秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

スイス

2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第一章の試訳のつづき。
 ——
 第一章 ④。
 (38) 二人の赤帽を連れてくるため駅へ行ったとき、まだ暗かった。
 我々は沢山の荷物を持って、一定の地位のある外国人用に作られたような一等車両で旅行した。
 制服を着たドイツ人で、駅は混んでいた。
 安全を期して、父親はBreslauまでは同伴してほしいと、領事X氏を説得していた。そこからミュンヘン経由でローマへ行くことになっていた。
 母親の兄弟の一人のMax が、別れを告げるために駅まで来た。彼は、残すほかに選択の余地がなかったココ(Coco)を抱えた。
 我々の小犬はキャンキャン鳴いて、革紐を引っ張った。
 列車が動いたとき、彼女は革紐を食いちぎって自由になり、踏み段に跳び上がって、真っ直ぐに私の腕の中に飛び込んで来た。
 私は放そうとしなかった。
 内部では、彼女は座席の下に小さく縮こまり、旅行の間ずっとそこにいた。まるで列車に乗る資格がないと言われ、面倒を起こしたくないかのごとくだった。
 10年後に死ぬまで、彼女は我々と一緒にすごした。//
 (39) 我々の区画(compartment)には、制服姿のドイツ人の医師、軍曹と上着に鉤十字をピン留めした屈強そうな女性がいた。
 医師は私を会話に引き込んだ。私がラテン・アメリカ出身だと聞くと、スペインのオレンジはアメリカのものより旨い(いや、別だったか?)、Radio City Roketts は素晴らしい、ポーランドの庭師を連れて帰るよう息子に頼まれた、とか言い、くすくす笑いながら、ポーランドの「悪臭たれ」だからその男が家に入るのは許さない、と付け加えた。
 軍曹は脂抜けした肩掛け鞄から横目で見て、肥えた男をさえぎった。そして、黙り込んだ。
 隣に座っていた母親が、ときおり私の足をやさしく蹴って、面倒なことに巻き込まれないよう警告した。
 彼女が休憩所へ行こうとしたとき、ドイツの一兵士が通路に立っていて、明らかに人種意識から、列車に乗れたのは幸運だと言いながら、行く手を妨害した。//
 (40) ポーランドはドイツに征圧されていたので、二つの国の国境はなく、困難なく我々はBreslau に到着した。
 我々への疑念を逸らすために、父親は市内の最良のホテルの一つを選んでいた。<四季(Vier Jahreszeiten)>という名で、鉄道駅に近接していた。
 荷物を下し、洗顔したあとで、私は街なかに入り、数冊の本を買った。
 市の清潔さと賑やかさに驚いた。
 我々は夕方に、二階にある優雅なホテル・レストランを訪れた。そこは制服を脱いだ将校たちと着飾った女性たちでいっぱいだった。
 我々はローストがもを注文した。
 ウェイターが慇懃に、肉のクーポンを持っているかと尋ねた。
 持っていなかった。彼は翌日に手に入れる方法を助言してくれた。//
 (41) 私は60年後に、Polonia と改称されたそのホテルを再び訪れた。
 三つ星の宿泊設備を提供していた。
 だが、記憶に朧げに残っているのは4分の1くらいだったけれども、二階の食堂がまだあった。//
 (42) 10月29日日曜日にミュンヘンに向かって出立する前、我々は二晩をBreslau ですごした。
 ミュンヘンまでと、そこからローマまでの切符を購入するドイツの金を、父親は所持していなかった。
 父親は実直そうな顔の将校を探して、駅を歩き回った。
 これは危険な活動だった。
 父親は一人に狙いを定め、—どんな口実だったか私は知らないが—持っているポーランドのzlotys をドイツ・マルクと交換してくれないかと頼んだ。ポーランドから帰ってくるドイツ軍属にはその資格があった。
 その将校は、応じてくれた。//
 (43) Dresden 経由でミュンヘンまで旅行し、午後にそこに到着した。
 ローマ行きの夜行列車に乗り込むまで、数時間待った。
 その時間をミュンヘンの大きな美術館、アルテ・ピナコークに行ってすごそうと、私は決めた。
 面倒なことはしないと約束して、両親の反対を無視した。
 鉄道駅からKalorinenplatz(カロリーネン広場)まで歩いた。そこには当時、総統のために騒乱で倒れたナツィの殺し屋どもの霊廟があった。衛兵が監視しながら立っていて、広場全体が鉤十字の旗で飾られていた。
 ピナコークまでの距離は1キロもなかった。まもなく東入口に着いた。
 階段の頂部には、制服姿のナツィが立っていた。/
 「これはピナコテークへの入口ですか?」と私は尋ねた。
 「ピナコテークは閉まっている。きみは戦争中なのを知らないのか?」//
 (44) 私は駅に戻った。
 母親はのちに、万が一のときのため、慎重に隠れて私の後をつけていた、と語った。
 私は1951年に、このルートを再び歩いた、そして、ナツィがもうおらず、私はいることに、大きな満足を感じた。//
 (45) Innsbruck に夕方に着いた。そこは接続駅で、イタリアとの国境として機能していた。
 一人のGestapo 将校が、旅券を集めるため入ってきた、—そのとき座っていたのは我々だけだった。
 我々には三人用の一つの旅券だけがあった。
 彼は、もう一度現れて、ドイツを離れてよいとのGestapo の許可がないからイタリアには進めない、と言った。/
 「我々は何をしなければならないのか」と、父親が質問した。
 「あなたたちはベルリンへ行かなければならない。そこで、あなたたちの大使館が必要な書類を入手してくれるだろう」。この言葉を残して彼は敬礼をし、旅券を返却した。//
 (46) 我々は荷物を列車から降ろして、ホームに積み上げた。
 父親はどこかに姿を消し、母親と私はすべなく立っていた。周りには若いドイツ人やオーストリア人がいて、肩にスキー板を乗せて陽気に喋っていた。
 突然に父親が戻ってきた。
 荷物を列車の中に戻すよう、彼は言った。
 列車がまさに出発しそうだったので、我々は大急ぎでそうした。
 Gestapo 将校が再び現れたとき、鞄類をかろうじて元の区画に置いたばかりだった。/
 「列車から出るようあなたたちに求めた」と、彼はいかめしく言った。
 しかし、彼は小男で、ひどく脅かすという響きはなかった。//
 (47) 父親にはドイツ語は母語で(彼は若い頃ウィーンですごした)、スペイン語を話す南米人を演じるために、文法と発音のいずれについてもドイツ語に関して最善を尽くした。
 (実際には、我々全員がスペイン語を一語も話せなかった。)
 父親は、Innsbruck 駅長に逢って、できる限り早く母国に帰る必要がある、と告げた、と説明した。
 駅長はたぶん呑気なオーストリア人で、この事案に何の権限もなかったが、父親の言ったことを聞いて、「von mir aus」のようなことを言った。
 これは大まかに翻訳すると、「私に関係するかぎり」またはたぶん口語表現では「私に関係がないから(どうぞ)」—「気にする範囲内で」を意味する。//
 (48) Gestapo の男は旅券の提出を要求し、そして去った。
 列車はこのときまでにゆっくりと動いて、約25マイル先にある、イタリア国境のBrennero へ向かっていた。
 窓を通して、巨大なアルプスが迫ってきた。
 我々の生命にとって、これが最も危機的なときだった。なぜなら、Brennero で列車から降ろされ、ベルリンまで行くことを強いられていたなら、確実に殺されていただろうから。「我々の」在ベルリン大使館は、我々が持つ旅券は無効だとすぐに判断し、我々をドイツに引き渡すに違いなかっただろう。//
 (49) どのくらい長く決定を待つ必要があったか、憶えていない。
 数分だっただろうが、耐え難く時間が延びているように感じた。
 Gestapo の男が、国境に到達する前に戻ってきた。
 そして、彼は言った。「あなたたちは、一つの条件付きで、進行することができる」。
 「どんな条件ですか?」と父親が尋ねた。
 「ドイツに帰ってこない、ということだ」。
 「〈ああ、そうしない!〉(Aber NEIN !)」と、父親はほとんど叫ぶように反応した。まるで、ドイツにもう一度足を踏み入れると少しでも思うと恐怖で充たされるかのごとくに。
 (50) ドイツ人は我々に旅券を手渡し、離れた。
 母親の顔は涙で溢れた。
 父親は私に、一本のタバコをくれた。初めてのことだった。
 (51) 朝早くに、Brennero に着いた。少し停車している間に、我々は新鮮なサンドウィッチを買った。
 太陽がまぶしく輝いた。
 10月30日月曜日の正午すぐ前に、ローマに到着した。
 (52) 我々は、救われた。
 ——
 第一章・戦争(原書p.1-p.14.)、終わり。


 000Pipes

1544/ドイツの援助で帰国①-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
 ---
 第2節・ドイツの助けによるレーニンの帰国①。
 ドイツには、ロシアの急進派について自らの計画があった。
 戦争は膠着している。そして、勝利する可能性が残るのは、敵国の協調を分裂させることだ、最もよいのはロシアを戦争から追い出すことだ、と認識するに至った。
 ドイツ皇帝は1916年の秋に、つぎのように書いた。//
 『厳密に軍事的観点から言えば、残りの諸国と全力を挙げて戦闘するために、分離講和をして協商側の交戦国の中の一国又は別の一国を分離することが重要だ。<中略>
 そうすると、ロシアの内部抗争が我々との講和の結論に影響を与えるかぎりでのみ、我々は戦争努力を組織することができる。』//
 ロシアを軍事力で排除することに1915年に失敗したドイツは、こうして、革命ロシア内部にある分裂を利用するという政治的方法に訴えた。
 臨時政府は完全に、協商国側の基本方針を支持していた。二月革命はイギリスが工作した、と思っていたドイツ人もいたほどだ。(18)
 ロシア外務大臣・ミリュコフ(Miliukov)の声明には、中央諸国軍が楽観できる理由はなかった。
 したがって、ロシアを協商国軍から切り離せる唯一の希望は、『帝国主義』戦争に反対してそれを内戦(civil war)に転化しようと主張している急進的過激派を、換言すると、レーニンが疑いなき指導者だったツィンマーヴァルト・キーンタールの左翼を、利用することにあった。
 レーニンがロシアに帰還すれば、階級対立意識を引き起こし、民衆の厭戦気分を利用して、臨時政府に対して尽きない混乱を生じさせることができるだろう、そしてたぶん権力を握ることすら。//
 『レーニン・カード』を使うのを最も強く主張したのは、パルヴス(Parvus)だった。
 パルヴスは1915年にレーニンに接近していた。そのときレーニンは協力するのを拒否したが、状況は今は変わった。
 1917年にパルヴスはコペンハーゲンに住んでいて、諜報活動をする隠れ蓑として、そこで輸入商社を経営していた。
 スパイ行為(espionage)を指揮するために、表向きだけの科学研究所も持っていた。
 ストックホルムにいる彼の商売上の代理人はヤコブ・ガネツキー(Jacob Ganetskii)で、レーニンが信頼する仲間だった。
 パルヴスはロシアの亡命者政策をよく知っていたので、レーニンのような過激主義者には大きな望みをもった。
 彼はデンマークのドイツ大使、V・ブロックドルフ=ランツァウ(Brockdorff-Rantzau)に対して、解放された戦争反対左翼は政治不安を広げ、二、三カ月にはロシアは戦争にとどまることは不可能だと気づくだろう、と請け負った。(20)
 パルヴスはレーニン一人を選び出して、ケレンスキーとチヘイゼ(Chkheidze)のいずれよりも『はるかにすごい狂乱者』だとして特別の注意を向けた。
 不可思議な洞察力をもってパルヴスは、いったんロシアに帰国すればレーニンは臨時政府をぐらつかせ、権力を奪い取り、そして速やかに分離講和を結ぶだろうと、予言していた。(21)
 パルヴスはレーニンの権力への渇望をよく理解しており、自分はドイツ領をスウェーデンへと通過させる仕事ができると考えた。
 パルヴスの影響によって、ブロックドルフ=ランツァウはベルリンに電報を打った。//
 『我々は今無条件に、ロシアに可能な最大の混乱を生み出す方法を探さなければならない。<中略>
 我々は、穏健派と過激派の間の対立を悪化させるため…可能な全てをすべきだ。後者が上回ることが最大の利益になるのだから。
 そうすれば、革命は不可避になり、その革命はロシア国家の安定を破壊する形態をとるだろう。』(22)//
 スイスにいるドイツ公使、G・フォン・ロンベルク(von Romberg)は、ロシア事情に関する当地の専門家から得た情報にもとづいて、同様の進言を行った。
 彼は、『Lehnin〔レーニン, ドイツ語ふう綴り〕』の支持者たちは講和交渉を即時に開始することや臨時政府と他社会主義諸政党のいずれにも協力しないことを主張しており、ペテログラード・ソヴェトを混乱させるという事実に、ベルリンの注意を向けさせた。(23)//
 これらに従って、ドイツ首相のテオバルト・ベートマン=ホルヴェク(Theobald von Bethmann-Hollweg)は、ロシア亡命者たちとスウェーデンへの移動について話を始めるように命令した。
 会談は、3月遅くと4月初頭に(新暦で)、初めはロバート・グリム(Robert Grimm)、あとはフリッツ・プラテン(Fritz Platten)というスイスの社会主義者の助けで、行われた。
 レーニンは、ロシア人たちの代表者として行動した。
 このような危険な政治的冒険をするに際してレーニンについても彼の綱領についても情報を得る面倒なことをしなかったのは、ドイツ人の洞察力の欠如(myopia)の兆候を示すものだ。
 彼らにとって重要なのは、ボルシェヴィキとその他のツィンマーヴァルトの追随者たちの、ロシアに戦争を止めさせたいという立場だけだった。
 ドイツの資料庫を調べたある歴史家は、ボルシェヴィキへの関心を示す文書資料を見つけなかった。レーニンの雑誌、< Sbornik Sotsial-Demokrata >の二号分があり、ベルンの大使館からベルリンへと進呈されていたが、40年の間書庫に眠ったままで、頁は切られていなかった。//
 ドイツ縦断移動に関する交渉の際にレーニンは、亡命者たちが敵国と協調する責任を感じることはないと安心させるのに多大の骨折りをした。
 列車は治外法権の地位をもつと、レーニンは主張した。プラテンの許可なくして誰も立ち入ってはならないし、旅券(passport)の検査もない、と。
 貧乏な難民〔レーニン〕がドイツ政府に条件を提示する地位にあると感じていたという事実は、彼が委ねた職務部門から高い評価を得ていたことを示唆する。//
 ドイツ側では、交渉は、外務省、とくにその長のリヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuehlmann)の積極的な支援を受けて、民間人団体が実行した。
 その〔外務省が大きく関与した〕結果としてレーニンのロシア帰還の背後で促進したのはルーデンドルフ(Ludendorff)だと考えられるようになったけれども、実際には将軍は大した役割を果たしてはおらず、彼は護送車両を手配するのに寄与したにとどまる。//
 プラテンは4月1日(新暦)に、レーニンの条件をドイツ大使館に電送した。
 二日後に、諸条件は受諾できると知らされた。
 この時期にドイツ財務省は、『ロシア工作』のために500万マルクを与えよとの外務省からの要求に同意した。(27)
 ロシアに関してドイツが行なっていたことは、つぎに示されるように、いつものやり方と同じだった。//
 『どの敵国、フランス、イギリス、イタリアおよびロシアについても、ドイツは内部での反逆を計画する工作をしていた。
 その計画は全て、大まかには同じだ。
 第一、極左の政党を使っての混乱。第二、金を払ってかドイツが直接に教唆してかの、敗北主義者の平和主義論文。最後、弱体化した敵国政府から最後には権力を奪取して平和を願う、重要な政治的人物との相互理解を確立すること。』(28)
 ドイツは、イギリスについては、アイルランド人のロジャー・ケイスメント卿(Roger Casement)、フランスについてはジョセフ・カイヨー(Joseph Caillaux)、そしてロシアについてはレーニンを使った。
 ケイスメントは射殺され、カイヨーは投獄された。
 レーニンだけが、金銭を支払ったことを正当化した。//
 3月27日/4月9日に、32人のロシア人亡命者たちがツューリヒを離れてドイツの前線へと向かった。
 乗客の完全な名簿を利用することはできないが-ドイツ人は列車の旅行客を審問しないという取り決めだった-、彼らの中には、6人のブント構成員、3人のトロツキー支持者のほかに、レーニン、クルプスカヤ、ジノヴィエフとその妻子、イネッサ・アーマンドおよびラデックを含む19人のボルシェヴィキ党員がいたことが知られる。(29)
 ゴットマディンゲンで国境を越えたあとで、彼らは二車両で成るドイツの列車に移った。
 一つはロシア人用で、もう一つは、ドイツの護衛兵用だった。
 伝説になっているのとは違って、列車は封印されていなかった。
 シュトゥットガルト、フランクフルトを通過して、3月29日/4月11日の午後早くに、ベルリンに到着した。
 そこで列車は、ドイツの監視兵に囲まれて20時間、留め置かれた。
 3月30日/4月12日、彼らはバルト海の港があるサスニッツ(Sassnitz)へ行き、そこでスウェーデンのトレレボリ(Traelleborg)行きの蒸気船に乗り込んだ。
 上陸すると、ストックホルム市長の歓迎に合った。そして、スウェーデンの首都へと進む。//
 ------
  (18) General M. Hoffmann, Der Krieg der versaeumten Gelegenheiten 〔機会を逃した戦争〕(ミュンヒェン, 1923), p.174。
  (20) Z. A. B. Zeman = W. B. Scharlau, The Merchant of Revolution : The Life of Alexander Helphand (Parvus)〔革命の商人/アレクサンダー・ヘルプハンド(パルヴス)の人生〕(ロンドン, 1965), p.207-8。
  (21) P. Scheidemann, Memoiren eines Sozialdemokraten 〔ある社会民主主義者の回想〕(ドレスデン, 1930), p.427-8。
  (22) Hahlweg, レーニンの帰還, p.47。 
  (23) 同上, 49-50。4月3日/3月21日付電信。これはおそらく、その日の<プラウダ>に掲載されたレーニンの第一の『国外からの手紙』を指している。
  (27) Z. A. B. Zemann 編, Germany and the Revolution in Russia〔ドイツとロシア革命〕, 1915-1918 (ロンドン, 1958), p.24。
  (28) Richard M. Watt, Dare Call It Treason 〔敢えて裏切りと呼ぶ〕(ニューヨーク, 1963), p.138。
  (29) Fritz Platten, Die Reise Lenins durch Deutschland 〔レーニンのドイツ縦貫旅〕(ベルリン, 1924), p.56。
  (31) Hahlweg, レーニンの帰還, p.99-100。 
 ---
 ②へとつづく。
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