秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ストルーヴェ

1743/論駁者・レーニンの天才性①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 
第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.772-775、分冊版・第2巻p.520-524。
 <>はイタリック体=斜体字。
 ----
 第10節/論争家としてのレーニン・レーニンの天才性①。
 
大量のレーニンの刊行著作は、攻撃と論争(論駁、polemics)で成り立っている。
 読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性(agrressiveness)に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない(unparalleled)。
 彼の論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている(実際、彼にはユーモアのセンスが少しもなかった)。
 レーニンが攻撃しているのが「経済主義者」、メンシェヴィキ、カデット(立憲民主党)、カウツキー、トロツキーあるいは「労働者」対立派のいずれであれ、違いはない。
 彼の対抗者がブルジョアジーや土地所有者の追従者でないとすれば、その人物は、娼婦、道化師、嘘つき、屁理屈を言う詐欺師、そうしたもの、だ。 
 こうした論争のスタイルは、その日の話題に関するソヴィエトの著作物での義務的なものになることになった。ステレオタイプ化し、個人的な情熱を欠く官僚的な形式だったが。
 かりにレーニンの対抗者がたまたまレーニンが同意する何かを言ったとすれば、その人物は、それが何であれ、「認めることを強いられた」。
 論争が敵の陣地内で勃発すれば、その構成員の一人は他者に関する真実を「うっかり口にした」。
 書物または論考の著者がかりに、レーニンは言及すべきだったと考える何かに言及しなかったとすれば、その人物は「もみ消し」をした。
 社会主義者のそのときどきのレーニン敵対者は、「マルクス主義のイロハを理解していない」。
 しかしかりにレーニンが係争の問題点に関する考えを変えれば、「マルクス主義のイロハを理解していない」その人物は、レーニンがその日以前に主張していたものを主張している。
 誰もがつねに、最悪の意図を持っているのではないかと疑われている。
 きわめて些末な問題についてレーニンとは異なる意見をもつ者は誰でも、欺瞞者であり、またはせいぜいのところ、馬鹿な子どもだ。//
 このような技巧の目的は個人的な嫌悪を満足させることではなく、ましてや真実に到達することではなく、実践的な目標を達成することだった。
 レーニン自身が、1907年にある場合にこのことを確認した(他の誰かに関して言うだろうように、「思わず口を滑らせた」)。
 メンシェヴィキとの再統合の直前に、メンシェヴィキに対して「許し難い」攻撃をしたとして、中央委員会は党の審問所にレーニンを送った。
 レーニンは中でもとくに、『ペトルブルクのメンシェヴィキは、労働者の票をカデットに売り渡す目的でカデットとの交渉に入った』、そして『カデットの助けで労働者たちの中の人物をドゥーマ〔帝制下院〕にこっそりと送り込む取引をした』と、彼の小冊子で書いた。
 レーニンは審問の場で、自分の行動をつぎにように説明した。
 『この言葉遣い(つまり上に引用したばかりのもの)は、このような行為をする者たちに対する読者の憎悪、反感や軽蔑を誘発するために計算したものだ。
 この言葉遣いは、説得するためにではなく、対抗者の隊列を破壊してしまうために計算したものだ。
 論敵の過ちを是正するためではなく、彼らを破壊し、その組織を地上から一掃するためのものだ。
 この言葉遣いは、じつに、論敵に関する最悪の考え、最悪の疑念を呼び起こすような性質のもので、またじつに、説得したり是正したりする言葉遣いとは対照的な性質のものだ。それは、プロレタリア-トの隊列に混乱を持ち込むのだ。』(+)
 (全集12巻424-5頁〔=日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第五回大会にたいする報告」のうち「党裁判におけるレーニンの弁論(または中央委員会のメンシェヴィキ部分にたいする告訴演説」)433頁〕。)
 しかしながらレーニンは、これについて悔い改める気持ちを表明していない。
 彼の見解によれば、論拠に訴えるのではなく憎悪を駆り立てることは、反対者が同じ党の構成員でなければ、正当なこと(right)だった。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、分裂のために二つの別々の政党だった。
 レーニンは、中央委員会をこう非難した。
 『冊子を書いた時点で、(形式的にではなく本質的に)その冊子が起点とし、その目的に奉仕する単一の党は存在していなかった、という事実に関して、沈黙したままでいる。<中略>
 労働大衆の間に、異なる意見を抱く者たちに対する憎悪、反感や軽蔑等を体系的に広げる言葉遣いで党員同志に関して書くのは、間違っている(wrong)。
 しかし、脱落した組織に関してはそのような調子で<書くことができるし、そう書かなければならない>。
 何故、そうしなければならないのか?
 分裂が生じたときには、脱落した分派から指導権を<奪い返す>こと(to wrest)が義務だからだ。』(+)
 (同上、425頁〔=日本語版全集同上434頁〕。)
 『分裂に由来する、許容される闘争に、何らかの限度があるのか?
 そのような闘争には、党のいかなる基準も設定されていないし、存在し得ない。なぜなら、分裂とは、党が存在しなくなることを意味するからだ。』(+)
 (428頁〔=日本語版全集同上437頁〕。)
 我々は、レーニンを刺激してこう白状させたことについて、メンシェヴィキに感謝してよい。レーニンの言明は、彼の全生涯の活動で確認される。
 いかなる制約によっても、遮られない。重要なのは、目的を達成することなのだ。//
 レーニンは、スターリンとは違って、個人的な復讐心を動機として行動することはなかった。
 レーニンは、人々を-強調されるべきだが、彼自身も含めて-もっぱら政治的な器具として、かつ歴史的過程の道具として、操作(treat)した。
 このことは、彼の最も顕著な特質の一つだ。
 かりに政治的な計算で必要ならば、彼はある日にある人物に泥を投げつけ、翌日にはその人物と握手することができた。
 レーニンは1905年の後で、プレハノフを誹謗中傷した。しかし、プレハノフが清算主義者および経験批判論者に反対していることを知って、そして彼の名前の威信によって貴重な盟友だと知ってただちに、そうすることをやめた。
 1917年になるまでは、レーニンはトロツキーに対して呪詛を投げつけた。しかし、トロツキーがボルシェヴィキ党員になり、きわめて才能のある指導者であり組織者であることが分かるや、その全てが忘れられた。
 レーニンは、10月の武装蜂起計画に公然と反対したことについて、ジノヴィエフとカーメネフの裏切りを非難した。しかしのちには、彼らが党やコミンテルンの要職に就くのを許した。
 誰かを攻撃しなければならなかったときには、個人的な考慮は無視された。
 レーニンは、基本的な問題について同意することができると考えれば、論争を棚上げすることのできる能力があった。-例えば、党が第三ドゥーマ〔帝制下院〕に議員を出すこに関してボグダノフがレーニンに反対するまでは、彼は、ボグダノフの哲学上の誤りを看過した。
 しかし、レーニンがある時点で重要だと考える何かに論争が関係していれば、容赦なく反対意見を提示した。
 彼は、政治的な抗論において、個人的な忠誠に関する疑問を嘲弄した。
 メンシェヴィキがボルシェヴィキ指導者の一人だったマリノフスキーをオフラーナ(Okhrana)の工作員だと責め立てたとき、レーニンはこの「根本的な誹謗」にきわめて激烈に反駁した。
 二月革命の後で、メンシェヴィキの言い分は本当(true)だったことが明らかになった。それに対してレーニンは、ドゥーマ議長のロジヤンコ(Rodzyanko)を攻撃した。
 ロジヤンコはマリノフスキーの任務を知っていたが、彼の議員辞職をもたらし、(この当時に悪意をもってロジヤンコの政党を報じていた)ボルシェヴィキに言わなかった。それは、彼が内務大臣から〔マリノフスキーに関する〕情報を受けとったときに決して口外しないと「名誉」に賭けた約束をした、という、いかにもありそうな理由にもとづいてだ、と。
 レーニンは、ボルシェヴィキの敵たちが「名誉」という口実でもってボルシェヴィキを助けなかったことに、きわめて強い、偽りの道徳的(pseudo-moral)憤慨を感じた。//
 もう一つのレーニンの特徴は、彼の論敵たちはつねに悪党で裏切り者だったと示すために、敵意をしばしば過去へと投影させる、ということだ。
 1906年にレーニンは、ストルーヴェ(Struve)はすでに1894年に反革命者だった、と書いた。
 (「カデットの勝利と労働者党の任務」、全集10巻265頁〔=日本語版全集10巻253-4頁〕。)(*秋月注1)
 しかし誰も、1895年のストルーヴェに関するレーニンの議論からこのことを想定することはできなかった、その当時、二人はまだ協力関係にあったのだから。
 レーニンは数年にわたって、カウツキーを最も高い権威のある理論家だと見なしていた。しかし、カウツキーが戦争の間に「中央主義」の立場を採った後では、1902年の冊子で彼を「日和見主義者」だと非難した。
 (<国家と革命>、全集25巻479頁〔=日本語版全集25巻「国家と革命」のうち「第6章・日和見主義者によるマルクス主義の卑俗化」以降、516頁以降を参照〕。)
 また、カウツキーは1909年以降はマルクス主義者として執筆していなかった、と主張した。
 (1915年12月、ブハーリンによる冊子への序言。全集22巻106頁〔=日本語版全集22巻「エヌ・ブハーリンの小冊子『世界経済と帝国主義』の序文」115頁参照〕。)(*秋月注2)
 「社会排外主義者」に対する、1914年~1918年の攻撃の中でレーニンは、帝国主義戦争とは何の関係もない諸政党に呼びかけた第二インターナショナルのバーゼル宣言を援用した。
 しかし、第二インターナショナルと最終的に断絶した後では、その宣言は「変節者」による欺瞞文書だった。
 (1922年、「Publicist に関する覚え書」。全集33巻206頁〔=日本語版全集33巻「政論家の覚え書」203-4頁〕。)(*秋月注3)
 長年にわたってレーニンは、自分は社会主義運動内部のいかなる分離的傾向も支持せず、自分とボルシェヴィキはヨーロッパの社会民主主義者、とくにドイツ社会民主党と同じ原理を抱いてきた、と主張した。
 しかし、1920年に<左翼共産主義-小児病>で、政治思想の一種としてのボルシェヴィズムは、まさにその通りなのだが、1903年以来存在していたことが、明らかにされた。
 歴史に関するレーニンの遡及的な見方は、むろん、スターリン時代の体系的な捏造(falsification)とは比べものにならなかった。スターリン時代には、個々人と政治的諸運動に関するその当時の評価は全ての過去の年代について同じく有効だということが、何としてでも示されなければならなかったのだ。
 この点では、レーニンは、まだきわめて穏和な始まりを画したにすぎなかった。そして彼は、思想に関する合理的な流儀(mode)にしばしば執着した。例えば、プレハノフはマルクス主義の一般化に多大の貢献をした、プレハノフの理論上の著作は再版されるべきだと、プレハノフはそのときには完全に「社会排外主義者」の側に立っていたにもかかわらず、最後まで主張した。//
 レーニンは彼の著作の政治的な効果についてのみ関心があったがゆえに、彼の著作は反復で満ちている。
 彼は、同じ考えを何度も何度も(again and again)繰り返すことを怖れなかった。彼は、文体上の野心を持たず、党や労働者に対する影響にのみ関心があった。
 レーニンの文体はその党派的な論争の際や党の活動家に向かって表現しているときに最も粗暴だが、労働者に対してはかなり易しい言葉で語る、ということは記しておくに値する。
 労働者に対して向けられた彼の著作は、プロパガンダの傑作だ。ときどきの主要な諸問題に関する各政党の立場を簡潔かつ明快に説明している、<ロシアの諸政党とプロレタリア-トの任務>という小冊子(1917年5月)のように。//
 理論的な論争についても同様に、レーニンは論拠を詳細に分析することよりも、言葉と悪罵によって反対者を打ち負かすことに関心があった。
 <唯物論と経験批判論>はその際立った例だが、他にも多数の例がある。
 --------
 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (*秋月注1) 日本語版全集10巻253-4頁から一部をつぎに引用する。「諸君の友人であるストルーヴェ氏を、反革命におしやったのはだれであったか、それはまたいつだったか?/ストルーヴェ氏は、彼の『〔ロシア革命の経済的発展の問題にたいする〕批判的覚え書』で、マルクス主義にブレンターノ主義的な但し書をつけた1894年には、反革命家であった」。
 (*秋月注2) 日本語版全集22巻115頁からつぎに引用する。「…。というのは、彼はこことを、すでに1909年に特別の著述-彼がマルクス主義者としてまとまりのある結論をもって執筆した最後のもの-のなかでみとめていたのである」。
 (*秋月注3) 日本語版全集33巻203-4頁からつぎに引用する。「20世紀の人々は、変節者、第二および第二半インターナショナルの英雄たちが1912年と1914~1918年に自分や労働者を愚弄するのにつかったあの『バーゼル宣言』の焼きなおしでは、そうやすやすと満足しはしないであろう」。
 ----
 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1630/「哲学」逍遙②-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
 ---
 第7節・レーニンの哲学への逍遙②。
 この〔リュボフ・アクセルロートの〕本は、レーニンがのちに経験批判論に反駁したことのほとんど全てを含んでいた。レーニンよりも簡潔だったが、論調は同じく粗野だった。
 二つの主要な論拠が、外部世界は我々の感覚へ『反射したもの』だ、またはそれに『対応したもの』だという見方を支持するために、提示された。
 第一に、我々は正しい(true)知覚と偽り(false)のそれかを、妄想か『適正(correct)な』観察かを区別する。そして、実際と我々の感覚が一つであり同じであるなら、我々は区別することができない。
 第二に、事物は我々の頭の中にではなく、その外側にあることを、誰でも知っている。
 カントの哲学は、唯物論と観念論の間の折衷物だ。
 カントは、外側世界という観念を維持した。しかし、神学と神秘主義の影響をうけて、世界は知り得ない(unknowable)ものだと述べた。
 この折衷物は、しかしながら、作動しないだろう。我々の知識の根源は意識と物事のいずれかにある。第三の可能性は、ない。
 物事を定義することはできない。なぜなら、『始源的事実』(primal fact)だからだ。
 『全ての事物の本質』、『全ての現象の起源かつ唯一の原因』、『元来の実質』、等々。
 物事は『経験にある所与』のもので、感覚的知覚によって知ることはできない。
 観念論は、主体なくして客体はない、と主張する。しかし、科学は地球が人よりも前に存在したことを示した。そして、意識は自然の産物であるはずであり、自然の条件ではない。
 数学知識も含めた我々の全ての知識は、我々の精神にある外部世界の『反射物』から成る、経験に由来する。
 マッハのように世界は人間の創出物だと主張するのは、科学を不可能にする。なぜなら、科学は、その研究の客体としての外部世界を前提にするからだ。
 観念論は、政治上は、反動的帰結へと導く。
 マッハとアヴェナリウスは、人間を普遍世界の測量器(measure)だと考えた。
 『この主観的理論は、大きな客観的価値をもつ、とする。
 こう言うことで、貧者は富者であり、富者は貧者だ、全てが主観的な経験に拠っている、ということを証明するのは簡単だ。』
 (<哲学小論集>〔L・アクセルロート, 1906年〕、p.92。)
 主観的観念論はまた、絶対に確実に、唯我主義(solipsism)にもなる。全てが『私の』想像のうちにあれば、他の主体の存在を信じる理由は何もないからだ。
 これは原始人の哲学だ。野蛮人は文字通りに、頭の中に入ってくる全てのものの存在を信じて、夢想を現実と、偽りの知覚を真の知覚と混同する、そして、現実に存在しているものだと考える。これは、バークリイ(Berkley)、マッハ、ストルーヴェ、そしてボグダノフがそうしているのと同じだ。//
 同じ著作で、リュボフ・アクセルロートは、スタムラー(Stammler)に反対して、決定論を擁護する。スタムラーは、歴史的決定論と革命的な意思の力の両方を信じることは一貫していないと、異論を述べていた。
 この点に関しても、彼女は、プレハノフの反論と同じものを繰り返す。歴史を作るのは人間で、その行為や精神的努力の有効性は、人間が制御できない情勢に依存する。
 自然の必然性と歴史的必然性の間に、あるいはしたがって、自然科学と社会科学の方法の間に、違いはない。
 ブルジョア的観念論者は、現在だけが現実だと主張する。そうすることで、彼らは、歴史により宿命的に破滅させられる階級の恐怖を表現している。しかし、マルクス主義者には、歴史の法則に照らして予見することができるという意味で、未来は『現実』だ。//
 つぎのことは、追記しておくべきだ。すなわち、リュボフとプレハノフはいずれも、『反射物』という語は文字通りに受け取られるべきでない、と言う。
 知覚は、鏡の中の像と同じ意味における事物の『写し』ではない、そうでなく、その内容物はそれが生む客体に依存しているという意味においてだ、と。//
 ---
 ③へとつづく。


1622/知識人の新傾向①-L・コワコフスキ著17章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。試訳をつづけて、第2節に移る。
 ---
 第2節・ロシア知識人の新傾向①。
 ロシアの知識階層は、世紀の変わり目に、長い間、支配的な思想の様式だった実証主義、科学主義、および唯物論を放棄する目覚ましい傾向を見せた。
 同じ傾向は、詩歌、絵画、戯曲にある哲学や社会思想において、ヨーロッパ全体で見られた。
 最後の四半世紀の、自由に思考する典型的なロシア知識人は、つぎのように、考えた。
 科学は、社会生活および個人生活に関する全ての問題への解答を用意する。
 宗教は、無知と欺瞞により維持される迷信の集合体だ。
 生物学者の解剖メスは、神と霊魂を消滅させた。
 人間の歴史は、抗しがたく、『進歩』へと強いられている。
 専政体制、宗教およびそのような全ての抑圧に反対して進歩を支援するのは、知識人階層の任務だ。
 歴史的楽観主義、合理主義、および科学のカルト(the cult)はスペンサー(Spencer)流の進化論的実証主義の主眼で、19世紀の唯物論の伝統によって強固なものになった。
 その初期の段階でのロシア・マルクス主義は、継承した世界観のこれらの要素に誇りの場所を譲った。
 確かに、19世紀の後半はチェルニュイシェフスキー(Chernyshevsky)およびドブロリュボフ(Dobrolyubov)の時代のみならず、ドストエフスキー(Dostoevsky)やソロヴィヨフ(Solovyov)の時代でもあった。
 しかし、知識人階層の最も活力に満ちた影響力のある部分、そして人民主義者(Populist)であれマルクス主義者であれ、大多数の革命家たちは、合理主義的かつ進化主義的な公教要理(catechism)を、ツァーリ体制や教会に反対する彼らの闘いの自然な付随物だと受け容れた。//
 しかしながら、このような見方は、1900年代初めには、前世紀の科学的、楽観的および集産主義(collectivist)的な理想を拒絶するという以外に共通する特質を見分けるのが困難な、多様な知的態度へと途を譲り始めた。
 カント(A. I. Vvedensky)あるいはヘーゲル(B. N. Chicherin)の様式の講壇哲学に加えて、非講壇哲学者による新しい著作が、宗教的、人格主義(personalist)的、非科学的な雰囲気を伝えた。
 多数の西側の哲学者が翻訳された。ヴント(Wund)やヴィンデルバント(Windelband)のみならず、ニーチェ(Nietzsche)、ベルクソン(Bergson)、ジェイムズ(James)、アヴェナリウス(Avenarius)、マッハ(Mach)、そして自己中心的無政府主義者のマックス・スティルナー(Max Stirner)とともに、フッサール(Husserl)ですら。
 詩歌の世界では象徴主義や『退廃』が花盛りで、ロシア文学は、メレジュコフスキー(Merezhkovsky)、ジナイダ・ギピウス(Zinaida Gippius)、ブロク(Blok)、ブリュソフ(Bryusov)、ブーニン(Bunin)、ヴャチェスラフ・イワノフ(Vyacheslav)およびビェリー(Byely)といった名前で豊かになった。。
 宗教、神秘主義、東方カルトおよび秘術信仰主義(occultism)は、ほとんど一般的になった。
 ソロヴィヨフ(Solovyov)の宗教哲学は、再生した。
 悲観主義、悪魔主義、終末論的予言、神秘や形而上的深さの探求、奇想天外嗜好、色情主義、心理学および自己分析-これら全てが一つの現代的な文化へと融合した。
 メレジュコフスキーは、ベルジャエフフ(Berdyaev)やロザノフ(Rozanov)とともに、性に関する隠喩で思い耽った。
 N・ミンスキー(Minsky)はニーチェを絶賛し、宗教的な詩歌を書き、そしてボルシェヴィキに協力した。
 元マルクス主義者は、彼らの祖であるキリスト教信仰へと戻った。宗教への関心を反啓蒙主義や政治的反動と同一視していた世代が、科学的無神論を純真で頑固な楽観主義の象徴だと見なす世代に、途を譲った。//
 1903年に、小論文を集めた、<観念論の諸問題(Problems of Idealism)>が出現した。執筆者の多くは、かつてマルクス主義者だったが、マルクス主義と唯物論を、道徳的虚無主義、人格軽視、決定主義、社会を作り上げる個人を無視する社会的価値の狂信的な追求だと、非難した。
 彼らはまた、マルクス主義を、進歩を崇拝しており、将来のために現在を犠牲にしていると攻撃した。
 ベルジャエフは、倫理的な制度は唯物論者の世界観にもとづいては設定することができない、倫理はカント的なあるものとあるべきものの区別を前提にしているのだから、と主張した。
 道徳規範は経験から演繹することができず、ゆえに経験科学は倫理に対して有用ではない。
 この規範が有効であるためには、経験の世界以外に、そうであることを知覚できる世界が存在しなければならない。その有効性はまた、人の自由な、『本態(noumeal)』的性質を前提とする。  
 かくして、道徳意識は自由、神の存在および霊魂の不滅性を前提とする。
 実証主義や功利主義(utilitarianism)は、価値に関する絶対的な規準を人に与えることができない。
 ブルガコフ(Bulgakov)は、唯物論と実証主義を、形而上の謎を解くことができない、世界と人間存在を偶然の働きだと見なす、自由を否定する、道徳価値に関する規準を提供しない、という理由で攻撃した。
 世界とそこでの人間存在は、神の和合への忠誠に照らしてのみ、知覚することができる。そして、社会への関与は、宗教上の義務の意識に他ならないものにもとづいてこそ行うことができる。
 我々の行為が聖なるものとの関係によって意味を持つときにのみ、我々は、真の自己認識と、至高の人の価値である人格の統合とについて語ることができる。//
 <観念論の諸問題>のほとんどは、つぎのことで合意していた。すなわち、法規範または道徳規範の有効性は、非経験的世界を前提とするということ。そして、人格は本来固有の絶対的価値であるがゆえに、自己認識は社会からの要求の犠牲になってはならないということ。
 ノヴゴロツェフ(Novgorodtsev)は、<先験的にある>正義の規範に法が基礎づけられる必要性を強調した。
 ストルーヴェ(Struve)は、世界的な水平化や人格の差違の除去という意味での平等性という理想を批判した。
 執筆者のほとんど、とくにS・L・フランク(Frank)は、彼ら人格主義者(personalist)の見方を支持するために、ニーチェを援用した。その際にニーチェの哲学を検討して、それは道徳的功利主義、幸福追求主義、奴隷道徳を批判している、かつ『大衆の福祉』のために人格的な創造性を犠牲にすることを批判している、とした。
 ストルーヴェ、ベルジャエフ、フランクおよびアスコルドフ(Askoldov)は全てが、ニーチェが社会主義を凡人の哲学であり群衆の価値だとして攻撃していることを支援して宣伝した。
 全ての者が社会主義の理想を、抽象観念としての人(Man)のために人格的価値を抑圧することを企図するものだと見なした。
 全ての者は、歴史的法則や、<先験的な>道徳規範の恩恵のない経験上の歴史に由来する進歩の規準について、懐疑的だった。そして、社会主義のうちに、人格に対して暴威を奮う、抽象的な『集産的な(collectiv)』価値への可能性を見た。//
 ---
 ②へとつづく。

1464/レーニンと警察の二重工作員②-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)②〔つづき〕。  
 ボルシェヴィキ議員団の長が突然に、説明もされずにドゥーマから消え失せた。これによりマリノフスキーの経歴は終わったはずだった。しかし、レーニンは彼の側に立って、『清算人』と中傷して非難しつつ、メンシェヴィキの追及者たちからマリノフスキーを守った。
 この場合には、重要な仲間に対するレーニンの個人的な信頼がその合理的判断を妨げた、と言うのは可能だ。しかし、そうではないように見える。 
 マリノフスキーは、1918年の裁判で、レーニンは自分の前科について知っていたと語った。このような記録があればロシアではドゥーマ選挙に立候補することができないので、内務省がこの情報を使ってマリノフスキーが議会に入るのを阻止しなかったという事実からだけでも、レーニンはマリノフスキーの警察との関係を察知したに違いないだろう。
 ロシアの警察挑発問題に関する重要な専門家だったプルツェフは1918年に、マリノフスキーの裁判で証言した帝制時代の警察官との会話を通じて、つぎのように結論した。
 すなわち、『マリノフスキーによれば、彼の過去には通常の犯罪ではなく自分が警察の手のうちにあった-つまり挑発者だった-ことも隠されているということを、レーニンは理解していたし、理解せざるをえなかった』、と。(110)
 なぜレーニンは自分の組織に警察工作員を維持しようとしたのかについて、帝制時代の上級治安官僚だったアレクサンダー・スピリドヴィッチ将軍が、つぎのように示唆している。
 『ロシアの革命運動の歴史には、革命的組織の指導者がその構成員のうち何人かに政治警察との関係に入ることを認める、いくつかの大きな事例があった。彼ら構成員は、秘密情報員として、警察に瑣末な情報を与える代わりに、その革命的党派にとってもっと重要な情報を警察から引き出そうという狙いをもっていた。』(111)
 レーニンが1917年6月〔いわゆる二月革命のあと、ボルシェヴィキ「七月蜂起」の前-試訳者〕に臨時政府の委員会の前で証言した際、彼は実際にこのような方法でマリノフスキーを使ったのかもしれないことを仄めかした。
 『この事件については、また次の理由にもとづいて、私は挑発者の存在を信じない。かりにマリノフスキーが挑発者であるのならば、わが党が<プラウダ>やその他の合法的な組織全体から得るよりも多くの成果を、オフランカ(Ohkranka〔帝制時代の秘密警察部門〕)は得ていないだろう。 
 ドゥーマに挑発者を送り込み、また彼のためにボルシェヴィキの対抗者〔メンシェヴィキ〕を追い出すなどをしたが、オフランカは、ボルシェヴィキの粗野なイメージに支配されているのだ。-漫画本の滑稽な絵だと言おう。ボルシェヴィキは、武装蜂起を組織するつもりはない。
 オフランカの立場からすれば、あらゆる糸を手繰り寄せるために、マリノフスキーをドゥーマに、そしてボルシェヴィキの中央委員会に入り込ませることは、何らかの価値がある。
 しかし、オフランカがこの二つの目的を達成したときにようやく、マリノフスキーはわれわれの非合法の基地と<プラウダ>とを繋ぐ、長く固い鎖の連結物の一人であることが判明したのだ。』(*)
 レーニンはマリノフスキーの警察との関係を知っていたことを否認したけれども、上のような理由づけは、党の目的を推進させるために警察工作員を使ったことについての、もっともらしい釈明のように感じられる。-つまり、他にとりうる手段がないときに、大衆の支持を獲得するために最大限に合法活動の機会を利用するため、だったのだ。(+)
 マリノフスキーが1918年に裁判での審尋に進んだとき、ボルシェヴィキの訴追者は実際に、マリノフスキーはボルシェヴィキに対してよりも帝制当局に対してよりひどい害悪をなしたと証言するように警察側の証人に圧力をかけた。(112)
 マリノフスキーが自分の自由意思で1918年11月という赤色テロルが高潮しているときにソヴェト・ロシアに帰ってきたこと、そしてレーニンと逢うことを強く求めたことは、マリノフスキーは無罪放免になることを期待していたことを強く示唆している。 
 しかし、レーニンには、もはや彼の使い道がなかった。彼は裁判に出席はしたが、証言しなかった。
 マリノフスキーは、処刑された。//
 マリノフスキーは実際、レーニンのために多くの価値ある仕事をした。
 彼が<プラウダ>および「nashput」の創刊を助けたことは、すでに述べた。
 加えるに、ドゥーマで彼が演説をする際には、レーニン、ジノヴィエフその他のボルシェヴィキ指導者が書いた文章を読んだ。演説の前に彼はそれらの原稿を警察部門の副局長であるセルゲイ・ヴィッサーリオノフに提出し、校訂を受けた。 
 このように方法によって、ボルシェヴィキの宣伝文章は国じゅうに広がった。
 特筆しておきたいのは、マリノフスキーは注意深くかつ忍耐強く、ロシアのレーニンの支持者とメンシェヴィキとが再統合することを妨害したことだ。
 第四ドゥーマが開催されたとき、7人のメンシェヴィキ議員と6人のボルシェヴィキ議員は、レーニンまたは警察が望んだ以上に、協力的精神でもって行動した。実際、レーニンが不一致の種を植え付けるために個人的に出席していない場合には通常のことだったが、彼らは一つの社会民主党の議員団のごとく振る舞った。
 二つの党派を離れさせ、そうしてそれらを弱体化させることは、警察が設定した最優先の使命だった。ベレツキーによれば、『マリノフスキーは、両党派間の溝を深めることのできるいかなる事でもするように命令されていた。』(114)
 それ〔二党派間の溝の深まり〕は、レーニンの利益と警察の利益とが合致している、ということだ。(++)//
 レーニンの独裁的な手法とその完全に欠如した道徳感情は、彼の熱心な支持者をある程度は遠ざけた。陰謀と瑣末な争論に飽き、覆いかかる精神主義(spritualism)の風潮に囚われて、何人かの最も賢いボルシェヴィキは、宗教と観念哲学のうちに慰めを追求し始めた。1909年に、ボルシェヴィキ幹部たちの支配的な傾向は、『神の建設』(Bogostroitel'stvo)として知られるようになった。  
 のちの『プロレタリアの文化』の長のボグダノフやのちの啓蒙人民委員〔大臣〕のA・V・ルナチャルスキーに教え導かれた運動は、非ラジカル知識人の間で有名な『神の探求』(Bogoiskatel'stvo)に対する社会主義者の反応だった。 
 <宗教と社会主義>という書物の中でルナチャルスキーは、社会主義を一種の宗教的体験、『労働者の宗教』だと表現した。
 このイデオロギーの提唱者たちは1909年に、カプリに学校を設置した。 
 こうした展開全体を全く不愉快に感じていたレーニンは、反対の二つの学校を組織した。一つは、ボローニャで、もう一つは、パリ近くのローンジュモで。
 1911年に設立された後者は一種の労働者大学で、ロシアから送られた労働者が、社会科学と政治についての体系的な教条教育(indoctrinnation 〔洗脳〕)を受けていた。教師陣の中には、レーニンや彼の最も忠実な支持者であるジノヴィエフとカーメネフもいた。
 今度は学生に偽装した警察情報者が不可避的に潜入していて、ローンジュモでの教育について報告した。
 『授業の断片を生徒が丸暗記することで成り立っている。なされる授業は疑ってはいけないドグマの性格を帯びており、決して批判的な分析や合理的で意識的な学習を奨励するものではない。』(115) //
  1912年までに、マルトフがレーニンの無節操な財政取引や支配力を得るために多くは不法に獲得した金の使い方を公に明らかにしたあとだったが、二つの党派は一つの党だと装うことを止めた。
 メンシェヴィキは、ボルシェヴィキの行動は社会民主党運動を汚辱するものだと考えた。
 1912年の国際社会主義者事務局の会合で、プレハーノフは公然と、レーニンを窃盗者だと責め立てた。
 メンシェヴィキは、レーニンが犯罪や誹謗中傷に頼ったことや労働者を意識的に誤導したことに唖然としたと表明したにもかかわらず、また、レーニンを『政治的ペテン師』(マルトフ)と呼んで非難したにもかかわらず、レーニンを除名することをしなかった。一方、その咎はエデュアルド・ベルンシュタインの『修正主義』に共感したことだけのストルーヴェは、すみやかに追放された。
 レーニンがこれらを深刻に受け止めなかったしても、何ら不思議ではない。//
 二党派の最終的な分裂は、レーニンのプラハ大会で、1912年1月に起きた。それ以降は、彼らは共同の会合を開かなかった。
 レーニンは『中央委員会』という名前を『私物化』して、もっぱら強硬なボルシェヴィキたちで構成されるように委員を指名した。
 頂部に断絶があるのはもはや完璧なことだったが、ロシア内部でのメンシェヴィキおよびボルシェヴィキの幹部や一般党員は、しばしばお互いを同志と見なし続けて一緒に活動した。//
  (*) レーニンのマリノフスキーに関する証言は、委員会の記録にかかる数巻の出版物にも(Padenie)、レーニンの<選集>にも掲載されていない。
  (+) タチアナ・アレクジンスキーは、中央委員会に警察情報員が加入している可能性についての疑問が生じたとき、ジノヴィエフがゴーゴルの<将軍検査官>から『良い一家は、がらくたすらも利用する』を引用したことを憶えている。〔文献省略〕  
  (++) レーニンがマリノフスキーの警察との関係を知っていた蓋然性(likelihood)は、認められている。ブルツェフに加えて、ステファン・ポッソニー(1964, p.142-43.)によって。
 マリノフスキーの自伝は、ボルシェヴィキは警察がマリノフスキーによってボルシェヴィキに関して知ったよりも少ない情報しか、マリノフスキーから警察に関する情報を得ていないという理由で、この仮説を拒否している(Elwood, マリノフスキー, p.65-66.)。
 しかし、マリノフスキーが彼の二重工作員性に関してレーニンの陳述およびスピリドヴィッチの言明を無視していることは、上に引用した。
 ---
 第10節につづく。

1460/強盗と遺産狙いの党財政①-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第8節・ボルシェヴィキ党の財政事情。 
〔p.369-p.372.〕
 1917年革命以前のボルシェヴィキの歴史上最も秘密で今なお深刻な側面の一つは、党の財政にかかわる。
 全ての政治組織は、金を必要とする。しかし、ボルシェヴィキは党員全てに党のために一日中働くことを要求していたので、彼らにはきわめて重い財政上の負担があった。自立・自援のメンシェヴィキと違って、ボルシェヴィキの党員たちは、党の金庫からの手当てに頼っていたからだ。
 レーニンもまた、いつも多数の支援者がいたメンシェヴィキという好敵を策略的に打ち負かすために、金を必要とした。 
 ボルシェヴィキたちは、さまざまな方法で、ある者は伝来的方法で、別の者は高度に非伝来的な方法で、金を確保した。//
 一つの源は、奇矯な金持ちの産業家であるザッヴァ・モロゾフのような、裕福な共調者(シンパ)たちだった。モロゾフは、一月あたり2000ルーブルをボルシェヴィキの金庫に寄付した。
 モロゾフがフランスのリヴィエラ地方で自殺したあとで、彼の生命保険方策の被信託人として仕えていたマクシム・ゴールキの妻によって、彼の遺産から別の6万ルーブルが、ボルシェヴィキへと移された。(92)
 他にも寄贈者はいた。中でも、ゴールキ、A・I・エラマゾフという名の土地管理専門家、ウーファ地方の土地不動産を管理するアレクサンダー・ツィウルーパ(この人物は1918年にレーニン政権の供給大臣になる)、元貴族院議員の妻でストルーヴェの親友だったアレクサンドラ・カルミュイコワ、女優のV・F・コミッサールゼフスカヤ、その他、今日まで名前が分からないままの者たち。(93)
 紳士淑女気取りからするこれらの後援者(パトロン)たちは、根本的には彼らの利益を害するはずの教条のために援助した。レーニンの近い仲間だったレオニード・クラージンはこの当時に、つぎのように書く。
 『革命的党派に金銭を寄付することは、多かれ少なかれ過激なまたはリベラルなサークルでは、育ちの良さ(bon ton)の徴しだと見なされた。5から25ルーブルを定期的に納める寄付者の中には、有名な弁護士、技術者および医師のみならず、銀行の重役や政府組織の官僚もいた。』(94) 
 社会民主党のそれとは別に独立して作動していたボルシェヴィキの金庫の管理は、三人のボルシェヴィキ『中央』の手にあった。これは1905年に形成され、レーニン、クラージンおよびA・A・ボグダーノフから成っていた。 
 まさにこれの存在自体が、ボルシェヴィキの幹部および一般党員からはずっと秘密にされていた。//
 悔い改めたふうの『ブルジョア』たちからの献金ではしかし、不十分であることが判り、1906年早くにボルシェヴィキは、心地よくない手段、人民の意思やエスエル過激主義者が編み出したと思われる考え、に頼った。 
 多額のボルシェヴィキの財源は、それ以来、犯罪活動、とくに婉曲的表現では『収用』として知られる拳銃強盗から来ていた。
 彼らは大胆に急襲して、郵便局、鉄道駅、列車、銀行から強奪した。
 悪名高きティフリスの国有銀行強盗(1907年6月)では、25万ルーブルを強奪した。そのかなりの部分は、連続番号が登録された500ルーブル紙幣の束だった。
 このような略奪の成果品は、ボルシェヴィキの金庫へと移された。
 上の結果として、盗んだ500ルーブル紙幣をヨーロッパで両替えしようとした何人かの人間が逮捕された-その全員が(その中にはのちのソヴェト外務大臣、マクシム・リトヴィノフがいた)、ボルシェヴィキ党員であることが判明した。(95)
 この活動を監督していたスターリンおよび他の関係者は、社会民主党から除名された。(96)
 このような活動を非難する1907年党大会の正式決定を無視して、ボルシェヴィキは、ときにはエスエル党と協力しながら、強盗犯罪を行ない続けた。
 このような方法で、彼らは多額の金を獲得した。これは、相変わらず金欠症のメンシェヴィキに対して、ボルシェヴィキをかなり有利な立場にするものだった。(97)
 マルトフによると、犯罪の成果物のおかげで、ボルシェヴィキはペテルスブルクやモスクワの自分の組織に、それぞれ毎月1000から500ルーブルを送ることができた。この当時、合法的な社会民主党の金庫には、一月で100ルーブルを超えない党員費からの収入が入っていたのだが。
 1910年に、被信託人として仕事する三人のドイツ社会民主党の党員に金を差し出さなければならなくなって、この財源の流れが干上がってしまうや否や、ボルシェヴィキのロシア『委員会』は、薄い大気の中へと消滅した。(98) //
 このような秘密活動の全般的な指揮権は、レーニンの手のうちにあった。しかし、この分野の最高司令官は、いわゆる技術者集団(Technical Group)を率いるクラージンだった。(99)
 職業上は技術者であるクラージンは、二重生活をおくっていた。外面上は、善良なビジネスマンだが(モロゾフのために働くとともに、AEGやジーメンス・シュッケルトというドイツの商社にも勤めていた)、自由時間にはボルシェヴィキの地下活動へと走った。(*)
 クラージンは、爆弾を集めるために秘密の研究室を利用していて、その爆弾の一つはティフリスの強盗で使われた。(100) 
 ベルリンで彼は、3ルーブル紙幣の偽造紙幣作りも行なった。
 クラージンは、鉄砲火薬の密輸入にも従事した。-ときには純粋に商業的理由だったが、ボルシェヴィキの金庫の金を生み出すために。
 技術者集団は、場合によっては、ふつうの犯罪者たちとも取引した。-例えば、ウラル地方で活動する悪名高きルボフ団(ギャング)で、この団体には数十万ドルの価値がある武器を売った。(101) 
 このような活動は不可避的に、ボルシェヴィキ党員たちの中に、『教条』が犯罪生活の口実に使われるという、翳りのある要素を持ち込んだ。//
  (*) この電気製品商社がクラージンを雇ったのは、偶然ではなかったかもしれない。 
 1917年のロシアの反諜報活動(counterintelligence)の長によれば、ジーメンスはスパイ目的で工作員を使っており、ロシア南部のその支店が閉鎖されるに至った。[文献、省略]
 ---
 ②へとつづく。

1449/幻滅の社会民主主義②-R・パイプス著9章4節。

前回のつづき。
 ---
 流刑の期間が終わろうとする頃、レーニンは郷里から穏やかならざるニュースを受け取った。収監中に成功を続けていた運動が危機の苦衷にあり、それは1870年代の革命家たちが経験したものに似ている、という。
 労働者が政治化することをレーニンが期待した煽動戦術は、大きな変化を遂げていた。労働者の政治意識を刺激する手段として役立つことが意図された経済的不安は、終わり始めていた。 
 労働者は、政治に関与することなく経済的利益のために闘争した。そして、『煽動」に従事した知識人は、自分たちが労働組合運動の始まりの添え物になっていることに気づいた。
 レーニンは1899年夏に、エカテリーナ・クスコワが書いた『クリード(Credo、信条)』と呼ばれる文書を受け取った。それは、社会主義者に対して、専制体制に対する闘争をやめてブルジョアジーに向かい、ロシア労働者が代わりにその経済的、社会的条件を改良するのを助けることを要求していた。
 クスコワは十分な経験がある社会民主主義者ではなかったが、彼女の小論は社会民主主義者の中に現れた傾向を反映していた。
 この新しい異説に、レーニンは経済主義というラベルを貼った。
 社会主義者の運動を、その性質からして『資本主義』に順応することを追求する労働組合の小間使いにしてしまうことほど、レーニンの気持ちから離れたものはなかった。
 ロシアから届いたその情報は、労働者運動が社会民主主義知識人から独立して成熟し、政治闘争-すなわち革命-から遠ざかっていることを示していた。//
 レーニンの不安は、運動上にまた別の異説、修正主義、が登場したことによって増大した。
 1899年早くに、エドゥアルト・ベルンシュタインに従う何人かのロシア社会民主主義の指導者たちは、近年の論拠に照らしたマルクスの社会理論の修正を要求した。
 ストルーヴェはその年に、一貫性の欠如を指摘する、マルクスの社会理論の分析書を発行した。マルクス自身の前提は、社会主義は革命(revolution)ではなく進化(evolution)の結果としてのみ実現される、ということを示唆するのだ。(49)
 ストルーヴェはそのうえで、マルクスの経済的かつ社会的原理の中心観念である価値理論の体系的批判へと進んだ。そして、『価値』とは科学的な観念ではなく形而上のそれだという結論に至った。(50)
 修正主義は経済主義ほどにはレーニンを困惑させなかった。というのは、修正主義には同じ実践上の影響力はなかったので。しかし、何かがひどく悪くなっているという恐怖が高まった。    
 クルプスカヤによると、レーニンは1899年の夏に、取り乱すようになり、痩せて、不眠症に罹った。
 彼は今や、ロシア社会民主主義の危機の原因を分析し、それを克服する手段を考案することにエネルギーを傾注した。//
 レーニンの直接の実践的な解決方法は、正統派マルクス主義に忠実なままの仲間たちとともに、運動上の逸脱、とくに経済主義と闘うために、ドイツの<社会民主主義者>を模範にした出版物を刊行することだった。  
 これが、<イスクラ>の起源だった。
 レーニンの思考はしかし、さらに深くなって、社会民主主義を人民の意思を範型とする結束した陰謀家エリートとして再組織すべきではないのかどうかを考え始めた。(51)
 このように思考するのは精神の危機の始まりだった。それは、1年あとで、彼自身の党を結成するという決断によって解消されることになる。//
 1900年早くに流刑から解き放たれた後のペテルスブルクでの短い期間、レーニンは、名義上はまだ社会民主主義者だがリベラルな見地へと移っていたストルーヴェをはじめとする同僚と、交渉して過ごした。
 ストルーヴェは、<イスクラ>と協力し、その財政のかなりの部分を支援することとされた。その年の遅く、レーニンはミュンヒェンに移り、そこで、ポトレゾフやユリウス・マルトフと一緒に、『正統な』-つまり、反経済主義かつ反修正主義の-マルクス主義の機関として<イスクラ>を設立した。//
 ロシア内外の労働者の行動を観察すればするほど、マルクス主義の根本的な前提とは全く違って、労働者(『プロレタリアート』)は決して革命的階級ではない、という結論がますます抑えられなくなった。労働者は放っておかれれば、資本主義を放逐することよりも資本主義者の利益の分け前をより多く取ることを選ぶだろう。
 ズバトフが警察組合主義 (*)という考えをまさにこの時に抱いたのは、同じ理由からだった。
 1900年に発表した影響力ある論文で、レーニンは考え難いことを主張した。『社会民主主義から離れた労働者運動は、…不可避的にブルジョア的になる。』 (52)
 この驚くべき論述が意味するのは、社会主義政党によって労働者の外からそして労働者とは独自に指導されないかぎり、労働者はその階級の利益を裏切るだろう、ということだ。
 非・労働者-つまり、知識人-だけが、この利益が何であるかを知っている。
 政治的エリートの理論が当時に流行していたモスカとパレートのように考えて、レーニンは、プロレタリアートは自分たち自身のために、選ばれた少数者に指導されなければならない、と主張した。// 
 『歴史上のいかなる階級も、政治的指導者、運動を組織して指導する能力のある指導的代表者…を持たないかぎりは、決して勝利しなかった。
 自由な夕方だけではなく、生活の全てを革命に捧げる人間を用意することが必要だ。』(+)
 労働者は生活の糧を稼がなければならないので、『彼らの生活の全て』を革命運動に捧げることができない。これは、労働者の教条のための指導権は社会主義知識人の肩で担われる、というレーニンの考え方から生じたものであることを意味する。 
 この考え方は、民主主義原理そのものを弱体化させる。人々の意思は生きている人々が欲するものではなく、上級者によって明確にされる彼らの『真の』利益がそれだとされることになる。//
 労働者の問題に関する社会民主主義から逸脱したので、レーニンがそれとの関係を断ってブルジョアジーの問題へと向かうのに、大した努力は必要なかった。 
 活発で独立したリベラルの運動が出現し、すみやかに自由化同盟(the Union of Liberation)へと統合していくのを見て、レーニンは、『ブルジョアジー』との同盟に対する『主導権』を行使するには影響力が貧相で少ない社会主義者の能力に、信頼を置かなくなった。 
 1900年12月に、<イスクラ>とのリベラルの協力関係の条件について、彼はストルーヴェと怒りに満ちた話し合いを行った。 
 レーニンは、リベラルたちが専制体制に対抗する闘争での社会主義者の指導性を承認するのを期待するのは無駄だと結論づけた。彼らリベラルたちは、自分たちのために、自分たちの非革命的目的のために、革命家を利用して闘うだろう。(53)
 『リベラル・ブルジョアジー』は君主制に対する虚偽の闘争を遂行しており、そして、だからこそ、『反革命』階級だ。(54)
 ブルジョアジーの進歩的役割を否認することによってレーニンは、以前の人民の意思の見地へと先祖返りすることを示し、社会民主主義と完全に絶縁した。//
  (*) 第1章を参照。
  (+) 10年後に、レーニンよりも10歳若い、指導的なイタリア社会主義者であったベニート・ムッソリーニは、これと無関係に、同じ結論に到達した。1912年にムッソリーニはつぎのように書いた。『組織されただけの労働者は利益の誘惑にのみ従うプチ・ブルジョアになった。いかなる理想への訴えも聴かれなかった。』 B. Mussolini, Opera omnia, Ⅳ, (1952), p.156。別の箇所でムッソリーニは、労働者は生まれながらに『平和的』だと語った。A. Rossi, イタリア・ファシズムの成立, 1918-1922 (1938), p.134。
  (53) この交渉の背景については私のつぎの著で叙述した。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, p.260-70。
 --- 
第5節につづく。

1447/幻滅の社会民主主義①-R・パイプス著9章4節。

 前回のつづき。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第4節・レーニンの社会民主主義への失望

 1893年秋にレーニンが表向きは専門法曹の仕事に就くべくペテルスブルクに移ったとき、実際は過激派サークルと接触して、革命家としての経歴を歩み始めた。(42)
 到着した彼と連絡をとった社会民主主義者には、レーニンは『赤すぎる』ように思えた-つまり、まだ人民の意思の信奉者でありすぎた。
 レーニンはすぐに自分の知り合い仲間を広げ、有名な社会民主主義知識人のグループに加入した。その指導的精神をもつ者は、23歳のペーター・ストルーヴェだった。-この人物は、レーニンに似て高級官僚の子息だったが、レーニンとは違って、西欧にいた国際人で、きわめて幅広い知識を習得していた。
 この二人は、頻繁に議論をした。
 二人の不一致は主として、レーニンの資本主義に関する単純な観念と、レーニンの『ブルジョアジー』への態度だった。
 ストルーヴェはレーニンに、一度自分の目で西欧を見れば納得するだろうように、ロシアは西欧タイプの資本主義経済を獲得しなかったので、資本主義的発展への途の最初の一歩をほとんど進んでいない、と説明した。
 また、社会民主主義は、産業労働者に励まされた中産階級が出版の自由や政党結成権のような公民的自由を生み出す場合にのみ、ロシアで花咲くことができる、とも説明した。
 レーニンは、納得しないままだった。//
 1895年の夏に国外に出て、レーニンはプレハーノフや他の社会民主主義運動の老練活動家に逢った。
 『ブルジョアジー』を拒絶するのは大きな誤りだと、彼は言われた。プレハーノフが語るには、『われわれはリべラルたちに顔を向けなければならない、しかるに君は、背を向けている』。(43)
 アクセルロッドは、『リベラル・ブルジョアジー』とのいかなる共同行動でも、社会民主主義者は支配を失なうことはない、なぜなら、自身の利益に最も寄与する方向での暫定的な同盟を指導しかつ操作することによって、共同闘争の『主導権(ヘゲモニー)』を維持し続けるだろうから、と強く言った。//
 プレハーノフを尊敬するレーニンは、影響を受けた。
 どの程度深く彼が納得したのかを、決定的に述べることはできない。しかし、つぎのことは明白な事実だ。すなわち、1895年秋にペテルスブルクに戻って正統な社会民主主義者としてデビューし、『リベラル・ブルジョアジー』と同じ先頭に立って専制体制に対抗する闘争へと労働者を組織したのだ。 
 この変化は驚くべきことだった。レーニンは1894年夏には、社会主義と民主主義は両立しえない、と書いた。今や、この二つは不可分だ、と主張する。(44)
 彼の目に映るロシアは、決して資本主義国ではなく、半封建的な国家だった。そして、プロレタリアートの主たる敵は、専制体制と同盟するブルジョアジーではなく、専制体制それ自体なのだった。
 ブルジョアジーは-ともかくもその進歩的要素は-、労働者階級の同盟者だった。//
 『社会民主党は、…専制的政府に対抗する闘争を行う全てのブルジョアジー層を支持することを宣言する。
 民主主義者の闘争は社会主義者のそれと不可分であり、完全な自由とロシアの政治的かつ社会的体制の民主化の獲得なくして、労働者の根本教条のための闘争に勝利することは不可能である。』(45)
 レーニンは今や、陰謀とクー・デタを、実践不可能なものとして拒否した。 
 しかしながら、『リベラル・ブルジョアジー』の役割に関する彼の心境の変化は、アクセルロッドによれば、つぎの前提と固く結びついている、ということに留意することが重要だ。すなわち、革命的社会主義者は、専制体制に対する組織的運動を指導し、ブルジョアジーはそれに従う、という前提だ。//
 帰国したあとレーニンは、首都で危なかしい団体を率いている労働者サークルとの不確定な接触を保った。 
 彼はマルクス主義理論の個人的指導をいくらか担当したが、教育活動に熱心にはなれず、<資本論>の初歩を教えていた労働者が彼の外套を盗んで歩き去ったあとで、それを止めた。(46)
 レーニンは、活動へと労働者を組織することを選んだ。
 その当時、ペテルスブルクでは社会民主主義知識人のサークルが、個々の労働者および労働者たち自身が相互支援と自己研修を目的として作った中央労働者団体と接触して活動していた。
 レーニンはその社会民主主義サークルに加入した。しかし、リトアニアのユダヤ人によって定式化された『煽動』戦術が1895年遅くに採用されたときになって、その団体の仕事に従事しはじめた。
 『煽動』戦術は、労働者の政治への嫌悪感を克服するために、経済的な(つまり非政治的な)不満をもとにして産業ストライキを行おうと呼びかけた。 
  いかに政府と秩序維持の力が、汚染した企業経営者に味方しているかをひとたび知れば、労働者は政治体制の変革なくして自らの経済的不満を満足させることはできないと悟るだろう、と考えられた。
 これを悟れば、労働者は政治化するだろう、と。 
 マルトフから『煽動』戦術を学んだレーニンは、ペテルスブルクの労働者たちに文書を配布する仕事に加わった。その文書資料は、法のもとでの労働者の諸権利を説明し、その諸権利がいかに使用者によって侵害されているかを示すものだった。
 その成果は微々たるもので、労働者への影響力は疑わしかった。しかし、1896年5月に3万人の首都の労働者が自発的にストライキを実施したのは、社会民主主義者たちには大きな歓びだった。//
 そのときまでレーニンとその仲間は、1895-96年の冬にストライキを誘発したとして収監されていた。
 にもかかわらずレーニンは、『煽動』戦術の正しさが立証されたと思った。そして、織物ストライキのあとで彼はこう書いた。『工場所有者に対する日常生活の必要のための労働者の闘争』は、『<それ自体で不可避的に>労働者に<国家と政治の問題>を連想させる。』(47)。
 レーニンは党の任務を、つぎのように定義した。//
 『ロシア社会民主党は、その任務が、労働者階級の意識を高め、その組織を支援し、闘争の真の到達点を示すことによって、ロシア労働者の闘争を助けることにある、と宣言する…。
 党の任務は、労働者のための当世風の方法を脳内に捏造することにではなく、労働者運動に<加入>すること、労働者を啓蒙すること、そして<すでに開始されている>闘争において労働者を<助ける>ことにある。』(48) //
 逮捕されたあとの審問中に、レーニンは、警察が間違ってP・K・ザポロヘツという名の仲間のものだとした原稿が自ら書いたものであることを否認した。 
 その結果としてザポロヘツは、追加して2年間の収監と流刑の罰を負うことになった。
 レーニンはシベリアでの3年間の流刑(1897-1900年)を比較的に快適に過ごし、同志たちと継続的に連絡し合ってもいた。
 彼は読書し、文章を書き、翻訳し、熱心に身体運動も行った。(*) //
  (*) シベリアに同行していたレーニンの内縁の妻、ナデジダ・クルプスカヤのために、彼女と正式に婚姻しなければならなかった。ロシア政府がこの結婚を承認しなかったので、婚礼が教会で催された(1898年7月10日)。Robert H. McNeal, 革命の花嫁: レーニンとクルプスカヤ (1972) p.65。レーニンもその妻も、彼らが書いたものの中でこの当惑した出来事に言及していない。
 ---
 ②につづく。

1444/レーニンの個性②-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
 ---
 党が示す革命の教条とレーニンとの全同一化のもう一つの魅力的な側面は、独特な形態の個人的謙虚さだ。
 彼の後継者は彼個人の周囲に準宗教的なカルトを作ったが、彼らは自分たちの私的な目的のためにそうした。レーニンがいなければ、運動をともに維持するものは何もなかった。
 レーニンはこのようなカルト化を決して助長しなかった。なぜなら、自分の存在は『プロレタリアート』の存在とは別のものだという見方は受容できないと考えていたからだ。ロベスピエールのように、まさに文言上の意味で、自分は『人民』だと考えていた。(*)
 運動から区別して自分という一個人を取り出されるのを強く嫌う気持ちは、ふつうの虚栄心をはるかに超える自尊心に根ざした、謙虚さのためだった。   
 そのゆえに、回想録に対するレーニンの嫌悪感があった。ロシア革命のいかなる指導者も、自叙伝的資料をもう少しは残したのだったが。(+)// 
 道徳上の呵責を知らない人物。レーニンは、ランケが『完全な自己信頼意識をもつため、自分自身の行動の結果に関する疑いや恐れは体験したことがない痛みである』と述べたローマ法皇に、似ていた。
 このような性格のためにレーニンは、ある種のタイプの、ロシアの似而非インテリたちにはきわめて魅力的だった。そのような者たちはのちに、困惑の世界に確実性を与えてくれるという理由で、群れてボルシェヴィキ党に入っていくだろう。
 とくに若い読み書きの不十分な農民たちには、魅力的だった。彼らは、村落を離れて工場での仕事を求め、かつて慣れていた人間関係が非人間的な経済的かつ社会的束縛に代わった、見知らぬ、冷たい世界で漂っていたのだ。 
 レーニンの党は、彼らに帰属意識を提供した。彼らは団結と単純なスローガンを好んだ。//
 レーニンには強い傾向の冷酷さがあった。彼が主義としてテロルを擁護したこと、何も悪事をしていない無実の多数の人々に死を宣告する布令を発したこと、そして自分に責任がある生命の喪失に対していかほどの悔恨も示さなかったこと、これらは明白な事実だ。
 同時にまた、この冷酷さは他人が苦しむのを見て喜びを引き出すサディズムではなかったことも強調しておく必要がある。
 むしろ、そのような苦しみに対する完全な無関心こそに由来していた。 
 マクシム・ゴーリキはレーニンとの会話から、彼にとっては個々の人間は『ほとんど何の関心もなく、党、大衆、国家…のことのみを考えている』という印象をもった。
 別の場合にゴーリキが言うには、レーニンにとっては労働者階級は金属工にとっての原鉱石のようなもの (27) -換言すれば、社会実験のための原材料ようなものだった。
 レーニンが住んだヴォルガ地域が突然に飢饉に陥った1891-92年にすでに、このような特徴は明らかになっていた。 
 飢餓の農民たちに食糧を供給する委員会が設立された。
 ユリアノフ家の友人によれば、レーニンだけが(いつものようにその家族は共鳴したが)、このような援助に反対した。その理由は、農民を土地から離し、『プロレタリア』予備軍となる都市に移ることを強いることになるので、飢饉は『進歩的な』現象だ、ということだった。
 レーニンは人間を新しい社会建設のための『原鉱石』と見なして、将軍が兵士に敵の砲火の中への前進を命令するときと同じように感情を欠如したまま、人々を処刑部隊の前へと、死へと、送り込んだ。  
 ゴーリキはフランス人から引用して、レーニンは『考えるギロチン』だと言った。
 責任を拒みつつ、彼は人間ぎらいだったと認める。『一般には、彼は人民を愛した。自己犠牲心でもって人民を愛した。彼の愛は憎悪という霧を通してずっと先を見ていた。』(29)
 1917年のあとでゴーリキが、死刑を宣せられたあれこれの人の生命を大切にするように強く求めたとき、レーニンはなぜそんな瑣末なことに邪魔されるのかと本当に当惑しているように見えた。//
 よくあることだが(ロベスピエールにもそのとおりだが)、レーニンの冷酷さの反対面は、臆病さだった。 
 レーニンの人間性のこの側面は、大量の証拠資料があるけれども、諸文献ではほとんど言及されていない。
 まだ10歳代のときには大学を自主退学して学生騒擾への関与に対する制裁を避けようと試みたことがあったものの、レーニンの特徴は勇気の欠如だった。
 のちに記すように、ある原稿が自分の著作物であることををレーニンは認めようとしなかった。それで、共犯者は二年間の流刑を追加された。  
 身の危険に対するレーニンの変わらない反応の仕方は、飛び去ることだった。自分の兵団を見捨てることを意味するとしてですら、拘束や射撃の怖れががあるときはいつでも姿を消す、不思議な能力が彼にはあった。
 第二ドゥーマのボルシェヴィキ議員団長の妻、タチアナ・アレクシンスキーは、レーニンが危険から逃げ去るのを見た。//
 『1906年の夏に初めてレーニンと逢った。
 その出会いを、私は思い出したくない。
 左翼の社会民主主義者たちから崇拝されていたレーニンは、伝説的英雄のように私には思えていた…。
 1905年の革命まで彼は国外にいたので近くで彼を見たことがなく、レーニンは恐怖も汚辱もない革命家だろうとわれわれは想像していた。
 だから、ペテルスブルクの郊外での会合で1906年にレーニンを見たときの私の失望は、何と激烈であったことか。
 私に好ましくない印象を与えたのは、彼の外貌だけではない。禿げていて、赤っぽい鬚を生やし、モンゴルの頬骨をもち、不愉快な話し方をした。
 好ましくない印象は、そのあとの集団示威行進(デモ)の間の彼の振るまいだった。
 群衆を命令している騎馬兵団を見ていただれかが『コサックだ!』と叫んだとき、レーニンは逃げ出した最初の人物だった。
 彼は、柵を跳び越えた。黒布の帽子は脱げ落ち、裸の頭が露わになり、日光のもとで汗をかいて光っていた。
 彼はころげ落ち、立ち上がり、そして走りつづけた…。
 自分の身を守る以外のことは何もなかった。そしてまだ…。』(30) //
 このような魅力的でない個人的特性は、同僚たちにはよく知られていた。しかし、彼らは知っていてそれを無視した。レーニンには、独特の長所があったからだ。すなわち、規律正しい仕事をする異常なほどの能力および革命的教条に対する全的な傾倒。
 ベルトラム・ヴォルフェの言葉によれば、レーニンは『ロシアのマルクス主義運動を生み出した高度の理論的能力をもち、また細かい組織上の仕事に携わる能力と意思を同時にもつ、唯一の人間だった』。(31)
 1885年にレーニンと逢って彼を第二級のインテリと見なしたプレハーノフは、にもかかわらず、レーニンを評価し、かつその欠点を見逃した。プレハーノフの言葉によればその理由は、『彼〔プレハーノフ〕はこの新しい人物〔レーニン〕の重要性を、その思想にでは全くなく、その党組織者としての独創力と才能のうちに認めた』からだった。
 レーニンの『冷たさ』、侮蔑心および残虐さによって追放されたストルーヴェは、自分が『一つに自分の道徳的義務だ、二つにわれわれの教条には[レーニンが]政治的に不可欠だという両者』の関係を配慮して、このような否定的感情を『放逐』した、ということを認めている。(33) //
  (*) 1792年、郊外居住者の輸送に際して、ロベスピエールはこう主張した。『私は人民の廷臣でも、仲裁者でも、審判官でも、擁護者でもない。-私は人民そのものだ!』(Alfred Cobban, Aspects of the French Revolution, London, 1968, p.188.)
  (+) 彼はやがては個人的カルトを許すようになった。その理由を、アンジェリカ・バラバノッフにつぎのように説明した。『有用で、必要ですらある』、『われわれの農民は懐疑的で、読まないし、信じるために逢う必要もない。彼らが私の写真を見れば、レーニンは存在すると納得する。』 Balabanoff, Impressions of Lenin (1964, p.5-6).
 ---
 ③につづく。

1440/レーニンと社会民主主義①-R・パイプス著9章2節。

 前回のつづき。
---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第2節・レーニンと社会民主主義 〔p.345-p.348〕
 1920代に定式化されたレーニンの公式の<経歴>(vita)は、その本質的特徴において、キリストの一生をモデルにしている。
 キリスト学のように、変わらずまた変わりえないものとして、その宿命は生誕の日にあらかじめ決定されていたものとして、主人公を叙述している。
 レーニンの公式の伝記作者は、レーニンがその考えを一度でも変えたということを認めることを拒否する。 
 レーニンは政治に関与するようになった瞬間から、確固たる正統派マルキスト(マルクス主義者)だったとされる。
 このような主張は誤っていることは、容易に示すことができる。//
 まず、『マルクス主義者』という語は、レーニンが若いときには一義ではなく、少なくとも二つの異なる意味をもった。
 古典的マルクス主義原理は、成熟した資本主義経済の諸国家に適用された。 
 マルクスは、このような国のために、発展の科学的理論、つまり崩壊と革命という不可避的な結末、を提供すると称した。
 この原理は、それが科学的客観性をもつとされたこと、およびその予見の不可避性の二つの理由で、ロシアの過激な知識人に対して莫大な訴える力をもった。
 マルクスは、ロシアの社会民主主義運動が始まる前に、広く知られていた。すなわち、1880年にマルクスは、『資本論』は他のどの国でよりもロシアで多くの読者と崇拝者を獲得した、と誇ったほどだ。(10)
 しかし、ロシアは当時ほとんど資本主義が進展していなかったので、言葉を緩やかに定義することにはなるが、ロシアの初期のマルクス支持者は、マルクスの理論をロシアの地域的状況に適合するように再解釈した。  
 彼らは1870年代に、『分離した途』という原理を定式化した。それによると、ロシアは、農村共同体を基盤とする社会主義の独自の形態を発展させ、資本主義の段階を回避して、社会主義へと直接に飛躍するだろう、ということになる。(11)
 レーニンの兄は人民の意思組織の綱領にあるこの種のイデオロギーを採用したが、それは1880年代のロシアの過激派サークルではふつうのことだった。//
 レーニンが成長した知的な環境がもつ知識は、彼がイデオロギーを進展させるのに役立った。   
 マルクス主義の変種はロシアでまだ知られていなかったので、レーニンは1887-91年には、社会民主主義という意味でのマルクス主義者ではなかったし、またそうであるはずはなかった。
 実証的文書は、レーニンは1887年からおよそ1891年までの間、人民の意思の典型的な支持者だったことを示唆している。
 レーニンは、最初はカザンで、そしてサマラで、この組織の構成員と親密な交際をしていたと述べた。 
 彼は積極的に、その多くが刑務所や流刑から解放されたのちにヴォルガ地域に住みついた、人民の意思の老練活動家を探し出して、その運動の歴史ととくにその組織実務を学んだ。
 この知識を、レーニンは深く吸収した。ロシア社会民主党の指導者の一人になった後ですら、彼は、厳しく訓練された、策略を好みかつ職業的な革命党への信頼、および資本主義という長い中間段階を主張する綱領に対する苛立ちのために、同志たちから離れることがあった。 
 人民の意思(Narodnaia Volia)のように、レーニンは資本主義と『ブルジョアジー』を侮蔑した。それらに彼は、社会主義の同盟者ではなく、公然たる敵を見ていたのだ。
 注目する価値があるが、1880年代の遅くにレーニンは、『ドイツ』の-つまり社会民主主義の-精神でのマルクスとエンゲルスに接近し始めていた地域のグループ活動に加わらなかった。(12) //
 1890年6月にようやく、当局はレーニンが形式上の学生として法曹試験を受けることを許した。
 彼は1891年11月にそれに合格したが、法曹実務には就かず、経済文献の研究、とくに Zemstva が刊行した農業の統計調査のそれに没頭した。 
 レーニンの妹のアンナの語るところによれば、彼の目的は『ロシアにおける社会民主主義の実現可能性』を決定することだった。(13)//
 ときは、熟していた。
 ドイツでは、1890年に合法化された社会民主党が、選挙で驚くべき成功を収めていた。
 ドイツ社会民主党の優れた組織と労働者への政策主張を広汎なリベラル綱領に結びつける能力によって、いずれの連続する選挙でもより多くの議席数を獲得してきていた。
 ヨーロッパの最大の産業国家で暴力によってではなく民主主義手続を通じて社会主義が勝利することができることが、突如として想定できるように見えはじめた。
 エンゲルスはこのような展開に感動して、死ぬ少し前の1895年に、彼とマルクスが1948年に予言した革命的変革は決して起こらないかもしれない、だが社会主義はバリケードによってではなく投票箱でうまく勝利することができる、と認めた。(14)
 ドイツ社会民主党の例は、ロシアの社会主義者たちに強い影響力をもち、『分離した途』や革命的クー・デターという昔の理論は不評を招いた。// 
 このような考えの広がりと同時期に、ロシアは1890-1900年の10年間に産業労働者の数が二倍になり、経済成長率が他諸国よりも上回るという、劇的な産業発展の大波を体験していた。 
 示唆されたのはしたがって、ロシアはマルクスもありうると想定していた資本主義を回避して進む機会を見失い、西側の経験を繰り返す運命にある、ということだった。//
 このように雰囲気が変化し、社会民主主義の理論はロシアで支持者を獲得した。 
 ジュネーヴでゲオルク・プレハーノフやパウル・アクセルロッドが、ペテルスブルクでペーター・ストルーヴェが定式化したように、ロシアは二つの段階を経て社会主義に到達すべきだった。
 最初に、十分に成長した資本主義を通過しなければならない、それはプロレタリアートの地位を拡大し、かつ同時に、そのもとでドイツ人のようにロシアの社会主義者たちが政治的影響力を獲得できる、議会制度を含めた『ブルジョア的』自由という利益をもたらすだろう。 
 『ブルジョアジー』がひとたび専政政治とその『封建的』経済基盤を拭い去ってしまえば、段階はつぎの歴史発展の局面、社会主義への前進、へとセットされるだろう。
 1890年代の半ばには、このような考え方は多くの知識人(intelligentsia)の想像力を捉え、『分離した途』という昔のイデオロギーはほとんど見られなくなった。この旧式の考えのために、今やストルーヴェは『人民主義(Populism)』という新しい軽蔑語を使った。(15)//   
  (11) この主題は私の<ストルーヴェ>で長く扱われている。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, 1870-1905 (1970), p.28-51.
  ---
 ②につづく。

1439/レーニンの青少年期②-R・パイプス著9章1節。

 前回のつづき。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) <原著・大判でほぼ1000頁>と② Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995)<原著・大判で約600頁>とを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」(下記の西山による)一冊にまとめたものに、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995) <原著・中判で約450頁>がある。そして、この最後の③には、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)という邦訳書<約450頁>がある。したがって、この欄で邦訳を試みている書物①の内容は、上の邦訳書の前半分程度を占めていることになる。内容に大きな矛盾はないだろうが、しかしまた、1990年の本の方が前半部については優に二倍以上の詳細さをもっているだろう。西山克典の訳書を参考にさせていただいていることは言うまでもない。
 ---
 レーニンの青少年期について印象的なのは、彼の同時代の者たちの多くと違って、レーニンは公的な出来事への関心を示さなかった、という事実だ。(3)
 検閲という鉄の掴みがレーニンを非人間的にする前に彼の姉妹の一人が出版した書物から浮かび上がってくるのは、きわめて勤勉な少年の肖像だ。きれい好きで、几帳面な-このタイプを、現代の心理学は、強迫神経症的と分類するだろう。(4) 
 レーニンは模範的学生で、素行を含むほとんど全ての科目で優秀な成績を獲得し、それで毎年金のメダルを授与されていた。
 彼は、クラスのトップの成績で卒業した。
 われわれが利用できる乏しい証拠資料からも、彼の家族に対してであれ体制に対してであれ、反抗的態度の痕跡を見出すことはできない。
 レーニンののちの好敵になるアレクサンダーの父親、フョドール・ケレンスキーはたまたまレーニンがシンビルスクで通っていた学校の校長だった。その校長はレーニンに、カザン大学に進学するように薦めたのだったが、それは、『学校の中でも外でも年長者や教師に対して、言葉によっても行為によっても、好ましくない意見をもつに至る理由を全く示さない』、『無口』で『非社交的』な学生として、だった。(5)
 1887年に高校を卒業するまで、レーニンは『明確な』政治的意見を抱いていなかった。(6)
 レーニンの初期についての伝記には、将来の革命家を暗示するものは何もない。むしろ、レーニンは父親の足跡に従い、名のある官僚の経歴へと進むだろう、ということが示唆されている。
 カザン大学で法学を学修することが認められたのは、このような特性によってだ。これがなければ、彼の家族に関する警察の記録によって、レーニンは大学進学を妨害されていただろう。// 
 大学に入って、レーニンは名高いテロリストの弟だと仲間の学生たちに認識され、秘密の人民の意思グループへと引き摺り込まれた。
 ラザール・ボゴノフを長とするこの組織は、ペテルスブルクを含む他都市の同意見の学生たちとの接触があり、明らかに、アレクサンダー・ユリアノフ〔レーニンの兄〕とその仲間が処刑された行為を実行する意図をもっていた。
 この計画がどの程度進行していたか、レーニンがどの程度関与していたか、を確認することはできない。
 このグループは1887年12月に逮捕され、大学の規制に対する抗議のデモが行われた。
 走り、叫び、両腕を振っているのを目撃されていたレーニンは、短期間だけ、拘留された。
 郷里に戻ったレーニンは、自主退学することを告げる手紙を大学に書き送った。しかし、退学処分を免れようとする企図は失敗に終わった。
 レーニンは逮捕され、39人の学生たちとともに流刑〔追放〕に遭った。
 この苛酷な制裁はアレクサンダー三世が自立や不服従の兆候を抑え込むために用いた典型的な手法だったが、革命運動への新規加入者をつねに与えつづけることにもなった。//
 レーニンはそのうちに忘れられ、復学することが許されたかもしれなかった。捜査の過程で警察がボゴラス・サークルとの関係を暴き、彼の兄がテロリズムに関与していたことを知る、ということがなければ。
 ひとたびこのような事実が知られるようになるや、レーニンは『不審者』リストに掲載され、警察による監視のもとに置かれることになった。
 レーニンおよびその母親の復学を求める請願書は、決まって却下された。
 レーニンの前には、将来がなかった。
 彼は、つぎの4年間、母親のペンションを離れて、強いられた怠惰の生活をおくった。
 彼の気分は絶望的で、母親の請願書の一つによると、すぐにも自殺をしそうだった。
 われわれがもつこの期間のレーニンに関する資料からすると、彼は傲慢な、嫌味のある、友人がいない青年だった。 
 しかし、レーニンを尊敬していたユリアノフ家族の中では、彼は天才の卵であり、その意見は福音(gospel)だった。(7)//
 レーニンはこの期間に、大量の読書をした。
 彼は、1860年代および1870年代の『進歩的』な雑誌や書物を読み漁り、とくにニコライ・チェルニュイシェフスキーの書物には、彼自身の証言文書によると、決定的な影響をうけた。(8)(*)
 この試行錯誤的な期間、ユリアノフ家はシンビルスクの社会からのけ者にされた。人々は、警察の注意を惹きつけることを恐れて、処刑されたテロリストの近親者との交際を断ったのだった。
 これは苦い体験であり、レーニンが過激化するについて、少なからぬ役割を果たしたように見える。
 レーニンが母親とともにカザンへ移った1888年の秋までに、レーニンは完全に巣立ちのできるラディカルになっていた。そして、彼の約束された経歴を切断し、家族を拒否した者たち-帝制支配者層および『ブルジョワジー』-に対する際限のない憎悪で、充ち満ちていた。
 彼の亡兄のような、理想主義へと駆られるロシアの典型的な革命家とは対照的に、レーニンの主要な政治的衝動は、滞留する憎悪だった。
 この感情的な土壌に根ざして、レーニンの社会主義とは、最初から本質的に、破壊という原理(doctrin)のものだった。
 レーニンは将来の世界についてほとんど何も考えず、感情的にも知性的にも、現在の世界を粉砕することに没頭していた。
 この偏執症的な破壊主義こそが、ロシアの知識人を魅惑したり嫌悪させたり、喚起したり畏怖させたりしたものだ。彼らは、ハムレットの逡巡とドン・キホーテの愚昧の間を揺れ動きがちだった。 
 1890年代にレーニンと頻繁に逢ったストルーヴェは、つぎのように言う。//
 『彼の最も重要な-新しい有名なドイツの心理学用語を使うと-気質(Einstellung)は、<憎悪>だった。
 レーニンはマルクス主義の原理を採用したが、それは本質的には、彼の心性のうちのあの重要な<気質>が、その原理に反応したことが理由だ。  
 容赦なくかつ完璧に、敵の最終的な破壊と絶滅を目指す階級闘争の原理は、周囲の現実に対するレーニンの感情的な態度に適応するものだった。 
 レーニンは、実存する専政体制(帝制)や官僚制のみならず、また警察の無法さや恣意性のみならず、それらと対照的なもの-『リベラル』や『ブルジョワジー』-をも、憎悪した。
 あの憎悪には、嫌悪を感じさせる恐ろしい何かがあった。というのは、具体的な-あえて私は野獣的なと言いたいが-感情や反感に根源があるので、それは同時に、レーニンの全存在に似て抽象的でかつ冷酷なものだった。』(9) //
  (3) Nikolai Valentinov, The Early Years of Lenin (1969), p.111-12 参照。
  (8) Valentinov, Early Years, p.111-38, p.189-215。レーニンとの会話にもとづく。
  (*) チェルニュイシェフスキーは1860年代の指導的な過激派宣伝者で、<何がなされるべきか>という、青年に家族を捨てて新しい実証主義的かつ功利主義的な思考方法による共同体に加わるよう促した小説、の著者だ。彼は、現存の世界を腐っていて絶望的だと見なした。この小説の主人公、ラフメトフは、鉄の意思をもつ、過激な変革に完全に献身した『新しい人間』として描かれている。レーニンは、彼の最初の政治的小冊子にこの小説のタイトルを使った。
 ---
第2節につづく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー