Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第8章の試訳のつづき。第五節。原書、p.386〜。
——
第五節・タンボフでのテロル支配(the Reign of Terror in Tambov)。
(01) レーニンとトロツキーは、革命軍事評議会から、Tambov での対「蛮族」戦闘作戦に関する報告を、定期的に受け取っていた。まるでそこは、通常の戦争の前線のごとくだった。(注64)
部下は次から次への勝利を報告していたけれども、あるときは散らばり、あるときは打撃を与え、今やつぎのことが明白だった。型に嵌まらない武器でもって戦闘をする敵を従来の軍事手段で打倒することはできないこと。
レーニンは、そのゆえに、Tukhachevskii に対して、決定的な作戦行動をとるよう要求することを決断した。(注65)
Tukhachevskii は、5月の初めにTambov に到着し、作戦の最高時には10万人以上に昇った軍団を集合させた。(注66)
ハンガリー人と中国人の義勇兵が、赤軍を助けていた。
Tukhachevskii は、自分は軍事勢力—数千人のゲリラ—にだけではなく、敵対的な数百万の民衆に立ち向かっている、ということを理解していた。
暴動の背後を破ったあとでのレーニンへの報告で、彼はこう説明した。闘争(struggle)は「ある種の多少は長引いた作戦行動ではなく、全体的活動だと、そして戦争(war)だとすら考えなければならない」。(注67)
別のボルシェヴィキは、こう説明した。
「我々の最高司令部は、制裁措置を気にしないで、通常の活動を行なえと決定した。
全ての作戦行動を、行動のまさにその性質によって敬意を払われることになる残虐なやり方で行なうことが、決定された。」(注68)
Tukhachevskii の戦略は、問題の領域を整然と制圧することだった。そして、パルチザンを一般民衆と切り離し、それによって民衆を徴募し、彼らに他の形態での援助を与えること。(注69)
その地方全体の制圧や占領は、この任務のために配置された軍事能力を超えていたので、Tukhachevskii は、「残虐さ」に、すなわち典型的なテロルに、頼った。//
----
(02) この戦略に不可欠だったのは、十分な諜報活動だった。
チェカは、有給の情報提供者を使って、パルチザンの一覧表を入手した。Antonov-Ovseenko の委員会が発した特別指令(第130号)は、彼らの家族を人質として取ることを命じた。
チェカは、「クラク」に選定された農民の名も追記されたこの名簿を使って、数千人の人質を狩り集めて、とくにこの目的で作られた強制労働収容所に入れた
とくに活発なパルチザン活動がある地域は抜き出されて、公式の文書は「大量テロル」と論及した。
Antonov-Ovseenko のレーニンへの報告によれば、住民たちの沈黙を破るために、赤軍の指揮官たちは、つぎのような手続を用いた。
「特殊な『判決』が、労働人民に対する犯罪を積み上げたこれらの村落には下された。
男性住民は全員が、革命軍事審判所の管轄の下に置かれた。
蛮族の家族は全て、蛮族の親族として人質の扱いをされるべく、強制労働収容所へと移動させられた。
蛮族が降伏するのに二週間に期限が設定され、その期間が来れば、家族はこの地方から追放され、彼らの資産(そのときまでは条件つきの仮差押だった)は永久に没収された。」(注70)
----
(03) 残酷なこのような手段も、望んだ結果をまだ生まなかった。パルチザンたちは、赤軍兵士や共産党役人の家族を人質に取り、しばしばきわめて残虐な方法で処刑することで報復したからだった。(注71)
Antonov-Ovseenko の委員会は、ゆえに、7月11日に別の指令(第171号)を発した。それは、犯罪者の多数の範疇といった法的形式性なしでの処刑を命じることによって、テロルの次元をさらに高めた。
「1. 名前を明らかにするのを拒む市民は、その場でただちに処刑される。
2. 武器を隠している村民は…、人質が取られるよう判決される。
武器を提出しない村民は、射殺される。
3. 隠匿武器が発見されたときには、家族内の最年長の者は、審判なしでその場で射殺される。
4. 蛮族を隠した家族は逮捕され、その地方から追放される。
その資産は没収され、最年長の者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
5. 蛮族の家族に避難場所を与える、または蛮族の資産を隠した家族は、蛮族として扱われる。
家族の中の最年長の労働者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
6. 蛮族の家族との闘争の場合、その帰属物は、ソヴィエト当局に忠実な農民たちに配分される。放棄された住居は、焼却されるべきである。
7. この指令は、厳格にかつ容赦なく、実行に移されるだろう。
この内容は、村落集会で読み上げられなければならない。」(注72)//
このような指令の結果として、数千でないとしても数百の農民が、殺害された。
のちのナツィ支配の時代のように、「蛮族」が放棄した子どもたちを保護したことだけが犯罪の根拠だった者も、処刑を免れなかった。(注73)
多くの村落で、人質が、何度かに分けて、処刑された。
Antonov-Ovseenko の報告によると、「二番めに蛮族に味方した村では」、154人の「蛮族人質」が射殺され、「蛮族」の227家族が人質に取られ、17家屋が燃やされ、24家屋は引き倒され、22家屋は「村の貧民」(協力者の婉曲語)に渡された。(注74)
とくに頑強な抵抗がある場合には、村落全体が近くの地方へと移された。
レーニンは、このような措置に同意しただけではなく、トロツキーに対して、正確な実行の確保を指示した。(注75)//
----
(04) Tukhachevskii の作戦行動は、1921年5月遅くに始まった。
彼は、反乱者に対して毒ガスを用いること、すみやかにその旨を反乱者に公にして警告すること、を授権されていた。
「白衛軍兵士、パルチザン、蛮族よ、降伏せよ!
さもなくば、おまえたちは仮借なく皆殺しになるだろう。
おまえたちの家族、持ち物は全て、おまえたちの質になっている。
村落に隠れる。—隣人たちはおまえたちを引き渡すだろう。
おまえたちの家族を保護する者は全て射殺され、その保護者の家族は逮捕されるだろう。
森に隠れる。—おまえたちは燻り出されるだろう。
全権使節委員会は、森林から蛮族を燻り出すために、窒息死させるガスの使用を決定した。…」(注76) //
10日後、Antonov 軍は降伏し、破壊された。しかし、Antonov 自身は、何とか逃れることができた。
彼に忠実な別のゲリラ軍が、二週間持ちこたえた。
やがて、彼のかつては畏怖された軍勢で残っているのは、散発的に急襲を仕掛ける小さなパルチザン部隊だけになった。
民衆はテロルに遭ったが、1921年3月の食料取立ての廃止によって宥められ、反乱者への支援を撤回した。
翌1922年は、ロシアの農民たちには良好な年だった。収穫は豊富で、税は適度だった。//
----
(05) Antonov は、全てに見放されて、追われる獲物になった。
終末は、1922年6月24日だった。かつての支援者に裏切られ、追跡されて、GPU に殺害された。
農民たちは彼の死を歓迎し、その遺体が彼らの村落を通ってTambov へと運ばれるときには呪詛の言葉を投げつけ、殺害者に喝采を浴びせた、と言われている。(77)
しかし、そのときでも、事件の全体は、まだ十分に演じられる余地があった。//
----
(06) 常備軍に立ち向かったAntonov のようなゲリラ指導者が顕著な成功を収めたことは、ソヴィエトの最高司令部に大きな印象を残した。
赤軍の参謀長でのちにトロツキーの後継者として戦時人民委員となるM. V. Frunze は、技術的には優っている敵に将来用いる、新型の武器の研究を行なうよう命令した。(注78)
赤軍は、この調査研究を基礎にして、パルチザン的兵器を侵攻するナツィスに対して大規模に使用することになる。
そしてナツィ司令部の側では、赤軍が1921-22年の対農民ゲリラで発展させたテロルの方法を、一般民衆に対して真似ることになる。//
——
後注。
(64) RTsKhIDNI, F. 5, op. 1, delo 2477. 1921年1月31日-6月21日の時期について。
(65) 同上、F. 2, op. 1, ed. khr. 24558.
(66) S. A. Esikov & L. G. Protasov in VI, No. 6-7 (1992), p.52.
(67) TP, II, p.480-1.
(68) Ibid., II, p.532-4.
(69) TP, II, p.480-1.
(70) Ibid., II, p.532-4.
(71) Pitirim A. Sorokin, Leaves from a Russian Diary (1950), p.254-6.
(72) ”Moskvich” in Volia Rossiii, No. 264 (1921.7.27), p.2.
(73) Radkey, Unknown Civil War, p.324.
(74) TP, II, p.536-7, p.544-5.
(75) Ibid., II, p.562-3.
(76) Aptekar, in Voenno-istorishesf kis zhurnal, No. 1 (1933), p.53.
(77) Radkey, Unknown Civil War, p.372-6.
(78) Trifonov, Klassy, I, p.6.
——
第8章・第五節、終わり。
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第8章の第六節〜第十節は、試訳をすでに掲載済み。
第六節冒頭の①は、以下の2017/04/10付。
⇨R. Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 8-6-1.
第8章の試訳のつづき。第五節。原書、p.386〜。
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第五節・タンボフでのテロル支配(the Reign of Terror in Tambov)。
(01) レーニンとトロツキーは、革命軍事評議会から、Tambov での対「蛮族」戦闘作戦に関する報告を、定期的に受け取っていた。まるでそこは、通常の戦争の前線のごとくだった。(注64)
部下は次から次への勝利を報告していたけれども、あるときは散らばり、あるときは打撃を与え、今やつぎのことが明白だった。型に嵌まらない武器でもって戦闘をする敵を従来の軍事手段で打倒することはできないこと。
レーニンは、そのゆえに、Tukhachevskii に対して、決定的な作戦行動をとるよう要求することを決断した。(注65)
Tukhachevskii は、5月の初めにTambov に到着し、作戦の最高時には10万人以上に昇った軍団を集合させた。(注66)
ハンガリー人と中国人の義勇兵が、赤軍を助けていた。
Tukhachevskii は、自分は軍事勢力—数千人のゲリラ—にだけではなく、敵対的な数百万の民衆に立ち向かっている、ということを理解していた。
暴動の背後を破ったあとでのレーニンへの報告で、彼はこう説明した。闘争(struggle)は「ある種の多少は長引いた作戦行動ではなく、全体的活動だと、そして戦争(war)だとすら考えなければならない」。(注67)
別のボルシェヴィキは、こう説明した。
「我々の最高司令部は、制裁措置を気にしないで、通常の活動を行なえと決定した。
全ての作戦行動を、行動のまさにその性質によって敬意を払われることになる残虐なやり方で行なうことが、決定された。」(注68)
Tukhachevskii の戦略は、問題の領域を整然と制圧することだった。そして、パルチザンを一般民衆と切り離し、それによって民衆を徴募し、彼らに他の形態での援助を与えること。(注69)
その地方全体の制圧や占領は、この任務のために配置された軍事能力を超えていたので、Tukhachevskii は、「残虐さ」に、すなわち典型的なテロルに、頼った。//
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(02) この戦略に不可欠だったのは、十分な諜報活動だった。
チェカは、有給の情報提供者を使って、パルチザンの一覧表を入手した。Antonov-Ovseenko の委員会が発した特別指令(第130号)は、彼らの家族を人質として取ることを命じた。
チェカは、「クラク」に選定された農民の名も追記されたこの名簿を使って、数千人の人質を狩り集めて、とくにこの目的で作られた強制労働収容所に入れた
とくに活発なパルチザン活動がある地域は抜き出されて、公式の文書は「大量テロル」と論及した。
Antonov-Ovseenko のレーニンへの報告によれば、住民たちの沈黙を破るために、赤軍の指揮官たちは、つぎのような手続を用いた。
「特殊な『判決』が、労働人民に対する犯罪を積み上げたこれらの村落には下された。
男性住民は全員が、革命軍事審判所の管轄の下に置かれた。
蛮族の家族は全て、蛮族の親族として人質の扱いをされるべく、強制労働収容所へと移動させられた。
蛮族が降伏するのに二週間に期限が設定され、その期間が来れば、家族はこの地方から追放され、彼らの資産(そのときまでは条件つきの仮差押だった)は永久に没収された。」(注70)
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(03) 残酷なこのような手段も、望んだ結果をまだ生まなかった。パルチザンたちは、赤軍兵士や共産党役人の家族を人質に取り、しばしばきわめて残虐な方法で処刑することで報復したからだった。(注71)
Antonov-Ovseenko の委員会は、ゆえに、7月11日に別の指令(第171号)を発した。それは、犯罪者の多数の範疇といった法的形式性なしでの処刑を命じることによって、テロルの次元をさらに高めた。
「1. 名前を明らかにするのを拒む市民は、その場でただちに処刑される。
2. 武器を隠している村民は…、人質が取られるよう判決される。
武器を提出しない村民は、射殺される。
3. 隠匿武器が発見されたときには、家族内の最年長の者は、審判なしでその場で射殺される。
4. 蛮族を隠した家族は逮捕され、その地方から追放される。
その資産は没収され、最年長の者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
5. 蛮族の家族に避難場所を与える、または蛮族の資産を隠した家族は、蛮族として扱われる。
家族の中の最年長の労働者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
6. 蛮族の家族との闘争の場合、その帰属物は、ソヴィエト当局に忠実な農民たちに配分される。放棄された住居は、焼却されるべきである。
7. この指令は、厳格にかつ容赦なく、実行に移されるだろう。
この内容は、村落集会で読み上げられなければならない。」(注72)//
このような指令の結果として、数千でないとしても数百の農民が、殺害された。
のちのナツィ支配の時代のように、「蛮族」が放棄した子どもたちを保護したことだけが犯罪の根拠だった者も、処刑を免れなかった。(注73)
多くの村落で、人質が、何度かに分けて、処刑された。
Antonov-Ovseenko の報告によると、「二番めに蛮族に味方した村では」、154人の「蛮族人質」が射殺され、「蛮族」の227家族が人質に取られ、17家屋が燃やされ、24家屋は引き倒され、22家屋は「村の貧民」(協力者の婉曲語)に渡された。(注74)
とくに頑強な抵抗がある場合には、村落全体が近くの地方へと移された。
レーニンは、このような措置に同意しただけではなく、トロツキーに対して、正確な実行の確保を指示した。(注75)//
----
(04) Tukhachevskii の作戦行動は、1921年5月遅くに始まった。
彼は、反乱者に対して毒ガスを用いること、すみやかにその旨を反乱者に公にして警告すること、を授権されていた。
「白衛軍兵士、パルチザン、蛮族よ、降伏せよ!
さもなくば、おまえたちは仮借なく皆殺しになるだろう。
おまえたちの家族、持ち物は全て、おまえたちの質になっている。
村落に隠れる。—隣人たちはおまえたちを引き渡すだろう。
おまえたちの家族を保護する者は全て射殺され、その保護者の家族は逮捕されるだろう。
森に隠れる。—おまえたちは燻り出されるだろう。
全権使節委員会は、森林から蛮族を燻り出すために、窒息死させるガスの使用を決定した。…」(注76) //
10日後、Antonov 軍は降伏し、破壊された。しかし、Antonov 自身は、何とか逃れることができた。
彼に忠実な別のゲリラ軍が、二週間持ちこたえた。
やがて、彼のかつては畏怖された軍勢で残っているのは、散発的に急襲を仕掛ける小さなパルチザン部隊だけになった。
民衆はテロルに遭ったが、1921年3月の食料取立ての廃止によって宥められ、反乱者への支援を撤回した。
翌1922年は、ロシアの農民たちには良好な年だった。収穫は豊富で、税は適度だった。//
----
(05) Antonov は、全てに見放されて、追われる獲物になった。
終末は、1922年6月24日だった。かつての支援者に裏切られ、追跡されて、GPU に殺害された。
農民たちは彼の死を歓迎し、その遺体が彼らの村落を通ってTambov へと運ばれるときには呪詛の言葉を投げつけ、殺害者に喝采を浴びせた、と言われている。(77)
しかし、そのときでも、事件の全体は、まだ十分に演じられる余地があった。//
----
(06) 常備軍に立ち向かったAntonov のようなゲリラ指導者が顕著な成功を収めたことは、ソヴィエトの最高司令部に大きな印象を残した。
赤軍の参謀長でのちにトロツキーの後継者として戦時人民委員となるM. V. Frunze は、技術的には優っている敵に将来用いる、新型の武器の研究を行なうよう命令した。(注78)
赤軍は、この調査研究を基礎にして、パルチザン的兵器を侵攻するナツィスに対して大規模に使用することになる。
そしてナツィ司令部の側では、赤軍が1921-22年の対農民ゲリラで発展させたテロルの方法を、一般民衆に対して真似ることになる。//
——
後注。
(64) RTsKhIDNI, F. 5, op. 1, delo 2477. 1921年1月31日-6月21日の時期について。
(65) 同上、F. 2, op. 1, ed. khr. 24558.
(66) S. A. Esikov & L. G. Protasov in VI, No. 6-7 (1992), p.52.
(67) TP, II, p.480-1.
(68) Ibid., II, p.532-4.
(69) TP, II, p.480-1.
(70) Ibid., II, p.532-4.
(71) Pitirim A. Sorokin, Leaves from a Russian Diary (1950), p.254-6.
(72) ”Moskvich” in Volia Rossiii, No. 264 (1921.7.27), p.2.
(73) Radkey, Unknown Civil War, p.324.
(74) TP, II, p.536-7, p.544-5.
(75) Ibid., II, p.562-3.
(76) Aptekar, in Voenno-istorishesf kis zhurnal, No. 1 (1933), p.53.
(77) Radkey, Unknown Civil War, p.372-6.
(78) Trifonov, Klassy, I, p.6.
——
第8章・第五節、終わり。
+++
第8章の第六節〜第十節は、試訳をすでに掲載済み。
第六節冒頭の①は、以下の2017/04/10付。
⇨R. Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 8-6-1.