過去になった歴史に、正しい/間違い、よかった/悪かった、正統/逸脱、という違いなどない。少なくとも単純・幼稚には、この区別を想定したり、論じたりしてはならない。本質的には、これらを問題にしても<無意味>だ。
 <歴史の教訓>は大切かもしれないが、それからどのように「学ぶ」かは、各人の現在の主観的・「政治的」な願望を反映している。
 岡田英弘著作集第一巻・歴史とは何か(藤原書店、2018)。前回のつづき。
 ・「歴史には一定の方向がある、と思いたがるのは、われわれ人間の弱さから来るものだ。
 世界が一定の方向に進んでいるという保証は、どこにもない。
 むしろ、世界は、無数の偶発事件の積み重ねであって、偶然が偶然を読んで、あちらこちらと、微粒子のブラウン運動のようによろめいている、というふうに見るほうが、よほど論理的だ。」
 ・「しかし、それでは歴史にならない」。人間の「理解」とは「ストーリー」・「物語」を与えることだ。「名前」を付けることも「名前という短い物語」を作ることだ。「物語」がなければ「人間の頭では理解できない」。
 「だからもともと筋道のない世界に、筋道のある物語を与えるのが、歴史の役割なのだ。
 世界自体には筋道がなくとも、歴史には筋道がなければならない。
 世界の実際の変化に方向がないこと、歴史の叙述に方向があることは、これはどちらも当然のことであって、矛盾しているわけではない。」
 ・「世界はたしかに変化しているけれども、それは偶然の事件の積み重なりによって変化するのだ。
 しかし、その変化を叙述する歴史の方は、事件のあいだに一定の方向を立てて、それに沿って叙述する。
 そのために一見、歴史に方向があるように見えるのだ。」 以上、p.145。
 ・マルクス主義の史的唯物論の根底には「歴史が、古代のローマ帝国から、…19世紀の西ヨーロッパの段階に進化しようとして、<中略>足踏みを続けてきて、今ようやく資本主義の時代にまで進化したのだ、という感じ方がある」。
 さらに遡ると、マルクス主義の起源は「古代ペルシアのゾロアスター教」につきあたる。ゾロアスター教では世界は「光明(善)」と「暗黒(悪)」の二原理から成り、両者は闘っているがいずれ前者が勝利し、両者は分離して時間も停止し世界も消滅する。「その前に光明の子が下界に降臨して人類の王者となり、理想の世が実現する期間がある」。
 「この思想が、ユダヤ教によってメシア思想になり、ユダヤ教のメシア思想が独立してキリスト教の『終末論』と『千年王国』の思想がマルクス主義に入った」。
 だから、「共産制のような理想の社会を想定する」のは「マルクスが合理的に考えつめた結果」の「独自に到達した未来像ではない」。「ゾロアスターというペルシア人の思いつきが、今もなお生き続けているにすぎない」。以上、p.144。
 ・マルクス主義者は、「世界の究極のあるべき姿が、社会主義、共産主義だ、という」。
 「これは、思想というよりも気分だ。情緒的な枠組みと言ってもいい」。
 「この世界が最終的にどうなるかは、目の前の現実には関係なく、あらかじめ決まっている、という信仰は、現実にとまどい、対応しかねている凡人にとっては、わかりやすく、受け入れやすい、安心できるものだった」。
 ・「明快は明快だけれども、非現実的な空想だったマルクス主義は、<中略>…が、それでもマルクス主義の影響は、まだきわめて深刻だ」。「発展段階説の影響は、歴史の捉え方にありありと残っている」。以上、p.145。
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