Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機第七節の試訳のつづき。
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 第七節/レーニン・スターリン・トロツキー②。
 (07) 民族問題に関するレーニンの小論をスターリンが知っていたか否かは、明瞭でない。だがいずれにせよ、レーニンが自分に対する全面的な闘いを準備していることを、今や疑うことができなかった。その闘いによって、自分は全てでないとしてもほとんどの役職を失うことになりそうだった。
 (レーニンはトロツキーに対して、第12回党大会でスターリンに対する「爆弾を用意している」と打ち明けていた。)
 スターリンは、自らの政治生命を賭けて闘っていた。今はいかに権力のある地位に就いていたとしても、レーニンが個人的に戦場を掌握してしまえば、自分には可能性がない。
 スターリンの一つの望みは、レーニンが自分を引き降ろす前に、彼が完全に無能力になることだった。//
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 (08) Dzerzhinskii は、二度めのジョージアでの仕事から、1923年1月に戻った。
 資料を求めるのがレーニンの要請だったが、その資料を携帯しつつ、ごまかしてスターリンに渡すという対応方策をとった。
 スターリンを見つけることが二日間はできなかった。ようやくたどり着いたとき、スターリンはFotieva にこう言った。政治局の許可があるときにのみ、レーニンが求めることに同意するすることができる。
 ついでに彼はFotieva に、「レーニンに何か余計なことを語っていないか」どうか、「レーニンは今どのようにしているのか?」と尋ねた。
 Fotieva は、レーニンに何を告げるのも拒んだ。実際、彼女はスターリンに全てを話していた。
 レーニンはのちに、彼女の面前で、背信を疑っている、と言った。(注180)
 彼は正しかった。
 自分の口述筆記は「絶対に」、「完全に秘密にする」という命令を、彼女は無視した。そして、やがて、Fotieva が得た文書資料から彼女がその内容をスターリンと若干のその他の政治局委員に決まって伝える、という慣行が出来上がった。(*)//
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 (脚注*) Volkogonov, Triumf, I/1, p.153. 褒賞として、スターリンは彼女を1930年代の粛清の対象外にした。彼女は、スターリンよりも長生きし、1975年に死んだ。
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 (09) 2月1日、政治局はようやくレーニンの要請に応じて、Dzerzhinskii が二度めの使命のときに収集した資料を、彼の秘書たちに渡した。
 レーニンは、その資料を読める状態ではなかったので、文書類を秘書団に配布し、情報の所在に関する厳密な指示を発した。
 その作業は終了すれば、ただちにレーニンに報告されることになっていた。
 スターリン、Dzerzhinskii、Ordzhonokidze に対する党大会での責任追及を行うためなので、レーニンは秘書団の作業の進展を強い関心をもって見守った。Fotieva によれば、彼のジョージア問題への関心が絶頂にあったのは1923年2月のあいだだった。(注181)
 3月3日に、報告が彼に届けられた。
 それを熟読したのち、レーニンは、ジョージア人反対派を全力で支援することに決した。
 3月5日、彼はトロツキーに民族問題に関する自分の覚書を送った。それには、中央委員会でジョージア共産党を擁護する責務を担ってほしい、とのトロツキーに対する要請が付いていた。
 「事案はスターリンとDzerzhinskii によって『処理され』ている。その客観性を、私は信頼することができない。全くの逆だ」。(注182)
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 (10) たまたま同じその日、3月5日だった。レーニンは、漏れ聞いた電話での会話についてKrupskaia に質問したところ、彼女は前年12月のスターリンとの出来事を話した。(注183)
 レーニンはただちに、スターリン宛てのつぎの手紙を口述筆記させた。
 「敬愛する同志スターリン!
 きみは厚かましく私の妻に電話して、妻を侮辱した。
 彼女はきみが言ったことを忘れる気持ちだと言ったけれども、このことは彼女を通じてジノヴィエフやカーメネフにも知られている。
 私は自分に対して行なわれたことを簡単に忘れるつもりはない。そして、言うまでもなく、私の妻に対して行われたことは全て、私自身へも向けられていた、と考える。
 この理由により、私はきみに、きみが言ったことを取り消して謝罪するか、それとも我々の関係を断絶させるのを選ぶか、いずれであるかを私に教えてくれるよう求める。」(+)
 Krupskaia はこの手紙を発送するのを止めようとしたが、無駄だった。この手紙は3月7日に、Volodichevaにより個人的にスターリンに配達された。カーメネフとジノヴィエフ宛ての複写物とともに。(注184)
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 (脚注+) Lenin, PSS ,LIV, p.329-330. レーニンは同僚たちに宛てて「敬愛する」(〈Uvazhaem yi〉)という形容詞を用いなかった。これが使われていることは、スターリンはもはや同僚ではない、ということを示唆する。
 手紙の文章からは、トロツキーがのちに主張するようには(例えば、Portrety, p.42)、レーニンがスターリンとの「全ての個人的、同志的関係を断絶」したのではなく、かりにスターリンが謝罪しなければそうするとたんに威嚇していることが、明確だ。—スターリンは謝罪した。
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 (11) スターリンは冷静にその手紙を読み、そして返事を書いた。その内容は1989年に公にされたが、まさに条件つきの謝罪だとのみ叙述できるものだった。
 彼はKrupskaia を攻撃するつもりはなかったと強調し、彼女のレーニンの健康についての責任を想起させたにすぎないと述べつつ、結論的にこう書いた。
 「あなたが『関係』の維持のためには私が先の言葉を『謝罪』すべきだと感じているなら、私は先の言葉を撤回することができる。しかしながら、いったいどうなっているのか、どこに私の誤りがあったのか、何が本当に私に求められているのか、私は理解することができない。」(**)//
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 (脚注**) IzvTsK, No. 12 (1989.12), p.193. Maria Ulianova によれば、レーニンの健康は急速に悪化していたので、彼はスターリンの「謝罪」を読む機会がなかった。同上、p.199。
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 (12) レーニンは翌日、もう一つの覚書を口述した—彼の生涯の最後の意思表明になった—。それはジョージア人反対派の指導者たちに宛てたもので、トロツキーとカーメネフ用の複写が付いていて、ジョージア問題について彼らを「心から」支持する、スターリンとDzerzhinskii の「黙認」に驚愕している、この主題に関する演説を準備している、と知らせた。(注185)//
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 (13) スターリンは、政治的破滅の見込みに直面した。
 レーニンが彼との関係の断絶を提示し、トロツキーには責任追及が依頼されているなら、スターリンが書記長にとどまり続ける可能性は、皆無に近かった。
 しかし、報せは全てが悪いものではなかった。というのは、スターリンが継続的に連絡を取り合っているレーニンの医師団は彼に、患者の健康はいっそう悪くなっていると知らせてくれたからだ。
 それでスターリンは、時間稼ぎをすることに決めた。
 3月9日、〈Pravda〉は、スターリンからの、説明なしの短い一行の発表文を掲載した。三月半ばに予定されていた次期党大会は、4月15日に延期される。(注186)//
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 (14) 賭けは実を結んだ。
 翌日(3月10日)、レーニンは大きな発作を起こし、話す能力を奪われた。10ヶ月後の彼の死まで、〈vot-vot〉(ここ・ここ)、〈s"ezd-s"ezd〉(大会・大会)のような単音節の言葉しか発することができなかった。(注187)
 レーニンに付き添っている医師団—若干のドイツからの専門家を含めて40名—は、彼はもう二度と政治に関して積極的役割を果たすことはないだろう、と結論づけた。
 5月、レーニンは永遠にGorki へと転居した。そこで、好天の日には公園の中で車椅子に座っていた。
 全ての実際的な目的に関して、彼は生きている亡骸だった。何と言われたかを理解し、文章を読めるようにも見えたけれども、彼には意思疎通の能力がなかったからだ。
 8月、Krupskaia は彼に、左手で書くことを教えようとした。しかし、結果は勇気づけるものではなく、彼女は諦めた。(注188)//
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 (15) このレーニンの生涯最後の時期、彼は失敗の感覚で圧倒されていたように見える。
 それを証拠立てているのは、彼が歴史に残した結果の全てについての、陳腐な賞賛や安心への渇望だった。
 かつては好意的であれ敵対的であれ他者の意見には注意を払わなかったレーニンが、1923年と1924年初頭には、賞賛の言葉を切望した。
 彼は明らかな喜びをもって、レーニンをマルクスになぞらえるトロツキーの論文、レーニンなくしてロシア革命は勝利しなかっただろうとのGorky の主張、そしてHenri Guilbeaux、Arthur Williams のような外国の崇拝者の賛辞を、読んでいた。(注189)/
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 後注
 (180) Lenin, PSS, XLV, p.477.
 (181) L. A. Fotieva in VIKPSS, No. 4 (1957), p.162-3.
 (182) Lenin, PSS, LIV, p.329.
 (183) Rogovin, Byla li, p.75.
 (184) IzvTsK, No. 9/308 (1990.12), p.151.
 (185) Lenin, PSS, LIV, p.330.
 (186) Pravda, No. 53 (1923.3.9), p.1; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39; IzvTsK, No. 9 (1990.9), p.152.
 (187) V. P. Osipov in KL, No. 2/23 (1927), p.236-p.247; Petrenko in Minuvshee, No. 2 (1986), p.146; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (188) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1289 &1290.
 (189) Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.279-284; Trotskii, Moia zhizn', II, p.251-2.
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 第9章第七節、終わり。