Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第二節へ。
——
第二節・国家の官僚主義化。
(01) 党官僚制について、多くのことを書いた。
----
(02) 国家官僚機構も、より目ざましい早さで膨張した。
国全体のソヴェト組織は、ボルシェヴィキの政策で有していたわずかの影響力も急速に失い、1919-20年までに、人民委員会議とその支部から伝えられる党の決定にゴム・スタンプを捺すだけの機関に変質した。
ソヴェトの「選挙」は、党に選抜された者たちを承認する儀式となった。適格さを考えて投票する者は4人に一人もいなかった。(注44)
ソヴェトは、国家官僚機構に権能を奪い取られた。その背後には、全能の党があった。
1920年、ソヴェトが公開で討論することが許された最後の年、官僚主義の蔓延に関する不満が語られるのは、ふつうのことだった。(注45)
1920年2月に労働者農民調査局(Rabkrin)が、国家機構による濫用を監視するために、スターリンを長として設置された。
しかし、二年後にレーニンが認めたように、この機関は期待に応えなかった。(注46)//
----
(03) 政府官僚機構の膨張は、まずはとりわけ、1917年十月以前は私人の手中にあった諸装置の運営を政府が行なうようになった、ということで説明され得る。
金融や産業に私企業が関与するのを排除することで、またzemsivoや市議会を廃止することで、さらに全ての私的団体を解散させることで、政府は、代わりに、それに応じた役人層の膨張が必要となる諸活動について責任を担うようになった。
一例で十分だろう。
革命前の国民の諸学校は一部は公教育省によって、一部は正教会や私的団体によって監督された。
1918年に政府が全ての学校を啓蒙人民委員部のもとに国有化したとき、従前は非政府系の学校に職責があった書記的または私的な人員を埋め合わせる職員を作り出さなければならなかった。
やがて、啓蒙人民委員部は、従来はほとんど全く私人に任せられていた田舎の文化生活の指導や検閲についても責任を担わされた。
その帰結として、1919年5月に早くも、有給の3000人の職員がいた。—これは、対応する帝制時代の省の職員数の10倍だった。(注47) //
----
(04) しかし、行政上の責務の増大は、ソヴィエト官僚機構の膨張の唯一の理由ではなかった。
公務に従事する最も下の階梯にいる被雇用者にすら、ソヴィエト生活の過酷な条件のもとで生き残るための貴重な有利さがあった。ふつうの市民では利用できない物品を使え、賄賂や心づけを受けとる機会があるのはもちろんのこととして。//
----
(05) 結果は、大量の水増し要求だった。
ホワイト・カラーの業務は、生産が落ち込んでいたときでも、ソヴィエト経済を指揮する多様な機構で膨らんだ。
ロシアの工業界で雇用される労働者の数は1913年の85万6000から1918年には80万7000へと下がった一方で、ホワイト・カラー被雇用者の数は5万8000から7万8000へと増えた。
かくして、共産党体制の最初の年にすでに、産業労働者のうちホワイト・カラーのブルー・カラーに対する割合は、1913年に比べて三分の一増えていた。(注48)
その次の三年間には、この割合はもっと劇的に高くなった。1913年には100人の工場労働者に対して6.2人のホワイト・カラー被雇用者がいたが、1921年の夏には、この割合は15パーセントに上がった。(注49)
運輸の部門では、鉄道輸送は80パーセント減退し、労働者の数は変わらないままだったが、官僚機構の人員は75パーセント増加した。
1913年に鉄道路線の一キロ(一マイルの8分の5)に対してホワイト・カラーとブルー・カラーともに12.8人の被雇用者がいたが、1921年には、同じ仕事を20.7人で行なうよう要求された。(注50)
1922-23年に実施されたKursk 地方のある農村地区の調査によると、帝制時代に16人の被雇用人がいた地方的農業部門には、今では79人がいた。—これは、食料生産が落ちていた時期のことだった。
同じ地区の警察官署は、革命前と比較して、二倍の人員を有していた。(注51)
最も凄まじかったたのは、経済運営を所掌する官僚機構の膨張だった。1921年春、国家経済最高会議(VSNKh)は22万4305人の職員を雇用しており、そのうち2万4728人はモスクワで、9万3593人はその地方機関で、10万5984人は地区(〈uezdy〉)で勤務した。—これは、職責のある工業生産性が1913年のそれよりも5分の1低くなっていた頃のことだ。(注52)
1920年、レーニンが驚きかつ憤慨したことには、モスクワは23万1000人の常勤職員を雇っており、ペテログラードでは18万5000人だった。(注53)
全体としては、1917年と1921年半ばの間に、政府職員の数は、5倍近く、57万6000から240万へと増加した。
その頃までに、ロシアには労働者数の二倍の官僚たちがいた。(注54)//
----
(06) 役人の需要が増大し、かつその自分たちの働き手の教育レベルが低いとすると、新体制は、多数の帝制時代の元職員、とくに省庁を運営する能力のある人員を雇う以外には選択の余地はなかった。
以下の表は、人民委員部での1918年時点でのそのような職員の割合を示している。(注55)
****
内務人民委員部/48.3%。
国家経済最高会議/50.3%。
戦争人民委員部/55.2%。
国家統制人民委員部/80.9%。
運輸人民委員部/88.1%。
財務人民委員部/97.5%。
****
「示されているのは、人民委員部の中央官署の職員の半数以上、そしておそらく上層の管理的職員の90パーセントが、1917年十月以前に何らかの行政的地位に就いていた、ということだ」。(注56)
チェカだけは19.1パーセントが元帝制時代の職員であり、外務人民委員部では22.9パーセントがそうだった(この二つは1918年の数字)。これらでは、主として新しい人員が配置された。(注57)
このような証拠資料を根拠にして、ある西側の研究者は、ボルシェヴィキにより最初の5年間になされた政府職員の変化は「おそらく『猟官制度』(spoils system)が全盛のワシントンで起きたことと同様だと見なせるだろう」という驚くべき結論に到達した。(注58)//
----
(07) 新しい官僚制度は、帝制時代をモデルにしていた。
1917年以前のように、役人たちは、敵対的だと見なしたnation ではなく、国家に奉仕した。
アナキストのAlexabder Berkman は1920年にロシアを訪問して、新体制のもとでの典型的な政府官署をこう描写した。
「(ウクライナの)ソヴィエト機関は、モスクワ型のよくある光景を示している。疲れきった人々の集まり。空腹で、無感動に見える。
特徴的で、悲しい。
廊下や事務室は、あれこれの行為やその免除の許可を求めている申請者で混み合っている。
新しい布令の迷路は、とても難解だ。役人は困惑する問題を解消する安易な方法を好んで選び取る。彼らの『良心』にもとづく『革命的方法』を。そしてふつうは、申請者の不満となる。/
長い列が、どこにでもある。そして、どの事務室にも多数いるハイ・ヒール靴を履いた〈baryshni〉(若い女性)による『用紙』や文書の書き込みや処理。
彼らは煙草をふかし、ソヴィエトの存在の象徴である、配られるpaek (手当)の量で推測する、一定の官署の有利さを熱心に議論している。
頭がむき出しの労働者や農民が、長い台に近づく。
丁重に、卑屈にすら、彼らは情報を求め、衣類についての『指示』や長靴用の『切符』を嘆願している。
『分からない』、『隣の事務室で』、『明日来い』は、いつもの回答だ。
抗議や愁嘆があり、注意や指導を乞い求める姿もある。」(注59)//
----
(08) 帝制時代のように、ソヴィエトの役人制度は精巧に階層化されていた。
1919年3月、当局は公務を27の範疇に分け、各々を細かく定義した。
俸給の違いは、比較的大きくなかった。かくして、若いドアマンや掃除人のような最下級の被雇用者は、毎月600(旧)ルーブルを受け取り、第27等級の者たち(人民委員部の部局の長など)には、2200ルーブルが支払われた。(注60)
しかし、基本給与は大して重要ではなかった。ハイパー・インフレがあったからだ。
意味のある俸給は、臨時収入だった。その中で、食料配給が最も重要だった。
かくして、レーニンは1920年、その給与月額である6500ルーブルでは生きていけなかった。その額では、ふつうの市民が利用できる唯一の場所である闇市場で、30本のキュウリが買えただろう。(注61)
Paek に加えて、最下級の役人たちにすら、賄賂という手段で基本給を補充する方法があった。賄賂は、厳しい法律に違反していたにもかかわらず、さかんに行われていた。(注62)//
----
(09) レーニンは、ソヴィエトの国家組織の不満足な状態の原因を、それが雇用している元帝制時代の官僚層に求めようとした。そして、こう書いた。
「外務人民委員部を例外として、我々の国家機構には、そのほとんどに古い機構が残存しており、わずかの変化すら認められない。
少しばかり最頂部が飾られているだけだ。他の部分は、我々の古い国家機構のうちの最も典型的に古いものだ。」(注63)
しかし、この主題に関するとりとめのない混乱した言及が示しているように、レーニンは、何が間違っていてなぜそうなのかについて、全く何も理解していなかった。
官僚制度の規模は、彼の政府がしようとしていることによって決定される。それが腐敗しているのは、民衆による統制から自由だからだった。
----
後注。
(44) Pethybridge, One Step, p.158.
(45) V. P. Antonov-Saratovskii, Sovety v epokhu voennogo kommunizma, Pt. 2 (1929), p.57, p.68, p.97-p.100.
(46) Pethybridge, One Step, p.161-8; Lenin, PSS, XLV, p.383-8.
(47) Sheila Fitzpatrick, The Commissariat of Enlightenment (1970), p.24.
(48) L. N. Kritsman, Geroicheskii period Velikoi Russkoi Revoliutsii (1926), p.197.
(49) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii kiass, 1918-1920 gg. (1974), p.122.
(50) Gimpelson, Ibid., p.81; Kritsman, Geroicheskii period, p.198.
(51) Ia. Iakovlev, Derevnia kak ona est' (1923), p.121.
(52) V. P. Diachenko, Istoriia finansov SSSR (1978), p.87.
(53) SV, No. 1 (1921.1.1), p.1. Cf. Alfons Goldschmidt, Die Wirtschaftsorganisation Sowjet-Russlands (1920), p.141; Lenin, PSS, LII, p.65.
(54) Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obshchestva: Oktiabr' 1917-1920 (1976), p.268; Kritsman, Geroicheskii period, p.198; EZh, No. 101 (1922.5.9), p.2.
(55) M. P. Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva v pervye gody sovetskoi vlasti: Sbornik Statei (1973), p.54.
(56) T. H. Rigby, Lenins' Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), p.62.
(57) Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva, p.55.
(58) Rigby, Lenins' Government, p.51.
(59) Berkman, Bolshevik Myth, p.219-220.
(60) Dewar, Labour Policy, p.179-180.
(61) Alfons Goldschmidt, Moskau 1920 (1920), p.62, p.88.
(62) SUiR, 1917-18, NO. 35 (1918.5.18), Decree No. 467, p.436-7.
(63) Lenin, PSS, XLV, p.383.
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第二節、終わり。
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第二節へ。
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第二節・国家の官僚主義化。
(01) 党官僚制について、多くのことを書いた。
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(02) 国家官僚機構も、より目ざましい早さで膨張した。
国全体のソヴェト組織は、ボルシェヴィキの政策で有していたわずかの影響力も急速に失い、1919-20年までに、人民委員会議とその支部から伝えられる党の決定にゴム・スタンプを捺すだけの機関に変質した。
ソヴェトの「選挙」は、党に選抜された者たちを承認する儀式となった。適格さを考えて投票する者は4人に一人もいなかった。(注44)
ソヴェトは、国家官僚機構に権能を奪い取られた。その背後には、全能の党があった。
1920年、ソヴェトが公開で討論することが許された最後の年、官僚主義の蔓延に関する不満が語られるのは、ふつうのことだった。(注45)
1920年2月に労働者農民調査局(Rabkrin)が、国家機構による濫用を監視するために、スターリンを長として設置された。
しかし、二年後にレーニンが認めたように、この機関は期待に応えなかった。(注46)//
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(03) 政府官僚機構の膨張は、まずはとりわけ、1917年十月以前は私人の手中にあった諸装置の運営を政府が行なうようになった、ということで説明され得る。
金融や産業に私企業が関与するのを排除することで、またzemsivoや市議会を廃止することで、さらに全ての私的団体を解散させることで、政府は、代わりに、それに応じた役人層の膨張が必要となる諸活動について責任を担うようになった。
一例で十分だろう。
革命前の国民の諸学校は一部は公教育省によって、一部は正教会や私的団体によって監督された。
1918年に政府が全ての学校を啓蒙人民委員部のもとに国有化したとき、従前は非政府系の学校に職責があった書記的または私的な人員を埋め合わせる職員を作り出さなければならなかった。
やがて、啓蒙人民委員部は、従来はほとんど全く私人に任せられていた田舎の文化生活の指導や検閲についても責任を担わされた。
その帰結として、1919年5月に早くも、有給の3000人の職員がいた。—これは、対応する帝制時代の省の職員数の10倍だった。(注47) //
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(04) しかし、行政上の責務の増大は、ソヴィエト官僚機構の膨張の唯一の理由ではなかった。
公務に従事する最も下の階梯にいる被雇用者にすら、ソヴィエト生活の過酷な条件のもとで生き残るための貴重な有利さがあった。ふつうの市民では利用できない物品を使え、賄賂や心づけを受けとる機会があるのはもちろんのこととして。//
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(05) 結果は、大量の水増し要求だった。
ホワイト・カラーの業務は、生産が落ち込んでいたときでも、ソヴィエト経済を指揮する多様な機構で膨らんだ。
ロシアの工業界で雇用される労働者の数は1913年の85万6000から1918年には80万7000へと下がった一方で、ホワイト・カラー被雇用者の数は5万8000から7万8000へと増えた。
かくして、共産党体制の最初の年にすでに、産業労働者のうちホワイト・カラーのブルー・カラーに対する割合は、1913年に比べて三分の一増えていた。(注48)
その次の三年間には、この割合はもっと劇的に高くなった。1913年には100人の工場労働者に対して6.2人のホワイト・カラー被雇用者がいたが、1921年の夏には、この割合は15パーセントに上がった。(注49)
運輸の部門では、鉄道輸送は80パーセント減退し、労働者の数は変わらないままだったが、官僚機構の人員は75パーセント増加した。
1913年に鉄道路線の一キロ(一マイルの8分の5)に対してホワイト・カラーとブルー・カラーともに12.8人の被雇用者がいたが、1921年には、同じ仕事を20.7人で行なうよう要求された。(注50)
1922-23年に実施されたKursk 地方のある農村地区の調査によると、帝制時代に16人の被雇用人がいた地方的農業部門には、今では79人がいた。—これは、食料生産が落ちていた時期のことだった。
同じ地区の警察官署は、革命前と比較して、二倍の人員を有していた。(注51)
最も凄まじかったたのは、経済運営を所掌する官僚機構の膨張だった。1921年春、国家経済最高会議(VSNKh)は22万4305人の職員を雇用しており、そのうち2万4728人はモスクワで、9万3593人はその地方機関で、10万5984人は地区(〈uezdy〉)で勤務した。—これは、職責のある工業生産性が1913年のそれよりも5分の1低くなっていた頃のことだ。(注52)
1920年、レーニンが驚きかつ憤慨したことには、モスクワは23万1000人の常勤職員を雇っており、ペテログラードでは18万5000人だった。(注53)
全体としては、1917年と1921年半ばの間に、政府職員の数は、5倍近く、57万6000から240万へと増加した。
その頃までに、ロシアには労働者数の二倍の官僚たちがいた。(注54)//
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(06) 役人の需要が増大し、かつその自分たちの働き手の教育レベルが低いとすると、新体制は、多数の帝制時代の元職員、とくに省庁を運営する能力のある人員を雇う以外には選択の余地はなかった。
以下の表は、人民委員部での1918年時点でのそのような職員の割合を示している。(注55)
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内務人民委員部/48.3%。
国家経済最高会議/50.3%。
戦争人民委員部/55.2%。
国家統制人民委員部/80.9%。
運輸人民委員部/88.1%。
財務人民委員部/97.5%。
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「示されているのは、人民委員部の中央官署の職員の半数以上、そしておそらく上層の管理的職員の90パーセントが、1917年十月以前に何らかの行政的地位に就いていた、ということだ」。(注56)
チェカだけは19.1パーセントが元帝制時代の職員であり、外務人民委員部では22.9パーセントがそうだった(この二つは1918年の数字)。これらでは、主として新しい人員が配置された。(注57)
このような証拠資料を根拠にして、ある西側の研究者は、ボルシェヴィキにより最初の5年間になされた政府職員の変化は「おそらく『猟官制度』(spoils system)が全盛のワシントンで起きたことと同様だと見なせるだろう」という驚くべき結論に到達した。(注58)//
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(07) 新しい官僚制度は、帝制時代をモデルにしていた。
1917年以前のように、役人たちは、敵対的だと見なしたnation ではなく、国家に奉仕した。
アナキストのAlexabder Berkman は1920年にロシアを訪問して、新体制のもとでの典型的な政府官署をこう描写した。
「(ウクライナの)ソヴィエト機関は、モスクワ型のよくある光景を示している。疲れきった人々の集まり。空腹で、無感動に見える。
特徴的で、悲しい。
廊下や事務室は、あれこれの行為やその免除の許可を求めている申請者で混み合っている。
新しい布令の迷路は、とても難解だ。役人は困惑する問題を解消する安易な方法を好んで選び取る。彼らの『良心』にもとづく『革命的方法』を。そしてふつうは、申請者の不満となる。/
長い列が、どこにでもある。そして、どの事務室にも多数いるハイ・ヒール靴を履いた〈baryshni〉(若い女性)による『用紙』や文書の書き込みや処理。
彼らは煙草をふかし、ソヴィエトの存在の象徴である、配られるpaek (手当)の量で推測する、一定の官署の有利さを熱心に議論している。
頭がむき出しの労働者や農民が、長い台に近づく。
丁重に、卑屈にすら、彼らは情報を求め、衣類についての『指示』や長靴用の『切符』を嘆願している。
『分からない』、『隣の事務室で』、『明日来い』は、いつもの回答だ。
抗議や愁嘆があり、注意や指導を乞い求める姿もある。」(注59)//
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(08) 帝制時代のように、ソヴィエトの役人制度は精巧に階層化されていた。
1919年3月、当局は公務を27の範疇に分け、各々を細かく定義した。
俸給の違いは、比較的大きくなかった。かくして、若いドアマンや掃除人のような最下級の被雇用者は、毎月600(旧)ルーブルを受け取り、第27等級の者たち(人民委員部の部局の長など)には、2200ルーブルが支払われた。(注60)
しかし、基本給与は大して重要ではなかった。ハイパー・インフレがあったからだ。
意味のある俸給は、臨時収入だった。その中で、食料配給が最も重要だった。
かくして、レーニンは1920年、その給与月額である6500ルーブルでは生きていけなかった。その額では、ふつうの市民が利用できる唯一の場所である闇市場で、30本のキュウリが買えただろう。(注61)
Paek に加えて、最下級の役人たちにすら、賄賂という手段で基本給を補充する方法があった。賄賂は、厳しい法律に違反していたにもかかわらず、さかんに行われていた。(注62)//
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(09) レーニンは、ソヴィエトの国家組織の不満足な状態の原因を、それが雇用している元帝制時代の官僚層に求めようとした。そして、こう書いた。
「外務人民委員部を例外として、我々の国家機構には、そのほとんどに古い機構が残存しており、わずかの変化すら認められない。
少しばかり最頂部が飾られているだけだ。他の部分は、我々の古い国家機構のうちの最も典型的に古いものだ。」(注63)
しかし、この主題に関するとりとめのない混乱した言及が示しているように、レーニンは、何が間違っていてなぜそうなのかについて、全く何も理解していなかった。
官僚制度の規模は、彼の政府がしようとしていることによって決定される。それが腐敗しているのは、民衆による統制から自由だからだった。
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後注。
(44) Pethybridge, One Step, p.158.
(45) V. P. Antonov-Saratovskii, Sovety v epokhu voennogo kommunizma, Pt. 2 (1929), p.57, p.68, p.97-p.100.
(46) Pethybridge, One Step, p.161-8; Lenin, PSS, XLV, p.383-8.
(47) Sheila Fitzpatrick, The Commissariat of Enlightenment (1970), p.24.
(48) L. N. Kritsman, Geroicheskii period Velikoi Russkoi Revoliutsii (1926), p.197.
(49) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii kiass, 1918-1920 gg. (1974), p.122.
(50) Gimpelson, Ibid., p.81; Kritsman, Geroicheskii period, p.198.
(51) Ia. Iakovlev, Derevnia kak ona est' (1923), p.121.
(52) V. P. Diachenko, Istoriia finansov SSSR (1978), p.87.
(53) SV, No. 1 (1921.1.1), p.1. Cf. Alfons Goldschmidt, Die Wirtschaftsorganisation Sowjet-Russlands (1920), p.141; Lenin, PSS, LII, p.65.
(54) Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obshchestva: Oktiabr' 1917-1920 (1976), p.268; Kritsman, Geroicheskii period, p.198; EZh, No. 101 (1922.5.9), p.2.
(55) M. P. Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva v pervye gody sovetskoi vlasti: Sbornik Statei (1973), p.54.
(56) T. H. Rigby, Lenins' Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), p.62.
(57) Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva, p.55.
(58) Rigby, Lenins' Government, p.51.
(59) Berkman, Bolshevik Myth, p.219-220.
(60) Dewar, Labour Policy, p.179-180.
(61) Alfons Goldschmidt, Moskau 1920 (1920), p.62, p.88.
(62) SUiR, 1917-18, NO. 35 (1918.5.18), Decree No. 467, p.436-7.
(63) Lenin, PSS, XLV, p.383.
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第二節、終わり。