秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

スターリン

2294/レフとスヴェトラーナ19—第5章②。

 レフとスヴェトラーナ、No.19。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。原書、p.98-p.105。
 ——
 第5章②。
 (12) レフや他の収監者のために木材工場の内外に密かに手紙を出し入れする自由労働者が、他にも数人いた。
 一人は、Aleksandr Aleksandrovsky だった。食糧供給部に勤務していた、灰色の毛髪の50歳代半ばの人物で、1892年に、Voronezh の近傍で生まれた。
 Aleksandr は第一次大戦を戦い、ロシアの内戦時に赤軍に入隊した。
 1937年、彼は内戦の英雄のTukhachevsky元帥による弾圧に反対して公衆の面前で演説した後で、逮捕された。
 ペチョラでの5年の判決に服したあと、釈放後も、年下の妻のMaria とともに自由労働者としてとどまった。Maria は、戦争中にカリーニンの町からペチョラに避難していた。
 彼女は、ソヴィエト通りにある電話交換所で働いていた。
 二人は二人の小さい息子たちと一緒に川そばの待避壕に住んでいたが、1946年に、工業地帯の中にある住居地区へと移った。
 その家屋は、内部はきわめて窮屈だった。
 壁は、ベニヤ板でできていた。
 小さな(上水道なしの)台所があり、二つの小さな部屋があったが、シングル・ベッドは一つだつた。
 男の子たちは、床で寝た。
 家屋の裏には庭があり、そこで彼らは何羽かのニワトリと一頭の豚を飼った。
 (13)  Aleksandr とMaria は、Strelkov の親しい友人だった。
 二人はしばしば、彼と電気グループの彼の門下生たちを、家でもてなした。
 二人は政治的収監者たちに同情し、彼らを助け、支えることのできる全てのことを行なった。
 Maria は、電話交換所で当局の会話に耳を傾けた。そして、計画されている移送やその他の制裁について収監者たちに警告を発することができた。
 二人はどちらも、収監者たちのために手紙類を送り、受け取った。
 子息のIgol は、「父は、シャツの中に手紙類を隠し、それらを刑務所地帯の内外へと出し入れしたものだ」と、思い出す。Igol は、切手を収集するのが好きだった。
 (レフはスヴェータと叔母たちに、「ここには熱心な切手収集者がいる」ので、違う種類の「面白い切手」を送ってくれるよう頼んだ。)
 Igol はつづける。
 「父は工業地帯のための通行証を持っており、一度も探索されなかった。
 誰も恐れていなかった。父はよく言っていたものだ。『私を処罰しようとさせてみろ!! 』」
 (14) Stanislav Yakhovich は木材工場の機械操作者で、収監者のための手紙密送に関与したもう一人の自発的労働者(voluntary worker)だった。
 レフはこの人物に発電施設で初めて会い、ほとんど取っ組み合いの喧嘩になった。 
 Yakhovich がレフのさらの手袋を取り去り、泥と油脂を付けて返した。
 これはレフが発電施設に来て最初の週に起きたことで、レフは、自分はこき使われるような人間ではないと示したくなった。
 レフは軍隊にいたことがあり、剛強だった。
 彼は、自分が生き延びたのは自分を防御する能力があったからだと思っていた。
 それでレフはYakhovich に跳びかかり、もう一度手袋を取っていけば「顔を強く殴るぞ」と威嚇した。 
 Yakhovich は何も言わず、微笑んでいた。
 彼はレフよりもかなり大きかったが、その喧嘩ごしの言葉にもかかわらず、レフは乱暴な人物ではないと理解することができた。
 二人は、互いに友人になった。
 (15) Yakhovich はLodz〔ウッジ〕出身のポーランド人で、微かな訛りのあるロシア語を話した。
 彼は工業学校を卒業しており、Orel 出身のロシア人と結婚し、二人の子どもがいた。息子は1927年生まれ、娘は1935年生まれだった。
 1937年まで、機械操作者として働いたが、その年に逮捕された。それはほとんど確実に、ポーランド出自が理由だった(彼を「ポーランド民族主義者」とするので十分だった)。
 Yakhovich は、ペチョラ労働収容所での8年の判決に服し、1945年の釈放の後もとどまった。そして今は、工業地帯の鉄条網の垣根のすぐそばの工場通りにある粗末な家屋の一つの中の一部屋で、もう一人のかつての収監者であるLiuskaという名の女性と一緒に生活していた。
 (16) ペチョラで長く過ごしていたので、Yakhovich は、収監者たちに深い同情の気持ちをもち、彼らを助けるために、できることなら何でもした。—使い走り、食糧提供、手紙配達。自分自身にとって大きな危険となるものだったが。
 自分のように妻と離れさせられた収監者には、特別の感情をもった。
 彼は1947年にOrel へと旅をして、妻と娘にペチョラに来て一緒に生活しようと説得したものだ。
 (17) あるとき、レフはYakhovich に、一束のスヴェータの手紙類を渡した。それは、営舎の厚板の床の下に保蔵していたものだった。
 レフはYakhovich に、モスクワまで運んでくれる者が見つかるまでそれを預かって欲しいと頼んだ。モスクワにはスヴェータがいて、彼女が回収する。
 収容所による検印が捺されていないためにその手紙類は非合法で、監視員の探索で発見されれば、没収され、廃棄されただろう。
 レフは分離地区へと入れられて制裁を受けるか、第三コロニー〔植民地域〕へと移送されるだろう。第三コロニーの生活条件はぞっとするようなもので、規則にもう一度違反すれば、懲罰警護車両で送られた。
 Yakhovich は手紙類の束をきつく詰めて上着の内部に隠し、収容所を出る途中にある主要監視小屋へと向かった。
 しかし、監視員は上着のふくらみに気づいた。
 監視員はYakhovich を止めて、それは何かと訊ねた。 
 Yakhovich は答えた。「何て?、これ? ただの紙だよ」。
 監視員は「見せろ」と言った。 
 Yakhovich は、手紙類の束を取り出した。
 監視員は「いや、手紙じゃないか」と言った。 
 Yakhovich は言った。「そうだ。それで何か(so what)?」
 「誰かがこれを投げ捨てた。それで、私はこれを掴んでトイレ区画へ行って、紙として使うつもりなんだ」。
 監視員は手で合図して、通過させた。
 (18) 密送者のネットワークが大きくなるにつれて、レフは、検閲を避ける自信をいっそうもち、ますます率直に手紙を書き始めた。
 この新しいやり方で彼が書いた最初の問題は、数ヶ月間悩んでいた事案に関係していた。すなわち、Strelkov に対する確執で、これは、収容所での人間の性質の暗い側面を晒け出すものだった。
 鉱山技師としての専門的能力によって、Strelkov は実験室の長としての高い地位を得た。実験室で木材工場での生産方法を試験し、制御した。
 他の誰も、彼の仕事をすることができなかった。
 しかし、自分の道を進む彼の「頑固な粘り強さ」(レフの言葉)によって、収容所幹部の何人かが彼から遠ざかった。彼らは、自分たちが生産計画を達成する圧力をかけられているときに、たんなる一収監者によって可能なこと、または不可能なことを告げられることが不愉快だった。
 1943年、Strelkov は、ペチョラ鉄道森林部の副部長だったAnatoly Shekhter と衝突した。Strelkov は、技術基準に適合していない資材を使って建設することを止めさせた。
 この問題はついには収容所当局の最上部にまで達したが、Strelkov が支持された。
 しかし、Shekhter はこの事件を忘れず、それ以来ずっと、Strelkov が行なった全てについて落ち度を見出そうとして、迫害した。
 (19) 1946年12月、Shekhter は作業を監察するために木材工場で数週間を過ごした。
 乾燥室の長—Gibash という名の収監者で、レフによると「嘘つきでペテン師」だとみんなが知っていた—は、自分の経歴のためにこの機会を利用しようとし、悪意をもってStrelkov を非難し咎める文書を書いた。それによると、実際には乾燥しているのに乾燥していないという理由で、作業のために材木を提供することを、Strelkov は拒んでいる。 
 Gibash は検査を求めて近傍の実験所に材木の見本を送り、その実験室は乾燥していると認定した。送る前に彼が自分で乾燥させた、と広く疑われたけれども。 
 Strelkov は、この非難—大テロル時代の用語法では、彼は乾燥した材木の供出を破滅的に遅延させて、工場の計画を破壊した、という非難—にもとづいて解任され、「怠慢(sabotage)」の罪を問われて、MDVの前に引っ張りだされた。 
 Strelkov は技術統制部に対して異議を申し立て、多数の材木標本が試験され、その結果として、自分の地位を回復した。
 しかし、Gibash は、別の訴追原因を見つけた。そしてこの事件は1947年の初めの数週にまで引き摺られた。
 この当時、レフはスヴェータにこう書き送った。
 「これについて、書きたくはありません。とても悲しいことです。でも、これを分ち合えるただ一人はきみです。…
 いったい何が、同じような地位にいる他人の破滅を望ませるのでしょうか? 
 Gibash は絶対に人間ではない。彼はとっくに、そのような言明をする権利を失っている。…
 この長い期間ずっと、僕はStrelkov の平静さと自己抑制を本当に尊敬していた。
 ときどき僕は、彼の妻か娘さんに手紙を出して、彼女らには何と素晴らしい人がいるのかと語りたくなる。
 もちろん、そんなことは馬鹿げている。彼女たちは誰よりもそれを知っている。だから、無分別なくしてそんなことをやり遂げないだろう。
 でも、僕はやはりそうしてしまうのではないか、と怖れています。 
 Strelkov の娘さんは、鉄道技術モスクワ国立大学の学生で、その夫、赤ん坊の子息、母親と一緒にプラウダ通りに住んでいます。
 当局はStrelkov に関して何かをするでしょう。でもゆっくりすぎて、誰に有利に決定するのかを知っているのは神だけです。
 最も理想的な人々がときには、最も暗い道へと入り込むのを強いられます。—僕は全く懐疑的になって、過去だけを信頼しています。」
 良い知らせが1月28日にやって来た。ペチョラ収容所管理機関がAbezで、Strelkov を復職させる決定を下したのだ。
 数週間後、Gibash は、さらに北方にある石炭地域であるVolkuta へと送られた。
 (20) Strelkov 事件は、レフの心の内部に何かを解き放った。
 彼はスヴェータに、より率直に収容所の生活条件について考えていることを書き記し始めた。
 レフを最も動揺させたのは、収容所システムがほとんど全員に対して最悪のものを生じさせた、そのあり様だつた。小さな対立関係や敵愾心が、窮屈な生活条件と生き残ろうとする闘いによって増幅した。
 悪意がわだかまり、容易に暴力へと転化した。
 レフは3月1日に、こう書き送った。
 「僕の大切なスヴェータ、事態の全てについて語る必要がある。
 スヴェータ、きみを愉しませるものを多くはもっていない。たぶん、これを決して書くべきではないのだろう。
 きみはかつて、不快な文章をお終いにするのは必ずしも良くはなく、その必要もない、と言った。
 でも、書き始めたので、書いて終えてしまう必要がある。
 耐えるのが最も困難なのは決して物質的な苦難ではない、ということが分かりますか?
 二つの別のことだ。—外部の世界と接触できないということと、僕たちの個人的な状況の変化は、いつでも予期せぬかたちで生じ得るということ。
 明日何が起きるのか、僕たちには分からない。一時間後のことについてすら。
 きみの公的な地位は変化し得る。あるいは、いつの瞬間にでもどこか別の場所に、ほんの些細な理由でもって、送られるということがあり得る。ときには、何の理由も全く存在しないかもしれない。 
 Strelkov 、Sinkevich(この人は今日去った)、そして多数の他の者たちに起こったことが、このことの証拠だ。
 ふつうの生活では全てのことが誇張されるのだから、これは興味深い(悲劇的な意味で)。
 人間の欠点や弱所と人々の諸行為の結果は、莫大な重みをもつ。
 もちろん美点もある。でも、それはふつうの状況では始めるのに大きな役割を果たさないのだから、ここでは美点ははるかに稀少になって、消失し始めるほどだ。
 悪意は敵愾心に変わり、敵愾心は激しい憎悪のかたちをとる。そして、慈悲深さは無意味なものになり、ひいては何らかの罪へと導く。
 ぶっきらぼうが侮辱となり、疑念は中傷となり、金銭横領は強盗になる。義憤は憤激となり、ときには殺人にまで至る。
 どんな少しでも明確な活動であれ、利己的な視点と世間的な視点のいずれからも、不適切かつ不必要なものになる。
 人が望むことのできる最大のものは、全く退屈な何かだ。辺鄙な片田舎の劇場の案内係の職務のような。その仕事は、個人的生活のために一日あたり少なくとも16時間をきみに残し、少しばかりの金銭も与える。…
 ああ、スヴェータ、今日はとても日射しの好い日なので、僕が書いた馬鹿げたことなど全て、誰の役にも立たない。」
 (21) 「どこか別の場所に移送されること」、これがレフの大きな恐怖だった。
 これは、条件がもっと悪い別の収容所または森林植民地区へと出発する懲罰車両によるものを意味した。
 レフは、「物質的苦難」ではなく、「外部の世界との接触」ができなくなることを怖れた。後者は、スヴェータを意味した。
 警護車両では、監視員は必ず彼の物(「全てが消失する。—印刷物、文書資料、手紙、写真」と彼は彼女に説明した)を奪う。そして、彼は何も書くことができない場所で最後を迎えるかもしれなかった。
 これは、スヴェータが恐れたことでもあった。—いつどの瞬間にでも、レフが消えるかもしれない。そうなれば、彼女はレフと接触できなくなる。
 毎月、木材工場を出発する警護車両があった。
 収容所運営者はその車両を、特定の収監者たちを懲罰し、危険だと判断した集団を破壊するために用いた。
 ある収監者が車両移送へと選抜されるか否かは、通常は恣意的に決定された。また、しばしば監視員または管理員がその者を嫌ったことによるにすぎなかった。
 (22)  病気になること、これがレフのもう一つの恐怖だった。
 他の収容所またはコロニーから収監者たちが到着することは—彼らは「ほとんどつねに体調がはるかに悪く見え、おそろしく不健康だった—、簡単に病気になることがあることを、彼に思い起こさせるのに役立った。
 「栄養障害—衰弱—は、我々の収容所でふつうのことです。
 壊血病もあります。でも、ある程度の対処法と経験があり、夏は緑に覆われますから、相当に御し易い。きみがレモンを齧ってビタミンCを摂れなければ、松葉やいろいろな種類のハーブに十分な量があります。きみは、このことを憶えておく必要がある。
 冬の間は、きみのタブレットをよく服用し、何人かの友人にあげます。
 Anisimov は残りを使い果たしてしまっています。彼は少し壊血病でしたが、今は良くなりました。
 きみのタブレットがどれほど助けになっているか、分かって!! 」
 もしレフが病気になれば、すみやかには回復しそうになかった。かりにもしも、工場の診療所に入ったとしても。
 診療所には一人の医師しかおらず、薬品や食料はほとんどなかった。病気患者用の供給品は、監視員によって決まって盗まれたからだ。
 ——
 第5章②、終わり。

2257/池田信夫ブログ019-遺伝・環境・自己。

 池田信夫ブログマガジン8月24日号(先週)は①技術は遺伝するか、②国民全員PCR検査がもたらす「アウシュヴィッツ」、③新型コロナは「一類相当」の感染症に格上げされた、④名著再読:例外状態、のいずれも、関心を惹く主題で、密度が濃い。
 上の①の一部についてだけ「引っかかって」、それに関連する文章を書く。
 つぎの一文だ。すでになかなか刺激的だ。
 「獲得形質は遺伝しない、というのは中学生でも知っている進化論の鉄則である

  先祖が<偉い>からその子孫も<偉い>のかどうか。
 万世一系の天皇家の血は「尊い」という意識の適否に関する問題には触れないでおこう。
 だが、例えば源頼朝は伊豆に流されても「貴種」として大切にされた、といわれるように、かつては「親」がどういう一族・身分かは「子」にとって決定的に重要だった。
 そんな意識・感覚がまだ残っている例がある。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)は、重要人物として登場させる小田村寅次郎について、何と少なくとも四回も、小田村は<吉田松陰の妹の曾孫>だった、とわざわざ付記している。一度くらいは当該人物の係累紹介として言及してよいかもしれないが、四回は多すぎる。しかもまた、文章論理上、全く必要のない形容表現なのだ。
 これが、吉田松陰一族関係者だととくに書くことによって(小田村は吉田松陰ではなくその妹の「血」を直接には引いているのだが)、小田村寅次郎の評価または印象を高めるか良いものにしようという動機によるだろうことは明らかだ。
 なお、その影響を受けて、この書に好意的な結論的評価だけを与えた知識人・竹内洋(京都大学名誉教授)もまた、小田村について吉田松陰の係累者だとその書評の中でとくに書いている。
  獲得形質は遺伝しないのではなく遺伝し、かつまた生来(生得)形質も「子」に遺伝する、と多くの人が考えた国や時代もあった(ある)ようだ。
 北朝鮮では全国民が十数の「成分」に区別されている、という話を読んだことがある。あるいは、「成分」の違いによって、国民は十数に分類されている。
 日本帝国主義と戦った勇士の子孫から、旧日本協力者あるいは「資本家」の子孫まで。日本育ちか否かも考慮されるのかもしれない。これは、「親」の職業・地位・思考は「子」に遺伝する、という考えにもとづくものと思われる。
 かつてのソヴィエト連邦でも、少なくともスターリン時代、革命前の「親」の職業はその子の「思想」にも影響を与えると考えられたと見られる。
 ブルジョアジー・「資本家」(・富農)の「子」はその思想自体が<反社会主義>だと考えたのだとすると、「遺伝」を肯定していたと見てよいのではないか。
 上のことを側面から強く示唆する件が、自然科学・生物学・遺伝学の分野であった。<ルイセンコ事件>とも言われる。
 L・コワコフスキによると(2019/02/21、No.1921の試訳参照)、ルイセンコ(Lysenko)は「遺伝子」・「遺伝という不変の実体」は存在せず、「個々の生物がその生活を通じて獲得する特性はその子孫たちに継承される」と出張した。この考えは雑草のムギ化やムギの栽培方法の改革(「春化処理」)による増産、そして農業政策に具体的には関係するものだったが、1948年には党(・スターリン)の「公認」のものになった。
 参照、L・コワコフスキ著試訳/▶︎第三巻第四章第6節・マルクス=レーニン主義の遺伝学
 池田のいう「中学生でも知っている進化論の鉄則」をソ連共産党やスターリンは少なくともいっときは明確に否認していたわけだ。
 この否定論は、人間全改造肯定論であり、人間の改造、思想改造(・洗脳)は可能だ、そしてそれは子孫にも継承させうる、という考え方となる。
 「獲得形質」の強制的変更によって将来のヒト・人間も<変造>できる、というものだ。数世紀、数十世紀にわたっての自然淘汰、<変化>はありうるのだろうが、人間の、特定の「権力」の意思・意向による人間の「改造」論こそ、マルクス主義、あるいは少なくともスターリン主義の恐ろしさであり、このような<人間観>こそ、「暴力革命」容認とやら以上に恐ろしいイデオロギーではないだろうか。
 ルイセンコ説はソ連末期には否定されたが、フルチショフによる寛大な対応もあったとされ、かつまたこの説は、日本の生物学界にも影響を与えたらしい。
 戦後の民主主義科学者協会(民科)生物部会はルイセンコに好意的で、そのような説を説いた某京都大学教授もいた、とされる。ソ連の<権威>によるのだろうから、怖ろしいものだ。
 なお、ほとんど読んでいないが、つぎをいつか読みたい。
 中村禎里/米本昌平解説・日本のルイセンコ論争(新版)(みすず書房、2017)。計259頁。
  J・ヘンリック/今西康子訳・文化がヒトを進化させた-人類の繁栄と<文化・遺伝子革命>を取り上げての池田信夫の文章に少し戻る。
 リチャード・ドーキンス・利己的遺伝子(邦訳書、40周年版・2018)を読んでいないし、文化的遺伝子(ミーム)のこともよく分からない。但し、技術や文化をヒト・人間が生むととともに、そうした技術・文化自体がヒト・人間を「進化」させ、変化させたことも事実だろう。
 しかし、言葉や宗教・道徳の発生を含むそうした「進化」・変化はそれこそ数万年、数千年単位で起こったものだろう。それもまた「獲得形質の遺伝」と言えなくもないとしても、「技術は遺伝するか」(あるいは文化・宗教は遺伝するか)というように、「遺伝」という言葉・概念を用いるのは、やや紛らわしいのではないかと感じる。
 

2216/R・パイプス・ロシア革命第12章第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 第9節・影響と意味(effects and implications)。
 (1)立憲会議の解散は、驚くべき無関心さで迎えられた。
 1789年には、バスティーユ襲撃を予期してルイ16世が国民議会を解散しようとしているとの風聞は、大きな憤激を生じさせた。しかし、そのようなものは、どこにもなかった。
 一年の無秩序状態(anarchy)のあと、ロシアは消耗していた。人々は、どのような方法で獲得されようとも、平和と秩序を乞い願っていた。
 ボルシェヴィキはそのような雰囲気に賭け、そして勝った。
 1月5日以降、権力を放棄するようレーニンを説得することができるとは、もはや誰にも考えられなかった。
 またそれ以降、ロシアの中央部には、影響力ある反ボルシェヴィキの武装対抗派が存在しなかった。そして、社会主義知識人は言いたくないことだが、常識的には、ここにボルシェヴィキ独裁が定着した、と叙述することができる。
 (2)直接の結果は、各省庁や民間企業の事務系就労者たちのストライキが終わったことだった。彼らは1月5日以降は、仕事へと押し戻された。ある者たちは個人的な必要に迫られて、ある者たちは、内部から事態に影響を与えることができる方がよいと考えて。
 反対派たちの心理はこのとき、致命的に砕かれていた。
 まるで、残虐性と国民の意思の無視が、ボルシェヴィキ独裁を正当化しているかのごとくだった。
 国全体が、混沌の一年のあとでやっと「本当(real)」の政府ができた、と感じた。
 このことは確実に農民や労働者大衆については言えたが、しかし、逆説的にも、<プラウダ>の言う「資本のハイエナ」や「人民の敵」である富裕層や「保守」的な人々についても当てはまった。この人たちは、ボルシェヴィキを軽蔑する以上に、社会主義知識人や街頭の群衆を侮蔑していたからだ。(*)
 ある意味では、ボルシェヴィキは1917年10月にではなく1918年1月にロシアの政府となった、と言ってよいかもしれない。
 当時のある者の言葉によると、「真正の、純粋なボルシェヴィズム、広範な大衆のボルシェヴィズムは、1月5日の後で初めて生まれた」。(130)
 (3)実際に、立憲会議の解散は、多くの点で、「全ての権力をソヴェトへ」という煙幕に隠れて実行された十月のクーよりも重要な意味をもった。
 ボルシェヴィキ党員を含むほとんど誰に対しても十月の目的は隠されたままだったとすると、その一方で1月5日以後に関するボルシェヴィキの意図は、疑いようがなかった。そのとき、人民の意思には気を配らないと考えていることを、ボルシェヴィキは間違いなく明確にしていたのだった。
 彼らは、字義通りの意味で、人民は「人民(people)」であるがゆえにその声を聴く必要がなかった。(**)
 レーニンの言葉によると、こうだ。「ソヴェト権力による立憲会議の解散は、革命的独裁の名による形式的民主主義の、完全なかつ公然たる廃絶だった」。(131)
 (4)民衆一般および知識人のこの歴史的事件に対する反応が予兆したのは、国の将来の悪さだった。
 もう一度事件を確認するならば、ロシアに欠落していたのは国民的結束の感覚だった。この意識があれば、善なる共通利益のために当面のかつ個人的な利益を断念しようと、国民は奮い立つだろう。
 「人民大衆」が示していた気持ちは、私的で地域的な利益、<duvan>の昂奮する愉しみだけを理解することができる、それらは当分の間はソヴェトと工場委員会によって充足されている、というものだった。
 「棒切れをひっ掴む者は伍長だ」というロシアの箴言と合致するように、彼ら人民大衆は、最も大胆で最も残虐な要求者に、権力を譲り渡した。//
 (5)証拠資料から明らかになるのは、ペトログラードの工業労働者たちは、ボルシェヴィキに投票した者たちであってすら、立憲会議が開かれて国の新しい政治的経済的諸制度を策定していくだろうと期待していた、ということだ。
 <プラウダ>が労働者の支持について不満を書いてはいたが、立憲会議防衛同盟の多様な請願書への彼らの署名によっても、このことは確認される。(132)また、立憲会議が招集される直前にボルシェヴィキが労働者に向けて発した、脅威と結びつける逆上しているがごとき訴えによっても。
 だがしかし、火を噴くことを躊躇しない銃砲に支えられて立憲会議を殺そうとする、ボルシェヴィキの断固たる決意に直面したとき、労働者たちの気持ちは挫けた。
 これは、抵抗するなと熱心に説いた知識人たちに裏切られたのが理由だったのだろうか?
 かりにそうであれば、帝制に反対した革命での知識人たちの役割は、思い上がった慰めだった、ということが際立ってしまうことになる。つまり、自分たちの刺激によらなければロシアの労働者は政府に立ち向かおうとしない、という思い上がりがあったように見える。//
 (6)農民たちについて言えば、彼らは大都市で進行している事態について全く関心がないというわけではなかった。
 社会革命党の煽動活動家たちが投票するように言い、そして彼らは投票をした。
 だが、「白い手」の別のグループが奪取したのであったとして、どんな違いがあっただろうか?
 彼らの関心は、その<volosti>の境界内の外には広がっていなかった。
 (7)こうして、社会主義知識人たちは選挙で確実な勝利を獲得してきたので国は従ってきていると自信をもって行動することができたのだが、その知識人たちが取り残された。
 トロツキーはのちに、社会主義知識人たちを嘲弄した。彼らはタウリダ宮に、ボルシェヴィキが権力を投げ棄てた場合に備えてキャンドルを、食料を奪われた場合に備えてサンドウィッチを持って来ていた。(133)
 だが、彼らは銃砲を携帯しようとはしなかった。
 立憲会議の招集の直前に、社会革命党のP・ソロキン(Pitirim Solokin)(のちにハーヴァード大学の社会学教授)は、立憲会議が実力でもって解散される可能性について論じて、こう予言した。
 「開会した会議が『機関銃』に遭遇すれば、我々はそのことを知らせる訴えを発し、我々を人民の保護の下に置くだろう」。(134)
 しかし、彼らには、そのような素振りについてすら、勇気が欠けていた。
 立憲会議の解散のあと、兵士たちが社会主義派代議員に近づいて来て、武装した実力行使でもって回復しようと提示したとき、恐れ慄いていた知識人たちは、その種のことは何もしないで欲しいと懇願した。
 ツェレテリ(Tsereteli)は、内戦を引き起こすよりは、立憲会議が静かに死んだ方がよかっただろう、と言った。(135)
 危険を冒そうとしない者たちは、つぎのようだ。すなわち、革命と民主主義について際限なく語る、しかし言葉と素振り以外によっては自分たちの理想を防衛しようとはいない。
 このような矛盾する行動、歴史の勢いに服従するふりを装う無気力さ、戦って勝利しようとする気がないこと、これらを説明するのは簡単ではない。
 その合理的な答えはおそらく、心理学(psychology)の領域に求めなければならない。-すなわち、チェーホフが巧みに描いた古いロシア知識人の伝統的態度であり、成功することを怖れ、非能率は「主要な美徳であって、光輪(halo)だけには勝つ」という信条をもっていることだ。(136)
 (8)1月5日の社会主義知識人の屈服は、その知識人たち自身の崩壊の始まりだった。
 武装抵抗の組織化を試みてできなかったある人物は、こう観察した。
 「立憲会議を守ることができなかったことは、ロシアの民主主義の最も深刻な危機だった。
 これが、分岐点だった。
 1月5日より後では、理想主義に執心するロシア人知識人がそのために存在する場所は、歴史上、ロシア史上に存在しなかった。 
 過去の存在として葬られたのだ。」(137)
 (9)対抗派の者たちとは違って、ボルシェヴィキはこの事件から多くのことを学んだ。
 武力で統制下に置いた地域では、組織されていない武装抵抗を怖れる必要がある、と分かった。
 彼らの対抗者たちは、民衆の少なくとも4分の3から支持されてはいたが、団結をせず、指導者がおらず、そして何よりも、戦う気概がなかった。
 この経験は、ボルシェヴィキが暴力に訴えるのに慣れさせることとなった。その暴力行使はもちろん、抵抗に遭遇すればいつでも、その抵抗を惹起した者を肉体的(physical)に殲滅することによって問題を「解決」する、ということを意味した。
 機関銃は、ボルシェヴィキが用いる主要な政治的説得の道具となった。
 彼らがそれ以来ロシアを支配した抑制なき残忍性は、相当の程度で、1月5日に彼らが得た、安心してこれを用いることができる、という知識から生じた。//
 -------------
 (*) 1918年5月1日、最も反動的な革命前からの政治家のV・プリシュケヴィチ(Vladimir Purishkevich)は公開書簡を発表して、こう書いた。ソヴェトの牢獄で半年過ごした後で、自分は君主制主義者のままであり、ロシアをドイツの植民地に変えたソヴェト政権に対して何ら釈明することはない。
 彼は続ける。「ソヴェト権力は堅固な権力だ。-ああ、しかし、私がロシアに作ろうとした堅固な権力の方向から生まれたものではない。ロシアの惨めで臆病な知識人層が、我々が蒙っている屈辱の主犯者だ。また、ロシア社会に統治の識見をもつ健全で堅固な権力を生み出すことができない、その主犯者だ。
 1918年5月1日付手紙、VO, No. 36(1918年5月3日), p.4. 所収。
 (130) Solokov in ARR, XIII, p.54.
 (**) このような姿勢をマルトフは1918年春に指摘した。そのときスターリンは誹謗中傷罪だと彼を非難して、革命審判所の前に立たせた。
 革命審判所はもっぱら「人民に対する罪」を裁くために設置されたと通告されて、マルトフは、「スターリンへの侮辱は人民に対する罪だと考えられるのか?」と尋ねた。
 そして自分でこう回答した。「スターリンは人民だと考える場合にだけだ」。
 "Narod eto ia", Vpered, 1918年4月1日/14日, p.1.
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (131) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (132) E. Iganov in PR, No. 5/76(1928年), p.28-p.29.
 (133) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (134) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.323.
 (135) V. I. Ignatev, Nekotorye fakty i itogi chetyrekh let grazhdanskoi voiny(Moscow, 1922), p.8.
 (136) D. S. Mirsky, Modern Russian Literature(London, 1925), p.89.
 (137) Sokolov in ARR, XIII, P.6.
 ----
 第9節、終わり。次節・最終節の目次上の表題は、<労働者幹部会の運動>。

2210/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定①。
 (1)嫌がらせと威嚇では、立憲会議に関して何をすべきかという悩ましい問題を解消することはできなかった。
 ある者は、実力行使に訴えることを望んだ。中央委員会委員のV・ヴォロダルスキ(Volodarskii)は立憲会議選挙の一週間前に、こう言った。-「とりわけロシアの民衆は議会病(- cretinism)に罹っていない」。そして彼は、立憲会議は解散されるべきかもしれない、と示唆した。(101)
 ニコライ・ブハーリンは、自分には別の考えがあると思った。
 11月29日、ブハーリンは中央委員会に対して、カデットは立憲会議から除外されるべきだ、そして、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員たちは革命議会(Revolitionary Convention)設立を宣言する、と提案した。その際に参考にしていたのは1792年のフランス議会で、これは立法会議(Legistrative Assemly)に代わるものだった。
 「かりに敵対派たちが開会するならば、逮捕する」、と彼は説明した。
 スターリンは、この提案を、実行不可能だという理由で、軽くあしらった。(102)//
 (2)レーニンには、別の解決策があった。
 立憲会議を招集させて、左翼エスエルを宥める。そして、より従順な機関を獲得すべく、その党員たちを操作する。
 これは「リコール(解職請求)」、「本当(genuine)の民主主義の基本的で最も重要な条件」に訴えることによって、行われることとなる。(103)
 こうすることで、望ましくない代議員を選出した選挙区では、リコールするよう、そしてボルシェヴィキと左翼エスエルに置き代えるよう、催促されることとなる。
 しかし、これは良くても遅い手続であり、これか実行されている間に、立憲会議は、敵対的革命家たちの全ての提案を通過させるだろう。//
 (3)レーニンはこの問題について、12月12日に最終的に決意を固めた。左翼エスエルと協定に達した直後のことだった。
 レーニンの決定は、「立憲会議に関するテーゼ」という表題で、翌日の<Pravda>に掲載された。(104)
 これは、立憲会議に対する死刑判決だった。
 レーニンの議論の要点は、政党構成に生じた変化、とくに社会革命党の分裂、階級構造の転位、および「反革命」の勃発、だった。これら全てが、人民の意志を表明するものとしては選挙を無効のものにしている、とした。//
 「事態の進行と革命における階級戦争の展開は、『全ての権力を立憲会議へ』というスローガンを、…実際にはカデットとカレーディン一派、およびその支援者たちのスローガンに変える、という状況をもたらした。
 このスローガンが実際にはソヴェト権力を除去するための闘争を意味し、また立憲会議がソヴェト権力から分離されたものになれば、立憲会議は不可避的に政治的な死を宣告されることになる、ということが、ますます明瞭になっている。
 立憲会議に関する問題を形式的かつ法的な観点から考察しようとする試みは全て、直接的にであれ間接的にであれ、…プロレタリアートの根本教条に対する裏切りであり、ブルジョアの観点へと移行することを意味する。」<+++>//
 この議論には、理にかなったものは何もなかった。
 立憲会議選挙は10月26日の前にではなく、11月の後半に実施された。-わずか17日前のことだ。12月1日にレーニンが人民の意思の「完璧な」反映だと評価したものを無きにするものは〔12月12日までの〕その間には何も発生していなかった。
 立憲会議の第一の勝利者はカデットではなく、また確実にコサック将軍アレクセイ・カレーディンの支持者たちではなかった。カレーディンは軍事力によってボルシェヴィキ体制を覆そうとしていたが、社会革命党はそうではなかった。
 レーニンがそれを支持して語ろうとする「全人民」は、多数の民衆が投票所に出かけることによって、立憲会議は反ソヴェトだとは考えておらず、希望と期待をもって立憲会議を見つめている、ということを示した。
 そして、立憲会議はソヴェトによる統治に反対するものだとの主張について言えば、権力を掌握するわずか7週間前に、同じボルシェヴィキがソヴェトだけが立憲会議の招集を保証すると強く主張していたことを忘れることができたのは、記憶力がきわめて乏しい者たちだけだっただろう。
 だがここでは、いつものように、レーニンの議論は論定であって説得しようとするものではなかった。この論考の最後の辺りに出てくる鍵となる語句は、立憲会議をこれ以上支持することは裏切りに等しい、というものだ。//
 (4)レーニンはさらにこう書いた。立憲会議は代議員たちが「リコール」に従う場合にのみ-つまり、その構成が政府によって恣意的に変更されることに同意する場合にのみ-、開催されることができる。そして、立憲会議がさらに、無条件で「ソヴェト権力」を-つまり、ボルシェヴィキの独裁を-承認する場合にのみ。
 「これらの条件を度外視するならば、立憲会議に関係している危機は、革命的方法によってしか解決することができない。その革命的方法とは、ソヴェト権力の側による、最も活力があり、急速でかつ堅固な、決定的な方法だ。…。
 ソヴェト権力の手を縛ろうとする全ての試みは、反革命の共謀者であることを意味するだろう。<+++>
 (5)ボルシェヴィキは、このような趣旨の条件のもとで、少なくとも400名の代議員が現れた場合に、立憲会議が1918年1月5日/18日に開催されることに同意した。
 同時にボルシェヴィキは、その3日後(1月8日/21日)に第三回ソヴェト大会を招集するよう、指令を発した。
 (6)ボルシェヴィキは、騒々しいプロパガンダの運動を開始した。その主題について、ジノヴィエフは12月22日のCEC に対する演説で、こう述べた。
 「『全ての権力を立憲会議へ』という有名なスローガンのもとで立憲会議を招集するという口実の裏に、『ソヴェトよ、くたばれ』という重要なスローガンが隠されている、ということを我々は十分に知っている。」(105)
 ボルシェヴィキは、1918年1月3日にCECにこの提議を採択させて、公式のものとした。(106)//
 (7)立憲会議支持者たちは、力を再結集していた。
 彼らは、あらかじめ通告されていた。
 しかし、ボルシェヴィキの脅かしに対抗しようとする際、嘆かわしい、実に致命的な不利な条件(handicap)に置かれていた。
 彼らの目からすると、ボルシェヴィキは民主主義を破壊し、統治する権利を喪失していた。
 しかし、実力の行使によってではなく世論の圧力によって、ボルシェヴィキは排除されなければならなかった。なぜなら、社会主義諸党間の仲間うちの対立で利益を得るのは、ただ「反革命」だろうからだ。
 12月までに、ペトログラードにいる者たちは、ドン地域では将軍たちが兵を集めていることを知った。その目的は革命を転覆させ、全ての社会主義者を逮捕して、おそらくはリンチを加えることに他ならなかっただろう。
 これは彼ら社会主義者にとっては、ボルシェヴィキを選ぶよりもはるかに悪いことだった。ボルシェヴィキは純粋で、見当違いでなければ、革命家だった。確かに、衝動的すぎで、権力を欲しがりすぎで、乱暴でありすぎた。しかし、同じ方向への努力をする点では依然として「同志」だった。
 また、ボルシェヴィキには大衆の支持があることを無視できなかった。
 民主主義的左翼は、当時およびその後10年間、ボルシェヴィキは遅かれ早かれ、独りではロシアを統治できないことに気づくだろう、と確信していた。
 このことに彼らがいったん気づいて社会主義者たちと権力を共有するよう誘うならば、ロシアは再び民主主義に向かう進歩を取り戻すだろう。
 このような政治的成熟には時間がかかるだろう。しかし、そうなるに違いない。
 ボルシェヴィキに対する抵抗は、このような理由で、平和的なプロパガンダや煽動行為に限定されなければならなかった。
 ボルシェヴィキがおそらくは本当の反革命家たちになる可能性を想定したのは、主として旧世代の、数人の左翼知識人たちだけだった。
 社会革命党とメンシェヴィキの指導者たちは、ボルシェヴィキは隊列を組む異端の同志だと見なすことをやめなかった。
 彼らは自信をもって、事態が変わるときを待った。
 そうしている間、ボルシェヴィキは自分たちが外部から攻撃されるときはいつでも、彼らの側に寄って頼みとすることができた。//
 (8)立憲会議防衛同盟は、自分たちのプロパガンダ運動を開始した。
 数十万の新聞と冊子を印刷し、配布して、なぜ立憲会議は反ソヴェトではないのか、なぜ立憲会議だけが国の基本法制を策定する権利を持つのか、を説明した。(107)
 また、首都や地方諸都市で示威行動を展開して、「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかけた。
 ボルシェヴィキに票を投じた者たちを含む兵士や労働者たちから、立憲会議を擁護する署名を得ようと、兵舎や工場へも活動家を派遣した。
 労働組合やストライキ中の公務員とともにこの活動を組織していた社会革命党とメンシェヴィキは、実証されている大衆的支援はボルシェヴィキが立憲会議に対して実力を行使するのを阻むだろうと、明らかに希望していた。//
 -------------
 (101) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.231.
 (102) Protokoly TsK, p.149-p.150.
 (103) Lenin, PSS, XXXV, p.106.
 (104) 同上, p.164-5, p.166.〔=日本語版レーニン全集26巻「憲法制定会議についてのテーゼ」388頁以下〕
 <+++試訳者注記> 日本語版レーニン全集第26巻同上、391-2頁.
 (105) Protokoly TsK, p.175.
 (106) Znamia truda, No.111(1918年1月5/18日), p.3.
 (107) N. Rubinstein, Bol'sheviki i Uchreditel'noe Sobraine(Moscow 1938), p.76.
 ----
 第7節②へとつづく。

2186/レフとスヴェトラーナ-第2章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 これはフィクションまたは「小説」ではない。
 ---
 第2章②。
 (15) オーシャッツの生活条件は、その冬に劇的に悪くなった。
 労働時間は増えたし、監視員が疲れ果てた収監者をもっと労働させて搾り取るために、鞭打ちを行った。
 1943年の1-2月には、新しい捕虜の一群が労働旅団に入って来た。
 彼らの多くはウクライナ出身だった。ウクライナでは、1930年代のテロルと飢饉によってソヴィエト制度から多くの民衆が離れていて、このときはドイツ軍が占領していた。
 彼らが到着したすぐ後で、収容所体制が柔軟になった。それは、捕虜たちから募って、A・ウラソフ(Andrei Vlasov)が組織している反ソヴィエトのロシア解放軍に加入させようとするドイツ軍の努力の一つだった。
 ウラソフは、赤軍の前の将軍だったが、1942年7月にドイツ軍に捕らえられ、ナツィスに対して、自分を解放運動の長に任命するよう説得した。共産主義体制を一掃することを目指してのことだ。
 ウラソフがオーシャッツで募った者たちのグループがあり、そのほとんどは戦前の「明確ではないがドイツ製のではない制服を着ている」ロシア人エミグレだった。そうレフは思い出した。また、彼らは多数ではない、ソヴィエトの青年将校たちだった。
 その将校たちはロシア解放軍に入っていた。但し、主としては捕虜強制収容所の恐るべき条件から逃れるためにそうしたようにレフには思えた。というのは、その収容所で、ソヴィエトの収監者たちは「きわめて苛酷に扱われ、他のどの国の収監者よりも自己防衛の権利または手段を持たなかった」。//
 (16) レフは何度も呼び出されて、ドイツ軍とウラソフ募兵員から、ロシア解放軍に将校として加わるよう圧力を受けた。
 そのたびごとに、レフは拒絶した。
 ドイツは彼を疑うようになった。
 彼らはレフに、HASAG 収容所での通訳としての活動について尋ね始めた。
 こうした尋問の一つがあったときのタバコ休憩の間に、ドイツ人用の通訳者がレフを廊下の端まで連れて行って、ウラソフの徴兵の失敗はレフに責任があるとドイツ側は考えている、と警告した。
 収容所内のレフの作業チームは、その中で一人すらもウラソフ軍に応募しないチームだった。その作業チームの唯一のソヴィエト将校だったレフに、疑いが向けられていた。//
 (17) レフは、逃亡する必要がある、と認識した。
 旅団の中の他の三人の収監者も、同じことを考えた。
 彼らは、〔1943年〕6月に企てを実行することに決めた。そのときには収穫物は大きくなっていて、150キロ離れたポーランドへの行路で食糧を恵んでくれるだろう。ポーランドでは、その民衆たちが彼らに同情して、食糧をくれるだろう。
 彼らの計画は、ベラルーシにいるソヴィエト・パルチザンに合流することだった。
 準備のために、彼らは、乾パンと砂糖を節約して貯めた。
 レフはコンパスを作り、ドイツ監視員の一人から借りた地図を写し取った。そのドイツ人は自分の家族についてレフに話したり、週末にどこへ行ったかを語るのが好きだった。
 彼らは何とかして、薬すらも手に入れた。レフが注意深く自分の指を切り、ロシア人捕虜の医師がいる収容所の診療室に送った。
 その医師は何も訊かないで、消毒薬、アスピリンとバンドエイドが欲しいというレフの求めに応じた。//
 (18) レフたちは、1943年6月22日の夜に逃亡した。その日は、ドイツによる侵攻二周年の日だった。
 外衣をすでに少しは脱いで、彼らは兵舎の窓から上に昇り、中庭の壁を目測した。そして、頂上部の有刺鉄線を、レフが作業場で作った二つの尖った金属片を使って通り抜けた。
 収容所の外の野原に飛び降りて、暗闇の中を森へと走り込んだ。
 四人は、北に向かった。ドイツ軍は先ず東の方を探索するだろうと想定したからだ。
 夜は歩き、日中は隠れた。
 彼らがもつ地図は、きわめて粗いものだった。-写し取った原図は小学校の教科書に掲載のものだった。そのために、道路標識を手がかりにして進まなければならなかった。
 エルベ河に到達したとき、レフが泳いで横切るのをひどく怖がったので、河に沿って東に向かった。そして、ドレスデンの南を回って、ポーランドへと東に歩き続けた。
 レフは思い出す。
 「乾燥させた食べ物を持ってはいた。だがすぐに、それを予備に残して、農家の屋外の小屋から盗んで食べることに決めた。<中略>
 間違っていると私は最初は思ったが、それに同意した。」
 途上の三週間後に、ポーランド国境のゲルリッツ(Görlitz)の近くで、二人のドイツ兵に見つかった。
 自転車で自分たちに向かってくる兵士たちに気づき、銃砲を携帯しているだろうと想定して、彼らは、溝の中に逃げ込んだ。しかし、その兵士たちはそこで、光を照らして探そうとした。
 「我々の旅の馬鹿げた終わりだった。兵士たちは、武装すらしていなかった。」//
 (19) レフは何も分かっていなかった。ポーランドに着いたら、あるいはドイツの戦線を越えたら、そしてモスクワまでたどり着いたとしたら、いったいどうなるのだろうか。
 ソヴィエト同盟の状況について、あるいはスヴェータとその家族にもう一度逢う機会について、彼には現実的な考えがなかった。
 最初に捕まった瞬間から、ロシアから信頼できる情報を得る手段がなかった。
 オーシャッツでは、収監者にペンと用紙がドイツ軍によって与えられたが、ドイツが占領している地域の者たちにだけ手紙を書くことができた。
 レフは一度、行方不明になった収監者仲間の妻がいるプラハに手紙を出して、その夫である彼についての報せがあるかを尋ねた。
 その妻はレフに返事を書いてきて、小包すら送ってきたが、自分の夫の運命については自分よりもレフの方がよく知っていそうだ、と告げた。//
 ++
 (20) スヴェータもまた、暗闇の中にいた。
 1941年9月の末にレフがモスクワを去った後、彼に関する知らせは何も受け取っていなかった。
 そのとき、何もかもが、不確かだった。
 モスクワは生き残れるのかどうか、誰にも分からなかった。
 モスクワは、7月以降のドイツ空軍の爆撃で大きな被害を受けていた。
 一日に頻繁に、サイレンが鳴り響いた。
 発電所が攻撃され、アパート地区には熱や光がなくなった。燃えるビルだけが、夜空を照らしていた。
 人々は、地下の防空壕で生活した。
 膨大な数の人々が、死んだ。
 10月1日、スターリンは、政府をヴォルガのクイビシェフ(Kuibyshev)〔=サマラ〕に避難させることを命じた。
 市内への爆撃が激しくなるにつれて、パニックが広がった。
 全ての店に、巨大な人の列ができた。食糧をめぐって喧嘩が発生し、略奪が増えた。大量に逮捕しても、ほとんど統制することができなかった。
 ドイツ軍がヴャジマ〔Viazma〕を突破したとの報せが、10月16日に、ついにモスクワに届いた。
 どの鉄道駅でも、東に向かう列車に乗り込もうと競い合う群衆による、醜い光景が見られた。
 人々は、工場や共産党の幹部たちがすでに去ってしまっていることを知って、彼らを呪った。
 どの家族も、荷物を詰め込んで、利用できる手段を何でも使って、モスクワから外へ出た。
 タクシー運転手は、モスクワからカザンまでの料金として2万ルーブルを請求した。//
 (21) モスクワ大学は、10月に避難した。
 スヴェータは、家族と一緒に旅をした。
 列車に乗っていた学生たちの中に、のちのノーベル賞受賞者、A・サハロフ(Andrei Sakharov)がいた。サハロフは、レフやスヴェータの一年後に同じ学部に入学したのだったが、スヴェータは休学していたので、このときは同じ学年だった。
 彼らが最初に停車したのは、モスクワ東方300キロの古い地方都市、ムロム(Murom)だった。ここにサハロフはその母親と娘とともに滞在し、戦時中の混乱を有益なことに利用した。昼間には娘が、働いている店から砂糖を盗み、夜間には母親が、「一つなぎの兵士たちを」愉しませた。
 その市街は、東方への避難を待っている負傷兵たちで溢れていた。
 多くの兵士が駅のホールで担架の上に横たわり、鉄道路線そばの雪の中にいる者すらいた。
 近隣の村落から来た女性たちが、食べ物やタバコを売っていた。
 また別の女性たちは、息子や夫たちを探していた。そして、行方を知っているかもしれないと負傷兵に尋ねたり、病院で誰かが遭遇するかもしれない場合にと手紙を渡したりしていた。//
 (22) 学生たちはムロムからウラルまでは東へと旅をしつづけ、そして、南へと凍ったカザフ高原を縦断して、アシュハバート(Ashkhabad)に向かった。この都市はトゥルクメン共和国の埃っぽい首都で、ソヴィエトとイランの国境から大して遠くなかった。
 ここで、モスクワ大学物理学部は、その機能を再開することになる。
 旅行には、一ヶ月を要した。
 列車の各車両には一台のストーブと40人用の寝台があった。サハロフは各車両について、こう思い出している。
 「指導者、話し好きと寡黙な者、パニック煽り立て屋、敏腕家、大食漢、怠け者と勤勉家、そうした者たちがいる、別々の共同体になった」。
 スヴェータは、静かで勤勉な者の一人だったに違いない。
 アシュハバートで12月に始まった講義では、スヴェータは、戦争前の学習中断を埋め合わせるべく、懸命に勉強する必要があった。
 彼女は化学と振動物理学のクラスに出席した。これは実習のないむつかしい理論的な科目だったので、長時間を図書館に入り浸りで過ごした。
 彼女はまた、自分と両親の生活を支えるために、カフェテリアの皿洗いとして働いた。
 その冬とそれに続く春に多くのことがあったため、スヴェータは当時の中央アジアに共通する病気であるマラリアに罹患した。
 のちにスヴェータは、こう書いた。
 「疲れすぎて、飲むことすらむつかしい。
 高熱と闘って、消耗して、『完全に僻んだ』」。
 彼女は生きるべく藻掻いた。そして、何とか切り抜けた。
 (23) 卒業してのち、スヴェータは、軍用品人民委員部に配属された。
 しかし、彼女の父親の助力で、当時は化学合成以外でも活動していたが、スヴェルドロフスク近くのフロムニク(Khromnik)にあった合成樹脂産業科学研究所へと移った。スヴェータは1942年8月から、工業物理学者として「物理機械的検査実験室」に勤務した。
 この研究所は一日11時間活動しており、彼女は最初は自分のすることを見つける必要がある、と感じた。つぎのように書いたとおりだ。
 「不思議で馴染みのない実験室にいた。何から始めればよいか、どこに落ち着けばよいか、分からなかった。
 機械が怖かったし、ゴムについては何も知らなかった。
 それで図書館へと逃げた。<中略>
 私は図書館でロシアの論文や報告書を読んで一日の半分を過ごし、あとの半分は英語に取り組んだ。
 英会話クラブに入った。アシュハバートで英語を勉強したのではなかったけれども。
 総じては、気持ちがとても高揚した時期だった。
 アシュハバートの煙霧、アフガンの風のあとで、沙漠から粉塵のように細かい砂粒が吹いてきた。
 8月には、黄金の秋の予兆が全くないままに、葉っぱが落ちた。
 ウラルは地上の楽園のように思えた。-松の木、樺の木、キノコ、雨。
 世界じゅうの人々と、手紙をやりとりした。<中略>
 毎日2-3通の手紙を受け取った。そして、まもなく家に戻れると知った。」
 (24) 研究所はすでに、モスクワに帰る準備をしていた。モスクワでは、ソヴェト軍の反攻のあとで、ドイツ軍の脅威はもう過ぎ去っていた。
 赤軍が切実に必要としていたのは、タイヤ産業を支援するための、研究所の専門研究者だった。
 1943年1月頃に、スヴェータは家に戻った。
 学生としてレフとスヴェータが知っていた市街の多くは、戦争で破壊されるか損傷していた。
 ビルの多数が暖房のないままで残り、電力不足が原因で光は暗くなったり、しばしば完全に消えたりした。下水管は漏れており、食料店は空だった。
 スヴェータはのちに書くことになる。
 「我々はみな寒くて、飢えており、暗闇の中で生きていた」。//
 (25) 1942年4月に、スヴェータの両親は妹のターニャとともにモスクワに帰っていた。
 両親は、明らかに年老いていた。
 アナスタシアはしばしばブルセラ病に罹り、痛みを伴う胃腸病が彼女を消耗させた。そして、アレクサンドルは60歳のときに、急に衰えていく兆候を見せた。
 スヴェータが帰ったとき、彼らが神経質であるのに気づいた。
 両親には心配することが多数あった。スヴェータの兄は前線に行ったのだったが、それ以来彼からは連絡がなかった(彼はドイツ軍に捕らえられ、バルト海のウゼドーム島の強制収容所に収監されていた)。一方で妹のターニャは、1942年9月に学生「義勇兵」としてスターリングラードへと赴かされていた。
 アレクサンドルの弟のイノケンティ(「ケーシャ叔父さん」)とその妻が、両親の厄介になっていた。このレニングラードの二人は、戦争が始まって以降はモスクワにいて、1943年にレニングラードの包囲が解かれるまでは家に戻ろうとはしなかったのだ。
 ----
 ③につづく。

2180/レフとスヴェトラーナ-第1章④。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章④。

 ---
 (34) 1940年1月、レフの祖母が死んだ。
 スヴェータは、レフがヴァガンコフスコエ墓地に彼女を埋葬しているとき、彼のそばにいた。
 (35) その翌月、レフは、(ロシア語でFIANとして知られる)レベデフ物理学研究所の技術助手になった。
 彼はまだ大学の最終学年にいたが、FIANで仕事を始めたばかりの物理学部時代の友人のナウム・グリゴロフから推薦されたのだった。これは、研究の途に入るよい機会だった。
 FIANという名は、ロシアの物理学者で物体に反射されるか吸収される光が与える圧力を最初に測定したピョートル・レベデフに因んでいた。そのFIANは、原子物理学研究の世界的中心の一つで、その研究計画の先端には宇宙線研究があり、レフはそれに参加するようになった。
 レフは昼間は勉強していたため、実験所では夕方勤務で仕事をした。
 スヴェータは、遅くまで図書館にとどまり、物理学部からミウスキ広場のFIANまで3キロを歩くことになる。
 彼女は中庭のベンチに座って、レフを待った。レフはいつもだいたい8時に姿を見せて、彼女の家まで一緒に歩いた。
 あるとき、レフは疲れていて実験所で眠り込んでしまい、9時過ぎまで目覚めなかった。
 スヴェータはベンチで、じっと彼を待った。
 寝入ってしまったと彼が言ったとき、スヴェータは笑った。
 (36) その夏、レフは、コーカサスのエルブルス山に科学調査旅行に出かけた。
 FIANは高山の中に研究基地をもっていて、レフのグループはそこで、宇宙線が地球の大気圏に入ってくる間際のその効果を研究することができた。
 レフはその基地に3カ月いた。
 スヴェータに書き送った。
 「山を登って、昨日に早くも我々の小屋に入った。雄大だ。恐ろしく強い願望が出てきて、忘れられない思い出になる。」
 その間のスヴェータは大学の夏季休暇で、クレムリン近くにコンクリート造りで建設されていたレーニン図書館で働いていた。そして、レフに手紙を書いた。
 「図書館の前には可愛らしい広場がある。知ってますか?
 そこには灌木や花が、いっぱい植えられている。
 わたしの誕生日には、誰が花束を贈ってくれるつもりかしら?」
 レフの予定では、9月1日にコーカサスから帰ってくることになっていた。その日はスヴェータが23歳になる10日前で、彼は誕生日にはいつも花を贈っていた。
 その日までは、スヴェータは手紙を読んで済ますしかなかっただろう。
 「1940年8月3日
 レヴェンカ!
 今日家に帰って最初にしたかった事は、自分宛ての手紙が来ていないかと尋ねることだった。
 でも、きみに関して、みんなが僕を慰め始めた。それで僕は、待っているのはイリーナのハガキだというふりをした。
 しかしそのときにターニャが-とても強調して-、イリーナからのハガキはないけど、きみからのものがあるに違いないと知ってる、と言った。
 それでターニャにくっついて部屋から部屋を回り(きみが好きなように部屋を回れるように、扉はみんなまだ開けられていた)、ターニャに、きみからの手紙をおくれよと頼んだ。
 きみのママは最後には僕を憐んで、きみの手紙を僕に渡してくれた。」
 スヴェータは、自分についての新しいニュースを彼に書いた。
 彼女は、図書館での常勤の仕事を提示されていた。
 「私よりいい人物を、彼らは見つけないでしょう。
 部屋のレイアウト、部屋の押入、戸棚、みんな私は知っている。<中略>
 内外の定期刊行物を知っていて、ローマン・アルファベットの知識でもって、中国語以外のどの言語で書かれていても、雑誌の月、年、名前と価格を、私は探し出すことができる。<中略>
 私には肩の上に頭があって、最優秀の脳でいっぱいではなくとも、綿毛が詰まっているわけではない。<中略>
 ヴェラ・イワノーヴァは、一年後にはグループ主任になれる、と言いました。
 一生ずっと図書館に居続けるのを望むのなら、これは経歴としてはよいスタートでしょう。
 でも、私は一生全部を図書館で過ごしたくはない。<中略> 月曜日に、断わるつもりです。
 レフ、私の健康のこと、心配しないで。
 私の気分が私の身体状態によっているか、身体状態が気分によっているかのどちらかだと、貴方に言いました。
 ともかく、貴方は私が手書きしたものから、私は冷静で困難を抱えていないと分かるでしょう。私には痛みも、病気のような何も、ないのです。
 ママは、私には肺炎がある、と言います。
 その理由-私が痩せたこと。
 でも、知っているでしょう。何よりも困難だと考えていたダイエットのおかげです。そして他には、どんな兆候もありません。」//
 (37) 1941年6月、レフは、FIANの同僚たちとエルブルス山への第二次調査旅行に行くことになっていた。
 6月22日の日曜日の朝、彼のチームは研究所にいて、旅行の準備を終えようとしていた。
 レフはよい気分だった。
 大学での最終試験に合格したばかりで、学部委員会からこう告げられていた。卒業生のうち4人だけを選んで、宇宙線研究の計画のためにFIANに進むよう仕事を割り当てた、と。
 レフは、そのうちの一人だつた。
 彼は、6月6日の集合場所から、スヴェータの家族に手紙を書いた。
 「いまここは、かなり混乱しています。
 それで、我々の見通しについて、正確なことは何もお知らせできません。
 多少とも分かっているのはただ一つ、徴兵委員会が軍事業務に我々を召喚するままでは、ここで生活して研究をするだろう、ということです。」//
 (38) レフは、戦争の勃発に動揺していた。
 数日の間、これが何を意味するのか考え及ぶことができなかった。
 モスクワでの研究と生活、スヴェータとの関係。-全てが今や空中に消え失せた。
 「我々は、戦時にいる」。彼は不安げに内心で語りつづけた。//
 (39) レフは前線へと自発的に志願していたけれども、責任ある地位に就くのを怖れていた。
 スターリンのテロルによってソヴィエト軍は絶望的に将校の数に不足しており、レフのような新参者は、戦闘をする兵士たちを指揮すべく召喚された。
 わずか2年の軍事教練の後で、レフは、青年少尉の階位に達していた。これが意味したのは、30人の兵士から成る小隊の責任者に配置される可能性がある、ということだった。だが、彼には、戦術上の自信がなかった。
 レフは最終的には、6人の学生と2人の大学卒業生から成る小さな補給〔兵站〕部隊の指揮者に任命された。
 自分のように経験がなくも彼が失策を冒しても労働者階級出身の兵士たちよりは自分を許してくれるだろうと考えて、彼は、学生たちの小隊であることを幸運だと感じた。//
 (40) レフの部隊は、モスクワの兵站基地から前線の通信大隊へと補給物品を移すこととされていた。
 彼の指揮のもとに、2人のトラック運転手、2人の作業員、料理人、会計官および在庫管理者がいた。
 前線に向かう途中で、彼らは、ソヴィエトのプレス報道によるプロパガンダが伝えない混沌とした状況を見た。
 モスクワでは、ソヴィエト軍はドイツ軍を撃退していると報道されていた。しかし、レフは、ソヴィエト軍が混乱しつつ撤退していることを知った。森の中は兵士や民間人でいっぱいで、多数の道路が、モスクワ方面の東へと逃亡する避難者で塞がれていた。
 莫大な数の人々が、殺されていた。
 7月13日までにレフは、ドイツ軍によって包囲された都市、スモレンスク近くの森に到達した。
 「スヴェティーク、我々は森の中にいて、日常的な仕事をしている。<中略>
 私はここで、全員に食糧を与えるものと考えられている。全員とは、たんに喚くだけで食べたいものを求めてこない、ほとんどが高級の将校たちも含めて、だ。<中略>
 ある程度はよい点もある。-食料庫までの旅の間は、比較的に自由だ。
 スヴェータ、きみが僕に手紙を書き送ることのできる場所は、絶対にない。-みんな、ある日からその翌日まで、自分たちがどこにいるのかを知らない。
 きみから報せを聞く唯一の方法は、旅の間に立ち寄ってきみの家で逢うことだ。
 それがいつになるのかは、分からない。」
 (41) モスクワと前線の間の何回かの旅で、レフは、兵士たちとその縁戚者のために手紙を運ぶことになる。
 彼はまた、陸軍倉庫を訪れている間に、スヴェータと家族に逢っただろう。
 スヴェータには逢えなかったが両親に逢えたのは、7月中の旅の1回だった。二人はレフに「食べ物と水を与え」てくれた。そのとき彼は、スヴェータ用に、手紙を残した。
 9月初めの2回めの訪問のときは、スヴェータは大学に戻っていた。
 レフが彼女の家族と連絡を取っておくのは、彼女と過ごすのとほとんど同様に重要なことだった。自分がどこかに属している、と感じさせたからだ。
 最後の訪問の一つのとき、スヴェータの父親は、彼に一枚の紙を渡した。それにレフは、4人の親しい友人とソヴィエト同盟の多くの都市にいる親戚の者たちの住所を記した。これらの住所にいるのは、レフが前線にいて不在の間にスヴェータとその家族がモスクワから避難する場合に、彼が助けを求めるはずの人々だった。
 レフは、多くを語らなかった。しかし、スヴェータの父親が、レフを息子だと考えていることは明瞭だった。
 (42) 最後にモスクワを訪れたことがあった。
 レフには、これがスヴェータと逢う最後の機会だと分かっていた。前線の大隊に送る補給物品の貯蔵はもう何もない、と聞かされていたからだ。
 運転手にあとで会おうと言って、レフは貯蔵庫からスヴェータの家へと走った。
 彼女は家にいそうではなかった-一日のど真ん中だった。しかしともあれ、誰かに別れを告げるために行く必要があった。
 たぶん、スヴェータの母親か妹なら、家にいるだろう。
 レフは、ドアをノックした。扉を開けたのは、スヴェータの母親のアナスタシアだった。
 レフは玄関廊下に入り込んで、モスクワにあと数時間だけいる、その後で離れて前線へと出発する、と説明した。
 彼は、感謝と別れの言葉を告げたかった。
 レフは、母親にキスをすべきかどうか分からなかった。
 アナスタシアは、大して温かみや感情を示さなかった。
 彼はお辞儀をして、玄関ドアへと向かった。
 しかし、母親が彼を止めた。「待って。貴方にキスをさせて」と彼女は言った。
 彼女は、レフをしっかりと抱き締めた。
 彼は、母親の手に接吻をし、そして去った。
 ----
 第1章、終わり。もともと、各章に表題はない。

2177/レフとスヴェトラーナ-第1章③。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章③。
 (23) 大学生生活を始めたとき、レフは祖母(当時82歳)と一緒に、モスクワ北西のレニングラード・プロスペクト通りの共同アパートに住んでいた。
 彼の少し変わった「オルガ叔母さん」もそのアパートに一室をもち、彼女の夫と住んでいた。
 レフと祖母が生活していたのは、狭くて暗い部屋だった。一方の端に彼用のシングル・ベッドがあり、一方の端にはトランクがあって、その上に祖母が間に合わせのベッドを作っていた。踏み台に脚を乗せていたのだ。
 突先の窓のそばには机があった。レフのベッドの上には、ガラスが前面にある小さな飾り棚があって、集めた化学器具や本を保管していた。ロシア文学の古典作品もあったが、主としては数学と物理の本だった。
 スヴェータが訪れたとき、彼女はレフのベッドに腰掛けて、話をしたものだ。
 オルガ叔母さんはアパートの廊下にいて、二人の動きに注意深い目を向けた。
 教会にきちんと行く厳格な叔母さんはスヴェータがやって来るのに同意せず、レフに対して、何かが進行していると思っているとはっきり言った。
 レフはこう言ったものだ。「彼女は大学での友人にすぎない」。
 しかし、オルガは、レフの部屋のドアの側に立って、「証拠」を求めて耳を澄ませていた。//
 (24) レフとスヴェータが本当に自由になれる場所は、田舎にあった。
 毎年夏に、スヴェータの家はボリスノコブォにある大きな別荘を借りていた。そこは、モスクワ西北70キロの所にある、イストラ河岸の新開地だった。
 レフは彼らを訪れることになる。ときにはモスクワから自転車で、ときにはマニヒノまで列車に乗ったあとでボリスノコブォから一時間歩いて。
 レフとスヴェータは、一日全部を林の中で過ごすことになる。河岸に横たわり、詩を読む。夕闇が近づくと、レフは最終列車に乗るために別れるか、長い自転車旅行で戻って行く。//
 (25)1936年7月31日、レフは列車でやって来た。
 ひどい暑さで、マニヒノから歩いた後には汗まみれだった。それで、スヴェータの家に姿を見せる前にボリスコヴォ近くの川で少し泳ごうと決めた。
 下の肌着だけになって、レフは飛び込んだ。
 泳ぎは上手でなかったので、河岸沿いに進んだが、強くて大きな流れが来て彼を運び去り、レフは水中に入り始めた。
 河岸に釣り人がいるのをちらりと見て、レフはその男に向かって叫んだ。「溺れる、助けて!」。
 釣り人は、何もしてくれなかった。
 レフはまた水中に潜って、二度目に浮上したとき、もう一度助けを求めた。-そしてまた水中に沈んだ。
 か弱な自分では助からない。スヴェータの家のすぐ近くで死ぬとは、何と愚かなことだろう!
 そして彼は、気を失った。
 覚醒したとき、河岸に横になっていて、そばに釣り人がいた。
 呼吸を整えようともがきながら、後ろに立っている、助けてくれた釣り人を一瞥した。そして、どうして飛び込んで助けてくれなかったのかと小言を言った。
 その男が誰かを知ってきちんと感謝を言う前に、その男は離れて行った。
 レフはその日を、スヴェータとその家族と過ごした。
 スヴェータと妹のターニャがレフと歩いて村の端まで行って、別れを告げ、駅まで行く彼を見送った。
 その村で、レフは自分を救ってくれた人物を知った。
 その人物は、一人のもっと年配の紳士と二人の女性と一緒にいた。
 レフは彼に感謝を述べ、名前を尋ねた。
 年配の人が答えた。「私は教授のシンツォフで、これは義理の息子で技師のベスパロフ。そして、それぞれの妻だ」。
 もう一度彼らに感謝して、レフは駅に向かった。その駅では、公共ラジオ放送局がサン=サーンスの<序奏とロンド・カプリチオーソ>を流していた。
 D・オイストラフが美しいバイオリン・ソロを弾くのを聞きながら、彼は、生きている、という強い感覚に包まれた。
 彼の周りにあるものは全て、前よりも力強くて生き生きしていると感じた。
 助かった!
 スヴェトラーナが好きだ!
 音楽を聴いている間ずっと、彼は喜んでいた。//
 (26) 人生は、心もとない喜びで溢れている。
 1935年、スターリンは、生活は良くなり、明るくなっている、と発表した。
 以前よりも購買できる消費物品が、ウォッカ、キャビアも、増えている。、ダンス・ホールや楽しい映画も増えた。だから、人々は笑いつづけることができ、共産主義社会が樹立されれば到来する明るい燦然とした未来への確信を抱きつづけることができる。
 その間に、逮捕者リストがスターリンの政治警察、NKVD によって準備されていた。
 (27) 少なくとも130万人の「人民の敵」が1937-38年の大テロル(Great Terror)の間に逮捕された。-そしてその半数は、のちに射殺された。
 この計算された大量殺戮とはいったい何だったのか、誰にも分からなかった。-被害妄想症のスターリンによる潜在的な敵の殺戮で「社会的異物」に対する戦争なのか、それとも、こちらの方がありそうだが、国際的緊張が高度に達したときの戦争の事態に備えた「信頼できない者たち」の予防的な選抜的間引きだったのか。
 テロルは、社会全体を揺るがせた。
 生活の全分野が、影響を受けた。
 隣人、同僚、そして縁戚者が、一夜にして突然に「スパイ」のレッテルが貼られることが起きた。//
 (28)ソヴィエト物理学の世界は、とくに傷つきやすかった。理由の一つは、軍事にとっての実際的な重要性であり、また一つは、イデオロギー的に分かれていたからだ。
 モスクワ大学物理学部は、そうした精神状況の中心だった。
 一方には、ユリ・ルメルやボリス・ゲッセンのような若い研究者のグループがあった。彼らは、アンイシュタイン、ボールおよびハイゼンベルクの物理学の擁護者だった。
 他方には年配の教授たちがいて、この者たちは、相対性理論や量子力学は「観念論」で、弁証法的唯物論、マルクス=レーニン主義の「科学的」基礎とは合致しない、と非難した。
 イデオロギー上の分裂は政治的にも強化され、唯物論者たちは、量子力学の支持者は、外国に旅行して西側科学の影響を受けているがゆえに「非愛国的だ」(つまり潜在的な「スパイ」だ)、と責め立てた。
 1936年8月、レフとスヴェータが第二年次を始める直前に、ゲッセンが、「反革命テロリスト組織」の一員だという嫌疑を受けて逮捕された。
 ゲッセンは、のちに射殺された。
 ルメルは1937年に、大学から追放された。//
 (29) 学生たちは、警戒するように求められた。
 コムソモルの学生たちは、縁戚者が逮捕された学生仲間と対立した。そして、彼らが縁戚者を非難できないならば大学から追放されるべきだ、と主張した。
 他学部では多くの学生が追放されたが、物理学部ではより少なかった。物理学部には、強い学友団体意識があったのだ。
 1937年の事件のあとでレフを救ったのは、この共同体意識だった。//
 (30) モスクワ大学では、軍事教練は昼間部学生たちの義務だった。
 その学生たちは、戦争の際には動員される予備将校軍団に入るよう義務づけられていた。
 物理学部の学生たちには、歩兵隊の司令部のポストが用意されていた。
 軍事教練の中には、ウラジミルの近くで二回の夏を野営する、というものもあった。
 1937年の第一回の野営での主要な指示者は、大学の学生で構成されていない連隊の若い司令官へと、最近に昇格した人物だった。
 その人物は、エリート物理学者を200メートル走らせ、次いで同じ距離を行進させる、ということを際限なく繰り返して、彼らを訓練するのを愉しんだ。
 権威をもつ人間が少しばかり苛めるのを見たときに口を閉ざすのは、レフの性格ではなかった。
 ついには、レフは抗議して叫んだ。「我々の指揮官は、馬鹿だ!」。
 その声は指揮官の耳に十分に達した。彼はレフについて、当局に報告した。
 問題は、モスクワ軍事地区の党地区委員会にまで上げられた。党委員会は、「労働者農民赤軍の司令武官に対する反革命的トロツキスト的煽動」を行ったとしてレフをコムソモルから除籍した。
 翌9月、レフは、大学に戻った。
 レフはこの事件の結果がさらに大きくなるのを怖れて、自分のコムソモルからの除籍を取消すよう、党地区委員会に訴えた。
 軍事地区の司令部は彼を召喚し、事件に関する彼の見解を聴取し、除籍を撤回して、その代わりに、「非コムソモル行動」があったとして「厳重な譴責」(strogii vygovor)をした。
 これは幸運な逃げ道だった。
 レフはのちに、この措置は大部分は委員会への訴願書を書いて自分の名前を署名した物理学部の3人の勇気によるものだ、と知ることになる。
 レフは物理学部の学生たちにとても好かれていたので、彼らはレフを守るために危険を冒したのだった。
 彼らが連帯を明らかにすることは容易に裏目に出て、彼らの逮捕につながり得ることだった。三人のグループは当局の目からすると、すでに「組織」と性格づけられるものだったのだから。
 (31) このエピソードは、レフとスヴェータの二人を一緒にさせた。
 二人の関係は大学の第二年次の中頃に冷たくなっていて、しばらくはお互いに逢わなかった。
 中断して、突然に友人たちのグループから離れたのは、スヴェータだった。
 レフは、理解できなかった。
 前の夏には二人は毎日出逢い、彼女は彼の写真を欲しがりすらした。
 彼らの多くの友人たちは結婚していった。そして、レフも、二人もまもなく結婚するのではないかと望んだに違いなかった。
 そのときに、何の予告もなく、スヴェータは離れて行った。
 スヴェータはこの時期を振り返って、陰鬱な気分のせいだったとする。-彼女が一生のうち長くを苦しんだ抑鬱状態だ。
 彼女はのちに、レフに宛てて書くことになる。「私は私たちの関係をダメにして、-神はその理由を知っていますが-貴方をひどく苦しめていると、何度も自分を責めました」。
 (32) レフが困難に陥っていると知って、スヴェータはすぐに彼に戻った。
 つづく3年間、二人は離れなかった。
 レフは朝に、スヴェータの大学への通学路で彼女と逢うことになる。
 彼は講義の終わり時間に彼女を待ち、レニングラード・プロスペクト通りまで連れて帰って、彼女のために料理したり、あるいは二人で劇場や映画館へ行き、歩いて彼女の家に戻った。
 二人の関係にとって、詩は重要な要素だった。
 二人は一緒に詩を誦み、お互いに詩を交換し、新しい詩を紹介したりした。
 アフマトーヴァとブロクはスヴェータが好きな詩人だったが、彼女はエレナ・ルィヴィナの詩も好きだった。ある夕方にモスクワの通りをずっと歩きながら、彼女はルィヴィナの詩をレフに朗誦して聞かせた。
 「あなたのタバコの輝き
  最初は消えそうになって、また燃え上がる
  私たちはロッシの通りを通り過ぎていく
  街頭のランプが空しく光っているところを」
 「私たちの出逢いは 短い
  一歩、一瞬、一息よりも短い
  親愛なる建築屋さん、どうして
  あなたの通りはこんなに短いの」
 (33) レフが遅くまで仕事しなければならず、スヴェータと逢えないときは、ときどき彼は、夜中に彼女の家の脇を通ったものだ。
 このような場合、レフはこんなノートを残した。
 「スヴェトカ!
 どうしているか知りたくて、明日のことを思い出させるためにやって来た。
 明日は29日だ。あの場所で、逢おう。
 もう遅いし-11時半だ-、きみの二つの窓はもう暗くて、他の二つもうす暗いから、アパートに入り込むだけするのはやめると決めた。
 入り込んだら、みんなを起こして、怖がらせるだろう。
 自由だったら、僕に逢いに来て下さい。
 お母さんと妹さんによろしく。」
 ----
 ④へとつづける。

2172/R・パイプス・ロシア革命第二部第11章第12節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」前後)に関する全般的かつ詳細な、つぎの二著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 この二つを併せたような簡潔版に以下のCがあり、これには邦訳書もある。但し、帝制期(旧体制)に関する叙述はほとんどなく、<三全体主義(①共産主義、②ドイツ・ナツィズム、③イタリア・ファシズム)の共通性と差異>に関する理論的?な叙述等も割愛されている。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)
 上のAは、つぎの二部に分けられている。
 第一部・旧体制の苦悶。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 この欄では、これまで、第一部(いわゆる二月革命を含む)の試訳は行ってきていない。
 かつまた、第二部は計18の章を含むが、全ての試訳を了えているのは第9章(<レーニンとボルシェヴィキの起源>)、第10章(<ボルシェヴィキによる権力追求>だけで、かなりの部分を了えているのは、第11章<十月のクー>だ。
 第11章・十月のクーは、全体の目次欄では、つぎの計14の節からなり、それぞれに見出しがついている。この見出し的言葉は本文中にはなく、14の各節の冒頭の文字が特大化されて、各節の切れ目が示されている。
 第11章・十月のクー。原著、p.439~p.505。
 各節の目次欄上の見出しはつぎのとおり。
 第01節・コルニロフが最高司令官に任命される。
 第02節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ・クーに対抗する助力をコルニロフに求める。
 第03節・ケレンスキーとコルニロフの決裂。
 第04節・ボルシェヴィキの将来の勃興。
 第05節・隠亡中のレーニン。
 第06節・ボルシェヴィキによる自己のためのソヴェト大会計画。
 第07節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り。
 第08節・党中央委員会10月10日の重大な決定。
 第10節・ケレンスキーの反応。
 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言。
 第12節・第2回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 以上のうち、この欄で試訳の掲載を済ませているのは、第01節~第11節だけだ。
 第12節以降へと、試訳掲載を再開する。
 「憲法制定会議」と通常は訳されるConstituent Assembly は、「立憲会議」という訳語を用いている。
 なお、ここで初めて記しておくと、R・パイプスが用いているレーニン全集は、日本で最も一般に流通している(していた)レーニン全集とは巻分けが明らかに異なる。これに対して、レシェク・コワコフスキが<マルクス主義の主要潮流>で参照している(していた)レーニン全集は、日本のそれと巻分けが同じで、彼の参照指示に従って対象演説文等を容易に発見できる(論考類の掲載順もほぼ同じ。頁数は異なる)。L・コワコフスキは日本語版のそれと同じソ連版(同マルクス=レーニン主義研究所編)のレーニン全集のポーランド語版を利用している(していた)と思われる。
 ***
 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 ----
 第11章・十月のクー。
 第12節・第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 (1)3時間半前、ボルシェヴィキは、これ以上待ちきれなくて、スモルニュイ(Smolnyi)の1917年以前は演劇の上演や舞踏会に使われた柱廊付き大集会室で、第二回大会を開会した。
 彼らは、テオドア・ダン(Theodore Dan)の虚栄心を賢くも利用して、メンシェヴィキのソヴィエト指導者たちも招待した。彼らとともに手続を執り行い、ソヴェトの正統性という香気を与える効果を得るためだった。
 新しい幹部会が、選出された。それは14名のボルシェヴィキ、7名の左翼エスエル、3名のメンシェヴィキで構成されていた。
 カーメネフが議長となった。
 正統なイスパルコム(Ispolkom, ソヴェト中央執行委員会)はこの大会に限られた議題しか設定しなかったけれども(現在の情勢、立憲会議、イスパルコムの再選出)、カーメネフは、全体的に異なるものに変更した。すなわち、政府の権限、戦争と和平、および立憲会議。
 (2)大会の構成は、国全体の政治的支持の状態とほとんど関係がなかった。
 農民諸組織は出席するのを拒否して、大会には権威がないと宣言し、全国のソヴェトにボイコットすることを強く迫った(203)。
 同じ理由で、軍事委員会は、代議員を派遣するのを拒んだ(204)。
 トロツキーは、第二回大会は「世界史上の全ての議会の中で最も民主主義的」と描写すること以上に正確なことを知っていたはずだった(205)。
 実際に、その目的のためにとくに設立された、ボルシェヴィキが支配する都市部の集会や軍事会議があった。
 10月25日に発表された声明文で、イスパルコムはこう宣言した。
 「中央執行委員会〔イスパルコム〕は、第二回大会は行われていないと考え、それをボルシェヴィキ代議員の私的な集会だと見なす。
 この大会の諸決議は、正統性を欠いており、地方ソヴェトや全ての軍事委員会に対する拘束力を有しないと、中央執行委員会によって宣告される。
 中央執行委員会は、ソヴェトと軍事諸組織に対して、革命を防衛するために結集することを呼びかける。
 中央執行委員会は、適切に行うことのできる情勢になればすみやかに、ソヴェトの新しい大会を招集するであろう。」(206)
 (3)この残留派(rump)議会への出席者の正確な数は、確定することができない。
 最も信頼できる評価が示すのは、約650人で、そのうちボルシェヴィキが338名、左翼エスエルが98名だ。
 この二つの連立党は、こうして、議席の3分の2を支配した。-3週間後の立憲会議選挙の結果から判断すると、それらに付与されたよりも2倍以上も多く代表していた。(207)
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを完全には信頼してはいなかったので、偶発的事態の余地を残さないために、自分たちに議席の54パーセントを割り当てた。
 代表の仕方がいかに歪んでいたかを例証する事実は、70年後に利用できるに至った情報によれば、ボルシェヴィキの勢力の強いラトヴィア人(Latvian)は代議員総数の10パーセントで計算されていた、ということだ。(208)//
 (4)最初の数時間は、騒がしい論議で費やされた。
 閣僚たちが逮捕されたという報せを待っている間、ボルシェヴィキは、社会主義対抗派〔左翼エスエルとメンシェヴィキ〕に床を占めさせた。
 喚きや野次が響いている真っ只中で、メンシェヴィキと左翼革命党は、ボルシェヴィキのクーを非難し、臨時政府との交渉を要求する、類似の宣言案を提案した。
 メンシェヴィキの声明案は、こう宣言していた。
 「軍事的陰謀が組織された。ソヴェトを代表する全ての別の党派に明らかにされないまま、ソヴェトの名前でボルシェヴィキ党が実行した。<中略>
 ソヴェト大会の間際でのペトログラード・ソヴェトによる権力奪取は、全ソヴェト組織の解体と崩壊を意味する。」(209)
 トロツキーは、「歴史のごみ屑の堆積」の上にある「惨めな組織」、「破産者」とこの反対者たちを描写した。
 これに応じて、マルトフは、退場することを宣言した。(210)
 (5)これが起こったのは、10月26日の午前1時頃だった。
 午前3時10分、カーメネフは、冬宮が陥落し、閣僚たちは監視下にある、と発表した。
 午前6時、彼は、大会を夕方まで休会にした。
 (6)レーニンはこのとき、大会の裁可を受けるべき最重要の布令案を起草すべく、Bonch-Bruevich のアパートに向かっていた。
 クーに対する兵士と農民の支持を獲得するとレーニンが想定した二つの主要な布令は、平和と土地に関するものだった。そして、その日ののちにボルシェヴィキ代議員の討議に付され、議論なくして是認された。
 (7)大会は、午後10時40分に再開された。
 レーニンは、激しい拍手で迎えられ、和平と土地に関する布令を提示した。
 それら布令は、投票なしの発声票決によって採択された。
 (8)講和に関する布令(211)は、名前が間違っている。なぜなら、立法行為ではなく、全ての民族の「自己決定権」を保障しつつ、併合や賦課なしの「民主主義的」講和に向かう交渉を即時に開始することを、全ての交戦諸国に呼びかけるものだったからだ。
 秘密外交は廃止され、秘密の条約は公表されるものとされた。
 ロシアは、講和交渉が開始されるまで、3カ月の休戦を提案した。
 (9)土地に関する布令(212)は、内容的には社会革命党の政策方針から採用されたものだった。それは、2カ月前に<全ロシア農民代議員大会のイズヴェスチア>(213)に掲載された農民共同体の242の指令によって補充されていた。
 ボルシェヴィキの綱領が要求した全ての土地の国有化-つまり所有権の国家への移転-を命じるのではなく、「社会化」-つまり商取引の禁止と農民共同体による使用への転換-を呼びかけるものだ。
 大土地所有者、国家、教会その他の全ての土地資産は、農業用に供されていないかぎりは、損失補償金なしで没収されるものとされ、立憲議会が最終的な提案を決定するそのときまでは、Volost' 土地委員会に譲り渡された。
 しかし、農民の私的な保有土地は、除外された。
 これは、農民の要求に対する公然たる譲歩だった。ボルシェヴィキの土地政策と全く一致しておらず、立憲会議選挙での農民の支持を獲得するために考案されたものだ。
 (10)代議員たちに提示された第三の最後の布令は、人民委員会議(ソヴナルコム, Sovnarkom)と称される新しい政府を設立した。
 これは翌月に予定されている立憲会議の招集までのみ機能するとされたものだった。従って、その先行機関と同様に、「臨時政府」と名づけられた。(214)
 レーニンは最初はトロツキーに議長職を提示したが、トロツキーは拒んだ。
 レーニンは、内閣に加わろうという熱意を持っていなかった。舞台の背後で仕事をすることを好んだのだ。
 ルナチャルスキーは、こう思い出す。
 「レーニンは最初は政府に入ろうと望まなかった。
 『自分は党の中央委員会で仕事をする』と彼は言った。
 しかし、我々は拒否した。
 我々の誰も、その点には同意しようとしなかった。
 我々は、主要な責任を彼に負わせた。
 誰も、批判者にだけなりたがるものだ。」(215)
 そうして、同時並行的に、名前だけではなくて実際にも、ボルシェヴィキ中央委員会の議長としても仕事をしながら、レーニンはソヴナルコムの議長職を引き受けた。
 新しい内閣は従前のそれと同じ骨格をもち、新しい職を付け足していた。つまり、(人民委員ではない)民族問題の議長職。
 人民委員の全てがボルシェヴィキの党員であり、党の紀律に服従した。
 左翼エスエルは参加を招聘されたが、拒否した。メンシェヴィキと社会革命党を含む、「全ての革命的民主主義勢力」を代表する内閣であるべきだ、と主張したのだ。(216)
 ソヴナルコム〔人民委員会議〕の構成は、つぎのとおり。(*)
  議長/ウラジミール・ユリアノフ(レーニン)。
  内務/A・I・リュコフ。
  農業/V・P・ミリューチン。
  労働/A・G・シュリャプニコフ。
  軍事/V・A・オフセーンコ(アントノフ)、N・V・クリュイレンコ、P・E・デュイベンコ。
  通商産業/V・P・ノギン。
  啓蒙(教育)/ルナチャルスキ。
  財政/I・I・スクヴォルツォフ(ステファノフ)。
  外務/L・D・ブロンスタイン(トロツキー)。
  司法/G・I・オポコフ(ロモフ)。
  逓信/N・P・アヴィロフ(グレボフ)。 
  民族問題議長/I・V・ジュガシュヴィリ(スターリン)。//
 (11)現在のイスパルコム〔ソヴィエト中央執行委員会〕は、新しいそれによって廃され、置き換えられることが宣言された。新しいイスパルコムは101名で構成され、そのうちボルシェヴィキは62名、左翼エスエルは29名だった。
 カーメネフがその議長に就いた。
 レーニンが起草したソヴナルコムを設置する布令では、ソヴナルコムはイスパルコムに対して責任を負うものとされ、従ってイスパルコムは、立法に関する拒否権と内閣の指名の権限をもつ議会のようなものになった。//
 (12)ボルシェヴィキの最高司令部は、この不確実な状態では最高の権力であるとは思われないことをきわめて懸念して、大会で裁可された諸布令は立憲会議による是認、訂正または拒否を条件として暫定的に制定されたものだ、と主張した。
 共産主義に関する歴史研究者の言葉によると、つぎのとおりだ。
 「十月革命の日々に、立憲会議の高い権威は<中略>全ての決議によって否定されてはいない。(第二回ソヴィエト大会は)立憲会議を考慮しており、「その招集までの」基本的な決定を採択したのだ」。(217)
 講和に関する布令は立憲会議に言及していなかったが、レーニンはそれに関して第二回ソヴィエト大会での報告で、こう約束した。「我々は、全ての講和提案を立憲会議の決定に従わせるだろう」。(218)
 土地に関する布令の諸条項も、同様に条件つきだった。「全国立憲会議のみが全ての範囲について土地問題を決定することができる」。(219)
 新しい内閣のソヴナルコムに関しては、レーニンが起草して大会が裁可した決議は、こう述べた。
 「国の行政部を形成するために、立憲会議の招集があるまで、臨時の労働者農民政府は、人民委員会議と呼ばれることとする」。(220)
 このことからして、立憲会議選挙は予定通り11月12日に行われると、新しい政府がその職務に就いた最初の日に(10月27日)確認したのは、論理的なことだった。(221)
 また、ボルシェヴィキ自体が明確にしたことによってすら、立法する機会をもつ前に、その最初の日に会議を解散することでボルシェヴィキが自らの正統性を失うことも、論理的なことだった。//
 (13)ボルシェヴィキは、将来に何が起きるかを確実に判断することができないという理由だけで、その始めの時期に合法性に関する譲歩を行った。
 彼らは、ケレンスキーがいつ何時にでも兵団を引き連れてペトログラードに到着する、その可能性を認めざるを得なかった。その場合には、ボルシェヴィキは全ソヴェトの支持を必要とするだろう。
 ボルシェヴィキは、一週間かそこらののちに、敢えて法的規範を公然と侵害するに至った。そのときには、制裁を課す部隊がやって来るのが現実になるということはない、ということが明白になっていたのだった。//
 (14)親ボルシェヴィキと親臨時政府の両兵団が首都の統制権をめぐって武装衝突をしたのは、10月30日、郊外丘陵地のプルコヴォでの1回だった。
 クラスノフのコサック部隊は支援の少なさに士気を失い、ボルシェヴィキ煽動者たちによって混乱していたが、ツァールスコエ・セロでの貴重な3日間を無駄に費やしたあとで、ようやく進軍するよう説得された。
 彼らはスラヴィンカ河沿いに作戦行動を開始した。そこで600人のコサック兵が、赤衛軍、海兵および兵士たちから成る、少なくとも10倍以上の実力部隊に立ち向かった。(222)
 赤衛軍と兵士たちはすぐに逃げ去ったが、3000名の海兵たちは基地を守り、その日を耐えぬいた。
 コサック兵団は、現地司令官を失って、ガチナ(Gatchina)へと撤退した。
 こうして、臨時政府に味方した軍事介入が行われるという可能性がなくなった。
 ---------------------------------------------
 (203)10月24日の全ロシア・ソヴェト農民代議員大会の決定、in: A. V. Shestakov, ed, Sovety krest'ianskikh deputatov i drugie krest'ianskie organizatsii, I, Pt. 1(Moscow, 1929), p.288.
 (204)Revoliutsiia, V, p.182.
 (205)L・トロツキー, Istoriia russkoi revoliusii, II, Pt. 2(Berlin, 1933), p.327.
 (206)Revoliutsiia, V, p.284.
 (207)Oskar Anweiler, The Soviets(New York, 1974), p.260-1.
 (208)G. Rauzens in China(Riga), 1987年11月7日。この参照は、Andrew Ezergailis 教授のおかげだ。
 (209)Kotelnikov, S"ezd Sovetev, p.37-38, p.41-42.
 (210)Sukhanov, Zapinski, VII, p.203.
 (211)Derekty, I, p.12-p.16.
 (212)同上、p.17-20.
 (213)同上、p.17-18.
 (214)同上、p.20-21.
 (215)Sukhanov, Zapinski, VII, p.266. レーニンのトロツキーへの提示につき、Isaac Deutscher, The Prophet Armed: トロツキー・1870-1921(New York & London, 1954), p.325.
 (216)Revoliutsiia, VI, p.1.
 (*)Derekty, I, p.20-21. W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.50. Lenin, PSS, XXXV, p.28-29. トロツキーは、ソヴナルコム内の唯一のユダヤ人だった。ボルシェヴィキは「ユダヤ」党だ、「国際ユダヤ人」の利益の仕える政府を設立している、という非難をボルシェヴィキは怖れているように見えた。
 (217)E. Ignatov in: PR, No.4/75(1928), p.31.
 (218)Lenin, PSS, XXXV, p.20.
 (219)Derekty, I, p.18.
 (220)同上、p.20.
 (221)同上、p.25-26.
 (222)Melgunov, Kak bol'shevili, p.209-210.
 ----
 第12節終わり。第13節<モスクワでのボルシェヴィキ・クー>等へと続く。

2166/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
 ----
 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑤。
 (40)調和のとれた共産主義的社会秩序に対する毛沢東の不信は、明らかに、伝統的なマルクス主義ユートピア像と一致していない。
 しかし、毛沢東はさらに、異なる未来像を考察するまでしていた。すなわち、全てが変化して長期的には全てが死滅するので、共産主義は永遠のものではなく、人類自体もそうではない。
 「資本主義は社会主義となり、社会主義は共産主義となる。そして、共産主義社会は、さらに変革されるだろう。共産主義社会にもまた、始まりと終わりがある。
 猿はヒトに変わった。そして人類が発生した。
 最終的には、全人類が消滅するだろう。別の何かに変わるかもしれない。地球それ自体もまた、存在することをやめるだろう」(Schram, p.110)。
 「将来に、動物は発展し続けるだろう。
 人間だけが二つの手をもつ資格がある、とは思わない。
 馬、雌牛、羊は進化することができないのか? <中略>
 水にもまた、歴史がある。
 もっと前には、水素も酸素も存在しなかった」(Schram, p.220-1)。//
 (41)毛は同じように、中国の共産主義の未来が保証されているとは考えなかった。
 ある世代がいつか、資本主義を復活させるときが来る。
 しかし、そうであっても、その後世の者たちがもう一度、資本主義を打倒するだろう。//
 (42)正統マルクス主義から本質的に離反しているもう一つは、農民崇拝(cult)が共産主義の主柱としてあることだ。ヨーロッパ共産主義ではこれに対して、農民は革命闘争の補助勢力にすぎないし、そうでなければ、蔑視された。
 毛沢東は、1969年の第9回党大会で、人民軍が都市を制圧するのは、さもなくば蒋介石が都市部を維持し続けただろうから、「よい事」だった、しかし、そのことで党内の腐敗が生じたので、「悪いこと」だった、と述べた。//
 (43)肉体労働の崇敬を含む農民と田園生活の崇拝によって、毛主義の特質の多くを説明することができる。
 マルクス主義の伝統は身体労働を必要悪と見なし、技術の進歩によってその必要悪から徐々に解放されるだろうと考えた。
 しかし、毛沢東の考えで、身体労働にはそれ自体の崇高さがあり、他のもので代替できない教育的価値がある。
 学生や生徒が時間の半分を肉体労働に捧げるという考えは、経済的必要によるというよりも、それと同じ程度以上に、人格を形成するための影響力によるものだった。
 「労働を通じての教育」は普遍的な価値をもち、毛主義の平等主義の考えと密接に関係している。
 マルクスは、肉体労働と精神労働の差異はいずれは消滅する、もっぱら頭を使って働く一群の人々と筋肉だけを使って働く人々がいるべきではない、と考えた。
 「完全な人間」というマルクスの理想の中国版は、知識人には樹木を伐採させたり溝を掘らせ、大学教授たちはほとんど読み書きのできない労働者の隊列の中から集められなければならない、というものだった。
 なぜなら、毛沢東が明瞭に述べたことだが、無学の農民ですら知識人たちよりも経済問題をよく理解している。//
 (44)しかし、毛沢東理論はさらに進んでいる。
 学者、文筆家、芸術家が農村の労働や特別の施設(つまり強制収容所)での教育的労働へと放逐されなければならないのみならず、知的な作業は容易に道徳的頽廃に変わり得ることや、人民が多数の書物を読みすぎるのを是非とも阻止しなければならないことを、認識しなければならない。
 この考え方は、毛の演説や会話の中で多様なかたちをとって頻繁に出てくる。
 毛沢東は一般に、人民は知れば知るほど悪くなる、と考えていたように見える。
 彼は成都(Chengtu)での1958年3月の党大会で、歴史をとおして見て、ほとんど知識のない若者の方が教養ある者たちよりも良かった、と述べた。
 孔子、イエス、ブッダ、マルクス、孫文(孫逸仙, Sun Yat-sen)は、彼らの思想を形成し始めたときにはまだきわめて若くて、多くのことを知っていなかった。
 ゴールキ(Gorky)は2年間だけ学校に行き、フランクリンは街頭で新聞を売った。
 ペニシリンの発明者は、洗濯屋で働いていた。
 1959年の毛の演説によると、漢の武帝の時代に、首相のChe Fa-chih は、無学だったが詩を作った。しかしながら、彼自身は無学(illiteracy)と闘うのに反対しなかった、と毛は付け加えている。
 1964年2月の別の演説で述べたのはこうだった。明王朝には二人しか良い皇帝はいなかったが、二人ともに無学だった。そして、知識人たちが国を乗っ取ったときに、国は荒廃し、破滅した。
 「書物を多すぎるほど読むのは、有害だ。
 我々は、マルクスの本を読むべきだが、多すぎるほど読んではいけない。
 十冊かそれくらい(a dozen or so)読むので十分だろう。
 あまりに多く読みすぎると、我々の反対物へと向かい、本の虫、教条主義者、そして修正主義者になる可能性がある」(Schram, p.210)。
 「梁王朝の武帝は、初期の時代には相当に良かったが、のちに多数の書物を読んだ。そして、もはや十分には仕事ができなかつた。
 彼は、T'ai Ch'eng で、飢えて死んだ」(同上、p.211)。//
 (45)こうした歴史的考察から得られる道徳は明瞭だ。すなわち。知識人は農村へと労働ををすべく送られなければならず、大学や学校で教育する時間は削減されなければならない(毛沢東はしばしば、知識人は全段階の教育を受けるのが長すぎると述べた)。そして、入学は政治的な規準に従わなければならない。
 最後の点は、党内部で激しい論争があった問題だったし、現在でもそうだ。
 「保守派」は、少なくとも一定の最小限度の学問的規準が入学や学位の授与には適用れさるべきだと主張した。一方、「急進派」は、社会的出自と政治的意識以外のものは何も考慮されるべきではない、と考えた。
 後者は明らかに、毛沢東の考えと一致する方向にある。毛は1958年に、満足感をもって二度、中国人はどんな好む絵でも描くことができる白紙のようなものだ、と述べた。
 //
 (46)知識、専門家主義および特権階級によって創造された文化全体に対する深い不信感は、明らかに、中国共産主義の農民起源性を示している。
 この不信感はどの程度にマルクスの教理、レーニン主義を含むヨーロッパ・マルクス主義の伝統と矛盾しているかを論証する必要はない。ロシア革命の最初には、教育に対する類似の憎悪の兆しがあったのだけれども。
 教育を受けたエリート(élite)と大衆の間の深い溝が以前はロシア以上に深かったように見える中国では、無学の者は当然に学者たちに優先するという考えは、下からの革命がもつ完璧に自然な結果であるように見える。
 しかしながら、ロシアでは、教育や専門家主義に対する敵意は、決して党の基本的政策方針の特徴ではなかった。
 党はもちろん、古い知識人層を一掃し、人文学研究、芸術および文学を、政治的なプロパガンダの道具に変え始めた。
 しかし、同時に党は、専門家尊重を宣言し、高い程度の専門化にもとづく教育制度を発展させた。
 ロシアの技術、軍事および経済の近代化は、かりに国家イデオロギーがそれ自体のために無知を称揚して多数の本を読みすぎないよう警告していたとすれば、全く不可能だっただろう。
 しかしながら、毛沢東は、中国はソヴィエトのやり方では近代化しないし、そうできないだろうことを自明の前提としていたように見える。
 毛はしばしば、他国の「盲目的」模倣に反対して警告した。
 「我々が外国から模倣する全ては、厳格に採用された。だが、それは大敗北に終わった。白軍の領域での党組織はその強さの100パーセントと革命的基盤を失い、赤軍はその強さの90パーセントを失った。そして、革命の勝利は長年の間、遅れた」(Schram, p.87)。
 別の場合について、ソヴィエト範型の模倣は致命的影響を及ぼす、と毛は観察していた。彼自身が3年間、卵と鶏のスープを飲食できなかったが、それは、あるソヴィエトの雑誌がそれらは人の健康に悪いと書いていたからだった。//
 (47)こうして、毛主義はエリート(élite)文化に対する農民の伝統的な憎悪(これは例えば16世紀の改革の歴史によくあった特質だった)を表現するのみならず、中国人の伝統的な外国恐怖症、そして外国や白人出自のもの全てに対する不信をも、示していた。白人たちは一般に、帝国主義的浸食を支持していた。
 中国のソヴィエト同盟との関係は、こうした一般的態度を強化したものにすぎなかった。//
 (48)同一の理由で、中国人は工業化の新しい方法を探し求めた。
 これは「大躍進」の大失敗で終わったのだったが、その背後にあったイデオロギーは放棄されなかった。
 毛沢東とその支持者たちは、社会主義の建設は「上部構造」で、つまり「新しい人間」の創出でもって始まらなければならない、と考えた。
 この考えは、イデオロギーと政治は蓄積率に関するかぎりは最優先されるべきだ、社会主義は技術的進歩や福利の問題ではなく、諸制度と人間諸関係の集団化の問題であり、その集団化から、理想的な共産主義諸制度を技術的に未熟な条件のもとでも生み出すことができる、というものだった。
 しかしながら、これらのためには、旧来の社会的連関や不平等の原因となる条件の廃棄が必要だ。そのゆえに、とくに国有化に抵抗する家族的紐帯を破壊しようとする中国共産党の熱情は、私的な動機づけや物質的誘導(「経済主義」)に反対する運動とともに、強いものだった。
 もちろん、熟練技術や行う仕事の種類を理由として、報酬はある程度は区別されていた。しかし、ソヴィエト同盟と比べれば、その差は少なかったように見える。
 毛沢東が考えていたのは、人民が適切に教育されれば彼らは特別の誘導がなくとも懸命に労働するだろう、「個人主義」と自分自身の満足を目指す願望はブルジョア的心性の有害な残存物であって排除されなければならない、ということだった。
 毛主義は、全体主義ユートピアの典型的な例だ。そこでは、全てが個人の善とは反対の意味での「一般的な善」に隷従しなければならない。「一般的な善」が個人の善を除外してどのように明確になるのかは明瞭ではないけれども。
 毛沢東の哲学は、「個人の善」という観念を用いなかった。「個人の善」はソヴィエト・イデオロギーでは重要な役割を果たし、かつあらゆる形態でのヒューマニズム的用語法を避けもした。
 毛沢東は、「人間の自然的権利」という観念を明示的に非難した(Schram, p.35)。すなわち、社会は敵対的階級によって構成されているのであり、共同体もそれら階級の間の相互理解も存在し得ない。また、階級から独立したいかなる文化形態も存在しない。
 「赤い小語録」は、こう語る(p.15)。「我々は、敵が反対するものは何でも全て支持し、敵が支持するものは何でも全て反対しなければならない」。-これはおそらく、ヨーロッパのマルクス主義者ならば書かなかった文章だろう。
 過去、伝統的文化、そして階級間の溝を埋める可能性のある全てのものと、完璧に決裂しなければならない。//
 (49)毛自身が繰り返した声明によれば、毛主義は、特殊中国的な条件にマルクス主義を「適用したもの」だ。
 すでに行った分析から分かるだろうように、毛主義は、レーニンによる権力奪取の技術の用い方として、より正確に叙述されている。マルクス主義のスローガンは、マルクス主義とは疎遠であるか矛盾するかする思想や目的を偽装するものとして役立った。
 もちろん、「実践の優先」は、マルクス主義に根ざす原理だ。しかし、読書は有害だ、無学の者は教養ある者よりも当然に賢いという推論を、マルクス主義の語彙でもって防御することは、じつに困難だろう。
 最も革命的な階級であるプロレタリアートにとっての農民の補充性という考えは、マルクス主義の伝統全体と、明らかに合致していない。
 同じことは、階級の対立は絶えず発生せざるを得ない、そのゆえに定期的な革命でもって解消されなければならない、という意味での「永続的革命」という考えについても言える。
 精神労働と肉体労働の「対立」を廃棄するという考え方は、マルクス主義的だ。しかし、身体労働を最も高貴な人間の仕事として崇敬することは、マルクスのユートピアの醜怪な解釈だ。
 農民が労働の分割によって腐敗していない「完全な人間」の至高の代表者だという考えは、ときには前世紀のロシアの人民主義者(populists)の間に見ることができる。しかし、これまた、マルクス主義の伝統と全く矛盾するものだ。
 平等という一般的原理は、マルクス主義的だ。しかし、知識人たちを米の田畑に追い払うという政策にこの平等原理が具体化されるとマルクスは考えた、と想定するのは困難だ。
 いくぶんか時代錯誤的に比較するならば、我々はマルクス主義の教理の観点から、毛沢東主義は原始共産制の類型の一つだ、と見なしてよい。その原始共産制は、マルクスが述べたように、私的所有制を克服するものではないのみならず、私的所有制にすら到達していない。//
 (50)一定の限られた意味では、中国共産主義はソヴィエトのそれよりも平等主義的だ。
 しかしながら、それはより全体主義的でないのが理由ではなく、より全体主義的だからだ。
 賃金や給料に差が少ないのは、より平等主義的だ。
 階位を示す軍の徽章のような階層性の表徴は廃止され、体制は一般にはソヴィエト同盟よりも「人民主義」的だ。
 民衆を統制下におき続けるためにより重要な役割を果たしているのは、地域または労働場所ごとに組織された諸制度だ。そして、職業的な警察の役割は、それに応じて小さい。
 普遍的なスパイ活動と相互告発のシステムは、多様な種類の地方委員会をつうじて作動しているように思われるし、市民の義務だと公然と見なされている。
 他方で、ボルシェヴィキがかつて得た以上の民衆の支持を毛沢東が獲得しているのは、本当だ。よって、ボルシェヴィキがそうだつた以上に、毛沢東の力は信頼されている。
 このことは、外部に向かって発言せよと人々に何度も指令した(スターリンも場合によってはこれを採用した)ことよりも、文化革命の間に既存の党機構を打倒すべく若者たちを煽動するというリスクを冒したことに見られる。
 しかし他方で、混沌の全期間をつうじて、彼が権力と実力行使の装置を握りつづけたことは明瞭だ。これら装置によって、助言に従う者たちが過剰になるのを抑制することができた。
 毛は何度も、「民主集中制」という福音を繰り返した。そして、彼のこれに関する解釈がレーニンのそれとどのように違っていたのかは、明瞭でない。
 プロレタリアートは党をつうじて国家を統治し、党の諸活動は紀律にもとづき、少数者は多数者に服従し、そして全党は中央指導層に従う。
 民主集中制は「まず何よりも、<中略>正しい考えの中央集権化だ」(Schram, p.163)と毛沢東が説くとき、そこに疑いなくあるのは、ある考えが正しい(correct)か否かを決定するのは党だ、ということだ。
 ----
 ⑥へとつづく。

2159/L・コワコフスキ著第三巻第13章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。分冊版、p.491~p.494。
 第13章・スターリンの死以降のマルクス主義の展開。
 ----
 第5節・マルクス主義と「新左翼」②。
 (8)一般的に言って今日の状況は、マルクス主義が、その多くが相互の関わり合いのない広範囲な関心と希望の糧を提供している、ということだ。
 もちろんこのことには、対立する全ての人間の利害と考えがキリスト教の外衣を纏つてその独特の言語を用いた、そういう中世的類型の普遍主義からの、長い道程がある。
 マルクス主義という知的な装いは、一定の思想学派で用いられているにすぎない。しかし、その数はきわめて多い。
 マルクス主義のスローガンは、アフリカやアジアの多様な政治的運動によって、また国家的強制の方法で後進状態から抜け出そうとする諸国によって、頼るべきものとして求められている。
 こうした運動が採用し、または西側のプレスがそれらに適用するマルクス主義というラベルが意味するのは、それらの運動がソヴィエト同盟または中国から軍事物資を受け取っているということにすぎない。そして「社会主義」がしばしば意味するのは、国家が僭政によって支配され、政治的反対派は存立が許されない、ということだ。
 マルクス主義的な語法の断片は、多様なフェミニスト集団や、またいわゆる性的少数者によってすら、用いられている。
 マルクス主義の用語は、民主主義的な自由を守るという文脈ではほとんど適切には用いられていない。これはときどきは用いられているけれども。
 マルクス主義は、高い次元のイデオロギー的兵器たる地位を獲得した。
 世界大国としてのロシアの利益、中国ナショナリズム、フランス労働者の経済的要求、タンザニアの工業化、パレスティナのテロリストたちの活動、アメリカ合衆国での黒人人種主義。-これらは全て、マルクス主義の言葉を使って表現している。
 これらの運動や利益のいずれかに、誰も真面目にはマルクス主義「正統派」を認知することはできない。マルクスの名前はしばしば、マルクス主義は革命を起こして人民の名前で権力を奪取することを意味すると聞いた指導者たちが、頼って依拠するものになっている。こうして、マルクス主義は、彼らの理論的知識の総量になっているのだ。
 (9)疑いなく、マルクス主義イデオロギーの普遍化は、先ずはそして最も多くは、レーニン主義による。レーニン主義は、全ての現存する社会的要求と不満を一つだけの水路に向けて流し込んで、その勢いを共産党の独裁的権力を確保するために使う力がある、ということを示した。
 レーニン主義は、政治的機会主義を、理論の権威にまで高めた。
 ボルシェヴィキは、マルクス主義の「プロレタリア革命」の図式とは何ら関係がない情況で、勝利へとかけ登った。
 ボルシェヴィキは社会に現実にあった要求と願望を梃子として用いたがゆえに、勝利した。その要求や願望は、主としては民族と農民の利益だった。これらは、古典的なマルクス主義の観点からは「反動的」なものだったけれども。
 レーニンは、権力奪取を望む者は、教理上の考察などは考慮することなく、全ての危機と全ての不安の兆候を利用しなければならないことを、示した。
 全てのマルクス主義者の予見にもかかわらず、ナショナリスト感情と願望が最も力強いイデオロギーの活動形態だという情況では、「マルクス主義者たち」が、ナショナリスト運動が既存の権力構造を破壊するに十分な強さをもつときにはいつでも、それを自分たちと一体化させるのは、自然なことだ。//
 (10)しかしながら、マルクス主義の語法を用いる世界のいたるところにある多様な利益は、しばしば相互に対立し、別の観点から見ると、マルクス主義の普遍性は解体へと達する。
 ロシアと中国の両帝国の間の聖なる戦争では、どちらの側も、同等の権利をもってマルクス主義スローガンを掲げることができる。
 この状況では、スターリン死後の時代の国際共産主義運動を引き裂いた、大分裂が発生せざるをえない。
 さらには、多様な分裂はすでに1920年代に萌芽的にあった傾向を表現している。その趨勢は、スターリニズムの圧力のもとで消滅した、あるいはごく辺縁でのみ残存したのだけれども。
 この傾向が包含する諸要素は、のちに毛沢東主義になったもの(サルタン=ガリエフ〔Sultan-Galiyev〕、ロイ〔Roy〕)、共産主義改革派(今日の多様な西側諸党、とくにイタリアとスペインの共産党)、プロレタリアート独裁を行使する労働者評議会という考え、「左翼」共産主義というイデオロギー(Korsch、Pannekoek)だ。
 これらの考え方は、いくぶんは変わってはいるけれども、現在でも再現されてきている。//
 (11)最近のおよそ15年の間のマルクス主義の重要な主張は、産業の自己統治というイデオロギーだ。
 しかしながら、これの起源はマルクス主義ではなく、Proudon やBakunin が代表するアナキストやサンディカリストの伝統だ。
 労働者による工場管理という考えは、19世紀のイギリスのギルド社会主義者たちが論じたもので、マルクス主義からの影響は何もなかった。
 アナキストのような社会主義者は、当時にすでに、産業の国有化は搾取を失くすことができないだろうと気づいていた。他方でまた、個々の会社の完全な経済的自立は、その全ての帰結を伴う資本主義的競争の復活を意味するだろう、ということも。
 ゆえに彼らは、議会制民主主義と代表制産業民主主義の混合システムを提案した。
 ベルンシュタイン(Bernstein)もまた、この問題に関心をもった。そして、十月革命のあとで、ソヴィエト同盟と西側諸国の共産主義左翼反対派がいずれも、産業民主主義を求める声を挙げた。
 スターリンの死後、一つにはユーゴスラヴの実験が理由となって、この問題が復活した。
 フランスで最初に取り上げた一人は元共産党員のSerge Mallet で、<La nouvelle classe ouvrière〔新しい労働者階級〕>(1963年)の著者だ。
 彼は、産業の自立化の社会的帰結を分析して、熟練技術は労働者階級の「前衛」としてますます重要になっていると指摘した。しかし、生産の民主主義的制御の闘いを実行するという新しい意味で、この語を用いた。
 この闘争では、経済と政治の旧式の区別は消失する。
 社会主義の展望は、プロレタリアートの経済的要求によって開始される世界的な政治革命と結びついてはおらず、生産を組織する民主主義的な手段の拡大に関連している。その手段では、熟練技術をもつ賃金獲得者が本質的な役割を果たす。//
 (12)産業民主主義の可能性と展望の問題は、民主主義的社会主義では最も重要な意味をもつに至った。
 それ自体は、Marcuse やWilhelm Reich が喚起した新左翼の黙示録的夢想とは何の共通性もない。そして、歴史的にもイデオロギー的にも、マルクス主義とは別のものだ。//
 (13)スターリン死後のイデオロギー的議論の復活が生んだ副産物は、マルクス主義の歴史と理論への関心が増大したことだった。これは、アカデミズムでの関係文献の多さで示されている。
 1950年代と1960年代には、きわめて広範囲の著者たちによって、有益な著作が書かれた。 
 その中には、つぎの者たちが含まれる。
 鮮明なマルクス主義反対者(Bertram Wollfe、Zbignew Jordan、Gustav Wetter、Jean Calvez、Eugene Kamenka、Inocenty Bochenski、John Plamenatz、Robert Tucker)。
 および、マルクス主義に批判的かつ好意的な者(Iring Fetscher、Shlomo Avieri、M. Rubel、Lucio Colleti、George Lichtheim、David McLellan)。
 そして、あれこれの学派の正統派マルクス主義という少数グループ(Auguste Cornu、Ernst Mandel)。
 多数の研究書は、マルクス主義の起源、とくにその教理の側面でのそれ、を対象にしていた。
 レーニン、レーニン主義、ローザ・ルクセンブルク、トロツキー、そしてスターリンに関する文献が豊富にある。
 Korsch のような初期の世代のマルクス主義者のうちのある程度は、忘我の状態から救われた。ある程度は、再び登場した。
 マルクスのヘーゲルとの関係、マルクス主義のレーニン主義との関係、「自然弁証法」、「マルクス主義倫理」の可能性、歴史的決定論や価値の理論、に関する論争があった。
 マルクスの初期の理論-疎外、物象化、実践-にかかわる主題は、論議の対象であり続けた。
 マルクス主義に直接にまたは間接に関係する著作の多さは、この数年間に、飽き飽きするほどと感じられる程度にまでなっている。//
 ----
 第5節終わり。つぎの最終節、第6節の表題は、<毛沢東の農民マルクス主義>。

2141/J・グレイの解剖学(2015)③-ホブスボームら02。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)
 試訳をつづける。この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
 ----
 第6部/第32章・二人のマルクス主義予言者-Eagleton とHobsbawm②。
 (7)Eagleton は、マルクスの展望が決して実現され得ないことを嘆く。-これは、彼が見るように、人間の弱さを悲劇的に示唆するものだ。
 しかし、非人間的であるとは、理想そのものだ。
 種の少数者のみならず、多数者もまた、マルクスやレーニンが想定した世界から排除されている。
 共産主義の理想が実現される社会は、人間がかつて生きてきたどの時代よりも悪いだろう。
 ボルシェヴィキは、ふつうの生活に対する憎悪に駆られて、神話や宗教のない世界を欲した。そこでは、人間が自分たち自身を理解して実現する個々の共同体は忘れ去られる。
 幸福なことに、そのような世界は最も強力で永続する人間の需要に反して作動するのであり、そのゆえに、不可能なのだ。
 (8)ソヴィエト国家が克服しなければならない障害-ツァーリ体制の遺産、外国の干渉、内戦-を繰り返し訴える在来の学問上の知識によるのとは反対に、最初から最後までソヴィエトの生活に明確な抑圧は、原理的に共産主義思想そのものから流れ出てきた。その思想によるなら、社会の残余と異なるいずれのグループも、いずれは破壊されなければならないのだ。
 興味深いことに、Eagleton はこのことを否定しない。
 多くの者と同様に、彼は、抑圧はまるでスターリンのもとでのみ苛酷になったかのごとく書いている。これはナンセンスだ。
 しかし、彼の主要な主張は、こうだ。西側諸国では達成されていない社会的団結の一類型を生むのを可能にするがゆえに、ソヴィエトの抑圧は、それを行うだけの価値があった。 彼は、ソヴィエト同盟は「西側諸国ならば別の土地の原住民を殺戮しているときにのみ掻き集めることができると思える、そのような市民間の連帯を促進した」、と我々に語る。
 もしも-Eagleton が認めるように-それが恐怖に依存しているならば、その団結にはいかほどの価値があるのか、という疑問は、別に措くことにしよう。
 もっと根本的な疑問は、彼が書く連帯はかつて存在したのかどうか、だ。
 Eagleton は一度でも、以前のソヴィエト・ブロックを訪れたのか?
 かりにそうであれば、彼はふつうの民衆たちとの接触を何とかして避けたのだろう。
 (9)そこに旅行して公式会合やホテルのバー以外の所に行く冒険心のある者に対して誰もが言っただろうように、ソヴィエト・ブロックの社会はその作動に関して完全にホッブズ的だった。
 そこにある通常の人間の状態は、連帯ではない。原子化された孤立だ。
 自由な住居、医療および教育といった装置が広がっていたのは本当だ。しかし、特権と遍在する腐敗のネットワークを通じてのみこれらのものを利用することができた。
 失業(これは違法だった)に苦しむことはなかったけれども、労働民衆は、絶えず遂行される全員に対する全員の闘争に敗れた。
 独立した労働組合または政治組織に類似したものはなかったので、彼らは、自分たちの労働条件を制御したり、社会での自分たちの地位を改善することができなかった。
 (10)共産主義の崩壊の結果として、ふつうの市民の中では、西側により援助されたショック療法によるインフレで台無しとなった年金生活者だけがおそらく、生活条件が疑いなく悪化した。
 市場での交換に支配されて、共産主義は実際には、通常は<レッセ・フェール>資本主義を想起させる略奪文化に似たものをもつにすぎなかった。
 Eagleton は、こうした事実に注意を向けない。世界についての彼の見方は、事実にもとづいて形成されていないからだ。
 彼は、「資本主義は世界のある範囲の部門に莫大な富をもたらしたという意味で、資本主義はある時代の間には機能する」ことを承認する。但し、それは、「スターリンや毛沢東がそうしたのと同じく多大な人的コストを払ってなされた」のであって、「今や地球全体をすっかり破壊してしまおうとしている」という主張へと進むためにすぎない。
 現今の資本主義の過剰はスターリニズムや毛主義が冒した犯罪と同等のものだ、という見解は、気が狂っている(crazy)。
 現在の西側資本主義は多くの欠陥をもち、それらのいくつかはおそらく致命的だ。
 しかし、自分たち自身の市民を大量に殺戮したシステムと同一の範疇でもって位置づけることはできない。そのシステムは、現代での、たぶん歴史全体での、最悪の生態学上の大災難について責任があった。
 (11)Eagleton の粗野な誇張語法は、彼が悲劇の精神を称賛するときに何を意味させたいのかを我々に語ってくれる。
 正しいものが小さくともなお邪悪なものと一時的な妥協を行うことを必要とするときに、悲劇は出現する。
 これは、チャーチル(Churchill)がスターリニズム・ロシアとの同盟をどのように理解したかを示すものだ。
 ナツィズムを破壊しなければ、ヨーロッパまたは世界で文明は生き延びることができない。だが、その文明という目的の確保は、野蛮に染まった体制に戦力を加えることを意味した。
 本当に悲劇的な対立は、論理のオッカムの剃刀(Occam's razor)によく似た禁止に適合しているがゆえに、認知することができる。すなわち、悲劇は、必要以上に複雑にされてはならないのだ。
 悲劇は、生活を楽しくかつ面白いものにする方策ではない。
 悲劇は、諸悪の間で選択を余儀なくされるという場に直面したときに生じる。そしてそれは、不可能な目的を追求して残忍非道な手段が用いられるときに生じる道徳的恐怖と、明瞭に区別されなければならない。後者は、恐ろしい犯罪が主として、犯罪を冒した者たちの生活の意味を確保するために行われているという悲劇の語を悪用するものだ。
 自殺爆弾攻撃はその例だ。また、ソヴィエト共産主義もそうだ。
 (12)Eagleton が我々に望んでいるのは、共産主義の人的対価を、共産主義が達成しようとした理想とのバランスで考察することだ。
 彼は正当に、大きな善は大きな犠牲を必要とする、と主張する。この必要性はときには、合理的な解消方法のない諸価値の対立を含む。
 しかし、彼のこのような思考が支離滅裂であることは、つぎのように彼が問うときに明白になる。-「現代科学と人間の自由(liberty)の価値を、種族社会の霊的な善とどうやって比較検討(weigh)するのか?」。
 民主主義を、ホロコーストと同じ尺度に置けば、いったいどうなるのか?
 種族的生活-どんな霊的善も可能だ-は現代の生活条件とはうまくは両立しないかもしれない。しかし、民主主義はホロコーストという犠牲を払ってのみ達成することができるという思考のために、どのような根拠が成り立ち得るのか?
 Eagleton は単直に言って、邪悪と不必要な悲劇を区別することができない。後者は、馬鹿げて不快な夢想を追求する際に招来される。そして彼は、最悪の種類の道徳的ナンセンスの中へと滑り込んでいる。
 ----
 ホブスボームら03へとつづく。

2121/J・グレイ・わらの犬(2002)⑦-第3章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.90~p.105。太字化は紹介者。
 ***
 第3章・道徳の害[The Vices of Morality]。
 第1節・磁器と命の値段[The Porcelain and the Price of Life]。
 (1) B・チャトウィン〔Bruce Chatwin〕の小説の、チェコスロヴァキア占領と共産党政権の支配を利用してマイセン磁器を買い漁ったウッツ[Uts]男爵には、「友情の深みも、変わらぬ愛も、主義に殉じる信念も」ない。「稀に見る道徳意識の欠如」を指摘するのは簡単だが、「同時代の市民一般と、いったいどこが違う」のか。「ナチス占領時代から共産主義政権の時代にかけて、大方の市民は唯々諾々と時の権力に従った」のではないか。
 「道徳」を「尊重すべき特別な価値体系」だと考えつつも、「自分に忠実にあろうとすれば」道徳には社会通念が教える以上に「はるかに重みがない」ことに気づくはずだ。
 「道徳」最優先の大本はキリスト教で、神は「義」を命じ「悪」を禁じる。この見方は「とうの昔に廃れた」かもしれないが「今なお広く浸透している」。ヨーロッパ啓蒙運動のヒューマニストたちは「旧時代のキリスト教徒と同様、道徳を絶対視した」。哲学者はとくに「道徳」の意味を問題にしつつ、「道徳的」が最善であることの理由を疑わない。
 小説<ウッツ男爵>に学ぶのは「道徳の虚構」だ。人は生き方を語るときに「道徳」を持ち込んで「生きている自身の姿をぼやかす」。
 (2) 実話。-ナチス強制収容所では無帽で朝礼に並ぶと即銃殺。16歳の収容者を強姦した看守は彼の帽子を盗む。銃殺死すれば強姦の事実は闇へ。その少年はしかし、隣で寝る同胞の帽子を奪い、翌朝その同胞は射殺される。少年は「仲間の死」をこう描く。
 「頭に一発。撃つのは後頭部と決まっている」。「死んだ男がどこの誰か、そんなことはどうでもよかった。生きている歓喜が身内を貫いた」。
 「同胞の貴重な命を救って、自分が死に甘んじる」べきだったか。「手段を選ばず生き延びた青年は許される」か。「道徳は一種の便宜であって、平時にしか通用しない」。
 第2節・道徳の迷信[Morality as Superstition]。
 「道徳を律法の体系」とするのは聖書だが、ユダヤ人に与えられた「神の律法が人間全てを支配する」とするのはキリスト教の独創だ。キリスト教世界は「ユダヤ主義」の「進展」ではなく「後退」だ。全人間を従わせる「律法」という発想と「道徳観こそが、愚劣な迷信」だ。
 第3節・人命軽視[The Unsanctity of Human Life]。
 タスマニア先住民は奴隷となり虐殺されて、5000人以上が1830年には72人に減った。「大虐殺〔genocide〕は、芸術や祈りと同じ人間の行いである」。「大量虐殺は技術進歩の副作用」で、人間は道具を「殺し合い」に使ってきた。J・ダイアモンド〔Jared Diamond〕によると、「古代史は人間の大量虐殺嗜好を証明する」。
 時代は下っても、1492年~1990年に「少なくとも36例の大虐殺」があり、1950年以降でも「20回」を数えた。バングラデシュ・カンボジア・ルワンダ、各々100万人以上。
 タスマニアに入植した善きキリスト教者は「生命の神聖さ〔sanctity〕」を信じたが、その信念は「自分たちの生活圏〔Lebensraum〕の拡大」を抑止せず、キリスト教勢力は1世紀後にヨーロッパが「例のない大量虐殺の現場」になることを防止できなかった。犠牲者の数ではなく「一つの文化をそっくり滅ぼそうと企てた、その魂胆」が問題だ。アーサー・ケストラー〔Arthur Koestler〕の小説<到着と出発>〔1943〕は、総統の目論見をこう描く。
 「ユダヤ人絶滅」は2年以内だろう。「一個人としてはジプシー音楽を愛好し、ときに知恵あるユダヤ人の諧謔を喜ばぬでもないが、我々はヒトの染色体から、…なる要素をもつ流民の遺伝子〔nomagic gene〕を除去しなくてはならない。…手段として、まずは皮下注射器、ランセット、避妊具等を用いる」。
 こうまで過激でなくとも、同じ可能性は「少なからぬ進歩的知識人」も語った。バーナード・ショー〔George Bernard Shaw〕はナチス・ドイツを「ヨーロッパ啓蒙運動の正統な後継ぎ」だとした。
 ナチズムを「啓蒙運動と真っ向から対立する」と見るのは間違いで、「寛容と個人の自由」を掲げる「啓蒙」に「人類の希望」を託した点で、ヒトラーはニーチェと同じだった。優秀な人種を育て、劣等な人種を排除することで、人類は将来の「重大な任務」を全うできる。「科学」による「因習」との断絶・「精神」の純化で初めて、人類は地球の支配者たり得る。
 ショーのナチズム観は「あながち牽強付会」ではなく、ショーの見方ではソ連とナチスは「ともに進歩的な体制」で、「邪魔な余剰人口」の抹殺に不都合はない。この作家にとって、犯罪者は皆殺しがよく、投獄は税金の無駄遣いだ。彼は1930年8月にモスクワで、「飢えに苦しむ聴衆を前に」、「人災の犠牲者に笑いかけた」。
 西側知識人の多数は、「おそらくは古今未曾有の大量殺人が進歩的な現政権下で起きていることを見抜けなかった」。だが、1917-1959年に「6000万を超える一般的庶民がソ連領内で死亡した」。秘密どころか、「公然の政策だった」。ヘラーとネクリッチ〔Michael Heller & Alexander. M. Nekrich, in: Utopia in Power, 1983〕はこう書く。
 「ソヴィエト市民が地方での大虐殺〔massacres〕を知らないはずはない。それ以上に、誰も秘密にしていない。スターリンは「富裕農民階級の廃絶〔liquidation of the kulaks〕」を公言し、取り巻きがこぞってこれに同調した。鉄道の各駅で、地方から逃げてきた夥しい婦女子が飢えて死にかけているのを都市住民は目のあたりにした。」
 西側知識人の「現実の認識」の甘さはよく疑問視されるが「現実が目に見えなかったはずはない」。移住者の手記の多数出版、ソヴィエト当局の発言からも状況は明確だったが、「その現実があまりにも過酷だったため、西側知識人には容認し難かった」。「自分たちの精神衛生〔peace of mind〕を考えて、知識人は分かりきっていること、疑わしく思うことを否定した」。
 「良心的知識人らは、進歩の追求が大量殺人に帰結したことを認める勇気がなかった」。
 20世紀が特殊なのは大虐殺の「頻発」ではなく、その「規模」と、それが「世界の進歩に名を借りた大計画のためにあらかじめ仕組まれたという事実」だ。
 第4節・良心[The Conscience]。
 「道徳家の建前では、良心の声は聞こえなくとも、つねづね残虐や不正を批判している。だが、そのじつ、犠牲者がこっそり葬られるかぎり、良心は残虐と不正を歓迎する。」
 第5節・悲劇の死[The Death of Tragedy ]。
 ヘーゲルによると「悲劇とは正義と正義の衝突」だが、悲劇は「神話」に由来し、「道徳と何の関係もない」。悲劇は「人間が勇気や知力をもってしても乗り切れない情況に屈することを拒んだとき」に、「圧倒的不利を承知で困難な道を選んだ人物」に起きる。
 「みすぼらしい犯罪者の人生が悲劇なら、世界に名を馳せる政治家の人生もまたみすぼらしいかもしれない。」
 今日のキリスト教教徒とヒューマニストは協力して「悲劇を不可能」にしている。天国で涙は拭われる。悲劇の効用は「逆境」に生きることの立派さを教えることにある。しかし、「極限の苦難が人間を高めるというのは、説教か、舞台の上のことである」。
 シャラーモフ〔Varlam Tikhonovich Shalamov〕は1929年に逮捕され3年の苦役、1937年に再逮捕されシベリア北東のコルィマで5年の流刑。そこで17年を過ごす。ここの収容所では推計で最小30万人死亡、毎年3分の1が絶命。彼の体験記<コルィマ物語>には「ソルジェニツィン風の教訓臭は微塵もない」。それでいて、「ときに抑制を忘れてか、悲憤の痛哭が行間にこぼれ出る」。彼は書く-「真っ当にふるまえる」と思う人間は「どん底に触れたことがない」、「『英雄のいない世界』で息を引き取るほかない境遇」とは無縁の人間たちだ。
 「文学趣味のお伽噺」ならば「悲劇と欠乏の緊迫が人間の深い絆」を生むかもしれないが、コルィマで生き延びるには「友愛も共感も希薄」だった。彼は書く-「悲劇と欠乏が…親愛を醸したとすれば、欠乏は極限になお遠く、悲劇は絶望にまで至っていなかったのだ」。
 一切を剥奪された収容者に「生きつづける理由」はなかったが、自ら命を絶つ機会が訪れても「気力、体力」がなかった。「死ぬ気」が萎える前に急ぐ必要があった。「飢えと寒さに衰弱し切って、収容者たちは無感覚なまま無情な死に向かって流されていくしかなかった」。彼は書く-「見るくらいなら死んだ方がましなことがいくらでもある」。
 「人生は最悪でも悲劇ではなく、ただ無意味なだけである。失意の底にあっても、あてどない人生はつづく」。「意志が挫ければ悲劇の仮面は剥がれ落ちて、後に苦しみが残るばかりだ」。「最後の悲劇は言葉にならない」。「悲劇の幻想にすがって生きるのは賢明だ」。
 シャラーモフは1951年に釈放され、1953年にシベリアを去る許可を得て、1956年にモスクワに帰った。「妻はとっくに別の男に走り、娘は接触を拒んだ」。彼は養老施設に住み、75歳のときに知人に詩を口述して外国で出版された。これが原因で養老施設を追われたが、コルィマに連れ戻されると思ってか激しく抵抗して「精神病院」に収容された。その3日後の1982年1月17日、「鉄格子が窓を塞ぐ狭苦しい」病室で死んだ。
 ----
 第6節以降へ。

2105/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、本文p.530までのうち、p.469-p.474。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
 ----
 第2節・東ヨーロッパでの修正主義⑤。
 (33)1968年8月のソヴィエトによる占領とそれに続いた大量抑圧は、チェコスロヴァキアの知識人たちや文化生活にほとんど完璧に息苦しい影響を与えた。他の同ブロック諸国と比べてすら、さらに気の滅入るがごとき様相だった。
 他方で、厳密にいえばチェコスロヴァキアでの改革運動が解体しておらず軍隊の実力行使によって抑圧されたことが理由なのだが、この国には修正主義の基本的考え方のための、なおも肥沃な土壌があった。
 つぎのように想像され得るかもしれない。すなわち、ソヴィエトの侵攻が起こらなければ、改革運動がドゥプチェク(Alexander Dubček)のもとで始まり、大多数の民衆に支持されて、システムの基盤を揺るがすことなく「人間の顔をした社会主義」に最終的には到達しただろう、と。
 この考えはもちろん考察に値するし、その考察は何を基礎的なものと見なすかにかかっているだろう。
 しかしながら、明確だと思われるのは、かりに改革運動が継続してポーランドのように侵攻によって弾圧されることもなく、侵攻を怖れて解体することもなかったとすれば、必ずやすみやかに多元的政党制度をもたらし、そうして、共産党独裁を破壊し、その教理自体が自己欺瞞的である共産主義を解体させただろう、ということだ。//
 (34)抑圧制度が一般的には他諸国よりも完全だった東ドイツでは、修正主義の広がりは全くなかった。それでもしかし、1956年の事件は東ドイツを揺るがせた。
 哲学者であり文学批評家であるWolfgang Harich は、ドイツ社会主義の民主主義的な綱領を提示した。それによって彼は、数年間、収監された。
 何人かの著名なマルクス主義知識人たちは、国を去った(Ernst Bloch、Hans Mayer、Alfred Kantrowicz)。
 現在もそうであるように、思想の厳格な統制によって、修正主義を主張するのはきわめて困難だった。しかし、ときたま、改革主義者の見解が聞こえてきた。
 哲学の分野では、この文脈で最も重要な人物は、Robert Havemann だった。哲学の問題に関心をもつ物理化学の教授で、他の多くの修正主義者とは異なり、ずっと確信的マルクス主義者のままだった。
 むろん西ドイツで出版された小論集で、彼は、科学と哲学での党の独裁を、そして理論上の諸問題を官僚的な布令でもって決定するという習慣を、鋭く批判した。
 加えて、弁証法的唯物論という教理、および共産主義者の道徳性に関する公式的規範を攻撃した。
 しかしながら、彼は、実証主義の観点からマルクス主義を批判したのではなく、逆に、弁証法がもっと「ヘーゲル主義化した」範型に回帰することを望んだ。
 彼は、レーニン主義的な決定論の範型は道徳的に危険で現代物理学と合致していない、と考えた。
ヘーゲルとエンゲルスに従って、たんなる描写にすぎないのではない、論理関係を含む現実性の見方である弁証法を想定(postulate)した。
 彼はこうしてBloch のように、弁証法的唯物論の術語の範囲内で、目的主義(finalistic)の態度を正当化しようとした。
 スターリン主義者による文化の隷従化を非難し、機械主義論の教理での自由の哲学上の否定を宣言した。機械主義的教理は、マルクス主義からは、共産主義のもとでの文化的自由の破壊と軌を一にすると見られていた。
 彼は、哲学上の範疇であり政治的な価値であるものとして「自発性」の再生を呼び求めた。しかし同時に、弁証法的唯物論と共産主義への忠誠心も強調した。
 Havemann の哲学上の著作は、化学者から期待するほどには厳密ではない。//
 (35)ソヴィエト連邦の哲学には、語り得るほどの修正主義は存在しなかった。しかし、若干の経済学者たちは、経営と分配の合理化を意図する改革を提案した。
 公式のソヴィエト哲学は、脱スターリン主義化の影響をほとんど受けなかった。一方で、非公式の変種的考えはすみやかにマルクス主義との関係を失った。
 公式の哲学で起きた原理的な変化は、弁証法的唯物論の諸公式はもはやスターリンの小冊子に正確に倣って教育することはできない、ということだった。
 1958年に刊行された教科書は、四つではなく三つの弁証法的法則を区別して、エンゲルスに従っていた(否定の否定を含む)。
 唯物論がまず解説され、その次が弁証法だった。これは、スターリンによる順序の逆だ。
 レーニンの<哲学ノート>で挙げられた弁証法の数十ほどの「範疇」は、新たに編成された定式の基礎となった。
 ソヴィエトの哲学者たちは、「形式論理に対する弁証法の関係」という昔ながらの主題について若干の討議を行なった。その多数見解は、主体・物質関係が異なるようには両者は対立しない、というものだった。
 ある者はまた、「矛盾」は現実性そのものの中で発生し得るという理論に挑戦した。
 ヘーゲルは、「フランス革命に対する貴族的反動」の化身だとされなくなった。
 それ以来、ヘーゲルの「限界」と「長所」について語るのが、正しい(correct)ことになった。//
 (36)こうした非本質的で表面的な変化の全ては、レーニン=スターリン主義的「弁証法的唯物論(diamat)」の構造をいささかも侵害しなかった。
 それにもかかわらず、ソヴィエト哲学は、他分野よりも少ない程度にだが、脱スターリニズム化から若干の利益を享けた。
 若い世代が舞台に登場してきて、自然なかたちで、西側の哲学と論理の考察、外国語の学修、そして非マルクス主義的なロシアの伝統の探究すら、を始め出した。-スターリンによる粛清を免れた数少ない残存者を除いて、能力のある教育者がほとんどいなかったのが理由だ。
 スターリンの死後5年間、若い哲学者たちはアングロ=サクソンの実証主義と分析学派にもっとも惹かれた。
 論理への対処法は、より合理的になり、政治的な統制により従属しなくなった。
 1960年代に出版された計5巻の<哲学百科>は、全体としては、スターリン時代の産物よりもましだった。つまり、主要なイデオロギー的論考、とくにマルクス主義に論及する論考は従前と同じ水準にあったが、論理や哲学史に関係する多数の論考が見られた。それらは理知的に執筆されており、国家プロパガンダに添って叙述されたにすぎないのではなかった。
 ヨーロッパやアメリカの思想と新たに接触しようとする若い哲学者たちの努力のおかげで、若干の現代的著作が、西側の言語から翻訳された。
 マルクス主義をおずおずと警戒しながら「現代化」する試みは、しばらくの間、1958年に出版され始めた<哲学(Philosophical Science(Filosofskie Nauki))>に感知することができた。
 しかしながら、公表されたものは、全体としては、発生していた精神的(mental)な変化を反映していなかった。
 スターリン時代に訓練を受けた辺境者たちは、若者たちのいずれが出版や大学での教育を許容されるのかに関する決定を行い続けた。そして、当然ながら、自分たちに合うものを好んだ。
 しかしながら、若い学歴の高い哲学者たちの何人かは、統制がさほど厳格ではない他の分野で自分の見解を表現する方法を見出した。//
 (37)しかし、全体としては、共産主義によって最初に破壊された学問分野である哲学は、再生するのが最も遅い分野でもあり、その成果は極端に乏しかった。
 他の研究分野は、元々は「スターリンによる」ものだった順序とは反対の順序で多かれ少なかれ回復した。
 独裁者の死から数年内に、自然科学は、事実上はイデオロギーによって規整されなくなった。但し、研究主題の選択は、従来どおりに厳格に統制され続けた。
 物理学、化学、および医学や生物学の分野では、国家は物質的な資源を提供し、用いられる目的を決定している。しかし、それらの成果はマルクス主義の観点から正統派(orthodox)のものでなければならないとは、もはや主張していない。
 歴史学は依然として厳格に統制されているが、政治的な微妙さがより少ない領域であるほど、規制に服することが少ない。
 しばらくの年月の間は、理論言語学は比較的に自由で、ロシアの形式主義学派の伝統を復活させた。しかし、この分野にも国家は研究機関を閉鎖することによってときおり介入し、多彩な非正統派の思想のはけ口として利用され続けていることを知らしめてきている。 しかしながら、1955年から1965年までの期間は、全体としては、荒廃した年月の後でのロシア文化を再生させようとする、かなりの程度の、かつしばしば成果のあった努力の時代の一つだった。
このことは、歴史編纂や哲学のほか、文学、絵画、劇作および映像について言える。
 1960年代の後半には、個人や研究機関を疑っての圧力が再び増大した。
 東ヨーロッパの状況とは違って、ソヴィエト同盟でのマルクス主義は、蘇生の兆候をほとんど示さなかった。
 とくにおよそ1965年以降に勢いづいている秘密のまたは内々のイデオロギー的展開の中には、マルクス主義的な動向をほとんど感知することができない。その代わりに見出すこができるのは(多くは「マルクス主義のないボルシェヴィズム」と称し得る形態での)大ロシア民族排外主義(chauvism)、抑圧された非ロシア民衆の民族的要求、宗教(とくに正教、広義のキリスト教、仏教)、および伝統的な民主主義的思想だ。
 マルクス主義またはレーニン主義は一般的反対派の小さな分派を占めるにすぎない。しかし、それは、現存する。その著名なソヴィエトの代弁者は、Roy とZhores のMedvedyev 兄弟だ。
 歴史家であるRoy Medvedyev は、スターリニズムの一般的分析を大々的に行ったことを含めて、いくつかの価値ある著書の執筆者だ。
 この分析書は他の出所からは知ることのできない多くの情報を含んでおり、確かに、スターリニズム体制の恐怖を言い繕う試みだと見なすことはできない。
 にもかかわらず、この著者の他書のように、レーニニズムとスターリニズムの間には大きな亀裂があり、社会主義社会のためのレーニンの企図はスターリン僭政によって完全に歪曲され、変形された、という見方にもとづいている。
 (この書のこれまでの章の叙述から明確だろうように、この書の執筆者は正反対の見方をしている。)//
 (38)最近の20年間、ソヴィエト同盟のイデオロギー状況は、多くの点で他の社会主義諸国で生じたのと同じ変化を経験してきている。
 マルクス主義は、一つの教理としては、実際には死に絶えている。しかし、マルクス主義は、ソヴィエト帝国主義、および抑圧、搾取と特権の国内政策全体を正当化するという、有益な機能を提供している。
 東ヨーロッパでと同様に、支配者たちは、かりに人民と共通する基盤を見出すのを欲するとすれば、共産主義以外のイデオロギー上の価値に頼らなければならない。
 ソヴィエトの民衆たち自身に関するかぎりでは、問題となる価値は、民族排外主義や帝国主義の栄誉だ。一方で、ソヴィエト同盟の全ての民衆は、外国人恐怖症に、とくに反中国民族主義や反ユダヤ主義に、陥りやすい。
 これこそが、言われるところのマルクス主義諸原理にもとづいて構成された世界で最初の国家に残された、マルクス主義の遺産の全てだ。
 この、民族主義的で、ある程度は人種主義的な見地は、ソヴィエト国家の本当の、公言されないイデオロギーだ。それは、暗示や印刷されない文章によって保護されているのではなく、それらによって吹き込まれている。
 そして、これはマルクス主義とは異なり、民衆の感情の中に、現実的な反響を呼び覚ましている。//
 (39)マルクス主義が完全に衰退し、社会主義思想が信頼を失い、そして勝利した社会主義諸国でと同じく嘲弄物(ridicule)に変わった、そのような文化的な世界のかけらは、たぶん存在しない。
 矛盾する怖れをもつことなく、次のように言うことができる。思想の自由がソヴィエト・ブロックで許容されていたとすれば、マルクス主義は、全地域での知的生活のうちの最も魅力がないものだということが判明しただろう、と。
 ----
 第2節、終わり。第3節の表題は、<ユーゴスラヴィア修正主義>。

2063/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳。分冊版、p.453~p.456。
 ----
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
 第1節・「脱スターリニズム化」②。
 (8)ポーランドでは、第20回党大会の時点ですでに社会的批判と「修正主義」(revisionist)の運動は大きく前進してはいたが、その大会とフルシチョフ演説は、党の解体を大きく加速させた。 
 また、体制を公然と攻撃する大胆な批判が可能になった。そして、統治機構を弱めて、長年にわたって蓄積していたが威嚇でもって抑えられていた社会不安が、ますます明白な形をとって表面に出てくるまでに至った。
 1956年6月、Poznań で労働者の蜂起が発生した。
 直接的には経済的困難が誘発したものだったが、ソヴィエト同盟とポーランド政府に対する、労働者階級の鬱積した憎悪が反映されていた。 
反乱は鎮圧されたが、党は士気と方向を失い、分派に攪乱され、「修正主義」が浸食した。
 ハンガリーでは、党が完全に崩壊して、民衆が公然たる反抗を行うまでに達した。そして政府は、ソヴィエト軍事駐留地(ワルシャワ協定)から撤退していると発表した。
 赤軍が反乱を鎮圧すべく介入し、指導者たちは容赦なく処理され、1956年十月の政府一員たちのほとんど全てが殺戮された。
 ポーランドは最後の瞬間で侵攻を免れたが、それの理由の一つは、従前の党指導者のWladyslaw Gomulka (W・ゴムウカ)が暴乱を回避する好運な人物として前面に出てきたことによる。この人物は、スターリンによる粛清の時代に生命を救われていた。政治的に収監されていたという、こうした彼の背景は、民衆からの信頼を獲得するのに役立った。
 当初はきわめて疑い深かったロシアの指導者たちは、最終的には-判明したように全く正当に-、ゴムウカはクレムリンの承認なくして権力を継承したけれども著しく従順でないことはないだろうと、そして〔ポーランドへの〕侵攻は多大な危険を冒すことになるだろうと、判断した。
 「ポーランドの十月」と言われるものは、社会的文化的な革新または「自由化」の時期を誘引するものでは全くなく、そのような試みが徐々に消滅していくのを表象していた。
 1956年のポーランドは、相対的に言って自由な言論と自由な批判の可能な国だった。それは、政府がそのように意図したのが理由ではなく、政府が事態掌握能力を失っていたことによる。
 まだ残っていた自由の余地は、年ごとに少なくなった。
強制的に設立されていた農民の協同組合は、その大部分がすみやかに解体された。
 しかし、1956年十月以降は、党機構が、失っていた地位を少しずつ回復した。
 党機構は統治の混乱を修復し、文化的自由を制限し、経済改革を停止させた。そして、1956年に自発的に形成されていた労働者評議会(councils)には全くの粉飾的な役割しか与えなかった。
 そうしているうちに、ハンガリー侵攻とそれに続く処刑の大波は、 他の「人民民主主義」諸国へもテロルをもち込んだ。
 東ドイツでは、積極的な「修正主義者」のうちの数人が拘禁された。
 脱スターリニズム化は、最後には激しい抑圧をもたらした。しかし、ブロック全体に生じた荒廃状況は、ソヴィエト・システムは以前と全く同じものではあり得ない、ということを示した。//
 (9)「脱スターリニズム化」という言葉は(「スターリニズム」と同様に)諸共産党自身が公式に用いたものではなかった。共産主義諸党は、その代わりに「誤りと歪曲の是正」、「人格崇拝の克服」、「党生活のレーニン主義規範への回帰」といった語を用いた。
 これらの婉曲語は、スターリニズムは無責任な大元帥(Generalissimo)が冒した遺憾な一連の過ちであってシステム自体とは関係がない、かつまた、体制がもつ抜群の民主主義的性格を回復するためにはスターリンを非難するので十分だ、という印象を与えることを意図していた。
 しかし、「脱スターリニズム化」や「スターリニズム」という用語は、共産主義諸国の公式の語彙の中では用いるのが排除されているというのとは異なる別の理由で、誤りに導くものだ。共産党員たちは、つぎの理由でこれらを用いるのを慎重に避けたのだから。すなわち、「スターリニズム」という語は支配の人格の欠陥から生じた偶然の逸脱ではなく、システムに関するものだ、との印象を与えたから。
 他方ではしかし、「スターリニズム」という語はまた、「システム」はスターリンの個性と結びついており、彼を非難することは「民主化」または「自由化」の方向への急激な変化の合図だ、ということも示唆する。
 (10)第20回党大会の背景が何だったかの詳細は知られていないけれども、振り返ってみると、25年間を覆ったシステムの一定の特徴がスターリンと彼が享有した侵し得ない権威なくしては維持することができない体制だった、ということは明らかだ。
 大粛清(great purges)以降にロシアにあった体制のもとでは、党や政府の最も特権をもつ者は全て、党の政治局員ですら、ある日とその翌日の間に、生きているのかそれとも破壊されているのかが僭政者のむら気による誤謬なき指立てによって決定される、という状況にあった。
 スターリンの死後に彼の継承者は誰もその地位につくはずがない、と彼らが懸念したのは、何ら驚くべきことではない。
 「誤りと歪曲」を非難することは、党の指導者たちの間での相互安全確保のための、不文の手段だった。
 そして、それ以降、他の社会主義諸国でと同様にソヴィエト同盟では、党内対立は廃された寡頭制の指導者たちによって生命を失うことなく解決された。
 周期的に行われた大虐殺には、政治的安定の確保という観点からは、たしかに一定の長所があった。分派を形成するのを不可能にし、権力装置の統一を確保してきたわけだ。
 しかし、この統一のために払った対価は、ワン・マン僭政制だった。また、全ての組織員が隷属状態に貶められることだった。彼らには、生命の持続自体が不確実だったのだ。彼らは、もっと悲惨な条件のもとにある他の奴隷たちの管理人たる地位をまだ享受していたけれども。
 脱スターリニズム化の第一の影響は、大量テロルが選択的テロルに代わったことだった。テロルはまだかなりの範囲で行われていたが、スターリンのもとでと比べれば、全く恣意的なものではなくなつた。
 ソヴィエト市民たちは、これ以来、多かれ少なかれ、監獄または強制収容所に入れられるのを回避する方法を知った。従前は、これに関する規準が完全になかったのだ。
 フルシチョフ時代の最も重要な出来事の一つは、強制収容所から数百万の人々が解放されたことだった。//
 (11)変化のもう一つの影響は、非中央化に向けた多様な動向が見られたことだった。そして、対立する政治グループを秘密に形成することが、より容易になった。
 経済改革の試みも行われ、一定の程度で、経済の効率性が改善された。
 しかしながら、重工業の優先というドグマは保持されたままで(Malenkov のもとでの短い中間期間を除く)、市場機構を解放することによって大衆の需要にもっと対応するように生産を変える歩みは、何らなされなかった。
 また、農業分野での実質的な改良も、何らなされなかった。頻繁に「再組織化」がなされたけれども、農業は集団化によって貶められた従来の惨めな状態のままだった。//
 (12)しかしながら、あらゆる変化も、「民主化」には到達せず、共産主義僭政体制を無傷なままに残した。
 大量テロルの放棄は人間の安全確保にとって重要なことだったが、個人に対する国家の絶対的権力を変えるものではなかった。
 個人には制度上の権利を何ら付与するものではなかった。また、全ての生活領域での主導性と統制力についての国家と党の独占を何ら侵害しなかった。
 全体主義的統治の原理は保持されたままだった。他方で、人間は国家の所有物のままで、人間の全ての目標と行動は国家の目的と必要に適合しなければならなかった。
 多くの生活分野で〔全体主義への〕吸収に対する抵抗があったけれども、現在もそうであるように、体制の全体が、可能な最大の限度で国家の統制を保障すべく作動した。
 大規模の無差別テロルは、必要で永続的な全体主義の条件ではない。
 抑圧手段の性格と強度は、多様な状況に応じて可変的だったかもしれない。
 しかし、共産主義のもとでは、法の支配のような原理は存在しなかった。その原理のもとでは、法は市民と国家の間の媒介者として機能し、個人<と向かい合う>国家の絶対的権力を剥奪する。
 ソヴィエト同盟および他の共産主義諸国の現在の抑圧体制は、たんなる「スターリニズムの残存」、またはシステムの根本的な変化なくしていずれは修復され得る遺憾な欠陥にすぎないのではない。
 (13)世界にある共産主義体制だけが、レーニン=スターリン主義の様式(pattern)だ。
 スターリンの死とともに、ソヴィエト同盟のシステムは、個人的僭政から寡頭制的僭政へと変化した。
 国家の万能性という観点からすれば、少しは効率の悪いシステムだ。
 しかしながら、それは、脱スターリニズムに至っているのではなく、スターリニズムの病原を継承しているシステムにすぎない。//
 ----
 つぎの第2節の表題は、<東ヨーロッパでの修正主義>。

2035/明治維新と日本共産党に関する小考。

 いろいろな「考え」・「思い」がふと生まれることがある。例えば、以下。
  西洋の力の背後に「キリスト教」を見て、明治政権は「天皇・神道」を対応する宗教として中軸に据えようとしたとの説明・論がある。
 しかし、キリスト教という「宗教」の世俗化またはそれと国家の分離のためにフランス革命があり、さらには「無神論」によるロシア革命までの動向があったとすると、西洋または欧米が世俗的にはすでに「キリスト教」という宗教から離れていた時代に、日本・明治政権は実質的に「神道」という宗教に依存しようとした。これは大いなる勘違い、ボタンのかけ間違いだったのではないか。
 しかし、神道または「神武創業・開闢」の原理の内容が実際には<空虚>であったため、実質的には自由に、欧米の近代「科学・技術」を何でも自由に「輸入して」、「文明開化」を推進することができた。
 しかしまた、天皇・神道原理からは具体的な近代的「政治」の原理は出てこなかったのだった。
  日本共産党が「天皇制打倒」を主綱領の一つにしたのは、ロシア革命での(正確には二月革命での)ロシア帝制「打倒」につづいて「社会主義」へと向かったという、ロシアの経験・成功体験にもとづくロシア共産党、そしてコミンテルンの方針にもとづく。
 (日本共産党の戦前の綱領類を誰が(どの日本人が)執筆したかを探ろうとする者がいるようだが、実質的にロシア語の翻訳の文章であるに決まっている。)
 上のことが実質的に、天皇制打倒=反封建(または反絶対主義)民主主義革命と社会主義革命という「連続」・「二段階」革命の基本方針となった。
 ロシアがソヴィエト連邦となった後のスターリンの時代だと、直接的な「一段階」の「社会主義」革命の方針が押しつけられた可能性がある。
 しかし、その時代、日本共産党はすでに実質的には存在せず(何人かのみが獄中にあり)、基本戦略を議論したり、受容する力が全くなかった。
 そのおかげで、戦後に復活した日本共産党は、若干の曲折はあったが、「民主主義」→「社会主義」という「二段階」革命路線を容易に採用することができた。
 かつそのおかげで、「社会主義」で一致しなくても「民主主義」という一点で引きつけて(党員の他に)少なくとも支持者をある程度は獲得することができ、国会内に議席を有する「公党」として生き続けることができている。
 前者一本だったとすると、とっくに消失しているだろう。あとは「社会主義」革命だけだったはずのイタリアの共産党はすでになく、フランスの共産党もなきに等しい。
  歴史というのは、「皮肉」なものだ。以上、思いつきまたは「妄論」の二つ。

1996/池田信夫のブログ008-マルクス。

 池田信夫ブログ2019年6月26日/7月1日「共産党の時代がやって来た」。
 最後に「意外に共産党の時代が来るかもしれない」とは、冗談がきつい。
 池田はマルクス主義の歴史をよく知っているらしい。今回も、こんな文章がある。
 ・「マルクスは国有化を否定したが、その後の社会主義では『生産手段の国有化』が最大のスローガンだった」。
 ・「マルクスが『プロレタリア独裁』を主張したのは戦術論であり、レーニンが暴力革命を起こしたのは、労働者階級の存在しないロシアでは、それ以外に政権をとる手段がなかったからだ」。
 ・マルクスは「未来の共産主義社会では、生産を管理するのは簿記のような機械的な仕事になると考えた」(→人工知能→共産党でも)。
 いくらでも議論ができそうな気がするが、ともあれ、池田信夫はマルクスに「若い頃に影響を受けた」とこの数年以内にどこかで明記していた。
 そして印象としては、マルクスだけは守りたい、または少なくともマルクスだけは全面的には否定したくない、という気分を持っていることが分かる。
 マルクスと資本論に関する著書もあるくらいだから、私などよりはるかにマルクスを読んでいる(読んだ)に違いない。
 しかし、マルクスと解体した「ソ連」またはマルクス・レーニン・スターリンの「関連」を冷静に、かつ多面的に論じるのは困難だし、<現実政治>または日本共産党の存在のもとでの日本での議論・検討がいかほどに学問的に?きちんと行われたかは、はなはだ疑わしい。
 秋月もまた、単純にマルクス=レーニン=スターリンと等号化できないことは当然のこととして理解できる。
 「マルクス=レーニン主義」というのはスターリンによる、その「真」の継承者として自分を正当化するための造語だった。上の三者のうちの最大の断絶はマルクスとレーニン・スターリンの間にあるだろう。日本共産党・不破哲三らが同意するはずはないが、後者は<レーニン・スターリン主義>または<ボルシェヴィズム>または<ロシア共産主義>と一括することができる。
 つい最近に試訳した1975年論考=<スターリニズムのマルクス主義的根源>でも、L・コワコフスキはスターリン時代に定式化された以上にマルクスの思想は「豊かで、繊細で、詳細だ」ということを認めている。
 また、その大著の中には、<レーニン主義はマルクス主義に関する可能な「解釈」の一つ>だと明記されていて、レーニン(・スターリン)の「責任」は全てマルクスに起因する、などとは書かれていない。
 L・コワコフスキほどに慎重で、注意深い、冷静な見方をする人物は稀少だろう。
 そして一方で、彼は、スターリニズムの「根源」はマルクスにある、レーニンもスターリンも決してマルクス主義を「歪曲」し、それから「逸脱」したのではない、決して「反マルクス主義」ではないと熱心に説く。
 彼によると、<真実=プロレタリアの意識=マルクス主義=党のイデオロギー=党指導者の考え=党のトップの決定>という等式には、「非マルクス主義のものは何もない」。
 あるいは、「マルクス主義の歴史哲学」は、「本質的に歪曲される」ことなくその「解釈」を通じて、スターリニズムに「イデオロギー上の武器」を与えた。
 150年ほど前のマルクス(・エンゲルス)の書いたことと、レーニンの書いたこと・したこと、スターリンの書いたこと・したことの「関連」を、単純に語れるはずがない。単純な原因・結果の関係ではない。
 思想、政治綱領、個別政策方針、さまざまの次元がある。<イデオロギー>が全てを決定したわけではないが、<マルクス主義>が全く無関係だったわけではなく、レーニンもスターリン(のイデオロギーと現実政治)も<その数ある延長線上にあったものの一つ>だと見ることも全く不可能ではない。
 これは、歴史の見方に関連する。ある観念・主張(例えばマルクス主義)があったとして、その後の進展はそれの<必然>か、無関係の<偶然>か。
 これがL・コワコフスキが1975年の小論考で最後に触れていた点だ。
 ***
 そして、<必然>か、無関係の<偶然>かは、社会・歴史のみならず、個々人・ヒトの一生についても語りうる基本要素だ。
 ①遺伝(生物的必然)、②環境(生育中の影響)、③本人の<自由な意思>。
 マルクス主義に魅力があるのは、こうしたことをも考えさせ、適切だったかは別として、人間の、とくに青年期の男女たちに<生き方>に関する観念を与え、若者に特有の(幼くて単純な)<理想>に訴えかけたことにあるだろう。

1995/マルクスとスターリニズム⑥-L・コワコフスキ1975年。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski), The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳の最終回。最終の第5節。
 ----
 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム③。
(16)マルクスとエンゲルスから、つぎの趣旨の多数の文章を引用することができる。第一に、人間の歴史で一貫して、「上部構造」は所与の社会の対応する財産関係に奉仕してきた。第二に、国家は現存する生産関係のをそのままに維持するための道具にすぎない。第三に、法は階級権力の武器以外のものではあり得ない。
 同じ状況は、少なくとも共産主義が絶対的な形態で地球上を全体的には支配していないかぎり、新しい社会で継続する、と正当に結論づけることができる。
 言い換えると、法はプロレタリアートの政治権力の道具だ。そして、法は権力行使の技術にすぎないために(法の主要な任務は通常は暴力を隠蔽して人民を欺くことだ)、勝利した階級が支配する際に法の助けを用いるか用いないかは、何の違いもない。
 重要なのは階級内容であって、その「形式」ではない。
 さらに加えて、新しい「上部構造」は新しい「土台」に奉仕しなければならない、と結論づけるのも正当だと思える。
 このことがとりわけ意味するのは、文化生活は全体として、最も意識的な要員の口を通じて語られ、支配階級により明確にされる政治的任務に完全に従属しなければならない、ということだ。
 ゆえに、スターリニズム体制での文化生活を指導する原理として普遍的に役立ったのは、「土台-上部構造」理論からの適切な推論だった、と述べることができる。
 同じことは、科学についても当てはまる。
 もう一度言うが、エンゲルスは科学を理論的哲学による指導のないままにしてはならない、さもなくば科学は完全な経験論者的痴呆へと陥ってしまう、と語らなかったか?
 そして、これこそがじつに、関心の範囲はむろんのこと内容についても全ての科学をソヴィエトの哲学者と党指導者たちが哲学によって-つまりは党イデオロギーによって-統制することを、最初から正当化した方策だった。
 1920年代にKarl Korsch はすでに、最上位性を哲学が要求することと科学に対してソヴィエト体制がイデオロギー的僭政を行うことの間には明確な関係がある、と指摘した。//
 (17)多数の批判的マルクス主義者は、これはマルクス主義の戯画(calicature)だと考えた。
 私はそれを否定しようとはしない。
 しかしながら、こう付け加えたい。戯画が原物と似ている場合にのみ-実際にそうだったのだが-、「戯画」という語を意味あるものとして用いることができる。
 つぎの明白なことも、否定しようとはしない。マルクスの思想は、ソヴィエトの権力体制を正当化するためにレーニン=スターリン主義イデオロギーによって際限なく繰り返されたいくつかの引用文から感じられる以上にはるかに、豊かで、繊細で、詳細だ、ということ。
 だがなお、私は、そうした引用文は必ずしも歪曲ではない、と論じたい。
 ソヴィエト・イデオロギーによって採用されたマルクス主義の外殻(skelton)は、きわめて単純化されているが、新しい社会を拘束する虚偽の(falsified)指針だったのではない。//
 (18)共産主義の全理論は「私有財産の廃棄」の一句で要約することができるという考えは、スターリンが考えついたものではなかった。
 スターリンはまた、賃労働は資本なくしては存在できないとか、国家は生産手段に対する中央志向権力を持たなければならないとか、あるいは民族対立は階級対立とともに消滅するだろうとかの考えを提示したのでもなかった。
 我々が知っているように、これらの考えは全て、明らかに、<共産主義者宣言>で述べられている。
 これらの考えは、まとめて言うと、ロシアで起こったように、いったん工場と土地が国家所有になれば社会は根本的に自由になるということを、たんに示唆しているのみならず、論理的に意味している。
 このことはまさしく、レーニン、トロツキーおよびスターリンが主張したことだった。//
 (19)要点は、マルクスは人間社会は統合の達成なくしては「解放」されない、と実際に一貫して信じた、ということだ。
 そして、社会の統合を達成するものとしては、僭政体制とは別の技術は知られていない。
 市民社会を抑圧すること以外には、市民社会と政治社会の間の緊張関係を抑える方法は存在しない。
 個人を破壊すること以外には、個人と「全体」の間の対立を排除する方策は存在しない。
 「より高い」「積極的な」自由-「消極的な」「ブルジョア的」自由とは反対物-へと向かう方途は、後者を抑圧すること以外には存在しない。
 かりに人間の歴史の全体が階級の観点から把握されなければならないとすれば-かりに全ての価値、全ての政治的および法的制度、全ての思想、道徳規範、宗教的および哲学的信条、全ての形態の芸術的創造活動等々が「現実の」階級利益の道具にすぎないとすれば(マルクスの著作にはこの趣旨の文章が多数ある)-、新しい社会は古い社会からの文化的継続性を暴力的に破壊することでもって始まるに違いない、ということになる。
 実際には、この継続性は完全には破壊され得ず、ソヴィエト社会では最初から部分的(selective)な継続性が選択された。
 「プロレタリア文化」の過激な追求は、指導層が支援した一時期のみの贅沢にすぎなかった。
 ソヴィエト国家の進展につれて、ますます部分的な継続性が強調されていった。それはほとんどは、民族主義的(nationalistic)性格の増大の結果だった。
 (20)私は思うのだが、ユートピア(夢想郷)-完璧に統合された社会という展望-は、たんに実現不可能であるばかりではなく、制度的手段でこれを生み出そうとすればただちに、反生産的(counter-productive)になるのではないか。
 なぜそうなるかと言うと、制度化された統合と自由は反対の観念だからだ。
 自由を剥奪された社会は、対立を表現する活動の息が止まるという意味でのみ、統合されることができる。
 対立それ自体は、消失していかない。
 したがって結局は、全くもって、統合されないのだ。//
 (21)スターリン死後の社会主義諸国で起きた変化の重要性を、私は否定しない。これら諸国の政治的基本構成は無傷のままで残っている、と主張するけれども。
 しかし、最も大切なことは、いかに緩慢に行われるとしても、市場が生産に対して何らかの制限的影響を与えるのを許容すること、生活の一定領域での厳格なイデオロギー統制を放棄すること、あるいは少しでも緩和することは、マルクスによる統合の展望を断念することにつながる、ということだ。
 社会主義諸国で起きた変化が明らかにしているのは、この展望を実現することはできない、ということだ。すなわち、この変化を「真の(genuine)」マルクス主義への回帰だと解釈することはできない。-マルクスならば何と言っただろうかはともかく。//
 (22)上述のような解釈のために追加する-断定的では確かにないけれども-論拠は、この問題の歴史のうちにある。
 マルクス主義の人間主義的社会主義のこのような結末を「誰も予見できなかった」と語るのは完全にまやかし(false)だろう。
 社会主義革命のだいぶ前に、アナキストの著作者たちは実際にそれを予言していた。彼らは、マルクスのイデオロギー上の諸原理にもとづく社会は隷属と僭政を生み出す、と考えたのだ。
 ここで言うなら少なくとも、人類は、歴史に騙された、予見できない事態の連結関係に驚いた、と泣き事を言うことができない。//
 (23)ここで論じている問題は、社会発展での「生来(genetic)要因と環境要因」という問題の一つだ。
 発生論的考察ですら、考究される属性が正確に定義されていなければ、あるいはそれが身体的ではなくて精神的な(例えば「知性」のような)属性であるならば、これら二要因のそれぞれの役割を区別するのはきわめて困難だ。
 そして、我々の社会的な継承物(inheritance)における「生来」要因と「環境」要因を区別することはどれほど困難なことだろうか。-継承したイデオロギーと人々がそれを実現しようとする偶発的諸条件とを区別することは。
 これら二要因が全ての個別の事案で作動しており、それらの相関的な重要性を計算してそれを数量的に表現する方法を我々は持たない、ということは常識だ。
 分かっているのは、その子がどうなるかについて「遺伝子」(生来のイデオロギー)に全ての責任があると語ることは、「環境」(歴史の偶発的事件)がその全てを説明することができると語るのと同様に全く愚かなことだ、ということだ。
 (スターリニズムの場合は、これら二つの相容れない極端な立場が表明されている。それぞれ、一方でスターリニズムとは実際にマルクス主義を現実化したものにすぎない、他方でスターリニズムとはツァーリ体制の継承物にすぎない、という見方だ。)
 しかし、我々はスターリニズムについての責任の「適正な割合」についてそれぞれの要因群を計算したり配分したりすることはできないけれども、その成熟した姿が「生来の」諸条件によって予期されたか否かを、なおも理性的に問題にすることはできる。
 (24)私はスターリニズムからマルクス主義へと遡って軌跡を描こうとしたが、その間にある継続性は、レーニン主義からスターリニズムへの移行を一瞥するならば、なおも鮮明な形をとっていると思われる。
 非ボルシェヴィキ党派は(リベラル派は論外としてメンシェヴィキは)、ボルシェヴィキが採っていた一般的方向に気づいており、1917年の直後には、その結末を正確に予見していた。
 さらに加えて、スターリニズムが確立されるよりもずっと前に、新しい体制の僭政的性格は党自体の内部ですみやかに攻撃されていた(「労働者反対派」、ついで「左翼反対派」によって-例えばRakovskyによって)。
 メンシェヴィキは、自分たちの予言の全てが1930年代に確証されたことを知った。また、トロツキーが、メンシェヴィキによる「我々はそう言った」は悲しいほどに説得力がない、という時機遅れの反論を行ったことも。
 トロツキーは、メンシェヴィキは将来に起きることを予言したかもしれないが、それは全く間違っている、彼らはボルシェヴィキによる支配の結果としてそうなると考えたのだから、と主張した。
 トロツキーは言った。実際にそうなった、しかしそれは官僚制によるクーの結果としてだ、と。
 <欺されていたいと思う者は全て、欺されたままにさせよ(Qui vult decipi, decipiatur)。>//
 ----
 終わり。

1993/マルクスとスターリニズム⑤-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 最終の第5節。
 ----
 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム②。
 (8)これは、マルクスの階級意識という観念の単純化した範型だ。
 たしかに、真実について独占する資格があるという党の主張がここから自動的に導き出されはしなかった。
 また、等号で結ぶためには、党に関する特殊レーニン主義の考えが必要だ。
 しかし、このレーニン主義考えには反マルクス主義のものは何もなかった。
 マルクスがかりに党に関する理論を持っていなかったとしても、彼には労働者階級の潜在的な意識を明確にすると想定される前衛集団という観念があった。
 マルクスはまた、自分の理論はそのような意識を表現するものだと見なした。
 「正しい」労働者階級の革命的意識は自然発生的労働者運動の中に外部から注入されなければならないということは、レーニンがカウツキーから受け継いだものだった。
 そして、レーニンは、これに重要な補足を行った。
 すなわち、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争によって引き裂かれた社会には二つの基本的なイデオロギーしか存在することができないので、プロレタリア的でない-換言すると前衛たる政党のイデオロギーと一致しない-イデオロギーは、必ずやブルジョア的なそれだ。
 かくして、労働者たちは助けがなければ自分たち自身の階級イデオロギーを産み出すことができないので、自分たちの力で産み出そうとするイデオロギーはブルジョア的なものになるに違いない。
 言い換えれば、労働者たちの経験上の「自然発生的な」意識は、本質的にはブルジョアの<世界観>であるものを生み出すことができるにすぎない。
 その結果として、マルクス主義の党は、真実の唯一の運び手であるがゆえに、経験上の(そして定義上ブルジョア的な)労働者の意識から完全に独立している(但し、プロレタリアートよりも前に進みすぎることのないように、その支持を得るために求められている場合には戦術的な譲歩をときどきはしなければならない)。//
 (9)これは、権力掌握後も、真実のままだった。
 党は真実の唯一の所持者として、大衆の(不可避的に未成熟な)経験上の意識を(戦術的意味がある場合を除いて)完全に無視することができる。
 じつに、そうしなければならない。それができないとすれば、必ずや、党はその歴史的使命を裏切ることになる。
 党は「歴史的発展法則」および「土台」と「上部構造」の正しい関係の二つを知っている。党はそのゆえに、過去の歴史的段階からの残滓として存続しているものとして破壊するに値する、そのような人民の現実的で経験的な意識を、完璧に見定めることができる。
 宗教的想念は、明らかにこの範疇に入る。しかし、人民の精神(minds)を内容において指導者たちのそれとは異なるものにしているもの全てが、そうだというのではない。//
 (10)プロレタリアの意識をこのように把握することで、精神に対する独裁は完全に正当化される。党は社会よりも、社会の本当の(経験的ではない)願望、利益および思索が何であるかを実際に知っている。
 我々の最終的な等式は、こうだ。真実=プロレタリアの意識=マルクス主義=党のイデオロギー=党指導者の考え=党のトップの決定。
 プロレタリアートに一種の認識上の特権を与えるこの理論は、同志スターリンは決して間違いをしない、との言明に行き着く。
 この等式には、非マルクス主義のものは何もない。//
 (11)党についての真実の真実の唯一の所持者だという観念はもちろん、「プロレタリアートの独裁」という表現によって補強された。この後者の語をマルクスは、説明しないで、二度か三度何気なく使った。
 カウツキー、モロトフその他の社会民主主義者たちは、マルクスが「独裁」で意味させたのは統治の形態ではなく統治の階級的内容だ、この語は民主主義国家と反対するものとして理解されるべきではない、と論じることができた。
 しかし、マルクスは、この論脈では何らかの類のことをとくには語らなかった。
 そして、この「独裁」という語を額面どおりにレーニンが正確に意味させて明瞭に語ったものを意味するものだと受け取ることには、明らかに間違ったところは何もない。すなわち、法によって制限されない、完全に暴力(violence)にもとづく支配。//
 (12)党がもつ、全ての生活領域に対してその僭政を押しつける「歴史的権利」の問題とは別に、その僭政(despotism)という観念に関する問題もあった。
 この問題は、根本的にはマルクスの予見を維持する態様で解決された。
 解放された人類はつぎのことを行うと想定された。すなわち、国家と市民社会の区別を廃棄し、個々人が「全体」との一体化を達成するのを妨げてきた全ての媒介的装置を排除し、私的利害の矛盾を内包するブルジョア的自由を破壊し、労働者たちが商品のように自分たちを売ることを強いる賃労働制度を廃止する。
 マルクスは、この統合がいかにして達成され得るのかに関して、厳密には論述しなかった。つぎの、疑い得ない一点を除いては。搾取者の搾取-つまり、生産手段の私的所有制の廃棄。
 搾取というこの歴史的行為がひとたび履行されるならば、残っている社会的対立の全ては古い社会から残された遅れた(ブルジョア的)精神を表現するものにすぎない、と論じることができたし、そうすべきだった。
 しかし、党は、新しい生産関係に対応する正しい精神(mentality)の内容はどのようなものであるべきかを知っている。そして当然に、それとは適合しない全ての現象を抑圧することのできる権能をもつ。//
 (13)この望ましい統合を達成する適切な技術とは、実際のところ、どのようなものになるのだろうか?
 経済的基盤は、設定された。
 マルクスは市民社会が国家によって抑圧されるまたは取って代わられると言いたかったのではなく、政治的統治機構は余分なものになり、「物事の管理〔行政〕」だけを残して、国家が消滅することを期待したのだ、と論じることができた。
 しかし、国家が定義上、共産主義への途上にある労働者階級の道具であるならば、国家はその定義上、「被搾取大衆」に対してではなく、資本主義社会の遺物に対してのみ、権力を行使することができる。
 「事物の管理」または経済の運営はどのようにすれば、労働の、つまりは全ての勤労人民の利用や配分を伴わないことができるのか?
 賃労働-労働力の自由市場-は、廃棄されたはずだった。
 これは想定どおりに生じた。
 しかし、共産主義者の熱意だけが人々が労働をする不十分な誘因だと分かると、いったいどうなるのだろうか?
 このことが意味するのは明らかに、それを破壊することが国家の任務である、ブルジョア的意識に囚われてしまう、ということだ。
 従って、賃労働を廃止する方法は、それを強制(coercion)に置き代えることだ。
 そうすると、かりに政治社会のみが人民の「正しい」意思を表現するのだとすると、市民社会と政治社会の統合はどのようにして達成されることができるのか?
 ここで再び言えば、その人民の意思に反対しまたは抵抗する者たちはみな、定義上は資本主義秩序の残存者となる。
 さらにもう一度言えば、統合へと進む唯一の途は、国家によって市民社会を破壊することだ。//
 (14)人々は自由に、強制されることなく協力するように教育されなければならないと主張する者は、誰であっても、つぎの問いに答えなければならない。
 このような教育を、どの段階で、どのような手段によれば、達成することができるのか?
 資本主義社会でそれが可能だと期待するのは、マルクスの理論とは確実に矛盾しているのではないか? 資本主義社会での労働人民は、ブルジョア的イデオロギーの圧倒的な影響のもとに置かれているのだ。
 (支配階級の思想は支配している思想だと、マルクスは言わなかったか?
 社会に関する道徳的変化を資本主義秩序で希望するのは、全くの夢想(pure utopia)ではないのか?)
 そして権力掌握の後では、教育は社会の最も啓蒙的な前衛の任務だ。
 強制は、「資本主義の残存者たち」に対してのみ向けられる。
 そうして、社会主義の「新しい人間」の産出と苛酷な強制との間を区別する必要はない。
 その結果として、自由と隷属の区別は、不可避的に曖昧になる。//
 (15)(「ブルジョア」的意味での)自由の問題は、新しい社会では意味のないものになる。
 エンゲルスは、本当の自由は人々が自然環境を征服することと社会過程を意識的に規制することの両方を行うことのできる範囲と定義されなければならない、と言わなかったか?
 この定義にもとづけば、社会の技術が発展すればするほど、社会は自由になる。
 また、社会生活が統合された指令権力に服従すればするほど、社会は自由になる。
 エンゲルスは、社会の規制は必ず自由選挙または他の何らかのブルジョア的装置を伴うだろう、とは述べなかった、
 そうすると、僭政的権力の一中心によって完全に規制された社会はその意味で完璧に自由ではない、と主張することのできる理由は存在しない。//
 ----
 ⑥へつづく。

1988/マルクスとスターリニズム④-L・コワコフスキ1975年。


 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 最終の第5節。
 ----
 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム①。

 (1)この問題を論じるにあたって、私はつぎのことを想定(assume)している。マルクスの思索は1843年からそれ以降、価値に重きをおく同じ考えでもって進められた。そのためにマルクスは継続して、よりよい表現形態を探し求めた。
 かくして私は、マルクスの知的発展には強い継続性があることを強調する人々に同意する。
 彼の主要な考え方の成長過程には何らかの重要な、烈しいというほどではない中断があった、とは私は考えない。
しかし、私はここではこの論争の的となっている-しかし決して独創的ではない-見方に関して論述するつもりはない。
 (2)マルクスの見方によれば、人間の偉大な成果と人間の悲惨さの両方について責任のある人間の原罪、その<felix cupla〔幸いなる罪〕>は、労働の分割(division)、そしてその不可避の結末である労働の疎外(alienation)だった。
 疎外された労働の極端な形態は交換価値で、それは産業社会での生産過程全体を支配する。
 全ての人間の生産活動の背後にある主要な駆動力であるのは、人間の欲求(needs)ではなく、貨幣の形態での交換価値の、際限なき蓄積だ。
 このことが個人的な特性と能力をもつ人間諸個人を商品(commodities)に変形し、商品となった諸個人は、市場という匿名の法則に従って、賃労働のシステムの範囲内で、売買されてきた。
このことは現代の政治社会の、疎外された制度的枠組みを生み出した。
 また、一方では市民社会構成員としての個人的で利己的な自分中心の人間生活と、他方では政治社会構成員として形成する人工的で不明瞭な共同体との間の、避けがたい分裂を生み出した。 その結果として、人間の意識は、イデオロギー上の歪曲を受けざるをえなくなった。人間生活とその「表現」として人間自身がもつ役割を肯定するのではなく、自分自身に関する分離した、幻想的な王国を定立した。その王国は、この分裂を永遠化するために造られている。
 労働の疎外化は、私有財産にかかわって、剰余生産物の配分をめぐって闘う、敵対する諸階級へと社会を分化させた。
最終的には、社会での全ての非人間化が集中し、その結果として、人間存在に関する意識を啓蒙して目覚めさせ、喪失した人間存在の統合性を回復するよう宿命づけられている、そのような階級が生み出された。
 この革命的な過程は、現在の労働条件を守る制度的機構を粉砕することでもって始まり、社会対立の全ての根源が除去され、社会の過程はそれに関与する諸個人の集団的意思に従属する、そのような社会を生み出すことでもって終わる。
 そして、この後者の社会は、社会に抗してではなく社会を豊かにすることに役立つ、全ての諸個人の潜在能力を花咲かせることができるだろう。
 諸個人の労働は、必要な最小限へと次第に減少していくだろう。そして文化的創造性や上質の娯楽を追求することに、自由な時間は費やされるだろう。
 歴史上と現在のいずれのもの闘争の完全な意味は、将来での完璧に統合された人類というロマンティックな範型でのみ明らかにされる。
 この統合はもはや、全体としての種から諸個人を分離する調停的機構の必要性などを意味していない。
 人類の「前史」を閉じる革命的行動は、不可避であるとともに、自由な意思によって命じられてもいる。
 自由と必然の区別は、プロレタリアートの意識において消失してしまっているだろう。古い秩序の破壊を通じて、プロレタリアート自身の歴史的運命を気づくにいたっているのだから。
 (3)マルクスの理論を全体主義的運動のイデオロギーへと転化させたのは、人間の完璧な統合という彼の予想(anticipation)と、歴史的な特権をもつプロレタリアートの意識という彼の神話(myth)の両方ではないか、と私は疑っている(suspect)。
 このような言葉遣いでもって彼は思考したというのが理由ではなく、根本的諸価値をそれ以外の方法でもって認識することはできないからだ。 
マルクスの理論には未来社会に関する見解が欠けている、というのではなかった。欠けてはいなかった。
 しかし、マルクスの力強い想像力をしてすら、「前史」から「真の歴史」への移行を予測することまでには、そして前者を後者に転換する適切な社会的技術を提案することまでには、達することができなかった。
 この歩みは、実際の指導者たちによって達成されなければならなかった。
 しかも、受け継がれた教理の全体に追加することや詳細部分を充填することもまた、必ずや示唆されていたのだ。//
 (4)完璧に統合された人間性というマルクスの夢において、彼は厳密に言えば、ルソー主義者ではなかった。
 ルソーは、各個人と共同体の間の失われた自発的一体性はいずれ回復されるだろう、そして文明化という毒は人間の記憶から抹消されるだろう、とは考えなかった。
 しかし、このことこそが、マルクスが信じたものだった。
マルクスは文明を放擲して野蛮な状態の原始的幸福に戻ることが可能でかつ望ましい、と考えた、という理由からではなかった。
 そうではなく彼は、抗しがたい技術の進歩は究極的には自ら自身の破壊性を(弁証法的に)克服して、人間に新しい統合性を付与するだろう、と考えたからだった。その統合性は、必要性を抑圧することではなく、欲求からの自由にもとづいている。
 この点で、マルクスは、サン・シモン主義者(St Simonists)の希望を共有していた。//
 (5)マルクスのいう解放された人類は、諸個人間の対立や個人と社会の間の紛議を解決するためにブルジョア社会が用いている装置を、何ら必要とはしない。
 人権宣言で構想され、宣告されているごとき、法、国家、代表制民主主義および消極的意味での自由。
 これらの装置は、市場によって経済的に支配され、対立する利害から切り離された諸個人で成る、そういう社会に特徴的なものだ。
 国家とその法的な骨組みは強制によってブルジョアの財産を守り、紛争に対して規準を押しつける。
それらの存在こそが、人間の活動や願望が自然に相互に衝突し合う社会を前提としている。
 自由というリベラルな観念は、私の自由は不可避的に私の仲間たちの自由を制限する、ということを意味包含している。そしてこのことがじつに、 自由の射程範囲が所有制の規模と合致するならば起きることだ。
ブルジョア社会がいったん共同的財産制〔共産主義〕に置き換えられるならば、こうした装置はもはや目的を持たない。
 個人の利益は普遍的なそれに収斂する。そして、個人の自由の範囲を明確に画する諸規範でもって社会の不安定な状態を支える必要は、もはやない。
そのときに打倒されているのは、リベラルな社会の「理性的な」装置だけではない。
 継承されている種族的、民族的な紐帯もまた、消失するだろう。
 資本主義秩序は、この点で、共産主義への途を踏み固めている(pave)。
 資本の世界的な力のもとで、かつプロレタリアートの世界的な意識の結果として、古い非理性的な忠誠心は崩れ落ちる。
 こうした過程の終わりにあるのは、個人と全体としての人間という種以外には何も残されていない、そして、諸個人が自分自身の生活、能力、社会的力としての活動と自らを直接に一体化(identify)する、そのような社会だ。
 諸個人は、この一体性(identity)の経験を媒介するための、政治的諸装置、あるいは伝統的な民族的紐帯をもはや必要としないだろう。// 
 (6)これは、いかにして達成することができるのか?
 このような社会的全質変化を引き起こす技術はあるのか?
 マルクスはこの疑問に答えなかった。そして、彼の見方からすると、問題が間違って設定されていたように見える。
 要点は、望ましい社会を恣意的に描いたで後で社会的設計をするための技術を見出すことではなかった。そうではなく、そりような社会を生み出すべくすでに作業をしている社会的諸力を理論的に「見極め」(identify)し、「表現」することだった。
 そして、その諸力を表現することは、実際的にその活力を補強し、それらが意識する自己一体化(self-identification)に必要な自己に関する知識を与えることでもあった。
 (7)マルクスの叙述については、多数の可能な実際的解釈があった。ある者はその価値に依拠して、その教理にとって基礎的なものを考察した。
 ある者は、その定式化を全体にとっての根本的な手がかりだと解釈した。
 マルクス主義のレーニン-スターリン範型となった解釈には、間違っているものは何もないように見える。
 つぎのように進んだ。
 (8)マルクス主義は既製の教理体であり、その成熟した、かつ理論的に練り上げられた形態ではプロレタリアートの階級意識と合致するとされる。
 マルクス主義は、「科学的」価値をもち、また「最も進歩的な」社会階級の願望を明瞭に述べるがゆえに、「正しい」(true)。
 言葉の発生論的意味とその通常の意味の区別は、教理ではつねに曖昧だった。
 プロレタリアートはその歴史的使命のおかげで特権的な認識する地位にある、そしてそのゆえに社会「全体性」に関する見方は正しくなければならない、ということが、当然の前提とされていた。
 かくして、「進歩的なもの」は自動的に「正しい」ものになる。この「正しさ」が普遍的に受容されている科学的手続によって確認され得るのか否かは別として。//
 ----
 つづく。

1987/マルクスとスターリニズム③-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism, in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 第三節と第四節。
 ----
 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第三節・スターリン主義全体主義の主要な段階。
 (1)全体主義のソヴィエト変種は、絶頂点に到達する前に多年を要して成熟していった。
 その成長の主要な諸段階はよく知られている。だが、簡単に言及しておく必要があるだろう。
 (2)第一段階では、代表制民主主義の基本的諸形態-議会、選挙、政党、自由なプレス-が廃絶された。
 (3)第二段階(第一段階と一部重なる)は、「戦時共産主義」という誤解を生む名前で知られる。
 この名前は、この時期の政策は、内戦と干渉が強いた甚大な困難さに対処するための一時的で例外的な手段として考案された、ということを示唆する。
 実際には、指導者たち-とくにレーニン、トロツキーおよびブハーリン-の関連する著作からして、彼ら全員がこの経済政策-自由取引の廃止、農民からの「余剰」(すなわち地方指導部が余剰だと見なしたものの全て)の強制的徴発、一般的な配給制度、強制労働-を新しい社会の永続的な成果だと想定していた、ということが明らかだ。
 また、それを存在する必要がないものにした戦争諸条件を理由としてではなく、それが惹起した経済的災厄の結果としてその経済政策がついには放棄された、と考えられていたことも。
 トロツキーとブハーリンはいずれも、強制労働は新しい社会の有機的部分だとの確信を強調していた。//
 (4)この時期に設定された全体主義秩序の重要な要素は持続し、ソヴィエト社会の永続的な構成要素になった。
 このように継続した成果の一つは、政治勢力としての労働者階級の破壊だった。すなわち、民衆の主導性の自立した表現としての、また自立した労働組合や諸政党の目的としての、ソヴェトの廃棄。
 もう一つは、-まだ決定的でなかった-党それ自体の内部での民主主義の抑圧だった。
 ネップの時期を通じてずっと、システムの全体主義的特性はきわめて強く表れていた。自由取引が受容され、社会の大部分-農民-は国家からの自立を享有していたにもかかわらず。
 ネップは、政治的にも文化的にも、まだ国家所有でないかまたは完全には国家所有でない、そのような主導性を発揮する中心拠点に対する、一党所有国家による圧力の増大を意味した。この点での完全な成功を達成したのは、進展の後続の段階だったけれども。
 (5)第三段階は、強制的集団化だ。これは、まだ国有化されていなかった最後の社会的階級の破壊へと到達させ、経済生活に対する完全な支配権を国家に付与した。
もちろんこのことは、国家が経済の計画化に携わることが可能になった、ということを意味しなかった。国家は、そうしなかった。
 (6)第四段階は、粛清を通じての、党それ自体の破壊だ。なぜなら、党は、もはや現実的でなかったとしても潜在的な力をもつ、国有化されていない勢力だったのだから。
 有効な反抗する勢力は党の内部には残存していなかったけれども、多数の党員たち、とくに年配の党員たちは、伝統的な党イデオロギーへの忠誠を保ちつづけた。
 かくして、彼らが完全に服従していたとしても、現実の指導者と在来の価値体系の間で忠誠心を分化させるのではないか、と疑われた。-換言すれば、指導者に対して潜在的には忠誠していないのではないか、と。
イデオロギーとは指導者がいついかなるときでも語ったものだ、ということを彼らに明確にする必要があった。
 大虐殺は、この任務を成功裡に達成した。それは、狂人が行ったことではなく、イデオロギーの<指導者(Führer、総統)>の作業だった。//
 ----
 第四節・スターリニズムの成熟した様相。
 (1)こうした推移の各段階は、慎重に決定されたり、組織化されたりした。全てがあらかじめ計画されていたのではなかったけれども。
 結果として生じたのは完全に国家が所有する社会で、それは、完璧な統合体という理想にきわめて近く、党と警察によって塗り固められていた。
 完璧に統合されるとともに、完璧に断片化されてもいた。同じ理由により、集団生活の全ての形態が完全に従属するという意味で統合され、市民社会が全ての意図と目的のために破壊されるという意味で断片化された。そして各市民は、国家との全ての関係について、唯一の全能の装置に向かい合った。孤独で、無力な個人だ。
 社会は、マルクスが<ブリュメール十八日>でフランスの農民について語った、「トマト袋」のような物に変えられた。//
 (2)こうした状況-原子のごとき個人に向かい合う統合された国家有機体-は、スターリニズム体制の重要な特質の全てを明確にした。
 その特質はよく知られ、多くのことが叙述されてきた。しかし、我々の主題に最も関連性のある若干のことに簡単に言及しておこう。
 (3)第一は、法の廃棄だ。
 法は確かに、公共生活を規制する一セットの手続的規準として、継続した。
 しかし、国家が個人と交渉をするその全能性を制限することのできる一セットの規準としては、法は完全に廃棄された。
 言い換えれば、市民は国家の所有物だという原理を制限する可能性のある規準を、法は含まなかった。
 その決定的な点で、全体主義の法は、曖昧でなければならなかった。その適用が執行当局の恣意的で変化する決定の要になるように、また、執行当局が選択するときはいつでも各市民を犯罪者だと見なすことができるように。
 顕著な例はつねに、刑法典に定められている政治的犯罪だった。
 その諸規定は、市民がほとんど毎日冒さないことがほとんど不可能であるように、条文化されていた。
 そうした犯罪のうちいずれを訴追して、どの程度のテロルを行使するかは、支配者たちの政治的決定にかかっていた。
 この点は、ポスト・スターリニズムの時代でも何も変わらなかった。すなわち、法は際だって全体主義的なままで、大量テロルから選択的テロルへの移行も、手続的規準をより十分に遵守することも、-個人の諸生活に対する国家の実効的権力を制限しないかぎりは-それが持続することとは関係がなかった。
 民衆は、政治的冗談を話したという理由で投獄されることもあれば、そうされないこともあった。
 彼らの子どもたちは、共産主義の精神(これが何を意味していようと)を発揮するという法的義務を履行しなければ、強制的に連れ去られることもあれば、そうされないこともあった。
 全体主義的な無法性が意味したのは、極端な手段をいつどこでも現実に適用するということではなく、国家が所与のときに用いたいと欲する全ての抑圧に対するいかなる防護をも市民に与えない、ということだった。
 国家と民衆の媒介者としての法は消失し、国家の際限なく融通性のある道具に変質した。
 この点で、スターリニズムの原理は変わらないままで存続している。//
 (4)第二は、一人による専制だ。
 これは全体主義国家の発展のための駆動力である完全な統合という原理の、自然で「論理的な」所産だった、と思える。
 完全な姿を出現させるために、国家は、無制限の権力を授けられた一人の、かつ一人だけの指導者を必要とした。
 このことは、レーニン主義の党のまさに創立そのものに暗に示されていた(トロツキーのしばしば引用される1903年の予言と合致した。予言者の彼自身はすぐに忘れてしまったが)。
 1920年代のソヴィエト体制の進展の全体に見られたのは、闘い合う諸利害、諸思想および政治的諸傾向を表現することのできるフォーラムが一歩ずつ狭められていく、ということだった。
 短い時代の間に、それらは社会で公的に表明され続けたが、その表現は次第に限定され、狭くなる方向へと動いた。先ず党、ついで党装置、そして中央委員会、最後には政治局に限定された。
しかし、ここでも社会的紛議に関する表現を妨げることができた。その紛議の情報入手先は抹消されなかったけれども。
 この最も狭い範囲の党幹部会ですら、かりに続けることが許されたとしても、対立する見解の表明は、社会内部にまだ残存している利害対立の影響を受けるだろう、というのが、十分に練ったスターリンの主張だった。
 これは、党の最上級機関ですら異なる諸傾向または分派が自分たちの見解を表明している場合は、市民社会の破壊は十分には達成されなかった、ということの理由だ。
(5)スターリン以後にソヴィエト体制に生じた変化-個人的僭政から寡頭制への移行-が、ここでは大きく目立つように見える。
 それは、システムに内在する治癒不可能な矛盾から生じた。システムが必要とし、個人的な僭政に具現化された指導者層の完全な統合は、別の指導者たちの最小限度の安全確保の要求とは両立し難い。
 スターリンの支配のもとでは、彼らは他の民衆と同様の不安定な状態に格下げされた。
 彼らの膨大な特権の全ても、上層からの突然の崩落、投獄、そして死に対して彼らを防護してくれなかった。
 スターリンの死以降の寡頭制は、スターリニズムの病的形態だと適切に描写され得るかもしれない。
 (6)にもかかわらず、最悪の時代ですらソヴィエト社会は、警察によっては支配されなかった。
 スターリンは警察機構の助けを借りて国と党を統治したけれども、警察の長としてではなく、党指導者として統治した。
四半世紀の間スターリンと同一体だった党は、全てを包み込む支配権を決して失わなかった。//
 (7)第三は、統治の原理としてのスパイの普遍化だ。
民衆は相互にスパイし合うように奨励された-そして強いられた-。しかし、これは、国家が現実的な危険に対して自己防衛する方法ではなかった。そうではなく、全体主義の原理を究極にまで高めるための方策だった。
 民衆は市民として、目標、願望および思考-これらは全て指導者の口を通じて表現される-を完全に統合して生活することが想定されていた。
 しかしながら、個人としては、お互いに憎悪し合い、継続的に相互の敵対感をもって生活するように期待された。
 このようにしてこそ、個人の他者からの孤立は完全なものになり得た。
 実際に、達成不能のシステムの理想は、誰もが同時に強制収容所の収容者でありかつ秘密警察の工作員であることだったように思える。//
 (8)第四は、イデオロギーの明確な全能性だ。
これはスターリニズムに関する全ての議論の要点だ。そして、他の点よりも混乱や不同意が多い。
 Solzhenitsyn とSakharovの、この主題に関する見解のやり取りを見るならば、これが明瞭になる。
 前者はおおまかには、こう言う。ソヴィエト国家全体が、内政にせよ外交にせよ、経済問題であれ政治問題であれ、マルクス主義イデオロギーの圧倒的な支配に従属していた。また、国家と社会の両方に与えた全ての大災難について責任があるのは、この(偽りの)イデオロギーだ。
 後者は、こう返答する。公式の国家イデオロギーは死んでいる、誰もそれを真摯には受け取っていない。したがって、そのイデオロギーは実際の政策を導いて形成する現実の力であり得ると想像するのは、愚かだ。//
 (9)これら二つの観察はいずれも、一定の限定の範囲内で、有効だと思える。
 要点は、つぎのことだ。すなわち、ソヴィエト国家はそのまさに始まりから、その正統性のための唯一の原理として創設の基礎に組み込まれているイデオロギーをもつ。
 たしかに、ボルシェヴィキ党がロシアで権力を奪取したイデオロギー上の旗印(平和と農民のための土地)は、マルクス主義はむろんのこと社会主義に特有の内容をもつものではなかった。
 しかし、ボルシェヴィキ党は、レーニン主義のイデオロギー原理を基礎にしてのみ独占的支配を確立することができた。定義上労働者階級と「被搾取大衆」の、彼らの利益、目標および願望(かりに大衆自身は意識していないとしても)の、唯一の正統な語り口である党。そのことは「正しい」マルクス主義イデオロギーに即して大衆の意思を「表現」する能力があることによっている党。
 専制的権力を支配する党は、その権力を正当化する、自由選挙や伝来の王制のカリスマがない場合に、正統性の唯一の基礎であるそのイデオロギーを放棄することができない。
 このような支配システムでは、信じている者の数の多寡に関係なく、誰が信じ、誰が真摯に受容しているかに関係なく、イデオロギーはなくてはならないものだ(indispensable)。
 そして、イデオロギーは、支配者たちおよび被支配者たちのいずれにももはや信じている者は事実上いなくなったとしても-ヨーロッパの社会主義諸国にいま見られるように-、なくてはならないもののままだ。
 指導者たちが明らかにすることができないのは、権力システムの完全な崩壊という危機に直面させてまで、彼らの政策の本当のかつ悪名高い諸原理を暴露してしまう、ということだ。
 誰にも信じられていない国家イデオロギーは、国家の全構造が粉砕されてはならないとすれば、全ての者に対して拘束的でなければならない。//
 (10)これは、実際の諸政策の各段階を正当化するために訴えたイデオロギー的考察は、本当の、スターリンまたはその他の指導者たちがその前で拝跪した独立の力をもっている、ということを意味してはいない。
 ソヴィエト体制は、スターリンのもとでもその後でも、つねに、大帝国の<現実政策>を追求した。そして、そのイデオロギーは、各政策を是認するに十分なほどに、曖昧なものでなければならなかった。
 ネップと集団化。ナツィスとの友好関係とナツィスとの戦争、中国との友好関係と中国に対する非難。イスラエルの支持とイスラエルの敵たちへの支援。冷戦とデタント〔緊張緩和〕、国内体制の締め付けと緩和。総督(satrap)の東方カルトとそれに対する弾劾。
 そして、このイデオロギーはソヴィエト国家を維持し、全てを抱え込んでいる。//
 (11)ソヴィエトの全体主義システムはロシアの歴史的背景、強い徴表となっている全体主義的特性、を考慮しなければ理解できない、としばしば言われてきた。
 国家の自律性と市民社会に対するその圧倒的な権力は、19世紀のロシア歴史研究者によって強調された。そして、こうした見方は多数のロシア人マルクス主義者によってある程度の留保つきで、是認されてきた(プレハノフの<ロシア社会思想史>、トロツキーの<ロシア革命史>)。
 こうした背景は、革命の後で、ロシア共産主義の本当の根源だとして繰り返して論及された(Berdyaev)。
 多数の著作者たち(Kucharzewski は最初の一人)は、ソヴィエト・ロシアはツァーリ体制を直接に拡張したものだと捉えた。
 彼らは、とりわけ、ロシアの膨張主義政策、新しい領土への飽くなき欲求を見た。また、全市民の「国有化」(nationalization)、人の全ての形態での活動の国家目標への従属も。
 若干の歴史研究者たちはこの主題について、きわめて説得的な研究書を刊行してきた(直近では、R. Pipes 〔リチャード・パイプス〕、T. Szamuely)。
 私は、彼らの結論を疑問視しはしない。
 しかし、歴史的背景はソヴィエト秩序でのマルクス主義イデオロギーがもつ特有の機能を説明しはしない。
 ロシアでのマルクス主義の意味の全ては、結局は不安定なイデオロギー帝国に、最終的な崩壊の前にしばらくの間は生き残ることができる血と肉を注入することにあった、ということを(Amalrik とともに)認めるところにまで進むとしてすら、いかにしてマルクス主義はこの任務に適合的なものになったのか、という問題は、未回答のままだ。
 マルクス主義の歴史哲学は、その明瞭な希望、企図および価値でもって、いかにして、全体主義的、帝国主義的かつ排外主義的国家に、イデオロギー上の武器を与えることができたのか?//
 (12)マルクス主義歴史哲学はそうできたし、そうした。
 本質的部分で歪曲される必要はなかった。たんに適切な態様で解釈されたにすぎない。
 ----
 つぎの(最終)節の表題は<マルクス主義としてのスターリニズム>。次節だけで、全体の過半を占める。
 

1986/マルクスとスターリニズム②-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism, in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 一部について、ドイツ語訳を参照した。
 ----
 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第2節・スターリニズムはどう定義(identify)されるか?
 (1)「スターリニズム」という語を用いる場合に、ソヴィエト同盟の十分に明確にできるワンマン僭政制の時代(つまりはおよそ1930年から1953年まで)を意味させるのか、同じ特質を明らかに示す体制を意味させるのか、にはほとんど違いはない。
 にもかかわらず、スターリニズム後のソヴィエト社会やソヴィエト型の国家がどの程度において本質的にそのシステムを拡張したものであるのかという問題は、明らかに、言葉の使い方の問題ではない。
 しかしながら、多くの理由で、システムの継続性を強調する、より歴史的ではなくてより抽象的な第二の定義が、より好都合だ。
 (2)「スターリニズム」は、生産手段の国家所有制にもとづく(ほとんど完全な)全体主義社会だと特徴づけられるかもしれない。
 私は「全体主義的」(totaritarian)という語を常識的に、社会的紐帯が国家が押しつけた組織に置き換えられ、その結果として全ての集団と個人がその行動について国家の目標であり国家がそうだと明確にした目標によってのみ導かれる、そのような政治システムの意味で用いる。
 言い換えると、理想の全体主義システムは、市民社会の完全な破壊をその意味に包含することになるだろう。すなわち、国家とその組織的な諸装置が社会生活の唯一の形態であり、人の-経済的、知的、政治的および文化的-活動の全ての形態はそれらが国家目標(もう一度記すがこれは国家によって明確に定められる)に奉仕する場合にかぎってのみ許容されかつ押しつけられる(許容と賦課の区別は消失していく)、そのようなシステムになるだろう。
 このようなシステムのもとでは、全ての個人(支配者たち自身を含む)は国家の所有物だと考えられてしまう。//
 (3)このように理解される観念は-こう定義することで私はこの主題を論じたほとんどの著作者たちと異なっていないと思うのだが-、なお若干の論評を加えて説明することが必要だ。//
 (4)第一に、完全な形を達成するためには、組織に関する全体主義的原理は生産手段の国家による統御を必要とする、ということが明瞭だ。
 言い換えると、生産活動や経済的主導性の重要部分を諸個人に委ねる、その結果として社会の諸部分が経済的に国家から自立していることを許容する、そのような国家は、理想の形態になることができない。
 ゆえに、全体主義は、社会主義経済のうちにその理想を達成する最良の機会をもつ。//
 (5)第二に、絶対的に完璧な全体主義システムはかつて存在しなかった、ということが強調されなければならない。
 しかしながら、いくつかの社会は個人と共同体の生活の全ての形態を「国有化」する、きわめて強い、内在していて継続的に作用している傾向をもつことを、我々は知っている。
 ソヴィエトの社会と中国の社会はいずれも、この理想にきわめて近いか、一定の時期にはきわめて近かった。
ナツィ・ドイツもそうだった。十分に発展させるほどには長く続かなかったとしても、また、全てを国有化することなく強制を通じて経済活動を国家目標に従属させることで満足していたのだったとしても。
 その他のファシスト国家は、この方向ではドイツよりはるかに遅れていた(または、遅れている)。
 ヨーロッパの社会主義国家もまたかつて、全体主義のソヴィエトの段階まで決して到達しなかった。永続的で衰えることのない、そうしたいという意思はあったにもかかわらず。//
 (6)全体主義の<entelechia〔明確な精神〕>が理想的な形態で実現され得るだろうとは、言えそうにない。
 このシステムによる圧力に頑固に抵抗する生活の諸形態-とくに家族、情動および性的関係-がある。
 そのような生活諸形態はあらゆる種類の国家の強い圧力にさらされてきたが、明らかに、決して完全には達成されなかった(少なくともソヴィエト国家ではそうだった。おそらくは中国ではより多く達成された)。
 同じことが個人や共同体の記憶についても言える。全体主義システムはこれを、当今の政治的必要に従って歴史を変形させ、書き直し、捏造することによって否定しようとしてきたのだったが。
 工場と労働を国有化することは、感情をそうすることより明らかに容易だ。そして、希望を国有化することは、記憶をそうすることよりも容易だ。
 過去の=歴史の国有化に対して抵抗することは、反全体主義の運動の重要な部分だ。//
 (7)第三に、上述のような定義は、全ての僭政システムまたはテロルの支配は必ず全体主義的だとはかぎらない、ということを意味包含している。
 あるシステムは、最も血なまぐさいものであれ、限定された目標をもち、その範囲内での人の活動の全ての形態を吸収して奪い取る必要がないかもそれない。
 最悪の形態の植民地支配は、最も苛酷な時期であっても、通常は全体主義的でない。
 目標は従属している諸国を経済的に搾取することであり、この観点からして中立的な多くの生活領域は、多かれ少なかれ侵害されないままにされた。
 逆に、全体主義システムは、抑圧の手段としてテロルをつねに用いる必要はない。
(8)その完全な形態では、全体主義は、奴隷制の、主人なき奴隷制の、異常な形態だ。
 それは、全ての人々を奴隷へと転化させる。そしてそのゆえに、それは平等主義(egalitariansm)の確かな徴表を帯びる。//
 (9)このように用いる全体主義という観念は最近は「古くさい」または「信の措けない」ものとしてますます却下されてきていることを、私は知っている。
 その有効性は、疑問視されてきた。
 だが、私は、観念上であれ、歴史的にであれ、それの正当性を否定する分析というものを知らない。むしろ、それを正当視する、以前の多数の分析を知っている。
 じつに、共産主義は個人の国家所有を意味するだろうとの予言は、プルードン(Proudhon)において現れた。そして、のちに多数の著名な著作者たちは、そのことが実際にソヴィエト社会で発生したと指摘し、そのように描写すらした(その際に彼らが「全体主義」という語を用いたか否かは別として)。ここでそれらを引用することは、無意味な衒学趣味になるだろう。//
 ----
 第三節につづく。

1984/マルクスとスターリニズム①/L・コワコフスキ論考(1975)。

 L・コワコフスキに、英語とドイツ語ではそれぞれつぎのように訳されている小論考がある。The Marxist Roots of Stalinism./Marxistische Wurzern des Stalinismus.
 「スターリニズムがもつマルクス主義の根源」といった意味だろう。
 この原論考は1975年に執筆されたとされるが、つぎの文献の中に収録されている。2年後の1977年に、ドイツ語版と英語版とが出ている。
 Leszek Kolakowski, Leben trotz Geschichte (1977, Taschenbuch 1980), p.257-p.281.
 Robert C. Tucker, ed, Stalinism - Essays in Historical Interpretation (English Edition -1st Edition, 1977).
 1977年というのは、L・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>のポーランド語版がパリで出版された翌年、その第一巻のドイツ語版がドイツで出版されたのと同年、全三巻分冊版の英語訳書が出版される前の年だ。
 ドイツ語版は、1977-79年に一巻ずつ刊行された。上のLeben trotz Geschichte はL・コワコフスキの大著を刊行したのと同じ出版社が、その大著の宣伝と人物紹介も兼ねて出版したようにも思える(まだ試訳していないが、この著のLeonhard Reinisch というジャーナリストによる「まえがき」は、英語諸文献には書かれていないコワコフスキの経歴・家族環境にも触れている)
 英語版はのちに、以下に収載された。
 Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012), p.92-.p.114.
 上の大著の中の<フランクフルト学派>等々の論述を試訳する前に、レーニン・スターリン・トロツキーに関するその論述の試訳を終えたところなので、この論考を、上の2012年の英語著によって試訳しておくことにする。
 一行ずつ改行し、段落の冒頭に原文にはない番号を付す。
 小論考とはいえ、独語版、英語版ともに、計20頁を上回る。
 ----
 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第1節・設定している問題と設定していない問題。
 (1)マルクス主義のスターリニズム・イデオロギーやスターリン主義権力体制との関係を問題にするとき、大きな困難さがあるのは、問題をどのように設定し、定式化するかだ。
 この問題は多くの態様で設定することができるし、また、そうされてきた。
 結果として生じた問題設定のうちのいくつかは回答不能であるか、無意味だ。またいくつかは、答えが明確であるために、修辞的だ。
  (2)回答不能でも無意味でもある問題設定の一例は、こうだ。
 <マルクスが今日に生きて彼の思想(ideas)がソヴィエト体制で具体化されているのを見たとき、彼は何と言っただろうか?>
マルクスが生きていたとしたなら、彼はその言葉を必ずや変更しただろう。
 マルクスが何らかの奇跡で現在に蘇生したとするなら、自分の哲学の最良の実際的解釈はいずれかに関する彼の見解はたんに多数の中の一つの見解にすぎないだろう。そして、ある哲学者は自分の思想が包含する意味内容を理解するに際してつねに無謬であるとは限らない、と語ることでその見解は簡単に却下されることだろう。
 (3)答えが明瞭で議論する必要がほとんどない問題設定の一例は、こうだ。
 <スターリン主義体制は、マルクスの理論から、その因果関係として生まれたのか?>
 <我々はマルクスの文章の中に、明示的にまたは黙示的に、スターリン主義社会で設定された価値体系とは矛盾する価値判断を見出すことができるか?> 
 第一の疑問に対する回答は、明らかに「違う」だ。なぜなら、一つのイデオロギーで完全に作られ、その起源に寄与した諸思想でもって完全に説明され得るような社会は、一度なりとも存在しなかった。
 誰もが、このことを受け入れることのできるマルクス主義者だ。
 全ての社会の諸装置は、その社会はどうあるべきかに関するその構成員や設立者たちの(相互に闘い合う)思想(ideas)を反映する。しかしまた、いかなる社会も、そのような-それが存在する前の想念も含めて-思想だけでは生み出されたことがない。
 ある社会が一つの夢想郷(ユートピア)から(あるいはまさに<kakotopia>から)発生し得ると思い描くならば、人間共同体はその歴史を廃絶(do away)する権能があると信じることにまで到達するだろう。
 これは常識だ。陳腐な贅言であり、おまけに全く否定されるべきものだ。
 社会はつねに、その社会が自分自身について思考したことによって塑型されてきた。しかし、この依存関係は、決して部分的なもの以上のものではない。//
 (4)第二の疑問に対する回答は、明らかに「そのとおり」だ。しかし、我々の問題にとって、何の重要性もない。
 マルクスが自由の社会主義王国は一党による僭政支配で成るだろうという趣旨で何かを書いたことは一度もなかった、ということは簡単に確定される。
 また、マルクスは社会生活の民主主義的形態を拒絶しなかったこと、マルクスは社会主義が政治的な強制<に反対した>ではなくそれ<に加えた>経済的強制の廃棄へと至るのを期待していたこと、等々も。
 それにもかかわらず、マルクスの理論は論理的には、彼の表向きの価値判断とは両立し得ない帰結を意味包含(imply)するものであるかもしれない。
 あるいは、経験上の諸事情によって他の何らかの態様で実現され得たものが妨げられた、ということなのかもしれない。
 政治的および社会的な基本政策(programs)、夢想や予見が、たんに異なる態様のではなくそれらの作成者の意図とは著しく矛盾する、そのような結果をもたらす、ということは何ら奇妙なことではない。
 従前には気づかれなかったり無視されたりした経験上の関係は、他の構成部分を放棄することなく、夢想(the utopia)の一部のみについて、実現することを不可能にしてしまうかもしれない。
 このことは、またもや常識的なことで、瑣末なことだ。
 我々が人生で学ぶことのほとんどは、矛盾なく両立するのはどの諸価値に関してなのか、どの諸価値が相互に排他的であるのか、だ。そして、たいていの夢想は、両立し得ない価値が<ある>ということを学習する力を単直に欠いている。
一度ならず以上にしばしば、この両立不可能性は経験上のもので、論理的なものではない。そして、このことは、そうした夢想が論理的観点からは必ずしも自己矛盾しておらず、世界がそうであるがゆえにたんに実践不可能だ、ということの理由だ。//
 (5)かくして私は、スターリニズムとマルクス主義の間の関係を議論する際に、つぎのような思考表明を重要ではないものとして、却下する。これらが真実であるか否かを確実に決定することができるかどうかを別として(前者についてはいくぶんか疑わしい)。
 <マルクスは墓の下で、これを嘆いているだろう>、あるいは、<マルクスは検閲に反対し、自由選挙に賛成しただろう>。
 (6)私自身が関心をもつことは、別の態様でもっとよく表現されるだろう。
 すなわち、社会の組織化に関するスターリン主義体制を正当化するために考案された特徴的スターリン主義イデオロギーは、歴史に関するマルクス主義哲学の正統(legitimate)な解釈だった(または、である)のか?
 これは、私の問題設定の穏健な範型だ。
 より強い範型は、こうだ。すなわち、マルクス主義的社会主義の全根本的諸価値を実現しようとする全ての試みは、スターリニズムという間違いなき特質を帯びる政治組織体を生みだす傾向があった(likely)のか?
 私は、上の二つの問題設定を肯定する回答を行う立場で、以下を論述する。
 但し、第一の問いに「そのとおり」と語ることは第二の問いに「そのとおり」と語ることを論理的には含んでいない、ということを認識している。
 また、スターリニズムはマルクス主義のいくつかの受容可能な変種の一つだと主張することと、マルクス主義哲学のまさにその内容は他のいずれよりもこの特有の〔スターリニズムという〕範型に対してより有利に働いたということを否定することとは、論理的には矛盾していない、ということも。//
 ----
 第二節へとつづく。

1975/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.212-p.219。合冊版では、p.957-p.962。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。
 第6節・小括(conclusions)。
 (1)今日から見ると、1930年代のトロツキーの文筆による活動や政治的活動は、極端に願望に充ちた思考だの印象を与える。
 実現しない予言、空想じみた幻想(fantasic illusions)、間違った診断、そして根拠のない希望、これらの不幸な混合物だ。
 もちろん、トロツキーが戦争の成り行きを予見できなかったというのは、第一に重要なことではない。この時代に多数の者が予言したが、たいていは事実によって裏切られた。
 しかしながら、重要で特徴的なのは、トロツキーが、深遠な弁証法と大きな歴史発展の理解にもとづく科学的に正確な判断だとして、その論述を弛むことなく提示した、ということだ。
 実際に、彼の予見が基礎にしていた一つは、歴史は彼の正しさを証明するだろうという望みであり、また一つは彼が遅かれ早かれ実現するに違いないと信じて想定した歴史の法則から導いた、教理上の(doctrinaire)結論だった。
 かりにスターリンが戦争の結末を予見し、殺戮しないでトロツキーに復讐していたとすれば、どうなっただろうと人は考えるだろうか。生かしたままにして、トロツキーの希望や予言の全てが崩壊して、ただの一つも実現していないことを見させる、という復讐だ。
 戦争は反ファシスト戦争だった。
 ソヴィエトによる東ヨーロッパの制圧を別として、ヨーロッパまたはアメリカに、プロレタリア革命は一つも発生しなかった。
 スターリンもそうだったように、スターリン主義の官僚機構は一掃されず、測りがたいほどに強くなった。
 民主主義政体は生き残り、西ドイツやイタリアで復活した。
 植民地領域の多くは、プロレタリア革命なくして、独立を達成した。
 そして、第四インターナショナルは、無能力なセクトのままだった。
 かりにトロツキーがこれら全てを見たならば、自分の悲観的な方の仮説が正しいものだったこと、そしてマルクス主義は幻想だったことが証明された、ということを認めただろうか?
 我々はもちろん、これを語ることができない。しかし、トロツキーの心性からするとおそらく、彼はこのような結論を導き出さないだろう。
 彼は疑いなく、歴史の法則の働きが再びいくぶんか遅れた、だが大きな動きは近い将来にあるという信条と歴史の法則は合致していると、たんに述べただろう。//
 (2)本当の教理主義者(doctrinaire)であるトロツキーは、自分の周りで生起している全てのことに無神経だった。
 彼はもちろん、諸事件を身近で追い、それらに論評を加えた。そして、ソヴィエト同盟や世界政治に関する正確な情報を得るために最善を尽くした。
 しかし、教理主義者の本質は、新聞を読まなかったとか、事実を収集しなかった、ということにあるのではない。経験上の情報に鈍感な、あるいはきわめて漠然としているためにどんな事態もそれに適合させるために用いることのできる、そのような解釈の体系に執着する、ということにある。
 トロツキーには、何らかの事態が自分の考えを変える原因になるかもしれないと怖れる必要がなかった。彼の議論はつねに、「一方の形態では、他方…」、あるいは「…が認められるとしても、しかし、にもかかわらず…」なのだった。
かりに共産主義者が世界のどこかで後退するとすれば、スターリン官僚制が(彼がつねに言ったように)運動を破滅に導いているという彼の診断の正しさを確認した。
 かりにスターリンが「右翼主義」へと振れたならば、それはトロツキーの分析の勝利だった。ソヴィエト官僚制は反動へと退廃していくだろうと、彼はいつも予言していたのだから。
 しかし、かりにスターリンが左翼へと振れたならば、これまたトロツキーにとっての勝利だった。つねに、ロシアの革命的前衛は力強いので官僚機構はそれに配慮するに違いない、と明瞭に彼は述べてきたのだ。
 かりにどこかの国のトロツキスト党派がその党員数を増したとすれば、それはもちろん良い兆候だ。最良の党員たちは、真のレーニン主義が正しい政策であることを理解し始めているのだ。
 一方でかりにその集団が規模を小さくしたまたは分裂を経験したとすれば、これもまたマルクス主義の分析の正しさを確認するものだ。すなわち、スターリン主義の官僚機構は大衆の意識を息苦しいものにしており、革命の時期に動揺する党員たちはつねに戦場から逃げ出すのだ。
 かりにソヴィエト・ロシアの統計が経済的な成功を記録するならば、それはトロツキーの主張の正しさを確認する。プロレタリアートの意識によって支えられた社会主義は、官僚機構の存在にもかかわらず、基盤を確立しているのだ。
 かりに経済的な後退または厄災があったとすれば、トロツキーは再び正しい。彼がつねに言ってきたように、官僚機構は無能力で、大衆の支持を受けていないのだ。
このような精神の構造は、入り込む隙がないもので、事実によって矯正されることがない。
 明らかなことだが、社会には多様な勢力と競い合う傾向の組織があって活動している。そして、異なるものが、異なった時期に有力になる。
この常識的な真実が哲学的思考の真ん中に存在しているならば、経験が拒否される危険はない。
 しかしながら、トロツキーは、多数のマルクス主義者と同様に、誤謬なき弁証法の方法に助けられて自分は科学的に観察していると空想していた。//
 (3)トロツキーのソヴィエト国家への態度は、心理的には理解可能だ。すなわち、ソヴィエト国家の大部分は彼が生み出したもので、自分の子どもがとてつもなく退廃したことを認めることができなかったのは、驚くべきことではない。
 ゆえに、彼はつぎの異常な矛盾した言辞を絶えず繰り返し、ついには忠実なトロツキストたちすら理解できないと感じるようになった。
 労働者階級は政治的に収奪(expropriate)され、全ての権利を剥奪され、隷属化して踏みにじられてきた。しかし、ソヴィエト同盟は今もなお労働者階級の独裁のもとにある。土地と工場が国家の所有物になっているのだから。
 時が経るにつれて、トロツキーの支持者たちは、このドグマが原因で、ますます彼から離れた。
 ある者は、ソヴィエト共産主義とナツィズムの間の明確な類似性を看取し、世界じゅうの全体主義体制の不可避性について、悲観的に予感した。
 ドイツのトロツキストのHugo Urbahns は、あれこれの形態での国家資本主義が普遍的になるだろう、と結論した。
 1939年にフランス語で「世界的な官僚主義化」に関する書物を発行したイタリアのトロツキストのBruno Rizzi は、世界は新しい形態での階級社会に向かって動いている、その社会ではファシスト国家やソヴィエト同盟で実際に例証されている官僚制の衣をまとった集産的所有制へと、個人所有制が置き換えられる。
 トロツキーは、このような考えに烈しく反対した。ブルジョアジーの一機関であるファシズムが、政治的官僚機構に有利に自分たちの階級を収奪することができる、と想定するのは馬鹿げている、と。
 同様に、トロツキーは、Burnham やShachtman と決裂した。彼らが、ソヴィエト同盟を「労働者の国家」と呼称するのはもはやいかなる認知可能な意味もない、と結論づけたときに。
 Shachtman は、資本主義のもとでは経済的権力と政治的権力を分離することができるが、この分離はソヴィエト同盟では不可能だ、そこでは財産関係とプロレタリアートの政治的権力への関与は相互に依存し合っている、と指摘した。プロレタリアートは、政治的権力を喪失しながら経済的独裁制を実施し続けることはできない。
 プロレタリアートの政治的な収奪とは、全ての意味でのそれによる支配の終焉を意味する。従って、ロシアはまだ労働者の国家だと主張するのは馬鹿げている。支配している官僚機構は、言葉の真の意味での「階級」なのだ。
 トロツキーは、最後まで断固として、このような結論に反対した。ソヴィエト同盟にある生産装置の全ては国家に帰属している、との彼の唯一の論拠を何度も繰り返すことによって。
 このこと自体は、誰も否定しなかった。
 対立は理論上のものというよりも、心理上のものだった。ロシアは新しい形態の階級社会と収奪を生んでいるということを承認することが意味したのは、トロツキーの生涯にわたる仕事は無意味だった、彼自身が、自分が意図したものとはまさに正反対のものを産出することを助けた、ということを受け入れる、ということだった。
 これは、ほとんど誰も導き出すつもりのない一種の推論だ。
 同じ理由で、トロツキーは必死になって、自分が権力をもっていたときのソヴィエト同盟とコミンテルンは全ての点で非難される余地がなかった、と主張した。真のプロレタリアートの独裁、真のプロレタリア民主主義であって、労働者大衆から純粋な支持を得ていたのだ。
 抑圧、残虐行為、武装侵攻等々の全ては、それらが労働者階級の利益になるのならば、正当化される。しかしこのことは、スターリンがとったのちの諸手段とは関係がない。
 (トロツキーは逃亡中に、ロシアには宗教弾圧はない-正教教会は独占的地位を剥奪されただけで、それは正しくかつ適切だった、と主張した。
 彼はこの点では、スターリン体制を擁護するのを強いられた。スターリンはレーニンの政策から何ら逸脱しなかったのだから。)
 トロツキーは、レーニン時代の新生ソヴィエト国家が実施した武装侵入は間違っていたなどとは決して考えていなかった。
 そうではなく逆に、革命は地理を変更することはできないと、何度も繰り返した。言い換えると、帝制時代の国境線は維持され、または復活されるべきなのであり、ソヴィエト体制はポーランド、リトアニア、アルメニアおよびジョージアやその他の境界諸国を「解放する」あらゆる権利をもつのだった。
 彼は、1939年に赤軍の官僚主義的頽廃がなかったとすれば、フィンランドの労働大衆に解放者として歓迎されていただろう、と主張した。
 しかし、彼は、自分が権力をもち、かつ頽廃していないときに、フィンランド、ポーランドあるいはジョージアの労働大衆は歴史の法則に合致して、なぜ熱狂的に彼らの解放者を歓迎しなかったのか、と自問することがなかった。//
 (4)トロツキーは、哲学上の諸問題には関心がなかった。
 (彼は晩年に、弁証法と形式論理にもとづいて自分の見解を深化させようとした。しかし、明らかなのは、彼が知る論理の全ては高校でおよびプレハノフに関する青年時代の学修から収集した断片で成り立っており、彼はそれらの馬鹿らしさを繰り返した、ということだ。
 Burnham はトロツキーに、彼は現代論理学について何も知らないことを指摘して、議論をやめるように助言した。)
 トロツキーはまた、マルクス主義の基礎に関するいかなる理論的な分析をすることも試みなかった。
 彼にとってすでに十分だったのは、マルクスが、現代世界の決定的な特徴はブルジョアジーとプロレタリアートの間の闘争であり、この闘争はプロレタリアート、世界的社会主義国家の勝利、および階級なき社会でもって終わるよう余儀なくされていると示した、ということだった。
 このような予見がいったい何を根拠にしているのかについては、トロツキーは関心がなかった。
 しかしながら、これらが真実だと確信し、また自分は政治家としてプロレタリアートの利益と歴史の深部を流れる趨勢を具現化していると確信して、彼は、最終的な結末に対する忠誠さを揺らぐことなく維持した。
 (5)ここで、我々は異論に対して答えるべきだろう。
 つぎのように語られるかもしれない。トロツキーの努力や彼のインターナショナルが完全に有効でなかったことは彼の分析内容を無効にしはしない、なぜなら、仲間たちの多くまたは全てが同意しなかったとしてすら、ある人間は正しいということがあり得る、そして、<不可抗力(force majeure)>は論拠にならない、と。
 しかしながら、我々はここで、力が論拠になるか否かは人が何を証明したいかに依存するという、(<社会主義のもとでの人間の魂>での)Oscar Wilde の論評を想起することができる。
 我々はさらに、同様の思考方法で、問題とされている論点がある者が強いかそうでないかであるならば、力は論拠になる、と付け加えることができる。
 科学史上一度ならず起きたように、ある理論が全員またはほとんど全員によって拒否されるということは、その理論が間違いであることを証明しはしない。
 しかし、それは、偉大な歴史的趨勢を(または神の意思を)「表現」したものだという趣旨で、生来の自己解釈力をもつ理論だというのとは異なる問題だ。 
 上でいう趣旨とは、やがて勝利する運命にある階級の真の意識を具現化している、あるいは真実を発現したもので成る、したがって理論上は(または「理論上の意識」によれば)不可避的に必ず全ての者に打ち勝つ、といったものだ。
 かりにこのような性格のある理論が承認されないとするならば、そうされないことは、それ自体の諸前提に反対する一つの論拠だ。
 (他方で、実践における成功は、必ずしもそれに有利となる論拠ではない。
 イスラムの初期の勝利が証明するのはコーランが真実だったことではなく、それが生み出した信仰が、本質的な社会的要求に対応していたがゆえに最も力強い集結地点(rallying-point)だったということだ。)
 同じように、スターリンの諸成功は、彼が理論家として「正しい」者だということを証明するものではなかった。
 このような理由で、トロツキズムの実践での失敗(failure)もまた、科学的な仮説の拒絶とは違って、理論上の失敗だった。すなわち、トロツキーが確信していた理論は、間違っていたことの証拠だ。//
 (6)教条的(dogmatic)特質をもつトロツキーは、マルクス主義の教理のいかなる点についても、理論上の解明への貢献をしなかった。
 彼はしかし、無限の勇気、意思力および忍耐力を備えた、際立つ個性の人物だった。
 スターリンと全ての国々のその子分たちから悪罵を投げつけられ、最強の警察と世界じゅうの宣伝機関によって追及されても、彼は決して怯むことがなかったし、闘いを放棄することもなかった。
 彼の子どもたちは殺された。彼は自国から追い出され、野獣のごとく追跡され、最後には殺戮された。
 あらゆる審判での彼の驚くべき抵抗はその忠誠心の結果であり、決して、-それとは反対に-彼の揺るぎなき教条主義や精神の非融通性と矛盾してはいない。
 不運なことだが、忠誠心の強さや迫害を耐え忍ぼうとする支持者たちの意気は、知的に、または道徳的に正しい(right)、ということを証明しはしない。//
 (7)ドイチャー(Deutscher)はその単著の中で、トロツキーの生涯は「先駆者の悲劇」だった、と語る。
 しかし、こう主張する十分な根拠はなく、トロツキーはいったい何の先駆者だと想定されていたのかも明瞭でない。
 トロツキーはもちろん、スターリン主義者による歴史編纂の捏造ぶりの仮面を剥ぐことや、新しい社会での条件に関するソヴィエトによる宣伝活動の欺瞞を明らかにして論難することに、貢献した。
 しかし、その社会や世界の将来に関する彼の予見は全て、間違っていたことが分かった。
 トロツキーはソヴィエトの僭政体制を批判した点で独自性をもつのではなく、そのような批判を行った最初の人物でもなかった。
 逆に、彼は民主主義的社会主義者たちに対してよりははるかに穏やかに、ソヴィエト体制を批判した。また、僭政体制<だとして(qua)>反対したのではなく、彼がそのイデオロギー上の原理的考え方にもとづいて診断した、究極的目標についてのみ反対した。
 スターリンの死後に共産主義諸国で表明された種々の彼に対する批判論は、事実についても批判者自身の気持ちにおいても、トロツキーの著作や思考と何の関係もなかった。
 これら共産主義諸国での「反対派(dissident)」運動には、彼の考え方はいかなる役割も果たさなかった。共産主義の見地からソヴィエト体制を批判した、次第に少なくなっている一群の者たちの間にすら。
 トロツキーは、共産主義に代わる別の選択肢を提示しなかったし、スターリンと異なる何らかの教理を提示したわけでもなかった。
 「一国での社会主義」に対する攻撃の主要な対象は、スターリンとは何の関係もない理由で非現実的になっていた一定の戦術上の方針を説き続ける試みにすぎなかった。
 トロツキーは「先駆者」ではなく、革命の落とし子(offspring)だった。その彼は、1917-21年に採用された行路との接線部分に投げ込まれたが、のちには内部的かつ外部的な理由で遺棄されなければならなかったのだ。
 彼の生涯は「先駆者」というよりも、「亜流の者」(epigone)の悲劇だったと呼称する方が正確だろう。
 これはしかし、適切な表現ではない。
 ロシア革命は、一定の諸点で行路を変更したが、全ての点で変えたのではなかった。
 トロツキーは絶えず革命的侵略を擁護し、かりに自分がソヴィエト国家とコミンテルンを運営することができれば、全世界は遅滞なく輝かしいものになるだろうと、自分自身や他者を説きつづけた。
 彼がそう信じた根拠は、それこそがマルクスの歴史哲学(historiosophy)が教える歴史の法則だ、ということにあった。
 しかしながら、ソヴィエト国家は、成り行きでその時点までの行路を変更することを余儀なくされた。そしてトロツキーは、そのことを理由としてその指導者たちを叱責するのをやめなかった。
 しかしながら、国内体制に関するかぎりは、スターリニズムは明らかに、レーニンとトロツキーが確立した統治のシステムを継承したものだった。
 トロツキーはこの事実を承認することを拒んだ。また、スターリンの僭政はレーニンとは関係がない、実力による強制、警察による抑圧および文化生活の荒廃化は「官僚機構による」<クー・デタ>だ、これらについて自分はほんの少しの責任もない、と自分に言い聞かせた。
 このような絶望的な自己欺瞞は、心理学的に説明可能なものだ。
 ここで我々に判明するのは、たんなる「亜流の者」(epigone)の悲劇ではなく、自分が作った罠に嵌まった、革命的僭政者の悲劇だ。
 トロツキストの理論というようなものは何もなかった。-絶望的に自分の地位を回復しようとする、退いた指導者だけがいた。
 彼は自分の努力が虚しいことを実感することができなかった。また、奇妙な頽廃だと自分は見なしたが現実にはレーニンやボルシェヴィキ党全員と一緒に社会主義の創設だとして確立した諸原理の直接の帰結に他ならない、そういう諸事態について自分に責任がある、ということを受け入れようとしなかった。//
 ----
 第6節が終わり、第5章・トロツキーも終わり。

1973/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨⑳。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 主として第一章についてこれまで言及してきたので、第二章に移ってみよう。
 無知を自覚していないということが、いかほどの悲惨さと無惨をもたらしているのか、かつて「日本会議専門研究員」だった人物の<知的能力>がいかほどのものなのか、これらを示す実例は、おそらく際限なく(正確には有限だろうが)明らかになるに違いない。
  第一章の末尾に「戦前の日本は、どのような社会であったのか。次章ではそれを見ていくことにしよう」とある。p.96.
 この戦前というのは明治期を含んでいることが次章(第二章)の内容で明らかだ。
 しかし、明治期を含む「戦前の日本」を単純に「どのような社会であったのか」を「見ていく」と大胆にも?書けること自体が異様だ。そのことの異様さを、江崎道朗は自覚していないのだろう。
 明治以降の「戦前」に関して、書くこと、書くべきことは多数あり、実際にも種々の分野、主題について多数の書物が日本人によって執筆・刊行されてきたはずだ。戦前を「生きた」日本人が自らかいた文章・書物も、それこそ無数にあるだろう。
 それにもかかわらず、「戦前の日本は、どのような社会であったのか。次章ではそれを見ていくことにしよう」と、決して長大ではない「新書」版の本で簡単に書けるということ自体が、その神経について、秋月瑛二には理解不能だ。
  日本固有の問題に入ろうと思っていたが、第二章の冒頭でも江崎道朗は、コミンテルンにかかわって奇妙なことを(正確にはウソを)書いている。
 p.98にこうある。
 「1921年の第三回コミンテルン大会では『統一戦線』と『植民地の解放』という方針が打ち出されることになる。
 資本主義諸国では、これまで敵対していた社会民主主義勢力とも"表向き"は協調し、一方で植民地、半植民地支配の下での民族主義運動を支援していこうというのである。」
 この二文は堂々と日本の<新書>版の本(PHP新書)に活字となっていることにまずは注目したい。日本の<新書>はほとんど注記も参照文献一覧の提示もないことが多く、少なくとも<玉石混淆>だ。江崎道朗のものは妄想的な「石」だ。
 さて、ある程度の予備知識があるからこそ指摘できる。
 1921年のコミンテルン第3回大会が少なくとも「社会民主主義勢力」との「統一戦線」などを掲げたはずがない。この年の実質的トップはレーニンだったが、スターリンに代わってからも「社会愛国主義」、「社会排外主義」、「社会ファシスト」としてドイツ社会民主党等の「社会民主主義勢力」を敵視する政策方針は(ロシア・ソ連の共産党でもコミンテルンでも)続いた。
 これの大きな変更があったのは、1935年のコミンテルン第7回大会だ。コミンテルンの書記長だったディミトロフ(ブルガリア人)に代表される、そして当時のスターリンもまた了解していた、<反ファシズム統一戦線>の提起による。
 この結果として、スペイン等での「人民戦線」戦術も生まれた。
 江崎道朗がいう第3回大会の1921年はロシアでクロンシュタット暴乱や<ネップ>を打ち出した共産党大会があった年で、そもそもヒトラーの<ミュンヘン一揆>もまだ起きていない。かりにすでにヒトラーをファシスト、ヒトラー主義をファシズムと称したとしてすら、まだそのようなものは明確になっていない。まだ先のことだ(但し、「イタリアのファシスト」についてはすでに言及がある。後掲資料集第1巻収録決議のp.436参照)。
 それを平然と1921年大会での「統一戦線」方式とか書くのだから、さすがに「社会愛国主義」を社会・国家を「愛する」主義だと理解して叙述していた江崎道朗のことはある。
 江崎道朗は所持すらしていないようだが、第3回コミンテルン大会(1921.6.22-7.12)の諸決議は、以下に収載されている。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻-革命的危機とコミンテルン(大月書店、1978)。  
 この資料集を子細に点検して詳細に引用することはしない。
 二つだけ例示すると、まず、1921年大会採択「戦術に関するテーゼ」p.440-1に、情勢認識として、こうある。
 この一年間に「社会民主諸党と改良主義的労働組合指導部とがいっそう政治的に退廃し、その仮面が剥がれ、その正体が暴露されるのが見られた。しかし、同時にこれは、これらの党や組合が組織的結集を試み、共産主義インターナショナルに対する攻撃に移行した一年であった。」
 また、1921年大会採択「共産党の組織建設、その活動の方法と内容についてのテーゼ」p.461.に、こうある。
 「社会民主党や独立社会党の新聞にたいしては、瑣末な分派的論戦におちいることなしに、たえまない攻撃を加え、階級対立を包みかくすその裏切的な態度を日常生活からとった多くの実例にもとづいて暴露することによって、これを克服しなければならない」。
 江崎道朗が1921年について言う「統一戦線」とはいったい何のことか。
 「戦前の日本」を五箇条のご誓文-大日本帝国憲法-昭和天皇-の「単色」の<保守自由主義>と<左右の全体主義>という枠組みで単純かつ幼稚に描こうとしている江崎のことだから、1921年と1935年の違いなど、大したことではないのかもしれない。
 この人物にとっておそらく、「コミンテルン」というまがまがしい「陰謀」組織のことが単純に頭に入っていればよいのだろう(なお、杉田水脈の昨年夏の「コミンテルン」という語の使用の仕方も単純で、幼稚だ。江崎、杉田は「コミンフォルム」のことを知っているのか?)。
 いずれにせよ、江崎道朗は、恥ずかしくはないのだろうか。
 じつに気の毒だ。後世も長く、ひどい書物を執筆して刊行した人物として、その名前が記録され、記憶されていくのだから。ああ恥ずかしい。ああ、気の毒だ。

1972/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.206-p.212。合冊版では、p.952-p.957。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。
 第5節・ファシズム、民主主義および戦争。
 (1)トロツキーの思考がいかに教条的で非現実的だったかは、近づく戦争に関する1930年代の論評やファシストの脅威に直面しての行動をどう奨励したかによって判断することができるかもしれない。
 (2)彼は、戦争が勃発した数日後に、こう書いた。
 「レーニンの指導のもとで労働者運動の最良の代表者たちが考え出した世界戦争に関する原理的考え方を、些かなりとも変更する理由を認めない。
 どちら側の陣営が勝利しようとも、人類(humanity)は後方に投げ棄てられるだろう。」
 (<著作集, 1939-1940年>, p.85.)
 この文章-ドイツによるポーランド侵攻とイギリス・フランスの宣戦布告のあとで、かつ9月半ばのソヴィエトによる侵略の前に書かれていた-は、ナツィ・ドイツ、ファシスト・イタリア、ポーランド、フランス、イギリスおよびアメリカ合衆国のような資本主義諸国間の戦争という主題に関する、トロツキーの見方の典型だった。
 彼は長年にわたって、疲れを知らないがごとく、つぎのように想定するのは致命的な幻想で、資本主義者の策略だ、と繰り返した。すなわち、ファシズムに対抗する「民主主義」諸国間の戦争はあり、かつあり得る、また、勝利するのがヒトラーかそれとも西側民主主義諸国の連合かは何らかの違いを生み出す、と想定することだ。なぜなら、どちらの側も工場を国有化していないのだから、と。
 交戦諸国のプロレタリアートは、ヒトラーと闘う自国の反動的政府を助けるのではなく、レーニンが第一次大戦の間に強く主張したように、自国政府に反抗しなければならない。
 「国家(national)防衛」という呼びかけは、極度に反動的で、反マルクス主義的だ。
 問題とすべきはプロレタリア革命であって、あるブルジョアジーの別のそれによる敗北ではない。
 (3)トロツキーは、<戦争と第四インターナショナル>と題する1934年7月の小冊子で、こう書いた。
 「国家防衛といういかさまは、可能ならばどこでも、民主主義の防衛という追加的いかさまで覆い隠されている。
 マルクス主義者は帝国主義時代の今でも民主主義とファシズムを区別して、つねに民主主義に対するファシズムの浸食を拒否しようとするのか? そして、プロレタリアートは戦争が起きている場合に、ファシスト政府に対抗して民主主義的政府を支持しなければならないのか?
 芳香に充ちた詭弁だ!
 我々は、プロレタリアートの組織と手段でもって、ファシズムに反対して民主主義を防衛する。
 社会民主党とは反対に、我々はこの防衛をブルジョアジー国家に委ねはしない。<中略>
 このような条件のもとでは、労働者の党が脆弱な民主主義という外殻のために「その」民族的帝国主義を支持することは、自立した政策方針を放棄して、労働者の意気を排外主義でもって喪失させることを意味する。<中略>
 革命的前衛は、自国の「民主主義」政府に反抗し、労働者階級の諸組織との統一戦線を追求するだろう。決して、敵対する国と戦争を行う自国の政府との統合ではない。」
 (<著作集, 1933-1934年>, p.306-p.307.)
 (4)トロツキーは1935年の論文で、つぎのことを強調した。
 第三インターナショナルは、社会愛国主義とばかりではなく、つねに平和主義(pacifism)と闘ってきた。つねに、軍縮、調停、国際連盟等々と闘ってきたのだ。
 しかし今では、これら全てのブルジョアジーの政策を是認している。
 <ユマニテ〔L'Humanité〕>は「フランス文明」の防衛を呼びかけることによって、プロレタリアートを裏切り、民族の立場をとり、労働者がドイツ帝国主義と闘う自国の政府を助けるように誘導する、ということを明らかにした。
 戦争は、資本主義の産物だ。そして、現在の主要な危険はナツィズムから発生している、と主張するのは馬鹿げている。
 「この途はすみやかに、ヒトラー・ドイツに対抗するフランス民主主義の理想化に到達する」(G. Breitman & B Scott 編<レオン・トロツキー著作集, 1934-1935年>(1971年), p.293.)。
 (5)トロツキーは戦争の一年前に、民主主義とファシズムは搾取のために選択可能な二つの装置にすぎない、と宣告した。-残余は全て、欺瞞なのだ。
 「実際のところ、ヒトラーに対抗する帝国主義的民主主義諸国の軍事ブロックとは何を意味するのだろうか?
 ヴェルサイユ(Versailles)の鎖の新版だ。それよりもっと重く、血にまみれ、もっと耐え難いものだ。<中略>
 チェコスロヴァキアの危機はきわめて明瞭に、ファシズムは独立した要因としては存在していないことを暴露した。
 ファシズムは帝国主義の道具の一つにすぎない。
 『民主主義』は、それがもつもう一つの道具だ。
 帝国主義は、これら二つの上に立っている。
 帝国主義はこれらを必要に応じて作動させ、たまには相互に対向的に平衡させ、たまには友好的に宥和させる。
 帝国主義と同盟関係にあるファシズムと闘うことは、ファシズムの爪や角に対抗して悪魔と同盟して闘うのと同じことだ。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.21.)//
 (6)要するに、民主主義対ファシズムの闘いなるものは存在しない。
 国際的条約はこの偽りの対立を考慮していない。イギリスはイタリアと協定するかもしれないし、ポーランドはドイツとそうするかもしれない。
 競い合う当事者がどの国であれ、来たる戦争は国際的なプロレタリアート革命を生み出すだろう。-これこそが、歴史の法則だ。
 人類は数カ月以上は戦争に耐えることができないだろう。
 第四インターナショナルに指導されて、民族的諸政府に対する反乱が至るところで勃発するだろう。
 いずれにせよ戦争は、民主主義の全ての痕跡を一掃し、その結果として、民主主義的価値の防衛を語ることは馬鹿げたものになる。
 パレスチナのトロツキスト・グループは、ファシズムはその当時に抵抗しなければならない主要な脅威だ、そして、ファシズムと闘っている諸国で敗北主義を説くのは間違っている、と提案した。
 トロツキーはこれに答えて、こうした態度は社会愛国主義にすぎない、と書き送った。 全ての真の革命家にとって、主要な敵はつねに自国にある、と。
 彼は、1939年7月の別の手紙で、こう宣告した。
 「ファシズムに対する勝利は重要だが、もっと重要なのは、資本主義の断末魔的苦しみだ。
 ファシズムは新しい戦争を加速させ、そして戦争は、革命運動を著しく促進させるだろう。
 戦争が起きる場合、全ての小規模の革命的中核は、きわめて短期間に決定的な歴史的要素になることが可能だし、そうなるだろう。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.349.)
 第四インターナショナルは、1917年にボルシェヴィキが果たしたのと同じ役割を、来たる戦争で果たすだろう。しかし今度は、資本主義の崩壊が完全で最終的なものになるだろう。
 「そのとおり。新しい世界戦争は絶対的な不可避性をもって、世界革命と資本主義体制の崩壊を惹起させるだろう」(同上、p.232.)。
 (7)戦争が実際に始まったとき、こうした問題に関するトロツキーの見解は変わらなかったばかりか、むしろ強くなった。
 彼は1940年6月に発行された第四インターナショナルの宣言文で、つぎのように語った。
 「『祖国』の防衛のために出兵している社会主義者たちは、封建体制を、自分たち自身の鎖を防衛するために結集した〔フランスの〕ヴァンデ(Vendée)の農民たちと同じ反動的な役割を演じている」(<著作集, 1939-1940年>, p.190.)。
 ファシズムに対抗する民主主義の防衛について語るのは無意味だ。ファシズムはブルジョア民主主義の産物であり、防衛されなければならないのは決して「祖国」ではなく、世界のプロレタリアートの利益なのだ。
 「しかし、戦争で最初に打ち負かされるべきであるのは、完全に腐敗している民主主義体制だ。
 それが決定的に瓦解する際には、その支えとして役立った全ての労働者組織を引き摺り込むだろう。
 改良主義的労働組合に残された余地はないだろう。
 資本主義的反動は、それら労働組合を容赦なく破壊するだろう」。
 (同上、p.213.)
 「しかし、労働者階級は現在の条件では、ドイツ・ファシズムとの闘いで民主主義諸国を助けることを余儀なくさせられるのではないか? 」
 この態様は、広汎な小ブルジョア層によって提起される疑問だ。そうした層にとってプロレタリアートはつねにあれやこれのブルジョアジー諸党派の予備的な道具にすぎない。
 我々はこうした政策を、怒りをもって拒絶しなければならない。
 当然ながら、鉄道列車の多数の車両の間に快適さに違いが存在するように、ブルジョア社会での政治体制の間には違いが存在する。
 「しかし、列車全体が奈落の底へと飛び落ちているとき、衰亡する民主主義と凶悪なファシズムの区別は、資本主義体制全体の崩壊に直面している際には消失する。<中略>
 人類の究極的な運命にとって、イギリスとフランスという帝国主義国の勝利は、ヒトラーやムッソリーニのそれと同様に不愉快なものだろう。
 ブルジョア民主主義体制が救われることはあり得ない。
 労働者は、外国のファシズムに対抗する自国のブルジョアジーを助けることによっては、自分自身の国でのファシズムの勝利を促進することができるだけだ。」
 (同上、p.221.)//
 (8)ここで再び取り上げるが、ヒトラーによる侵攻の当時のノルウェイの労働者たちに対する、トロツキーの助言がある。
 「ノルウェイの労働者は、ファシストに反対して『民主主義』陣営を支援すべきだったのか? <中略>
 これは現実には、最も未熟な失態となっただろう。<中略>
 世界的な観点から、我々は連合側陣営もドイツ陣営も支持しない。
 従って、我々には、ノルウェイ自身が一時的な手段としてどちらか一つを支持することについて、些かなりとも正当化することのできる根拠がない。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.172.)
 (9)こうしたことからすると、ポーランド、フランスあるいはノルウェイの労働者たちがトロツキーの宣言文を読んでそれに従っていたとすれば、彼らはナツィの侵略があった際に自国の政府に対して武器を向けていただろう。ヒトラーに支配されようと自国のブルジョアジーに支配されようと、違いはなかったのだから。
 ファシズムは、ブルジョアジーの一つの装置だ。ファシズムに反対する全ての階級の共同戦線の形成を語るのは馬鹿げている。
 第一次大戦の際にレーニンは同様に、敗北主義を説いた。そのようにして、革命が勃発したのだ。
 トロツキーはつぎのごとく考えていたと見られることは、看取しておく必要がある。すなわち、彼にとって、資本主義諸国は階級利益で結ばれているがゆえに、戦争とは全ての資本主義諸国のソヴィエト同盟に対する闘いだった。
 しかしながら、ソヴィエト同盟が一つの資本主義勢力に対抗している別の資本主義勢力と同盟するとすれば、その戦争はきわめて短期間のものでのみあり得るだろう。なぜなら、1917年のロシアでのように、敗北した資本主義国家でただちにプロレタリア革命が勃発するだろうから。そして、二つの敵対する勢力はそのときには、プロレタリアートの祖国に対抗して同盟するだろう。//
 (10)かくして、トロツキーにとっては、戦争に関する一般的結論は過去の結末だった。
 資本主義は最終的に崩壊し、スターリニズムとスターリンは一掃され、世界革命が勃発し、第四インターナショナルがただちに労働者の精神に対する優越性を獲得して最終的な勝利者として出現するのだ。
 これは、トロツキーがSerge、Souvarine、Thomas の批判に答えて、つぎのように書いたとおりだ。
 「資本主義社会の全政党、その全ての道徳家と全ての追従者たちは、差し迫る大厄災の瓦礫の下で滅びていくだろう。
 ただ一つ生き残るのは、世界的社会主義革命の党だ。たとえそれが、先の大戦中にレーニンやリープクネヒト(Liebknecht)の党が存在しないように見えたのとちょうど同じく、見識のない分別主義者たちには今は存在していないように見えるかもしれないとしても。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>, p.47.)
 追記すれば、トロツキーは、最大限の確信をもって、多数の具体的な予言を行った。
 例えば、スイスが戦争に巻き込まれるのを避けるのは絶対に不可能だ。
 民主主義政体はどの国でも残存することができず、「鉄の法則」により必ずやファシズムへと発展するに違いない。
 かりにイタリアの民主主義が復活するとしても、続くのはせいぜい数カ月で、プロレタリア革命がそれを一掃する。
 ヒトラーの軍隊は労働者と農民で成り立っているので、それは次第に被占領諸国の人民と同盟するに違いない。なぜなら、歴史の法則が、階級による紐帯は他の何よりも強いことを教えているからだ。
 (11)トロツキーは1933年8月に、ファシストの危険性に関する一般的性質に関して、きわめて興味深い分析を提示した。
 「理論上は、ファシズムの勝利が疑いなく証明するのは、民主主義政体は疲弊し切った、ということだ。
 しかし、政治的には、ファシスト体制は民主主義に関する歪んだ見方(prejudices)を維持し、再生させ、若者たちの中にそれを注入し、短い間はそれに最強の力を授けることができすらする。
 正確に見れば、このことの中にこそ、ファシズムの反動的な歴史的役割のうちの最も重要な表現行動の一つがある。」
 (<著作集, 1932-1933年>, p.294.)
 「『ファシスト』独裁体制による隷属的支配のもとで、民主主義の幻想は弱められることはなく、却って強くなった」(同上、p.296.)。
 換言すれば、ファシズムの脅威は、民衆が民主主義を求めて長くそれに従属し、そうして、民主主義に関する歪んだ見方が駆逐されるのではなくて維持される、ということにある。
 ヒトラーは、民主主義を破壊することを困難にするがゆえにこそ、危険なのだ。//
 (12)トロツキーはその死の直前に、戦争の進展に関する自分の予言を再確認し、同時に、修辞文的に、その予言類が実現しなかった場合に何が起きるだろうかという問題を設定した。
 彼は、マルクス主義の破産(bankruptcy)を意味するだろう、とそれに対してこう回答した。
 「我々が固く信じるようにこの戦争がプロレタリア革命を惹起させるならば、それは不可避的にソヴィエト連邦の官僚制度の打倒と、1918年よりもはるかに高い経済的かつ文化的基盤にもとづくソヴィエト民主主義の再生を、到来させるに違いない。<中略>
 しかしながら、現在の戦争が革命ではなくプロレタリアートの衰退を呼び起こすならば、それとは異なる選択肢が可能性として残る。すなわち、独占資本主義のいっそうの衰亡、それの国家との融合、まだ独占資本主義が存続している全てのところで、民主主義政体が全体主義(totalitarian)体制にとって代わられること。
 プロレタリアートが社会を指導する力を自らのものにすることができないならば、こうした条件のもとで現実には、ボナパルト主義者のファシスト官僚制から、新しい搾取階級が生成する可能性がある。
 全てが指し示していることによれば、これは、文明の消滅を意味する、衰亡の体制になるだろう。
 最終的には、つぎのことが証明されるという結果をすることができるかもしれない。すなわち、先進資本主義諸国のプロレタリアートはかりに権力を獲得したとしてもそれを維持する力を持たず、ソヴィエト連邦でのように特権をもつ官僚機構にそれを譲り渡してしまう、ということ。
 我々はそのときに、つぎのことを承認せざるをえないだろう。すなわち、官僚制への逆戻りは、国の後進性に由来するのでも帝国主義諸国という外環に起因するのでもなく、プロレタリアートには支配階級になることができる力がないという、その生来の性質に根ざしている。  そしてまた、その根本的な特性において、ソヴィエト連邦は世界的規模での新しい搾取体制の先駆者だ <中略>、ということが確定するのが、遡って必然的なものになるだろう。
 しかしながら、この第二の展望がいかに煩わしいものだったとしても、かりに世界のプロレタリアートには現実には、歴史の発展方向に設定されたその使命を達成する力がないということが証明されるならば、つぎのことを認めること以外には、いっさい何も残らないないだろう。
 つまり、資本主義社会の内部的矛盾にもとづいた、社会主義者たちの根本方針(programme)は、ユートピア(夢想郷、Utopoia)として結末を迎える。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.8-p.9.)
 (13)これは、トロツキーの著作集の中に見い出すことのできる異様な論述だ。
 彼は当然に、悲観的な第二の選択肢は非現実的なものだと自信をもって述べ、一般的な命題としではなく進行中の戦争の結果として、世界革命は不可避だと考える、と続けている。
 しかし、もう一つの仮説を心に描いたという事実だけでも、彼が別の箇所で表明する絶対的な勝利の確信を述べている上のような文章と比較するならば、一定の歴史研究者の注目を向けさせるものだと思える。
 (14)トロツキーは、資本主義は自らを改良する力をもつという考えを受け入れなかった。
 彼には、ルーズヴェルトの「ニュー・ディール」は、絶望的で反動的な試みで、失敗するように運命づけられている、と思えていた。
 彼はさらに、技術発展の最高の地点にまで達しているアメリカ合衆国はすでに共産主義への条件を成熟させている、と考えた。
 (彼は1935年3月のある論文で、アメリカが共産主義になればその生産費用を80パーセント削減するだろうとアメリカ国民に約束した。また、その死の直前に書いた「戦時中のソヴィエト連邦」で、ソ連は計画経済によってすみやかに毎年200億ドルへと国家収入を高め、全国民のための繁栄を確保するだろう、と宣言した。)
 <裏切られた革命>にこう書かれているのを、我々は読む。
 誰かが資本主義は10年または20年以上長く成長することができると想定するとすれば、その者はさらには、つぎのことを信じなければならないことになる。
 ソヴィエト同盟の社会主義には意味がない(make no sense)、そして、マルクス主義者は自分たちの歴史的運動に関する判断を誤ってきていた(misjudge)。なぜなら、ロシア革命はパリ・コミューンのような偶発的実験にすぎなかった、と位置づけられるだろうからだ。//
 ----
 つぎの第6節の表題は、<小括(conclusions)>。

1970/L・コワコフスキ著第三巻第五章第4節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回は、第三巻分冊版のp.201-p.206。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。 
 第4節・ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判。
  (1)少なくとも理論上は、工業化と将来の農業政策はソヴィエト同盟の左翼反対派にとってきわめて重要な問題だった。そのために、スターリンが反対派の政策方針の全てを採用し、強化した態様で実施することが分かったとき、トロツキーは、ぎこちない立場を示した。
 彼は、スターリンは実際に反対派の政策意図を実行したが、官僚機構でかつ十分な考慮のない方法でそれを行った、と宣告することで、困難な状態を切り抜けた。
「左翼反対派は、ソヴィエト同盟で工業化と農業の集団化のための闘争を始めた。
 この闘いは一定の意味では勝利した。すなわち、1928年に始まり、ソヴィエト政府の全政策が左翼反対派の基本的考え方を官僚主義的に歪曲して適用していることが示されている。」
 (G. Breitman & B. Scott 編<レオン・トロツキー著作集-1933-1934年(1972年)>p.274.)
 官僚機構はこの措置を、政府の論理で自分たちの利益のために実施することを「強いられ」た。そして、プロレタリアートの歴史的任務を歪曲した方法で履行したけれども、変革それ自体は「進歩的」だった。さらには、スターリンがその考えを変えるように強いたのは、左翼からの圧力だ。
 「革命を目指す創造的勢力と官僚機構の間には、深い対立が存在する。
 スターリン主義者の組織が一定の限界に来て立ち止まるならば、そして左翼へと鋭く舵を切るのを強いられているとすら感じるならば、無定型で散在してはいるが今もまだ力強い、革命党の要素による圧力こそが、それを起こしているのだ。」
 (<著作集, 1930-1931年>, p.224.)
集団化に関して言うと、トロツキーは、経済的準備の性急さと欠落を批判し、スターリン主義者たちはコルホーズ(kolkhozes)を社会主義の制度だと見なす過ちを冒している、と強調した。コルホーズは過渡的な形態にすぎない、と。
 もっと言えば、集団化は資本主義復活の方向への一歩だったと判明している、と。
 トロツキーは<裏切られた革命>で、スターリンは土地をコルホーズに与えることで国有化することを止めた、他方では農民に私的区画地の耕作を許すことで「個人主義」の要素を強化した、と書いた。
 かくして、ソヴィエト農業が朽ち果てて数百万の農民が飢えて死んでいたとき、あるいは最後になって彼らが受け取った私的区画地を維持する許可で何とか生きながらえていたとき、トロツキーの主要な関心は、この現象が示している「個人主義」の危険だった。
 彼は、富農(kulaks)との闘いは全く不十分だと主張すらした。スターリンは彼らにコルホーズで組織する機会を与えた、かつまた最初の廃絶運動のあとでは田園地帯での新しい階級分化をもたらすに違いない実質的な譲歩を行うまでした、のだと。
 (これは1935年のトロツキーの基本的主張だった。そのときに彼は、スターリンの外交政策に「右翼への揺れ」を感知し、ゆえにソヴィエトの内政問題にも類似の兆候を探し求めた。)//
 (2)トロツキーは<裏切られた革命>やその他のあちこちで、ソヴィエト工業への出来高払い労働(piece-work)の導入を非難した。
 しかしながら、彼の議論からすると、警察的強制または革命的熱情が生産性向上のための物質的誘導に代わるべきだと考えたかのかどうか、あるいは革命的熱情がどのようにして喚起されるべきなのかと考えていたのか、を語るのは困難だ。//
 (3)スターリンの外交政策に関して言うと、トロツキーは、「一国での社会主義」のために国際的革命は放棄されている、という主題を奏でた。だからこそ、革命は、ドイツ、中国およびスペインで連続して裏切られたのだ。
 (トロツキーによると、スペイン内戦は「本質的には」社会主義を目指すプロレタリアートの闘いだった。)
 彼は、赤軍は1923年にドイツの共産主義者を助けるために派遣されるべきだったかどうか(彼は1920年にそうすべく試みたが成功しなかった)、あるいは、1926年に中国共産党を助けるべくそうすべきだったかどうかを、語らなかった。
 一般的に言ってトロツキーは、発展途上の国々での「民族ブルジョアジー」を支援する政策には反対だった。
 この政策方針はしばしば、資本主義大国を弱体化させるには大いに役立った。
 トロツキーはしかし、「民族ブルジョアジー」の支援は致命的だ、と考えていた。その理由は、他のどこでもそうだが植民地領域では、革命を継続的に社会主義の段階へと高める共産主義者の指導にもとづいて行われてはじめて、「ブルジョア革命」の任務は履行される、というものだった。
 例えば、インドがプロレタリア革命による以外の方法で独立を達成することができると想定するのは馬鹿げている。このようなことは、歴史の法則から絶対的に外れている。
 ロシアの例が示すように、最初からプロレタリアート、すなわち共産党によって指導された「永続革命」こそが唯一可能にする方策だ。
 トロツキーは、ロシアの範型は世界の全ての国々を絶対的に拘束するものだと考えた。そのゆえに彼は、諸々の国々の歴史や特有の条件に関して何がしかのことを知っているかどうかに関係なく、全ての諸問題について決まり切った回答を行った。//
 (4)革命期の共産主義者は完全に情勢を統御することができるまでは過渡的な目標を活用しなければならない、ということに、トロツキーは反対しなかった。
 かくして、トロツキーは中国のトロツキストたちへの1931年の手紙で、国民議会という考えはその基本的政綱から排除されなければならない、と書いた。その理由は、貧農を支援することが説かれるときには、「農民層の不信を掻き起こすために、あるいはブルジョアジーが虚偽宣伝を開始することを可能にするために、プロレタリアートは国民議会をしを招集してはならない」、ということだった。
 (<著作集、1930-1931年>, p.128.)
 他方で我々は、別の箇所で、「プロレタリアートと農民の独裁」という1917年のレーニンのスローガンを繰り返すのは致命的な過ちだろう、という文章を読む。
 ロシア革命の最初から、政権はプロレタリアートと貧農を代表するものだとされてきた。
 この点についてトロツキーは、つぎのように書いた。
 「たしかに後になって我々は、ソヴィエト政権を労働者と農民のものだと呼称した。
 しかし、そのときまでにプロレタリアートの独裁はすでに事実であり、共産党は権力を握っており、その結果として労働者と農民の政府という名前は、何ら曖昧さを残すものでも警戒心を起こさせる理由になるものでもなかった」(同上、p.308.)。
 要するに、いったん共産党が権力を手中にすれば、虚偽的なまたは欺瞞的な名称には何ら害悪は存在し得ないのだった。//
 (5)ドイチャー(Deutscher)のようなトロツキーの支持者や崇拝者は、トロツキーが「社会ファシズム」とのスローガンに反対したことを、その評価を高める事実として強調した。
 たしかにトロツキーは社会民主主義政党内の労働者大衆を共産党から切り離すという理由で、このスローガンを批判した。しかし、社会民主主義者たちに関して何らかの現実的な政策方針を彼は持っていなかったように見える。
 トロツキーは、改良主義ときっぱりと決別しないで社会民主主義の再生を図っている諸組織との永続的な協力関係など語ることはできない、と書いた。
 同じ時期に、ヒトラーの権力継承の前に、彼は、「社会ファシズム」を語って同時に社会民主主義者に屈服していると、スターリン主義者たちを非難した。
 ナツィの勝利の直後の1933年6月には、ヒトラーの従僕であるドイツの社会民主党との統一戦線などを考えつくこともできない、と書いた。
 しかし、トロツキーの憤激は、1934-35年のソヴィエト政策の変更に対して、ひどく真剣に向けられた。
 スターリニズムは、その右翼の様相を最終的に提示した。スターリニストたちは、第二インターナショナルの裏切り者たちと同盟した。さらに悪いことには、彼らは平和と国際的仲裁を語り、さも重要な違いがあるかのごとく、世界を民主主義者とフシストに分けている。
 彼らは、世界戦争の脅威を与えるファシズムについて語っているが、しかし、マルクス主義者として、帝国主義戦争には「経済的基盤」があることを知らなければならない。
 彼らスターリニストたちはジュネーヴで、資本主義諸国の間での戦争も同じように含む概念用法で侵略者(aggressor)を定義することを受諾すらした。
 これは、ブルジョア平和主義に対する屈服だ。マルクス主義者は原理として、全ての戦争に反対してはならない。クエーカー教徒やトルストイ愛好者に向けた種類の偽善的言葉遣いを残すものだ。
 マルクス主義者は、階級の観点から戦争を判断しなければならない。そして、侵略者とその犠牲者の間のブルジョア的区別に関心を持ってはならない。
 マルクス主義者の原理は、侵略的であれ防衛的であれ、プロレタリアートの利益となる戦争は正しい(just)戦争であり、一方で帝国主義国間の戦争は犯罪だ、ということにある。//
 (6)社会民主主義者に対する態度の変化についてのトロツキーの初期の訴えは全て、実際には幻想的な(illusory)もので、かりに彼に権力があったとしても成果を何ら生まなかっただろう。社会民主党<と向かい合った>イデオロギー上の党を維持することは可能だと彼は空想し、一方で同時に、特定の情勢下での彼ら社会民主主義者の助けを懇願してもいたのだ。
 フランスがナツィ・ドイツと折り合うのを阻止するために、スターリンが「人民戦線」と社会主義者との間の反ファシスト同盟の政策を開始したとき、スターリンは、かりに自分の政策が成功するとすれば、いずれにせよ宣伝活動の観点から、大きな代償を払わなければならない、と意識していた。  
 トロツキーは他方で、事あるごとに偽善者、ブルジョアジーの代理人、労働者階級に対する裏切り者、帝国主義者の下僕だ-これらは「社会ファシスト」への軽蔑語にすぎなかった-と非難しつつ、彼ら社会主義者との反ナツィ戦線を形成することは可能だと考えた。
 トロツキーがかりに当時にコミンテルンの責任ある地位に就いていたとしても、彼の政策方針は、スターリンのそれよりも成功する見込みは少なかっただろう。//
 (7)トロツキーはじつに、(戦争と革命の間に何度も繰り返された)国際的な条約、調停、軍縮等々を信頼するのは怠惰な反動的性格をもつ、というレーニンの見解の、真の支持者だった。
どちらが侵略者であるかが問題なのではなく、重要なのは、どの階級が戦争を遂行しているか、なのだ。
 世界のプロレタリアートの利益を代表する社会主義国家は、いったい誰が戦争を開始したかとは関係なく、全ての戦争について「正しい」(right)。そして、帝国主義国の諸政府との条約類に拘束されるなどと、真面目に考えてはならない。
 スターリンの関心事は、世界革命ではなく、ソヴィエト国家の安全保障だつた。ゆえに、あらゆる場合に、平和の擁護者で国際的な法と民主主義の有力な主張者だと自分を見せかけなければならなかった。
 しかしながら、トロツキーは、情勢の主要な要素は1918年に自分が見ていたもの、つまり一方での帝国主義諸国、他方での社会主義国家や革命を行う正しいスローガンを待ち望んでいる世界のプロレタリアートだ、と信じていた。
 現実政治の唱道者であるスターリンは、「革命の上げ潮」を信じなかった。そして、ヨーロッパの共産主義諸党をソヴィエトの政策実現の道具として利用した。
 トロツキーは、「革命戦争」の絶えざる主張者だった。そして、彼の全教理は、事物の当然のこととしてかつ歴史の法則に従って、世界のプロレタリアートは革命を志向しており、スターリン主義官僚制の誤った政策だけがこの本来の趨勢が現実化するのを妨げている、という確信にもとづいていた。//
 ----
 つぎの第5節の表題は、<ファシズム、民主主義および戦争>。

1969/L・コワコフスキ著第三巻第五章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.198-p.201。合冊本ではp.946-948。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。 
 第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想②。
 (11)トロツキーは<彼らの道徳と我々の道徳>で、道徳性(morality)に関する彼の規準は単純に「自分にとって良いものが正しい」であり、そういう見方は目的が手段を正当化するというものだ、と異議を述べる支持者たちからの批判に論駁しようとした。
 彼はこの批判に対して、歴史が進展させる目的以外の何かによって手段が評価されるとすれば、その何かは神でのみあり得る、と答えた。
 言い換えれば、自分を疑問視する者たちは、Struve、Bulganov やBerdyayev のごときロシアの修正主義者がちょうどそうだったように、宗教的心情に陥っている。
 彼らはマルクス主義を階級よりも上位にある一種の道徳性と結びつけようとし、最後には教会の懐に抱かれた。
 トロツキーはこう明瞭に述べた。道徳は一般に、階級闘争の作用だ。
 道徳は現在ではプロレタリアートの利益のうちに存在し得るかファシズムのそれに存在し得るかのいずれかだ、そして明らなことだが、敵対している階級は類似の手段をときどきは用いるかもしれない。しかし、唯一の重要な問題は、いずれの側の利益になっているかだ。
 「手段は、その目的によってのみ評価することができる。
  プロレタリアートの歴史的利益を表現するマルクス主義の観点からは、目的は、自然に対する人間の力を増大させる方向へと、そして人間を支配する人間の力を廃棄する方向へと導くならば、正当化される。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>(1942年)p.34.)
 換言すれば、ある政策方針が技術的進歩(自然に対する人間の力)へと誘導するものならば、その政策方針を促進する全ての手段は自動的に正当化される。
 しかしながら、スターリンの政策は国家の技術水準を間違いなく高めたのだから、それにもかかわらず、なぜ非難されるべきなのか、は明瞭ではない。
 人間を支配する人間の力の廃棄に関して、トロツキーは、この支配力を廃棄することができる前にそれは最高度にまで達していなければならないという(スターリンが採用した)基本的考え方から解放されていた。
 彼は1933年6月の論文で、このような見方を何度も繰り返した。
 しかし、将来には、事情は異なるだろう。
 「歴史的目標」はプロレタリア政党に具現化され、ゆえにその党は、何が道徳的で何が非道徳的なのかを決定する。
 トロツキーの党は存在していないとのSouvarine の論評に関して、彼は自分だけは、道徳性の具現者だと自分を見なすに違いない。予言者は何度もレーニンの例を指摘することでもって答える。
 -レーニンは1914年には孤独だった、その後に何が起きたか?
 (12)ある意味では、批判者たちの異論は無効だ。トロツキーは、党が奉仕する利益は道徳的な善だ、党の利益を害するものは道徳的に悪だ、とは主張しなかった。
 彼はたんに、道徳の標識のようなものはなく、政治的な有効性という標識のみがある、と考えていた。
 「革命的道徳性の問題が、革命的な戦略と戦術の問題と融合されている」(同上, p.35.)。
 政治的な帰結とは無関係に事物それ自体の善悪を語ることは、神の存在を信じることと同じだ。
 例えば、政治的反対者の子どもを殺戮することがそれ自体で正しい(right)か否かを問うことは無意味だ。
 皇帝の子どもたちを殺すことは(トロツキーが別に述べるように)正当だった。政治的に正当化されたからだ。
 では、なぜスターリンがトロツキーの子どもたちを殺戮するのは間違っている(wrong)のか? それは、スターリンはプロレタリアートを代表していないからだ。
 善か悪かに関する全ての「抽象的」原理、民主主義、自由および文化的価値に関する全ての普遍的な規準は、それら自体では何ら意味をもたない。
 政治的な便宜(expediency)が指し示すところに従って、それらは受容されたり却下されたりする。
 そうすると、なぜ人はその反対者ではなくて「プロレタリアートの前衛」の側に立つべきなのか、あるいは、なぜ人は何であれ何かの目的と自分自身を重ね合わせるべきなのか、という疑問が生じる。
トロツキーはこの疑問に答えず、たんに、「目的は、歴史の運動から自然に流れ出てくる」と語る(同上, p.35.)。
 推察するに、このことは、彼は明瞭には述べていないけれども、つぎのことを意味する。
 我々は、歴史的に必然〔不可避〕であるものを見出さなければならない。そして、それが必然的であるという理由のみでもって、それを支持しなければならない。//
 (13)党内民主主義に関して言うと、トロツキーはこれについても全くカテゴリカル(categorical)だ。
 スターリンの党でトロツキー自身の集団は反対派だったが、彼は当然に自由な党内議論を要求し、「分派(fractions)」を形成する自由すら求めた。
 彼は他方で、彼自身とその他の者たちが1921年の第10回大会で定めた「分派」の禁止を擁護した。 
 これを、それが間違っているときには分派を禁止するのは正当だ、という以外の意味で解釈するのは困難だ。しかし、トロツキーの集団が禁止されてはならないのは、それがプロレタリアートの利益を表現しているからだ。
 追放されている間、トロツキーはまた、支持者から成る小集団に「真のレーニン主義諸原理」を課そうと努めた。彼は休みなく多様なかたちでの自分の言明からの逸脱を非難し、どの問題についてであれ彼の権威に抵抗する者全ての排除を命じた。そして、事あるごとに共産主義中央主義者の教理を宣言した。
 彼は、その名前自体がマルクス主義と決別していることを示しているとして(この点でトロツキーは正当だったかもしれない)、パリの「共産主義的民主主義者」というSouvarine の集団を非難した。
 Naville の集団が1935年に左翼反対派の範囲内での彼ら独自の綱領を宣言したきには、叱責した。
 彼はメキシコのトロツキスト指導者のLuciano Galcia を非難した。中央主義について忘却し、第四インターナショナル内部での完全な意見表明の自由を要求したからだった。
 彼は、全ての理論は懐疑心をもって扱われなければならないと語ったアメリカのトロツキストのDwight Macdonald を激しく罵倒した。
 「理論的懐疑主義を宣伝する者は、裏切り者だ」(<著作集1939-1940年>p.341.)。
 Burnham とSchachman が最終的にはソヴィエト同盟は労働者国家だということを疑い、ポーランド侵攻やフィンランドとの戦争についてソヴィエト帝国主義について語ったときには、最後通告たる判決を言い渡した。
 彼はこの場合に、アメリカのトロツキスト党内部で一般票決を行うのに同意しなかった(アメリカのこの党は約1000人の党員をもち、Deutscher によると第四インターナショナル内の最大の代表団のように思えた)。その理由は、党の政策方針は「単純に地方的決定の算術的な総計ではない」ということだった(<マルクス主義の防衛>(1942年), p.33.)。
 トロツキーは、この絶対主義が彼の運動を萎縮させ、ますます極小の宗教的セクトにようになり、その党員たちに、そして彼らだけに救世主になる宿命にあると確信づけたことに、少しも困惑しなかった。
 -もう一度。1914年のレーニンはどうだったか?
 トロツキーもレーニンの「弁証法的」見方を共有していたのは、つぎの点だった。すなわち、真のまたは「基礎になる」多数派は、たまたま多数者である者たちとは一致しておらず、正しく歴史的進歩の側に立つ者たちで成り立つのだ。
 彼は純粋に、世界の労働大衆は彼らの心の深奥で自分の側にいる、たとえ彼ら自身はそれにまだ気づいていなくとも、と信じていた。歴史の法則がこれが正しくそうであることを明らかにするのだから。//
 (14)民族的抑圧と自己決定権の諸問題に対するトロツキーの態度は、同様の方向にあった。
 彼の著作には、ウクライナ人やその他の民族の民族的要求に対するスターリンの抑圧への若干の言及が含まれている。
 彼は同時に、ウクライナ民族主義者にいかなる譲歩もしてはならないこと、ウクライナの真のボルシェヴィキは民族主義者と一緒に「人民戦線」を形成してはならないこと、を強調した。
 トロツキーはさらに進んで、4つの国に分かれているウクライナは、マルクスの見解では19世紀にポーランド問題となったのと同様の重要な国際的問題を生じさせる、とまで語った。
 しかし、彼は、武装侵攻によって他国に「プロレタリア革命」を持ち込む社会主義国家について、非難する言葉を何ら発しなかった。
 彼は1939-40年にSchachtman とBurnham に対して、ソヴィエトによるポーランド侵攻はあの国の革命運動と同時に発生した、スターリン官僚制はポーランドのプロレタリアートと農民に革命的衝動を与えた、そしてフィンランドでもソヴィエト同盟との戦争によって革命的感情が目覚めた、と憤然として説明した。
 たしかに、銃剣でもって導入されたが深い民衆的感情からわき起こらなかったので、これは「特殊な種類」の革命だった。しかし、それは全く同時に、純粋な革命だった。
 東部ポーランドやフィンランドで発生したことに関するトロツキーの知識は、もちろん何らかの経験的情報にではなく、「歴史の法則」にもとづいている。つまり、いかに頽廃しているとは言えども、ソヴィエト国家は人民大衆の利益を代表しており、ゆえに人民大衆は侵略する赤軍を支持しなければならない、というわけだ。
 この点で、トロツキーはたしかに、レーニン主義から逸脱していると責められることはあり得ない。「真」の民族的利益はプロレタリアートの前衛のそれと合致するのだから、その結果として、前衛に権力がある全ての国では(たとえ「官僚主義的頽廃」の状態にあっても)民族自決権は実現されており、大衆は事態のかかる状態を支持しなければならない。そのように理論が要求しているのだから。//
 ----
 第3節、おわり。次節の表題は、<ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判>

1968/L・コワコフスキ著第三巻第五章第3節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.194-p.198。合冊本ではp.942-946。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。 
 第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想。
 (1)トロツキーはかくして、全ての機会を利用して、一方でのボルシェヴィズムまたはレーニン主義、つまりトロツキー自身のイデオロギーや政治と、他方でのスターリニズムの間には、継続性は存在しないと強調した。
 スターリニズムはレーニン主義の真の継承者ではなく、際立ってそれと矛盾したものだ。
 トロツキーは1937年の論文で、メンシェヴィキやアナキストたちと論争した。彼らが「我々はきみに最初からそう言ってきた」と述べたのに対して、トロツキーは、「ちっともそうでない」と答えた。
 メンシェヴィキとアナキストたちは、僭政体制とロシアのプロレタリアートの苦難がボルシェヴィキ政権の結果として生じるだろうと予見していた。
 実際にそうなったのだが、それはボルシェヴィズムとは何の関係もないスターリンの官僚制として生じたのだ。
 Pannekoek その他のドイツ・スパルタクス団員たちは、ボルシェヴィキはプロレタリアート独裁ではなく党の独裁を立ち上げた、スターリンはそれを基礎にして官僚制的独裁を確立した、と語る。
 これらはいずれも当てはまらない。
 プロレタリアートは、労働大衆の自由に対する願望を具体化する自分たち自身の前衛による以外には、国家権力を奪取できなかったのだ。//
 (2)多数の他の論文でと同様にトロツキーはこの論文で、反対者から、またSerge、Souvarine、Burnham のような支持者たちからも頻繁に提示された異論に答えることを強いられた。
 彼らは間違いなく、ボルシェヴィキはトロツキーの能動的な関与があって最初から、社会主義諸政党を含むロシアの全ての政党を廃絶させた、と指摘した。
 ボルシェヴィキは党内でのグループの形成を禁止し、プレスの自由を破滅させ、クロンシュタットの反乱を血でもって弾圧した、等々。//
 (3)トロツキーはこのような異議に対して何度も回答したが、いつも同じ態様でだった。すなわち、異議を申し立てられている行動は正しく(right)かつ必要なものだった、そしてプロレタリア民主主義の健全な創設に決して反するものではなかった、と。
 彼は1932年8月に出版されたチューリヒの労働者たちへの手紙で、こう書いた。ボルシェヴィキはたしかにアナキストと左翼エスエルを破壊するために実力(force)を用いた(他政党はこの文脈では言及すらされなかった)。しかし、ボルシェヴィキは労働者国家を守るためにそうしたのであり、ゆえにその行動は正当(right)だった。
 階級闘争は暴力(violence)なくしては実行することができない。唯一の問題は、どの階級によってその暴力が行使されているか、だ。
 彼は1938年の小冊子<彼らの道徳と我々の道徳>で、こう説明した。共産主義をファシズムと比較するのは馬鹿げている、これらが用いる手段(methods)にある類似性は「表面的な」もので付随的現象に関係するにすぎないのだから。
 重要なのは、そのような手段を用いる名義となる階級だ。
 トロツキーは、つぎのように批判された。彼は政治的対立者の家族から子どもたちを含めて人質をとった、そして、スターリンがトロツキストに対して同一のことをしたと憤慨している、と。
 しかし、彼はこう答えた。正しい(true)類推方法がない。自分がしたのは階級敵と闘ってプロレタリアートに勝利をもたらすために必要なことだった。それに対してスターリンは、官僚機構の利益のために行動している。
 トロツキーはSchachman への1940年の手紙で、自分が権力をもっていたときにチェカが生まれて機能していたことに同意した。-もちろん、そのとおりだった。
 しかし、彼は言う。チェカはブルジョアジーに対抗するために必要な武器だった。それに対してスターリンは、チェカを「真のボルシェヴィキ」を破壊するために用いている、だから適切な比較にはならない、と。
クロンシュタットの反乱の鎮圧について言えば、重要な防塞を反動的な農民兵士たちに手放すことが、プロレタリア政権にいかほどに期待され得ただろうか? その兵士たちの中には、少なくないアナキストがいたかもしれないのだ。
 党内集団の禁止について言えば、これは絶対に必要だった。全ての非ボルシェヴィキ政党を廃絶したあとでは、社会にまだ現存するかもしれない利害の対立が一つの党の内部に異なる志向をもつ表現体を探し求めざるをえなったからだ。//
 (4)つぎのことが明瞭だ。トロツキーにとって、統治の形態としての民主主義、あるいは文化的価値としての公民的自由を語る必要はない。この観点からすると、トロツキーはレーニンに忠実であり、かつスターリンと何ら異なるところがない。
 かりに権力が「歴史的に進歩的な」階級によって(むろんその前衛を通じて)用いられるならば、定義上それは真正(authentic)な民主主義だ。たとえ、あらゆる様相の抑圧と実力強制がその他の点では日常生活の秩序だったとしても。それは全て、進歩という根本教条に則っている。
 しかし、その権力がプロレタリアートの利益を代表しない官僚機構によって奪取されたその瞬間から、統治の同じ形態は自動的に反動的なものに、ゆえに「反民主主義」的なものになる。
 トロツキーは1931年の<右翼・左翼ブロック>と題する論文で、こう書いた。
 「党内民主主義の復活ということによって我々が意味させているのは、党の真の革命的プロレタリアートの中核は、官僚機構を抑制して党を本当に粛清〔purge、浄化〕する権利をもつ、ということだ。
 上部からの指令どおりに投票する、非原理的で経歴主義の歩兵たちはむろんのこと原理的にテルミドリアンで成る党の粛清、阿諛追従者で成る多数の派閥はむろんのこと末端主義者で成る党の粛清、だ。なお、阿諛追従者たちの資格はギリシャ語またはラテン語に由来するものであるはずはなく、現代的で官僚主義化した、かつスターリン化した形での現実にある今日的なロシア語に由来している。
これこそが、我々が民主主義を要求する理由だ。」
 (G. Breitman & S. Lovell 編<レオン・トロツキー著作集-1930-1931年>(1973年)、p.57.)
 かくして、トロツキーが「民主主義」によって意味させているのは、プロレタリアートの歴史的要求を表現しているトロツキー主義者による政権だ、ということが明らかになる。//
 (5)トロツキーは1939年12月の論文で、彼自身がボルシェヴィキ以外の諸政党の廃絶に責任はないのか否かという疑問に、再びこう答える。
 そのとおりだが、そうしたのは全く正当(right)だった。
 彼はつづける。「しかし、内戦期の法制を平穏時のそれと同一視することはできない」。
 -そして、そのとき、そうであるならば廃絶させられた諸政党は内戦後に再び合法化されるべきだった、との考えが彼の頭に浮かんだに違いない。彼は、こう付け足した。
 「独裁制またはプロレタリアートの法制をブルジョア民主主義の法制と同一視することもできない」。
 ( N. Allen & G. Breitman 編<レオン・トロツキー著作集-1939-1940年>(1973年)、p.133.)//
 (6)1932年末以降の日付のある言述には、つぎのようなものがある。
 「全ての体制は、まず第一にはそれがもつ規準によって評価されなければならない。
 プロレタリアート独裁の体制は、民主主義政体の諸原理や形式的規準を侵犯するものであることを秘密にしようとは願わない。
 それは新しい社会への移行を確実にする能力という観点から、評価されなければならない。
 他方で民主主義体制は、民主主義政体の枠組み内で階級闘争を展開することを許容する程度と範囲いう観点から、評価されなければならない。」
 (G. Breitman & S. Lovell 編<レオン・トロツキー著作集-1932-1933年>(1972年)、p.336.)
 (7)要するに、民主主義諸原理と自由を侵害するときには、民主主義諸国に憤慨してその諸国を攻撃するのは正当(right)だ、しかし、そのように共産主義独裁制を取り扱ってはならない。共産主義独裁制は民主主義諸原理を承認していないのだから。
 共産主義独裁制で最大に優先されるものは、将来に「新しい社会」を創造するという約束にある。//
 (8)我々は<裏切られた革命>で、つぎのようにすら語られる。スターリン憲法は普通選挙制度を宣言することで、もはやプロレタリアート独裁は存在しないことを明らかにした、と。
 (トロツキーもまた、スターリンは秘密投票制度の導入でもって明らかに彼の腐敗した体制をある程度は浄化(purge)することを望んでいると、論評した。
 信じ難い思われるが、トロツキーは明らかにスターリンの選挙制度を額面どおりに理解していた。)
 (9)かくして、つぎのことが明らかだ。トロツキーは絶えずスターリンとその体制を攻撃し、「ソヴィエト民主主義」と「党内民主主義」の回復を要求していたけれども、彼の一般的な根本的考えに照らして見ると、「民主主義」とはその政策方針が「正しい」とする規準を意味するものであり、政策方針の「正しさ」が民衆の支持を求めて競い合う異なる集団の議論の結果として決定される、ということを意味していない。
 彼は<裏切られた革命>で、ボルシェヴィキ(つまりはトロツキーとその支持者たち)とともに始まった「ソヴィエト式政党」への自由を再獲得する必要について書いている。
 しかし、いずれの他の諸政党が「ソヴィエト式」という性質をもつのかは明瞭ではない。
 プロレタリアートの純粋な前衛のみが権力を行使することができるとされるので、その前衛党はいずれの政党が「ソヴィエト式」で、いずれが反革命であるのかを決定する権利もまた有しなければならない。
 トロツキーの目からすると、結論はつぎのようなものだろう。すなわち、社会主義的自由とはトロツキー主義者のための自由のみを意味しており、他の誰のためのものでもなかった。//
 (10)同様の論述を、文化的自由についても行うことができる。
 トロツキーはしばしば、スターリン体制による芸術や科学の抑圧に対する怒りを表明した。
 彼は<裏切られた革命>で、自分が1924年に芸術や文芸分野でのプロレタリアート独裁の規準を定式化したことを想起させた。唯一の標識はその作品が革命を支持するのか革命に反対なのかであり、それ以上については完全な自由が存在しなければならない、というものだ。
 トロツキーは1932年に、「プロレタリアートの革命的任務に反対する方向に向けられたもののみを容赦なく排除して、芸術と哲学の自由が存在しなければならない、と書いた(<著作集-1932-1933年>p.279.)。
 しかしこれは、スターリンのもとで覆ったのと同じ考え方だった。すなわち、党当局が何が「プロレタリアートの革命的任務に反対する方向に向けられ」ているかを決定して、そのゆえに「容赦なく排除し」なければならない。
 このように理解される自由は、ソヴィエト国家では一度も侵害されなかった。
 このような一般的定式によればもちろん、文化の抑圧と統制の程度と範囲は多かれ少なかれ、多様な政治的情勢に従って決せられることになる。そして、1920年代には、抑圧や統制は1930年代よりも確実に少なかった。
 しかしながら、支配者が全ての場合について文化が発信しているものが支配者の政治的必要に合致しているか否かを決定する、ということが根本的な考え方であるがゆえに、抑圧や隷従化の程度は、プロレタリアート独裁に対抗するものとして容易に判断することができない。
 全ての問題は、再びもう一度、同じ様相に帰一することになる。
 つまり、かりにトロツキーに権限があったとすれば、自分の権威にとって危険だと考える自由を、もちろん許容しなかっただろう。
 スターリンも同様に行動した。いずれの場合も、自己の利益の問題なのだった。
 全ての違いは、つぎのことに帰着する。トロツキーは自分が「プロレタリアートの歴史的利益を代表」していると信じた。一方でスターリンは、彼、スターリンがそうしていると信じた。//
 ----
 ②へとつづく。

1967/L・コワコフスキ著第三巻第五章第二節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.190-p.194。合冊本ではp.939-942。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。
 第2節・スターリン体制、官僚制、「テルミドール」に関するトロツキーの分析。
 (1)トロツキーの全ての分析が基礎にしていた確信は、彼とレーニンの政策方針は間違いなく正しい(right)、永続革命理論は事実によって豊富に裏付けられている、「一国での社会主義」は致命的に誤っている、というものだった。
 彼は「ロシア革命に関する三つのコンセプト」と題する論文(1939年)で、つぎのように主張した。
 人民主義者(Populists)は、ロシアは資本主義段階を完全に迂回できると考えた。一方、メンシェヴィキは、ロシア革命はブルジョア的性格のものでのみありうる、そしてプロレタリアート独裁という段階を語ることはできない、と考えた。
 そしてレーニンは、プロレタリアートと農民の民主主義的プロレタリアート独裁というスローガンを提唱した。この旗のもとで実施される革命は西側での社会主義革命を促進し、急速なロシアでの社会主義ヘの移行を可能にするだろう、と。
 トロツキー自身の見方は、民主主義革命という基本方針はプロレタリアート独裁の形態でのみ達成可能だが、プロレタリアート独裁は革命が西側ヨーロッパに伝搬してのみ維持することができる、というものだった。
 レーニンは1917年に同じ方針に立ち、その結果としてロシアでのプロレタリア革命は成功した。
トロツキーがその<ロシア革命の歴史>で長々と示したのは、ボルシェヴィキの誰も、ロシアのプロレタリアートは西側のプロレタリアートに支持されて初めて勝利することができる、ということを疑っていなかったこと、そして、「一国での社会主義」というきわめて有害な考え方は1924年の末にスターリンが考案するまでは誰の頭の中にも入っていなかった、ということだった。//
 (2)1917年以降はレーニンのものでもあった、トロツキーの疑いなく正しい(correct)政策方針が「寄生的官僚制」による統治を帰結させ、また、トロツキー自身が権力から排除されて裏切り者との烙印を捺されたのは、一体いかにして生じたのか?
 これに対する答えは、ソヴィエト権力の頽廃と「テメミドール主義」に関する分析のうちに見出されることになる。//
 (3)追放されていた最初の数年間、トロツキーがとっていた見方は、スターリンとその仲間たちはロシアの政治的範疇の中の「中央」(centre)を占め、革命に対する主要な危険は-ブハーリンとその支持者たちに代表される-「右翼」および「テルミドール反動」、つまり資本主義の復活、の脅威のある反革命分子から生じる、というものだった。
 トロツキーは、これに従って、スターリンに反革命に対する支援を提示した。
 彼は、スターリンは右翼にあまりに譲歩しすぎていて、その結果、「工業党」やメンシェヴィキの連続裁判に見られるように、罷業者や人民の敵が国家の計画部局の高い地位を占めて工業化を意識的に遅らせている、と考えた。
 (トロツキーは、被告人たちの有罪を暗黙にながら信じていた。そして、この裁判がでっち上げだとの思いは、一瞬なりとも持たなかった。
 彼は数年のちに、自分や仲間たちの悪事が大きな見せ物裁判で強力な証拠でもって同じように立証されていってようやく、驚嘆し始めた。)
 トロツキーは1930年代初めに、スターリン体制は「ボナパルティズム」だとした。
 しかし1935年に、フランス革命では初めにテルミドールが来て、ナポレオンはその後だった、順序はロシアでも同じであるに違いない、そしてすでにボナパルトは登場しているので、テルミドールはやって来てかつ過ぎたに違いない、と観察した。
 彼は「労働者国家、テルミドールおよびボナパルティズム」と題する論文で、その理論をいくぶん修正した。
 テルミドール反動はロシアで1924年(すなわち彼自身が権力から最終的に排除された年)に発生した、と述べた。
 しかしそれは、資本主義者の反革命ではなく、プロレタリアートの前衛を破壊し始めていた官僚機構による権力奪取だった。
 生産手段を国家がまだ所有しているので、プロレタリアート独裁は維持されている。しかし、政治権力は官僚層の手中へと移った。
 しかしながら、ボナパルティズム体制はすみやかに崩壊するに違いない。歴史の法則に反しているのだから。
 ブルジョア反革命はあり得るが、本当のボルシェヴィキ党員たちが適切に組織されるならば、避けることができるだろう。
さらにトロツキーは、こう付け加えた。ソヴィエト国家の労働者階級性に関する自分の見方を決して変更しないが、より精細に歴史的類推による説明を施しただけだ、と。
 フランスでも、テルミドールは<アンシャン・レジーム>への元戻りではなかった。
 ソヴィエト官僚制は社会階級(class)ではない。しかし、プロレタリアートからその政治的権利を剥奪し、残虐な専制制度を導入している階層(caste)だ。
 しかしながら、現在のかたちでのその存在は十月革命の至高の成果である国有財産制に依存しており、その成果を官僚制は守るように強いられるし、それなりの方法で守ってきた。
 ゆえに、スターリン主義の頽廃と闘いつつ、世界革命の根拠地として無条件にソヴィエト同盟を防衛することは、世界のプロレタリアートの義務だ。
 (トロツキーは、この二つの意図が実践的にいかにして結合されるのかについて、詳細には説明しなかった。)
 1936年までには、彼はつぎの結論に到達した。スターリニズムを改革や内部的圧力で打倒することはできない。簒奪者を実力(force)によって排除する革命が起こらなければならない。
 この革命は所有制度を変更するものではなく、ゆえに社会的革命ではなく、政治的革命だ。
 これはプロレタリアートの先進的前衛によって実施され、スターリンが破壊した真の(true)ボルシェヴィズムの伝統を具現化することになるだろう。//
 (4)「一国での社会主義」理論は、ロシアおよび外国での官僚主義的過ちの全てについて、責任がある。
 それは世界革命の希望を、ゆえに世界のプロレタリアートでのロシアの主要な支援という希望を、放棄することを意味する。
 一国での社会主義は不可能だ。換言すれば、開始することはできても完了させることができない。それ自体の内部に閉じられた一国では、社会主義は腐敗せざるを得ない。
 1924年末までは世界革命を発生させるという適切な政策目標を追求したコミンテルンは、スターリンによって、ソヴィエトの政策と陰謀の道具へと変質させられた。そして、世界の共産主義運動は、頽廃と不能の状態に落ち込むことになった。//
 (5)トロツキーは、つぎのことを説明しようと多数の試みをした。プロレタリアートの政治権力が破壊され、官僚機構が支配権を獲得し、(のちに再三にわたり述べたように)統治の全体主義的システムを導入した、と。
 多数の書物や論文でのこの試みは、首尾一貫した議論を形づくるものではなかった。
 彼はしばしば、頽廃の主要な原因は世界革命の勃発が遅れていることにある、と主張した。西側のプロレタリアートはその歴史的な任務を適時に引き受けることをしなかった、と。
 彼は他方で同様にしばしば、ヨーロッパでの革命の敗北はソヴィエト官僚制の過ちだ、と主張した。
 かくして、いずれの現象が原因であり結果であるのかについて、疑問が残った。-のちには彼が指摘したごとく、相互に悪化させ合っていたのだけれども。
 我々は<裏切られた革命>で、官僚主義が成長した社会的基盤はネップ時代のクラク〔富農〕を厚遇した誤った政策だ、と語られる。
 かりにそうであるなら、富農の廃絶と第一次五カ年計画のもとでの工業化の強行によって、官僚機構はかりに破滅しなくとも少なくとも弱体化したことになるだろう。
 実際に正確には、それとは反対のことが起きた。そしてトロツキーは、なぜそうだったかをどこでも説明していない。
 彼はのちに同じ書物で、官僚機構は元々は労働者階級のための機関だったが、のちに物品の配分に関与するようになったときに、「大衆の上」のものになって特権を要求し始めた、と語る。
 しかしこれは、特権のシステムの発生は避けられ得たのか否か、どのようにすれば、を説明していないし、なぜ本当は権限のある労働者階級がそのような事態が起きるのを許したのか、も説明していない。
 トロツキーは同じ書物でさらに、官僚制的統治の主要な原因は、歴史的使命を履行すべき世界のプロレタリアートの緩慢さだ、と語る。
 初期の小冊子<ソヴィエト連邦発展の諸問題>(1931年)では、彼は別の理由を挙げる。すなわち、内戦後のロシアのプロレタリアートの疲弊、革命の時代に育まれた幻想の解体、ドイツ、ブルガリアおよびエストニアでの革命的蜂起の挫折、および中国とイギリスのプロレタリアートの官僚主義的裏切り。
 彼は翌年の論文で、戦争に疲弊した労働者たちが秩序と再建のために権力を官僚機構の手に委ねた、と述べた。
 しかし、なぜそのことが自分が指導する「真のボルシェヴィキ・レーニン主義者」によって実行され得なかったのか、を説明しなかった。 //
 (6)多くの種々の説明から、一つの明瞭な論拠が明らかになる。つまり、トロツキー自身は官僚制的システムの形成に些かなりとも関係しなかった、そして、官僚機構は革命後の初期6年の間の独裁とは何の関係もなかった、ということだ。
 しかし、現実は、これらの反対だった。
 初期6年の間に党組織が絶対的な権力を行使したという事実は、スターリンとその徒党の体制とは関係がない、と主張しているとトロツキーの議論は読める。なぜなら、この時代の党は「プロレタリアートの先進的前衛」であり、一方でスターリンの後続の体制は何物も何者も、いっさい代表しなかったからだ。
 そうであるならば、我々はつぎのように尋ねることができる。
 なぜプロレタリアートは、いかなる社会的背景も欠く簒奪者の徒党たちを一掃することができなかったのか?。
 トロツキーはこれに対する答えも用意している。すなわち、プロレタリアートは、現在の状況では自分たちの革命は資本主義の復活を招くだろうと怖れたので、スターリンの統治に反抗しなかった(しかし、継続的な反抗があった、と我々はいたるところで読める)。//
 (7)トロツキーの議論からは、このような惨憺たる結果が生まれるのを避ける方法は全くなかったのか否か、が明確ではない。
 全体として言えば、なかった、ように思われる。なぜなら、あったならば、トロツキーとその仲間たちは絶えず正しい政策方針と本当のプロレタリアートの利益を「表明」しようとしていたのであって、官僚層による権力奪取を確実に阻止できたはずだろう。
 トロツキーたちが阻止しなかったとすれば、その理由は、そうできなかったからだ。
 かりに官僚機構が可視的な社会的基盤なくして存続しつづけたとすれば、そのことはきっと、歴史の法則によるところに違いない。//
 ----
 つぎの第3節の表題は、<ボルシェヴィズムとスターリニズム。ソヴィエト民主主義という観念>。

1965/L・コワコフスキ著第三巻第五章トロツキー/第一節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第五章へ。
 第三巻分冊版p.183以下。合冊本ではp.934以下。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。
 この著の邦訳書はない。ドイツでは1977-79年に、独訳書が刊行された(のちにpaperback 版となった)。
 ----
 第5章・トロツキー。
 第1節・逃亡時代。
 (1)1929年1月、左翼反対派が抑圧的手段でもってソヴィエト同盟からほとんど完全に一掃されたあと、一年間カザフスタンに追放されていたその指導者のレオン(レフ)・トロツキーは、トルコへと移された。彼はトルコで、Marmara 海のプリンキポ(Prinkipo)島に住まいを構えた。
 他諸国は長い間、世界で最も危険な革命家だとの評判をもつ人物を自分の領国内に受け入れようとしなかった。トロツキーがトルコで生活した4年の間に、彼は一度だけ、コペンハーゲンで講演をするためにこの国を離れた。//
 (2)トルコにいた間、彼は長大な<ロシア革命の歴史>を書いた。これは革命の過程の原因と進展を分析するもので、歴史は自分の予見の正しさ、とくに「永続的革命」論の正しさ(rightness)を確認した、と証明しようとした。この考え方はすなわち、民主主義革命は継続的にプロレタリアート独裁へと発展せざるをえない、そうしてのみ革命は成功するものになる、というものだ。
 彼はこのときまた、自叙伝や膨大な数の論文と、ロシアと世界全体の両方でのスターリンに対する左翼反対派の支持と発展を求める訴えや書簡を書いた。
 追放されて数カ月のうちに、彼はロシアで雑誌<Opposition Bulletin>を創刊した。この雑誌は、彼の人生の終焉時まで発行され続けた。息子のLeon Sedev が最初はドイツで、ナツィの権力奪取後はパリで出版した。
 トロツキーのロシア語での書物についてと同じく、これの主要な目的はソヴィエト同盟での反対運動が組織されるのを促進することだった。
 しかしながら、やがて、警察の監視によってこの雑誌をロシアに密かに持ち込むことがほとんど不可能になった。そして、ロシアにいる左翼の残余とのトロツキーの接触は全く絶たれたのと同然になった。//
 (3)トロツキーは同時に、自分の尽きない活力の大部分を、強い支持者を他諸国で獲得することに費やした。
 反対派の小集団があちこちにあった。それらを通じて彼はいずれはコミンテルンを再生させ、共産主義運動のうちに本当のボルシェヴィズムとレーニン主義の精神を復活させることを望んだ。
 これらの集団は1930年以降に活動し、インターナショナル・左翼反対派という集合的名称のもとで、コミンテルンの一派だと自称していた。-しかしこれは、イデオロギー上の虚構だった。トロツキーは最終的にコミンテルンから除名されていて、ロシアに残っている者たちのほとんどは収容所か監獄の中にいたのだから。
 1932年11月にいくつかの国から来たトロツキー主義者の会合がコペンハーゲンで開かれ、その間は指導者たちはそこに滞在した。数カ月のちに、パリで同様の集会が開かれた。
 トロツキーは数年間は、第四インターナショナルの設立に強く反対した。スターリン体制には社会的基盤がないのでいずれ崩壊するに違いない、その唯一のあり得る継承者は、その真の目的に向かうコミンテルンを復活させる「ボルシェヴィキ・レーニン主義者」だろう、と主張していたのだ。
 しかしながら、ヒトラーの権力掌握後の1933年、トロツキーは、新しい国際組織が必要だと決意し、新しい旗のもとに仲間たちを組織し始めた。
 第四インターナショナルは、公式にはパリの大会で、1938年9月に設立された。//
 (4)1932年末、トロツキーは、インターナショナル・左翼反対派の戦略と基本的考え方をつぎの11点に定式化した。
  1) プロレタリア政党の独立性の承認。したがって、1920年代の中国(国民党への共産党員の加入)やベルリン(アングロ・ロシア労働組合委員会)に関するコミンテルンの政策に対する非難。
  2) 革命の国際性、ゆえに永続性。
  3) ソヴィエト同盟はその「官僚主義的頽廃」にもかかわらずなおも労働者国家であること。
  4) 1923-28年の「日和見主義」段階、1928-32年の「冒険主義」段階、これら双方でのスターリンの諸政策に対する非難。
  5) 共産党員は、大衆組織で、とくに労働組合で活動しなければならないこと。
  6) 「プロレタリアートと農民の民主主義的独裁」およびそのプロレタリアート独裁への平和的移行の可能性という定式の拒絶。
  7) 封建的制度、民族的抑圧およびファシズムに反対する闘争に必要な場合での、プロレタリアート独裁を目指す闘いの間の一時的スローガンの必要性。
  8) 「日和見主義」形態によらない、社会民主主義者を含む大衆組織との統一戦線。
  9) スターリンの「社会ファシズム」論の拒否。
 10) 共産主義運動内部でのマルクス主義、中央派、右翼の区別。中央派(スターリン主義者)に対抗する右翼との同盟は排除され、中央派は階級敵との闘争では支持されるべきこと。
 11) 党内部に民主主義が存在すべきこと。
 (5)トロツキーはこれらの諸原則を最後まで維持したが、これらの完全な意味は、ソヴィエト国家の性格、党内民主主義および政治的同盟という考えに関する彼のより詳細な分析で初めて明確になる。//
 (6)追放中の最初の年月の間、トロツキーは、つぎのような思い違いをしていた。すなわち、反対派はロシアで巨大な勢力だ、スターリン主義官僚機構はその力をますます失っている、共産党は一方でボルシェヴィキ、他方で「テルミドリアン」、つまり資本主義への復古の擁護者、へと急速に両極化している、と。
 ソヴィエト体制を存続させたいならば、この二つの勢力が衝突するときに、官僚機構はもう一度、左翼からの助けを求めるに違いない。
 トロツキーはこう考えて、ソヴィエトの指導者たちへの手紙や宣言文で、反対派は復古や外国の干渉に反対する闘争に参加する用意がある、と表明した。
 彼は対抗者たちに復讐するつもりはないと約束し、「名誉ある協定」を提案し、致命的な危機にあるときは階級敵に対抗して自分たちは助けるとスターリン主義者たちに提案した。
 トロツキーが明らかに想定していたのは、いずれ危機のときにスターリンは自分に助けを乞うだろう、そして条件を明示するだろう、ということだった。
 しかしこれは、幻想(fantasy)だった。
 スターリンとその仲間たちは、トロツキー主義者たちと折り合うつまりは全くなく、いかなる情勢下でも彼らに助けを求めようとはしていなかった。
 ロシアの左翼反対派は、トロツキーが歴史発展の法則でそうなるに違いないと考えたようには力を得ておらず、逆に、仮借なく根絶された。
 スターリンが工業化と集団化の強行という「新路線」を宣告したとき、反対派の中の多数派はその方針に従い、スターリンは自分たちの政策を採用したと理解した。
 これは、例えば、ラデクやプレオブラジェンスキー(Preobrazhensky)についても当てはまった。
 トロツキー後の最も著名な左翼だったラコフスキー(Rakovsky)は、他の者たちよりは長く抵抗した。しかし、迫害された数年間ののちに、彼もまた屈服した。
 彼らのうち誰も、何らかの重要性をもつ地位に就くことはなかった。そして、誰も、大粛清(the Great Purge)による殺戮を免れれることがなかった。
 トロツキーは、反対派は社会的基盤を欠く支配的官僚機構に対抗する真正なプロレタリアートの勢力の立場にあると信じつづけた。
 ゆえに反対派は最終的には勝利するのであって、一時的な敗北や迫害ではこれを破壊させることはできないだろう。
 彼は、弾圧は歴史が非難する階級に対しては有効であっても、「歴史的に進歩的な」階級に対しては決してそうでない、と書いた。 現実には、トロツキーが追放中の数年間で、左翼反対派は完全に消失した。弾圧、殺戮、意気喪失、および屈服の結果として。
 しかしながら、反対派に潜在的な強さをもつトロツキーの希望や信念を生かしておく以上のことをスターリンはほんど何もできなかった、というのは本当だ。
 「トロツキー主義」に対する連続した反対運動、見せ物裁判および司法による殺人によって、外部の観察者たちは実際につぎのように納得した。「トロツキー主義」はなおも力強いソヴィエト国家の敵だ、と。
 スターリンは現実にトロツキーに対する脅迫観念的な憎悪感をもち、彼の名前を、普遍的な悪の象徴として、またスターリンが多様な表現をもつ反対論者あるいはどんな理由を使ってでも破壊させたい誰かに烙印を捺す汚名として、利用した。
 こうして、スターリンはその継続的な反対運動の目的に照応させるべく、二連の-「トロツキスト=右翼ブロック」、「トロツキスト=ファシスト」、「トロツキスト=帝国主義者」、「トロツキスト=シオニスト」のような-表現方法を作り出した。
  「トロツキスト」という接頭辞は、「ユダヤ=共産主義者の陰謀」、「ユダヤ=金権政治的反動」、「ユダヤ=リベラルの腐敗」等々を語る反ユダヤ主義者の口に出てくる「ユダヤ」がもつのと同じ目的に役立った。
1930年代の最初から、「トロツキズム」はスターリンの宣伝活動で特有の意味を持っておらず、スターリン主義がもつ抽象的な表象にすぎなかった。
 スターリンがヒトラーに対抗している間は、トロツキーはヒトラーの工作員だとして晒し台に置かれ、スターリンとヒトラーが友好的になったときは、トロツキーは、イギリス=フランス帝国主義国の工作員になった。
 モスクワの見せ物裁判では、トロツキーの名は<いやになるほど>思い起こされた。犠牲者たちは一人ずつ、追放中の悪魔がどのように強いて彼らを陰謀、罷業、殺害に向かわさせたかを語ったのだったから。
 こうしたスターリンによる迫害についての偏執症的神話によって、トロツキー自身は何度も再確信した。トロツキーはあまりに頻繁に弾劾されたので、スターリンは本当に、自分が簒奪した王冠を剥奪する用意をしている「ボルシェヴィキ=レーニン主義者」を怖れているのだ、と。
 一度ならずトロツキーは、モスクワ見せ物裁判はトロツキー自身をソヴィエト警察に取り戻す望みをもって組織されている、という見方を明確に述べた。何人かによると、スターリンは、彼の敵を後腐れがないように殺害せずに追放したことを後悔していた。
 トロツキーもまた、1937年の最後のコミンテルン大会は左翼反対派の脅威に対処するという目的のためにだけ招集された、と考えた。
 つまりは、追放された指導者は、スターリンが割り当てた役割を演じた。だが、闘いの多くは、トロツキー自身の想像の中で起きていた。
 インターナショナル・左翼反対派は、その後の第四インターナショナルのように、政治的な意味合いは皆無のものだった。
 むろんトロツキー自身は有名な人物だったが、歴史の大きな法則によればいずれは世界の基礎を揺り動かすはずのその運動は、どこにあるスターリン主義諸政党に対しても事実上は何の影響力をもたない、瑣末な党派(sect)であることが判明するに至った。//
 (7)スターリニズムに幻滅した、またはコミンテルンでトロツキーと連携した数少ない共産主義者たちは、中国の党の前のトップの陳独秀(Chen Tu-hsiu)を含めて、トロツキーの側から去った。
 多様な諸国の知識人たちは、ソヴィエトの指導者たちはもはや代表していない、本当の革命精神の具現者だとしてトロツキーを支持した。
 しかし、遅かれ早かれ、彼の支持者は消失していった。とくに、知識人たちが。
 トロツキー自身に、この事実に対する大半の責任はある。絶対的な服従を要求し、どんな主題であっても彼の見解からの逸脱を許さなかったのだから。
 個人的な問題、彼の独裁者ぶり、自分の万能さについての驚くべき信念を別に措けば、
主要な不一致は、ソヴィエト同盟との関係についてにあった。
 ソヴィエト連邦はまだプロレタリアート独裁の国家だ、その官僚機構は階級ではなく社会主義という健全な身体上の異常な発達物にすぎない、とのトロツキーの主張は、彼の見方はますます明瞭な現実感覚を失っているように見えたことから、論争と分裂の主要な原因だった。
 しかしながら、この問題についてはトロツキーは終生にわたって頑固で、その結果として全ての重要な知識人はトロツキーへの信頼を捨てた。フランスのSouvarine、アメリカ合衆国のVictor Serge、Eastman、およびのちに、Hook、Schachman、Burnham。
 トロツキーはまた、著名な画家の、メキシコでの寄宿先提供者だったDiego Rivera の支持も失った。
 トロツキスト集団の教理的厳格さは、それらの頻繁な解散の原因になり、間違いなく第一のそれではなくとも、その運動が政治的な勢力に決してならなかったことの理由の一つだった。
 努力が完全に実を結ばないことが指摘されたときにいつでも、トロツキーは同じ答えを用意していた。1914年のレーニンは完全に孤立していた、3年後にレーニンは革命を勝利に導いた、という答えを。
 トロツキーもまた歴史発展の深遠な趨勢を代表しているので、彼もレーニンが行ったことをできるはずなのだった。
 この信念によって、彼の全ての活動と政治的分析は可能になった。そして、これが彼の不屈の希望と活力の源泉だった。//
 (8)ロシアでの左翼の最初の勝利についてトロツキーが基礎にしていた経験上の根拠は、今日の目からすると驚くほどに微少だ。
 一人または二人のソヴィエト外交官が職を辞して、西側にとどまった。
 トロツキーはこのことに、つぎの証拠として、繰り返して言及した。スターリン主義者の党は解体しつつあり、「テルミドリアン的要素」と革命に対する裏切りが目立ってきている、そして防塞の反対側にいる本当のボルシェヴィキが力を得つつあることをこれらは意味しているのだ。
 1939年の第二次大戦の勃発の際、彼は新聞で、ベルリンにいる誰かが「ヒトラーとスターリンよ、くたばれ!、トロツキーに栄光あれ!」と壁に描いていることを読んだ。
 トロツキーはこれに勇気づけられ、スターリンが支配するモスクワが暗闇になるとすれば、このような警告で壁は塗りつぶされるだろう、と書いた。
 のちに彼は、フランスの外交官がヒトラーに、かりにフランスとドイツが戦争を始めればトロツキーが唯一の勝利者になるだろうと語った、という記事を読んだ。
 これもまた彼は、ブルジョアジーすらも自分の正しさを理解している証拠だとして、いくつかの論文で勝ち誇って引用した。
 彼は揺るぎなく、本当のボルシェヴィキ、つまりトロツキストたち、が勝利する世界革命でもって戦争は終わるだろうと、確信していた。
 第四インターナショナルの設立に関する彼の論文は、「来たる10年以内に第四インターの綱領は数百万人の指針となり、その革命的な数百万人は地上と天国を急襲する方法を知るだろう」という予言で終わっていた(<レオン・トロツキー著作集、1938-1939年>N. Allen=G. Breitman 編, 1974, p.87.)。//
 (9)長い努力のあと1933年夏、トロツキーはついに、警察による多くの制限を条件として、フランスに居住する許可を得た。
 彼は2年間異なる住所に住んでいて、その状況は日増しに危険なものになっていった。全てのスターリン主義政党が声高に彼に敵対し、ソヴィエト警察のテロ活動が増えていた。
 1935年6月、トロツキーはノルウェイに亡命することが認められ、ここでおそらくは最もよく知られた書物を執筆した。
 ソヴィエト体制の一般的分析書である<裏切られた革命>だ。これは、ソヴィエト体制の頽廃と見通しを記述し、革命によるスターリン官僚制の打倒を訴えるものだった。
 1936年末、ノルウェイ政府は、メキシコに送ることで、扱いにくい賓客を自国から排除した。トロツキーは、人生の残りをそこで過ごす。
 この時期の彼の活力の多くは、モスクワ裁判という虚偽の仮面を剥ぐことに費やされた。モスクワ裁判で彼は、あらゆる陰謀、罷業および被訴追者たちが起こしたテロ行為の背後にいる首謀者だと非難されていたのだった。
 トロツキーの友人たちの尽力によって、アメリカの哲学者で教育者のジョン・デューイ(J. Dewey)を長とする国際調査委員会が設置された。
 この機関はメキシコを訪問してトロツキー自身から聴取を行い、最終的にはモスクワ裁判は完全なでっち上げだったと結論づけた。//
 (10)トロツキーはメキシコで、さらに3年半の間生活した。
 この地域のスターリン主義者は追及運動を組織し、1940年5月にソヴィエト工作員とともに彼の住居を武装襲撃した。
 トロツキーとその妻は奇跡的に逃れて生きたままだったが、長くはつづかなかった。すなわち、8月20日、訪問者を装ったソヴィエト警察の工作員の一人が、彼を殺した。
 ヨーロッパで父親の代理をしていた彼の息子のレオンは、1938年にパリで、おそらくはソヴィエト工作員によって毒をもられて、死んだ。
 ロシアを離れず政治にかかわらなかったもう一人の息子のセルゲイ(Sergey)は、スターリンの牢獄に消えた。
 トロツキーの娘のZina (ジーナ、ジナイダ)は、1933年にドイツで、自殺した。//
 (11)トロツキーは11年の逃亡中に、膨大な数の論文、小冊子、書物、宣言文を出版した。
 彼はあらゆる時期に、世界のプロレタリアート全体に、あるいはドイツ、オランダ、イギリス、中国、インドそしてアメリカの労働者たちに、指示、助言を与え、訴えを発した。
 もとよりこれら全ての文書はひと握りの崇拝者たちにしか読まれず、事態に対しては微少の影響すら与えなかったので、トロツキーの活動は玩具の兵士との遊戯だとして否認される傾向にある。
 しかし、暗殺者のアイス・ピックは玩具ではなく、スターリンは世界じゅうのトロツキズムを抹殺するために多大の精力を用いた、という事実は残っている。-この目的をスターリンは、大部分は達成した。//
 ----
 第2節の表題は、<スターリン体制、官僚制、「テルミドール」に関するトロツキーの分析>。 

1961/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節④。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版p.178-p.182。合冊本では、p.929-p.933.
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 何度も記したように、この著の邦訳書はない。ドイツでは1977-79年に、独訳書が刊行された(のちにpaperback 版となった)。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 ----
 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義④。
 (22)戦争後のしばらくの間フランスで甚大な成功をかち得たサルトル(Sartre)の実存主義哲学は、この当時の態様では、マルクス主義と全く相容れないものだった。
 サルトルは、自然という決定要因に支配された異質で緩慢な世界にいる、絶対的な自由の虚無(Vacuum、真空)が人間という存在だ、と主張した。
 この自由は、人間が逃れようとしてきた耐え難い重荷だが、誠実さ(good faith)と矛盾することなしには逃れることができないものだ。
 私の自由は絶対的で無制限だという事実こそが、私が言い訳すること(alibi)を全く不可能にし、自分が行う全てについて百パーセントの責任を私に負わせる。
 私の恒常的な自己予想は、そこにこの自由が提示されているのだが、時間を発生させるものだ。それは人間存在の本当の形態であり、自由のごとく我々の全てがもつ独自の属性だ。
 サルトルにとって、協同的かつ共同体的な時間のごときものは存在せず、自然の、希望のない、かつ抑圧的な、個人が絶えることなく自分を生み出すための不可避性(necessity=必然性)以外には、いかなる自由も存在しない。-この自己の生産は、神またはその他の超越的価値、歴史的伝統や同類の人間たち、によって助けられることのない過程だ。
 私は空虚な自由と純粋な否認性によって定義されているがゆえに、私自身の外部にある全ての存在は私の自由を制限しようとしているものだ、と私には思える。
 したがって、存在というまさにその本性によって、いわば存在論的に(ontologically)、人間関係は、他の人間存在を併合しようとする、まるで他者は物であるがごとき、敵対的な形態のみをとることができる。-このことは、全ての論脈に、そして、政治的支配のように、愛(love)にあてはまる。//
 (23)いかなる形態のものであれマルクス主義と、このような基本的考え方の間には、共通する基盤が存在していないことが明瞭だ。この基本的考え方は、人間の共同体または共有される時間という観念を、全て排除する。そして、生活の全体を、自分自身の虚無性(vacuity、真空性)を非合理的に追求することへと帰一させる。
 この点によって、フランスの共産主義知識人たちは、実存主義に対して激しい非難を投げつけた。
 他方で、サルトルは初期の段階から、労働者階級と被抑圧者一般を同一視しようとした。その結果として、サルトルの共産党との関係の特徴は、逡巡と不明瞭さになった。
 彼は実際に、共産党員たちとの一体感と彼らに対する激しい敵意との間で揺れ動いた。その複雑な過程を、ここで立ち入って叙述することはできない。
 しかしながら、彼の全ての段階で、「左翼」(Leftist)としての自分自身の名声を維持しようと努めた。そして、自分自身と彼の哲学を<格段に優れた(par excellence)>「左翼主義」を具現化したものだと示そうとすらした。
 つまるところは、共産党員たちを攻撃して彼らから罵倒を浴びせられたときですら、サルトルは、反動やブルジョアジーの勢力、あるいはアメリカ合衆国政府に対して、もっとはるかに激烈な攻撃をする立場をとった。
 サルトルが一体化したプロレタリアートの諸要求を共産党が代表していると考えることで、彼は一時的に政治的共産主義と同盟したばかりではなく、解放という人間の最良の希望だとして、スターリニズムの最終段階にあったソヴィエト同盟を称賛した。
 彼の政治的活動全体の価値が減少する理由は、影響力を何ら持たないという知識人には絶えられない事態の典型的状況に陥るのを怖れる、そういう気持ちにもとづいていることにあった。
 要するに、サルトルのイデオロギーは、「内部」に存在したいという充たされない野心のうちに抱かれた、政治的<不満(manqué)>のそれだった。//
 (24)一時期はサルトルと一緒に活動したメルロ=ポンティ(Merleau-Ponty)は、マルクス主義と共産主義に関して、最初からもっと懐疑的だった。彼の自由の理論は、虚無としての自由というサルトルの考え方よりもマルクス主義に近いものだったけれども。-この理論は、自由はつねに現実の状況によって決定され、克服する障壁をつうじてのみ存在する、というものだ。
 メルロ=ポンティは<人間中心主義とテロル(Humanisme et terreur)>(1947年)で、共産主義者のテロルとその歴史的正当化の可能性を論じ、我々は自分たちの行動の完全な意味を知ることはできない、全ての帰結をまだ知らないのだから、と主張した。その帰結がまさに「意味」の一部であって、否応なく我々の責任になるものだ、と。
 そのゆえに、歴史的過程とそこでの我々の役割は、不可避的に不明瞭で、不確実だ。
 また、その究極的効果が暴力を排除することにあるならば、暴力(violence)は歴史的に正当化されるかもしれない、ということになる。
 彼はしかし、このように寛容な暴力の承認について、いかなる規準も確定しなかった。
 時が経るにつれて、メルロ=ポンティはますます共産主義に対する批判を強めるに至った。//
 (25)西側ヨーロッパ諸国でのマルクス主義著作の様式と内容は、当然に、それぞれの異なる文化的伝統を反映した。
 フランスのマルクス主義は戯曲ふうに修辞的で滑らかな人間主義の語句に耽溺しがちで、革命的雄弁さをもって語った。
それは印象主義的で、論理的には杜撰だったけれども、文語的な(literary)観点からは有効だった。
 イギリスのマルクス主義は、何がしかの経験主義の伝統を維持した。すなわち、もっと現実的(down-to-earth)で、論理的議論に関心をもち、歴史にもっと根拠をおき、哲学的「歴史主義」(historicism)への傾斜が少なかった。
 イギリスでの共産主義はきわめて弱体で、労働者階級の中での大衆的支持を一度も獲得しなかった。
 しかし、他諸国でと同様に、共産主義は純粋に知的な運動ではなく、薄弱だったかもしれないにせよ、つねに労働組合との関係を維持した。
 多くの知識人たちが1930年代に共産党を通り過ぎ、別の者たちは、戦後もそうした。
 共産党の信条をもつマルクス主義哲学者の中に、モーリス・コーンフォース(Maurice Cornforth)とジョン・ルイス(John Lewis)がいた。
 前者は、<科学対観念論>(1946年)と題する、論理的経験主義と分析哲学に対する批判書を書いた。この書物で彼は、知に関するエンゲルス・レーニン理論を擁護し、「論理的原子論」、思考の経済の原理、哲学の言語分析学への矮小化を攻撃した。
 後者は、とりわけ、プラグマティズムを批判する書物を書いた。
 ベンジャミン・ファリントン(Benjamin Farrington)は、古代ギリシャの科学に関する書物など、戦後初期の時代に歴史に対する価値ある貢献をした。彼はこの書物で、技術をもつ現代国家へと哲学的諸教理を関係づけた。//
 (26)フランス・マルクス主義が人間主義的言い回しを強調し、イギリス・マルクス主義が経験的かつ理性主義的論拠を重視したのに対して、イタリアのマルクス主義は、その伝統に忠実に、「歴史主義」への注目を強調した。
 スターリニズムの最終時期ですら、イタリアのマルクス主義哲学はレーニン主義やスターリン主義の規準から遠く離れていた。
 しかしながら、イタリア共産党は、他諸国の同志たちと同様に国際的諸問題についてはソヴィエトの方針に従順だった。この党は、ファシズム瓦解のあとで、20年間の停滞と無気力状態からきわめてすみやかに復活していた。
 のちに1956年〔試訳者注-ハンガリー事件の年〕のあとで、Parnimo Togriatti(1893-1964)は、共産党指導者たちの中で最も「心を開いた」、モスクワから最も自立している人物だという名声を獲得することになった。しかし、このことをスターリン時代にまで遡らせることのできる根拠はない。
 Togriattiはこの当時は、ソヴィエトの政策の紆余曲折に、全て忠実に適応していた。
 しかしながら、彼は特段の困難なく、(共産党専門用語で「教条的」、「左翼主義」、「党派的」と表現された)厳格な孤立主義から、ゆより融通性があって効果的な「人民戦線」政策へと方向転換した。
 文化的諸問題について、イタリア共産党は一般に他のどの共産党よりも攻撃的に口汚く罵るということはなく、マルクス主義とイタリア独自の伝統の連環を強調し、伝統的にある反動的要素ではなく「積極的」要素を重視して宣伝した。
 グラムシ (Gramsci)が1947-49年に公刊した<獄中からのノート(note)>はイタリア共産主義の歴史上の画期的なもの(milestone)で、レーニン主義の教典が許した以上にはるかに柔軟な範型のマルクス主義を党知識人が受容することを可能にした、そういう発想方法の根源だった。
 1950年代初期の傑出した著述者は、Galvano della Volpe(1896-1968)とAntonio Banfi (1886-1957)だった。彼らは人生のかなり遅くにマルクス主義者になり、かつ共産党員となって、普遍的な人間中心主義についてのイタリア的精神でもって、新しい信条を解釈した。
Della Volpe は、Eckhart に関する価値ある書物を執筆し、認識論に関する<Logica come scienza positiva>(1950年、ここでの「論理」は知に関する理論一般を意味する)と題する書物を書いた。彼はこれによって、マルクス主義を反ヘーゲルの立場および経験論者の用語法で解釈した。
 この解釈にもとづくと、マルクス主義は世界に関する科学的説明というほどのものではなく、さらに形而上学の体系以下のものだ。こうしたものではなくて、人間の自己創造の今日的段階を歴史的に表現するものであり、人間の生(life)の条件を統御しようとする実践的闘いを明瞭に叙述しようとするものだ。//
 (27)要約するとすれば、つぎのように言えるかもしれない。すなわち、西側ヨーロッパでのスターリニズムの最後の時代は、理論書および歴史書に関するかぎりで全体として無意味なものだったわけではない。しかし、何らかの価値のある数少ない書物は、組織された政治的瞞着の洪水の中で溺れ死んでいった。これについて非難されるべき責任は、何の例外もなく世界中の全ての共産主義知識人たちにある。(なお、何らかの価値のある数少ない書物も大部分は、今日ではそれ自体を目的として読む価値はない。)
 この時代に共産主義運動に加わったフランスまたはイタリアの著作者たちは、一般的に言ってソヴィエト体制や世界革命の展望にはほとんど関心がなかった。彼らが党を支持した理由の一部は、共産党が熱心に彼らの要求と利益を語ったことにあった。
 しかしながら、彼らはマルクス主義と共産主義を普遍的な教理として心に抱いていた一方で、運動が完全にモスクワによって支配されていることや、ソヴィエトの政治目的に従属していることに、十分に気づいていた。
 それにもかかわらず、無批判に、彼らは、ソヴィエトの社会体制の真の(true)性格に光を当てる全ての情報を拒絶した(そうした情報は西側の書物から、また直接に東ヨーロッパ諸国から、容易に入手可能だった)。
 彼らは、状況に応じてつねに、言葉と行為でもって、また共産党の党員であることをもって、この体制を賛美した。
 彼ら全員が、茶番劇の「平和運動」に参加した。この標語のごときオーウェル的表題は、冷戦時代のソヴィエト帝国主義の重要な道具だった。
 彼ら全員が、全く平気で、アメリカは朝鮮半島で細菌戦争を行っているという非難のごとき、狂信的な捏造事を信じ込んだ。
 ソヴィエト体制の完璧さに疑いを差し挟んだ者は誰もが、「結局は」(after all)、共産主義がファシズムに対抗する唯一の、または最も有効な防塞だ、と自分に言い聞かせた。そして、そのゆえに共産主義を百パーセント、無条件で受容しなければならない、と。
 このような自発的な自己欺瞞の心理的な動機は、さまざまだった。
 とりわけあった心理的動機は、普遍的な人間的友愛という古来からの夢を世界の誰かが具現すると信じたい、というきわめて切実な欲求だった。
 「歴史の進歩」に関する知識人たちの幻想。
 多くの西ヨーロッパ諸国では大戦間に完全に地に落ちた、民主主義的「既得権益層」(establishment)に対する侮蔑意識。
 歴史や政治を含む普遍世界(the universe)の秘密をこじ開ける、そういう万能の鍵(master key)を求める切望感。
 歴史という波の頂上に、換言すると、勝利する側に、立っていたいという野心。
 知識人たちはとくに陥りがちな、現実的影響力(force)への信仰。
 彼らが考えていたように現世界で剥奪され迫害されている人々と同じ防塞の中にいると願望しつつ、共産主義〔共産党〕知識人たちは、最も抑圧的な体制の預言者となり、そして、権力を拡張するために用いる、巨大で効率的な虚偽(lies)の装置のための、現存するかつ自発的な工作員(agents)となった。//
 ----
 第13節、および第四章が終わり。
 次章以降の表題は、<トロツキー>、<アントニオ・グラムシ>、<ジョルジュ・ルカチ>、<カール・コルシュ>、<ルシアン・ゴルトマン>、<フランクフルト学派と「批判理論」>、……。

1959/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節③。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.174-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 ----
 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義③。
 (16)ソヴィエトの宗主権のもとにある他諸国では、文化上のスターリン主義化は、さまざまな理由で、より全面的で、より破壊的だった。
 東ドイツはソヴィエトによる直接占領下にあり、スターリニズムはプロシア的(Prussian)伝統と結合して、硬い反啓蒙主義の雰囲気を生んだ(のちに別に論述するErnst Bloch の活動のおかげで救われた)。
 さらに、1961年までは西ドイツへと逃亡することが困難でなかった。そう行動した400万の人々の中には、多数の知識人がいた。そして、彼らがいなくなったことで、その母国地域の荒廃が増大することになった。
 チェコスロヴァキアもまた、容赦なきイデオロギー的迫害(purge)を被った。その影響の跡を、今日でもまだ感じ取ることができる。
 ここでのしばらくの間の文化的独裁者は、元来は音楽に関する歴史学者のZdeněk Nejedlý だった。この人物は強権でもって芸術を監視し、チェコの古典文学を「校訂」し、「コスモポリタン」のドヴォルザーク(Dvořák)の作品の上演を禁止するなどをした。
 ブルガリアで彼の位置にいたのは、Tedor Pavlov だった。この人物は典型的なマルクス主義好事家(dilettante)で博識ぶっており、生物学、文学、哲学その他について執筆した。
 最もよく知られた著作は、戦争前に刊行されてロシア語に翻訳された、<反射の理論>と題するレーニン主義の認識論の論文だった。
 「反射」という概念はこの著作では、機械的な因果関係論から先に進んだ、個々の事物が相互に行使し合うことのできる全種の影響力を指すという、広い意味で用いられていた。
人間の感知いう行動と抽象的思考はこの「反射」の特殊な場合であって、最高度の次元で事物を構成化したものだ。
 たまたまこの時期に、ソフィア大学〔ブルガリア〕の哲学の老練教授のMikhalchevが、第二級のドイツ経験批判論者であるRehmke (1930年没)の指導を受けていた。
 そのゆえにそれ以降の多年にわたり、ブルガリアのマルクス主義哲学者の主要な課題は、 「Rehmke 主義と闘う」ことになった。//
 (17)ハンガリーでは、マルクス主義は最初から強い地位にあった。それは、前世代に何人かの傑出した哲学者たちが存在したことを理由とした。すなわち、J. Révai、B. Fogarsai、そしてG. Lukács (ルカチ)。
 Révai は、一時期、ハンガリー文化のスターリン主義化の責任をもつ党代表者だった。
 ルカチ(Lukács)は、この時期を通じて二重の位置にあった。スターリニズムの最後の年月の間での彼の書物や論文は、ヘーゲルに関する書物を除いて申し分なく正統派のものだったけれども。
 ヘーゲルに関する書物は戦争前に執筆され、1948年にドイツで出版された。
 この本は完全に非ソヴィエト様式のもので、決してスターリン・ズダノフの公式と適合していなかった。//
 (18)西ヨーロッパでは、マルクス主義の位置はいくぶん異なっていた。
 全ての共産党がいつでもスターリンの方針を忠実に支持し、ソヴィエトの政策を称え、指導者(Leader)の個人崇拝を伝道していた、というのは本当だ。
 しかし、フランス、イギリスでは、そしてイタリアでも、ソヴィエトの範型は、哲学や歴史学に関する理論上のマルクス主義著作物を完全には支配していなかった。
 とは言え、それからの逸脱の程度は、内容の点でよりも様式や議論の方法の方が大きかった。//
 (19)フランスの共産主義者の運動は、1945年後の最初の数年間で大きな勢いで強くなった。
 冷戦の最初から、共産党は主要な政治および議会の諸問題で堅牢な態度を維持し、利点とは関係なく全ての政府の動きを妨害した。但し、地域または都市内の問題については、その政策は戦術的で融通性があった。
 同時に、共産党は、第一次大戦以前のドイツ社会民主党にむしろ似ている基本方針をもって、文化生活の入念で高級なかたちを発展させた。
 党は、理論誌<Pensée>を含む多数の定期刊行物を出版し、その隊列の中に、国民的に名高い多数の優れた男女を数え込んだ。すなわち、Aragon やÉluard のような文筆家、Picasso (ピカソ)やLéger のような画家、Juliot-Curie (ジョリオ=キュリー)たちのような科学者。
 こうした全ての者たちの力で、共産党の活動は相当の威信を獲得した。
 かなりの量の哲学上の文献が、出版された。その中のある程度は純粋にスターリニズムのもので、とくに党の月刊誌<Nouvell Critique>上のものはそうだった。
 例えばこの雑誌は、当時にフランスで関心が増えていた精神分析論に対する反対運動を打ち上げた。
 予期されるように、寄稿論考のほとんどは、精神分析論をブルジョア的学問だ、そのうえに観念論で機械論だ、と非難し、社会現象を個人の心理に、人間の精神を生物的な衝動に帰一させるものだ、とした。  
1960年代の「リベラルな」共産主義の運動者として注目されるべきRoger Garaudy(ロジェ・ガロディ) は、内容的はスターリニズムだがソヴィエトでの著作物よりも確実に十分に知見のある好著をいくか執筆した。
 その一つは<Grammaire de la libertéa〔自由の文法〕>で、自由を獲得する方法は産業を国有化して失業を廃絶させることだ、と論じた。
 Garaudy は<Les Sources françaises du socialisme scientifique 〔科学的社会主義のフランスの起源〕>(1948年)では、共産主義はフランス文化に深てかつ独特の根源をもつことを論証しようとした。
 彼はまた、キリスト教に関する書物を書き、カトリック教会が反啓蒙主義であり科学の進展に反抗している証する文章類を引用した。//
 (20)いくぶん異なる性格の、多作の文筆家だったHenri Lefebvre(アンリ・ルフェーヴル)は、マルクスとヘーゲルの著作撰者の一人で、民族主義およびファシズムに反対する複数の著書の執筆者だった。
 彼は1947年に、<Logique formelle et logique dialectique(形式論理と弁証法的論理)>と興味深い<Critique de la vie quotidienne(日常生活批判)>を出版した。
のちには実存主義批判に至り(1960年代や1970年代のフランス・マルクス主義者が論述するのを避けられないものだった)、さらに、デカルト、ディドロー、ラブレー、パスカル、ミュッセ〔Alfred de Musset〕、マルクスおよびレーニンの著作に批判を向けた。絵画や音楽に関する学位論文もある。
 これらの著作は全て、スケッチ風のもので深遠な研究書ではない。しかし、独特のかつ有意義な観察を含んでいる。
 ルフェーヴルは、幅広い文化、とくにフランスとの関係でのそれを知る人物だ。
 彼の著作は生き生きとしていて、独創的だ。しかし、あまりに多数の主題に接触しすぎて、それらのいずれの主題についても長くは存続しなかった。
 彼は、フランスのマルクス主義に対して相当大きい影響力をもった。それは中でも、ソヴィエト・マルクス主義が実践的に無視したマルクスの初期の著作に、頻繁に立ち戻って思考したことによる。
 彼はとくに、「全体的(total)人間」という主題に関心をもった。
 「若きマルクス」が1940年代および1950年代初めにフランス哲学の支え(staple)になったのは、ルフェーヴルに大きく依っている。
 彼はまた、おそらく「疎外(alienztion)」というマルクス主義用語を一般的にした最大の人物だ。この語は(彼が意図したのではないが)、曖昧に心地よくない状況を指し示すためのフランスの日常用語として、好まれる表現句となった。
 傑出したマルクス主義歴史学者のArguste Cornuk(オーギュスト・コルニュ)の著作は、この時期での党の哲学の主流とはいくぶんか離れている。//
 (21)スターリン・イデオロギーの解体の時代のフランス・マルクス主義の進展は、1940年代のヘーゲル主義と実存主義のうねりに影響を受けていた。
 ヘーゲル、とくに<精神現象学>、のフランスの読者への主要な紹介者は、Alexandre Kojève(A・コジェーヴ)とJean Hyppolite(J・イポリット) だった。前者は、戦争前にヘーゲル哲学に関して深く研究して論評していた。
 この二人はいずれもマルクス主義者または共産主義者ではなかったが、マルクスの思想に同調的な関心をもち、真摯に分析し、ヘーゲル体系(schemata)の諸要因がマルクスの思想に影響を与えたことを強調した。
コジェーヴとイポリットは、フランス哲学をその伝統的な回路と関心から逸らす大きな仕事をした。
 とりわけ、歴史の進行の中に具現化された理性(Reason)という考えに通用力を与えた。-この観念は反デカルト的なものだった。なぜなら、デカルトは、歴史を本質的には偶然が支配する領域で、哲学の及ぶ範囲外にあり、意識的な虚構による人為的な構成物、デカルトが名付けたような<fabula muudi>、という手段による以外には合理的に説明することができないものだ、と考えたからだ。
 コジェーヴは1947年に出版された講義録で、労働と闘争によって人間が自分で作り出す歴史としての<現象学(Phenomenology)>を提示した。
 主人と下僕の弁証法のうちに、彼は、マルクスのプロレタリアート理論と歴史を創造するもの(demiurge)としての労働という考えの起源を感得した。
 コジェーヴとイポリットは、マルクスの歴史にかかる哲学はヘーゲルの否定の弁証法を継続させたものだとということを示した。-悪、隷従および疎外は、人類が自己の理解と解放を達成するために必要な手段だ。
 イポリットはとくに、マルクスにとってと同様にヘーゲルにとって理性は、歴史の行路から自立した独自の法則をもつ超越的な観察者ではなく、それ自体が歴史の要素、側面または表現だということを、強調した。また、「理性的なもの」に向かう人類の進歩は漸次的に同質化していく、思考についての既製の法則の問題ではなく、共同体と他者にある理性的なもの承認という意識の成長の問題だ、とも。
 この目的を達成するためには、人間は商品(commodity)として機能することをやめることが必要であって、このことがマルクスの主要なメッセージだ。//
 ----
 ④へとつづく。次の段落の冒頭は、「サルトルの実存主義哲学…」。

1956/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.170-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 ----
 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義②。
 (7)武装侵攻以外の全ての形態での圧力が激烈に加えられたにもかかわらず、ユーゴスラヴィア共産党はその自立性を維持し、スターリン主義共産主義体制に戦争以降で最初の実質的な亀裂をもたらした。
 分裂後すぐに、ユーゴの党イデオロギーは、共産主義諸党は自立していなければならないと強調し、ソヴィエト帝国主義を非難する点でのみ、ソヴィエトと異なった。
 マルクス=レーニン主義の一般的原理はユーゴスラヴィアに力を持って残ったままであり、その点ではソヴィエト同盟で観察されたものと異なってはいなかった。
 しかしながら、やがて政治的教理の基礎は修正主義へと進み、ユーゴスラヴィアは社会主義社会についての自分自身のモデルを生み出し始めた。それは、重要な態様でロシアのそれとは異なっていた。
 (8)この頃までのコミンフォルムは、反ユーゴスラヴィア情報宣伝活動の道具とほとんど同じだった。その<存在理由>は、1955年春にフルシチョフ(Khrushchev)がベオグラードと和解しようと決定したときに消滅した。
 だが現実には、コミンフォルムは1956年4月までは解体されなかった。
 知られているかぎりで、そのとき以降、ソヴィエトの党は国際共産主義の組織的形態を設立しようとはせず、可能なかぎり、個別の諸党に対して直接的な統制を加えることによって闘い、ときおりは、世界的問題に関する決議を採択するための会議を呼びかけた。
 しかしながら、これらは従前に比べると成功しなかった。努力したにもかかわらず、ソヴィエトの指導者たちは、かつてユーゴスラヴィアについて行ったのと同様に中国共産党からの国際的非難を受けないようにすることが、うまくはできなかった。
 (9)スターリン支配の最後の年は、共産主義世界全体での、教理のソヴィエト化(Sovietization)を特徴とした。
 このことの影響はブロック内の国々によって異なった。しかし、圧力と趨勢は、一般的に言って同一だった。
 (10)以前の章で述べたように、ポーランドのマルクス主義はそれ自体の伝統をもち、ロシアのそれから全く自立していた。
 この伝統には単一の正統な形態はなく、厳密な党イデオロギーもなかった。
 ポーランドの知的情景の中では、マルクス主義はたんに一つの傾向にすぎず、きわめて重要なものでもなかった。
しかしながら、型にはまった教理を主張するのではなかったが、マルクス主義の諸範疇をその研究に利用した歴史学者、社会学者、および経済学者たちがいた。
 とりわけLudwik Krzywicki とStefan Czarnowski (1879-1937)だ。後の人物は傑出した社会学者、宗教歴史学者で、その晩年には、ある範囲で、マルクス主義へと接近した。
 (彼は、プロレタリア文化に関するある小論文で、新しい精神性と新しい類型の芸術の起源を労働者階級の状況と関連させて分析した。)
1945年の後の数年のうちに、この伝統が復活した。新しいマルクス主義の思考は、古いそれと同じく、特定の厳格な方向に何ら限定されておらず、むしろ、合理主義や文化的諸現象を社会紛争と関連させて分析する習慣の背景であるように見えた。
 こうした緩やかで、聖典化されないマルクス主義は、月刊誌<Mysl Wspolczesna(現代思想)>や週刊誌<Kuźnica(前進)>などの雑誌で表現されていた。
 1945-50年に、諸大学が戦前の方針のもとで再設立された。たいていは同じ教育スタッフが担当した。
 教育の分野でのイデオロギー的な粛清(purge)は、まだ存在しなかった。
 この時期に出版された多数の科学書や科学雑誌は、マルクス主義とは何の関係もなかった。
 体制側は「プロレタリアート独裁」とはまだ自称しなかった。そして、党のイデオロギーは共産主義の主題を強調せず、むしろ、愛国主義、民族主義または反ドイツの主題を重視した。
 ソヴィエト類型のマルクス主義は、この時期の背景には多く見られた。
 その主要な語り手は、Adam Schaff だった。この人物は、レーニン=スターリン主義の範型の弁証法的唯物論や歴史的唯物論について解説する書物や手引き書を執筆した。但し、ソヴィエトにいる同種の者たちのものほどに幼稚ではなかった。
 最悪の時代であってすら、ポーランドのマルクス主義はソヴィエトの水準にまで低落することがなかった、と一般的に言ってよい。
 ロシアの範型によって浸食されたにもかかわらず、ポーランド・マルクス主義は、ある程度の独創性と、理性的な思考に対する内気な敬意を保った。//
 (11)1945-49年に、政治と警察による抑圧がより強くなった。
 戦争後のおよそ二年の間、ドイツの侵略者と闘った、そしてロシアによって押しつけられた新しい体制に屈服するのを拒む、地下軍隊との武装衝突があった。
 処刑と頻繁な流血は、武装地下軍団や戦時中の政治組織に対する闘いの特質だった。農民政党やその他の合法的な非共産主義集団に対する闘いについても同様だったが。
 にもかかわらず、この時期の文化的圧力は、純粋に政治的な問題についてに限られていた。
 マルクス主義はまだ、哲学または社会科学での拘束的な標準たる地位を占めていなかった。かつまた、芸術や文学での「社会主義リアリズム」は、知られていなかった。//
 (12)1948-49年、ポーランドの党は「右翼民族主義者」を粛清した。
 党指導部は交替し、政治生活はロシアの指針に適合するようになり、農村の集団化が決定された(但し、いかなる程度にでも実施されなかった)。そして、体制はプロレタリアート独裁であることが、公式に宣言された。
 1949-50年、政治的な浄化のあとに続いたのは、文化のソヴィエト化だった。
 多数の学術および文化に関する雑誌が閉刊され、それらには新しい編集者が着任した。
 1950年代の初めに、ある範囲の「ブルジョア」教授たちが解任された。しかし、その数は大して多くはなかった。そして、教育や出版はすることができなかったけれども、給与を貰って、状況が苛酷でなくなった数年のちには出版することとなった書物を執筆していた。
 哲学学部の一定範囲の教授たちには職が残されたが、論理の教育に限定するように命じられた。
 その他の者たちには、科学アカデミーの中に再び職が与えられた。そこで彼らは、学生たちとの接触をしなかった。
 社会科学部門のカリキュラムは変更され、社会学の講座は歴史的唯物論の講座に替えられた。
 党の特別の研究所が、イデオロギー的に微妙な哲学、経済学および歴史学の部門について、「ブルジョア」教授たちに代わって幹部たちを研修するために、設置された。
 哲学については、マルクス主義的「攻撃」の手段は雑誌<Mysl Filozoficzna(哲学的思考)>だった。
 マルクス主義哲学者たちは一定期間、非マルクス主義の伝統と、とくに分析哲学のLwow-Warsaw 学派と闘うことに傾注した。Kotarbinski、Ajdukiewicz、Stanislaw Ossowski、Maria Ossowska、等々だ。
 多数の書物と論文が、上の学派の考え方の多様な論点を批判した。
 もう一つの攻撃対象は、トーマス主義(Thomism) だった。これは、Lublin カトリック大学を中心として強い伝統を持っていた。
 (この大学は-社会主義国家の歴史上例のないことだが-抑圧されたことがなく、様々な圧力と干渉の手段が講じられたにもかかわらず、今日まで機能している。)
 老若両世代の多数のマルクス主義者たち-Adam Schaff、Bronislaw Baczko、Tadeusz Kroński、Helena Eilstein、Wladyslaw Krajewski-が、この闘いに参加した。この著の執筆者〔L・コワコフスキ〕もそうだったが、この事実が誇りの大元だとは考えていない。
研究のもう一つの主題は、過去数十年間のポーランド文化に対するマルクス主義の寄与だった。//
 (13)この時代の文化的進展について完全に論評するのは、まだ時機が早すぎる。しかし、強要された「マルクス化(Marxification)」には、ある程度の埋め合わせ的な特徴があった。
知的生活は確かに、貧困でかつ不毛なものになった。しかし、マルクス主義の普及は、それが伴った強制にもかかわらず、良いことももたらした。
 破壊的で反啓蒙主義的な部分もあったが、本質的に価値があり、多かれ少なかれ知的な世界的相続財産たる性格をもつ特質を、それは持ち込んだ。
 例えば、文化的諸現象を社会的対立の側面だと把握したり、歴史的進展の経済的および技術的背景を強調したりする習慣だ。概して言うと、諸現象を、幅広い歴史的な趨勢との脈絡で研究する、ということだ。
 人文諸学問の新しい方向のある程度は、イデオロギー的な契機をもつものではあったが、例えばポーランドの哲学や社会思想の歴史に関して、価値ある結果を生み出した。
 哲学上の古典の翻訳書の出版やポーランドの社会思想、哲学思想、宗教思想に関する標準的著作物の再出版というかたちで、有意味な仕事がなされた。//
 (14)スターリン主義の時代には、国家は文化に対して全く寛容に助成金を支給した。その結果として、大量のがらくた作品が生産されたが、しかし、永続的価値をもつものも多く生まれた。
 一般的な教育水準と大学への入学者数は、戦前と比べて顕著に上昇した。
 破壊的だったのはマルクス主義での一般的教育ではなく、強制と政治的欺瞞の道具としてそれが用いられたことだった。
 初歩的で型に嵌まった形態だったとしてすら、マルクス主義は、その伝統の一部である有益で理性的な思考を植え付けることに、ある程度はなおも貢献した。
 しかし、そうした思考方法の種子は、マルクス主義の諸教理の抑圧的な利用が緩和されていてのみ、成長することができた。//
 (15)概していえば、厳密な意味でのスターリニズムは、ポーランドの文化にとって、ブロックの他諸国のそれに対するほどには有害ではなかった。そして、元に戻せない程度は、より低かった。
 このことには、いくつかの理由があった。
 まず、たいていは受動的だったが自発的な文化的抵抗と、ロシアに由来するもの全てに対する深く根ざした不信または敵意があった。
 スターリニズム文化の押し付けについては、一定の気乗り薄さ、あるいは首尾一貫性の欠如もあった。すなわち、マルクス主義が人文諸科学を絶対的に独占することは決してなかった。また、ソヴィエト的様式で生物学に圧力を加えようとする試みは貧弱だったし、効果もなかった。
 「社会主義リアリズム」の運動はある程度の釈明的な無価値のものを生んだが、文学や芸術を破壊することはなかった。
 高等教育の諸施設での迫害(purge)は、比較的に小規模だった。
 図書館で禁書とされた書物の割合は、他のどの諸国よりも小さかった。
 さらに加えて、ポーランドでの文化的スターリニズムは、比較的に短命だった。
 それは本気で1949-50年に始まったが、1954-55年にはすでに衰亡しつつあった。
 実証するのは困難ではあるが、もう一つの緩和要因が働いていた、と言うことができる。すなわち、戦前のポーランド共産党を破壊してその指導者たちを殺戮したスターリンに対する、多数の老練共産主義者たちの反感だ。//
 ----
 ③へとつづく。

1955/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版、第三巻分冊版p.166-。
 第三巻は注記・索引等を含めて、総548頁。この巻の試訳は、本文のp.1から始めて、ここまで済ませている。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。第13節は、計17頁分と長い。
 ----
 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義①。
 (1)ソヴィエトの支配下にあった諸国でのマルクス主義の歴史は、大まかにはつぎの四つの段階に分けられる。
 第一は1945年から1949年までの時期で、「人民民主主義」諸国が政治的および文化的な多元主義の要素をまだ残し、徐々にソヴィエトの圧力の影響を受けていった。
 第二は1949年から1954年までの時期で、政治とイデオロギーに関しては「社会主義陣営」としての完全なまたはほとんど完全な<均一化(Gleichschaltung)>があり、また全ての文化の分野できわめて大きなスターリン主義化(Stalinization)が見られた。
 第三は1955年に始まった。マルクス主義の歴史に関係する最大の際立つ特質は、 多様な「修正主義」、反スターリニズムの動向が出現したことで、これは主にポーランドとハンガリーで、だが遅れてはチェコスロヴァキアで、またある程度は東ドイツでも、生じた。
 この時期は、おおよそ1968年に終わりを告げた。このとき、社会主義ブロックの諸国の少なくともほとんどで、硬直した無味乾燥な形態をまとったが、マルクス主義は支配党の公式イデオロギーのままだった。//
 (2)東ヨーロッパでの「スターリン主義化」と「脱スターリニズム」は、各国の多様な事情に応じて異なる態様で進行した。
 第一に、いくつかの国-ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア-は戦争で連合国側につき、その他の国は公式に枢軸側と同盟していた。
 ポーランド、チェコスロヴァキアおよびハンガリーは歴史的には西側のキリスト教世界に属していて、ルーマニア、ブルガリアおよびセルビアとは異なる文化的伝統をもっていた。
 東ドイツ、ポーランドおよびチェコスロヴァキアには、中世に遡る真摯な哲学的研究の伝統があった。こうした伝統はその他の同じブロックの国々には欠けていた。
 最後に、一定の諸国には、戦時中に積極的な地下運動やゲリラ運動があった。他方でその他の諸国では、ドイツの占領のもとでと同様に、抵抗は弱く、武装した闘争の形態をとらなかった。
 前者の範疇に入るのは、ポーランドとユーゴスラヴィアだった。但し、重要な違いはユーゴスラヴィアでは共産党は最も積極的な闘争者だったが、これに対してポーランドでは、小さな分派が全体の抵抗運動を行った。その支柱となっていたのは、ロンドン政府に忠誠をを尽くす軍部だった。
 これらの違いの存在は全て、東ヨーロッパと当該諸国のマルクス主義の進展にかかる戦後の重要な様相だった。
 それらはイデオロギー侵略の速さと深さ、およびスターリンがのちに拒絶される様相に影響を与えた。
 ドイツ侵略者からの解放が大部分は自分たち自身の共産党支配勢力によった唯一の国は、ユーゴスラヴィアだった。そしてこの国のみで共産党は、1945年以降は分かち難い権力を行使した。
 他の諸国では-ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ルーマニアおよびハンガリーでは-社会民主主義政党および農民政党が、戦後の初期の間に活動することが許容された。//
 (3)東欧の共産党指導者たちの多くは、最初は、自分たちの国は独立国家で、ロシアと同盟して、つまりロシアの直接的統制のもとにあってではなく、社会主義の諸装置を建築するだろうと考えた。こう想定するのは、全く可能だ。
 しかしながら、このような幻想は、長くは存続し得なかった。
 最初の二年間は、国際関係には戦時中の同盟関係の痕跡がまだ顕著にあった。つまり、共産主義諸党は、民主主義的諸制度、複数政党政権および東欧での自由選挙を定めていた、ヤルタ協定とポツダム協定に従順である姿勢を維持した。
 しかしながら、冷戦の始まりは、この地域にソヴィエト同盟からの自立を発展させるという望みの全てに、終止符を打った。
1946-1948年に、非共産主義諸政党は破壊されるか、または共産党と強制的に「統合」された。最初にこの運命に遭ったのは東ドイツの社会民主党だった。
 純然たる連立政権の要素がまだ残っていた最初の頃からすでに、共産党は権力の枢要な部分に隠然たる力を有した。とくに、警察と軍事の部門に。
 いたるところに存在するソヴィエトの「助言者」たちは統治の重要な諸問題に関する決定的発言力をもち、最も残忍で悪辣な抑圧の形態を直接に組織した。
 1949年、非共産主義諸政党に対する計略した抑圧のあとで、瞞着と暴力を特徴とする選挙のあとで、あるいはチェコスロヴァキアでの<クー>のあとで、スターリンの精密な統制のもとにある東ヨーロッパの諸共産党は、事実上の独占的権力を享有した。
 だが、スターリニズムがこうして衛星諸国で確立されていったそのときでもまだ、ユーゴスラヴィア分派というかたちをとった最初の重要な挫折に、それは遭遇した。//
 (4)スターリンが東ヨーロッパの、あるいは他地域の有力諸共産党を従属させるために用いた道具の一つは、共産主義者情報局(Communist Information Bureau)または「コミンフォルム」として知られる、コミンテルンの弱められた範型のものだった。
 この組織は、1947年9月に設立され(コミンテルンは1943年に解散した)、アルバニアと東ドイツを除く東ヨーロッパの全ての支配的諸共産党の代表者で構成された。-すなわち、ソヴィエト、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアおよびユーゴスラヴィアの諸党代表者。これらに、フランスとイタリアの共産党代表者が加わる。
 スターリンのもとでこの組織を指揮したのは、ズダノフ(Zhdanov)だった。
 そして、ユーゴスラヴィアの党が1944-45年の有利な情勢のもとで権力を奪取できなかったとしてフランスとイタリアの各共産党を攻撃したのは、このズダノフの指令によってだった。
 (こうした行動は実際にはスターリンが命令していたが、にもかかわらず、彼らは適切な自己批判をしなかった。)
 コミンフォルムの役割は、世界じゅうの共産主義者たちに、主要な諸党の合致した決定だと偽装したソヴィエト政策の要請を伝達することだった。
 いくつかの東欧の諸党は主権をもつ政府として行動する権限があると本当に考えていた気配が、実際にはあった。チェコスロヴァキアとポーランドはマーシャル・プランに素早く関心を示し、ブルガリアとユーゴスラヴィアはバルカン連邦構想を提案した。
 このような自立性の提示は全てすみやかに粉砕され、気分を害せた諸党はソヴィエトの命令に従った。
 第三次大戦が少なくとも全く考え難いものではなくなっていたとき、ソヴィエト同盟の外部にいる共産主義者たちは、「正しい(correct)」政策を決定する唯一の権威があり、その命令に微小なりとも逸脱するものは不愉快な結果を体験するだろう、ということを再び教え込まれなければならなかった。//
 (5)コミンフォルムの第一回会合で、ジダノフは、国際情勢の最重要の要素として世界の政治上の二つのブロックへの分裂を語った。
 コミンフォルムはまた、むろんソヴィエト共産党に支配されていたので、ソヴィエトの情報宣伝を指令する、国際的な雑誌を刊行した。
 この雑誌刊行は実際のところ、コミンフォルムの第一の任務だった。
 コミンフォルムは、あと二回だけ会合をもった。1948年6月と1949年11月。いずれも、ユーゴスラヴィア共産党を非難することを目的としていた。
 ソヴィエトとユーゴスラヴィアの共産党の間の軋轢は、1948年春に始まった。
 その直接の原因は、ティトー(Tito)とその同僚たちが、ソヴィエトの「助言者」たちのユーゴの国内問題、とくに軍隊と警察、に対する粗野で傲慢な干渉に苛立ったことにあった。
 スターリンはユーゴスラヴィアの国際主義の欠如を激しく怒って、ユーゴを跪かせようとした。そして、それは簡単な仕事だと疑いなく考えていた。
 情報宣伝活動について、そのときまでユーゴスラヴィア共産党はロシアに対して極端に卑屈だった。
 しかし、彼らは自分の家の主人だった。そして、ソヴィエト同盟は彼らをきわめて不十分にしか代表していない、ということが分かった。
 (論争の主要な原因の一つは、ソヴィエトの警察や諜報網へとユーゴ人が新規に採用されていたことだった。)
 ソヴィエトからの直接の給料で生活していたある程度のユーゴ人は別として、ユーゴスラヴィアの党は屈服する気が全くなかった。そして彼らを国際主義へと再転換させる唯一の方法は武装侵攻である、と思われた。それは、その是非はともかく、スターリンが危険すぎる行路だと考えたものだった。//
 (6)コミンフォルム第二回会合は、ユーゴスラヴィア共産党を公式に非難した。この会合に、ユーゴスラヴィアの代議員は欠席していた。
 ベオグラード(Belgrade)〔=ユーゴスラヴィア〕は、反ソヴィエト・民族主義者だと宣告された(その根拠は説明されなかった)。そして、ユーゴスラヴィアの共産主義者たちは、かりに正しい方針にただちに従わないならばティトー一派を打倒すべきだ、と呼びかけられた。
 ユーゴスラヴィアとの論争はコミンフォルムの雑誌の主要な主題となった。そして、この組織の第三回および最終の会合で、ルーマニア共産党書記長のGheorghiu Dej は、「殺人者とスパイたちに握られているユーゴスラヴィアの党」に関する演説を行った。
 この演説からは、つぎのように思えた。すなわち、全てのユーゴの党指導者たちは太古から多様な西側諜報機関の工作員だった、ファシズム体制を樹立している、主要な政策はソヴィエト同盟に混乱の種を撒き散らためにあったし現にあってアメリカの戦争挑発者の利益に奉仕している、と。
 これを契機として、世界の各共産党は、ヒステリックな反ユーゴ宣伝運動をするよう解き放たれた。
 このような対立のおぞましい帰結はこうだった。すなわち、「人民民主主義」諸国は、「ティトー主義者」のまたはその一員だとの嫌疑のある者を地方の共産党組織から追放(purge)するために、明らかにモスクワ見せ物裁判に倣った、一連の司法による殺戮を繰り広げた。
 多数の指導的共産主義者が、こうした裁判の犠牲者となった。これは、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ブルガリアおよびアルバニアで発生した。
 チェコスロヴァキアでの主要な裁判はSlánskýその他の者に関する裁判で、1952年11月に行われた。これはスターリンの死の直前のことで、明瞭な反ユダヤ感情の含意で際立っていた。
 この主題は、スターリンの晩年にソヴィエト同盟で前面に出てきたものだった。そして、党指導者たち等々を殺害する陰謀を図ったとして訴追されることとなった、ほとんどがユダヤ人の医師のグループの1953年1月の逮捕によって、絶頂点を迎えた。
スターリンが個人的に命令をした拷問を生き延びた者たちは、彼の死後にただちに釈放された。
ポーランドでは、党書記長のゴムウカ(Gomulka)およびその他の著名人物が監禁されたが裁判にかけられることはなく、処刑もされなかった。
 但し、若干のより下級の活動家たちは射殺されるか、最後には監獄で死に至った。
 東ドイツでは、逮捕と裁判には一定のパターンがあったが、犠牲者に関しては十分に知られていない。
 ブロックのその他の諸国では、「ティトー主義者」、「シオニスト」、その他の帝国主義の代理人、および党の書記局や政治局の中に「ひそかに入り込んで」いるファシストたちが、外国の諜報機関に雇われていることを告白し、その大部分が見せ物裁判のあとで処刑された。
 これらの者たち全てが、ロシアに対してより自立した共産主義体制を求めているという意味での、本当の「ティトー主義者」だった、と想定してはならない。
 これはある範囲の者たちについては正しかったが、別の者たちについては、恣意的な理由づけに用いる裏切り者だとして持ち込まれた。
 その一般的な目的は、東ヨーロッパの各支配党を弱体化(terrorize)させ、マルクス主義、レーニン主義および国際主義が何を意味するのかを教え込むことにあった。
 すなわち、ソヴィエト同盟は名義上はブロック諸国から独立した絶対的な主人であることを、そして他のブロック諸国は主人の命令を忠実に履行しなければならないということを。//
 ----
 ②へとつづく。

1949/R・パイプス著・ロシア革命第11章第8節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.482-p.486.
 ---- 
 第8節・党中央委員会10月10日の重大決定。
 (1)10月16日までに、ボルシェヴィキには自由になる二つの組織があったが、いずれも名目上はソヴェトに帰属していた。第一は軍事革命委員会で、クーを実施する、第二は来たる第二回ソヴェト大会で、クーの実施を正当化する。
 これらはこのときまでに、事実上は、第一に臨時政府の軍事幕僚に、第二にソヴェトのイスパルコムに取って代わった。
 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕とソヴェト大会は、10月10日にきわめて秘密裡に行われたボルシェヴィキの権力掌握の決定を実施すべきものとされた。//
 (2)10月3日と10日の間のいつかに、レーニンはペトログラードにこっそりと戻ってきた。レーニンはこれを隠れて行ったので、共産主義者の歴史研究者は今日まで彼の帰還のときを確定できていない。
 レーニンは10月24日までVyborg 地区に潜伏した。姿を現したのは、ボルシェヴィキ・クーがすでに開始されたあとのことだった。
 //
 (3)10月10日-イスパルコムとソヴェト総会が防衛委員会の設置を票決した後の一日で、この事態との関係が十分にありそうだが-、ボルシェヴィキ中央委員会のうちの12名の委員が集まって、武装蜂起の問題に関して決定した。
 この会合は深夜に、極端な予防措置に囲まれた中で、スハノフのアパートで行われた。
 レーニンは、きれいに髭を剃り、鬘と眼鏡を着けて変装してやって来た。
 このときに何が行われたかについて明らかになってことに関する我々の知識は完全ではない。二つの議事録が作成されたが、そのうち一つだけが出版され、その一つですら手を加えて修正されたものだからだ。(152)
 最も詳細な資料は、トロツキーの回想録に由来する。(153)//
 (4)レーニンは、10月25日の前に絶対にクーが実施されるのを確実にしようと決断するに至っていた。
 トロツキーが「我々が招集しているソヴェト大会では、我々が多数派を握ることがあらかじめ保障されている」として反対したとき、レーニンは、つぎのように答えた。
 「第二回ソヴェト大会の問題には、<中略>彼はいかなる関心もなかった。
 それがどれだけの重要性をもつのか? 開催されすらするのか? そして、権力を切り取る(tear out, vyrazi')ことは必要か?
 ソヴェト大会に束縛されてはならない。敵に対して蜂起の日程を教えてあらかじめ警告するのは愚かで馬鹿げている。
 10月25日はせいぜいのところ、粉飾(camouflage)として役立つかもしれない。しかし、蜂起は、ソヴェト大会よりも早く、それとは独立して、実行されなければならない。
 党は、武器を手にして、権力を掌握しなければならない。そのときには、我々はソヴェト大会について語るだろう。」(154)
 トロツキーは、こう考えた。レーニンは「敵」に大きすぎる意味を認めているのみならず、カバー(cover)としてのソヴェトの価値を過少評価してもいる。
 党は、レーニンが欲するようには、ソヴェトと無関係に権力を掌握することはできない。なぜならば、労働者と兵士たちはボルシェヴィキ党に関することも含めた全てのことをソヴェトのメディアを通じて学んでいるからだ。
 ソヴェト構造の枠外で権力を奪取することは、ただ混乱の種だけを撒くだろう。//
 (5)レーニンとトロツキーの違いは、クーの時機と正当化の問題に集中していた。
 しかし、中央委員会の何人かの委員は、権力奪取を実行するかどうか自体をすら、疑問視していた。
 ウリツキ(Uritskii)は、ボルシェヴィキは技術的に蜂起を準備していない、使用可能な4万丁の銃砲では不十分だ、と主張した。
 最も厳しい反対意見は、カーメネフおよびジノヴィエフから出て来た。彼らはその立場を、内密の手紙を通じて、ボルシェヴィキの諸組織に対して説明した。(155)
 クーの時機は、まだだ。
 「我々が深く確信するところでは、いま蜂起することは我々の党の運命を賭ける冒険であることのみならず、世界革命はもとよりロシア革命を賭けることをも意味する」。
 党は憲法制定会議の選挙で成功(do well)するのを期待することができる。最小でも議席の三分の一を獲得すれば、そのことでソヴェトの権威を補強し、ソヴェト内での影響力をさらに優ったものにすることができる。
 「憲法制定会議にソヴェトを加えたもの-これこそが、我々が追求すべき、連結した統治制度の類型だ」。
 この二人は、ロシアと世界の労働者の多数派はボルシェヴィキを支持している、とのレーニンの主張を拒絶した。
 彼らの悲観的な評価によれば、武装行動ではなくて防衛的な戦略をとることを〔いわば〕医師は患者に勧める、ということになる。//
 (6)レーニンはこの主張に対して、こう反応した。「憲法制定会議を待つのは非常識(senseless)だ。これは我々の側には立たないだろう。なぜなら、これは我々の任務を複雑なものにするだろうから」。
 この点で、レーニンは、多数派の支持を獲得した。//
 (7)討議が終わりに近づくにつけて、中央委員会は三つの派へと分かれた。
 1. レーニンだけの一人党派で、ソヴェト大会や憲法制定会議に関する考慮することなく、即時の権力掌握に賛成する。
 2. ジノヴィエフとカーメネフで、Nogin、Vladimir Miliutin およびアレクセイ・ルィコフによって支持され、当面はクー・デタに反対する。
 3. その他の数では6名の委員で、クーを支持するが、ソヴェト大会との連携がなされるべき、-この二週間は-ソヴェトの正規の支援のもとにあるべき、とのトロツキーにも賛同しない。
 過半数の10名は、「避けることができず、かつ十分に成熟した」ときに武装蜂起に賛成する票を投じた。(156)
 時機は未決定のままに、残された。
 あとに続いた事態から判断すると、一日または数日だけ第二回ソヴェト大会に先行する、というものだった。
 レーニンは、このような妥協をしなければならなかった。そして、ソヴェト大会はたんにクーを裁可することだけが求められる、という彼の主眼点を獲得した。//
 (8)軍事革命委員会の設立と、そのつぎの第二回ソヴェト大会の元となった北部ソヴェト大会の招集は、以前に記述したことだが、10月10日の中央委員会決定を実施するものだった。
 (9)カーメネフには、この決定は受容することができないものだつた。
 彼は、中央委員会の委員を離任し、その一週間後、<Novaia zhizn'>のインタビューで自分の立場を説明した。
 カーメネフは、こう語った。彼とジノヴィエフは党の諸組織に回覧の手紙を送った。それに二人は、「近い将来に武装蜂起を始めることを党が承認することに断固として反対する」と書いた。
 党がそのような決定をしていなかったとしても、とここで彼は虚偽を語ったのだが、彼とジノヴィエフおよび何人かのその他の者は、ソヴェト大会の前夜での、ソヴェトから独立した「武装の実力による権力掌握」は革命にとって致命的な結果をもたらすだろう、と考えた。そして、蜂起を避けることはできないが、時機がよくない、と。(157)
 (10)中央委員会は、クーの前にさらに三回の会合を開いた。10月の20日、21日、そして24日。(158)
 第一回めの議題は、武装蜂起に反対する見解を公にした点で冒したと主張された、カーメネフとジノヴィエフの党規約違反だった。(*)
 --------
 (*) レーニンは間違って、ジノヴィエフはカーメネフとともに<Novaia zhizn'>のインタビュー>に加わっていたと考えていた。<Protokoly TsK>, p.108.
 --------
 レーニンは中央委員会に対して怒りの手紙を書き送り、「スト破り」の除名を要求した。
 「我々は資本主義者たちに真実を語ることはできない。すなわち、我々はストライキへと進む(蜂起をする、と読むべし)こと、そして<時機の選択>を彼らに<隠す>こと、を<決定した>。(159)
 中央委員会は、この要求に従うことをしなかった。
 (11)これらの会合の議事録は、実質的に無意味なものにするために相当に省略されているように思われる。かりに表面どおりに理解するならば、そのときまでにすでに議論が進行中だったクーは議題ですらなかった、と推察してしまうだろう。
 (12)中央委員会の戦術は、臨時政府を挑発して、革命を防衛することを偽装したクーを開始するのを可能にさせる、報復的な手段をとるよう追い込むことだった。
 この戦術は、秘密ではなかった。
 事件の数週間前のエスエル機関誌<Delo naroda>が簡略化して書いているように、臨時政府はコルニロフと一緒に革命を抑圧し、〔ドイツ〕皇帝と一緒にペトログラードを敵に明け渡す陰謀を企てたとして責任が追及されるだろう。ソヴェト大会と憲法制定会議のいずれも解散させる用意をしていた、という責任追及はもちろん。(160)
 トロツキーとスターリンは、そのようなことが党の計画だったと、事件の後で確認した。
 トロツキーは、こう書いた。
 「本質的なことを言えば、戦略は攻撃的なものだった。
 我々は、政府を攻撃する準備をしていたが、我々の煽動活動は、敵がソヴェト大会を解散させようとしている、敵を容赦なく撃退することが必要だ、と主張することにあった。」(161)
  スターリンによると、こうだ。
 「革命(ボルシェヴィキ党と読むべし)は、不確かで躊躇させる要素を軌道の中に引き込むことを容易にするために、その攻撃行動を防衛という煙幕の背後で偽装することだった。」(162)
 (13)Curzio Malaparte は、たまたまファシストが権力奪取をしていたイタリアを訪れていたイギリスの小説家、Izrael Zangwill の困惑を、こう叙述している。
 「バリケード、路上の戦闘、舗道上の軍団」がないことに驚いて、Zangwill は、自分が革命を目撃していると信じるのを拒んだ。(163)
 しかし、Malaparte によれば、現代の革命の特徴的な性質は、まさに無血(bloodless)であることだ。訓練された突撃兵団の小部隊が、戦略的地点をほとんど静穏に掌握するのだ。
 このような厳密な正確さでもって襲撃は実行されるので、民衆一般は何が起きているかを少しも知ることがない。
 (14)この叙述は、ロシアの十月のクーにふさわしい(これをMalaparte は研究して、彼のモデルの一つとして用いた)。
 十月に、ボルシェヴィキは集団的な武装示威行動や路上での衝突をしなかった。これらは、レーニンの主張に従って4月や7月には行ったことだった。なぜ10月にはしなかったかというと、群衆は統制し難く、また反発を却って生むということが分かったからだった。
 ボルシェヴィキは、今度は、小規模の訓練された兵士と労働者の部隊に頼った。その部隊は、軍事革命委員会を装った軍事組織司令部のもとにあり、ペトログラードの主な通信と交通の中心地、利便施設や印刷工場-現代的大都市の中枢(nerve)箇所-を占拠することを任務としていた。
 政府とその軍事幕僚たちとの間の電話線を切断するだけで、ボルシェヴィキは反攻の組織化を不可能にすることができた。
 作戦行動全体が、順調かつ効果的に履行された。そのために、まさにそれが進行中だったときですら、オペラ劇場のほかにカフェやレストラン、あるいは劇場や映画館、は営業のために開いていて、娯楽を求める群衆で混雑していた。//
 --------
 (152) <Protokoly TsK>, p.83-p.86.
 (153) L・トロツキー,<レーニン>(Moscow, 1924), p.70-p.73.
 (154) 同上, p.70-p.71.
 (155) <Protokoly TsK>, p.87-p.92.
 (156) 同上, p.86.; トロツキー,<レーニン>, p.72.
 (157) Iu・カーメネフ. <NZh>No.156/150(1917年10月18日)所収, p.3.
 (158) <Protokoly TsK>, p.106-p.121.の縮められた議事録。
 (159) 同上, p.113.
 (160) <DN>No.154(1917年9月11日), p.3., 同No.169(1917年10月1日), p.1.
 (161) トロツキー,<レーニン>, p.69.
 (162) Mints, <Dokumentry>I, P.3.
 (163) C・Malaparte, <クー・デタ: 革命の技術>(New York, 1932), p.180.
 ----
 第8節は終わり。つぎの第9節の目次上の見出しは、<軍事革命委員会がクー・デタを開始>。

1946/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.161-p.166.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 ----
 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題②。
 (8-2)異端の考え方のゆえに訴追され投獄されたソヴィエトの歴史研究者のAndrey Amalrik は、<ソヴィエト同盟は1984年まで残存するだろうか?>の中で、ロシアでのマルクス主義の機能をローマ帝国でのキリスト教のそれと比較した。
 キリスト教の受容は帝国のシステムを強化し、その生命を長引かせたが、最終的な破滅から救い出すことはできなかった。これとちょうど同じく、マルクス主義イデオロギーの吸収(assimilation)によってロシア帝国は当分の間は存在し続けているが、それは帝国の不可避の解体を防ぐことはできない。
 帝国の形成は最初からマルクス主義の立脚点だった、またはロシアの革命家たちの意識的な目的だった、ということを意味させていないとすれば、Amalrik の考え方は受容されるかもしれない。
 諸事情が異様な結びつき方をして、ロシアの権力はマルクス主義の教理を信仰表明(profess)する党によって掌握された。
 権力にとどまるために、初期の指導者たちの口から真摯に語られたことが明瞭なそのイデオロギーのうちに含まれる全ての約束を、党は首尾よく取り消さざるをえなかった。
 その結果は、国家権力を独占し、その性質上ロシアの帝国主義の伝統に貢献する、新しい官僚機構階層の形成だった。
 マルクス主義はこの階層の特権となり、帝国主義的政策の継続のための有効な道具となった。//
 (9)これに関係して、多くの著述者たちは、「新しい階級」に関する疑問、つまり「階級」はソヴィエト連邦共和国やその他の社会主義諸国家の統治階層を適切に呼称したものかどうか、を議論してきた。
 要点は、とくにMilovan Djilas の<新しい階級>の1957年での出版以降、適切に叙述されてきた。
 しかし、議論にはより長い歴史があるが、ある程度はこれまでの章で言及してきた。
 例えば、アナキスト、とくにバクーニンのマルクスに対する批判は、その考えを基礎とする社会を組織する試みは必ず新しい特権階級を生む、と主張した。
 現存している支配者に置き換わるべきプロレタリアは自分の階級に対する裏切り者に転化し、彼らの先輩たちがしたように、嫉妬をもって守ろうとする特権のシステムを生み出すだろう。
バクーニンは、マルクス主義は国家の存在が継続することを想定するがゆえに、このことは不可避だ、と主張した。
 主にロシア語で執筆したポーランドのアナキストであるWaclaw Machajski は、この考え方を修正してさらに、はるかに隔たる結論を導き出した。
 彼は、こう主張した。マルクスの社会主義思想は、知識人たちがすでに所有する知識という社会的な相続特権を手段として政治的特権をもつ地位を得ようと望む知識人たちの利益を、とくに表現したものだ。
 知識人界の者たちが彼らの子どもたちに知識を得る有利な機会を与えることができるかぎりで、社会主義の本質である平等に関する問題は存在し得ないだろう。
 知識人たちに頼っている現在の労働者階級は、知識人たちの主要な資産、すなわち教育を剥奪することでのみ目的を達成することができる。
 いくぶんはSorel のサンディカリズムを想起させるこうした主張は、つぎのような相当に明確な事実にもとづいていた。すなわち、所得の不平等と、教育・社会的地位の間の強い連関関係のいずれもがある社会ではどこでも、教育を受けた階級の子どもたちは他の者たちよりも、社会階層を上昇する多くの機会をもつ。
 相続の形態が不平等であることは、文化の継続を破壊し、完全に均一の教育を行うべく子どもたちを両親から切り離してのみ、除去することができる。その結果として、Machajski のユートピアは、平等という聖壇に捧げるために文化と家族の両方を犠牲にすることになるだろう。
 教育は特権の根源だとしてやはり嫌悪するアナキストたちは、ロシアにもいた。
 Machajski はロシアに支持者をもったので、十月革命後の数年間は、彼の考え方に反対することは、党のプロパガンダの周期的な主題だった。彼らは、全く理由がないわけではなく、サンディカリズム的逸脱や「労働者反対派」の活動家たちと関連性(link)があった。//
 (10)しかしながら、社会主義のもとでの新しい階級の発展という問題は、別の観点からも提示された。
 プレハノフのようなある範囲の者たちは、経済的条件が成熟する前に社会主義を建設しようとする試みは新しい形態の僭政(despotism)を生むに違いない、と主張した。
 Edward Abramowski のような別の者たちは、社会の道徳的な変化が先行する必要性を語った。
 この者たちは、かりに共産主義が道徳的に改良されず、古い秩序が植え付けてきた要求と野心とまだ染みこんだままの社会を継承するならば、国有財産制のシステムのもとでは、多様な性質の特権を目指す闘いが繰り返されざるを得ないと、主張した。
 Abramowski が1897年に書いたように、共産主義は、このような条件下では、つぎのような新しい階級構造の社会のみを生み出すことができるだろう。すなわち、古い分立が社会と特権的官僚機構の間の対立に置き換えられ、僭政と警察による支配という極端な形態によってのみ維持される社会。//
 (11)十月革命の危機は、最初から、特権、不平等、僭政の新しいシステムがロシアで芽生えていることを明瞭に指摘していた。「新しい階級」とは、カウツキーが1919年にすでに用いた概念だった。
 トロツキーが国外追放中にスターリニスト体制批判を展開していたとき、彼は、彼に倣った正統派トロツキストたちの全てがしたのと同様に、「新しい」階級に関する問題ではなく、寄生的官僚制度の問題だと強く主張した。
 トロツキーは、革命なくしては体制は打倒できないという結論に到達したあとでも、この区別をきわめて重要視した。
 彼は、社会主義の経済的基盤、つまり生産手段の公的所有は、官僚機構の退廃には影響を受けない、従って、すでに起こった社会主義革命を行う余地はない、そうではなく、現存する政府機構を排除する政治装置こそが必要なのだ、と論じた。//
 (12)トロツキー、その正統派支持者およびスターリニズムに対する批判的共産主義者は、ソヴィエト官僚制の特権は自動的に別の世代へと継承されるものではない、官僚機構は生産手段を自分たち自身では持たが生産手段に対して集団的な統制を及ぼすにすぎない、という理由で、「新しい階級」の存在を否定した。
 しかしながら、このことは、議論を言葉の問題に変えた。
 その各員が、相続によって継承できる、一定の生産的な社会的資源に対する法的権能を有しているときにのみ、支配し、搾取する階級の存在を語ることができる、というようにかりに「階級」を定義するとすれば、ソヴィエト官僚機構はもちろん、階級ではない。
 しかし、なぜこの用語がこのような制限的な意味で用いられなければならないのか、は明瞭でない。
 階級は、マルクスによってそのようには限定されていない。
 ソヴィエト官僚制は、国家の全ての生産的資源を集団的に自由に処理する権能をもった。このことはいかなる法的文書にも明確には書かれていないが、単直に、システムの基本的な帰結だった。
 生産手段の支配は、かりに集団的所有者たちを現存システムのもとでは排除することができず、いかなる対抗者たちもそれに挑戦することが法的に不可能であれば、本質的には所有制と異なるものではない。
 所有者は集団的であるために個人的な相続はなく、政治的な階層内での個々の地位を子どもたちに遺すことは誰もできない。
 実際には、しかし、しばしば叙述されてきたように、特権はソヴィエト国家では、系統的に継承されてきた。
 支配層の者たちの子どもたちは明らかに、人生での、また限定された物品や多様な利益への近さでの有利な機会の多さという観点からすると、特権をもっていた。そして、支配層の者たち自身が、このような優越的地位にあることを知っていた。
 政治的な独占的地位と生産手段の排他的な統制力はお互いに支え合い、分離しては存在することができかった。 
支配階層者の高い収入は搾取的な役割の当然の結果だったが、搾取それ自体と同一のものではなかった。搾取(exploitation)は、民衆によって何ら制御されることなく、民衆が生み出す余剰価値の全量を自由に処分することのできる権能で成り立つ。
 民衆は、いかにして又はいかなる割合で投資と消費が分割されるべきかに関して、または生産された物品がいかに処理されるのかに関して、何も言う権利がない。
 こうした観点からすると、ソヴィエトの階級分化は、所有にかかる資本主義システムにおけるよりもはるかに厳格なもので、かつ社会的圧力に対して敏感ではないものだ。なぜなら、ロシアには、社会の異なる部門が行政組織や立法機構を通じて自分たちの利益に関して意見を表明したり圧力を加える、そういう方法は何もないからだ。
 確かに、階層内での個人の地位は、上位者の意思あるいは気まぐれに、あるいは、スターリニズムが意気盛んな時代には単一の僭政者の愉楽に、依存している。
 この点を考えると、彼らの地位は完全に安全なものではない。その状態は、高位にいる者たちはみな僭政主の情けにすがり、ある日または翌日に解任されたり処刑されたりした、東洋の僭政体制にもっと似ている。
 しかし、このような事情のある国家について観察者が何ゆえに「階級」という語を使ってはならないのかどうかは明瞭でない。トロツキーの支持者が主張するように、それを「社会主義」と「ブルジョア民主主義」に対する社会主義のはるかな優越性を典型的に証明するものだと何故考えてはならないのかどうか、については一層そうだ。
 Djilas はその著書で、社会主義国家の支配階級が享有する、権力の独占を基礎にしていてその結果ではない、特権の多様性に注目した。//
 (13)上に詳しく述べたように、社会主義官僚機構を何故「搾取階級」という用語で表現してはならないのかの理由は存在しない。
 実際に、この表現は次第に多く使われていたように見える。そして、トロツキーによる〔試訳者-「新しい」階級と寄生的官僚機構の間の〕区別は、ますます不自然なものになっていた、と理解することができる。//
 (14)James Burnham はトロツキーと決裂したあと、1940年に<管理(managerial)社会主義>という有名な著書を刊行した。そこで彼は、ロシアでの新しい階級の成立は、全ての産業社会で発生しかつ発展し続ける普遍的な過程の特有の一例だ、と論じた。
 彼は、こう考えた。資本主義も、同じ過程を進んでいる。正式の所有権はますます小さくなり、権力は生産を現実に統制している者たち、すなわち「管理する階級」の手へと徐々に移っている。
 このことは、現代社会の性格による不可避の結果だ。新しいエリートたち(élite)は、社会の諸階級への分化の今日的な形態に他ならない。階級分化、特権および不平等は、社会生活の自然な現象だ。
 過去の歴史を通じてずっと、大衆は異なる多様なイデオロギーの旗の下で、その時代の特権階級を打倒するために使われてきた。しかし、その結果は、ただちに社会の残余者を、先行者たちが行ったのと同様に効率的に、抑圧し始める新しい主人たちと置き代えるだけのことだった。
 ロシアでの新しい階級による僭政は、例外ではなく、こうした普遍的な法則を例証する一つだ。//
 (15)社会生活は何がしかの形態での僭政を含むというBurnham の言い分が正しいか否かは別として、彼の論述は、ソヴィエトの現実に関する適切な叙述だとはとうてい言えなかった。
 革命後のロシアの支配者たちは産業管理者ではなかったし、政治的な官僚機構だった。かつ現に、産業管理者ではなく政治的官僚機構だ。
 もちろん前者の産業管理者は社会の重要な部門ではある。そして、それに帰属する者たちは、とくにそれぞれの分野に関する上層の権威者による決定に、十分に影響を与えるほどに強いかもしれない。
 しかし、産業上の投資、輸入そして輸出に関するものも含めて、重要な決定は政治的なものであり、政治的寡頭制がそれを行っている。
 十月革命は技術と労働の組織化の過程の結果としての、管理者への権力の移行の特有な事例だ、というのはきわめて信じ難い。//
 (16)ソヴィエトの搾取階級は、何らかの形態で東方の僭政制度に似ている新しい社会的形成物だ。別の形態としては封建的な豪族階級、あるいはさらに別の形態としては後進諸国の資本主義植民者に似ているかもしれない。
 搾取階級の地位は、政治的、経済的かつ軍事的な権力が、ヨーロッパでは以前に決して見られなかったほどの程度にまで絶対的に集中したものによって、そしてその権力を正統化するイデオロギーのへの需要によって、決定される。
 構成員たちが消費の分野で享受する特権は、社会生活で彼らが果たす役割の当然の結果だった。
 マルクス主義は、彼らの支配を正当化するために授けられる、カリスマ的な霊気(オーラ)だった。//
 ----
 第12節終わり。次節の表題は、<スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義>。

1944/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節①。

 なかなかに興味深く、従って試訳者には「愉快」だ。スターリンなら日本共産党も批判しているという理由で、スターリン時代に関するL・コワコフスキの叙述を省略する、ということをしないでよかった。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.157-.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 ----
 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題①。
 (1)共産主義者および共産主義に反対の者のいすれもが、スターリニズムの社会的根源と歴史的必然性に関して参加している論議は、スターリンの死後にすぐに始まり、今もなお続いている。
 我々はここで全てのその詳細に立ち入ることなく、主要な点のみを指摘しておこう。
 (2)スターリニズムという基本教条の問題は、その不可避性の問題と同一ではない。ともかくもその意味するところを解明するのが必要な問題だ。
 歴史の全ての詳細は先行する事象によって決定されると考える人々には、スターリニズムの特有な背景を分析するという面倒なとことをする必要がない。しかし、そういう人々は、その「不可避性」をあの一般的な原理の一例だと見なさなければならない。
 その「不可避性」原理は、しかしながら、受容すべき十分な根拠のない形而上学的前提命題だ。
 ロシア革命の行路のいかなる分析からしても、結果に関する宿命的必然性はなかった、と理解することができる。
 内戦の間には、レーニンが自身が証人であるように、ボルシェヴィキ権力の運命が風前の灯火だった、そして「歴史の法則」なるものはどういう結果となるかを決定しない、多数の場合があった。
 レーニンを1918年に狙った銃弾が一または二インチずれていてレーニンを殺害していれば、ボルシェヴィキ体制は崩壊していただろう、と言えるかもしれない。
 レーニンが党指導者たちをブレスト=リトフスク条約に同意するよう説得するのに失敗していたならば、やはりそうだっただろう。
 このような例は他にも、容易に列挙することができる。
 こうした仮定によって生起しただろうことに関してあれこれと思考することは、今日では重要ではなく、結論は出ないはずだ。
 ソヴェト・ロシアの進展の転換点-戦時共産主義、ネップ(N.E.P, 新経済政策)、集団化、粛清-は、「歴史的法則」によるのではなく、全てが支配者によって意識的に意図された。そして、それらは発生し「なければならなかった」、あるいは支配者はそれら以外のことを決定できなかった、と考えるべき理由はない。//
 (3)歴史的必然性の問題がこうした場合に提起され得る唯一の有意味な形態は、つぎのようなものだ。すなわち、その際立つ特質は生産手段の国有化とボルシェヴィキ党による権力の独占であるソヴェト・システムは、統治のスターリニスト体制により用いられて確立されたのとは本質的に異なる何らかの手段によって、維持することができていなかったのか?
 この疑問に対する回答は肯定的だ、ということを理性的に論じることができる。//
 (4)ボルシェヴィキは、講和と農民のための土地という政綱にもとづいてロシアで権力を獲得した。
 これら二つのスローガンは、決して社会主義に特有ではなく、ましてマルクス主義に特有なものでもない。
 ボルシェヴィキが受けた支持は、主としてはこの政綱のゆえだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの目標は世界革命だった。そして、これが達成不可能だと分かったときは、単一政党の権威を基礎とするロシアでの社会主義の建設。
 内戦の惨状のあとでは、何らかの主導的行為をする能力のある党以外には、活動力のある社会勢力は存在しなかった。このときまでに存在したのは、社会の全生活やとくに生産と配分に責任をもち得る、政治的、軍事的かつ警察的装置という確立していた伝統だつた。
 ネップは、イデオロギーと現実の妥協だった。第一に、国家はロシアでの経済的な再生に取り組むことができなかった、第二に、実力行使によって経済全体を規整する試みは厄災的な大失敗だった、第三に、市場の「自然発生的な」働きからのみ助けが得られることができた、ということを認識したことから生じたものだった。
 経済的妥協は、いかなる政治的譲歩も含むものとは意図されておらず、国家権力を無傷なままで維持させた。
 農民はまだ社会化されておらず、唯一つ主導的行為をする能力をもつのは、国家官僚機構だった。
 この階級は、「社会主義」を防護する堡塁だった。そして、そのシステムのさらなる発展は、膨張への利益と衝動を反映していた。
 ネップの結末と集団化の実施は、たしかに歴史の意図の一部ではない。そうではなく、システムとその唯一の活動的要素の利益によって必要とされた。
 すなわち、ネップの継続は、つぎのことを意味しただろう。第一に、国家と官僚機構が農民層の情けにすがっていること、第二に、輸出入を含む経済政策の大部分が、彼ら農民層の要求に従属しなければならないこと。
 もちろん我々は、かりに国家が集団化ではなく取引の完全な自由と市場経済へ元戻りするという選択をしていればどうなったか、を知らない。
 トロツキーと「左翼」が抱いた、ボルシェヴィキ権力を打倒しようとの意図をもつ政治勢力を発生させるだろう、との恐怖は、決して根拠がなかったわけではなかった。
 少なくとも、官僚機構の地位は強くなるどころか弱くなっていただろう。そして、強い軍事と工業の国家を建設するのは無期限に先延ばしされただろう。
 経済の社会化は、民衆の莫大な犠牲を強いてすら、官僚機構の利益であり、システムの「論理」のうちにあった。
 事実上は社会から自立していた支配階級と国家の具現者であるスターリンは、ロシアの歴史上は以前に二度起こっていたことを行った。
 彼は、社会の有機的な分節から自立した新しい官僚制階層が生じるように呼び寄せ、それを全体としての民衆、労働者階級、に奉仕することから、あるいは党が相続したイデオロギーから、最終的には全て解放した。
 この階層はすぐにボルシェヴィキ運動内の「西欧化」要素を破壊し、マルクス主義の用語法をロシア帝国の強化と拡張のための手段として利用した。
 ソヴィエト・システムは、それ自身の民衆たちに対する戦争を絶えず行った。それは民衆が多くの抵抗を示したからではなく、主としては支配階級が戦争状態とその地位を維持するための攻撃とを必要としたからだ。
 微小な弱さであっても探ろうとしている外国の工作員、陰謀者、罷業者その他の者にもとづく敵からの国家に対する永続的な脅威は、権力を官僚機構が独占していることを正当化するためのイデオロギー的手段だ。
 戦争状態は、支配集団自体に損傷を与える。しかし、これは統治することの必要な対価の一部だ。//
 (5)マルクス主義がこのシステムに適合したイデオロギーだった理由に関してはすでに論述した。
 それは疑いなく、歴史上の新しい現象だった。しばしば歴史研究者や共産主義批判者が論及するロシアとビザンティンの全ての伝統-市民的民衆に<向かい合う>国家がもつ高い程度の自律性や<chinovnik>の道徳的かつ精神的な特質等-があったにもかかわらず。
 スターリニズムは、ロシア的伝統とマルクス主義の適合した形態にもとづいて、レーニズムを継承するものとして発現した。
 ロシアとビザンティンの遺産の重要性については、Berdyayev、Kucharzewski、Aronld Toynbee、Richard Pipes(リチャード・パイプス)、Tibor Szamuely やGustav Wetter のような著述者たちが議論している。//
 (6)このことから、生産手段を社会化する全ての試みは結果として必ず全体主義的社会をもたらす、ということが導かれるわけではない。全体主義的社会とは、全ての組織形態が国家によって押しつけられ、個人は国家の所有物のごとく扱われる、そういう社会だ。
 しかしながら、全ての生産手段の国有化と経済生活の国家計画(その計画が有効か否かを問わず)への完全な従属は、実際には全体主義的社会へと至ってしまう、というのは正しい。
 システムの基礎が、中央の権威が経済の全ての目標と形態を決定する、そして労働分野を含む経済はその権威による全ての分野での計画に従属する、ということにあるのだとすれば、官僚機構は、活動する唯一の社会勢力になり、生活のその他の分野をも不可分に支配する力を獲得するに違いない。
 多数の試みが、国有化することなく、経済的主導性を生産者の手に委ねつつ財産を社会化する手段を考案するために、なされてきた。
 このような考え方は、部分的にはユーゴスラヴィアに当てはまる。しかし、その結果は微小で曖昧すぎるものであるため、成功する明確な像を描くことができていない。
 しかしながら、根本的なのは、相互に制限し合う二つの原理がつねに作動している、ということだ。
 経済的主導性が生産のための個々の社会化された単位の手に委ねられる範囲が大きければそれだけ、またこの単位がもつ自立性の程度が大きければそれだけ、「自然発生的」な市場の法則、競争および利潤という動機、これらがもつ役割は大きくなるだろう。
 生産単位に完全な自律性を認める社会的な所有制という形態は、全員に開かれた、完全に自由な資本主義に元戻りすることになるだろう。唯一の違いは、個人的な工場所有者が集団的なそれに、すなわち生産者協同組合に、置き換えられることだけだ。
 計画の要素が大きくなればそれだけ、生産者協同組合の機能と権能は大きく制限される。
 しかしながら、程度の違いはあるけれども、経済計画という考え方は、発展した産業社会で受け入れられてきた。そして、計画と国家介入の増大は、官僚機構の肥大化を意味している。
 問題は、現代の産業文明の破壊を意味するだろう官僚機構をどのようにして除去するかではなく、代表制的な機関という手段によってその活動をどのようにして制御するかにある。//
 (7)マルクスの意図に関して言うと、彼の諸著作から抽出することのできる全ての留保にかかわらず、マルクスは疑いなく、社会主義社会は完全な統合体(unity)、私的所有制という経済的基盤が排除されるにともなって利益の衝突が消失する社会、の一つだろうと考えていた。
 マルクスは、この社会は議会制的政治機構(これは不可避的に民衆から疎外した官僚制を生じさせる)や市民の自由を防護する法の支配(rule of law)のようなブルジョア的諸装置を必要としないだろう、と考えた。
 ソヴィエト専制体制は、制度的な方法によって社会的統合体を生み出すことができるという考えと連結して、この教理を適用する試みだった。//
 (8-1)マルクス主義は自己賛美的ロシア官僚制のイデオロギーとなるべく運命づけられていた、と語るのは、馬鹿げているだろう。
 にもかかわらず、偶然にとか副次的にとかいうのではなく、マルクス主義は、この目的のために適応させることのできる、本質的な特質をもっていた。
 ----
 段落の途中だがここで区切る。②につづく。

1943/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.470-p.473.
 ----   
 第5節・隠亡中のレーニン②(Lenin in hiding)。
 (13)多くのボルシェヴィキ党員には、新しい戦術と親ソヴェト・スローガンの放棄は幸せなことでなかった。
 その月の別の機会にスターリンは、党は疑いなく我々が多数派を占めるソヴェトを支持していると保障して、彼らを安心させようと努めた。
 しかし、ソヴェトへの関心の一般的な冷却に気づいて、ボルシェヴィキたちがもう一度気持ちを切り替えるのに、たいした時間はかからなかった。というのは、無関心が増大したために、ソヴェトを自分たちの目的でもって貫いて操作する機会ができた、と考えたからだ。
 党の公式誌<イズヴェスチア>は、9月の最初に、つぎのように書いた。
 「最近はソヴェトで仕事することへの無関心が見られる。<中略>
 実際に、(ペトログラード・ソヴェトの)1000人以上の代議員のうち、400から500人程度しか会議に出席していない。そして、出てくることをしない者たちは正確には、今まではソヴェトの多数派を形成していた諸党の代議員たちだ。」(106)-すなわち、メンシェヴィキとエスエル。
 <イズヴェスチア>の「ソヴェト組織の危機」と題された一ヶ月後の論説でも、同じような不満を読むことができた。
 「ソヴェトの人気が最高だったとき、イスパルコムの都市間協議(interurban, inogorodnyi)の部署は、国じゅうに800のソヴェトを表にして列挙していた、と執筆者は思い出す。」
 10月までに、これらのソヴェトの多くはもはや存在しないか、紙の上だけの存在になった。
 地方からの報告書は、ソヴェトはその威厳と影響力を失いつつある、というものだった。
 編集部はまた、労働者・兵士代表者ソヴェトが農民組織とともに進むことのできないことに不服を告げた。そのことは、農民層がソヴェト構造の「全く外側」にとどまることに帰結するからだ。
 しかし、ペトログラードやモスクワのようにソヴェトが機能している区域ですら、ソヴェトは、多数の知識人や労働者が離反したために、もはや全ての「民主主義派」を代表していなかった。
 「ソヴェトは、旧体制と闘う素晴らしい組織だった。しかし、それは新しい体制の形成を引き受ける能力が全くなかった。<中略>
 専制体制が官僚制秩序と一緒に崩壊したとき、我々は全ての民主主義派を守るための一時的な兵営として代表者ソヴェトを設立したのだった。」
 <イズヴェスツィア>は今はこう結論づけた。ソヴェトは、より代表制的な選挙制度で選ばれた市会(Municipal Councils)のような永続的な「石の構造」のために放棄されてきている。(107)
 ソヴェトへの幻想からの覚醒が拡大し、社会主義派の対抗者が長く不在であることによって、ボルシェヴィキは、国民的支持からは全く不釣り合いの影響力を獲得することができた。 
 ボルシェヴィキのソヴェト内での役割が大きくなるにつれて、ボルシェヴィキは古いスローガンに戻った。-「全ての権力をソヴェトへ」。
 (14)ボルシェヴィキは、ペトログラード・ソヴェトの多数派となった9月25日に、権力に向かって進む重要な一歩を通過した。
 (9月19日に、モスクワで同様に多数派になっていた。)
 ペトログラード・ソヴェトの議長たる地位に就いたトロツキーはただちに、そのソヴェトを国のその他の都市ソヴェトを制御するための組織へと変え始めた。
 <イズヴェスツィア>の言葉によれば、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門でボルシェヴィキが多数を獲得するやいなや、ボルシェヴィキは「それを彼らの党組織へと変えた。そして、それに依拠して、国全体の全てのソヴェトを把握するパルチザン的闘いを行うようになった。(108)
 ボルシェヴィキは、全ロシア大会で選出された、エスエルとメンシェヴィキが支配するままのイスパルコムを大幅に無視し、自分たちが多数を握るソヴェトのみを代表する、彼ら自身の全国的似而非ソヴェト組織を生み出そうと取りかかった。
 (15)コルニロフによって生じた有利な政治環境とソヴェトでの勝利によって、ボルシェヴィキは、クー・デタの問題を生き返らせた。
 意見は、分かれた。
 七月の大失敗はまだ記憶に鮮明で、カーメネフとジノヴィエフは、さらなる「冒険主義」に反対した。
 二人は論じた。ソヴェト内での力が増加したにもかかわらず、ボルシェヴィキは少数派政党のままであり、かりに何とかして権力を奪取しても、「ブルジョア反革命」と農民層の結合した勢力に面してすぐにそれを失うだろう。
 もう片方の極端な立場のレーニンは、即時のかつ断固たる行動を求める主要な発議者だった。
 彼はコルニロフ事件によって、クーの成功の可能性がかつてよりも大きく、かつ二度とやって来ない、と確信していた。
9月12日と14日、レーニンは、フィンランドから二通の手紙を、中央委員会に書き送った。それぞれ、「ボルシェヴィキは権力を奪取しなければならない」、「マルクス主義と反乱」と呼ばれる。(109)
 彼は前者で書いた。「二つの重要な都市で労働者・兵士代表者ソヴェトでの多数派となり、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるし、そう<しなければならない>。」
 カーメネフやジノヴィエフの主張とは反対に、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるのみならず、保持し続けることもできる。すなわち、即時の講和を提案し、農民に土地を与えることによって、「ボルシェヴィキは、<誰も>打倒しようと<しない>政府を設立することができる。
 しかし、臨時政府がペトログラードをドイツ軍に明け渡すか戦争を終わらせる何か別のことをするかもしれないので、迅速に行動することこそがきわめて重要だ。
 その日の命令は、「ペトログラードとモスクワ(プラスここれら地域)での武装暴動、権力の制圧、政府の打倒だ。
 我々は、活字にして明確に表明することなく、<いかにして>このために煽動すべきかを考えなければならない。」
 ペトログラードとモスクワではすでに権力を奪取しているので、問題は解決されているだろう。
 レーニンは、多数派を獲得するを望んで第二回ソヴェト大会の招集を待つべきだとのカーメネフとジノヴィエフの見解を「ナイーヴな」ものとして却下した。「革命は<それ>を待っていない。」
 (16)第二の手紙でレーニンは、武力による権力奪取は「マルクス主義」ではなくて「ブランキ主義」だという非難について議論し、また、七月との類似性の問題に片をつけた。すなわち、「9月の『客観的』情勢は、全く異なっている。」
 彼は(考えられるのはドイツとの接触で得られた情報から)、ベルリンがボルシェヴィキ政府に休戦を提案するだろうことは確実だと思っていた。
 「そして、休戦を確保することは、世界<全体>を制圧することを意味する。」(110)
 (17)中央委員会は9月15日に、レーニンの手紙を議題として取り上げた。
 短い、ほとんど確実に厳密に検閲されたこの会議の議事要領書(*) が示しているのは、レーニンの同僚たちは(カーメネフが迫ったように)公式に彼の助言を拒否するのを躊躇しているが、従う心づもりもない、ということだ。
 --------
 (*) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.55-62.
 これは、現在で唯一利用可能な、1917年8月4日から1918年2月24日までのボルシェヴィキ中央委員会の会議の記録書で、1929年に最初に出た。
 この記録書は、トロツキー、カーメネフおよびジノヴィエフという、スターリンが党の支配のために打倒した者たちの評価を落とすことが意図されていた。そして、この理由のゆえに、きわめて慎重に用いられなければならなかった。
 第二版の編集者によれば、こうだ。「議事録の文章は、省略なくして完全に公刊される。但し」、何を意味するものであれ、「第一版では議事録の文章上のこれらの疑問に関する適切ではない説明を理由としてそうなされたように、対立する事項(konfliktnye dela)を除く」(p. vii)。
 --------
 トロツキーによれば、 即時の暴乱は望ましくないとして、9月には誰もレーニンに同意しなかった。(111)
 スターリンの動議により、レーニンの手紙は党の主要な地方組織に回覧されることになった。これは、即時の行動を回避する方法でもあった。
 ここで、問題が残っている。その後の6回の会議については何も、レーニンの提案が言及されていないのだ。(+)
 --------
 (+) もちろん、レーニンの考えは却下され、その事実は議事録が出版されるときの版では削除された、ということは排除され得ない。
 --------
  (18)レーニンはこのような消極性に烈しく怒った。暴乱を起こすのに都合のよいときが過ぎ去ってしまうのを、彼は懼れていた。
 9月24日か25日、彼はヘルシンキから、行動舞台により近いヴィボルク(Vyborg)(まだフィンランドの領土)へと移動した。
 彼はそこから、9月29日、第三の手紙を中央委員会に発送した。その表題は「危機は成熟した」。
 レーニンの主要な活動方針は、この手紙の第六部に含まれていた。1925年に最初に公にされた。
 レーニンはこう書いた。ある範囲の党員たちが次のソヴェト大会まで権力掌握を延期したいと考えていることは率直に認めなければならない。
 彼は全体として、このような考え方を拒否した。
 「この瞬間を逃してソヴェト大会を『待つ』のは、完璧に愚かで、完璧な裏切り行為だ」。
 「ボルシェヴィキは今や、蜂起の成功を保障されている。
 1.我々は(ソヴェト大会を『待つ』ことをしなくても)突然に三箇所から急襲することができる。すなわち、ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊。 <中略>。
 5.我々はモスクワで権力を奪取する技術的能力を持っている(これは、突然さによって敵を弱体化させるために始めることすらできる)。
 6.我々は<数千人>の武装した労働者と兵士を持っており、彼らは<ただちに>冬宮、将軍幕僚、電話局、および全ての大きな印刷工場を掌握することができる。<中略>
 我々がただちに、かつ突然に三箇所から-ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊から-急襲するならば、成功の見込みは99パーセントであり、七月の3-5日に被ったよりも少ない損失で勝利するだろう。<兵団は、講和する政府に反対して動くことはしないだろう。>(**)
 --------
 (**) レーニン,<PSS>XXXIV, p.281-2. レーニンはここで不用意に、七月3-5日にボルシェヴィキは実際に権力掌握を試みたことを認めている。
 --------
 中央委員会が要請に回答せず、自分の論文を削除すらしたことを見て、レーニンは、辞職願いを提出した。
 もちろんこれは、はったり(ブラフ)だった。
 中央委員会は、意見の違いに関して議論するため、レーニンにペトログラードに戻るよう要請した。(112)
  (19)レーニンの同僚たちは一致して、よりゆるやかで安全な方針を好んで、即時の武装蜂起への彼の要求を拒絶した。
 彼らの戦術は、レーニンの提案は「性急だ」と考えたトロツキーによって、定式化された。
 トロツキーは、全ロシア・ソヴェト大会による権力の掌握を装った、武装蜂起をしたかった。-しかし、確実に拒否するだろう、適式に開催された大会による権力掌握をではない。そうではなく、ボルシェヴィキが定められた手続に従わないで自分たちが主導して開催し、支持者たちを詰め込める会議による権力掌握を装ってだ。つまりは、全国的大会だと偽装(カモフラージュ)しての、親ボルシェヴィキのソヴェト大会。
 振り返って見ると、これが進むべき疑いなく適切な行路だった。なぜなら、レーニンが主張したような単一の政党による権力の公然たる掌握には、国は寛容であることができなかっただろうから。
 最初の日々を越えて成功していくためには、クーには、かりに表面的なものだったとしても、何らかの性質の「ソヴェト」の正統性が与えられなければならなかった。//
 --------
 (105) Leningradskii Istpart, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1927), p.77.
 (106) <イズヴェスツィア>No.164(1917年9 月5日).
 (107) <イズヴェスツィア>No.195(1917年10月12日), p.1.
 (108) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (109) レーニン,<PSS>XXXIV, p.239-p.241.
 (110) 同上, p.245.
 (111) L・トロツキー,<ロシア革命史>III(New York, 1937), p.355.
 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.74.
 ----
 第5節は終わり。第6節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキ自身のソヴェト大会の計画>。

1931/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
 ----
 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質②。
 (7)イデオロギー全体の礎石は、指導者に対する個人崇拝(cult)だった。これは、この時代にグロテスクで悪魔的な様相を見出したもので、のちの毛沢東に対する個人崇拝を例外として、おそらくは歴史上にこれを上回るものはない。
 スターリンを賛美する詩歌、小説および映画が、途切れない潮流の中に溢れ出た。彼の写真や肖像が全ての公共広場を飾った。
 作家、詩人、および哲学者はお互いに競って、新しい酒神礼賛的(dithyrambic)崇拝の形態を考案した。
託児所や幼稚園の子どもたちは、彼らの幸福な幼年生活について、スターリンに心溢れる感謝を捧げた。
 民衆の宗教心の形態は全て、歪められた形で復活した。すなわち、聖像(icon)、行列、声を揃えて朗読される祈り、(自己批判という名のもとでの)罪の告白、遺物崇拝。
 このようにしてマルクス主義は、宗教のパロディー(parody)となった。 但し、内容を欠いたパロディーだ。
 適当に選んで、以下は、この当時のある哲学上の著作にある、典型的な導入部だ。
 「同志スターリン、諸科学に関する偉大な指導者は、深さ、明瞭さ、および活力について無比の研究をして、弁証法的かつ歴史的唯物論の基礎の体系的論述を、共産主義の理論上の土台として、与えた。
同志スターリンの理論的諸著作は、全同盟共産党(ボルシェヴィキ)中央委員会およびソ連邦閣僚会議により、彼の70歳の誕生日での同志スターリンへの挨拶で、尊敬の念をもって語られた。
 『科学の偉大な指導者!。帝国主義、わが国におけるプロレタリア革命と社会主義の勝利という新しい時代に関連させてマルクス=レーニン主義を発展させた貴方の古典的な諸著作は、人類の巨大な達成物であり、革命的マルクス主義の百科辞典である。
 ソヴィエトの男女および全国の労働人民の指導的代表者たちは、労働者階級の運動の勝利へと向かう闘いにおいて、知識、確信および新たな強さを、共産主義への今日の闘争に関する最も焦眉の諸問題についての解答を見出しつつ、これら諸著作から獲得している。』
 <弁証法的および歴史的唯物論>に関する同志スターリンの輝かしい哲学的全集は、知識と世界の革命的変革の力強い手段であり、不可避的に打倒される宿命にある、唯物論の敵および資本主義社会の衰亡していくイデオロギーと文化、に対抗する圧倒的な武器である。
 それは、マルクス=レーニン主義世界観の発展…<中略>における新しい、至高の段階である。
 同志スターリンはその全集において、無比の明瞭さと簡潔さをもって、マルクス主義の弁証法的方法の基本的特質を解説し、自然と社会の法則的な発展に関する理解の重要性を指摘した。
 同じ深さ、力強さ、簡潔さおよび党政治上の決意をもって、同志スターリンは、その諸著作で、マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質…<以下略>を定式化した。」
 (V. M. Pozner, <マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質に関するJ. V. スターリン>、1950年)
 (8)スターリンは、ロシア史上の偉大な英雄たちを通じて、間接的にも称賛された。
 ピョートル大帝、イワン雷帝およびアレクサンダー・ネフスキーに関する映画や小説が、スターリンの栄誉のために捧げられた。
 (しかしながら、イワン雷帝のほかにスターリンの明確な命令にもとづきその<oprichnina〔親衛隊〕>または秘密警察を賛美するアイゼンシュタイン(Eisenstein)の映画は、スターリンが生きている間は上映されなかった。そうした映画は、いかに雷帝が、たとえ気が重くても、最も執念深い陰謀家たちの手を切り落とさざるをえなかったかを描写していたからだ。-なるほど、観客たちには疑いなく、まさしく札付きの悪漢だが、イワンは思慮深い政治家には期待され得たことを何もしなかった、という気分が残っただろうけれども。
 身長の低いスターリンは、映画や劇では、レーニンよりもかなり身長のある、背の高い男前の人間のように描かれた。//
 (9)ソヴィエト官僚機構の階層的構造は、スターリン崇拝が下位の者たちにまで影を落としていたということに見られた。
 全てではないにせよ多数の分野で、スターリンの線上で公式に「最も偉大な者」として知られる者たちがいた。
 スターリン自身が最高位を占める多数の場合-哲学者、理論家、政治家、戦略家、経済学者-は別として、例えば、誰が最も偉大な画家、生物学者、あるいはサーカスの道化師なのか、が知られていた。
(ちなみに、サーカスは1949年に、この分野でのブルジョア形式主義を非難した<プラウダ>上の論文でイデオロギー的に改革された。
 ユーモアの世界主義的形態へと堕落して、イデオロギー的内容がなく、階級敵に対処するために教育するのではなく、たんに人々を笑わせようとしていた上演者が、どうやらいたようだ。)//
 (10)この時代に、歴史の偽造と歴史研究者に対する圧力が、クライマクスに達した。
 帝制ロシアの外交政策は基本的に進歩的だった、とくにロシアによる征服は他民族にロシア文明の恵みをもたらした、ということを示すのは、歴史家の任務になった。
 レーニン全集の第四版は新しい文書をいくつか含んでいたが、別のいくつかは削除されていた。その中には、一国での社会主義の建設の不可能性に関する、きわめて断定的(categorical)な論述があった。また、ジョン・リード(John Reed)の<世界を震撼させた十日間>への熱心な序言も、そうだった。
 十月革命の間はペトログラードにいたリードは、レーニンとトロツキーについては多くのことを語っていたが、スターリンには全く言及していなかった。したがって、レーニンが彼の書物を世界に推奨するのは、〔スターリンには〕許しがたい<失態(gaffe)>だった。
 新しい版はまた、ほとんど完全に、執筆者が粛清によって殺戮された者たちである、いくつかのきわめて貴重な歴史的な論評や記述を、削除した。
 (こうした過去の再編集の方法は、スターリンの死でもって終わった。
 ベリヤ(Beriya)が新指導者によって死刑に処せられたその数カ月のち、<大ソヴィエト百科辞典>の申込み者たちはその次の巻の注意書きが、こう求めていることに気づいた。以前の一定の頁分をカミソリ刃を使って切除し、注意書きに添えられた新しい頁の用紙をそこに挿入するよう求めていることに。
 読者たちは、指示された場所を開いてみて、ベリヤに関する記載部分だと分かった。
 しかしながら、補充する新しい頁の用紙は、ベリヤに関するものでは全くなく、ベーリング海(Bering -)の追加の写真が掲載されたものだった。)
 歴史的な資料は、警察が例外なく握っており、それらを利用するのは、今日でもそうであるように、厳格に制限されていた。
 これはしばしば、賢い手段で判明することだった。すなわち、例えば、女性ジャーナリストがかつて古い教会区の書庫でレーニンの母親はユダヤ人の血を引いていると発見したとき、彼女にはこの情報をソヴィエトのプレスに掲載しようと試みる馬鹿正直さ(naïvety)すらがあった。//
 (11)この雰囲気は、当然にあらゆる種類の、適切に愛国的言語を用いて彼らの偉業を宣言する科学的ぺてん師を培養した。
 ルィセンコが最も有名だったが、他にも多数いた。
 Olga Lepeshinskaya という名前の生物学者は1950年に、無生の有機物から生細胞を作り出すのに成功したと発表した。そして、プレスはこれをブルジョア科学に対するソヴィエトのそれの優越性を証明するものだとして拍手喝采した。
 しかしながら、すみやかに、彼女の実験は全て無価値であることが判明した。
 スターリンの死後、なお一層衝撃的な記事が<プラウダ>に出た。それは、消費するよりも大きなエネルギーを生み出す機械がSaratov の工場で製造されたというものだった。
 -かくしてこれは、ついに熱力学の第二法則を定めて、同時に宇宙に放散されたエネルギーはどこかに(Saratov の工場に特定される)集中するはずだというエンゲルスの言明を確認することになる。
 しかしながら、のちにすみやかに、<プラウダ>は恥じ入った撤回記事を掲載しなければならなかった。-知的雰囲気がすでに変化してしまっていた徴しだった。//
 (12)書き言葉の世界も話し言葉の世界も、スターリン時代の雰囲気を忠実に反映していた。
 公共に対して何かを発表する目的は知らせることではなく、教示し、啓発することだった。
 プレスの内容は、ソヴィエト体制を賛美する、または帝国主義者を非難する報告だけだった。
 ソヴィエト同盟は、罪からのみならず自然災害からも免れていた。これらはともに、帝国主義諸国家の不幸な特権なのだった。
 事実上は、いかなる統計も公表されなかった。
 新聞の読者たちは、公然とは語られないが全ての者が知っている特殊な符号(code)で情報を得るのに慣れていた。
 例えば、党の幹部たちがあれこれの場合に名前を呼ばれる順序は、彼らがその時点でスターリンの好みの中のいかほどの位置にいるかを知る指標(index)だった。
 表面的には、「コスモポリタニズムおよび民族主義と闘おう」は「民族主義およびコスモポリタニズムと闘おう」と同じだと思えるかもしれなかった。しかし、ソヴィエトの読者は、スターリンの死後に後者の表現を見つけるやいなや、「方針が変わった」、民族主義が現在の主要な敵だと気づいた。
 ソヴィエト・イデオロギーの言語は暗示で成り立っており、直接的な言明によってではなかった。すなわち、<プラウダ>の指導的論文の読者は、決まり文句の洪水の真ん中にさりげなく書かれた単一の文章が掴みどころだと知っていた。
 意味を伝えるのは特定の言明の内容なのではなくて、言葉の順序であり、文章全体の構造なのだった。
 官僚制的な言語の独占、死んでいるがごとき非人間的な文章、そして不毛な言葉遣いは、社会主義文化のこり固まった聖典(canon)となった。
 多数の語句が、自動的に繰り返された。したがって、一つの言葉から次の言葉を予測することができた。例えば、「帝国主義者の凶暴な顔」、「ソヴィエト人民の栄光ある偉業」、「社会主義諸国家の揺るぎない友情」、「マルクス=レーニン主義の古典執筆者たちの不滅の業績」。-このような類の無数のステレオタイプの語句は、数百万のソヴィエト民衆の、知的な規定食(diet)だった。//
 (13)スターリンの哲学は、成り上がり者的な官僚制的心性に、形式と内容のいずれについても見事に適合していた。
 彼の論述のおかげで、誰もが30分で哲学者になることができた。真実を完全に所有するに至るだけではなくて、ブルジョア哲学者たちの馬鹿げて無意味な思想を知ることができた。
 例えば、カントは何かを知るのは不可能だと言ったが、我々ソヴィエト人民は多数の事物を知っている。カントには多すぎたのだ。
 ヘーゲルは世界は変わると言い、世界は観念(idea)で構成されていると考えた。にもかかわらず、誰でも、我々の周りにあるものは観念ではなくて物(things)であることを理解している。
 マッハ主義者は私が座っている椅子は私の頭の中にあると言ったが、明らかに、私の頭と椅子とは別の場所にある。
 このような考え方をして、哲学は、全ての小役人の遊戯場になった。彼らは、若干の常識的で自明なことを繰り返すことによって哲学上の問題を全て片付けたと思って、満足していたのだ。//
 ----
 つづく第11節の表題は、「弁証法的唯物論の認知状態」。

1930/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 ----
 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質①。
(1)この時代のソヴィエトの文化生活の独自性は、たんにスターリンに特有の独特な個性によるのではなかった。
 その独自性は一口で言うと、国家・国民の文化は成り上がり者(parvenu、成金者)のそれだった、と要約できるかもしれない。-全ての独自性はほとんど完璧に、初めて権力を享有した者の心性、信条、および好みを表現している。
 スターリン自身が、この独自性を高い程度に例証していた。しかし、統治機構の全体にも特徴的なもので、その成り上がり者性は、スターリンがそれを一方では隷属状態へと変えながらも、スターリンを助け続け、彼の至高の権威を維持し続けた。//
 (2)ボルシェヴィキの古い守り手たちや従前の知識人たちが連続して粛清され、絶滅したあと、ソヴィエトの支配階級は主として、労働者と農民の出自をもつ個人で構成された。彼らは乏しい教育しか受けておらず、文化的背景をもたず、特権を渇望し、純粋な「世襲の」知識人たちに対する憎悪と嫉妬を溢れるほどもっていた。
 成金者の本質的特性は「見せびらかす」ことへの絶え間なき切望感だ。したがって、彼らの文化は見せかけ(make-believe)であり、粉飾(window-dressing)だ。
 彼らは、従前の特権階層の知的な文化の代表的なものを自分の周囲に見ているかぎりは、心の平穏を持たない。それから遮断されていたがゆえに、彼らはそれを憎悪し、ブルジョア的または貴族的だとして貶す。
 成金者は狂信的な民族主義者で、その母国や環境は他の全てより優れているという考え方に飛びつく。
 自分たちの言語は、彼らによれば、(他の言語を通常は知らないが)<とくに優れた>言葉で、自分の微少な文化的資源でも世界で最も洗練されたものだと自分や他者の誰をも納得させようとする。
 彼らは、<アヴァン・ギャルド的(avant-garde)>な文化的実験の雰囲気があるものや、創造的な新奇さをひどく嫌悪する。
 限定された傾向の「一般常識」的格言でもって生活し、その格言類について誰かが説明を求めてきたときには、怒り狂う。//
 (3)成金者の心性のこうした特質は、スターリニスト文化の基本的なところにも感知することができる。すなわち、民族主義、「社会主義リアリズム」という美学、そして権力システムそれ自体にすら。
 彼らは、権威に対する農民に似た卑屈さを、権威を分有しようという大きな欲求と結びつける。ある程度まで階層が上がってしまうと、上位者にはひれ伏しつつ下位の者たちは踏みつけるだろう。
 スターリンは成金者たるロシアの偶像であり、栄光の夢の具現者だった。
 成金国家には権力の階層と、従属者をむち打ってもなお崇拝される指導者が存在しなければならない。//
 (4)既述のように、戦前に徐々に増大していたスターリニズムの文化的民族主義は、戦勝後には巨大な形をとった。
 1949年、プレスは「コスモポリタニズム」、明確には定義されていないが反愛国主義を明らかに含んで西側を称賛する悪徳、に対抗する宣伝運動を開始した。
 この運動が展開するにつれて、コスモポリタン〔世界主義者〕はユダヤ人と全く同一だということがますます理解されてきた。
 個々人が嘲笑されたり、ユダヤ的に響く従前の名前を持っていたときには、こうしたことが一般には言及されていた。
 「ソヴィエト愛国主義」はロシア排外主義と区別がつかないもので、公的な熱狂症(mania)になった。
 宣伝活動によって、全ての重要な技術的考案や発明がロシア人によってなされた、ということが絶え間なく語られ、この文脈で外国人に言及することはコスモポリタニズムおよび西側に屈服する罪悪だとされた。
 <大ソヴェト百科辞典>は、1949年末からそれ以降に出版された。これは、半分は滑稽で、半分は気味の悪い巨大熱狂症患者の、比類なき例だ。
 例えば、歴史部門の「自動車」の項は、こう書き始める。「1751-52年に、Nizhny Novgorod 地方の農民であるLeonty Shamshugenov(q.v.)が二人で動かす自己推進の車を作った」。
 「ブルジョア」文化、つまり西側文化は、腐敗と頽廃の温床だとして継続的に攻撃される。
 例えば以下は、ベルクソン(Bergson)に関する記述内容から抽出したものだ。〔以下のBは原文どおりで「ベルクソン」の意味〕//
 「フランスのブルジョア哲学者。-観念論者、政治と哲学について反動的。
 Bの直観主義(intuitionism)は理性と科学の役割を軽視し、社会に関する神秘主義理論は帝国主義者の哲学の土台として寄与している。
 彼の見方は帝国主義時代でのブルジョア・イデオロギーの退廃、階級矛盾の増大に直面したブルジョアジーの攻撃性の成長、プロレタリアートの階級闘争の深化に対する恐怖、…<中略>を鮮やかに示している。
 資本主義の初期の全般的危機とその全ての矛盾の激化の時期に、唯物論、無神論、科学的知識の狂気じみた敵、民主主義の敵および階級的抑圧からの被搾取大衆の解放の敵として、その哲学をえせ科学的切り屑で偽装して…<中略>、Bは出現した。
 Bは、観念論を『新しく』正当化するものとして、『内的映像』による認識について生活、実践と科学によって以前にとっくに反証されている…<中略>、古代の神秘主義者、中世の神学者の見方を、提示しようとした。
 弁証法的唯物論は、直観という観念論的理論を、世界と現実に関する知識は何らかのきわめて感覚的な方法によってではなく人間性に関する社会歴史的な実践を通じて生まれる、という論駁し難い事実でもって拒否する。
 Bの直観主義は、不可避的に迫り来る資本主義の崩壊を前にした帝国主義的ブルジョアジーの恐怖と、現実に関する科学的な知識、とくにマルクス=レーニン主義の科学が発見した社会発展の法則が抗し難く意味するもの…<中略>から逃亡しようとする切実さを、表現している。
 Bは、民族の至高性の敵として、ブルジョア的コスモポリタニズム、世界資本主義の支配、ブルジョア的宗教と道徳を擁護した。
 Bは、残虐なブルジョアの独裁や、労働者を抑圧するテロリストの手段に賛同した。
 第一と第二の大戦の間に、この戦闘的な反啓蒙主義者は、帝国主義的戦争は『必要』でありかつ『有益』だと主張した…<以下略>。」//
 (5)もう一つ、以下は、「印象主義(Impressionism)」に関する記述内容だ。〔以下のIは原文どおりで「印象主義」のこと〕
 「19世紀の後半のブルジョア芸術における退廃的傾向。
 Iは、ブルジョア芸術の初期段階の退廃の結果で(<デカダンス>を見よ)、進歩的な民族的諸伝統と断絶したものである。
 Iの支持者は、『芸術のための芸術』という空虚で反民衆的な基本綱領を擁護し、客観的現実の真実に合った現実的な描写を拒否し、芸術家は自分の主観的な印象によってのみ記録しなければならないと主張した…<略>。
 Iの主観的観念論的見方は、哲学における現在の反動的趨勢の基本原理と関係がある。-新カント主義、マッハ主義(q.v.)等。これらは現実と感覚を、印象と理性を分離させた…<略>。
 人類、社会現象および芸術の社会的機能には無関心のままで、客観的な真実の諸規準を拒否することによって、Iの支持者は、現実の実像を崩壊させ、芸術の形態を喪失している…<中略>、そのような作品を不可避的に生み出した。」
 (6)ソヴィエト同盟の世界の文化からの孤立は、ほとんど完璧だ。
 西側の共産主義者の若干のプロパガンダ的作業は別として、ソヴィエトの読者たちは、小説、詩作、戯曲、映画、そして言うまでもなく哲学や社会科学の形態で西側が生み出しているものに関して、全く無知の状態に置かれたままだった。
 レニングラードのエルミタージュ(Hermitage)にある20世紀絵画の豊かな貯蔵作品は、正直な市民を腐敗させないように、地下室に置かれたままだった。
 ソヴィエトの映画や戯曲は、戦争と帝国主義に奉仕するブルジョア学者たちの仮面を剥ぎ取り、ソヴィエトの生活の無類の愉楽さを称賛した。
 「社会主義リアリズム」が至高のものとして支配した。もちろん、ソヴィエトの現実をその現実のままに提示する-これは生硬な自然主義かつ一種の形式主義になっただろう-という意味でではなく、自分たちの国とスターリンを愛するようにソヴィエト人民を教育するという意味でだが。
 この時期の「社会主義リアリズム」の建築物は、スターリン主義イデオロギーの最も権威ある記念碑だ。
 ここでもまた、支配的原理は「形式に対する内容の優越性」だった。但し、この二つが建築物についてどう区別されるのか、誰も説明することができなかったけれども。
 その影響は、いかなる場合でも、誇張されたビザンティン様式の尊大な正面〔ファサード〕を造ることだった。
 住宅がほとんど建設されておらず、大中の市や町の数百万の民衆が汚い中で群がって生活しているときに、モスクワや他の都市を装飾したのは、虚偽の円柱と上辺だけの飾りに満ちた、かつその大きさは「スターリン時代」の荘厳さに釣り合う、巨大な新しい宮殿だった。
 こうしたことはまた、建築分野での、典型的な成り上がり者様式だった。要約するならば、つぎのモットーになるだろう。すなわち、「大きいものは美しい」。//
 ----
 ②へとつづく。

1927/ロシア革命史に関する英米語文献①。

 Anne Applebaum, Gulag- A History (2003).
 =アン・アプルボーム=川上洸訳・グラーグ―ソ連集中収容所の歴史(白水社、2006年)
 2004年度ピューリツァー賞を受けたらしい、この強制収容所(Gulag)に関する書物は、第一部<グラクの起源-1917-1939>の第一章<ボルシェヴィキの始まり>の冒頭で1917年10月のボルシェヴィキの権力掌握あたりまでを。2頁で素描している。
 その際に参照文献として注記しているのは、つぎの二著だけだった。本文p28.、注p.524.
 右端の頁数は、参照要求される当該文献の頁の範囲。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution 1889-1919 (1990). pp.439-505.
 ②Orland Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution (1996). pp.474-551.
 いずれも、邦訳書はない。後者の<人民の悲劇>は、M・メイリア<ソヴィエトの悲劇>(邦訳書あり。草思社・白須英子訳、1997年)と少し紛らわしい。
 以上については、すでにこの欄に、より簡単には書いたことがある。
 ---
 2017年のロシア・十月革命「100周年」の年に、英米語文献としては少なくともつぎの三つの著がロシア革命に関する「通史」的なものとして新しく刊行された。
 右端の頁数は、索引等を含めての総頁数。
 A/S. A. Smith, Russia in Revolution: An Empire in Crisis, 1890 to 1928 (2017). 計455頁。
 B/Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 C/China Miéville, October: The Story of the Russian Revolution (2017). 計369頁。
 いずれもまだ、邦訳書はないと見られる。
 上の二つは専門の研究者によるものだ。
 最後のものはそうではなさそうだが、しかし、多数の文献を読んで参照していることは分かる。なお、このChina Miéville の本は本文(序などを除き)計10章で、第1章は1917年前史、第10章は「赤い十月」、そして残りの2 章以降はそれぞれ2月、3月、…を扱っていて、表向きはきわめて読みやすそうだ(内容はほとんど見ていない)。
 China Miéville は「さらなる読書」のために、以下の「通史」文献以外に50ほどにのぼる文献(論文・記事類ではない)を挙げる。
 「通史(General Histoties)」として挙げられる9の文献を刊行年の古い順に変えて紹介すると、つぎのとおり。同一の著者の書物が二件以上挙げられている場合もある。
 ①Leon Trotsky, History of the Russian Revolution (1930).
 ②Victor Serge, Year One of the Russian Revolution (1930).
 ③Willam Henry Chamberlin, The Russian Revolution 1917-1921 (1935).
 ④E. H. Carr, The Russian Revolution, 1917-1923, 1-3.vols (1950-53).
 ⑤Tsuyoshi Hasegawa, The February Revolution, Petrograd: 1917 (1981).
 ⑥Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 ⑦Alexander Rabinovich, Prelude to Revolution: The Petrograd Bolsheviks and the July 1917 Uprising (1991),+ The Bolsheviks Come to Power (2004).
 ⑧Orland Figes, A People's Tragedy (1996).
 ⑨Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (2ed edition), (2008).
 以上
 ⑨の第4版(2017)が、この欄で最近まで「試訳」していたもの。2017年だったからこそ、新版にしたのだろう。
 上で興味深いのは、冒頭でも言及した、二つの著、つまりRichard Pipes とOrland Figes の著が⑥と⑧でやはり挙げられていることだ。
 その対象や範囲を考慮すると、邦訳書が早くからある初期のトロツキーやE. H. カーよりは新しいこれらの邦訳書が存在しないことは、いかにも日本らしい気もする。⑨も、邦訳書がない。
 山内昌之がたぶん歴史(世界史?)関係の重要な何冊かを挙げて紹介する新書版の本で、ロシア革命についてはE. H. カーのものを挙げてきたが、トロツキーのものに変更したとか、書いていた(山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007))。
 日本共産党の不破哲三・志位和夫がロシア革命に関連して肯定的に名を挙げるE. H. カーの本は、山内によるとどうも不満があるらしい。今日の英米語圏でもベストとはされていないようで、明確に批判する論者もある。執筆当時に存在した表向きの(これも程度があるが)資料・史料だけ使って「実証的に」叙述しただけでは、結局は「現実を変えた」または「現実になった」者たちや事象を<追認>し、<正当化>するだけに終わる可能性のあることは-日本の「明治維新」についてもそうだが-留意されてよいだろう。
 元に戻ると、上のCは背表紙の下に「VERSO」と横書きで打たれていて「VERSO」なる叢書の一つのようでもあるが、「VERSO」は出版元の「New Left Books(新左翼出版社)」のImprint だとされている(原書の冒頭近く)。
 よくは知らないが、その「新左翼」に引っかかって上の各著に対するChina Miéville のコメントを読むと、明らかに、⑥R・パイプスと⑨S・フィツパトリクのものには批判的な部分がある。例えば-。
 ⑥について-「左翼に対する敵意」、「ボルシェヴィキ恐怖症(-フォビア)」、…。
 ⑨について-<レーニン→スターリン>「不可避主義者」、…。
 これら自体興味深く、この二人の著が少なくとも一部に与える印象も理解できるところがある。
 しかし、それよりもさらに興味深いのは、この二人の著をChina Miéville も、きちんと列挙している、ということだろう。
 R・パイプス、O・ファイジズ、S・フィツパトリクの<ロシア革命本>は、今日の英米語圏では、どのような政治的立場を現在にとるのであれ、ロシア革命に関する、ほとんど<must read>のあるいは「鉄板」の書物になっているのではないか。
 ひるがえって、やはり日本のことを考える。日本の学界や「知的」活動分野について、考える。
 日本でいう「左翼」とは何か、「リベラル」とは何か。<ロシア革命>はとっくに過去の事象で、これらと何の関係もない、今日では関心の対象にならないものなのか?
 日本の国会議員を堂々と有する政党の中に、ほとんど直接に「ロシア革命」と関係がありそうな党はなかっただろうか。はて。

1926/L・コワコフスキ著第三巻第四章第9節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 ----
 第9節・ソヴィエト経済に関するスターリン。
 (1)スターリンの最後の理論的著作は、1952年9月に党機関誌<ボルシェヴィキ>に掲載した論文だった。これは「ソ連邦の社会主義の経済的諸問題」と題して、来る第19回党大会の基礎的文書となることを意図していた。
 その理論上の主張は、社会主義も「客観的な経済法則」に服する、計画立案に際してはその長所を生かさなければならず、それを恣意的に無視することはできない、ということだった。
 とくに価値の法則は、社会主義のもとで当てはまる。-この言明が意味したのはおそらく、金銭はソヴィエト同盟で有用だ、そして経済を作動させていくには利益や歳入と歳出の均衡について説明する責任が果たされなければならない、ということだつた。
 「社会主義の経済法則の客観性」という原理は、Nikolai Voznensky に対する非難を暗に含んでいた。この人物は、戦前は国家計画委員会の長で、のちに副首相となり、政治局員だった。
 彼は1950年に、裏切り者として射殺された。そして、対ドイツ戦争中のソヴィエト経済に関するその書物は、流通から排除された。
 その書物は含みとしては、社会主義が客観的経済法則に服することを否定し、その代わりに全経済過程が国家の計画権能に従属すると主張していた。
 しかしながら、スターリンは、価値法則を擁護し、読者に対して、資本主義は最大限の利潤を求める原理に支配されているが、社会主義経済の指針的規範は人間の必要性〔需要〕を最大限に充足させることだ、と保証した。
 (いかにして社会主義の利潤的効果がスターリンが主張するように国家計画立案当局の意思から独立した「客観的法則」であり得るのか、とくに、いかにしてこの「法則」が「価値の法則」と同時に作動するのかは、明瞭ではない。)
 スターリンの論文はまた、ソヴィエト同盟の共産主義段階への移行に関する基本綱領を概述した。すなわち、この移行のために必要なことは、都市と地方の対立や肉体的作業と精神的作業の対立を除去し、集団農場の財産を国有財産の地位へと高めること(言い換えると事実上は、集団農場を国有農場に変えること)、そして生産を増大させ、文化の一般的水準を高めることだ。
 (2)将来の完全な共産主義社会に関するスターリンの考え方は、伝統的なマルクス主義の主題の繰り返しだった。
 「経済の客観的法則」について言うと、その論文から導かれ得る唯一の実践的メッセージは明らかに、経済を職責とする者たちは民衆の必要性を最大限に充足しようと努力しているが、経済上の説明を明確にする責任(economic accountability)もまた見失ってはならない、ということだった。//
 ----
 第10節の表題は、「スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質」。

1925/L・コワコフスキ著第三巻第四章第8節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 ----
 第8節・スターリンと言語学(philology)。
 (1)国際的緊張が最高に達した朝鮮戦争の最初の数日間に、スターリンは、進歩的人類の指導者、至高の哲学者、科学者および戦略家等々という既存の名称に、さらに特記して世界で最大の言語学者なるものを追加した。
 (知られているかぎりで、彼が取得している言語能力はロシア語と母国のジョージア語に限られていた。)
 1950年5月、<プラウダ>は言語学、とくにNikolai Y. Marr(マル、1864-1934)の理論の理論上の諸問題に関するシンポジウム内容を掲載した。
 コーコサス諸言語の専門家のマルは、その晩年にかけてマルクス主義言語学の体系を構築しようと努め、ソヴィエト同盟ではこの分野の最高権威者だと見なされていた。すなわち、幻想者だとして彼を拒絶した言語学者たちは、嫌がらせを受け、迫害された。
 マルの理論は、言語は「イデオロギー」の一形態で、そのようなものとして上部構造の一つであり、階級システムの一部だ、というものだった。
 言語の進化は、社会的編成の質的な変化に対応した「質的跳躍」によって生じる。
 人類が話し言葉を開発する前は身振り言語を用いており、それは、原始的な階級なき社会に対応していた。
 話し言葉は、階級ある社会の特質だ。そして、将来の階級なき共同社会では、普遍的な思考(thought)の言語(確かに、マルはこれについて多くを説明することができなかったが)に取って代わられるだろう。
 こうした理論全体が偏執症的(paranoid)な妄想の兆候を示していた。そして、これが長年にわたって<とくに秀れた(par excellence)>言語学で、唯一の「進歩的」言語理論だ、と位置づけられたという事実自体が、ソヴェト文化の実態を雄弁に物語っている。//
 (2)スターリンは<プラウダ>6月29日号に掲載した論文で論議に介入し、さらに読者の手紙に四つの回答をして説明した。
 彼はマル理論を非難し、言語は上部構造の一つではなく、その性格においてイデオロギー的なものでもない、と宣告した。
 言語は土台の一部でもなく、創造的な諸力と直接に「連環」している。
 言語は全体としての社会の一部であり、特定の階級のものではない。階級により決定される諸表現は語彙全体のほんの断片にすぎない。
 言語が「質的跳躍」あるいは「暴発」によって発展するというのも、正しくない。ある特質が消失していき、新しい特質が発生してくるように、徐々に変化するのだ。
 二つの言語が競い合うとき、その結果は新しい合成言語なのではなく、他方に対する一方の勝利だ。
 将来での言語の「死滅」と思考による代替に関して、マルは根本的に間違っている。すなわち、思考は言葉と連結しており、言葉なくしては存在することができない。
 人々は、言葉によって思考する。
 スターリンは、この機会を利用して、土台と上部構造に関するマルクス主義理論を明確にすべく繰り返した。第一に、土台は生産力で成るのではなく、生産関係による。第二に、上部構造は土台に対して道具として「奉仕する」。
 彼は、マルクス主義が自由な議論や批判を抑圧することで獲得した独占的地位を、(アレクサンダー一世の時代の専制的大臣を暗に示唆しつつ)強い調子で非難した。それでは知識を適切に発展させることが明らかに不可能だ、として。
 (3)言語は階級に関係する問題ではなく上部構造の一つでもないということは、フランスの資本家も労働者もフランス語を喋り、ロシア人は革命後もロシア語を話している、ということをたんに意味するにすぎない。
 だがこの発見は、言語学やその他の学問の史上での歴史的に画期的なものとして歓呼して迎えられた。
 学術上の会合や論議の大波が、天才の新しい仕事を褒め称えるために、国土じゅうを覆った。
 実際には、スターリンが述べたことは、感取できる自明のこと(truisms)に他ならない。しかし、マル理論の馬鹿々々しさを一掃してしまうためには有益だった。また、形式論理学と意味論(semantics)の研究に、ある程度の利益をもたらした。これら二つの分野の論者たちは、それらも上部構造の一部ではなく、研究することは必ずしも階級敵に転化するわけではない、と主張することができたのだ。
 土台との関係での上部構造の「補助的(auxiliary)機能」に関するスターリンの言明について言うと、これは誰にもすでによく知られている基礎的な原理、社会主義国家の文化は「政治的な客観物」の下僕であって自立性を要求してはならないという原理、を反復しているものだ。
 スターリンが自由な議論や批判を求めたことは、他のどの文化分野にも何の影響をももたらさなかった、ということは言うまでもない。
マル主義者は言語学の支配的地位から外された(彼らが政治的弾圧を受けたとは知られていないけれども)。他の点では、事態は従前のままだつた。
 ----
 第9節の表題は「スターリンとソヴィエト経済」。

1922/L・コワコフスキ著第三巻第四章第7節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 ----
 第7節・ソヴィエト科学に対する影響一般。
  (1)ルィセンコの事件は、体制による文化との闘争の歴史を、幸いにもかなりの程度、例証している。
 獲得された特性の遺伝の問題よりも宇宙論の問題にイデオロギーが多くかかわり合った、と容易に理解することができる。
宇宙には時間の始まりがあるという理論を弁証法的唯物論と調和させるのは困難だ。
 しかし、遺伝に関する染色体理論の場合は、明らかにそうではない。誰でも容易に、この理論はマルクス=レーニン=スターリン主義という不朽の思想を完璧に確認するものだと、勝利感をもって宣言する、と想像することができる。
 実際には、イデオロギー的闘いは、遺伝学の場合の方がとくに激しかった。党による介入が最も残虐な形態をとったのはまさにこの遺伝学の分野だった。一方で、宇宙論に対する扇動的攻撃は、かなり穏健なものだった。
 このような違いに関する論理的な説明を行うのは困難だ。すなわち、多くは偶然による。反対運動を担当したのは誰だったのか、スターリン個人は論争になっている問題に関心があったのか否か、等々。//
 (2)にもかかわらず、この時代の歴史を概観するならば、イデオロギー的圧力の強さに、コントやエンゲルスが確立した諸科学の階層に大まかには対応した、一定の段階的差異があることを感知し得るかもしれない。
 数学については圧力はほとんどゼロで、宇宙論と物理学についてはかなり強かった。生物学については、さらに強かった。そして、社会科学や人文科学については、圧力は最大限に強力だった。
 年代史的順序も、大まかにはこうした重要性の程度の差異を反映していた。
 社会科学は、最初から統制管理の対象だった。一方で、生物学や物理学はスターリニズムの最後の段階までは統制されなかった。
 スターリン後の時代に最初に自立性を取り戻したのは、物理学だった。しばらくして、生物学が続いた。だが、人文社会系(humanistic)学問はかなり厳格な支配のもとに置かれたままだった。//
 (3)イデオロギー的監督の中でも幸運な要素は、高次の神経機能に関する心理学と生理学の場合にも、見出すことができる。
 この分野の特質は、ロシアが世界的に有名なパブロフ(Ivan P. Pavlov )の誕生地だったことだ。1936年に死んだこの人物には若干の弟子たちがおり、彼らはパブロフの実験を継続し、またイデオロギー的圧力とは関係なくその理論を発展させることが許されていた。
 典型的にも、体制側は反対方向の極端へと進み、パブロフの理論を、生理学者や心理学者が逸脱することを禁止される、公式のドグマにまで屹立させた。
 かりにパブロフがイギリス人あるいはアメリカ人であったならば、彼の考えは、ソヴェトの哲学者によって厳しく非難されていただろう。パブロフ理論は条件反射によって精神作用を説明するがゆえに機械主義者だ、という根拠でもって。
 パブロフはまた、人間と動物の「質的な違い」を無視する等々によって人間の精神を神経活動という最も下位の形態へと「矮小化(reduce)」した、と責め立てられただろう。
 実際には、パブロフ理論は公式に神経生理学の分野でのマルクス=レーニン主義を代表するものとされ、この分野でのイデオロギー攻撃は他のどの分野よりも酷くなかった。
 にもかかわらず、たとえ真摯で科学的な実験にもとづいてはいても、一つの理論が国家と党のドグマにまで持ち上げられたという、まさにその事実こそが、研究の進展に対して激痛を与えるごとき効果をもった。//
 (4)ソヴィエト国家の利益に反して動いたイデオロギーのとくに驚くべき事例は、サイバネティクス〔人工頭脳学〕、動態的過程統制システムに関する科学、に対する攻撃だった。
 サイバネティクス研究は、全ての技術分野、とくに軍事技術、経済計画等々での自動化の発展に大きな貢献をした。しかし、マルクス=レーニン主義の純粋性という権威は、しばらくの間は、ソヴィエト同盟での自動化の進展を完全に抑えることができた。
 1952-53年、サイバネティクスという帝国主義的「えせ科学」に対する反対運動が起こされた。
 ここにはじつに、本当の哲学上の問題または哲学に準じた問題が介在していた。
 すなわち、社会生活がサイバネティクスの範疇でもって記述され得るのか否か、および記述され得る程度、精神的活動はいかなる意味でサイバネティクスの図式へと「推論され得る」のか、あるいは逆に、いかなる意味で、人工的なメカニズムの一定の作用が思考と同等であり得るのか、等々。
 しかし、本当のイデオロギー上の危険性は、サイバネティクスは西側で発展してきた広い視野をもつ学問分野で、その当否はともあれ、<普遍的数学(mathesis universalis)>、動態的現象を全て包含する一般的理論だと自己主張しているものだ、ということにあった。そのような自己主張は、正確にマルクス=レーニン主義こそが行っていたものだったからだ。
 非公式の(むろん公的な情報で確認されていない)報告によると、最終的にサイバネティクスに対する反対運動を中止させたのは軍隊だった。軍はその主題の実践的重要性に気づいており、ソヴェトの根本的な国家利益を損傷する反啓蒙主義的攻撃と闘うに十分な強さを持っていた。//
 ----
 つぎの第8節の表題は「スターリンと言語学」。

1921/L・コワコフスキ著第三巻第四章第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 ----
 第6節・マルクス=レーニン主義の遺伝学。
 (1)マルクス=レーニン主義と現代科学との間の全ての闘いの中で、遺伝学に関する論争ほど外部世界の注目を集めたものはなかった。
 公式の国家教理が遺伝の問題に関して用いて、かつ「論議」一般に破壊的な影響をもったやり方というのは、実際にとくに悪辣だった。
 相対性や量子理論の場合は、イデオロギー正統派が研究を妨害し確実に非難することに成功して勝者となった。しかし、正統派は反対派を完全に破壊してしまったわけではなかった。また、遺伝学の場合に起きたようには、反対派の理論の公式かつ絶対的な禁止をもたらしたわけでもなかった。//
 (2)戦前の段階でのルィセンコ(Lysenko)の活動については、すでに言及した。
 事態は、1948年8月のモスクワでの農業科学レーニン・アカデミーでの論議で、絶頂点に達した。
このとき、「メンデル=モルガン=ヴァイスマン主義者」が最終的に非難され、ルィセンコ自身が会合に対して発表したように、彼の考え方が党によって是認された。
 党がマルクス=レーニン主義と合致する唯一のものだと宣告したルィセンコの理論は、遺伝は「究極的には」環境の影響によって決定される、したがって一定の条件のもとでは、個々の生物(organism)がその人生を通じて獲得する特性(traits)はその子孫たちに継承〔遺伝〕される、というものだった。
 遺伝子(gene)なるものはなく、「遺伝という不変の実体」はなく、「固定した、変更不可能な種(species)」もない。そして、原理的に言えば、科学、とりわけソヴィエト科学が、現存する種を変形させて新しい種を生み出すことを妨げるものは、何もない。
 ルィセンコによれば、遺伝とは一生物の一つの属性にすぎず、その属性は、その生物が生きていく特有の条件を必要とし、またその生物が特有の方法でその環境に反応するということから生じる。
 一個体はその生の過程で環境条件と相互に影響し合い、その環境条件を自分自身の特性へと変える。そしてそれを、子孫たちへと伝達していくことができる。-このことは、代わりに、自分たちの特性を失うか、または遺伝によって伝達できる新しい特性を獲得することでありうる。それはまた、外部条件が決定しうるものだ。
 永遠(immortal)の遺伝という実体の存在を信じる進歩的科学の擁護者は、マルクス主義に反して、突然変異(mutation)は制御不可能な偶然によって生じると主張する。
 しかし、ルィセンコがアカデミーの会合で論じたように、「科学は、偶然なるものの敵だ」。そして科学は、生命の全過程が法則に従っており、それを人間の干渉によって支配することができる、と想定するよう義務づけられている。
 生物は「環境との統合体(unity)」を形成する。ゆえに原理的には無制限に、その環境を通じて生物に影響を与えることが可能だ。//
 (3)ルィセンコが提示した理論は第一に、農学者のミチュリン(Michurin、1855-1935)の発想と実験を発展させたものだった。第二に、「創造的ダーウィニズム」の例だとして提示された。
 ダーウィン(Darwin)が道を誤っていたのは、自然にある「質的跳躍」を認識しなかったこと、および種内部の闘争(最適者生存)を進化の主要な要因だと考えたことだった。 彼は、目的論的解釈に頼ることをしないで、進化を純粋に因果関係の意味で説明し、進化の過程の「進歩的」性格を明らかにしなかった。//
 (4)ルィセンコ理論の経験上の根拠に関して、今日の生物学者たちは疑いなく、ルィセンコの実験は科学的には無価値であり、間違って行われているか全く恣意的な解釈が施されているかのいずれかだ、と判断している。
 ルィセンコは1948年の会合から、ソヴィエトの生物科学の疑いなき指導者となって登場した。そして、観念論的、神秘主義的、スコラ主義的、形而上学的、およびブルジョア的で形式主義的な遺伝学の学者たちは完璧に粉砕された。
 全ての組織、雑誌および生物学に関連する出版団体は、ルィセンコと彼の助手たちの権威のもとに置かれた。そして多年にわたり、遺伝に関する染色体(chromosome)の理論の擁護者(<仮説だが(ex hypothesi)>、ファシスト、人種主義者、形而上学者、等々)が公衆に語りかけまたは活字となって登場することが許される、などということは全くの論外だった。
 「創造的ミュチュリン主義生物学」が至高ののものとして支配し、プレスにはルィセンコを称賛し、メンデル=モルガン主義者たちの邪悪な策略を非難する記事が洪水のごとく溢れた。
 ソヴィエト科学の栄光ある勝利は、無数の会合や集会で祝福された。  
 哲学者たちはもちろん、ただちにそうした運動に加わり、会合を組織し、反動に対する進歩の勝利を歓呼して喜ぶ多数の論文を執筆した。
 娯楽雑誌は、観念論的遺伝学の支持者を嘲弄した。そして、ルィセンコを賛美する歌までが作られた。「ミチュリンの足跡にそってしっかりと前進しよう。メンデル=モルガン主義者の陰謀を挫折させよう」。//
 (5)ルィセンコの経歴は、1948年以後の数年間にわたり継続した。
 その間に、彼の指揮のもとで、ある範囲の大草原地帯には浸食から畑地を守るべく森林帯が植え付けられた。しかし、その実験は完全な失敗だったことが分かった。
 1956年、スターリン死後のイデオロギー的な部分的雪解けの間、科学者が圧力を加えた結果として、ルィセンコは農業科学アカデミーの院長から外された。
 数年のち、フルシチョフの好意によって彼はいくつかの地位を回復した。しかし、のちに長く続いた全体的な救いにはならず、ルィセンコは最終的には舞台から消えた。
 ソヴィエトの生物学がルィセンコの支配によって被った損失は、計り知れないものだ。//
 ----
つぎの第7章の表題は、「ヴィエト科学に対する一般的影響」。

1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版、p.131-136。
 ----
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第5節・マルクス=レーニン主義と物理学・宇宙論。
(1)スターリニズムによる攻撃のとくに露骨な例は、自然科学へのイデオロギー的侵攻だった。
 無傷のままだった数学は別として、マルクス主義による統制運動は、全ての科学分野にある程度は影響を与えた。理論物理学、宇宙論、化学、遺伝学、医学、心理学、およびサイバネティクス〔人工頭脳学〕は全て、介入によって荒らされ、その頂点は1948-1953年だった。//
 (2)ソヴィエト物理学は、たいていの部分では、哲学上の議論にかかわってくる懸念はなかった。しかし、ある領域では、関係することが避けられなかった。
 量子理論も相対性理論も、一定の認識論上の前提を明らかにすることなくしては、十分に深化させることができなかった。
 決定主義の問題、観察される客体に対する観察行為の効果の問題、は明らかに哲学的な様相を帯びており、そのことは、世界じゅうの論議で承認されていた。//
 (3)ソヴィエト・ロシアとナツィ・ドイツは、相対性理論が攻撃され、公式イデオロギーと矛盾するとして禁止された、二つの国だった。
 既に述べたように、ソヴィエト同盟では、その攻撃運動は第二次大戦以前から始まっていたが、戦後の数年間に強化された。
 ドイツでは、相対性理論に反対する明白な論拠は、アインシュタイン(Einstein)はユダヤ人だ、ということだった。
 ロシアではこの点は挙げられず、批判が根拠にしていたのは、時間、空間および運動は客観的なもので、宇宙は無限だ、とするマルクス=レーニン主義の教義に反するものだ、ということだった。
 ジダノフは1947年に哲学者たちに対する挨拶の中で、宇宙は有限だと明言したアインシュタインの弟子たちを痛烈に非難した。
 哲学的批判は、つぎのようにも論じた。時間は客観的であるがゆえに同時発生性(simultaneity)との関連は絶対的なもので、特殊相対性理論が主張するような相関の枠組みに依存しているのではない。
 同じように、運動は物質の客観的な属性であり、そのゆえに動体の経路は同格者(co-ordinate)の制度によって部分的に決定されるということはあり得ない(これはむろんアインシュタインと同じくガリレオに対しても当てはまる論拠だ)。
 一般論として、アインシュタインは時間的関係と運動を「観察者」に依存させるので、換言すれば人間という主体に依存させるので、彼は主観主義者であり、そして観念論者だ。
 この論議に参加した哲学者たち(A. A. Maksimov、G. I. Naan、M. E. Omelyanovskyその他)は、批判対象をアインシュタインに限定しないで「ブルジョア科学」の全体を攻撃した。すなわち、彼らの好みの攻撃対象は、Eddington、Jeans、Heisenberg、Schrödinger および名のある全ての物理学方法論者たちだった。
 さらに、アインシュタインがかりに相対性理論の最初のアイディアをマッハ(Mach)から得たことを認めていれば、どうだっただろう? レーニンは、マッハの反啓蒙主義(obscurantist)哲学を罵倒したのだったが。
 (4)しかしながら、(古くさいやり方で一般相対性理論や空間の同質性の問題にも触れていた)論議の本質的な論点は、アインシュタインの理論の内容とマルクス=レーニン主義の間の矛盾にあるのでは全くなかった。
 時間、空間および運動に関するマルクス主義の教理は、何らかの特別の論理的な困難さがなければアインシュタイン物理学と調和することができない、というほどに厳密なものではなかった。
 相対性理論は弁証法的唯物論を確認するものだと主張することすら、可能だった。このような擁護の主張は著名な理論物理学者のV. A. Fock がとくに行った。この人物は同時に、アインシュタインの理論は限定された有効性をもつ、という見方を支持する科学的な論拠を提示した。
 アインシュタインに-そしてじつに現代科学のほとんどの成果に-反対する運動には、しかしながら、二つの基本的な動機があった。
 第一に、「ブルジョア対社会主義」とは実際には「西側対ソヴィエト」と同じことを意味した。
 スターリニズムという国家教理はソヴィエト排外主義を含むもので、「ブルジョア文化」の重要な成果の全てを、系統的に拒否することを要求した。ブルジョア文化の中でもとりわけ、世界で唯一の国だけが進歩の根源となり一方では資本主義が衰退と崩壊の状態にある1917年以降に生じたものを。
 ソヴィエト排外主義に加えて、第二の動機があった。
 マルクス=レーニン主義の単純な教理は、多くの点で、教育を受けていない人々の一般常識的な日常的観念と符号している。例えば、レーニンが経験批判論に対する攻撃で訴えかけたのは、そのような諸観念だった。
 他方で相対性理論は、疑いなく、ある範囲において一般常識を攻撃するものだ。
 同時発生性、範囲と運動の絶対性および空間の画一性は、我々が当然のこととして受容している日常生活の前提だ。そしてアインシュタインの理論は、地球が太陽の周りを回転しているとのガリレオの逆説的主張と全く同じように、この前提を侵害する。
 かくして、アインシュタインを批判するのは、ソヴィエト排外主義のためだけではなくて、我々の感覚にある平易な証拠とは合致しない理論を拒否するという、ふつうの保守主義のゆえでもあった。//
 (5)「物理学における観念論」に対する闘いは、同様の動機で、量子(quantum)理論にも向けられた。
 コペンハーゲン学派が受容した量子力学の認識論的解釈は、ある範囲のソヴィエト物理学者の支持を得た。
 論議の引き金となったのは、すでに言及した1947年のマルコフ(M. A. Markov)の論文だつた。
 マルコフは二つの基本的な点でBohr とHeisenberrg に従っており、それらはマルクス=レーニン主義哲学者の反発を引き起こした。
 第一に、位置と微粒子(microparticle)の運動量とを同時に測定するのは不可能であるがゆえに、粒子が明確な位置と明確な運動量を<持つ>とか、観察技術に欠陥があるためにのみ両者を同時に測定することができないとか主張するのは、無意味だ。
 こういう考え方は、多数の物理学者の一般的な経験的見方と合致していた。すなわち、客体の唯一の現実的属性は、経験的に感知できるということだ。客体が一定の属性をもつがそれを確認する可能性はないと言うのは、自己矛盾しているか、無意味であるかのいずれかだ。
 したがって、粒子は明確な位置と運動量とを同時には有しておらず、測定する過程ではこれらのいずれかが粒子に帰属する、ということを承認しなければならない。
 同意されなかった第二の点は、微小物体(micro-object)の行動を文字で記述する可能性に関係していた。これは、大物体とは異なる属性をもち、ゆえに大物体を叙述するために進化してきた言語で性格づけることができない、とされた。
 マルコフによると、ミクロ物理現象を叙述する理論は不可避的にマクロ物理学の用語へと翻訳したものだ。したがって、我々が知って意味をもつものとして語ることのできる微小物理的実体は、部分的には測定の過程とそれを叙述するために用いる言語で構成されている。
 したがってまた、物理学理論は観察される宇宙の模写物を用意したものとして語ることはできず、マルコフは明確には述べなかったけれども、現実に関する全概念は、少なくとも微視物理学に関するかぎりは、認識するという活動の観点から逃れようもなく相対化される。-これは、明らかに、レーニンの反射(reflection)理論に反する。
 そのために、マルコフは、観念論者、不可知論者、そしてレーニンが批判したプレハノフの「象形文字」理論の支持者だとして、<哲学雑誌>の新しい編集者によって非難された。//
 (6)相対性理論とは違って、量子力学をマルクス=レーニン主義の意味での唯物論および決定論と調和させるのは困難だ、ということは強調しておかなければならない。
 粒子が一定の感知できない、その地位を明確にする物理的媒介変数をもつと言うことが無意味だとすれば、決定論という教理は根拠薄弱であるように見える。
 一定の物理的属性のまさにその存在が、それを感知するために用いる測定装置の存在を前提にしているのだとすると、物理学が観察する「客観的」世界という概念を意味あるものとして適用することは不可能になる。
 こうした諸問題は、決して想像上のものではない。その諸問題は、マルクス=レーニン主義とは全く無関係に、物理学で議論されてきたし、現に議論されている。
 ソヴィエト同盟では、とりわけD. I. Blokhintsev やV. A. Fock が理性的な議論をした。そして議論は、スターリン以後の時代へと継続してきている。
 1960年代、党のイデオロギストたちが科学理論の「適正さ」を決定すると言わなくなったときに、ほとんどのソヴィエト物理学者たちは決定論的見方を採用していことが明白になった。従前には潜在的な媒介変数の存在を執拗に要求したBlokhintsevも、そうだった。//
 (7)一般的に言って、物理学や他科学の哲学的側面に関するスターリン時代のいわゆる論争は、破壊的で、反科学的だった。それは非現実的な問題を扱ったからではない。学者たちと党イデオロギストたちの間の-よくあったことだが-対立では、国家とその警察機構の支持のある後者が勝利を得ることが保障されていたからだ。
 提示されている理論がマルクス=レーニン主義と合致していない、または合致していない疑いがある、という責任追及は、ときどきは刑法典のもとでの制裁へと転化し得たし、実際にそうなった。
 イデオロギストたちの大多数は、問題になっている争点について無知で、レーニンまたはスターリンの言葉に変化をつけた言明を見つけ出す技巧に長けていた。
 レーニンは物理学やその他の科学全てについての偉大な権威だと信じていない科学者たちは、党、国家およびロシア人民の敵だとして民衆むけプレスで「仮面を剥がされる」ことになった。
 「論議」はしばしば、政治的な魔女狩りへと退化した。
 警察が舞台に登場し、結論的な論難は理性的な議論と何の関係もなかった。
 現代的知的生活のほとんど全ての分野で、このような対応が進行し、党当局は決まって、学者や科学者たちに対する騒々しい無学者たちを後援した。
 「反動的」という語が何がしかの意味をもつとすれば、スターリン時代のマルクス=レーニン主義ほどに反動的な現象を考えつくのは困難だ。この時代は、科学やその他の文明の諸態様にある全ての新しくて創造的なものを、力ずくで抑圧した。//
 (8)化学も、別扱いではなかった。
 1949-1952年には、哲学雑誌や<プラウダ>で、構造化学と共鳴(resonance)理論が攻撃された。
 これは1930年代にPauling とWheland が提起してある範囲のソヴィエト化学者に受容されていたが、今や観念論、マッハ主義、機械主義、反動的等々と非難された。//
 (9)さらに微妙なイデオロギー上の主題は、宇宙論や宇宙発生学の現代的諸理論の哲学的側面に関する論議に関係していた。そこから明らかになるのは、基本的諸問題に対する現存する回答の全ては、マルクス=レーニン主義にとっては好ましくない、ということだった。
 膨張する宇宙に関する多様な理論を受容するのは困難だった。それは不可避的に、「宇宙はいかにして始まったのか?」という問題を惹起し、我々が知る宇宙は有限であって時間上の始まりがあると、いうことを示唆するからだった。
 このことは次いで創造主義(creationism、多数の西側の執筆者が受容した推論)を支持し、マルクス=レーニン主義の観点からはより悪いことは何も想像され得なかった。
 宇宙は膨張し続けるが新しい粒子が発生し続けるので物質の運命は同じであるままだ、という補足的な理論は、かくして、「自然の弁証法」と矛盾した。
 このゆえにそののちは、これら二つの仮説のいずれかを支持して主張する西側の物理学者や天文学者は、自動的にすぐに宗教の擁護者だと記述された。
 宇宙は膨張か収縮かの二者択一的段階を経由するという、脈動する宇宙に関する選択肢理論は、時間の始まりに関する面倒な議論から自由だった。しかしこれは、物質の単一方向的進化というマルクス=レーニン主義の教理と矛盾していた。
 「弁証法の第二法則」が要求するように、脈動する宇宙は「循環的」なもので、「発展」とか「進歩」とかと言うことはできないものだった。
 ディレンマを抜け出すのは困難だった。単一方向の原理は創造という観念を含んでいるように見える。一方では、反対の理論は「無限の発展」という原理と対立していた。
 宇宙論に関する討議に参加した者たちの一方には、天文学者や天文物理学者(V. A. Ambartsumian、O. Y. Schmidt)がおり、彼らは科学的な方法で結論に到達しており、そして弁証法的唯物論と調和していることを示そうと努力した。
 他方には、イデオロギー上の正統派の観点から問題を判断する、哲学者たちがいた。
 宇宙は時間も空間も無限だということ、そしてそれは永遠に「発展する」に違いないということは、マルクス=レーニン主義がそこから離れることのできない、哲学上のドグマだった。
 こうして、党という盾に守られたソヴィエトの哲学者たちは、教養ある人々をあらゆる分野で圧迫し、ソヴィエト科学の基本教条に対して莫大な害悪を与えた。//
 ----
 第6節の表題は「マルクス=レーニン主義の遺伝学」、第7章のそれは「ソヴィエト科学に対する一般的影響」。
 下は、Leszek Kolakowskiが1960年代に離国前までワルシャワで住んだアパートメント。ネット上より。
 Leszek Kolakowski-Wasaw (3) Leszek_Kołakowski_plac_Bankowy_Senatorska_40 (2)

1919/L・コワコフスキ著第三巻第四章第4節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版p.130-1. 短い節で、段落の区切りはない。
 ----
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第4節・経済論議。
 ジダノフが哲学者たちに対処していたのと同じ時期に、経済学もまた、イデオロギー的迫害(purge)を受けた。
 この分野では、第二次大戦が資本主義経済に与えた影響に関して1946年に出版されたVarga の書物が事例となった。
 イェネ・ヴァルガ(Jenő Varga, 1879-1964)はハンガリー出自の著名な経済学者で、短命のベラ・クーン(Béla Kun)共産主義共和国の崩壊以降はソヴィエト同盟で生活し、経済動向を観察して資本主義体制の危機を予測することを目的とする、世界経済研究所の所長だった。
 この書物で彼は、戦争が資本主義経済にもたらした永続的変化を検証しようとした。
 戦争がブルジョア国家に強いたのは、ある程度の経済計画を導入し、国家の機能を格段に肥大化させることだった。とくに、イギリスとアメリカ合衆国で。
 生産に対する販路の問題は決定的ではなくなり、市場を求めての闘いは国際問題の基本的な要因ではもうなくなった。
 しかしながら、資本の輸出が、いっそう重要性をもつようになった。
 予想され得るのは、アメリカ合衆国での過剰生産と西側ヨーロッパの戦時中の破壊が結びついて、資本主義がアメリカ資本をヨーロッパへと大規模に輸出することで救いを見出そうとする、そのような危機を生じさせるだろう、ということだった。
 ヴァルガの理論は1947年に、また再び1948年10月に、論議の対象となった。
 批判者、とくにスターリン時代の主要経済学者のK. V. Ostrovityznovは、ヴァルガを責め立てた。計画は資本主義のもとでも可能だと考えており、経済を政治と分離させており、そして階級闘争を無視している、と。
 ヴァルガは資本主義の一般的危機を看取することができていない。そして、ブルジョア国家に対する資本の力を強調するのではなく、国家は資本による制御のもとにあると想定するという過ちを冒した、とされた。
 加えて、ヴァルガは世界主義者で、西側の科学、改良主義、客観主義に屈服しており、かつレーニンを過少評価している、と追及された。
 こうした批判の拠り所は在来的なものだった。しかし、ヴァルガの書物の要点は、じつに、スターリニスト・イデオロギーと合致していない、ということにあった。
 資本主義は危機的状況を乗り越える方法をますます開発してきているとのヴァルガの結論的主張は、資本主義の矛盾は毎日のごとくますます激しくなってきており、資本主義の全般的危機はいっそう深刻になっている、というレーニンの教えおよび過去30年間の党の基本的考え方とは明らかに真反対のものだった。
 ヴァルガは最初の論議の後では自己批判を行わなかったが、1949年についに屈した。
 彼はその主要な役職を解任され、彼が編集していた雑誌は閉刊となった。
 しかしながら、ヴァルガは、スターリンの死後に名誉回復した。そして、その考え方を1964年に出版した書物で反復しかつ発展させた。その本で彼は、以前に考えられていた図式と矛盾する事実を認識しようとしないスターリンおよびスターリン・イデオロギストたちの教条的な無能力さを批判した。
 ロシアで刊行されなかったが彼の死後に西側に伝わった草稿では、ヴァルガはさらに進んで、こう主張していた。ロシアで社会主義を建設するというレーニンの企図は誤りだと分かった、ソヴィエト体制の官僚化の原因は部分的にはレーニンの誤った前提にある、と。//
 ----
 つぎの第5節の表題は、「物理学と宇宙論でのマルクス=レーニン主義」。

1918/L・コワコフスキ著第三巻第四章第3節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 ----
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第3節・1947年の哲学論争。
 (1)文学のつぎは、哲学が戒めを受ける番だった。
 党による運動の対象は、1946年に出版された、G. F. Aleksandrov の<西洋哲学史>だった。
 この書物の内容は完全に正統派で、マルクス=レーニン主義からの引用で充ちており、党に真に献身する気持ちで書かれていた。
 これはほとんど歴史的な価値のない、民衆むけの陳列書だったが、叙述する諸教理の「階級的内容」に十分な注意を払っていた。
 しかしながら、党が嗅ぎつけたのは、この書は西洋哲学のみを対象にしており、その叙述が1848年で終わっており、ロシア哲学の比類なき優越性を十分に描写していない、ということだった。
 1947年6月、中央委員会は大がかりな議論を組織し、そこでジダノフは、哲学に関する著者に対する訓令を定式化した。
 彼は演説の一部でAleksandrov の書物に触れ、これは党の精神を叙述していない、と宣告した。この著者は、マルクス主義は哲学の歴史上の「質的な跳躍」をしたもので、哲学が資本主義に対する闘争でのプロレタリアートの武器となる、そういう新しい時代の始まりを画したものであることを指摘していない、と。
 Aleksandrov は腐敗した「客観主義」に堕している。すなわち、多様なブルジョア思想家の思索をたんに中立的な精神で記録したにすぎず、唯一の正しい(true)、進歩的なマルクス=レーニン主義哲学の勝利のために果敢に闘うことを行っていない。
 ロシア哲学を割愛していること自体が、ブルジョア的傾向に屈服している標識だ。
 Aleksandrovの仲間たちがこの明瞭な欠陥を批判してこなかったことは、同志スターリンの個人的な介在のおかげで明らかになった。そしてそのことは、彼ら全員が「哲学戦線」にいるのではなく、彼ら哲学者たちがボルシェヴィキの戦闘的精神を喪失していることの明白な証拠だ。//
 (2)ジダノフがソヴィエト同盟の哲学上の仕事について定めた規範は、三点に要約できるだろう。
 第一に、哲学の歴史は科学的唯物論の誕生と発展の歴史であり、かつ観念論がその発展を阻害している間は観念論との闘争の歴史だ、ということを絶対に忘れてはならない。
 第二に、マルクス主義は、哲学上の革命だ。すなわち、マルクス主義はエリートたちの手から哲学を奪い取り、哲学を一般大衆の財産にした。
 ブルジョア哲学はマルクス主義の成立以降は衰亡と解体の過程にあり、価値のある何物をも生み出すことができないでいる。
 過去百年の哲学の歴史は、マルクス主義の歴史だ。
 ブルジョア哲学と闘うために舵をとる羅針盤となったのは、レーニンの<唯物論と経験批判論>だった。
 Aleksandrov の書物は「歯抜けの菜食主義者」の精神を示している。重要問題は階級闘争ではなく、ある種の普遍的な文化のごとくだ。
 第三に、「ヘーゲルの問題」はマルクス主義によってすでに解決されており、それに立ち戻る必要はない。
 一般論として、哲学者は過去を掘り返すのではなく社会主義社会の諸問題に参加し、現今の諸論点に関係しなければならない。
 新しい社会では、もう階級闘争は存在しない。しかし、新しき者に対する古き者の闘いはまだ残っている。
 この闘いの形態は、ゆえに進歩の主導的力および党が選ぶ道具は、批判と自己批判だ。
 これこそは、進歩的社会の新しい「発展に関する弁証法的法則」だ。//
 (3)「哲学戦線」の主要な構成員は全てこの議論に参加し、党の訓令に不和雷同し、マルクス主義に対する創造的な貢献をしかつソヴィエト哲学にあった誤りを是正したことについて同志スターリンに感謝を捧げた。
 Aleksandrovは儀礼的な自己批判を実施し、自分の著作が重大な過ちを含むことを承認した。それでもしかし、まだ慰めになったのは、彼の仲間たちが同志のジダノフによる批判を支持したことだった。
 Aleksandrov は党に対する揺るぎなき忠誠を誓約し、彼の方向を改めることを約束した。//
 (4)討議の間、ジダノフは、哲学に関する特別の雑誌の発行という考え方に反対し(三年前に<マルクス主義の旗の下に>が出版をやめていた)、党が月刊で出版する<ボルシェヴィキ>がこの分野の基礎を完全に十分に包含する、と論じた。
 しかしながら、最終的には、彼は譲歩して、<哲学の諸問題>の創刊に同意した。その第一号はその後すぐに刊行され、速記記録による討議の内容の報告を掲載した。
 最初の編集者は、V. M. Kedrov だった。この人物は、自然科学の歴史を専門にしており、たいていのソヴィエトの哲学者よりは文化を深く知っていた。
  しかしながら、彼は、この雑誌の第二号に著名な理論物理学者M. A. Markovの 「物理学的認識の自然」と題する論文を掲載するという、重大な過ちを冒した。その論文は、量子物理学の認識論的側面に関するコペンハーゲン学派の考え方を擁護するものだった。
 この論文は公式の週刊誌<Literary Gazettea〔文芸週報〕>でMaksimov によって攻撃され、Kedrov は見当違いだとして職を失った。//
 (5)1947年の議論は、ソヴィエトの哲学者が何をどのように書くべきかに関して疑問とする余地を、何ら残さなかった。
 かくして、ソヴィエト哲学の様式は、多年にわたり固定された。
 ジダノフは、スターリン・ロシアの時代に長く最高の権威を維持しつづけたエンゲルスの定式を反復するだけに抑えたのではなかった。その定式とは、哲学史の「内容」は唯物論と観念論の間の闘争だ、というものだ。
 新しい定式によれば、その真の内容は、マルクス主義の歴史だ。すなわち、マルクス、エンゲルス、レーニン、そしてスターリンの諸著作だ。
 換言すると、過去の理論家を分析したりそれらの階級的起源を解明したりすることは、哲学の歴史家が行うべき仕事ではない。彼らが行わなければならないのは、目的意識をもちかつ完全に、とっくに過去のものになったもの全てに対するマルクス=レーニン主義の優越性を証明し、一方で観念論の反動的な機能の「仮面を剥ぐこと」に、寄与することだ。
 例えば、アリストテレスについて叙述する際には、アリストテレスはあれこれのこと(例えば、個別的弁証法と普遍的弁証法)を「理解することができず」、あるいは恥ずかしくも観念論と唯物論との間で「揺れ動いた」、ということを示さなければならない。
 ジダノフの定式がもった効果は、事実上は哲学者たちの間の違いを排除することだった。
 唯物論者でありかつ観念論者である者が、つまり「揺れ動いた」者または「一貫しない」者がいたのだ。そして、そうしたことがこの定式の目的だった。
 この時代の哲学の出版物を読む者は誰でも、つぎのような印象を確実にもつだろう。すなわち、哲学の全体が「物質が始原的」と「精神が始原的」という二つの対立する主張から成っており、前者の見方が進歩的で、後者は反動的で迷信的だ、とされていること。
 聖アウグスティヌスは観念論者で、B・バウアー(Bruno Bauer)も同様だった。そして、読者の印象に残るのは、これらの哲学者たちは多かれ少なかれみな同じだ、ということだった。
 長く引用しないままでは、この時代のソヴィエト哲学の成果が信じ難いほどに未熟だったと理解するのは、検証していない者にとっては困難だろう。
 全体的に、歴史的研究は壁に打ち当たった。哲学の歴史に関する書物はほとんど出版されず、哲学上の古典の翻訳書についてもそうだった。アリストテレスとLucretius の<De Natura>を除いては。
 受容された唯一の歴史は、マルクス主義の歴史、またはロシア哲学の歴史だった。
 前者は、四人の古典を薄めて叙述したもので成り立っており、後者は、ロシア哲学の「進歩的な貢献」と西側の著作に対する優越性にかかわっていた。
 かくして、Chernyshesky はいかにフォイエルバハよりもはるかに優れているかを示したり、ヘルツェン(Hertsen)の弁証法、Radishchev の進歩的美学、Debrolyubov の唯物論等々を称賛する論文や小冊子があつた。//
 (6)もちろん、イデオロギー的迫害は、論理の研究を省略したわけではなかった。マルクス=レーニン主義でのその位置は、最初から疑わしいものだったが。
 一方で、エンゲルスとプレハノフは、全ての運動と発展に内在する「矛盾」について語った。そして、彼らの定式からすると、矛盾の原理、ゆえに形式論理一般は、普遍的な有効性を主張できないもののように見えた。
 他方で、古典著作者の誰も、論理を明白には非難しなかった。レーニンも、論理は基礎的な次元で教示されるべきものということに好意的だった。
 ほとんどの哲学者が当然のこととしていたのは、「弁証法的論理」は思索のより高い形態であり、形式論理は運動という現象には「適用できない」、ということだった。
 しかしながら、いかにして、またいかなる程度にこの「限定された」論理を受容できるのかは、明白でなかった。
 哲学の著作者たちは、一致して「論理形式主義」を非難した。しかし、誰も、これと、狭い限定の範囲内では許される「形式論理」との間の違いを正確に説明することができなかった。
 1940年代遅く、基礎的論理は中高等学校の高学年や哲学学部で教育された。
 若干の教科書も出版された。一つは法学者のStrogovich のもので、もう一つは哲学者のAsmus のものだった。
 イデオロギー的な整理の仕方は別として、これらは旧態依然の手引書だった。アリストテレスの三段論法以上に進むことはほとんどなく、現代的な記号論理学(symbolic logic)を無視していた。つまり、いずれも19世紀の高等学校で用いられた教科書によく似ていた。
 しかしながら、Asmus のものは、党精神に欠け、かつ政治的意識が希薄で形式主義的でイデオロギーに問題があるとして、激しく攻撃された。こうした批判がなされたのは、高等教育省が1948年のモスクワで組織した討議でだった。
 政治を無視しているという追及がなされた主要な理由は、Asmusが三段論法的推論の例として、戦闘的イデオロギーの内容を欠く「中立的」前提を選択したことにあった。//
 (7)哲学者たちにとって現代論理学は、封印された分野だった。
 しかしながら、完全に無視されたのではなかった。それは、技術的諸問題に集中し、彼らに災厄を招いただけだろう哲学上の議論に巻き込まれないように気を配っていた、数学者たちの小集団のおかげだった。
彼らの尽力によって、記号論理学に関する二つの優れた書物の翻訳書が、1948年に出版された。すなわち、Alfred Tarski の<数学的論理学>と、Hilbert とAckermannの<理論論理学の基礎>だ。
 さもなければ無名だった者が執筆した論文<哲学の諸問題>は、これらの書物を「イデオロギー上の転換>だとして非難した。
 この分野でのある程度の改善は、1950年に哲学に関するスターリンの小論によってなされた。論理の擁護者たちが、言語のごとく論理には階級がない、つまり論理のブルジョア的形態とか社会主義的形態とかはなくて全人類に有効なただ一つの形態がある、とする見解を支持するために呼びかけたときに。
 形式論理の地位とそれの弁証法的論理との関係は、スターリン時代におよびその時代のあとで、しばしば議論された。
 ある者は、論理には形式的と弁証法的の二種があり、それぞれが異なる事情へと適用される、前者は「認識の低い次元」を示すものだ、と主張した。
 別の者は、形式論理だけが言葉の正しい意味での論理だ、論理は弁証法と矛盾はしないものだが、弁証法は科学的方法に関する別の、非形式的な規範を提供する、と考えた。
 全体としては、「形式主義」批判は、ソ連邦での論理研究の一般的水準を落とすのに役立った。それはすでに極めて低いものだったが。//
 (8)ソヴィエトの哲学は、スターリン支配の最後の数年に、どん底に落ちた。
 哲学に関する団体や定期刊行物を継続させたのは、奴隷根性、告げ口、その他類似の党に対する奉仕だけが資格であるような人々だった。
 この時期に出版された弁証法的唯物論や歴史的唯物論に関する教科書は、その知的貧困さにおいて悲惨なものだ。
 その典型的な例は、F. V. Konstantinov が編集した<歴史的唯物論>(1950年)と、M. A. Leonov の<弁証法的唯物論概要>(1948年)だった。
 Leonov の本は、別の哲学者で戦争で死んだF. I. Khaskhachikh の未出版の原稿から大部分を盗作(crib)したものだと暴露されて、流通しなくなった。
「哲学戦線」のすでに言及した以外の構成員たちは、D. Chesnokov、P. Fedoseyev、M. T. Yovchuk、M. D. Kammari、M. E. Omelyanovsky (Msakinovと同じく物理学での観念論に対する見張り役だった)、S. A. Stepanyan、P. Yudin、およびM. M. Rosental だった。
 最後の二人は、権威をもった<コンサイス哲学辞典>を編纂し、この本は数版を重ね、改訂版も出た。//
 (9)スターリン時代を通じてずっと、ソヴィエト同盟には言及すること自体に値する哲学に関する一冊の書物も出現しなかった、当時の知的文化の状態を指し示す者やその名前を記録する価値のある哲学著作者は一人も存在しなかった、と安全に言うことができる。//
 (10)つぎのことを追記しておこう。この時期には、哲学上の諸著作から独自性のある思想や個性的な様式を排除する、制度的な装置が存在した。
 ほとんどの書物は、出版の前に、一つのまたは別の哲学小集団によって討議された。そして、きわめておずおずと教理問答書(catechism)の拘束を超えようとすらして、それらの書物を責め立てて党の警戒心を示すのは、関係者の義務だった。
 このような活動はしばしば、同じ文章でもって履行された。その結果は、全ての書物が事実上は同一になる、ということだった。
 上で言及したLeonov の事例は、注目すべきだ。想像され得るかもしれないが、剽窃した叙述(plagiarism)は感知されることがなく、執筆者の書き方はお互いによく似ていたのだから。//
 ----
 つぎの第4節の表題は「経済論議」。

1917/L・コワコフスキ著第三巻第四章第2節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊(瓦解、The Break Down)の、つぎの三つの章全体と四つめの章の第一節まではこれまでに、「試訳」をこの欄に掲載している。
 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の第一段階-スターリニズムの開始。
 第2章・ソヴィエト・マルクス主義の1920年代の理論闘争。
 第3章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 および、
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
  第1節・戦時中という幕間。<№1893、2018/12/16>
 このあとに続く、第2節から再続行する。段落の冒頭に原書にはない数字番号を付す。なお、第5章の標題は「トロツキー」(分冊版でp.183-p.219)。
 ----
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第2節・新しいイデオロギー攻勢。
 (1)戦争が終わったとき、ソヴェト・ロシアには莫大な人的損失があり、経済は破滅の状態にあった。
 だが、世界でのその地位は、したがってスターリンの個人的威厳は、きわめて高くなった。
 スターリンは、戦争の混乱の中から、偉大な政治家、優れた戦略家、そしてファシズムの破壊者として登場してきた。
 戦争が過ぎ去りヨーロッパでのソヴィエト征服地が確保されたため、独裁者は、戦時中の「リベラリズム」による有害な影響から転換させて、その権力を和らげる意図を政府は持たないとロシア民衆に教え込み、戦争によって世界のプロレタリアートの祖国以外の諸国を知った者たちにできる限り早くその光景を忘れることを強いるために、新しいイデオロギー攻勢を開始した。
 (この政策のとくに劇的な例は、解放されて西側連合により引き渡されたソヴィエトの戦争捕虜たちの全員を、強制収容所(concentration camp)へと追放したことだった。)
 テロルと戦争の「真正さ」は、これらで一緒になってマルクス主義のイデオロギー規準の緩和をもたらした。また、詩、映画その他の作品もそうだが、例えばV. P. Nekrasov やA. A. Bek の傑出した小説の登場でも示される、一定の文化的再生を生じさせた。//
 (2)1946年以降に始まった仮借なきイデオロギー運動は、かつてアレクサンダー二世が法王となるときに用いた「恍惚点!(- de rêveries)」との格言で要約されるかもしれなかった。
 目的はイデオロギーの純粋さを回復することだけではなく、新しい高さへとそれを挙げることだった。同時に、ソヴィエト文化を世界の外部との接触から離れさせることだった。
 全ての形態の知的生活は、これによって影響をうけた。文学、哲学、音楽、歴史学、経済学、自然科学、絵画および建築。
 それぞれの場合に、主題は同一だった。すなわち、西側に頭を下げるのをやめること、思想および芸術にある自立性の痕跡を全て破壊すること、スターリン、党そしてソヴィエト国家の称賛へと全ての形態の文化を集中すること。//
 (3)この政策の1946-48年の主任担当者は、ジダノフ(A. A. Zhdanov)だった。中央委員会書記の一人で、文化的自立性に対する闘争に熟達していた。
 1934年8月の全国作家同盟大会で党を代表して、ソヴィエト文学は世界で最も偉大であるのみならず唯一の創造的で発展する文学だ、一方で全てのブルジョア文化は衰亡と腐敗の状態にある、と述べたのは、この人物だった。
 ブルジョアの小説は、悲観主義に充ちていて、著者たちは資本主義に身を売っており、彼らの主人公はたいていは泥棒、売春婦、スパイ、不良少年だ。
 「ソヴィエト作家の大きな一団は今やソヴィエトの権力と党と一体となり、党の指導を受け、中央委員会の配慮と日常的な協力、および同志スターリンの絶えざる支援を得ている。」
 ソヴィエト文学は楽観的でなければならず、「前を向いて」いなければならず、労働者と集団的農民の根本教条に奉仕しなければならない。//
 (4)ジダノフ(Zhdanov)の戦後最初の重要な行動は、二つのレニングラードの雑誌、<Zvezda(星)>と<レニングラード>を攻撃することだった。
 これらの雑誌を非難する決議が、1946年8月の中央委員会によって採択された。
 主要な犠牲者は、著名な女性詩人のAnna Akhmatova(アフマトワ) とユーモア作家のMikhail Zoshchenko だった。
 ジダノフはレニングラードで演説を行い、この二人を激しく攻撃した。
 Zoshchenko は、ソヴィエト人民を悪意をもって中傷している。彼はレニングラードで自由に生活するよりも動物園の檻の中でいた方がよいと決める猿に関する物語を書いた。これは明らかに、Zoshchenko が人間を猿の水準に落とすのを欲していることを意味している。
 1920年代にすら、党の精神の欠如した非政治的な作品を作り出していた。そして、社会主義建設に関係しようとは何も欲しなかった。彼は「文字通りの不潔なネズミで、原則がなく、自覚もない」。
 Akhmatova について言うと、「カトリーヌの良き古き時代」を色狂って神秘的に懐かしんでいる。<中略>「修道女と堕落した女のいずれかと言うのは困難だ。おそらく、そのどちらでもあるという方がよい。欲望と祈りとが捻れ合っている」。
 レニングラードの雑誌がこうした者たちの作品を掲載したことは、文学が悪い方向にあることを示している。
 多数の作家たちは腐敗したブルジョア文学を真似ており、別の作家は今日的主題から逃れるために歴史を利用している。そして、ある者は、プーシキンを風刺すらした。
 文学の仕事は、青年たちに愛国心と革命的熱情とを喚起させることだ。
 レーニンが断定したように、文学は政治的で、かつ党の精神で染められたものでなければならない。ブルジョア文化の腐敗を暴き、ソヴィエト人民の偉大さを示さなければならない。今日にそうだとしてのみならず、将来にもそのようなものとして。//
 (5)ジダノフの明瞭な指令は、ソヴィエト文学のその後数年間の進路を設定した。
 イデオロギー的に無色の作家たちは、より悪くはならなかったとしても、沈黙を強いられた。
 Fadeyev のような正統派のほとんどは、新しい仕様書に合うように彼らの作品を修正した。
 「前向きの」文学でなければならないということは、実際には、ソヴィエト体制をそのままににではなく、イデオロギーがそうだと要求しているように表現する、ということだった。
 この結果として生じたのは、党を賛美しソヴィエトの生活の美しさを称揚する、奇妙に甘酸っぱい(saccharine)文学作品の洪水だった。
 印刷される言葉は、ほとんど完全に、ご都合主義者と阿諛追従者へと身を落とした。//
 (6)音楽が別のものとされたのではなかった。
 1948年7月、ジダノフは作曲家、指揮者、批評家の会議で演説を行い、ブルジョア音楽の腐敗を攻撃し、より多くの愛国的ソヴィエトがもつ多様性を呼びかけた。
 すぐに反応したのは、ジョージアの作曲家のMuradeli のオペラ<偉大な友情>だった。
 この作品は、最大限の意図としては、革命の直後にはロシアと闘ったがすみやかにソヴィエト体制に順応したコーカサスの民衆-ジョージア人、Lezgian 人およびOssetes 人-を表現していた。 
 ジダノフは、そのようなものでは全くない、と言った。すなわち、民衆たちは最初からソヴィエト権力のために闘ったのであり、ロシア人と協力してきたのだ、と。
 チェチェン人やIngush ではなかった唯一の者たちは-ジダノフはこのことに言及しなかったけれども誰もと同じくよく知っていた-、ナツィ=ソヴィエト戦争の間に<一塊で>追放された。そして、彼らの自治共和国は、地図から抹消された。
この例に満足しないでジダノフは、グリンカ、チャイコフスキーおよびムソルグスキーのごときロシアの偉大な伝統を継承することをしないで西側の新奇なものに霊感を求めている作曲家に対する一般的な攻撃を開始した。
 ソヴィエト音楽は、イデオロギーの他の様式よりも「立ち後れている」。作曲家たちは、「音楽の真実」や「社会主義リアリズム」から離れて「形式主義」に屈服している。
 ブルジョア音楽は反人民的であり、形式主義か自然主義かのいずれかで、どちらにせよ「観念論的」だ。
 ソヴィエト音楽は人民に奉仕しなければならない。すなわち、オペラ、歌、合唱曲には必要なものがあるにもかかわらず、形式主義に汚染された作曲家たちは些細なものだとしてそれを見下している。
 そのような作曲家は標題音楽(programme music)を横目で見ているが、ロシアの古典音楽のたいていは、その種から生まれている。
 党は絵画について、反動的で形式主義的な傾向をすでに克服し、VereshchaginやRepin の健康な伝統を再確立した。だが、音楽はまだ、後進的だ。
 ロシアの古典遺産は卓絶したものだ。そして、作曲家は、音楽劇の作者はもちろん、繊細な「政治的な耳」を持たなければならない。//
 (7)こうした説諭の結果は、遅滞なく表れた。
 ジダノフの演説の前に作曲されていたハチャトリアン(Khachaturian)のピアノ協奏曲をそのバイオリン協奏曲と比較すれば、そのことが分かる。
諸作品の中でも第九交響曲が批判されていたショスタコヴィチ(Shostakovich)は、スターリンの林業計画を称賛する一頌(ode)を作って修正を加えた。そして、多数のその他の音楽家が、彼らのイデオロギー上の障壁を修繕した。この当時に最も好まれた作曲様式は、党、国家そしてスターリンを賛美するオラトリオ(聖譚曲)だつた。//
 (8)文学や音楽に対しての運動は、この時期のスターリンの諸政策の全体的基本方針を反映していた。それは、戦争がかりに生起する場合に備えてのイデオロギー上の威嚇であり、物理的および精神的な再武装だった。
 この基本方針の基礎にあったのは、人間界を二つの陣営に分かつことだった。一つは、腐敗して、衰微している帝国主義の世界で、自己矛盾の重みでもってまもなく崩壊する運命にある。もう一つは「社会主義という平和の陣営」、進歩の城砦だ。
 ブルジョア文化はその定義上反動的で退廃的だ。そして、それに肯定的な価値を見る者は全て、大逆罪を犯しており、階級敵の利益に奉仕している。//
 ----
 つぎの第3節の標題は、「1947年の哲学論争」。

1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第6章・革命の終わり/第3節・テロル。(P)は大文字のPurge=「大粛清」。(p)=purgeは「粛清」または「浄化」とした。
 気づいていなかったが、最後に、一行の空白後に、この第3節ではなく書物全体を想定しているとみられる「むすび書き」がある。「おわりに」と勝手に名づけて、第3節の本文・注よりも後に紹介した。
 今回で、丸数字記号のある⑳回までを予定していた「試訳」が、予定どうり、いちおう終了する。翻訳が生業ではないこと、一つの言葉や文章の意味に一時間以上拘泥して呻吟したところでこの作業は一円・一銭の個人的利益にもならないのだから、不備・不正確さ等々があるのはむしろ当然のことだろう。
 ----
 第3節・テロル(The Terror)。
 (1)「おお読者よ、我々は言おう。黄金時代はとば口まで押し迫っているが、-裏切り者がいるおかげで-収穫と言えるようなものは何もまだ獲得できていない、と想像してほしい、と。
 どんな勢いと力を使えば裏切り者たちを打倒することができるのか、あのような場合に! <中略>
 人間男女にある気質について言うと、つぎの一つの事実を挙げるだけで十分だろう。すなわち、<<猜疑心(SUSPICION)>>がいかほどまで大きくなったか、という事実だ。
 我々はしばしば、どうやら誇張した言葉遣いだったようだが、それを超自然的(preternatural)だと称した。しかし、目撃者の冷静な証言類に、耳を傾けてほしい。
 一人の音楽憂国者も、屋根の上にやさしく哀しげに座って、自分でフランス・ホルンを使って旋律を吹くことはできない。しかし、感謝心があれば、策略委員会が別の新しいものを作る合図だとそれに気づくだろう。<中略>
 奥深くまで見通すことのできるLouvet は、議員たちの請願によって我々が古い乗馬会館へ復帰するに違いない、そして、無政府主義者たちが歩いている途中の我々のうち22人を殺戮するだろうと、察知している。
 これは、Pitt 〔小ピット・イギリスの当時の首相〕とCobourg の策略だ。Pitt の金銀による策略なのだ。<中略>
 後ろで、周りで、前で、巨大で超自然的な操り人形の舞台劇が演じられている。Pitt が黒幕となって操っているのだ。」(27)
 (2)これは、フランス革命についてのカーライル(Carlyle)の文だ。だが、ソヴィエト同盟の1936-37年の気分を想起させるものとして、これよりも優れているのはほとんどない。
 1936年7月29日、党中央委員会は、全ての地方党組織に対して、「トロツキー=ジノヴィエフ派反革命ブロックに対するテロル活動に関して」という秘密文書を送った。これは、以前の反対派諸グループは、「スパイ」、挑発者、妨害者、白衛軍およびソヴェト権力を憎悪するクラクたちを惹き付ける磁場になっており、レニングラード党指導者であるセルゲイ・キーロフの殺害について責任がある、と言明するものだった。
 警戒心-いかほどに偽装がうまくとも、党の敵を見分ける能力-は、全ての共産党員の不可欠の態度だ。(28)
 この文書は、大粛清のうちの最初の見せ物裁判(show trial)への序曲だった。
 その最初の裁判は8月に行われ、二人の反対派指導者であるL・カーメネフ(Lev Kamenev)とG・ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)はキーロフ(Kirov)殺害の共犯者だとされ、死刑を宣告された。//
 (3)1937年初めに行われた第二回めの見せ物裁判では、工業分野での破壊や罷業に力点が置かれた。
 主要な被告人はYurii Pyatakov で、この人物はかつてトロツキー派、1930年代の当初以降は重工業人民委員部でOrdzhonikidze の右腕だった。
 同じ年の6月、元帥のトゥハチェフスキー(Tukhachevsky)とその他の軍事指導者たちが、ドイツのスパイだとして訴追され、秘密の軍事法廷のあとで直ちに処刑された。
 1938年3月に行われた最後の見せ物裁判では、ブハーリンと、以前の右派指導者のルィコフおよび以前は秘密警察の長だったGenrikh Yagoda が、被告人の中にいた。
 古いボルシェヴィキである被告人たちは、多彩で異様な犯罪を公的に自白し、法廷では状況の詳細を長く陳述した。
 彼らのほとんど全員が、死刑を宣告された。(29)//
 (4)キーロフや作家Maxim Gorky の殺害のような派手な犯罪とは別に、体制に対する民衆の不満を煽り体制打倒を促進するための経済的妨害となる多数の行為を、陰謀者たちは自白した。
 それらの中には、多数の労働者が死んだ鉱山や工場での事故の企画実行も含まれていた。そうした事故は賃金支払い遅延の原因となり、品物の配分を停止させた結果として、農村地帯の店には砂糖やタバコがなくなり、都市のパン屋は品切れになった。
 陰謀者たちはまた、習癖として欺瞞を行い、反対派とは縁を切ったふりをし、党の基本方針への貢献を宣言してはいたが、私的にはその間ずっと、同意せず、疑念をもち、批判してきた、と告白した。//
 (5)外国の諜報員たち-ドイツ、日本、イギリス、フランス、ポーランド各国の者たち-が、こうした陰謀の背後にいるとされた。彼らの究極的な目的は、ソヴィエト同盟への軍事攻撃を仕掛け、共産主義体制を打倒し、資本主義を復活させることだった、と。
 しかし、多数の陰謀の核心にいたのは、トロツキーだった。トロツキーは、ゲシュタポ(Gestapo)のみならず、(1926年以降!)外国諸勢力とソヴィエト同盟内部の彼の陰謀網との間を媒介した、イギリス諜報機関の一員だったと主張された。
 (6)大粛清は、ロシア革命でのテロルの、初めての出来事ではなかった。
 「階級敵」に対するテロルは、内戦の一部だった。テロルは、集団化や文化革命の一部でもあった。
 実際にMolotov は1937年に、、Shakhty 裁判や文化革命時の「工業党」裁判から現在の裁判まで、一つの線が繋がって続いている、と述べた。
 -但し、ソヴェト権力破壊の陰謀者たちは、今回は「ブルジョア専門家たち」ではなくて、共産党員たちだという重要な違いはあるのだが。すなわち、共産主義者(共産党員)たち、または少なくとも、「仮面を被って」、党や政府での上層の職へと何とかして這い上がってきた者たちだ、という違いが。
 (7)上級階層者の大量の逮捕は、1936年の後半に始まった。とくに工業の分野で。
 しかし、スターリン、モロトフおよびニコライ・エゾフ(Nikolai Ezhov)(秘密警察が1934年に改称したNKVDの新長官)が魔女狩りを本当に開始する合図を発したのは、1937年、中央委員会の2-3月会合でだった。(31)
 1937年と1938年のまる2年の間、共産党官僚の最上層の者たちが官僚機構の全ての分野で-政府、党、工業、軍事、財政およびさらに警察まで-非難され、「人民の敵」だとして逮捕された。
 ある者たちは、射殺された。別の者たちは、強制収容所へと消えた。
 フルシチョフは第20回党大会への秘密報告で、1934年の「勝利の大会」で選出された中央委員会委員および委員候補の139名のうちほとんど41パーセントが大粛清の犠牲者となつた、と明らかにした。
 指導部の継続性は、ほとんど完全に破壊された。粛清(P)が破壊したのは、古いボルシェヴィキ仲間のうちの残存者のほとんどだけではなく、内戦期および集団化の時期に形成された党の仲間たちの大部分だった。
 1939年の第18回党大会で選出された中央委員会委員のうち24名だけが、5年前に選出された元委員だった。(32)//  
(8)高い地位にいる共産党員たちは、大粛清(P)の唯一の犠牲者ではなかった。
 知識人層(古い「ブルジョア」知識人層と1920年代の共産党員知識人層、とくに文化革命の活動家たち、の両者を含む)は、酷い打撃を受けた。
 以前の「階級敵」-全ての革命的テロルのーに通例の、1937年のように特別には何も企図していなかったときですら、容疑者だ-、およびかつて何らかの理由でブラック・リストに掲載されたことのある他の誰もが、同様だった。
 国外に縁戚関係者をもつ者や外国との関係がある者は、とくに危険だった。
 スターリンは、再犯者、馬泥棒、および拘禁記録のある宗教聖職者たちも含めて、数万人の「旧クラクおよび犯罪者たち」を逮捕させる特別の命令すら発したことがあった。
 そして、射殺するか、または強制収容所へと送り込んだ。
 加えて、現時点で強制収容所で刑に服している1万人の常習犯者は、射殺されるものとされた。(33)
 大粛清(P)の全様相は長年にわたって西側での研究の対象だったが、研究者たちが従前は利用できなかったソヴィエト文書庫を探求するにつれて、より明確になり始めた。
 NKVD文書によれば、強制労働収容所での犠牲者数は、1937年1月初めからの二年間で、50万人に昇り、1939年1月1日に130万人に達した。
 あとの年、1939年に、強制収容所の40パーセントは、「反革命」罪の有罪者で、22パーセントは「社会的に有害又は危険な要素」だと分類されており、残りのほとんどは、通常の犯罪者だった。
 しかし、多数の大粛清(P)犠牲者は監獄(刑務所)で処刑されており、強制収容所まで行きついていない。
 NKVDが記録するところでは、そのような処刑は1937-38年に68万件を超えていた。(34)//
(9)何が大粛清の要点だったのか?
 <国益(raison d'état)>(潜在的な戦争中の第五列(Fifth Column)を根とする語)という意味からの説明は、納得し難い。
 全体主義的な必要性という趣旨からする説明は、何が全体主義的必要性なのかという問題に戻るだけだ。
 革命という文脈の中で大粛清という現象を考察するとすれば、問題は少しは当惑しないものになる。
 敵に関する猜疑心は、Thomas Carlyle がこの節の最初に引用した1794年のジャコバン・テロルに関する文章で生々しく描写する、革命の心性の標準的な特質だ。
 -敵とは、外国勢力の金銭を受け、しばしば仮面を被り、革命を破壊して人民に苦痛を負わせる継続的な陰謀に従事している者たちだ。
 正常な環境にいれば、人々は、一人の有罪の人間を解き放つよりも十人の無実の人間が殺される方が良い、という考え方を拒否する。
 革命という異常な情況のもとでは、人々はしばしば上の考えを受け容れる。
 卓越した性格をもつことは、革命の時期での安全を保障しない。むしろ、逆だ。
 大粛清が革命的指導者を偽装した多数の「敵」を曝け出したということは、フランス革命を学んだ者にとっては驚くべきことではないはずだ。//
 (10)大粛清の革命上の起源を跡づけるのは、困難なことではない。
 すでに記したように、レーニンは革命的テロルに対する良心の呵責を何らもっておらず、党の内部であれ外であれ、反対者たちに寛容ではなかった。
 にもかかわらず、レーニンの時代には、党の外部にいる反対者に対処するために許され得る手段と、党内部の異端者に対して用いることのできる手段との間には、明瞭な区別がなされていた。
 古いボルシェヴィキたちは、党内の意見不一致は秘密警察の射程の外部にある、という基本的考え方を支持していた。なぜなら、ボルシェヴィキは、自分たちの同志に対してテロルを行使するというジャコバンの例に、決して従ってはならなかったからだ。
 この基本的な考えは立派なものだが、しかしながら、ボルシェヴィキ指導者たちがこのことを確認する必要があったという事実は、党内部の政治に関して、何がしかのことを語っている。
 (11)1920年代早く、ボルシェヴィキ党の外部からの組織的な反対が消滅して党内分派が公式に禁止されたとき、党内の反対派集団は事実上は、党外にいた旧来の反対派の位置を継承した。
 そうだとすると、党内反対派たちが同様の措置を被り始めたとしても、何ら驚くべきことではなかった。
 ともかくも、1920年代遅くにスターリンがトロツキー派に対して秘密警察を用い、そして(1922-23年のカデットとメンシェヴィキの指導者に対するレーニンの措置を模範として)トロツキーを国外に追放したとき、共産党内部には大きな抗議の声は何ら起こらなかった。
 文化革命の間、堕落した「ブルジョア専門家たち」と近接して仕事をした共産党員たちには、愚かさ以上の何がしかの悪に対する責任追及がされる危険があるように見えた。
 スターリンは右翼主義者たちを引き戻し、彼らが権威ある地位にとどまるのを許しすらした。
 しかし、これは不本意なものだった。つまり、スターリンが-そして共産党の多数の党員たちが-いったん反対派の者になった党員たちに対して寛容であるのは、明らかに困難なことだった。//
 (12)大粛清の起源を理解するために重要な革命的実務は、1920年代初頭から党が行った党員の定期的な「浄化(cleansing)」(<chistki>、または小文字の "p" の粛清(purges))だった。
 この党員浄化の頻度は1920年代末から増加した。すなわち、1929年、1933-34年、1935年および1936年に行われた。
 党員浄化では、党員の全員が粛清(p)委員会の前に立って、公然と委員たちの批判または告発を経由して秘密裏になされる批判に反駁して、自分の正当化をしなければならなかった。
 粛清〔p=浄化〕が繰り返されたことの結果として、後になって古い攻撃が蒸し返された。そして、これから逃れることは事実上不可能になった。
 望ましくない縁戚関係、革命前の別の政治諸党派との関係、党内反対派への帰属の経歴、過去の醜聞や譴責、そしてかつての官僚機構上の過失や帰属意識の混乱すら。-これら全てが党員たちの首の周りに掛かっていて、年を経るごとに重たくなっていった。
 党は不相応で信頼できない党員たちばかりだとの党指導者たちの猜疑心は、それぞれの連続した浄化〔粛清(p)〕によって沈静化するどころか、激化したように見えた。//
 (13)さらに加えて、各粛清(p)は、体制にとっての潜在的な敵をさらに多くした。
党から放逐することとなる粛清(p)は、社会での地位や上昇の見込みに対する逆風を受ける、という災難を被る蓋然性があったからだ。
 1937年、一人の中央委員会委員が隠れて、現在の党員数よりも多い<かつての>党員たちがたぶんこの国にはいる、と示唆した。これは明らかに、その人物およびその他の者たちはひどく不安に感じている、という考えだった。(35)
 党にはすでに、多数の敵がいたのだ!-その多数の者が隠れているのだ!
 革命の間に特権を失った者、聖職者等々の、かつての敵はいた。
 今では、階級としてのクラクやネップマンの絶滅という近年の政策の犠牲となった<新しい>敵がいた。
 個々のクラクが脱クラク化される前に確信的なソヴィエト権力の敵だったか否かは別として、そのクラクは確かに、その瞬間にはそれになっていた。 
 このことに関して最も悪悪だったのは、多数の収奪されたクラクたちが都市へと逃亡し、新しい生活を始め、彼らの過去を隠し(職を得るためにはこうしなければならなかった)、誠実な労働者のごとく見せかけたことだった。-要するに、革命に対する隠れた敵になったのだ。
 どれだけ多くの明らかに献身的な若いコムソモール団員(Komsomols)が、彼らの父親たちはかつてクラクまたは僧職者だったという事実を隠しているだろうか!
 スターリンが警告したように、個々の階級敵は、敵階級がいったん破壊されてしまったとすれば、<より危険にすら>なるのは、何ら不思議ではない。
 もちろん、破壊の行為は個人的に傷つけるものだったために、彼らはそうなった。
 彼らは、ソヴィエト体制に対する不服をもつ現実的でかつ具体的な基本的教条を与えられていた。//
 (14) 共産党管理機構員がもつ党員を告発する資料書の冊数は、年ごとに増大した。
 地方官僚による「職権濫用」を抑える運動が原因となったのだすれば、これは、通常の市民たちが告発文を書くよう奨励した、スターリン革命の大衆迎合的(populist)的側面の一つだった。
 そして、告発を契機とする調査は、しばしば地方官僚の解任を生じさせた。
 しかし、多数の苦情は、正義のためという誘因と同様程度には、悪意をもって対処する動機を与えることになった。
 一般化していた、特別の攻撃心が惹起したのではない不平不満の感情は、集団農場の経営者や農村地域の官僚の告発の多くを引き起こしたものだった。怒りにみちた集団農場員たちは、1930年代に莫大な数の告発書を書いた。(36)//
 (15)大粛清は、民衆の関与がなくしては実際のようには膨れ上がることはできなかっただろう。
 現実的な不満にもとづく上司たちに対する苦情と同等の役割を、自分本位の告発は果たした。
 スパイ狂が、突如として燃え上がった。過去20年間に頻繁にあったのと同様に。
 例えば、Lena Petrenko という若きピオネールの一人は、ドイツ語が話されるのを聴いて、夏キャンプからの帰路の列車上でスパイを捕まえた。別の注意深い市民は、宗教的托鉢者の顎髭を引っ張って手にそれが落ちたとき、前線から来ていたスパイを発見した。(37)
 役所や党細胞での「自己批判」集会では、恐怖と猜疑心が混じり合って、生け贄が作り出された。病的な(hysterical)追及の仕方であり、弱い者いじめだった。//
 (16)しかしながら、これは民衆によるテロルとは何かが異なっていた。
 フランス革命時のジャコバン・テロルのように、国家によるテロルであり、最もよく目に見える犠牲者は、かつての革命指導者たちだった。
 革命的テロルの先例とは対照的に、自然発生的な民衆によるテロルは、ごく一部だけだつた。
 さらに、テロルの対象は、元来の「階級敵」(貴族、聖職者およびその他の革命へり現実的対抗者)から、革命それ自体の隊列の中での「人民の敵」へと移行した。//
 (17)だが、二つの革命事例でのこのような違いは、類似点と同様に、些細なものだ。
 フランス革命では、革命煽動者ロベスピエール(Robespierre)は、その犠牲者として終末を迎えた。
 これとは対照的に、ロシア革命の大粛清では、主要なテロリストのスターリンは、無傷で生き延びた。
 スターリンは最終的には、忠実な道具だった者たちを殺した(1936年9月から1938年12月までNKVD長官だったエゾフ(Ezohov)は、1938年春に逮捕され、のちに射殺された)。
 しかし、スターリンが事態が制御外へとひどく離れていると感じ、彼自身がかつて危険にさらされていたというMachiavelliの慎重さ以外の何らかの理由によってスターリンはエゾフを排除した、といったことを示すものは存在していない。(38)
 1939年3月の第18回党大会での「大量粛清」との批判や警戒心の「行き過ぎ」の暴露は、静かに行われた。
 スターリンは、自分自身の演説の中で、そうした問題については注意をほとんど払わなかった、と述べた。大粛清(P)はソヴィエト同盟を弱めたという外国の報道についてはそれを論駁するために、わずかな時間を費やしたのだったが。(39)//
 (18)モスクワ見せ物裁判の文書や2-3月中央委員会会合でのスターリンやモロトフの演説原稿を読むと、事態の進行の劇的さのみに衝撃を受けるのではない。衝撃的なのは、それらにある芝居気分、謀りと計略の感覚、同僚者たちが裏切り者だったという報せに対しての、生々しい感情的反応の一切の欠落、だ。
 これは、明確な違いのある、革命的テロルだ。
 映画の原作家でかりにないとしても、その映画の監督の手の存在を、感じる。//
 (19)マルクスは<The 18 Brumaire of Louis Bonaparte(ルィ・ボナパルトのブリュメール十八日)>で、有名な論評を加えた。-偉大な全ての事件は、二度演じられる。一度めは悲劇として、二度めは笑劇(farce)として。
 ロシア革命での大粛清は笑劇ではないけれども、再演されるものの特徴を何がしかもっていた。記憶にある、最初の模範劇で演じられた何かを。
 ロシアのスターリン伝記の作者が示唆するように、ジャコバンのテロルはスターリンにとって一つの模範として役立った、と言うこは可能だ。確かに、スターリンが大粛清に関係するソヴィエトの論議に持ち込んだ「人民の敵」という言葉は、フランス革命での用語に、先立つ例がある。
 その光を当てれば、増大した告発書や民衆の疑心の蔓延というバロック仕立ての設定がなぜ、政治的な敵を殺すという比較的に単純な目的を達成するために必要だったか、を理解することが容易になる。
 実際のところ、さらに進んで、つぎのように記述したくなる。すなわち、古典的な革命の推移によればテルミドールに後続してはならずそれら先立たなければならないテロルを実施するにあたって、スターリンは、自分の支配は「ソヴィエトのテルミドール」になったとするトロツキーによる非難に自分は明確に反駁しているのだ、と感じていたかもしれない、と。(40)
 フランス革命のテロルを小さいものとすら思わせる革命的テロルが現実に行われたあとで、いったい誰が、スターリンはテルミドール的反動家だ、彼は革命に対する裏切り者だ、と言うことができるだろう?//
 --------
 (27)Thomas Carlyle, <フランス革命>(London, 1906), ⅱ, p.362. SUSPITION の全て大文字はFitzpatrickによる。〔=カーライル=高橋五郎訳・佛國革命史/下巻279頁(第三巻第三編第八章)(春秋社松柏館、1942年ーkindle版)を参照した。該当部分に間違いはないと見られるものの、ここで引用される英文とはやや異なることもあり、そのままの書き写しではない。〕
 (28)J. Arch Getty & Oleg V. Naumov<テロルへの途: スターリンとボルシェヴィキの自己破壊, 1932-1939年>(New Heaven, 1999), p.250-p.255.〔=川上洸一・萩原直訳・ソ連極秘資料集/大粛清への道-スターリンとボルシェヴィキの自壊 1932-1939年(大月書店、2001)
 (29)Rovert Conquest<大テロル: 1930年代のスターリンによる粛清>(London, 1968)はこの裁判を生き生きと描写している。新しい版は、同<大テロル: 再評価>(New York, 1990)。
 (30)Molotov, <ボルシェヴィキ>1937, no.8(4月15日)所収、p.21-22.
 (31)会合の資料につき、Getty & Naumov <テロルへの途>p.369-p.411.を見よ。
 (32)<フルシチョフ回想録>, Strobe Talbott訳・編(Boston, 1970), p.572. Grame Gill<スターリン政治体制の起源>(Cambridge, 1990), p.278.
 (33)1937年7月2日の政治局決定「反ソヴィエト要素について」はスターリンによって署名され、7月30日の活動指令は(NKVD長官の)Ezhov により署名されている。Getty & Naumov <テロルへの途>p.470-1.
 (34)これらの数字は、Oleg V. Khlevnyuk<グラクの歴史: 集団化から大テロルへ>(New Heaven, 2004), p.305, p.308, p.310-p.312による。これらの数字は労働強制収容所だけのものであることに注意。この数字は、労働植民区、監獄および行政的追放を含んでいない。
 (35)中央委員会の2-3月会合の議論で、Eikhe。Rossiiskii gosudarstvennyi arkiv sotsial'nopoliticheskoi informatsii(RGASPI), f. p.17, op. 2, d. p.612, l. p.16.
 (36)告発書につき、Fitzpatrick<スターリンの農民>Ch. 9., 同<仮面を剝げ!>Chs. 11-12を見よ。
 (37)<Zvezda>(Dnepropetrovsk)1937年8月1日号, p.3. <Krest'yanskaia pravda>(Leningrad)1937年8月9日号, p.4.
 (38)Ezhov の衰退と没落につき、Marc Jansen & Nikita Petrov<スターリンの忠実な処刑者: 人民委員のNikolai Ezhov, 1895-1940年>(Stanford, 2002), p.139-p.193, p.207-8.を見よ。
 (39)J・スターリン<ソ連共産党(ボ)第18回党大会への中央委員会活動報告書>(Moscow, 1939),p.47-48.
 (40)ヴォルコゴノフ<スターリン>p.260, p.279.
----
 (おわりに)
 (1)ロシア革命が遺したものは何だったのか? 
 1991年の末までは、ソヴィエト体制の存続自体がそれを表現するものだっただろう。
 赤旗や「レーニンは生きている!、レーニンは我々とともにいる!」と書いた横断幕は、まさにその終焉時まで、存在していた。
 支配党たる共産党は、革命の遺産だった。同じように、集団化、五カ年・七カ年計画も、消費用品の定例的な不足も、文化的孤立も、グラク〔強制収容所〕も、世界を「社会主義」陣営と「資本主義」陣営に二分することもそうだった。また、ソヴィエト同盟は「人類の進歩的勢力の指導者だ」との主張も。
 体制と社会はもはや革命的ではなかったけれども、革命は、ソヴィエトの民族的(national)伝統の礎石であり続けた。愛国主義への重点設定、学校で生徒たちが学ぶべき、そしてソヴィエトの民衆芸術によって祝福されるべき主題。//
 (2)ロシア革命はまた、複雑な国際的遺産を残した。
 20世紀の偉大な革命だった。そして、社会主義、反帝国主義およびヨーロッパの古き秩序の拒否のシンボルだった。
 良かれ悪しかれ、20世紀の国際的な社会主義および共産主義の運動はロシア革命の影のもとで活動した。戦後の第三世界解放運動がそうだったように。
 冷戦は、ロシア革命の遺産の一部だった。冷戦が持つ象徴的な力の継続に間接的に寄与したことはもちろんとして。
 ある人々には抑圧からの自由という希望を代表したのは、ロシア革命だった。別の人々には無神論的共産主義の世界的勝利という悪夢を呼び起こしたのは、ロシア革命だった。
 国家権力の奪取によって社会主義の定義を明確にし、経済的かつ社会的変革の道具としてのその用い方を確定したのは、ロシア革命だった。//
 (3)革命には二つの生命がある。
 第一に、現在の一部であると考えられ、現今の政治と不可分だ。
 第二に、現在の一部であることを止め、歴史と民族的伝説の中へと移っていく。
 歴史の一部だということは、フランス革命の例が示すように、政治から全面的に排除されることを意味しはしない。フランス革命は、二世紀後のフランスでの政治的論議でなお、一つの試金石のままだ。
 しかし、懸隔はある。そして歴史研究者に関するかぎりは、解釈するに際しての自由と離反が許されるものに、いっそうなってきている。
 1990年代まではすでに、ロシア革命が現在から抜け出して歴史の中に入っていくのが遅いほどだった。しかし、そう望まれた変化は、遅れたままだった。
 西側では、冷戦という遺物に固執する向きがあったにもかかわらず、政治家ではなくても歴史研究者たちは、ロシア革命はすでに歴史だと多かれ少なかれ判断していた。
 しかしながらソヴィエト同盟では、ロシア革命の解釈は政治的に重要なままであり、ゴルバチョフ時代にまで続く現代政治と連結していた。//
 (4)ソヴィエト同盟の崩壊によって、ロシア革命は徐々に歴史の中へと沈殿していった。
 熱烈な国民的拒絶の意識のうちに-トロツキーの言葉を借りると「歴史のごみ箱へ」の-放擲があった。
 1990年代初めの数年間、ロシア人は革命のみならず、ソヴィエト時代全体を忘れたいと願っているように見えた。
 しかし、過去を忘れるのは困難だ。とりわけ、良かれ悪しかれ外部世界からの注意を惹き付けた過去の一部分については。
 プーティン(Putin)のもとで、レーニン以上に「国家建設者スターリン」を必要とする、ソヴェトの遺産の選択的な再生が、ロシアで始まった。疑いなく、より多くのことがやって来るだろう。//
 (5)かりにフランスが-1989年の200周年記念のときにまだフランス革命の遺産について議論をしていた-何がしかの指針となるのであれば、ロシア革命の意味は、最初の100周年記念日やその後に依然としてロシアで熱く議論されるだろう
 こうしたことは拒絶されている。ロシア革命のみならずソヴィエト時代全体を忘れたいという望みが高くまで達しており、ロシア人の歴史意識の中には不思議な空虚さが残っている。
すぐに、一世紀半前の、ロシアの無名さに関するPeter Chaadayev の嘆きと同様に、ロシアの宿命的な劣等性、後進性および文明からの除外への悲嘆が湧き上がった。
 ロシア人、以前のソヴィエト人にとって、革命の神話の価値が貶められることで喪失したものは、社会主義への信条ではなく、世界でのロシアの重要性についての自信だったように思える。
 革命はロシアに一つの意味を、歴史的運命を与えた。
 革命を通じてずっと、ロシアは先駆者であり、国際的指導者であり、「全世界の進歩的勢力」の模範であり鼓舞者だった。
 今や、夜が明けたかのごとく、全ては過ぎ去っていた。
 党は、もう存在しない。
 74年後に、ロシアは「歴史の前衛」から滑落して、怠惰な後進性をもつ古い姿態のごとく感じられる何物かへと変化した。
 ロシアとロシア革命にとって痛恨のときに、「進歩的な人類の未来」は本当に過去のものだということが判明した。//
 (6)ソヴィエト後のロシアは、2017年が近づいているとき、そのトラウマにまだ藻掻き苦しんでいる。
 プーティン大統領は2014年に、評価は「深く客観的で<職業的>(斜字強調は著者〔Fitzpatrick〕)根拠でもって」なされなければならない、と述べた。明らかに、ロシア革命を現代政治の場に持ち込むことを欲していなかった。
 彼はまた、1917年の事件を「革命」からたんなる「転覆(overthrow)」(<perevorot>)にすぎないものへと分類することを示唆した。
 2017年3月、報道官は、外国の通信記者たちに対して、ロシア革命はロシアでは分裂した見解のある問題なので、100周年を祝賀する公的行事は何も計画されておらず、ロシア革命の解釈に関する公的な指針は何も発せられないだろう、と語った。(41)//
 (7)フランス革命の100周年記念に、フランス人はエッフェル塔を建設し、カルノー大統領〔Marie François Sadi Carnot〕は革命が専政体制を打倒して(彼は注意深く、選出された代議員たちを通じての、と付け加えた)人民主権の原理を確立したことを称賛した
 ロシアでは、2017年の記念物としてのエッフェル塔の類は何も計画されなかった。
 そして、国じゅうが、資本主義と自由市場を習得しようと苦しんでおり、革命がもった、社会主義の中心的な諸原理-とりわけ国家計画と工業化に重点をおくソヴィエト型の社会主義-は、完全に無意味だと考えられてきている。
 しかし、時代は変化する。そしてしばしば、その変化には周期的な要素が加わる。
 22世紀に200周年が近づいているときに、ロシア革命とその社会主義という目標はロシアと世界にどのように見えるのだろうかは、誰にも分からない。
 「全てを忘れるようにしよう」はフランス革命が1989年の基準年を通過するときになされた提案の一つだった。これは、フランスの政治がすでに十分に長く旧来の議論を繰り返してきたという考え(または希望)を反映するものだった。
 しかし、忘れることは容易でもなければ、国民的(national)展望からすると、そう思われるほどには望ましいものでもない。
 好むと好まざると、ロシア革命は20世紀の大きな経験だった。それはロシアにとってだけではなかった。
 そのようなものとして、ロシア革命は歴史書の中にとどまり続けるだろう。//
 --------
 (41)Neil McFarquhar の報告記事「革命?、いかなる革命?、ロシア人は100年後に尋ねる」は、<ニューヨーク・タイムズ>2017年3月10号に出た。
 100周年に関するロシアの当惑についてさらに、Sheila Fitzpatrick 「ロシア革命を祝賀する(または祝賀しない)こと」<現代史雑誌>2017年に近刊、を見よ。
 ----
 以上、シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(2017)、本文p.1-p.174 および注p.175-p.186 の試訳終了。
 **下は、Sheila Fitzpatrick(フィツパトリク、又はフィッツパトリック)。
 sheila04 (2) shela02 (2)

ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー