秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ソクラテス

2459/Turner によるNietzsche ⑤。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第5節。
 (01)  さて、ニーチェのソクラテスへと辿りついた。
 ニーチェが〈悲劇の誕生〉でソクラテスについて書いたとき、Hegel とGrote の著作と見解を十分に知っていた。
 ニーチェが攻撃したのは、Hegel のソクラテスとGrote のソクラテスだった(厳密には同じでなかったが、多くの点で共通性があった)。
 言い換えれば、彼は、ソクラテスを攻撃することによって、つぎの像型を攻撃していた。すなわち、半世紀前に、古代世界の科学を推進した主観的かつ批判的合理性や哲学的表象を用いる象徴になった者たち。//
 (02)  ニーチェは、19世紀の者たちの中で最も、Grote の解釈の多くを受容し、承認した。
 宣教師というソクラテスについての比喩を受容し、ソクラテスは自らの死をもたらすように積極的に協力したとの見方を受容した。
 彼はまた、ソクラテスは古代ギリシャの批判的で科学的な精神性を具現化していた、と考えた。
 だが、これらをGrote に依っているにもかかわらず、ソクラテスについてのニーチェの見方は、自分のものでなければならなかった。
 ソクラテスを近代思想の中心的人物、近代文明批判について参照されるべき中心地点にしたのは、他の誰よりも、ニーチェだった。//
 (03)  既述のように、ニーチェは、ギリシャの最大の惨禍はDionysus 的のものを排除しようとしたことだと叙述した。
 これについて罪責がある劇作者は、エウリピデスだった。しかし、ニーチェによると、エウリピデスはソクラテスの声に他ならない。
 Aeschylus やSophocles の悲劇を破壊し、ギリシャ文化を合理的頽廃への途へと歩ませたのは、これら二人の連携だった。
 ニーチェは、こう宣言した。
 「我々は、エウリピデスはApollon の基礎の上でのみ劇作をすることに全く成功しなかった、彼の非Dionysus 的な傾向は自然主義的で非芸術的なものの中に落ち込んだ、と見るに至った。
 我々はゆえに今や、その至高の法則は、大まかにはつぎの審美的ソクラテス主義の本質に接近することができる。すなわち、その本質とは『美しくあるためには、全てが合理的でなければならない』。—これは、『知る者のみが有徳である』というソクラテスの格言と並立するものとして形成された宣告だ。」(注4)//
 (04)  ソクラテスの影響を受けて、エウリピデスとその後のギリシャ文化の問題は、ニーチェが「あの徹底的な批判過程」、「あの大胆な理性の応用」(注5)と称したものになった。
 悲劇を不可能にしたのは、この合理性だった。//
 (05)  こうした解釈においては、ソクラテスはギリシャ文化におけるDionysus の大きな敵、対立者として現れる。
 しかし、ニーチェにとっては、ソクラテスが行ったことはもっとはるかに急進的だった。
 彼は、こう書いた。
 「ソクラテスは、同じ尺度でもって現存の芸術と現存の倫理を非難する。
 検討の凝視をどこに向けようとも、洞察の欠如と妄想の力を見ているのであり、現存するものには内部に間違いと不快なものがあると、その欠如から推断する。
 ソクラテスは、この一地点から出発して、自分は現存するものを是正する義務があると考えた。
 個人である彼が、完全に異なる文化、芸術および道徳性の先駆者として、我々がその套いに畏敬をもって触れるならば最高に幸福だと感じるだろう、そのような世界に、傲岸さと優越意識の面貌をもって踏み込んでいる。」
 ニーチェは、つづける。
 「Homer、Pindar、Aeschylus として、またPhidias、Pericles、Pythia、および Dionysus として、あるいは最も深い深淵または最も高い絶頂としてのいずれであれ、驚愕する崇敬対象であることが確実な、そのようなギリシャの本性を、あえて否定しようとするこの個人は、いったい誰なのか?」 (注6)//
 ——
 第5節、終わり。

2458/Turner によるNietzsche ④。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第4節。
 (01)  George Grote は銀行家、政治的な急進派で、議会議員であるとともに、J. S. Mill の友人だった。
 彼は、1846年から1856年にかけて、12巻本の〈ギリシャ史〉を出版した。
 1865年には、3巻本の〈プラトンとその他のソクラテスの仲間たち〉を公刊した。
 これらの著作によって、Grote は、ヴィクトリア期のおそらく最も影響力のあるソクラテス解釈者になった。//
 (02)  Grote は、活発かつ厳格に、古代のSophists を擁護した。
 彼は、the Sophists は二つの理由で良くない評価を受けている、とした。
 第一に、「sophist」や「sophistry」〔詭弁〕という近代の侮蔑的な意味が、遡って古代のSophists を叙述する際に投影されてきた。
 第二に、より重要だが、the Sophists に関するプラトンの叙述が表面的にだけ受容され、歴史的および批判的に検証されなかった。//
 (03)  Grote は、先行する詩歌や叙事詩の教育者たちと比べて—二つの例外を除いて—the Sophists は実際にはほとんど何の基本的違いはない、と主張した。
 彼らは先行者たちよりもより良く教育し、それに値する報酬を得ていた。
 プラトンは、古代の哲学で自分が嫌悪するもの全てをthe Sophists と結びつけた。
 さらに、プラトンの対話の多くにおいてすら、the Sophists は根本的に不道徳なことを述べていない。//
 (04)  The Sophists が行ったのは、そしてこれがGrote にとっては彼らが名声と称賛を要求できることなのだが、若いアテネの人々が民主政の市民生活に参加できるように準備させたことだった。
 彼が書くように、the Sophists は、アテネの青年たちが公的にはもとより私的にも、アテネで積極的で高潔な生活をする資格を与えるのを本職としていた。//
 (05)  この点で、the Sophists は基本的に保守的で、民主政が賢明に作動するためには重要だった。
 そしてGrote は、ソクラテスの声でもって財産維持、結婚、子供の養育の急進的な再構築を主張したのはプラトンだということを、読者に思い起こさせた。
 (06)  Grote の解釈は、それを彼が最初に書いたときは気づいていなかったと私は思うのだが、Hegel の解釈にある程度は似ていた。
 二人ともに、the Sophists は個人主義を促進したと見た。
 しかし、Hegel にとっては個人主義は危険なものだった。 
 Grote にとっては、個人主義は民主政の適切な作動のための基礎的なものだった。//
 (07)  Grote が読者を最も驚かせたのは、彼がソクラテスに向かったときだった。
 彼は、Peloponnesian 戦争の半ばにアテネの人々がその都市にいる主要なSophists の名前を尋ねられたときに全員が躊躇することなくソクラテスの名前を挙げただろうと主張することによって、ソクラテスをSophists の一人だと見なした。//
 (08)  なぜソクラテスは不人気だったのか、Grote によると何が Sophists たるソクラテスの任務だったのか?
 それは、主として、アテネ市民に科学的方法と批判的で合理的な知性を持ち込むことだった。
 そして、Grote の見方では、このことが不可避的に科学と宗教のあいだの衝突をもたらした。
 アテネ文化、伝統的価値、ふつうはthe Sophists と結びついている宗教を否定的に批判することが、現実には市場で教えを説くソクラテスの主要な役割になっていた。
 ソクラテスは、アテネの一般的な世論に対する大きな批判者だった。
 とくに、ソクラテスが科学を擁護したことによって、アテネの宗教と直接に対立するに至った。//
 (09)  では、Grote はソクラテスの死をどのように説明したか?
 世論に対する個人的挑戦の不可避的な結果だったと、彼は見たのか?
 Grote は、友人のJ. S. Mill の〈自由について〉と同じく、ソクラテスは敵対する世論の犠牲者だと考えることはできなかった。
 どのようにすれば、Grote はそうできただろうか?
 結局、彼は、古代アテネの民主政を擁護するヴィクトリア期の最大の人物だった。
 素晴らしいのは、アテネの人々がソクラテスを処刑したことではなかった。そうではなく、彼らが半世紀以上、ソクラテスが小うるさい批判者の役割を果たすことを認めたことだった。//
 (10)  Grote は、著作で別の悪役を見つけた。
 それは、宗教だった。
 ソクラテスの死の原因となったのは、アテネの人々の宗教の力と信仰だった。
 Grote は、ソクラテスはデルフォイの信託(Delphic oracle)に由来する彼の信念に関して完全に真摯だった、神たちはソクラテスに仲間の市民たちを改善する使命を与えて送り込んだ、と考えた。
 ソクラテスは「たんなる哲学者ではなく、哲学の仕事をする宣教師だった」と、Grote は書いた。 
 ソクラテスは批判的哲学を普及宣伝するための、目に見える宗教的狂信者だったと、彼は考えた。
 Grote から見ると、ソクラテス自身の個人的な、宗教に根ざした狂信こそが、彼の死を惹起した。 
 Grote はソクラテスに対する非難と処刑の責任を神たち自体に負わせようとしている、と感じる者がいるかもしれない。
 別の評論家のAlexander Grant は、Grote はソクラテスを「判決による自殺」へと向かわせた、と書いた。//
 ——
 第4節、終わり。

2456/Turner によるNietzsche ③。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第3節。
 (01)  Hegel のソクラテスに関する主要な解釈は、死後の1832年に出版された、彼の〈哲学史講義〉に見られる。
 彼の哲学書の多くと対照的に、ソクラテスの扱いは比較的に明瞭で率直だった。だが、それは莫大な数の反応を惹き起こした。
 (02)  Hegel にとって、ソクラテスとthe Sophists はいずれも、ギリシャ思想の大きな転回地点を代表した。 
 彼は、the Sophists は詩人や文化を組織する力としての伝統的知識の主張者に替えてギリシャにその思考を組織する新しい方法を与えた最初の集団だ、と考えた。 
 また、18世紀の哲学者たちに似ていて、その影響は一種の古代の啓蒙思想にまで昇るに至った、とも考えた。
 Hegel によると、the Sophists が獲得した報償は、悪(evil)に対する一般的に不当な評価だった。
 しかし彼は、the Sophists は本当は何も悪いことをしなかった、と考察した。
 The Sophists はギリシャ人に推論と思索(reflective)の方法を教えた。
 このような思考は不可避的に、伝統的な信念や道徳を疑問視することへと導いた。
 換言すると、彼らは懐疑主義(scepticism)を推奨したのだ。
 これは実際に、彼らの誤りではなかった。
 当時の思考や精神(mind)の発展状態の結果にすぎなかった。
 Hegel によると、the Sophists は、懐疑主義に限界はないと判断していた。//
 (03)  Hegel にとって、ソクラテスはthe Sophists が始めた運動のつぎの一歩を進めた人物だった。
 ソクラテスが行ったのは、伝統的価値と伝統的宗教を超えて発展する思索的(reflective)な道徳を生み出すことだった。
 Hegel はこう書いた。
 「精神の思索的動き、精神それ自体の転換にもとづく道徳は、まだ存在していなかった。
 その存在は、ソクラテスの時期からのみ始まる。
 しかし、思索が発生し、個人が自分自身の中へと隠退し、自分の望みに従って自分自身の生活をする確立した習慣から離反するやただちに、頽廃と矛盾が生起した。
 しかし、精神は対立の状態にとどまることができない。
 統合を探し求めるのであり、この統合のうちに、より高次の原理があるのだ。」(注3)//
 (04)  ソクラテスはこの過程を通じて、ギリシャ人が彼ら自身の主観性の中に道徳的指令を見出そうとするように導いた。
 ソクラテスとプラトンは、the Sophists とは違って、この主観的性を通じて、伝統的道徳と結びつくだろう客観的な道徳的真実を発見し得るだろう、と考えた。
 しかし、Hegel は、ソクラテスはこの移行に困惑さを与えており、彼自身に出現する主観性を彼の声または悪魔(daemon)が再現する、と考えた。
 彼の声または悪魔に語りかけることで、ソクラテスは誘導と道徳的指令を求めて、本当は自分自身に語りかけ、自分自身を見つめているのだ。
 ソクラテスが仲間のアテネの人々と対立するようになったのは、この強烈な主観性のゆえにだった。
 彼の悪魔は事実の点では新しい神だった。—主観性という神であり、これに執着すれば、4世紀の〈都市(polis)〉は解体する。//
 (05)  したがって、Hegel にとって、ソクラテスは彼に向けられる責任について実際に罪状があった。
 だが、その罪責は、ソクラテスの死の理由ではなかった。
 アテネの陪審員の決定は、必ずしも処刑を要求しなかった。
 ソクラテスが妥協を拒み、道理ある別の選択肢を提示できなかったあとではじめて、死刑判決が下された。
 彼による妥協の拒否は、集団的道徳心とアテネの伝統よりも上に彼自身の良心—彼自身の主観性—を置くということになった。
 これは、彼の基礎的な主観性への訴えの、論理的な帰結だった。//
 (06)  ゆえにHegel にとって、ソクラテスの死は、彼がこう書いたような理由で、本質的に悲劇的だった。「真に悲劇的なものには、衝突するに至った両者のいずれにも、根拠のある道徳的な力が存在しなければならない。これは、ソクラテスの場合にも言えた。」
 ソクラテスとアテネの人々には、それぞれの側の道徳性があった。だが、その道徳性は異なるものだった。
 Hegel の解釈に隠されている—但し、さほど隠されていない—のは、道徳の相対性を暗黙に承認していることだ。
 だがなお、Hegel は、ソクラテスの究極的な目的は、そしてプラトンや結局はキリスト教のそれは、安定した(settled)道徳性を見出し、the Sophists が開けた人間の心の懐疑主義に限界を付すことだった、と主張することによって、そのような相対性とは距離を置いた。//
 ——
 第3節、終わり。

2455/Turner によるNietzsche ②。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第2節。
 (01)  1860年代のおよそ7年間、R・ワーグナー(Richard Wagner)とニーチェは友人だった。
 この友人関係とその解消の物語は、それ自体で興味深い。そして、この世紀の後半の知的展開を示すものだ。
 ニーチェは青年として、音楽に強い関心をもった。作曲家になろうと望んだかもしれない。
 彼はとくに、ドイツ・ロマン派時代の音楽に魅了された。
 1860年代初めに大学生のとき、ワーグナーだけではなくショーペンハウワー(Shoupenhauer)も賛美した。
 彼は、ワーグナーはショーペンハウワーが叙述したような芸術上の天才だ、と見た。
 ニーチェは1868年に、ワーグナーと初めて逢った。//
 (02)  翌年、彼はバーゼル大学で文献学の教授になった。バーゼルはスイスのTribschen のワーグナーの家から遠くはなかった。
 ニーチェがこの作曲家に多大の敬意をもつことを知らせたので、出会いはさらに続いた。
 ワーグナーは、言いなりになる若い学者を持って、喜んだ。
 対等な友人関係では全くなかったが、それは特に驚くべきことではなかった。
 だが、明らかに、友人関係ではあった。 
 Richard とCosima は、クリスマスの贈り物を買うためにニーチェを送り出したり、二人のための用足しに彼を走らせることになる。
 ニーチェは自分をワーグナーの年下の友人だと思っていた。彼は、その友人はドイツとじつにヨーロッパ全体の芸術と音楽をいずれも活気づかせている、と思っていた。
 彼は23回も、Tribschen を訪れた。そして妹のElizabeth も、ワーグナーの仲間と友人になった。
 ニーチェはまた、当初はバイロイト思想の強い支持者だった。//
 (03)  ニーチェは1872年に、〈悲劇の誕生(The Birth of Tragedy)〉、ワーグナーと共有した原稿と初期の草稿を出版した。
 その書物は、ワーグナーに捧げられた。
 実際に彼は、ワーグナーを愉快にさせるために、その本に多数の修正を加えていた。
 その書物はもともとは、悲劇の研究書だった。少なくとも、そのようなものとして書き始められた。
 しかし結局は、ギリシャ人以降はヨーロッパが知らなかったまたは経験しなかった新しい芸術の誕生だとして、ワーグナーの芸術を賛美する書物になった。
 この書物は、理性に対する神話の勝利を賞賛し、ソクラテスとエウリピデスから始まったギリシャ文化の頽廃を描いた。//
 (04)  〈悲劇の誕生〉には、最初の書物に見られる多くの痕跡がある。
 大胆に、のちに受容された著作者たちよりももっと極端な立場を、明らかにしている。
 しかし、ニーチェがのちに採る近代文明に対する批判の前兆も示している。
 ニーチェは、学歴上は古典学者であり、文献学者だった。
 総じて言って、19世紀半ばには、ギリシャ生活で最も強調されたのは、古代的な禁欲と5世紀のアテネとの均衡ある連携という理想だった。
 ギリシャ生活の非合理的な側面は知られていたが、大部分は無視された。
 アテネが文化的に達成したものは、合理的生活の出現と、Matthew Arnord とJonathan Swift の語句を使って表現した「甘美さと明るさ」の獲得だった。//
 (05)  ニーチェはこのようなギリシャ解釈に、そして西側の合理性の父祖という、長く続くソクラテスに対する尊敬の念に、闘いを挑んだ。
 (06)  ニーチェはまた、Dionysus の儀礼へとギリシャ悲劇の歴史をたどった。
 彼は、ギリシャ悲劇はDionysus 的狂気とApollon 的様式との一種の結合から出現した、と見た。
 ニーチェは決して、Dionysian—Apollonian という二元論を説いた最初の人物ではなかった。
 それは実際には、ドイツの文学や音楽の世界内部では相当程度に一致して知られていた。
 しかしながら、彼の書物は、西側ヨーロッパ人の心に拭いきれないほどに、この二元論を刻み込んだ。
 ニーチェはこう言った。「我々は、〈Apollon 的文化〉という精巧な建造物をいわば一石ごとに分解して、それが依って立つ基盤を見つけるにまでに至る必要がある」。(注1)
 Apollon 的様式の禁欲は、思想と現象的外観についてのショーペンハワー的世界と同等のものだった。
 その世界の下には、Dionysus 的狂気が横たわっていた。
 ニーチェは、こう宣言した。
 「人間と人間のあいだの紐帯がDionysus 的な魔術によって再び復活する、というだけではない。
 有害だとして遠ざけられ、従属させられた自然が、その失った息子である人類とのあいだの和解の祭典をもう一度、祝福しもするのだ。<中略>
 今や、宇宙的調和の福音を聴きながら、各人はみんな、たんに自分が隣人と結合し、和解し、融合していると感じるだけではなく、その隣人とまさに文字通りに一つであると感じるのだ。まるで、maya のベールが引きちぎられて、その切れ端だけが神秘的な始原的一体(根源的一つ(das Ur-Eine))の前ではためいているがごとくに。」(注2)//
 (07)  芸術と悲劇に関して、ニーチェは、Dionysus 的なものとApollon 的なもののいずれも必要だと考えた。
 彼の書物は、Dionysus 的なものを賞賛するだけの、無条件の著作ではない。
 そうではなく、彼が論じたのは、ギリシャの最高度の芸術が感動的であるのは、外観についてのApollon 的世界の下に横たわっているのは精神(the psyche)の内的深さであることを証明している、ということだった。//
 (08)  ニーチェはショーペンハウワーを使ったけれども、十分に彼を超えて進んでいた。
 ショーペンハウワーが悲観主義と生の否認へと駆り立てたのに対して、ニーチェは、芸術は生を肯定するものだと見た。
 劇場における悲劇を通じて、ギリシャ人はその生を見出し、その共同体を肯定した。
 芸術にとっての、とくにギリシャ悲劇にとっての問題は、Apollon 的なものが支配したときに発生した。
 Dionysus 的なものが放棄されたとき、芸術はその様式だけではなく内容も、当時の道徳性から採用した。
 ギリシャの場合にこれが意味したのは、悲劇がソクラテス的知識と分析の浅瀬に乗りあげて座礁するに至った、ということだった。//
 (09)  なぜニーチェがソクラテスに対する批判と侮蔑へと飛躍したのかを理解するためには、19世紀におけるソクラテスについて、少しばかり知らなければならない。
 ニーチェは、ソクラテスを論評する中で、19世紀の多数の関係文献を5世紀のアテネでの議論へと符号化(encode)していた。//
 (10)  19世紀の初期および半ばには、ソクラテスに関する二つの主要な解釈があった。G. W. F. ヘーゲルの解釈と、George Grote の解釈だ。//
 ——
 第2節、終わり。

2122/J・グレイ・わらの犬(2002)⑧-第3章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。「」引用は原則として邦訳書。太字化は紹介者。
 第3章・道徳の害〔The Vices of Morality〕。
 ----
 第6節・正義と流行〔Justice and Fashion〕。
 「ソクラテスの哲学とキリスト教信仰」は「正義は永遠だ」と説くが、極まりない「浅見」だ。
 ジョン・ロールズ〔John Bordley Rawls〕<正義論>は一時期の英米哲学界を風靡した。だが、「一般の道徳観念に根ざす公平意識〔moral intuitions of fairness & relies〕の枠」だけで正義を説明する趣意で、「倫理学」〔ethics〕の足場がない。その理由は控えめな態度なのか、その結果は「ありきたりの道徳論〔conventional moral beliefs〕を神妙〔pious〕に述べる」にとどまる。
 ロールズ追随者たちは「道徳」に関する「自分の直観〔intuitions〕」の厳密な検証をしない。それでよいとしても、精査をすれば「歴史」、しかも古くない歴史に気づくはずだ。誰もが「偏見の害」を知っていよう。「道徳」を敏感に意識しても、思考は「ひどく浅薄で、この上なく気紛れ〔shallow & transient to the last degree〕」だ。
 ロールズ<正義論>の基礎にある「平等主義」〔egalitarian beliefs〕は、かつての道徳論の核心の「性習慣」〔sexual mores〕に通じる。「きわめて地方的でかつ変遷が早い」ものでも人々は「道徳の要」として尊重するからだ。「時代の流れ」で今は「衆目の一致する平等主義」も、いずれ別の考えに取って代わられて「不変の真理」〔unchangeable moral truth〕の体現ではなくなるだろう。
 「正義は習慣〔custom〕の産物である」。習慣が変われば、「帽子の流行」と同じく「正義の観念〔ideas〕」も変化する。
 第7節・育ちのいいイギリス人のだれもが知っていること〔What Every Well-bred Englishman Knows〕。
 G・B・ショーが言った「育ちのいいイギリス人は善悪の区別を除いて世の中のことを何も知らない」は、「道徳哲学者」〔moral philosophers〕にも当てはまる。「哲学者は自分の無知を美徳と考えている」。
 第8節・精神分析と時の運〔Psychoanalysis and Moral Luck〕。
 「啓蒙運動〔the Enlightenment〕の思想家」から「人間は誰でも善良になれる」という確信・結論は出てこない。フロイトの主張は要するに、「善良になれるかどうかは時の運〔good luck〕」ということだ。
 性格・正義感は「幼児の境遇による」とのフロイトの見方を承認しつつ、誰もが「努力次第で」善人になれると執着する。「さもないと、優れた容姿や頭脳と同様、善良な人柄も時の運と認めなければならない」からだ。「自分の心情」は捨て難くとも、「自由意志は幻想だ」と割り切るべきだ。「善良な人物は幸運なのだ」という「厄介な事実を突きつける」ことで、フロイトはニーチェ以上に大きく「道徳〔morality〕の概念」を揺るがした。
 第9節・道徳は媚薬〔Morality as an Aphrodisiac〕。
 「道徳」は人類をほとんど「善導」せず、「罪悪」を増幅した。キリスト教は「罪の喜び」〔pleasures of guilt〕を否定するが、「信者崩れ」には、「不道徳なふるまいをする興奮」で「快楽」を増す例がある。
 第10節・分別を徳とする弱み〔A Weakness for Prudence〕。
 ソクラテス以来の哲学者たちは「道徳」や「分別」の必要を説いたが、「利己心」〔self-interest〕を語った方がよかった。「当面する課題」の方が「将来」のそれよりも重要だ。後者は「遠い先」のことで、かつ「仮定の域を出ない」。
 「自分の将来を案じたところで、今の自分を考える以上の深い意味はない。案じることのない将来だとしたらなおさらだ」。
 第11節・道徳の創始者ソクラテス〔Socrates, Inventor of Morality〕。
 たぶんソクラテスは「合理主義者」ではなく「諧謔を好む詭弁家」で、「哲学」を遊戯と見なしたが、ホメロスにとっての「危険に満ちた世界を巧みに生きる心得」としての「道徳」が、彼の影響で「最高善を追求する営為」に変わった。
 ホメロスのギリシア世界とは違って、ソクラテスは「善と幸福」を一体視した。諸福利・価値の彼方に「至善」がある。これがプラトンにより、「全価値が調和して精神の総体〔spiritual whole〕をなす神秘的融合」=「善の実相」となる。これをのちのキリスト教が「神」概念に同化した。かくして、ソクラテスこそが、「『道徳』の元祖」だ。
 「道徳」が全てに優先するというのは、「キリスト教と古典ギリシア哲学の折衷から生じた偏見に他ならない」。ホメロス時代に「道徳」も「至善」もなかった。
 人はとかく「究極的には道徳が勝ち残ると信じる顔で生きたがる。だが、本心からそう思ってはいない。意識の底で、運命と偶然には抵抗できないことを知っている」。この点、現代人は「古典ギリシア哲学」ではなくソクラテス以前の「古代ギリシア人」に近い。
 第12節・道徳の不徳〔Immoral Morality〕。
 「ある世代の平和と繁栄は、前世代の不正の上に築かれる」。「自由社会のひ弱な感性は戦争と帝国主義の落とし子」だ。個人についても同じで、「優しさは、安全が約束された波静かな社会でもてはやされる」。だが、「価値」が高いと口では認める特性も「日常生活には役立たない」。世間が褒める多くは「不正」・「罪悪」から湧いてくるのであり、「道徳」についても同じ。
 マキアヴェッリ・<君主論>は「不道徳のすすめ」だとされ、権力維持には「豪放な気組みと偽善が必要」との発言は今では尚更嫌われる。ホッブズ・<リヴァイアサン>は、「力と策略は乱世の徳」だと言い、マンデヴィル・<蜂の寓話>は、「強欲、虚栄、羨望など、悪弊が繁栄の原動力」だとした。ニーチェが今なお意味をもつとすれば、「非情や遺恨」といった「忌むべき動機」を昇華したものが「道徳」だという暴露にある。この人々は「禁断の真実」を喝破した。「道徳」は役立たず、「悪徳」だけが栄華をもたらす。
 「道徳哲学」は以上を認めない。アリストテレス・<中庸>が問題を回避するように、「中間」に本質がある。「勇気は無鉄砲と逃げ腰の中間」で、「分別、正義、共感」はみな極端のいずれかに偏しないことに価値がある。但し、彼もまた「複数の徳目」の非並立性には困った。「美徳」はときに「悪徳」に依拠する。人間は「一筋縄ではいかない」。
 「道徳哲学は、喩えてみれば、まず大体が小説だ。ともかくも、哲学者は一大長編を書かなくてはならない。だからと言って、驚くには値しない。人の世の真実は、哲学の関心外だ。
 ----
 第13節以降へ。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー