほとんど人質にしなかった。これは、ユダヤ人を好んでいたからではなかった。人質をとる目的の一つは、捕らえた共産主義者を白軍が処刑するのを抑えることだった。白軍はユダヤ人の生命を気遣うとは考えられていなかったので、Dzerzhinskii によれば、ユダヤ人を人質にするのは無益だった。M. V. Latsis, Chrezvychaine Kommissii po bor’be’s kontr-revoliutsiei(Moscow, 1921),p.54. Belerosov によると(p.132)、この政策は、1919年5月に変更された。その頃に、Kievチェカは、「煽動のために」「ある程度のユダヤ人を射殺」し、彼らに幹部の地位を与えないよう、命令された。
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 Kievチェカの赤色テロルの、Belerosov の言うところの「小屋産業」的段階は、のちに、モスクワから命令される「工場的」活動様式に変わった。
 1919年夏の絶頂期、それは白軍に市が降伏する前のことだったが、Kievチェカは300人の市民を雇用し、500人の武装兵を有していた。
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 (08) 死刑判決は、恣意的に下された。人々は、明確な理由なく射殺され、同じく気紛れに釈放された。
 チェカの監獄にいる者たちは、「質問」のために呼び出される深夜の恐ろしい瞬間まで、自分たちの運命を知らなかった。
 「囚人がLukianov 牢獄に収監され、突然に『チェカ』に召喚されたとすれば、慌てる理由は何もあり得なかった。
 公式には、収監者は、『質問に応じる』ことが要求される者の名簿が小部屋(cell)に大声で告げられるとき—通常は午前1時、処刑の時刻—に初めて、自分の運命を知った。
 その者は監獄の一画—the chancery—に連れていかれ、そこの適当な場所で、通常は書かれていることを読みきかされることなく、登録カードに署名した。
 通常は、運命が決まったその者が署名したあとで、付け加えられた。すなわち、あれこれのことが、彼の判決について告げられた。
 実際には、これはウソ(lie)の類だった。その収監者が小部屋を出たあとでは「優しく」扱われず、彼を待つ運命を弄ぶように告げられた。
 ここで服を脱ぐよう命じられ、そして判決が執行される場所へ導かれた。
 判決執行のために、第40Institute通りの傍に特別の庭が用意されていた。…その通りには、州のチェカが移ってきていた。
 執行者—司令官またはその代理、ときには助手の一人、たまにはチェカの『素人』—は、裸の犠牲者をこの庭に招き入れ、地上に平らに横たわるよう命じた。
 そして、彼らの襟首に向かって、銃弾が放たれた。
 こうした処刑は、回転銃、通常はコルト、によって、実行された。
 射撃は狭い範囲で行なわれたので、犠牲者の頭蓋は通常は粉々に砕けた。
 次の犠牲者が同様に呼び入れられ、通常は苦悶の状態で、その前の犠牲者のそばに横たわった。
 犠牲者の数が多くなりすぎて庭に入りきれなくなると、新しい犠牲者は前の者の上に置かれた。そうしない場合は、庭の入口で射殺された。…
 犠牲者たちは通常、何の抵抗もすることなく、処刑の場に向かった。
 彼らが体験したことは、大まかにすら、想像することができない。…
 彼らの多くは通常、別れの言葉を言う機会を求めた。そして、そこには他に誰もいなかったので、処刑を受け入れ、諦めた。」(脚注4)
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 (脚注4) NChS, No. 9(1925), p.131-2. Hoover研究所の写真資料庫には、スライドの収集物がある。それらは明らかにKiev 奪取のあとで白軍によって撮影されており、地方のチェカ本部と、庭にある、腐敗した裸の死体を含む浅い大量の墓場を示している。1918年12月、白軍は、ウクライナでのボルシェヴィキによる犯罪を調査研究する委員会を任命した。この委員会にあった資料は、プラハのロシア文書資料庫に預けられた。チェコ政府は、第二次大戦後に、それらをモスクワに渡した。外国の研究者は、それらを利用できないできた。上の委員会が発表した報告書のいくつかは、Hoover研究所のMelgunov 資料庫のBox n、およびColumbia大学のBakhmeteff 資料庫のDenikin 文書、Box 24 で見ることができる。
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 (09) 赤色テロルの衝撃的な特徴の一つは、犠牲者たちがほとんど抵抗しなかったこと、あるいは逃亡しようとすらしなかったことだ。彼らは、必然的なものに対するがごとく、赤色テロルに屈従した。
 犠牲者たちは、屈服し、協力することによって、生きながらえることができる、という幻想を抱いていた。行なったことではなく属性を理由として犠牲者となったこと、自分たちの役割は残る民衆に対して教訓を伝えることにすぎないこと、に気づくことが全くできなかったようだ。
 しかし、ここにはまた、一定の民族的な特徴も機能していた。
 1920年のロシア・ポーランド戦争のあいだポーランドで勤務していたCharles de Gaulle〔戦後のフランス大統領〕 は、大きくなればなるほど、ロシア人は、それだけ危険に、より無感動になる傾向がある、と観察した。(注98)
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 第八節、終わり。

2958/R. Pipes1990年著—第18章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第八節/人質の大量殺戮①。
 (01)  近年、ソヴィエトの政治警察は、その原型であるチェカを賛美しなければならないという強い切迫感をもっているようだ。
 ソヴィエトが気前よく助成している文献では、チェキストは、革命の英雄だと叙述されている。道徳的な誠実さを犠牲にして、苛酷で不愉快な義務を履行した、というわけだ。
 典型的なチェキストは、行動について妥協をしないほど厳格で、だが感情については感傷的なほど優しい、と描かれている。人間のための重大な使命を達成するために生来の人間性を抑制する、そのような稀な勇気と紀律をもつ精神的な巨人だ、というのだ。
 このような評価に値する者は、ほとんどいない。
 そうした文献を読むとき、Himmler のSS将校たちに対する1943年の演説を思い出さざるを得ない。彼は、SS将校たちを、数千人のユダヤ人を殺戮しながら「上品さ」を何とか維持したがゆえに、優れた血族だと称賛した。(脚注1)
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 (脚注1)  このような自己憐憫の例は、チェキストたちのグループのつぎの1919年の言明に見出すことができる。「不屈の意思と内面的な強さを必要とする信じ難く困難な条件のもとで…働く[チェカに]雇われている者は、誹謗中傷や頭の上に悪意をもって注がれる戯言にもかかわらず、汚染されることなく仕事をしつづける」、等々。V. P. Antonov-Saratovskii, Sovety v epokhu voennogo kommunizma, I(Moscow, 1928), p.430-1.
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 (02)  現実にはどうだったのか、チェカが惹きつけたのはどのような人々だったのか。これらを、離反して白軍に入ったかまたは白軍の手に落ちたかのチェキストの証言から、再現することができる。
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 (03)  人質をとって処刑する手続は、F. Drugov という名の元チェキストによって叙述された。(注95)
 彼の証言によると、チェカにはもともとは方法というものがなかった。チェカは、帝制下で重要な地位(とくに憲兵隊員)を占めていた、軍隊の高官だった、資産を所有している、あるいは新体制を批判している、といった様々の理由で、人質にした。
 地方チェカの意見では「大量テロルの適用に該当する何かが起きると、恣意的に設定されたその人質に相応する数が監獄の小部屋から選び出され、射殺された。
 Drugov の説明を支持する、ある州の都市からの証拠資料がある。
 1918年10月、旧体制の多数の著名人が避難していた北部コーカサスの都市であるPiatigorsk での若干のソヴェト官僚の殺害に反応して、チェカは、59人の人質を処刑した。
 公表された犠牲者の名簿には(姓名ともに提示されなかった)、ニコライ二世の退位について重要な役割りを果たしたN. V. Ruzskii 将軍、戦時中の輸送大臣だったS. V. Rukhov、6人の爵位付き貴族、があった。
 遺品は主として皇帝軍の将軍や大佐のもので、他の者のものはわずかだった。最後の少数者の中には、「大佐の娘」としてだけ特定されている女性がいた。(注96)
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 (04)  人質に関するより体系的な方法は、1919年夏に、採用された。それは、Denikin がモスクワに向かって前進して、収監者や人質たちが白軍の手に入るのを阻止すべく、彼らを避難させる必要と関係があった。
 Drugov によると、この時点で、ソヴィエト・ロシアの拘置所には、12,000人の人質がいた。
 Dzerzhinskii は、副官たちに、必要が生じたときに人質を射殺する優先順序を策定するよう指示した。
 Latsis とその仲間は、着実なKedrov 博士の助けを借りて、人質を7つの集団に分けた。分別する主要な規準は、個人的な富裕さだった。
 帝制時代の警察の元官僚が加えられた最も富裕な人質たちは、カテゴリー7と位置づけられた。この集団は、まず最初に処刑されるものとされた。
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 (05)  ナツィスによるユダヤ人の大量虐殺については、吐き気を催すほど詳細に、全ての側面が知られている。これと違って、1918-1920年の共産主義者によるホロコーストについては、一般的な経緯ですら隠されたままだ。
 処刑があることはしばしば公表されたけれども、決まって秘密裏に実行された。
 利用できる数少ない文献資料のうち、最良のもののいくつかはロシアにいたドイツの報道記者によっている。とくに、この種の情報の広がりを抑えようとしたドイツ外務省からの圧力に抵抗した、ベルリンの〈Lokalanzeiger〉で公刊されたものだ。
 以下の叙述は、ロンドンの〈The Times〉を経由した、この〈Lokalanzeiger〉によっている。
 「夜間に行なわれる処刑全体の詳細は、秘密のままだ。
 ソヴィエトの兵士の一部隊が、[Petrovskii]広場で、アーク灯に煌々と照らされながら、大監獄から送られてくる犠牲者を受け取るべくつねに待機している、と言われている。
 時間は無駄にされず、憐憫の情がかけられることもない。
 処刑の場所に身を置きたくはないが、処刑されるべく一列に並んで待つ者たちは、そこに引っ張られてくる。」
 このような実態は、ナツィの絶滅(extermination)収容所からの真正の文献資料を思い出させる。
 処刑執行者について、特派員はこう述べた。
 「毎晩のように処刑実施に加わった海兵たちについて、処刑する癖が身についたため、モルフィネ(morphia)がモルフィネ狂者に必要なように、彼らには処刑することが必要になった、と言われいる。
 彼らは業務に就くことを進んで志願し、何人かを射殺しなければ眠ることができない。」
 処刑が迫っていることや処刑が実行されたことは、家族には、知らされなかった。(脚注2)
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 (脚注2) The Times, 1918.09.28, p.5a. 大きな処刑場所として使われたPetrovskii 広場は、のちに、Dynamo 球場の所在地になった。そこはButyrki 監獄の近くで、その監獄には、モスクワ・チェカの囚人のほとんど—つねに約2,500人—が投獄されていた。別の処刑場所は、反対側、モスクワの東端のSemenovskaia Zastava にあった。
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 (06)  最も酷い残虐行為を行なったのは、いくつかの州のチェカだった。これらのチェカは中央機関の目が届かない遠くで活動し、外国の外交官や報道記者たちによって報告されるのを怖れなかった。
 そうしたチェカの機関員の一人、かつて法学生で帝制時代の官僚だったM. I. Belerosov は、1919年のKievチェカの活動について、詳細な叙述を残した(注97)。彼は、Denikin 将軍を尋問しもした。
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 ②へ、つづく。

2957/R. Pipes1990年著—第18章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始③。
 (15) 今やチェカの機関員は、好きなように体勢の敵を処理することができる、と告げられた。
 Peters の署名のあるチェカの回状第47号によると、「チェカは、その活動について、全く独立して、探索、逮捕、処刑を行なう。それらに関して説明する責任は、のちにソヴナルコムおよびソヴェト執行委員会(Ispolkom)に委ねられる」。(注86)
 このような力をもち、かつモスクワからの威嚇によって促進されて、ソヴィエト全土の州や地区のチェカは、今や活発に作業を行なった。
 共産党のプレスは、9月のあいだに、赤色テロルの進展についての州に関する大量の記事や処刑を報告する多数の欄を公にした。
 ときには処刑された者の人数だけが掲載され、ときには姓名と職業も掲載された。後者にはしばしば、「〈kr〉」あるいは「反革命」という特定が付いていた。
 チェカは、9月の末に、自分の組織の機関紙の〈週刊チェカ〉(〈Ezhenedel’nik VChK〉)を発刊した。情報と経験の交換を通じて、チェキストの間での仕事上の友愛関係の形成を助けるためだった。
 この機関紙は、ほとんどが州によって編集された処刑の概括を、定期的に掲載した。まるで、地域のフットボール戦の試合結果であるかのごとく。
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 (16) 共産党指導者たちがこの時期に流血を呼びかけた熱心さを読者に伝えるのは、困難だ。
 まるで隣人よりも「優しく」なく、「ブルジョア的」でないことを、競い合っていたかのごときだった。
 スターリン主義者とナツィのホロコースト(holocausts)は、はるかに大きい端正さ(decorum)をもって実行された。
 飢えや消耗で死ぬよう宣告された、スターリンにとっての「クラク」や政治的に望ましくない者は、「矯正収容所」に送られることになる。一方で、ヒトラーにとってのユダヤ人は、ガス室を経て、「撤去」(evacuate)または「再配置」(relocate)されることになる。
 これらと対照的に、初期のボルシェヴィキのテロルは、公然と(in the open)実行された。
 ここには躊躇はなく、婉曲的な言い回しもなかった。世界じゅうのGrand Guignol〔恐怖劇の人形〕は、—支配者であれ被支配者であれ—全ての者に責任感をもたせ、それによって体制の存続への共通の関心を発展させることで「教育的」目的に役立つ、という意味をもたされているのだから。
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 (17) 赤色テロルの開始の2週間後、共産党員の集会に向かって、ジノヴィエフは、こう述べた。
 「ソヴィエト・ロシアの住民1億人のうち、我々は9,000万人と何とか一緒に進まなければならない。残りの1,000万人については、言うべきことは何もない。彼らは、消滅(annihiate)されなければならない。」(注87)
 ソヴィエトの最高の地位をもった者の一人である者のこのような言葉は、1,000万人の人間に対して死刑の判決を下した。
 そして、赤軍の機関が大衆に大量虐殺(pogroms)をさせようとする、つぎの言葉もある。
 「哀れみもなく、寛容さもなく、我々は、数千の単位で敵を殺すだろう。彼らを数千のままでいさせよ。彼らを自分の血で溺れさせよ。
 レーニンとUritskii の血のために…。ブルジョアジーの血で溢れさせよ。—可能なかぎり、より大量の血を。」(注88)
 Karl Radek は、「白軍の運動には直接には参画していなかった」人々のような罪なき犠牲者に言及しつつ、こうした大量虐殺に拍手を送った。
 彼は、そのような人々への制裁を自明のこととして語った。
 「全てのソヴィエトの労働者にとって、反革命の工作員の手に落ちる労働者革命の指導者にとって、後者は10人の頭でもって支払う必要がある。」
 彼の唯一の不満は、民衆が十分には巻き込まれていないことだった。
 「ブルジョアジーの中から選ばれ、労働者、農民および赤軍の代表者でなるソヴェトにより発表された判決にもとづいて処刑される5人の人質は、この行為を是認する数千人の労働者が見ている中では、労働者大衆の参加のないチェカの決定のよる500人の処刑よりも、力強い大量テロルの行為だ。」(注89)
 当時の道徳的雰囲気はこのようなものだったので、チェカの収監者の一人によると、「参画するテロル」を呼びかけるRadek の文章は、監獄の被収容者、人質の多くから、人道的(humanitarian)な態度だとして歓迎された。(注90)
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 (18) のちに「革命の良心」として称賛される者たちを含めて、
ボルシェヴィキ党と政府の中の誰一人として、このような残忍な諸行為(atrocities)に、公的には反対しなかった。ましてや、抗議して辞職する者は存在しなかった。
 実際に、彼らは、支持していた。こうして、レーニンに対する狙撃の翌日の金曜日に、ボルシェヴィキ指導部の上層は、モスクワに対して、政府の政策を防衛するよう煽り立てた。
 大量殺戮に対する関心と嫌悪感の表明や実際にあったような人間の生命を救おうとする試みは、第二ランクのボルシェヴィキ党員、中でもM. S. Omninskii、D. B. Riazanov、E. M. Iaroslavskii によって行なわれた。但し、事態の推移にはほとんど影響を与えなかった。(脚注3)
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 (脚注3) 1918年11月、尊敬すべきアナキスト理論家のPeter Kropotkin が、テロルに抗議するためにレーニンと逢った。Lenin, Khronika, VI, p.195. 彼は、1920年に、人質を取るという「中世的」実務に反対する感情のこもった願いを書いた。G. Woodcock & I. Avakumovic, The Ancient Prince(London-New York, 1950), p.426-7.
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 (19) 初期段階での赤色テロルは、奇妙なことに、ボルシェヴィキが最初から反体制の暴力行為の元凶だと見なしてきた政党を攻撃しなかった。社会主義革命党(エスエル)だ。
 モスクワがエスエルに向かわなかったのは、エスエルが農民に支持されていたからか、白軍との戦闘で彼らの支援を必要としたからか、あるいはボルシェヴィキ指導者に対するテロルの波を却って煽るのを怖れたからか。いずれにせよ、ボルシェヴィキは、エスエルの人質たちを逮捕して射殺すると脅かしはしなかった。
 いわゆる赤色テロルのレーニンの時代に、ただ一人のエスエル党員だけが、モスクワで処刑された。(注91)
 チェカの犠牲になった者の大多数は、〈旧体制〉の者たち、ふつうの裕福な市民で、これらの多数はボルシェヴィキによる苛酷な弾圧を是認していた。
 収監されつつ、ボルシェヴィキによる抑圧を称賛した保守的な官僚や帝制時代の将校がいた、とする証拠資料がある。このような厳格な措置こそがロシアを混乱から抜け出させ、ロシアを再び大国にする、と考えていたのだ。(注92)
 すでに〔第12章で/試訳者〕記したように、君主制主義者のVladimir Purishkevich は、1918年春に、宥和的な調子で、共産党体制を、臨時政府よりもかなり「堅固だ」(firm)として称賛した。(注93)
 チェカはその犠牲者をこのような者たち—政治的な無害者および場合によっては支持者ですら—から選んだ、ということによって、次のことが確認される。すなわち、赤色テロルの目的は、特定の反対派を殲滅させるというよりも、一般的な威嚇の雰囲気を作り出すことであり、その目的のためにはテロルの犠牲者の考え方や活動ぶりは二次的に考慮されるにすぎなかった。
 ある意味では、テロルが非合理的であればあるほど、それだけ有効になった。テロルは、まさに合理的な検討を見当違いのものにし、人々を畜群の地位へと落とし込むからだ。
 Krylenko は、こう言った。—「有罪者だけを処刑してはならない。無実の者の処刑こそが、大衆にとっていっそう印象深いものにする。」(注94)
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 第七節、終わり。第八節へ。

2955/R. Pipes1990年著—第18章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始①。
 (01) ボルシェヴィキは、権力を掌握した日から、テロルを実行した。権力を増すにつれて、そして彼らの人気が落ちてくるにつれて、テロルは激しくなった。
 1917年11月のカデット党員の逮捕、それに続いたカデット指導者のKokoshkin とShingarev の罰せられなかった殺害は、テロル行為だった。立憲会議の閉鎖と立憲会議を支持した示威行進者の射殺がそうだったように。
 赤軍兵団と1918年春に解散してボルシェヴィキを権力外に置こうと票決したソヴェトを都市から都市へと乱暴に扱った赤衛隊は、テロル行為をやらかしていた。
 主として1918年2月22日のレーニンの布令により与えられた権限にもとづき州および地区のチェカが実行した処刑は、テロルを新しい段階の激烈さにまで押し上げた。当時にモスクワに住んでいた歴史家のS. Melgunov は、プレスの記事から、1918年前半に行なわれた882の処刑に関する証拠資料を一冊にまとめた。(注73)
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 (02) しかしながら、初期のボルシェヴィキによるテロルは、のちの内戦中の白軍のテロルにむしろ似た非体系的なもので、また、犠牲者の多くは「投機者」を含む通常の犯罪者だった。
 ボルシェヴィキの状勢が底をついていた1918年の夏にようやく、テロルは体系的で政治的な性格を帯び始めた。
 チェカは、7月6日の左翼エスエルに対する弾圧のあとで、初めての大量処刑を実行した。その犠牲者は、その前月に逮捕されていたSavinkov の秘密組織のメンバーや、左翼エスエルの蜂起への参加者だった。
 モスクワのチェカ役員会から左翼エスエルを追放することによって、政治警察に対する最後の制約が除去された。
 7月半ば、Iaroslavl の蜂起(uprising)に加わっていた多数の将校たちが、射殺された。
 チェカは、軍事的陰謀に怖れ慄いて、旧軍隊の将校たちを探索し始め、審判手続なしで、彼らを処刑した。
 Melgunov の記録によれば、主としてチェカが、1918年7月だけで、1,115の処刑を実行した。(注74)
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 (03) 皇帝家族とその縁戚者の殺害は、テロルのいっそうの拡大を示した。
 チェカの組織員は今や、収監者や容疑者を意のままに射殺する力をもつことを誇った。但し、その後のモスクワによる苦情から判断すると、州当局は必ずしもつねに彼らの力を利用したわけではなかった。
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 (04) レーニンは、このような政府によるテロルの激化にもかかわらず、なおも満足しなかった。
 彼は、「大衆」をこのようなテロルに巻き込もうと考えていた。おそらくは、政府機関の者と民衆の両者を巻き込む組織的殺戮(pogrom)こそがこの両者をお互いに近密にするのに役立つ、と思ったからだ。
 彼は、共産党員官僚と市民たちがより断固として行動すること、殺害に対する抑制感を排除すること、を強く求めつづけた。
 他にどのようにすれば、「階級戦争」は現実のものになるのか?
 1918年の2月に早くも、レーニンは、ソヴィエト体制は「穏やかすぎる」という不満を述べていた。彼が欲したのは「鉄の権力」だった。ところが実際には、「異様に柔軟で、どの段階ででも鉄ではなくゼリーのようだ」というわけだ。(注75)
 ペテログラードの党官僚が、労働者がVolodarskii 暗殺に対する報復として虐殺を行なうのを制止した。このことを1918年6月に聞いて、レーニンは烈火のごとく憤慨し、かれの副官にに怒りの手紙を送った。
 「ジノヴィエフ同志!
 中央委員会は、今日ようやく、ペテログラードでは〈労働者たち〉がVolodarskii の殺害に対して大量のテロルでもって反応しようとしたこと、きみ(きみ個人ではなくペテログラード中央委員会または地域委員会)はそれを却下したこと、を知った。
 私は、断固として抗議する!
 我々は体面を傷つけている。ソヴェトの決議によって大量テロルで脅かしても、それを行動に移すときでも、我々は、大衆の〈全体として〉正しい革命的な主導性を〈邪魔して〉いる。
 こんなことは、許-され-ない!。」(注76)
 レーニンは、2ヶ月後に、Nizhnii Novgorod の当局に対して、「〈ただちに〉大量テロルを始め、〈数百人の〉売春婦、泥酔した兵士、元将校、等々を〈処刑し、放逐する〉」ことを指示した。(注77)
 ここでの恐ろしくも不正確な三文字—「等々(etc.)」—は、体制の組織員に対して、犠牲者を自由に選択することを認めた。それは、体制がもつ不屈の「革命的意思」表現するものとしての、大量虐殺のための大量虐殺(carnage)であるべきだった。その「革命的意思」は、脚元で崩れつつあった。
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 (05) テロルは、政府による村落に対する戦争の宣言に関連して、地方へも広がった。
 労働者に「クラク」を殺すことを奨励するレーニンの言葉を、すでに引用した。
 自分たちの穀物を食糧派遣隊から守ろうとして1918年の夏と秋に殺された農民について、その大まかな数ですら知るのは、不可能だ。
 政府の側での犠牲者の数が数千人になるとすれば、もっと少なかったということはあり得ないだろう。
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 (06) レーニンの仲間たちは、革命の教条のために民衆を殺害させ、殺害に関与させることが高貴で高揚させるものであると、明確に残酷な行為の用語法を用いて、誘い込むことについて、お互いに競い合った。
 例えば、トロツキーは、ある場合に、赤軍へと徴用した元帝制将校の誰かが背信的な行動をしたとしても、「特別な場所以外に何も残らないだろう」と警告した。(注78)
 チェキストのLatsis は、「内戦の法」はソヴィエト体制に反抗して闘う「全ての負傷者を殺戮すること」だ、と宣告した。「生か死かの闘いだ。きみが殺さなければ、殺されるだろう。だから、殺されないように、殺せ。」(注79)
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 (07) フランス革命ででも、白軍の側でも、このような大量殺戮の奨励は、聞かれなかった。
 ボルシェヴィキは、意識的に、市民を残虐にすること、前線の兵士が敵の軍服を着た者を見るのと同じように、つまり人間ではなく抽象物を見るように、仲間の市民の誰かを見させること、を追求した。
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 (08) 銃弾がUrirskii とレーニンを襲ったときまでに、殺害志向の精神状態は、きわめて高度の激烈さを達成していた。
 上の二つのテロリストの行為—判明したように関連性はないが、当時は組織的陰謀の一部と見なされた—は、形式的な意味での赤色テロルを解き放った。
 犠牲者の多数は、主に社会的背景、裕福さ、および旧体制との関係を理由として、適当に手当たり次第に、選ばれた人質だった。
 ボルシェヴィキは、こうした大虐殺は体制に対する具体的な脅威を抑圧することのみならず、市民を脅迫し、市民を心理的な屈服状態に陥らせるためにも必要だ、と考えた。
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 (09) 赤色テロルが公式に始まったのは、内務人民委員と司法人民委員の署名付きで9月4日と5日に発せられた、二つの布令によってだった。
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 ②へ。

2949/R.Pipes1990年著—第18章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。 
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 第五節/レーニン暗殺未遂①。
 (01) ロシア皇帝ならば、いかに過激なテロリズムのもとでも、レーニンほどには生命の危険を怖れなかった。また、皇帝は、レーニンほどには十分に警護されなかった。
 皇帝たちは、ロシアや外国を旅行した。彼らは公的行事を楽しみ、姿を現わした。
 レーニンは、四六時中ラトヴィア人ライフル部隊に警護されて、クレムリンの煉瓦の壁の中に隠れていた。
 ときに市内へ行くとき、通常は事前の告知はなかった。
 1918年3月に首都がモスクワに移動したときと1924年の彼の死のあいだ、レーニンは、革命の勝利の舞台だったペテログラードをわずか二回しか再訪せず、国を見たり民衆と交流したりするためには一度も旅行しなかった。
 彼が最も遠くまで出かけたのは、モスクワの近くの村のGorki で静養するためにRolls-Royce で旅したときだった。静養したGorki の場所は、レーニンが使うために徴発されていた。
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 (02) トロツキーは、より大胆だった。司令官に話すためにしょっちゅう前線へ行き、暗殺の企てを空振りさせるために頻繁に予定と日程を変更した。
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 (03) 1918年9月以前は、レーニンやトロツキーの生命を狙う深刻な暗殺の企ては行なわれなかった。それ自体が秀れたテロリストの党であるエスエルが、ボルシェヴィキに対する積極的な抵抗に反対していたからだ。
 エスエルが皇帝やその官僚層に対抗して用いた手段に訴えようとしなかったことは、二つの考慮に由来していた。
 第一は、エスエル指導部が、時勢は自分たちの側にあり、じっと耐えて、ロシアに民主主義が復活するのを待つことが肝心だ、と考えたことだ。
 彼らの見方によれば、ボルシェヴィキの指導者を殺害することは確実に、反革命の勝利につながる。
 第二は、ボルシェヴィキによる報復と大虐殺を恐れたことだ。
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 (04) 全てのエスエル党員がこの考え方だったのではなかった。
 党中央委員会の是認を得てまたは得ないで、ボルシェヴィキに対抗して武器を取る気持ちの者もいた。
 1918年の夏、モスクワのチェカのまさに鼻先で、このようなグループの一つが形成され始めた。
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 (05) モスクワの様々な場所で、金曜日の午後か夕方に、労働者や党員に向けて演説を行なうのは、レーニンを含むボルシェヴィキの指導者たちの習慣だった。
 レーニンが登場することは、通常は事前には発表されなかった。
 8月30日、金曜日、レーニンは、二つの集会に出席する予定だった。一つは、Basmannyi 地区の穀物日用品販売所の建物で、もう一つは、市の南部にあるMichelson 工場で。
 その日の早くに、ペテログラード・チェカの主任、M. S. Uritskii が射殺された、という報せが届いた。
 暗殺者はユダヤ人の青年のL. A. Kannegisser で、穏健な人民社会党の党員だった。
 のちに、彼は友人の処刑に復讐するために自分で行動した、ということが明らかにされた。
 しかし、そのときは知らされず、おそらくはテロリストの組織的行動が進行している、という恐怖が巻き起こった。
 憂慮した家族がレーニンに出席を控えるよう迫ったが、彼はいつもと違って、危険に向き合うことを選んで、信頼する運転手のS. K. Gil が運転する車で市内へ向かった。
 彼はまず、穀物日用品販売所に現われ、そこからMichelson 工場へと進んだ。
 聴衆は半分はレーニンを期待していたけれども、彼が来るのが確実になったのは、自動車が中庭に入ってきたときだった。
 レーニンは、西側の「帝国主義者たち」を攻撃するいつもの用意された演説を行なった。
 彼は、「死ぬか勝利するかだ」という言葉で結んだ。
 Gil がのちにチェカに語ったところによると、レーニンが演説しているあいだ、白い服を着た女性がやって来て、レーニンは内部にいるのかと尋ねた。
 彼は、捉え難い曖昧な返事をした。
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 (06) レーニンが密になった群衆を抜けて出口に向かっていたとき、彼のすぐ後ろの誰かが滑って倒れて、群衆を塞いだ。
 レーニンは、数人を従えて、中庭に入った、
 まさに車に乗ろうとしたとき、一人の女性が接近して、パンが鉄道駅で没収されたと不満を言った。
 レーニンは、パンに関するその実務を止めるよう指示がなされている、と言った。
 動いている踏み板に足を乗せたとき、三発の射撃音が響きわたった。
 Gil は、振り向いた。
 彼は、数歩離れた場所から銃撃した人物がレーニンについて調べていた女性だと認識した。
 レーニンは、地上に倒れた。
 パニックに襲われた見物者たちは、四方に逃げ去った。
 Gil は、回転銃を取り出して、暗殺者を追って走った。だが、彼女を見失った。
 中庭に残っていた子どもたちは、彼女が逃げ去った方向指し示した。
 数人だけが、彼女を追っていた。
 彼女は走りつづけたが、突然に立ち止まり、追跡者に対して顔を向けた。
 逮捕され、Lubianka のチェカ本部に連れていかれた。
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 (07) レーニンは意識のない状態で車の中に運び込まれ、車は最高の速さでクレムリンへと急いだ。
 医師が、呼ばれた。
 そのときまで、レーニンは、ほとんど動くことができなかった。
 彼の心拍は微かになり、大量の血を流していた。
 レーニンは、死にかけているように見えた。
 医師の検査によって、二カ所の傷が明らかになった。一発の銃弾は比較的に無害で、腕の中にとどまっていた。もう一発は潜在的に致命的で、顎と首の連結部にあった。
 (のちに知られたが、第三の銃弾はレーニンが狙撃されたときに彼と会話していた女性に当たっていた。)
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 (08) つづく数時間、テロリストはチェカの機関員によって5つの尋問を受けていた。(脚注1)
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 (脚注1) これらの尋問の調書は、PR, No.6-7(1923年)p.282-5 に公表された。Peters によると、何を意味しているのであれ、主要な尋問者、現存する事件の記録は「きわめて不完全」だった。〈Izvestiia〉, No.194/1, 931(1923年8月30日), p.1.
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 彼女はほとんど口を開かなかった。
 名前は、Fannie Efimofvna Kaplan。生まれ名は、Feiga Roidman またはRoitblat。
 父親は、ウクライナで教師をしていた。
 少女のときにアナキストに加わっていたことが、のちに知られた。
 アナキストがKiev の知事を殺害するために彼女の部屋で組み立てていた爆弾が爆発したとき、16歳だった。
 野戦軍事法廷は彼女に死刑判決を下し、そのあと無期の重労働刑に変更した。この判決に、彼女はシベリアで服した。
 そこでSpiridonova その他の確信あるテロリストと遭遇し、彼らの影響を受けて、エスエルに加入した。
 1917年の早くに、政治的恩赦を受けて、中央ロシアに戻った。最初はウクライナ、あとでクリミアに住んだ。。それまでに、彼女の家族はアメリカ合衆国に亡命していた。
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 (09) 宣誓供述書によると、彼女は、1918年2月に、立憲会議の解散と接近しているブレスト=リトフスク条約の締結に報復するために、レーニンを暗殺することを決めた。
 だが、レーニンに対する反感は、もっと深い所にあった。彼女は、チェカにこう言った。
 「レーニンは裏切り者だと考えているので、射撃した。
 彼は、数十年で実現するはずの社会主義の考えを延期した。」
 さらに、こうも言った。どの政党にも帰属していないが、Samaraの立憲会議委員会に共鳴する、Chernov が好きで、ドイツに対抗するイギリスとフランスの同盟に賛成だ。
 彼女は、仲間の存在を一貫して否定し、誰から銃砲を与えられたかを言うのを拒んだ。(脚注2)
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 (脚注2) その銃、Browning 銃は、犯罪の場所から消失した。1918年9月1日に〈Izvestiia〉(No.188/452, p.3)は、この銃の存在場所に関する情報を求めるチェカの声明を掲載した。
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 ②へ。

2948/R.Pipes1990年著—第18章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第四節/チェカと司法人民委員部の対立②。
 (07) モスクワとペテログラードでは、左翼エスエルとの取決めにより、チェカは政治的犯罪者の処刑を行なうことができなかった。
 左翼エスエルがチェカの中で活動しているあいだは—つまり1918年7月6日までは—、上の両都市のいずれでも、正規の政治的処刑は起こらなかった。
 2月22日布令の最初の犠牲者は、「Eboli 皇子」という偽名でチェキストを装った通常の犯罪者だった(注54)。
 しかしながら、諸州では、チェカ機関はこのような制約に拘束されず、政治的犯罪を理由として市民を決まり事のように(routinely)処刑した。
 例えば、メンシェヴィキのGrig orii Aronson は、つぎのことを思い出す。1918年の春に、Vitebsk のチェカは、労働者全権代表者会議のポスターを配布した責任を追及して、2人の労働者を逮捕し、処刑した(脚注)
 どれだけ多くの者たちがこのような恣意的な処刑の犠牲になったかは、おそらく明らかにならないだろう。
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 (脚注) Grig orii Aronson, Na zare krasnogo terrora(Berlin, 1929), p.32. ゆえに、G. Leggett がLatis に従って、1918年7月6日まではチェカは犯罪者だけを処刑し、政治的反対者を免じていた、と語るのは、正しくない。Leggett, The Cheka: Lenin’s Political Police(Oxford, 1986), p.58.
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 (08) 帝制期の保安制度の憲兵隊を見習って、チェカは武装部隊を設置した。
 その統制下にある最初の軍事部隊は、小さなフィンランド人派遣団だった。
 他の部隊が追加されて、1918年4月に、チェカには6つの歩兵団、50の騎兵団、80の自転車団、60の機銃砲団、40の砲兵団、および3台の武装車があった(注55)。
 チェカが行なったおそらく唯一の民衆のための行動を1918年4月に実行したのは、これらの分隊だった。その行動とは、住居用の建物を占拠し、民間人にテロルを加えていたアナキストの蛮族である「黒衛団」(Black Guards)をモスクワで武装解除した、というものだった。
 基礎的なな軍事力の獲得は、政治警察が国家の内部の事実上の国家に膨張していく第一歩にすぎなかった。
 1918年6月のチェキストのある会合では、正規のチェカ軍団を設置する、あるいはチェカに鉄道および国境の安全を確保する権限を付与する、といったことが語られた(注56)。
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 (09) 設立後の最初の数ヶ月にチェカは種々の努力を行なったが、大きな部分は通常の商業活動と闘うことにまで及んだ。
 小麦粉袋の販売のような、最も日常的な小売取引業務が今や「投機」の中に分類され、チェカの任務には投機に対する闘いが含まれた。そのために、チェカの組織員は多くの時間を農民の「運び屋」を追跡することに費やした。鉄道の乗客の荷物を検査したり、闇市場を手入れしたりした。
 「経済犯罪」にかなり没頭したことで、1918年春には出現し始めていた、より危険な反政府陰謀に目を光らし続けることが妨げられた。
 この分野での1918年前半の唯一の成果は、Savinkov の組織のモスクワ本部を暴いたことだった。
 しかし、これは偶発的な出来事だった。そして、いずれにせよ、チェカは、Savinkov の祖国と自由を防衛する同盟に浸透することができなかった。これは結果として、7月にIarosravl 蜂起が起きてチェカを突然に驚かせることにつながった。
 さらに驚愕だったのは、左翼エスエルの反乱計画を知らなかったことだった。左翼エスエルの指導者たちがその意図をほとんど漏らさなかったのだとしても。
 事態をさらに悪くしたことに、左翼エスエルの陰謀はチェカ本部の内部で密かに企てられ、チェカの武装部隊に支持されていた。
 この大失態によって、Dzerzhinskii は7月8日に、その職を辞することを強いられた。Peters が暫定的に引き継いだ。
 8月22日、Dzerzhinskii は復職した。その日はまさに、もう一度屈辱的な苦難を味わう日だった。すなわち、レーニンの生命を狙うテロリストの企てがほとんど成功するのを阻止できなかったこと。
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 第四節、終わり。

2947/R.Pipes1990年著—第18章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第四節/チェカと司法人民委員部の対立①。
 (01) 元来の使命に制約されつつも、チェカは、政治的に望ましくない者を処断する無制限の自由を追求した。
 これによって、司法人民委員部と衝突することになる。
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 (02) 設立された最初から、チェカは、それ自体の権限にもとづき、「反革命」や「投機」を行なっている疑いのある者たちを逮捕した。
 犯罪者は、警護つきで、Smolnyi へと送られた。
 この手続に、司法人民委員のSteinberg は満足できなかった。この人物は、正義のタルムード的(Talmudic)観念に関する博士論文でドイツで学位を得たユダヤ人法律家だった。
 〔1917年〕12月15日、彼は、司法人民委員部の事前の承認がある場合を除き、逮捕された市民をSmolnyi か革命審判所のいずれかに送るのを禁止する決定を行なった。
 チェカに拘禁されている犯罪者は、釈放されるものとされた(注44)。
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 (03) レーニンによる後援があるとの自信があったようで、Dzerzhinskii は、この指令を無視した。
 12月19日、彼は、立憲会議防衛同盟の一員を逮捕した。
 Dzerzhinskii のこの行為を知るとすぐに、Steinberg はこれを取消し、犯罪者の釈放を命じた。
 この係争は、その日の夕方にあったソヴナルコムの会議の議題になった。
 内閣はDzerzhinskii の側に立ち、チェカの犯罪者を釈放したとしてSteinberg を非難した。
 しかし、Steinberg はこの敗北に怯むことなく、ソヴナルコムに対して司法人民委員部とチェカの関係を調整するよう求め、「司法人民委員部の権能について」と題する企画案を提出した(注46)。
 この文書は、司法人民委員部の事前の裁可なくしてチェカが政治的な逮捕を行なうことを禁止していた。
 レーニンと内閣の残りの閣僚たちは、Steinberg の提案を是認した。ボルシェヴィキは、この時期に左翼エスエルと争論するのを望まなかったからだ。
 採択された決議は、「顕著に政治的重要性をもつ」者の逮捕に関する全ての命令には司法人民委員部の副署が付いていること、を要求した。
 おそらくは、チェカはその固有の権限にもとづいて、通常の逮捕は行なうことはできた。
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 (04) しかし、この限定された譲歩ですら、ほとんど直ちに撤回された。
 二日のち、たぶんDzerdhinskii の不服に応えて、ソヴナルコムは全く異なる決議を採択した。
 その決議は、チェカが調査機関であることを確認しつつ、司法人民委員部その他の全ての機関に対して、重要な政治的人物を逮捕する権限を妨害しないよう言いつけた。
 チェカには、事後に司法人民委員部と内務人民委員部に知らせる必要だけがあった。
 レーニンは、すでに逮捕されている者は法廷に引き渡されるか釈放される、という条件を追加した(注47)。
 その翌日、チェカは、ペテログラードで事務職被用者のストライキを指揮していた中心部を逮捕した(注48)。
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 (05) 左翼エスエルは、1917年12月に締結されたボルシェヴィキとの協定の一部として、役員会(Collegium)として知られるチェカを運営する委員会に、代表者を出す権利をもった。
 チェカを100パーセント・ボルシェヴィキの機関とするというボルシェヴィキの意図からすると、この譲歩はそれに逆行していたが、レーニンは、Dzerzhinskii の反対を遮ってこれに同意した。
 ソヴナルコムは左翼エスエルをチェカの副長官に任命し、役員会にこの党の数人を加えた(49)。
 左翼エスエルはさらに、役員会の全員一致の同意がある場合を除いてチェカは死刑を執行しない、役員会は死刑判決に対する拒否権をもつ、という原則を受け入れさせた。
 1918年1月31日、ソヴナルコムは、発表されなかった決定で、チェカはもっぱら調査に関する任務をもつ、ということを確認した。
 「チェカは、その任務を、諜報活動全般、犯罪の抑圧と防止に集中させる。全ての調査につづく行為や事案の法廷への提示は、革命審判所の調査委員会に委ねられる。」(注50)
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 (06) チェカに対するこうした制限は、一ヶ月後に「社会主義祖国の危機!」という布令によって放棄された(注51)。
 この文書は、誰が反革命者や新しい国家に対するその他の敵を「その場で射殺する」かについて、述べていなかった。だが、この責任がチェカに譲り渡されたことに疑いはあり得なかった。
 チェカはその翌日に、「反革命者」はその場で容赦なく殺戮される、ということを民衆に警告したものだ、と確認した(注52)。
 その日、2月23日に、Dzerzhinskii は地方ソヴェトに対して電信で、反体制「陰謀」が広がっていることにかんがみ、ただちに自分たち自身のチェカを設置し、「反革命者」を逮捕し、勾引したどこででも処刑する、という途を進むよう助言した(注53)。
 上の布令はこのようにしてチェカを、公式にかつ永続的に、調査機関から完全に自立したテロルの機構へと変質させた。
 この変質は、レーニンの同意でもって、行なわれた。
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 ②へとつづく。

2946/R.Pipes1990年著—第18章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第三節/チェカの起源。
 (01) チェカは、実質的に秘密に生まれた。
 保安機構を設置する決定—基本的には帝制時代の警察とOkhrana の復活—は、1917年12月7日にソヴナルコム(人民委員会議)によって採択された。これは、事務職の被用者によるストライキを意味する「サボタージュ」(sabotage)との闘いに関するDzerzhinskii の報告にもとづいていた。(脚注1)
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 (脚注1) <Iz istorii Vserossiiskoi Chrezvychainoi Kommissii 1917-1921 gg.>(Moscow, 1958), p.78-p.79. この趣旨の決議を採択した農民大会の圧力を受けて、ボルシェヴィキは軍事革命委員会を解散した(Revoliutsiia, VI, p.144)。チェカは、これの後継組織だった。
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 ソヴナルコムの決定は、このとき、公表されなかった。
 最初に活字で発表されたのは1924年で、虚偽の部分のある不完全なものだった。1926年により完全だが虚偽を含むものが、そしてようやく1958年に完全で真正なものが、明らかにされた(注33)。
 1917年には、ボルシェヴィキの新聞に、ソヴナルコムは「反革命およびサボタージュと闘う非常委員会」を設置した、役所はペテログラードのGorokhovaia 2番地に位置するだろう、という短い、二文だけが掲載された(注34)。
 この建物は革命前は、市長の事務局および警察の地方支部として使われていた。
 チェカの権能も、責任も、何ら説明されていなかった。
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 (02) ボルシェヴィキ政府が創設時にチェカの役割や権限を公表しなかったことで、チェカには不吉な効用が生じた。チェカがもとうと意図していた権限を要求するのが可能になったからだ。
 今では知られているが、チェカの使命は、帝制時代の保安警察を範として、国家に対する犯罪を捜査し、阻止することだった。
 チェカは、司法的権力を有しないものとされた。ソヴナルコムは、チェカが政治的犯罪の容疑者を訴追と判決のために革命審判所に引き渡すことを想定していた。
 チェカを設立する秘密の決定の関係条項には、つぎのように書かれていた。
 「(非常)委員会の任務 (1) ロシア全国で各区画での反革命と怠業の全ての試みと行為を抑圧し、絶滅すること。(2) 全ての怠業者と反革命者を革命審判所の法廷に引き渡し、彼らと闘う手段を考え出すこと。(3) 委員会は[反革命と怠業を]阻止するために必要な範囲内で、前審での審問のみを行なう。」(注35)
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 (03) 最初に発表された決定(1924、1926)では、一つの重要な言葉が変わっていた。
 今は知られているように、決定の原稿では「抑圧する」—「presekat」—という言葉が「pre-seklat」の省略形として用いられていた。
 最も早い発表では、この言葉は「presledovat」に変更され、これは「訴追する」を意味した(注36)。
 若干の文字の交換や置き換えは、チェカに司法的権限を与える、という効果をもった。
 スターリンの死後にようやく明らかになったこの偽作によって、チェカとその後継組織(GPU、OGPU、NKVD)には、非公開で行われる略式の手続で、政治的収監者に対して、死刑を含む全ての範囲の制裁を課す判決を下すことが認められた。
 ソヴィエトの保安警察はこの権限を剥奪された。このことは、1956年だけで数百万の生命に関係した。
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 (04) 通常は官僚主義的儀礼に几帳面なボルシェヴィキは、秘密警察に関しては、重大な例外を設けた。
 のちには体制を救ったと信頼されたこの機構には、長いあいだ、法的な立場がなかった(注37)。
 1917-18年の法令集では無視されていて、形式的な一体性をもっていなかった。
 これは、意図的な政策方針だった。
 1918年の初めに、チェカは、自らが承認した場合を除いて、チェカに関する情報を発表するのを禁止した(注38)。
 この差止め命令は厳格に守られたのではなかったが、チェカに関するそれ自身や社会での役割に関する一定の像を与えた。
 この点で、ボルシェヴィキは、正規の勅令なくしてロシアの最初の秘密警察、Preobrazhenskii の役所、を設置したピョートル大帝の先例に従っていた。(脚注2)
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 (脚注2) この機構は内密に設けられたので、歴史家は今日まで、これの設立を根拠づける布令の所在を突き止める、または発せられただろう大まかな時期を決定する、ということができていない。Richard Pipes, Russia under the Old Regime(London, 1974), p.130.
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 (05) チェカは、少人数の事務職員と若干の軍事部隊で出発した。
 三月に政府とともにモスクワへ移った。そこでは、Bolshaia Lubianka 11番地にあるIakor 保険会社の広い区画を利用した。
 このとき、わずか120人の被用者がいた、とされた。但し、本当の数字は600人近くだった、と見積もる研究者もいる(注39)。
 チェキストのPeters は、つぎのことを認めた。チェカは人員を新しく補充するのが困難だった。なぜなら、ロシア人には帝制時代の警察の像がまだ鮮やかで、「感情的に」反応し、旧体制の迫害と新しいそれとの区別がつかず、彼らは加入するのを拒んだからだ(注40)(脚注2)
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 (脚注2) 当時の多くの者が報告しているが、この混乱は一部は、看守を含む多くのチェカ被用者は帝制下でも同じ仕事に従事した、ということによるのかもしれない。
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 その結果として、チェカ活動家のうち高い割合を占めたのは、非ロシア人だった。
 Dzerzhinskii はポーランド人で、彼に近い同僚の多くはラトヴィア人、アルメニア人、ユダヤ人だった。
 チェカが共産党員の官僚や重要な収監者を守るために用いた警護者は、もっぱらラトヴィア人ライフル部隊から選抜された。ラトヴィア人はより冷厳で、賄賂をより受けにくいと考えられていたからだ。
 レーニンは、外国人たちへのこの信頼を強く支持した。
 Steinberg は、ロシア人の民族的性格へのレーニンの「恐怖」を思い出す。
 レーニンは、ロシア人には断固さがない、と考えた。彼はこう言ったものだ。「ロシア人は穏やかだ。穏やかすぎる。革命的テロルという過酷な手段を行使することができない。」(注41)
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 (06) 外国人を雇用することには、つぎのような利点が追加的にあった。すなわち、血縁の紐帯によって潜在的な犠牲者たちと結びつくのがなさそうであること、ロシアの地域共同体からの非難によって躊躇することはないこと。
 例えば、Dzerzhinskii は、強いポーランド民族主義の雰囲気の中で育ち、若いときは、ポーランド人に加えた迫害を理由として「ロシア人(Muscovites)全員を絶滅」させたかった(脚注3)
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 (脚注3) PR, No.9(1926), p.55. のちにレーニンは、彼とジョージア人のスターリンを、ロシア排外的愛国主義だと批判した。
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 ラトヴィア人は、ロシア人を軽蔑していた。
 Bruce Lockhart は、1918年9月にチェカに拘禁されていた短いあいだに、ラトヴィア人警護者が「ロシア人はのろくて汚い」、戦闘のときはいつも「彼らに失望した」と言うのを聞いた(注42)。
 ロシアの民衆にテロルを加える外国人をレーニンが信頼していたことは、イワン雷帝の実務を想起させる。イワン雷帝(Ivan the Terrible)のテロル装置であるOprichnina には、多数の外国人が、とくにドイツ人が、いた。
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 (07) 社会主義国の政治警察につきまとう悪評を除去するために、ボルシェヴィキは、政治的であるチェカの主要な任務を、通常の犯罪と闘う任務と結びつけようとした。
 ソヴィエト・ロシアには殺人、略奪、強盗が蔓延しており、市民たちはこれらをなくそうと必死だった。
 体制側はまた、新しい政治警察をより受け入れやすいものにするために、チェカに対して山賊行為や「投機」を含む通常の犯罪を撲滅減する責任を割り当てた。
 1918年6月のメンシェヴィキの日刊紙のインタビュー記事で、Dzerzhinskii はチェカには二つの任務があると強調した。
 「(チェカの任務は)ソヴィエト当局の敵および新しい生活様式に対する敵と闘うことだ。
 このような敵は、我々の政治的対抗者および蛮族、窃盗、投機者その他の社会主義秩序の基盤を破壊する犯罪者の双方だ。」(注43)
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 第三節、終わり。

2945/R.Pipes1990年著—第18章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第二節/法の廃棄②。
 (07) まずメンシェヴィキとエスエル、ついで左翼エスエルへと、他政党をソヴィエトの組織から追放することによって、革命審判所は公共の裁判所の外装をわずかにまとったボルシェヴィキの審判所に変わった。
 1918年に、革命審判所の職員の90パーセントはボルシェヴィキの党員だった(注25)。
 革命審判所の判事に任命されるためには、読み書きできる能力以外の形式的な資格は必要でなかった。
 当時の統計によると、この審判所の判事の60パーセントは、中等教育以下の教育しか受けていなかった(注26)。
 しかしながら、Steinberg は、最も酷い犯罪者の何人かは教育を十分に受けていないプロレタリアではなく、審判所を個人的な復讐のために利用する、あるいは被告人の家族から賄賂を受け取ることを躊躇しない、そういう知識人だった、と書いている(注27)。
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 (08) ボルシェヴィキの支配のもとで生きる人々は、歴史的な先例のない状況にあった。
 通常の犯罪や国家に対する犯罪のために、法廷はあった。しかし、法廷の指針となる法がなかった。
 どこにも明確に定められていない犯罪に関する職業的資格のない判事たちによって、市民は判決を受けた。
 西側の司法を伝統的に指導してきた「法なくして犯罪はない」(nullum crime n sine lege)や「法なくして制裁はない」(nulla poe na sine lege)の原則は、役に立たない銃弾と同じように捨てられた。
 当時の人々には、こうした状況はきわめて異様に映った。
 ある観察者は1918年4月にこう書いた。これまでの5ヶ月間、略奪、強盗、殺人の罪では誰も判決を受けなかった。処刑する部隊とリンチする群衆はいた、と。
 彼は、昔の法廷は休みなく仕事をしなければならなかったのに、犯罪はどこに消えたのだろうと不思議がった(注28)。
 答えはもちろん、ロシアは法のない社会に変質した、ということだった。
 1918年4月に、作家のLeonid Andreevは、平均的市民にとってこれが何を意味するかをこう叙述した。
 「我々は異様な状況な中で生きている。カビやきのこを研究している生物学者はまだ理解できるかもしれないが、社会心理学者には受け入れられない。
 法はなく、権威もない。社会秩序全体が、無防備だ。…
 誰が我々を守るのか?
 なぜ、まだ生きているのか。強奪もされず、家から追い出されることもなく。
 かつてあった権威はなくなった。見知らぬ赤衛隊の一団が鉄道駅の近くを占拠し、射撃を練習し、…食糧と武器の探索を実行し、市への旅行の『許可証』を発行している。
 電話も、電報もない。
 誰が我々を守るのか?
 理性の何が残っているのか? 成算を誰も我々に教えてくれない。…
 やっと、若干の人間的な経験。単純な、無意識の習慣だ。
 道路の右側を歩くこと。出会った誰かに『こんにちは』と言うこと。その他人のではなく自分の帽子を少し持ち上げること。
 音楽は長らく止まったままだ。そして我々は、踊り子のように、脚を動かし、聞こえない法の旋律に向かって揺らす。」(注29)
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 (09) レーニンが失望したことに、革命審判所はテロルの道具にはならなかった。
 判事たちは気乗りしないで働き、穏やかな判決を下した。
 ある新聞は1918年4月に、判事たちは少しの新聞を閉刊させ、少しの「ブルジョア」に判決を下しただけだった、と記した(注30)。
 権限を与えられたあとでも、死刑判決を下す気があまりなかった。
 公式の赤色テロルが始まった1918年のあいだ、革命審判所は、4483人の被告人を審判し、その三分の一に重労働を、別の三分の一に罰金を課した。わずか14人が死刑判決を受けた(注31)。
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 (10) このような状態を、レーニンは意図していなかった。
 やがてほとんど全員がボルシェヴィキの党員になった判事たちは、極刑を下すよう迫られ、そうする広い裁量が認められた。
 審判所は1920年3月に、「前審段階での審問で証言が明確な場合は証人を召喚して尋問することを拒む権限、また、事案の諸事情が適切に明瞭になっていると決定した場合にはいつでも司法手続を中止する権限、を与えられた」。
 「審判所には、原告や被告が出頭して弁論する権利を行使するのを拒む権限があった」(注32)。
 こうした措置によって、ロシアの司法手続は、17世紀の実務へと後戻りした。
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 (11) しかし、このように流れが定められても、革命審判所はきわめて遅く鈍重だったので、「いかなる法にも制約されない」支配を追求するレーニンを満足させなかった。
 その結果として、レーニンはいっそう、チェカを信頼するようになった。彼はチェカに、きわめて不十分な手続ですら順守することなく、殺害する免許状を交付した。
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 第二節、終わり。

2942/R.Pipes1990年著—第18章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第一節/レーニンとテロル③。
 (16) レーニンのJacobin 的確信の根源にあったのは、ボルシェヴィキが権力を維持してさらに拡張させるべきだとすれば、「ブルジョアジー」と烙印される「邪悪な」思想や関心が具現化したものを物理的に廃絶しなければならない、ということだった。
 ボルシェヴィキは「ブルジョアジー」という言葉を大まかに二つの集団のために用いた。第一は、工業上の百万長者であれ余剰の農地をもつ農民であれ、出自や経済上の地位のおかげで「搾取者」として機能している者たち。第二は、経済的または社会的地位とは無関係に、ボルシェヴィキの政策に反対している者たち。
 このようにして、主観的におよび客観的に、その者がもつ見解によって、「ブルジョア」に分類することができる。
 レーニンが、内閣にいた頃についてのSteinberg の回想録に猛烈に怒った、という証言が存在している。
 レーニンは1918年2日21日に、「危機にある社会主義の祖国」と称される布令案を内閣に提出した(注12)。
 これの刺激になったのは、ブレスト=リトフスク条約に署名するというボルシェヴィキの失敗につづくドイツ軍のロシアへの前進だった。
 布令案の文書は、国と革命を防衛するために立ち上がることを人々に訴えていた。
 レーニンはその中に、「その場での」—すなわち裁判手続を経ないでの—処刑を認める条項を挿入した。処刑対象とされたのは、「敵の代理人、投機者、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイ」と烙印された、広くて曖昧な悪者の範疇に入る者たちだった。
 レーニンは、布令への民衆の支持を得るために、通常の犯罪者(「投機者、押し込み泥棒、ごろつき」)に対する略式の司法手続を含ませた。民衆が犯罪に苦しんでいたからだが、レーニンの本当の狙いは、「反革命煽動者」と呼ばれる彼の政治的対立者たちだった。
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 (17) 左翼エスエルは、このような措置を批判し、政治的対立者に対する死刑の導入に原理的に反対した。
 Steinberg は、こう書く。
 「私は、この残虐な脅迫は、宣言がもつ哀れみを殺してしまう、として反対した。
 レーニンは嘲弄しつつ、こう答えた。
 『逆に、ここにこそ本当の革命的哀れみがある。
 まさに最も乱暴な革命的テロルなくして我々は勝利できると、きみは本当に考えているのか?』/
 この点でレーニンと議論するのは困難だった。我々はすぐに、行き詰まった。
 我々は、きわめて広い範囲に及ぶテロルの潜在的可能性がある厳格な警察の措置について討論した。
 レーニンは、革命的正義という語を出して私の意見に対して怒った。
 私は憤慨してこう言った。
 『では、我々は何のために司法人民委員部を置いているのか?
  率直に、<社会的絶滅のための>人民委員部と呼ぼう。そして、司法人民委員部はなくしてしまえ!』
 レーニンの顔が突然に輝いて、彼はこう答えた。
 『よし。…それはまさしく行なうべきことだ。…しかし我々は、そう言うことができない』」。(脚注)
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 (脚注) Steinberg, In the Workshop, p.145. Steinberg は間違って、この布令の草案起草者をトロツキーだとしている。
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 (18) レーニンは長い間ずっと赤色テロルを主導し、しばしばより人間的な同僚たちを甘言を用いて誘導しなければならなかったけれども、自分の名前をテロルと切り離そうときわめて大きな努力をした。
 彼は全ての法令に自分の署名を付すことに執拗にこだわった。しかし、国家による暴力行使に関係する場合はいつでも、これを省略した。この場合に彼が好んだのは、(ボルシェヴィキ)中央委員会議長や内務人民委員その他の当局者が行なったとすることだった。そのような当局者の中には、偽って皇帝家族の虐殺の責任を取らせたUral 地方ソヴェトもあった。
 レーニンは、自分が煽動した非人間的な行為が自分の名前と歴史的に結びつけられることを、懸命に避けようとした。
 あるレーニンの伝記作家は、こう書く。
 「彼は、テロルやLubianka 〔チェカ本部が所在する建物/試訳者〕その他の地下室での殺害を行なった個人的行為が自分自身とは切り離されて抽象的にのみ語られるよう、気を配った。…
 レーニンは、自分はテロルから離れていると振る舞い続けたので、彼はテロルに積極的には関与していない、全ての決定はDzerzhinskii によって行なわれた、という伝説が生まれて、大きくなった。
 これは、あり得ない伝説だ。なぜなら、レーニンはその性格上、重要な問題に関する権限を委ねることができない人間だったからだ。」(注13)
 実際に、一般的な手続に関するものであれ重要な収監者の処刑に関することであれ、重要性をおびる全ての決定には、ボルシェヴィキの中央委員会(のちには政治局)の承認が必要だった。レーニンはその中央委員会の、永遠の事実上の議長だった(注14)。
 赤色テロルは、レーニンの子どもだった。父親であることを必死で否定しようとしたのだったとしても。
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 (19) この認知されていない子どもの保護者は、チェカの創設者であり監督者である、Dzerzhinskii だった。
 この人物は、革命勃発時にほとんど40歳になっていた。Vilno の近くで、愛国的なポーランドの地主階層の家庭で生まれた。
 その家庭の宗教的、民族主義的な継承物と決別し、リトアニア社会民主党に加入した。そして、職業的な革命組織家および煽動家になった。
 帝制時代の監獄で重労働をしながら、11年を過ごした。
 これは過酷な年月であり、彼の精神に拭い去ることのできない傷跡を残した。そしてそれは、癒すことのできない復讐への渇望とともに不屈の意思を形成した。
 彼は、考え得る最も残虐な行為を、愉しみではなく理想家の義務として、行なうことができた。
 レーニンの指示を、宗教的献身さをもって、無駄なくかつ素っ気なく、「ブルジョア」や「反革命者」を射撃部隊の前に送って、実行した。その際に、同じく愉しみのない強迫意識があったのだが、それは、数世紀前であれば異端者を火炙りの刑に処すことを命じたような意識状態だっただろう。
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 第一節、終わり。

2936/R.Pipes1990年著—第17章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)③。
 (13) 7月20日、Ural ソヴェトは発表の原稿を書き、モスクワに対して、公にすることの許可を求めた(注96)。
 発表原稿は、こうだった。
 「特報。Ural 労働者農民兵士代表ソヴェトの執行委員会と革命的幕僚の命令により、前の皇帝、専制君主は、その家族と一緒に、7月17日に処刑された。
 遺体は埋葬された。
 執行委員会義長、Beloborodov、Ekaterinburg にて。1918年7月20日午前10時。」(脚注)
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 (脚注) この文書のテキストは、むしろ疑わしい状況のもとで、西側で利用できるようになった。1956年春に、西ドイツの大衆紙の週刊<七日>の編集部に、自分をHans Meier と名乗る人物が、現われた。彼は、戦争捕虜として、1918年に皇帝家族処刑する決定にEkaterinburg で直接に関与した、この問題について記した文書を書いたが、東ドイツで生活している18年のあいだ隠してきた、と主張した。
 事件について彼が記したことは、詳細だがきわめて風変わりだった。主要な目的は、西側でもう一度生き延びていると流布し始めた物語である、そのAnastasia は家族と一緒に死んだ、ということに関する疑いを除去することにあったようだ。
 Meier の文書は、一部は真実で、一部は捏造だと見られる。最もあり得る説明は、彼はソヴィエトの秘密警察のために働いた、ということだ。彼の文書は、<七日>, No.27-35(1956年7月14日-8月25付)にある。
 Meier の「証拠資料」について、P. Paganutstsi, Vremia i my, No.92(1986)を見よ。著者は、ドイツの裁判所は自称Anastasia によって提起された訴訟に関連してMeier の文書を取り調べ、偽造だと判断した、と述べている。
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 モスクワは、これを発表するのを禁止した。ニコライの家族の死について言及していたからだった。
 この文書の唯一知られている複写では、「その家族と一緒に」とか「遺体は埋葬された」とかは、読みにくい署名をした誰かによって、抹消されていた。この人物は、「公表禁止」と走り書きしていた。
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 (14) Sverdlov は7月20日に、自分が原稿を書いた承認する発表文をEkaterinburg に電信で送り、モスクワのプレスで公にした(注97)。
 7月21日、Goloshchekin は、Ural 地方ソヴェトに、報せを伝えた。その報せについて知らなかったようだが、このソヴェトは一週間前に前皇帝を射殺する決定をした。この決定は今では、予定どおり実行されていた。
 Ekaterinburg の住民は、7月22日に配達された新聞でこれについて知った。翌日には<The Ural Worker>(Rabochii Urala)で改めて報じられた。
 この新聞は、つぎの見出しで伝えた。「白衛軍、前皇帝と家族の誘拐を企て。陰謀は暴露さる。Ural 地方ソヴェト、犯罪企図を予期し、全ロシア人の殺戮者を処刑。最初の警告だ。人民の敵、王君に手を差し伸べる以外に専制君主制を復活できず。」(注98)
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 (15) 7月22日、Ipatev 邸の警護者たちは退去した。Iurovskii は、全員で分けるよう8000ルーブルを渡し、前線へ動員されるだろうと告げた。
 その日、Ipatev は義理の妹から電報を受け取った。「居住者は出て行った」(注99)。
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 (16) 目撃証人たちは、民衆は—少なくともEkaterinburg の住民は—、前皇帝の処刑について知らされても何の感情も示さなかった、ということで一致している。
 死者を追悼して、モスクワの教会で若干の儀礼が行なわれた。だが、それ以外に反応はなかった。
 Lockhart は、「モスクワの民衆は、驚くべき無関心さでもって、報せを受け取った」と記した(注100)。
 Bothmer も、同様の印象をもった。「民衆は皇帝殺害を、冷淡な無関心さで受け入れた。上品で冷静な人々ですら、恐怖に慣れすぎていて、自分たちの心配と欲求に心を奪われすぎていて、特別なことと感じることができなかった。」(注101)
 前の首相のKokovtsov ですら、7月20日にペテログラードの路面電車に乗っているときに、肯定的な満足感を感知した。
 「哀れみや同情のわずかな痕跡すら、どこにも観察しなかった。
 報道は声を出して読まれた。にやにや笑い、冷笑、嘲笑とともに。あるいは、きわめて心なき論評とともに。
 きわめてうんざりする言葉も聞いた。「とっくになされるはずだった」。「やあ、ロマノフの兄貴、おまえの踊りは終わりだ」(注102)。
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 (17) 農民たちは、思いを胸にしまい込んだ。
 しかし、独特の論理で表現された、彼らの反応を一瞥することができる。ある老農夫が、1920年に某知識人に打ち明けた思いからだ。
 「今、地主の土地は皇帝のNicholas Alexandrovich によって我々に与えられた、と確実に知っている。
 これのために、大臣たち、ケレンスキー、レーニン、トロツキー、その他の者たちは、皇帝をまずシベリアに送り、そして殺した。子どもたちも同じ。
 その結果、我々には皇帝はおらず、彼らが永遠に民衆を支配することができた。
 彼らは我々に土地を与えようとはしなかった。だが、子どもたちは、彼らが前線からモスクワやペテログラードに戻ったときに、彼らを止めた。
 今は、彼ら大臣たちだ。彼らは我々に土地を与え、抑えつけなければならないからだ。
 しかし、我々を締め殺すことはできない。
 我々は強くて、持ちこたえるだろう。
 そして、いずれは、老いぼれ、息子たち、孫たちが、誰でもよい、我々は彼らボルシェヴィキの始末をつけるだろう。
 心配するな。
 我々の時代がやって来る。」(注103)
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 第14節/ニコライの処刑をモスクワが発表(2)。
 (01) つづく9年間、ソヴィエト政府は、頑なに公式のウソにしがみついた。Alexandra Fedorovna と彼女の子どもたちは安全に生きている、というウソだ。
 Chicherin は1922年に、ニコライの娘たちはアメリカ合衆国にいる、と主張した(注104)。
 このウソは、皇帝家族全員が一掃されたということを受け入れられない君主制主義者たちに擁護された。
 Solokov は、西側に着いたあと、君主制主義者たちに冷遇された。ニコライの母親、Dowager Marie 皇妃、Nikolai Nikolaevich 大公、こうした生存中の著名なロマノフ家の者たちは、Solokov と会うことすら拒否した(注105)。
 Solokov は無視され、貧困の中で、数年後に死んだ。
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 (02) ソヴィエト協力者のP. M. Bykov は、Ekaterinburg で1921年に出版したこの事件に関する初期の説明書で、皇帝家族に関する真実を語っていた。
 しかし、この本は、すみやかに流通から排除された(注106)。
 元来の版を維持しないものがパリで出版されたあとで、Bykov はようやく1926年に、Ekaterinburg の悲劇に関する公式の共産党版説明書を書くことを認められた。
 モスクワが主要なヨーロッパ言語に翻訳したこの書物は、ついに、Alexandra と子どもたちが前皇帝とともに死んだ、ということを認めた。
 Bykov はこう書く。
 「遺体が存在しないことについて、多くのことが書かれた。
 しかし、…死者の遺体は、焼却されたあとで、鉱床から遠く離れた場所へ持っていかれ、泥地の中に埋葬された。そこは、有志や調査員たちが掘り出さなかった地域にあった。
 遺体はそこに残っており、今までに自然に従って腐敗している。」(脚注1)
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 (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.126. 家族の死を初めて認めたのは、つぎだと言われている。P. Iurenev, Novye materialy o rasstrele Romanovykh. Krassnaia gazeta, 1925/12/28(Smirnoff, Autour, p.25).
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 (03)  Iurovskii は、Ekaterinburg からチェコに向かって逃亡したのち、やがてのちにモスクワへ移った。そこで、政府のために働いた。
 職務に対する報奨として、チェカの役員団の一人に任命されるという栄誉を受けた。
 1921年5月に、レーニンに温かく迎えられた(脚注2)
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 (脚注2) Leninsksia Gvardiia Urala(Sverdlovsk, 1967), p.509-514. 皇帝家族の運命に関心をもったあるイギリスの将校は、1919年にEkaterinburg の彼を訪問した。Francis McCullagh, Nineteenth Century and After, No.123(1920年9月), p.377-p.427. Iurovskii は、Ipatev 邸の指揮者だったあいだ日記をつけていた。その日記は、つぎの中にある短い断片的文章を除いて、未公刊のままだ。Riabov’s article in Rodina, No. 4(1989年4月), p.90-91.
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 彼がニコライを殺害した回転銃は、モスクワの革命博物館の特別の保管庫の中に置かれている。
 1938年の秋にクレムリン病院で、自然の死を遂げた(注107)。
 彼は、チェキストかつ「ジェルジンスキの片腕の同志」として、小さいボルシェヴィキの英雄で成るpantheon に、適切な位置を占めた。小説や伝記の対象人物でもあった。それらは彼を、「典型的」なチェキストで、「閉鎖的で厳格だが、柔らかい心をもつ」と叙述した(108)。
 Ekaterinburg の悲劇に関係するその他の主要人物は、Iurovskii ほどうまくは生きなかった。
 Beloborodov は最初は、経歴を早く昇った。1919年3月には、中央委員会と組織局の一員として受け入れられた。そののち、内務人民委員の地位を得た(1923年-1927年)。
 しかし、トロツキーとの友情関係によって破滅した。1936年に逮捕され、その二年後に射殺された。
 Goloshchekin も、スターリンの粛清の犠牲者になり、1941年に殺された。
 二人とも、のちに「名誉回復」した。
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 (04) Ipatev 邸は長い間、クラブの建物や美術館として役立ってきた。
 しかし、当局はその建物を見るためにEkaterinburg(Sverdlovsk に改称)に来る訪問者の数の多さに不安になった。訪問者の中には、見たところ宗教巡礼者もいた。
 1977年秋、当局は取り壊しを命じた。
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 13節・14節、終わり。

2930/R.Pipes1990年著—第17章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第10節/殺害(2)②。
 (07) 苛酷な作業だった。
 Iurovskii は各処刑者に一人ずつ犠牲者を割当てて、真っ直ぐに心臓を狙うこととしていた。
 一斉射撃が止まったとき、犠牲者のうち6人—Alexis、三人の少女、Demidova、Botkin—は、生きていた。
 Alexis は、血溜まりの中で呻いていた。Iurovskii は、頭に二発撃って、終わらせた。
 Demidova は、うち一つには金属の箱が中にある枕を使って、激しく防衛した。だが彼女も倒れ、銃剣で差し抜かれた。
 「少女たちの一人が突き刺されたとき、銃剣はコルセットを貫こうとしなかった」と、Iurovskii は不満ごちた。
 彼が思い出すように、「手続」の全体は、20分を要した。
 Medvedev も、光景を思い出す。「彼らは、身体のさまざまな部分に銃弾で負傷した。顔は血で覆われていて、衣服にも血が染み込んでいた。」(注78)
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 (08) トラックのエンジン音がかき消してはいても、射撃音は街路からも聞こえた。
 Solokov 委員会での目撃証言者の一人で、外部警護者たちが宿舎にしていた街路の向かいのPopos の家の居住者は、こう思い出した。
 「私は、記憶にある16日から17日の夜を十分に再現すことができる。その夜私は、一睡たりとも眠れなかったからだ。
 深夜の頃、私は中庭へ行き、物置に近づいた。
 私は不安を感じ、止まった。少しのちに、遠くの一斉射撃の音が聞こえた。
 およそ15発だった。続いて、別の射撃があった。3発か4発だった。それらは、ライフル銃の音ではなかった。
 2時を過ぎていた。
 射撃音は、Ipatev 邸からきていた。
 まるで地下室から聞こえてくるように、くぐもって聞こえた。
 そのあと私は、急いで自分の部屋に戻った。前皇帝が拘禁されている家の警護者が、上から私を見ることができるのではないか、と怖くなったからだ。
 戻ったとき、隣人が私に尋ねた。『聞いたか?』。
 私は答えた。『射撃音を聞いた』。
 『聞いた?』
 『うん、聞いた』と私は言った。そして、我々は沈黙した。」(注79)
 --------
 (09) 処刑者たちは、上階からシーツを持ってきた。そして、死体から貴重品を剥ぎ取って着服し、血が滴り落ちている遺体を、即席の担架で、低層階を通って、正門で待つトラックまで運んだ。
 彼らは、粗い軍用布のシーツを車の床に広げ、遺体をつぎつぎと上に重ね、同様のシーツでそれらを巻いた。
 Iurovskii は、死で威嚇して、盗んだ貴重品の返還を要求した。そして、金の時計、ダイヤの煙草入れ、その他の物を没収した。
 そして、トラックに乗って離れた。
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 (10) Iurovskii は、Medvedev に、清掃を監視する責任を課した。
 警護者たちは、柄付き雑巾、水バケツ、血痕を除去するための砂を持ってきた。
 彼らの一人は、作業の光景をつぎのように叙述した。
 「部屋は、火薬の霧のような何かで満たされており、火薬の臭いがした。…
 壁や床には、弾痕があった。一つの壁にはとくに多数の弾痕(銃弾そのものではなくそれによる穴)があった。…
 壁のどこにも銃剣の傷はなかった。
 壁や床の弾痕の周りには、血があった。壁には血が跳ねたものや染みがあり、床には小さな血溜まりがあった。
 弾痕のある部屋からIpatev 邸の中庭を通って横切る必要があった他の部屋の全てにも、血痕や血溜まりがあった。
 正門に続く中庭の石にも、同様の血の染みがあった。」(注80)
 翌日にIpatev 邸に入ったある警護者は、完全に乱雑した状態を見た。衣類、書籍、ikon が乱雑に散らばっていた。それは、隠された金や宝石類が隈なく探され、奪われた跡だった。
 雰囲気は陰鬱で、警護者たちは会話しなかった。
 チェカの一員たち(チェキスト, chekist)は低層階の自分たちの区画で残りの夜を過ごすのを拒み、上の階に移動していた。
 従前の居住者をただ一つ思い出させるものは、皇女のspaniel犬のJoy だった。この犬は、見逃されていた。彼は皇女の寝室のドアの外にいて、入れてくれるのを待っていた。
 警護者の一人はこう証言した。「ひそかに思ったことをよく憶えている。キミは、待っても無駄だよ」。
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 (11) 当分のあいだは、外部警護者はその職にとどまった。Ipatev 邸では何も変化していない、という印象を作り出すためだった。
 この欺瞞の目的は、偽りの逃亡の企てを演じることだった。この企ては、皇帝家族が殺されたと言われることになるだろう過程で彼らは「避難」しており、その間に行なわれた、ということになる。
 7月19日、ニコライとAlexandra の、私的文書を含む最も重要な持ち物が、列車に荷積みされ、Goloshchekin によってモスクワへと運ばれた(注81)。
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 第10節/殺害(2)、終わり。

2929/R.Pipes1990年著—第17章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第九節/殺害(1)。
 最近まで、1918年7月16-17日の夜にIpatev 邸で起きた血の事件については、ほとんど全部が、Solokov 委員会が集めた証拠資料にもとづいていた。
 ボルシェヴィキは7月25日に、Ekaterinburg をチェコ軍団に明け渡した。
 チェコ人とともにEkaterinburg に入ったロシア人は、急いでIpatev 邸へと向かった。そこには誰もおらず、乱雑なままだった。
 7月30日、皇帝家族の運命を決定するために調査が始まった。しかし、調査者たちが真剣な努力をしないままで、貴重な数ヶ月が経った。
 翌1919年1月、Kolchak 提督は、調査を指揮させるべくM. K. Diterikhs 将軍を任命した。だが、Diterikhs には必要な資質がなく、2月に、シベリアの法律家であるNicholas Solokov と交替させられた。
 その後2年間、Solokov は揺るぎない決意でもって、全ての目撃証人や全ての資料上の手がかりを追い求めた。
 1920年にロシアから逃亡することを余儀なくされたとき、彼は、調査の諸記録を携帯して持ち出した。
 この諸資料とそれらによって彼が書いた論文は、Ekaterinburg の悲劇に関する第一の証拠資料を提供している(脚注1)
 最近にIurovskii の回想録が出版された。これは、警護者たちの主任だったP. Medvedev や、Solokov が尋問した追加的な証人の宣誓供述書を、補足し、拡充している。
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 (脚注1) Solokov 委員会の調査記録の複写文書—タイプ打ちの7フォルダ—は、Harvard のHughton 図書館の預託物だ。これらは最初は、Solokov に同行した、ロンドンの<The Times>紙の特派員のRobert Wilton が所有していた。そのうち三つある原本の運命は、Ross, Gibel’, p.13-17 で論じられている。Ekaterinburg 事件の追加的な証拠資料は、Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi sem’i の中にある。
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 第10節/殺害(2)①。
 (01)  皇帝家族は、7月16日をふつうに過ごした。
 Alexandra の日記の最後の書き込みによると、それは彼らが床に就いた午後11時頃のものだが、彼らには、何か異様なことが起こりそうだとの予感が全くなかった。
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 (02) Iurovski は、一日じゅう忙しかった。
 遺体を焼却して埋める場所を選別したあと—Koptiaki 村の近傍の放棄された鉱山跡—、Ipatev 邸の正門そばの垣根の中にFiat 製トラックが駐車できるよう調整した。
 夕闇が迫る頃、Medvedev に対して、警護者が回転銃を取り外すよう求めた。
 Medvedev は、Nagan タイプの回転銃—ロシアの将校への標準的な配布物で、各々7発撃つことができた—を12丁集め、指揮者の部屋へ持っていった。
 午後6時、Iurovskii は、台所から料理人見習いのLeonid Sednev を呼び出し、家の外に出した。その際、この少年が叔父である侍従のIvan Sednev に会ことができるよう皇帝たちが心配している、と言った。
 Iurovskii は嘘をついていた。叔父のSednev は数週間前にチェカによって射殺されていたからだ。
 だが、そうであっても、これはこの時期での彼の唯一の人間的行為だった。この少年の生命は、救われた。
 午後10時頃、Medvedev に対して、警護者にロマノフはその夜に処刑される、射撃音を聞いても驚くな、と伝えるよう言った。
 深夜に着く予定のトラックが、一時間半遅れた。それで、処刑も遅れた。
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 (03) Iurovskii は午前1時半にBotkin 博士の目を醒させ、他の者を起こすよう求めた。
 市内で騒擾が発生している、皇帝家族の安全のために低層階に移動する必要がある、と説明した。
 この説明は、納得させるものであったに違いない。Ipatev 邸の居住者たちは、街路からの射撃音をしばしば聞いていたからだ。前の日にAlexandra は、夜間に一台の大砲や数丁の回転銃の発射音を聞いた、と記していた(脚注2)
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 (脚注2) いくつかの説明によると、皇帝家族はIpatev 邸から安全な場所へ移動させられる、と言われていた。しかし、この説明は、彼らは一緒に持っていっただろう物品が全くないまま部屋を離れたという事実と矛盾している。物品の中には、Alexandra が旅行中に決して離さなかったイコン(ikon)も含まれている。Doterikhs, Ubiistvo, I, p.25.
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 11人の囚人たちが洗面し、衣服を着るのには、30分かかった。
 午前2時頃、彼らは階段を降りた。
 Iurovskii が、先頭になって導いた。
 つぎに続いたのは、腕にAlexis を抱いたニコライだった。二人とも軍用服と帽子を着用していた。
 ついで、皇妃と娘たちが続いた。Anastasia はKing Charles spaniel 犬のJeremy と一緒だった。そのあとは、Botkin 博士。
 Demidova は、二個の枕を運んだ。その一つには、宝石箱が隠されていた(注76)。
 彼女の後ろは従者のTrup、料理人のKharitonov だった。
 皇帝家族は知らなかったが、10人の処刑部隊—そのうち6人はハンガリー人、残りはロシア人—が、隣の部屋にいた。
 Medvedev によると、家族は「危険を予期していないかのごとく、静かだと見えた」
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 (04) 皇帝家族らの行列は内部階段の最後で中庭に入り込み、左に曲がって低層階へと降りた。
 彼らは、家の反対の端へと連れていかれた。そこは以前は警護者たちが占めていた部屋で、5メートルの幅、6メートルの奥行きがあった。その部屋からは、全ての家具が除去されていた。
 窓が一つあった。半月の形をし、外壁の高いところにあり、格子の柵が付いていた。そして、開いたドアが一つだけあった。
 反対側に第二のドアがあって、収納空間につづいていたが、鍵がかかっていた。
 その部屋は、袋小路にあった。
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 (05) Alexandra は、なぜ椅子がないのか、と不思議に思った。
 Iurovskii は、いつも親切であるように、二個の椅子を持ち込むよう命令した。その一つにニコライがAlexis を座らせ、もう一つにAlexandra が座った。
 残りの者たちは、並ぶよう言われた。
 数分後、10人の武装部隊と一緒に、Iurovskii が再び部屋に入ってきた。
 つづく光景を、彼はこう叙述した。
 「一同が入ったとき、私はロマノフたちに、彼らの親戚がロシアに反抗する攻撃を続けていることを考慮して、Ural のソヴェトは彼らを射殺する決定を下した、と告げた。
 ニコライは、部隊に背を向けて、家族と向かい合った。
 そして、まるで気を取り直したように、身体を向き直して、「何?」、「何?」と尋ねた。
 私は急いで自分が言ったことを繰り返し、部隊に対して、準備するよう命じた。
 その一員たちは、射撃する者があらかじめ指定され、血が大量に溢れるのを避け、また迅速に死に至らしめるために、直接に心臓を狙うよう指示されていた。
 ニコライはもう何も言わなかった。
 彼はもう一度、家族に向かい合った。
 他の者たちは、取り乱して、抗議の叫びを発した。
 それが、数秒間だけ続いた。
 そして、射撃が始まり、二、三分つづいた。
 私はその場で、ニコライを殺した。」(注77)
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 (06) 皇妃Alexandra と彼女の娘の一人には辛うじて十字を切る時間があったことが、目撃証人によって知られている。彼女らも、すぐに死んだ。
 部隊の全員が回転銃の予備銃弾を空にしたほどの、激しい射撃だった。Iurovskii によると、銃弾は壁から床へとはね返り、霰のように部屋じゅうを跳んだ。
 少女たちは、絶叫した。銃弾を浴びて、Alexis は椅子から落ちた。
 Kharitonov 〔料理人〕は「座り込んで、死んだ」。
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 第10節②へとつづく。

2927/R.Pipes1990年著—第17章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第八節/モスクワによる殺害決定とチェカ②。
 (07) Iurovskii がIpatev 邸に責任をもったあと最初にしたのは、警護者による窃盗をやめさせることだった。
 窃盗は、安全確保の観点からして危険だった。窃盗をする警護者は、チェカの連絡網の外で、囚人たちへの、および彼らからの文書を運ぶよう、さらには彼らが逃亡するのを助けるようにすら、贈賄されることがあり得た。
 職務の最初の日に、彼は、皇帝家族が所有している貴重品を全て提出させた(彼は知らなかった、女性たちが下着の中に縫い込んだものを除く)。
 彼は目録を作成したあとで、宝石類を封印された箱の中に入れ、家族がそれを持ちつづけるのを許した。但し、毎日、点検した。
 Iurovskii はまた、家族の荷物が保管されている物置に鍵を付けた。
 つねに他人を良いように考える性格のニコライは、こうした措置は家族のために行なわれた、と信じた。
 「(Iurovskii と助手たちは)我々の家で起きた不愉快な出来事について説明した。彼らは我々の持ち物の紛失に言及した。…
 Avdeev には部下たちが物置のトランクからという窃盗するのを阻止できなかったという責任があることについて、彼に気の毒だった。…
 Iurovskii と助手たちは、どのような種類の者たちが我々を囲んで警護し、窃盗をしているかを、理解し始めた。」(脚注1)
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 (脚注1) Alexandra の日記によると、Iurovskii は7月6日に、窃盗された時計をニコライに返却した。
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 (08) Alexandra の日記によって、7月4日に内部警護者が新しい要員と交替したことが確認される。
 ニコライは、新しい彼らはラトビア人だと思った。また、警護者の班長も、Solokovの尋問に対して同じように答えた。
 しかし、当時は「ラトビア人」という言葉は、緩やかに親共産党の全ての外国人を指していた。
 Solokov は、Iurovskii が新しい要員の10人のうち5人とドイツ語で話した、ということを知った(注69)。
 彼らが戦争捕虜のハンガリー人だったことに、ほとんど疑いはない。ある者はMagyars (マジャール人)で、ある者はマジャール化したドイツ人だった(脚注2)
 彼らは、チェカ本部から移って来て、American ホテルに居住した(注70)。
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 (脚注2) Sokolov は、Ipatev 邸の壁にハンガリー語での言葉があるのに気づいた。「Verhas Andras 1918 VII/15e—örsegen」(Andras Verhas 1918年7月15日—警護者)。Houghton Archive, Harvard Uni., Sokolov File, Box 3.
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 (09) これは、処刑部隊だった。
 Iurovskii は、彼らに低層階を割り当てた。
 彼自身はIpatev 邸に引っ越さず、妻、母親、二人の子どもたちと一緒に住むのを選んだ。
 指揮官の部屋へは、彼の助手のGrigorii Petrovich Nikulin が入った。
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 (10) 7月7日、レーニンはEkaterinburg に指示して、Ural 地方ソヴェトの議長のBeloborodov にクレムリンと直接に電信連絡をすることを認めた。
 「事態の異常な重要性にかんがみて」そのような連絡方法をとることについての、Belonorodov の6月28日の要請に対して、レーニンが行なった反応だった(注71)。
 Ekaterinburg がチェコ軍団の手に落ちた7月25日まで、軍事問題およびロマノフ家の運命に関するその市とクレムリンとの間の全ての連絡は、この電信の方法で、しばしば暗号を用いて、行なわれた。
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 (11) Goloshchekin は、殺害のための保障を得て、7月12日にモスクワから帰った。
 その同じ日、彼はソヴェト執行委員会に対して、「ロマノフ家の処刑に関する中央当局の態度」に関して報告した。
 彼は、モスクワはもともとは前皇帝を審判にかけるつもりだったが、戦線の場所が近接していることを考慮して、これを実行することをやめた、そしてロマノフ家は処刑されるものとすると決めた、と言った(注72)。
 ソヴェト執行委員会は、モスクワの決定に対してゴム印を捺した(注73)。
 今では、その後と同じく、Ekaterinburg が処刑についての責任を引き受けた。皇帝家族がチェコ軍団の手に落ちるのを阻止するための非常措置だ、と見せかけることによって(脚注3)
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 (脚注3) Iurovskii は、1920年に書かれ、だがようやく1989年に公にされた回想録で、ロマノフ家の「絶滅」(extermination, istreblenie)に対する暗号の命令を7月16日にPerm から受けた、と語った。Perm は、モスクワがUral 地方の通信センターとして用いた州都だった。彼によると、最終的な処刑命令は、同じ日の午後5時にGoloshchekin によって署名された。Ogonek, No.21(1989), p.30.
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 (12) 翌日の7月15日、Iurovskii の姿が、Ekaterinburg の北にある森で見られた。
 彼は、遺体を処理する場所を探していた。
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 (13) 皇帝家族は、何も疑っていなかった。Iurovskii は厳格な手順を維持しており、細心な態度で、皇帝家族の信頼すら獲得していた。
 ニコライは、6月25日/7月8日にこう書いた。「我々の生活は、Iurovskii のもとで、いかなる点でも変わらなかった」。
 実際に、いくつかの点では、彼らの生活は良くなった。今では修道女から全ての物を提供されていたからだ。但し、その一部はAvdeev の警護者によって盗まれた。
 7月2日、作業員が唯一の空いた窓に鉄柵を取り付けた。これもまた、皇帝家族は異様だと感じなかった。Alexandra は、「いつものように、昇ることに疑問はなかったし、見張り番と接触することもそうだった」と記した。
 今ではチェカはニセの逃亡計画を放棄していたが、Iurovskii は、本当に逃亡する機会を与えなくなかった。
 7月14日日曜日、彼は、聖職者が来てミサの儀式を行なうのを許した。
 聖職者が去るとき、彼は、皇女の一人が「ありがとう」とつぶやくのを聞いた(注74)。
 7月15日、若干の医学的知識をもっていたIurovskii は、寝たきりのAlexis と、彼の健康について議論しながら、時間を過ごした。
 彼はその翌日に、Alexis に卵を持って来た。
 7月16日、二人の女性が清掃するためにやって来た。
 彼女たちはSokolov に、家族は健全な精神状態にあると思えた、皇女たちはベッドを整えるのを手伝った際に笑った、と語った。
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 (14) この頃ずっと、皇帝家族はまだ、救出者から連絡が来るのを望んでいた。
 ニコライの、6月30日/7月13日付の、日記への最後の記入はこうだった。
 「我々には、外部からの報せがない」。
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 第八節、終わり。

2926/R.Pipes1990年著—第17章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第八節/モスクワによる殺害決定とチェカ①。
 (01) 共産党当局のいつものやり方だったけれども、皇帝家族を処刑する責任をUral の地方ソヴェトに負わせるというのは、レーニンを免責するためとはいえ、確実に誤解を生じさせる。
 ロマノフ一族を「絶滅」するという最終決定が個人的にレーニンによって、おそらくは7月初めになされたことは、確定することができる。
 中央から明確に権限付与されることなく、地方のソヴェトがこのような重大な問題について行動することはないだろう、ということからも、上のことは相当程度確実に推測され得ただろう。
 Solokov は、委員会による調査結果を公表した1925年に、レーニンの責任について、確信をもった。
 しかし、トロツキーという権威ある者による、争う余地のない積極的な証拠資料が存在している。
 トロツキーは1935年に、ある亡命者用新聞で、皇帝家族の死に関する記事を読んだ。
 彼は記憶を呼び覚まし、日記にこう書いた。
 「私のその次のモスクワ行きは、Ekaterinburg がすでに落ちた後のことだった[すなわち7月25日以後]。
 Sverdlov と話した際に、ついでにこう尋ねた。『ああそうだ、皇帝はどこにいる?』
 彼は、『終わった』、『射殺された』と答えた。
 私は『家族はどこにいる?』、『家族も彼と一緒にか?』と、驚き気味で尋ねた。
 『全員だ。どうして?』とSverdlov は答えて、私の反応を待った。
 私は、返答しなかった。
 『では、誰が決定したのか?』と私は追及した。
 答えはこうだった。『我々が、ここで決定した。Ilich〔レーニン〕は、とくに現在の困難な状況のもとでは、白軍に生きている旗印として残してはならない、と考えた』。
 私はそれ以上質問せず、この件はもう打ち切りだと考えた。」(注64)
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 (02) Sverdlov の素っ気ない言葉は、公式の見解はつぎのようだったにもかかわらず、一瞬に問題を片付けた。すなわち、ニコライとその家族は、逃亡するかチェコ軍団に捕らわれるかを阻止するために、Ekaterinburg の当局の主導によって、処刑された。
 決定は、Ekaterinburg でではなく、モスクワで行なわれた。それは、ボルシェヴィキ体制が基盤を失っていると感じ、君主制の復活を怖れたときだった。—これは一年後にはすでに狂信的すぎて考慮に値しなくなった考えだったが (脚注1)
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 (脚注1) Kolchak 提督が立ち上げた調査委員会によって詳細が知られるようになると、Ekaterinburg の虐殺は、反ユダヤ主義文献が不快にも溢れるという事態を生んだ。それらは何人かのロシアの文筆家や歴史家によって書かれ、西側にも反響があった。
 こうした文献の多くは、Ekaterinburg の虐殺についてユダヤ人を非難し、それを世界的な「ユダヤの陰謀」の一部だと解釈した。
 ロンドンの<Times>特派員のイギリス人、Robert Wilton の記事で、および彼のロシアの友人すらの説明では、ユダヤ人恐怖症のDiterikhs 将軍は、精神病理上の異常を呈した。
 おそらく、当時に反ユダヤ主義の拡散や偽作の<シオンの賢人の議定書(Protokols of the Elders of Zion)>の普及に役立った、という以上のことは何もなかった。
 これらの著作者たちは悲劇についてユダヤ人を断固として非難するが、都合よく、死刑の宣告はロシア人のレーニンによって裁可されたことを忘れていた。
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 (03) 6月の末、Ural の最有力のボルシェヴィキでSverdlov の友人のGoloshchekin は、Ekaterinburg からモスクワに向かった。
 Bykov によれば、彼の任務は、ロマノフ一族の運命について、共産党中央委員会および全国ソヴェト中央執行委員会と討議することだった(注65)。
 Ekaterinburg のボルシェヴィキ、とくにGoloshchekin は、邪魔なロマノフ一族を排除したかった、ということは、十分に確定されている。このことから、彼は処刑へと進むことについてモスクワの承認が欲しかった、ということを合理的に導くことができる。
 レーニンは、この要請を是認した。
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 (04) 前皇帝を、そして可能であれば彼の直接の家族をも処刑するという決定は、7月の最初の数日のあいだに行なわれた、と見られる。7月2日夕方のソヴナルコム〔人民委員会議=ほぼ内閣〕の会議で、というのが最もありそうだ。
 この仮説を裏付ける二つの事実がある。
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 (05) ソヴナルコムの会合の議題の一つは、ロマノフ家の資産の国有化だった。
 この趣旨の布令の草案を策定する委員会が、設置された(注66)。
 この問題が緊急を要するとは、共産党支配のもとで生きているロマノフ一族は監獄の中にいるか国外追放中で彼らの財産はとっくに国家に奪われているか農民に配分されていたとすれば、危機的な状況のもとでは考えられなかっただろう。
 したがって、ニコライを処刑する決定と関連付けられて、議題設定や布令案作成が行なわれたと言えそうだ。
 ロマノフ一族の資産を公式に国有化する布令は、殺害の三日前、7月13日に施行された。だが、不思議にも一般的な実務から逸脱して、6日後まで公表されなかった。—この日は、殺害という事実の情報が公にされた日だ(注67)。
 この論脈を支持するもう一つの事実は、すぐのちにある。すなわち、7月4日に、皇帝家族を警護する責任は、Ekaterinburg からチェカへと移された。
 この7月4日に、Beloborodov は、クレムリンに電報を打った。
 「モスクワへ。Goloshchekin に代わって〔全国ソヴェト〕中央執行委員会議長のSverdlov あて。
 中央の指示に合致して事態を調整すべくSyromorotov が出発したところだ。…<中略>(脚注2)
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 (脚注2) Solokov, Ubiistvo, Photograh No.129, p.248-p.249の間。Avdeev の助手のA. M. Moshkin は、皇帝家族の持ち物を盗んだ責任で逮捕された。
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 (06) Ekaterinburg のチェカの長のIakov Mihailovich Iurovskii は、革命の相当前に通常の犯罪で有罪判決を受け、シベリアへの流刑となったユダヤ人の、孫だった。
 不十分な教育を受けたあと、Tomsk で時計職人の見習いになった。
 1905年革命のあいだに、ボルシェヴィキに加入した。
 のちにベルリンでしばらく過ごし、そこでルター主義へと改宗した。
 ロシアに帰ったとき、Ekaterinburg へと追放され、写真スタジオを開いた。そこはボルシェヴィキの秘密会合の場所として役立った、と言われている。
 戦争中は、準医療従事者の訓練を受けた。
 二月革命が勃発したときにやめて、Ekaterinburg へ戻った。そこで兵士たちの中に入って戦争反対を煽動した。
 1917年十月、Ural 地方ソヴェトは、彼を〔Ural 地方の〕「司法人民委員」に任命した。そのあと、彼はチェカの一員になった。
 Iurovskii は、どの文献を見ても、邪悪(sinister)な人物だった。憤懣と挫折感でいっぱいの、当時のボルシェヴィキに惹かれるようなタイプで、第一の応募先は、秘密警察だった。
 Solokov は、彼の妻と家族に対する尋問から、つぎのような人物像を描いた。すなわち、尊大で、意欲的な人間で、傲慢で、残虐な気質の持ち主(注68)。
 Alexandra 〔前皇妃〕は、すぐにこの人物を嫌いになり、「下品で不愉快だ」と形容した。
 チェカにとっては、彼を価値あるものにするいくつかの長所があった。すなわち、国有財産を扱う際の実直さ、慎みのない残虐さ、相当の心理的洞察力。
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 ②へとつづく。

2923/R.Pipes1990年著—第17章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第七節/チェカによる救出作戦の捏造①。
 (01) 6月17日、皇帝家族は、歓迎すべき報道を知った。Novotikhvinskii 修道会の修道女が、これまでは同様の要請は却下されてきたが、卵、牛乳、乳脂を皇帝家族に配達することが認められるだろう、という報せだ。
 のちに知られるに至ったように、これは皇帝家族の良い暮らしへの関心から生じたのではなく、チェカの策略の一部だった。
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 (02) 6月19日または20日、皇帝家族は修道女から乳脂の容器を受け取った。その蓋の中には、つぎの伝言が書かれた一片の紙が隠されていた。その伝言は注意深く書かれたか、または、フランス語に関する知識が十分にない者によって書き写されたもののようだった。
 「<中略>[フランス語文。脚注1に英語化されているので、参照。]
 死を覚悟している者、ロシア軍将校より。」(脚注1)
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 (脚注1) 友人たちはもう眠らず、長く待ったときが来るのを望むでしょう。
 チェコスロヴァキア人の反乱はかつてなく、ボルシェヴィキの深刻な脅威になっています。Samara、Chelia binsk および東部と西部のシベリアは、民族臨時政府の支配下にあります。スラヴの友人の軍隊は、Ekaterinburg の80キロ離れたところにおり、赤軍の兵士たちは有効には抵抗していません。
 外部の動きの全てに対して、注意深くしていて下さい。待って、希望をもち続けて下さい。
 しかし同時に、用心深くして下さるよう懇願します。なぜなら、ボルシェヴィキは<敗北するより前に、本当のかつ重大な危険を象徴している>からです。
 昼も夜も一日じゅう、準備しておいて下さい。
 <あなたの二つの部屋>の概略を、家具、ベッドの場所を、描いて下さい。
 あなたたち全員が床に就く時間を、明確に書いて下さい。
 あなたたちのうち一人は、これから毎晩2時と3時のあいだを眠ってはいけません。
 二、三の言葉で返答して下さい。外部にいるあなたの友人にとって有用な全ての情報を与えてくれるよう、懇願します。
 返答を、あなたにこの文書を伝えたのと同じ兵士に、<書いて、だがひと言も言わないで>、与えて下さい。
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 (03) 返答は、皺になったノート用紙と同じ紙でなされた。
 家族が床に就く時間に関する質問のそばに、「a 11 1/2」と書かれていた。
 「二つの部屋」との質問は、「三つの部屋」に訂正された。
 下部は、力強く、読みやすい文字で書かれていた。
  「<中略>[フランス語文。脚注2に英語化されているので、参照。](脚注2)
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 (脚注2) 「バルコニーへ上がる角から。5つの窓は通りに、2つの窓は広場に面している。窓は全て閉められ、封印され、白く塗られている。
 男の子はまだ病気でベッドにおり、全く歩くことができない。脳震盪が彼の痛みの原因だ。
 一週間前、無政府主義者を理由として、夜間に我々をモスクワへ移動させた、と考えられた。
 結果が<絶対に確実だ>ということがなければ、誰も何のリスクも負うはずはない。
 我々はほとんど常時、慎重に監視されている。」
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 (04) 自称救出者からのこの秘密の伝言文書には、いくつかの当惑させる特徴がある。
 まず、言葉遣いだ。 
 この文書は、君主制主義の将校ならばその国王に対して使わないだろう、そのような態様で書かれている。「Vorte Majeste」(陛下)ではなく「vous」(あなた)と国王に呼びかけるというのは、想定し難い。
 全体を見ても、この文書の語彙や様式は異様なであって、Ekaterinburg の悲劇の調査者ならば完全な捏造文書だと考えるほどのものだ(注57)。
 また、この手紙がどのようにして囚人(=皇帝家族)に届けられたか、という疑問がある。
 執筆者は兵士に、おそらく警護者に、言及している。
 しかし、Ipatev 邸警護団の指揮者だったAvdeev は、つぎのように書いている。秘密の手紙は、修道女から送られた乳脂の容器の蓋で発見された、そしてチェカのGoloshchekin に渡された、彼は囚人に送る前に複写した、と。
 Avdeev によると(注58)、チェカはこの問題を追及し、執筆者は「Magich」という名のセルビアの将校だと確定し、この人物を逮捕した。
 実際に、セルビアの将校やロシアへのセルビア軍事使節団の中に、Jarko Konstantinovich Micic(Michich)少佐がいた。この人物は、ニコライに会いたいと要請して、疑念を生じさせていた(注59)。
 Micic は、Alapaevsk に抑留されていたセルビアの皇女、Helen Petrovna を発見して救出するために、Ural 地方を旅行したことがある、ということも知られている。この皇女は、Ivan Konstantinovich 大公の妻だった。
 しかし、Micic の旅行に同行したSerge Smirnov の回想録から、二人はようやく7月4日にEkaterinburg に到着した、ということを確定することができる。これが意味するのは、Macic は6月19-20日に執筆することはできなかった、ということだ(注60)。
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 (05) 最初の文書の所持者として考えられるもう一人は、Alexis の医師のDerevenko 博士だった。
 しかし、ソヴィエト当局が1931年に明らかにしたDerevenko の宣誓供述書から、彼が〔Alexisを〕訪問したときには囚人たちとの意思疎通を禁止されていた、ということが知られる(注61)。
 さらに、Alexandra の日記から、彼がIpatev 邸を最後に訪問したのは6月21日だった、と確定している。このことから、彼が最初の秘密文書を運ぶのは、理論的に不可能だ。
 しかし、これですら、ありえそうでない。なぜなら、Derevenko の言うことを確認して、Alexandra は、彼は決して「Avdeev の随行なくして」姿を見せず、したがって「彼〔ニコライ〕に一言でも話しかけるのは不可能だった」と書いていたからだ。
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 (06) こうして見ると、文書はチェカによって捏造され、策略に関与した警護者によって囚人たちに送られた、と想定するのが合理的であるように思われる(脚注3)
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 (脚注3) つぎのことが最近に明らかになった。すなわち、自称君主制主義救出者からの最初およびその後の手紙は、Ural 地方のIspolkom〔ソヴェト執行委員会〕の委員で、Geneva 大学の卒業生のP. Voikov という人物が執筆し、別のボルシェヴィキ党員のきちんとした手書きで書き写された。E. Radzinskii, Ogonek, No.2(1990年)、p.27.
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 (07) Avdeev によると、ニコライは受け取ってから二、三日後に、最初の手紙に返答した(注62)。この日付は、6月21日と23日の間になる。
 返書は、もちろん途中で奪われ、チェカの謀略が動き始めた。
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 第七節②へとつづく。

2572/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節の②。
 ——
 第四節・クロンシュタット暴乱②。
 (10) トロツキーは、3月5日にペテログラードに着いた。
 彼は暴乱者たちに、直ちに降伏し、政府の処置に委ねよと命じた。
 他の選択は、軍事的報復だった。(注56)
 少し変更すれば、彼の最後通告は、帝制時代の総督が発したものになっていただろう。
 反乱者に対する呼びかけの一つは、抵抗を続けるならばキジのように撃ち殺されるだろう、と威嚇した。(注57)
 トロツキーは、ペテログラードに住んでいる暴乱者たちの妻や子どもたちを人質に取るよう命じた。(注58)
 彼は、ペテログラード・チェカの長がKronstadt 反乱は自然発生的なものだと執拗に主張するのに困って、解任させるようモスクワに求めた。(注59)
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 (11) 反抗的なKronstadt 暴乱者たちは、トロツキーの行動を知って、1905年の血の日曜日での治安部隊への命令を思い出した。その命令は、ペテルブルク知事だったDmitri Trepov によるとされるものだった。—「弾丸を惜しむな」。
 反乱者たちは誓った。「労働者の革命は、行動で汚れたソヴィエト・ロシアの国土から、卑劣な中傷者と攻撃者を一掃するだろう」。(注60)//
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 (12) Kronstadt は島で、冬以外の季節に力でもって奪取するのはきわめて困難だった。だが、3月では、周囲の水は、まだ固く凍りついていた。
 このことが、猛攻撃を容易にした。大砲で氷を破砕しておくべきとの将校たちの助言を反乱海兵たちが無視していたために、なおさらそうなった。
 3月7日、トロツキーは、攻撃開始を命じた。
 赤軍は、Tukhachevskii の指揮下にあった。
 Tukhachevskii は、常備軍は信頼を措けないことを考えて (注61)、その中に、内部的抵抗と闘うために形成された特殊選抜分団を散在させた。(*) //
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 (脚注*) 1919年に、モスクワは反革命と闘う特殊な目的で、元々は共産党の将校と「特殊任務部隊」(〈Chasti Osobogo Naznacheniia, ChON〉)として知られる徴募された将校とが配属された選抜(エリート)軍を創設した。これらは1921年に3万9673名の幹部兵と32万3373名の徴集兵を有した。G. F. Krivosheev, Grif sekretnosti sniat (1993), p.46n.
 追記すると、内部活動軍(〈Voiska Vnutrennei Sluzhby, VNUS〉)があり、これは、同様の目的で1920年に設立され、1920年遅くには36万人が所属した。同上、p.45n.
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 (13) ペテログラードの北西基地からの攻撃が、本土要塞からの大砲発射とともに、3月7日の朝に始まった。
 その夜、白いシーツで包まれた赤軍兵団が、氷上に踏み出し、海軍基地に向かって走った。
 彼らの背後には、チェカの機銃部隊が配置されていて、退却する兵士は全て射殺せよとの命令を受けていた。
 兵団は海軍基地からの機銃砲で切断され、攻撃は大敗走となった。
 一定数の赤軍兵士たちは、義務の遂行を拒んだ。
 およそ1000人の兵士が、反乱者側へと転じた。
 トロツキーは、命令に背いた5分の1の兵士たちの処刑を命じた。//
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 (14) 第一砲が火を噴いた後のその日、Kronstadt の臨時革命委員会は、綱領的な声明を発表した。「何のために闘っているのか」、それは「第三の革命」を呼びかけることだ。
 アナキスト精神が滲むその文書は、知識人がこれまで書いてきた全ての特性をもっていたが、しかし、進んで闘って死ぬという意思でもって防衛者の気持ちは証明される、と表現してもいた。
 「労働者階級は、十月革命を実行することで、その解放が実現することを望んだ。
 その結果は、人間のいっそうの奴隷化ですらあった。
 権力は、警察と憲兵を基礎にした君主政から「奪取者」—共産主義者—の手に渡った。その共産主義者は労働者たちに、自由ではなく、チェカの拷問室で死に果てるという日常的な不安を、帝制時代の憲兵による支配を何十倍も上回る恐怖を、与えた。//
 銃剣、弾丸、〈oprichniki〉(+) の、チェカからの乱暴な叫び声、これが、長い闘争の成果であり、ソヴィエト・ロシアの労働者が被ったものだ。
 共産党当局は、労働者国家という栄光ある表象—槌と鎌—を、実際には、銃剣と鉄柵に変え、新しい官僚制の平穏で呑気な生活を守るために、共産主義人民委員部と役人機構を生み出した。//
 しかし、これら全ての最基底にあり、最も犯罪的であるのは、共産主義者によって導入された道徳的奴隷制だ。すなわち、彼らは、労働人民の内面世界へも手を伸ばし、彼らが思考するとおりに思考することを強制している。//
 国家が動かす労働組合という手段によって、労働者は自分たちの機構に束縛され、その結果として、労働は愉楽ではなく新しい隷属の淵源になっている。
 自然発生的な蜂起で表現された農民たちの異議申立てに対して、また、生活条件がやむなくストライキに向かわせた労働者たちのそれに対して、彼らは、大量処刑と、ツァーリ時代の将軍たちのそれをはるかに超える血への渇望でもって対応した。//
 労働者のロシア、労働者解放の赤旗を最初に掲げたロシアは、共産党支配の犠牲者の血で完全に浸されている。 
 共産主義者は、労働者革命という偉大で輝かしい誓いとスローガンを全て、この血の海へと溺れさせた。//
 ロシア共産党がその言うような労働人民の守り手ではないこと、労働人民の利益は共産党には異質なものであること、いったん権力を握ればその唯一の恐れは権力を失うことであること、そしてそのゆえに、(その目的のための)全ての手段—誹謗、暴力、欺瞞、殺戮、反乱者の家族への復讐行為—が許容されること、これらはますます明らかになってきており、今や自明のことだ。//
 労働者の長い苦しみは、終わりに近づいた。//
 いたるところで、抑圧と強制に対する反乱の赤い炎が、国の空の上に光っている。…//
 現在の反乱は最後には、自由に選挙された、機能するソヴェトを獲得して、国家が動かす労働組合を労働者、農民、および労働知識人の自由な連合体に作り変える機会を、労働者に提供する。
 最終的には、共産党独裁という警棒は粉砕される。」(注62)//
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 (脚注+) 1560年代に、想定した敵に対するテロル活動(〈Oprichnina〉)で、イワン四世に雇われた男たち。
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 (15) Tukhachevskii は、つぎの週に増援部隊を集め、その間ずっと、守備兵に夜間の襲撃に耐えられるよう警戒を続けさけた。
 島の士気は、本土からの支援の欠如と食料供給の枯渇によって低下した。
 このことを赤軍司令部は、Kronstadt にいる、反乱者から活動の自由と電話の使用を認められていた共産党員から、知らされた。
 仲間を攻撃するのに気乗りしない、自分たちの意気を高めるために、共産主義者は、反乱は反革命の愚かな手段だとプロパガンダするいっそうの努力を開始した。//
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 (16) 5万人の赤軍兵団による最終攻撃は、3月16-17日の夜間に始まった。このときは、主要兵力は南から、Oranienbaum とPeterhof から出発した。
 防衛者たちの人数は1万2000〜1万4000で、そのうち1万人は海兵、残りは歩兵だった。
 攻撃者たちは、何とか這い上がって、気づかれる前に島に接近した。
 激烈な戦闘が続いた。その多くは白兵戦だった。
 3月18日の朝までに、島は共産主義者が支配した。
 数百人の捕虜が殺戮された。
 敗北した反乱者の何人かは、指導者も含めて、氷上を横断してフィンランドへと逃げて、生きながらえた。但し、そこで抑留された。
 生き残った捕虜たちをクリミアとコーカサスに割り当てるのが、チェカの意図だった。しかし、レーニンはDzerzhinskii に、彼らを「北方のどこかに」集中させる方が「便利だろう」と告げた。(注63)
 これが意味したのは、ほとんどの者が生きて帰還することのない、白海上の最も過酷な強制労働収容所に彼らを隔絶させる、ということだった。//
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 (17) Kronstadt 蜂起が壊滅したことは、一般民衆に良く受け入れられたのではなかった。
 そのことはトロツキーの声価を高めなかった。トロツキーは彼の軍事的、政治的勝利を詳しく語るのを好んだけれども。しかし、彼の回想録では、この悲劇的事件で自分が果たした役割には、何ら触れるところがない。//
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 後注
 (56) Berkman, Kronstadt, p.31-32; L. Trotskii, Kak vooruzhalas' revoliutsiia, III/1 (1924), p.202.
 (57) Petrogradskaia pravda, No. 48 (1921.3.4). N. Kronshtadskii miateyh (1931), p.188-9 に引用されている。
 (58) Berkman, Kronstadt, p.14-15, p.18, p.29.
 (59) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
 (60) Pravda o Kronshtadte, p.68.
 (61) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167: Cheka report.
 (62) Pravda o Kronshtadte, p.82-84.
 (63) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
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 第四節、終わり。

2243/R・パイプス・ロシア革命第13章第8節・第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原著、p.584-8。
 今回部分の最後のRichard Pipes によると、<共産主義テロル(Communist terror)>は1918年2月に始まる(<テロル>と「暴力(violence)」の違いも何となく理解できる)。レーニン時代からなのであり、間違ってもスターリン以降なのではない。
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 第13章・ブレスト=リトフスク。
 第8節・ドイツの堅い決意(Germans decide to be firm)。
 (1)トロツキーの異様な行動は、ドイツ関係者たちを全くの混乱に落とし込んだ。
 今では誰も、ロシアは講和交渉を注意を逸らす方策として利用していることを疑わなかった。
 しかし、この点はその通りだとしても、ドイツがどう反応すべきかは決して明瞭ではなかった。
 無意味な交渉を継続する?
 最後通告を受諾するよう、軍事行動によってボルシェヴィキに迫る?
 あるいは、ボルシェヴィキを権力から排除して、受け入れやすい体制に変える?
 (2)ドイツの外交官たちは、耐え忍んだ。
 キュールマンは、ドイツの労働者たちは東部前線で敵対行動を再開するのを理解できず、面倒なことが起きるだろう、と怖れた。
 彼はさらに、オーストリア=ハンガリーが戦争から離脱するのではないかと憂慮した。(44)//
 (3)しかし、1917-18年の政策を支配していた軍部は、別の考えだった。
 決定的な行動として西部に大量の戦力を注ぐことを3月半ばに予定していたので、東部前線が安全であるか兵団を西部前線に転換させ続けることはできないことが軍部には完全に確実でなければならなかった。
 軍部はまた、ロシアの食糧や原料を利用する必要があった。
 ロシアからの軍事諜報が示すところでは、ボルシェヴィキはドイツに対して最悪の意図をもつが、きわめて不安定な立場にあった。
 海軍付作戦長官でミルバッハ使節団とともにペトログラードに行ったW・v・カイザリンク(Walter von Kaiserlingk)は、警告する報告を返してきた。(45)
 間近でボルシェヴィキ体制を観察して、彼は、「権力をもつ狂気(insanity in power)」(<regierender Wahnsinn〔統治する狂気〕>)だと結論づけた。
 ユダヤ人に動かされているボルシェヴィキ体制は、ドイツのみならず文明世界全体に対する、致命的な脅威だ。
 彼は、ドイツをこのペスト菌から遮蔽するためには自国のロシアとの前線をさらに東へと移さなければならない、と力説した。
 カイザリンクはさらに、ドイツの企業上の利益でロシアを貫通することを提案した。
 その歴史上二度目のことだが(ノルマン人のことを示唆する)、ロシアは植民地化される用意がある。
 別の直接的報告書は、ボルシェヴィキ体制は弱体で軽蔑されていると述べていた。
 レーニンはきわめて不人気で、これまでのツァーリ以上に手厚く暗殺者から守られている、と言われていた。
 キュールマンが依拠した報告類によると、ボルシェヴィキを唯一支持しているのはラトヴィア人ライフル部隊だった。かりに彼らが金銭を使って追い払われれば、体制は崩壊するだろう。(46)
 このような証言者の説明は、皇帝に強い印象を与えた。そして、皇帝を将軍たちの見方へと接近させることとなった。//
 (4)ルーデンドルフは、ボルシェヴィキ体制の不安定さについて受け取った情報をドイツ軍の意気を削ごうとするボルシェヴィキの系統的な運動という証拠と結びつけた。そして、ヒンデンブルクの支持を得て、ブレストでの交渉は決裂されるべきだ、そのあとでドイツ軍はロシアに侵入してボルシェヴィキを打倒し、ペトログラードに受容し得る政府を樹立する、と強く主張した。(47)//
 (5)外務省と幕僚たちの意見は、2月13日のバート・ホンブルク(Bad Homburg)で皇帝が主宰した会合で、衝突した。(48)
 キュールマンは、宥和的方針を強調した。
 彼は、刀剣は「革命的熱狂(plague)の中心」を切り取ることはできない、と論じた。
 かりにドイツ軍がペトログラードを占拠したとしても、問題はなくならないだろう。フランス革命が雄弁に示すように、外国の干渉は民族主義と革命的熱情を燃え立たせるだけだ。
 最良の解決方策は、ドイツの助力のもとでロシア人が実行する反ボルシェヴィキのクーだろう。しかし、キュールマンがこのような政策を支持していても、彼は明確には語らなかった。
 外務大臣は、副首相のF・v・パイア(Friesrich von Payer)から支持された。この人物は、ドイツ国民の中に広がっている平和願望と軍事力によってボルシェヴィキを打倒することの不可能性について話していた。//
 (6)ヒンデンブルクは、同意しなかった。
 東方で決定的な行動をしなければ、西部戦線での戦闘が長期にわたって引き続くだろう。
 彼は、「ロシアを粉砕し、その政府を転覆させる」のを欲した。//
 (7)皇帝は、将軍たちの側についた。
 彼はこう言った。トロツキーは、講和するためにではなく、革命を促進するためにブレストに来ている。そして、連合諸国の支援を得て、そうしている。
 ロシアにいるイギリス公使は、ボルシェヴィキは敵だと告げられるべきだ。
 「イギリスはドイツと一緒に、ボルシェヴィキと戦うべきだ。
 ボルシェヴィキは野獣(tigrers)だ。何としてでも、絶滅しなければならない。」(49)
 ともあれ、ドイツは行動しなければならない。さもないと、イギリスとアメリカ(合衆国)がロシアを奪い取るだろう。
 ゆえに、ボルシェヴィキは「去らなければなない」。
 「ロシア人民は、世界中の全ユダヤ人-そう、フリーメイソンたち-と結びついているユダヤ人の報償品として引き渡されている」。(*)//
 (8)この会議は、停戦は2月17日に終了し、その後でドイツ軍はロシアに対する攻撃を再開する、と決定した。
 ドイツ軍の使命は、明確には示されなかった。
 ボルシェヴィキを打倒するという軍事作戦は、すみやかに放棄された。それは、しかしながら、文民の当局者が異議を唱えたからだった。//
 (9)この決定に従って、ブレストにいるドイツの幕僚たちはロシア人たちに、ドイツは東部前線での軍事行動を、2月17日正午にやり直す、と知らせた。
 ペトログラードのミルバッハ使節団は、帰国するよう命じられた。//
 (10)ドイツ人は虚勢を張っていたにもかかわらず、このときにドイツが何を欲していたかは明瞭ではない。つまり、ドイツの講和条件を受諾するようボルシェヴィキに強いるためか、それとも、ボルシェヴィキを権力から排除するためか。
 その当時ものちにも、ドイツは自分の最優先事項を決定することができなかった。最初はロシアの領土をより広く獲得することに関心があった。だが、それとも、ロシアにもっと普通の政権を樹立することに関心は移ったのか。
 結局は、領土への渇望が優ることとなった。//
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 (44) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.314-5.
 (45) VZ, XV, No.1(1967年1月), p.87-p.104.に再掲されている。
 (46) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.278.
 (47) 同上, p.289-p.290, p.318-9.
 (48) 議事録は、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.322-9. Baumgart, Ostpolitik, p.23-p.26.も見よ。
 (49) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.326-7. ドイツ語では、Baumgart, Ostpolitik, p.25.
 (*) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, ot peregovo v Brest-Litovske do podpisaniia Rapall'skogo degovora, I(Moscow, 1968), p.328.
 カイザリンクをペトログラードから派遣したことで喚起されたけれども、この反ユダヤの論及は、いわゆる<シオン賢者の議定書>からの影響が大きい。無邪気で単純な人々は世界大戦と共産主義に関する「説明」を求めていたが、この書物はすみやかに、そのような人々に人気のある読み物になることになる。
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 第9節・ソヴィエト・ロシアへの進軍。
 (1)ドイツによる軍事行動の切迫の通知は、2月17日の午後にペトログラードに届いた。
 直後に開かれた中央委員会の会合で、レーニンはあらためて、ブレストに戻って降伏することを申し立てた。しかし、5対6で、再び際どい敗北を喫した。(50)
 多数派は、ドイツが威嚇を実施するか否かを、待って見ていたかった。かりにドイツが本当にロシアへと侵入して来て、かつドイツとオーストリアで革命が勃発しないとしても、必然的な流れに従う時間はまだあるだろう。//
 (2)ドイツ人は、自分たちの言葉に忠実だった。
 2月17日、ドイツ兵団は前進して、抵抗に何ら遭うことなくドヴィンスク(Dvinsk)を占領した。
 将軍ホフマンは、この作戦行動を、つぎのように描写した。//
 「いまだ経験したことのない、漫画的(comic)な戦争だった。-ほとんどもっぱら、列車と自動車で行われた。
 機関銃をもつ若干の歩兵部隊と大砲一台が列車に乗り、次の鉄道駅へと進み、そこを掌握し、ボルシェヴィキを拘束し、別の部隊を乗せ、さらに進んだ。
 この手順は、いずれにしても、物珍しくて魅惑的だった。」(51)//
 (3)レーニンには、これが我慢の限界だった。
 全く予期していなかったわけではないが、ロシア軍団の抵抗のなさに、彼は唖然とした。
 戦闘する気がまるでなかったので、ロシアは敵の前進に身をさらしたままだった。
 レーニンは、ドイツ政府の決定に関する最も機密的な情報を持っていたと思われる。それはたぶん、ドイツの同調者からスイスまたはスウェーデンにいるボルシェヴィキ工作員を通じてもたらされたものだった。
 彼はこの情報にもとづいて、ドイツはペトログラードを、そしてモスクワもすら、奪取しようと考えている、と結論づけた。
 レーニンは、同僚たちの自己満足気分に激高した。
 彼が判断したように、ドイツがウクライナでのクーを再現するのを阻止できるものは何もなかった。-そのクーはつまり、レーニンを右翼の傀儡に代えて、革命を鎮圧することだ。//
 (4)しかし、2月18日に中央委員会が再度開催されたとき、レーニンはまたもや多数派となることができなかった。
 ドイツへの降伏を支持する彼の提案は6票を得たが、7人の反対票が、トロツキーとブハーリンが共同して提案した動議に投じられた。
 党指導部は、救いようもなく暗礁に乗り上げた。
 対立によって、党全体が分裂する危険があった。それは、党の強さの根源である紀律ある統一を破壊するものだった。//
 (5)この決定的に重大な時点で、トロツキーがレーニンの側に回った。立場を変え、自分の意見を主張しないで、レーニンの提案に賛成票を与えた。
 トロツキーの伝記作者によると、彼がこうした理由は、一つは、ドイツがロシアに侵入した場合にレーニンに約束していたことを履行すること、もう一つは、党に生じる大きな亀裂を回避すること、にあった。(52)
 あらためて票決が行われたとき、7名がレーニンの提案に賛成し、6名が反対した。(53)
 この辛うじての多数派獲得にもとづき、レーニンは、ロシア代表団はブレストに戻っているとドイツに知らせる電報文を起草した。<+>
 何人かの左翼エスエルが文案を示された。そして、彼ら左翼エスエルが同意したあと、無線通信でその内容が伝えられた。//
 (6)衝撃が訪れた。
 ドイツとオーストリアの両軍は、すみやかに攻撃を中止することをしないで、ロシア内部へと侵入し続けた。
 北部ではドイツ軍団はリヴォニア(Livonia)〔エストニア〕に入り、中央部では、依然として抵抗されることなく、ミンスクとプスコフへと進軍した。
 南部ではオーストリア軍とハンガリー軍が、こちらも前進し続けた。
 このような外面はあるけれども、ロシアがドイツの条件を受諾する意向を伝えた後で行われたこのような作戦行動は、一つの意味だけを持っていただろう。すなわち、ベルリンは、ロシアの首都を奪取して、ボルシェヴィキ政権を転覆させる決意だった。
 これはレーニンが想定していたことだった。I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、レーニンは2月18日に、ドイツが自分に権力を放棄するよう要求する場合にのみ自分は戦うつもりだ、と言った。(55)
 (7)数日が経ったが、前進するドイツ軍からの反応はまだなかった。
 この時点で、ボルシェヴィキ指導者たちにパニックが襲った。彼らは緊急措置を決定した。そのうちの一つは、とくに重大な意味をもっていた。
 2月21-22日、ドイツから一言の反応もまだないときに、レーニンは、「社会主義祖国が危機にある」と題する布令を執筆して、署名した。(56)
 その前文には、ドイツ軍の行動はドイツがロシアの社会主義政府を弾圧して君主制を再建しようとしていることを示す、と書かれていた。
 「社会主義祖国」を防衛するために、「非常の措置が必要だ」。
 このうちの二つは、永続的な意味をもつこととなった。
 第一に求めたのは、塹壕を掘るために「労働能力のあるブルジョア階級の全ての者から成る」強制労働大隊(battalions of forced labor)を設置すること。
 抵抗する者は、射殺されるものとされた。
 これは強制労働(forced labor)を実際に導入したもので、やがて数百万の市民に影響を与えることとなる。
 第二を定める条項は、こうだった。「敵の工作員、相場師、窃盗犯、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイは、その場で処刑されるものとする」。
 この条項は、取り返しのつかない刑罰〔=死刑〕を導入した。これは明確には定義されてもおらず、また、その当時までに全ての法令が失効していたために、制定法上の根拠もないものだった。(57)
 裁判については、何も語られなかった。また、極刑(capital punishment =死刑)になりそうな被追及者からの意見聴取の手続についてすら、同じだった。
 この布令は事実上、チェカに殺人許可証を付与した。チェカはすみやかに、これを全面的に活用した。
 これら二つは、共産主義テロルの時代が幕を開けたことを明確に示した。//
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 (50) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677.
 (51) K. F. Nowak, ed., Die Aufzeichnungen des General Majors Max Hoffmann, I(Berlin, 1929), p.187.
 (52) Deutscher, Prophet Armed, p.383, p.390.
 <+> 秋月注記-日本語版レーニン全集26巻541頁「ドイツ帝国政府あての無線電話の最初の草案」1918年18-19日夜執筆、<イズヴェスチヤ>同20日付発表。
 (53) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677. およびPSS, XXXV, p.486-7.
 (54) Dekrety, I, p.487-8.; Lenin, PSS, XXXV, p.339.
 (55) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.206-7.
 (56) Dekrety, I, p.490-1.
 =日本語版レーニン全集27巻16-17頁「社会主義の祖国は危険にさらされている!」。<プラウダ>2018年2月22日付。
 (57) 後述、第18章〔<赤色テロル>〕を見よ。
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 第8節・第9節、終わり。この章は16節まである。

2242/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第5節②。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第5節②。
 (7)〔1921年〕7月までに、労働農民同盟の組織は破壊され、その指導者たちは殺されるか、または逮捕された。
 チェカはその地帯に残っている社会革命党の中心地を一掃し、周辺の地域もまた駆除した。
 捕えられた数人の反乱者は、故郷に帰って残余グループの中に〔スパイとして〕浸透するよう説得された。
 10月までに、占拠-駆除の運動は徐々に収まった。
 しかしながら、アントーノフと彼の弟のドミトリ(Dmitrii)が最終的に捕獲されて殺戮されたのは、6月になる前のことだった。
 この二人はある村落に隠れ、女性二人の世話を受けていた。ところが、そのうちの一人が薬を求めて薬局に行ったとき、何気なく場所を漏らしてしまった。
 チェカの狙撃兵の一グループに包囲され、彼らは手榴弾をもって家屋から飛び出して来た。そのとき、銃弾に撃たれて倒れた。
 二人はタンボフの以前の修道院に埋葬された。そのときそこは、地方チェカの建物になっていた。
 二人の死体の写真は、彼らが解体していることの証拠として、新聞に公表された。(85)//
 (8)タンボフ反乱を絶滅させる際、共産党支配者は、自分たちのために本来は協力する必要がある住民たちを破壊する意欲を示した。
 殺戮の方法は、ある次元ではうまくいくものだった。
 軍隊とテロルによって、組織的な抵抗は終焉した。
 別の次元では、その方法は彼ら自身の教条に反するものだった。
 穀物生産地域と民衆の力を強制的徴発や軍事的征圧によって破壊することは、経済全体に対して、大厄災となる影響をもたらした。
 ソヴナルコムは、悪循環に陥っていた。
 ソヴナルコムはまず、国家の存在自体を守る軍隊を建設するために必要な、農業地域の人々や馬を穀物を使ってそれらを消耗させた。 
 この取り立てによって、その忠誠さと協力が体制の存続にとって軍隊が重要であるのと同じく重要な民衆の間には、激しい反応が巻き起こった。
 取り立てられた資源にもとづいて建設された軍隊は、次いで、騒擾を鎮圧するために用いられた。しかし、継続的に略奪行為にいそしむ多数の兵士を有する兵団がたんに存在すること自体が、その地域に対して甚大な物理的かつ経済的な損害を与えた。そして、その結果生じたのは、継続する社会不安といっそうの超過支出だつた。(86)//
 (9)1921年、ロシアの農村地帯は、軍事力と政策変化の連携によって静かになった。政策変更とは、強制食料徴発からの離脱のみならず、取引と商業に対する統制の緩和のことだった。後者は、かつては脆弱で危険の多い生活必需品供給手段だったもの、つまり闇市場(black market)を承認することとなつた。
 しかし、損害はすでに発生しており、1921年春の危機は深かった。
 飢饉が、決定的な要因だった。
 ソヴィエト・ロシアでの1918年と1919年の収穫高は、1913年の帝制時代で戦争前の最後の収穫高の4分の3だった。
 1920年の収穫高は、半分をわずかに上回る程度で、1921年のそれは半分もなかった。
 1920年の最初の干魃の兆候を見て、農民たちは、配送する仕事からの解放を求めた。
 アメリカ救済委員会(Ammerican Relief Administration, ARA)のハロルド・H・フイッシャーは、「春は暑くて、ほとんど雨が降らなかった。そして、その春の時期の土地は固くて乾いていた」と書いた。
 夏と秋もまた、渇いていた。しかし、1920年に用いられた圧力は、従来よりも寛容ではなかった。(88)
 以前の富裕なドイツ人定住者の入植地にはカテリーヌ大帝の御代以来のタンボフ地方の住民がいて、50万人を数えるになっていた。この者たちへも、攻撃の矛先が向かった。
 武装労働者たちが、テュラ(Tula)から急襲した。彼らの無慈悲さは、「鉄のほうき」という通称を生じさせた。
 ドイツ人牧師は、こう思い出す。「唸りを上げるライオンのように、彼らは居留地にやって来た。家屋、家畜小屋、地下貯蔵室、屋根裏は全て探索されて、彼らが包み込める物はみな、乾いたりんごや卵まで一つも残さず、文字通りに一掃して行った。」
 抵抗する者はみな、叩きのめされるか、笞打たれた。
 組織的抵抗をしようとの無駄な試みに対しては、数百人がまとめて射殺された。
 最後には、定住者の10パーセントは死に、多くの者が逃亡した。そして、その共同体は以前の規模の4分の1にまで解体した。(89)
 (10)1921年夏に最悪に達した干魃はヴォルガ低地、南ウクライナ、クリミアを覆い、ウラルまで進行し、そして災難が終わった。
 フィッシャーは、こう報告した。「夏の初め、膨大な数の農民たちにはもう食糧がなかった。そして農民たちは、ヴォルガの至る所で、東のウラルまで、穀物に麦藁、雑草、樹皮を混ぜ始めた。
 食糧がなく自分たちの食べ物について見極めをつけた農民たちは、パニックを起こして、焦げ付いた土地から逃亡する、膨れ上がっている多数者の中に入り込んだ。」(90)
 飢饉は、総人口5710万の36地方の190地区を襲った。(91)
 クリミアとカザンを先に支配していたトルコ語を話すムスリムは、とくに厳しい被害に遭い、ある地域では人口の半分を失った。
 カザン自体は、絶望的になっている避難民で溢れた。
 水道供給と下水道の施設は壊れており、人間のぼろ屑と死体とが、街路に積み重ねられていた。
 遺棄された子どもたちが市内をさまよい歩き、病気が蔓延した。犯罪も、売春も行われた。(92)
 (11)アメリカや他の外国の救済組織の助けがあったために、飢饉による総被害者数は、それがなかったよりもまだ少なかった。
 飢餓や病気による飢饉関連死者数は、ソヴィエトと訪問中の外国の救済執務者によって種々に計算されている。
 見積もりは、150万人から1000万人にまで及ぶ。
 ソヴィエトの1922年の公式の数字は、500万人だった。(93)
 飢饉の規模はまた、死者率という観点からも叙述することができる。
 1913年の通常年と比較して、ペトログラード、モスクワおよびヴォルガのサラトフ市の1919年の死亡率は、2倍から3倍、高かった。
 1919年についての欧州ロシア全体の死亡率は1000分の39、ペトログラードとサハロフで約1000分の70だった。
 飢饉の地域全体での死亡率は、1920年が1000分の50-60、1921年が1000分の80、だった。(94)//
 (12)飢饉はソヴィエト体制の政策決定によってのみ悪化したのではなく、反応がきわめて政治的だったことにもよる。
 アメリカ救済委員会(ARA)はのちの大統領のH・フーヴァー(Herbert Hoover)の指揮のもとで1919年に設立され、戦後ヨーロッパの空腹の子どもたちに食料を提供した。
 ソヴィエトの場合、ARA は、食料は必要に応じて、社会主義的な階級範疇とは無関係に配分されるべきだ、と主張した。
 1921年に妥協が成立して、ヨーロッパに基盤を置く組織を含む外国の救済作業者は現地へと旅行することが許され、一方でソヴィエト当局が地理的な配分の権限をもつ、ということとなった。
 この協定が締結される直前に、ソヴィエトは自らの飢餓救済委員会(Committee for Aid to the Starving, Komitet pomoshchi golodaiushchim)を設立した。これはM・ゴールキを含む43人の著名人で構成されていたが、書類に署名がなされるやただちに、ゴールキを除く全員が逮捕された。(95)
 (13)外国による救済が、全体の姿を変えることはなかった。
 農民たちは結局のところ、軍隊の力によってのみならず、飢饉の絶望によって征圧された。(96)
 1917年8月に引き合いに出された、工業主義者のP・リャブシンスキ(Pavel Riabushinskii)の言葉である「飢えた骨ばった手」は、騒擾を抑圧するための究極的な武器だった。
 1921年飢饉は、ソヴィエト体制が自分たちの民衆との間にもつ人肉喰い主義的(cannibalistic)関係の初期の例だった。これは、スターリン時代に増大するという代償を払うこととなる。
 人口統計上および人的被害という観点から見てソヴィエト社会がどの程度大きい損失を被ったかは、顕著なものがある。その多くは自己による被害だが、一方ではイデオロギー的傾倒という強い気風も生み出した。
 内戦期に実践された包括的な対破壊行動は、スターリン時代の欺瞞的な反破壊活動へと成長した。そのときじつに、「民衆は、階級敵となった」。//
 (14)たがしかし、専門的で創造的な知識人階層の多くは、彼らをとり囲む恐怖があったにもかかわらず、新しい体制に賭けた。
 ある者たちは、とどまることを許されなかった。
 ソヴィエトの意図に批判的な200人以上の知識人たちは、あらかじめ1922年に国から排除された。その多数がペトログラードから乗るドイツ船舶は、「哲学者船」として知られるようになった。(97)
 未来主義者がこぞって乗り込む近代の船ではなく、失われた価値の航行船だった。
 多数の職業人と知識人が-一般庶民はもちろんのこと-、自分の意思で国外に脱出した。
 他の者たちは、離れたくなかったか、または何とかそうすることができなかった。
 とどまった者たちの中には、敵対的なまたは愛憎相半ばする感情の者もいた。
 E・ザミアチン(Evgenii Zamiatin)は、自分の原理的考え方と皮肉精神を維持した。スターリンは1931年に、国外に去るのを許した。
 マヤコフスキ(Mayakovsky)は、未来への偉大な跳躍のために金切り声をあげたが、絶望して、自殺した。
 にもかかわらず、無数の芸術家や文筆家たちが自分たちの才能を用いる機会を見つけ、ある者はソヴィエトの実験は創造的刺激を与えると感じた。
 自分たち自身の信条から芸術家や文筆家たちが追求した文化に関する原理をめぐって、イデオロギー上の戦いが行われた。
 他の者たちにとっては、ソヴィエトの実験とは、美学上および精神上の死刑判決だつた。
 多くの者が死に、あるいは殺戮された。それは、内戦が終焉して15年後に始まった狂乱の中で起きた。
 1930年代の犠牲者たちのある程度は、初期の抑圧に模範的な情熱を示しつつ協力していた者たちだった。//
 (15)期待に充ちた大きな昂揚感の中で1917年に始まったものの結末にもかかわらず、何か新しい展望、市民が-権利と権力をもつ責任とをもつ-市民であるような政治システムへの展望は、古い帝国の以前の臣民の多数の想像力を掴んだままだった。
 この夢は、1980代に復活したように見えた。そして、1991年にレーニンの国家主義的(statist)野望がその疲れ切ったイデオロギーの旅を終えた後では、新しい状況のもとで、少なからぬユーラシアと中東の諸社会が同様の希望を抱いた。
 しかし、より近年の世界は、我々にこう思い起こさせながら進展しているように見える。すなわち、民主主義の希望と民主主義の諸制度は、つねに何と脆弱(fragile)であることか。//
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 第5節②、終わり。第6部第2章(p.606-p.624)も終わり。あとに続くのは、<結語>(Conclusion)のみ(原書、p.625-p.632)。

2223/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第2節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。       **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。        **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。         **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第2節。
 (1)さて、クロンシュタットでは、装甲戦艦の<Sevastopol>と<Petropavlovsk>(主要戦艦、系譜上の戦艦)が、不安な状態にあった。
 乗組兵たちは1918年にすでに、ボルシェヴィキの政策を支持しないことを主張していた。その際、ブレスト=リトフスク条約に対する社会革命党の批判の仕方を採用し、政治委員が自分たちが選んだ委員会に取って代わったことに怒っていた。
 彼らは、自由なソヴェト選挙を呼びかけた。
 1920年12月、怒りの雰囲気が満ち、脱走兵が増えた。
 海兵たちは、劣悪な条件について不満を言うためにモスクワに代表者団を派遣した。
 代表者たちは、逮捕された。(19) 
 1921年1月、不満がさらに増した。
 <Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、最近に行われたペトログラードからクロンシュタットへの移転に憤慨していた。また、それに続いた、上陸許可の延期を含むより厳格な紀律の導入に対しても。
 もっと根本的に彼らが憤慨していたのは、不平等な配給制を含む、特権に関する新しい階層制だった。
 農村地帯からの報せも、不満を増した。
 馬も、牛も、最後の一頭まで、家族や隣人から略奪されていた。(20)
 (2)ペトログラードでの操業停止を聞いて、<Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、調査のための代表団を送った。
 3月1日、海兵たちは、政治方針を定式化した。
 それは、一連の政治的要求から始まる。
 まず、秘密投票による、かつ予備選挙運動を行う権利を伴う、ソヴェトの再選挙を呼びかけた。現在のソヴェトは「労働者と農民の意思を表現していない」からだ。
 政治方針はまた、言論、プレス、および集会の自由を要求した。-だが、「労働者と農民、アナキスト、および左翼社会主義政党」によるものだけの。
 単一の政党がプロパガンダを独占すべきではない、とも強く主張した。
 「社会主義諸党の全ての政治犯たち、および全ての労働者と農民、そして労働者と農民の運動に関係して逮捕された赤衛軍兵士と海兵たち」の釈放を要求した。また、収監や強制収容所に送る事例の見直しも。
 共産党による政治的統制と武装護衛兵団の除去も、要求した。
 労働者を雇用していないかぎりは、農民たちは土地と家畜に対する権利をもつ、とも主張した。(21)
 (3)クロンシュタット・ソヴェトに召喚されて、1万6000人の海兵たち、赤軍兵士、市の住民が二月革命記念日を祝うべく、島の中央広場に集合した。
 二月革命は、時代の変わり目だった。 
全ロシア〔ソヴェト〕中央執行委員会のM・カリーニン(Mikhail Kalinin)は特別の登場の仕方をした。音楽と旗と、軍事上の名誉儀礼で迎えられた。
 手続を始めたのは、クロンシュタット・ソヴェトの議長のP・ヴァシレフ(Pavel Vasil'ev)だった。
 カリーニンとバルト艦隊委員のN・クズミン(Nikolai Kuz'min)は演壇に昇って、海兵たちに対して、政治的要求を取り下げるよう強く迫った。
 彼らの言葉は、叫び倒された。
 S・ペトリチェンコ(Stephen Petrichenko)という名の戦艦<Petropavlovsk>の書記が、海兵たちの政治方針にもとづく投票を呼びかけた。
 広場にいる海兵たちは、「満場一致で」これを承認した。(22)
 (4)革命側に立った他の有名な指導者たちの多くと同様に、ペトリチェンコは、ボルシェヴィキが培養した草の根活動家の横顔にふさわしかった。
Kaluga 州の農民家庭に生まれ、ウクライナの都市、ザポリージャ(Zaporozhe )に移った彼は、2年間の学修課程と金属労働者としての経験を得た。
 1914年、22歳の年に、海軍へと編入された。
 1919年、共産党に加入した。(23)
 彼は熟練労働者の典型的な者の一人で、とくに技術的分野でそうだった。
 海軍の反乱では指導力を発揮した。このことはすでに、1905年に知られていた。(24)
 (5)指導性のみならず動員の過程もまた、標準的な革命のお手本に従うものだった。
 草の根的ソヴェトの伝統で、海兵たちは代表を選出し、選挙を組織し、元来の参加モデルに回帰することを要求した。
 3月2日、ペトリチェンコは、海兵代議員たちの会合を呼び集め、代議員たちは幹事会を選出し、全ての社会主義政党が参加するよう招聘するクロンシュタット・ソヴェトの新しい選挙を計画した。
 30人の代議員グループがペトログラードに派遣されて、工場での彼らの要求について説明した。
 彼らは、逮捕された。そして、行方不明になった。(25)
 (6)クズミンは海兵たちの不満に対応しようとせず、警告を発した。
 彼はこう発表した。ペトログラードは、静穏だ。あの広場から出現しつつあるものについて、支持はない。しかし、革命それ自体の運命が重大な危機にある。
 ピウズドスキ(Pilsudski)は境界地帯で待ち伏せしており、西側は、襲撃をしかけようしている。
 代議員たちは、「その気があれば彼を射殺できただろう」。
 彼はこう言ったと報告されている。「武装闘争をしたいのなら、一度は勝つだろう。-しかし、共産主義者は進んで権力を放棄しようとはしないし、最後の一息まで闘うだろう」。(26)
 海兵たちの側は、当局との妥協を追求すると言い張った。
 クロンシュタットのボルシェヴィキは、事態の進行から除外されていなかった。
 しかしながら、神経を張りつめていた。
 武装分団が島へと向かっている、との風聞が流れた。
 武力衝突を予期して、会合は、ペトリチェンコの指揮のもとに、臨時革命委員会(<Vremennyi revoliutsionnyi komitet>)を設立した。(27)
 (7) 海兵たちは、ペトログラードの不安は収まっているとのクズミンの主張を、信用しなかった。
 彼らは、自分たちで「第三革命」と称しているものへの労働者支持が拡大するのを期待した。
 大工場群のいくつかは、これに反応した。しかし、ペトログラードの労働者のほとんどは、控えた。
 ペトログラードの労働者たちは、戦争と対立にうんざりしていた。そして、テロルが新しく増大してくるのを恐れた。
 彼らは、海兵たちがすでに特権的地位にあると考えているものを自分たちのそれと比較して、不愉快に感じた。
 彼らは、断固たる公式プロパガンダを十分に受け入れて、クロンシュタット「反乱」は「白軍」のA・コズロフスキ(Aleksandr Kozlovskii)将軍の影響下にあると非難していたかもしれなかった。
 工場地区全域に貼られたポスターは、コズロフスキといわゆる反革命陰謀を非難していた。(28)
 労働者たちは、逮捕されるのを怖れて、公式見解に挑戦するのを躊躇した。(29)
 島には実際に、将軍コズロフスキがいた。
 コズロフスキは帝制軍の将軍の一人で、1918年に、「軍事専門家」として赤軍に加入した。
 クロンシュタット砲兵隊の指揮官として、蜂起の側を支援した。しかし、彼にはほとんど蜂起の心情はなかった。-そして、「白軍」運動への共感を決して示していなかった。 彼はこう述べた。「共産党は私の名前をクロンシュタット蜂起が白軍の陰謀だとするために利用した。たんに、私が要塞での唯一の『将軍』だったことが理由だ」。
 ペトログラードに帰ると、彼の家族は身柄を拘束され、人質となった。(31)//
 (8)反乱者たちは、要求を拒否した。
 彼らは、「我々の同志たる労働者、農民」にあてて、こう警告した。
 「我々の敵は、きみを欺いている。クロンシュタット蜂起はメンシェヴィキ、社会革命党、協商国のスパイたち、および帝制軍の将軍たちによって組織されている、と我々の敵は言う。…厚かましいウソだ。…
 我々は過去に戻ることを欲しはしない。
 我々は、ブルジョアジーの使用人ではなく、協商国の雇い人でもない。
 我々は、労働大衆の権力の擁護者であって、単一政党の抑制なき専制的権力の擁護者ではない。」
 ボルシェヴィキは、「ニコライよりも悪い」。
 ボルシェヴィキは、「権力にしがみつき、その専制的支配を維持するだけのために、全ロシアを血の海に溺れさせようとしている」。(32)
 クロンシュタットの不満の背後に、白軍の陰謀はなかった。しかし、反乱者には社会革命党が用いる言葉遣いがあった。
 しかしながら、ペトリチェンコは社会革命党員ではなく、反乱者のほとんどは特定政党帰属性を否定しただろう。
 それにもかかわらず、彼らは、社会主義と民衆の解放に関する言葉遣いを共有して受け容れていた。//
 (9)「同志たち」による「共産党独裁」に対する戦闘だった。
 革命の現実の敵は、この戦闘を歓迎したかもしれなかった。だが、指導者たちは、「反対の動機」からだと兵員たちに説明した。
 「きみたち同志諸君は、…真のソヴェト権力を再建するという熱意でもって奮起している」。労働者と農民に必要なものを、彼らに与えたいという願いによってだ。
 対照的に、革命の敵は、「帝制時代の笞と将軍たちの特権を回復しようとの願い」でもって喚起されている。…。
 きみたちは自由を求め、彼らはきみたちをもう一度隷従制の罠に落とし込むことを欲している」。(33)//
 (10)報道兵は、闘いの目的をこう説明した。
 「十月革命を達成して、労働者階級は自分たちの解放を達成することを望んだ。
 結果は、個々人の、いっそうひどい奴隷化だった。
 憲兵(police-gendarme)支配の君主制の権力は、その攻撃者の手に落ちた。-共産党(共産主義者)だ。共産党は労働大衆に自由をもたらさず、帝制時代の警察体制よりもはるかに恐ろしい、チェカの拷問室に入ることへの恒常的な恐怖をもたらした」。
 海兵たち自身の「第三革命」は、「なお残存する鎖を労働大衆から取り去り、社会主義の創建に向かう、広くて新しい途を開くだろう」。(34)
 社会主義は、なおも目標ではあった。//
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 第2節、終わり。

2220/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動②。
 (18)もちろんこれは、メンシェヴィキが待ち望んでいたことだった。ボルシェヴィキに幻滅した労働者たちが、民主主義を求めてストライキしようとしている。
 メンシェヴィキは元々は、労働者幹部会の運動を支持していなかった。その指導者たちは政治家たちに懐疑的で、諸政党からの自立を欲していたからだ。
 しかし、4月頃までにメンシェヴィキは十分に感心して、運動の背後から支援した。
 5月16日、メンシェヴィキ中央委員会は、労働者代表者たちの全国的な会議の開催を呼びかけた。(*)
 社会革命党が、これに続いた。//
 (19)かりに状況が反対だったならば、つまり社会主義者が権力を握っていてボルシェヴィキは反対派だったとすれば、疑いなくボルシェヴィキは労働者の不満を煽り、政府を転覆させるためにあらゆることを行ったことだろう。
 しかし、メンシェヴィキと社会主義派の者たちは、そのような行動を断固として行わない、という気風だった。
 彼らはボルシェヴィキ独裁を拒否したが、しかしなお、それに恩義を感じていた。
 メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、厳しく批判する一方で、ボルシェヴィズムの生き残りには重大な関心があることを読者に理解させようとした。
 このテーゼを、彼らはボルシェヴィキが権力を奪取した直後に表明していた。
 「とりわけ重要なのは、ボルシェヴィキのクーを暴力的に廃絶することは同時に、ロシア革命の全ての成果を廃絶することに不可避的に帰着するだろう、ということだ。」(152) 
 また、ボルシェヴィキが立憲会議を解散させたあと、ボルシェヴィキ機関紙は、こう嘆いた。
 「我々は、ボルシェヴィキ体制の賛美者ではなかったし、現在も賛美者ではない。そして、ボルシェヴィキの国内および外交政策の破綻を、つねに予見してきた。
 しかし、我々の革命の運命がボルシェヴィキ運動のそれと緊密に結びついていることを、我々は忘れなかったし、一瞬たりとも忘れはしない。
 ボルシェヴィキ運動は、広範な人民大衆の、歪んで退廃した一つの革命的戦いを表現している。…」。(153) //
 (20)このような姿勢はメンシェヴィキの行動する意欲を麻痺させたばかりではなく、ボルシェヴィキとの同盟へと、すなわち、民衆の憤慨を煽り立てるのではなく、消し止めるのを助ける方向へと、向かわせた。(**)
 (21)労働者幹部会の会合が6月3日に再開催されたとき、メンシェヴィキと社会革命党の知識人たちは政治的ストライキという考えに反対した。それは、お決まりの、階級敵の手中に嵌まってしまう、という理由でだった。
 彼らは労働者の代表者たちにその決定を再考して、ストライキではなく、類似の組織をモスクワで創立する可能性を探るために、そこに代表団を派遣するように説得した。//
 (22)6月7日、派遣委員の一人がモスクワの工場代表者たちの集まりで挨拶して発言した。
 彼は、反労働者、反革命的政策を追求しているとしてボルシェヴィキ政府を非難した。
 このような語りかけは、十月以降のロシアでは聞かれないものだった。
 チェカは、事態をきわめて深刻に受け止めた。モスクワは今や国の首都であり、モスクワでの騒擾は「赤いペトログラード」でのそれよりも危険だったからだ。
 治安維持機関員が、演説を終えたペトログラードの派遣委員の身柄を拘束した。但し、仲間の労働者たちの圧力によって、解放せざるを得なかった。
 モスクワの労働者たちは、同情的ではあるものの、自分たちの労働者幹部会を設立する用意がまだない、ということが判明した。(154)
 モスクワとその周辺の労働者たちは、ペトログラードよりも、戦術に長けておらず、労働組合の伝統が少なかった、ということで、これは説明することがてきるかもしれない。//
 (23)労働者がソヴェトから離脱していく過程は、ペトログラードで始まり、国の残りの都市へと拡がった。
 多くの都市で(モスクワはすぐにその一つとなった)、地方ソヴェトは選挙を実施するのが阻止されるか、または選挙の適格性が否定された。それに対して、労働者たちは、政府の統制が及ばない、かついかなる政党とも関係がない「労働者評議会」、「労働者会議」、「労働者幹部会議会」等を設立した。//
 (24)不満の高まりに直面して、ボルシェヴィキは反撃した。
 モスクワで6月13日、、ボルシェヴィキは、労働者幹部会運動に加担している56名を拘禁した。そのうち6ないし7名以外は、労働者だった。(155)
 6月16日、ボルシェヴィキは、2週間以内に第五回ソヴェト大会を招集すると発表し、これに関連して、全ソヴェトに対して、ソヴェトの選挙を再度実施するように指令した。
 この再選挙でもやはり確実にメンシェヴィキと社会革命党が多数派を形成し、政府はソヴェト大会では少数派に追い詰められる立場になるだろう。そこで、モスクワは、社会革命党とメンシェヴィキを全てのソヴェトから、そしてむろんその執行委員会(CEC)から排除することを命じることで、対抗派には被選出資格がないとすることを提案した。(156) CEC 内のボルシェヴィキ議員団総会で、L. S. ソスノフスキ(Sosnovskii)は、つぎの論拠で、その趣旨の布令を正当化した。すなわち、メンシェヴィキと社会革命党は、ボルシェヴィキが臨時政府を転覆させたのと全く同じように、ボルシェヴィキを転覆させるつもりだ。(***) 
 したがって、投票者に提示された唯一の選択肢は、正規のボルシェヴィキの候補者、左翼エスエル、そして「ボルシェヴィキ同調者」として知られる帰属政党のない幅広い範疇の候補者たちの間にだけあった。
 (25)このような歩みは、ロシアでの自立した政党の終焉を画すものだった。
 君主制主義政党-オクトブリスト、ロシア人民同盟、国権主義者-は1917年の推移の中で解散しており、もはや組織ある実体としては存在していなかった。
 非合法とされたカデット〔立憲民主党〕は、その活動を境界地域に移しており、そこにはチェカの網は届かなかったが、ロシアの民衆の気分からも離れていた。あるいはまた、地下活動に潜って、国民センター(the National Center)と呼ばれる反ボルシェヴィキ連合を形成していた。(157)
 6月16日の布令は、明示的にはメンシェヴィキと社会革命党を非合法化していなかったが、政治的には無力にするものだった。
 白軍に対する戦いへの彼らの支援のご褒美として、この両党はのちに元の地位を回復し、限られた数だけソヴェトにもう一度加わることが許された。しかし、これは一時的で、政略的なものだった。
 本質的には、ロシアはこの時点で一党国家になった。ボルシェヴィキ以外の全ての組織に対して政治的活動を行うことが禁止される、そのような国家だ。//
 (26)6月16日、すなわちボルシェヴィキがメンシェヴィキと社会革命党のいずれも出席することができない第五回ソヴェト大会を発表した日、労働者幹部会会議は、労働者の全ロシア会議の開催を呼びかけた。(158)
 この組織は、国家が直面している最も緊要な問題を討議し、解決しようとするものとされていた。緊要な諸問題とは、①食糧事情、②失業、③法の機能停止、および④労働者の組織。
 (27)6月20日、ペトログラード・チェカの長官、V・ヴォロダルスキ(Volodarskii)が殺害された。
 殺人者を捜査する中で、チェカは工場での抗議集会を始めていた何人かの労働者を拘引した。
 ボルシェヴィキはネヴァ(Neva)労働者地区を兵団で占拠し、戒厳令を敷いた。
 最も厄介な工場であるオブホフの労働者たちは、閉め出された。(159)
 (28)ペトログラードでソヴェトの選挙が行われたのは、このきわめて緊張した雰囲気の中でだった。
 選挙運動の間、ジノヴィエフは、プティロフやオブロフでブーイングを受け、演説することができなかった。
 どの工場でも、労働者たちはソヴェトに二政党が参加することが禁止している布令を無視して、メンシェヴィキと社会革命党に多数派を与えた。
 オブロフでは、社会革命党5名、無党派3名、ボルシェヴィキ1名だった。
 セミアニコフ(Semiannikov)〔ネヴァ工場群〕で、社会革命党は投票総数の64パーセントを獲得し、メンシェヴィキは10パーセント、そしてボルシェヴィキ・左翼エスエル連合は26パーセントだった。
 その他の重要地区でも、同様の結果だった。(160)//
 (29)ボルシェヴィキは、こうした結果に縛られるのを拒否した。
 彼らは、多数派を獲得するのを欲し、獲得した。それは、通常は選挙権(franchise)を不正に操作することで行われた。ある範囲のボルシェヴィキたちには、1票について5票が与えられた。(****)
 7月2日、「選挙」結果が、発表された。
 新しく選出されたペトログラード・ソヴェトの代議員総数650のうち、ボルシェヴィキと左翼エスエルに610が与えられ、40だけが社会革命党とメンシェヴィキにあてがわれた。この両党を、ボルシェヴィキの公式機関紙は「ユダ(Judases)」だと非難していた。(+)
 このペトログラード・ソヴェトは、労働者幹部会会議の解散を票決した。
 その集まりで演説しようとした会議の代表者は、話すのを阻止され、肉体的な攻撃を受けた。
 (30)労働者幹部会会議は、ほとんど毎日、会合をもった。
 6月26日、会議は、7月2日に一日だけの政治ストライキを呼びかけることを満場一致で決定した。そのスローガンは、「死刑の廃止!」、「処刑と内戦をするな!」、「ストライキの自由、万歳!」だった。(161)
 社会革命党とメンシェヴィキの知識人たちは、再び、ストライキに反対した。
 (31)ボルシェヴィキ当局は市内全体にポスターを貼り、ストライキ組織者を白軍の雇い人だとし、全参加者を革命審判所に送り込むと威嚇した。(163)
 その上にさらに、市〔ペトログラード〕の重要地点に、機関銃部隊を配置した。
 (32)同情的な報告者は、労働者は動揺していると記述した。
 すなわち、カデットの<Nash>は6月22日に、彼らは反ボルシェヴィキだが識別できない、と書いた。
 国内および世界情勢の困難さ、食糧不足、明確な解決策の不在によって、彼らには、「極端に不安定な心理、ある種の抑うつ状態、そして全くの当惑」が発生した。
 (33)7月2日の事件は、こうした見通しを確認するものだった。
 帝制が崩壊して以降ロシアで最初の政治ストライキは、巻き起こり、そして消失した。
 労働者たちは、社会主義知識人たちに失望し、ボルシェヴィキによる実力行使の顕示に威嚇され、自分たちの強さと目的に自信がなく、そして心が折れた。
 ストライキ組織者は、1万8000人と2万人の間ほどの労働者がストライキの呼びかけに従うだろうと予想していた。この数は、ペトログラードに実際にいる労働者数の7分の1にすぎなかった。
 オブホフ、マクスウェル(Maxwell)、およびパール(Pahl)は、ストライキをした。
 他の工場群は、プティロフを含めて、しなかった。//
 (34)この結果が、ロシアの自立した労働者組織の運命を封じた。
 すみやかに、チェカは地方の支部とともにペトログラードの労働者幹部会会議を閉鎖させ、目立った指導者のほとんどを、牢獄に送った。//
 (35)こうして、ソヴェトの自主性、労働者が代表者をもつ権利、そしてなおも多元政党制らしきものとして残っていたものは、終わりを告げた。
 1918年の6月と7月に執られた措置でもって、ロシアでの一党独裁制の形成が完了した。
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 (*) 労働者議会(Congress)という発想は、1906年にAkselrod が最初に提起した。そのときは、メンシェヴィキとボルシェヴィキのいずれも、これを却下した。
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (151) Aronson, "Na perelome, ", p.7-p.8.
 (152) NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.1.
 (153) NZh, No. 20/234(1918年1月27日), p.1.
 (**) 公平さのために、つぎのことを記しておかなければならない。古きメンシェヴィキの小グループ、ロシア社会民主党の創設者たち-プレハノフ(Plekhanov)、アクセルロード(Akselrod)、ポトレソフ(Potresov)、およびV・ザスーリチ(Vera Sasulich)-を含むそれは、異なる考えだった。
 そして、アクセルロードは、1918年8月に、ボルシェヴィキ体制は「陰惨な(gruesome)」反革命へと堕落した、と書いた。
 そのような彼ですら、ジュネーヴのかつての彼の同志とともに、レーニンに対する積極的な抵抗にも反対した。その理由は、権力を取り戻そうとする反動分子たちを助けることになる、というものだった。
 A. Asher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism(Cambridge, Mass., 1972), p.344-6.
 プレハノフの姿勢につき、Samuel H. Baron, Plekhanov(Stanford, Calif., 1963), p.352-p.361.
 ポトレソフは、そのときおよびのちに、メンシェヴィキの仲間たちを批判した(V plenu u illiuzii(Paris, 1937))。しかし、彼もまたやはり、積極的な反対活動に参加しようとはしなかった。
 (154) NZh, No. 111/326(1918年6月8日), p.3.
 (155) Aronson, "Na perelome, ", p.21.
 (156) Dekrety, II, p.30-p.31.; Lenin, PSS, XXXVII, p.599.
 (***) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 NV, No. 96/120(1918年6月19日), p.3.によれば、CEC のボルシェヴィキ会派は、ソヴェトからメンシェヴィキと左翼エスエルを排除するのを拒否した。しかし、CEC からこれらを追放(除斥)することに同意した。
 (157) W. G. Rosenberg, Liberals in the Russian Revolution(Princeton, N.J., 1974), p.263-p.300.
 (158) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 (159) W. G. Rosenberg in SR, XLIV, No. 3(1985年7月), p.235.
 (160) NZh, No. 122/337(1918年6月26日), p.3.
 (****) Stroev in NZh, No. 119/334(1918年6月21日), p.1.
 ある新聞(Novyi luch。NZh, No. 121/336(1918年6月23日), p.1-p.2.が引用)によると、ペトログラード・ソヴェトへと「選挙され」た130名の代議員のうち、77名はボルシェヴィキ党から、26名は赤軍部隊から、8名は供給派遣部隊から、43名はボルシェヴィキ職員の中から、選び抜かれていた。
 (+) NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.
 少し異なる数字が、つぎの中にある。Lenin, Sochineniia, XXIII, p.547.
 これによると、代議員総数は582で、そのうちボルシェヴィキが405、左翼エスエルが75、メンシェヴィキと社会革命党が59、無党派が43だ。
 (161) 例えば、Stroev in NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.を見よ。
 (162) NV, No. 106/130(1918年7月2日), p.3.
 (163) NV, No. 107/131(1918年7月3日), p.3. およびNo. 108/132(1918年7月4日). p.4.; NZh, No. 128/343(1918年7月3日), p.1.
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 第10節、終わり。第12章も終わり。つづく章の表題は、つぎのとおり。
 第13章・ブレスト=リトフスク、第14章・国際化する革命〔革命の輸出〕、第15章・「戦時共産主義」、第16章・農村に対する戦争、第17章・皇帝家族の殺害、第18章・赤色テロル、そして「結語」。

1866/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気④完。
合冊版、p.831~p.833。
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 (16)国家もまた最初から、教会と宗教の影響を破壊し始めた。
 これは明らかにマルクス主義の教理と一致しており、全ての独立した教育を破壊するという国家の目標とも一致していた。
 我々はすでに見たことだが、ソヴィエト体制は教会と国家の分離を宣言したけれども、この原理を現実化するのに成功していなかったし、成功することのできないものだった。
 なぜなら、教会と国家の分離は、国家が市民の宗教的見方に関心を抱かず、どの宗派に属しているかまたはいないかを問わず市民に同等の権利の全てを保障し、一方で教会は私法の主体として承認される、ということを意味するだろうからだ。
 国家がひとたび反宗教哲学をもつ党によって購われるものになってしまえば、この分離は不可能だった。
 党のイデオロギーは国家のそれになった。そして、全ての形態の宗教生活は、否応なく反国家活動になった。
教会と国家の分離は、信者とそうでない者とが同等の権利をもち、前者は無神論者である党員と同様の権力行使の機会をもつ、ということを意味する。
この原理を実現しようとするのはソヴィエトの条件のもとではいかに馬鹿々々しいかと述べるので十分だ。
 最初から根本的な哲学またはイデオロギーへの執着を表明した国家があり、その哲学またはイデオロギーにその国家の正統性が由来するのであるから、宗教<に対して(vis-à-vis)>中立などということはあり得なかった。
 したがって、1920年代の間ずっと、教会は迫害され、キリスト教を伝道することを妨害された。異なる時期ごとに、その過程の強度は違っていたけれども。
 体制の側は、階層の一部に対して譲歩するように説得するのに成功した-これはその一部の者たち自身にとって譲歩でなかったので、妥協だと言うことはほとんどできない。そして、1920年代の後半に多数の頑強な神職者たちが殺戮されてしまったあとで、ほどよい割合の者たちがとどまって忠誠を表明し、ソヴィエト国家と政府のために祈祷を捧げた。
 そのときまでに、無数の処刑、男女の各修道院の解体、公民権の収用や剥奪のあとで、教会は、かつてあったものの陰影にすぎなくなった。
 にもかかわらず、反宗教宣伝は今日まで、党の教育での重要な要素を占めている。
 1925年にYaroslavsky の指導のもとで設立された戦闘的無神論者同盟(the League of Militant Atheists)は、キリスト教者やその他の信者を全てのありうるやり方で執拗に攻撃して迫害し、そうすることで国家の支援を受けた。//
 (17) 新社会で最も力強い教育への影響力をもったのは、しかしながら、警察による抑圧のシステムだった。
 この強度は変化したけれども、いかなる市民でもいかなる時にでも当局の意ののままに抑圧手段に服することがあり得るというのは日常のことだった。
 レーニンは、新しい社会の法は伝統的な意味での法とは全く関係がない、と明言していた。換言すれば、政府権力をいかなる態様をとってであれ制限することが法に許容されてはならない、と。
 逆に一方では、いかなる体制のもとでも法は階級抑圧の道具に「他ならない」がゆえに、新しい秩序は対応する「革命的合法性」の原理を採用した。これが意味したのは、政府当局は証拠法則、被告人の権利等々の法的形式に煩わされる必要はなく、「プロレタリアート独裁」に対する潜在的な危険を示していると見え得る誰であっても単直に逮捕し、収監し、死に至らしめることができる、ということだった。
 KGBの先駆者であるチェカは、最初から司法部の是認なくして誰でも収監する権限をもっていた。そして、革命の直後に、多様で曖昧に定義された範疇の人々-投機家、反革命煽動者、外国勢力の工作員等々-は「無慈悲に射殺される(shot witout mercy)」ものとする、と定める布令が発せられていた。 
 (いかなる範疇の者は「慈悲深く(mercifully)射殺される」のかは、述べられていなかった。)
 これが実際上意味したのは、地方の警察機関が全市民の生と死に関する絶対的な権力をもった、ということだ。
 集中収容所(Conceneration camps)(この言葉は現実に使われた)はレーニンとトロツキーの権威のもとで、様々のタイプの「階級敵」のために用いるべく、1918年に設置された。
 もともとは、この収容所は政治的反対者を制裁する場所として使われた。-カデット〔立憲民主党〕、メンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕、のちにはトロツキストその他の偏向主義者、神職者、従前の帝政官僚や将校たち、および資産所有階級の構成員、通常の犯罪者、労働紀律を侵害した労働者、およびあらゆる種類の頑強な反抗者たち。
 数年しか経たないうちに、この収容所は、大量の規模の奴隷労働を供給するという利点によって、ソヴィエト経済の重要な要素になった。
 異なる時期に、とくにそのときどきの「主要な危険」に関する党の選択に応じたあれこれの社会集団に対して、テロルが指令された。
 しかし、最初から、抑圧システムは絶対的に法を超越していた。そして、全ての布令と罰則集は、すでに権力を保持する者による恣意的な権力行使を正当化することに寄与するものにすぎなかった。
 見せ物裁判(show trial)は初期に、例えばエスエルや神職者たちの裁判で始まった。
 来たるべき事態を冷酷に告げたのは、Donets の石炭盆地で働く数十人の技術者たちに関する1928年5月のShakhty での裁判だった。そこでは証拠は最初から最後まで捏造されており、強要された自白を基礎にしていた。
 怠業と「経済的反革命」の咎で訴追された犠牲者たちは、体制の経済後退、組織上の失敗および一般国民の哀れな状態の責任を負う、好都合の贖罪者だった。
 11名が死刑を宣告され、多数は長期の禁固刑だった。
 この裁判は、国家による寛大な処置を期待することはできないという、全ての知識人たちに対する警告として役立った、ということになった。
 Solzhenitsyn は訴訟手続の記録を見事に分析し、ソヴィエト体制のもとでの法的諸観念の絶対的な頽廃を描いてみせた。//
 (18)犠牲者の誰もがボルシェヴィキ党員ではなかった間は、党指導者の誰かが、いずれかのときに、抑圧や明らかに偽りの裁判に対して異議を申立てたり、または妨害を試みたりした、とするいかなる証拠もない。
 反対派集団は、献身的な党活動家だった自分たちの仲間にまでテロルが及んできたとき初めて、苦情を訴え始めた。
 しかし、そのときまでには、苦情は無意味になっていた。
 警察機構は完全に、スターリンとその補助者たちの掌中にあった。そして、下部については、それが党の官僚機構に先行していた。
 しかしながら、警察が党全体を統制していた、と言うことはできない。なぜなら、スターリンは、警察のではなく党の最頂部にいた間ずっと、至高の存在として支配した。彼が党を統治したのは、まさに警察を通じて、なのだ。//
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 第1節終わり。第2節へとつづく。

1812/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑨。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第9回。 
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 第三章・内戦(The Civil War)。
 (はじめに)
 十月の権力奪取はボルシェヴィキ革命の終わりではなく、始まりだった。
 ボルシェヴィキはペテログラードを征圧し、一週間の路上戦闘ののち、モスクワでもそうした。
 しかし、たいていの州中心地で起ち上がったソヴェトはまだ、ブルジョアジーの打倒(地方レベルではしばしば、町のしっかりした市民層が設置した「公共安全委員会」の排除を意味した)のために資本家の指導に従わなければならなかった。
 そして、地方ソヴェトが弱くて権力を奪えないとしても、資本家から支援が与えられそうにはなかった。(1)
 各州のボルシェヴィキは、中心地と同様に、当時にメンシェヴィキとエスエルが支配して成功裡にその権限を主張する地方ソヴェトに対する方針を案出しなければならなかった。
 さらに、田園地帯のロシアでは、町が持った権限による拘束が大幅になくなっていた。
 旧帝国内の遠方の非ロシア領域には、複雑に混乱した、さまざまの状況があった。
 いかなる在来の意味でも国家を統治する意図をもってボルシェヴィキが権力を奪取したのであれば、ある程度は長くて困難な、アナーキーで非中央志向の、分離主義的な傾向との闘いが前方に横たわっていたのだ。//
 実際、ロシアの将来の統治形態の問題は、未決定のままだった。
 ペテログラードでの十月革命で判断して、ボルシェヴィキはその「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンを留保した。
 一方で、このスローガンは1917-18年の冬の州の雰囲気には適合しているように見えた。-しかし、これはおそらく、中央政府の権威が一時的に崩壊したことを言い換えたものにすぎない。
 ボルシェヴィキは「プロレタリア-トの独裁」という別のスローガンで正確に何を意味させたかったのか、を見分ける必要がまだあった。
 レーニンがその最近の著述物で強く示唆したように、これが旧所有者階級による反革命運動を粉砕することを意味しているとすれば、新しい独裁制は、帝制期の秘密警察と類似の機能をもつ実力強制機関を設立することになっただろう。
 それがボルシェヴィキ党の独裁を意味しているとすれば、レーニンに対する政治的反対者の多くが疑ったように、その他の政党が継続して存在することは大きな問題を生じさせた。
 だがまだ、新体制は旧ツァーリ専制体制のように抑圧的に行動することができただろうか?、そしてそうしてもなお、民衆の支持を維持しつづけることができただろうか?
 さらに、プロレタリア-ト独裁は、幅広い権力と労働組合や工場委員会を含む全てのプロレタリアの組織の自立を意味しているようにも思われた。
 もしも労働組合や工場委員会が労働者の利益について異なる考え方をもっていれば、何が起こっていたのか?
 もしも工場での「労働者による統制」が労働者による自主管理を意味するとすれば、それは、ボルシェヴィキが社会主義者の根本的な目標だと見なしていた経済発展に関する中央志向の計画と両立したのだろうか?//
 ロシアの革命体制はまた、全世界でのその位置を考慮しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは自分たちは国際的なプロレタリア革命運動の一部だと考えており、ロシアでの勝利はヨーロッパじゅうに同様の革命を誘発するだろうと期待していた。
 彼らはもともとは、新しいソヴェト共和国は他国と在来の外交関係を保たなければならない国家だとは思っていなかった。
 トロツキーが外務人民委員に任命されたとき、彼は若干の革命的宣告を発して、「店終い」をしようと考えていた。
 1918年初めのドイツとのブレスト=リトフスク講和の交渉でのソヴィエト代表者として、彼は(成功しなかったが)過去のドイツの公的代表者たちにドイツ国民、とくに東部戦線のドイツ兵士たちについて語って、外交過程の全体を覆そうとした。
 伝統的な外交には必要な承認が遅れたのは、ボルシェヴィキの指導者たちが強く、ロシア革命はヨーロッパの発展した資本主義諸国での労働者の革命によって支えられないかぎり長くは存続できない、と信じていたからだ。
 革命的ロシアは孤立しているという事実が徐々に明らかになってようやく、ボルシェヴィキは、外部世界に対する彼らの地位を再査定し始めた。そして、その時期までは、革命的な呼びかけを伝統的な国家間の外交と結合させる習癖が、堅く揺るぎないものだった。//
 新しいソヴェト共和国の領土的境界と非ロシア諸民族に対する政策は、別の大きな問題を成していた。
 マルクス主義者にとってナショナリズム(民族主義)は虚偽の意識の一形態だったけれども、レーニンは戦前に、民族の自己決定権の原理を用心深く擁護した。
 ナショナリズムが有する実際上(pragmatic)の意味は、それが脅威にならないかぎりは残ったままだ。
 1923年、のちにソヴィエト同盟の結成が決定されたときに採択された政策は、「民族性の形態を認める」ことによってナショナリズムを解体することだった。民族性を認めるとは、分離した民族共和国、少数民族の保護および民族的言語や文化、民族エリートたちへの支援といったものだ。(2)//
 しかしながら、民族の自決には限界があった。従前のロシア帝国の領土を新しいソヴェト共和国に編入することに関して明確になったように。
 ペテログラードのボルシェヴィキが、ハンガリーについてそうだったように、アゼルバイジャン(Azerbaijan)のソヴェト権力が革命的勝利をするのを望むのは自然だった。以前はペテルブルクを首都とする帝国の臣民だったアゼルバイジャンは、そのことを高く評価するようには思えなかったけれども。
 ボルシェヴィキがウクライナのソヴェトを支持してウクライナの「ブルジョア」的民族主義者に反対したのも、自然だった。そのソヴェトは(ウクライナの労働者階級の人種的構成を反映して)ロシア人、ユダヤ人および民族主義者だけではなくウクライナの農民層にも「外国人」だったポーランド人で支配されている傾向にあったけれども。
 ボルシェヴィキのディレンマは、プロレタリア的国際主義の政策が実際には旧式のロシア帝国主義と、当惑させるほどに類似していた、ということだった。
 このディレンマは、赤軍(the Red Army)が1920年にポーランドに侵入し、ワルシャワの労働者が「ロシアの侵略」に抵抗したときにきわめて劇的に例証された。(3)
 しかし、十月革命後のボルシェヴィキの行動と政策は全くの空白から形成されたのではなく、内戦という要因がほとんどつねにそれらを説明するためにきわめて重要だった。
 内戦は、1918年半ばに勃発した。それは、ロシアとドイツの間のブレスト=リトフスク講和が正式の結論を得て、ロシア軍がヨーロッパ戦争から明確に撤退した、数ヶ月だけ後のことだった。
 内戦は、多くの前線での、多様な白軍(すなわち、反ボルシェヴィキ軍)との戦闘だった。白軍は、ヨーロッパ戦争でのロシアの従前の連盟諸国を含む諸外国の支援を受けていた。
 ボルシェヴィキは内戦を、国内的意味でも国際的意味でも階級戦争だと見なした。すなわち、ロシアのブルジョアジーに対するロシアのプロレタリア-ト、国際的資本主義に対する(ソヴェト共和国が好例である)国際的な革命。
 1920年の赤軍(ボルシェヴィキ)の勝利は、したがってプロレタリアの勝利だった。しかし、この闘いの苦しさは、プロレタリア-トの階級敵がもつ力強さと決意を示していた。
 干渉した資本主義諸国は撤退したけれども、ボルシェヴィキは、その撤退が永続するとは信じなかった。
 彼らは、より適当な時期に国際資本主義勢力が戻ってきて、国際的な労働者の革命を根こそぎ壊滅させようとするだろうと予期した。//
 内戦は疑いなく、ボルシェヴィキと幼きソヴェト共和国に甚大な影響を与えた。
 内戦は社会を分極化し、長くつづく怨念と傷痕を残した。外国の干渉は「資本主義の包囲」に対する永続的なソヴェトの恐怖を作り出した。その恐怖には、被害妄想(paranoia)と外国恐怖症の要素があった。
 内戦は経済を荒廃させ、産業をほとんど静止状態にさせ、町を空っぽにした。
 これは経済的でかつ社会的な意味はもちろん、政治的な意味をもった。工業プロレタリア-ト-ボルシェヴィキがその名前で権力を奪取した階級-の少なくとも一時的な解体と離散を意味したのだから。//
 ボルシェヴィキが初めて支配することを経験した、というのが内戦の経緯にはあった。そして、これは疑いなく、多くの点で党のその後の展開の型を形成した。(4)
 内戦中のある時期には、50万人以上の共産党員が赤軍で働いた(そして、この集団の中の大まかには半分が、ボルシェヴィキに入党する前に赤軍に加わっていた)。
 1927年のボルシェヴィキの全党員のうち、33%が1917-1920年に入党した。一方、わずかに1%だけが、1917年以前からの党員だった。(5)
 こうして、革命前の地下生活-「古参」ボルシェヴィキ指導者たちの揺籃期の体験-は1920年代のほとんどの党員にとっては風聞によってだけ知られていた。 
 内戦中に入党した集団にとって、党とは最も文字どおりの意味で、戦闘する仲間だった。
 赤軍の共産党員たちは、党の政策の用語に軍事専用語彙を持ち込み、軍の制服と靴をほとんど1920年代および1930年代初めの党員の制服にした。-かつてはふつうの職に就いていた者や若すぎて戦争に行けなかった者たちすら身につけた。//
 歴史研究者の判断では、内戦の経験は「ボルシェヴィキ運動の革命的文化を軍事化した」。そして、「強制力に簡単に頼ること、行政的指令による支配(administrirovanie)、中央志向の行政や略式司法」といった遺産を党に残した。(6)
 ソヴィエト(とスターリニズム)の権威主義の起源に関するこのような見方は、党の革命前の遺産やレーニンの中央志向の党組織や厳格な紀律の主張を強調する、西側の伝統的な解釈と比べて、多くの点でより満足できるものだ。
 にもかかわらず、党の権威主義傾向を補強した他の要因もまた、考察しなければならない。
 第一に、少数者による独裁はほとんど必然的に権威主義的になり、その幹部として働く者たちは、レーニンが1917年の後でしばしば批判した上司気分やいやがらせの習癖を極度に大きくしがちだった。
 第二に、ボルシェヴィキ党の1917年の勝利は、ロシアの労働者、兵士と海兵の支持による。そして、これらの者たちは、古いボルシェヴィキ知識人たちよりも、反対者を粉砕し、如才のない説得ではなく実力でもって権威を押しつけることを嫌がる傾向が少なかった。//
 最後に、内戦と権威主義的支配の連環を考察するには、ボルシェヴィキと1918-20年の政治的環境の間には二つの関係があった、ということを想起する必要がある。
 内戦はボルシェヴィキに何ら責任のない、神の予見できない行為だったのではない。
 反対に、ボルシェヴィキは、1917年の二月と十月の間の月日に、武装衝突や暴力と提携した。
 そして、ボルシェヴィキの指導者たちは事態の前に完璧に十分に知っていたように、十月蜂起は多くの者によって、明白に内戦へと挑発するものだと見られていた。
 内戦は確かに、新体制に対して戦火による洗礼を施した。そして、それによって新体制の将来の行く末に影響を与えた。
 しかし、その洗礼の受け方はボルシェヴィキが危険を冒して採用したものであり、彼らが追求したものですらあったかもしれない。(7)
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 (1) 地方での革命のその後に関する資料につき、Peter Holquist, <戦争開始、革命案出-危機のロシア共産主義、1913年-1921年>(Cambridge & London, 2002)(ドン地域について)、およびDonald J. Raleigh, <ロシア内戦の経験-Saratov での政治、社会と革命的文化、1917年-1922年>(Princeton, NJ, 2002)を見よ。
 (2) Terry Martin, <積極的差別解消(Affirmative Action)帝国>(Ithaca, 2001), p.8, p.10.
 (3) この論点に関する議論につき、Ronald G. Suny, 「ロシア革命におけるナショナリズムと階級-比較的討論」、E. Frankel, J. Frankel & B. Knei-Paz, eds, <革命のロシア-1917年に関する再検証>(Cambridge, 1992)所収、を見よ。
 (4) 内戦の影響につき、D. Koenker, W. Rosenberg & R. Suny, eds, <ロシア内戦における党、国家と社会>(Bloomington, IN, 1989)を見よ。
(5) T. H. Rigby, <ソヴィエト同盟の共産党員, 1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), p.242.<Vsesoyuznaya partiinaya perepis' 1927 goda. Osnovnye itogi perepisi>(Moscow, 1927), p.52.
 (6) Robert C. Tucker, 「上からの革命としてのスターリニズム」、Tucker, <スターリニズム>所収p.91-92.
 (7) こうした議論は、Sheila Fitzpatrick「形成期の経験としての内戦」、A. Gleason, P. Kenez & R. Stites, eds, <ボルシェヴィキ文化>(Bloomington, IN, 1985)所収、で詳しく述べた。
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 第1節・内戦、赤軍およびチェカ。
 ボルシェヴィキの十月蜂起の直後、カデットの新聞は革命を救うために武装することを呼びかけ、コルニロフ将軍の愛国者兵団は親ボルシェヴィキ兵や赤衛隊と衝突してペテログラード郊外のプルコヴォ高地どの戦闘に敗れ、モスクワでは大きな戦闘があった。
 この第一次戦闘で、ボルシェヴィキは勝った。
 しかし、ほとんど確実に、彼らはもう一度戦闘をしなければならなかった。
 ドイツおよびオーストリア-ハンガリーと戦争中の南部戦線にいる大ロシア軍には、北西部のそれによりも、ボルシェヴィキは人気がなかった。
 ドイツはロシアと戦争を継続中であり、東部戦線での講和についてはドイツには有利だったにもかかわらず、連盟諸国から得た支援以上のドイツによる酌量を、ロシア新体制はもはや計算することができなかった。
 東部戦線のドイツ軍司令官は、1918年2月早くの日記にこう書いた。そのときは、ブレスト=リトフスクでの講和交渉の決裂後に、ドイツ軍が新規に攻勢をする直前だった。
 『逃げ出すことはできない。さもなくば、この野蛮者たち〔ボルシェヴィキ〕はウクライナ、フィンランドとバルトをなぎ倒し、新しい革命軍と穏やかに一緒になり、ヨーロッパ全体を豚小屋のごとき陋屋に変えるだろう。<中略>
 ロシア全体が、うじ虫の巨大な堆積物だ。-汚らしい、大挙して脅かすゴロツキたちだ。』(8)
 1月〔1918年〕のブレストでの講和交渉の間、トロツキーはドイツ側が提示した条件を拒み、「戦争はなく、平和もない」という戦略をとるのを試みた。これは、ロシアは戦争を継続しないが、受容できない条件での講和に署名しもしない、ということを意味した。
 これは全くの虚勢だった。ロシア軍は前線で融解しつつあり、一方で、ボルシェヴィキは同じ労働者階級の連帯を訴えたにもかかわらず、ドイツ軍はそうではなかったからだ。
 ドイツはトロツキーの虚勢に対して開き直り、その軍は前進し、ウクライナの大部分を占拠した。//
 レーニンは、講和することが不可欠だと考えていた。
 ロシアの戦力とボルシェヴィキが内戦を闘う蓋然性からすると、これはきわめて理性的だった。
 加えて、ボルシェヴィキは十月革命前に、ロシアはヨーロッパの帝国主義戦争から即時に撤退すべきだと言明していた。
 しかしながら、十月でもってボルシェヴィキは「平和政党」(peace party、平和主義の党)だと理解するのは、相当の誤解を招くだろう。
 十月にケレンスキーに対抗してボルシェヴィキのために闘う気持ちのあったペテログラードの労働者たちには、ドイツ軍に対抗してペテログラードのために闘う気持ちもあった。
 この戦闘的な雰囲気は、1918年の最初数ヶ月のボルシェヴィキ党へ強く反映されていた。そしてこれはのちには、内戦を闘う新体制にとって大きな財産になることになった。
 ブレストでの交渉の時点でレーニンには、ドイツとの講和に調印する必要についてボルシェヴィキ中央委員会すらをも説得することが、きわめて困難だった。
 党の「左翼共産主義者」は、侵略者ドイツに抵抗する革命的ゲリラ戦争を主張した。-「左翼共産主義者」とは若きブハーリン(Nikolai Bukharin)らのグループで、のちにブハーリンは、指導層内部でのスターリンの最後の対立者として歴史上の位置を占めた。
 そしてこの当時はボルシェヴィキと連立していた左翼エスエルも、同様の立場を採った。
 レーニンは最後には、退任すると脅かして、ボルシェヴィキ党中央委員会による票決を迫った。それは、じつに苦しい戦いだった。
 ドイツが攻撃に成功してその後で課した条件は、1月に提示したものよりも相当に苛酷なものだった。
 (しかし、ボルシェヴィキは好運だった。ドイツはのちにヨーロッパ戦争に敗れ、その結果として東部の征圧地を失ったのだから。)//
 ブレスト=リトフスクの講和によって、軍事的脅威からの短い息抜きだけが生じた。
 旧ロシア軍の将校たちは南部のドンやクバンのコサック地帯に兵を集結させており、提督コルチャク(Kolchak)は、シベリアに反ボルシェヴィキ政権を樹立していた。
 イギリスは兵団をロシア北部の二つの港、アルハンゲルスク(Arkhangelsk)とムルマンスクに上陸させた。表向きはドイツと戦うためだったが、実際には新しいソヴェト体制に対する地方の反対勢力を支援する意図をも持って。//
 戦争の不思議な成り行きで、非ロシア人の兵団ですら、ロシア領土を通過していた。-およそ3万人のチェコ人軍団で、ヨーロッパ戦争が終わる前に西部前線に達する希望をもっていた。チェコ軍団はそうして、連盟諸国の側に立って旧宗主国のオーストリアと戦い、民族の独立という彼らの主張を実現したかったのだ。
 ロシアの側から戦場を横切ることができなかったので、チェコ軍はシベリア横断鉄道で<東>へとありそうにない旅をしてウラジオストクにまで行き、船でヨーロッパに帰ろうと計画した。
 ボルシェヴィキは、そのような旅を公式に認めなかった。しかし、地方のソヴィエトは武装した外国人の一団が経路途上で鉄道駅に着くのに敵意をもって反応していたが、こうした反応がなくなったのではなかった。
 1918年5月、そのチェコ軍は、ボルシェヴィキが支配していたチェリャビンスク(Chelyabinsk)というウラルの町のソヴィエトと初めて衝突した。
 別のチェコ軍の一団は、ボルシェヴィキに対抗してエスエルが短命のヴォルガ共和国を設立しようと起ち上がったとき、サマラのロシア・エスエルを支援した。
 チェコ軍はロシアの外で多少とも戦いながら進んで、終わりを迎えた。そして、全員がウラジオストクを去って船でヨーロッパに戻ったのは、多くの月を要した後だった。//
 内戦それ自体は-ボルシェヴィキの「赤軍」対反ボルシェヴィキの「白軍」-、1918年夏に始まった。
 この時期にボルシェヴィキは、首都をモスクワに移転させた。ドイツ軍が攻略するという脅威をペテログラードは逃れていたが、将軍ユデニチ(Yudenich)が指揮する白軍の攻撃にさらされたからだ。
 しかし、国家の大部分はモスクワの有効な統制のもとにはなかった(シベリア、南部ロシア、コーカサス、ウクライナおよび地方ソヴェトを間欠的に都市的ソヴェトが支配したウラルやヴォルガの地域の多くをも含む)。そして、白軍は、東部、北西部および南部からソヴェト共和国を脅かした。
 連盟諸国の中で、イギリスとフランスはロシアの新体制にきわめて敵対的で、白軍を支援した。それらの直接的な軍事介入は、かなり小さな規模だったけれども。
 アメリカ合衆国と日本は、シベリアに兵団を派遣した。-日本軍は領域の獲得を望んで、アメリカ軍は混乱しつつ、日本を抑え、シベリア横断鉄道を警護しようとした。またおそらくは、アメリカの民主主義の規準で推測すれば、コルチャクのシベリア政権を支援するために。//
 ボルシェヴィキの状況はじつに1919年に、絶望的に見えた。そのとき、彼らが堅く支配している領土は、大まかには16世紀のモスクワ大公国(Muscovite Russia)と同じだった。
 しかし、対立者〔白軍側〕もまた、格別の問題を抱えていた。
 第一に、白軍はほとんどお互いに独立して活動し、中央の指揮や協力がなかった。
 第二に、白軍が支配する領域的基盤は、ボルシェヴィキのそれ以上に希薄なものだった。
 白軍が地域政府を設立したところでは、行政機構を最初から作り出さなければならず、かつその結果はきわめて不満足なものだった。
 歴史的にモスクワとペテルブルクに高度に集中していたロシアの輸送や通信制度は、周縁部での白軍の活動を容易にはしなかった。
 白軍は赤軍だけではなくて、いわゆる「緑軍」にも悩まされた。-これは農民とコサックの軍団で、いずれの側にも忠誠を与えず、白軍が根拠にしていた遠い辺鄙な地帯で最も行動した。
 白軍は旧帝制軍隊出身の将校たちを多く有していたが、彼らが指揮をする兵士の新規募集や徴用によって兵員数を確保するのは困難だった。//
 ボルシェヴィキの戦力は、1918年春に戦争人民委員となったトロツキーが組織した赤軍だった。
 赤軍は最初から設立されなければならなかった。旧ロシア軍の解体が早く進みすぎて、止められなかったからだ(ボルシェヴィキは権力奪取後すぐに、全軍の動員解除を発表した)。
 1918年最初に形成された赤軍の中心は、工場出身者による赤衛隊および旧軍や艦隊出身のボルシェヴィキの一団で成っていた。
 この赤軍は自発的な募兵によって膨らみ、1918年夏からは、選抜しての徴兵になった。 労働者と共産党員は、初めて徴兵されることになった。そして、内戦の間ずっと、戦闘兵団のうちの高い割合を提供した。
 しかし、内戦の終わりまでに、赤軍は、主としては農民徴兵者の、500万以上の入隊者のいる大量の組織になった。
 これらの約10分の1だけが戦闘兵団で(赤軍と白軍の両派が配置した戦力は、ある特定の前線では10万人をほとんど超えなかった)、残りの者は供給、輸送または管理的な仕事に就いた。
 赤軍はかなりの範囲で、民間人による行政が破壊されて残した空隙を充填しなければならなかった。すなわち、そのような行政機構は、ソヴェト体制が近年に持つ、最大でかつ最もよく機能する官僚制を伴っていた。また、全ての利用可能な資産の中で最初に欲しいものだった。//
 多くのボルシェヴィキは、赤衛隊のようなmilitia(在郷軍、民兵)タイプの一団をイデオロギー的に好んだ。しかし、赤軍は最初から通常の軍隊の方向で組織され、兵士は軍事紀律に服し、将校は選挙されないで任命された。
 訓練をうけた軍事専門家が不足していたので、トロツキーとレーニンは旧帝制軍出身の将校たちを使おうと強く主張した。この政策方針は、ボルシェヴィキ党内でかなり批判され、軍事反対派は連続する二つの大会で反対にしようとしたけれども。
 内戦の終わりまでに、赤軍には5万人以上の以前は帝制軍将校だった者がいた。そのほとんどは徴兵されていて、上級軍事司令官の大多数はこのグループの出身だった。
 旧将校たちが忠実であるのを確保するために、彼らは通常は共産党員である政治委員に付き添われた。政治委員は、全ての命令に副署して、軍事司令官と最終的責任を共有した。//
 この軍事力に加えて、ソヴェト体制はすみやかに治安機構を設立した。-反革命、怠業および投機と闘争するための全ロシア非常時委員会で、チェカ(Cheka)として知られる。 この組織が1917年12月に創立されたとき、その直接の任務は、十月の権力奪取後に続いた、強盗団、略奪および酒類店の襲撃の発生を統制することだった。
 しかし、それはすぐに、保安警察というより幅広い機能を有して、反体制陰謀に対処した。また、ブルジョア的「階級敵」、旧体制や臨時政府の役人たちおよび反対政党の党員などの、忠誠さが疑わしい集団を監視した。
 チェカは、内戦開始後はテロルの機関になり、処刑を含む略式の司法的機能をもち、白軍の指揮下にあるか白軍へと傾いている地域で、大量に逮捕し、手当たり次第に人質に取った。
 1918年および1919年前半での欧州ロシアの20州に関するボルシェヴィキによる統計数によると、少なくとも8389人が審判を受けることなくチェカによって射殺され、8万7000人が拘束された。(9)
 ボルシェヴィキのテロルと同等のものは白軍にあり、ボルシェヴィキ支配下の領域で反ボルシェヴィキ勢力によって行われた。そして、同じような残忍さが、どちらの側にもあった。
 しかしながら、ボルシェヴィキは自分たちがテロルを用いていることについて率直に認めていた(このことは、略式司法だけではなくて、特定の集団または民衆全体を威嚇するための、個々の罪とは関係がない無作為の制裁があったことを示唆する)。
 ボルシェヴィキはまた、暴力行使について精神的に頑強であることを誇りにしていた。ブルジョアジーの口先だけの偽善を嫌がり、プロレタリア-トを含むいかなる階層の支配に対しても、別の階層に対する強制力の行使に関係させることを認めたのだ。
 レーニンとトロツキーは、テロルの必要性を理解できない社会主義者に対する侮蔑を明言した。
 レーニンは、「怠業者や白軍兵士を射殺する意欲がなかったならば、革命とはいったいどんな種類のものなのだ?」と新政府の同僚たちに説諭した。(10) 
 ボルシェヴィキが歴史上にチェカの活動との類似物を探し求めたとき、彼らはふつうに、1794年のフランスの革命的テロルに論及した。
 彼らはいかなる類似性も、帝制下の秘密警察には見出さなかった。西側の歴史研究者はしばしば、それを引き合いに出すけれども。
 チェカは実際に、旧警察よりもはるかに公然とかつ暴力的に活動した。そのやり方は、一つには1917年にその将校に対処したバルト艦隊の海兵たちによる階級的復讐、あるいは二つには1906-7年のストリュイピンによる田園地帯の武力による鎮圧とはるかに共通性があった。
 帝制期の秘密警察との類似性は内戦後について語るのが適切になった。内戦後にチェカはGPU(国家政治保安部)に置き換えられ-テロルの廃止と合法性の拡大への動き-、保安機関はその活動方法についてより日常的で官僚的で、慎重なものになった。 
 長期的観点から見ると、帝制秘密警察とソヴィエトのそれの間には、明らかに継続性の要素が強くあった(明らかに人員上の継続性はなかったけれども)。
 そして、それが明瞭になるにつれて、保安機能に関するソヴィエトの説明は捕捉し難い、偽善的なものになった。//
 赤軍とチェカはともに、内戦でのボルシェヴィキの勝利に重要な貢献をした。
 しかしながら、この勝利を単純に軍事力とテロルの観点から説明するのは適切でないだろう。とりわけ、赤軍と白軍の間の戦力の均衡度を査定する方法を誰も見出していなかったのだから。
 社会による積極的な支援と消極的な受忍が考察されなければならない。そして、これらの要因が、おそらくは最も重要だった。
 赤軍は積極的支持を都市的労働者階級から得て、ボルシェヴィキはその組織上の中核部分を提供した。
 白軍は積極的支持を旧中間および上層階級から得て、その一部は主要な組織活動家として働いた帝制時代の将校団だった。
 しかし、均衡を分けたのは確実に、人口の大多数を占める農民層だった。//
 赤軍も白軍もいずれも、それらが支配する領域で農民を徴兵した。そしていずれの側にも、かなりの割合で脱走があった。
 しかしながら、内戦が進展するにつれて、農民の徴兵が顕著に困難になったのは、赤軍以上に白軍だった。
 農民たちは穀物徴発というボルシェヴィキの政策に憤慨していた(後述、p.82-83を見よ)。しかし、この点では白軍の政策も変わりはなかった。
 農民たちはまた、1917年のロシア軍での体験がたっぷりと証明していたので、誰かの軍で働く大きな熱意がなかった。
 しかしながら、1917年に農民の支持が大きく低下したのは、土地奪取と村落による再配分と密接に関係していた。
 この過程は1918年末までには、ほぼ完了した(このことは軍役に対する農民の反感を減らした)。そして、ボルシェヴィキはこれを是認した。
 一方で白軍は、土地奪取を是認しないで、従前の土地所有者の要求を支持した。
 かくして、土地というきわめて重大な問題について、ボルシェヴィキの方が、より小さい悪だった。(11)//。
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 (8) J. W. Wheeler-Bennett, <ブレスト=リトフスク、忘れられた平和-1918年3月>(New York, 1971), p.243-4. から引用した。
 (9) 数字は、Aleksander I. Solzhenitsyn, <収容所列島、1918年-1956年>、訳・Thomas P. Whitney(New York, 1974),ⅰ-ⅱ, p.300. から引用した。
 ペテログラードでのチェカの活動につき、Mary McAuley, <パンと正義-ペテログラードにおける国家と社会、1917年-1922年>(Oxford, 1991), p.375-393. を見よ。
(10) テロルに関するレーニンの言明の例として、W. Bruce Lincoln, <赤の勝利-ロシア内戦史>(New York, 1989)を見よ。
 トロツキーの考え方につき、彼の<テロルと共産主義: カウツキー同志に対する返答>(1920)を見よ。
 (11) 農民の態度につき、Orland Figes, <農民ロシア、内戦: 革命期のヴォルガ田園地帯・1917年-1921年>(Oxford, 1989)を見よ。
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 第三章・内戦のうち「はじめに」と第1節(内戦・赤軍・チェカ)が終わり。

1794/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)の構成。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)は1941年生まれのオーストラリアのロシア・ソ連史の専門研究者で、のちイギリスやアメリカに移る(前回にイギリスの、としたのは正確ではない)。
 Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 =シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命。
 これの(本文の)内容構成は、つぎのとおり。()は明記されていない。「第*節」という語もなく、見出しだけがある。「章」という語もないが、こちらには数字はある。
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 序論
  (はじめに)
  第1節・革命の時期的範囲。
  第2節・革命に関する著作物。
  第3節・革命の解釈。
  第4節・第四版への注記。
 第一章・初期設定(The Setting)。
  第1節・社会。
  第2節・革命的伝統。
  第3節・1905年革命とその後、第一次大戦。
 第二章・二月革命と十月革命。
  第1節・二月革命と「二重権力」。
  第2節・ボルシェヴィキ。
  第3節・民衆の革命。
  第4節・夏の政治的危機。
  第5節・十月革命。
 第三章・内戦。
  第1節・内戦、赤軍およびチェカ。
  第2節・戦時共産主義。
  第3節・新世界の見通し。
  第4節・権力にあるボルシェヴィキ。
 第四章・ネップと革命の未来。
  第1節・退却という紀律。
  第2節・官僚制の問題。
  第3節・指導者をめぐる闘い。
  第4節・一国での社会主義建設。
 第五章・スターリンの革命。
  第1節・スターリン対右翼。
  第2節・工業化への衝動。
  第3節・集団化。
  第4節・文化の革命。
 第六章・革命の終焉。
  第1節・「達成された革命」。
  第2節・「裏切られた革命」。
  第3節・テロル
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 以上。試訳なので、正確さを期すためには本文を読んでの再検討が必要な語がありうる。

1672/共産党独裁①-L・コワコフスキ著18章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第4節へと進む。第2巻単行著の、p.485以下。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁①。
 しかしながら、この新しい情勢は、党の中に意見の不一致を呼び覚ますという別の新しい変化をもたらした。
 革命前の全ての約束が、突然に、紙の屑になってしまった。
 レーニンは、高級官僚や専門家たちと技能労働者等との間の報酬を同等化するために、常設軍と警察を廃止しようと企てていた。また彼は、武装する人民は直接に支配権を行使する、と約束していた。
 革命のすぐ後で、そしてネップよりもかなり前に、これらは空想家の夢であることが明らかになった。
 職業的将官幹部たちを伴う軍が、他の全ての軍隊と同じく、階級と厳格な紀律にもとづいて直ちに組織されなければならなかった。
 トロツキーは、赤軍の主な組織者としての秀れた才能を示した。そして、内戦を勝利に導いた主要な設計者だった。
 用いられた方法は、きわめて徹底的だった。敵対者は捕えられて処刑され、逃亡者およびその隠匿者は射殺され、規律に違反した兵士たちも同じだった、等々。
 しかし、このような手段は、大規模の信頼できる武装軍隊なくしては、取ることができなかっただろう。
 威嚇とテロルによって軍団をきちんと維持するためには、反テロル活動も力強くある状況でそのテロルを用いる意思を十分に持つ、そういう者たちが存在しなければならなかった。    
 革命後すぐに、政治警察の部隊を設定することが必要になった。これは、フェリクス・ジェルジンスキー(Feliks Dzerzhinsky)によって、効率よく設立された〔チェカ、Cheka〕。
 専門家たちを優遇しなければ生産活動を組織することができないこと、脅迫だけにもとづいてそれを行うことはできないこと、はすぐに明らかになった。
 1918年4月にもう、レーニンは、『ソヴェト政府の当面の任務』において、この点で『妥協』してパリ・コミューンの原理から離れることが必要だ、と認識していた。
 レーニンはまた、革命の最初から、ブルジョアジーから学ぶことが重要だ、と強く述べていた(ストルーヴェ(Struve)は、その時代には、同じことを言って裏切り者だと烙印を押された)。
 1918年4月29日の中央執行委員会では、社会主義はブルジョアから学ばなくとも建設することができると考える者は、中央アフリカの原住民の精神性をもっている、と語った。
 (全集27巻、p.310〔=日本語版全集27巻「全ロシア中央執行委員会の会議」313頁〕。)
 レーニンは、その著作物や演説で、『文明化(civilization)』、すなわち産業や国家を作動させていくために必要な技術上および行政上の専門能力、に対する関心をますます喚起した。
 共産主義者は傲慢であることをやめ、無知であることを受け入れ、このような専門能力をブルジョアジーから学ばなければならない、と強調した。
 (レーニンはつねに、政治的な扇動や戦闘を目的にしている場合を除いて、共産主義者をきわめて信用しなかった。ゴールキがボルシェヴィキの医師に相談したと聞いた1913年に、彼はすぐに、アホに決まっている『同志』ではない、本当(real)の医師を見つけるように強く勧める手紙を書いた。)
 1918年5月に、レーニンは、パリ・コミューンよりも良いモデルを思いついた。すなわち、ピョートル大帝(Peter the Great)。
 『ドイツの革命はまだゆっくりと「前進」しているが、我々の任務はドイツの国家資本主義を学習すること、それを真似る(copy)のに努力を惜しまないこと、<独裁的(dictational)>な方法を採用するのを怯まないで、急いで真似ること、だ。
 我々の任務は、ピョートルが野蛮なロシアに急いで西側を模写させたよりももっと急いで、この模写(copy)をすることだ。
 そして、野蛮さと闘うためには、この野蛮な方法を用いるのを躊躇してはならない。』(+)
 (『「左翼」小児病と小ブルジョア性』。全集27巻、p.340〔=日本語版全集27巻343-4頁〕。)
 産業の統制に関する一体性の原理がすみやかに導入され、工場の集団的な管理という夢想は、サンディカ主義的な逸脱だと非難された。//
 かくして、新しい社会は、一方では技術上および行政上の知識の増大によって、他方では強制と威嚇という手段によって、建設されることになった。
 ネップは、政治および警察によるテロルを緩和させなかったし、そのように意図しもしなかった。
 非ボルシェヴィキの新聞は内戦の間に閉鎖され、再び刊行が許されることはなかった。
 社会主義的反対諸党、メンシェヴィキとエスエルはテロルに遭い、絶滅(liquidate、粛清)された。
 大学の自治は、ついに1921年に抑圧された。
 レーニンは決まっていつも、『いわゆる出版の自由』は集会の自由や政党結成の自由と同じくブルジョアの欺瞞だ、ブルジョア社会ではふつうの者は新聞印刷機や集会する部屋を持っていないのだから、と繰り返した。
 今やソヴェト体制がこれらの設備を『人民』に与えるならば、人民は明らかにそれをブルジョアジーが欺瞞的な目的のために使うのを許さないだろう。そして、メンシェヴィキとエスエルがブルジョア政党の位置へと落ち込んだならば、彼らもまた、プロレタリア-ト独裁に屈服しなければならない。
 レーニンは、1919年2月のメンシェヴィキ新聞の閉刊を、つぎの理由で正当化した。
 『ソヴェト政府は、まさにこの最終的、決定的で最も先鋭化している、地主や資本家の軍団との武装衝突の時機に、正しい信条のために闘う労働者や農民と一緒に大きな犠牲に耐え忍ぼうとしない者たちを我慢することはできない。』(+)
 (全集28巻p.447〔=日本語版全集28巻「国防を害したメンシェヴィキ新聞の閉鎖について」482頁〕。)
 1919年12月の第七回ソヴェト大会で、レーニンは、マルトフ(Martov)がボルシェヴィキは労働者階級の少数派しか代表していないと非難するとき、この人物は『帝国主義者の野獣ども』-クレマンソー(Clemenceau)、ウィルソンおよびロイド・ジョージ(Lloyd George)-の言葉を使って語っているのだ、と宣告した。
 この論理的な帰結は、『我々はつねに警戒していなければならず、チェカ〔政治秘密警察〕が絶対に必要だと認識しなければならない!』、ということだった。
 (全集30巻p.239。)//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1518/ネップ期・1921年飢饉③-R・パイプス別著8章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・1921年の飢饉③。
 1921年の5月と6月、レーニンは国外から食糧を購入するように命じた。しかしそれは、彼の主な関心である都市住民に対して食を与えるためで、農民に対してではなかった。(186)
 飢饉はレーニンを当惑させたが、それは反対の政治的結果が生じる恐れが潜在的にせよあるかぎりにおいてだった。
 例えば、レーニンは1921年6月、飢えの結果として生じている『危険な状況』について語った。(187)
 そして彼は、すでに我々が見たように、正教教会に対する攻撃を開始する口実として飢餓を利用した。
 1921年7月に、ジェルジンスキーはチェカに、飢饉の被災地帯での反革命の脅威について警告し、苛酷な予防措置を取るように命じた。(188)
 収穫の減少についていかなる示唆をすることも、新聞には禁止された。7月初めにすら、農村地帯では全てがうまくいっているとの報道が続いた。
 ボルシェヴィキ指導者層は、飢饉とのいかなる明らかな連関に言及することも注意深く避けた。
 クレムリンの農民たち代表者であるカリーニンは、被災地域を訪れた唯一の人間だった。(189)
 飢饉が最悪点に達していた8月2日、レーニンは『世界のプロレタリアート』への訴えを発し、素っ気なく、『ロシアの若干の地方で、明らかに1891年の不運よりも僅かにだけ少ない飢餓が生じている』と記述した。(190)
 この時期にレーニンのが書いたものや語ったもののいずれにも、飢餓で死んでいく数百万人の彼の国民に対する同情の言葉は、何一つ見出すことができない。
 実際に、レーニンにとっては飢饉は、政治的には決して歓迎されざるものではなかった、ということが示唆されてきた。
 なぜならば、飢饉は農民たちを弱体化し、その結果として飢饉は『農民反乱のような類を全て一掃した』、そして食糧徴発の廃止によるよりももっと早くにすら村落を『平穏にした』のだから。(191)//
 クレムリンは7月にようやく、誰もが知っていること、国土が悲惨な飢饉に掴まえられていること、を承認しなければならなかった。
 しかし、クレムリンは直接にそうしたのではなく、したくはない告白をして私的な方途を通じた援助を求める口実にすることを選んだのだった。
 確実にレーニンの同意を得て、ゴールキは7月13日に、食糧と医薬品を求めて『敬愛する全ての人々へ』と題する訴えを発した。
 7月21日に政府は、市民団体指導者の要請にもとづいて飢餓救済のための自発的な民間人組織を形成することに同意した。
 全ロシア飢餓救済公共委員会(Vserossiiskii Obshchestvenny Komitet Pomoshchi Golodaiushchim、略称して Pomgol)と呼ばれたそれは、多様な政治組織に属する73人の委員をもち、その中にはマクシム・ゴールキ、パニナ伯爵夫人、ヴェラ・フィグナー、S・N・プロコポヴィッチとその妻、エカテリーナ・クスコワが、著名な農業学者、医師や作家などとともにいた。(192)
 この委員会は、類似の苦境にあった帝制政府を助けるために1891年に設立された飢饉救済特別委員会を、模したものだった。異なっていたのは、レーニンの指令にもとづいて、12人の有力な共産党員から成る『細胞(cell)』があったことだ。
 カーメネフが長として、アレクセイ・リュイコフが次長として働いた。
 このことは、共産主義ロシアで許可された初めての自立組織が、指定された狭い範囲の機能から逸脱しない、ということを確実にした。//
 7月23日、アメリカ合衆国商務長官のハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover〔共和党、のち1929-33年の大統領〕)が、ゴールキの訴えに反応した。
 フーヴァーは、アメリカ救済委員会(ARA)を設立して〔第一次大戦の〕戦後ヨーロッパに食糧と医薬品を供給する仕事に大成功していた。
 彼は確固たる反共産主義者だったが、政治は別に措いて、飢饉からの救済に精力的に没頭した。
 フーヴァーは、二つの条件を提示した。一つは、救済の指揮管理に責任をもつアメリカの組織には、共産党の人員からの干渉を受けることのない独立した活動が認められること。二つは、ソヴィエトの監獄に拘禁されているアメリカ市民を釈放すること。
 アメリカ人救済担当者は治外法権を享有するとのこの主張は、レーニンを激しく怒らせた。彼は、〔共産党中央委員会〕政治局に書いた。
 『アメリカの基点、フーヴァー、そして国際連盟は、珍しくひどい。
 『フーヴァーを懲らしめなければならない。
 <彼の顔を公衆の面前で引っぱたいて、全世界が>見るようにしなければならない。
 同じことは、国際連盟についても言える。』
 レーニンは私的にはフーヴァーを『生意気で嘘つきだ』と、アメリカ人を『欲得づくの傭兵だ』と描写した。(193)
 しかし、彼には実態としては選択の余地はなく、フーヴァーの条件を呑んだ。//
 ゴールキは7月25日、ソヴィエト政府に代わって、フーヴァーの申し出を受諾した。(194)
 ARAは8月21日にリガで、マクシム・リトヴィノフとともに、アメリカの援助に関する協定書に署名した。
 フーヴァーはまず、アメリカ議会からの1860万ドルを寄付し、それに民間人の寄付やソヴィエト政府が金塊を売って実現させた1130万ドルが追加された。
 その活動を終えるときまでに、ARAはロシアの救済のために6160万ドル(あるいは1億2320万金ルーブル)を使い果たした。(*)//
 協定書が結ばれたときに、レーニンは、ポムゴル(Pombgol〔全ロシア飢餓救済公共委員会〕)に関して小文を書いた。
 彼はこの組織を、敵である『帝国主義者』に助けを乞うたという汚名が生じるのを避けるために、仲介機関として利用した。
 この組織はこの目的に役立ったが、今やレーニンの怒りの矢面に立たなければならなかった。
 レーニンは8月26日、スターリンに対して政治局に以下のことを要求するように頼んだ。すなわち、ポムゴルを即時に解散させること、および『仕事に本気でないこと(unwillingness)』を尤もらしい理由としてポムゴルの幹部たちを投獄するか追放すること。
 彼はさらに、二ヶ月の間、一週間に少なくとも一度、その幹部たちを『百の方法で』、『嘲笑し』かつ『いじめて悩ませる』ように新聞に対して指示するように、命じた。(195)
 レーニンが要請して開催された政治局会議で、トロツキーはこれを支持して、ARAと交渉している間、アメリカ人は一度もこの委員会〔ポムゴル〕に言及しなかった、と指摘した。(196)
 その次の日、先陣のARA一行がロシアに到着し、ポムゴルの委員たちと一緒にカーメネフと会ったとき、ポムゴル全幹部の二人以外はチェカに拘束されて、ルビャンカに投獄された(ゴールキはあらかじめ警告されていたらしく、出席しなかった)。(197)
 彼らはそのあと、あらゆる形態の反革命の咎で新聞によって追及された。
 処刑されると広く予想されていたが、ナンセンが仲裁して、彼らを救った。
 彼らが監獄から釈放されたのち、何人かは国内に流刑となり、別の者は国外に追放された。(198)
 ポムゴルは、解体される前にもう一年の間、政府の一委員会として生き長らえた。(199)//
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  (186) レーニン, PSS, LII, p.184-5, p.290, p.441-2; LIII, p.105。
  (187) 同上, XLIII, p.350。
  (188) G. A. Belov, et al., ed, <略> (1958), p.443-4。
  (189) ペシブリッジ, 一歩後退, p.117。
  (190) レーニン, PSS, XLIV, p.75。
  (191) ペシブリッジ, 一歩後退, p.119。
  (192) イズベスチア, No. 159-1302 (1922年7月22日), p.2。エレ, in : 雑誌・ノート, XX, No. 2 (1979), p.131-172。フィッシャー, 飢饉, p.51。
  (193) レーニン, PSS, LIII, p.110-1, p.115。
  (194) フィッシャー, 飢饉, p.52-53。
  (*) H・H・フィッシャー, ソヴェト・ロシアの飢饉 (1927), p.553。
 ソヴィエトの金売却の収益は、もっぱら都市住民の食糧を購入するために使われたように思われる。
 外国人が飢饉のロシアへの食糧供給を助けたという最も古い事例は、1231-32年のノヴゴルード(Novgorod)であった。そのとき、飢餓のために人口が減っていた地域の人々を救ったのは、ドイツからの船便輸送による食糧だった。Novyi Entsikopedicheskii Slovar', XIV , 40-41。
  (195) レーニン, PSS, LIII (1965), p.141-2 で、初めて公表された。
  (196) B・M・ヴァイスマン, ハーバート・フーヴァーとソヴェト・ロシアの飢饉救済 (1974), p.76。
  (197) ミシェル・エレ, Pomoshch 入門 (1991), p.2。
  (198) ウンシュリフトのレーニンあて報告(1921年11月21日), in : RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 1023。
  (199) ミシェル・エレ, in :雑誌・ノート, XX, No. 2 (1979), p.152-3。イズベスチア, No. 206/1645(1922年9月14日), p.4。
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 ④につづく。

1509/ネップ期の「見せしめ」裁判③-R・パイプス別著8章8節。

 前回のつづき。
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 第8節・エスエル「裁判」③。
 モスクワの聖職者たちに対する手続の結論が出て1月後、そして同様の訴訟がペテログラードの聖職者たちに開始される4日前、1922年6月6日に、裁判は開廷された。
 起訴状は、被告人たちを一般には反逆とテロルの行為とともにソヴェト国家に対する武装闘争をしたとして追及した。個別には、1918年8月のファニー・カプランによるレーニン暗殺企図とタンボフ反乱のいずれも組織したというのが起訴理由だった。
 かつてモスクワのクラブ・貴族だった舞踏場で行なわれた裁判を見るためには、ほとんど信頼できる党活動家にのみ発行された入場券が必要だった。
 観衆たちは政治劇が上演されているふうに行動し、訴追に拍手を浴びせ、被告人やその弁護人たちをやじった。
 外国人弁護団は最初に、つぎのような、いくつかの手続の特徴に抗議した。すなわち、裁判官全員が共産党員であること、弁護のための多くの目撃証人が証言を妨害されていること、法廷への入場が数名の被告人の友人以外には認められていないこと。
 裁判官は、あれこれの抗議を、ソヴェト法廷は『ブルジョア』的規則を遵守する義務はないという理由で、却下した。 
 裁判の八日め、死刑判決は下されないだろうというその約言をラデックが撤回したあとで、また、速記者をつける権利を含むその他の要求が却下されたあとで、4人の外国人弁護士が、『司法の下手な模造劇(parody)』への参加をやめると発表した。
 そのうちの一人はあとで、この裁判について『人間の生命をまるで雑貨物であるかのごとく取り扱っている』、と書いた。(152)//
 二週間後、手続はもっと醜悪な変化すら見せた。
 6月20日に、政府機関はモスクワの赤の広場で、大量の示威行進を組織した。
 群衆の真ん中で、主席裁判官が検察官と並んで行進した。群衆は、被告人たちへの死刑判決を要求した。
 ブハーリンは、群衆に熱弁を奮った。
 被告人はバルコニーの上に姿を見せて、罵声を浴びて、大群衆の脅かしに晒されることを強いられた。
 のちに、選ばれた『代表団』は法廷へと招き入れられて、『殺人者に死を!』と叫んだ。
 この嘲笑裁判で卑劣な役を演じたブハーリンは、リンチするかのごとき代表群団を『労働者の声』を明確に表現したものとして誉め称えた。このような嘲笑裁判は、16年のちに、もっと捏造された咎でブハーリン自身を非難して死刑を言い渡した裁判と、ほとんど異ならなかった。
 ソヴィエト映画界の有名人、ジガ・ヴェルトフが指揮したカメラは、このできごとを撮影した。(153)//
 エスエルたちは、公正な聴問に似たものを何も受けられなかったけれども、共産主義体制に関して遠慮なく批判する機会を得た-これが、ソヴィエトの政治裁判で可能だった最後ということになった。
 メンシェヴィキが被告人席に立つ順番になった1931年には、証言は注意深くあらかじめ練習させられ、文章の基本は検察側によってあらかじめ準備された。(154)//
 レーニンが予期されることを広汎に示唆していたので、8月7日に宣告された評決は、驚きではなかった。
 1922年3月の第11回党大会で、エスエルとメンシェヴィキの考え方を馬鹿にし、レーニンは、『これのゆえに、きみたちを壁に押しつけるのを許せ』と語った。(155)
 ウォルター・デュランティ(Walter Duranty)は、7月23日付の<ニューヨーク・タイムズ>で、訴訟は告発が『真実』であることを示した、被告人の大多数に対する非難は『確か』だった、『死刑判決のいくつかは執行されるだろう』、と報告した。(156)
 被告人たちは、刑法典第57条乃至第60条のもとで判決を受けた。
 そのうち14人は、死刑だった。しかし、検察側と協力した3人は、恩赦をうけた。(*)
 国家側の証人に転じた被告人たちもまた、赦免された。
 第一のグループの者たちは、いっさい自認しなかった。彼らは、裁判官が評決を読み始めたときに起立するのを拒否し、そのために(デュランティの言葉によると)『自分たちの告別式場から』追い出された。(157)//
 ベルリンでのラデックの早まった約言は裁判所に法的に有効でないとされ、恩赦を求めて正規に懇請するのをエスエルたちは拒んだけれども、裁判官たちは、処刑執行の延期を発表した。
 この驚くべき温情は、暗殺に対するレーニンの過敏な恐怖によっていた。
 トロツキーは、その回想録の中で、レーニンに対して訴訟手続を死刑へとは進めないようにと警告し、そうしないで妥協すべきだと示唆した、と書いている。
 『審判所による死刑判決は、避けられない!。
 しかし、それを執行してしまうことは、不可避的にテロルという報復へと波及することを意味する。…
 判決を執行するか否かを、この党〔エスエル〕がなおテロル闘争を続けるかどうかによって決するしか、選択の余地はない。
 換言すれば、この党〔エスエル〕の指導者たちを、人質として確保しなければならない。』(158)//
 トロツキーの賢い頭はこうして、新しい法的な機軸を生み出すに至った。
 まず、冒していない犯罪、かつまた嫌疑はかけられても決して法的には犯罪だと言えない行為について、一団の者たちに死刑の判決を下す。
 つぎに、別の者が将来に冒す可能性がある犯罪に対する人質として、彼らの生命を確保する。
 トロツキーによれば、レーニンは提案を『即座に、かつ安心して』受諾した。//
 裁判官たちは、つぎのことがあれば、死刑判決を受けた11名は死刑執行がされないと発表するように命じられていた。すなわち、『ソヴェト政府に対する、全ての地下のかつ陰謀的なテロル、諜報および反逆の行為を、社会主義革命党〔エスエル〕が現実に止める』こと。(159)
 死刑判決は、1924年1月に、五年の有期拘禁刑へと減刑された。
 このことを収監されている者たちは、死刑執行を待ってルビャンカ〔チェカ/ゲペウおよび監獄所在地〕で一年半を過ごしたのちに、初めて知った。//
 彼らはしかし、結局は処刑された。
 1930年代および1940年代、ソヴェト指導部〔スターリンら〕に対するテロルの危険性はもはや残っていなかったときに、エスエルたちは、計画的にすっかり殺害された。
 ただ二人だけの社会主義革命党活動家が、いずれも女性だったが、スターリン体制を生き延びた、と伝えられる。(160) 
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  (152) ヤンセン, 見せ物裁判, p.66。
  (153) ロジャー・ペシブリッジ(Roger Pethybridge), 一歩後退二歩前進 (1990), p.206。
  (154) メンシェヴィキ反革命組織裁判〔?、露語〕(1933)。
  (155) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.90。
  (156) NYT, 1922年7月27日付, p.19。
  (*) ブハーリンは、G・セーメノフに対しては温情判決を要請した。NYT, 1922年8月6日付, p.16。16年後のブハーリンに対する見せ物裁判では、ソヴェト指導層〔スターリンら〕に対するテロル企図でブハーリンを有罪にするために、セーメノフの名前が呼び起こされることになる。マルク・ヤンセン, レーニンのもとでの見せ物裁判 (1982), p.183。
 セーメノフは、ブハーリンとともに、スターリンの粛清によって死んだ。
  (157) 同上(NYT), 1922年8月10日付, p.40。
  (158) L・トロツキー, わが生涯, Ⅱ (1930), p.211-2。L・A・フォティエワ, レーニンの想い出 (1967), p.183-4 を参照。
  (159) NYT〔ニューヨーク・タイムズ〕, 1922年8月10日付, p.4。
  (160) ヤンセン, 見せ物裁判, p.178。 
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 第8節、終わり。

1501/ネップ期の政治的抑圧②-R・パイプス別著8章7節。

 前回のつづき。
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 第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大②。
 ゲペウ(GPU)は表面的には、チェカほどの専横的権力をもたなかった。
 しかし、現実は違った。
 レーニンとその同僚は、問題は民衆によって引き起こされるが、その災いを作った者を除去すれば問題は解決できる、と考えた。
 ゲペウを設立して一ヶ月も経たない1922年3月に、レーニンはピョートルにつぎのように助言した。ゲペウは『賄賂と闘うことができるし、しなければならない』、反対者を攻撃するその他の経済犯罪も同じだ。
 これを実施するための命令が、政治局を通じて司法人民委員部に送付するこことされた。(121)
 8月10日の布令は、『反革命活動』で告発された国民を、外国かロシアの指定した地方に、三年間まで行政的手続で追放する権限を、内務人民委員部に認めた。(122)
 11月に発せられたこの布令の付属書は、『集団強盗』を相当と判断する程度に処理すること、そして、法的手続によることなく『銃殺で処刑することまで』をゲペウに許した。これはさらに、強制労働を伴う追放〔流刑〕と結びついて強力になった。(123)
 ゲペウの司法上の特権は、1923年1月にさらに増大した。特定の地域(かつロシア共和国の境界内部)に住んでいる者がその活動、その過去あるいは犯罪者集団とのその関係からして革命秩序の警護という観点から危険だと見える(appear)場合には、その者を追放する権限が与えられた。(124)
 帝制時代のように、被追放者は護送車で監護されて、部分的には徒歩によって、苛酷な条件のもとで目的地に到達した。
 追放刑は、理屈上は、ゲペウの勧告にもとづいて内部人民委員部により科された。しかし実際には、ゲペウの勧告は判決文に等しかった。
 1922年10月16日には、ゲペウは審問をすることなく、武力強奪や集団強盗の嫌疑があって現行犯逮捕された者たちを処刑〔殺害〕する権限まで認められた。(125)
 かくして、『革命的合法性』の機関として設立されてから一年以内に、ゲペウは、全ソヴィエト国民の生活を覆うチェカの専制的権力を再び獲得した。//
 ゲペウ・オゲペウは、複雑な構造を進化させ、厳密には政治警察の範囲内にあるとは言えない、経済犯罪や軍隊での反国家煽動のような事件にも権限をもつ、特殊な部署をもった。
 その人員は1921年12月の14万3000人から1922年5月の10万5000人へと減らされたが (126)、それでもなお、強力な組織であり続けた。
 というのは、民間人協力者に加えて、軍隊の形態でのかなりの軍事力を利用したからだ。その数は、1921年遅くには、5万人の国境警備別団を別として、数十万人(hundreds of thousands)に昇った。(127)
 国じゅうに配備されたこれら兵団は、帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)と似た機能を果たした。
 ゲペウは国外に、国外ロシア移民を監視し分解させる、コミンテルンの人員を監督する、という二つの使命をもつ『工作機関(agencies)』(agentury)を設置した。
 ゲペウはまた、国家秘密保護局(Glavit)が検閲法令を実施するのを助け、監獄のほとんどを管理した。
 ゲペウに関与されていない公的な活動領域は、ほとんどなかった。//
 集中強制収容所は、ネップのもとで膨らんだ。その数は、1920年の84から1923年10月には315になった。(128)
 内部人民委員部がいくつかを、その他はゲペウが運営した。
 これら強制収容所のうち最も悪名高いのは、極北に位置していた(『特別指定北部収容所』、SLON)。そこからの脱走は、事実上不可能だった。
 そこには、通常の犯罪者とともに、捕獲された白軍将兵、タンボフその他の地方からの反乱農民、クロンシュタットの水兵たちが隔離されていた。
 収容者の中で死亡する犠牲者の数は、高かった。
 一年(1925年)だけでSLONは、1万8350人の死を記録した。(129)
 この強制収容所が満杯になった1923年の夏に、当局はソロヴェツク(Solovetsk)島の古来の修道院を集中強制収容所に作り変えた。そこは、イヴァン雷帝の代以降、反国家や反教会の罪を犯した者たちを隔離するために使われてきた。
 ソロヴェツク修道院強制収容所は1923年に、ゲペウが運営する最大の収容所になり、252人の社会主義者を含めて、4000人の収容者がいた。(130)//
 『革命的合法性』原理は、ネップのもとで日常的に侵犯された。従前と同様に、ゲペウがもつ司法を超える大きな権力のゆえだけではなく、レーニンが法を政治の一部門だと、裁判所を政府の一機関だと考えていたからだ。
 法についてレーニンが抱く考え方は、ソヴィエト・ロシアの最初の刑法典の草案作成過程で明確になった。
 レーニンは司法人民委員のD・I・クルスキーが提出した草案に満足せず、政治犯罪にどう対処するかに関する細かい指示を出した。
 彼は政治犯罪を、世界のブルジョアジーを『助ける虚偽宣伝活動(プロパガンダ)や煽動、または組織参加や組織支援』と定義した。
 このような『犯罪』に対しては、死による制裁が、あるいは酌量できる情状によっては収監または国外追放という制裁が科されるものとされた。(131)
 1845年のニコライ一世の刑法典は政治犯罪を同様に曖昧に標識化していたが、レーニンの定義は、それに似ていた。ニコライ一世刑法典は、『国家当局または国家要人や政府に対する無礼を掻き立てる記述物や印刷物を書いたり頒布したりする罪』を犯した者には苛酷な制裁を科すことを命じていた。
 しかし、帝制時代には、このような行為に死刑が科されることはなかった。(132)
 レーニンの指示に従って、法律官僚は第57条と第58条、裁判所に反革命活動をしたとされる有害人物ついて判決する専制的な権力を与える抱合せ条項を作成した。
 これら条項を、のちにスターリンは、合法性の外観をテロルに付与すべく利用することになる。
 レーニンの指示の意味を彼が認識していたことは、クルスキーに与えた助言からも明らかだ。レーニンは、つぎのように書いた。
 『原理的なかつ政治的な正しさ(かつたんに狭い司法のみならず)、…<テロルの本質的意味と正当化>…』を提示することが司法部の任務だ、『裁判所は、テロルを排除すべきではなく…、それを実現させて原理的に合法化すべきだ。』(133)
 法の歴史上初めて、法手続の役割は、正義を実施することではなく、民衆をテロルで支配することだ、と明言された。//
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  (121) レーニン, PSS, LIV, p.196。 
  (122) 同上のp.335。
  (123) SUiR, No. 65 (1922年11月6日), 布令 844号, p.1053。
  (124) 同上, No. 8 (1923年3月10日), 1923年1月3日付決定 No. 108, p.185。ゲルソン, 秘密警察, p.249-250。
  (125) イズベスチア, No. 236-1, 675 (1922年10月19日), p.3。
  (126) ゲルソン, 秘密警察, p.228。
  (127) 次の、p. 383n を見よ。
  (128) Andrzei Kaminskii, 1896年から今日までの集中強制収容所 :分析 (1982), p.87。ゲルソン, 秘密警察, p.256-7 参照。
  (129) セルゲイ・マセイオフ, in :Rul' No.3283 (1931年9月13日), p.5。ゲルソン, 秘密警察, p.314 参照。
  (130) ディヴッド・J・ダリン=ボリス・I・ニコレフスキー, ソヴィエト・ロシアの強制労働 (1947), p.173。SV, No. 9-79 (1924年4月17日), p.14。
  (131) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
  (132) リチャード・パイプス, 旧体制, p.294-5。
  (133) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
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 ③につづく。

1499/ネップ期の政治的抑圧①-R・パイプス別著8章7節。

 次の節に入る。
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 第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大①。〔第7節/p.397~403。〕
 条件つきながらも私企業の出現を認めることになる経済統制の緩和は、ボルシェヴィキにとっては、政治的な危険だった。
 ゆえに彼らは、経済の自由化とともに政治的統制をいっそう強くすることを確認した。
 レーニンは第11回党大会〔1922年3月27日-4月2日〕で、矛盾していると見えるこのような政策の理由を、つぎのように説明した。//
 『栄光の大前進のあとで退却(retreat)するのは、たいへん困難だ。
 今では、諸条件は全く異なる。
 以前は、諸君が党規律を遵守しなくても、全員が自分たち自身で押し合って前へと突進した。
 党規律のことが今や、もっと考慮されなければならない。
 党規律が、百倍以上も必要だ。軍全体が退却しているときに、どこで止まればよいかを知ったり、見たりしないからだ。
 狼狽した声がここでいくつか上がれば、それで総逃亡になってしまう。
 そんな退却が実際の軍隊で起きれば、軍は機関銃部隊を展開する。そして、命じられた退却が壊滅的敗走に変われば、軍は命令する、「撃て(Tire)」。正しくそのとおりだ。』(*)//
 こうして1921年~1928年は、経済の自由化と政治的抑圧の増大とが結びついた時期だった。
 政治的抑圧は、ソヴェト・ロシアにまだ存続している自立組織、すなわち正教教会や対抗する社会主義諸党に対する迫害という形をとった。また、知識層や大学界に対しては、とくに危険だと考えられた知識人の大量の国外追放、検閲の強化、刑事法律の苛酷化によって、抑圧が増大した。
 このようなやり方は、ソヴィエト国家が経済自由化に賛成しているまさにそのときに外国に悪印象を生み出す、と主張して反対する者たちがいた。
 レーニンは、ヨーロッパを歓ばせる必要は全くない、ロシアは<私的関係>や公民の事案に国家が介入するのを強化する方向へ『さらに進む』べきだ、と答えた。(116)//
 このような介入の主たる手段は、闇のテロル機関から全方向に広がる枝葉をもつ官僚機構へとネップのもとで変形した、政治警察だった。
 ある内部的指令文書によると、その新しい任務は、経済状態を近くで監視して、反ソヴェト政党や外国資本による『怠業(sabotage)』を阻止すること、国家へと指定された物品が良質で間に合うように配達されるのを確実にすること、だった。(117)
 保安警察がソヴェトの生活のあらゆる側面を貫き透す程度は、その長、フェリクス・ジェルジンスキー(Felix Dzerzhinskii)が就いた地位が示している。
 彼は、あるとき、また別のとき、内務人民委員、交通人民委員、そして国家経済最高会議議長として仕事をした。//
 チェカは完全に憎まれ、無垢な血を流すことに対する悪評は、金を使って人を意のままにすることよりはまだましだった。
 レーニンは1921年遅くに、帝制時代の秘密警察に添うようにこの組織を改革することを決定した。
 チェカは今や、通常の(国家以外の)犯罪に対する権限を剥奪され、それ以降は、司法人民委員部に管理されるものとされた。
 レーニンは1921年12月に、チェカの実績を称えつつ、ネップのもとでは新しい保安の方法が必要で、現在の秩序は『革命的合法性』だ、と説明した。それは、国家の安定化によって政治警察の機能を『狭くする』ことができる、ということだった。(118)//
 チェカは1922年2月6日に廃止され、すぐに国家政治管理局、またはGPU(ゲペウ、Gosudarstvennoe politicheskoe upravlenie)という無害の名前の国家機関が代わった(ソヴィエト同盟の設立後の1924年に、OGPU(オゲペウ)又は『統合国家政治管理局』へと代わる)。
 その管理は変わらず、長がジェルジンスキー、次官はIa. Kh. ピョートル、他の全ての者で、『ルビャンカ〔チェカ本部〕からかき混ぜられたチェカ人はいなかった』。(119)
 帝制時代の警察部局と同様に、GPUは内務省(内務人民委員部)の一部だった。
 それは、『強盗を含む公然たる反革命行動』を鎮圧し、諜報活動(espionage)と闘い、鉄道線路や給水路を守り、ソヴィエト国境を警護し、そして『革命秩序を防衛するための…特殊任務を遂行する』ものとされた。(120)
 その他の犯罪は、裁判所や革命審判所(Revolutionary Tribunals)の管轄に入った。//
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  (*) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕p. 88-P. 89。レーニンは、以前の第10回党大会で、政治問題を解決する手段として機関銃部隊に言及した。労働者反対派の代弁者が機関銃を反対者に向ける脅威について反対したとき、レーニンは、彼の経歴上独特の例に違いないが、詫びて、二度とそのような表現を使わないと約束した。Desiatyi S' ezd, p. 544。
 レーニンは翌年に再び その表現を使ったので、自分の言明を忘れていたに違いない。
 〔レーニンの本文引用部分は、邦訳文がレーニン全集(大月書店)第33巻p.286、にある。そのままなぞった試訳にしてはいない。-試訳者・秋月〕
  (116) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.412。
  (117) RTsKhIDNi, F. 2, op. 2, delo p.1154、1922年2月27日付のS・ウンシュリフトによる草案。
  (118) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕p. 327-329。
  (119) レナード・G・ゲルソン, レーニンのロシアの秘密警察 (1976), p.222。
  (120) イズベスチア, No. 30/1469 (1922年2月8日), p.3。
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 ②につづく。

1497/食糧徴発廃止からネップへ④-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
 今回の最後の、そして第6節最後に一部が引用されるレーニンの文章は、1921年10日18日付<プラウダ>234号に掲載された、レーニン「十月革命四周年によせて」だ。
 これは、レーニン全集第33巻(大月書店、1978年第26刷)p.37~p.46に収載されている。R・パイプスが以下で引用する部分は、p.44-p.45。
 日本共産党・不破哲三らはこれのすぐ後の1921年10月29-31日の「第七回モスクワ県党会議」報告(同年11月3-4日の<プラウダ>248-9号に連載掲載)を重視していて、「十月革命四周年によせて」という重要性がありそうな題の、こちらの報告・演説文は、いっさい無視しているようだ。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行④〔p.393~p.394〕
十分に展開した新経済政策のもとに包括される結果の総体は、疑いもなく有益(beneficial)だった。不均一にそうだったけれども。
 どの程度有益だったかを正確に決定するのは困難だ。というのは、ソヴェトの経済統計は悪名高いほどに信頼のできないもので、依拠する情報源によって数100%もの違いがあるからだ。(*)
 利益はまず先に、農業に現れた。
 好適な気候はもちろん外国からの種子穀物の寄贈や購入によって、1922年のロシアは大豊作だった。
 耕作面積を増加させようとの新しい税政策に助長された農民たちは、生産を膨らませた。
 作付け面積は1925年に、1913年のそれと同等になった。
 しかし、生産額は革命の前よりも低いままで、収穫高もそれに応じて少なかった。
 集団化の前夜にあたる1928年になっても、それは1913年の数字よりも10%低かった。//
 資本不足や機械の旧式化、迅速な改修を妨げる同種の原因によって、工業生産は、もっとゆっくりと成長した。
 レーニンが爆発的な生産を計算した外国に対する諸権利の付与は、ほとんど何も役立たなかった。外国人は、借款不履行(デフォルト)で資産国有の国に投資するのを躊躇したからだ。
 外国資本に敵対的なソヴェト官僚制は、官僚的形式主義(red tape)やその他の逃げ口上の方法を使って、全力で、権利を与えるのを邪魔した。
 そしてチェカ〔国家秘密政治警察〕、のちのGPU〔ゲペウ、同〕は、ロシアへの外国による経済投資をスパイ活動(espionage)の偽装だと扱うことで、その役割を果たした。
 ネップの最後の年(1928年)には、動いている外国企業はソヴェト同盟の中にわずか31しかなかった。資本でいうと(1925年)、わずか3200万ルーブル(1600万ドル)だった。
 大多数の企業は、工業ではなくロシアの自然資源、とくに森林の利用に従事した。森林は、外国資本が権利を得て投資したうちの85%を占めた。(111)//
 ネップは、ボルシェヴィキが社会主義への不可欠のものだと見なす、総合的な経済計画の策定を妨げた。
 国家経済最高会議は、経済を組織するといういかなる考えも放棄し、できる限りで、ほとんど操業していない〔国有〕工業を『信用』という手段で管理することに集中した。
 この信用は、原材料をの融通はむろん、財政上の援助から受けた。その他の原材料は、公開市場で自由に購入した。
 それら工業が費用を自分で賄ったあとでは、生産全体が政府の手に委ねられた。
 経済計画の策定のために、レーニンは1921年2月に、Gosplan として広く知られる、新しい機関を設立した。その直接の任務は、電化のための壮大な計画を実施することで、それは将来の産業および社会主義の発展の基盤を提供することになるとされた。
 レーニンは、ネップの前の1920年にすら、ロシア電化全国委員会(GOELRO)を創設していた。それは来る10年から15年のうちに、主として水力エネルギーを発展させることで国家の電気供給能力を膨大に増加させることになる、とレーニンは期待した。
 レーニンは、この計画が他の諸解消を拒んでいた問題をこの計画の能力が解決できる、という奇想天外な期待を抱いた。
 レーニンの願望は、世に知られるつぎの彼のスローガンに表現されている。
 『ソヴェト+電化=共産主義』。これの精確な意味は、今日まで理解し難いままだ。(112)
 第12回党大会(1923年)の諸決定で、電化は経済計画の中心焦点で、国家経済の将来の『鍵となる石』だと叙述された。
 レーニンにとっては、これが意味するものは、なおも壮麗だった。
 彼は純粋に、電力の普及によって資本主義者精神がその最後の生存稜堡である農民家族経済で破壊されるだろうと、また宗教信仰も根こそぎ掘り返されるだろうと信じた。
 サイモン・ライバーマン(Simon Liberman)は、レーニンがつぎのように言うのを聞いた。農民にとって、電気は神にとって代わるだろう、そして彼らは電気に対して祈祷するだろう、と。(113)//
 計画の全体は、新しい夢想家(Utopian)の企画に他ならなかった。それは、経費を無視しており、金の欠如のゆえに無駄になるものだった。
 その計画の実現には、10年~15年にわたる毎年10億(1ビリオン)ルーブルの経費が必要だった。
 あるロシアの歴史家は、つぎのように書く。
 『かりに国家産業がほとんど静止状態にあり、かつ外国から必要な機械や技術的設計書を買うための穀物輸出も存在しないとすれば、電化計画は現実には『電気-小説』に似ている。』(114)
 現実の全体から見て、1921年3月のあとに導入された経済的手法は、ロシアに共産主義を持ち込むという一度抱かれた希望からすると、厳しい挫折(setback)だった。
 苛酷な力が問題をどこでも決定できる勝利者だったボルシェヴィキは、現実の経済の不変の法則によって敗北した。
 レーニンは、1921年10月に、そのことをつぎのように認めていた。〔以下、上掲レーニン全集による和訳を参考にする。〕
 『われわれは、小農民的な国で物資の国家的生産と国家的配分とをプロレタリア国家の能力にもとづき共産主義的に組織しようと、あてこんで(count)いた。-いや、と言うよりも、つぎのように言うのが正確かもしれない。われわれは、十分に考慮することなくして、そのように想定(仮定、assume)していたのだ。
 実生活は、われわれが誤っていた(mistake)ことを示した。』 (115) //

  (111) A. A. Kisalev, in :新経済政策(Novaia Ekonomicheskaia Politika), p.113。
  (112) レーニン, PSS, XLII〔第42巻〕, P.159。
  (113) Simon Liberman, レーニン・ロシアの建設 (1945), p.60。 
  (114) N. S. Simonovin, ISSSR, No. 1 (1992), p.52。
  (115) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.151。
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 第8章・第6節終わり。

1463/レーニンと警察の二重工作員①-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)

 1908年に、社会民主党の運動は衰退に入った。その理由の一つは、知識人の革命への熱望が冷めたこと、二つは警察の潜入によって地下活動がほとんど不可能になったことだ。
 治安維持機関は、上から下まで、社会民主党の組織の中に入り込んだ。党員たちは逃げる前に日に晒され、逮捕された。
 メンシェヴィキはこの状況に、合法活動をすることを強調する新しい戦略でもって対応した。すなわち、出版物発行、労働組合の組織化、ドウーマでの活動。 
 いくらかのメンシェヴィキは、社会民主党を労働者党に置き換えることを望んだ。
 彼らは非合法活動をいっさい放棄するつもりではなかった。しかし、綱領問題の大勢は、党が労働者に奉仕するほど多くは労働者を指導しない、民主主義的な労働組合主義へと進んだ。
 レーニンには、これは呪詛の対象だった。彼はこのような戦略を支持するメンシェヴィキに、『清算人(liquidators)』とのラベルを貼った。彼らの狙いは党を清算し、革命を放棄することだからだ。
 レーニンの用語である『清算人』は、反革命主義者と同じ意味になった。//
 にもかかわらずレーニンも、警察による弾圧によって生じた困難な条件に適応しなければならなかった。
 彼は、対応するために、自分の組織に潜入した警察工作員を自分の目的で利用した。
 以下について確実なことは何もありえないけれども、そうでなくとも幻惑的な、工作員挑発者(agent provocateur)・マリノフスキーの事件は、最も納得できる説明になっているように見える。マリノフスキーは、しばらくの間(1912-14年)、ロシアのレーニン党派の代議員で、ドゥーマ・ボルシェヴィキ議員団の代表者だった。 
 それは、ウラジミール・ブルツェフの見解では、もっと有名なエヴノ・アゼフ事件を超えすらする重要性をもつ、警察による挑発の事件だった。(106)//
 レーニンは、支持者たちに第一回ドゥーマの選挙をボイコットするように命令した。その一方、メンシェヴィキは問題をその地方組織に委ね、ジョージア支部を除く多くの地方組織はボイコットを採択した。
 そのあとでレーニンは気持ちを変え、1907年に仲間たちのほとんどの意向を無視して、動く〔立候補する〕ようにボルシェヴィキに命じた。
 彼はドゥーマを、自分のメッセージを広げる公共広場として利用することを意図した。
 マリノフスキーが計り難い価値をもつことが判るのは、まさにドゥーマにおいてだった。//
 民族的にはポーランド人で、職業上は金属労働者、そして副業は窃盗というマリノフスキーは、窃盗と家宅侵入窃盗の罪で三つの収監判決を受けていた。
 彼自身の証言によれば、刑事記録〔前科〕のために満足させられない政治的野心に駆られて、またつねに金が必要だったために、マリノフスキーは、奉仕しようと警察当局に申し出た。 
 警察の指示により、彼はメンシェヴィキから向きを変えて、1912年1月にボルシェヴィキのプラハ大会に出席した。
 レーニンはきわめて好ましい印象を彼に持ち、『優秀な仲間』、『傑出した労働者指導者』だとマリノフスキーを褒めた。(107)
 レーニンはこの新規加入者を、裁量でもって党員を加える権限のある、ボルシェヴィキ中央委員会のロシア事務局員に任命した。 
 マリノフスキーはロシアに帰って、スターリン支持者を広げるためにこの権限を利用した。(108)
 内務大臣の命令にもとづき、マリノフスキーの刑事記録〔前科〕は抹消され、ドゥーマへと立候補することが許された。
 警察の助けで選出され、彼は、議員の免責特権を用いて、『ブルジョアジー』や社会主義『日和見主義者』を攻撃する燃えるがごとき演説を行った。それらの多くは治安機関によって準備され、全ては了解されていた。
 社会主義サークル内には彼の忠誠さについて疑問の声があつたにもかかわらず、レーニンは無条件でマリノフスキーを支持した。
 マリノフスキーがレーニンのためにした最大の仕事の一つは、-警察の許可を得てかつありそうなことだが警察の財政支援もおそらく受けて-ボルシェヴィキの日刊紙『プラウダ(pravda)』の創刊を助けたことだった。
 マリノフスキーは新聞の財産管理者として働いた。編集権は、警察の別の工作員、M・E・チェルノマゾフに渡った。 
 警察によって保護された党機関は、ボルシェヴィキの考えをメンシェヴィキ以上に広くロシア内部に伝搬させることができた。
 発行するために、警察当局は時たま<プラウダ>を繊細にさせたが、新聞は、発行され続けて、マリノフスキーや他のボルシェヴィキがドゥーマで行った演説の文章やボルシェヴィキの書きものを印刷し続けた。レーニンは一人で1912年と1914年の間に、265の論文をこの新聞に掲載した。
 警察は、マリノフスキーの助けによって、モスクワのボルシェヴィキ日刊紙「Nashput」をも創刊した。(109)
 このような仕事に就いている一方で、マリノフスキーは、定期的に党の秘密を警察に渡すという裏切り行為をしていた。
 われわれがのちに知るはずだが、レーニンは、この取引で得たものの方が、失ったものよりも大きいと信じた。//
 二重工作員としてのマリノフスキーの経歴は、内務省の新しい副大臣〔政務次官〕、V・F・ジュンコフスキーによって突然に終焉を告げられた。
 反諜報活動の経験のない職業軍人であるジュンコフスキーは、固く決心して、警察官たちの一団を『浄化』し、その政治活動を止めさせようとした。彼は、いかなる形態での警察の挑発についても、妥協をしない反対者だった。(*1) 
 任務を履行しているうちに、マリノフスキーは警察の工作員で、警察がドゥーマに浸透していることを知ったジュンコフスキーは、警察の大スキャンダルになることを恐れて、ドゥーマ議長のラジアンコに、その事実を内密に通知した。(*2)  
 マリノフスキーは退任を余儀なくされ、彼の年収分の6000ルーブルが与えられ、そして国外に追放された。//
  (*1) Badenie, Ⅴ, p.69, Ⅰ, p.315。ジュンコフスキーは、軍隊や第二次学校の中の警察細胞を廃止した。その理由は、軍人や学生の中で連絡し合うのは適切でない、ということだった。
 警察庁長官で、マリノフスキーの直接の監督者だったS・P・ベレツキーは、このような手段〔警察細胞の廃止〕は、政治的な反諜報活動の組織を混乱させるものだと考えた。Badenie, Ⅴ, p.70-71, p. 75。
 ベレツキーは、チェカ〔のちにボルシェヴィキ政府=レーニン政権が設立した政治秘密警察〕によって1918年9月に射殺された。これは、赤色テロルの波の最初のものだった。
  (*2) ドゥーマでのマリノフスキーの扇動的な演説は、ロシアが新しい産業ストライキの波に掴まれていた当時に労働者たちに対してもつ影響が大きかった、そのように警戒して、ジュンコフスキーはマリノフスキーを馘首した、という可能性は指摘されてきた。
 Ralph Carter Elwood, ロマン・マリノフスキー (1977), p.41-43。
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 ②へとつづく。

1436/ロシア革命史年表⑤-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.854-p.856。()ではない〔〕内は、秋月が補足・挿入。1919年にはコミンテルン設立などがあるが、この著の内容に合わせて割愛されている。
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 1918年〔2月以降〕
  2月 9日 中央〔欧州中部〕諸勢力、ウクライナとの分離講和に署名。ドイツ皇帝、ブレストの代表団にロシアに対して最後通告を渡すよう命令。
  2月17-18日 ボルシェヴィキ内部で、対ドイツ講和について討議。レーニン、辛うじて受諾賛成過半数を確保。
  2月18日 ドイツ・オーストリア軍、対ロシア攻撃を再開。
  2月21日 トロツキー、フランス軍の援助を要請。
  2月21-22日 レーニンの布令『社会主義祖国が危機!』、反抗者の略式[裁判手続を経ない]処刑を合法化 。
  2月23日 ドイツの最後通告、領土割譲要求つきで届く。
  2月24-25日 ドイツ軍、ドルパト、レヴェルおよびボリゾフを占拠。
  3月 1日 ロシア代表団、ブレストに戻る。二日後、講和条約のドイツ語文に署名。
  3月 初め ボルシェヴィキ政府、モスクワに移転。
  3月 5日 ムルマンスク・ソヴェト、同盟諸国兵団に保護されることの正当化をモスクワに要求し、受け取る。  
  3月 6-8日 第7回ボルシェヴィキ党大会。
  3月    人民裁判所、導入。
  3月 9日 同盟軍の最初の分遣隊、ムルマンスクに上陸。
  3月14日 ソヴェト大会、ブレスト条約を批准。左翼エスエル、ソヴナルコムから離脱。
  3月10-11日の夜 レーニン、モスクワへ移動。  
  3月16日 大侯爵たち、チェカへの登録を命じられる。そのあと、ウラル地方へと追放〔流刑〕。
  4月 4日 日本軍、初めてウラジオストックに上陸。   
  4月13日 コルニロフ、誤砲弾により殺される。デニーキン将軍、義勇軍の指揮を執る。 
  4月   ソヴェト・ロシアとドイツ、外交使節団を交換。
  4月20日 産業・商業企業の購入・貸与を非合法化する布令。すべての有価証券、公債は政府に登録すべきものとされる。
  4月22日 トランスコーカサス連邦、独立を宣言。
  4月26日 ニコライ、その妻と一人の娘、護衛つきでトボルスクからエカテリンブルクへと出立。4月30日に到着し、収監される。
  5月    財産相続の廃止。
  5月 8-9日 ソヴナルコム、農村地帯への攻撃開始を決定。
  5月 9日 ボルシェヴィキ、コルピノでの労働者デモに発砲。
  5月13日 供給人民委員に非常時権力を付与する布令、『農民ブルジョワジー』に対する戦争を宣言。
  5月14日 チェコ人部隊とマジャール人捕虜の間の激論、チェリアビンスクで。
  5月20日 『食糧供給部隊』創設の布令。
  5月22日 チェコ人部隊、降伏を拒否。トロツキー、力による武装解除を命令。チェコ人〔部隊〕の反乱、始まる。
  5月26日 トランスコーカサス連邦、ジョージア、アルメニアおよびアゼルバイジャン各独立共和国へと解体。  
  5月-6月 ロシアの都市ソヴェトへの選挙。ボルシェヴィキ、全都市で過半数を失い、実力でもって〔過半の支持を ?〕押しつける。
  6月 初め イギリス軍、アーカンゲルに上陸。
  6月 8日 チェコ人、サマラを占拠。憲法制定会議委員会(Komuch)の設立が続く。
  6月11日 村落での貧民委員会(kombedy)の設置を命令する布令。
  6月12-13日の夜 大侯爵・ミハイルとその仲間、ペルム近くで殺害される。
  6月16日 資本による制裁の導入。
  6月26日 労働者幹部会会議、7月2日の一日政治ストライキを呼びかけ。
  6月28日 皇帝ヴィルヘルム二世、ボルシェヴィキへの支援継続を決定。ソヴェト政府、大産業企業の国有化を命令。
  夏     ボルシェヴィキによる穀物搾取に農民が抵抗し、農村地帯で内戦。
  7月 1日 西部シベリア政府の宣言、オムスクで。  
  7月 2日 ペトログラードでの反ボルシェヴィキのデモ、失敗。この日頃に、ボルシェヴィキ指導部が前皇帝処刑を決定。
  7月 4日 第5回ソヴェト大会開く、モスクワで。ソヴェト憲法を承認。
  7月5-6日の夜 ラロスラヴルでザヴィンコフの蜂起。ムロムおよびリュイビンスクでの一揆がつづく。
  7月 6日 ミルバッハの殺害。モスクワでの左翼エスエルの蜂起がつづく。
  7月 7日 ラトヴィア人兵団、左翼エスエルの反乱を鎮圧。
  7月16-17日の夜 ニコライ二世、その家族および侍従者の殺害、エカテリンブルクで。
  7月17日 数名の大侯爵とその仲間たちの、アラペヴスクでの虐殺。   
  7月21日 ザヴィンコフ軍の、イアロスラヴィでの降伏。350人の将官と民間人の虐殺。 
  7月29日 強制的軍事訓練、導入。皇帝軍将官の登録が命じられる。
  8月 1-2日 追加の同盟軍、アルカンゲルとムルマンスクに上陸。ボルシェヴィキ、南方での同盟軍と白軍(義勇軍)に対してドイツ軍の助力を乞う。
  8月 6日 ベルリン〔政府〕、モスクワからドイツ大使を召還。のち、大使館を閉鎖。
  8月   レーニン、労働者に対して『富農(kulaks)』の絶滅を呼びかけ。
  8月24日 都市の不動産、国有化。
  8月27日 補足的ロシア・ドイツ条約に署名、秘密条項つき。
  8月30日 ペトログラード・チェカの長官、M・S・ユリツキー、昼間早くに、暗殺される。夕方、ファニー・カプランがレーニンを射撃。
  9月 4日 人質〔農民〕を取ることを命じる指示。
  9月 5日 赤色テロル、公式に始まる。ボルシェヴィキが支配するロシア全域での囚人および人質の虐殺。
 10月21日 健康なロシア国民全員に、政府労働局に登録することを義務づけ。
 10月30日 100億ルーブルの寄付、都市および農村の『ブルジョワジー』に賦課される。
 11月 早く ソヴェト大使館、ベルリン〔ドイツ帝国〕から退去させられる。
 11月13日 ソヴェト政府、ブレスト・リトフスク条約およびその補充条約の破棄を宣言。 
 12月 2日 貧民委員会、解散。
 12月10日 『労働法典』、発布。

 1919年
  1月    農民に対する物納税(prodrazverstka)、導入。
  1月 7日 チェカ局(uezd)、廃止。
  2月17日 ジェルジンスキー、チェカの活動の変更を表明。集中強制収容所の創設を要求。
  3月    新しい党綱領を採択。ロシア共産党と改称。政治局、組織局および書記局の設置。    
  3月16日 消費者共同体、導入。
  4月11日 集中強制収容所に関する諸規則。 
  5月15日 政府、要求される数の銀行券を発行することを人民銀行に承認。
 12月27日 トロツキーのもとに労働者義務委員会を創設。『労働者の軍事化』の開始。
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 以上。

1435/ロシア革命史年表④-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.852-p.854。/の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。()ではない〔〕内は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔9月以降〕
  9月10日 ボルシェヴィキ支援による第3回ソヴェト地方大会開く、フィンランドで。
  9月12日・14日 レーニン、〔ボルシェヴィキ党〕中央委員会に、権力掌握のときは熟している、と書き送る。  
  9月25日 ボルシェヴィキ、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門で過半数を獲得。トロツキー、〔ペトログラード・〕ソヴェト議長に。
  9月26日 CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕、ボルシェヴィキの圧力のもとで、第2回全ロシア・ソヴェト大会を10月20日に開催することに同意。
  9月28日-10月8日 ドイツ軍、リガ湾の島々を占拠、ペトログラードを脅かす。
  9月29日 レーニン、権力奪取について中央委員会あて第三の手紙。
 10月 4日 臨時政府、ペトログラードからの避難を討議。 
 10月 9日 CEC、メンシェヴィキの動議により、首都防衛軍事組織の結成を票決(すみやかに、軍事革命委員会と改称)。
 10月10日 レーニン出席して、ペトログラードでボルシェヴィキ中央委員会が深夜の真剣な会議、武力による権力奪取に賛成票決する。
 10月11日 ペトログラードで、ボルシェヴィキ支援による北部地方ソヴェト大会開く。『北部地方委員会』を設立し、第2回ソヴェト大会への案内状を発行。
 10月16日 ソヴェト、軍事革命委員会(Milrevkom、ミルレヴコム)の設立を承認
 10月17日 CEC、第2回〔全ロシア〕ソヴェト大会を10月25日に延期。
 10月20日 軍事革命委員会、ペトログラード市内および近郊の軍団に『コミッサール』を派遣。
 10月21日 軍事革命委員会、各連隊委員会の会議を開く。兵団へのいかなる命令も軍事革命委員会の副書を必要とする旨を参謀部(Military Staff)に提示する無毒のような決定を裁可させようとする。要求は却下される。
 10月22日 軍事革命委員会、参謀部は『反革命的だ』と宣言。 
 10月23-24日 軍事革命委員会、参謀部と欺瞞的な交渉を継続。 
 10月24日 政府〔ケレンスキー首班の臨時政府〕に忠実な軍団、ペトログラードの要所を占拠、ボルシェヴィキの新聞社を閉鎖。ボルシェヴィキ、反対行動を起こし、ペトログラードの多くを奪い返す。
 10月24-25日の夜 ケレンスキー、前線からの助けを求める。変装したレーニン、ボルシェヴィキが支える第2回ソヴェト大会が始まろうとするスモルニュイへと進む。ボルシェヴィキ、軍事革命委員会を使って、首都を完全に征圧。
 10月25日朝 ケレンスキー、軍事支援を求めて冬宮から前線へ逃亡。レーニン、軍事革命委員会の名で、臨時政府打倒と権力のソヴェトへの移行を宣言。
 10月25日 ボルシェヴィキ、冬宮の確保に失敗。そこでは、政府の大臣が忠実な兵団による救出を待つ。トロツキー、午後に、ペトログラード・ソヴェトの緊急会議を開く。レーニン、7月4日以来初めて、外に姿を現す。ボルシェヴィキの動議により、モスクワで、軍事革命委員会を設立。
 10月26日 モスクワ軍事革命委員会の兵団、クレムリンを掌握。
 10月25-26日の夜 冬宮が落ち、諸大臣が逮捕される。ボルシェヴィキ、第2回ソヴェト大会を開会。
 10月26日夕 ソヴェト大会、レーニンの土地および講和に関する各布令を裁可。レーニンを議長(首相)とする新しい臨時政府、すなわち人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の形成を承認。ボルシェヴィキが支配する新しいCECを任命。
 10月27日 第2回ソヴェト大会、中断。反対派のプレス、非合法に(プレス布令)。
  10月28日 親政府の兵団、モスクワ・クレムリンを再奪取。
 10月29日 鉄道被用者組合、ボルシェヴィキに対して政府の構成政党の拡大を要求する最後通告を渡す。カーメネフ、同意。政府、ソヴェト・CECの事前の同意なくして法令を発布するつもりだと表明。政府被用者〔公務員〕組合、ストライキを宣言。
 10月30日 プルコヴォ近くで、コサックと親ボルシェヴィキ船員および赤衛軍との間の衝突。コサックが撤退。鉄道被用者組合、権力を手放すようボルシェヴィキに対して要求。
 10月31日-11月2日 モスクワで戦闘が起こり、親政府兵団の降伏で終わる。
 11月 1-2日 ボルシェヴィキ中央委員会、鉄道被用者の要求を拒否。カーメネフとその他4名のコミッサール〔人民委員〕、内閣構成の拡大の妥協に対するレーニンの拒否に抗議することを諦める。
 11月 4日 レーニン、トロツキーとソヴェト・CEC〔中央執行委員会〕の間の深刻な出会い。票決を操作することにより、ソヴナルコム〔人民委員会議=内閣〕が布令(decree)により立法(legislate)する公式権限を獲得。 
 11月 9日 ボルシェヴィキ、講和に関する布令を、政府は即時停戦に反対している同盟諸国の代表者に送る。
 11月12日 憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙、ペトログラードで始まる。月末まで、非占領のロシア全域で続く。社会主義革命党〔エスエル〕が最大多数票を獲得。
 11月14日 銀行従業員、金銭を求めるソヴナルコムの要求を拒否。
 11月15日 ボルシェヴィキのソヴナルコム、第1回定期会合。
 11月17日 ボルシェヴィキ兵団、国有銀行を襲い、500万ルーブルを奪う。 
 11月20日/12月3日 ブレスト・リトフスクで停戦交渉始まる。ソヴェト代表は、ヨッフェ。
 11月22日 裁判所のほとんどおよび法曹職業を廃止する布令。革命裁判所の創設。
 11月22-23日 憲法制定会議防衛同盟の設立。
 11月23日/12月6日 ロシアと中央〔中部欧州〕諸勢力、停戦で合意。
 11月26日 農民大会、開かれる、ペトログラードで。
 11月28日 憲法制定会議の座り込み〔 ?〕会合。
 12月    国家経済最高会議、創設(VSNKh)。 
 12月 4日 ボルシェヴィキと左翼エスエル〔社会主義革命党左派〕、農民大会を破壊。 
 12月 7日 チェカ(Cheka〔秘密政治警察〕)、設立。
 12月9-10日 ボルシェヴィキと左翼エスエルの協議成立。左翼エスエル、ソヴナルコムおよびチェカに加入。
 12月15日/28日 ブレスト会議、一時休止。
 12月27日/1月9日 ブレスト会議、再開。トロツキーがロシア代表団を率いる。
 12月30日/1月12日 中央〔中部欧州〕諸勢力、ラダ〔ウクライナ・ソヴェト〕をウクライナ政府として承認。
 12月後半 アレクセイエフ、コルニロフ各将軍、義勇軍(Volunteer Army)を立ち上げる。

 1918年 1月
  1月 1日 レーニンの暗殺未遂。  
  1月 5日/18日 憲法制定会議の一日会合。憲法制定会議を支持するデモ、発砲され、逃散。労働者『幹部会』、第1回会合。トロツキー、ブレストからペトログラードへ戻る。
  1月 6日 憲法制定会議、閉じられる。
  1月 8日 ボルシェヴィキが支援する第3回ソヴェト大会、開く。『労働者および被搾取大衆の権利の宣言』を採択し、ソヴェト・ロシア共和国を宣言。
  1月15日/28日 ソヴェト・ロシア、国外および国内の債務履行を拒否。
  1月28日 ラダ、ウクライナの独立を宣言。」  
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*1918年2月以降につづく。

1403/日本共産党の大ウソ26追-宮地健一による項目別推計数。

 粛清とかテロルという語の正確な意味も問題だが、ソ連におけるとくに第二次大戦のこれらの犠牲者の正確な数も、細かく特定することは永遠にほとんど不可能なのかもしれない。
 第26回で引用した稲子恒夫が示す数字自体は正確だと思われる。しかし、それらは「国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺」とされているように、裁判手続を経ない殺戮もあるし、明らかに政策的な(明かな政策に原因があると見なしうる)飢餓による死者もある。
 いろいろな書物が-とくにソ連崩壊後に明らかになった資料による文献は-「共産主義」による犠牲者の数を推測している。稲子恒夫が示す数字も基礎になりうる。
 白井聡のように犠牲者数が<ナチズムのそれよりも多い>と言いたいだけだと<統計数>を馬鹿にするのは、自らの、多数の犠牲者に対する無感覚、人間的な「感情」のなさを暴露していると思われる。
 多数の知り得た文献による推計数を、一回だけで逐一紹介する余裕はない。
 今回は、宮地健一「『赤色テロル』型社会主義とレーニンが『殺した』自国民の推計」幻想と批評第1号(はる書房、2004)にもとづいて紹介する。
 日本共産党・不破哲三はレーニン期とスターリン以降の時代を明確に区別しなければならないと強調するが(なぜか、ブレジネフ以降とかゴルバチョフ期とかいった区分をしない)、宮地は上の論考で、この区別を意識して ?、レーニン期に<レーニンが殺した>犠牲者数を「推計」することを追究している。
 宮地健一はソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密文書」の大量データを不十分かもしれないが見ているようだ。
 詳細は「宮地健一のHP」を見ていただく方が早い。
 88-89頁の表の引用・紹介も省略して、そのあとの各見出しを少し修正したものだけを、紹介しておく。説明・根拠等は本文内にある。推計数字は「肉体的殺人と政治的殺人」の両者を含んでおり、かついわゆる<白軍>との「内戦」による死者数を含んでいない、とされる。
 時期は、1917年12月の「チェカ」(政治秘密警察-KGB等の前身)創設~1922年12月のレーニンの政治活動の実質的停止、の間。
 ①反乱農民-「数十万人」殺害。
 ②兵役忌避の脱走兵・徴兵逃れ-「十数万人から数十万人」銃殺・殺害・人質。
 ③コサック身分農民-「三〇~五〇万人」殺戮・政策的餓死。
 ④ペトログラードのストライキ労働者-「五〇〇〇人」逮捕・「五〇〇人」即時殺害。
 ⑤クロンシュタットの水兵・住民-「五万五〇〇〇人」殺戮・銃殺・強制収容所送りによる殲滅。
 ⑥聖職者(ロシア正教等)-「数万人」銃殺/信徒-「数万人」殺害。
 ⑦反ソヴェト知識人-「数万人」肉体的排除。
 ⑧カデット・エスエル・左派エスエル・メンシェビキ・アナキスト-カッコ付き「数十万人」。
  *最終的に「スターリンは、粛清により、これら百数十万人の全員を、亡命した者以外、一人残らず殺害した」(p.101)。
 ⑨飢饉死亡者-「五〇〇万人」。
  *「飢饉死亡者500万人とウクライナの死者100万人」は定説で、「ランメルは…、意図的政策による餓死者数を250万人としている」(p.101)。
 以上によって、宮地は、レーニンが、「最低値として、数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺したことは間違いない」とする。
 これらの<最高値>は、秋月によると、数百万人になるだろう。
 かりに「最低値」によるとしてすら、レーニン期は5年余なので、単純に5で除して、総計20万人だと毎年平均4万人、総計30万人だと毎年平均6万人、総計50万人だとすると毎年平均10万人を<レーニンは殺した>ことになる(レーニンによる直接指示のほか、、レーニンをトップとする共産党政治局決定による指示を含むはずだ。上記のとおり「内戦」-そして「対外(干渉)戦争」-の戦死者を除く)。
 これは愕然とする数字に違いない。そして、スターリン期にはこれの何倍・何十倍かの規模で<粛清・テロル>が行われた(宮地p.75は論考冒頭で「スターリンは4000万人の大量粛清をした犯罪者だ。しかし、レーニンは偉大な革命家、愛情あふれる、人間味豊かなマルクス主義者で、大量殺人などしていない、と信ずる日本人はまだ大勢いる。ほんとうにそうだったのか」、と書き始めている)。

1401/日本共産党の大ウソ26-レーニン時代とは。

 一 「日本共産党の大ペテン・大ウソ」の第02回めに引用したが、あらためて日本共産党2004年綱領から、レーニン・スターリンに関する部分(「三〔章〕、世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中の「(八)」〔節〕)を掲載する。「・」は原文にはない。//は原文では非改行。
 「・資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した。
 ・最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。//
 しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらりが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。
・ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九~九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。
 ・ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった。
 ・今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、「市場経済を通じて社会主義へ」という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、人口が一三億を超える大きな地域での発展として、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」
 二 日本共産党は「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された」と歴史認識する。これが、レーニンに関する事実に反する美文にすぎないことは、すでに多少とも触れてきた。
 「市場経済を通じて社会主義へ」以外の論点につき、以下の事実の指摘もある。もっとも、「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」が以下のような事実を指すのだとすれば、それはそれで一貫しているのかもしれない。数字の最後に「人」を追記した。
 「1918年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者5万8762人、勾留5万8762人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)1万4504人、死刑(銃殺)6185人。これらの数字は国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺。」p.135。
 「1919年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万9238人、勾留6万9238人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万2202人、死刑(銃殺)3456人。」p.155。
 「1920年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万5751人、勾留6万5751人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)不明、死刑(銃殺)1万6068人。」p.178。
 「1921年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者9万6584人、勾留9万6584人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万1724人、死刑(銃殺)9701人。」p.196。
 「1922年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万2887人、勾留6万2887人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2656人、死刑(銃殺)1962人。」p.214。
 「1923年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者10万4520人、勾留10万4520人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2336人、死刑(銃殺)414人。」p.230。 
 以上、p.数とともに、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀-年表・資料・分析(東洋書店、2007)。 
 三 すでに上の稲子恒夫編著には触れている。記してはいないが、信頼してよい書物だと判断したうえでのことだ。とくに日本人の書物・文献は、日本共産党への「立場」によって信頼性が微妙でありうるので、何らかの評価をある程度は先行させざるをえないことがある。
 稲子恒夫(1927-)はかつて日本共産党員だったとみられる。名古屋大学法学部/ソ連法・社会主義法担当教授。したがって、ロシア語を読め、かつ1992年以降に「秘密資料」を読んだと思われる。
 しかし、既に引用したが「誤りの全責任はスターリン一人とする説があるが、…スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基礎に生まれた」(p.1009)等と書いているように、また別に紹介するが、1989-91年やその直後に田口富久治、加藤哲郎らと共著や対談書を出しているように、ソ連崩壊前後の時期に、日本共産党を離れた(党員ではなくなった)と推察される。
 したがって、上記の数字や文章など、日本共産党には都合が悪いはずの、または日本共産党の歴史理解とは異なる記述をすることもできているわけだ。上の編著はこの人の最後の著書になったのだろうか。
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