秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ソルジェニーツィン

2330/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文②。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 **
 (07) シャラモフは当初は、著作活動をした経歴によって、高い望みを持った。
 Boris Pasternak は、彼の詩作の才能を大いに誉めた。また、Aleksandr Solzhenitsyn は<One Day in the Life of Ivan Denisovich>で、収容所について書くのは可能だということを示した。
 しかし、ソヴィエト当局に外国での<ドクトル・ジバゴ>出版を責め立ててられていたPasternak は1960年に死亡した。また、Solzhenitsyn が出版することができるのは—かつほんの数年の間—今や党指導者であるNikita Khrushchev や影響力ある雑誌<新世界>の編集者のAleksandr Tvardovsky の好意があったからにすぎない、ということが明瞭になった。
 シャラモフが最初は抱いたSolzhenitsyn の偶像視は彼の友好的な反応を受け、<収容所群島>の編集を共同で行おうと誘われもした。
 しかし、シャラモフは明らかに、19世紀のキリスト教的価値のいくつかへのSolzhenitsyn の執着には、またソヴィエト社会のある範囲の道徳、とくに手労働の救世的力への忠誠さには、賛同しなかった。
 Solzhenitsyn は短い物語を書くことから大きい小説へと移ったけれども、シャラモフは、素材を偽ることとなる綿密な構成物だとして小説を評価しなかった。
 (ウラルでの矯正労働の回顧録は、<Visheara(反小説)>という表題だった。)
 シャラモフは、Yevgeniya Ginzburg のような、収容所の他の生き残りとは距離を置いた。そして、自分たちの苦しみの原因を作った悪党たちに対して優しすぎると批判した。
 彼は、最初はOsip Mandelstam の未亡人のNadezhda と親しかった。—最良の二つの物語を、彼女と詩人に捧げた。だが、賛美者と異端者たちに囲まれた女王蜂としての彼女の役割によつて、彼は遠ざかった。
 (08) こうした孤立やKGB が払った敵対的注意にもかかわらず、シャラモフは四作の詩集を何とか出版した。
 彼の詩は、革命前ロシアの象徴主義の技巧と主題をもった、強く回顧的なもので、公的に敵対心を掻き立てはしなかった。だが、彼の物語をソ連邦で出版するのは、最も論争的でない1965年の<The Dwarf Pine>の一冊を除いて、不可能だと判ることとなった。また、その例外ですら、<国の若者>の編集部から解雇される原因になった。
 1968年、—シャラモフが密かに意図してか、意思に反してかは確実には言えないが—個々の物語が、そして最初の書物の<Kolyma Stories>の全体が、西側へと漏れ出し、公表された。最初はエミグレ・ロシア人の雑誌で、次いでシャラモフの名によるドイツ語訳書、フランス語訳書として。
 シャラモフは私的に抗議した(出版物の提供と支払いを求めたけれども)。そしてついには、公式の<文学新聞>で、明らかに強いられて、抗議を表明した。
 彼が「反ソヴィエト」のエミグレや西側出版社を非難したことで、作家同盟に遅ればせながら入ることができるという報償が与えられた。作家同盟員でなければ、ソヴィエトの作家は生活していく望みを持てなかった。//
 (09) 1960年代の末、シャラモフはIrina Sirotinskaya の世話になった。彼女は、彼の原稿をロシア国立文学芸術資料館に預けていた。
 Sirotinskaya は、お互いの愛情と尊敬にもとづく関係に関する詳細な説明を付していた。
 Sirotinskaya の介入がなかったならば、確実に、シャラモフラモフの作品は、その他の異端の作家たちの作品のように消滅の運命に遭っただろう。
 シャラモフに懐疑的な友人たちは、とくに異端者または元受刑者あるいはそのいずれもの友人たちは、自分たちの友情を疑っていた。USSR(ソヴェト社会主義共和国連邦)の全ての国立資料館はKGB に服従しており、著作者の作品を存命中に資料館に移すことは、保存のためとともに、隔離の結果だと見なすこともできた。
 しかし、私はソヴィエト資料館にある私自身の著書に関して気づいたのだが、「保安のための除去」だったにもかかわらず、利用を統制できる文学作品に対して、純粋に貢献したいという資料管理者がいた。
 シャラモフの少なくとも詩集の出版について、Sirotinskaya がそれを助ける大きな役割を果たした、ということに疑いはない。//
 (10) 1970年代遅く、家を失って病気がひどくなったシャラモフは、姿を消して老人施設へと入った。
 その施設の条件は本当にひどいものだった。—皮肉にも、収容所の最悪の施設と同じほどにひどかった。
 コルィマで衛生兵としてシャラモフを教えた収監中の教授だった人の孫も含めて、友人たちが彼を発見して、彼の条件を少しでも良くしようとした。しかし、その働きかけはKGB と「医療スタッフ」に妨害された。
 Sirotinskaya はシャラモフとの関係を感じていたが、家族の利益を優先しなければなかった、結婚している女性だった。それでようやく、冬の頃からシャラモフとは距離を置いたように見える。
 1982年1月、精神医の委員会はシャラモフの状態を認知症と診断した。—ひどい難聴、筋肉統御力の喪失、見知らぬ者に対する激しい嫌疑。そして、凍えるような寒さの中をほとんど裸で、ほとんど誰も訪問することのできない「精神病院」へと移された。
 数日のうちに、シャラモフは急性肺炎で死んだ。
 Sirotinskaya はその回想録の中で、彼の死の直前に訪れたとき、シャラモフによって詩集の語句を口述されたと述べている。
 シャラモフはまた、彼女を相続人に指名する遺書を残し、出版されていない物語集を彼女に捧げた。
 この最後の措置の真実性は、シャラモフの異端派の仲間、とくにSergei Grigoriants によって争われた。
 シャラモフは第三者が存命の場合に語るのを嫌ったため(収容所についての古い習慣)、ここでも再び、伝えられる彼の会話が確証されることはなかった。//
 (11) シャラモフは、聖職者の子息として、洗礼を施されているという理由で、友人たちやソヴィエトの文学分野の人々は組織立って、教会式の葬儀と埋葬を行なった。//
 **
 ③むへとつづく。

1866/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気④完。
合冊版、p.831~p.833。
 ----
 (16)国家もまた最初から、教会と宗教の影響を破壊し始めた。
 これは明らかにマルクス主義の教理と一致しており、全ての独立した教育を破壊するという国家の目標とも一致していた。
 我々はすでに見たことだが、ソヴィエト体制は教会と国家の分離を宣言したけれども、この原理を現実化するのに成功していなかったし、成功することのできないものだった。
 なぜなら、教会と国家の分離は、国家が市民の宗教的見方に関心を抱かず、どの宗派に属しているかまたはいないかを問わず市民に同等の権利の全てを保障し、一方で教会は私法の主体として承認される、ということを意味するだろうからだ。
 国家がひとたび反宗教哲学をもつ党によって購われるものになってしまえば、この分離は不可能だった。
 党のイデオロギーは国家のそれになった。そして、全ての形態の宗教生活は、否応なく反国家活動になった。
教会と国家の分離は、信者とそうでない者とが同等の権利をもち、前者は無神論者である党員と同様の権力行使の機会をもつ、ということを意味する。
この原理を実現しようとするのはソヴィエトの条件のもとではいかに馬鹿々々しいかと述べるので十分だ。
 最初から根本的な哲学またはイデオロギーへの執着を表明した国家があり、その哲学またはイデオロギーにその国家の正統性が由来するのであるから、宗教<に対して(vis-à-vis)>中立などということはあり得なかった。
 したがって、1920年代の間ずっと、教会は迫害され、キリスト教を伝道することを妨害された。異なる時期ごとに、その過程の強度は違っていたけれども。
 体制の側は、階層の一部に対して譲歩するように説得するのに成功した-これはその一部の者たち自身にとって譲歩でなかったので、妥協だと言うことはほとんどできない。そして、1920年代の後半に多数の頑強な神職者たちが殺戮されてしまったあとで、ほどよい割合の者たちがとどまって忠誠を表明し、ソヴィエト国家と政府のために祈祷を捧げた。
 そのときまでに、無数の処刑、男女の各修道院の解体、公民権の収用や剥奪のあとで、教会は、かつてあったものの陰影にすぎなくなった。
 にもかかわらず、反宗教宣伝は今日まで、党の教育での重要な要素を占めている。
 1925年にYaroslavsky の指導のもとで設立された戦闘的無神論者同盟(the League of Militant Atheists)は、キリスト教者やその他の信者を全てのありうるやり方で執拗に攻撃して迫害し、そうすることで国家の支援を受けた。//
 (17) 新社会で最も力強い教育への影響力をもったのは、しかしながら、警察による抑圧のシステムだった。
 この強度は変化したけれども、いかなる市民でもいかなる時にでも当局の意ののままに抑圧手段に服することがあり得るというのは日常のことだった。
 レーニンは、新しい社会の法は伝統的な意味での法とは全く関係がない、と明言していた。換言すれば、政府権力をいかなる態様をとってであれ制限することが法に許容されてはならない、と。
 逆に一方では、いかなる体制のもとでも法は階級抑圧の道具に「他ならない」がゆえに、新しい秩序は対応する「革命的合法性」の原理を採用した。これが意味したのは、政府当局は証拠法則、被告人の権利等々の法的形式に煩わされる必要はなく、「プロレタリアート独裁」に対する潜在的な危険を示していると見え得る誰であっても単直に逮捕し、収監し、死に至らしめることができる、ということだった。
 KGBの先駆者であるチェカは、最初から司法部の是認なくして誰でも収監する権限をもっていた。そして、革命の直後に、多様で曖昧に定義された範疇の人々-投機家、反革命煽動者、外国勢力の工作員等々-は「無慈悲に射殺される(shot witout mercy)」ものとする、と定める布令が発せられていた。 
 (いかなる範疇の者は「慈悲深く(mercifully)射殺される」のかは、述べられていなかった。)
 これが実際上意味したのは、地方の警察機関が全市民の生と死に関する絶対的な権力をもった、ということだ。
 集中収容所(Conceneration camps)(この言葉は現実に使われた)はレーニンとトロツキーの権威のもとで、様々のタイプの「階級敵」のために用いるべく、1918年に設置された。
 もともとは、この収容所は政治的反対者を制裁する場所として使われた。-カデット〔立憲民主党〕、メンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕、のちにはトロツキストその他の偏向主義者、神職者、従前の帝政官僚や将校たち、および資産所有階級の構成員、通常の犯罪者、労働紀律を侵害した労働者、およびあらゆる種類の頑強な反抗者たち。
 数年しか経たないうちに、この収容所は、大量の規模の奴隷労働を供給するという利点によって、ソヴィエト経済の重要な要素になった。
 異なる時期に、とくにそのときどきの「主要な危険」に関する党の選択に応じたあれこれの社会集団に対して、テロルが指令された。
 しかし、最初から、抑圧システムは絶対的に法を超越していた。そして、全ての布令と罰則集は、すでに権力を保持する者による恣意的な権力行使を正当化することに寄与するものにすぎなかった。
 見せ物裁判(show trial)は初期に、例えばエスエルや神職者たちの裁判で始まった。
 来たるべき事態を冷酷に告げたのは、Donets の石炭盆地で働く数十人の技術者たちに関する1928年5月のShakhty での裁判だった。そこでは証拠は最初から最後まで捏造されており、強要された自白を基礎にしていた。
 怠業と「経済的反革命」の咎で訴追された犠牲者たちは、体制の経済後退、組織上の失敗および一般国民の哀れな状態の責任を負う、好都合の贖罪者だった。
 11名が死刑を宣告され、多数は長期の禁固刑だった。
 この裁判は、国家による寛大な処置を期待することはできないという、全ての知識人たちに対する警告として役立った、ということになった。
 Solzhenitsyn は訴訟手続の記録を見事に分析し、ソヴィエト体制のもとでの法的諸観念の絶対的な頽廃を描いてみせた。//
 (18)犠牲者の誰もがボルシェヴィキ党員ではなかった間は、党指導者の誰かが、いずれかのときに、抑圧や明らかに偽りの裁判に対して異議を申立てたり、または妨害を試みたりした、とするいかなる証拠もない。
 反対派集団は、献身的な党活動家だった自分たちの仲間にまでテロルが及んできたとき初めて、苦情を訴え始めた。
 しかし、そのときまでには、苦情は無意味になっていた。
 警察機構は完全に、スターリンとその補助者たちの掌中にあった。そして、下部については、それが党の官僚機構に先行していた。
 しかしながら、警察が党全体を統制していた、と言うことはできない。なぜなら、スターリンは、警察のではなく党の最頂部にいた間ずっと、至高の存在として支配した。彼が党を統治したのは、まさに警察を通じて、なのだ。//
 ----
 第1節終わり。第2節へとつづく。

ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー