秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ソヴェト大会

2254/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第16節・第17節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第16節・ボルシェヴィキに対するアメリカの反応。
 (1)批准という形式的手続が、まだ残っていた。
 トロツキーが連合諸国代表者たちに打ち明けた間違った懸念にもかかわらず、事態は疑問の余地が決してないものだった。
 ソヴェト大会は、民主主義的に選出された機関ではなく、信仰者たちの集会だった。すなわち、3月14日に集まった1100名ないし1200名の代議員のうち、3分の2はボルシェヴィキ党員だった。
 レーニンは、長々と続く散漫な演説を行って、ブレスト=リトフスク条約を模範的に擁護し、現実主義に立つことを求めた。-完全に疲れ切った人物の演説だった。//
 (2)レーニンは、アメリカやイギリスへの経済的および軍事的援助の要請に対する反応を待っていた。彼にはじれったくも待ち遠しいものだったが、条約が批准された瞬間にそれを得る機会は皆無になることを、十分によく知っていた。//
 (3)ボルシェヴィキ権力の初期の時期には、ロシアに関する知識やロシア事情への関心の大きさは、ロシアに対するその国の地政学的近接性に直接に比例していた。
 最も近いところにいたドイツは、ボルシェヴィキと交渉しているときですら、彼らを軽蔑しかつ怖れた。
 フランスとイギリスは、戦争を継続しているかぎりで、ボルシェヴィキの行動やその意図に大した関心がなかった。
 大洋を離れたアメリカ合衆国は、ボルシェヴィキ体制を積極的に歓迎しているように見えた。そして、十月のクーの後の数カ月は、大規模なビジネスの機会という幻想に誘引されて、ボルシェヴィキの指導者たちに気に入られようと努めた。//
 (4)ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)は、ボルシェヴィキは本当に人民のために語っていると信じていたように見える。(93)そして、普遍的な民主主義と永遠の平和に向かって前進していると想定した大国際軍の分遣部隊を設立した。
 彼は、ボルシェヴィキの「人民」に対する訴えに対しては回答が必要だ、と感じた。
 ウィルソンはこの回答を、1918年1月8日の演説で行った。そこで彼は、有名な14項目を提示したのだ。
 彼は、ブレストでのボルシェヴィキの行動を称賛するまでに至っていた。
 「私にはこう思えるのだが、世界中の困惑した空気の中に充ちているどの感動的な声よりも身震いさせて心を掴む、そのような原理的考え方と目的を明確に示す声が、そこにはある。
 ボルシェヴィキの訴えは、これまでに何の同情も憐憫もないと知られるようになったドイツの容赦なき権力の前では、よるべなく、ほとんど無力だと見えるだろう。
 ボルシェヴィキの権力は、明らかに痛めつけられている。
 しかしなお、彼らの精神は屈服していない。
 彼らは、原理においても行動においても、屈従しないだろう。
 正義、人間性、そして彼らが受容する高潔性に関する彼らの考え方は、率直に語られてきた。それらには、見方の広さ、精神の寛容性、そして人間的共感があり、人類のこれまでの全ての友情に対する賞賛に挑戦するものであるに違いない。
 彼らはその考え方を混ぜ合わせて、彼ら自身には安全かもしれないものを放棄するのを、拒んできた。
 彼らは、我々が望むものは何か、かりにあるならば、彼らのものとは異なる我々の目的や精神はいつたい何にあるのか、を語ることを我々に迫っている。
 そして私は、合衆国の人民は完全な簡潔さと率直さをもって私が回答することを望むだろう、と信じる。
 現在の彼らの指導者たちが信じようと、信じまいと、ロシアの人民が自由(liberty)と秩序ある平和という最大の希望を獲得できるよう援助する特権を我々がもつかもしれない、そのような方途が我々には開かれている、ということは、我々の心からの願望であり、希望だ。」(94)//
 (5)ボルシェヴィキと連合諸国の関係には潜在的には重大な一つの障害があった。それは、ロシアの負債の問題だった。
 すでに記したように、1月にボルシェヴィキ政府は、ロシア国家の国内および国外の貸主に対する債務に関して債務不履行を宣言(default)した。(95)
 ボルシェヴィキは、かなりの懸念をもってこの措置を執った。このような数十億ドルに上る国際法侵犯は「資本主義者十字軍」を誘発するのではないか、と怖れたのだ。
 しかし、西側で革命が切迫しているという予想の拡がりによって警戒が逸らされ、この措置が執られた。//
 (6)西側に革命は起こらず、反ボルシェヴィキ十字軍もなかった。
 西側諸国は、この新しい国際法違反を驚くべき沈着さで迎えた。
 アメリカはボルシェヴィキに対して、何も怖れる必要はないと保証するまでした。
 レーニンの親密な経済助言者のI・ラリン(Iurii Larin)は、アメリカ領事の訪問をペトログラードで受けたが、その領事は、合衆国は国際的借款の無効宣告を「原理的に」受け入れることはできないが、としつつ、こう語った。
 「合衆国は、支払いを要求しないこと、ロシアが世界に登場したばかりの国家であるかのごとく関係を開くことを、事実上受諾するだろう。
 合衆国はとくに、ロシアがアメリカから全ゆる種類の機械や原料をムルマンスク、アルハンゲルまたはウラジオストークへの配送を通じて輸入するために、我々(ソヴェト・ロシア)に大規模の商業上の貸付(credit)を提供することができるだろう。」
 返済を確保すべく、合衆国領事は、ソヴェト・ロシアが中立国スウェーデンに若干の金貨を預託し、アメリカ合衆国にカムチャツカの割譲をすることを考慮するよう、提案した。(96)//
 (7)自分たちの国民を革命へと煽動しているときですら「帝国主義的強奪者たち」とのビジネスをすることができる、ということについて、これ以上の証拠が必要だろうか?
 そして、ある一国との取引関係を別の国とのそれが競争し合うようけしかけるだろう。あるいは、資本主義的産業家や銀行家を軍事と対抗させるだろう。
 このような<対立させて政治をせよ(divide et impera)>の政策を用いる可能性は、無限にあった。
 そして実際に、ボルシェヴィキは、自分たちの呆れるほどの弱さを埋め合わせるための機会としてこれを最大限に利用することとなる。つまり、自国の民衆が飢えて凍えているときですら、諸外国が持たない食料や原料と交換して工業製品を輸入するという餌で諸外国を釣ることによって。//
 (8)アメリカ合衆国政府がボルシェヴィキ当局に1918年初期に伝えた全ての意向は、ワシントンが表向きはボルシェヴィキの民主主義的および平和的意図の宣告をそのまま受け取り、世界革命の呼びかけを無視する、ということを示した。  
そのことによってレーニンとトロツキーは、ワシントンへの救援の訴えに対する積極的な反応を十分に期待することができたのだった。//
 (9)待ちに待った、3月5日の問い合わせに対するアメリカの回答は、ソヴェト第四回大会の開会日(3月14日)に届いた。
 ロビンスはそれをレーニンに手渡した。レーニンはたたちに、その回答書を<プラウダ>で公表した。
 それは当たり障りのない内容で、ソヴィエト政府ではなくソヴェト大会が宛先となっていた。おそらくは、このソヴェト大会がアメリカの議会と同等のものだと考えたからだろう。
 その回答は、当面はソヴィエト・ロシアを援助するのを拒否しつつ、非公式の承認にほとんど近いものをソヴィエト体制に認めるものだった。
 アメリカ合衆国大統領は、こう書いていた。//
 「今ここに、ソヴェト大会が開催される機会を利用して、ドイツ軍が自由を求める闘い全体を妨害しそれに逆行し、ドイツの願望のためにロシア国民の目的を犠牲にしているこの瞬間に、アメリカ合衆国国民がロシア国民に対して感じている真摯な共感を表明させて下さい。//
 合衆国政府は現在は不幸にも、本来は望んでいる直接的で有効な援助を行う立場にはありませんけれども、私は貴大会を通じてロシア国民に対して、ロシアがもう一度完全な主権と自己に関係する問題に関する自立性を確保するための、かつまたロシアがヨーロッパと現代世界の生活上のその偉大な役割を完全に回復するための、全ての機会を利用するつもりである、と保証させて下さい。//
 合衆国国民の全ての心は、専制的政治から永遠に自由になろうと、そして自分たちの生活の主人になろうとしているロシア国民とともにあります。
 ウッドロウ・ウィルソン
 ワシントン、1918年3月11日。」(97)
 イギリス政府も、同様の趣旨の反応をした。(98)//
 (10)この回答は、ボルシェヴィキが期待したものではなかった。ボルシェヴィキは、「帝国主義」陣営が互いに競い合う能力を過大評価していたのだ。
 ウィルソンの電信回答はたぶん最初の提示にすぎないと期待して、レーニンはロビンスに、追加の伝言を乞い続けた。
 その追加回答はもうないということが明らかになったとき、レーニンは、(大統領ではなく)アメリカ「人民」を侮蔑する回答書を執筆した。そこで彼は、アメリカ合衆国での革命は遠からずやって来る、とつぎのように確約した。//
 「大会は、アメリカ国民に、とりわけ合衆国の全ての労働、被搾取階級に対して、厳しい試練の中にいるソヴェト大会を通じてウィルソン大統領がロシア国民に表明した共感に対して謝意を表する。//
 ソヴェト・ロシア社会主義連邦共和国は、ウィルソン大統領が意向表明した機会を利用して、帝国主義戦争の恐怖によって死滅し苦痛を被っている全ての人民に対して、心からの共感と、全ての諸国の労働大衆が資本主義の軛を断ち切って、社会主義国家を建設する幸福なときが来るのは遠くないという堅い信念を、表明する。社会主義社会のみが、全ての労働人民の文化と福利はもとより、公正で永続する平和を達成することができる。」(99)//
 ソヴェト大会は、嘲弄の轟きの中で、この決議を満場一致で可決した(二箇所の小さな修正はあった)。ジノヴィエフはこの決議を、アメリカ資本主義を面前にしての「痛烈な非難」だったと叙述した。(100)//
 (11)大会は予定通り、ブレスト=リトフスク条約を批准した。
 この趣旨での提案は、724票の賛成を得た。この数は出席したボルシェヴィキ党員よりも10パーセント少なかったが、それでも3分の2の多数を超えていた。
 276名の代議員、あるいは4分の1は、ほとんど全員が左翼エスエルでおそらくは左翼共産主義者のうちの若干が加わっていたが、反対票を投じた。
 118名の代議員は、保留した。
 結果が発表された後、左翼エスエルはソヴナルコムから離脱することを宣言した。
 これによって、「連立政権」という虚構は終わった。左翼エスエルはなおも当分は、チェカを含む下級のソヴェト機関で職務を継続したけれども。//
 (12)ソヴェト大会は、秘密投票によって、政府にブレスト条約を破棄し、その裁量でもって宣戦を布告する権限を付与するボルシェヴィキ中央委員会の決議を承認した。//
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 (93) George Kennan, Russia Leaves the War(Princeton, N.J., 1956), p.255.
 (94) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.70.
 (95) Dekrety, I, p.386-7.; これにつき、以下の第15章を参照。
 (96) NKh, No.11(1918年), p.19-p.20.
 (97) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.87-p.88.
 (98) 同上, p.91-p.92.
 (99) 同上, p.89.; ロシア語原文は、Lenin, PSS, XXXVI, p.91.
 (100) Noulens, Mon Ambassade, II, p.34-p.35.
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 第17節・ボルシェヴィキの外交政策の原理。
 (1)レーニンは、屈辱的な条約を受諾するという先見ある見方でもって、必要とする時間を稼ぎ、事態を自然に崩壊させたとして、ボルシェヴィキ党員から広く、高い評価と信頼を得た。
 ドイツが西側連合諸国に降伏したあとの1918年11月13日にボルシェヴィキがブレスト条約をを破棄したとき、ボルシェヴィキ運動でのレーニンの資産は、これまでになかった高さにまで達した。
 無謬だという彼の評価を、これ以上に高めたものはなかった。レーニンは、その生涯で二度と、辞任するという脅かしをする必要がなかった。//
 (2)だがしかし、レーニンが同僚たちにドイツの要求に従うよう説得している際に、彼は中央諸国の降伏が差し迫っていると予見していた、ということを示すものは何もない。
 反対派を説得しようと考えられ得る全ての論拠を使っていた1917年12月から1918年3月までの彼の演説や文章の中で、公的であれ私的であれ、レーニンは、時勢はドイツから離れており、ソヴェト・ロシアは放棄しなければならなかったもの全てを再びすぐに取り戻すだろう、とは何ら主張しなかった。
 全くの反対だった。
 1918年の春と夏、連合諸国に破壊的な敗北を与えそうだというドイツ最高司令部の楽観的見方を、レーニンは共有しているように見えた。
 L・クラージン(Leonid Krasin)は、1918年9月早くにドイツから帰ったときに<イズヴェスチア>の読者に対して、優秀な組織と紀律の力でドイツは困難なく戦争をさらにもう5年間継続するだろう、と保障した。(101)これは確実に、自分のためだけに語ったのではなかった。
 ドイツは勝利するとのボルシェヴィキの信頼は、つぎの綿密な協定によって証されている。それはモスクワがベルリンと1918年8月に締結したもので、両国が公式の同盟関係国に至る初めにあるという見方を前提にして同意している。(102)
 ドイツの敗北がモスクワにとってはいかに想定し難く考えられていたかは、ドイツ帝国が死の発作に陥っていた1918年9月30日になっても、レーニンは3億1250万ドイツ・マルクの価値のある資産をベルリンに移し替えることを許可しいる、という事実によって証明されている。そのような移し替えについては、8月27日のブレスト条約の付属協定によって定められいたのだが、レーニンは、安全にその支払いを遅延させて、放棄することもできたのだった。
 ドイツが休戦を求める一週間前、ソヴィエト政府は、ドイツ市民はソヴィエトの銀行から預金を引き出して、それを自国にもち出すことができる、ということを再確認した。(103)
 こうした証拠から見て引き出される疑い得ない結論は、レーニンはドイツの<命令(Diktat)>〔ブレスト=リトフスク条約〕に屈従していた、ということだ。その理由はドイツが相当に長くはその条約を履行することができないと考えたからではなく、反対に、ドイツが勝利するだろうと予期し、勝者の側に立ちたかったからだ。//
 (3)ブレスト=リトフスク条約をめぐる状況は、ソヴィエトの外交政策になることとなるものの古典的なモデルを提供している。
 ソヴィエト外交政策の原理的考え方は、つぎにように要約することができるだろう。//
 1) いつ何時でも最高の優先順位をもつのは、政治権力の維持だ。-つまり、一つの国家領域のある部分に対する主権的権能と国家機構の統制。
 これはこれ以上小さくすることのできない、最少限度だ。
 これを確保するための対価で高すぎる事物は存在し得ない。
 このためには、何でもかつ全てを犠牲にすることができる。人命でも、土地や資源でも、民族的名誉でも。
 2) ロシアが十月革命を経て世界の社会主義の中心(「オアシス」)となって以降、ロシアの安全確保と利益は他の全ての諸国、闘争、あるいは党、のそれらに優先する。後者には、「国際プロレタリアート」のそれらも含まれる。
 ソヴェト・ロシアは、国際社会主義運動を具現化したものであり、社会主義運動を推進するための基地だ。
 3) 一時的な利益を得るためめに、「帝国主義」諸国と講和することは許され得る。しかし、その講和は軍事休戦と見なされなければならず、利益となる情勢の変化があれば破棄されるべきものだ。
 レーニンは1918年5月に、資本主義が存在するかぎりで、国際的取り決めは「紙の屑だ」と語った。(104)
 表向きは平和の時期ですら、協定に調印した政府を打倒するという見地から、敵対行動が、因習にとらわれない手法によって、追求されなければならない。//
 4) 福利を求める政策、国内政策と同様に外交政策は、つねに非感情的に実施されなければならない。その際には、「力の相関関係」への考慮に対してくきわめて綿密な注意が払われなければならない。以下のとおり。
 「我々は偉大な革命的経験をした。そしてその経験から、我々は客観的条件が許すならばいつでも絶えざる前進をする戦術をとる必要があることを学んだ。<中略>
 しかし、我々は、客観的条件が一般的に絶えざる前進を呼びかけることのできる可能性を示していないならば、力をゆっくりと結集して、遅らせる戦術を採用しなければならない。」(105)。
 (4)だが、ボルシェヴィキの外交政策にはもう一つの基本的な原理があることが、ブレスト条約の施行後に明らかになった。すなわち、外国の共産主義者の利益は<分割統治(divide et impera)>原則の適用によって促進されなければならないという原理的考え方だ。あるいは、レーニンの言葉によると、こうだ。
 「敵の間にある最も小さな『裂け目(crack)』であってもそれら全てを、多様な諸国のブルジョアジーの間や、産業国家内部のブルジョアジーの多様な集団や分野の間にある全ての利害対立を、慎重に、用心深く、警戒して、かつ巧妙に利用することによって」、促進されなければならない。(106)
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 (101) Izvestiia, No.190/454(1918月9月4日), p.3.
 (102) 後述、第14章を見よ。
 (103) Izvestiia, No.242/506(1918月11月5日), p.4.
 (104) Lenin, PSS, XXXVI, p.331.
 (105) 同上, p.340.
 (106) 同上, XLI, p.55.
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 第16節・第17節、終わり。第13章も終わり。次章・第14章の表題は、<国際化する革命>。

2253/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第15節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原書、597頁~600頁。
 毎回行っているのではないコメント。1918年のムルマンスクへの連合国軍(とくにイギリス)の上陸はしばしば<ロシア革命に対する資本主義国の干渉>の例とされている。しかし、以下のR・パイプスの叙述によると、何のことはない、当時の種々の可能性をふまえてのトロツキーらボルシェヴィキの要請によるもので、間違いなくレーニンも是認している。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第15節・連合国軍がロシアに初上陸。
 (1)レーニンはドイツの諸条件に従ったが、ドイツをまだ信頼してはいなかった。
 彼はドイツ政府内部の対立に関する情報を十分に得ており、将軍たちが自分の排除を強く主張していることを知っていた。
 そのため、レーニンは、連合諸国との接触を維持し、ソヴィエトの外交政策を彼らのよいように急激に転換する用意があると約束するのが賢明だと考えた。//
 (2)ブレスト条約が調印されたが批准はまだのとき、トロツキーは、アメリカ合衆国政府への伝言を記したつぎの文書を、ロビンスに手渡した。
 「つぎのいくつかの場合が考えられる。a)全ロシア・ソヴェト大会がドイツとの講和条約を批准するのを拒む。b)ドイツ政府が講和条約を破って強盗的収奪を継続すべく攻撃を再開する。あるいは、c)ソヴィエト政府が講和条約を破棄するように-批准の前または後で-、そして敵対行動を再開するように、ドイツの行動によって余儀なくされる。
 これらのいずれの場合でも、ソヴィエト権力の軍事的および政治的方針にとってきわめて重要なのは、つぎの諸質問に対して回答が与えられることだ。
 1) ソヴィエト政府がドイツと戦闘する場合、アメリカ合衆国、大ブリテン(イギリス)、およびフランスの支援をあてにすることができるか?
 2) 最も近い将来に、いかなる種類の支援が、いかなる条件のもとで用意され得るだろうか?-軍事装備、輸送供給、生活必需品は?
 3) 個別にはとくにアメリカ合衆国によって、いかなる種類の支援がなされるだろうか?
 4) 公然たるまたは暗黙のドイツの了解のもとで、またはそのような了解なくして、日本がウラジオストークと東部シベリア鉄道を奪うとすれば、それはロシアを太平洋から切り離し、ソヴィエト兵団がウラル山脈あたりから東方へと戦力を集中させるのを大いに妨害することとなるだろう。この場合、連合諸国は、個別にはとくにアメリカ合衆国は、日本軍がわが極東の領土に上陸するのを阻止し、シベリア・ルートを通じてロシアとの安全な通信連絡を確保するために、どのような措置をとるつもりだろうか?//
 アメリカ合衆国政府の見解によれば、-上述のごとき情勢のもとで-イギリス政府はどの程度の範囲の援助を、ムルマンスクやアルハンゲルを通じて確実に与えてくれるだろうか?
 イギリス政府は、この援助を行い、それでもって近いうちにイギリス側はロシアに対して敵対的行動方針をとるという風聞の根拠を喪失させるために、いかなる措置をとることができるだろうか?//
 これらの質問の全ては、ソヴィエト政府の内政および外交の政策は国際社会主義の諸原理と合致すべく嚮導される、またソヴィエト政府は非社会主義諸政府の完全な自立性を護持する、ということを自明の前提条件としている。」(82)//
 この文書の最後の段落が意味したのは、ボルシェヴィキは、助けを乞い求めているまさにその諸政府を打倒する闘いをする権利を留保する、ということだった。//
 (3)トロツキーがこの文書をロビンスに渡した日、彼はB・ロックハートと会話した。(83)
 トロツキーはこのイギリス外交官に対して、近づいているソヴェト大会はおそらくブレスト条約の批准を拒否し、ドイツに対する戦争を宣言するだろう、と言った。
 しかし、この事態が起きるためには、連合諸国はソヴィエト・ロシアを支援しなければならなかった。
 日本の大量の遠征軍がドイツと交戦すべくシベリアに上陸する可能性を連合諸国政府に伝えるべきだと暗に示唆しつつ、トロツキーは、そのようなロシアの主権の侵害は連合諸国との全ての信頼関係を破壊するだろう、と語った。
 ロックハートはトロツキーの発言をロンドンに知らせつつ、こうした提案は東部前線での戦闘を活性化させるよい機会を与える、と述べた。
 アメリカ大使のフランシスは、同じ意見だった。彼はワシントンに電信を打って、連合諸国が日本に対してシベリア上陸計画をやめるよう説き伏せることができれば、ソヴェト大会はおそらくブレスト条約を拒否するだろう、と伝えた。(84)
 (4)もちろん、ソヴェト大会が条約の批准を拒否する可能性は、きわめて乏しかった。ボルシェヴィキが多数派を占めることが定着しているにもかかわらず、レーニンが苦労して獲得した勝利をあえて奪い去ることになるからだ。
 ボルシェヴィキは、本当に怖れていたことを阻止するために餌を用いた。-怖れたこととはすなわち、日本軍によるシベリア占領と、反ボルシェヴィキ勢力の側に立っての日本のロシア問題への干渉だ。
 フランス外交官のヌーランによると、ボルシェヴィキはロックハートを信頼していたので、ロックハートが暗号を使ってロンドンと連絡通信するのを許した。そうしたことは、公式の外国使節団ですら禁止されたことだった。(85)
 (5)連合諸国との友好関係によって生じた最初の具体的結果は、3月9日に連合諸国の少数の分遣隊がムルマンスクに上陸したことだった。
 1916年以降、約60万トンに上る軍需物資がロシア軍に対して送られ、その多くについては支払いがなかったのだが、その軍需物資は輸送手段が不足しているために内陸には送られず、そこに蓄積されていた。
 連合諸国は、この物資がブレスト=リトフスク条約の結果としてドイツ軍の手に入るか、ドイツ=フィンランド軍勢力によって分捕られることを、怖れた。
 連合諸国はまた、ペチェンガ(Pechenga, Petsamo)付近をドイツ軍が奪取して、そこに潜水艦基地を建設するのを懸念していた。//
 (6)連合諸国による保護を求める最初の要請はムルマンスクのソヴェトによるもので、3月5日に、ドイツ軍に援助されていると見られる「フィンランド白軍」がムルマンスクを攻撃しようとしている、とペトログラードに電報を打った。
 当地のソヴェトはイギリス海軍と接触し、同時に、ペトログラードに対して、連合諸国に介入を求めることの正当化を要請した。
 トロツキーはムルマンスク・ソヴェトに、連合諸国の軍事援助を受けるのは自由だ、と知らせた。(86)
 こうして、ロシア国土に対する西側の最初の干渉は、ムルマンスク・ソヴェトの要請とソヴィエト政府の是認によって行われた。
 レーニンは1918年5月14日の演説で、イギリスとフランスは「ムルマンスクの海岸を防衛するために」上陸した、と説明した。(87)
 (7)ムルマンスクに上陸した連合諸国の部隊は、数百名のチェコ兵のほか、150名のイギリス海兵たち、若干のフランス兵で構成されていた。(88)
 その後の数週間、イギリスはムルマンスクの件について、モスクワとの恒常的な連絡通信関係を維持した。不幸にも、その意思疎通の内容は、明らかにされてきていない。
 両当事者は、ドイツとフィンランドの両軍がこの重要な港湾を奪取するのを阻止すべく協力した。
 のちに、ドイツの圧力によって、モスクワはロシア国土に連合諸国軍が存在することに抗議した。しかし、トロツキーとの緊密な関係を保っていたフランス外交官のサドゥールは、自国政府に対して、心配する必要はない、とこう助言した。//
 「レーニン、トロツキーおよびチチェリンは、現在の情勢のもとで、連合諸国との同盟する希望をもって、イギリス・フランスのムルマンスク上陸を受容している。これはドイツに講和条約違反だと抗議する言い分を与えるのを阻止するために行われたと理解されていて、彼ら自身は連合諸国に対して純粋に形式的な抗議を表明するだろう。
 彼らは素晴らしいことに、北部の港湾とそこにつながる鉄道を、ドイツ・フィンランドの危険な企てから守ることが必要だと理解している。」(89)
 (8)第四回ソヴェト大会の前夜、ボルシェヴィキは第7回(臨時)党大会を開いた。
 緊急に招集された、46名の代議員が出席したこの大会の議題は、ブレスト=リトフスク条約に集中していた。
 口火を切った、とくにレーニンの不人気な立場を防衛する親密なグループの議論からは、国際法および他国との関係に関する共産主義者の態度について、きわめて稀な洞察を行うことができる。
 (9)レーニンは、左翼共産主義者に対して、力強く自分を擁護した。(90)
 彼が最近の事態を概述して聴衆に想起させようとしたのは、ロシアで権力を奪取するのがいかに容易だったか、そしてその権力を組織化して維持するのがいかに困難であるか、だった。
 権力を掌握する際に有効だと分かった方法を、それを管理するという骨の折れる任務に単純に移し替えることはできない。
 レーニンは、「資本主義」諸国との間の永続的な平和などあり得ないこと、革命を世界に拡大することが必須であること、を承認した。
 しかし、現実的でなければならない。西側の産業ストライキの全てが革命を意味するわけではない。
 全くの非マルクス主義者ではむろんないが、レーニンは、後進国であるロシアに比べて、民主主義的な資本主義諸国で革命を起こすのははるかに困難だ、と認めた。//
 (10)これらは全て、聞き慣れたことだった。
 目新しいのは、平和と戦争という主題に関する、レーニンのあけすけな考察だ。
 レーニンは、指導的な「帝国主義」権力との永遠の講和をしたのではないかと怖れる聴衆に対して、あらためて保証した。
 まず、ソヴィエト政府は、ブレスト条約の諸条項を破る意図をつねに持っている。実際に、すでに30回か40回かそうした(たった3日間で!)。
 中央諸国との講和は、階級闘争の廃止を意味していない。
 平和はその性質上つねに一時的なもので、「力を結集する機会」だ。「歴史が教えるのは、平和は戦争のための息抜きだ、ということだ」。
 別の言葉で言うと、戦争が正常な状態であり、平和は小休止だ。すなわち、非共産主義諸国との間の永続的な平和などあり得ず、敵対関係の一時的な停止、つまり停戦があるにすぎない。
 レーニンは、続けた。講和条約が発効している間ですら、ソヴィエト政府は-条約の諸条項を無視して-新しいかつ力強い軍隊を組織するだろう。
 彼はこのように述べて、是認することが求められている講和条約は世界的革命の途上にある迂回路にすぎないと、支持者たちを安心させた。//
 (11)左翼共産主義者たちは、反対論をあらためて述べた。しかし、十分な票数を掻き集めることはできなかった。
 条約を是認するとの提案は、賛成28、反対9、保留1で、通過した。
 レーニンはさらに、党大会に対して、秘密決議を採択するよう求めた。この秘密期間未定のままで公表されない決議は、中央委員会に、「帝国主義者やブルジョア政府との間の平和条約をいつでも無効に(annul)する権限、および同様に、それらに宣戦布告する権限」を、与えるものだった。(92)
 ただちに採択され、のちにも公式には撤回されなかったこの決議は、ボルシェヴィキ党中央委員会の一握りの者たちに、彼らの随意の判断でもって、ソヴィエト政府が加入した全ての国際的協定を破棄する権能、およびいずれかのまたは全ての外国に対して宣戦布告をする権能を与えた。
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 (82) J. Degras, Documents of Russian Foreign Policy, I(London, 1951), p.56-p.57. 文書の日付は、1918年3月5日。
 (83) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.82-4.
 (84) 同上, p.85-6.
 (85) J. Noulens, Mon Ambassade en Russie Sovietique, II(Paris, 1933), p.116.
 Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.161-2.を参照。
 (86) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.; D Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1922), p.264-5.
 Brian Pearce, How Haig Saved Lenin(London, 1988), p.15-p.16.
 (87) NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (88) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.
 (89) 1918年4月12日付手紙、in: Sadoul, Notes, p.305.
 ドイツによる圧力につき、Lenin, in: NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (90) Lenin, PSS, XXXVI, p.3-p.26.
 (91) Lenin, Sochineniia, XXII, p.559-p.561, p.613.
 (92) KPSS v rezoliutsiiakh i resheniiakh s"ezdov, konferentsii iplenumov TsK, 1898-1953, 第7版, I(Moscow, 1953), p.405.; Lenin, PSS, XXXVI, p.37-8, p.40.を参照。
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 第15節、終わり。この章には、あと第16節・第17節がある。

1947/R・パイプス著・ロシア革命第11章第6節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.473-p.477.
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 第6節・ボルシェヴィキのためのソヴェト大会の企て。
 (1)レーニンの切迫した意識は、かなりの程度は、憲法制定会議によって先手を打たれるのではないか、という怖れで大きくなっていた。
 8月9日、臨時政府はようやく最終的に、憲法制定会議の日程を発表した。
 選挙は、11月12日。最初の会合は、11月28日。
 ボルシェヴィキは数日間はこの会議で議席の多数派を獲得できるだろうと幻想していたが、心の裡では、かりに農民たちが確実にエスエルに投票するならばその機会はない、と分かっていた。
 ボルシェヴィキは都市と軍隊で強く、単独でソヴェト組織を握っていた。そしてボルシェヴィキの望みはただ、ソヴェトを通じて全国的な信任を勝ち得ることだった。
 さもなければ、全ては終わってしまう。
 民主主義的な選挙を通じて国家がいったんその意思を明らかにすれば、ボルシェヴィキが「民衆(people)」を代表しており、新しい政府は「資本主義者」だ、とはもはや主張できないだろう。
 したがって、ボルシェヴィキが権力を奪取するとすれば、それは憲法制定会議の前に行わなければならなかった。
 ボルシェヴィキが制御している場合にのみ、選挙での反対の結果を帳消しにすることができる。ボルシェヴィキのある出版物が、憲法制定会議の構成は「誰がそれを招集するかに大きくかかっている」と述べたように。(113)
 レーニンも同意見だった。憲法制定会議の「成功」は、クーの<あと>でのみ最もよく確保されるだろう。(114)
 事態が示すことになるように、このことは、ボルシェヴィキが選挙結果に不正に手を加えるか、そうでなければ会議を解散させるだろう、ということを意味した。
 レーニンが辞任宣告で脅かしてまで同僚たちを急がせた主要な理由は、このことにあった。//
 (2)ボルシェヴィキには、憲法制定会議を操作して自分たちに権力を譲らせるという望みはなかった。しかし、考えられ得ることとしては、彼らはこの目的をもってソヴェトを、定期的にではなく選挙され、農民たちの代表者のいない、ゆるやかな構造をもつこの装置を、利用することができた。
 このことを意識しつつ、ボルシェヴィキは、第二回ソヴェト大会の迅速な招集のための煽動活動を行い始めた。
 彼らには、事情があった。
 6月の第一回会議以降、ロシアの情勢は変化し、都市ソヴェトの構成員も変化していた。
 エスエルとメンシェヴィキは次の大会には全く熱心ではなかった。その理由の一つは、ボルシェヴィキの割合が大きくなるのを怖れたことだ。別の理由は、憲法制定会議の邪魔をすることになるだろうことだった。
 地方ソヴェトと軍隊もまた、否定的だった。
 9月の末、イスパルコムは169のソヴェトと軍委員会に対してアンケートを実施し、第二回ソヴェト大会を開催することの賛否を問うた。
 そのうち63のソヴェトが回答したが、賛成したのは8ソヴェトだけだった。(115)
 兵士たちの間の感情は、さらに消極的なものだった。
 10月1日、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門は、ソヴェトの全国大会に反対する票決を行い、10月半ばにイスパルコムに報告書を提出した。それは、軍委員会の代議員たちは満場一致でそのような大会は「時期尚早(premature)」で、憲法制定会議の基礎を破滅させるだろう、と述べていた。(116)//
 (3)しかし、ペトログラード・ソヴェトで優勢であるボルシェヴィキは、圧力をかけ続けた。そして9月26日、イスパルコム事務局は、10月20日に第二回ソヴェト大会を招集することに同意した。(117)
 この会議の議事対象は、憲法制定会議に提出する立法草案を起草することに限定されるものとされた。
 ソヴェトの都市協議部署に対して、地方ソヴェトに代議員を派遣して招聘するよう、指令が発せられた。//
 (4)ボルシェヴィキはかくして勝利したが、ほんの第一歩にすぎなかった。
 国全体のソヴェトでのボルシェヴィキの立場は、6月よりははるかに強くなっていた。しかし、第二回ソヴェト大会で彼らが絶対多数を獲得しそうにはなかった。(118)
 第二回ソヴェト大会を自分たちの手で招集し、たいていは中央や北部ロシアにあるソヴェトかまたは多数派を占めている軍委員会のソヴェトのみをその大会に招くことによってのみ、彼らは絶対多数の獲得を確保することができる。
 今やボルシェヴィキは、このように進むこととなった。//
 (5)9月10日、ヘルシンキで、第三回フィンランド労働者・兵士ソヴェトの地方大会が開かれた。
 ここではボルシェヴィキは、堅い多数派を形成していた。
 この大会は地方委員会を設立し、この委員会は、フィンランドの民間人および軍人に対して、同委員会が同意した臨時政府の法令にのみ従うよう指令した。(120)
 このような動きが意図したのは、ボルシェヴィキが動かす似而非政府的中心機関を媒介として臨時政府の正統性を奪う(delegitimate)ことだった。
 (6)フィンランドでの成功によって、ボルシェヴィキは、全ロシア・ソヴェト大会を従順なものにして開催する同じような装置を使うことができる、と納得した。
 9月29日にボルシェヴィキ中央委員会は議論し、10月5日、ペトログラードで北部地方ソヴェト大会を開催することを決定した。(121)
 招聘状は、フィンランド陸海軍および労働者の地方委員会と自称する、ボルシェヴィキのその日限りのフロント組織の名前で発送された。
 イスパルコム事務局は、この会合は正式ではない方法で招集されている、と抗議した。(122)
 地方委員会はこれを無視し、代議員を派遣する多数派をボルシェヴィキが握っているおよそ30のソヴェトを招聘する手続を進めた。
 それらの中にはとくに、モスクワ地方の各ソヴェトがあった。北部地方の中に入ってはいなかったのだけれども。(123)
 何人かのボルシェヴィキ指導者たち、とくにレーニンは、この地方ソヴェト大会に権力のソヴェトへの移行を宣言させることを考えた、と有力に示唆するものが存在する。(124) しかし、この計画は断念された。//
 (7)北部地方ソヴェト大会は、10月11日にペトログラードで開かれた。
 この大会は、ボルシェヴィキとその同盟者である、社会革命党を跳び出た集団の左翼エスエルが、完全に支配した。
 この奇抜な「大会」では、あらゆる種類の扇動的な演説が行われた。その中には、「言葉のための時間」は過ぎたと明瞭に語った、トロツキーのものもあった。(125)
 (8)もちろんボルシェヴィキには、他の党派と同じく、全国的であれ地方的であれ、ソヴェト大会を開催する権限はない。そしてイスパルコムは、この会合は公式の立場を有しない、個々のソヴェトの「私的な集会」だと宣言した。(126)
 ボルシェヴィキは、この宣言を無視した。
 彼らは、この大会を、10月20日に集まることが決定されている第二回ソヴェト大会を直接に先駆けするものだと見なしていた。-トロツキーによると、可能ならば合法的な手段で、それが可能でないならば「革命的」方法で。(127)
 この地方ソヴェト大会の最も重要な結果は、「北部地方委員会」の設立だった。これは、11名のボルシェヴィキと6名の左翼エスエルで構成され、その任務は第二回全ロシア・ソヴェト大会の開催を「確実なものにする」こととされた。(128)
 10月16日、北部地方委員会は、連隊、分団および軍団レベルの軍委員会へとともに、各ソヴェトに対して電報を発した。それは、第二回大会がペトログラードで10月20日に開催されることを告げ、代議員を派遣するよう要請するものだった。
 大会では、休戦と農民たちへの土地の配分が達成され、かつ憲法制定会議が予定どおりに開かれることが確実にされるべきだ。
 電報は、第二回大会の招集に反対している全ソヴェトと軍委員会-これらはイスパルコムの調査から知られるように大多数だったが-に対して、ただちに「再選挙」を行うよう指示していた。「再選挙」とは、ボルシェヴィキの暗号符では、「解散」のことだった。(129)//
 (9)このボルシェヴィキの動きは、紛れもなく、ソヴェトの全国組織に対するクー・デタだった。そして、権力掌握の開幕を告げるものだった。
 このような方法でもって、ボルシェヴィキ中央委員会は、第一回ソヴェト大会がイスパルコムに付与した権限を不法に自分たちのものにした。
 これはまた、臨時政府の権能を奪うものだった。なぜなら、ボルシェヴィキがいわゆる第二回大会に設定した議事予定は、憲法制定会議が開催されるまでの政府の活動の中枢に関係していたからだ。(130)
 (10)ボルシェヴィキがしようとしていることを十分に知って、メンシェヴィキとエスエルは、第二回大会の正統性を承認するのを拒否した。
 10月19日、<イズヴェスチア>は、イスパルコム事務局のみがソヴェトの全国大会を招集する権限をもつとのイスパルコムの声明文を掲載した。
 「このような大会を開催する主導権を奪う権限や権利は、別のどの委員会にも存在しない。北部地方委員会は地方ソヴェトに関して定められた全ての規約を侵犯する、恣意的にかつでたらめに(at random)選出されたソヴェトを代表する、ということを一緒にまとめて行っているのであるから、この権利がこの北部地方大会に帰属することは、なおさらあり得ない。」
 イスパルコム事務局はさらに進んで、ボルシェヴィキによる連隊、分団および軍団の各委員会に対する招集は、代議員は軍集会で、これを開催できない場合には2万5000人ごとに1名を基礎にした軍委員会で選出された者を代議員とすると定める軍代表制に関する所定の手続を侵犯する、と述べた。(131)
 ボルシェヴィキの組織者たちは明らかに、第二回大会に反対していることを知って、軍委員会を無視していた。(132)
 三日のちに<イズヴェスチア>は、つぎのように明確に指摘した。ボルシェヴィキは不法な大会を招集しているのみならず、受容された代表制に関する規約を明らかに侵犯している。2万5000人以下の者を代表するソヴェトは全ロシア大会に代議員を送ることができず、2万5000人から5万人までの場合は2名を派遣すると定める選挙規程があるにもかかわらず、ボルシェヴィキは、500人のいるソヴェトに2名の代議員を招聘し、別の1500人のいるソヴェトには5名の派遣を求めている。これは、キエフ(Kiev)に割り当てられている数よりも多い。(133)
 (11)これらの指摘は全て、正しいことだった。
 しかし、エスエルとメンシェヴィキは、来たる第二回大会は正規に代表されていないことはむろんのこと、不法だ、と宣言したにもかかわらずなお、手続が進行するのを許した。
 10月17日、イスパルコム事務局は、二つの条件を付けて第二回大会の開催を承認した。
 第一に、第二回大会は、地方の代議員にペトログラードに到着できる時間を与えるべく、5日間、10月25日まで、延期されるべきこと。
 第二に、その議題は、憲法制定会議を準備すべく国内状況と、イスパルコムの再選出に限定されるべきこと。(134) 
 これは、驚くべき、そしてじつに不可解な屈服だった。
 ボルシェヴィキが心の裡にもつことを知っていたにもかかわらず、イスパルコムは彼らが欲するものを与えた。
 支持者とその同盟者たちで充たされた、お手盛りの(handpicked)組織〔大会〕。これが確実に、ボルシェヴィキによる権力掌握を正当化することになるだろう。
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 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDRP(b)>(Moscow, 1958), p.74.
 (113) <SD>No.169(1917年9月28日), p.1.
 (114) レーニン, <PSS>XXXIV, p.403, p.405.
 (115) <Izvestiia>No.186(1917年10月1日), p.8.
 (116) <Revoliutsiia>V, p.53.; <Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5.
 (117) <NZh>No.138(1917年9月27日), p.3.
 (118) Leonard Schapiro, <ソヴィエト同盟共産党>(London, 1960), p.164.
 (119) <Revoliutsiia>IV, p.197, P.214.
 (120) 同上, p.256.
 (121) <Protokoly TsK>, p.73, p.76.
 (122) <Revoliutsiia>V, p.65.
 (123) <Protokoly TsK>, p.264.; <Revoliutsiia>V, p.63.
 (124) Alexander Rabinowitch, <ボルシェヴィキの権力奪取>(New York, 1976), p.209-p.211.
 (125) <Revoliutsiia>V, p.71-p.72.
 (126) 同上, p.70-p.71.
 (127) <NZh>No.138/132(1917年9月27日), p.3.
 (128) <Revoliutsiia>V, p.78.
 (129) 同上, p.246, p.254.
 (130) 9月25-27日の政府声明を見よ。<Revoliutsiia>IV所収, p.403-6.
 (131) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.7.
 (132) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (133) 同上, No.203(1917年10月21日), p.5.
 (134) <Revoliutsiia>V, p.109.; <NZh>No.156/150(1917年10月18日), p.3.
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 第6節は終わり。次節・第7節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の奪取>。

1943/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.470-p.473.
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 第5節・隠亡中のレーニン②(Lenin in hiding)。
 (13)多くのボルシェヴィキ党員には、新しい戦術と親ソヴェト・スローガンの放棄は幸せなことでなかった。
 その月の別の機会にスターリンは、党は疑いなく我々が多数派を占めるソヴェトを支持していると保障して、彼らを安心させようと努めた。
 しかし、ソヴェトへの関心の一般的な冷却に気づいて、ボルシェヴィキたちがもう一度気持ちを切り替えるのに、たいした時間はかからなかった。というのは、無関心が増大したために、ソヴェトを自分たちの目的でもって貫いて操作する機会ができた、と考えたからだ。
 党の公式誌<イズヴェスチア>は、9月の最初に、つぎのように書いた。
 「最近はソヴェトで仕事することへの無関心が見られる。<中略>
 実際に、(ペトログラード・ソヴェトの)1000人以上の代議員のうち、400から500人程度しか会議に出席していない。そして、出てくることをしない者たちは正確には、今まではソヴェトの多数派を形成していた諸党の代議員たちだ。」(106)-すなわち、メンシェヴィキとエスエル。
 <イズヴェスチア>の「ソヴェト組織の危機」と題された一ヶ月後の論説でも、同じような不満を読むことができた。
 「ソヴェトの人気が最高だったとき、イスパルコムの都市間協議(interurban, inogorodnyi)の部署は、国じゅうに800のソヴェトを表にして列挙していた、と執筆者は思い出す。」
 10月までに、これらのソヴェトの多くはもはや存在しないか、紙の上だけの存在になった。
 地方からの報告書は、ソヴェトはその威厳と影響力を失いつつある、というものだった。
 編集部はまた、労働者・兵士代表者ソヴェトが農民組織とともに進むことのできないことに不服を告げた。そのことは、農民層がソヴェト構造の「全く外側」にとどまることに帰結するからだ。
 しかし、ペトログラードやモスクワのようにソヴェトが機能している区域ですら、ソヴェトは、多数の知識人や労働者が離反したために、もはや全ての「民主主義派」を代表していなかった。
 「ソヴェトは、旧体制と闘う素晴らしい組織だった。しかし、それは新しい体制の形成を引き受ける能力が全くなかった。<中略>
 専制体制が官僚制秩序と一緒に崩壊したとき、我々は全ての民主主義派を守るための一時的な兵営として代表者ソヴェトを設立したのだった。」
 <イズヴェスツィア>は今はこう結論づけた。ソヴェトは、より代表制的な選挙制度で選ばれた市会(Municipal Councils)のような永続的な「石の構造」のために放棄されてきている。(107)
 ソヴェトへの幻想からの覚醒が拡大し、社会主義派の対抗者が長く不在であることによって、ボルシェヴィキは、国民的支持からは全く不釣り合いの影響力を獲得することができた。 
 ボルシェヴィキのソヴェト内での役割が大きくなるにつれて、ボルシェヴィキは古いスローガンに戻った。-「全ての権力をソヴェトへ」。
 (14)ボルシェヴィキは、ペトログラード・ソヴェトの多数派となった9月25日に、権力に向かって進む重要な一歩を通過した。
 (9月19日に、モスクワで同様に多数派になっていた。)
 ペトログラード・ソヴェトの議長たる地位に就いたトロツキーはただちに、そのソヴェトを国のその他の都市ソヴェトを制御するための組織へと変え始めた。
 <イズヴェスツィア>の言葉によれば、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門でボルシェヴィキが多数を獲得するやいなや、ボルシェヴィキは「それを彼らの党組織へと変えた。そして、それに依拠して、国全体の全てのソヴェトを把握するパルチザン的闘いを行うようになった。(108)
 ボルシェヴィキは、全ロシア大会で選出された、エスエルとメンシェヴィキが支配するままのイスパルコムを大幅に無視し、自分たちが多数を握るソヴェトのみを代表する、彼ら自身の全国的似而非ソヴェト組織を生み出そうと取りかかった。
 (15)コルニロフによって生じた有利な政治環境とソヴェトでの勝利によって、ボルシェヴィキは、クー・デタの問題を生き返らせた。
 意見は、分かれた。
 七月の大失敗はまだ記憶に鮮明で、カーメネフとジノヴィエフは、さらなる「冒険主義」に反対した。
 二人は論じた。ソヴェト内での力が増加したにもかかわらず、ボルシェヴィキは少数派政党のままであり、かりに何とかして権力を奪取しても、「ブルジョア反革命」と農民層の結合した勢力に面してすぐにそれを失うだろう。
 もう片方の極端な立場のレーニンは、即時のかつ断固たる行動を求める主要な発議者だった。
 彼はコルニロフ事件によって、クーの成功の可能性がかつてよりも大きく、かつ二度とやって来ない、と確信していた。
9月12日と14日、レーニンは、フィンランドから二通の手紙を、中央委員会に書き送った。それぞれ、「ボルシェヴィキは権力を奪取しなければならない」、「マルクス主義と反乱」と呼ばれる。(109)
 彼は前者で書いた。「二つの重要な都市で労働者・兵士代表者ソヴェトでの多数派となり、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるし、そう<しなければならない>。」
 カーメネフやジノヴィエフの主張とは反対に、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるのみならず、保持し続けることもできる。すなわち、即時の講和を提案し、農民に土地を与えることによって、「ボルシェヴィキは、<誰も>打倒しようと<しない>政府を設立することができる。
 しかし、臨時政府がペトログラードをドイツ軍に明け渡すか戦争を終わらせる何か別のことをするかもしれないので、迅速に行動することこそがきわめて重要だ。
 その日の命令は、「ペトログラードとモスクワ(プラスここれら地域)での武装暴動、権力の制圧、政府の打倒だ。
 我々は、活字にして明確に表明することなく、<いかにして>このために煽動すべきかを考えなければならない。」
 ペトログラードとモスクワではすでに権力を奪取しているので、問題は解決されているだろう。
 レーニンは、多数派を獲得するを望んで第二回ソヴェト大会の招集を待つべきだとのカーメネフとジノヴィエフの見解を「ナイーヴな」ものとして却下した。「革命は<それ>を待っていない。」
 (16)第二の手紙でレーニンは、武力による権力奪取は「マルクス主義」ではなくて「ブランキ主義」だという非難について議論し、また、七月との類似性の問題に片をつけた。すなわち、「9月の『客観的』情勢は、全く異なっている。」
 彼は(考えられるのはドイツとの接触で得られた情報から)、ベルリンがボルシェヴィキ政府に休戦を提案するだろうことは確実だと思っていた。
 「そして、休戦を確保することは、世界<全体>を制圧することを意味する。」(110)
 (17)中央委員会は9月15日に、レーニンの手紙を議題として取り上げた。
 短い、ほとんど確実に厳密に検閲されたこの会議の議事要領書(*) が示しているのは、レーニンの同僚たちは(カーメネフが迫ったように)公式に彼の助言を拒否するのを躊躇しているが、従う心づもりもない、ということだ。
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 (*) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.55-62.
 これは、現在で唯一利用可能な、1917年8月4日から1918年2月24日までのボルシェヴィキ中央委員会の会議の記録書で、1929年に最初に出た。
 この記録書は、トロツキー、カーメネフおよびジノヴィエフという、スターリンが党の支配のために打倒した者たちの評価を落とすことが意図されていた。そして、この理由のゆえに、きわめて慎重に用いられなければならなかった。
 第二版の編集者によれば、こうだ。「議事録の文章は、省略なくして完全に公刊される。但し」、何を意味するものであれ、「第一版では議事録の文章上のこれらの疑問に関する適切ではない説明を理由としてそうなされたように、対立する事項(konfliktnye dela)を除く」(p. vii)。
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 トロツキーによれば、 即時の暴乱は望ましくないとして、9月には誰もレーニンに同意しなかった。(111)
 スターリンの動議により、レーニンの手紙は党の主要な地方組織に回覧されることになった。これは、即時の行動を回避する方法でもあった。
 ここで、問題が残っている。その後の6回の会議については何も、レーニンの提案が言及されていないのだ。(+)
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 (+) もちろん、レーニンの考えは却下され、その事実は議事録が出版されるときの版では削除された、ということは排除され得ない。
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  (18)レーニンはこのような消極性に烈しく怒った。暴乱を起こすのに都合のよいときが過ぎ去ってしまうのを、彼は懼れていた。
 9月24日か25日、彼はヘルシンキから、行動舞台により近いヴィボルク(Vyborg)(まだフィンランドの領土)へと移動した。
 彼はそこから、9月29日、第三の手紙を中央委員会に発送した。その表題は「危機は成熟した」。
 レーニンの主要な活動方針は、この手紙の第六部に含まれていた。1925年に最初に公にされた。
 レーニンはこう書いた。ある範囲の党員たちが次のソヴェト大会まで権力掌握を延期したいと考えていることは率直に認めなければならない。
 彼は全体として、このような考え方を拒否した。
 「この瞬間を逃してソヴェト大会を『待つ』のは、完璧に愚かで、完璧な裏切り行為だ」。
 「ボルシェヴィキは今や、蜂起の成功を保障されている。
 1.我々は(ソヴェト大会を『待つ』ことをしなくても)突然に三箇所から急襲することができる。すなわち、ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊。 <中略>。
 5.我々はモスクワで権力を奪取する技術的能力を持っている(これは、突然さによって敵を弱体化させるために始めることすらできる)。
 6.我々は<数千人>の武装した労働者と兵士を持っており、彼らは<ただちに>冬宮、将軍幕僚、電話局、および全ての大きな印刷工場を掌握することができる。<中略>
 我々がただちに、かつ突然に三箇所から-ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊から-急襲するならば、成功の見込みは99パーセントであり、七月の3-5日に被ったよりも少ない損失で勝利するだろう。<兵団は、講和する政府に反対して動くことはしないだろう。>(**)
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 (**) レーニン,<PSS>XXXIV, p.281-2. レーニンはここで不用意に、七月3-5日にボルシェヴィキは実際に権力掌握を試みたことを認めている。
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 中央委員会が要請に回答せず、自分の論文を削除すらしたことを見て、レーニンは、辞職願いを提出した。
 もちろんこれは、はったり(ブラフ)だった。
 中央委員会は、意見の違いに関して議論するため、レーニンにペトログラードに戻るよう要請した。(112)
  (19)レーニンの同僚たちは一致して、よりゆるやかで安全な方針を好んで、即時の武装蜂起への彼の要求を拒絶した。
 彼らの戦術は、レーニンの提案は「性急だ」と考えたトロツキーによって、定式化された。
 トロツキーは、全ロシア・ソヴェト大会による権力の掌握を装った、武装蜂起をしたかった。-しかし、確実に拒否するだろう、適式に開催された大会による権力掌握をではない。そうではなく、ボルシェヴィキが定められた手続に従わないで自分たちが主導して開催し、支持者たちを詰め込める会議による権力掌握を装ってだ。つまりは、全国的大会だと偽装(カモフラージュ)しての、親ボルシェヴィキのソヴェト大会。
 振り返って見ると、これが進むべき疑いなく適切な行路だった。なぜなら、レーニンが主張したような単一の政党による権力の公然たる掌握には、国は寛容であることができなかっただろうから。
 最初の日々を越えて成功していくためには、クーには、かりに表面的なものだったとしても、何らかの性質の「ソヴェト」の正統性が与えられなければならなかった。//
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 (105) Leningradskii Istpart, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1927), p.77.
 (106) <イズヴェスツィア>No.164(1917年9 月5日).
 (107) <イズヴェスツィア>No.195(1917年10月12日), p.1.
 (108) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (109) レーニン,<PSS>XXXIV, p.239-p.241.
 (110) 同上, p.245.
 (111) L・トロツキー,<ロシア革命史>III(New York, 1937), p.355.
 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.74.
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 第5節は終わり。第6節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキ自身のソヴェト大会の計画>。

1568/レーニンらの利点とドイツの援助①-R・パイプス著10章6節。

 第5節終了の前回からのつづき。第6節は、p.407~p.412。
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 第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツによる財政援助。
 1917年の5月と6月、社会主義諸党の中で、ボルシェヴィキ党はまだ寂しい第三党だった。
 6月初めの第一回全ロシア・ソヴェト大会のとき、ボルシェヴィキには105人の代議員がいたが、これに対してエスエルは285人、メンシェヴィキは248人だった。(*)
 しかし、潮目はボルシェヴィキに向かって流れていた。//
 ボルシェヴィキには多くの有利な点があった。
 新しい臨時政府に対する唯一の対抗選択肢であり、決意があり権力を渇望する指導部をもつ、という独自の地位。そしてこれら以外にも、少なくとも二つの利点があった。
 メンシェヴィキとエスエルは社会主義的スローガンをまくし立てはしたが、それらを論理的な結論へと具体化することをしなかった。
 このことは支持する有権者たちを当惑させ、ボルシェヴィキを助けた。
 社会主義者たちは、二月革命以降のロシアは『ブルジョア』体制になり、ソヴェトを通じて自分たちが統制すると言ってきた。
 だが、そうであれば、なぜソヴェトは『ブルジョアジー』を除去して完全な権力を握らないのか?
 社会主義者たちは、戦争は『帝国主義的』だと称した。
 そうであれば、なぜ武器を捨てさせ、故郷に戻さないのか?
 『全ての権力をソヴェトへ』や『戦争をやめよ』のスローガンは、1917年の春や夏にはまだ一般に受容されていなかったが、確実に避けられない論理をもった-つまり、社会主義者たちが一般民衆の間に植え付けた考えの脈絡で、『意味』をもった。
 ボルシェヴィキは勇気をもって、社会主義者に共通の諸基本命題から、彼らがそれに実際に堪えることは決してないという明白な結論を抽出した。
 したがって、社会主義者がそうしてしまうことは、自分たち自身を裏切るのと同じになる。
 社会主義者たちは、レーニンの支持者たちが厚かましく民主主義的手続に挑戦して権力への衝動を見せたときいつも、そして何度も、やめよと語りかけ、だが同時に、政府が対応措置をとることを妨げることになった。
 社会主義者たちのたった一つの罪が危険ではない手法で同じ目標を達成しようとしたことにあるとすれば、彼らがボルシェヴィキに立ち向かうのは困難だっただろう。
 レーニンとその支持者たちは、多くの意味で、本当の『革命の良心』だった。
 多数派社会主義者には精神的臆病さと結びついて知的な責任感が欠如していたので、少数派ボルシェヴィキが根付いて成長する、心理的および理論的な環境が醸成された。//
 しかしおそらく、ボルシェヴィキがその好敵たちを凌駕する唯一かつ最大の有利な点は、ロシアに対する関心が全くないことにあった。
 保守主義者、リベラルたち、そして社会主義者たちはそれぞれに、革命が解き放ち国を分解させている個別の社会的地域的な利害を敢えて無視して、一体性あるロシアを守ろうとした。
 彼らは、兵士たちに紀律の維持を、農民たちに土地改革を待つことを、労働者には生産力の保持を、少数民族には自治の要求の一時停止を、訴えた。
 このような訴えは、人気がなかった。ロシアには国家や民族に関する強い意識がなかったので、中心から離れる傾向は増大し、全体を犠牲にした個別利益の優先が助長されていたからだ。
 ボルシェヴィキにとってはロシアは世界革命のための跳躍台にすぎず、彼らはこれらに関心がなかった。
 かりに自然発生的な力が現存の諸制度を『粉砕』してロシアを破壊すれば、それはきわめて結構なことだっただろう。
 こうした理由から、ボルシェヴィキは、全ての破壊的な傾向を完璧に助長し続けた。
 この傾向は二月にいったん解き放たれるや留まることを知らず、ボルシェヴィキは膨れあがる波の頂点に立った。
 自分たちは不可避的なものだと主張しつつ、統制されているという見かけをかち得た。
 のちに権力を掌握した際、すぐに全ての約束を破棄し、かつてロシアが知らなかった中央集中的な独裁形態の国家を作り上げることになる。
 そのときまではしかし、ロシアの運命に無関心であることは、ボルシェヴィキにとって、きわめて大きな、かつおそらくは決定的な利点となった。//
 (*) W. H. Chamberlin, The Russian Revolution, I (ニューヨーク, 1935) p.159。
 第一回農民大会には1000名以上の代議員が出席したが、そのうちボルシェヴィキ党は20人だった。同上、VI, No.4 (1957) p.26。
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 ②につづく。

ギャラリー
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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