秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ジャコバン派

1799/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)②。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017).
 2017年版の試訳の第二回。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には//を付す。
 №1794の内容構成(目次)の紹介には欠けているが、序説以外の各章のはじめにも、見出し文字のない「まえがき」部分がある。「(まえがき)」と記しておく。
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 序説/第3節・革命の解釈。
 全ての革命は<自由、平等、友愛>(liberté, égalité, fraternité )その他の高尚なスローガンをその旗に刻んでいる。
 全ての革命家は、熱狂者で狂信者だ。全てが、不公正や腐敗のない、旧世界にある無感情は永遠に除去される新世界を創ろうという夢をもつユートピアンだ。
 全ての革命家は、内輪もめを許すことができず、妥協をすることもできず、大きくて遠い目標に魅せられており、暴力的で、懐疑的で、そして破壊的だ。
 革命家たちは、非現実的で統治に習熟していない。制度や手続は、思いつきで作られる。
 彼らは、民衆の意思を具現化するという幻想に酔っている。民衆の意思は、彼らの想定では一枚岩だ。
 彼らはマニ教徒(Manicheans)で、世界を二つの陣地に分ける。光と闇、革命とその敵。
 彼らは、伝統、在来の知識、聖像(icons)および迷信を嫌う。
 彼らは、社会は革命がそこに書き記そうとする<無色の白板(tabula rasa)>のはずだ、と信じている。//
 幻滅や失望で終わるのは、革命家の本性だ。
 熱狂は、衰える。狂熱は、強いられるものになる。
 狂気 (7)と高揚の時間は、過ぎ去る。
 民衆と革命との関係は、説明し難いものになる。民衆の意思は必ずしも一体のものではないし、よく見通せるものでもない。
 富と地位への誘惑が戻ってくる。人は隣人を自分のごとく愛しはしないし、そう欲してもいないと気づくとともに。
 全ての革命家は事物を破壊し、すぐにその損失を後悔する。
 彼らが創るものは全て、予期したものよりも小さくて、違うものだ。//
 しかしながら、属性的な共通性とは別に、全ての革命には固有の性格がある。
 ロシアの位置は周縁にあり、そこでの教養のある階層は、ヨーロッパと比べての後進性に覆われていた。
 革命家とは、「プロレタリア-ト」を「民衆」にしばしば置き換え、革命は道徳的に強いられるものではなくて歴史の必然だと主張するマルクス主義者だった。
 革命が起きる前のロシアに、革命的政党はあった。戦争の真只中に革命がやって来たとき、その諸政党は、周辺にいる自発的な革命的群衆の献身ではなくて、民衆革命の既成の一団(兵士、海兵、ペテログラードの大工場の労働者)の支援を求めて競い合った。//
 この著では、三つの主題が特別の重要性をもっている。
 第一は、近代化という主題だ。-後進性から脱却するための手段としての革命。
 第二は、階級という主題だ。-プロレタリア-トとその「前衛」であるボルシェヴィキ党の使命としての革命。
 第三は、革命的暴力とテロルという主題だ。-革命はいかにその敵を処理し、それはボルシェヴィキ党とソヴィエト国家にとって何を意味したのか。//
 「近代化」という用語は、後近代(ポストモダン)としばしば表現される時代には通過点だったかのごとく響き始めた。
 しかし、ボルシェヴィキが追求した工業と技術の近代性は今では見込ないほど古くさかったがゆえに、これは我々の主題とするのに適切だ。すなわち、その当時は、汚染を撒き散らす恐竜の一群のように、従前のソヴィエト同盟から東ヨーロッパまでの風景を切り刻む巨大な煙突群は、革命の夢を実現するものだった。
 マルクス主義者たちは革命よりもだいぶ前から、西側の工業化との恋に落ちていた。
 彼らは資本主義(第一義的には資本主義的工業化を意味した)の不可避性を強く主張したが、これは19世紀遅くの人民主義者(the Populists)との議論の対立の核心だった。
 ロシアでは、のちに第三世界でそうだったように、マルクス主義は革命のイデオロギーであるとともに経済発展のイデオロギーだった。//
 ロシアのマルクス主義者にとって、工業化と経済の近代化は理論上は、目的のための手段にすぎなかった。目標は、社会主義になることだった。
 しかし、ボルシェヴィキがこの手段に明白にかつ集中的に焦点を当てれば当てるほど、目標はますます曖昧になって遠ざかり、ますます非現実的になった。
 「社会主義の建設」という用語が1930年代に一般に用いられるに至ったとき、その意味を、まさに進行中だった新しい工場や工業都市の現実の建設と区別するのは困難だった。
 あの世代の共産主義者たちにとっては、大草原に煙を吐き出す新しい工場群は、革命が勝利しつつあることを最もよく誇示するものだった。
 Adam Ulam が述べたように、いかに苦痛を伴いいかに強制的であっても、スターリンが促進した工業化は、「マルクス主義の論理の完成物であって、『裏切られた革命』ではなく『達成された革命』」だった。(8)//
 第二の主題である階級は、それ自体として最重要の当事者だと受け止められたがゆえに、ロシア革命で重要だ。
 マルクス主義の分析的範疇は、ロシアの知識人層に広く受け容れられた。そして、ボルシェヴィキは、より広い社会主義諸党派の中の例外ではなくて代表的なものだった。階級闘争という観点から革命を解釈し、工業労働者に特別の役割を割り当てるならば。
 権力をもったボルシェヴィキは、プロレタリアと貧農は彼らの自然の同盟者だと想定した。
 ボルシェヴィキはまた、「ブルジョアジー」-以前の資本家、以前の貴族的土地所有者、役人たち、小規模小売店主、クラク(富んだ農民)および一定の文脈ではロシアの知識人層を広く含む-の一員たちは彼らの自然の敵対者だと完全に想定していた。
 ボルシェヴィキはこのような者たちに「階級敵(class enemies)」という用語を使った。初期の革命的テロルがまず第一に向かったのは、こうした者たちに対してだった。//
 この時期に関して最も激しく議論される階級問題の一つは、労働者階級を代表するというボルシェヴィキの主張は正当なものだったか否かだ。
 ペテログラードとモスクワの労働者階級が急進化して他のどの諸政党よりも明らかにボルシェヴィキを選好した1917年の夏と秋を一見するならば、これはおそらく、十分に単純な問題だ。
 労働者階級の支持を得てボルシェヴィキが権力を掌握したということは、その支持を永続的に維持し続けた、ということを意味しなかった。-あるいは実際には、権力掌握の前であれ後であれ、その党を工場労働者のたんなる吹き口(mouthpiece)と見なしたのだ。//
 ボルシェヴィキは労働者階級を裏切ったとの非難は最初は1921年のクロンシュタット反乱(the Kronstadt revolt)に関係して国外から行われたもので、生じざるをえない、本当であるように思える非難だった。
 しかし、いかなる裏切りなのか-いつの時点での、誰との、いかなる結果をもつ裏切りなのか?
 労働者階級との婚姻関係は内戦の終わりの時期には解体に近そうに見えたが、ボルシェヴィキは、ネップ期に継ぎ当てをしてそれを守った。
 第一次五カ年計画の間に、実際の賃金と都市の生活水準が落ちこんで、また体制が生産性のさらなる向上を強く要求したために、関係は再び悪化した。
 正式の離婚ではなくとも、労働者階級との事実上の離別は1930年代に生じた。//
 しかし、これで物語の全部が終わったのではない。
 ソヴィエト権力のもとでの労働者それ自体の状況は、一つの問題だ。
 労働者が自分をより良くする(労働者以外の何者かになる)ために利用できる機会は、別の問題だ。
 ボルシェヴィキは十月革命後の15年間、主としては労働者階級から党員を集めることによって、労働者の党だというその主張をきわめて巧く確証した。
 ボルシェヴィキはまた、労働者階級が上方へと移動する広い経路を生み出した。労働者を新たに党員にすることは、共産主義者たちをホワイトカラーの行政や経営の地位へと昇進させることと関連していたのだから。
 1920年代末の文化革命の間、体制は、多数の若い労働者や労働者の子どもたちをより高等な学校へと送り込むことによって、上昇移動への新しい経路を切り拓いた。
 困難度の高い「プロレタリアの昇進」という政策は1930年代初めに弱まったが、その影響は残った。
 スターリン体制にとって重要なのは労働者ではなく、<以前の>労働者だった。-経営および職業上のエリートの中にいる新しく昇進した「プロレタリア-トの中核」だった。
 厳密なマルクス主義の立場からすれば、このような労働者階級の上への流動は、おそらく大した関心の対象ではなかった。
 しかしながら、受益者からすると、彼らの新しいエリートとしての地位は、革命が労働者階級に約束したことを実現したことの紛れもない証拠だと思われがちだった。//
 この著で一貫している最後の主題は、革命的暴力とテロルという主題だ。
 民衆の暴力は、革命に内在的なものだ。
 革命家たちは、後の時期には留保を増やしつつも、革命の初期の段階でそれをきわめて好意的に考える傾向にある。
 テロルとは、一般民衆を脅かし恐怖に陥れる、革命集団または体制による組織的な暴力を意味する。これは、近代諸革命に特徴的なものでもあり、フランス革命がその典型を設定した。
 革命家の目からするとテロルの主要な目的は、革命の敵や変革への障害を破壊することだ。
 しかし、革命家たち自身の純粋性や革命的意識を維持するという、二次的な目的がしばしばある。(9)
 敵と反革命者は、全ての革命できわめて重要だ。
 敵は公然とはもちろん密かにも抵抗する。彼らは、策略や陰謀を企む。彼らはしばしば、革命家の仮面を身につけている。//
 マルクス主義者の理論に従って、ボルシェヴィキは階級という観点から階級の敵という観念を生み出した。
 貴族(noble)、資本家またはクラクであることは、<そのこと自体で(ipso facto)>、反革命同調者の証拠だった。
 たいていの革命家たちと同様に(地下の党組織と策略という戦前の経験があったことを考えるとおそらくたいてい以上に)、ボルシェヴィキは反革命の陰謀に神経質だった。
 しかし、彼らのマルクス主義はこれに、特殊な捻りを加えた。
 かりに革命には本来的に有害な階級があれば、一つの階級全体を敵の共謀者だと見なすことができた。
 その階級の個々の構成員は、「客観的に」反革命共謀者であり得た。主観的には(つまり彼らの心の裡では)共謀に関して何も知らず、自分たちは革命の支持者だと考えているとしてすら。//
 ロシア革命で、ボルシェヴィキは二種のテロルを用いた。すなわち、党の外部にいる敵に対するテロルと、党内部の敵に対するテロル。
 前者は革命の初期の時代に支配的だったが、1920年代に少なくなった。そして再び、集団化と文化革命の10年間の末に急に激しくなった。
 後者は最初は、内戦の終末期に党の分派闘争の間にあった可能性として散見された。だが、1927年までには消失した。その当時、左翼反対派に対する小規模のテロルが行われた。//
 そのとき以降、党内部の敵に対して大規模のテロルを行う誘惑があることが明瞭になった。
 これの一つの理由は、体制は党外部の「階級敵」に対して相当規模のテロルを用いているということだった。
 もう一つの理由は、党員たちに対する党の定期的な粛清(chistki, 字義どおりには洗浄(cleansing))が、痒い部分を引っ掻くのと似た効果を持ったことだ。
 1921年に全国的規模で最初に行われた粛清(purges)は、その忠誠性、能力、出身および社会的関係を判断する公開の場に全ての共産党員を個人的に呼び集めて、再審査するというものだった。そして、望ましくないと判断された者たちは党から除名されるか、党員候補へと引き下げられた。
 1929年に全国的な党の粛清があり、1933-34年にもう一回あった。そしてそのあと-党の粛清がほとんど偏執狂的な活動になった-、1935年と1936年にさらに二回の党員再審査が素早く続いて行われた。
 除名(expulsion)は拘禁または国外追放のような重い制裁を伴う蓋然性はあったけれども、まだ比較的に穏やかだった。この党粛清のたびに、重くなっていったけれども。//
 テロルと党の粛清(purging, 「p 」は小文字)は最終的に、結合して大規模になって、1937-38年の大粛清(the Great Purges)に至った。(10)
 これは、通常の意味での粛清ではない。党員に対する系統的な再審査は含まれていないからだ。
 しかし、これは第一段階では党員に、とくに高い地位の公職にある党員に対して向けられた。そして、拘禁と恐怖が非党員の知識人にすみやかに広がった。より少ない程度でだが、広く一般民衆にも。
 より正確には大テロル(the Great Terror)と称されることになる大粛清では、疑念はほとんど確信と同じであり、犯罪行為の証拠は必要でなかった。そして、反革命罪に対する罰は、死または労働強制収容所送りの宣告だった。
 多数の歴史研究者に、フランス革命のテロルとの類似性が思い起こされた。そして、大粛清の組織者にも同様に、明らかに類推がなされていた。大粛清の間に反革命者だと判断された者に適用される「民衆の敵」という用語は、ジャコバン派のテロリストから借りたものだったのだから。
 この、示唆的な歴史的借用の意義については、〔この著の〕最後の章で検討する。//
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 (7) この語は、Aristide R. Zolberg, '狂気のとき' <政治と社会>2:2 (1972 冬号)p.183-p.207 から借用した。
 (8) Adam B. Ulam, The Historical Role of Marxism. ウラムの <ソヴィエト全体主義の新しい顔>(Cambridge, MA(USA), 1963)所収 p.35。
 (9) このテーマにつき、Igal Halfin の<私の精神におけるテロル-裁判に関する共産主義者の自伝> (Cambridge, MA, 2003)を見よ。
 (10) 「大粛清」とは西側の用語で、ロシアのものではない。
 長年にわたってロシア語で事件に言及する公的な方法は受け入れられなかった。公式にはこれは発生していなかったからだ。
 私的な会話では、決まって遠回しに「1937年」と言及されていた。
 「粛清(p-)」と「大粛清」という名称の間の混乱は、ソヴィエトの婉曲語法に由来する。テロルが1939年の党第18回大会での半ばの拒絶によって終わったとき、表向きで拒否されたのは「大量の粛清」(massovye chistki)だった。実際には、厳密な意味での党の粛清は1936年以降は行われなかったけれども。
 婉曲語法はロシア語では短い間使われたが、それもやがて消えた。一方、英語では、それは永続的に注意を惹き続けた。
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 第4節・第四版に関するノート。
 以前の各版と同様に、この第四版は、ロシア帝国とソヴィエト同盟の一部だった非ロシアの領域でではなく、基本的にロシアで経験されたロシア革命の歴史だ。
 この限定は、今や非ロシア圏域とその民衆に関する活発で価値ある研究が発展しているので、それだけ一層、強調しておかなければならない。
 中心的な主題に関しては、この版では、最近の国際的な学界の成果はもちろん1991年以降に利用できるようになった新しい資料も取り込む。
 この著の議論の仕方や構成に大きな変更はないが、新しい情報と新しい学問上の解釈に対応して、一定の小さな変更がある。
 脚注を利用したのは、英語に翻訳されたロシアの研究書はもちろん、最近の重要な英米語の研究書にも注意を向けるためだ。ロシア語での書物や資料からの引用は、最小限にとどめた。
 選んだ参照文献一覧は、さらに読書するための簡単な案内になるだろう。
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 第一章・初期設定(The Setting)。
 (はじめに)
 20世紀の初め、ロシアはヨーロッパの大国の一つだった。
 しかし、イギリス、ドイツおよびフランスと比較すると後進的だと一般的に見られていた大国だった。
 これは経済的な観点でいうと、封建体制から抜け出してくるのが遅れており(農民層は1860年代にようやく地主または国家による法的な拘束から解放された)、工業化も遅れていた、ということを意味した。
 政治的な観点でいうと、1905年までは合法的な政党も選挙された中央の議会もなく、弱くはない権力をもつ専制体制が残存していた、ということを意味した。
 ロシアの都市は政治的組織や自己統治という伝統を持たず、貴族階層も同様に、君主に対して譲歩を強いるだけの力をもつ一体的な自己意識を発達させることができなかった。
 法的には、ロシアの臣民はまだ「身分(estate)」(都市、農民、聖職者および貴族)の一つだった。身分制度は職業人や都市労働者に関する条項を何ら定めていなかったし、聖職者だけは、自己完結的な階層の特徴に似たものをもっていたけれども。//
 1917年の革命以前の30年間、窮乏化はなく、国富は増大した。
 政府の工業化政策、外国からの投資、銀行や信用構造の近代化および国内の起業活動の緩やかな発展の結果として、ロシアが急速な経済成長を経験したのは、この時代だった。
 革命の時期にロシアの総人口の80パーセントをまだ構成していた農民層は、その経済的地位に関して目立った改善を経験していなかった。
 しかし、当時のいくつかの見解とは対照的に、農民層の経済条件が絶え間なく悪化していくということは、ほとんど確実に、なかった。//
 ロシアの最後の皇帝であるニコライ二世は悲しくも、専制体制は知らぬ間に迫り来る西側からのリベラルな影響と闘っていることに気づいた。
 政治的変化の方向-西側の立憲君主制のようなものに向かう-は明確であるように見えた。教養ある階層の多くの構成員たちは変化の遅さに耐えられず、頑固な障害物は専制体制の側の態度だったけれども。
 1905年の革命の後、ニコライは譲歩して全国的に選出される議会、ドゥーマ(the Duma)を設置し、同時に政党と労働組合を合法化した。
 しかし、古い専制体制の支配の恣意的な習慣と継続した秘密警察の活動は、こうした譲歩を骨抜きにした。//
 1917年の十月革命の後で、多くのロシア人亡命者(エミグレ)は革命前の時代は前進していた黄金の時代だったと、だがこの時代は(こう思われたのだが)第一次大戦または手に負えない暴徒、あるいはボルシェヴィキによって妨害されたのだと、振り返った。
 進展はあったが、それは社会の不安定さと政治的変革の蓋然性に大きく寄与した。すなわち、社会の変化が急速であればあるほど(その変化が進歩的か逆行的かのいずれであれ)、社会はますます安定性を失っていく趨勢にあった。
 もしも我々が革命前のロシアの偉大な文学作品を思い浮かべれば、最も生々しいイメージは、転位感、疎外感および自己の運命を支配できないこと、といったものだ。
 19世紀の作者の Nikolai Gogol にとって、ロシアは見知らぬ目的地へと暗闇の中を疾走している馬車だった。
 ニコライ二世とその閣僚たちを公的に批判したドゥーマの政治家の Aleksander Guchkoiv にとっては、ロシアは狂った運転手が運転して断崖の縁に沿って進んでいる車だった。その車の中で恐怖に怯える乗客は、車輪を抑える危険性について議論している。
 1917年に、危険は冒された。そして、前方向へのロシアの大胆な動きは、革命へと突入することになる。//
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 以上、序説の第3節と第4節、および第一章の「はじめに」が終わり。

1795/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)①。

 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命。
 =Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 これの2017年版によって、訳を試みる。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には//を付す。<>内は斜字体になっている書物のタイトル。なお、連続して掲載することは予定していない。
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 序説
 (はじめに
 アメリカのニクソン大統領が1972年に中国を訪れていたとき、会話がほとんど二世紀前のフランス革命に移った。
 周恩来首相は革命の影響を論評するように求められて、語るのは早すぎる、と答えた、という伝説がある。
 彼はおそらく質問を誤解し、1968年のパリ事件のことを尋ねられていると考えた、ということが判明した。しかし、どんな場合でもそう語るのは、よい答えだっただろう。
 大きな歴史的事件の影響について語るのは、つねに早すぎる。その影響は静態的でなく、現在の状況や我々自身の過去の変化に関する立脚点に応じて恒常的に変化しているのだから。
 同じことはロシア革命についても言える。これに関する記憶はすでに長い季節の移ろいを通り抜けており、かつ疑いなく将来にもまたもっと多く通り抜けるだろう。
 この著<ロシア革命>の第二版(1994年)は、劇的な事件の荒波-共産主義体制の崩壊と1991年末のソヴィエト同盟の解体-の中で出版された。
 この事件は、ロシア革命に関する歴史学者にとってあらゆる種類の重要な意味をもった。
 これは以前は閉ざされていた書類庫を開き、引き出しの中に隠されていた回想録を持ち出し、あらゆる種類の、とくにスターリン時代とソヴィエトによる抑圧の歴史に関する、洪水のごとき新しい資料を解放した。 
 その結果として、ソヴィエト後を含む歴史学者は1990年代と2000年代はとくに生産的で、また国際的な学術世界と改めて再連結した。
 第三版(2008年)で増加させた文献一覧は、殺到したこの新しい情報を反映している。
 今やこの第四版とともに、ロシア革命後一世紀(100年)に到達した。
 一世紀後というのは、再評価するには分かりやすい時期だ。しかし、奇妙だが、そのような試みをしようという熱意は、ロシアにはほとんどない。
 ソヴィエト後のロシアは、新しい国民の一体性の根拠としての有用な過去を必要としている。
 問題は、どの程度に革命がそれに適しているかを見分けることだ。
 スターリンは、比較的容易に、国家建設者だと、そして、第二次世界大戦で偉大な勝利を収めたロシア(ソヴィエト同盟)の指導者で、戦後の超大国への上昇の監督者だと、説明をつけることができる。
 しかし、現代のロシア人がレーニンとボルシェヴィキについてどう考えるべきかを知るのは、そう簡単ではない。//
 ロシア人とその他の旧ソヴィエトの市民にとって、ソヴィエト同盟の崩壊は革命の意味を根本的に再検討することを意味したはずだ。(1)
 以前はこの革命は、世界の「最初の社会主義国家」を生んだ基底的事件だったと称揚され、今は多くの者によって、74年間も正当な道からロシアを逸脱させた過ちだったと見られている。
 西側の歴史学者は難なく適応したが、彼らの見方は、ソヴィエト同盟の崩壊によるのと同様に冷戦の終わりによって微妙に変わった。
 砂塵はまだなお、精神上の再設定によって静められなければならない。
 しかし、一つのことだけは、明白だ。
 ロシア革命の意義に関するかぎりは、明確に語るのはまだ早すぎる。そして、この革命が現代ヨーロッパと世界の歴史の重大な分岐点だったと真面目に考察され続けているかぎりは、ずっとそうだろう。
 この著書は、ロシア革命の物語を叙述し、当事者によって観察された諸事態を明確にしようとする。
 しかし、ロシア革命の意味は、フランス革命のそれのように、際限なく議論されていくだろう。//
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 (1) 革命と名づけることすら、複雑になった。「ロシア革命」という用語は、ロシアでは決して使われなかった。多くのロシア人が今では避けるソヴィエトの用語法では、それは「十月革命」またはたんに「十月」だった。ソヴィエト後に好まれる用語は「ボルシェヴィキ革命」であるように見える。
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 第一節・革命の時期的範囲。
 革命とは複雑な社会的政治的大変革なので、革命に関して執筆する歴史学者は最も基本的な問題について-原因、革命の目標、社会に対する影響、政治的結果、そして革命の時間的範囲自体についてすら-、異なってこざるをえない。
 ロシア革命の場合は、開始時点を提示することに問題はない。
 ほとんど誰もが、1917年の「二月革命」のときだと考える。これは皇帝ニコライ二世の退位と臨時政府の成立をもたらした。(2)
 しかし、いつロシア革命は終わったのか?
 ボルシェヴィキが権力を掌握した1917年10月に全てが終わったのか?
 あるいは、ボルシェヴィキが内戦に勝利した1920年に革命は終わるに至ったのか?
 スターリンの「上からの革命」はロシア革命の一部だったのか?
 それとも、革命はソヴィエト国家が生存し続けている間ずっと継続していた、と我々は理解すべきなのか?//
 Crane Brinton はその著<革命の解剖学>で、革命は急激な変化を求める情熱と熱狂が増大する段階を経て、強烈さが最頂点に到達し、その後に幻滅という「テルミドール」段階がつづき、革命の活力は減少し、秩序と安定の回復への緩やかな移行となる、という考え方を述べた。(3)
 Brinton の分析の基礎にあるのと同じフランス革命モデルを抱いていたロシアのボルシェヴィキは彼ら自身の革命の「テルミドール」的衰亡を怖れ、内戦の終期にそれが起こったのではないかと半分は懸念した。そのとき彼らは、経済の破綻によって、1921年の「新経済政策」(NEP)の導入が画する「戦術的退却」をすることを強いられた。//
 しかしなお、ロシアは1920年代の終わりに、新しい大変革に突入した-スターリンによる「上からの革命」であり、第一次五カ年計画、農業の集団化、および最初は古い知識人に対して向けられた「文化革命」による産業化への強い志向を伴っていた。
 これの社会への影響は、1917年の二月革命、十月革命や1918-20年の内戦よりすらも大きかった。
 古典的なテルミドールの徴候を明瞭に認識することができたのは、この大変革が1930年代早くに終わってようやくのことだった。すなわち、革命的な情熱と戦闘性は減退した。そして、新しい政策は、秩序と安定の回復、伝統的な価値と文化の再生、新しい政治的社会的構造の強化をしようとした。
 しかしこのテルミドールですら、革命による大変革の終わりを告げるものではまったくなかった。
 最終の内部的激動、初期の革命的テロルの大波よりすらも激しい破壊があり、1937-1938年の大粛清(the Great Purge)が、多数の古いボルシェヴィキ革命家を一掃し、政治上、行政上および軍事上のエリートたち内部での大規模の人的な再編成をもたらし、百万以上の人々を殺し、またはグラクへと投獄した。(4)//
 ロシア革命の時期的範囲を決定するに際しての第一の論点は、1920年代のネップという「戦略的退却」の性質だ。
 これは革命の終わりだったのか、あるいは、そのように考えられていたのか?
 ある範囲の研究者たちは、レーニンは最後の日々に(彼は1924年に死んだ)、社会主義に向かうロシアの更なる前進は、徐々に、民衆の文化レベルを高めることによってのみ達成できると信じるようになった、と考える。
 しかしながら、ロシア社会はネップ期の間、きわめて移ろいやすく不安定であり続けた。
 ボルシェヴィキは反革命を怖れ、国内および国外の「階級敵」による脅威を懸念したままでいて、ネップへの不満足やネップを革命の最終的成果だとする理解への気乗り薄さを恒常的に表明していた。//
 考察すべき第二の論点は、1920代遅くにネップを終わらせたスターリンの「上からの革命」の性質だ。
 ある範囲の研究者たちは、スターリンの革命とレーニンのそれとの間には本当の(real)継続性は何らなかったという考えを拒否する。
 別の研究者たちは、スターリンの「革命」はその名に値しない、と感じる。民衆的蜂起ではなく、急進的な変化を狙う支配政党による社会に対する攻撃のようなものだ、と考えるからだ。
 私はこの著で、レーニンの革命とスターリンのそれの間にある、継続する線をたどる。
 スターリンの「上からの改革」をロシア革命に含めることについて言えば、これは歴史研究者によって異なって当然の問題だ。
 しかし、ここでの論点は、1917年と1929年は似たものか否かではなく、共通する過程の一部なのか否か、だ。
 ナポレオンの革命戦争は、フランス革命に関する我々の一般的観念の中に含めることができる。それを1789年の精神を具現化したものだと見なさないとしても。
 同様の接近方法は、ロシア革命の場合について正当であるように思える。
 常識的な用語法では、革命は、旧体制と新しい体制の確立との間の大変革と不安定の時期という意味とつながる。
 1920年代遅くには、ロシアの永続する外形はまだ明らかになる必要があった。//
 判断すべき最後の論点は、1937年-1938年の大粛清はロシア革命の一部だと考えるべきか否か、だ。
 これは革命的テロルだったのか? それとも、根本的に異なる種類の-おそらくは固く揺るぎない体制の体系的な諸目的に役立つテロルを意味する、全体主義的テロルという種類の-テロルだったのか?
 私の見解では、これら二つの性格づけのいずれも、大粛清を十分には描写していない。
 それは独特の現象であり、まさしく革命と革命後のスターリニズムの境界に位置するものだ。
 それは修辞、攻撃対象および加速していく進展の点で言えば、革命的テロルだ。
 しかし、構造ではなく人身を破壊し、指導者個人そのものを脅かさなかった点では、全体主義的テロルだ。
 スターリンによって始められた国家テロルだということは、ロシア革命の一部であるとすることを妨げはしない。結局のところは、1794年のジャコバンのテロルも同じ観点から描写することができる。(5)
 二つの事件のもう一つの重要な類似性は、どちらの場合も革命家たちが主要な破壊対象の中にいた、ということだ。
 劇的な理由だけでも、ロシア革命の物語は大粛清を必要とした。フランス革命の物語がジャコバンのテロルを必要としたのとちょうど同じように。//
 この著では、ロシア革命の時期的範囲は、二月革命から1937-1938年の大粛清までだとする。
 異なる諸段階-1917年の二月革命と十月革命、内戦、ネップという幕間、スターリンの「上からの革命」、その「テルミドール」的余波、および大粛清-は、20年間の革命の過程での別々の期間として扱われる。
 この20年が終わるまでに、革命のエネルギーは完全に費やされ、社会は疲れ切った。支配する共産党ですら、変革に飽きて、「正常さへの回帰」という一般的な切望を共有した。
 確かに、正常さ(Normalcy)は、まだ回復可能だった。ドイツの侵略とソヴィエトの第二次大戦への参戦開始は、大粛清のようやく数年後にやって来たのだから。
 戦争はさらなる激変を生んだが、少なくともソヴィエト同盟の1939年以前の領域に関するかぎりでは、もはや革命ではなかった。
 それは、ソヴィエトの歴史上の、革命の後の新しい時代の始まりだった。//
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 (2) 1918年に暦が変わる前の日付は旧歴で示す。この旧暦は1917年では、ロシアが1918年に採用した西欧暦よりも13日遅れる〔秋月注=進むのが遅い。=数字は少ない。〕
 (3) Crane Brinton, The Anatomy of Revolution (rev. ed; New York, 1995).
 (4) 後述、p.167 参照。
 (5) 私の国家テロルに関する考え方は、かなりの程度 Colin Lucas の論文、「革命的暴力、民衆とテロル」、in : K. Baker (ed.), The French Revolution and the Creation of Modern Political Culture [フランス革命と近代政治文化の創出], Vol. 4; The Terror [テロル], (Oxford, 1994) に負っている。
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 第二節・革命に関する書物。 
 解釈者にとって、革命ほどイデオロギー上の論争を刺激するものはない。
 1989年のフランス革命200周年に注目を向けさせたのは、例えば、何人かの研究者と評論者が、革命を歴史という塵の堆積物にすべく、解釈の長い対立を終わらせようと果敢に試みたことだった。
 ロシア革命についてはより少ない歴史文献しかないが、しかしそれはおそらくたんに、それに関して書くには一世紀半もまだ経っていないことによる。
 この著の最後にある選抜参照文献一覧で、私は最近の研究作業に注目し、ロシア革命に関するこの10-15年間の西側による研究の進展を反映させた。
 ここで、時代に関する歴史的展望についての最も重要な変化を概述し、ロシア革命とソヴィエトの歴史に関するいくつかの古典的著作の特徴を述べよう。//
 第二次大戦前の西側では、職業的歴史研究者がロシア革命について書くことは多くはなかった。
 多数の目撃者の報告資料や回想録があったが、その中で最も有名なのは、John Reedの<世界を震撼させた10日間>だった。もちろん、W. H. Chamberlin や Louis Fischer のような評論者が書いた、秀れた歴史叙述書はいくつかあった。彼らの<世界情勢の中のソヴィエト>は、一つの古典であるままだ。
 最も長いあいだ影響を与えた解釈に関する著作は、レオン(レフ)・トロツキー(Leon(Lev) Trotsky)の<ロシア革命の歴史>と、同じ著者の<裏切られた革命>だった。
 第一のものはソヴィエト同盟から追放された後だが政治的論争書として書かれておらず、当事者の視点からする1917年の分析を生き生きと描写している。
 第二のものは1936年にスターリンの犯罪を追及すべく書かれたもので、明らかになっていたソヴィエトの官僚主義階層の支持をうけた、かつ本質的にはブルジョア的価値観念を反映する、テルミドール的なものとしてスターリン体制を描写する。//
 戦前にソヴィエト同盟で書かれた著作の中で栄誉ある地位を占めるのは、スターリンの厳密な監視のもとで書かれて1938年に出版された、悪名高き<ソヴィエト共産党の歴史に関する短期講座>だ。
 読者は推測するだろうように、これは学問的著作ではなく、ソヴィエト史の全ての論点に関する正しい「党の基本方針」-すなわち、全党員によって学び取られ、全学校で教育されるべき正統(the Orthodoxy)-を設定することを意図したものだ。その論点の範囲は、ツァーリ体制の階級的性質や内戦で赤軍が勝利した理由から、「ユダヤのトロツキー」が率いて外国の資本主義勢力が支援した、ソヴィエト権力に対する共謀にまで及ぶ。
 ソヴィエト時代には、<短期講座>のような作品の存在は、生産的な学問研究の余地を多くは残さなかった。
 厳格な検閲と自己検閲は、歴史に関するソヴィエト職業人にとって日常のことだった。//
 ソヴィエト同盟で1930年代に確立するようになり、少なくとも1950年代半ばまで権威をもち続けたボルシェヴィキ革命の解釈は、ありきたりの公式的なマルクス主義だ、と叙述してよい。
 鍵となる要点は、十月革命は真のプロレタリア革命で、ボルシェヴィキはプロレタリア-トの前衛として奉仕した、そして革命は未成熟なものでも偶然でもなかった-それが生起したのは歴史法則に支配されている-ということだ。
 歴史法則(zakonomernosti)は、重要だとしてもうまく明瞭にできないが、ソヴィエト史上の全てを決定した。このことは実際上は、大きな政治決定は全て正当(right)だった、ということを意味した。
 現実ではない政治史が書かれた。レーニン、スターリンおよび若くして死んだ数人以外の全ての革命指導者は、革命に対する反逆者だと暴露され、「人に非ざる者」に、すなわち活字で言及することのできない者になったのだから。
 社会史は、事実上はこれらだけが演者であり題目である、労働者階級、農民層および知識人層という階級の用語法で書かれた。//
 ソヴィエトの歴史は西側で、第二次大戦の後にようやく強い関心事になった。主としては、敵を知るためという冷戦の文脈の中でだった。
 基調を設定した二つの書物は小説で、George Owell の<一九八四年>と Arthur Koestler の(1930年代遅くの年配のボルシェヴィキに対する大粛清裁判に関する)<真昼の暗闇>だった。しかし、学問の分野を圧倒したのは、アメリカ政治学だった。
 ナチ・ドイツとスターリンのロシアをいくぶん悪魔化して合成した全体主義モデルは、最も知られた解釈上の枠組みだった。
 これは、全体主義国家の全能性とそれがもつ「支配のための梃子」を強調し、イデオロギーや虚偽宣伝活動にかなりの注意を向けた。そして(消極的で、全体主義国家によって断片化されたと見られた)社会の分野はかなり軽視された。
 西側のたいていの研究者は、ボルシェヴィキ革命は少数党によるクー(coup)だ、いかなる種類の民衆の支持も受けず、正統性もない、ということで一致した。
 革命は、そしてそのためのボルシェヴィキ党の前史は、主としてソヴィエト全体主義の起源を説明するために研究された。//
 1970年代以前には、ロシア革命を含むソヴィエト史を敢えて研究する西側の歴史学者はほとんどいなかった。それは一つは、主題がとても政治的な負荷を帯びているからであり、また一つは、公文書や第一次資料に接近するのがきわめて困難だったからだ。
 イギリスの歴史研究者による二つの先駆的な著作は、記しておくに値する。
 E. H. Carrの<ボルシェヴィキ革命 1917-1923>は彼の複数巻の<ソヴィエト・ロシア史>の最初のもので、1952年に刊行された。そして、Isaac Deutscher のトロツキーに関する古典的人物伝の最初の巻である<武装せる予言者>は、1954年に出版された。//
 ソヴィエト同盟では、1956年の第20回党大会でのフルシチョフによるスターリン弾劾とそれに続く部分的な脱スターリン化によって、歴史再評価の入り口がある程度は開かれ、学問研究の水準が高められた。
 公文書にもとづく1917年や1920年代の研究が出現し始めた。但し、例えば労働者階級の前衛だというボルシェヴィキ党の地位に関して、遵守されるべき制約と教条がまだあったけれども。
 トロツキーやジノヴィエフのような人に非ざる者(non-persons)に論及することも可能になったが、それは侮蔑的な文脈でのみだった。
 フルシチョフの秘密報告が歴史研究者に提供した大きな機会というのは、レーニンとスターリンを分別する、ということだった。
 ソヴィエトの改革志向の歴史研究者たちは1920年代に関する多数の書物と論文を生み出して、様々な分野での「レーニン主義規範」はスターリン時代の実際よりも民主主義的で多様性により寛容で、強制性と恣意性がより少なかった、と論じた。//
 西側の読者にとって、1960年代および1970年代の「レーニン主義」傾向を示す代表例は<歴史に判断させよ>の著者、Roy Medvedev であり、<スターリニズムの起源と帰結>は西側では1971年に発行された。
 しかし、Roy Medvedev の著作はブレジネフ時代の雰囲気のためにスターリンに関して厳しすぎ、明らかに批判的すぎる。そして彼は、ソヴィエト同盟ではこれを出版することができなかった。
 これは、samizdat (原稿のソヴィエト同盟内部での非公式の流通)や tamizdat (外国での書物の非合法出版)が花咲いた時代でのことだった。
 この時期に現れた最も有名な反体制著作者は、Aleksander Solzhenitsyn だ。偉大なノーベル賞作家で歴史論争者の<収容所列島>は、1973年に英語版で出版された。//
 何人かの反体制的学者の仕事が1970年代に西側の読者に届き始めている一方で、ロシア革命に関する西側の学問的研究は「ブルジョア的歪曲」を被っているとなおも見なされ、事実上USSR〔ソヴェト同盟〕から排除された(Robert Conquest の<大テロル>を含むいくつかの著作はSolzhenitsyn の<列島>とともに密かに流通していたけれども)。
 それでもやはり、西側の学者の条件は改善した。
 制限されたかつ厳格に統制された公文書の利用を通じてではあるが、ソヴィエト同盟での調査研究を行うことが今やできるようになった。これに対して、初期の条件は非常に困難だったので多くの西側のソヴィエト学者は二度とソヴィエト同盟を訪れなかったし、別の者たちはスパイだとして追放されるか、多様な種類の嫌がらせを受けた。
 ソヴィエト同盟での公文書や第一次資料の利用が1970年代および1980年代に改善し、ロシア革命とその後に関する研究を選択する若い西側の歴史学者が増加したので、歴史、とくに社会史は、アメリカのソヴィエト学の重要な学問分野として、政治学にとって代わり始めた。
 学問研究の新しい章は、1990年代初頭に始まった。その当時に、ロシアの公文書庫の利用についての制限はほとんど撤廃され、以前に分類されていたソヴィエト文書によって描く最初の書物が出現し始めた。冷戦が過ぎ去るとともに、ソヴィエト史の分野は西側ではより政治的でなくなった。それはとてもよいことだつた。
 ロシアの、そしてソヴィエト後のその他の歴史研究者たちはもはや西側の対応者たちから孤立してはおらず、「ソヴィエト」、「亡命者(エミグレ)」および「西側」の学問研究という昔の区別は大きく消失した。
 ロシアとその外側で大きな影響力のある書物を刊行している学者の中に、モスクワを出身地とする(実際にはウクライナ人として生まれた)、公文書にもとづく党政治局に関する研究の先駆者である Oleg Khlevnyuk がいる。
 モスクワで生まれたかつてのエミグレで1980年代以降はアメリカ合衆国に住んでいる Yuri Slezkine は、<ユダヤ人の世紀>で革命とソヴィエト知識人界でのユダヤ人の位置に関する再解釈を行った。//
 公文書にもとづく新しいレーニンやスターリンの人物伝が現れ、グラクや民衆の抵抗のような、以前は公文書による仕事では達し得なかったテーマは多くの歴史研究者を惹きつけている。
 ソヴィエト同盟の解体と旧同盟共和国諸国を基礎とする独立国家の誕生に反応して、Ronald Suny や Terry Martin のような学者は、歴史学の分野としてソヴィエトの民族や境界諸国の問題を発展させた。
 Stephen Kotkin によるウラルのマグニトゴルスク(Magnitogorsk)に関する<磁場山岳>を含む、地域研究も盛んになった。この書物は、1930年代での異なるソヴィエト文化の出現(「スターリニズム的文明化」)について、明らかに革命の産物だと論じた。
 社会史学者はふつうの市民の当局に対する手紙(苦情、非難、訴え)を豊富に公文書庫で発見し、歴史人間学と多く合致する日常生活に関する研究を急速に発展させた。
 1980年代とは対照的に(そして歴史関係職業人内部での全体的な進展を反映して)、現今の若い世代の歴史研究者は社会史と同様に、ソヴィエトの経験の主観的で個人的な側面を照らし出す日記や自叙伝を用いる文化史や思想史にも惹かれている。//
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 以上、序説の、はじめに、第1節、第2節を済ませた。

1451/ボルシェヴィズム登場②-R・パイプス著9章5節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第5節・ボルシェヴィキの出現 〔p.358-p.361〕 ②
 レーニンは〔党組織に関する〕その考えを、1902年3月刊行の<何をなすべきか ?>で周知させた。 
 この本はその当時まで練り上げられたもので、社会民主主義的語彙でもって人民の意思の考えを粉飾したものだった。
 彼はこの本で、帝制打倒に身を捧げる全日活動の職業的革命家から成る、規律厳しい、中央に集中した党の創立を呼びかけた。
 レーニンは政党『民主主義』の観念を、労働者運動は自然の推移をたどって大衆の革命を実行するだろうとの信念とともに、却下した。自身たちのための労働者運動には、労働組合主義を実践する能力しかない。
 社会主義と革命的熱情は、外から労働者に注入されなければならない。『意識性』が『任意性』に圧倒的に優先しなければならない。
 労働者階級はロシアで少数派なので、ロシア社会民主主義者は、闘争の中に暫定的同盟者として他の階級を巻き込まなければならなかった。
 <何をなすべきか ?>は、名前こそ正統派マルクス主義のものだが、マルクス主義の原理の基礎的教義を転倒させ、社会民主主義の民主主義的要素を拒否するものだった。
 にもかかわらず、人民の意思の古い伝統がまだ残って生きていて、プレハーノフ、アクセルロッドやマルトフの遅延戦術に我慢ができなくなっているロシアの社会主義知識人に対して、きわめて大きな印象を与えた。
 この当時、のちの1917年のように、レーニンの魅力の多くは、つぎのことに由来していた。すなわち、平易な言葉を使って文章を書いたこと、そして、ライバルの社会主義者たちの考えを行動綱領に転化したことだ。彼らは、信念を維持する勇気を欠いて、多くの条件にむしろ束縛されていた。//
 レーニンの非正統的なテーゼは、1902-3年に激しい論争の対象になった。そのとき、社会民主主義者は、きたる党の第二回大会の準備をしていた-その名にかかわらず、政党の設立総会となる予定の大会だ。
 イデオロギー上の違いが混じり、しばしば指導権をめぐる個人的闘争の外観も呈した争論が勃発した。
 プレハーノフに支持されたレーニンは、幹部や一般の党員が中央に服従する、より中央に集中した組織を作ることを要求した。一方で、のちにメンシェヴィキの指導者になるマルトフは、『党組織の一つの一定の方向のもとで、党に対して定期的に個人的な協力をする』者は誰でも受け入れる、より緩やかな構造を求めた。(60) //
 第二回大会は1903年7月にブリュッセルで開催された。51の投票権をもつ、43人の代議員が出席した。(*)
 労働者だったと言われる4名以外の全員は、知識人だった。 
 レーニンへの対抗派を率いるプレハーノフが、いつも多数を獲得した。だが、彼〔プレハーノフ〕がその対抗者と協力してユダヤ人同盟に党内で自治的な地位を与えるのを拒否し、5名の同盟員たちが〔会場外へ〕歩き去り、2名の経済学者の代議員がそれに続いたとき、プレハーノフは、多数派の支持を喪失した。
 レーニンはすぐさま、中央委員会の支配権を掌握する機会を利用し、その機関である<イスクラ>の大勢を確保した。
 この場合のレーニンの呵責のない方法と策略は、彼と他の党リーダーとの間に、きわめてひどい悪感情を惹起することになった。
 そのとき、そしてその後でも、一体性の表装(ファサード)を維持するための多くの努力がなされたけれども、分裂は、実際上、修復不能になった。解消されえたイデオロギー上の差違はさほど大きな理由ではなく、個人的な嫌悪感から生じていた。 
 レーニンは、自分の党派のためにボルシェヴィキの名を、『多数派』を意味する名を要求する瞬間を掴んだ。
 この名前は、第二回大会のあとですぐに生じたことだが、少数派になったことが分かった後でも、維持された。
 これはレーニンに、党の最も人気のある分派の指導者として立ち現れる利益をもたらした。
 『正統な』マルクス主義者だというポーズを、彼はずっととり続けた。これは、正統派を最高の美徳だと、そして異派を変節だと見なす宗教的感情のある国では、重要な魅力だった。
 党の歴史のつぎの2年間(1903-5年)は、悪質な計略で満ちていた。それらは、関係者の人間性を明らかにする点を除けば、大した関心の対象ではない。
 レーニンは、断固として、党を彼の意思に従属させようとした。かりにできないとなれば彼は、党のカバーのもとに彼の個人的支配が及ぶ平行組織を設立することを準備していた。
 1904年末までに実際、レーニンは、『党多数派の委員会事務局』と呼ばれる『中央委員会』をもつ彼自身の党派を持った。
この行為を理由として、彼は正当な中央委員会から追放された。(61)
 レーニンが少数派である場合には、正当化されていない平行機関を、信奉者が集まる同じ名前の平行機関を設立することによって、正当な諸機構を弱体化させる戦術をとった。このような戦術を彼は、1917-18年には権力の別の中心、とりわけソヴェト、に対して適用することになる。//
 1905年の革命が勃発するときまでに、ボルシェヴィキの組織は定まった。//  
 『指導者、つまりレーニンに対する個人的な忠誠と結合した、かつまたその指導が十分に過激で極端であるかぎりいかなることがあってもレーニンに服従する意思をもつ、そういう陰謀家たち一団が集結した、職業的な委員たちの厳しい規律ある秩序』。(62)
 対抗者たちは、レーニンはジャコバン主義者だとして責め立てた。トロツキーは、つぎのように記した。ジャコバン派のようにレーニン主義者たちは、大衆の『任意性(随意性)』を恐れた、と。(63)
 この攻撃に動揺することなく、レーニンは誇らしげに、ジャコバンという称号は、自分自身のためにある、と言った。(64)
 アクセルロッドは、レーニン主義はジャコバン主義ですらなく、『内務省の官僚専政制度の模写か戯画であるにすぎない』と考えた。//(65)
  (60) Leonard Schapiro, ソヴェト同盟の共産党 (1960), p.49。
  (*) この月の末には、ロシアとベルギーの警察による監視を避けて、大会はロンドンへと移った。
  (65) 1904年6月のカール・カウツキーへの手紙。A. Ascher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism (1972) p.211.から引用。
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 第6節につづく。

1442/レーニンの個性①-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第3節・レーニンの個性
 ペテルスブルク-のちにレーニンの名を冠することになる都市-に到着したとき、23歳のレーニンには、十分に形成された個性があった。
 彼が新しい知人に与えた第一印象は、そのときものちも、好ましくないものだった。
 レーニンの背の低い頑丈な身体、早すぎる禿頭(30歳になる前にほとんど全ての毛髪を失っていた)、傾いた両眼と高い頬骨、しばしば嘲りの笑いが伴った無愛想な話し方は、ほとんどの人々を遠ざけた。
 この当時の人々は一致して、彼の魅力のない、『田舎ふうの』外観について語っている。
 A・N・ポトレソフはレーニンに逢って、『どこか北部の、イャロスラヴルのような地方からきた、典型的な中年の販売員』を見た。
 イギリスの外交官、ブルース・ロックハートは、彼は『田舎の食糧品店主』に似ていると思った。
 レーニンの信奉者、アンジェリカ・バラバノッフからすれば、レーニンは『地方の学校教師』に似ていた。(19)//
 この魅力のない男はしかし、内心の力によって輝き、人々に第一印象を忘れさせた。
 意思の強さ、挫けない自己規律、精力、確信、そして揺るぎない根本教条への忠誠は、『カリスマ』というよく使われる言葉でのみ表現できる影響力をもった。 
 ポトレソフによると、この『印象のよくない、粗雑な』、魅力の欠けた人物は、『催眠術のような力』をもっていた。// 
 『プレハノフは尊敬された、マルトフは愛された、しかし、彼らはただ、争う余地のない指導者であるレーニンにのみ、無条件に服従した。なぜなら、どこでも稀れなことだがとくにロシアでは、レーニンだけが、運動、教条への狂信的な忠誠を彼自身への同等の忠誠と結びつけることによって、鉄の意思をもつ人物、無尽蔵のエネルギーという外象を体現化していた。』(20) //
 レーニンの強さと個人的な磁力の基礎となる源泉は、ポトレソフにより示唆される-すなわち、彼の人格と教条との同一化、彼の中にこの二つが分かち難いものになっていること-、そのような性質だった。
 このような外象は、社会主義者のサークルで知られていなくはなかった。
 ロバート・ミッシェルは政党に関する研究書に『党は私だ』との章を設けたが、そこで彼は、ベーベル、マルクスおよびラッサールを含むドイツの社会民主主義者や労働組合指導者たちにある、類似の姿勢を叙述している。
 ミッシェルは、ベーベル崇拝者のつぎの言葉を引用する。すなわち、ベーベルはつねに、自分は党の利益の守護者だと、彼の反対者は党の敵だと、見なしていた。(21)
 ポトレソフも、将来のボルシェヴィキの指導者について、似たような観察を行なった。//
 『社会民主主義の枠内にあれそれともその外にあれ、専政体制に対する民衆運動の隊列には、レーニンにとっては、彼自身のものか、それとも自分のものではないか、という二つの種類の人間や事象しか存在しなかった。
 自分のものたち、つまり何らかの方法で彼の組織の影響力の範囲内に入ってきた者たち、およびそうしなかった、この事実だけで彼が敵だと見なす、他人たち。 
 レーニンにとっては、これらの両極端-同志・友と反対者・敵-の間に、社会的かつ個人的な人間関係の中間的なスペクトルは、存在しなかった…。』(22) //
 このような精神性(mentality)について、トロツキーは興味深い例を残した。
 レーニンとともにロンドンを訪れたときのことを説明してトロツキーが言うには、光景が目にはいったときレーニンは顔色を変えずにあれは『やつらのもの』だとしたが、その意味するところは-トロツキーによると-イギリスのもの、ということではなく、『敵のもの』だ、ということだった。『レーニンがいかなる種類であれ文化的価値があるものあるいは新しい達成物について語ったとき、こうした寸評はつねにあった。…<やつら>は理解した、<やつら>は持っている、<やつら>は完成した、あるいは成功した、-だが、敵としてだ!』(23) //
 通常の『私/われわれ-きみ/彼ら』という二分論は『友-敵』という際立つ二元論に転換され、それはレーニンの場合は、妥協の余地のない両極へと進み、二つの重要な歴史的帰結をもたらした。//
 このような仕方で思考することによって、レーニンは不可避的に、政治を戦争として扱うようになった。
 政治を軍事化し、すべての不同意を、一つの方法による、つまり反対者の肉体的抹殺という方法による解決を容易にするものだと見なすには、マルクスの社会学は必要がなかった。
 レーニンは晩年にクラウゼヴィッツを読んだ。しかし、彼はずっと前から、直感的に、心霊的な個性全体の力によって、クラウゼヴィッツ主義者だった。
 ドイツの戦略家のように、レーニンは、戦争は平和の反対物ではなく、その弁証法的な帰結(コロラリー、corollary)だと考えた。彼はクラウゼヴィッツのように、その目的ではなく、もっぱら勝利を獲得することに執着があった。
 レーニンの生命観は、クラウゼヴィッツと社会的ダーウィン主義を混合したものだった。
 彼が平和を『戦争のための息つぎ期間』と、素直な気分のまれな瞬間に定義したとき、思わずふと、心のきわめて内的な安らぎを見つめたのだ。(24)
 このような思考方法によって、レーニンは不可避的に、戦術上の目的がある場合を除いて、妥協ができなくなった。  
 ひとたびレーニンとその支持者がロシアの権力に到達するや、こうした姿勢は自動的に新しい体制にも浸透した。//
 レーニンの心理的素質のもう一つの帰結は、組織的抵抗のかたちをとってであれ、たんなる批評であれ、いかなる反対にも耐えられなかったことだ。 
 グループや個人に彼の党の構成員ではないもの、そして彼の個人的影響力のもとにはないものをレーニンが感知すれば、彼らは抑圧され、沈黙を強いられなければならない、ということになった。 
 トロツキーは1904年にすでに、このような行動はレーニンの精神性のうちに潜伏している、と記した。
 レーニンをロベスピエールと比較して、トロツキーはつぎのジャコバン派の言明はレーニンにあてはまると考えた。すなわち、『私は二つの党しか知らない-良き市民たちの党と悪い市民たちの党』。
 トロツキーはこう結論する。『この政治的格言は、マクシミリアン・レーニンの心に深く刻まれている。』(25) 〔マクシミリアンは、ジャコバン派・ロベスピエールの個人名ー試訳者〕
 ここに、テロルによる政府の萌芽、民衆の生活や意見を完全に統御しようとする全体主義的野望の萌芽が、横たわっていた。//
 このような性格の魅力的な側面は、信奉者にのみ限定された観念である、『良き市民たち』に向けられたレーニンの忠実さと寛容さだった。これは、あらゆる外部者に対する敵意の反対面だったが。
 後者との不一致を自分個人に対するものと考えたように、一方ではそれだけ多く、レーニンは自分自身の党の内部では、異見に対して驚くべき忍耐力を示した。 
 レーニンは反対者を追放せず、説得しようとした。その際に彼が用いようとした最後の武器は、〔自分の〕辞職という脅迫だった。
  (19) R.H.B.Lockhart, Memooirs of a British Agent (London, 1935), p.237; Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.123.
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②につづく

1019/西尾幹二による樋口陽一批判②。

 前回のつづき。西尾幹二は、「ルソー=ジャコバン型モデルの意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が重要」という部分を含む樋口陽一の文章を20行近く引用したあと次のように批判する。
 ・「まずフランスを上位に据えて、ドイツ、日本の順に上から序列づける図式的思考の典型例」が認められる。「後進国」ドイツ・日本の「劣等感」に根拠があるかのようだった「革命待望の時代にだけ有効な立論」だ。革命は社会の進歩に逆行するという実例は、ロシア・中国で繰り返されたのだ(p.73-74)。
 ・中間団体・共同体を破壊して「個人を…裸の無防備の状態」にしたのが革命の成果だと樋口陽一は考えているが、中間団体・共同体の中には教会も含まれる。そして、王制だけではなく「カトリック教会」をも敵視した「ルソー=ジャコバン型」国家は西欧での「一般的な歴史展開」ではなく、フランスに「独自の展開、一つの特殊で、例外的な現象」だ。イエ・家族を中間団体として敵視するフランス的近代立憲主義は「日本の伝統文化と…不一致」だ(p.74-75)。
 ・日本では「現に樋口陽一氏のようなフランス一辺倒の硬直した頭脳が、国の大元をなす憲法学の中心に座を占め、若い人を動かしつづけている」。「樋口氏の弟子たちが裁判官になり、法制局に入り、…などなどと考えると、…背筋が寒くなる思いがする」(p.75)。
 ・オウム真理教の出現した戦後50年めの椿事は、「『個人』だの『自由』だのに対し無警戒だった戦後文化の行き着いた到達点」で、「解放」を過激に求めつづけた「進歩的憲法学者に煽動の責任がまったくなかったとは言いきれまい」。「解放と自由」は異なる。何ものかへの「帰依」なくして「自我」は成立せず、「信従」なくして「個性」も芽生えない。「共同体」をいっさい壊せば、人間は「贋物の共同体に支配される」(p.75)。
 ・「樋口氏の著作」を読んでいると、「社会を徹底的に『個人』に分解し、アトム化し、その意志をどこまでも追求していく結果、従来の価値規範や秩序と矛盾対立の関係が生じた場合に、『個人』の意志に抑制を求めるのではなく、逆に従来の価値規範や秩序の側に変革を求めるという方向性」が明確だ。「分解され、アトムと化した『個人』の意志をどこまでも絶対視する」結果、「『個人』はさらに分解され、ばらばらのエゴの不毛な集積体と化する」(p.75-76)。
 ・「『個人』の無限の解放は一転して全体主義に変わりかねない。それが現代である。ロベスピエールは現代ではスターリンになる可能性の方が高い」。実際とは異なり「概念操作だけはフランス的で…『個人』を無理やり演出させられていく」ならば、東北アジア人としての「実際の生き方の後ろめたさが陰にこもり、実際が正しければ正しいほど矛盾が大きくなる」、というのが日本の現実のようだ(p.76)。
 以上。法学部出身者または法学者ではない<保守>論客が、特定の「進歩的」憲法学者の議論(の一部)を正面から批判した、珍しいと思われる例として、紹介した。  樋口陽一らの説く「個人主義」こそが、個々の日本人を「ばらばらのエゴの不毛な集積体」にしつつある(またはほんどそうなっている)のではないか。
 本来は、このような批判的分析・検討は、樋口陽一に対してのみならず、古くは宮沢俊義や、新しくは辻村みよ子・浦部法穂や長谷部恭男らの憲法学者の議論・主張に対して、八木秀次・西修・百地章らの憲法学者によってこそ詳細になされるべきものだ。  「国の大元をなす憲法学の中心」が<左翼>によって占められ続けているという現実を(そしてむろんその影響はたんに憲法アカデミズム内に限られはしないことを)、そして有効かつ適切な対抗が十分にはできていないことを、少数派に属する<保守>は深刻に受けとめなければならない。

0960/レーニンとフランス・ジャコバン独裁(1793年憲法)-その2。

 レーニンが1915年11月に雑誌か新聞に寄せた論文「革命の二つの方向について」(レーニン10巻選集第6巻(大月書店、1971)p.172-3)は、フランス一七八九年革命に次のように言及している。

 ①プレハーノフは、マルクスの「フランスの一七八九年の革命は、上向線をたどったが一八四八年の革命は下向線をたどった」との文を引用する。前者では権力が「より穏健な政党からより左翼的な政党へと」、すなわち「立憲派―ジロンド派―ジャコバン派」へと移行した。後者では逆だ(「プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世」)。これらの事例からするプレハーノフの現在のロシアに関する推論は誤っている。

 ②「マルクスは、一七八九年にはフランスでは農民と結合し、一八四八年には小ブルジョア民主主義派がプロレタリアートを裏切ったと書いている」。

 ③「一七八九年の上向線は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 プレハーノフによるロシア(1915年時点)への推論を批判してはいるが、マルクスが示したという「革命の二つの方向」、一七八九年の「上向線」と、一八四八年の「下向線」という理解そのものには、レーニンも反対していないことは明らかだ。成功(上向)と失敗(下向)の各事例の階級・階層関係の分析がプレハーノフとは異なるようだ。

 さて、上の②をプレハーノフは知っていたのに無視しているとレーニンは批判しているが(p.172)。上の②とこの批判を含まない、これらに続く文章が、平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)に引用されている(平野編p.115)。

 「一七八九年のフランスでは、絶対主義と貴族を打倒することが問題であった。ブルジョアジーは、……農民との同盟に応じた。この同盟が革命の完全な勝利を保証したのである。一八四八年には、プロレタリアートがブルジョアジーを打倒することが問題であった。フロレタリアートは、小ブルジョアジーを自分のほうに引きつけることに成功しなかった。そして小ブルジョアジーの裏切りが革命を敗北させたのである」。

 このあとに、上記の(レーニン選集第6巻の)③がつづく。

 但し、平野編著は、上の①・②を割愛しているからだろう、そのまま引用するだけではなく、〔〕内に平野による「注」または「補足」を挿入している。したがって、上の③は次のようになっている。
 ③「一七八九年の上向線立憲派―ジロンド党―ジャコバン党〕は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線〔プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世〕は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 レーニン自身による上の①を参照すると、ここでの〔〕内への挿入内容が平野による独自の解釈などではなく、レーニンの理解と矛盾していないことは明瞭だろう。

 つまり、こういうことだ。レーニンは、<絶対主義→ブルジョア民主主義>というフランス革命の「勝利」の最後の頂点に「ジャコバン派(党)」を位置づけている。

 レーニンにおいて、ジャコバン独裁・1793年の時期が肯定的に評価されていることは明らかだ。あらためて記しておくが、そのようなジャコバン独裁期に制定された(だが施行されなかった)、「人民(プープル)主権」原理に立つ1793年憲法を熱心に研究して1989年に著書を刊行したのが、辻村みよ子(現東北大学教授)だ。

 なお、レーニンが執筆したもののすべてに目を通すことは不可能で、平野編著も決して網羅的ではないようだ。河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)によるとレーニンは1915年に「偉大なブルジョア革命家」として「ロベスピエール」(ジャコバン派)に言及したらしいのだが、該当部分をレーニンの著書や上の平野編著の中に見出すことはできなかった。

 レーニン(またはマルクス)がフランス・ジャコバン独裁をどう評価していたかの探索(?)は、とりあえずはこれで終えておく。

0956/マルクス・レーニンとフランス・ジャコバン独裁。

 河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)によれば、レーニンは1915年に、「ロベスピエールの名前をあげ」つつ、「マルクス主義者」は「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせ」る、と書いたらしい。また、「ロシア革命の一歩一歩は、フランス革命におけるジャコバンのたたかいと、公安委員会とパリ・コミューンの経験を貴重な先例として学びつつ進められた」とされる(p.193)。

 実際のところ、レーニンは、ジャコバン派・ジャコバン独裁あるいはフランスの1793年の時期について、どのように語って、または書いていたのだろうか。

 平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)という450頁を超える書物がある。これは、日本共産党員だったと見られる平野義太郎が、ほぼロシア革命の段階の順に、およびテーマ・論点ごとにまとめて、レーニンが種々の論文(・演説)等で記した(・語った)ことを整理して紹介したものだ。ある程度は、レーニン自身の言葉・文章の辞典的な役割も果たし、便利だ。

 この書物から、索引を主として手がかりにして、上記の関心に応えてみよう。レーニンは次のように述べた(「」は各論文等からの平野による抜粋的引用の部分。「…」はこの欄での省略部分。引用部分自体には平野による簡潔化・修正は加えられていないと見られる)。

 ①「ジロンド派は、フランス大革命の事業の裏切り者であったろうか? そうではない。しかし彼らは、この事業の、一貫しない、不決断な、日和見主義的な擁護者であった。だから、革命的社会民主主義者が、二十世紀の先進的階級の利益を首尾一貫してまもりぬいているのと同様に、十八世紀の先進的階級の利益を首尾一貫してまもりぬいたジャコバン派は、彼らとたたかったのである。だから、…あからさまな裏切り者・王党派・立憲主義的僧侶等々は、ジロンド派を支持し、ジャコバン派の攻撃にたいして、彼を弁護したのである」(1905.03.08)。

 ②「国民の大多数の利益のために革命的暴力を用いることに、反対するものではない。…/問題はただ『ジャコバン派』にも、いろいろあるということだ」。「機知に富んだフランスの格言は『人民ぬきのジャコバン派』をあざわらっている。/真のジャコバン派、一七九三年のジャコバン派の歴史的偉大さは、彼らが『人民とともにあるジャコバン派』、人民の革命的多数者、…とともにあるジャコバン派だったことにあった。/…ただジャコバン派ぶっているだけの連中、…はこっけいであり、みじめである」。「プレハーノフらの諸君。…一七九三年の偉大なジャコバン派が、…当時の国民の反動的・搾取者的少数者の代表を…人民の敵と宣言するのを、恐れなかったことを、諸君は否定できるか?」(1917.06.10)

 ③「民主主義的独裁は、…『秩序』の組織ではなくて、たたかいの組織である。…ペテルブルクを占領して、ニコライをギロチンにかけたとしてさえ、われわれは若干のヴァンデーに当面するであろう。マルクスも、一八四八年に…ジャコバン派のことを回想したとき、このことをみごとに理解していた。彼は、『一七九三年のテロルは、絶対主義と反革命とを片づける平民的なやり方にほかならなかった』と言っている。われわれも『平民的』なやり方でロシアの専制をかたづけるほうをえら」ぶ(1905.04.08。「ヴァンデー」とは、抵抗した農民に対する革命軍の大虐殺があった地域名-秋月。以上、p.44-45)。

 ④1849年のドイツでの「反動」期に、「マルクスは、…労働者が自主的に自分自身の組織をつくるように勧告し、とくに全プロレタリアートの武装が必要であること、プロレタリア衛兵を組織すること、『武装解除の試みは、すべてこれを必要とあれば暴力を用いても、阻止しなければならないこと』を主張している」。「マルクスは、一七九三年のジャコバン党のフランスを、ドイツ民主主義派の模範としている」(1906.03.20。p.82)。

 以上を、平野義太郎編著を使ってのレーニンの叙述紹介の第一回とする。

 レーニンやマルクスが、「1793年のジャコバン派」をどのように評価していたかは、すでに明瞭だろう。

 くり返しておくが、そしてまた再度述べるだろうが、フランス1793年憲法・ジャコバン派を研究した辻村みよ子が、このようなマルクス、レーニンによる評価にまったく(ほとんど?)言及することがないのは一体なぜなのか? 全く知らなかったはずはないのだ。

 付記すれば、既述のように、樋口陽一も、ルソーやジャコバン派を肯定的に評価していた憲法学者だ。樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)p.170は、「一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験すること」が「重要なのではないだろうか」とすら書いていた。樋口陽一も、マルクスやレーニンがジャコバン独裁(・テロル)を肯定的に評価し、実践的な「模範」としていたことに言及していない。一体なぜなのか?

0938/三島由紀夫の「憲法」理解の対極にあった憲法学界の<親社会主義>。

 一 三島由紀夫は1970年11月に、「生命尊重以上の価値」をもつ「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」を「骨抜きにしてしまった憲法」と、1947年憲法(日本国憲法)を評した。そこで念頭に置かれているのはとくに、国家の軍隊の存在を否定する九条2項であることは明らかだ。自衛隊が存在しながらこれを正規の「軍その他の戦力」と位置づけない憲法解釈は、あるいは憲法改正によってそれを明瞭にしない<憲法護持>論は、三島にとって、姑息で欺瞞に満ちたものだった。

 こういう三島のような理解は、しかし、当時の政治家・国民の多数派のものではなかったし、ましてや憲法学者の大勢の理解でもなかった。

 当時はもちろん、今日でも、上の三島由紀夫のような理解は日本の憲法学界においてほとんど支持されていないと見られる。

 なぜか。端的に言って、戦後の憲法学者の圧倒的多数には、<社会主義幻想>がはびこっていたからだと思われる。資本主義→社会主義という<歴史の発展法則>に添うような憲法解釈をしようとすれば、日本が<社会主義>国になるためには、日本は(資本主義国たる日本を守るための)正規の「軍隊」などを保持してはならない、ということになる。その帰結は、①自衛隊を「違憲」の存在と見て廃止または縮小を求めるか、②自衛隊は正規の「軍その他の戦力」ではないために「合憲」であるという一種の強弁に、じつは詭弁・虚言に、少なくとも表向きはしがみつくか、のいずれかだった。

 <社会主義幻想>の内容の一つは、社会主義国は<平和愛好>的で資本主義国は<侵略的>とのデマだった。

 社会主義国ならばともかく、資本主義陣営の日本国家に、<侵略>性を有する軍隊などを保持させてはならなかった。かかる観点から憲法9条2項の解釈と自衛隊へのその適用も論じられたのだ。

 二 日本の憲法学・公法学が、表面的にはともかく、<体制選択>に関する特定の判断を前提として議論を展開させてきたことは、現役憲法学者・阪本昌成(広島大学→立教大学)の次の叙述により、明確だ。

 阪本昌成・法の支配(2006.06、勁草書房)p.1-2は、次のように一著の冒頭に書いている。時期的には、安倍晋三内閣が成立する直前にあたるだろう。

 「公法学における体制選択  20世紀は資本主義と社会主義との偉大な闘争の時代だった。経済思想史においても、政治思想史上においても、この闘争は人類史上の最大の論争点だったといっても過言ではない。この論争は公法学にも当然影を落とした。/

 過去半世紀を超えて、わが国の公法学者は、資本主義か社会主義かという体制選択問題を常に意識しながらも、あからさまなイデオロギー論争を巧みに避けて、個別的な場面での『解釈』や『政策提言』に各自の思想傾向を忍ばせてきた。イデオロギーを異にしながら、多様な『解釈』や『政策提言』を示してきた公法学者にも、奇妙な共通項があった。それは、経済市場と国家の役割への見方である。通常は、国家のもつ強制力に警戒的である論者も、こと経済市場の動きに対しては、国家介入に寛容となる。いくつか例を挙げれば、国家による市場秩序の人為的設計(かたや大企業への警戒感、かたや弱者としての中小企業や労働者の救済策)、社会保障プログラムの拡大・充実(市場における経済的弱者への思い入れ)、環境保護政策の推進(公害問題の発生因を市場経済に求める着想)等の姿勢である。/

 体制選択のひとつの候補が社会主義だった。この言葉には、”人々が程良い豊かさと自由を享受する正しい社会”という響きがどこかにあった。そのため、自由経済体制(「資本主義体制」)の社会主義体制に対する優越を公然と口にする公法学者には『右派・保守』というスティグマが与えられがちだった。ところが、社会主義国家の自己崩壊後、『社会主義』という言葉に輝きも快い響きもない。……」

 上でこの欄での文脈上とくに重要なのは、「自由経済体制(「資本主義体制」)の社会主義体制に対する優越を公然と口にする公法学者には『右派・保守』というスティグマ〔焼き印・刻印〕が与えられがちだった」、という部分だ。

 反社会主義的(または反共産主義的=反共的)言辞・発言には、<右派・保守>というレッテルが貼られがちだった、というのだ。それが少なくとも「社会主義国家の自己崩壊」までは続いた、と阪本昌成は言う。三島の死から約20年経っても、<反共>的言辞は<右派・保守>として異端視されていたのだ。

 社会主義国家はじつはすべて「崩壊」してはおらず、「体制選択」の問題は、日本では、そして日本の公法学界では、「あからさま」ではないにしても残っているように思われる。この点では、「自由経済体制」=「資本主義」の勝利とまだ決定的には断じられないところがある、と私は感じている。

 上のことには留意が必要だが、しかし、憲法学界等の公法学界の雰囲気が<親社会主義>的だったことは、おそらくは上の阪本昌成の文章でも示されているとおりだろう。

 そのような<親社会主義>的姿勢が、九条を始めとする憲法「解釈」や「政策提言」に影響を与えないはずがない

 辻村みよ子・フランス革命の憲法原理―近代憲法とジャコバン主義―(日本評論社、1989.07)は、ルソーの影響を受けたロベスピエールらの「ジャコバン主義」者、彼らの(未施行の)1793憲法の研究書だが、これらへの共感に満ち、これらを称揚しつつ、日本国憲法の「(国民)主権」論等の「原理」に関する示唆を得ようとするものだ。

 この本は東西ベルリンを隔てる「壁」の崩壊直前に執筆されたと見られる。そして、「あからさま」にはイデオロギー表明はしていないものの、(河野健二・岩波新書によると)早すぎた「社会主義」革命だったがゆえに失敗したとされる<ジャコバン独裁>を肯定的に把握しようとするもので、「あからさま」ではないが<社会主義幻想>に依拠して書かれている、と想定して間違いない。
 こうした人々にとって、三島由紀夫などは<右翼・反動>の極致の人物だっただろう。そして、こういう人々こそが(世代は上の杉原泰雄樋口陽一らも含めて)憲法学界・公法学会の主流派だったと見られる。今日に至って、少しは変化しているのだろうか

 ともあれ、日本の憲法学(学界)の大勢は、三島由紀夫の対極に位置していた、ということだけを、少なくとも確認しておきたい

 三 なお、第一に、阪本昌成が学界の「奇妙な共通項」として上に指摘するようなことは、日本国憲法もしっかりと(?)勉強して司法試験に合格した戦後教育の優等生である、福島みずほや仙石由人等を見ていると、なるほどと頷けるところがあるだろう。

 第二に、阪本昌成の上の本は、この欄でメモしながら読みつなぐことを意図したが、二年前にp.21くらいまで進んだだけで終わってしまった。

 上の引用は、最後の部分を除いて全文だが、かつて、次のように要約していた。

 <前世紀は資本主義と社会主義の対立の世紀で、この対立・論争は「公法学」にも影を落とした。日本の公法学者はこの体制選択問題を「常に意識し」つつも「あからさまなイデオロギー論争を巧みに避け」て、個別の解釈論や政策提言に「各自の思想傾向を忍ばせ」てきたが、「経済市場と国家の役割への見方」には奇妙な一致があった。すなわち、通常は国家の強制力を警戒する一方で、経済市場への国家介入には寛容だった。
 体制選択の一候補は社会主義で、快い響きをもっていたため、自由主義経済体制(資本主義)の優越を「公然と口にする公法学者」には「右派・保守」とのレッテルが貼られた。だが、社会主義国家が自己崩壊し体制選択問題が消失した今では、「リベラリズムの意義、自由な国家の正当な役割、市場の役割」を問い直すべきだ。その際のキーワードは、「政治哲学」上の「自由」、「法学」上の「法の支配」>。 

0914/ルソーの民主主義・「人民主権」と佐伯啓思・表現者32号。

 一 佐伯啓思「『民主党革命』はあったのか」隔月刊・表現者32号(2010.09、ジョルダン)はかなり前にすでに読んだ。

 民主主義・国民主権そしてルソーにつき、関心を惹いた叙述がある。佐伯啓思は、以下のように述べる(p.62-63)。

 ・戦後日本には「民主主義」の誤解、「民主主義」=「国民主権」=「国民の意思が政治に直接反映するもの」という「思い込み」がある。
 ・かかる「おそらくはルソーの人民主権論に由来すると思われる民主主義理解は、実はルソー自身さえも決して支持するものではなく」、ルソーは「主権者」=人民と、政治的意思決定を下す「統治者」を区別しており、後者は「人民そのもの」ではない。
 ・「主権者」と「統治者」を一致させようとすれば「民主制は全体主義へと転化する」。「国民の意思」=「すべての国民に共有された意思」=ルソーにいう「一般意思」なので、「国民主権」のもとで決定されて明示された「国民の意思」に「誰も逆らうことはできない」し、「逆らう者がいるはずがない」からだ。いるとすれば、それは「国民」ではない。

 ・「民主主義」が「政治的たりうる」には「国民主権」との「一定の距離」が必要で、「政治」と「世論」の間の「適切な距離感こそが政治感覚」だ。民主党はこの「距離感を見失った」。いやむしろ、「距離感」を放棄して「政治」を「国民主権」に「寄り添う」ようにさせた。「主権者」と「統治者」をできるだけ一致させようとした。

 このあとの民主党分析・批判も興味深いが、さて措く。

 二 ルソーの真意だったか否かはともかく、ルソーの「プープル(人民)主権」論は社会主義あるいは「全体主義」と親和的だとの批判または分析はこれまでもあった。

 一例がかつてこの欄で言及したことのある、中川八洋・正統の哲学・異端の思想―「人権」・「平等」・「民主」の禍毒(1996、徳間書店)だ。

 中川の叙述を大幅に簡潔化すると、中川によれば、ルソー→<フランス革命>(ロベスピエール)→ヘーゲル→マルクス→レーニン→<ロシア革命>という系譜が語られうる。また、ロベスピエールらのジャコバン党の教義が「マルクス・レーニン主義」の「原型」、ルソーらの思想こそが「フランス革命の暴力/破壊/独裁の源泉」で、「マルクス・レーニン主義」とは「ルソー・ロベスピエール主義」の「二番煎じの模倣」とされる。

 ルソー・社会契約論で示されたらしきいわゆる「プープル(人民)主権」論は、どこかに「全体主義」と通底させる<トリック>を潜ませている、と想定している。上の佐伯啓思論稿は吟味が必要であることを示唆してはいるが。

 抜粋になるが、中川のルソーの文章の一部を使った叙述によると、①「人民主権の政治」とは「人民すべての意思」=「一般意思」と「合致した政治」、②「人民」がすべての権利・自由を「共同体に譲渡する」「社会契約」により個々の「人民の意思」は一致して「一般意思」となる。③「人民の一般意思」を体得した「立法者」はそれを個々の「人民」に「強制する」、④自らの意思=「一般意思」に強制され服従することによってこそ個々の「人民」は<自由>になる(例、中川p.233-237)。
 理解しやすいものではないが、「人民の意思」=「一般意思」にもとづいていると僭称する<独裁者>が出現すれば、ここにいう「人民主権」論は容易に<全体主義(・社会主義)>容認論になるだろう。

 三 日本の憲法学者の中には間接または半代表制の「国民(ナシオン)主権」よりも直接民主制的な「人民(プープル)主権」論を支持する者がいて(例、東北大学現役教授・辻村みよ子)、なぜか「間接民主主義」よりも「直接民主主義」の方が<より進んでいる・より進歩的>と考えているようだ。むろん、ルソーやフランス革命期のジャコバン憲法・ロベスピエールを高く評価する立場でもある。

 こうした議論からすると、民主党あるいは菅直人・鳩山由紀夫等の「民主主義」理解は従来の自民党的なそれよりも肯定的に評価されるのだろう。

 だが、佐伯も指摘するように、彼らの「民主主義」あるいは「国民主権」の理解は皮相すぎる。また、立法・行政の<権力分立>も正しくは理解していない、と考えられる。別の機会で、また触れる。

0855/山内昌之・歴史学の名著30におけるレーニン・トロツキーとジャコバン・ルソー・ヘーゲル。

 一 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は、「作品の歴史性そのもの」、「存在感や意義」を考えて、ロシア革命についてはトロツキーを選び、E・H・カーを捨てた、という。
 トロツキー・ロシア革命史(1931)を私は(もちろん)読んでいない。トロツキストの嫌いな日本共産党とその党員にとってはトロツキーの本というだけで<禁書>なのだろうが、そういう理由によるのではない。
 山内の内容紹介にいちいち言及しない。目に止まったのは、次の部分だ。
 山内はトロツキーによる評価・総括を(少なくとも全面的には)支持しておらず、トロツキーが「革命が国の文化の衰退を招いた」との言説に反発するのは賛成できない、とする。いささか理解しにくい文章だが、結局山内は「革命が国の文化の衰退を招いた」という見方を支持していることになろう。推測を混ぜれば、トロツキーはかつての(革命前の)ロシアの文化など大したものではなかった、と考えていたのだろう。
 そのあとに、山内の次の一文が続く。
 革命によって打倒された「文化が、西欧の高度の模範を皮相に模倣した『貴族文化』にすぎないとすれば、ヘーゲルやルソーなど、トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたちが多くを負う思想を含めた西欧文化は行き場所がなくなってしまう」(p.206)。
 これも分かり易い文章ではないが(文章が下手だと批判しているのではない)、一つは、革命前のロシアも「西欧文化」を引き継いでいたこと、二つは、その「西欧文化」の中には「ヘーゲルやルソーなど、トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたちが多くを負う思想」が含まれていること、を少なくとも述べているだろう。
 興味深いのは上の第二点で、山内は、「トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたち」は「ヘーゲルやルソーなど」に負っている(を依拠している、継承している)として、まずは、「トロツキーやレーニンら」を「ジャコバンたち」、つまりフランス革命のジャコバン独裁期のロベスピエールらと同一視または類似視している。
 そして、つぎに、そのような「トロツキーやレーニンら」の源泉・淵源あるいは先輩には「ヘーゲルやルソーなど」がいる、ということを前提として記している。ルソーがいてこそマルクス(そしてレーニン)もあるのだ。
 短い文章の中のものだが、上の二点ともに、私の理解してきたことと同じで、山内昌之という人は、イスラム関係が専門で、ロシア革命やフランス革命、あるいはこれらを含む欧州史・西欧思想の専門家ではないにもかかわらず、よく勉強している、博学の、かつ鋭い人物に違いない、と感じている。
 山内は1947年生まれ。「団塊」世代だ。岩波書店からも書物を刊行しているが、コミュニスト、親コミュニズムの「左翼」学者ではない、と思われる。そして他大学から東京大学に招聘されたようで、東京大学も全体として<左翼>に染まっているわけではないらしい。
 但し、東京大学の文学部(文学研究科)でも法学部(法学研究科)でもなく、大学院「総合文化研究科」の教授。さすがに東京大学は、「歴史学」の<牙城>であるはずの文学研究科の「史学(歴史学)」の講座または科目はこの人に用意しなかったようだ。

0769/阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)におけるフランス革命-6。

 阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)-6。
 第Ⅱ部・第6章
 〔2〕「近代の鬼子? 
フランス革命
 D(つづき、p.195~)
 フランス革命を、「ブルジョア対ブロレタリアート」、「前期資本主義における産業資本」等の経済史概念を用いて分析すべきではない。「人民主権原理が徹底されるほど、民主的で望ましい政体だ」と断定すべきでもない。まして、「歴史法則」・「民主化の程度」を対照して、ある憲法の「望ましさ」を判断すべきではない
 「自由」よりも「本質的平等」を謳う人権宣言の方が「進歩的」だとか、「人民に対して同情的な人権保障」が「進歩的で望ましい」とか決めつけるのは短絡だ。<人権は誰にも貴重だ>との前提と<民衆・弱者にとって有利か不利か>という命題との間には両立し難い溝がある。
 G・ヘーゲルはフランス革命が初めて「市民社会」を作出したと論じたが、そこでの「市民社会」は「自分自身と家族の利害を自分自身の目的としている私人」を指し、「公共善を目的として活動する」「シトワイエン」〔フランス語の「市民」〕ではなかった。
 だが、後世の社会経済史学者はフランス革命を「王党派対ジャコバン派」、「貴族対ブルジョアジー」、「伝統対革新」という「二項対立図式」で捉えた。主流派(「アナール派」)はかかる「構造的」把握によって、「旧体制からの非連続性」を強調したかったのだ。連続性を見た例外はA・トクヴィルで、ルフェーブルの著『一七八九年…』(岩波文庫、1975)は却って「修正主義」を勢いづかせた。
 (D、おわり。Eにつづく)

ギャラリー
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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