Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第九章/新体制の危機・第六節、の試訳のつづき。とくに、レーニン生前の1923年はどういう状態だったのか。
——
第六節・ジョージア紛議②。
(08) レーニンは9月25日〔1922年〕に、スターリンの草稿を知った。
また、ジョージア共産党中央委員会の決議も読んだ。これには、スターリンが(彼にしては)異様に長文の説明書を添付していた。
スターリンは、各共和国の純粋な自立と完全な統合との間の中間は現実には存在しないという理由で、自分の案を正当化した。
スターリンは、こう書いた。遺憾なことに、「民族問題についてモスクワのリベラリズムを示す必要があった」内戦の時代に、「我々は、我々の意思に反して、共産党員たちのあいだに本当の独立を要求する純粋な、そのゆえの社会主義的独立主義者(〈sotsial-nezavisimtsy〉)を生んできた」。(注163)//
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(09) レーニンには、読んだ文書の調子とともに内容も不適切だった。
スターリンは、非ロシア人共産党員の反対意見を無視しているのみならず、彼らを粗雑に扱っていた。
レーニンは会話しようとスターリンを呼び(9月26日)、その会話は2時間40分続いた。
その後、彼は政治局に覚書を送り、その中でスターリンの草案を激烈に批判した。(注164)
彼の案では、三つの非ロシア人共和国はロシア共和国と一体化されるのではなく、RSFSR とともに仮に「ソヴェト欧州・アジア共和国同盟」と称する新しい超民族的統合体に加入する。
レーニンが意図したのは、第一に、新しい国家から「ロシア」という名前を削除することで、国制上の対等性を強調すること(彼の言葉では「分離主義者に餌を与えない」ため)、第二に、将来に共産主義国へと歩む諸国を強化する中核を生み出すこと、だった。(*)
彼の案ではさらに、スターリンが目論んだようにロシアの中央執行委員会が同盟の全機能を掌握するのではなく、新しい中央執行委員会が連邦のために設置される。//
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(脚注*) スターリンは当時に、新しい同盟は「世界の労働者を世界ソヴェト社会主義共和国への統合へと向かう決定的な歩みを刻むものだ」と記した。I. V. Stalin, Sochineniia, V (1947), p.155.
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(10) スターリンは、レーニンによる批判に反応する中で、党指導者に対するにふさわしい慣行的敬意を何ら示さなかった。
一方では新しい国家の構造に関するレーニンの意思を尊重し、また彼の委員会に修正案を諮問しつつ、彼は、RSFSR の中央執行委員会が連邦のそれ(CEC)になることに固執した。
彼は、レーニンのその他の反対は瑣末なものとして無視した。
ある点で、彼はレーニンを、「民族的自由主義」(national liberalism)だと批判した。(注165)
しかしながら、彼は結局はレーニンの意向に同意し、それに従って案を修正することを強いられた。(注166)
このような形で、ソヴェト社会主義共和国同盟の憲章案が出来上がった。その発足は、1922年12月30日にRSFSR のソヴェト第10回大会で正式に宣せられた〔ソヴィエト連邦=ソ連の発足—試訳者〕。
三つの非ロシア人共和国の代表者たちによって出席者は増加しており、この大会は第一回ソヴェト全同盟大会と称された。//
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(11) ジョージア人の意見は変わらなかった。ウクライナとベラルーシは形式上は主権共和国として直接に同盟に加入するのに対して、ジョージアはトランスコーカサス連邦を通じて、つまり自治的政体として、そうしなければならない。
スターリンの書記局を迂回して、彼らはクレムリンに対して直接に、かりに案が強行されるならば自分たちは離れるつもりだ、と知らせた。(注167)
スターリンはこれに反応して、中央委員会は満場一致で彼らの反対を却下した、と伝えた。
10月21日に、レーニンからの電信もあった。彼もまた、ジョージアの意見を、実質的にも、それが表明された態様の点でも、拒絶した。(注168)
これを受け取って、ジョージア共産党中央委員会全体は10月22日、脱退を申し出た。
これは、共産党の歴史上、かつてなかった事件だった。(注169)
Ordzhonikidze は、この意思表明を利用して、〔ジョージア共産党の〕中央委員会を、彼とスターリンの意向に従順な若い共産主義への転宗者が担う新しい機関に置き換えた。
スターリンはOrdzhonikidze に、中央委員会は承認した、と伝えた。(注170)//
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(12) この時点まで、レーニンは、スターリンによるジョージアの処理に同意していた。
しかし、すでに反スターリン気分があった11月遅く、ジョージアの事案にはもっと何かがなされてよいと結論づけた。
彼は、ジョージアに関する事実調査委員会を派遣するよう依頼した。
スターリンは、その長にDzerzhinskii を指名した。
書記局の策略に不信を抱き、Tiflis との自分自身の連絡網を作ろうと意図して、レーニンは、Rykov もジョージアに行くよう求めた。
レーニンの秘書たちの一人は、彼は切実な気持ちで調査の結果を待っていた、と記録した。(注171)//
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(13) Dzerzhinskii は12月12日に、任務を終えて帰ってきた。
レーニンはただちに、彼に会うためにGorkI からモスクワへ向かった。
Dzerzhinskii はOrdzhonikidze とスターリンを完全に免責した。だが、レーニンは納得しなかった。
レーニンは、政治的議論の中でOrdzhonikidze がジョージアの同志たちを敗北させたことを知ってとくに苛立った。
(彼はOrdzhonikidze を「スターリン主義者のバカ(ass)」と呼んだ。)(注172)
彼は、Dzerzhinskii に対して、もっと証拠を集めるよう命じた。
翌日(12月13日)、スターリンに二時間会った。これは二人の最後の出逢いだった。
レーニンは会話の後で、民族問題全般についての相当量の覚書をカーメネフに書き送ろうとした。しかし、それができる前の12月15日、もう一度発作を起こして横臥した。//
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(14) レーニンは同僚たちに裏切られたと感じていたので、離れて生活していた13ヶ月の間、同僚たちの誰とも逢うのも断固として拒んだ。間接的に、秘書たちを通じてのみ、連絡し合った
1923年中の彼の活動記録が示しているのは、トロツキーともスターリンとも会っていないことだ。ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、Rykov のいずれとも。
彼ら全員は、レーニンの明確な指示にもとづいて、遠ざけられた。(注173)
親しい同僚たちからこうして離れたことは、地位にあった最後の数ヶ月間、ニコライ二世が大公たちとの関係を遮断すると決めたことに、似ていた。//
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後注。
(163) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.199.
(164) Lenin, PSS, XLV, p.211-3. 初版は1959年。
(165) Ibid., XLV, p.558. スターリンの反応は、TP, II, p.782-5.
(166) Lenin, PSS, XLV, p.559.
(167) Pravda, No. 225/25, 777 (1988.8.12), p.3.
(168) Lenin, PSS, LIV, p.299-300.
(169) Pipes, Formation, p.274-5.
(170) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, khr. 2446.
(171) VIKPSS, NO. 2 (1963), p.74-.
(172) Pravda, No. 225/25 557 (1988.8.12), p.3.
(173) V. P. Osipov in KL, No. 2, p.243; Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.259-260.
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第9章第六節、終わり。
第九章/新体制の危機・第六節、の試訳のつづき。とくに、レーニン生前の1923年はどういう状態だったのか。
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第六節・ジョージア紛議②。
(08) レーニンは9月25日〔1922年〕に、スターリンの草稿を知った。
また、ジョージア共産党中央委員会の決議も読んだ。これには、スターリンが(彼にしては)異様に長文の説明書を添付していた。
スターリンは、各共和国の純粋な自立と完全な統合との間の中間は現実には存在しないという理由で、自分の案を正当化した。
スターリンは、こう書いた。遺憾なことに、「民族問題についてモスクワのリベラリズムを示す必要があった」内戦の時代に、「我々は、我々の意思に反して、共産党員たちのあいだに本当の独立を要求する純粋な、そのゆえの社会主義的独立主義者(〈sotsial-nezavisimtsy〉)を生んできた」。(注163)//
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(09) レーニンには、読んだ文書の調子とともに内容も不適切だった。
スターリンは、非ロシア人共産党員の反対意見を無視しているのみならず、彼らを粗雑に扱っていた。
レーニンは会話しようとスターリンを呼び(9月26日)、その会話は2時間40分続いた。
その後、彼は政治局に覚書を送り、その中でスターリンの草案を激烈に批判した。(注164)
彼の案では、三つの非ロシア人共和国はロシア共和国と一体化されるのではなく、RSFSR とともに仮に「ソヴェト欧州・アジア共和国同盟」と称する新しい超民族的統合体に加入する。
レーニンが意図したのは、第一に、新しい国家から「ロシア」という名前を削除することで、国制上の対等性を強調すること(彼の言葉では「分離主義者に餌を与えない」ため)、第二に、将来に共産主義国へと歩む諸国を強化する中核を生み出すこと、だった。(*)
彼の案ではさらに、スターリンが目論んだようにロシアの中央執行委員会が同盟の全機能を掌握するのではなく、新しい中央執行委員会が連邦のために設置される。//
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(脚注*) スターリンは当時に、新しい同盟は「世界の労働者を世界ソヴェト社会主義共和国への統合へと向かう決定的な歩みを刻むものだ」と記した。I. V. Stalin, Sochineniia, V (1947), p.155.
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(10) スターリンは、レーニンによる批判に反応する中で、党指導者に対するにふさわしい慣行的敬意を何ら示さなかった。
一方では新しい国家の構造に関するレーニンの意思を尊重し、また彼の委員会に修正案を諮問しつつ、彼は、RSFSR の中央執行委員会が連邦のそれ(CEC)になることに固執した。
彼は、レーニンのその他の反対は瑣末なものとして無視した。
ある点で、彼はレーニンを、「民族的自由主義」(national liberalism)だと批判した。(注165)
しかしながら、彼は結局はレーニンの意向に同意し、それに従って案を修正することを強いられた。(注166)
このような形で、ソヴェト社会主義共和国同盟の憲章案が出来上がった。その発足は、1922年12月30日にRSFSR のソヴェト第10回大会で正式に宣せられた〔ソヴィエト連邦=ソ連の発足—試訳者〕。
三つの非ロシア人共和国の代表者たちによって出席者は増加しており、この大会は第一回ソヴェト全同盟大会と称された。//
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(11) ジョージア人の意見は変わらなかった。ウクライナとベラルーシは形式上は主権共和国として直接に同盟に加入するのに対して、ジョージアはトランスコーカサス連邦を通じて、つまり自治的政体として、そうしなければならない。
スターリンの書記局を迂回して、彼らはクレムリンに対して直接に、かりに案が強行されるならば自分たちは離れるつもりだ、と知らせた。(注167)
スターリンはこれに反応して、中央委員会は満場一致で彼らの反対を却下した、と伝えた。
10月21日に、レーニンからの電信もあった。彼もまた、ジョージアの意見を、実質的にも、それが表明された態様の点でも、拒絶した。(注168)
これを受け取って、ジョージア共産党中央委員会全体は10月22日、脱退を申し出た。
これは、共産党の歴史上、かつてなかった事件だった。(注169)
Ordzhonikidze は、この意思表明を利用して、〔ジョージア共産党の〕中央委員会を、彼とスターリンの意向に従順な若い共産主義への転宗者が担う新しい機関に置き換えた。
スターリンはOrdzhonikidze に、中央委員会は承認した、と伝えた。(注170)//
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(12) この時点まで、レーニンは、スターリンによるジョージアの処理に同意していた。
しかし、すでに反スターリン気分があった11月遅く、ジョージアの事案にはもっと何かがなされてよいと結論づけた。
彼は、ジョージアに関する事実調査委員会を派遣するよう依頼した。
スターリンは、その長にDzerzhinskii を指名した。
書記局の策略に不信を抱き、Tiflis との自分自身の連絡網を作ろうと意図して、レーニンは、Rykov もジョージアに行くよう求めた。
レーニンの秘書たちの一人は、彼は切実な気持ちで調査の結果を待っていた、と記録した。(注171)//
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(13) Dzerzhinskii は12月12日に、任務を終えて帰ってきた。
レーニンはただちに、彼に会うためにGorkI からモスクワへ向かった。
Dzerzhinskii はOrdzhonikidze とスターリンを完全に免責した。だが、レーニンは納得しなかった。
レーニンは、政治的議論の中でOrdzhonikidze がジョージアの同志たちを敗北させたことを知ってとくに苛立った。
(彼はOrdzhonikidze を「スターリン主義者のバカ(ass)」と呼んだ。)(注172)
彼は、Dzerzhinskii に対して、もっと証拠を集めるよう命じた。
翌日(12月13日)、スターリンに二時間会った。これは二人の最後の出逢いだった。
レーニンは会話の後で、民族問題全般についての相当量の覚書をカーメネフに書き送ろうとした。しかし、それができる前の12月15日、もう一度発作を起こして横臥した。//
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(14) レーニンは同僚たちに裏切られたと感じていたので、離れて生活していた13ヶ月の間、同僚たちの誰とも逢うのも断固として拒んだ。間接的に、秘書たちを通じてのみ、連絡し合った
1923年中の彼の活動記録が示しているのは、トロツキーともスターリンとも会っていないことだ。ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、Rykov のいずれとも。
彼ら全員は、レーニンの明確な指示にもとづいて、遠ざけられた。(注173)
親しい同僚たちからこうして離れたことは、地位にあった最後の数ヶ月間、ニコライ二世が大公たちとの関係を遮断すると決めたことに、似ていた。//
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後注。
(163) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.199.
(164) Lenin, PSS, XLV, p.211-3. 初版は1959年。
(165) Ibid., XLV, p.558. スターリンの反応は、TP, II, p.782-5.
(166) Lenin, PSS, XLV, p.559.
(167) Pravda, No. 225/25, 777 (1988.8.12), p.3.
(168) Lenin, PSS, LIV, p.299-300.
(169) Pipes, Formation, p.274-5.
(170) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, khr. 2446.
(171) VIKPSS, NO. 2 (1963), p.74-.
(172) Pravda, No. 225/25 557 (1988.8.12), p.3.
(173) V. P. Osipov in KL, No. 2, p.243; Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.259-260.
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第9章第六節、終わり。