秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ジョージア

2595/R・パイプス1994年著第9章第七節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機第七節の試訳のつづき。
 ——
 第七節/レーニン・スターリン・トロツキー②。
 (07) 民族問題に関するレーニンの小論をスターリンが知っていたか否かは、明瞭でない。だがいずれにせよ、レーニンが自分に対する全面的な闘いを準備していることを、今や疑うことができなかった。その闘いによって、自分は全てでないとしてもほとんどの役職を失うことになりそうだった。
 (レーニンはトロツキーに対して、第12回党大会でスターリンに対する「爆弾を用意している」と打ち明けていた。)
 スターリンは、自らの政治生命を賭けて闘っていた。今はいかに権力のある地位に就いていたとしても、レーニンが個人的に戦場を掌握してしまえば、自分には可能性がない。
 スターリンの一つの望みは、レーニンが自分を引き降ろす前に、彼が完全に無能力になることだった。//
 ----
 (08) Dzerzhinskii は、二度めのジョージアでの仕事から、1923年1月に戻った。
 資料を求めるのがレーニンの要請だったが、その資料を携帯しつつ、ごまかしてスターリンに渡すという対応方策をとった。
 スターリンを見つけることが二日間はできなかった。ようやくたどり着いたとき、スターリンはFotieva にこう言った。政治局の許可があるときにのみ、レーニンが求めることに同意するすることができる。
 ついでに彼はFotieva に、「レーニンに何か余計なことを語っていないか」どうか、「レーニンは今どのようにしているのか?」と尋ねた。
 Fotieva は、レーニンに何を告げるのも拒んだ。実際、彼女はスターリンに全てを話していた。
 レーニンはのちに、彼女の面前で、背信を疑っている、と言った。(注180)
 彼は正しかった。
 自分の口述筆記は「絶対に」、「完全に秘密にする」という命令を、彼女は無視した。そして、やがて、Fotieva が得た文書資料から彼女がその内容をスターリンと若干のその他の政治局委員に決まって伝える、という慣行が出来上がった。(*)//
 ----
 (脚注*) Volkogonov, Triumf, I/1, p.153. 褒賞として、スターリンは彼女を1930年代の粛清の対象外にした。彼女は、スターリンよりも長生きし、1975年に死んだ。
 ----
 (09) 2月1日、政治局はようやくレーニンの要請に応じて、Dzerzhinskii が二度めの使命のときに収集した資料を、彼の秘書たちに渡した。
 レーニンは、その資料を読める状態ではなかったので、文書類を秘書団に配布し、情報の所在に関する厳密な指示を発した。
 その作業は終了すれば、ただちにレーニンに報告されることになっていた。
 スターリン、Dzerzhinskii、Ordzhonokidze に対する党大会での責任追及を行うためなので、レーニンは秘書団の作業の進展を強い関心をもって見守った。Fotieva によれば、彼のジョージア問題への関心が絶頂にあったのは1923年2月のあいだだった。(注181)
 3月3日に、報告が彼に届けられた。
 それを熟読したのち、レーニンは、ジョージア人反対派を全力で支援することに決した。
 3月5日、彼はトロツキーに民族問題に関する自分の覚書を送った。それには、中央委員会でジョージア共産党を擁護する責務を担ってほしい、とのトロツキーに対する要請が付いていた。
 「事案はスターリンとDzerzhinskii によって『処理され』ている。その客観性を、私は信頼することができない。全くの逆だ」。(注182)
 ----
 (10) たまたま同じその日、3月5日だった。レーニンは、漏れ聞いた電話での会話についてKrupskaia に質問したところ、彼女は前年12月のスターリンとの出来事を話した。(注183)
 レーニンはただちに、スターリン宛てのつぎの手紙を口述筆記させた。
 「敬愛する同志スターリン!
 きみは厚かましく私の妻に電話して、妻を侮辱した。
 彼女はきみが言ったことを忘れる気持ちだと言ったけれども、このことは彼女を通じてジノヴィエフやカーメネフにも知られている。
 私は自分に対して行なわれたことを簡単に忘れるつもりはない。そして、言うまでもなく、私の妻に対して行われたことは全て、私自身へも向けられていた、と考える。
 この理由により、私はきみに、きみが言ったことを取り消して謝罪するか、それとも我々の関係を断絶させるのを選ぶか、いずれであるかを私に教えてくれるよう求める。」(+)
 Krupskaia はこの手紙を発送するのを止めようとしたが、無駄だった。この手紙は3月7日に、Volodichevaにより個人的にスターリンに配達された。カーメネフとジノヴィエフ宛ての複写物とともに。(注184)
 ----
 (脚注+) Lenin, PSS ,LIV, p.329-330. レーニンは同僚たちに宛てて「敬愛する」(〈Uvazhaem yi〉)という形容詞を用いなかった。これが使われていることは、スターリンはもはや同僚ではない、ということを示唆する。
 手紙の文章からは、トロツキーがのちに主張するようには(例えば、Portrety, p.42)、レーニンがスターリンとの「全ての個人的、同志的関係を断絶」したのではなく、かりにスターリンが謝罪しなければそうするとたんに威嚇していることが、明確だ。—スターリンは謝罪した。
 ----
 (11) スターリンは冷静にその手紙を読み、そして返事を書いた。その内容は1989年に公にされたが、まさに条件つきの謝罪だとのみ叙述できるものだった。
 彼はKrupskaia を攻撃するつもりはなかったと強調し、彼女のレーニンの健康についての責任を想起させたにすぎないと述べつつ、結論的にこう書いた。
 「あなたが『関係』の維持のためには私が先の言葉を『謝罪』すべきだと感じているなら、私は先の言葉を撤回することができる。しかしながら、いったいどうなっているのか、どこに私の誤りがあったのか、何が本当に私に求められているのか、私は理解することができない。」(**)//
 ----
 (脚注**) IzvTsK, No. 12 (1989.12), p.193. Maria Ulianova によれば、レーニンの健康は急速に悪化していたので、彼はスターリンの「謝罪」を読む機会がなかった。同上、p.199。
 ----
 (12) レーニンは翌日、もう一つの覚書を口述した—彼の生涯の最後の意思表明になった—。それはジョージア人反対派の指導者たちに宛てたもので、トロツキーとカーメネフ用の複写が付いていて、ジョージア問題について彼らを「心から」支持する、スターリンとDzerzhinskii の「黙認」に驚愕している、この主題に関する演説を準備している、と知らせた。(注185)//
 ----
 (13) スターリンは、政治的破滅の見込みに直面した。
 レーニンが彼との関係の断絶を提示し、トロツキーには責任追及が依頼されているなら、スターリンが書記長にとどまり続ける可能性は、皆無に近かった。
 しかし、報せは全てが悪いものではなかった。というのは、スターリンが継続的に連絡を取り合っているレーニンの医師団は彼に、患者の健康はいっそう悪くなっていると知らせてくれたからだ。
 それでスターリンは、時間稼ぎをすることに決めた。
 3月9日、〈Pravda〉は、スターリンからの、説明なしの短い一行の発表文を掲載した。三月半ばに予定されていた次期党大会は、4月15日に延期される。(注186)//
 ----
 (14) 賭けは実を結んだ。
 翌日(3月10日)、レーニンは大きな発作を起こし、話す能力を奪われた。10ヶ月後の彼の死まで、〈vot-vot〉(ここ・ここ)、〈s"ezd-s"ezd〉(大会・大会)のような単音節の言葉しか発することができなかった。(注187)
 レーニンに付き添っている医師団—若干のドイツからの専門家を含めて40名—は、彼はもう二度と政治に関して積極的役割を果たすことはないだろう、と結論づけた。
 5月、レーニンは永遠にGorki へと転居した。そこで、好天の日には公園の中で車椅子に座っていた。
 全ての実際的な目的に関して、彼は生きている亡骸だった。何と言われたかを理解し、文章を読めるようにも見えたけれども、彼には意思疎通の能力がなかったからだ。
 8月、Krupskaia は彼に、左手で書くことを教えようとした。しかし、結果は勇気づけるものではなく、彼女は諦めた。(注188)//
 ----
 (15) このレーニンの生涯最後の時期、彼は失敗の感覚で圧倒されていたように見える。
 それを証拠立てているのは、彼が歴史に残した結果の全てについての、陳腐な賞賛や安心への渇望だった。
 かつては好意的であれ敵対的であれ他者の意見には注意を払わなかったレーニンが、1923年と1924年初頭には、賞賛の言葉を切望した。
 彼は明らかな喜びをもって、レーニンをマルクスになぞらえるトロツキーの論文、レーニンなくしてロシア革命は勝利しなかっただろうとのGorky の主張、そしてHenri Guilbeaux、Arthur Williams のような外国の崇拝者の賛辞を、読んでいた。(注189)/
 ----
 後注
 (180) Lenin, PSS, XLV, p.477.
 (181) L. A. Fotieva in VIKPSS, No. 4 (1957), p.162-3.
 (182) Lenin, PSS, LIV, p.329.
 (183) Rogovin, Byla li, p.75.
 (184) IzvTsK, No. 9/308 (1990.12), p.151.
 (185) Lenin, PSS, LIV, p.330.
 (186) Pravda, No. 53 (1923.3.9), p.1; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39; IzvTsK, No. 9 (1990.9), p.152.
 (187) V. P. Osipov in KL, No. 2/23 (1927), p.236-p.247; Petrenko in Minuvshee, No. 2 (1986), p.146; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (188) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1289 &1290.
 (189) Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.279-284; Trotskii, Moia zhizn', II, p.251-2.
 ——
 第9章第七節、終わり。

2593/R・パイプス1994年著第9章第六節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第九章/新体制の危機・第六節、の試訳のつづき。とくに、レーニン生前の1923年はどういう状態だったのか。
 ——
 第六節・ジョージア紛議②。
 (08) レーニンは9月25日〔1922年〕に、スターリンの草稿を知った。
 また、ジョージア共産党中央委員会の決議も読んだ。これには、スターリンが(彼にしては)異様に長文の説明書を添付していた。
 スターリンは、各共和国の純粋な自立と完全な統合との間の中間は現実には存在しないという理由で、自分の案を正当化した。
 スターリンは、こう書いた。遺憾なことに、「民族問題についてモスクワのリベラリズムを示す必要があった」内戦の時代に、「我々は、我々の意思に反して、共産党員たちのあいだに本当の独立を要求する純粋な、そのゆえの社会主義的独立主義者(〈sotsial-nezavisimtsy〉)を生んできた」。(注163)//
 ----
 (09) レーニンには、読んだ文書の調子とともに内容も不適切だった。
 スターリンは、非ロシア人共産党員の反対意見を無視しているのみならず、彼らを粗雑に扱っていた。
 レーニンは会話しようとスターリンを呼び(9月26日)、その会話は2時間40分続いた。
 その後、彼は政治局に覚書を送り、その中でスターリンの草案を激烈に批判した。(注164)
 彼の案では、三つの非ロシア人共和国はロシア共和国と一体化されるのではなく、RSFSR とともに仮に「ソヴェト欧州・アジア共和国同盟」と称する新しい超民族的統合体に加入する。
 レーニンが意図したのは、第一に、新しい国家から「ロシア」という名前を削除することで、国制上の対等性を強調すること(彼の言葉では「分離主義者に餌を与えない」ため)、第二に、将来に共産主義国へと歩む諸国を強化する中核を生み出すこと、だった。(*)
 彼の案ではさらに、スターリンが目論んだようにロシアの中央執行委員会が同盟の全機能を掌握するのではなく、新しい中央執行委員会が連邦のために設置される。//
 ----
 (脚注*) スターリンは当時に、新しい同盟は「世界の労働者を世界ソヴェト社会主義共和国への統合へと向かう決定的な歩みを刻むものだ」と記した。I. V. Stalin, Sochineniia, V (1947), p.155.
 ----
 (10) スターリンは、レーニンによる批判に反応する中で、党指導者に対するにふさわしい慣行的敬意を何ら示さなかった。
 一方では新しい国家の構造に関するレーニンの意思を尊重し、また彼の委員会に修正案を諮問しつつ、彼は、RSFSR の中央執行委員会が連邦のそれ(CEC)になることに固執した。
 彼は、レーニンのその他の反対は瑣末なものとして無視した。
 ある点で、彼はレーニンを、「民族的自由主義」(national liberalism)だと批判した。(注165)
 しかしながら、彼は結局はレーニンの意向に同意し、それに従って案を修正することを強いられた。(注166)
 このような形で、ソヴェト社会主義共和国同盟の憲章案が出来上がった。その発足は、1922年12月30日にRSFSR のソヴェト第10回大会で正式に宣せられた〔ソヴィエト連邦=ソ連の発足—試訳者〕。
 三つの非ロシア人共和国の代表者たちによって出席者は増加しており、この大会は第一回ソヴェト全同盟大会と称された。//
 ----
 (11) ジョージア人の意見は変わらなかった。ウクライナとベラルーシは形式上は主権共和国として直接に同盟に加入するのに対して、ジョージアはトランスコーカサス連邦を通じて、つまり自治的政体として、そうしなければならない。
 スターリンの書記局を迂回して、彼らはクレムリンに対して直接に、かりに案が強行されるならば自分たちは離れるつもりだ、と知らせた。(注167)
 スターリンはこれに反応して、中央委員会は満場一致で彼らの反対を却下した、と伝えた。
 10月21日に、レーニンからの電信もあった。彼もまた、ジョージアの意見を、実質的にも、それが表明された態様の点でも、拒絶した。(注168)
 これを受け取って、ジョージア共産党中央委員会全体は10月22日、脱退を申し出た。
 これは、共産党の歴史上、かつてなかった事件だった。(注169) 
 Ordzhonikidze は、この意思表明を利用して、〔ジョージア共産党の〕中央委員会を、彼とスターリンの意向に従順な若い共産主義への転宗者が担う新しい機関に置き換えた。
 スターリンはOrdzhonikidze に、中央委員会は承認した、と伝えた。(注170)//
 ----
 (12) この時点まで、レーニンは、スターリンによるジョージアの処理に同意していた。
 しかし、すでに反スターリン気分があった11月遅く、ジョージアの事案にはもっと何かがなされてよいと結論づけた。
 彼は、ジョージアに関する事実調査委員会を派遣するよう依頼した。
 スターリンは、その長にDzerzhinskii を指名した。
 書記局の策略に不信を抱き、Tiflis との自分自身の連絡網を作ろうと意図して、レーニンは、Rykov もジョージアに行くよう求めた。
 レーニンの秘書たちの一人は、彼は切実な気持ちで調査の結果を待っていた、と記録した。(注171)//
 ----
 (13) Dzerzhinskii は12月12日に、任務を終えて帰ってきた。
 レーニンはただちに、彼に会うためにGorkI からモスクワへ向かった。
 Dzerzhinskii はOrdzhonikidze とスターリンを完全に免責した。だが、レーニンは納得しなかった。
 レーニンは、政治的議論の中でOrdzhonikidze がジョージアの同志たちを敗北させたことを知ってとくに苛立った。
 (彼はOrdzhonikidze を「スターリン主義者のバカ(ass)」と呼んだ。)(注172)
 彼は、Dzerzhinskii に対して、もっと証拠を集めるよう命じた。
 翌日(12月13日)、スターリンに二時間会った。これは二人の最後の出逢いだった。
 レーニンは会話の後で、民族問題全般についての相当量の覚書をカーメネフに書き送ろうとした。しかし、それができる前の12月15日、もう一度発作を起こして横臥した。//
 ----
 (14) レーニンは同僚たちに裏切られたと感じていたので、離れて生活していた13ヶ月の間、同僚たちの誰とも逢うのも断固として拒んだ。間接的に、秘書たちを通じてのみ、連絡し合った
 1923年中の彼の活動記録が示しているのは、トロツキーともスターリンとも会っていないことだ。ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、Rykov のいずれとも。
 彼ら全員は、レーニンの明確な指示にもとづいて、遠ざけられた。(注173)
 親しい同僚たちからこうして離れたことは、地位にあった最後の数ヶ月間、ニコライ二世が大公たちとの関係を遮断すると決めたことに、似ていた。//
 ----
 後注
 (163) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.199.
 (164) Lenin, PSS, XLV, p.211-3. 初版は1959年。
 (165) Ibid., XLV, p.558. スターリンの反応は、TP, II, p.782-5.
 (166) Lenin, PSS, XLV, p.559.
 (167) Pravda, No. 225/25, 777 (1988.8.12), p.3.
 (168) Lenin, PSS, LIV, p.299-300.
 (169) Pipes, Formation, p.274-5.
 (170) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, khr. 2446.
 (171) VIKPSS, NO. 2 (1963), p.74-.
 (172) Pravda, No. 225/25 557 (1988.8.12), p.3.
 (173) V. P. Osipov in KL, No. 2, p.243; Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.259-260.
 ——
 第9章第六節、終わり。

2592/R・パイプス1994年著第9章第六節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第九章/新体制の危機、の試訳のつづき。第六節へ。原書、p.471〜。
 ——
 第六節・ジョージア紛議(the controversy over Georgia)①。
 (01) レーニンのスターリンに対する敵対意識は強いものだったが、少数民族に対処するスターリンの高圧的方法によって、さらに増大した。
 レーニンは、ロシアの少数民族への適切な対応を重要視した。それはソヴィエト国家の結合にとって重要なだけではなく、植民地諸民族への影響をもちそうだったからだ。
 本質問題について、スターリンと対立してはいなかった。つまり、民族主義(nationalism)は「プロレタリアート独裁」においては「ブルジョア的」遺物だった。
 ソヴィエト国家は中央志向であり、諸決定は民族的選好を考慮することなく行われなければならなかった。
 スターリンとの違いは、方法だった。
 レーニンは、民族少数派はロシア人の過去の虐待を理由としてロシア人への不満を説明してきた、と考えた。
 彼は、制限された文化的自治をもつ連邦上の外装を認めたり、とりわけ最大限の如才なさでもって対応するといった、本質的には形式上の譲歩をすることで、この不満を緩和しようとした。
 民族的情緒を全く欠く人物を軽蔑し、大ロシア排外主義は共産主義の世界的利益にとって危険だと見ていた。//
 ----
 (02) 奇妙な外国訛りでロシア語を話すジョージア人のスターリンは、異なって考えていた。
 彼は早くに、共産党の権力基盤は大ロシアの民衆にあると理解した。
 1922年に登録された37万6000人の党員のうち、ゆうに27万人あるいは72パーセントがロシア人だった。そして残りの党員たちのうち高い割合の者たちが、ロシア化していた。ウクライナ人党員の半分、ユダヤ人党員の三分の二。(注156)
 さらに、内戦の過程で、かつ対ポーランド戦争の間ですら、共産主義とロシア民族主義の間の微妙な融合が起きた。
 それが最も顕著に発現したのが、いわゆる「Smena Vekh」または「目印の変化」だった。これは保守的なエミグレ(国外脱出者)の中で人気を博した運動で、ソヴィエト国家をロシアの民族的偉大さを示すものと把握し、エミグレたちに帰国するよう説いた。
 第10回党大会(1921年)で、ある代議員は、ソヴィエト国家の成果は「ロシア革命に関係した者たちの心を誇りで充たし、特有の赤色ロシア愛国主義を引き起こした」、ということに気づいた。(注157)
 スターリンのような野心的政治家には、より大きい関心は、世界を転覆させることではなく、地元(home)で権力を獲得することにあった。そして、このような民族にかかわる推移は、危険ではなく好機だった。
 彼の経歴の最初から、そしてより公然と彼の独裁の年月とともに、彼は民族少数派を犠牲にする大ロシア民族主義者だと自認した。//
 ----
 (03) 1922年までに、共産主義者は非ロシア人が住む境界諸国のほとんどを再征服していた。
 この帝国主義的拡大の決定的要因は、赤軍だった。
 しかし、本国の共産党員たちも、プロパガンダと破壊活動によって、貢献した。そして、新しい体制が樹立されると、地方の事情について発言しようとした。
 このような要求に、中央は十分な注意を払わなかった。スターリンは、民族問題人民委員と書記局長の職に就いていたが、各々のいわゆるソヴェト共和国を、帝政時代にあったのとよく似たロシアに固有の一部だと見ていた。
 その結果として生じたのは、〔中央に対する〕憤慨であり、地方の共産党員とモスクワの中央機構の間の対立だった。レーニンはこのことに、1922年遅くに注意を向けるに至った。//
 ----
 (04) この点に関する最も暴力的な対立が、ジョージアで発生した。
 スターリンは、鎮圧したメンシェヴィキの本拠は自分の個人的な管轄区域だと見なし、ジョージアが占拠されたあとで、地方党員を越えて、ジョージア人仲間で共産党コーカサス事務局長のSergei Ordzhonikidze の助けを安直に求めた。
 トランスコーカサスの経済の統合というレーニンの指示を実行するために、Ordzhonikidze は、ソヴィエト・ロシアへと一体化する予備段階として、ジョージアをアルメニア、アゼルバイジャンとともに一つの連邦に合併させた。
 Budu Mdivani とPhlip Markharadze が率いた地方党員たちはこれに抵抗し、Ordzhonikidze の高慢な措置についてモスクワに対して不満を述べた。(注158)
 レーニンは彼らの異議に従って、トランスコーカサスの政治的および経済的統合を一時的に延期した。
 その後、1922年3月に、彼は合併を進めるよう命令した。
 そして、Ordzhonikidze は、トランスコーカサス・ソヴェト社会主義共和国連邦同盟の設立を発表した。三共和国の政府が行使していた権力のほとんどは、新しいトランスコーカサス連邦へと移管された。
 Tiflis〔ジョージアの首都—試訳者〕からの異議申立ては、レーニンには効果がなかった。彼はこのような問題について、スターリンの助言を信頼していた。//
 ----
 (05) 1922年の夏、共産党の領域は、四つの共和国で構成されていた。
 ロシア(RSFSR, ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦)、ウクライナ、ベラルーシ、およびトランスコーカサス。
 これらの形式的関係は双務的条約で規定された。
 だが現実には、四つの共和国全てがロシア共産党によって管理された。
 今決定されたのは、これらの共和国の関係をより整理されたものにする、ということだった。
 レーニンは、連邦同盟の基本的考え方を検討する任務を、1922年8月に、スターリンを長とする委員会に委託した。(注159)
 スターリンは、驚くほどの簡潔さをもつ結論に至った。
 すなわち、三つの非ロシア人共和国は、RSFSR〔ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦〕に自治的団体として加盟する。ロシア共和国の中央国家機関が、連邦的権限を引き継ぐ。
 このような制度では、ウクライナまたはジョージアと、Iakutiia またはBashkiriia のようなRSFSR内部の自治共和国との間の国制上の区別が消滅してしまう。 
 これは、全ての重要な国家機能をロシア共和国に与えるという、きわめて中央集権的な制度編成だった。(注160)
 じつに、帝制時代の「一つで不可分のロシア」という原理を復元させるものだった。//
 ----
 (06) これは、レーニンが想定していたものでは全くなかった。
 彼は1920年に早くも、二種のソヴェト的政体を構想していた。すなわち、大民族集団のための、形式上の主権をもつ「同盟」諸共和国と、少数派民族集団のための「自治」諸共和国。
 スターリンは、今のモスクワは行政の実際の観点から大民族と小民族を区別していないように、こう区別するのは学者的だと考えた。(注161) 
 レーニンの命令を受けて、スターリンは自分自身の考えに従って新しい国家構造を考案しようとした。//
 ----
 (07) 「自治化」(autonomization)という観念にもとづくスターリンの提案の草稿が、同意を求めて各共和国に送られた。
 それは、敵対的に受けとめられた。
 最も不満をもったのは、ジョージア共産党だった。彼らは1922年9月15日に、スターリンの提案は「未熟」だと宣明した。(注162)
 Ordzhonikidze はこれを却下し、トランスコーカサス連邦に賛成して草稿は〔ジョージア共産党に〕同意されたと、スターリンに知らせた。
 ウクライナは判断を保留し、ベラルーシはウクライナの決定に従うと宣言して、両方に肩入れした。
 スターリンの委員会は、事実上の全員一致で、彼の案を採択した。//
 ----
 後注
 (156) Richard Pipes, Formation of the Soviet Union, rev. ed. (1964), p.278.
 (157) V. P. Zatonskii in Desiatyi S"ezd, p.203.
 (158) Pipes, Formation, p.266-9.
 (159) Ibid., p.270; IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191.
 (160) スターリンの提案は、1964年に初めて公刊された。Lenin, PSS, XLV, p.557-8. 彼の「自治化」提案をめぐる論争に関するその他の文献資料は、つぎにある。IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191-p.218.
 (161) Lenin, Sochineniia, XXV, p.624. 
 (162) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.196.
 ——
 ②へと、つづく。

2558/O.ファイジズ・スターリンによる継承①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著の邦訳書は、ない。
 そのうち、第8章の試訳。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン①。
 第一節。
 (01) レーニンの病いの最初の兆候は、頭痛と疲労を訴えた1921年に現れた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだとどまっていたFanny の銃弾の毒素に原因があると診断した。
 だが、その他の医師たちは、より病理学的な問題を疑った。
 その懸念の正しさは、1922年5月25日にレーニンが大きな発作を起こし。右半身を事実上麻痺し、発話能力を失ったときに、確認された。//
 ----
 (02) その夏のあいだ、Gorki の田舎の家で回復しているときにレーニンの頭を占めていたのは、彼の後継者の問題だった。
 彼は自分を継承する集団指導制を明らかに望んでいた。
 彼がとくに心配したのは、内戦中に大きくなったトロツキーとスターリンの個人的対立だった。//
 ----
 (03) 二人ともに当然に指導者となる資質はもっていたが、レーニンを継承する権利はなかった。
 トロツキーは華麗な演説者で、優秀な管理者だった。
 赤軍の最高指導者として、他の誰よりも、内戦で活躍した。
 しかし、—メンシェヴィキだった過去やユダヤ人的な知的な風貌は言うまでもなく—トロツキーの自尊心と傲慢さのために、党内では人気がなかった。
 トロツキーは、自然な「同志」ではなかった。
 彼は、集団的指導制の場合の大佐ではなく、自分の軍隊の将軍でありたかっただろう。
 彼は、党員の隊列からすれば、「外部者」だった。
 政治局の一員ではあったが、党のより下位の職に就いたことがなかった。//
 ----
 (04) スターリンは対照的に、最初は集団指導制をより巧く運営する能力があるように見えた。
 彼は内戦中に多数の職責を担った。—民族問題人民委員、Rabkin(労働者・農民の調査)人民委員、政治局と組織局の一員、そして書記局の長。その結果、穏健で勤勉な中庸の人物だという声価を得ていた。
 スターリンは、短身で、素振りは粗くて、あばたのある顔とジョージア訛りの発音で、党内のより国際人的で知的な指導者たちの中では劣っている、と感じさせていた。いずれは、彼らに復讐することになるが。
 秘密主義的で執念深い人物で、仲間からのごく僅かな事柄も、彼は許さず、かつ忘れなかった。—コーカサスの半分犯罪的な地下の革命家世界で身につけたごろつき的習癖。
 彼は、1917年での自分の役割を小さくした者に対してとくに憤慨していた。誰よりも、知識人世界に入らないと自分を見ていたトロツキーに対して。
 トロツキーは〈わが生涯〉(1930年)で、1924年のレーニンの死の当時のスターリンについて、こう書いた。
 「彼は、実際性、強い意思、狙いを実行する執着性で優れていた。
 政治的地平は限定されていて、理論的な知識は貧弱だった。…。
 考え方はひどく経験主義的で、創造的な想像力に欠けていた。
 党集団の指導者としては(党外の広くには全く知られていなかった)、二番目か三番目の仕事をする宿命にある男だ。」(注01)
 党指導者たちの全てが、スターリンの権力の淵源は彼が就いた職から積み重ねた支持にある、という同じ過ちを冒した。—これは、1930年代のテロルで排除された者たちの、致命的な間違いだった。
 レーニンにも、その他の者たちと同様の罪責はあった。
 スターリンが強く迫ったために、レーニンはそれに応じて、1922年4月に党の初代の総書記に任命した。
 これは、革命史上の最悪の誤りだったと論じられ得る。//
 ----
 (05) スターリンの力は、地方の党諸機関の統制から大きくなった。
 書記局の長として、また組織局にいる唯一の政治局員として、彼は自分の支持者を昇進させ、反対者の経歴を妨害することができた。
 1922年の一年だけで、1万人以上の地方党官僚が、組織局と書記局によって任命された。
 彼らは、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンとの党指導者をめぐる闘いで、スターリンの主要な支持者になることになった。
 スターリンと同様に、彼らはきわめて低い層の出身だった。
 彼らは、トロツキーやブハーリンのような知識人に疑問をもち、スターリンの実際的な知恵への信頼の方を選んだ。革命のイデオロギーの問題が生じたときには、スターリンによる統一と紀律の分かりやすい呼びかけの方を好んだ。//
 ----
 (06) レーニンの不在中は、政府は三頭制(スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ)で運営された。これは、反トロツキー連合として出現したものだった。
 三人は党の会議の前に会合し、戦略を調整し、どう投票すべきかについて支持者たちに指示した。
 カーメネフはスターリンを好んだ。二人は、1917年以前は一緒にシベリアで流刑にあっていた。
 ジノヴィエフは、それほどはスターリンを気にかけなかった。
 しかし、ジノヴィエフのトロツキー嫌いは全面的なものだったので、敵のトロツキーが敗北するのに役立つかぎり、悪魔の側にすら立っただろう。
 二人は、党指導者を目指す自分たちの要求でトロツキーに勝利するためにスターリンを利用していると考えていた。二人は、トロツキーがより重大な脅威だと思っていた。//
 ----
 (07) レーニンは〔1922年〕9月までに回復し、仕事に復帰した。
 彼は三頭制を疑うようになった。それは、自分の背後にいる支配派閥のように動いていた。それで、トロツキーに、「反官僚制ブロック」(「官僚制」とはつまりはスターリンとその権力基盤)の自分に加わるように求めた。
 しかし、そのとき、12月15日に、レーニンは二度めの発作を起こした。
 スターリンは、総書記としての彼の権力を用いて、レーニンの医師について担当するとともに、レーニンを訪問できる者を制限した。
 車椅子に閉じ込められ、「一日に5分から10分まで」の口述筆記だけが許されて、レーニンは、スターリンの囚人になった。
 彼の二人の主要な秘書たち、Nadezhda Allilueva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンが語ったこと全てをスターリンに報告した。//
 ----
 (08) 12月23日から1月4日まで、レーニンは、近づく第12回党大会用の、一連の断片的な覚書を口述した。これは、彼の遺書として知られるようになる。
 レーニンは秘書たちに秘密にするよう命じたが、彼女たちはスターリンに明らかにした。
 この口述筆記のあいだ、革命の進展方向について、深刻な関心と不安があった。
 レーニンは三つの問題を気にかけていた。—そしてそれらのどれについても、スターリンが主要な問題だったように見えた。//
 ----
 (09) 第一は、民族問題とどのような同盟条約が署名されるべきか、だった。
 中心にあった問題は、ボルシェヴィキとジョージアとの関係だった。
 スターリンは、そのジョージア出自にもかかわらず、民族少数派に対する熱狂的なロシア愛国主義者として内戦中にレーニンが批判したボルシェヴィキの先頭にいた。
 赤軍がウクライナ、中央アジアおよびコーカサスの旧ロシア帝国の国境地帯を再征服すると、民族問題人民委員としてのスターリンは、非ロシア人共和国は自治領として、事実上は同盟を脱退する権利を剥奪されて、ロシアに加わるよう提案した。
 レーニンは、これら地域は主権ある共和国としてこの権利を持つべきだと考えた。どうであっても、これらはソヴィエト連邦の一部であることを望むだろうと考えたからだった。
 彼が見ていたように、革命は全ての民族的利益に打ち勝った。//
 ----
 (10) スターリンの提案は苦々しくも、ジョージアのボルシェヴィキに反対された。彼らの権力基盤はジョージアのモスクワからの自治の手段を獲得することに依存していた。
 ジョージア共産党の全中央委員会は、スターリンの政策に異論を唱えるのを断念した。
 レーニンが、介入した。
 彼は、ある論議でモスクワのコーカサス局の長でスターリンの側近のSergo Ordzhonikidze がジョージア・ボルシェヴィキを打ち負かしたと知って、激しく怒った。
 レーニンは、スターリンとジョージア問題を異なる観点から見るようになった。
 大会用の彼の覚書でレーニンは、スターリンを、少数民族を威嚇して従属させることだけができる「悪漢で暴君」だと称した。必要なのは「深い注意、繊細さ」、彼らの合法的な民族的諸要求との「妥協の用意」なのだ。とくに、ソヴィエト同盟は新しい帝国になるべきではなく、植民地世界での被抑圧民族の友人と解放者のふりをすべきである場合には。(注02)//
 ----
 (11) レーニンは病気であるために、スターリンは自分の途を進んだ。
 ソヴィエト同盟の創設条約は基本的に中央志向で、各共和国に「民族性」(nationhood)の文化形態を許容するのは、モスクワにいるソヴィエト同盟(CPSU)の共産党が設定した政治的枠組の範囲内でのみだった。
 政治局は、「民族的逸脱者」としてジョージア・ボルシェヴィキを排除(purge)した。このレッテルをスターリンは、のちの時代に非ロシア人地域の多数の指導者たちに対して用いることになる。//
 ----
 (12) 遺言でのレーニンの第二の関心は、党の指導機関を説明責任をより果たすものにすることだった。
 彼は、党の下級機関から50-100名の新人を加えることで中央委員会を「民主化」すること、中央委員会による検査のために政治局を公開することを提案した。
 こうした党幹部と一般党員との間の増大している空壁を埋めようとする努力がボルシェヴィキ独裁の根本問題—官僚主義と代表しているとする労働者大衆からの疎遠化—を解消しただろうかは、疑わしい。
 レーニン自身が遺言で書いたように、現実にあった問題は、革命が後進的農民国家で起き、必要な「文明化の要件」を欠いている、ということだった。大衆の自分たち自身による管理にもとづく本当の社会主義政府を樹立するために必要な要件を。(これは、メンシェヴィキが正しかったかもしれないと認めるに至る地点に接近していた。)
 さらに、ボルシェヴィキは、内戦中の暴力的習癖を捨て去り、「国家という機械」の複雑な機構を通じてより効率的に統治する仕方を学ぶ必要があった。//
 ----
 (13) レーニンの遺書の最後の論点—そして最も爆発的だったもの—は、承継の問題だった。
 レーニンは、集団指導制への自らの選好を強調するかのように、主要な党指導者たちの欠陥を指摘した。
 カーメネフとジノヴィエフは、1917年10月の二人のレーニンに対する態度によって、批判された。
 ブハーリンは「全党の中のお気に入りだったが、彼の理論的見解は留保つきでのみマルクス主義と言い得るものだった」。
 トロツキーは「中央委員会の中でおそらく最も有能な人物」だが、「過剰な自信を誇示して」いた。
 だがなおも、レーニンが最も痛烈な批判を残していたのは、スターリンに対してだった。
 「スターリンは、粗暴すぎる。この欠点は、共産党員の間での行いでは全く耐え得るものだけれども、総書記としては耐え難いものになる。
 私は、この理由で、同志諸君はスターリンをその地位から排除して、包容力、忠誠心、丁重さ、同志たちへの配慮心がもっとあり、もっと気紛れではない等、の別の誰かと交替させる方策を考えるよう提案する。」(注03)
 レーニンは、スターリンは去らなければならないことを。明瞭に述べていた。//
 ----
 (14) レーニンの決意は、3月5日に強まった。その日、12月の彼には秘密にされていた事件について、知ったからだ。
 スターリンは〔レーニンの妻の〕Krupskaya を「粗々しく罵り」、レーニンからトロツキーへの三頭制に関する論議での勝利を祝福する口述筆記の手紙を受け取ったことで、党規約違反として尋問すると脅かしすらしていた。
 レーニンはこの事件を知って、荒れた。
 彼はスターリンあての手紙を口述筆記させ、スターリンの「粗暴さ」について謝罪を要求し、関係を断つと威嚇した。
 権力を握って完全に傲慢になっていたスターリンは。返書で死にゆくレーニンへの侮蔑心をほとんど隠そうともせず、Krupskaya は「あなたの妻であるのみならず、私の古くからの党同志だ」ということをレーニンに思い起こさせた。(注04)//
 ----
 (15) レーニンの状態は、一夜で悪化した。
 三日後、彼は三回めの発作を起こした。
 言語能力が失われた。
 10ヶ月後に死亡するまで、単語をいくつか発することができただけだった。「ここ・ここ(〈vot-vot〉)」と「大会・大会(〈s'ezd-s'ezd〉)。//
 ——
 第8章第一節、終わり。

1780/スターリン・権力へ②-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.14~p.18。
 ----
 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇②。
 この時期にスターリンは民族問題に関する専門家として、自己決定は「弁証法的に」理解されなければならない(換言すると、それ以外ではなく党のスローガンに適応したものとして用いられなければならない)という旨を演説した。
 1918年初頭のソヴェトの第三回大会で彼は、適正に言えば自己決定とは「大衆」のためのもので「ブルジョアジー」のためのものではない、それは社会主義を目ざす闘いに従属しなければならない、と説明した。
 その年に公表した論文では、ポーランドとバルト諸国の分離は、これらの国々は革命ロシアと革命的西欧との間の障壁を形成するだろうから、反革命の動きであって帝国主義者の手中に嵌まる、と強調した。
 他方で、エジプト、モロッコまたはインドの独立を目ざす闘争は、帝国主義を弱体化することを意図しているので進歩的な現象だ、と。
 これら全ては完全に、レーニンの教理および党のイデオロギーと合致していた。
 分離主義運動は、ブルジョア政権に対して向かっていれば進歩的だ。しかし、ひとたび「プロレタリア-ト」が権力を手中にすれば、民族的な(national)分離主義は自動的にかつ弁証法的に、そのもつ意味を変化させる。それはプロレタリア国家、社会主義、そして世界革命に対する脅威なのだから。
 その定義からして社会主義は、民族的抑圧を行うはずがない。そうして、侵攻だと見えるものは、実際には解放のための行為なのだ。-例えば、スターリンの命令によって赤軍がジョージアの中へと進軍したときのように。ジョージアにはその当時(1921年)、代表制民主政体にもとづくメンシェヴィキ政府が存在していたのだが。
 こうしたことにもかかわらず、決して取り消されなかった民族自決権(自己決定権)というスローガンは、内戦でのボルシェヴィキの勝利に大きく貢献した。白軍の司令官たちは包み隠さず、自分たちの目的について、革命前の領土を少しも失うことなく一つで不可分のロシアを復活させることだ、と述べていたのだ。//
 スターリンがしたことはトロツキーのそれで覆い隠されているけれども、彼は内戦で重要な役割を果たした。
 この二人が対立する起源は、疑いなくこの時期にさかのぼる。この時期に、個人的な嫉妬と非難のし合い-誰が最もツァリツィン(Tsaritsyn)での勝利に貢献したのか、ワルシャワの前の敗北は誰の過ちによるのか、等々-があった。//
 スターリンは1919年に、労農監察部(the Workers' & the Peasants' Inspectorate)の人民委員になった。
 すでに述べたように、官僚制の侵入からソヴェト体制を守ろうとするレーニンの絶望的で見込みなき企てを、この組織は代表した。
 「純粋な」労働者と農民から成る監察部は、国家行政の他部門全てに対して監督する無制限の権限をもった。
 状況を改善するどころか、事態をさらに悪くした。この監察部には民主主義的な仕組みが欠けていたので、これはたんに大官僚組織に一列を付け加えたにすぎなかった。
 しかしながらスターリンは、これを利用して諸組織に対する自分の力を強化した。そして疑いなく、人民委員の地位にあったことは、彼が最高権力者へと昇りつめるのを助けることになった。//
 この段階で、独自性はなくとも重要な考察をしておくべきだろう。
 のちに党の歴史全体がスターリンの命令によって彼自身を称揚するために書き直されたとき、彼は若いときからレーニンの「副司令官」だったと叙述された。あるいはむしろ、自分をそう示そうとした。
 全ての活動分野で、スターリンは指導者、第一の組織者、同志の鼓舞者、等々だった。
 (党の質問で、彼は革命活動を行ったことが理由で放校になったと主張した。しかし、疑いなく彼はそこにいた間の禁じられた主題を議論してしまった。実際には、試験に出席することができなかったために追放された。)
 この狂熱的な考え方によると、彼はレーニンの最も親密な腹心で、党が創立されたまさにその瞬間からの助手だった。彼の輝かしい指導のもとで、コーカサスの幼なかった社会主義運動は成長した。そしてのちには、全党が疑問の余地なくスターリンをレーニンの正当で自然な後継者だと考えた、等々。
 彼は、革命のための頭脳、内戦の勝利の設計者、ソヴィエト国家の組織者だった。
 ベリア(Beriya)が創作した偉人伝では、1912年はロシアの党史上の、ゆえにまた人類史上の転換点として選び出された。スターリンが中央委員会委員になったのはまさにその年だったのだから。//
 他方で、トロツキーやスターリンを厭う理由をもつ他の多くの共産党員は、ボルシェヴィキの歴史でのスターリンの役割を何とか貶め、狡猾さと好運とが混じり合って階段の頂上へと昇りつめた二級の<党官僚(apparatchik)>と描写しようとした。その階段から踏み外させるのは不可能だと分かっていたのだった。//
 このような見方もまた、真実だと受け止めることはできない。
 確かなことは、スターリンは1905年以前には目立たない地方活動家で、より高く評価されて、より重要な役割を果たした者は彼の出身地域に多数いた、ということだ。
 にもかかわらず、1912年までには、6人または7人の著名なボルシェヴィキ指導者の一人になっていた。そして-トロツキー、ジノヴィエフあるいはカーメネフに比べると知られてはいなかったし、誰もレーニンの「当然の」後継者だとは考えていなかったけれども-、レーニンの晩年には、党を支配する小集団の中にいた。
 そしてレーニンが死んだとき、彼は理論上ではなく実務上だが、その国の誰がもつよりも大きな権力を保持していた。//
 我々には現在用いることのできる資料から、スターリンの同志たちは革命の前からすら、のちに病的な圧制者となった彼の性格に気づいていた、ということが分かっている。
 いくつかは、レーニンの「遺言」で記述された。
 スターリンは粗暴(brutal)で、不誠実で、我が儘で、野心家で、嫉妬深く、反対者に非寛容で、部下たちにとっては専制君主だった。
 彼がボルシェヴィキの「古い保護者」を全て一掃してしまうまでは、誰も真面目に哲学者だとか理論家だとかは思っていなかった。この点から見ると、トロツキーやブハーリンだけではなくて、党の主なイデオロギストたちの方が、スターリンよりも勝れていた。
 彼の論文、小冊子や演説には何も独自性がなく、それらの意図をきちんと伝えていない、ということを誰もが知っていた。マルクス主義理論家ではなく、数百人も他にいる党宣伝者(propagandist)の一人だったのだ。
 もちろんのちに、「人格カルト〔個人崇拝〕」の興奮状態の中で、彼が執筆した一片の紙切れも、マルクス=レーニン主義の財産に不朽の貢献をしたものになった。
 しかし、理論家としての全ての名声は命じられた儀礼の一部にすぎず、それは彼の死後たちまちに忘れ去られた、ということは完璧に明らかだ。
 スターリンのイデオロギー的著作が政治的に名声を求めることのない人物によって書かれたものであったとすれば、マルクス主義の歴史で言及するにほとんど値しなかっただろう。
 しかし、彼が権力を握っている間は、それ以外にマルクス主義の焼き印(ブランド)の付いたものは稀にしかなかった。また、この当時のマルクス主義は、彼の権威との関連でしかほとんど明らかにすることはできない。したがって、四半世紀にわたってスターリンが偉大なマルクス主義理論家だったと言うのは、本当のことであるばかりか、実際には、同義反復(トートロジー)だ。//
 いずれにせよ、スターリンは党に有用な多くの性質をもった。頂点にまで達して対抗者を排除したのは、偶然にのみよるのではなかった。
 彼は疲れ知らずの、目聡い、そして有能な活動家だった。
 実際上の諸問題に関して、教理的な考察を軽視し、論点の相対的な重要性の程度を明確に見分ける方法を知っていた。
  彼は(ヒトラーが侵攻してきた最初の数日を除いて)パニックに陥らなかったし、達成することしか頭にはなかった。
 また、見せかけの権力と実際の権力を区別することも巧かった。
 演説は下手で文章は退屈だったが、平易に喋ることができたので、ふつうの党員たちの心を掴んだ。そして、繰り返しや要点の番号振りをする衒学的な習癖は、提示した言葉(exposé)は力強くて明瞭だとの印象を与えた。
  彼は部下たちに威張りちらしたが、うまく彼らを使うことができた。
 党員、外国の新聞記者あるいは西側の政治家のいずれであれ、違う対話者に応じて異なるやり方で適応する術を知っており、プロレタリア-トの根本教条のために立ち向かう果敢な闘争者の役割を、あるいは国家にとって無意味ではない「親分」の役割を演じることができた。
  彼は、全ての成功を自分の栄誉として受け取り、全ての失敗を他者の責任として追及することのできる、類い稀な才能をもっていた。
 スターリンが確立するのを助けた体制によって、自分は僭政者になることができた。
 しかし、彼はその所期の成果を収めるべく長く懸命に仕事をした、ということは言っておかなければならない。//
 スターリンの有能さと組織する力を、レーニンは疑いなく評価していた。
 ときにはレーニンに同意しなかったが、危機にあるときにはつねにレーニンを守った。
 幹部級のボルシェヴィキの多くとは違って、「知識人的な」学習をしておらず、それについてレーニンは平気ではおれなかった。
 スターリンは淡々とした性格で、困難で下品な仕事をするのを気に懸けなかった。
 そして、遅れて見方を変えて、レーニンは自分が権力の頂部へと昇らせてい人物が危険だと気づいたけれども、スターリンがその敵対者に対して応答した言葉にはいく分かの真実がある。
 彼の敵対者たちが最後になってレーニンの「遺言」を書類庫から引っ張り出し、スターリンに反対する証文として使ったとき、スターリンはこう言った。
 そのとおり、レーニンはかつて私は粗暴だと責めた。そして、革命に関するかぎりは、私は粗暴<である>。-しかし、レーニンは一度でも、私の政策は過っていると言ったか?
 これには、反対者は答えることができなかった。//
 1922年4月にスターリンが党の総書記(the Secretary-General)になったのはレーニンの個人的な選抜だった、ということを疑う根拠はない。そして、他の指導者たちの誰かがこの指名に反対した、という証拠資料はない。
 トロツキーがのちにつぎのように明確に述べたのは、全く本当のことだ。
 この職を創設してスターリンをその地位に就かせることが彼がレーニンの継承者になることを意味するとは、誰も考えなかった。総書記の地位にある者は実際にはソヴェトの党と国家の最高支配者になるだろう、とも。
 全ての重要な決定は、まだ中央委員会政治局によって行われており、その諸決定は人民委員会議という媒介物を経て、国家を動かしていた。  
 ----
 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1679/共産党独裁③-L・コワコフスキ著18章4節。

 日本語版レーニン全集36巻(大月書店、1960/14刷・1972)の手元の所在がなぜか分からないので、今回部分の日本語版の参照はできない。後日、追記するかもしれない。<8/01に追記。>
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
 ---  
 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁③。
 レーニンは、非能率な者をどこにでも投獄することを要求した。そして、なぜ彼らは自分で決定するのを怖れ、可能ならばいつでも上官に問い合わせるのだろうと不思議に思った。
 彼は慎重な監督と徹底的に記録することを要求し、『書記仕事(pen-pushing)』の莫大な多さに驚愕した。
 (『社会主義=ソヴェト権力+電化』という彼の言明は、しばしば引用される。
 革命直後に言った、『社会主義が意味するのはとくに、あらゆることを文書化する(keeping account)ことだ』は、さほど多くは引用されない(中央執行委員会会議、1917年11月17日。全集26巻p.288〔=日本語版全集26巻「全ロシア中央執行委員会の会議/エスエル左派の質問にたいする回答」293頁)。)(+)(*)
 彼は、地方の党や警察機関内部ではいかなる批判も反革命だと見なされ、その批判文執筆者は投獄か死刑の危険に晒される、ということに依拠する制度を作り出し、同時に、労働者人民には、怖れないで国家機関を批判するように求めた。
 官僚主義という癌に関する彼の分析結果は、単純だった。すなわち、教育、『文化』および行政能力、の欠如による。
 二つの処方箋があり、これまた単純だった。すなわち、非能率者を投獄〔=収監〕すること、および実直な官僚から成る新しい監督機関を設置すること。
 レーニンは、スターリンが率いる労働者・農民査察官(Inspectorate)(ラブクリン、Rabkrin)に重要な意味を与えた。これは、全ての行政部署およびその他の監視機関を監督する権限があるものとして任命されていた。そして、彼の考えによれば、官僚主義に対する闘いの成功は、最終的には、この機構の誠実さに依っていた。
 この機構はテロルに関する負担を引き受けたり、あらゆる方向への役立たない指令を発したりしたが、それに加えて、1922年に党の総書記になったスターリンによって、反対者を叩き出す杖として、および党内部の闘争に使う武器として利用された。  
 もちろん、このことを、レーニンは予見しなかった。
 彼は『最後の治療薬』を処方したが、それは、-彼が十分に知っていた-国に離れがたく締め込まれている官僚主義の連鎖へと繋がる形をとる、官僚主義に対する治療薬だった。
 党組織(ヒエラルキー)は、徐々に肥大していった。
 それは、全ての公民を覆う生と死に関する権力を持った。
 最初は真面目な共産主義者によって指導されたが、それは、時の推移のうちに大量の立身出世主義者(careerists)、寄生者(parasites)、追従者(sycophants)を吸い込んだ。そして、数年の間に、彼らが自分たちで描く、統治スタイルの範型になった。//
 レーニンが生きた最後の二年間、動脈硬化と連続する心臓発作という病気が影を投げていた。彼は最後まで、それと闘わなければならなかった。
 1922年12月と1923年1月に党大会の用意として書かれた文章から成る有名な『遺書』は、続く34年の間、ソヴィエトの一般公衆に隠された。
 この文章は、国家の困難さと党組織内部で接近している権力闘争に関する絶望的な感情を表している。
 レーニンは、スターリンを批判する。過度に権力を手中にすることに集中しており、高慢(粗雑、high-handrd)で、気まぐれで、不誠実だ、ゆえに総書記局にとどまるのはふさわしくない、と。
 レーニンはまた、トロツキー、ピャタコフ(Pyatakov)、ジノヴィエフおよびカーメネフの欠点も列挙し、ブハーリンを非マルクス主義者の考えだと批判する。
 彼は、オルジョニキーゼ(Ordzhonikidze)、スターリンおよびジェルジンスキーを、大ロシア民族主義者だ、ジョージア侵攻で使われた手段が残虐だった、と非難する。
 レーニンは、『ロシア人の弱い者いじめに対抗する本当の防御策を非ロシア人に与える』必要性については語らない。そして、つぎのように予言する。
 『我々がツァーリ体制から奪い取ってソヴェトの油脂を少しばかり塗った…国家機構』つまりは同盟〔ソヴィエト同盟〕から離脱できるという約束した自由は、『たんなる紙屑になるだろう。そして、本当のロシア人たちの襲撃から非ロシア人を守ることはできないだろう。そのロシア人の大ロシア熱狂的愛国主義(chauvinist)は、本質において卑劣で暴圧的で、典型的なロシア官僚主義はこうだと言えるようなものだ。』 (+)
 (全集36巻p.605-6〔=日本語版全集36巻「覚え書のつづき-1921年12月30日/少数民族の問題または『自治共和国化』の問題によせて」716頁〕。)//
 こうした訴え、警告および非難には、実際上の重要性がほとんどなかった。
 レーニンは、民主主義的に選出されたメンシェヴィキ政府をもつジョージアを自分の承認を得て赤軍が侵攻したすぐ後に、少数民族の保護や民族自決権について喚起した。
 彼は、中央委員会を拡大することで分派的対立を防止することを望んだ。あたかも、彼自身が実際上は党内民主主義を終わらしめたときと比べて、その大きさが何らかの違いを生じさせ得るかのごとくに。
 レーニンは、主要な党指導者全員を批判し、スターリンの交替を呼びかけた。
 しかし、彼はいったい誰が、新しい総書記になるべきだと考えていたのか?
 -トロツキーは『自信がありすぎる』、ブハーリンはマルクス主義者ではない、ジノヴィエフやカーメネフが『1917年10月の裏切り者』だったのは『偶然ではない』、ピャタコフは、重要な政治問題について信用が措けない。
 レーニンの政治的な意図が何だっただろうとしても、『遺書』は今日では、絶望の叫びのように(like a cry of despair)読める。//
 レーニンは、1924年1月21日に死んだ。
 (スターリンが毒を盛ったという、トロツキーがのちに示唆したことを支持する証拠はない。)
 新しい国家は、レーニンが教え込んだ根本路線に沿って進まなければならなかった。
 防腐(embalm)の措置を施されたその遺体は、今日までもモスクワの霊廟に展示されている。このことは、彼が約束した新しい秩序がすみやかに全人類を抱きしめる(embrace)だろうことを、適切に象徴している。//
 ------
 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*) 上記日本語版全集によると、このように続く。-「社会主義は、上からの命令によって作り出されるものではない。社会主義の精神は、お役所的=官僚主義的な機械的行為とは縁もゆかりもない」。
 ---
 第4節、終わり。第5節の表題は、<帝国主義の理論と革命の理論>。 
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー