秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ジノヴィエフ

2597/R・パイプス1994年著第9章第八節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第八節・トロツキーの敗退②。
 (08) 1923年10月8日、トロツキーは中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の民主主義手続を放棄していると指導部を攻撃した。(注205)
 (ここでの民主主義手続は党内だけだった。—彼の書簡について議論すべく開かれた総会に対して、トロツキーが「同志諸君がよく知るように、私は決して『民主主義者』でなかった」と思い起こさせたように。)
 突然に提起された動議は、分派活動について知る者はGPU または適切な党機関に情報提供することが要求される、とのDzerzhinskii が行なった主張だった。(注206)
 この準備行動が自分とその支持者たちに向けられていることをトロツキーは十分に知っており、これは党の官僚主義化の兆候だと彼は解釈した。
 彼は知りたかったのだが、ともかくもそうする義務を履行することを共産党員に要求する特別の指令が発せられなければならなかったのか?
 彼は、攻撃の対象をnaznachenstvo の実務からの選抜、中央による地方党組織の書記たちの任命による、階層の頂部への権力の集中に定めた。
 「党の官僚主義化は事務職員の選抜手続の結果として、かつてないほどに増大した。…
 政府と党の組織機構の中に、党員職員の広大な階層が作り出された。彼らは少なくとも表面的には、まるで職員階層が党の見解を作り、党の決定を行う機構を代表していることを当然視しているかのごとく、自分たち自身の見解は完全に捨て去っている。
 自分自身の見解の表明を抑制している党員職員階層の下には、広汎な党員大衆がいる。彼らには全ての決定が、すみやかな召喚または命令の形でやって来る。」(注207)
 彼は「古くからのボルシェヴィキ」には特別の地位をもつ権利があることを認めつつ、彼らはきわめて少数派にすぎないことを想起させた。そして、こう結論した。
 「党員職員による官僚主義に終止符を打たなければならない。
 党内民主主義は—ともかくも、硬直化や腐敗の脅威が生じない範囲内でのそれは—、当然の権利を獲得しなければならない。」(注208)//
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 (09) 全ては十分に正しかった。だが、トロツキー自身が三年前に、全く同じ異論を「形式主義」、「呪物崇拝」だとして却下していた。
 新しい立場のトロツキーは、とくにいわゆる「46のグループ」から、ある程度の支持を獲得し、支持者たちは、彼の趣旨での手紙を中央委員会に送った。(注209)
 しかしながら、党の指導機関は、回答を用意していた。すなわち、諸書簡は、不法な分派の結成につながり得る「基盤」だ。(注210)
 長い反論文で、トロツキーについて、こう決めつけた。
 「二、三年前に同志トロツキーが中央委員会の多数派に反対して『経済』宣言を開始したとき、レーニン自身が彼に何度も経済問題は簡単に成功することのない問題領域であって、重要な結果を達成するには辛抱強い持続的な年月を必要とする、と説明した。…
 国の経済生活の適切な指揮を単一の中心に確保し、その中に最大限度の計画化を導入するために、1923年夏の中央委員会はSTOを再編成し、それに人数的に多数の共和国の経済指導者を含めた。
 中央委員会はその中に、同志トロツキーも選出した。
 しかし、同志トロツキーは、STOの会議に姿を見せることを考慮しなかった。多年にわたってソヴナルコムの会議に出席せず、同志レーニンのソヴナルコム議長代理者の一人になるようにとの提案を拒んだのと全く同じように。…
 同志トロツキーの不満、その大きな苛立ち、長年にわたる中央委員会に対する攻撃、党を揺さぶろうとするその決意、これら全ての基礎にあるのは、同志トロツキーは中央委員会が彼自身と同志[A. L.]Kolegaev に我々の経済生活に関する責任を持たせることを望んでいる、ということだ、
 同志レーニンは長くこのような人事に反対した。そして我々は、彼は完全に正しかったと考える。…
 同志トロツキーは、ソヴナルコムおよび再編されたSTO の構成員だ。
 彼はまた、同志レーニンから、ソヴナルコム議長の代理職の地位を提示された。
 同志トロツキーが望むならば、これら全ての地位を活用して、実際に全党に対して、自分が経済と軍事の分野で事実上無制限の権限を託される人間であることを例証できたはずだっただろう。
 しかし、同志トロツキーは、異なる行動を選択した。それは、我々の見解では、党員の義務と両立し得ないものだ。
 彼は、同志レーニンの指導中と引退後のいずれの期間も、ソヴナルコムの会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、旧であれ再編後であれ、STO の会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、ソヴナルコムでもSTOでも一回も提案をしなかった。あるいはGosplan でも、経済、財政、予算等々の諸問題に関するいかなる提案もしなかった。
 彼はまた、代理職への同志レーニンの提示をきっぱりと拒んだ。この役職をどうやら彼は、自分の威厳よりも低いと見なしたようだ。
 彼は、『全か無か』の定式に従って行動している。
 同志トロツキーは実際のところ、経済と軍事の分野で独裁的権力を認めるか、さもなくば経済領域で仕事をするのを拒否し、毎日の困難な業務をしている中央委員会の系統的な破壊を行なう権利だけを自分に留保しようとするか、という態度を、党に対してとってきた。」(注211)/
 この反応は、トロツキーの書簡が提起した政治的問題に答えていなかった。その代わりに、レーニンとトロツキーが政治的論争に関して長く確立してきた原理的考え方に従って、トロツキーを個人的に激しく攻撃した。
 この攻撃は力強いもので、共産党員たちのあいだでトロツキーの信用をさらに傷つけたに違いない。//
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 (10) 10月23日、トロツキーは大胆不敵にも、中央委員会総会宛て書簡で、提起した論点を拡大しつつ、党の分裂を促進しているとの非難を否定した。(注212)
 歩み出すことをトロツキーが拒否したことに着目して、総会は102対2(保留が10)の票決で、彼を「分派主義」に従事したとして譴責した。
 また、党指導部の行動を「完璧に肯定」した。(注213)
 カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーを党から除名しようとした。だが、スターリンはそれは思慮深さを欠くと考えた。彼の強い主張によって、二人の動議は否定された。
 政治局はPravda に、トロツキーに不適切な振舞いがあったいもかかわらず、彼なくして仕事を継続することは考え難い、と言明する決議を掲載した。党最高諸機関での彼の協力の継続は「絶対に必要不可欠」だ。(*)
 スターリンは、「トロイカ」体制への批判が増えてきていることに気づいて、逸脱した同僚だが貴重な人物として保持するのを望んでいると装うのが得策だと考えた。
 のちに、こう説明することになるように。
 「ジノヴィエフとカーメネフには同意しなかった。隔絶の方針は党にとって危険を伴っている、隔絶という手段は流血の手段だ、ということを我々は知っているからだ。
 隔絶は危険であり、感染症的だ。ある一人を今日に遮断する。明日はもう一人。その次の日に三人め。そして、党には誰もいなくなってしまうだろう。」(注213)
 いつものように、スターリンは分別と妥協の人物だった。
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 (脚注*) Pravda, No. 287 (1923.12.18), p.4. ブハーリンはのちに、1923年にジノヴィエフはトロツキーが逮捕されるのを望んだと、ジノヴィエフに思い出させた。Pravda, No. 251/3, 783 (1927.11.2), p.3. レーニンの反応については、既述 p.467〔第9章第五節〕を見よ。
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 後注
 (205) IzvTsK, No. 5/304 (1990.5), p.165-.173.
 (206) Ibid., p.165. 〔IzvTsK=Izvestiia TsK KPSS〕
 (207) Ibid., p.170.
 (208) Ibid., p.173.
 (209) Ibid., No. 6/305 (1990.6), p.189-191.
 (210) Ibid., No. 5/304 (1990.5), p.178-9, No. 7/306 (1990.7), p.176-189.
 (211) Ibid., No. 7/306 (1990.7), p.177-9.
 (212) Ibid., No. 10/309 (1990.10), p.167-p.181.
 (213) Ibid., p.188-9.
 (214) Vasetskii Likvidatsiia, p.37 から引用。
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 ③へと、つづく。

2596/R・パイプス1994年著第9章第八節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機の試訳のつづき。第八節へ。
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 第八節・トロツキーの敗退①。
 (01) レーニンが舞台から退いても、スターリンはまだトロツキーに勝たなければならなかった。トロツキーは、ジョージア問題の処理についてスターリンを非難するようレーニンに指示されていた。
 トロツキーがレーニンから託された責任を回避したので、スターリンのこの責務は意外にも緩やかなものになった。
 トロツキーは、レーニンからの任務を実行しないで、ジョージア人を見棄てた。一人の秘書が電話で3月5日のレーニンの手紙を読んだとき、体調が悪いと言って、中央委員会総会でジョージア人のために発言することをそっけなく拒んだ。ほとんど動けない、と主張した。
 しかし、少しだけ躊躇してこう追加した。自分は今や完全にジョージア人反対派の側に立つようになった、と。(注190)
 そう言ってすら、トロツキーは、第12回党大会の開会を延期するとのスターリンの自己のための決定を支持した。(注191)
 彼は大会の直前に、スターリンの書記長への再任を支持する、Dzerzhinskii とOrdzhonikidze の追放に反対する、とカーメネフに保障した。(注192)
 彼は、伝統的にレーニンが行なってきた中央委員会報告を行なってほしいとの、仲間に組み込もうとしてのスターリンの提示を断わった。
 彼は、書記長であるスターリンの方が適格だと思った。 
 スターリンは穏やかに固持して、報告する栄誉はジノヴィエフに移った。彼は、レーニンの地位は望めば自分のものになると信じて、うかうかと前へと進み出た。(注193)//
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 (02) トロツキーとスターリンの経歴上この重大な分岐点でのトロツキーの行動は、現代人および歴史家のいずれをも不可解にさせてきた。
 トロツキー自身は、満足できる説明をいっさい行わなかった。
 多様な解釈が示されてきた。トロツキーはスターリンを過小評価した。あるいは反対に、書記長の地位は固く揺るぎないので挑戦しても失敗すると考えた。闘って確実に党を分裂させるという意欲がなかった。(注194)
 トロツキー信奉者の何人かは、彼は政治的内紛を自分の威厳よりも重視せず、個人的な政治的策謀をする考えが全くなかった、と主張する。(注195)
 彼の伝記作家のIsaac Deutscher は、トロツキーの消極性を彼の「度量」と「英雄的性格」に起因させた。この点でDeutscher は、トロツキーは「歴史上きわめて稀な人物」だと主張する。(注196)//
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 (03) トロツキーの行動は、探り出すのが困難な多数の絶望的要因によるものだったように思われる。
 彼は疑いなく、自分はレーニンの指揮権を継承する資格が最もある、と考えていた。
 だが、彼に立ち向かう険しい障害があることに十分に気づいていた。  
 彼には党指導部に支持者がなかった。指導層はスターリン、ジノヴィエフ、カーメネフの周りに群がっていた。
 よそよそしい個性とボルシェヴィキでなかった過去を理由として、党員のあいだで人気がなかった。
 彼を妨げたもう一つの要因—その性質からして評価し難いけれども確実に重みがあった—は、彼がユダヤ人であることだった。
 この点は、1990年に1923年10月の中央委員会総会に関する詳細が公刊されたことによって浮かび上がってきた。この総会でトロツキーは、代理職へのレーニンの提示を拒否したことに対する批判から防衛した。 
 彼は言った。ユダヤ人出自は自分には何ら意味がないが、政治的には大きな意味がある、と。
 レーニンが提示した高位の職に就くことで、自分は「この国はユダヤ人に支配されているという根拠を、敵に与える」だろう。
 レーニンはこの論拠を「ナンセンス」として却下した。だが、「彼の心の奥深くで、彼は私に同意していた」。(注197)//
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 (04) トロツキーはこのように考えて、1922-23年に大いに矛盾する行動をした。多数派から独立して行動しようと努め、同時に、致命的な「分派主義」との汚辱を避けるべく多数派に協力した。
 結局は、政治闘争に敗北したばかりか、もっと勇気のある立場をとっていたならば得ただろう道徳的敬意をも失った。//
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 (05) トロツキーの黙認によって、スターリンの破滅の舞台になる可能性があった第12回党大会は、彼の勝利で終わった。
 3月16日、スターリンは自信を滲み出して、Tiflis にいるOrdzhonîkidzeに電話して、「いろいろあったけれども」、大会はトランスコーカサス委員会の行為を承認するだろう、と伝えた。(注198) 
 彼は正しかったことが判明した。
 大会で彼は、より民主主義的な手続を40万人の党に導入すれば、党は「帝国主義の狼たち」の継続的な脅威のもとにあるときに行動することができない「おしゃべりクラブ」に変質する理由を、辛抱強く説明した。(注199)
 スターリンは、新しい人員でもって中央委員会を拡大することの有用性について、レーニンに同意した。一方で、構造の変化や人物の交替についての彼の提案は無視した。
 民族問題に関するレーニンの覚書は代議員たちには配布されたが、公表されなかった。(*)
 この問題に関する報告の中で、スターリンは、賢くも中庸の方向を歩んだ。ジョージア人反対派と緩やかな同盟を擁護するレーニンの議論を帳消しにした。一方で、無謀にも、レーニンが彼を追及した「大ロシア民族排外主義」を非難すらした。(注200)
 詳細な記録によれば、彼の組織に関する報告が終了すると、代議員たちは「大きい、長い拍手」でスターリンを讃えた。(+)
 (党大会でのレーニンの演説は、通常は「大きい拍手」とだけ書かれた。)
 トロツキーは、ソヴィエト工業の将来について報告するにとどめた。—これはこの大会での彼の唯一の登場で、たんなる「拍手」を受けた。
 スターリンは容易に、書記長の地位を再確認された。//
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 (脚注*) 1923年4月16日、Fotieva は彼女自身の責任で、民族問題に関するレーニンの小論の複写物をスターリンに送った。スターリンは、こういう仕方で「自分がかかわる」(〈vmeshivatsia〉)のをしたくないという理由で、受け取るのを拒んだ。そして、その複写物は中央委員会に送付された。
 スターリンは、その夜にFotievaから、レーニンの妹の手紙の趣旨をつぎのように引用する手紙を確保した。妹の手紙によると、レーニンはそれを公表せよとの指示を出さなかった、彼女自身も公表するにはまだ適さないと考える。
 スターリンは、Fotieva の手紙を受け取って、中央委員会に対して、レーニンのこのような重要な言明を秘密にしたままだったとしてトロツキーを責める文書を送った。その文書はこう結んでいた。
 「私は、同志レーニンの(民族問題に関する)論文はプレスで公表されるべきだ、と信じる。
 同志Fotieva の手紙によって、同志レーニンがまだ全部を見直していないので公表することはできない、と分かったのは、ただ残念なことだ。」
 公表される代わりに、レーニンの小論は「彼らの情報として」代議員たちに配布された。
 この問題の関係文書は、RTsKhIDNI, F.5, op.2, delo 34 に保管されており、IzvTsK, NO.9 (1990.9), p.153-161 に 再現されている。
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 (脚注+) Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.62. このような栄誉を受けた他の唯一の報告者は、ジノヴィエフだった(同上、p.47)。—これは、ジノヴィエフがレーニンの後継者だと予想(tout)されていた、さらなる証拠だ。
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 (06) トロツキーの融和的姿勢は、彼のためにはほとんど役立たなかった。
 彼は回想録に、レーニンが無力のあいだにスターリンの仲間たちは彼を除く全ての政治局委員が関与する陰謀を行なっていた、彼らは決定を行なう前に討議し、揃って行動した、と書いている。
 任命される資格を得るために、党員は唯一の基準を充たす必要があった。すなわち、自分(トロツキー)に対する憎悪だ。(注201)
 40名で成る新しい中央委員会で、トロツキーが自分の支持者に含めることができたのは、3人にすぎなかった。(注202)//
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 (07) 情勢は自分に圧倒的に不利で、失うものは何もないと意識して、トロツキーは敵に媚びるのをやめて、反対攻勢に出た。
 彼は、ぐらついている将来を立て直すべく、党員大衆の代弁者を装った。
 固く団結する古参党員たちが自分を外部者と扱うならば、自分は外部者たちの代表者になろう。
 外部者は党員の大多数だった。1922年の調査によれば、37万6000人の党員のうち1917年以前に入党していたのは、2.7パーセントだけだった。そしてそのゆえに、古参党員には有利な資格があった。(注203)
 しかし、その2.7パーセントが党の指導機関を独占し、その機関を通じて国家の諸機構を独占していた。(**)
 トロツキーの友人たちは、トロツキーは影響力のある共産党指導者であり、その名前はレーニンと分かち難く結びついている、と言った。(注204)
 ではどうして、一般党員たちはトロツキーに味方しようとしなかったのか?
 道徳的観点から言っても、1923年10月に開始されたトロツキーの反攻は、絶望的な賭け事にすぎなかった。
 1917年10月以降、誰もがこの時期ほど党の統一の至高の重要性を強く主張したことはなかった。労働者反対派や民主主義的中央主義者がしたように党内民主主義を強く呼びかけるのを、誰もが嘲笑して拒絶した。
 党内民主主義へのトロツキーの転換は、党の運営方法に関する根本的変化が動機となったものではあり得なかった。そのような変化は起きていなかったのだから。
 変化したのは党内でのトロツキーの立ち位置だった。かつては内部者だったが、今や彼は浮浪人(outcast)になった。
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 (脚注**) Leonard Schapiro によると、1920年初頭に党の要職を占めていた者たちの圧倒的多数は、革命以前からのレーニン主義者だった。「革命後の組織上の構造は、したがってこの点で、革命前の地下組織の構造にきわめて近かった」。Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union (1960), p.236-7.
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 後注。
 (190) IzvTsK, No. 9 (1990:9), p.149; Pravda, No. 225/25, 577 (1988.8.12), p.3.
 (191) Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (192) Trotskii, Moia zhizn', II, p.224-5.
 (193) Ibid., II, p.228-9.
 (194) E.g., ibid., II, p.217-8; Deutscher, Prophet Unarmed, p.93.
 (195) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.17.
 (196) Deutscher, Prophet Unarmed, ix. 同上、p.91も見よ。
 (197) V. P. Danilov in Ekonomika i Organizatsiia Promyshlennogo Proizvodstva (EKO), No. 1/187 (1990), p.60.
 (198) RTsKhIDNI, F. 558, op.1, ed. khr. 2518.
 (199) Dvenadtsatyi S"ezd, p.181-2.
 (200) Ibid., p.479-p.495; Pipes, Formation, p.289-293.
 (201) Trotskii, Moia zhizn', II, p.241.
 (202) Deutscher, Prophet Unarmed, p.106.
 (203) I. P. Trainin, SSSR i natsional'naia problema (1924), p.27.
 (204) Trotskii, Moia zhizn', II, p.230.
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 ②へと、つづく。

2594/R・パイプス1994年著第9章第七節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第七節へ。
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 第9章第七節/レーニン・スターリン・トロツキー①。
 (01) レーニンはその月の遅くに戻り、頭脳の明晰さが残っていた二ヶ月のあいだ、仕事が許された合間に、短い文章を口述した。それらの文章の中で、彼は、自分が病気中のソヴィエトの政策がとった方向について絶望的な気持ちを表現し、改革の道筋を構想した。
 これらの小論で顕著なのは、まとまりの悪さ、本筋から逸れる書き方、繰り返しの多さだ。これら全てが、精神状態の悪化の兆候だった。
 きわめて有害なものは、スターリンの死まで、ソヴィエト同盟で公刊されなかった。
 レーニンの小論は最初はスターリンの継承者たちによってスターリンの信用を落とすために使われ、のちの1980年代には、ミハイル・ゴルバチョフの〈perestroika〉を正当化するために用いられた。
 これらは、経済計画、協同組合、労働者農民観察局の再編成、党と国家の関係を対象にしていた。
 全てを通じて、レーニンの晩年の文章や演説は共通する主題を扱い、ロシアの文化的後進性に対する絶望の感覚で溢れていた。彼は今や、文化の程度の低劣さがロシアでの社会主義建設の主要な障害だと見なすにいたった。
 「我々はかつて、活動の中心を政治的闘争に、革命に、権力の征圧に置いたし、そうしなければならなかった。
 しかしながら、今では、中心は平和的な『文化的』作業に広がり、それへと変化している。(注174)
 レーニンは、こうした言葉によって、暗黙のうちに自らの過ちを承認していた。すなわち、30年前に、ロシアは社会主義を達成する前に文化の貧困さを認めて資本主義の学校を卒業しなければならない、とのPeter Struve の議論を「ブルジョア的」として拒絶した、という過ちを冒した、ということを。(注175)
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 (02) レーニンの晩年の文章が扱った最も重要な主題は、後継者と諸民族の問題だった。
 12月23日と26日の間に、のちに1月4日付の補遺が付くが、小さい爆発物のように、彼は口述した。それは、来る第12回党大会〔1923年〕に配布される予定の同僚たちに関する一連の彼の論評だった。—やがてレーニンの「遺書」として知られることになる。(*)
 スターリンとトロツキーの対抗関係を心配して、レーニンは、中央委員会を27名から100名ほどにまで拡大することを提案した。新入者は、農民層と労働者階級から選抜される。
 この拡大は、党と「大衆」の間の懸隔を埋め、今はスターリンがしっかり握っている党を指導する機関の権力を弱める、という二重の効果をもつことになるだろう。//
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 (脚注*) Lenin, PSS, XLV, p.343-8. Krupskaia は1924年春に、レーニンの望みに従って晩年の文書類を彼の仲間たちに渡した。カーメネフは1924年の第13回党大会の上級者会議で、この「遺書」を読んだ。スターリンはこれが代議員たちに配布されていれば自分に生じたかもしれない窮迫事態から救われた。ジノヴィエフの、過去の者は過去へ、との示唆もあった。
 Krupskaia の反対意見をめぐって、この「遺書」は代議員たちに知らせるが公刊はしない、との合意が、トロツキーも一致してなされた。Egor Iakovlev in MN, No. 4/116 (1989.1.22), p.8-9.
 この文書の内容は、つぎの記事で最初に公的に知られた。Max Eastman in the New York Times 1926年1月5日付。
 レーニンが「遺書」を残したことを1925年には全く信じなかったトロツキーは(Boolshevik, No., 1925, p.68)、10年後にThe Suppressed Testament of Lenin を出版した。この書物で彼は、「遺書」が党指導者たちに読まれたとき、自分に関する論評を聞いてスターリンは、レーニンに関する彼の本当の感情を表現する「語句」を口からすべらした、と想起した。その語句は発したことのないものだった。Suppressed Testament, p.16.
 「遺書」は1956年に、ソヴィエト連邦で初めて公表された。
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 (03) レーニンはあれこれと求めたが、文書が厳格に秘匿されることに全てが関係していた。彼は、文書は自分かKrupskaia のどちらかだけが開けられるよう、封印された封筒に入れるよう命令した。
 しかしながら、12月23日に口述を筆記した秘書のM. A. Volodicheva は、自分に委ねられた重要な文書を知っていることの責任に困惑し、Fotieva に相談した。するとFotieva は、その文書を書記長に見せるよう助言した。 
 スターリンは、ブハーリンとOrdzhonikidze がいる所でその文書を読んで、彼はVolodicheva に焼却するよう命じた。彼女はそうした。Gorki にある金庫にあと四つの複写物を入れていることを明らかにしないままで。(注176)//
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 (04) Volodicheva の不謹慎さに気づくことなく、翌日にレーニンは彼女に、党の指導的人物に関するいっそう爆弾的な言葉を口述した。(注177)
 書記長になっているスターリンは、「無制限の」(neob'iat-noia)権力を蓄積した。「私は、彼がこの権力を十分に慎重に行使する仕方をつねに知っているとは、確信していない」。
 1月4日〔1923年〕、つぎの補遺がFotieva に口述された、/
 「スターリンは粗暴[grub]すぎる。そして、この欠点は我々中央の内部や我々の関係では共産党員として十分に耐え得るものだが、書記長という役職にいれば耐え難いものになる。
 私はこの理由で、同志諸君はスターリンを今の役職から外し、同志スターリンよりもただ一点の長所、すなわち忍耐力、忠誠心、丁寧さ、同志の対する気配りをもっと持ち、もっと気紛れでない等の誰かと交替させることを考えるよう提案する。」(注178)/
 レーニンはかくして、スターリンの小さな悪癖、行為と気質の欠陥だけを指摘した。加虐的冷酷さ、誇大妄想、全ての優越者への憎悪が含まれる。そして、最後まで、スターリンを理解しなかった。//
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 (05) トロツキーについては、「現在の中央委員会で最も有能な人物」だが、「あまりにも自信に陥りやすく、仕事の純粋に管理的観点にあまりにも執着している」と論評した。
 後者の点でレーニンが意味させたのは、書類仕事ではない、非合議的な指令様式による運営への耽溺だった。
 1917年十月に、権力奪取に反対したカーメネフとジノヴィエフの恥ずべき行為を思い出した。
 だが、ブハーリンとPiatakov については、条件付きで良いことを叙述できた。—前者は党の最も傑出した理論家で、党のお気に入りだ。しかしなおも全くマルクス主義者でなく、スコラ哲学ふうだ。(+)
 いったい誰が書記長にふさわしいと思っているかに関しては、何も示されなかった。だが疑いなく、スターリンは去るべきだった。
 こうした散漫な論評を読んで受ける印象は、レーニンは誰一人として自分の権威を継承する資格がない、と考えていた、ということだ。
 Fotieva はすぐさま、こうした論評をスターリンに伝えた。(注179) 
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 (脚注+) レーニンは一年前に、カーメネフを叙述する四つの形容詞を書き留めていた。「貧素なやつ((bednenkii〉)、弱い、陽気な、怯えている」。RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 22300.
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 (06) レーニンはつぎに、民族問題に取りかかり、この主題について、12月30-31日に三つの覚書を口述した。
 ここで、共産党機構が少数民族に対処した態様を激しく批判した。(**)
 彼の論評の主旨は、「自治化」というスターリンの案—今は放棄されていた—は完全に時機を失しており、その目的はほとんどが帝制時代から残っているソヴィエトの官僚制が国全体を支配するのを可能にすることだ、ということだった。
 レーニンは、同化した非ロシア人であるスターリンとDzerzhinskii を、「民族排外主義」だと非難した。
 彼はスターリンについて、「純粋で本当の『社会主義的民族主義者』であるばかりか、粗雑な大ロシアDzerzhimorda でもある」と評した(Dzerzhimorda とは、Gogol の〈検察官〉に登場する警察官で、その名前は「大鼻の黙らせ屋(snout muzzler)」を意味する)。
 スターリンとDzerzhinskii は、ジョージア人に対する「この本当に大ロシア民族主義的な活動」について、個人的な責任を取るべきだ。
 レーニンは、実際的結論として、同盟は強化されるべきだが、少数民族の人民にはnational な統合と共存できる最大限の権利が与えられなければならない、と要求した。但し、彼はこうも言った。民族少数派共和国の一部の独立を企てるいかなる試みも、「党の権威によって適切に弱体化することができる」。
 これは、いかにも典型的なレーニン主義的解決だった。彼においては、民主主義の前景(facade)によって、全体主義の実質は隠されなければならない。//
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 (脚注**) つぎで最初に出版された。SV, No. 23-24/69-70 (1923.12.17), p.13-15. 後述する理由で、諸小論はソヴィエト同盟では1956年の第20回党大会まで公表されなかった。Lenin, PSS, XLV, p.356-362.
 その二年前の1954年に公刊した私の翻訳(Formation of the Soviet Union, p.273-7)は、Trotsky Archive at Harvard にあった複写物にもとづいていた。
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 後注
 (174) Lenin, PSS, XLV, p.376.
 (175) P. B. Struve, Kriticheskie zametki k vopros ob ekonomicheskom razvitii Rossii, I (1894), p.288; Richard Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), Ch. 6.
 (176) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8; Genrikh Volkov in Sovetskaia kul'tura, No. 9/6577 (1989.1.21), p.3.
 (177) Lenin, PSS, XLV, p.344-6.
 (178) Ibid., p.346.
 (179) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8-9.
 ——
 ②へと、つづく。

2593/R・パイプス1994年著第9章第六節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第九章/新体制の危機・第六節、の試訳のつづき。とくに、レーニン生前の1923年はどういう状態だったのか。
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 第六節・ジョージア紛議②。
 (08) レーニンは9月25日〔1922年〕に、スターリンの草稿を知った。
 また、ジョージア共産党中央委員会の決議も読んだ。これには、スターリンが(彼にしては)異様に長文の説明書を添付していた。
 スターリンは、各共和国の純粋な自立と完全な統合との間の中間は現実には存在しないという理由で、自分の案を正当化した。
 スターリンは、こう書いた。遺憾なことに、「民族問題についてモスクワのリベラリズムを示す必要があった」内戦の時代に、「我々は、我々の意思に反して、共産党員たちのあいだに本当の独立を要求する純粋な、そのゆえの社会主義的独立主義者(〈sotsial-nezavisimtsy〉)を生んできた」。(注163)//
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 (09) レーニンには、読んだ文書の調子とともに内容も不適切だった。
 スターリンは、非ロシア人共産党員の反対意見を無視しているのみならず、彼らを粗雑に扱っていた。
 レーニンは会話しようとスターリンを呼び(9月26日)、その会話は2時間40分続いた。
 その後、彼は政治局に覚書を送り、その中でスターリンの草案を激烈に批判した。(注164)
 彼の案では、三つの非ロシア人共和国はロシア共和国と一体化されるのではなく、RSFSR とともに仮に「ソヴェト欧州・アジア共和国同盟」と称する新しい超民族的統合体に加入する。
 レーニンが意図したのは、第一に、新しい国家から「ロシア」という名前を削除することで、国制上の対等性を強調すること(彼の言葉では「分離主義者に餌を与えない」ため)、第二に、将来に共産主義国へと歩む諸国を強化する中核を生み出すこと、だった。(*)
 彼の案ではさらに、スターリンが目論んだようにロシアの中央執行委員会が同盟の全機能を掌握するのではなく、新しい中央執行委員会が連邦のために設置される。//
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 (脚注*) スターリンは当時に、新しい同盟は「世界の労働者を世界ソヴェト社会主義共和国への統合へと向かう決定的な歩みを刻むものだ」と記した。I. V. Stalin, Sochineniia, V (1947), p.155.
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 (10) スターリンは、レーニンによる批判に反応する中で、党指導者に対するにふさわしい慣行的敬意を何ら示さなかった。
 一方では新しい国家の構造に関するレーニンの意思を尊重し、また彼の委員会に修正案を諮問しつつ、彼は、RSFSR の中央執行委員会が連邦のそれ(CEC)になることに固執した。
 彼は、レーニンのその他の反対は瑣末なものとして無視した。
 ある点で、彼はレーニンを、「民族的自由主義」(national liberalism)だと批判した。(注165)
 しかしながら、彼は結局はレーニンの意向に同意し、それに従って案を修正することを強いられた。(注166)
 このような形で、ソヴェト社会主義共和国同盟の憲章案が出来上がった。その発足は、1922年12月30日にRSFSR のソヴェト第10回大会で正式に宣せられた〔ソヴィエト連邦=ソ連の発足—試訳者〕。
 三つの非ロシア人共和国の代表者たちによって出席者は増加しており、この大会は第一回ソヴェト全同盟大会と称された。//
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 (11) ジョージア人の意見は変わらなかった。ウクライナとベラルーシは形式上は主権共和国として直接に同盟に加入するのに対して、ジョージアはトランスコーカサス連邦を通じて、つまり自治的政体として、そうしなければならない。
 スターリンの書記局を迂回して、彼らはクレムリンに対して直接に、かりに案が強行されるならば自分たちは離れるつもりだ、と知らせた。(注167)
 スターリンはこれに反応して、中央委員会は満場一致で彼らの反対を却下した、と伝えた。
 10月21日に、レーニンからの電信もあった。彼もまた、ジョージアの意見を、実質的にも、それが表明された態様の点でも、拒絶した。(注168)
 これを受け取って、ジョージア共産党中央委員会全体は10月22日、脱退を申し出た。
 これは、共産党の歴史上、かつてなかった事件だった。(注169) 
 Ordzhonikidze は、この意思表明を利用して、〔ジョージア共産党の〕中央委員会を、彼とスターリンの意向に従順な若い共産主義への転宗者が担う新しい機関に置き換えた。
 スターリンはOrdzhonikidze に、中央委員会は承認した、と伝えた。(注170)//
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 (12) この時点まで、レーニンは、スターリンによるジョージアの処理に同意していた。
 しかし、すでに反スターリン気分があった11月遅く、ジョージアの事案にはもっと何かがなされてよいと結論づけた。
 彼は、ジョージアに関する事実調査委員会を派遣するよう依頼した。
 スターリンは、その長にDzerzhinskii を指名した。
 書記局の策略に不信を抱き、Tiflis との自分自身の連絡網を作ろうと意図して、レーニンは、Rykov もジョージアに行くよう求めた。
 レーニンの秘書たちの一人は、彼は切実な気持ちで調査の結果を待っていた、と記録した。(注171)//
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 (13) Dzerzhinskii は12月12日に、任務を終えて帰ってきた。
 レーニンはただちに、彼に会うためにGorkI からモスクワへ向かった。
 Dzerzhinskii はOrdzhonikidze とスターリンを完全に免責した。だが、レーニンは納得しなかった。
 レーニンは、政治的議論の中でOrdzhonikidze がジョージアの同志たちを敗北させたことを知ってとくに苛立った。
 (彼はOrdzhonikidze を「スターリン主義者のバカ(ass)」と呼んだ。)(注172)
 彼は、Dzerzhinskii に対して、もっと証拠を集めるよう命じた。
 翌日(12月13日)、スターリンに二時間会った。これは二人の最後の出逢いだった。
 レーニンは会話の後で、民族問題全般についての相当量の覚書をカーメネフに書き送ろうとした。しかし、それができる前の12月15日、もう一度発作を起こして横臥した。//
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 (14) レーニンは同僚たちに裏切られたと感じていたので、離れて生活していた13ヶ月の間、同僚たちの誰とも逢うのも断固として拒んだ。間接的に、秘書たちを通じてのみ、連絡し合った
 1923年中の彼の活動記録が示しているのは、トロツキーともスターリンとも会っていないことだ。ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、Rykov のいずれとも。
 彼ら全員は、レーニンの明確な指示にもとづいて、遠ざけられた。(注173)
 親しい同僚たちからこうして離れたことは、地位にあった最後の数ヶ月間、ニコライ二世が大公たちとの関係を遮断すると決めたことに、似ていた。//
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 後注
 (163) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.199.
 (164) Lenin, PSS, XLV, p.211-3. 初版は1959年。
 (165) Ibid., XLV, p.558. スターリンの反応は、TP, II, p.782-5.
 (166) Lenin, PSS, XLV, p.559.
 (167) Pravda, No. 225/25, 777 (1988.8.12), p.3.
 (168) Lenin, PSS, LIV, p.299-300.
 (169) Pipes, Formation, p.274-5.
 (170) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, khr. 2446.
 (171) VIKPSS, NO. 2 (1963), p.74-.
 (172) Pravda, No. 225/25 557 (1988.8.12), p.3.
 (173) V. P. Osipov in KL, No. 2, p.243; Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.259-260.
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 第9章第六節、終わり。

2590/R・パイプス1994年著第9章第五節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。原書、p.466〜。
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 第五節・レーニンの孤立②。
 (07) スターリンは、レーニンから下級層まで、全ての者を欺瞞する素晴らしい演技を行なった。
 彼は、他の誰もしようとはしない不可欠の仕事を引き受けた。党細胞から政治局へ、政治局から党細胞への書類発送などの単調な骨折り仕事。他に、無数の人員配置の仕事も。
 誰も気づかなかったように見える。このような仕事によって形成されたのは、スターリンが自らを無敵の政治的機械として作り上げることができる後援の基盤だった、ということを。
 彼はつねに、党にとって良いことが最高の価値だと思っている、と主張した。
 彼には個人的な野望や虚栄心がないように見え、トロツキー、カーメネフ、およびジノヴィエフに公的な光を浴びさせていた。
 これを巧妙に行なったので、1923年には、レーニンの後継者争いはトロツキーとジノヴィエフの間で繰り広げられる、と広く考えられていた。(注132)
 スターリンは、党の統一が至高の善であって、そのためには原理すら犠牲ににしなければならないと、強く主張しただろう。
 彼は別のときには、原理を維持するのが必要だとすれば、分裂を回避してはならない、と論じただろう。
 そのときどきに自分に適したものに依拠して、あるときはこれ、別のときはあれ、と使い分けただろう。
 討論の方法はつねに、分別に頼ること、つまりは気高い規準をときどきの都合に合わせようとすることだった。これが穏健さの模範であり、誰に対しても脅威にならないことだった。
 スターリンには、あり得るトロツキーを別にすれば、敵がいなかった。トロツキーに対してすらも、断固として拒否するまでは友好的であろうとした。トロツキーはスターリンを「党の著名な凡庸人(〈vydaiushchaiasia posredstvennosst'〉)」と称し、わざわざ論じるほどの意味はない、と無碍に否認したのだったが。
 スターリンは田舎の別荘で、ときどきは妻や子どもたちとともに党の指導者たちを集め、内容のあることを議論するとともに、思い出話をしたり、歌ったり、踊ったりしただろう。(注133)
 社交的な外面の下には殺戮の意思が潜んでいると示唆することを、彼は行わなかったし、語らなかった。
 彼は、無害の昆虫を擬態する捕食動物のように、疑っていない餌食のど真ん中に自らを棲息させていた。//
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 (08) 1922年9月11日、レーニンは、政治局に関する覚書をスターリンに宛てて送った。その中で、Rykov が休暇にために出発するときが近づき、Tsiurupa は負担全部を一人では処理できないことを考慮すると、二人の代理職者が任命されるべきだ、と書いた。一人は人民委員会議を、もう一人は労働国防評議会(STO)をそれぞれ監督するのを補佐する。いずれも政治局とレーニン自身による厳格な監視のもとで仕事をする。
 この役職について、レーニンは、トロツキーとカーメネフを提案した。
 トロツキーの友人と敵は、この依頼のように、きわめて多くのことを行なってきた。友人の中には、レーニンは後継者にトロツキーを選んだと主張する者までいた(例えば、Max Eastman は、まもなくレーニンはトロツキーに、「ソヴィエト政府の長になり、そうして世界の革命運動の指導者になる」よう求めた、と書いた)。(注134)
 現実は、他愛のないものだった。
 レーニンの妹によると、この提示は「外交的な理由」で、すなわちトロツキーの疲れた羽根を温めて優しくするために、行なわれた。(注135)
 実際のところ、その職は重要でなかったのでトロツキーが得るものは何もないことが、提案の理由だった。
 政治局がレーニンの動議を票決したとき、スターリンとRykov は賛成し、カーメネフとTomskii は保留し、カリーニンは「反対しない」と述べ、トロツキーは「端から(categorically)断わる」と記した。(*)
 トロツキーはスターリンに、提示を受けることができない理由を説明した。
 彼は従前に〈zamy〉制を、実質がないことを理由に批判した。今は手続を理由とする追加的反対意見を述べた。この提案は政治局でも中央委員会総会でも議論されていない、と。また、ともあれ、自分は4週間の休暇に出るところだ、とした。(注136)
 彼の本当の理由は、提案の性格を傷つけることにあったようだ。すなわち、彼は四人の代理者の一人になるのだが—一人は政治局委員ですらなかった—、明確に画定された職責のない、そのような無意味の「代理者」だ。
 提示を受容するのは、彼にとって屈辱だったのだろう。
 しかしながら、トロツキーが断わったことは、彼の敵たちに恐るべき武器を与えることになった。
 ソヴィエトの政府高官が「端から(categorically)」指名を拒否するというのは、全く前代未聞のことだったからだ。//
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 (脚注*)
 , RTsKhDNI, F. 2, op. 1, delo 26002; Stalin in Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n. この逸話についてのスターリンの回想は、第12回党大会(1923年)の議事録の初版からはスターリンの求めにより削除された。同上、p.199n.
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 (09) スターリンは、翌日にGorki に戻った。
 二時間の出会いの間にレーニンと何を話し合ったかは、知られていない。
 しかし、レーニンの提示をトロツキーが拒否したことが話題の一つだった、と推定しても不合理ではない。
 いや、つぎに起きたことを考えると、レーニンがトロツキーを正式に譴責することに同意したことを疑う理由すらない。
 9月14日(1922年)のトロツキーは欠席した政治局会議は、提示された職をトロツキーが受容すべきだと考えなかったのは「遺憾」だ、と表明した、
 これは、トロツキーの信用を失墜させる運動の第一撃だった。
 ほどなく、三人組体制のために行動するカーメネフは、レーニンに個人的な意向伝達を行ない、トロツキーを除名することを提案した。
 レーニンの反応は、激怒だった。
 「トロツキーを国外追放すること—これがきみが示唆していることだ、他の解釈はあり得ない—は、きわめて馬鹿げている。
 きみが私をその見込みなく騙そうと思っているのでなければ、きみはどうしてそう考えることができるのだ??? …」(+)
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 (脚注+) RTsKhICIDNI, F. 2, op. 2, delo 1239. 文書資料庫は、この文書の日付を「1922年7月12日より後」としている。V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991) p.36 が論じているように、1922年10月というのが、よりありそうな日付のように思われる。
 トロツキーを党から排除することはカーメネフとジノヴィエフの提案とほとんど確実に結びついていた。—スターリンは反対した。後述、p,485 〔第八節〕参照。
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 (10) しかしながら、政治的な位置関係は、突然にトロツキーに有利に変化した。
 9月に、レーニンが仕事を再開することについて、医師たちの許可が出た。
 10月2日、彼の健康への影響を懸念したスターリンとカーメネフの反対はあったが、レーニンはクレムリンに再び現われた。そして、一日に10時間と12時間のあいだを業務し続けるという、多忙な予定表を採用した。
 不在中のトロイカ体制の活動をより詳しく知って、レーニンは懐疑心を掻き立てられた。
 トロツキーは、本当は存在しないレーニンとの協力関係を想定して、こう書いた。
 「彼(レーニン)は、ほとんど感知し難い陰謀の糸筋が自分の病気に関係して我々の背後で編まれている、と察知しているように見えた」。(注137)
 レーニンは実際に、自分を孤立させることが目的の陰謀を感知した。
 彼は、同僚たちは表面的な服従を装いつつ、自分を諸案件の指揮から排除しようと間断なく準備している、と感じ、やがてそれは確信に変わった。
 証拠の材料の一つは、政治局会議の後の手続だった。
 彼はすぐに疲労したので、しばしば早めにこの会議から離れなければならなかった。
 翌日、彼の不在中に重大な決定がなされていたことを知ることになる。(注138)
 レーニンは、このような実務を止めるべく、政治局会議は三時間以上は続けない(午前11時から午後2時までに限る)、という決まりを作った。未解決の案件の処理は、次回の会議へと持ち越される。
 また、議題は遅くとも24時間前に配布されるものとされた。(注139)//
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 (11) レーニンがのちに結ぶトロツキーとの親交関係は、外国通商の独占という、小さな問題に関して始まった。
 これが明確になったのは、同時期に勃発したジョージア問題をめぐってスターリンと合意しなかったことによってだった(後述)。
 レーニンが不在中、中央委員会はソヴィエトの起業家や商社に外国との取引に関して大きな自由を付与した。
 Krasin は、これでは外国貿易に関する国家独占が侵害されると考え、ソヴィエト・ロシアは国家独占によって外国やその企業と競争して取引をするに際して多大な優越性を獲得しているという理由で、中央委員会決定に反対した。(注140)
 レーニンにとっては、外国通商の国家独占は新経済政策のもとで国家に留保された「管制高地」の一つだった。
 この決定に対する彼の怒りは、つぎのような感情に由来した。すなわち、同僚たちは、自分の不在を利用して、自分が資本主義の復活に対する防止策として設定したものを、破壊しようとしている。
 トロツキーは自分と同意見だと知って、レーニンは12月13日と15日に覚書を口述筆記させ、中央委員会総会のつぎの会合では二人の共通する立場を擁護してほしい、と頼んだ。(注141) 
 トロツキーはそのようにし、12月18日に中央委員会で、何とか大きな困難なく、レーニンの立場を採用させることができた。//
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 後注
 (132) Carr, Interregnum, p.270.
 (133) Alliuyeva, Twenty Letters, P.29-31; Volkogonov, Triumf I/1, p.191.
 (134) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.18.
 (135) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (136) TP, II, p.831.
 (137) Trotskii, Moia zhizn', II, p.212.
 (138) V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.36.
 (139) Lenin, PSS. XLV, p.327.
 (140) Boris Souvarine, Staline (1977), p.269-270; L. B. Krasin in Vospominaniia o V. I. Lenine, II (1957), p570-5.
 (141) Lenin, PSS, LIV, p.324, p.325-6.
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 ③へと、つづく。

2580/R・パイプス1994年著第9章第一節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第9章
 第一節・共産党の官僚主義化①。
 (01) ボルシェヴィキ指導者たち、なかんずくレーニンは、進行しているその体制の官僚主義化(bureaucratization)に苛立った。
 指導部は、党と国家はともに、その役職を個人的な利益を高めるために使う役人という寄生階層に圧迫されている、と感じていた(そして、これを支持する統計上の証拠もあった)。
 さらに悪いことに、官僚制が膨張するほど、それが吸い込む予算は増大し、得られるものは少なくなった。
 このことは、チェカについてすらも言えた。Dzerzhinskii は1922年9月に、チェカの人員が行なっていることの完全な会計の提示を要求し、調査すれば「致命的な」(〈ubiistvennye〉)結果が出るだろうと付け加えた。
(注5)
 人生の最終期のレーニンにとって、官僚制はつきまとって離れない問題になっていた。//
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 (02) 彼らがこの現象に驚いたということは、つぎのことを示しているだろう。すなわち、ボルシェヴィキの強固な現実主義には、際立つ無邪気さが内在していた。(*)
 経済活動を含めた組織生活全体の国有化は必然的にホワイト・カラー労働者の数を膨張させる、ということは、彼らに明らかだったはずだろう。
 彼らが決して十分にはもたなかった「権力」(〈vlast'〉)が意味したのは機会だけではなく、責任でもあった、ということを彼らは考えなかったようだ。その責任の履行は、対応して大人数の職業人を必要とする常勤者の仕事だ、ということを。また、その職業人はもっぱらまたは主としてですら公共の福利のためだけに従事するのではなく、彼ら自身の利益のためにも勤務するのだ、ということを。
 共産党支配に伴なう官僚主義化は、事務的経歴しか有しない者たちが従来は不可能だった中間層へと上昇する、これまでにはなかった機会を与えることとなった。彼らこそが、官僚主義化の主要な受益者だった。(注6)
 労働者ですらも、工場の床を離れて役所へと向かえば、労働者であることをやめ、官僚層の中に混じり込んだ。党の統計上はしばしば、まだ労働者として記録されていたけれども。Kalinin はレーニンへの私的な手紙で、肉体労働に従事する者だけが労働者として表記され、一方で「監督者、監視者、評価者」は役人(office personnel、〈sluzhashchie〉)に分類されるべきだ、と強く迫った。(注7)
 以下は、メンシェヴィキのエミグレ機関紙がNEP の直前における現象について記述したものだ。
 「ボルシェヴィキ独裁…は、統治および公行政の全領域から帝制期の官僚機構のみならず、ブルジョア社会の学位制度を伴った知識人層を排除し、そのようにして、小ブルジョアジー、農民層、労働者階級、軍隊等々の無数の人々に『上昇する途』を開いた。彼らは従前は、富と教育をもつ者の特権的地位のために下級階層に所属させられていたが、今では巨大な『ソヴィエト官僚制』を構成している。—この新しい都市的階層の本質と野心は小ブルジョアであり、彼らの利益の全てがこの層を革命につなげている。革命こそが彼らを今ある地位に昇らせ、過酷な生産労働から逃れさせ、国民大衆の〈上に〉立つ国家行政機構に含み込んだからだ。」(注8)//
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 (脚注*) 1921年4月、レーニンは、体制の最初の一年半の間には官僚主義化の危険に気づかなかった、と認めた。彼は1919年にようやく、新綱領を採択した第8回党大会でそれを承認した。その綱領は遺憾さをもって「ソヴィエト・システム内部での官僚主義の部分的な復活」と記した。Lenin, PSS, XLHI, p.229.
 しかし、そのときでもレーニンは、この現象の原因は内戦が必要にさせた原始的な生産の方法と取引活動にあると批判した。Ibid., p.230. 
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 (03) ボルシェヴィキは、彼らの歴史哲学によれば政治はもっぱら階級闘争の付随物であり、政府は支配階級の道具にすぎなかったがゆえに、このような展開を予想することができなかった。この考え方は、国家とその公務員層は、そられが奉仕すると言われてきた階級利益とは異なる利害を有する、ということを見逃していた。
 その同じ哲学が、気がついたときに問題の性質を理解するのを妨げた。
 レーニンは、帝制時代の全ての保守主義者のように、「統制」委員会を積み上げ、監視者を派遣し、「善良な者たち」を制裁できるような濫用はないと要求する、といったこと以外には、官僚機構による濫用を抑止するための装置を考え出すことができなかった。
 問題の制度上の根源を、彼は最後まで、理解しなかった。//
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 (04) 官僚主義化は、国家と同様に党でも生じた。//
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 (05) 高度に中央志向の構造だったが、ボルシェヴィキ党はその党員層内部で、一定程度の非公式の民主主義を伝統的に育ててきた。(注9)
 「民主主義的中央集権主義」の原理のもとで、指令部門による諸決定は、疑問を抱くことなく下級機関によって実行されなければならなかった。
 しかし、決定は、全員が発言できる機会のある討論を経たあとで多数票決によって行われた。—まず中央委員会、次いで政治局。
 地方の党細胞の意見聴取が、機械的に行われた。
 国の独裁者ではあったが、レーニンは党内部では〈同輩中の首席〉にすぎなかった。政治局にも、中央委員会にも、正式の議長はいなかった。
 党の最高機関である党大会への代議員たちは、地方の諸組織から選出された。
 地方の党役員は、同輩たちによって選ばれた。
 実際には、レーニンはほとんどつねに、その個性と党創設者たる名声でもって支配した。だが、勝利は保障されておらず、ときには彼から外れた。//
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 (06) 党は国の運営という大きな責任をつねに負ったので、党員数も管理的機構も膨張した。
 1919年3月まで、Iakov Sverdlov という一人の人物が、その頭の中に、党組織と党員の全ての詳細を抱えていた。
 彼は、レーニンとその仲間が政治的決定や軍事的決定を自由に行うことができるよう、毎日党内を走り回った。(注10) 
 ともあれ、このようなシステムは、1919年3月に党員数は31万4000になったので、長くは続かなかった。
 この頃のSverdlov の突然の死によって、党をより公式に管理することが必須となった。
 このために、1919年3月の党第8回大会は、中央委員会に二つの新しい機関を設置した。一つは政治局で、中央委員会全体に諮ることなしで迅速に決定をすべく、最初は5人で構成された(レーニン、トロツキー、スターリン、カーメネフ、Nikolai Krestinskii)。もう一つは組織局でやはり5人で構成され、実際には人的任命を意味する組織問題を扱った。
 第三の機関、1917年3月に設置されていた書記局は、スターリンが1922年4月にその長に任命されるまでは、主として書類を捲るのに忙殺されていたように見える。
 その長である書記長は、組織局の一員である必要があった。
 スターリン以降の組織局と書記局の任務から判断すると、両者の間には厳格な所掌事務の区別はなく、ともに人事問題を扱った。但し、組織局は、党員の実績評価についてより直接的な責任をもっていたように思われる。(注11) 
 これらの機関の設置によって、党の事務の、モスクワにある頂点の権威への集中が始まった。//
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 (07) 共産党には、内戦が終わるまでに、もっぱら文書作業を行う手頃な規模の職員がいた。
 1920年の末頃にかけて行われた統計調査は、その構成に関して興味深い数字を明らかにした。
 職員の21パーセントだけが工業または農業での肉体労働に従事していた。
 残りの79パーセントは、多様なホワイト・カラーの職に就いていた。(+)
 職員の教育レベルはきわめて低くて、彼らの責任や権限と釣り合っていなかった。1922年では、0.6パーセント(2316人)だけが高等教育を修めていて、6.4パーセント(2万4318人)が第二次学校を終えていた。
 あるロシアの歴史家はこの資料にもとづいて、当時の党員の92.7パーセントは仕事上わずかしか識字能力がなかった(1万8000人または4.7パーセントは完全に識字能力がなかった)と結論づけた。(注12)
 ホワイト・カラー職員の一団から、共産党の中央機関にモスクワで採用される活動家エリートが出現した。
 1922年の夏、この集団は1万5000人以上を数えた。(注13)
 「党生活の官僚主義化は、不可避の結果を生んだ。…
 もっぱら党の仕事に従事した党職員は、工場や政府官署で常勤で働いている一般党員に比べて、明らかに有利だった。
 党の運営に職業として没頭できることは強い力となって、党職員層に対して、立案、指導、統制の中心部たる位置を与えた。
 党の階層の全てのレベルで、権限の移行が見えるものとなった。まずは大会または会議から、名目上は大会等が選出した諸委員会へ、次いで、諸委員会から、表向きは諸委員会の意思を執行する党書記局への移行。」(注14) 
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 (脚注+) N. Solovev in Pravda, No. 190 (1921.8.28), p.3-4. 完全ではないけれども—統計調査はロシア共和国の三分の二にしか及んでいない—、党の代表者全体について想定される。
 数字には、首都のモスクワは含まれていない。モスクワに関する統計は「信頼できない」と宣せられた。かりにこれを計算にいれれば、ホワイト・カラーの仕事をもつ共産党員の割合は、相当により高くなっただろう。首都は官僚制帝国の中枢なのだから。
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 (08) 当然のこととして、中央委員会組織は徐々に、そしてほとんど感知されることなく、ほとんどの諸決定のみならず全てのレベルでの執行人員の選抜についても、党の地方機関から権限を奪い取った。
 中央集権化への推移は止まらず、冷酷な論理を伴って進行した。
 まず、共産党は、全ての組織立った政治生活を掌握した。次いで、中央委員会は、自発性を抑え込み、批判を沈黙させて、党の指揮権を自らの手に握った。さらに、政治局は、中央委員会のための全ての決定を用意し始めた。
 そして、三人の男たち—スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ—が、政治局を支配するに至った。
 最終的には、一人だけが、つまりスターリンだけが、政治局のために決定をした。
 一人の独裁への途がいったん極まると、もうどこにも進む途はなく、スターリンの死によって、党とその国家の権威が漸次的に解体していく、という結果となった。//
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 後注
 (05) RTsKhIDNI, F. 76, delo 265.
 (06) Daniel Orlovsky in Diane P. Koenker, et al., eds., Party, State and Sosiety in the Russian Civil War (1989), p.180-p.209.
 (07) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 9.
 (08) SV, No. 2 (1921.2.16), p.1.
 (09) 共産党の中央集権化と官僚主義化に関する最良の議論は、以下に見られる。Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed., (1963), Chap. 6.; Leonard Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy (1977), Part III.
 (10) Krestinskii in DesiatyiS"ezd, p.499.
 (11) RTsKhIDNI, F. 17, op. 112.
 (12) Pravda, No. 17 (1923.1.26), p.3.; A. V. Pantsov in VI, No. 5 (1990), p.80.
 (13) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.181.
 (14) Ibid., p.181. 
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 第一節①、終わり。

2571/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節。
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 第四節・クロンシュタット暴乱(the Kronstadt mutiny)①。
 (01) 1920-21年の冬のあいだ、ヨーロッパ・ロシアの都市部での食料と燃料の供給状態は、二月革命の前夜を思い起こさせるものだった。
 運輸の断絶と農民による退蔵が原因となって、配送がきわめて落ち込んだ。
 ペテログラードは、生産地から遠く隔たっていることで、再び最も影響を受けた。
 燃料不足のため、工場は閉鎖された。
 多くの住民が、市から逃げ出した。
 とどまっていた者たちは、政府から無料で配られたまたは仕事場から盗んだ工業製品を食糧と物々交換するために農村地帯へと向かった。但し、産物を没収する「妨害部隊」(〈zagraditel'nye otriady〉)によって、帰りの途中で停止させられた。//
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 (02) こうした状況を背景として、1921年2月に、Kronstadt の船員たち、トロツキーの言う「革命の美と誇り」が、反乱の狼煙を上げた。//
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 (03) 海軍の暴乱に火をつけたのは、モスクワやペテログラード等の多数の都市でのパンの配給を、10日間三分の一減らす、という1月22日の政府命令だった。(注45)
 この措置は、いくつかの鉄道路線を閉鎖させている燃料不足のために必要になった、とされた。(注46) 
 最初の異議申立ては、モスクワで勃発した。
 モスクワ地域の政党色のない冶金労働者の会合が、2月初めに、体制側の経済警察が全面的に非難していると聞き、ソヴナルコム〔人民委員会議、ほぼ内閣〕構成員を含む全員の平等を求めて配給「特権」の廃止を要求した。また、恣意的な食料取立てを定期的な現物税に置き換えることも、要求した。
 何人かの発言者は、立憲会議(Constituent Assembly)の招集を呼びかけた。
 2月23-25日、多数のモスクワの労働者がストライキを行ない、公的な配給制度の外で、自分で食糧を獲得することを認めるよう、要求した。(注47)
 この抗議運動は、実力でもって鎮圧された。//
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 (04) 政府への不満が、ペテログラードに広がった。そこでは、最も特権的な階層である工業労働者の食料配給は一日当たり1000カロリー分減らされていた。
 1921年の2月初め、ペテログラードの大企業のいくつかは、燃料不足のために閉鎖を余儀なくされていた。(注48)
 2月9日、ストライキが散発的に発生した。
 ペテログラードのチェカは、原因はもっぱら経済にあり、「反革命者」が関与している証拠はない、と決定した。(注49)
 2月23日以降、労働者たちは会合を開いた。その中には、そのままストライキに進んだものもあった。
 ペテログラードの労働者たちは、当初は、農村地帯で食料を掻き取る権利だけを要求した。しかし、やがて、おそらくメンシェヴィキやエスエルの影響を受けて、ソヴェトの公正な選挙、言論の自由、そして警察のテロルの中止を呼びかける、政治的要求を追加した。
 ここでも、反共産党気分にときおり伴っていたのは、反ユダヤ主義のスローガンだった。
 2月末、ペテログラードはゼネ・ストの見通しに直面した。
 チェカは、この都市のメンシェヴィキとエスエルの指導者たち全員を逮捕し続けた。
 反乱している労働者たちを鎮静化しょうとするジノヴィエフの試みは、成功しなかった。すなわち、彼の聴衆は敵対的で、話し続けることができなかった。(注50)//
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 (05) レーニンは、労働者の反抗に直面して、まさしくニコライ二世が4年前に行なったように反応した。すなわち、彼がとりかかったのは、軍事だった。
 しかし、最後のツァーリは疲れ切って、不本意に戦闘し、すぐに屈服したのに対して、レーニンは、権力を握り続けるためにどこまでも闘うつもりだった。
 2月24日、共産党ペテログラード委員会は、将軍S.S.Khabalov の1917年二月25-26日の命令を彷彿させる言葉を用いて「防衛委員会」を—誰から「防衛」するのかを特定することなく—設置し、非常事態を宣言し、街頭集会を全て禁止した。
 委員会の議長は、アナキストのAlexander Berkman が「ペテログラードで最も嫌悪されている人物」と称した、ジノヴィエフだった。
 Berkman はこの委員会の一員のボルシェヴィキ、「太って、脂ぎって、不快な感じ」に見えるM.M. Lashevich の演説を聞いていた。このLashevich は、「ゆすりをするヒル」のように、抗議をする労働者を拒否した。(注51)
 ストライキ労働者たちは、ロック・アウトされた。これは、彼らが食料配給を受けられないことを意味した。
 当局はメンシェヴィキ、エスエルを逮捕し続けた。また、反乱「大衆」から遠ざけるためにペテログラードと他の地域のアナキストたちも。
 1917年二月には、不満の主な原因は要塞守備隊だったが、今のそれは工場だった。
 そうであっても、ペテログラードに駐在する赤軍部隊は懸念材料だった。そのいくつかが、労働者の示威行動の抑圧に参加しない、と宣言したからだ。
 そのような部隊は、武装を解除された。//
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 (06) ペテログラードでの労働者騒擾の報せが、Kronstadt の海軍基地に届いた。
 そこに配置された1万の海兵たちは伝統的には、特定のイデオロギー的志向のない、「ブルジョアジーへの憎悪」を強くもつアナキズムを選好していた。
 1917年には、こうした感情はボルシェヴィキのために役立った。
 だが今は、それはボルシェヴィキに反抗する方向に機能した。
 海軍基地でのボルシェヴィキへの支持は、十月の後にすみやかに失われ初めた。そして、1919年に海兵たちはペテログラードを防衛する赤軍のために勇敢に闘ったけれども、体制を熱狂的に支持したのでは全くなかった。とくに、内戦が終わった後ではそうだった。(注52)
 1920-21年の秋から冬に、Kronstadt の党組織員の半分である4000人が、切り札を出した。(注53)
 ペテログラードのストライキ労働者は銃火を浴びているという風聞が広がったとき、海兵の代表団が調査のために派遣された。彼らは帰還して、本土の労働者たちは帝政時代のかつての監獄でのように扱われている、と報告した。
 2月28日に、以前はボルシェヴィキの本拠だった戦艦〈Petropavlovsk〉の乗組員は、反共産党の決議を採択した。
 その決議は、秘密投票によるソヴェトの再選挙、(「労働者、農民、アナキスト、左翼エスエル党員」のためだけの)言論やプレスの自由、集会と労働組合の自由を要求した。また、賃労働者を雇用しないかぎりで、適切と考えるとおりに土地を耕作する農民たちの権利も。(注54)
 翌日、決議が、Kalinin にいる海兵と兵士の集会でほとんど満場一致で採択された。彼らは、暴乱者を鎮圧するために派遣されていたのだったが。
 集められて出席した多数の共産党員たちは、決議への賛成票を投じた。
 3月2日、海兵たちは、島を管理し、予期される本土からの攻撃に対する防衛を担当する、臨時革命委員会を設立した。
 反乱者たちは、赤軍の武力に長く抵抗できるという幻想を持ってはいなかった。だが、彼らの主張へとnation と軍事力 を結集させることを当てにした。//
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 (07) 彼らのこの期待は、失望に終わった。ボルシェヴィキが、暴乱の広がりを阻止すべく、迅速で効果的な対抗措置をとったからだ。この点では、新しい全体主義体制はツァーリ体制よりもはるかに有能だった。
 海兵たちは孤立していると感じ、彼らが勝利できそうにない軍事闘争に閉じ込められた。//
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 (08) 旧体制は、その権威に対する全ての挑戦をどす黒い外国勢力に起因させた。この習癖をボルシェヴィキがすみやかに吸収していたのは、興味深い。
 そして、その外国勢力とはかつてはユダヤ人だったが、今では「白衛軍」だった。
 3月2日、レーニンとトロツキーは、暴乱は「白衛軍」将軍たちの陰謀であり、その背後にはエスエルと「フランスの対敵諜報機関」がいる、と宣告した。(*)
 Kronstadt 暴乱がペテログラードに波及するのを阻止するために、同市共産党委員会が設置した「防衛委員会」は、群衆を解散させ、従わなければ発砲せよとの命令を兵団に発した。
 鎮圧措置は、譲歩と一組のものだった。すなわち、ジノヴィエフは「妨害派遣部隊」を撤収させ、政府は食料徴発を放棄しようとしているとの示唆を与えた。
 実力行使と譲歩の結合によって、労働者たちは鎮静化し、海兵たちへのきわめて重要な支援が奪われた。//
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 (脚注*) Pravda, No. 47 (1921.3.3), p.1. のちにスターリンのプロパガンダはさらに進んで、Kronstadt 蜂起には経済的援助があった、とまで主張することになる。
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 (09) Kronstadt 暴乱勃発から1週間後、ボルシェヴィキ指導者層は第10回党大会にためにモスクワに集まった。
 誰の意識にもKronstadt 暴乱があったけれども、議題はそれではなかった。
 レーニンは演説を行なったが、暴乱の件を軽視し、反革命陰謀だとして却下した。彼は、こう明確に述べた。「白軍の将軍たち」の関与は「完全に証明されている」、陰謀の全体はパリで企てられた、と。(注55) 
 実際には、指導部は、この挑戦をきわめて深刻に受け取っていた。//
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 後注。
 (45) Pravda, No. 14 (1921.1.22), p.3.
 (46) EZh, No. 14 (1921.1.22), p.2.
 (47) Lenin, Sochineniia, XXVI, p. 640; Oravda, No. 27 (1921.2.8), p. 1; Desiatyi S"ezd, p.861-2; RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.166.
 (48) Pravda, No. 32 (1921.2.13), p.4.
 (49)  RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.167.
 (50) Ibid. 〔同上〕
 (51) Alexanser Berkman, Kronstadt, p.6 とThe Bolshevik Myth (1925), p.292.
 (52) Avrich, Kronstadt, p.62-71.
 (53) Ibid., p.69.
 (54) Pravda o Kronshtadte (1921), p.8-10.
 (55) Lenin, PSS, XLIII, p.23-24.
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 第四節②へと、つづく。

2566/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第一節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 この書(総計約590頁)のうち、章単位で試訳掲載を済ませているのは、数字番号のない結語のような末尾の「ロシア革命の省察」(約20頁)を除くと、つぎだけだ。原書で約40頁。これら三者(ロシア・イタリア・ドイツ)の共通性と差異を考察している。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
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 この書物の第8章の節別構成は、つぎのとおり。
 第8章・ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
  第1節・テルミドールではないネップ。
  第2節・1920-21年の農民大反乱。
  第3節・アントーノフの登場。
  第4節・クロンシュタットの暴乱。
  第5節・タンボフでのテロル支配。
  第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行。
  第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大。
  第8節・エスエル〔社会主義革命党〕の『裁判』。
  第9節・ネップ制度のもとでの文化生活。
  第10節・1921年飢饉。
  第11節・外国共産党への支配の増大。
  第12節・ラパッロ〔条約〕。
  第13節・共産主義者とドイツのナショナリストとの同盟。
  第14節・ドイツとソヴィエト連邦の軍事協力の開始。
 以上のうち、この欄に試訳の掲載を済ませているのは、以下に限られる。
 第6節〜第10節。5年前の2017.04.10〜2017.04.27 のこの欄に掲載した。
 以下、第一節〜第五節の邦訳を試みる。
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 第8章・ネップ(NEP)—偽りのテルミドール。
 第一節・テルミドールではないネップ。
 (01) 「テルミドール」(Thermidor)は、フランス革命暦の七月で、その月にジャコバンの支配が突如として終わり、より穏健な体制に譲った。
 マルクス主義者にとって、この語は反革命の勝利を表象するものだった。その反革命は最後には、ブルボン王朝の復活に行き着いたからだ。
 それは、彼らが何としてでも阻止すると決意している展開だった。
 経済の破綻と大量の反乱に直面して、レーニンは1921年3月に、経済政策を急進的に変更させることを強いられていると感じた。その変更は、私的企業に重大な譲歩をする結果となるものであり、新経済政策(NEP)として知られるようになった路線だった。国の内外で、ロシア革命もまたその路線を辿り、テルミドール段階に入った、と考えられた。//
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 (02) このような歴史的類推を用いることはできないことが、判明した。
 1794年と1921年の最も顕著な違いは、フランスではジャコバン派がテルミドールに打倒され、指導者たちは処刑されたのに対して、ロシアでは、ジャコバン派に相当する者たちが新しくて穏健な路線を実施した、ということだった。
 彼らは、変化は一時的なものだと理解したうえで、そうした。
 1921年12月に、ジノヴィエフはこう言った。「同志たちよ、新しい経済政策は一時的な逸脱、戦術的な退却にすぎず、国際資本主義の前線に対する労働者の新しくて決定的な攻撃のための場所を掃き清めるものだ、ということを明瞭にしてほしい」。(注02)
 レーニンは、NEP をブレスト=リトフスク条約になぞらえるのを好んだ。これは当時は誤ってドイツ「帝国主義」への屈服と見られたが、後退の一歩にすぎなかった。つまり、長くは続かず、「永遠に」ではなかったのだ。(注03)//
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 (03) 第二に、NEP は、フランスのテルミドールとは異なり、経済の自由化に限定されていた。
 トロツキーは、1922年にこう言った。「我々は、支配党として、経済分野での投機者を許容することができる。しかし、政治領域でこれを認めることはできない。」(注04)
 実際に、NEP のもとで許容された限定的資本主義が全面的な資本主義の復活になることを阻止する努力を行ないつつ、体制は、政治的抑圧の強化をそれに伴わせた。
 モスクワが対抗する社会主義諸政党を破壊し、検閲を系統化し、秘密警察の権限を拡大し、反教会の運動を立ち上げ、国内と外国の共産主義者への統制を厳しくしたのは、1921-23年のことだった。//
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 (04) 退却の戦術的性格は、当時は広くは理解されていなかった。
 共産主義純粋主義者たちは、十月革命への裏切りだと見て憤激し、一方では、体制への反対者たちは、恐ろしい実験は終わったと安心してため息をついた。
 レーニンは、頭脳が働いた最後の二年間、繰り返してNEP を擁護しなければならず、革命はその行路上にあると強く主張した。
 しかしながら、彼の心の奥深くでは、敗北の感覚に取り憑かれていた。
 彼は、ロシアのような後進国で共産主義を建設する企ては時期尚早であって、不可欠の経済的、文化的基盤が確立されるまで延期されなければならない、と気がついていた。
 計画どおりに進んだものは、何もなかった。
 レーニンは一度、うっかり口をすべらした。「車は制御不能だ。運転してはいるが、車は操縦するようには進んでいない。だが、何か非合法なものに、何か違法なものに操縦されて、神だけが知る行方へと、向かっている。」(注05)
 経済破綻の状況の中で行動する国内の「敵」は、白軍の連結した諸軍よりも大きな危険性をもって体制に立ちはだかっていた。
 「共産主義への移行という企てをしている経済戦線では、我々は1921年春までに、Kolchak、Denikin、あるいはPilsudski が我々に与えたものよりも重大な敗北を喫した。はるかに重大で、はるかに根本的で危険な敗北だった。」(注06)
 これは、レーニンは1890年代に早くも、ロシアは十分に資本主義的で、社会主義の用意ができている、と間違って主張した、ということを認めるものだった。(注07) //
 ——
 後注。
 (02) A.L.P.Dennis, The Foreign Politics of Soviet Russia (1924), p,418. Ost-Information, No,191 (1922,01,11) から引用。
 (03) Lenin, PSS, XLIII, p.61; XLIV, p.310-1.
 (04) Odinadsatyi S"ezd RKP(b); Stenograficheskii Otchet (1961). p.137.
 (05) Lenin, PSS, XLV. p.86.
 (06) Ibid., XLIII. p.18, p.24; XLIV, p.159.
 (07) R. Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), あちこちの頁に.
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 第一節、終わり

2559/O.ファイジズ・スターリンによる継承②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第8章の試訳の続き。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン②。
 第二節。
 (01) 第12回党大会は、ついに1923年4月に開催された。
 遺書は、レーニンが意図していたようには、代議員たちに読み上げられなかった。
 三人組は、そのように取り計らった。
 トロツキーは、その決定に反対しようとはしなかった。
 彼は、中央委員会での自分の力は弱いことを知っていた。//
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 (02) トロツキーは、その代わりに、指導部の「警察体制」に対抗する一般党員の代弁者を任じた。
 10月8日、彼は「中央委員会への公開書簡」を書き送り、党内の民主主義の抑圧を追及し(内戦中のトロツキー自身の超中央志向性からすると偽善的主張だ)、そのことが原因でソヴィエト・ロシアでの最近の労働者のストライキや、労働者が共産党に幻滅したドイツでの革命運動の失敗、が生じていると述べた。
 1923年から1927年までに三頭制に反対した左翼反対派の基礎を成す宣言を書いたPiatakov やSmirnov を含む「グループ46」というボルシェヴィキ指導者たちに、トロツキーは支持されていた。
 だが、彼の敵たちは、彼を「分派主義」だとして追及するのに必要な証拠を得た(「分派主義」は1921年3月の分派禁止以降、最悪の犯罪だった)。
 彼らはトロツキーを「ボナパルティズム」としても責め立てた。これは、専横だというトロツキーへの評価にもとづく責任追及だった。//
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 (03) 10月の党総会で、トロツキーは、高い役職をというレーニンの申し出を何度も固辞したことを思い起こさせて、自己を防衛した。—一度は、1917年10月で(内務人民委員のとき)、もう一度は1922年(ソヴナルコム副議長のとき)。固辞した理由は、ロシアに反ユダヤ主義の問題があるので、そのような地位にユダヤ人が就くのは賢明ではない、ということだった。
 前者の場合、レーニンは彼の異議を却下したが、後者の場合は同意した。
 トロツキーは、党内での自分への反感はユダヤ人であるからだと示唆すべく、レーニンの権威を持ち出していた。
 党の前に非難されて立っているという生涯のこの重大な瞬間に、ユダヤ出自の問題を振り返らなければならないのは、トロツキーにとって、悲劇だった。—革命家としてのみならず、人間としても。
 自分はユダヤ人だと一度も感じてこなかった者にすれば、これはトロツキーがいかに孤独だったかを示していた。//
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 (04) トロツキーの感情的な訴えは、代議員たちにほとんど感銘を与えなかった。—彼らのほとんどは、スターリンによって選抜されていた。
 総会は、102対2の票決でもって、「分派主義」を理由とするトロツキー非難の動議を採択した。
 カーメネフとジノヴィエフは、党からの除名を主張したが、スターリン(つねに中庸の意見の主張者として立ち現れたかった)はこれには反対し、この主張による動議は否決された。
 いずれにせよ、スターリンは急ぐ必要がなかった。
 トロツキーは、ソヴィエト同盟での大きな政治勢力の一つとして終わった。
 左翼反対派は三頭制に対する口うるさい批判者であり続けたが、いっそうスターリンの手中に入りつつある党機構を前にしては、無力だった。//
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 (05) このことは、第13回党大会の前の会議で、確認された。1924年のレーニンの死後数ヶ月後のことで、Krupskaya の要求にもとづいて、亡き夫の遺言が中央委員会その他の代議員たちに読み上げられた。
 スターリンは辞任すると申し出たが、ジノヴィエフとカーメネフはスターリンを排除すべきとのレーニンの助言を無視するよう会議を説得した。その理由は、スターリンの何らかの行為が犯罪としての罪責があろうとも重大ではなく、彼はそれ以降に償いをしてきた、というものだった。
 トロツキーは、人々を他に納得させる機会はもうないということを疑いなく意識しつつ、その会合で発言しなかった。
 レーニンの遺書を各地域の代議員別に読み上げることが決定されたが、党大会でそれに関して議論するという決定はなかった。
 実際には、遺書はレーニンが意図したスターリンを指導層から排除させるという効果を奪われていた。
 その代わりに、党大会〔2024年〕は、スターリンを指導者とする党の統一の呼びかけにもとづいた、トロツキー非難の合唱に転じていた。
 トロツキーは、抵抗することができなかった。
 敗北した人間として、党大会を去った。//
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 (06) 1925年1月に人民委員部の役職を退任したあと、トロツキーは1927年11月12日に、党を除名された。
 彼は十月の権力掌握10周年を祝う独立したデモ行進を組織した。だが、警察によって解散させられた。
 彼の支持者のほとんどもまた、1927年12月の第15回党大会での決議に従って、排除された。この党大会では、「反対派」の見解は党員であることと両立しない、と宣言された。
 このときに、ジノヴィエフとカーメネフも、党から除名された。
 二人は1925年にスターリンと不仲になり、トロツキーの左翼反対派や従前の労働者反対派の若干の指導的人物と勢力を合同して、1926年に党内の表現の自由の増大を要求する統合反対派を結成した(実際に分派の禁止へと結末した)。
 分派を構成したとして追放されたあと、二人はいずれものちに、誤りを認め、党に再加入した。
 しかし、トロツキーには戻る途はなかった。
 Kazakhstan に追放され、1929年にはソヴィエト同盟から国外追放となった。//
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 (07) スターリンはいつ、「権力に到達」したのか?
 正確に語るのは困難だ。レーニンの承継問題について、彼が残した複雑さのゆえに。
 レーニンの指導者性は、個人的な権威—ボルシェヴィキは〈彼の〉党だった—にもとづいていた。そして、その権力を是認するために、いかなる職位も彼は必要としなかった。
 彼の死後、同じ権威を誰かの指導者個人が継承することはただちに可能ではなかった。
 スターリンは、レーニン死後わずか一週間後の追悼会合でレーニンが始めた革命を完成させることを誓う演説を行なった。そのとき彼は、自分はレーニンの唯一の継承者だとする初期の主張を行なっていた。
 しかし、本当は、スターリンは集団指導制の中で行動せざるを得なかった。
 スターリンがその独裁に対する最後のくびきから自由になったのは、1930年代に入ってからだった。//
 ——
 第三節
 (01) レーニンの死は、レーニン個人崇拝を復活させた。ボルシェヴィキ体制は、それ自体の正統性の感覚を、ますますこの個人崇拝に求めるようになっていく。
 レーニン記念碑が、至るところに建立された。
 指導者の巨大な肖像写真が、街頭に出現した。
 ペテログラードは、レニングラードと改称された。
 工場、役所、学校は、「レーニン区画」を作った。—彼の偉業を示す写真や遺品で成る聖なる場所。
 レーニンは人間として死に、神として生まれた。
 レーニン全集の第一版(〈Leninskii sbornik〉)づくりが始まった 。十月革命の聖典だ。//
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 (02) ジノヴィエフはレーニンの葬礼のとき、「レーニンは死んだ。だが、レーニン主義は生きている」と宣告した。
 「レーニン主義」という用語が、かくして初めて用いられた。
 三人組は、自分たちは「反レーニン主義者」のトロツキーに対抗する本当の防衛者だと描こうとした。
 このときから、指導部は、その政策—それが何であれ—を正当化するために「レーニン主義」を援用して、批判者を「反レーニン主義者」だと非難するようになる。
 レーニンの現実の思想は、つねに進化し、変転していた。
 その思想は、しばしば矛盾していた。
 聖書のように、彼の著作は多数の多様な事柄を支持するために用いることができた。そして、レーニンを支持する者たちはその事柄に適した部分を選抜するようになる。
 スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフ—彼らは全て「レーニン主義者」だった。
 しかし、変わらない原理が一つあるとすれば—四分の三世紀にわたるボルシェヴィキ独裁の基盤—、それは「党の統一」だった。つまり、人格を集団に融合させて、指導部の判断に服従するという全党員の「レーニン主義的義務」。
 党の方針に疑問をもつことは、それが何であれ、「反レーニン主義」と見なされるということは、この絶対的な原理にもとづいていた。//
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 (03) レーニンは、ペテログラードにある母親の墓の隣に埋葬されるのを望んでいた。
 しかしスターリンは、遺体を防腐処理させることを強く主張した。
 レーニン個人崇拝を生きたままにするためには、遺体は展示されなければならなかった。聖人の遺物のように、それは腐敗してはならないものだった。
 レーニンのアルコール漬けされた遺体は、木製の地下堂に置かれた。—のちに花崗岩の霊廟に移され、それは現在も赤の広場のクレムリンの内壁のそばに存在する。
 一般民衆に公開されたのは、1924年8月だった。//
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 (04) レーニンの脳は身体から除去され、新しく設置されたレーニン研究所に移された。
 脳は3万の断片に薄切りにされ、観察できる状態にすべくガラス板の間に保たれた。将来の世代の科学者たちが、それを研究して、「彼の天才性の実体」を発見するだろう。//
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 (05) かりにレーニンがあと数年生きていれば。どうなっていただろうか?
 スターリンは権力を握っていただろうか?
 革命は実際と同じ途を歩んでいただろうか?//
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 (06) スターリン主義体制の根本的要素—一党国家、テロルのシステム、指導者崇拝—は、1924年にはすでにあった。
 党機構は、すでに大部分は、スターリンの手中の忠実な道具だった。
 レーニンは、この全てが生じるのを許容していた。
 政治改革をしようとの彼の遅れた努力は。ボルシェヴィキ独裁制の本性や、内戦で確固たるものになっていた一般党員の政治的姿勢を、いずれも変えるまでには至らなかった。//
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 (07) しかし、レーニンの体制とスターリンのそれの間には。大きな違いがあった。
 レーニンのもとでの初期には、〔党内では〕わずかの者しか殺されなかった。
 彼による分派禁止にもかかわらず、レーニンが生きている間は、党には、激しいが同志的な議論を行なえる余地がまだあった。—そして1930年代初頭までは、諸政策に反対し続けていたことだろう。
 1930年代初頭になってスターリンは、反対する者を殺害するという効果を伴う厳格な党の方針を課した。
 レーニンは、革命への反抗者を殺害するのに何の躊躇も持たなかった。だが、党内の同志については、彼らの政治的見解を理由として収監したり殺害したりはしなかった。//
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 (08) レーニンがスターリンと異なるのは、とりわけ、農民層に関する政策だった。
 レーニンならば、スターリンが指導者となったときのような暴力的方法で農業の集団化を実施するのを、許さなかっただろう。
 NEP でのレーニンの革命の見通しは、より農民に友好的で、より多元主義的で、より寛容だった。1928-29年にNEP を覆したときにスターリンが約束した「大分岐」と、長い期間で見れば、同様にユートピア的だったとしても。
 さて、最後に、レーニンと革命の運命に関する問題は、NEP の成り行きにかかっている。そして、つぎの章で扱うのは、この問題だ。//
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 第8章、終わり。

2558/O.ファイジズ・スターリンによる継承①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著の邦訳書は、ない。
 そのうち、第8章の試訳。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン①。
 第一節。
 (01) レーニンの病いの最初の兆候は、頭痛と疲労を訴えた1921年に現れた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだとどまっていたFanny の銃弾の毒素に原因があると診断した。
 だが、その他の医師たちは、より病理学的な問題を疑った。
 その懸念の正しさは、1922年5月25日にレーニンが大きな発作を起こし。右半身を事実上麻痺し、発話能力を失ったときに、確認された。//
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 (02) その夏のあいだ、Gorki の田舎の家で回復しているときにレーニンの頭を占めていたのは、彼の後継者の問題だった。
 彼は自分を継承する集団指導制を明らかに望んでいた。
 彼がとくに心配したのは、内戦中に大きくなったトロツキーとスターリンの個人的対立だった。//
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 (03) 二人ともに当然に指導者となる資質はもっていたが、レーニンを継承する権利はなかった。
 トロツキーは華麗な演説者で、優秀な管理者だった。
 赤軍の最高指導者として、他の誰よりも、内戦で活躍した。
 しかし、—メンシェヴィキだった過去やユダヤ人的な知的な風貌は言うまでもなく—トロツキーの自尊心と傲慢さのために、党内では人気がなかった。
 トロツキーは、自然な「同志」ではなかった。
 彼は、集団的指導制の場合の大佐ではなく、自分の軍隊の将軍でありたかっただろう。
 彼は、党員の隊列からすれば、「外部者」だった。
 政治局の一員ではあったが、党のより下位の職に就いたことがなかった。//
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 (04) スターリンは対照的に、最初は集団指導制をより巧く運営する能力があるように見えた。
 彼は内戦中に多数の職責を担った。—民族問題人民委員、Rabkin(労働者・農民の調査)人民委員、政治局と組織局の一員、そして書記局の長。その結果、穏健で勤勉な中庸の人物だという声価を得ていた。
 スターリンは、短身で、素振りは粗くて、あばたのある顔とジョージア訛りの発音で、党内のより国際人的で知的な指導者たちの中では劣っている、と感じさせていた。いずれは、彼らに復讐することになるが。
 秘密主義的で執念深い人物で、仲間からのごく僅かな事柄も、彼は許さず、かつ忘れなかった。—コーカサスの半分犯罪的な地下の革命家世界で身につけたごろつき的習癖。
 彼は、1917年での自分の役割を小さくした者に対してとくに憤慨していた。誰よりも、知識人世界に入らないと自分を見ていたトロツキーに対して。
 トロツキーは〈わが生涯〉(1930年)で、1924年のレーニンの死の当時のスターリンについて、こう書いた。
 「彼は、実際性、強い意思、狙いを実行する執着性で優れていた。
 政治的地平は限定されていて、理論的な知識は貧弱だった。…。
 考え方はひどく経験主義的で、創造的な想像力に欠けていた。
 党集団の指導者としては(党外の広くには全く知られていなかった)、二番目か三番目の仕事をする宿命にある男だ。」(注01)
 党指導者たちの全てが、スターリンの権力の淵源は彼が就いた職から積み重ねた支持にある、という同じ過ちを冒した。—これは、1930年代のテロルで排除された者たちの、致命的な間違いだった。
 レーニンにも、その他の者たちと同様の罪責はあった。
 スターリンが強く迫ったために、レーニンはそれに応じて、1922年4月に党の初代の総書記に任命した。
 これは、革命史上の最悪の誤りだったと論じられ得る。//
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 (05) スターリンの力は、地方の党諸機関の統制から大きくなった。
 書記局の長として、また組織局にいる唯一の政治局員として、彼は自分の支持者を昇進させ、反対者の経歴を妨害することができた。
 1922年の一年だけで、1万人以上の地方党官僚が、組織局と書記局によって任命された。
 彼らは、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンとの党指導者をめぐる闘いで、スターリンの主要な支持者になることになった。
 スターリンと同様に、彼らはきわめて低い層の出身だった。
 彼らは、トロツキーやブハーリンのような知識人に疑問をもち、スターリンの実際的な知恵への信頼の方を選んだ。革命のイデオロギーの問題が生じたときには、スターリンによる統一と紀律の分かりやすい呼びかけの方を好んだ。//
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 (06) レーニンの不在中は、政府は三頭制(スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ)で運営された。これは、反トロツキー連合として出現したものだった。
 三人は党の会議の前に会合し、戦略を調整し、どう投票すべきかについて支持者たちに指示した。
 カーメネフはスターリンを好んだ。二人は、1917年以前は一緒にシベリアで流刑にあっていた。
 ジノヴィエフは、それほどはスターリンを気にかけなかった。
 しかし、ジノヴィエフのトロツキー嫌いは全面的なものだったので、敵のトロツキーが敗北するのに役立つかぎり、悪魔の側にすら立っただろう。
 二人は、党指導者を目指す自分たちの要求でトロツキーに勝利するためにスターリンを利用していると考えていた。二人は、トロツキーがより重大な脅威だと思っていた。//
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 (07) レーニンは〔1922年〕9月までに回復し、仕事に復帰した。
 彼は三頭制を疑うようになった。それは、自分の背後にいる支配派閥のように動いていた。それで、トロツキーに、「反官僚制ブロック」(「官僚制」とはつまりはスターリンとその権力基盤)の自分に加わるように求めた。
 しかし、そのとき、12月15日に、レーニンは二度めの発作を起こした。
 スターリンは、総書記としての彼の権力を用いて、レーニンの医師について担当するとともに、レーニンを訪問できる者を制限した。
 車椅子に閉じ込められ、「一日に5分から10分まで」の口述筆記だけが許されて、レーニンは、スターリンの囚人になった。
 彼の二人の主要な秘書たち、Nadezhda Allilueva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンが語ったこと全てをスターリンに報告した。//
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 (08) 12月23日から1月4日まで、レーニンは、近づく第12回党大会用の、一連の断片的な覚書を口述した。これは、彼の遺書として知られるようになる。
 レーニンは秘書たちに秘密にするよう命じたが、彼女たちはスターリンに明らかにした。
 この口述筆記のあいだ、革命の進展方向について、深刻な関心と不安があった。
 レーニンは三つの問題を気にかけていた。—そしてそれらのどれについても、スターリンが主要な問題だったように見えた。//
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 (09) 第一は、民族問題とどのような同盟条約が署名されるべきか、だった。
 中心にあった問題は、ボルシェヴィキとジョージアとの関係だった。
 スターリンは、そのジョージア出自にもかかわらず、民族少数派に対する熱狂的なロシア愛国主義者として内戦中にレーニンが批判したボルシェヴィキの先頭にいた。
 赤軍がウクライナ、中央アジアおよびコーカサスの旧ロシア帝国の国境地帯を再征服すると、民族問題人民委員としてのスターリンは、非ロシア人共和国は自治領として、事実上は同盟を脱退する権利を剥奪されて、ロシアに加わるよう提案した。
 レーニンは、これら地域は主権ある共和国としてこの権利を持つべきだと考えた。どうであっても、これらはソヴィエト連邦の一部であることを望むだろうと考えたからだった。
 彼が見ていたように、革命は全ての民族的利益に打ち勝った。//
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 (10) スターリンの提案は苦々しくも、ジョージアのボルシェヴィキに反対された。彼らの権力基盤はジョージアのモスクワからの自治の手段を獲得することに依存していた。
 ジョージア共産党の全中央委員会は、スターリンの政策に異論を唱えるのを断念した。
 レーニンが、介入した。
 彼は、ある論議でモスクワのコーカサス局の長でスターリンの側近のSergo Ordzhonikidze がジョージア・ボルシェヴィキを打ち負かしたと知って、激しく怒った。
 レーニンは、スターリンとジョージア問題を異なる観点から見るようになった。
 大会用の彼の覚書でレーニンは、スターリンを、少数民族を威嚇して従属させることだけができる「悪漢で暴君」だと称した。必要なのは「深い注意、繊細さ」、彼らの合法的な民族的諸要求との「妥協の用意」なのだ。とくに、ソヴィエト同盟は新しい帝国になるべきではなく、植民地世界での被抑圧民族の友人と解放者のふりをすべきである場合には。(注02)//
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 (11) レーニンは病気であるために、スターリンは自分の途を進んだ。
 ソヴィエト同盟の創設条約は基本的に中央志向で、各共和国に「民族性」(nationhood)の文化形態を許容するのは、モスクワにいるソヴィエト同盟(CPSU)の共産党が設定した政治的枠組の範囲内でのみだった。
 政治局は、「民族的逸脱者」としてジョージア・ボルシェヴィキを排除(purge)した。このレッテルをスターリンは、のちの時代に非ロシア人地域の多数の指導者たちに対して用いることになる。//
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 (12) 遺言でのレーニンの第二の関心は、党の指導機関を説明責任をより果たすものにすることだった。
 彼は、党の下級機関から50-100名の新人を加えることで中央委員会を「民主化」すること、中央委員会による検査のために政治局を公開することを提案した。
 こうした党幹部と一般党員との間の増大している空壁を埋めようとする努力がボルシェヴィキ独裁の根本問題—官僚主義と代表しているとする労働者大衆からの疎遠化—を解消しただろうかは、疑わしい。
 レーニン自身が遺言で書いたように、現実にあった問題は、革命が後進的農民国家で起き、必要な「文明化の要件」を欠いている、ということだった。大衆の自分たち自身による管理にもとづく本当の社会主義政府を樹立するために必要な要件を。(これは、メンシェヴィキが正しかったかもしれないと認めるに至る地点に接近していた。)
 さらに、ボルシェヴィキは、内戦中の暴力的習癖を捨て去り、「国家という機械」の複雑な機構を通じてより効率的に統治する仕方を学ぶ必要があった。//
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 (13) レーニンの遺書の最後の論点—そして最も爆発的だったもの—は、承継の問題だった。
 レーニンは、集団指導制への自らの選好を強調するかのように、主要な党指導者たちの欠陥を指摘した。
 カーメネフとジノヴィエフは、1917年10月の二人のレーニンに対する態度によって、批判された。
 ブハーリンは「全党の中のお気に入りだったが、彼の理論的見解は留保つきでのみマルクス主義と言い得るものだった」。
 トロツキーは「中央委員会の中でおそらく最も有能な人物」だが、「過剰な自信を誇示して」いた。
 だがなおも、レーニンが最も痛烈な批判を残していたのは、スターリンに対してだった。
 「スターリンは、粗暴すぎる。この欠点は、共産党員の間での行いでは全く耐え得るものだけれども、総書記としては耐え難いものになる。
 私は、この理由で、同志諸君はスターリンをその地位から排除して、包容力、忠誠心、丁重さ、同志たちへの配慮心がもっとあり、もっと気紛れではない等、の別の誰かと交替させる方策を考えるよう提案する。」(注03)
 レーニンは、スターリンは去らなければならないことを。明瞭に述べていた。//
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 (14) レーニンの決意は、3月5日に強まった。その日、12月の彼には秘密にされていた事件について、知ったからだ。
 スターリンは〔レーニンの妻の〕Krupskaya を「粗々しく罵り」、レーニンからトロツキーへの三頭制に関する論議での勝利を祝福する口述筆記の手紙を受け取ったことで、党規約違反として尋問すると脅かしすらしていた。
 レーニンはこの事件を知って、荒れた。
 彼はスターリンあての手紙を口述筆記させ、スターリンの「粗暴さ」について謝罪を要求し、関係を断つと威嚇した。
 権力を握って完全に傲慢になっていたスターリンは。返書で死にゆくレーニンへの侮蔑心をほとんど隠そうともせず、Krupskaya は「あなたの妻であるのみならず、私の古くからの党同志だ」ということをレーニンに思い起こさせた。(注04)//
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 (15) レーニンの状態は、一夜で悪化した。
 三日後、彼は三回めの発作を起こした。
 言語能力が失われた。
 10ヶ月後に死亡するまで、単語をいくつか発することができただけだった。「ここ・ここ(〈vot-vot〉)」と「大会・大会(〈s'ezd-s'ezd〉)。//
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 第8章第一節、終わり。

2388/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 この書に邦訳書はない。試訳のつづき。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道③。
 (14-02)農民たちの小規模農地では市場用のものはほとんど作られず、消費用の物品がなくて食料の余剰は全て国家が持っていくという状況では、彼らの農地はぎりぎりの生存のための生産と村落と国との連結のための役割へと落ち込んだ。
 ボルシェヴィキは農民と取引をする物品をもたず、「穀物のための闘い」で冷厳な実力を行使した。武装部隊を派遣して農民たちの食糧を奪い取り、国じゅうの農民反乱を蹴散らした。
 これは、もう一つの隠れた内戦だった。
 ボルシェヴィキは、注意深く、自分たちの土地布令が神聖化した農民の小規模農地所有制度について口先だけの賛意を示したけれども—これは結局は、白軍との内戦で多数の農民の支持を獲得した理由だった—、ソヴィエトの農業の将来は、国家のために直接に生産する巨大な集団農場とソヴィエト農場—<コルホーズ,kolkhozy>と<ソホーズ,sovkhozy>—だ、と考えていた。
 厄介な農民たち—小所有者たる本能、迷信、伝統への執着をもつ—は、これらの社会主義的農場によって廃棄されるだろう。自分たちのために働く全ての農民は、<コルホーズ>または<ソホーズ>の「労働者」へと再配置されるだろう。
 Miliutin は、穀物、肉、ミルク、飼料を生産する農業工場を夢見ていた。それは、社会主義秩序を小規模農場への経済的な依存から解放するだろう。//
 (15)ここでもまた、ボルシェヴィキは、布令によって社会主義を創出することができるという夢想(utopianism)に囚われていた。
 ロシアの農民たちは元来、用心深かった。
 近代的技術と集団的労働チームによる大規模農場は本当に彼らの利益iなるので父親や祖父が維持してきた伝統—家族農業、共同体と村落—と訣別する十分な理由になる、と農民たちを説得するには、農学上の証拠にもとづく穏やかな教育をして、数十年を要しただろう。
 だが、1919年2月、ボルシェヴィキは、社会主義的土地機構に関する法令を採択した。これは一挙に、全ての農民農業は「旧式だ」と宣告した。
 大地主が所有するが耕作されていない全ての土地は、これによって新しい集団農地に変わった。このことは、大地主の資産は革命の貴重な獲得物だという主張を知っていた農民たちを大いに戸惑わせた。  
 1920年までに、1万6000箇所以上の集団農場および国営農場があり、合計でほとんど数千万エイカーの土地の広さがあり、数百万の被用者(多くは移住した都市住民だった)がそこで働いていた。
 国家が設置した最大の国営農場(<sovkhozy>)は、10万エイカー以上の広さがあった。一方、地方農民の協同組合が設置した多様な集団農場(<kolkhozy>)のうちの最小のものは、50エイカー以下だった。//
 (16)大きな集団農場の多くは、実験的な共産主義的生活様式の縮図だった。
 複数の家族が所有物を提供し合い、宿舎で一緒に生活した。
 女性たちは男性たちと並んで重い農業仕事を行い、ときには子どもたちのために託児所が設置された。
 宗教的慣行は存在しなくなった。
 この本質的には都市的生活様式は、工場での在来の組合組織をモデルにしたもので、地方の農民たちには相当に馴染みのないものだった。彼らは集団農場では土地や用具だけではなく妻や娘たちも共有されている、と考えた。全員が一緒に、巨大な毛布の中で寝ていたのだ。//
 (17)農民たちにとって醜聞ですらあったのは、集団農場のほとんどは農業について何も知らない人々によって運営されている、ということだった。
 国営農場は、大部分は都市部から逃亡した失業労働者で構成された。
 一方、集団農場は、土地を所有しない労働者、地方の職人たち、および、
不運にも飲み過ぎて、あるいはたんなる怠惰で自分の農場をうまく経営できなかった、最も貧しい農民たちで成っていた。
 農民集会では、集団農場の拙劣な運営に関する不満が圧倒的に述べられた。
 タンボフ地方の農民たちは、「彼らは土地を手にしたが、農業の仕方を知らない」と不服を発言した。
 ボルシェヴィキですら、集団農場は「個人の農民たちから投げかけられる批判に耐えることのできない、怠け者の避難場所」になっていていることを、やむなく認めざるを得なかった。
 食料の徴発を免れ、用具や家畜について国家の寛大な譲渡があったにもかかわらず、きわめて僅かの集団農場しか利益を挙げられず、多くの集団農場は損失を計上した。
 全収入のうち集団農場自体が生んだものは3分の1未満で、残りは主に国家が与えていた。
 いくつかの集団農場は、経営状態がひどいために、その農場での労働義務を地方農民に課すという徴用をしなければならなかった。
 農民たちはこれを新しい形態の農奴制と見なし、集団農場に反抗して闘いを挑んだ。
 それらの半分は、1921年の農民戦争により鎮圧された。//
 (18)こうした共産主義の実験に反抗したのは、農民層だけではなかった。
 工業分野でも、軍事化政策は労働者のストライキ、抗議運動、懈怠による消極的抵抗を増加させた。
 紀律を強化すべく意図された政策は、いっそうの不紀律(indiscipline)を生んだだけだった。
 ロシアの全工場の4分の3が、1920年の前半6ヶ月の間に、ストライキに見舞われた。
 逮捕と処刑の脅かしにもかかわらず、全国の都市労働者たちは、抗議しながら行進し、こう呼号した。「人民委員よ、くたばれ!」
 一般にあった感覚は、内戦終結から長く経つが、ボルシェヴィキは労働者階級に対する戦争類似の政策を維持している、というものだった。
 まるで全産業システムが永遠の国家緊急事態の罠に嵌まったかのごとくだった。平時ですら戦時体制にあり、この状態が労働者階級を搾取し、弾圧するために用いられていた。//
 (19)トロツキーの政策は、党内でも、党員各層からの反対に遭遇していた。
 トロツキーは、鉄道の混乱の原因だとして非難する鉄道労働組合を破壊して、国家機構に従属する総運送労働組合(Tsektran)に変えようとした。その高圧的なやり方は、ボルシェヴィキの労働組合指導者たちを激怒させた。彼らは、トロツキーの政策は労働組合の自立の全権利を剥奪する作戦の一環だと見た。
 労働組合の役割に関する論争が、1919年の初めから巻き起こった。
 その年の党の基本方針は、労働組合は直接に産業経済を管理すべきであるという理想を設定した。—しかしこれは、労働者階級がそのための教育を受けていてのみ可能だった。従って、そのときまでは、労働組合の役割は仕事場での労働者の教育と紀律に制限されるべきだ、との見解があった。
 独任者による経営への趨勢が継続するにつれて、多数派へと増加していた労働組合指導者たちは、労働組合による直接の経営という約束は遠い将来へと先延ばしされるのではないかと懸念するようになった。
 彼らは、1920年1月の第3回労働組合大会で、独任制経営の原理を課そうとする党指導者たちの努力を何とか打ち負かした。
 同年4月の第9回党大会で、彼らは党指導部と妥協して、その原理を受け容れる代わりに、経営者の一部として自分たちを任用するよう提案した。//
 (20)—労働組合と党・国家の間の—微妙な均衡は、1920年夏にトロツキーが提示した、運送労働組合を国家官僚機構の一端とするという案によって、ひっくり返った。
 労働組合の自治という原理全体が、今や危うくなっていた。
 労働組合指導者たちだけがトロツキーに反対したのではなかった。
 党の指導層自体の多くが、労働組合側を支持した。
 トロツキーの個人的対抗者のジノヴィエフは、「労働者を整列させる警察的やり方」だとトロツキーの案を非難した。
 Shlianikov は、1月にKollontaiが加わったが、労働組合の権利を防衛するためにいわゆる労働者反対派を結成した。そして、より一般的に言えば、労働者階級の「自発的な自己創造性」を抑圧すると彼らが言う「官僚主義」の蔓延に抵抗した。
 労働者反対派への労働組合、とくに金属労働者、の支持は拡大した。労働組合の間には、階級的連帯の感情—労働者による統制という理想と「ブルジョア専門家」に対する嫌悪の両者で表現されていた—が、最も強く根づいていた。
 彼らは、工場管理者や官僚層に対する嫌悪の声をますます大きくし、それらは「新しい支配階級」、「新しいブルジョアジー」だと非難した。
 こうした感情の多くは、党の別の主要な反対派、すなわち民主主義的中央派によっても表明された。
 ほとんどは知識人のボルシェヴィキであるこのグループは、党の官僚主義的中央主義と、直接に労働者が支配する機関としてのソヴェトの解体に、反対していた。
 彼らの基盤が最も強かったモスクワのより急進的な党員の中には、地方行政での<グラスノスチ、glasnost>、公開性を促進するために、地区の党執行部を党員各層一般に開放すらする者もいた。
 この者たちが、最初にこの言葉〔glasnost〕を用いた。//
 (21)これら二つの異論派的論議—労働組合と党・国家に関する—は、1920年の秋の間に一般的な危機へと融合し、かつ発展していった。
 9月の臨時党大会で、二つの反対党派は結びついて、民主主義と<glasnost>の促進を意図する一連の決議を通過させた。すなわち、全ての党会合は党員各層に公開されるものとする。下級党機関は上級機関の官僚の任用につきより多くのことを発言できるものとする。上級機関は党員各層に対する説明責任を負うものとする。
 反対党派はこの勝利に勇気づけられて、労働組合をめぐる闘いの準備をした。
 11月の第5回労働組合大会で、トロツキーは、全ての労働組合役員は国家によって任命されると提案することによって、戦いに挑んだ。
 これは、党内に激しい対立を発生させた。トロツキーは、即時の、かつ必要ならば強制的な労働組合の国家機構との融合を強く主張し、反対党派は必死になって、労働組合の自立性のために闘った。
 レーニンは、トロツキーの目標を支持した。しかし、痛手となる体制内部の分裂を回避するために、より高圧的ではない実行手段を擁護した。
 レーニンは警告した。「労働組合問題で党が争論するならば、それは確実にソヴィエト権力に終止符を打つだろう」。
 党中央委員会は、見込みもなく、この問題で分裂した。そして、つづく3ヶ月の間、党のプレス内での対立は激しくなり、各党派は、つぎの3月の第10回党大会で確実に起きるだろう決定的な闘いに備えて、支持をかき集めようとした。(*13)
 政権は明らかに危機に陥っており、国じゅうが反乱の暴動とストライキに巻き込まれていた。そのため、ロシアは、新しい革命の瀬戸際にあった。//
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 ③および第15章第1節、終わり。

2369/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 試訳のつづき。p.801-p.804。一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い④。
 (21)レーニンを除外することは、まさにスターリンが必要としたことだった。
 スターリンは、スパイを通じて、第12回党大会に対するレーニンの秘密の手紙を知っていた。
 自分が生き残って仕事を続けるためには、党大会でそれが読み上げられるのを阻止しなければならなかった。
 3月9日、スターリンは書記長としての自分の権限を使って、党大会を3月半ばから4月半ばへと延期させた。
 トロツキーは、党大会でスターリンが転落すれば最も利益を得る立場にあったけれども、遅らせることに進んで同意した。
 彼は、自分は「実質的にレーニンと合意している」が(つまり、ジョージア問題と党改革について)、「現状を維持するのに賛成」で、政治の「急激な変化」がなされるならぱ「スターリンの排除に反対」だと言って、カーメネフを安心させすらした。 
 トロツキーは、「策略ではない誠実な協力関係があるべきだ」という望みをもって、そう決断していた。
 この「腐った妥協」—まさにレーニンがトロツキーにそうしないよう警告していたもの—の結果は、スターリンが党大会で敗北ではなく勝利を獲得した、ということだつた。
 民族問題や党改革に関するレーニンの覚書は、代議員たちに配布された。そして討議されたが、指導部によって却下された。
 いずれにせよ、代議員たちのほとんどは、他の全問題の中でもとくに党の統一が必要なときに、民主主義について論議して時間を費やす必要はない、というスターリンの見解を支持していた。
 トロツキーを沈黙させ、政治局に対する批判を抑え込む切迫した必要が、それ自体、スターリンが権力へと昇りつめる決定的な要因となった。(*43)
 後継者問題に関するレーニンの覚書は、スターリンは解職されるべきだとの要求も含めて、党大会では読み上げられず、1956年まで隠されたままだった。(+)
 (+原書注記)—遺書の内容は、1924年の第13回党大会の代議員に知らされた。スターリンは退任すると申し出たが、ジノヴィエフの「過ぎ去ったことは過ぎ去ったこと」という提案によって却下された。レーニンとの対立はレーニンは病気で精神状態が完全に健全ではないという含みとともに、個人的衝突として黙過された。最後の覚書のどれ一つとして、スターリンが生きている間はロシアで完全には公表されなかった。1920年代の党のプレスで、断片的には伝えられたけれども。しかし、トロツキーとその支持者たちは、彼らの論評を西側に十分に知らせた(Volkogonov, Stalin, ch. 11)。//
 (22)トロツキーの行動を説明するのは困難だ。
 大勝利を獲得し得た、その権力闘争の決定的瞬間に、彼はどういうわけか自分の敗北を画策した。
 党大会で選出された新しい中央委員会の40名の中で、トロツキーはわずか3名の支持者だけを計算することができた。
 おそらくは、とくにレーニンの脳発作のあとでは、孤立が深まっているのを感じて、トロツキーは、三人組との宥和を試みることに希望を見出すことに決意した。
 彼の回想録は、自分は三人の指導者の陰謀に敗れたという確信で充ちている。
 トロツキーが彼らを拒むのを選べば、本当に現実的な危険が、たしかにあった。
 トロツキーは「分派主義」だと追及されていただろう。—1921年以降では、これは政治的な死刑判決だった。
 しかし、トロツキーには闘う勇気がなかったという意見にも、ある程度の真実はある。
 彼の性格には内面的な弱さが、自分の誇りに由来する弱さがあった。
 敗北するという見込みに直面して、トロツキーは闘わないことを選んだ。
 彼の最も古い友人の一人は、ニューヨークでのチェス遊びの話を語る。
 トロツキーは「明らかに自分の方がチェスが上手いと考えて」、彼を試合に誘った。
 だが、自分が弱くて、負けてしまったと判ると、機嫌が悪くなり、もう一度ゲームをするのを拒んだ。(*44)
 この小さな逸話は、トロツキーの特徴をよく示していた。自分を出し抜くことのできる優位の対抗者に遭遇したとき、彼は、不利な条件を克服しようとして面目を失うよりは、退却して名誉ある孤立をする方を選んだ。
 (23)これはある意味では、トロツキーがつぎに行ったことだった。
 党の最上級機関でスターリンと闘うよりは、指導部の「警察体制」と闘う党内民主主義の旗手のふりをして、ボルシェヴィキの一般党員たる地位を選んだ。
 これは絶望的な賭けだった。—彼の民主主義的な習性はほとんど知られておらず、恐ろしい「分派主義」に陥る危険があった。しかし、絶望的な苦境に立ってもいた。
 トロツキーは10月8日、党中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の全ての民主主義を抑圧していると非難した。/
 「党組織の実際の編成に一般党員が関与することが、いっそう軽視されてきている。
 独特の書記局員心理がこの数年間に形成されてきており、その主要な特質は、基礎的な事実を知りすらしないで、党書記は全てのどんな問題でも決定する能力があるという信念だ。…
 政府と党機構のいずれにも、広範な階層の活動家党員がいる。その者たちは、党に関する自分たちの見解を、少なくとも公然と表明するかたちでは完全に抑制している。まるで、自分たちは党の見解と政策を形成する書記階層の装置にすぎないと見なしているかのごとくだ。
 意見を表明するのを抑制している広範な活動家階層の下には、多数の一般党員がいる。彼らにとっては、全ての決定は呼び出しか命令のかたちで、上から降りてくるのだ。」/
 いわゆる「46年グループ」は、トロツキーを支持した。—最もよく知られているのは、Antonov-Ovseenko、Piatakov、Preobrazhensky だ。
 彼らが主張するところでは、党にある恐怖の雰囲気は、昔からの同志ですら「お互いに気楽に会話するのを怖れる」ようになった、いうものだった。(*43)//
 (24)予想されたように、党指導部は、党内に非合法の「分派」を作り出すことになる危険な「基盤」形成に着手したと、トロツキーを非難した。
 10月19日、政治局は、トロツキーの批判に応答することなく、トロツキーに対する憎悪に満ちた個人攻撃文書を発表した。
 いわく、トロツキーは傲慢で、党の日々の仕事よりも自分自身を優先し、「全てか無か」(つまり「全てを与えよ、さもなくば何も与えない」)の原理でもって行動している。
 トロツキーは4日後に、党中央委員会幹部会に対して、「分派主義」批判への挑戦的な反論書を送った。
 10月26日、彼は、幹部会それ自体に現れた。//
 (25)最近まで、トロツキーはこの重要な会合に出席しなかった、と考えられていた。
 彼の伝記の二人の主要著作者、Deutscher とBroué はともに、風邪で欠席したとしていた。
 しかし、彼は出席しており、かつ実際に、スターリンの秘書でトロツキーの発言を書き写す責任があつたBazhanov は自分の書類簿にその発言書を封じ込めたと、力強く述べた。
 その書類簿は、1990年に発見された。
 トロツキーの発言は、かつて自分が反対した「ボナパルティズム」(Bonapartism)だという言い分を、情熱的に否定していた。
 彼がユダヤ出自の問題を持ち出したのは、この点でだった。
 野心を持たないことを証するために、彼は、反ユダヤ主義の問題があるためにユダヤ人が高い地位に就くのは賢明ではないという理由で、レーニンによる上級職の提示を固辞した二つの事例に論及した。—一つは、1917年10月(内務人民委員)、もう一つは1922年9月(ソヴナルコム副議長)。
 前者の場合は、レーニンが「些細だ」との理由で却下した。
 だが、後者の場合はレーニンは「私と一致した」。(*46)
 トロツキーの示唆の意味は明らかだった。
 党内での彼に対する反対は、—レーニンもこれを認めていたのだが—部分的には、彼がユダヤ人だということに由来している。
 生涯のこの分岐点で、非難されて党の前に立ちつつ、自分のユダヤ出自の問題に戻らなければならかったというのは、彼には悲劇的な時間だった。
 それは、自分をユダヤ人だと感じてこなかった人間にとって、今はいかにも孤独であることを示していた。//
 (26)トロツキーの感情的な発言は、委員たちにほとんど影響を与えなかった。—委員たちの多くは、スターリンが採用していた。
 102票対2票で、幹部会は、「分派主義」を行ったという理由でトロツキー譴責動議を採択した。
 カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーは党から除名されるべきだと強く主張した。
 だが、つねに中庸者として立ち現れたいスターリンは、それは賢明ではないと考え、その提案を却下した。(*47)
 スターリンは、いずれにせよ、急ぐ必要はなかった。
 トロツキーは、有力な一つの勢力として終わった。そして、党からの彼の追放には、まだ月日があった。—最終的には、1927年にその日がやって来た。
 スターリンを阻止する力のある一人の男が、いまや排除された。//
 ——
 ⑤へとつづく。

2362/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.793-5。一文ずつ改行。
 ——
 第16章・死と離別。
 第三節・レーニンの最後の闘い①。
 (1)レーニンの体調が悪い兆候が明らかになったのは1921年で、その頃彼は、頭痛と疲労を訴え始めた。
 医師たちは診断することができなかった。—身体上の衰弱の結果であるとともに、精神的な支障のそれでもあった。
 過去4年間、レーニンは、事実上は休みなく、毎日16時間働いていた。
 本当に休んだ期間だったのは、ケレンスキー政府から逃げていた1917年の夏と、1918年8月のカプランの暗殺未遂からの回復に必要とした数週間だけだった。
 1920-21年の危機は、レーニンの健康に対して多大の負担を課した。
 「レーニンの憤激」による肉体的兆候は、つまりKrupskaya がかつて叙述したような不眠と苛立ち、頭痛と極度の疲労は、労働者反対派や国土全体での反乱との激烈な闘いの間に、レーニンを悩ませつづけた。
 クロンシュタットの反乱者、労働者と農民、メンシェヴィキ、エスエル、聖職者たちは逮捕され、多数の者が射殺され、レーニンの憤激の犠牲となった。
 1921年夏までに、レーニンはもう一度勝利者として立ち現れた。
 だが、彼の精神的な消耗は、誰が見ても明瞭だった。
 記憶の喪失、会話の困難、奇妙な行動が見られた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだあるカプランの二発の銃弾に毒性があったことに原因があると判断した(首の中の一つは1922年春に外科手術により除去された)。
 しかし、 別の医師たちは、脳性麻痺ではないかと疑った。
 この推測の正しさは、1922年5月25日にレーニンが最初の大きな脳発作に見舞われたことで、確認された。それによってレーニンは、右半身が事実上不随になり、しばらくの間は言葉を発せられなかった。
 その死まで世話をすることとなった妹のMaria Ul'ianova によると、兄のレーニンは、今や「自分の全てが終わった」と認識した。
 彼はスターリンに、自殺するために毒をくれ、と頼んだ。
 Krupskaya はスターリンにこう言った。「彼は生きたくない。これ以上生きることはできない」。
 彼女はレーニンにシアン化合物(cyanide)を与えようとしたのだったが、おじけづいた。それで二人で、「情緒の乏しい、しっかりして断固たる人物」であるスターリンに頼むことに決めた。
 スターリンはのちに死の床に同席することになるけれども、レーニンの死を助けるのを拒んだ。そして、政治局会議で、反対の一票を投じた。
 当分の間は、スターリンにとって、レーニンは生きている方が役に立った。//
 (2)レーニンが1922年夏に、Gorki にある国の家で回復している間、彼は自分の後継者問題に関心を寄せた。
 この問題の処理は、苦痛となる仕事に違いなかった。全ての独裁者がそうだろうように、自分自身がもつ権力に激しく執着し、明らかに他の誰も十分には継承できないと考えただろうからだ。
 レーニンが最後に記した文章は全て、自分を継承するのは集団的指導制がよいと考えた、ということを明らかにしている。
 彼はとくに、トロツキーとスターリンの間の個人的な対立を憂慮した。自分がいなくなればこの対立が党を分裂させかねない、ということが分かっていた。そして、両者の均衡をとることで、分裂を予防しようとした。//
 (3)レーニンの目から見ると、両者に長所があった。
 トロツキーは、輝かしい演説者であり、行政官だった。内戦に勝利する上で、彼ほどに力を発揮した者はいなかった。
 しかし、トロツキーの自負と傲慢さによって—過去にメンシェヴィキだった経歴やユダヤ人的な知的な風貌はもちろんのこと—、党内では人気がなかった(軍隊と労働者反対派の両方ともに、大部分は彼に個人的に反対だった)。
 トロツキーは、生来の「同志」ではなかった。
 彼はつねに、集団的指揮の場合の大佐であるよりも、自分の軍の将軍でありたかっただろう。
 党員各層内で彼を「外部者」たる地位の置いたのは、まさにこの点だった。
 トロツキーは、政治局の一員だったけれども、党の職位にあったことがなかった。
 彼は、稀にしか党の会合に出席しなかった。
 レーニンのトロツキーに対する気持ちを、Maria Ul'ianova はこう要約した。
 「彼はトロツキーに共感していなかった。—あまりに個性的すぎて、彼と集団的に仕事するのをきわめて困難にしている。
 しかし、彼は勤勉な働き手であり、才幹のある人物だ。V.I.〔レーニン〕にはそれが主要なことだったので、彼を候補に残そうとしつづけた。
 それが意味あることだったか否かは、別問題だ。」(*31)//
 (4)スターリンは、対照的に、最初は集団的指導制という必要性にははるかに適任であるように見えた。
 彼は内戦中は他の誰も望まない莫大な数の指令的業務をこなしていたので—彼は民族問題の人民委員、Rabkrin〔行政管理検査院〕の人民委員、革命軍事評議会の一員だった—、その結果として、すみやかに穏健で勤勉な中庸層の評価をかち得た。
 Sukhanov は1917年に、彼を「灰色でぼやりした」と描写した。
 全ての党指導層の者が、スターリンの潜在的な力とその力を行使したいという野心を、過少に評価するという間違いを冒した。そうした後援の結果として、彼は徐々に多くの地位を獲得するに至った。
 レーニンは、他の者たちとともに、スターリンの選抜について責任があった。
 なぜなら、レーニンは彼ほど不寛容な人物にしては、スターリンの多くの悪業については、党の統一を守るためにはスターリンが必要だと信じて、じつに顕著な寛容さを示したからだ。その悪業の中には、レーニン自身に対する粗暴さの増加もあった。
 このような理由で、スターリン自身が要求し、かつ明らかにカーメネフの支持を受けて、レーニンは1922年4月に、スターリンを初代の党総書記〔書記長〕に任命することに同意した。
 これはきわめて重大な指名だったと、のちに判ることになる。—まさにこれが、スターリンが権力を握るのを可能にした。
 だが、レーニンはこのことに気づくに至り、スターリンをその職から排除しようとした。しかし、そのときはもう遅すぎた。(*32)//
 (5)スターリンの権力の増大の鍵は、地方の党機構を彼が統御したことにあった。
 書記局の長および組織局での唯一の政治局員として、友人たちを昇進させ、対抗者たちを解任することができた。
 1922年だけの期間に、組織局と書記局によって1万人の地方官僚が任用された。これらのほとんどは、スターリンの推薦にもとづくものだった。
 この彼らは、1922-23年のトロツキーとの間の権力闘争の際に、スターリンの主要な支持者となる。
 スターリン自身と同様に、彼らの多くはきわめて貧しい出身基盤をもち、正規の教育をほとんど受けていなかった。
 彼らは、トロツキーのような知識人に不信を抱き、スターリンの知恵を信頼する方を選んだ。スターリンは、イデオロギーが問題であったときに、プロレタリアの団結とボルシェヴィキの紀律を単純に訴えかけたのだつた。//
 (6)レーニンは、モスクワによる「任用主義」によるスターリンの権力増大を、地方での反対派(例えば労働者反対派は1923年までウクライナとSamara に残っていた)の形成を抑止するものとして、受け入れた。
 スターリンは、書記長として、潜在的な悶着者を地方の党機構から根こそぎ排除することに多くの時間を使った。
 チェカ(1922年にGPUと改称)から毎月、地方の指導者たちの活動に関する報告書を受け取った。
 スターリンの個人的秘書のBoris Bazhanov は、パイプを吹かせながらクレムリンの広い仕事場を行ったり来たりする彼の癖を思い出す。スターリンはそして、あれこれの党書記を除外し、その者をあれこれの別の者に交替させよと、ぶっきらぼうに指示したものだった。
 政治局員を含めて、1922年の末までにスターリンの監視の下に置かれなかった党指導者はほとんど存在しなかった。
 レーニン主義正統を遵守するという外装をとりつつ、スターリンはこうして、自分の対抗者全員に関する情報を収集することができた。その中には、彼らが秘密のままにしておきたいだろう多くの事があり、スターリンはそれを自分に対する忠誠さを確保するために利用することができた。(*33)//
 (7)レーニンが脳発作から回復している間、ロシアは三頭制(triumvirate)で統治されていた—スターリン、カーメネフおよびジノヴィエフ。これは、1922年の夏の間に、反トロツキー連合として出現した。
 この三人は党の会合の前に集まって自分たちの戦略に合意し、票決の仕方を支持者たちに指令した。
 カーメネフは長い間、スターリンを好んでいた。二人は一緒にシベリアへの流刑に遭っていた。また、レーニンが十月のクー反対を理由としてカーメネフを党から追い出そうとしたとき、スターリンは彼の防御へと回った。
 カーメネフは党を指導したいとの野心があり、そのことで、より重大な脅威だと彼は見なしたトロツキーに対抗するスターリンの側に立つようになつた。
 トロツキーはカーメネフの義兄だったので、これは、親族よりも党派を優先することを意味した。
 ジノヴィエフについて言うと、彼はスターリンをほとんど好んではいなかった。
 しかし、トロツキーに対する嫌悪が大変なものだったので、敵を打倒するのに役立つかぎりで、悪魔と手を組んだのだろう。
 二人は、党の主導権の獲得に近づくために、凡庸な人間だと見なしたスターリンを利用していると思っていた。
 しかし、スターリンが彼らを利用していた。そして、いったんトロツキーを打倒すると、彼はこの二人の破滅に乗り出すことになる。//
 ——
 ②へつづく。

2339/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑧。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.784-5。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑧。
 (21)ロシアの偉大な二人の詩人、Alexander Blok とNikolai Gumilev が死んだことは、Gorky にとって最後のとどめになった。
 Blok は、1920年にリューマチ熱に襲われた。それは、暖房のない居所と飢えの中で内戦を経験した結果だった。
 しかし、彼の本当の苦悩は、革命の結果についての絶望と幻滅だった。
 彼は最初は、腐敗した旧ヨーロッパ世界を浄化するものとして、革命のもつ破壊的暴力を歓迎した。腐った旧世界から、新しく純粋なアジア的世界—the Scythians—が出現するだろう、と。
 彼の1918年の叙事詩<十二>は、旧世界を壊して新世界を創ろうと、前の見えない吹雪をくぐり抜けて「革命と足並みをそろえて」行進する12人の赤衛隊員を描写していた。
 先頭には、白薔薇で縁取られた赤旗を掲げ、雪上を軽やかに歩む、イエス・キリストがいた。
 Blok はのちにこう記した。この劇的な詩を作っている間、「私は大きな物音を周りに聞きつづけた。—文字通り、私の耳で聞いたことを意味する。多数の音からなる物音をだ(たぶん旧世界が粉々に崩れていく物音だった)」。
 Blok はしばらくの間は、ボルシェヴィキのメシア的性格を信じつづけた。
 しかし、1921年までには、幻滅するに至った。
 三年間、詩作をしなかった。
 親友であるGorky は、彼を「迷子」に喩えた。
 Blok は、Gorky に死に関する質問をして閉口させ、「人間の叡智への信頼」を全て捨て去った、と言った。
 Kornei Chukovsky は、1921年5月の詩作朗読会でのBlok の様子を、こう思い出す。
 「私は彼と一緒に、舞台裏に座っていた。
 舞台上で『弁士』か誰かが…聴衆に向かって、陽気に叫んだ、詩人としてのBlok はもう死んでいる、と。…
 彼は私に寄りかかって、言った。『本当だ。彼は真実を語っている。私は死んでいる』」。 
 Chukovsky が、なぜあれから詩を書かなかったのかと訊ねたとき、彼はこう答えた。「全ての音が止まった。きみは、もはやどんな音もないことを知らないのか?」
 その月に、Blok は死の床に就いた。
 彼の医師は、外国に運んで特別の療養所に入れる必要があると強く主張した。
 5月29日にGorky は、彼に代わってLunacharsky に手紙を書いた。
 「Blok は、ロシアの現存する最も優れた詩人だ。
 彼が外国に行くのをきみが禁止するならば、彼は死ぬ。そして、きみとその仲間たちには、彼の死についての責任があるだろう。」
 数週の間、Gorky は、旅券の発行を懇願しつづけた。
 Lunacharsky は同意して、7月11日に、党中央委員会に書き送った。
 しかし、何もなされなかった。
 そしてようやく8月10日に、旅券が下りた。
 一日遅かった。一夜前に、詩人は死んでいた。(*18)//
 (22)Blok が絶望と遺棄によって死んだとすれば、わずか2週間後のGumilev の死の原因は、はるかに分かりやすいものだった。 
 Gumilev はペトログラード・チェカに逮捕され、数日間拘禁され、そして、審判なくして射殺された。
 彼は、君主主義者の陰謀に加担したとして訴追されていた。—彼は情緒的には君主主義だったけれども、ほとんど確実に虚偽の嫌疑。
 Blok の葬儀の際に形成された知識人の一委員会は、彼の釈放を訴えた。
 科学アカデミーは、審判法廷に彼が出頭するのを保証すると申し出た。
 Gorky は間に入って、レーニンと会いにモスクワへと急いで行くよう求められた。
 しかし、釈放せよとの命令書を持ってGorky がペテログラードに帰る前に、Gumilev はすでに射殺されていた。
 Gorky は動転して、せきをして吐血した。
 Zamyatin は、「Gumilev が射殺された夜ほどに怒って」いた彼を見たことがなかった、と語った。(*19)//
 (23)Gumilev は、ボルシェヴィキによって処刑された最初の著名なロシアの詩人となった。
 彼とBlok の二人の死は、Gorky にとって、そして知識人層全体にとって、革命の死を象徴していた。
 数百の人々が—Zamyatin の言葉では「ペテログラードの著作界に残っていた全員」が—、Blok の葬儀に参列した。
 そのとき少女にすぎなかったNina Berberowa は、思い出す。Blok の死が伝えられたとき、「一度も経験したことがなかった、自分が突如として明瞭に孤児になった、…最後がやって来た、喪失した」という感情に襲われた、と。
 Gumilev の最初の妻だったAnna Akhmatova は、Blok の葬儀の際に、詩人のためばかりではなく、一つの時代の理想のために、同じように死を悼んだ。
 「銀色の棺に入れて、彼を運ぶ。
  Alexander、われわれの純真な白鳥よ。
  私たちの太陽が、苦悩のうちに消え失せた。」(*20)/
 二ヶ月のち、自分の病気に苦しみながら、Gorky はロシアを去った。見たところでは、永遠に。//
 ——
 第一節⑧、そして第一節全体が終わり。

2338/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑦。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.782-4。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑦。
 (18)Nina Berberova によると、Gorky がヨーロッパに来たのは、ロシアで起きたことに怒ったのが原因ではなく、彼がロシアで見て体験したことで深く動揺したからだった。
 彼女は、夫である詩人のKhodasevichとGorky が交わした会話を、こう思い出す。
 「二人は1920年(の異なるとき)に、子どもたちの家へ、たぶん十代前半者用の矯正施設へ行った。
 ほとんんどが12歳から15歳の少女で、梅毒に感染しており、自分の家がなかった。
 10人のうち9人は窃盗者で、半分は妊娠していた。 
 Khodasevich は、…憐憫と嫌悪をもって思い出していた。ぼろ布とシラミの少女たちが自分にまとわりつき、階段で自分の服を脱がそうとし、彼女たちの破れたスカートを頭の上にまでまくり上げて、自分に向かって卑猥な言葉を叫んだ、と。
 彼はやっとのことで、彼女たちから引き離れた。
 Gorky も類似の体験をしていた。彼がそれを語り始めたとき、恐怖が彼の顔に現れ、彼は顎をしっかりと握って、突然に黙り込んだ。
 その施設の訪問が彼に衝撃を与えたことは明瞭だった。—おそらく、その前に受けていた浮浪児の印象以上のもので、彼の初期の作品が主題を得ていた奥深い所での恐怖だった。
 おそらくいまヨーロッパで、彼はそれを受け入れるのを怖れている心の傷を、ある程度は癒している。…彼は自分に訊ねている、自分自身だけに。すなわち、意味があったのか?」/
 Gorky は、自分自身が革命の孤児だった。
 革命への彼の希望の全ては—自分が立場を明確にしていた希望は—、この4年間に捨て去られた。
 建設的な文化の力が生まれるのではなく、革命は、ロシアの文明全体を事実上破壊した。
 人間を自由にしたのではなく、革命は人間の隷従化をもたらしたにすぎなかった。
 人間を精神的に改革したのではなく、革命は精神的な退廃を生み出した。
 Gorky は、深く幻滅するようになった。
 彼は1921年に、自分について「厭世的だ」と叙述した。
 彼は、レーニンのロシアの現実と、自分の人間中心主義的で民主主義的な社会主義とを調和させることができなかった。
 善をなし、改良していくという望みをもって、体制のしくじりに「聴こえない耳を向ける」ということは、もはやできなかった。
 彼の努力は全て、無に帰した。
 自分の理想がロシアで捨て去られたとすれば、彼に残されたのは、ロシアを捨て去ること以外になかった。(*15)//
 (19)ロシアを出て国外に移住しようとGorky が決心する前には、山のようなボルシェヴィキとの対立があった。
 過去4年間の愚かなテロル、知識人の破壊、メンシェヴィキとエスエルに対する迫害、クロンシュタット反乱の粉砕、飢饉に対するボルシェヴィキの冷酷な態度。—これら全てが、Gorky を新体制に対する痛烈な敵に変えた。
 Gorky の憤怒の多くは、自分が住むペテログラードの党指導者であるジノヴィエフに向けられた。
 ジノヴィエフはGorky を好まず、彼の住まいを「反革命の巣」と見ていた。そして、彼を継続的な監視のもとに置いた。Gorky の手紙類は開封され、彼の家は絶えず捜索された。また、彼の親しい友人たちは逮捕すると脅かされた。
 赤色テロルの時期のGorky の最も激しい怒りの手紙は、ジノヴィエフに宛てられていた。
 彼はその一つで、ジノヴィエフが絶えず逮捕していることで、「人々はソヴィエト権力のみならず、—とくに—個人としてのきみを憎悪するようになってきた」、と主張した。
 だが、ジノヴィエフの背後にはレーニン自身が立っていることが、すみやかに明瞭になった。
 ボルシェヴィキ指導者は、Gorky の非難に関して手厳しかった。
 1919年7月の脅迫的手紙で、彼〔レーニン〕は、こう書いた。「作家の『精神状態』の全体が、ペトログラードで彼を『取り囲んでいる』『敵愾心をもつブルジョア知識人たち』によって『完全な病気』になっている」。
 レーニンはこう威嚇した。「私の助言をきみに押しつけたくはない。だが、きみの環境を、きみの周り、きみの住まい、きみの職業を、すみやかに変えよ、さもないと人生はきみを永遠に失望させるだろう、と言わざるをえない」。(*16)//
 (20)Gorky のレーニンに対する幻滅は、1920年の間に深さを増した。
 ボルシェヴィキ指導者はGorky の出版所の<世界文学>編集の独立性に反対し、財政的支援を打ち切ると脅かした。
 Gorky は、Lunacharsky に激しく抗議した。
 彼は正しく、レーニンは全ての出版を国家の統制のもとに置こうとしているのではないかと疑っていた。—彼がひどく嫌悪したこと。そして、進行中の企画を続ける唯一の方法は外国で編集を行うことだと主張(または威嚇)した。
 しかし、容赦ないレーニンの監視が続いて、人民委員〔Lunacharsky〕はほとんど何もすることができなかった。
 Gorky の戯曲<Don Quixote>で、Lunacharskyは、彼自身(Don Baltazar)、Gorky(Don Quixote)とレーニン(Don Rodrigo)の間の三人の確執関係を演じた。
 これには、Don Baltazar のDon Quixote に対する別れの言葉がある。
 Gorky とレーニンの間の衝突を要約してもいる。—革命の理想と残酷な「必然性」との間の衝突。/
 「背後にある陰謀を打ち破っていなければ、我々は軍を破滅させていただろう。
 おお、ドン・キホーテよ!! おまえの罪を重くするのを望んでいない。だがここで、おまえは致命的な役割を果たした。
 つぎのことを隠そうとは思わない。容赦なきRodrigo の脳裡に、でしゃばって出てきて、厳格かつ複雑で責任で充ち溢れた生活の中に人類愛を持ち込む全てのお人好しに対する教訓として、おまえの上に威嚇の法の手を振りおろす、という考えが浮かんだのだ。」(*17)//
 ——
 ⑧へとつづく。

2247/R・パイプス・ロシア革命第13章第12節~第14節(1990年)。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。最適な訳出だと主張してはいない。一語・一文に1時間もかけるわけにはいかない。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第12節・ロシアがドイツの提示条件で降伏。
 (1)ドイツがボルシェヴィキとの交渉で風を得たのはフランスによってだったのか、それともたんなる偶然だったのか、ドイツがもどかしく待っていた回答が届いたのは、ボルシェヴィキの中央委員会とソヴナルコムが連合諸国の助けを求めると票決した、まさにその朝だった。(66)
 それはレーニンの最悪の怖れを確認するものだった。
 ベルリンは今では、戦争の推移の中でドイツ軍が掌握した領域だけではなく、ブレスト交渉が決裂した後の週に占拠した領域をも要求した。
 ロシアは動員解除するとともに、ウクライナとフィンランドを明け渡さなければならないものとされた。また、負担金を支払い、多様な経済的譲歩をするものとされた。
 通告書には、48時間以内での回答を要求する最後通牒の語句があり、その後で条約の調印には最長で72時間が許容されるとされていた。//
 (2)つぎの二日間、ボルシェヴィキ指導部は事実上は連続した会合をもった。
 レーニンは、何度も少数派であることを感じた。
 彼はついには、党と国家の全ての役職を辞任すると脅かすことで、何とか説き伏せた。//
 (3)ドイツの通告書を読むや否や、レーニンは中央委員会を招集した。
 15人の委員が現れた。(67)
 レーニンは言った。ドイツの最後通告書は無条件に受諾されなければならない。「革命的な言葉遊び(phrasemongering)は、もう終わりだ」。
 主要な事柄は、ドイツは屈辱的なことを要求しているが、「ソヴィエトの権威に影響を与えない」-すなわち、ボルシェヴィキが権力にとどまることをドイツは許容している、ということだ。
 かりに同僚たちが非現実的な行動方針に固執するならば、彼らは自分たちでそうしなければならないだろう、なぜなら、レーニンは政府からも中央委員会からも去ってしまっているだろうから。//
 (4)レーニンはそして、賢明に選択した言葉遣いで、三つの決定案を提示した。
 ①最新のドイツの最後通牒が受諾される、②ロシアは革命戦争を中止すべく即時の準備を行う、③モスクワ、ペトログラードおよび他都市の各ソヴェトは、それぞれの自らの事態に関する見方でもって票決を確認する。
 (5)辞任するとのレーニンの脅かしは、効いた。レーニンがいなければボルシェヴィキ党もソヴナルコムも存在しないだろうと、誰もが認識した。
 最初のかつ重大な決定では、レーニンは多数派を獲得しなかった。だがそれは4委員が棄権したからで、動議が7対4で採択された。
 二度めと三度めの決定では、問題がなかった。
 投票が終わると、ブハーリンと他の3人の左翼共産主義者は、党の内部や外部にある条約反対派を自由に煽動するために党と政府の全ての「責任ある役職」を辞任するという動議をもう一度経験した。//
 (6)ドイツの最後通告を受諾する決定にはまだ〔全国ソヴェトの〕中央執行委員会(=CEC)の同意が必要だったけれども、レーニンはその結果に十分に自信があり、ツァールスコエ・セロにいる無線連絡の操作者に対して、ドイツに対する連絡のために一チャンネルを空けておくよう指令した。//
 (7)その夜レーニンは、CEC で状況報告を行った。(68)
 その後の票決で、ドイツの最後通牒を受諾する決議案について技巧的な勝利を得た。それはしかし、反対するボルシェヴィキの議員たちは退出し、その他の多数の反対議員は棄権したからだった。
 最終票数は、レーニン案に賛成116、反対85、棄権26だった。
 この満足にはほど遠い、しかし形式的には拘束力をもつ結果にもとづいて、レーニンは、午前中の早い時間に、〔全国ソヴェト〕中央執行委員会の名前で、ドイツの最後通告を無条件で受諾する文章を執筆した。
 それはただちに、ドイツへと無線で伝えられた。//
 (8)2月24日朝、中央委員会は、ブレストへ行く代表団を選出した。(69)
 今や、国家と党の役職から辞任する多数の者の氏名が、手渡された。
 すでに外務人民委員を離任していたトロツキーは、他の役職も同様に辞した。
 彼はフランスとイギリスはソヴェト・ロシアとの協力に気を配ってくれ、ロシアの領土への意図をもっていなかった、という理由で、これら両国と緊密な関係をもつことを支持した。
 何人かの左翼共産主義者たちは、ブハーリンに倣って、辞職願いを提出した。
 彼らは、公開書簡で、動機を明確に述べた。
 彼らは、こう書く。ドイツへの降伏は、外国の革命的勢力に対する重大な打撃であり、ロシア革命を孤立させる。
 さらに、ロシアがドイツ資本主義と行うよう要求されている譲歩は、ロシアの社会主義にとって災難的な影響を与えるだろう。すなわち、「プロレタリアートの立場の外部的な屈服は不可避的に、内部的な屈服の道を切り拓く」。
 ボルシェヴィキは、中央諸国に降伏してはならず、また、連合諸国と協力してもならない。そうではなく、「国際的な規模での内戦を開始」しなければならない。(70)//
 (9)欲しいものを得たレーニンは、トロツキーと左翼共産主義者たちに、ソヴィエト代表団がブレストから戻るまでは辞任という行動をとらないように懇願した。
 最近の苦しい日々のあいだ、レーニンは顕著な指導性を発揮し、支持者たちに甘言を言ったり説得したりしながら、忍耐力も、決定力も、失わなかった。
 彼の生涯の中で、おそらく最も苛酷な政治闘争だった。//
 (10)恥辱的な<命令文書(Diktat)>に署名するために、誰がプレストへ行こうとするだろうか?
 誰も、その名前を、ロシアの歴史上最も屈辱的な条約に関係して残したくなかった。
 ヨッフェは、にべもなく拒んだ。一方、辞職していたトロツキーは、舞台から身を引いた。
 古いボルシェヴィキで一時は<プラウダ>編集長だったG・Ia・ソコルニコフは、ジノヴィエフを指名した。それに応えてジノヴィエフは、ココルニコフを逆指名して返礼した。(71)
 ソコルニコフは、指名されれば中央委員会を去ると、反応した。
 しかしながら、結局は、ソコルニコフが、ロシアの講和代表団の長を受諾するように説得された。この代表団の中には、L・M・ペトロフスキ(Petrovskii)、G・V・チチェリン(Chicherin)、L・M・カラハン(Karakhan)がいた。
 代表団は、2月24日にブレストに向けて出発した。//
 (11)ドイツに降伏するという決定に対していかに反対が強かったかは、レーニン自身の党内ですら、ボルシェヴィキ党のモスクワ地域事務局が2月24日にブレスト条約を拒み、全員一致で中央委員会を不信任する票決を通過させた、という事実で示されている。(72)
 (12)ロシアが降伏したにもかかわらず、ドイツ軍は前進をし続けて、司令官が引いていた限界線まで進み、その線を両国の永続的な国境にしようと意図した。
 2月24日、ドイツ軍はDorpat(Iurev)〔エストニア〕とプスコフを占拠し、ロシアの首都から約250キロメートル離れた場所に陣取った。
 翌日に彼らは、Revel〔ラトヴィア〕 とボリソフ(Borisov〔ベラルーシ〕)を掌握した。
 彼らは、ロシア代表団がブレストに到着した後でも前進し続けた。すなわち、2月28日、オーストリア軍はベルディチェフ(Berdichev〔ウクライナ〕)を奪取し、ドイツ軍は3月1日にホメリ(Gomel〔ベラルーシ〕)を占拠した後、チェルニヒウ(Chernigov〔ウクライナ〕)とモギレフ(Mogilev)を奪いに向かった。
 3月2日、ドイツの戦闘機は、ペトログラードに爆弾を落とした。//
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 (66) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.341-3.
 (67) Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)(Moscow, 1958), p.211-8.
 (68) Lenin, PSS, XXXV, p.376-380.
 (69) Protokoly TsK, p.219-p.228.
 (70) Lenin, Sochineniia, XXII, p.558.
 (71) Lenin, PSS, XXXV, p.385-6.
 (72) 同上, p.399.
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 第13節・ソヴィエト政権のモスクワ移転。
 (1)レーニンは、ドイツに対する冒険はしなかった。-彼は3月7日にこう言った。ドイツ軍がペトログラードを占拠する意図をもつことに「微塵の疑いもない」。(73)
 そして彼は、首都をモスクワに避難させることを命令した。
 ニゼール将軍によると、物資のペトログラードからの移転は、フランスの軍事使節が手配した専門家の助けで行われた。(74)
 移転の趣旨で発せられた公式の布令がないままに、3月初めに人民委員部はかつての首都への移転を開始した。
 <Novaia zhizn'>で「逃亡(Flight)」と題された記事は、パニックにとらわれたペトログラード、市民たちが鉄道駅に殺到していること、そして彼らがもしも鉄道に乗り込めなければ車または徒歩で逃亡しようとしていることを描写した。
 ペトログラード市は、やがて静寂に変わった。電力も、燃料も、医療サービスもなかった。学校や交通は機能するのを止めた。
 射殺やリンチ攻撃が、日常の出来事になった。(75)//
 (2)ペトログラードの露出した状態やドイツの意図の不確定性を考えると、共産主義国家の首都をモスクワに移転させる決定は、理にかなっていた。
 しかし、臨時政府が半年前に同じ理由でペトログラードから避難することを考えたとき、同じボルシェヴィキこそがその考えは裏切りだと最も激烈に非難した、ということを、完全に忘れることはできない。//
 (3)移転は、多大の安全確保に関する準備のもとで実行された。
 党と国家の官僚たちが先ずは移るものとされた。中央委員会の委員たち、ボルシェヴィキの労働組合官僚、および共産党系新聞の編集者たちを含む。
 彼らは、モスクワでは、没収した私的所有物(建築物)の中に入った。
 (4)レーニンは、3月10-11日の夜に、こっそりとペトログラードを出た。同行したのは、妻と秘書のボンチ=ブリュエヴィチだった。(76)
 この旅は、最高の秘密として計画された。
 一同は特別列車で、ラトヴィア人に警護されながら旅行をした。
 翌朝の早い時間に、逃亡者たちの意図不明の荷物を積んだ列車に衝突して、停車した。停止中にボンチ=ブリュエヴィチは、彼らの武装を解除させて、準備した。
 列車は進み続け、夕方遅くにモスクワに到着した。
 この旅については、誰も語られなかった。自称世界のプロレタリアートの指導者は、妹だけに迎えられて、どのツァーリもかつてしなかったやり方で、首都にこっそりと入ったのだ。//
 (5)レーニンはその住居を、仕事場とともにクレムリンに構えた。
 そこが、15世紀にイタリアの建築家によって建設された要塞の、石壁と重たい門の内部が、ボルシェヴィキ政府の新しい所在地となった。
 人民委員たちも家族とともに、やはりクレムリン内部に安全を求めた。
 この要塞の警護はラトヴィア人に委ねられた。彼らは、修道僧のグループも含めて、多数の居住者をクレムリンから追い出した。//
 (6)安全という観点から考え出されたものだったけれども、ロシアの首都をモスクワに移して、自分をクレムリンに落ち着かせるというレーニンの決定は、深い意味をもった。
 それはいわば、かつてのモスクワ公国の伝統を好んだピョートル一世が始めた親西側路線を拒否することの象徴だった。
 「一時的」だと宣言されたにもかかわらず、モスクワの首都化は永続的なものになった。
 首都移転はまた、個人的・人身的な安全を求める、新しい指導者たちの病的な恐怖心も反映していた。
 レーニンらのこの行為を評価するには、イギリスの首相がダウニング通りから転居して、その住居と仕事場を閣僚たちと同様にロンドン塔に移し、そこでシーア派の者たちの警護のもとで政治を行うことを想像してみなければならない。//
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 (73) Lenin, PSS, XXXVI, p.24.
 (74) Niessel, Triomphe, p.229.
 (75) La Piletskii in: NZh, No.38/253(1918年3月9日), p.2.
 V.Stroev, NZh, No.40/255(1918年3月12日), p.1.も見よ。
 (76) Bonch-Bruevich, Pereezd V. I. Lenina v Moskvu(Moscow, 1926).
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 第14節・ブレスト=リトフスク条約の諸条件。
 (1)ロシア人たちは3月1日にブレストに着き、その2日後、議論をいっさいすることなく、ドイツとの条約に署名した。
 (2)条件は、きわめて負担の大きいものだった。
 これを知ると、かりに連合諸国が負けていれば待ち受けていた講和条約がどういうものだったか、が分かるだろう。また、ドイツがヴェルサイユの<命令(Diktat)>に不満をもったのが根拠のないことも示している。ヴェルサイユ講和条約は、多くの点で、ドイツが無力のロシアに押しつけた条約よりは優しいものだったのだから。
 (3)ロシアは、領土に関する大きな譲歩を要求された。ロシアが17世紀半ば以降に征服した土地のほとんどの割譲だった。
 西方、北西そして南西と、ロシアの国境は、モスクワ公国時代のそれまでに縮まった。
 ロシアは、トランス・コーカサスの他に、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、およびリトアニアを放棄しなければならなかった。これらの全てがドイツの保護する主権国家となるか、またはドイツに併合された。
 モスクワはまた、ウクライナを独立の共和国として承認しなければならなかった。(*)
 これらの条項は75万平方キロメートルの国土の譲渡を要求するもので、その広さはドイツ帝国のそれのほとんど2倍だった。ブレスト講和のおかげで、ドイツの規模は3倍になったのだ。(77)
 (4)ロシアがかつてスウェーデンやポーランドから獲得していた、今次の割譲領土は、ロシアの最も豊かで最も人口密度の高い土地だった。
 この地域に、ロシアの住民の26パーセントが生活していた。その住民たちは、都市人口の3分の1以上を含んでいた。
 当時の概算では、この領域で、ロシアの農業収穫物の37パーセントが産出されていた。(78)
 また、この地域に工業企業の28パーセントが立地し、鉄道線路の26パーセント、石炭と鉄の堆積層の4分の3があった。//
 (5)しかし、たいていのロシア人がもっと苛立たしく感じたのは、付属文書に明記された、ドイツにソヴィエト・ロシアでの例外的な地位を認める経済的条項だった。(79)
 ドイツは、経済的利潤を獲得するだけではなくロシア社会主義を窒息死させるためにこれらの権利を利用するつもりだ、と多数のロシア人は考えた。
 理論上はこれらの権利は相互主義的なものだったが、ロシアは自分の取り分を要求できる立場になかった。//
 (6)中央諸国の市民と企業は、ボルシェヴィキが権力掌握後に発布した国有化布令の適用免除を事実上は受けた。ソヴィエト・ロシアで商業、工業および職業的活動を行うことはもとより、動産および不動産を所有することが認められたのだ。
 彼らは、厳しい税金を支払う必要なく、ソヴィエト・ロシアから本国に資産を送ることができた。
 この決まり事は遡及効をもった。すなわち、戦争中に署名国の市民から徴発した不動産、土地や鉱山の使用権は、元の所有者に返還されるものとされた。
 かりに国有化されていれば、元権利者に適正な補償金が支払われることになっていた。
 同じ決まりが、国有化された企業の有価証券保有者にも適用された。
 一つの国から他国への商品の自由な運送のための条項が、設けられた。各国はまた、お互いに最恵国待遇の地位を承認した。
 ロシアの公的および私的債務を否認した1918年1月布令にもかかわらず、ソヴィエト政府は、中央諸国との関係での債務を尊重する義務のあること、それらに付す利息の支払いを再開すること、を承認した。そのための詳細は別の協定で決定されるものとされた。//
 (7)こうした諸条項は、中央諸国に-実質的にはドイツに-、ソヴィエト・ロシアでの前例なき治外法権の特権を付与した。経済的規制を免除し、社会化された経済へと一層進展していたところで私的企業を経営することを認めた。
 ドイツ人は事実上、ロシアの共同経営者になった。
 彼らは私的部門を掌握する立場が与えられ、一方でロシア政府には、国有化された部門の管理が委ねられた。
 ブレスト=リトフスク条約の条件のもとでは、ロシアの工業企業、銀行、証券会社の所有者がその所有物をドイツに売却することが可能だった。この方法で、それらは共産党による統制から免れることができた。
 のちに述べるように、この可能性を封じるために、ボルシェヴィキは1918年6月にソヴィエトの全ての大企業を国営化した。//
 (8)条約の他の箇所では、ロシアは陸海軍の動員解除を明記した。-言い換えれば、国防力をないままにした。また、他の調印諸国の政府、公的機関および軍隊に対する煽動やプロパガンダ活動をやめることを約束した。アフガニスタンとペルシアの主権を尊重することも。//
 (9)ソヴィエト政府がブレスト=リトフスク条約の諸条件を国民に公にしたとき-それは民衆の反応を怖れて数日遅れて行われたのだが-、全ての政治諸階層から、極左から極右までに、憤激が巻き起こった。
 J・ウィーラー=ベネット(John Wheeler-Bennett)によれば、レーニンはヨーロッパで最も貶された(vilified)人物になった。(80)
 初代ソヴィエト・ロシア駐在ドイツ大使のミルバッハ公は、5月に自国外務省に、ロシア人は一人残らず条約を拒否しており、条約をボルシェヴィキ独裁に対してよりすらも憤懣の的だと感じている、とこう通信した。
 「ボルシェヴィキによる支配は飢餓、犯罪、名前のない恐怖のうちでの隠れた処刑でロシアを苦しめているけれども、ブレスト条約を受諾したボルシェヴィキに対しては、どのロシア人も喜んでドイツの助けを求めるふりすらするだろう。」(81)
 かつてどのロシア政府も、これほど広い領土を割譲しなかったし、これほど多くの特権を外国に認めることもなかった。
 ロシアは、「世界のプロレタリアートを売り払った」だけではなかった。ロシアは、ドイツの植民地となる長い道程を歩んでいた。
 ドイツは条約によって与えられた権利をロシアでの自由な起業のために用いるだろうと、-保守派の界隈では喜んで、急進派の界隈では怒りとともに-広く想定されていた。
 こうしてペトログラードでは、3月半ばに、ドイツは三つの国有化された銀行の所有者への復帰とそのあとの迅速な全銀行の非国有化を要求している、との風聞が流布された。
 (10)新国家の国制法(憲法)は、条約は2週間以内にソヴェト大会で批准されることを求めていた。
 それを行うソヴェト大会は、3月14日にモスクワで開催されることが予定として決定された。//
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 (*) この講和条件の履行のために、モスクワは4月半ばにウクライナ政府に対して、相互承認のための交渉を開始することを提案した。種々のウクライナ国内の政治事情のために、交渉はようやく5月23日に始まった。
 1918年6月14日、ソヴェト・ロシア政府とウクライナ政府は暫定的講和条約に署名した。そのあとで最終的な講和交渉を行うことになっていたが、結局それは行われなかった。
 The New York Times, 1918年6月16日付, p.3. 
 (77) Hahlweg, Diktatfrieden, p.51.
 (78) Piletskii in: NZh, No.41/256(1918年3月14日), p.1.
 (79) これらは、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.370-p.430. に資料として収載されていおり、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.269-p.275. で分析されている。
 (80) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.275.
 (81) W. Baumgart in: VZ, XVI, No.2(1968年1月), p.84.
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 第12節・第13節・第14節、終わり。

2218/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動①。
 (1)そして、ボルシェヴィキはなお一層、残忍さに訴えなければならなかった。権力掌握後わずか数カ月だけ経つと、彼らへの支持が浸食されはじめたからだ。
 ボルシェヴィキが民衆の支持に依拠していたのだとすると、臨時政府と同じ途をたどっただろう。
 秋には連隊兵士たちとともに最も強い支持基盤だった工業労働者たちは、たちまちに幻想から醒めるようになった。
 このような雰囲気の変化にはいくつかの理由があったが、主要なものは、食料事情の悪化だった。
 穀物やパンの私的取引を全て禁止した政府は、呆れるほどに安い価額を農民に支払ったので、農民たちは収穫物を貯蔵するか、闇市(black market)で売った。
 政府は都市住民たちに、ぎりぎりの最小限度だけの食糧しか供給できなかった。
 1917-18年の冬、ペトログラードでのパンの配給量は、一日につき4から6オンスの間を行き来した。
 闇市場で1ポンドのパンを買うには3ないし5ルーブルを要したが、それはふつうの民衆の手の届く額ではなかった。
 大量の失業者も生まれたが、それは主としては燃料不足のためだった。
 1918年5月には、ペトログラードの労働人口の12-13パーセントだけが、職に就いていた。(138)
 (2)飢えと寒さから逃れるために、数千人の市民が、縁戚者がいて食料および燃料事情がまだましな地方へと、疎開した。
 ペトログラードの労働人口は、この集団移住が原因で、1918年4月頃には二月革命の直前の57パーセントに低下した。(139)
 地方移住にしないで残った、腹が空いて、寒い、しばしば失業中の人々には、不満が沸き立った。
 このような事態を生んだボルシェヴィキの経済政策に、彼らは怒った。しかしまた、立憲会議の解散、中央諸国との屈辱的な講和条約(1918年3月に署名)、ボルシェヴィキの人民委員たちの生意気な態度、および政府の最上層部以外の全ての官僚たちの醜悪な汚職にも腹を立てた。
 (3)このような展開はボルシェヴィキにとっては危険な兆しで、さらに悪化するならば、これまでは信頼していた軍部も春が近づくにつれてほとんど離れて行きそうだった。
 故郷に帰らなかった兵士たちは、民衆にテロルを加え、ときにはソヴェトの役人たちを襲撃する略奪団を結成した。//
 (4)幻滅気分や堅くボルシェヴィキの手中にある現存諸機構からは救済を得られないという感情の増大によって、ボルシェヴィキとそれが支配している諸機構(ソヴェト、労働組合、工場委員会)から自立した、新しい組織をペトログラードの労働者たちが設立しようとする動きが促進された。
 1918年1月5日/18日-立憲会議が開会した日-、ペトログラードの諸工場の代表者たち、または「幹部会」委員たち(plenipotentiaries)は、目下の情勢を議論するために会合をもった。
 ある者は、労働者の態度の「分裂」を語った。(140)
 「幹部会」委員たちは、定期的に会合を開催し始めた。
 不完全な証拠資料だが、それによると、会合は3月に1回、4月に4回、5月に3回、6月に3回、開かれている。
 記録が存在する(141)、56の工場を代表する委員たちの3月の会合には、強い反ボルシェヴィキの言葉が見られる。
 その会合は、労働者と農民のために統治をすると主張している政府は独裁的権力を行使し、ソヴェトの新しい選挙の実施を拒んでいる、と抗議していた。
 また、ブレスト=リトフスク条約の拒否、ソヴナルコムの解散、および立憲会議の即時召集を呼びかけていた。//
 (5)3月31日、ボルシェヴィキは、チェカに労働者幹部会会議の本部を捜査させ、そこにあった諸文献を押収させた。
 別の状況であれば、おそらく労働者の動揺を刺激するのを怖れて、そのような介入はまだしなかっただろう。//
 (6)都市労働者は自分たちに反対していることを知って、ボルシェヴィキは、ソヴェト選挙の実施を遅らせた。
 いくつかの独立派ソヴェトが無視して選挙を行い、非ボルシェヴィキが多数派を形成したとき、ボルシェヴィキは実力でもってそれを解体させた。
 ソヴェトを用いることができないことは、労働者の欲求不満を醸成した。
 5月初め、多くの者が、自分たちで問題に対処しなければならない、と結論づたけた。
 (7)5月8日、二つの火急の問題を議論すめるために、プティロフ(Putilov)とオブホフ(Obukhov)工場群で、労働者の集会が開かれた。二つとは、食糧と政治だ。
 プティコフでは、1万人以上の労働者たちが、政府を非難した。
 ボルシェヴィキの発言者は反発を受け、諸決議に敗北した。
 その集会は、「社会主義かつ民主主義の勢力の即時の再合同」、パンの自由取引の制限の撤廃、立憲会議の再選出、および秘密投票によるペトログラード・ソヴェトの再選挙を要求した。(142)
 オブホフの労働者たちは、事実上の満場一致で、同様の決議を採択した。(143)//
 (8)翌日、ペトログラード南方の工業都市であるコルピノ(Kolpino)で、労働者の不満に油を注ぐ事件が発生した。
 コルピノへの政府機関による供給の状況は、とくに悪かった。この都市の1万の労働人口のうち300人だけが雇用され、闇市場で食料を買う金をほとんど持っていなかった。
 さらに、食糧配達の遅延によって、女性たちの市域全体の抗議運動が発生した。
 ボルシェヴィキの人民委員はうろたえて、兵団に対して示威行進者に対して発砲するように命じた。
 それによって生じた恐慌状態の中で、のちに判明したのは1人が致命傷で6人が負傷したのだったけれども、多数の者が死んだ、という印象が広がった。(144)
 この時期の標準からすると、とくに異常なことではなかった。
 しかし、ペトログラードの労働者たちが鬱積した怒りの捌け口を見出すのに、大した理由は必要ではなかった。//
 (9)コルピノで起こったことについて使者から知らされたペトログラードの大工場は、稼働を停止した。
 オブホフの労働者たちは、政府を非難し、「人民委員による支配」(komissaroderzhavie)の廃止を要求する決議を採択した。
 ペトログラード(3月に政府はモスクワに移っていた)の長〔ソヴェト議長〕のジノヴィエフが、プティロフに現れた。
 労働者に対して、彼は語った。
 「誤った政策を追求しているとして政府を非難する決議がここで採択された、と聞いた。
 しかし、いつ何時でも、ソヴェト政府を変更することはできない!」
 この言葉を聞いた聴衆に、大きな騒ぎ声が起こった。
 「ウソだ!」
 Izmailov という名のプティロフの労働者が、文明世界全体の目からすればロシアの労働者を馬鹿にしながら、ボルシェヴィキは労働者のために語るふりだけをしていると、非難した。(145)
 軍需工場での集会は、1500対保留2で、立憲会議の再招集を求める動議を可決した。(146)//
 (10)ボルシェヴィキは、背後にいて、なおも慎重さを維持した。
 しかし、このような煽情的な決議が伝搬されるのを阻止すべく、無期限にまたは一時的に、多数の新聞を廃刊させた。そのうちの4つは、モスクワの新聞だった。
 この諸事態を広く報道していたカデットの<Nash vek>は、5月10日から6月16日まで、停刊となった。//
 (11)ボルシェヴィキは7月初めに第五回ソヴェト大会を開催しようと計画していたので(第四回大会はドイツとの講和条約を批准するために3月に開かれていた)、ソヴェト選挙を実施しなければならなかった。
 この選挙は、5月と6月に行われた。
 その結果は、彼らの最悪の予想以上のものだった。
 労働者階級の意思に対する敬意をボルシェヴィキが持っていたならば、彼らは権力を放棄していただろう。
 どの町でも続いて、ボルシェヴィキは、メンシェヴィキと社会革命党に敗れた。
 「選挙があって数字資料のある、欧州ロシアの全ての州都で、メンシェヴィキと社会革命党は、1918年春の都市ソヴェトで多数派を獲得した」。(147)
 モスクワ・ソヴェトの投票では、ボルシェヴィキは、選挙権に関する明白な操作やその他の不正選挙によって、見せかけの過半数を達成した。
 観察者たちは、迫っているペトログラード・ソヴェト選挙でもボルシェヴィキは少数派になり(148)、ジノヴィエフは議長職を失うだろうと、予想した。
 ボルシェヴィキも、悲観的な見通しを持っていたに違いなかった。彼らは、ペトログラード・ソヴェト選挙を可能なかぎり遅くに、6月末に延期したからだ。//
 (12)この驚くばかりの展開は、ボルシェヴィキを拒絶するメンシェヴィキと社会革命党への称賛を大して意味してはいなかった。
 支配党から権力を奪おうとした選挙民たちには、社会主義諸党に投票する以外に選択肢はなかった。社会主義諸党だけが、反対派候補者の擁立が許されていたのだ。
 諸政党全ての中から完全に選択することができていればどういう投票行動になったかは、もちろん確定的に言うことはできない。//
 (13)レーニンが最近に「民主主義の本質的条件」だと叙述していた「リコール」の原理を実行に移す機会が、ボルシェヴィキにやって来ていた。その場合には、ボルシェヴィキ代議員をソヴェトから引き上げて、メンシェヴィキと社会革命党で埋め合わさせることになる。
 しかし、彼らは、結果を操作するのを選択した。つまり、指名委員会を利用して、選挙は違法だと宣言させた。
 (14)労働者の関心を逸らせるために、当局は階級敵を持ち出した。今度は、「田舎のブルジョアジー」に反対するように誘導した。
 5月20日、ソヴナルコムは、「食糧供給派遣隊」(prodovol'stvennye otriady)の設立を命じる布令を発した。その派遣隊は武装労働者で構成され、村落を行進して「クラク〔富農〕」から食料を徴発することとされていた。
 この手段によって(もっと詳細は第16章で述べるだろう)、当局は、食糧不足に対する労働者の怒りを自分たちから農民に転化させるのを望んだ。そして同時に、まだ社会革命党の強い支配のもとにあった田園地帯に地盤を築くことも。//
 (15)ペトログラードの労働者たちは、関心を逸らされることがなかった。
 5月24日、彼らの労働者幹部会は、労働者と農民の間に「深い亀裂」を生じさせる原因になるという理由で、食糧供給派遣隊という考えを拒否した。
 ある発言者たちは、その派遣隊に加わるような労働者はプロレタリアートの隊列から「追放(expell)される」と主張した。(149)//
 (16)5月28日、ペトログラードの労働者たちの昂奮は、さらに最高度にまで大きくなった。プティロフの労働者たちが、国家による収穫物の独占の廃棄、自由な言論の保障、自立した労働組合を結成する権利、そしてソヴェトの再選挙、を要求したときのことだ。
 同様の決議を採択する抗議集会がモスクワや多数の地方都市でつづいた。その中には、トゥラ、ニージニ(Nizhnii)、ノヴゴロード、オレルおよびトヴェリ(Tver)も含まれていた。//
 (17)ジノヴィエフは、経済的な譲歩をすることでこの嵐を沈静化させようとした。
 彼はおそらくはモスクワに対して、ペトログラードへの食糧輸送の追加を要請した。5月30日に、労働者へのパンの配給は8オンスへと引き上げられると発表することができたからだ。
 このような素振りでも、目的を達成することができなかった。
 6月1日、労働者幹部会の会合は、市域全体の政治的ストライキを呼びかける決議を下した。//
 「ペトログラードの工場や工場群の代表者たちから労働大衆の気持ちと要求に関する報告を聞いて、幹部会会議は、労働者の政府だと僭称する政府からの労働者の大量離反が急速に進行していることに、喜びをもって留意する。
 幹部会会議は、政治的ストライキの訴えに従おうとする労働者の意欲を歓迎する。
 幹部会会議は、現在の体制に反対する政治的ストライキを、ペトログラードの労働者が力強く準備することを、呼びかける。現体制は、労働者階級の名のもとで労働者を処刑し、牢獄に投げ込み、言論、プレス、労働組合、およびストライキの自由を圧殺している。また、民衆の代表者機関を絞め殺してきた。
 このストライキは、権力の立憲会議への移行、地方自治諸機関の復活、ロシア共和国の統合と独立のための闘いを、スローガンとするだろう。」(150)
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 (138) Dewar, Labour Policy, p.37.
 (139) A. S. Izgoev in NV, No. 94/118(1918年6月16日), p.1.
 (140) G. Aronson, "Na perelome, " Manuscript, Hoover Instituion, Nikolaevskii Archive, DK 265.89/L2A76 が、これらの事件に関する最良の史料だ。
 (141) Kontinent, No. 2(1975年), p.385-p.419.
 (142) NV, NO. 91/115(1918年5月9日), p.3.
 (143) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (144) NS, NO. 23(1918年5月15日), p.3.
 (145) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (146) 同上。
 (147) Vladimir Brovkin, in PR 1983年, p.47.
 Aronson, "Na perelome, " p.23-p.24. はこの見通しを確認している。
 (148) B. Avilov in NZh, No. 96/311(1918年5月22日), p.1.
 (149) 同上, No. 96/311(1918年5月22日), p.4.
 (150) Otro, 1918年6月3日。"Na perelome, ", p.15-p.16.が引用する。
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 第10節②へとつづく。

2210/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定①。
 (1)嫌がらせと威嚇では、立憲会議に関して何をすべきかという悩ましい問題を解消することはできなかった。
 ある者は、実力行使に訴えることを望んだ。中央委員会委員のV・ヴォロダルスキ(Volodarskii)は立憲会議選挙の一週間前に、こう言った。-「とりわけロシアの民衆は議会病(- cretinism)に罹っていない」。そして彼は、立憲会議は解散されるべきかもしれない、と示唆した。(101)
 ニコライ・ブハーリンは、自分には別の考えがあると思った。
 11月29日、ブハーリンは中央委員会に対して、カデットは立憲会議から除外されるべきだ、そして、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員たちは革命議会(Revolitionary Convention)設立を宣言する、と提案した。その際に参考にしていたのは1792年のフランス議会で、これは立法会議(Legistrative Assemly)に代わるものだった。
 「かりに敵対派たちが開会するならば、逮捕する」、と彼は説明した。
 スターリンは、この提案を、実行不可能だという理由で、軽くあしらった。(102)//
 (2)レーニンには、別の解決策があった。
 立憲会議を招集させて、左翼エスエルを宥める。そして、より従順な機関を獲得すべく、その党員たちを操作する。
 これは「リコール(解職請求)」、「本当(genuine)の民主主義の基本的で最も重要な条件」に訴えることによって、行われることとなる。(103)
 こうすることで、望ましくない代議員を選出した選挙区では、リコールするよう、そしてボルシェヴィキと左翼エスエルに置き代えるよう、催促されることとなる。
 しかし、これは良くても遅い手続であり、これか実行されている間に、立憲会議は、敵対的革命家たちの全ての提案を通過させるだろう。//
 (3)レーニンはこの問題について、12月12日に最終的に決意を固めた。左翼エスエルと協定に達した直後のことだった。
 レーニンの決定は、「立憲会議に関するテーゼ」という表題で、翌日の<Pravda>に掲載された。(104)
 これは、立憲会議に対する死刑判決だった。
 レーニンの議論の要点は、政党構成に生じた変化、とくに社会革命党の分裂、階級構造の転位、および「反革命」の勃発、だった。これら全てが、人民の意志を表明するものとしては選挙を無効のものにしている、とした。//
 「事態の進行と革命における階級戦争の展開は、『全ての権力を立憲会議へ』というスローガンを、…実際にはカデットとカレーディン一派、およびその支援者たちのスローガンに変える、という状況をもたらした。
 このスローガンが実際にはソヴェト権力を除去するための闘争を意味し、また立憲会議がソヴェト権力から分離されたものになれば、立憲会議は不可避的に政治的な死を宣告されることになる、ということが、ますます明瞭になっている。
 立憲会議に関する問題を形式的かつ法的な観点から考察しようとする試みは全て、直接的にであれ間接的にであれ、…プロレタリアートの根本教条に対する裏切りであり、ブルジョアの観点へと移行することを意味する。」<+++>//
 この議論には、理にかなったものは何もなかった。
 立憲会議選挙は10月26日の前にではなく、11月の後半に実施された。-わずか17日前のことだ。12月1日にレーニンが人民の意思の「完璧な」反映だと評価したものを無きにするものは〔12月12日までの〕その間には何も発生していなかった。
 立憲会議の第一の勝利者はカデットではなく、また確実にコサック将軍アレクセイ・カレーディンの支持者たちではなかった。カレーディンは軍事力によってボルシェヴィキ体制を覆そうとしていたが、社会革命党はそうではなかった。
 レーニンがそれを支持して語ろうとする「全人民」は、多数の民衆が投票所に出かけることによって、立憲会議は反ソヴェトだとは考えておらず、希望と期待をもって立憲会議を見つめている、ということを示した。
 そして、立憲会議はソヴェトによる統治に反対するものだとの主張について言えば、権力を掌握するわずか7週間前に、同じボルシェヴィキがソヴェトだけが立憲会議の招集を保証すると強く主張していたことを忘れることができたのは、記憶力がきわめて乏しい者たちだけだっただろう。
 だがここでは、いつものように、レーニンの議論は論定であって説得しようとするものではなかった。この論考の最後の辺りに出てくる鍵となる語句は、立憲会議をこれ以上支持することは裏切りに等しい、というものだ。//
 (4)レーニンはさらにこう書いた。立憲会議は代議員たちが「リコール」に従う場合にのみ-つまり、その構成が政府によって恣意的に変更されることに同意する場合にのみ-、開催されることができる。そして、立憲会議がさらに、無条件で「ソヴェト権力」を-つまり、ボルシェヴィキの独裁を-承認する場合にのみ。
 「これらの条件を度外視するならば、立憲会議に関係している危機は、革命的方法によってしか解決することができない。その革命的方法とは、ソヴェト権力の側による、最も活力があり、急速でかつ堅固な、決定的な方法だ。…。
 ソヴェト権力の手を縛ろうとする全ての試みは、反革命の共謀者であることを意味するだろう。<+++>
 (5)ボルシェヴィキは、このような趣旨の条件のもとで、少なくとも400名の代議員が現れた場合に、立憲会議が1918年1月5日/18日に開催されることに同意した。
 同時にボルシェヴィキは、その3日後(1月8日/21日)に第三回ソヴェト大会を招集するよう、指令を発した。
 (6)ボルシェヴィキは、騒々しいプロパガンダの運動を開始した。その主題について、ジノヴィエフは12月22日のCEC に対する演説で、こう述べた。
 「『全ての権力を立憲会議へ』という有名なスローガンのもとで立憲会議を招集するという口実の裏に、『ソヴェトよ、くたばれ』という重要なスローガンが隠されている、ということを我々は十分に知っている。」(105)
 ボルシェヴィキは、1918年1月3日にCECにこの提議を採択させて、公式のものとした。(106)//
 (7)立憲会議支持者たちは、力を再結集していた。
 彼らは、あらかじめ通告されていた。
 しかし、ボルシェヴィキの脅かしに対抗しようとする際、嘆かわしい、実に致命的な不利な条件(handicap)に置かれていた。
 彼らの目からすると、ボルシェヴィキは民主主義を破壊し、統治する権利を喪失していた。
 しかし、実力の行使によってではなく世論の圧力によって、ボルシェヴィキは排除されなければならなかった。なぜなら、社会主義諸党間の仲間うちの対立で利益を得るのは、ただ「反革命」だろうからだ。
 12月までに、ペトログラードにいる者たちは、ドン地域では将軍たちが兵を集めていることを知った。その目的は革命を転覆させ、全ての社会主義者を逮捕して、おそらくはリンチを加えることに他ならなかっただろう。
 これは彼ら社会主義者にとっては、ボルシェヴィキを選ぶよりもはるかに悪いことだった。ボルシェヴィキは純粋で、見当違いでなければ、革命家だった。確かに、衝動的すぎで、権力を欲しがりすぎで、乱暴でありすぎた。しかし、同じ方向への努力をする点では依然として「同志」だった。
 また、ボルシェヴィキには大衆の支持があることを無視できなかった。
 民主主義的左翼は、当時およびその後10年間、ボルシェヴィキは遅かれ早かれ、独りではロシアを統治できないことに気づくだろう、と確信していた。
 このことに彼らがいったん気づいて社会主義者たちと権力を共有するよう誘うならば、ロシアは再び民主主義に向かう進歩を取り戻すだろう。
 このような政治的成熟には時間がかかるだろう。しかし、そうなるに違いない。
 ボルシェヴィキに対する抵抗は、このような理由で、平和的なプロパガンダや煽動行為に限定されなければならなかった。
 ボルシェヴィキがおそらくは本当の反革命家たちになる可能性を想定したのは、主として旧世代の、数人の左翼知識人たちだけだった。
 社会革命党とメンシェヴィキの指導者たちは、ボルシェヴィキは隊列を組む異端の同志だと見なすことをやめなかった。
 彼らは自信をもって、事態が変わるときを待った。
 そうしている間、ボルシェヴィキは自分たちが外部から攻撃されるときはいつでも、彼らの側に寄って頼みとすることができた。//
 (8)立憲会議防衛同盟は、自分たちのプロパガンダ運動を開始した。
 数十万の新聞と冊子を印刷し、配布して、なぜ立憲会議は反ソヴェトではないのか、なぜ立憲会議だけが国の基本法制を策定する権利を持つのか、を説明した。(107)
 また、首都や地方諸都市で示威行動を展開して、「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかけた。
 ボルシェヴィキに票を投じた者たちを含む兵士や労働者たちから、立憲会議を擁護する署名を得ようと、兵舎や工場へも活動家を派遣した。
 労働組合やストライキ中の公務員とともにこの活動を組織していた社会革命党とメンシェヴィキは、実証されている大衆的支援はボルシェヴィキが立憲会議に対して実力を行使するのを阻むだろうと、明らかに希望していた。//
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 (101) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.231.
 (102) Protokoly TsK, p.149-p.150.
 (103) Lenin, PSS, XXXV, p.106.
 (104) 同上, p.164-5, p.166.〔=日本語版レーニン全集26巻「憲法制定会議についてのテーゼ」388頁以下〕
 <+++試訳者注記> 日本語版レーニン全集第26巻同上、391-2頁.
 (105) Protokoly TsK, p.175.
 (106) Znamia truda, No.111(1918年1月5/18日), p.3.
 (107) N. Rubinstein, Bol'sheviki i Uchreditel'noe Sobraine(Moscow 1938), p.76.
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 第7節②へとつづく。

1949/R・パイプス著・ロシア革命第11章第8節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.482-p.486.
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 第8節・党中央委員会10月10日の重大決定。
 (1)10月16日までに、ボルシェヴィキには自由になる二つの組織があったが、いずれも名目上はソヴェトに帰属していた。第一は軍事革命委員会で、クーを実施する、第二は来たる第二回ソヴェト大会で、クーの実施を正当化する。
 これらはこのときまでに、事実上は、第一に臨時政府の軍事幕僚に、第二にソヴェトのイスパルコムに取って代わった。
 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕とソヴェト大会は、10月10日にきわめて秘密裡に行われたボルシェヴィキの権力掌握の決定を実施すべきものとされた。//
 (2)10月3日と10日の間のいつかに、レーニンはペトログラードにこっそりと戻ってきた。レーニンはこれを隠れて行ったので、共産主義者の歴史研究者は今日まで彼の帰還のときを確定できていない。
 レーニンは10月24日までVyborg 地区に潜伏した。姿を現したのは、ボルシェヴィキ・クーがすでに開始されたあとのことだった。
 //
 (3)10月10日-イスパルコムとソヴェト総会が防衛委員会の設置を票決した後の一日で、この事態との関係が十分にありそうだが-、ボルシェヴィキ中央委員会のうちの12名の委員が集まって、武装蜂起の問題に関して決定した。
 この会合は深夜に、極端な予防措置に囲まれた中で、スハノフのアパートで行われた。
 レーニンは、きれいに髭を剃り、鬘と眼鏡を着けて変装してやって来た。
 このときに何が行われたかについて明らかになってことに関する我々の知識は完全ではない。二つの議事録が作成されたが、そのうち一つだけが出版され、その一つですら手を加えて修正されたものだからだ。(152)
 最も詳細な資料は、トロツキーの回想録に由来する。(153)//
 (4)レーニンは、10月25日の前に絶対にクーが実施されるのを確実にしようと決断するに至っていた。
 トロツキーが「我々が招集しているソヴェト大会では、我々が多数派を握ることがあらかじめ保障されている」として反対したとき、レーニンは、つぎのように答えた。
 「第二回ソヴェト大会の問題には、<中略>彼はいかなる関心もなかった。
 それがどれだけの重要性をもつのか? 開催されすらするのか? そして、権力を切り取る(tear out, vyrazi')ことは必要か?
 ソヴェト大会に束縛されてはならない。敵に対して蜂起の日程を教えてあらかじめ警告するのは愚かで馬鹿げている。
 10月25日はせいぜいのところ、粉飾(camouflage)として役立つかもしれない。しかし、蜂起は、ソヴェト大会よりも早く、それとは独立して、実行されなければならない。
 党は、武器を手にして、権力を掌握しなければならない。そのときには、我々はソヴェト大会について語るだろう。」(154)
 トロツキーは、こう考えた。レーニンは「敵」に大きすぎる意味を認めているのみならず、カバー(cover)としてのソヴェトの価値を過少評価してもいる。
 党は、レーニンが欲するようには、ソヴェトと無関係に権力を掌握することはできない。なぜならば、労働者と兵士たちはボルシェヴィキ党に関することも含めた全てのことをソヴェトのメディアを通じて学んでいるからだ。
 ソヴェト構造の枠外で権力を奪取することは、ただ混乱の種だけを撒くだろう。//
 (5)レーニンとトロツキーの違いは、クーの時機と正当化の問題に集中していた。
 しかし、中央委員会の何人かの委員は、権力奪取を実行するかどうか自体をすら、疑問視していた。
 ウリツキ(Uritskii)は、ボルシェヴィキは技術的に蜂起を準備していない、使用可能な4万丁の銃砲では不十分だ、と主張した。
 最も厳しい反対意見は、カーメネフおよびジノヴィエフから出て来た。彼らはその立場を、内密の手紙を通じて、ボルシェヴィキの諸組織に対して説明した。(155)
 クーの時機は、まだだ。
 「我々が深く確信するところでは、いま蜂起することは我々の党の運命を賭ける冒険であることのみならず、世界革命はもとよりロシア革命を賭けることをも意味する」。
 党は憲法制定会議の選挙で成功(do well)するのを期待することができる。最小でも議席の三分の一を獲得すれば、そのことでソヴェトの権威を補強し、ソヴェト内での影響力をさらに優ったものにすることができる。
 「憲法制定会議にソヴェトを加えたもの-これこそが、我々が追求すべき、連結した統治制度の類型だ」。
 この二人は、ロシアと世界の労働者の多数派はボルシェヴィキを支持している、とのレーニンの主張を拒絶した。
 彼らの悲観的な評価によれば、武装行動ではなくて防衛的な戦略をとることを〔いわば〕医師は患者に勧める、ということになる。//
 (6)レーニンはこの主張に対して、こう反応した。「憲法制定会議を待つのは非常識(senseless)だ。これは我々の側には立たないだろう。なぜなら、これは我々の任務を複雑なものにするだろうから」。
 この点で、レーニンは、多数派の支持を獲得した。//
 (7)討議が終わりに近づくにつけて、中央委員会は三つの派へと分かれた。
 1. レーニンだけの一人党派で、ソヴェト大会や憲法制定会議に関する考慮することなく、即時の権力掌握に賛成する。
 2. ジノヴィエフとカーメネフで、Nogin、Vladimir Miliutin およびアレクセイ・ルィコフによって支持され、当面はクー・デタに反対する。
 3. その他の数では6名の委員で、クーを支持するが、ソヴェト大会との連携がなされるべき、-この二週間は-ソヴェトの正規の支援のもとにあるべき、とのトロツキーにも賛同しない。
 過半数の10名は、「避けることができず、かつ十分に成熟した」ときに武装蜂起に賛成する票を投じた。(156)
 時機は未決定のままに、残された。
 あとに続いた事態から判断すると、一日または数日だけ第二回ソヴェト大会に先行する、というものだった。
 レーニンは、このような妥協をしなければならなかった。そして、ソヴェト大会はたんにクーを裁可することだけが求められる、という彼の主眼点を獲得した。//
 (8)軍事革命委員会の設立と、そのつぎの第二回ソヴェト大会の元となった北部ソヴェト大会の招集は、以前に記述したことだが、10月10日の中央委員会決定を実施するものだった。
 (9)カーメネフには、この決定は受容することができないものだつた。
 彼は、中央委員会の委員を離任し、その一週間後、<Novaia zhizn'>のインタビューで自分の立場を説明した。
 カーメネフは、こう語った。彼とジノヴィエフは党の諸組織に回覧の手紙を送った。それに二人は、「近い将来に武装蜂起を始めることを党が承認することに断固として反対する」と書いた。
 党がそのような決定をしていなかったとしても、とここで彼は虚偽を語ったのだが、彼とジノヴィエフおよび何人かのその他の者は、ソヴェト大会の前夜での、ソヴェトから独立した「武装の実力による権力掌握」は革命にとって致命的な結果をもたらすだろう、と考えた。そして、蜂起を避けることはできないが、時機がよくない、と。(157)
 (10)中央委員会は、クーの前にさらに三回の会合を開いた。10月の20日、21日、そして24日。(158)
 第一回めの議題は、武装蜂起に反対する見解を公にした点で冒したと主張された、カーメネフとジノヴィエフの党規約違反だった。(*)
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 (*) レーニンは間違って、ジノヴィエフはカーメネフとともに<Novaia zhizn'>のインタビュー>に加わっていたと考えていた。<Protokoly TsK>, p.108.
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 レーニンは中央委員会に対して怒りの手紙を書き送り、「スト破り」の除名を要求した。
 「我々は資本主義者たちに真実を語ることはできない。すなわち、我々はストライキへと進む(蜂起をする、と読むべし)こと、そして<時機の選択>を彼らに<隠す>こと、を<決定した>。(159)
 中央委員会は、この要求に従うことをしなかった。
 (11)これらの会合の議事録は、実質的に無意味なものにするために相当に省略されているように思われる。かりに表面どおりに理解するならば、そのときまでにすでに議論が進行中だったクーは議題ですらなかった、と推察してしまうだろう。
 (12)中央委員会の戦術は、臨時政府を挑発して、革命を防衛することを偽装したクーを開始するのを可能にさせる、報復的な手段をとるよう追い込むことだった。
 この戦術は、秘密ではなかった。
 事件の数週間前のエスエル機関誌<Delo naroda>が簡略化して書いているように、臨時政府はコルニロフと一緒に革命を抑圧し、〔ドイツ〕皇帝と一緒にペトログラードを敵に明け渡す陰謀を企てたとして責任が追及されるだろう。ソヴェト大会と憲法制定会議のいずれも解散させる用意をしていた、という責任追及はもちろん。(160)
 トロツキーとスターリンは、そのようなことが党の計画だったと、事件の後で確認した。
 トロツキーは、こう書いた。
 「本質的なことを言えば、戦略は攻撃的なものだった。
 我々は、政府を攻撃する準備をしていたが、我々の煽動活動は、敵がソヴェト大会を解散させようとしている、敵を容赦なく撃退することが必要だ、と主張することにあった。」(161)
  スターリンによると、こうだ。
 「革命(ボルシェヴィキ党と読むべし)は、不確かで躊躇させる要素を軌道の中に引き込むことを容易にするために、その攻撃行動を防衛という煙幕の背後で偽装することだった。」(162)
 (13)Curzio Malaparte は、たまたまファシストが権力奪取をしていたイタリアを訪れていたイギリスの小説家、Izrael Zangwill の困惑を、こう叙述している。
 「バリケード、路上の戦闘、舗道上の軍団」がないことに驚いて、Zangwill は、自分が革命を目撃していると信じるのを拒んだ。(163)
 しかし、Malaparte によれば、現代の革命の特徴的な性質は、まさに無血(bloodless)であることだ。訓練された突撃兵団の小部隊が、戦略的地点をほとんど静穏に掌握するのだ。
 このような厳密な正確さでもって襲撃は実行されるので、民衆一般は何が起きているかを少しも知ることがない。
 (14)この叙述は、ロシアの十月のクーにふさわしい(これをMalaparte は研究して、彼のモデルの一つとして用いた)。
 十月に、ボルシェヴィキは集団的な武装示威行動や路上での衝突をしなかった。これらは、レーニンの主張に従って4月や7月には行ったことだった。なぜ10月にはしなかったかというと、群衆は統制し難く、また反発を却って生むということが分かったからだった。
 ボルシェヴィキは、今度は、小規模の訓練された兵士と労働者の部隊に頼った。その部隊は、軍事革命委員会を装った軍事組織司令部のもとにあり、ペトログラードの主な通信と交通の中心地、利便施設や印刷工場-現代的大都市の中枢(nerve)箇所-を占拠することを任務としていた。
 政府とその軍事幕僚たちとの間の電話線を切断するだけで、ボルシェヴィキは反攻の組織化を不可能にすることができた。
 作戦行動全体が、順調かつ効果的に履行された。そのために、まさにそれが進行中だったときですら、オペラ劇場のほかにカフェやレストラン、あるいは劇場や映画館、は営業のために開いていて、娯楽を求める群衆で混雑していた。//
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 (152) <Protokoly TsK>, p.83-p.86.
 (153) L・トロツキー,<レーニン>(Moscow, 1924), p.70-p.73.
 (154) 同上, p.70-p.71.
 (155) <Protokoly TsK>, p.87-p.92.
 (156) 同上, p.86.; トロツキー,<レーニン>, p.72.
 (157) Iu・カーメネフ. <NZh>No.156/150(1917年10月18日)所収, p.3.
 (158) <Protokoly TsK>, p.106-p.121.の縮められた議事録。
 (159) 同上, p.113.
 (160) <DN>No.154(1917年9月11日), p.3., 同No.169(1917年10月1日), p.1.
 (161) トロツキー,<レーニン>, p.69.
 (162) Mints, <Dokumentry>I, P.3.
 (163) C・Malaparte, <クー・デタ: 革命の技術>(New York, 1932), p.180.
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 第8節は終わり。つぎの第9節の目次上の見出しは、<軍事革命委員会がクー・デタを開始>。

1943/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.470-p.473.
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 第5節・隠亡中のレーニン②(Lenin in hiding)。
 (13)多くのボルシェヴィキ党員には、新しい戦術と親ソヴェト・スローガンの放棄は幸せなことでなかった。
 その月の別の機会にスターリンは、党は疑いなく我々が多数派を占めるソヴェトを支持していると保障して、彼らを安心させようと努めた。
 しかし、ソヴェトへの関心の一般的な冷却に気づいて、ボルシェヴィキたちがもう一度気持ちを切り替えるのに、たいした時間はかからなかった。というのは、無関心が増大したために、ソヴェトを自分たちの目的でもって貫いて操作する機会ができた、と考えたからだ。
 党の公式誌<イズヴェスチア>は、9月の最初に、つぎのように書いた。
 「最近はソヴェトで仕事することへの無関心が見られる。<中略>
 実際に、(ペトログラード・ソヴェトの)1000人以上の代議員のうち、400から500人程度しか会議に出席していない。そして、出てくることをしない者たちは正確には、今まではソヴェトの多数派を形成していた諸党の代議員たちだ。」(106)-すなわち、メンシェヴィキとエスエル。
 <イズヴェスチア>の「ソヴェト組織の危機」と題された一ヶ月後の論説でも、同じような不満を読むことができた。
 「ソヴェトの人気が最高だったとき、イスパルコムの都市間協議(interurban, inogorodnyi)の部署は、国じゅうに800のソヴェトを表にして列挙していた、と執筆者は思い出す。」
 10月までに、これらのソヴェトの多くはもはや存在しないか、紙の上だけの存在になった。
 地方からの報告書は、ソヴェトはその威厳と影響力を失いつつある、というものだった。
 編集部はまた、労働者・兵士代表者ソヴェトが農民組織とともに進むことのできないことに不服を告げた。そのことは、農民層がソヴェト構造の「全く外側」にとどまることに帰結するからだ。
 しかし、ペトログラードやモスクワのようにソヴェトが機能している区域ですら、ソヴェトは、多数の知識人や労働者が離反したために、もはや全ての「民主主義派」を代表していなかった。
 「ソヴェトは、旧体制と闘う素晴らしい組織だった。しかし、それは新しい体制の形成を引き受ける能力が全くなかった。<中略>
 専制体制が官僚制秩序と一緒に崩壊したとき、我々は全ての民主主義派を守るための一時的な兵営として代表者ソヴェトを設立したのだった。」
 <イズヴェスツィア>は今はこう結論づけた。ソヴェトは、より代表制的な選挙制度で選ばれた市会(Municipal Councils)のような永続的な「石の構造」のために放棄されてきている。(107)
 ソヴェトへの幻想からの覚醒が拡大し、社会主義派の対抗者が長く不在であることによって、ボルシェヴィキは、国民的支持からは全く不釣り合いの影響力を獲得することができた。 
 ボルシェヴィキのソヴェト内での役割が大きくなるにつれて、ボルシェヴィキは古いスローガンに戻った。-「全ての権力をソヴェトへ」。
 (14)ボルシェヴィキは、ペトログラード・ソヴェトの多数派となった9月25日に、権力に向かって進む重要な一歩を通過した。
 (9月19日に、モスクワで同様に多数派になっていた。)
 ペトログラード・ソヴェトの議長たる地位に就いたトロツキーはただちに、そのソヴェトを国のその他の都市ソヴェトを制御するための組織へと変え始めた。
 <イズヴェスツィア>の言葉によれば、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門でボルシェヴィキが多数を獲得するやいなや、ボルシェヴィキは「それを彼らの党組織へと変えた。そして、それに依拠して、国全体の全てのソヴェトを把握するパルチザン的闘いを行うようになった。(108)
 ボルシェヴィキは、全ロシア大会で選出された、エスエルとメンシェヴィキが支配するままのイスパルコムを大幅に無視し、自分たちが多数を握るソヴェトのみを代表する、彼ら自身の全国的似而非ソヴェト組織を生み出そうと取りかかった。
 (15)コルニロフによって生じた有利な政治環境とソヴェトでの勝利によって、ボルシェヴィキは、クー・デタの問題を生き返らせた。
 意見は、分かれた。
 七月の大失敗はまだ記憶に鮮明で、カーメネフとジノヴィエフは、さらなる「冒険主義」に反対した。
 二人は論じた。ソヴェト内での力が増加したにもかかわらず、ボルシェヴィキは少数派政党のままであり、かりに何とかして権力を奪取しても、「ブルジョア反革命」と農民層の結合した勢力に面してすぐにそれを失うだろう。
 もう片方の極端な立場のレーニンは、即時のかつ断固たる行動を求める主要な発議者だった。
 彼はコルニロフ事件によって、クーの成功の可能性がかつてよりも大きく、かつ二度とやって来ない、と確信していた。
9月12日と14日、レーニンは、フィンランドから二通の手紙を、中央委員会に書き送った。それぞれ、「ボルシェヴィキは権力を奪取しなければならない」、「マルクス主義と反乱」と呼ばれる。(109)
 彼は前者で書いた。「二つの重要な都市で労働者・兵士代表者ソヴェトでの多数派となり、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるし、そう<しなければならない>。」
 カーメネフやジノヴィエフの主張とは反対に、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるのみならず、保持し続けることもできる。すなわち、即時の講和を提案し、農民に土地を与えることによって、「ボルシェヴィキは、<誰も>打倒しようと<しない>政府を設立することができる。
 しかし、臨時政府がペトログラードをドイツ軍に明け渡すか戦争を終わらせる何か別のことをするかもしれないので、迅速に行動することこそがきわめて重要だ。
 その日の命令は、「ペトログラードとモスクワ(プラスここれら地域)での武装暴動、権力の制圧、政府の打倒だ。
 我々は、活字にして明確に表明することなく、<いかにして>このために煽動すべきかを考えなければならない。」
 ペトログラードとモスクワではすでに権力を奪取しているので、問題は解決されているだろう。
 レーニンは、多数派を獲得するを望んで第二回ソヴェト大会の招集を待つべきだとのカーメネフとジノヴィエフの見解を「ナイーヴな」ものとして却下した。「革命は<それ>を待っていない。」
 (16)第二の手紙でレーニンは、武力による権力奪取は「マルクス主義」ではなくて「ブランキ主義」だという非難について議論し、また、七月との類似性の問題に片をつけた。すなわち、「9月の『客観的』情勢は、全く異なっている。」
 彼は(考えられるのはドイツとの接触で得られた情報から)、ベルリンがボルシェヴィキ政府に休戦を提案するだろうことは確実だと思っていた。
 「そして、休戦を確保することは、世界<全体>を制圧することを意味する。」(110)
 (17)中央委員会は9月15日に、レーニンの手紙を議題として取り上げた。
 短い、ほとんど確実に厳密に検閲されたこの会議の議事要領書(*) が示しているのは、レーニンの同僚たちは(カーメネフが迫ったように)公式に彼の助言を拒否するのを躊躇しているが、従う心づもりもない、ということだ。
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 (*) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.55-62.
 これは、現在で唯一利用可能な、1917年8月4日から1918年2月24日までのボルシェヴィキ中央委員会の会議の記録書で、1929年に最初に出た。
 この記録書は、トロツキー、カーメネフおよびジノヴィエフという、スターリンが党の支配のために打倒した者たちの評価を落とすことが意図されていた。そして、この理由のゆえに、きわめて慎重に用いられなければならなかった。
 第二版の編集者によれば、こうだ。「議事録の文章は、省略なくして完全に公刊される。但し」、何を意味するものであれ、「第一版では議事録の文章上のこれらの疑問に関する適切ではない説明を理由としてそうなされたように、対立する事項(konfliktnye dela)を除く」(p. vii)。
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 トロツキーによれば、 即時の暴乱は望ましくないとして、9月には誰もレーニンに同意しなかった。(111)
 スターリンの動議により、レーニンの手紙は党の主要な地方組織に回覧されることになった。これは、即時の行動を回避する方法でもあった。
 ここで、問題が残っている。その後の6回の会議については何も、レーニンの提案が言及されていないのだ。(+)
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 (+) もちろん、レーニンの考えは却下され、その事実は議事録が出版されるときの版では削除された、ということは排除され得ない。
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  (18)レーニンはこのような消極性に烈しく怒った。暴乱を起こすのに都合のよいときが過ぎ去ってしまうのを、彼は懼れていた。
 9月24日か25日、彼はヘルシンキから、行動舞台により近いヴィボルク(Vyborg)(まだフィンランドの領土)へと移動した。
 彼はそこから、9月29日、第三の手紙を中央委員会に発送した。その表題は「危機は成熟した」。
 レーニンの主要な活動方針は、この手紙の第六部に含まれていた。1925年に最初に公にされた。
 レーニンはこう書いた。ある範囲の党員たちが次のソヴェト大会まで権力掌握を延期したいと考えていることは率直に認めなければならない。
 彼は全体として、このような考え方を拒否した。
 「この瞬間を逃してソヴェト大会を『待つ』のは、完璧に愚かで、完璧な裏切り行為だ」。
 「ボルシェヴィキは今や、蜂起の成功を保障されている。
 1.我々は(ソヴェト大会を『待つ』ことをしなくても)突然に三箇所から急襲することができる。すなわち、ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊。 <中略>。
 5.我々はモスクワで権力を奪取する技術的能力を持っている(これは、突然さによって敵を弱体化させるために始めることすらできる)。
 6.我々は<数千人>の武装した労働者と兵士を持っており、彼らは<ただちに>冬宮、将軍幕僚、電話局、および全ての大きな印刷工場を掌握することができる。<中略>
 我々がただちに、かつ突然に三箇所から-ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊から-急襲するならば、成功の見込みは99パーセントであり、七月の3-5日に被ったよりも少ない損失で勝利するだろう。<兵団は、講和する政府に反対して動くことはしないだろう。>(**)
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 (**) レーニン,<PSS>XXXIV, p.281-2. レーニンはここで不用意に、七月3-5日にボルシェヴィキは実際に権力掌握を試みたことを認めている。
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 中央委員会が要請に回答せず、自分の論文を削除すらしたことを見て、レーニンは、辞職願いを提出した。
 もちろんこれは、はったり(ブラフ)だった。
 中央委員会は、意見の違いに関して議論するため、レーニンにペトログラードに戻るよう要請した。(112)
  (19)レーニンの同僚たちは一致して、よりゆるやかで安全な方針を好んで、即時の武装蜂起への彼の要求を拒絶した。
 彼らの戦術は、レーニンの提案は「性急だ」と考えたトロツキーによって、定式化された。
 トロツキーは、全ロシア・ソヴェト大会による権力の掌握を装った、武装蜂起をしたかった。-しかし、確実に拒否するだろう、適式に開催された大会による権力掌握をではない。そうではなく、ボルシェヴィキが定められた手続に従わないで自分たちが主導して開催し、支持者たちを詰め込める会議による権力掌握を装ってだ。つまりは、全国的大会だと偽装(カモフラージュ)しての、親ボルシェヴィキのソヴェト大会。
 振り返って見ると、これが進むべき疑いなく適切な行路だった。なぜなら、レーニンが主張したような単一の政党による権力の公然たる掌握には、国は寛容であることができなかっただろうから。
 最初の日々を越えて成功していくためには、クーには、かりに表面的なものだったとしても、何らかの性質の「ソヴェト」の正統性が与えられなければならなかった。//
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 (105) Leningradskii Istpart, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1927), p.77.
 (106) <イズヴェスツィア>No.164(1917年9 月5日).
 (107) <イズヴェスツィア>No.195(1917年10月12日), p.1.
 (108) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (109) レーニン,<PSS>XXXIV, p.239-p.241.
 (110) 同上, p.245.
 (111) L・トロツキー,<ロシア革命史>III(New York, 1937), p.355.
 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.74.
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 第5節は終わり。第6節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキ自身のソヴェト大会の計画>。

1942/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.467-p.470.
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 第5節・隠亡中のレーニン①(Lenin in hiding)。
 (1)その間、レーニンは田舎に隠れていて、世界の再設計に没頭していた。//
 (2)ジノヴィエフとN. A. Emelianov という名前の労働者に付き添われて、レーニンは、別荘地域の鉄道接続駅Razliv に、7月9日に着いた。
 レーニンは髭を剃り落として、農業従事者のごとく変装していた。二人のボルシェヴィキは導かれて近くの、翌月の彼らの住まいとなる畑小屋に入った。//
 (3)備忘録を書くのが嫌いなレーニンは、その人生のうちのこの時期に関する回想録を残していない。しかし、ジノヴィエフの簡単な文書資料がある。(97)
 (4)彼らは潜伏したままで生活したが、伝達人を通じて首都との接触を維持していた。
 レーニンは彼と党への攻撃に立腹して、しばらくは新聞を読むのを拒んだ。
 7月4日の事態は、彼の心を苦しめていた。しばしば、ボルシェヴィキは権力を奪取できていたかどうかを思いめぐらしたが、いつも消極的な結論に達した。
 夏遅くに雨による洪水が彼らの小屋を浸したので、移動するときだった。
 ジノヴィエフはペトログラードに戻り、レーニンは、ヘルシンキへと進んだ。
 フィンランドを縦断するために、レーニンは労働者だとする偽造の書類を用いた。その旅券の、きれいに髭を剃って鬘をつけた写真で判断すると、颯爽とした外見を偽装していた。//
 (5)党を日常的に指揮することから離れ、おそらくは権力奪取の新しい機会はもうないだろうと諦念して、レーニンは、共産主義運動の長期目標に関心を向けた。
 彼は、マルクスと国家に関する論文を再び執筆し始めた。その論考を翌年に、<国家と革命>との表題で出版することになる。
 これは、将来世代への彼の遺産、資本主義秩序が打倒された後の革命戦略の青写真となるべきものだった。//
 (6)<国家と革命>は急進的虚無主義の著作であり、革命は全ての「ブルジョア」的制度を完膚なきまで破壊しなければならない、と論じる。
 レーニンは、国家は、どこでも、いつでも、搾取階級の利益を代表し、階級対立を反映する、という趣旨のエンゲルスの文章の引用で始める。
 彼はこれを証明済みのこととして受容し、もっぱらマルクスとエンゲルスのみを参照して、政治制度や政治実務の歴史にはいずれもいっさい参照することなく、さらに詳論する。//
 (7)この論考の中心的メッセージは、マルクスがパリ・コミューンから抽出し、<ルイ・ナポレオンのブリュメール十八日>で定式化した教訓から来ている。
 「議会制的共和国は、革命に対する闘いで、抑圧の手段や国家権力の集中化の手段を全て併せて、自らを強くすることを強いられた。
 全ての革命は、国家機構を粉砕するのではなくて完全なものにしてきた。」(*)//
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 (*) レーニン,<PSS>XXXIII, p.28.から引用。レーニンは最後の文章に下線を引いて強調した。
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 マルクスは、この議論をある友人への手紙で表現し直した。
 「私の<ブリュメール十八日>の最終章を見入れば、私がフランス革命のつぎの試みを宣言しているのが分かるでしょう。すなわち、今まで行われてきたように、手にあるひと組の全体を別の官僚制的軍事機構に移行させるのではなく、粉砕(smash)すること。」(98)
 マルクスが革命の戦略や戦術について書いたことのうちこれ以上に、レーニンの心に深く刻み込まれたものはなかった。
 レーニンはしばしば、この文章部分を引用した。彼の、権力奪取後の行動指針だった。
 彼がロシアの国家と社会およびこれらの全装置に向けた破壊的な怒りは、このマルクスの言明によって理論的に正当化された。
 マルクスはレーニンに、現在の革命家たちが直面している最も困難な問題の解決策を与えた。成功している革命を、いかにして、反革命の反動が生じないようにして守るか。
 解決策は、旧体制の「官僚制的軍事機構」を廃絶させることだった。反革命からそれを育んだ土壌を剥奪するために。//
 何が、古い秩序に置き代わるのか?
 パリ・コミューンに関してマルクスが書いたことを再び参照して、レーニンは、反動的な公務員や将校の安息所にならないコミューンや人民軍のような大衆参加組織を指し示した。
 これとの関係で、彼は職業的官僚機構が最終的には消滅することを予言した。
 「社会主義のもとでは、我々の<全て>が順番に統治して、すぐに誰も統治していない状態に慣れるだろう。」(99)
 のちに共産党の官僚機構が前例のない割合で大きくまっていたとき、この文章部分は レーニンの顔に投げ込まれることになるだろう。
 彼は、ソヴィエト・ロシアに巨大な官僚機構が出現したことに驚いて不愉快になり、かつ大いに困惑することになる。おそらくは彼の主要な関心は、人生の最終の日々にあった。
 しかし彼は、官僚機構は「資本主義」の崩壊とともに消失するだろうとの幻想は決して抱かなかった。
 レーニンは、革命の後の長期間にわたって、「プロレタリア独裁」が国家の形をとる必要がある、と認識していた。しかも、このように示唆した。
 「資本主義から共産主義への移行に際して、抑圧は<まだ>必要だ。
 しかし、その抑圧はすでに、多数者たる被搾取者による少数者たる搾取者に対するものだ。
 特別の装置、特別の抑圧機構、「国家」は<まだ>必要だ。」(100)
(8)レーニンは<国家と革命>を執筆している間に、将来の共産主義体制の経済政策にも取り組んだ。
 コルニロフ事件のあとの9月に、これを二つの論考でまとめた。そのときは、ボルシェヴィキの見通しは予期しなかったほどに良くなっていた。(101)
これらの論考のテーゼは、レーニンの政治的著述物とは大きく異なっていた。
 古い国家とその軍隊を「粉砕」すると決意する一方で、「資本主義」経済を維持し、革命国家に奉仕するように利用することに賛同した。
 この主題は、「戦時共産主義」の章で扱われるはずだ。
 ここではこう叙述しておくので十分だ。すなわち、レーニンの経済に関する考え方は、当時の一定のドイツの著作を読んだことから来ている。ドイツの著作者とはとくにルドルフ・ヒルファーディング(Rudolf Hilferding)で、この学者は、先進的または「金融」資本主義は、銀行や企業連合の国有化という単純な方法で相対的には社会主義へと続きやすい集中のレベルを達成している、と考えていた。
 (9)かくして、古い「資本主義」体制の政治的および軍事的装置を根絶することを意図する一方で、レーニンはその経済的装置を維持すねることを望んだ。
 最終的には、彼は三つの全てを破壊することになるだろう。
 (10)しかし、これは先のことだ。
 直近の問題は革命の戦術で、この点でレーニンは彼の仲間たちと一致していなかった。
 (11)ソヴェトの社会主義派は七月蜂起を許しかつ忘れようとしていたにもかかわらず、また政府による嫌がらせからボルシェヴィキを防衛しようと彼らはしていたにもかかわらず、レーニンは、ソヴェトのもとでの権力追求という仮面を剥ぎ取るときがやって来ている、と決意した。
 すなわち、ボルシェヴィキはこれからは、武装暴動という手段によって、権力を直接にかつ公然と獲得すべく奮闘しなければならない。
7月10日、田舎へと隠れるようになった一日後に書いた<政治情勢>で、レーニンはこう論じた。
 「ロシア革命の平和的な進展への望みは全て、跡形もなく消え失せた。
 客観的な状況は、軍事独裁の究極的な勝利か、それとも<労働者の決定的な闘争><中略>のいずれかだ。
 全ての権力のソヴェトへの移行というスローガンは、ロシア革命の平和的進展のスローガンだった。それは、4月、5月、6月、そして7月5-9日まではあり得た。-すなわち、現実の権力が軍事独裁制の手へと渡るまでは。
 このスローガンは今では、正しくない。(権力の)完全な移行を考慮に入れておらず、じつにエスエルとメンシェヴィキによる革命に対する完全な裏切りを考慮していないからだ。」(102)
 レーニンは原稿の最初の版では「武装蜂起」という語を使って書いていたが、のちに「労働者の決定的な闘い」に変更した。(103)
 こうした論述の新しさは、権力は実力でもって奪取されなければならない、ということにあるのではない。-ボルシェヴィキ化していた労働者、兵士および海兵たちは4月や7月に街頭でほとんど歌や踊りの祭り騒ぎをしなかった。そうではなく、ボルシェヴィキは今や、ソヴェトのために行動するふりをしないで、自分たちのために闘わなければならない、ということにある。
 (12)7月末に開催されたボルシェヴィキ第6回党大会は、この基本方針を承認した。
 その決議はこう述べた。ロシアは今や「反革命帝国主義ブルジョアジー」によって支配されている。そこでは「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンは有効性を失ってしまった。
 新しいスローガンは、ケレンスキーの「独裁制」の「廃絶」を呼びかけた。これはボルシェヴィキの任務であって、その背後には、プロレタリアートに率いられ、貧しい農民たちに支持された全ての反革命グループが集結している。(104)
 冷静に分析すると、この決議の前提は馬鹿げており、その結論は欺瞞的だ。しかし、実際上の意味は、間違えようがない。すなわち、ボルシェヴィキはこれから、臨時政府とはもちろん、ソヴェトとも闘うだろう、ということだ。//
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 (97) <PR>No.8-9/67-68(1927), p.67-p.72.
 (98) レーニン,<PSS>XXXIII, P.37. から引用。
 (99) 同上, p.116
 (100) 同上, p.90.
 (101) レーニン「迫る危機。それといかに闘うか」同上, XXXIV, p.151-p.199, 「ボルシェヴィキは国家権力を掴みつづけるか?」同上, p.287-p.339.
 (102) 同上、p.2-p.5. 強調を施した。
 (103) レーニン,<Sochineniia>XXI, p.512, n18.
 (104) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.383-4.
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 ②へとつづく。

1941/R・パイプス著・ロシア革命第11章第4節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第4節・ボルシェヴィキの好運(運命の上昇)(rise in Bolshevik fortunes)。
 (1)ケレンスキーが挑発してコルニロフと決裂し、自分の権威を高めようとした、というのがかりに正しいとすると、彼はこれに失敗したのみならず、全く反対のことを成し遂げてしまった。
 コルニロフとの衝突によって、保守派およびリベラル派世界との関係は、彼の社会主義派の基盤が強固になることなく、致命的に危うくなった。
 コルニロフ事件の第一の受益者は、ボルシェヴィキだった。
 8月27日の後、それらの支持にケレンスキーが依拠していたエスエルとメンシェヴィキは、徐々に消失していった。
 臨時政府は今や、そのときまでは有していたとされたかもしれない限定的な意味ですら、その機能を失った。
 9月と10月、ロシアは操縦者がいないままに漂流した。
 舞台は、左翼からの反革命のために用意された。
 かくして、ケレンスキーはのちにこう書いた。「(ボルシェヴィキのクーの)10月27日を可能にしたのは、8月27日だけだった」。
 こう書いたのは正しかったが、しかし、彼が言おうとした意味でではなかった。(84)
 (2)叙述したように、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対して七月蜂起についての厳しい制裁措置を何ら執らなかった。
 ケレンスキーの対抗諜報機関の主任であるニキーチン大佐によれば、ケレンスキーは、7月10-11日に、軍事スタッフからボルシェヴィキを逮捕する権限を剥奪し、ボルシェヴィキの所有物のうちから見つかった武器を没収することを禁じた。(85)
 7月末にはケレンスキーは、ボルシェヴィキがペトログラードで第6回党大会を開いたとき、見て見ぬふりをしていた。
 (3)この消極性は、ボルシェヴィキも参加しているイスパルコムと宥和しておきたいとのケレンスキーの願望に多くは由来していた。
 すでに述べたように、イスパルコムは8月4日、ツェレテリ(Tsereteli)の動議によって、微妙にも「7月3-5日の事件」と呼ばれたものに参加した者のさらなる迫害を止めるよう要求する決議を採択した。
 ソヴェトは8月18日の会合で、「社会主義諸党派の中での極端な潮流」の代表者たちに対してなされた「不法な逮捕と濫用に断固として抗議する」と票決した。(86)
 政府はこれに反応して、次々と著名なボルシェヴィキを釈放し始めた。ときには保釈金を課して、ときには友人の保証にもとづいて。
 最初に自由にになった(そして全ての責任追及を免れた)のは、カーメネフだった。彼は、8月4日に釈放された。
 ルナチャルスキー(Lunacharskii)、アントニオ-オフセーンコ(Antonio-Ovseenko)およびA・コロンタイ(Alexandra Kollontai)はすぐあとで、自由になった。そして、その他の者が続いた。
 (4)その間に、ボルシェヴィキは、政治的勢力として再登場していた。
 ボルシェヴィキは、政治的両極化によって利益をうけた。この政治的両極化は、リベラル派と保守派がコルニロフへと引かれ、急進派は極左へと振れた夏の間に生じていた。
 労働者、兵士、海兵たちは、メンシェヴィキとエスエルの優柔不断さを嫌悪し、これらを諦めて、大挙して唯一の選択肢もボルシェヴィキを支持するに至った。
 しかし、政治的な疲れもあった。
 春には揃って投票所へと行っていたロシア人は、彼らの状態の改善に何らつながらない選挙に徐々に飽きてきた。
 このことはとくに、過激派に対抗する機会がないと感じた保守的な人々について本当のことだった。しかし、リベラル派や穏健な社会主義立憲派についても当てはまった。
 この趨勢は、ペトログラードとモスクワの市議会選挙の結果でもって例証され得る。
 コルニロフ事件の一週間前、8月20日のペトログラード市会(Municipal Council)の投票で、ボルシェヴィキは得票率を1917年5月の20.4パーセントから33.3パーセントへと、さらには過半数へと伸ばした。
 しかしながら、絶対得票数では、投票数の低下によって17パーセントしか伸ばさなかった。 
 春の選挙では有権者の70パーセントが投票所へ行ったのだったが、8月にはそれは50パーセントに落ちた。首都のいくつかの地区では、前には投票した者の半分が棄権していた。(*)(87)
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 (*) Crane Brinton はその<革命の解剖学>(New York, 1938, p.185-6)で、革命的状況下では庶民的市民は政治参加するのに退屈し、極端主義者に広場を譲る、というのはふつうだと観察する。
 後者の影響力は、民衆の幻滅と政治に対する利害の喪失に比例して増大する。
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 モスクワでは、9月の市会選挙での投票参加者の減少は、さらに劇的だった。
 こちらでは、以前の6月の64万票に対して、38万票しか投じられなかった。
 投票票の半分以上はボルシェヴィキで、12万票を掘り起こしていた。一方、社会主義派(エスエル、メンシェヴィキおよびこれらの友好派)は37万5000票を失った。後者のほとんどはおそらくは、自宅にいるのを選んだ。
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 モスクワ市会選挙(議席数の割合)(88)
 党       1917年3月 1917年9月 変化
 エスエル    58.9     14.7    -44.2
 メンシェヴィキ 12.2      4.2    - 8.0
 ボルシェヴィキ 11.7     49.5    +37.8
 カデット    17.2     31.5    +14.3   
 ********
両極化の一つの効果は、ケレンスキーが変わらない権力を求めて計算していた政治基盤の風化だった。
 8月半ばのペトログラードの市会選挙で社会主義諸党が示した貧弱さは、同じその月の遅くでのケレンスキーの行動の、重要な要因だったかもしれない。
 というのは、彼の政治基盤が消失していたとき、「反革命」の勝利者としてよりも左翼の側への自分の人気と影響力を高めるよい方法は、何だったたのか? かりに想像上のものだったとしても。
 (5)コルニロフ事件は、ボルシェヴィキの運命を、予期されなかった高さにまで押し上げた。
 コルニロフの幻想上の蜂起を抑止し、クリモフの兵団がペトログラードを占拠するのを阻止するために、ケレンスキーはイスパルコムの助けを求めた。
 8月27-28日の深夜会議で、あるメンシェヴィキの動議にもとづき、イスパルコムは、「反革命と闘う委員会」の設立を承認した。
 しかし、ボルシェヴィキの軍事組織だけがイスパルコムが用いることのできる実力部隊だったので、この行動は、ボルシェヴィキにソヴェトの部隊という責任を負わせるという効果をもった。(89) こうして、昨日の犯罪者は、今日は戦闘員になった。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキに対して直接に、コルニロフに対抗する自分を、その当時に明らかに大きくなっていたボルシェヴィキの兵士たちに対する影響力を使って助けるよう訴えた。(90)
 ケレンスキーの代理人は、アナキストとボルシェヴィキ共感者としてよく知られた巡洋艦<オーロラ>の海兵たちに、ケレンスキーの住居であり臨時政府の所在地である冬宮の防衛の責任を引き受けるように要請した。(91)
 M・S・ウリツキ(Ulitskii)はのちに、ケレンスキーのこの行動がボルシェヴィキを「名誉回復させた」と述べることになる。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキが労働者たちに4000丁の鉄砲を配って武装することを可能にした。相当の数の武器がボルシェヴィキの手に入ることになつた。
 ボルシェヴィキはこれらの武器を、危機が過ぎ去ったあとも保持し続けた。(92)
 ボルシェヴィキの再生とともにどの程度に事態が進行していたかは、8月30日の政府の決定、すなわち訴訟手続が始まっているごく数名を除いて拘禁されているボルシェヴィキ全員を釈放するとの決定、でもって判断できるかもしれない。(93)
 トロツキーは、この恩赦の受益者の一人だった。トロツキーは3000ルーブルの保釈金でKresty 監獄から9月3日に釈放され、ソヴェト内のボルシェヴィキ党派の責任者となった。
 10月10日までに、27人のボルシェヴィキ以外は全員が釈放され(94)、つぎのクーを準備した。一方で、コルニロフと他の将軍たちは、Bykhov 要塞に惨めに捨てられていた。
 9月12日、イスパルコムは政府に対して、レーニンとジノヴィエフについて、身体の安全の保証と公正な裁判を要請した。(95)
 (6)コルニロフ事件の劣らず重要な帰結は、ケレンスキーと軍部の間の分断だった。
 というのは、将校団は事件に混乱して政府を公然とは拒否するつもりはなく、コルニロフの反乱に参加するのを拒絶したけれども、彼らの司令官に対する措置や多数の優れた将軍たちの逮捕、そして左翼への追従についてケレンスキーを軽蔑したからだ。
 のちの10月遅くにケレンスキーがボルシェヴィキから自分の政府を救うのを助けるよう軍部に呼びかけたとき、ケレンスキーの嘆願は全く聞き入れられないことになる。
 (7)9月1日、ケレンスキーは、ロシアは「共和国」だと宣言した。
 一週間後(9月8日)、彼は政治的対抗諜報機関を廃止した。これは、彼自身からボルシェヴィキの企図に関する主要な情報源を奪うことを意味した。(96)
 (8)堅固な指導力をもつことができる誰かによってケレンスキーが打倒されることになるのは、ただ時間の問題だった。
 そのような人物は、左翼から出現するに違いなかった。
 種々の違いが彼らを分けていたとはいえ、左翼の諸政党は、「反革命」という妖怪と闘うときには隊列を固めた。「反革命」とはその定義上、ロシアに実効的な政府としっかりした軍隊を回復しようとする全ての先導的行為を含む用語だった。
 しかし、国家は〔政府と軍隊の〕いずれをも有しなければならないので、秩序を回復しようとする先導力は、彼らの内部から出現しなければならなかった。
  「反革命」は、「真の」革命を偽装して、やって来ることになる。//
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 (84) ケレンスキー,<Delo>, p.65.
 (85) ミリュコフ,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.15n. <Echo de Paris>, 1920, <Oiechestvo>No.1, と<Poslednie Izvestiia>(Ravel), 1921年4月、を引用している。
 (86) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.299-p.300, p.70.
 (87) <NZh>No.108(1917年8月23日), p.1-2とNo.109(1917年8月24日), p.4.; W. G. Rosenberg, <SS>No.2(1969年)所収, p.160-1.
 (88) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.122.; Rosenberg, 同上.
 (89) Golvin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.53-p.54.
 (90) Sokolnikov,<Revoliutsiia>Ⅳ所収, p.104.
 (91) 同上Ⅴ, p.269.
 (92) S. P. Melgunov,<<略>>(Paris, 1953), p.13.
 (93) <NZh>No.116(1917年8月31日), p.2.
 (94) <NZh>No.149/143(1917年10月10日), p.3.
 (95) <NZh>No.125/119(1917年9月12日), p.3.
 (96) <NZh>No.123/117(1917年9月9日), p.4.
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次節の目次上の表題は、「隠れている間のレーニン」。

1890/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.109-p.113、2004年合冊版p.874-p.877。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容②。
(10)1924年半ば、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフの三人組の支配者たちは、トロツキーと深刻な闘争を繰り広げていた。その頃、第五回大会が開かれ、全ての構成諸党の「ボルシェヴィキ化」を求める決議を採択した。
 これが意味するのは理論上は、ロシアの党の方法と様式を採用すべきだ、ということだ。だが実際には、全ての問題に関してロシアの党の権威を承認すべきだ、というととだった。
 この大会自体が、「ボルシェヴィキ化」がすでに十分に進んでいることを示した。スターリンとその仲間たちの求めによって、全ての諸国の共産党が満場一致で、トロツキーを非難した。
 翌年のドイツ共産党の大会で、何をボルシェヴィキ化が意味するかに関する実際的な説明が示された。スターリンの主要な取り巻きの一人であるコミンテルン・ソヴェト代表者Manuisky が中央委員会の構成に関する規約を定めようと試みたときに。
 ドイツ共産党の代議員たちがこれに従うのを拒否したとき、執行委員会議長のジノヴィエフは彼らをモスクワへと召喚し、Ruth Fischer とArkady Maslow という「左翼」指導者たちを排除するよう命じた。これらの人物は、ボルシェヴィキ<に対して向かいあった>ある程度の自立性をもつ外観は維持しようとしていたのだった。//
 (11)第五回大会の別の決議は、ドイツの彼らの役割はブルジョアジーと共謀して労働者階級の中に民主主義と平和主義の幻想を染みこませることにあると述べて、社会民主主義者だと性質づけた。
 資本主義が衰亡するにつれて、社会民主主義は限りなくファシズムに接近する。この二つは、実際には、資本主義者の手のうちの単一の武器の両面だ。
 これらは、数年後に、コミンテルンの政策の原理的な指針となった。//
 (12)第五回と第六回のコミンテルン大会の間に四年が過ぎた。スターリンはおそらく、トロツキーに対する、またジノヴィエフとカーメネフ、およびこれらの仲間たち、に対する最終的な勝利を達成するまでは大会を招集するつもりがなかった。
 コミンテルンはその間に、「社会ファシズム」に関する教理にもかかわらず、アングロ=ロシア委員会をもつ1925年に形成されるに至ったイギリス労働組合に、世界労働組合運動の統合を促進するよう勧めていた。
 しかし、これは短期間で終わり、成功しなかった。
 1926-27年、コミンテルンは中国で重大な後退をこうむった。中国では、モスクワの指令にもとづいて小さな共産党が、中国を統一して近代化し、西側諸国による支配から自由になろうとする革命的な蒋介石を支援していた。
 スターリンの意見では、これはブルジョア的民族運動であり、その行方はプロレタリアート独裁へと一気に進むものではなかった。 
 ソヴェト同盟は武器を与え、軍事、政治の顧問団を送って助け、1926年春に蒋介石は、コミンテルンを「同調する」(sympathizing)党だとすら認めた。
 しかしながら、蒋介石は政府を形成したときに共産党員を排除し共産党には一部の権力も与えなかった。また、1927年4月の上海での中国共産党の蜂起を、多数の逮捕と処刑でもって鎮圧した。
 蒋介石はまずは打撃を加えて「同盟者」の機先を制した、と遅まきながら悟ったスターリンは、広東での暴動を命じて状況から脱しようと試みた。
 この広東暴動は同年12月に起きたが、新しい大虐殺でもって鎮静された。
 これらの失態について、トロツキーはスターリンを非難した。蒋介石の指導性を認めるのではなく、中国共産党は最初からソヴェト共和国樹立を狙うべきだったのだ、と。-トロツキーは、中国共産党はいかにすれば当時のその勢力の状態で蒋介石に勝つことができたのかを説明しなかったけれども。
 しかしながら、コミンテルンは中国共産党を「誤った政策方針」を追求したと非難した。そして、陳独秀〔中国共産党の初代総書記〕は批判され、のちに追放された。//
 (13)1928年8月の第六回大会は、社会主義者たちとの協働の試みを最終的にやめさせた。いずれにせよ、下らなくて、かつ成功しない、として。
 この大会は、世界の社会民主主義とその支配下にある労働組合は資本主義の主柱であり、全ての共産党は「社会ファシストたち」との闘いに全力を集中することを命じられる、と宣言した。
 また、資本主義の一時的な安定は今や終わった、新しい革命の時代が始まっている、と宣告した。
 多様な諸国の各共産党は、これらに倣って「右派」と「宥和派」を党から追放した。そして、新しい粛清によって、ドイツ、スペイン、アメリカ合衆国その他の諸国の指導者たちの中に、多数の犠牲者が生まれた。//
 (14)力強い政治的勢力の代表だったドイツ共産党が社会主義者を攻撃したことは、ヒトラーが権力を奪取した大きな原因だった。
 ドイツ共産党は、ナチズムは一過的な事象であり得るにすぎない、大衆が過激になることは共産主義への途を掃き清めてくれるだろう、と主張した。
 ヒトラーが政権に就いた後ですら、ドイツ共産党は、一年全部ほどの間、社会主義者を主要な敵だと見なした。
 ドイツ共産党が見方を変えたときまでには、この党はすでに破壊され、無力になっていた。//
 (15)1929年の末までに、ブハーリン(1926年にジノヴィエフを継いで執行委員会議長)の脱落の後には、スターリンは疑いなくボルシェヴィキ党の所有者であり、かつそれを通じて、国際共産主義の所有者だった。
 コミンテルンは独自の意義を全て失い、クレムリンから他諸党に対する指令の連絡管にすぎなくなった。
 コミンテルンの部員はスターリンに忠実な者たちだけで占められ、ソヴィエトの警察に統制された。
 彼らの仕事の中には、ソヴィエト同盟のための諜報員(intelligence agents)を新規に見つけることも含まれていた。
 粛清が繰り返されたあとの全ての諸党は、抗弁することなくモスクワからの変転する指令を受け入れた。その大部分は、ソヴィエトの外交部局が命じたものだった。
 スターリンは諸党に気前よく財政的援助をし、そうして諸党の彼への依存関係はますます増大した。
 コミンテルンは1930年代の半ばまでにたんなる外形だけになっており、外国諸党の服従を維持するという目的のためにすら、もう必要がなかったほどだ。//
 (16)第七回、そして最後のコミンテルン大会はモスクワで1935年7月-8月に開かれ、その後の一年またはそれ以上の期間の予兆となった、ファシズムに対する「人民戦線」という新しい政策方針を宣言した。
 それまで「右翼日和見主義」だと非難されてきたものが、今や公式の方針になった。
 全ての民主主義諸勢力、リベラル派はもちろん必要であれば保守派もだが、とくに社会主義者たちは、ファシストに対抗するために共産党の指導のもとに結集すべきものとされた。
 この政策に転じたスターリンの根拠は、かりにヒトラーがロシアを攻撃した場合にフランスその他の諸国が中立の立場をとる、ということへの恐怖だったかに見える。
 ともかくも、フランスは「人民戦線」方針の主要な対象だった。ドイツでは力のない<エミグレ>集団にだけ適用できるもので、他諸国の各共産党は、事態に影響を与えるには弱体すぎた。
 フランスの人民戦線は、1936年5月の選挙で勝利した。しかし、フランス共産党は、Léon Blum〔レオン・ブルム〕政権に閣僚を出すことを拒否した。
 一般的には、この政策方針は長くは続かず、ほとんど成果を生まなかった。
 その方針は、公式には取り消されなかったけれども、スターリンがナツィ・ドイツとの<友好関係(rapprochement)>を追求すると決定したときに、死文書(dead letter)となった。
 その間に、破壊されて地下に潜っていたドイツ共産党は遅まきながら、全ドイツの統一とポーランド回廊の廃絶というヒトラーのスローガンを採用した。//
 (17)「人民戦線」戦術の真の性格は、スペイン内戦によって明確になった。
 フランコ(Franco)の反乱の数カ月のち、スターリンは、共和国防衛のために干渉することに決めた。
 国際的旅団が編成され、ソヴィエト同盟は、軍事顧問団の他に政治工作員から成る組織を派遣した。そして、この組織は、共和国勢力の中のトロツキー主義者、アナキストおよびあらゆる種類の偏向主義者たちを追放した。
 (18)国際共産主義は、今や完全に「ボルシェヴィキ化」された。そして、いかなる場合でも、非ボルシェヴィキの共産主義の形態は、意味あるものとして継続することをやめた。
 1920年代には、党から追放されたりコミンテルンの方針に抗議して脱退したりした個人や集団は、ときおりは非ソヴィエト的共産主義の運動を組織しようとした。しかし、そうした試みは何も生み出すに至らなかった。
 トロツキー主義者たちは小集団となって無為に暮らし、力もなく世界のプロレタリアートの「国際的良心」に訴えかけた。
 ボルシェヴィキ党の権威と全共産党によって受諾された組織上の諸原理の強さは、1950年代までどの反対派集団も支持または影響力をもち得ないほどのものだった。
 世界の共産主義者たちは、スターリンが定めた道筋に沿って従順に行進した。
 1943年5月のコミンテルンの解散は、ソヴィエトが善意と民主主義的意思をもつことを西側の世論に対して説得するための素振り(gesture)にすぎなかった。
 諸共産党は十分にうまく躾けられ、組織や財政についてソヴィエト同盟に依存していたので、それら諸党を基本方針内に抑え込み続けるための特別の制度はもう必要がなかった。したがって、コミンテルンの解散には、何の意味もなかった。//
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 ③へとつづく。

1889/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第3節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義
 1978年英語版 p.105-p.109、2004年合冊版p.871-p.874。
 なお、コミンテルン日本支部=日本共産党設立は、1922年。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容①。
 (1)事物の自然な行程として、スターリン化は世界共産主義運動の全体に広がった。
 それが存在した最初の10年の間、第三インターナショナルは、異なる共産主義イデオロギーの諸形態の間の、議論と対立のフォーラムだった。しかし、その後、コミンテルンは自立性をすっかり失い、ソヴィエトの外交政策の道具になって、完全にスターリンの権威に従属した。
 (2)第一次世界大戦の間に社会民主主義諸党の内部に出現した多様な左翼集団や分派は、全てが純粋なレーニン主義者たちではなかった。しかし、運動に対する第二インターナショナルの指導者たちの裏切りを全てが非難することでは合意した。
 彼らはみな、改良主義を拒み、伝統的な国際主義精神を再生させようとした。
 十月革命は新しい革命的根拠地を生み出した。そして、これら左翼の者たちの多くは、世界共産主義革命が切迫していると考えた。
 1918年に、ポーランド、ドイツ、フィンランド、ラトヴィア、オーストリア、ハンガリー、ギリシャおよびオランダで共産党が結成された。
 つづく三年間に、多様な少数集団を代表する大小の革命的諸政党が、全ヨーロッパ諸国に存在するにいたった。
 多くの複雑な論議と分立にもかかわらず、こうしてレーニン主義諸原理をもつ国際的な共産主義運動が形成された。//
 (3)1919年1月、ボルシェヴィキ党は、トロツキーが草案を書いて、新しいインターナショナルの創立を呼びかける宣言書を発した。
 会合(大会)が同年3月にモスクワで開かれ、一定の共産主義諸政党および左翼の社会民主主義諸集団の代議員たちは、その計画に賛成した。
 第三インターナショナルは、正確には1920年7月-8月の第二回大会までは設立されていない。
 最初から、多様な諸政党には内部的な分立やレーニン主義の規範からの乖離があった。
 一方では、最近に分裂したばかりの社会民主主義者たちとの和解を切望する「右派」諸集団があり、他方には、妥協戦術や議会政治での連携を原則として拒否する「左派」または「党派的(セクト的、sectarian)」離脱主義者たちがいた。
 これは、レーニンが<「左翼」共産主義-小児病(Infantile Disorder)>で書いた考え方に反対するものだった。
 一年以内に、世界で、少なくともヨーロッパで、ソヴィエト共和国になるだろうとの共産主義者に一般的だった信念からすると、「左翼」の傾向は「改良主義」のそれよりもはるかに強く、明らかに多かった。//
 (4)コミンテルンの規約は、第二インターナショナルの原理的考えからの完全な離反を明確に示した。第一のそれの伝統に立ち戻るものだったけれども。
 規約は、インターナショナルは単一の党であり、各国の諸政党は分肢だ、目的は国際ソヴィエト共和国を樹立するために武力を含む全ての手段を用いることだ、ソヴィエト共和国樹立はプロレタリアート独裁の政治形態として、国家の廃棄へと向かう歴史的に約定された前奏部だ、と定めた。
 インターナショナルは、毎年(1924年以降は二年ごとに)大会を開催し、各大会の間は執行委員会が指揮するものとされた。執行委員会はその指令を無視する「支部(sections)」を除名し、規律違反を理由として集団または個人を排除することを要求することができた。
 1920年大会で採択されたテーゼは、将来の社会の適切な形態としての議会制主義を断固として拒絶する条項を含んでいた。
 議会や全ての他のブルジョア的国家制度は、それらを破壊するためにだけ利用しなければならない。そして、共産党議員団は、党に対してのみ責任をもつのであって、投票者という名前なき集団に対してではない。
 レーニンが草案を書いた植民地問題に関するテーゼは、植民地および後進諸国の共産党に対して民族的な革命運動との暫時的な同盟を形成すること、かつ同時に、共産党は独立性を保ったままでいるべきで、民族ブルジョアジーが革命運動を掌握するのを許さず、最初からソヴィエト共和国形成に向けて闘うこと、を命じた。
 共産党の指導のもとで、後進諸国は資本主義段階を通過することなくして共産主義を達成するだろう。//
 (5)大会はまた、全インターナショナルの根本教条であるソヴィエト同盟のそれを無条件に支持することを要求する宣言も発した。
 (6)もう一つの重要な文書はコミンテルンに加入した諸党が履行しなければならない、「21の条件」のリストで、これは、共産主義運動全体へとレーニン主義的組織形態を拡大するものだった。
 「条件」は、各共産党はその宣伝活動についてコミンテルンの決定に完全に服従しなければならない、と定めていた。
 共産主義的プレスは、完全に党の統制下においていなければならない。
 「支部」は改良主義的傾向と断固として闘わなければならない。そして、可能ならばいつでも、労働者諸組織から改良主義者や中央主義者を排除しなければならない。
 「支部」はまた-これがとくに強調された-、当該諸国の軍隊内部での系統的な宣伝活動を履行しなければならない。
 「支部」は、平和主義と闘い、植民地解放運動を支持し、労働者諸組織、とくに労働組合で活動し、農民の支持を得るよう奮闘しなければならない。
 議会では、共産党議員団は全てを革命的宣伝活動に従属させなければならない。
 党は、最大限に中央志向(cenralized)でなければならず、かつ鉄の紀律を遵守し、定期的に小ブルジョア的要素をもつ党員を排除(粛清、purge)しなければならない。
 党は疑うことなく、全ての現存する諸ソヴィエト共和国(existing Soviet republics)を支援しなければならない。
 各党の綱領は、インターナショナルの大会またはその執行委員会によって是認されなければならない。そして、大会または執行委員会の諸決定は全ての支部を拘束する。
 全ての党は「共産党」(Communist)と称しなければならず、加えて、当該諸国の法令が公然と活動することを許容する党は、「決定的瞬間に」行動するための秘密(clandestine)組織を設立しておかなければならない。//
 (7)こうして、軍事的分野に作用する中央志向の党は、世界共産主義運動の予め定められた様式になった。
 しかしながら、インターナショナルの創立者であるレーニンとトロツキーは、それをソヴィエト国家の政策の道具だとは想定していなかった。
 ボルシェヴィキ党自体は世界革命運動の「支部」または分肢にすぎないという考えは、最初は、全く真摯に抱かれていた。
 しかし、コミンテルンが組織されていく過程と創立の歴史的事情は、すみやかにそのような幻想を追い払った。
 ボルシェヴィキ党は最初に革命に成功した党として自然に大きな威厳をもち、レーニンの権威は揺るがないものだった。
 最初から、ロシアは執行委員会での決定的な発言権をもち、モスクワに居住する他諸党の常勤代表者たちは、徐々にソヴィエトのための活動家になった。
 ソヴィエト内部での指導権をめぐる闘争はインターナショナルに反映したのみならず、ときにはその主要な関心事になった。
 レーニン死後の権力を目指して競い合うボルシェヴィキの寡頭支配者たちのいずれも、兄弟政党の指導者たちの支持を得ようとした。そして、国際的共産主義の勝利または敗北が、今度はモスクワでの兄弟政党間の闘いに利用された。//
 (8)初期のインターナショナル諸大会は、規約に従って適時に開催された。
 第三回大会は1921年6月-7月に、第四回は1922年11月に、そして第五回は1924年6月-7月に、開かれた。
 このときまでにロシアは内戦を経過し、ネップ〔新経済政策〕の第一段階に入っていた。そして、レーニンが死んだ。
 レーニンの訓示と合致して、インターナショナルは最初から、植民地および発展途上諸国での革命的煽動活動のために忙しく活動した。
 インド共産党のNath Roy は、アジアでの革命が世界共産主義の主要な目標であるべきだ、と論じた。資本主義の安定は植民地化された地域からの利潤に依存している、人類の将来を決定するのはヨーロッパではなくアジアだ、と。
 しかしながら、インターナショナルの多数派は、ヨーロッパこそがなおも主要な焦点であるべきだと考えた。
 1920年のワルシャワ〔ポーランド〕を前にしてのソヴィエト軍の敗北によって、すみやかな革命の期待は減ったが、希望が完全に消え失せたわけではなかった。
 しかしながら、ドイツでの革命の企ては、1921年3月に大失敗で終わった。そして、その年6月の第三回インターナショナル大会の諸決議は、世界ソヴェト共和国の見通しに関して、以前よりも悲観的だった。
 レーニンとトロツキーはドイツでの蜂起を非難し、例のごとく大会も、同様に批判した。
 ドイツ共産党指導者のPaul Levi は蜂起に反対しており、それが原因で大会が始まる直前に党から除名されていた。しかし、名誉回復することはなかった。彼はあらためて非難され、その除名は正当なものと見なされた。
 新しい「レーニン主義」スタイルが、明らかに全面的に作動していた。//
 (9)世界革命が遅滞している間、コミンテルン指導者たちは、「左翼」少数派の強い反対に対抗して、社会主義者たちと協力する「統一戦線」方式を決定した。
 1922年の第四回大会を前にして論議が始まった。しかし、何にもならなかった。社会主義者たちは十分な理由でもって、「統一戦線」は自分たちを破壊することを狙った策略だと疑ったのだ。
 1923年10月、ドイツで再び蜂起が発生し、失敗した。
 このとき、ドイツの新しい党指導者のHeinrich Brandler は、コミンテルンとボルシェヴィキ党が完全に作成して主導した計画の生け贄(scapegoat)になった。
 1924年、トロツキーは、ドイツでの権力掌握による革命的状況を利用することに失敗したとして、そのときジノヴィエフが指揮していたコミンテルンの責任を追及した。//
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 ②へとつづく。

1875/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味①。1978年英語版 p.77-p.80、2004年合冊版p.849-p.852。
 (1)1930年代のソヴィエトには、全体主義的社会主義国家の公式の経典的イデオロギーとしての新しい範型のマルクス主義の形成(crystallization)が見られた。
 (2)集団化のあとの数年間、スターリン国家は一連の失敗と災難をくぐり抜けた。一方で民衆は、連続する抑圧の波にさらされた。
 集団化の実施は第一次五カ年計画の開始と一致していた。後者は、公式には1928年からの施行だったが、実際に是認されたのは翌年だった。
 トロツキーやPreobrazhensky が定式化し、スターリンが継受した考えによれば、奴隷化農業の役割は、工業の急速な発展のために余剰の価値を供給することだった。
 そのときから、重工業の優先というドグマは、国家イデオロギーの永続的な要素になった。
 当初の目標は、真摯な計算をすることなく、力によって全てのことはなされ得る、ボルシェヴィキが突破できない要塞はない、という想定のもとで、恣意的に決定された。
 にもかかわらず、スターリンはつねに、生産目標に満足しておらず、目標をさらに高く押し上げ続けた。
 もちろんその意図のほとんどは、達成できないことが判明した。最大限の人的および財政的な努力が投じられた重工業についてすら、結果は、想定されていたはずのときどきは半分、四分の一、あるいは八分の一だった。
 これを是正する方法は、統計学者を逮捕し、射殺すること、そして統計数字を捏造することだった。
 スターリンは1928-1930年に ほとんどの経済雑誌および統計雑誌を閉刊させた。N. D. Kondratyev を含む重要な統計学者のほとんどは、処刑されるか、投獄された。
 このとき以降、異なる工業の段階ごとに、生産額の二倍または三倍に上るように国民総収入を計算することも、習わしになった。こうして無意味な総額が生み出され、社会主義の優越性を証明するものとして定期的に誇らしげに発表された。
 集団化がますます農村地帯を破壊していたので、農業に関する数字は体系的に偽造(fake)された。
 スターリンや他の指導者たちがどの程度経済の本当の状態を知っていたかは、明瞭ではない。
 その間に、工業労働者たちの数が、農村部門からの補充によつて急速に膨らんだ。
 社会的な災難を償うために、怠業、つまり履行不能なノルマを達成できなかったこと、を理由とする技術者や農業専門家の逮捕や裁判が継続した。
 引き続いて1932-33年に飢饉が発生し、数百万人が死んだ。
 全ての世代の知識人を急進派に変え、マルクス主義の成長を促した1891-2年の飢饉と比較すると、取るに足らない割合の後退だった。
 スターリニストたちは、国じゅうが略奪者や怠業者、隠れ富農、戦前型の忠誠心なき知識人、トロツキー主義者、そして帝国主義諸国の工作員で溢れていると、休むことなく繰り返して宣伝した。
 飢えていく農民たちは、集団農場から一握りの穀物を盗んだとして強制労働収容所行きを宣告され得たし、実際にそうされた。
 奴隷労働収容所(slave-labour camps)が増加し、国家経済の重要な構成要素になった。とくに、シベリアの鉱山や森林のような条件が最も苛酷な地域では。//
 (3)にもかかわらず、虚構の計画による混沌と公的なウソのまっただ中で、叙述し難いほどの犠牲を対価として、ソヴィエトの工業は実際に進歩し、第二次五カ年計画(1933-37年)は、第一次よりもはるかに現実的だった。
 この時期にソヴィエト同盟が今日の工業力の基礎を設定したことは、共産主義者によってスターリニズムを歴史的に正当化するものとしていまだに呼び求められている。そして、多数の非共産主義者も、同様の見方をしている。後進国ロシアが早くその産業を近代化するためにはスターリニストの社会主義が必要だったと考えるのだ。
 先取りして我々の議論をある程度述べると、これについては、つぎのように回答することができる。
 ソヴィエト同盟は実際にかなりの程度の工業基盤を確立した。とくに、1930年代に重工業と軍需兵器について。
 それを可能にしたのは大量の強制と完全なまたは部分的な奴隷化という方法であり、それの副作用は、国民文化の破滅と警察体制の永続化だった。
 このような点で、ソヴィエトの工業化は、歴史上のその種のうちでおそらく最も無駄な過程だった。そして、このような規模の人的かつ物的コストなくしてはその全ての進歩は達成されなかったという証拠は全く存在しない。
 歴史は多様な方法での工業化の成功を記録しているが、それら全てが社会的な面での犠牲を払っている。しかし、社会主義ロシアにおけるほど、そのコストが重かったものはない。
 しばしば例示される、西側欧州が進んだ行程は産業諸国家の周縁部では繰り返されなかった、資本主義の大きな中心部がすでにその地位を確立していたので、というもう一つの議論は、たとえ相当の犠牲があったとしてもロシアとは異なる方法で工業化に成功した、日本、ブラジルおよびごく近年にはイランといった「周縁部の」諸国の例によって拒否される。
 1917年以前のロシアは急速かつ集中的に工業化している国だった。革命はその前進を多年にわたり遅らせた。
 工業発展のグラフは、帝政時代の最後の二十年間に顕著に上昇していた。それが厄災のごとく落ち込んだのは、革命の後だった。そして、様々な指標が、ある物は別の物よりも早かったが、それらの戦前のレベルにもう一度到達し、上昇し続けるのには、長い年月を要した。
 間に介在していた時代は、社会の解体と数百万の人命の破壊の時代だった。そして、革命前の発展を国が取り戻すためにはこうした全ての犠牲が必要だったと主張するのは、たんなるお伽噺(fantasy)にすぎない。//
 (4)歴史過程には人間の意図とは独立した内在的な目的がある、後知恵でのみ認識可能な隠れた意味がある、と考えるとすれば、ロシア革命の意味は工業化にあったのではなく、むしろロシア帝国の首尾一貫性および膨張した活力ににあった、と言わなければならない。この点では、新体制は実際、旧体制よりも効率的ではあったのだから。//
 (5)全ての社会階層-プロレタリアート、農民層および知識人-の抵抗が成功裡に収拾された後で、国家が組織していない全ての社会生活の形態が粉砕されて存在しなくなった後で、そして党内部の反対派が破壊された後で、-実行されなかったが-単一の専制者のもとでの全体主義的支配を完全にするのを脅かす、その可能性のある最後の要素は抑圧された。すなわち、党自体。共同社会にある全ての別の敵対勢力の息を止め、破壊するために用いられた組織それ自体。
 党の破壊は、1935-39年の間に達成された。そして、ソヴィエト体制とそれ自体の客体の間の矛盾について新しい記録が確立された。
 (6)1934年、スターリンはその権力の絶頂にあった。
 その年の最初の第17回党大会は、おべっかと崇拝の宴祭だった。
 敬慕される独裁者に対する積極的な反対者は存在しなかった。しかし、党の多くの中には、とくに古いボルシェヴィキの中には、礼は尽くすが心の奥底ではスターリンに縛られていない者がいた。
 彼らは、自分の努力でのし上がったのであり、スターリンの贔屓によるのみではなかった。したがって、危機のときには不安または反抗の危険な要因になり得た。
 そのゆえに、潜在的な反対者として、彼らは破壊されなければならなかった。
 彼らを絶滅するための最初の口実は、1934年12月1日のSergey Kirov(S・キーロフ)の殺害だった。キーロフは中央委員会書記の一人で、レニングラードの党組織の長だった。
 全てではないがたいていの歴史研究者は、この犯罪の本当の企図者はスターリンだった、ということで合意する。彼は一撃でもって可能な対敵を排除し、かつ大量抑圧の口実を生み出したのだ。
 これに続く魔女狩りは、最初は、党内部の以前の反対者たちに向けられた。しかしすぐに、独裁者の忠実な下僕たちも狙われた
 ジノヴィエフ(Zinovyev)とカーメネフ(Kamenev)は逮捕され、監獄での拘禁の刑を受けた。
 大量の処刑が、国じゅうの大都市で、とくにレニングラードとモスクワで起きた。
 テロルは1937年に激発にまで達した。この年が、「大粛清(great purge)」の最初の年だった。
 1936年秋に最初の大規模の見せ物裁判があり、それでジノヴィエフ、カーメネフ、スミルノフ(Smirnov)その他は死刑を宣告された。
 1937年1月の第2回裁判では、ラデク(Radek)、Pyatakov、Sokolnikov その他の「裏切り」に焦点が当てられた。
 1938年3月、ブハーリン(Bukharin)、ルィコフ(Rykov)、Krestinsky、Rakovsky およびYagoda が、被告に加わった。最後のYagoda は、1934-36年にNKVD(秘密警察)の長で、初期の粛清の組織者だった。
 少し前の1937年に、元帥トゥハチェフスキー(Tukhachevsky)とその他の軍最高指導者たちが秘密に裁判にかけられ、射殺された。
 全ての公開の審問で被告たちは、空想上の犯罪を自白した。そして、いかにして外国の諜報機関と策謀を図り、党指導者の暗殺をたくらみ、ソヴィエト領土の一部を帝国主義諸国に提供し、仲間の市民たちを殺し、毒を盛り、産業を妨害し、意識的に飢饉を引き起こしたか、等々を、次から次へと描写した。
 ほとんど全ての者は死刑の判決を受け、ただちに処刑された。ラデクのような数人だけは投獄の刑を受けたが、裁判のあとですみやかに殺された。//

1490再掲/レーニンとスターリン-R・パイプス1994年著終章6節。

 ネップやレーニン・スターリンの関係についての、R・パイプスの1994年の著の叙述を、順番を変えて、先に試訳する。 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の、p.506-8。
 
章名・章番号のない実質的には最終章又は結語「ロシア革命についての省察」の第6節だ。また、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.401-3 と内容がほぼ等しい。
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 結語〔最終章〕
 第6節・レーニン主義とスターリン主義

 ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題点は、レーニン主義とスターリン主義の関係-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。そう主張して、二人の共産主義指導者の間にいかなる接合関係があることも拒絶する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式的歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑される先行者からスターリン主義後の体制を分離するという目的に役立った。
 面白いことに、レーニンの権力掌握を不可避だったと叙述する全く同じ人々が、スターリンに至ると、その歴史哲学を捨て去る。スターリンは、歴史の逸脱だと表現するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、批判された先行者の路線のあとで歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)34年間の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 スターリンの経歴を一つ例に出しても、レーニンの死後に権力を掌握したのではなく、彼は最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかだ。
 レーニンは、党の諸装置を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠は、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日々の事務を遂行したことや、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて大量の助言を与えたことを示している。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは〔共産党の〕中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 この資格にもとづいてスターリンは、ほぼ全ての党支部や国家行政部門に執行的人員を任命するのを監督した。
 レーニンが組織的な反抗者(『分派主義』)の発生を阻止するために設定していた諸規程のおかげで、スターリンは彼が執事的位置にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上は、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、彼の人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
 しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞の99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI・S・ウンシュリフト(Unshlikht)は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに『容赦なく』処理したかを、またレーニンが資本主義世界の<人道性>をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(18)
 二人にある上記の違いは、『外部者』という概念の差違にもとづいている。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して採用したのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産主義者〔党員〕の殺戮を除き-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量の虐殺〔テロル〕も含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動方式(modus operandi)はレーニンのそれらだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的にはあるいは、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思いつくことができる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして>彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそ重要な指揮命令構造を党に与えることによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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  (18) RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
  (*) 実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたヴィャチェスラフ・モロトフは、スターリンと比べてレーニンの方が『より苛酷(harsher)』だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184。
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 結章6節終わり。

1865/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気③。合冊版、p.828~p.831。
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 (11)Pashukanis の理論はじつにマルクスの教えに深く根ざしており、当時にルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)によって進められたマルクスの解釈と合致していた。
 他方で、Renner やカウツキーのような社会民主主義者は、法を個人間の関係を規律するための永続的な道具だと見なした。
 物象化を分析したルカチの議論によれば、法は商品交換が支配する社会での人間関係を具象化して物神崇拝的な性格のものにする形式だということは、マルクスの社会哲学から帰結する。
 社会生活が介在者のいない形態に戻るときには、人間は、抽象的な法的規則を通じて彼らの関係を管理することを強いられないだろうし、あるいはそうできすらする。
 Pashukanis が強調したように、法的な協同は、抽象的な 法的範疇へと個人を変化させる。
 従って、法は、ブルジョア社会の一側面であり、そこでは全ての個人的協同関係は具象化した形態をとり、諸個人は、非人間的な力のたんなる操り人形だ。-経済過程における交換価値のそれら、あるいは政治社会における抽象的な法的規則。
 (12)マルクス主義から同様の結論が、1920年代のもう一人の法理論家、Petr I. Stuchka によって導かれた。この人物は、法はそのようなものとして階級闘争の道具であり、ゆえに階級対立が継続する間は存在するに違いない、と主張した。
 社会主義社会では、法は敵対階級が抵抗するのを抑圧するための道具であり、階級なき社会ではそれを必要とすることはもうあり得ない。
 コミンテルンでラトヴィアを代表したStuchka は、長年の間、ソヴィエト秘密警察の幹部だった。//
 (13)党の歴史よりも政治的敏感度が低い文学やその他の分野では、国家や党指導者たちは多くの場合、体制に対する一般的な忠実性の範囲内である程度の多元主義を認めることに痛みを感じなかった。
 レーニンもトロツキーも、ブハーリンも、文学に対して拘束着(strait-jacket)を課そうとはしなかった。
 レーニンとトロツキーは古い様式のものが個人的な好みで、<アヴァン・ギャルド>文学とかプロレタリア文学(Proletkult)とかを読まなかった。
 ブハーリンは上の後者に共感を寄せたが、文学を話題にしたいくつかの記事を執筆したトロツキーは、「プロレタリアートの文化」ではなく、かつ決してそうなり得ないと、にべもなく述べた。
 トロツキーは、つぎのように論じた。プロレタリアートは、教育を受けていないために、現在ではいかなる文化も創出することができない。将来についても、社会主義社会はいかなる類の階級文化も創出しないだろう。しかし、人間の文化全体を新しいレベルにまで引き上げはするだろう。
 プロレタリアートの独裁は、輝かしい階級なき社会が始まるまでの短い過渡的な段階にすぎない。-その社会は、全ての者がアリストテレス、ゲーテ、あるいはマルクスと知的に同等になることのできる、超人たち(supermen)の社会だ。
 トロツキーの考えでは、文学様式のうちのいずれか特定のものを崇めたり、内容と関係なく創作物に対して進歩的とか反動的だとかのレッテルを貼るのは、間違いだった。
 (14)芸術や文学に様式化された型をはめたこと以降の推移は、全体主義の発展の自然な結果だった。すなわち、それは国家、党、そしてスターリンを賛美するメディアへと移行していった。
しかし、創造的なはずの知識人界、少なくともその大部分は、そのように推移するのををかなりの程度、助けた。
 多様な文学および芸術の派が競争し合っていて、体制に対する一般的な忠実性を守るという条件のもとで許容されていた間は、ほとんど誰も、好敵たちに対抗するために党の支援を依頼することなどしなかった。このことはとくに、文学界と演劇界に当てはまる。
 かくして、自分たちの考え方が独占するのを欲した文筆家等は、つぎのような毒に満ちた原理を受容し、かつ助長した。すなわち、人文や芸術のあれこれの様式を許容したり禁止したりするのは党および国家当局の権限だ、という根本的考え方を。
 ソヴィエト文化が破壊された一因は、文化界の代表者たち自身にあった。
 しかしながら、例外もあった。
 例えば、「形式主義(formalists)」派による文学批判は1920年代に盛んになり、重要な人間主義的動向として敬意が払われた。
 これは、十年間の最後には非難された。この派の若干の者たちは政治的圧力と警察による制裁に屈することを拒んだけれども、結局は沈黙を強いられなければならなかった。
 つぎのことは、記しておくに値する。このような頑強さの結果として、形式主義派は地下の動向として存在し続けた。そして、25年後のスターリン死後の部分的な緩和のときに、力強く純粋な知識人の運動だったとして、再評価された。もちろん、そうした間に、この派の指導者たちの何人かは、病気その他の理由で死んでいたのだけれども。//
 (15)1920年代は、「新しいプロレタリアート道徳」の時代でもあった。-これは計画的または自発的な多数の変化を表象する用語だったが、全てが必ずしも同一の方向にあったのではなかった。
 他方で、「ブルジョア的偏見」に対する継続的な闘いがあった。
 これは、とくにマルクス主義的というのではなく、古いロシアの革命的伝統を反映していた。
 これは例えば、家族に関する法制度の緩和に見られた。婚姻と離婚はゴム印を捺す作業となり、嫡出子と非嫡出子の差別は廃止され、堕胎に対していかなる制限も課されなくなった。
 性的自由は、革命家たちの間の決まり事だった。Alexandra Kollontay が長らく理論の問題として擁護したように、また、その時代のソヴィエトの小説で見られ得るだろうように。
 政府は、親たちの影響力を弱めて教育の国家独占を容易にすることに役立つかぎりで、このような変化に関心をもった。
 公的な宣伝活動(propaganda)によって、幼児である子どもたちについてすら、あらゆる形態の集団教育が奨励された。そして、家族の絆はしばしば、たんなるもう一つの「ブルジョア的残存物」を意味するものとされた。
 子どもたちは、彼らの両親をスパイし、両親に反対することでも知らせるように教え込まれた。そして、そのように行ったときには、褒美が与えられた。
 しかしながら、この点に関する公的な見解は、授業や軍隊のような、生活の別の側面でのように、のちには著しく変化した。
 国家が個人に対して絶対的に支配することを助けるもの以外は、革命の初期の時代に説かれた急進的で因襲打破的な考え方の中から放擲された。
 それ以来、集団教育および両親の権威を最小限度にまで減らそうという理念は支配し続けた。しかし、主導性と自立性を促進すべく立案された「進歩的な」教育方法には終わりが告げられた。
 厳格な規律が再び原則となった。この点でソヴィエトの学校がロシア帝政時代のそれと異なっていたのは、思想教化(indoctrination)の強調がきわめて増大したことだけだった。
 そのうちに、厳格な性的倫理が、好ましいものとして復活した。
 最初のスローガンはもちろん、軍隊の民主化に関係するものだった。
 トロツキーは内戦の時期に、有能な軍隊には絶対的な紀律、厳格な階層制、職業的な将校団が必要であることに十分に気づいていた。しかし、兄弟愛、平等および革命的熱情にもとづく人民の軍隊という夢は、ユートピア的なものだとすみやかに認めざるを得なかった。//
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 ④へとつづく。

1829/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑭。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第14回
 第4章・ネップと革命の行く末。
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 第4節・一国での社会主義の建設。
 権力をもったボルシェヴィキの目標は、簡潔にいうと「社会主義の建設」だった。
 社会主義に関する考え方がいかに曖昧なものであっても、彼らに明白だつたのは、「社会主義の建設」のために最も重要なのは経済の発展と近代化だ、ということだった。
 社会主義になる前提要件として、ロシアには工場、鉄道、機械類および諸技術がもっと必要だった。
 都市化、田園地帯から都市への人口の移動、およびさらに大きくて永続的な都市的労働者階級が必要だった。
 民衆の識字能力が大きく向上すること、より多くの学校、より熟達した労働者と技術者が必要だった。
 社会主義の建設とは、ロシアを近代工業社会に変えることを意味した。//
 この変化について、ボルシェヴィキは明瞭な像を持っていた。それは基本的には、資本主義が西側の先進諸国で生じさせた変化だったからだ。
 しかし、ボルシェヴィキは「未成熟なままで」権力を奪取していた。-すなわち、ロシアでは、資本主義者の仕事をすることを始めたのだ。
 メンシェヴィキは、これは現実には危険を秘めており、かつ理論上きわめて不明瞭だと考えた。
 ボルシェヴィキたち自身が、どのようにすれば達成できるのかを本当には理解していなかった。
 十月革命後の最初の数年間、彼らは、ロシアが社会主義へと前進するためには産業化した西側ヨーロッパの助力が必要だろうとしばしば示唆していた。
 しかし、ヨーロッパの革命運動は挫折し、ロシアはどう前進すればよいか不確定なままに、しかし何とかして前進する途を自ら決定しなければならないままに、取り残された。
 かつての時期尚早の革命という議論を振り返って、レーニンは1923年に、メンシェヴィキの異論は「きわめて陳腐な文句」だと見なし続けた。(*秋月注)
 革命的情勢のもとでは、ナポレオンが戦争に関して述べたように、<仕事をせよ、そうすればつぎのことが分かる>(on s'engage et puis on voit )(**秋月注)。
 ボルシェヴィキは、危険を冒した。そしてレーニンは、-6年後に-「全体として」成功してきたことに今や疑いはありえない、と結論づけた。(22)//
 これはおそらく、勇敢さを装っている。最も楽観的なボルシェヴィキですら、内戦後に直面していた経済状態に動揺していたからだ。
 全てのボルシェヴィキたちの願望を嘲弄して、まるでロシアが20世紀をたくみに逸らして、全体的な後進性という類似性から逆に進んだかのごとくだった。
 町々は枯渇し、機械類は放棄された工場で錆びついていおり、鉱山は水浸しになり、工業労働者の半分は明らかに農民層へと再び吸収されていた。
 1926年の統計調査が示すことになるように、欧州ロシアは内戦直後の数年間に、1897年に比べて実際には都市化して<いなかった>。
 農民たちは伝統的な実体農業に戻り、農奴制出現以前の昔の黄金時代を再び獲得する意図をもっているように見えた。//
 1921年のネップの導入は、つぎのことの承認だった。すなわち、ボルシェヴィキはたぶん大資本家の仕事をすることができるが、当分の間は小資本家たちの存在なくしては生きていくことができない、ということ。
 都市部では、私的取引と小規模の私的産業の再生が許された。
 田園地帯では、ボルシェヴィキはすでに農民たちに土地を自由にさせていた。そして今ではボルシェヴィキは、都市的工業製品の消費者としてはもちろん、農民たちが都市市場のための信頼できる「小ブルジョア」生産者としての役割を果たしてくれるのかと気に懸けていた。
 農民たちの土地保有を強固にするという(ストリュイピンのもとで始まった)政策は、1920年代にソヴィエト当局によって継続された。<ミール>の権限を正面から攻撃するということはなかったけれども。
 ボルシェヴィキの立場からすれば、小資本家的農民の農業は村落の伝統的な共同体的かつ実体類似の耕作よりも好ましかった。そして、そう奨励することに全力を尽くした。//
 しかし、ネップ期の私的部門に対するボルシェヴィキの態度は、つねに両義的だった。
 内戦後に粉々になっていた経済を復興させるためには、ネップが必要だった。そして、復興に続く経済発展の初期の段階のためにもおそらく必要だろう。
 しかしながら、資本主義の部分的な復活ですら、多くの党員たちには不快でおぞましいものだった。
 製造業や採掘業の「免許」を外国企業に与えたとき、ソヴィエト当局は心配して当惑し、その免許を撤回して外国企業を買収できるほどに事業が安定するときが来るのを待った。
  地方の起業家(「ネップマン」)は、多大の疑念をもって処遇された。そして、彼らの活動に対する制限は1920年代の後半までにはきわめて強くなったので、多くの事業は消滅に至り、残っているネップマンたちには法の限界のところで活動する暴利商人のごとき翳りある様相があった。//
 農民層に対するボルシェヴィキのネップ期の方針は、いっそう矛盾すらしていた。
 集団的および大規模の農業は、ボルシェヴィキの長期的な目標だった。しかし、1920年代半ばの一般的な知識が教えたのは、その目標を達成する見込みは遠い将来のことだ、ということだった。
 その間に農民層を懐柔し、彼らが小ブルジョアの途を自由に進むのを許さなければならなかった。
 かつまた、農民たちが農業の方法を改善して生産を高めるように奨励することは、国家の経済的利益だった。
 これが暗黙にでも示すのは、懸命に働いて個々人の農業経営に成功する農民たちを、体制は許容し、推奨すらした、ということだ。//
 しかしながら、実際には、ボルシェヴィキは隣人たちよりも裕福になっていく農民たちをきわめて疑っていた。
 そのような農民たちは潜在的な搾取者であり村落の資本家だとして、しばしば「クラク〔富農〕」へと分類された。それが意味するのは、選挙権の剥奪を含む多様な形態で差別される、ということだった。
 「中産(middle)」農民(全農民の大多数が入る「裕福」と「貧困」の間にある範疇)との同盟を作出することを多く語りながらも、ボルシェヴィキは、農民層内部の階級分裂の徴候を継続的に見守り続けた。農民層を階級闘争へと投げ込み、裕福な農民に対する貧困な農民の闘いを支援する機会が来るのを心待ちしながら。//
 しかし、ボルシェヴィキが経済発展にとって最も重要と位置づけたのは、村落ではなくて、都市だつた。
 社会主義の建設について語るとき、彼らが心に抱く主要な過程は工業化だった。それは最後には都市経済のみならず村落経済をも変質させるはずのものだった。
 内戦の直接の影響で、1913年の水準にまで工業生産を復活させることだけでも、困難な任務であるように思えていた。レーニンの電力化計画は、事実上は1920年代前半の長期にわたる開発計画に他ならなかった。そして、よく周知されたにもかかわらず、元来の目標は全く控え目のものだった。
 しかし、1924-25年、予期しなかったほどの急速な工業および経済の復活によって、ボルシェヴィキ指導者の間には楽観的見方が急に沸きたち、近い将来での大工業の発展の可能性が再評価され始めた。
 内戦期のチェカの長であり党の最良の組織者の一人である Feliks Dzerzhinsky (ジェルジンスキー)は最高経済会議(Vesenkha)の議長職を継承し、その会議を強力な工業省へと作り替え始めた。彼は、帝政時代の先行者のように、冶金、金属加工および機械製造に焦点を当てた。
 急速な工業発展に関する新しい楽観主義は、1925年末のジェルジンスキーの自信に満ちた言明にも現れている。つぎのようなものだった。//
 『こうした(工業化という)新しい任務は、15年前あるいは20年前でも抽象的な言葉で考察していたようなものでは全くない。その当時に我々は、国家の工業化の行程を進み始めることなくしては社会主義の建設は不可能だ、と言っていた。
 今では我々は、一般的な理論のレベルで問題を設定しているのではなく、我々の全ての経済活動の明確で具体的な目標として設定しているのだ。』(23)//
 急速な工業化が望ましくないことについては、ボルシェヴィキ指導者の間で現実的な異論はなかった。しかし、この問題は不可避的に、1920年代半ばの党派闘争の中で論じられることになった。
 トロツキーは、ネップの初期の暗鬱なときですら国家経済計画を積極的に支持した数少ないボルシェヴィキの一人だった。そして、彼の政敵たちに対抗して工業化という根本的考え方を主唱したのは幸せなことだっただろう。
 しかし、1925年にスターリンは、工業化は今や<自分の>問題であり、自分の最も優先されるべき問題の一つだ、と明瞭に述べた。
 十月革命の八周年記念行事でスターリンは、経済の急速な近代化を推進するという党の最近の決定を、1917年のレーニンの、政治権力を奪取する重要な決定と照らし合わせた(24)。
 これは大胆な比較だった。スターリンが自分のために望んだ名声のみならず、経済近代化の達成に彼が付した重要性をも示唆していた。
 思うに、すでに彼は、レーニンの後継者としての歴史を密かに用意していたのだろう。すなわち、彼は工業化推進者(Industrializer)たるスターリンとなるはずだったのだ。//
 党の新しい方針は、スターリンの「一国での社会主義」というスローガンで表明された。
 これが意味したのは、自分の力だけで、ロシアは工業化し、強大になり、社会主義の前提条件を生み出そうとしている、ということだった。
 世界革命ではなく国家の近代化が、ソヴィエト共産党の第一次的な目標になった。
 ボルシェヴィキは、自分たちのプロレタリア革命を支えてくれるヨーロッパでの革命を必要としなかった。
 ソヴィエト国家を建設するためには、外国人の善意を-革命家のであれ資本家のであれ-必要としなかった。
 自分たちの力は、1917年十月にそうだったように、戦いに勝利するには十分だったのだ。//
 ソヴィエトが世界で孤立しているという否定できない事実やいかなる犠牲を払っても工業化するというスターリンの意図を考慮すれば、「一国での社会主義」は結集させるための有用な叫び声であり、よい政治的戦略だった。
 しかし、それはマルクス主義理論の厳格な教えに熟達した古いボルシェヴィキには、現実に反対する意向を大きくはもたないとしても、しばしば論争したくなるような戦略だった。
 結局のところ、国家的熱狂(愛国主義、chauvinism)という底流を掻き乱すものとして、<理論上の>問題は無視されることになった。まるで、ソヴィエトの政治的に遅れた国民大衆に、党が迎合しているかのごとくだった。
 先ずはジノヴィエフ(1926年までコミンテルン議長)が、次にトロツキーが毒餌に食いつき、「一国での社会主義」に反対の声を挙げた。イデオロギー的には誤っていないが、政治的には災悪だ、と。
 この反対によって、スターリンは反対者たちに汚名をつけることができた。そして同時に、スターリンは国家建設とロシアの国益を主唱しているという、政治的に有利な事実を強調した。(25)//
 ユダヤ人知識人のトロツキーがボルシェヴィキはつねに国際主義者だったと強く指摘したとき、スターリンの支持者たちは、トロツキーはヨーロッパ以上にロシアのことを気に懸けない世界主義者(cosmopolitan)だと描いた。
 トロツキーが自分はスターリンと同じく工業化論者だと適切に主張したとき、スターリンの仲間たちは、トロツキーは1920年に労働徴兵を支持し、従って、スターリンとは違って、おそらくロシアの労働者階級の利益を犠牲にする心づもりのある工業化論者だ、と想起させた。
 だがなお、工業化に要する資金が論争点となった。そして、トロツキーは、ソヴィエト国民が耐えられないほどに搾り取られるべきではないとすれば、外国取引と借款がきわめて重要だ、と主張した。このことは、トロツキーが「国際主義」者であることのもう一つの証拠になっただけだった。-大規模な外国取引と借款を獲得できそうではない情勢にますますなっていたのだから、トロツキーに現実的感覚が欠けていたことは言うまでもないとしても。
 スターリンは、対照的に、愛国的でありかつ同時に現実的な立場をとった。すなわち、ソヴィエト同盟は、資本主義の西側からの恵みを乞う必要はないし、そう望みもしない、と。//
 しかしながら、工業化のための資金融通は重大な問題で、言葉上の盛んな議論だけで終わらせるべきものではなかった。
 ボルシェヴィキは、資本の蓄積がブルジョア産業革命の前提条件だったことを、そして、マルクスはこの過程は民衆の受難を意味すると生々しく叙述していたことを、知っていた。
 ソヴィエト体制もまた、工業化するためには資本を蓄積しなければならない。
 ロシアのかつてのブルジョアジーはすでに収奪されてしまっており、新しいブルジョアジーであるネップマンとクラク(富農)には、多くを蓄積する時間と機会がなかった。
 革命の結果として孤立しているロシアがウィッテ(Witte)の例にもう従えないとすれば、体制は自分たちの資力を、民衆一般の資力を、そしてまだ圧倒的な数の農民から資力を引き出さなければならなかった。
 そうすると、ソヴィエトの工業化とは、「農民の搾取(squeezing)」を意味したのか?
 そうであるならば、体制はそれに続きそうである政治的対決から生き延びることができたのか?//
 1920年代半ば、この問題は、機会主義者であるプレオブラジェンスキーとブハーリン、およびスターリン主義者たちの間の論争の主題だった。
 <共産主義のイロハ>の共著者だった前者二人は、ともによく知られたマルクス主義者で、それぞれに対応して経済理論と政治理論の専門家だつた。
 プレオブラジェンスキーはこの論争で-経済学者として論じて-、工業化に使うために、主としては村落部門に対する取引条件を変えることによって、農民に「貢ぎ物」を要求する必要があるだろうと書いた。
 ブハーリンは政治的観点から、これは受け入れ難いと見なした。農民から反発されるだろうし、レーニンがネップの基礎だとした労働者・農民の同盟関係を破壊する危険を冒す余裕は体制側にはない、と異論を述べたのだ。
 この論争に、結論は出なかった。ブハーリンは工業化する必要、そのために何とかして資本を蓄積する必要を肯定したからであり、一方でプレオブラジェンスキーは、農民層と強制力や暴力をもって対立するのは望ましくないことに同意したからだ。(26)//
 スターリンは、この議論に関与しなかった。そのことで多くの者は、彼は味方であるブハーリンと同じ考えだと想定した。
 しかしながらすでに、スターリンの農民に対する態度はブハーリンのそれよりも優しくない、ということがある程度は示されていた。すなわち、スターリンはクラクの脅威に関して、より強硬な方針を採った。また、1925年には明示的に、農民層が「金持ちになる」ことを体制による祝福でもって奨励するブハーリンの考え方からは離れていた。
 さらに加えて、スターリンは、工業化追求をきわめて強く確言していた。そして、ブハーリン・プレオブラジェンスキー論争から導かれる結論は、ロシアは工業化を遅らせるか、それとも農民層と対立する大きな危険を冒すか、のいずれかだったのだ。
 スターリンは、不人気な政策を事前に発表するような人物ではなかった。しかし、後から見ると、どの結論をスターリンが選択したのかを推測するのはむつかしい。
 彼が1927年に記したように、工業生産高と産業プロレタリア-トの数字をほとんど戦前の水準にまで向上させたネップによる経済回復は、都市側の方へと、都市と田園地帯の間の力の均衡を変えていた。
 スターリンは工業化を目指し、それが田園地帯との政治的対立を意味しているとすれば、「都市」が-つまりは都市的プロレタリア-トとソヴィエト体制が-勝利するだろうと考えた。//
 ネップの導入に際して、レーニンは1921年に、これは戦略的な退却だ、いまはボルシェヴィキが新規に革命的な攻勢を行う前に勢力を結集させるときだ、と述べた。
 10年も経たないうちにスターリンは、ほとんどのネップ政策を放棄し、工業化を追求する第一次五カ年計画と農業の集団化によって、革命的変化の新しい段階を開始した。
 これは真の(true)レーニンの路線だ、レーニンが生きていれば彼自身が採用していただろう途だと彼は語ったし、疑いなくそう信じていた。
 ブハーリンやルィコフを含む他の党指導者たちは、次の章で論述するように、同意しなかった。レーニンは、ネップという穏健で懐柔的な政策は体制が社会主義に向かうさらなる決定的な一歩を踏み出す望みを持てるまで「真剣にかつ長い間」実施されなければならないと述べたのだと、彼らは強く指摘した。//
 歴史研究者たちは、レーニンの政治的遺産に関して、分かれている。
 ある者たちは、善意であれ悪意であれ、スターリンはレーニンの真の(true)後継者だったとする。一方、別の者たちは、スターリンは基本的にはレーニンの革命に対する裏切り者だと見る。
 もちろんトロツキーは後者の見方を採り、自分は匹敵し得る後継者だと考えた。しかし、彼は、スターリンによるネップの放棄と彼の五カ年計画の間の経済的かつ社会的な変化の追求に関して、原理的には何ら本当には反対していなかった。
 1970年代、そしてソヴィエト同盟でのゴルバチョフのペレストロイカの短い時期に、レーニン主義(または「元来のボルシェヴィズム」)とスターリニズムの間に根本的な違いを見た研究者たちを惹きつけたのは、スターリンに対する「ブハーリンという選択肢」だった。
 ブハーリンという選択肢とは、実際には、近い将来までの間のネップの継続だった。そして、それが力を持ったとすれば、ボルシェヴィキは漸進的な方法でその革命的な経済的かつ社会的目標を達成できるという可能性が少なくともあることを、意味していた。//
 レーニンが生きていれば1920年代末にネップを放棄していたのか否かは、誰一人決して明確には回答することができない、「かりに〜ならば、どうなっていたか」(what if)という歴史の問題だ。
 レーニンの晩年の1921-23年、彼は急進的な変化について-当時のボルシェヴィキ指導者たちと同様に-悲観的で、また、放棄したばかりの戦時共産主義政策への執着が党に心遺りとして続いているのを妨げたいと願っていた。
 しかし、彼は異様に気まぐれな思想家であり、政治家だった。彼の気分は-他のボルシェヴィキ指導者たちのように-、予期しなかった1924-25年の急速な経済回復に鋭く反応して変わったかもしれなかった。
 レーニンは、1917年4月に、「この革命の決定的な闘い」が生きている間にやって来るのは結局は不可能だと考えていた。しかし、同じ年の9月頃には、プロレタリア-トの名による権力奪取の絶対的な不可避性を主張した。
一般的にレーニンは、状況の消極的な犠牲者になりたくはなかった。この状況というのは、ネップのもとでの自らの位置をボルシェヴィキがどう理解しているかにとって、基本的に重要だつた。
 レーニンは気質において革命家なのであり、ネップは決して、経済的かつ社会的観点からするその革命的目標を実現するものではなかった。//
 1956年の第20回大会でのフルシチョフによるスターリンの悪に対する批判の後で、古い世代の多数のソヴィエト知識人は、1920年代の青年時代の回想録を執筆した。それらによると、ネップ期はほとんど黄金時代だったように見える。
 そして、西側の学者たちはしばしば、同じような見方を示した。
 しかし、遡って回顧してのネップの美点-社会内部での相対的な緩和と多様性、体制の側での比較的にレッセ・フェール的な態度-は、当時の共産党員たる革命家たちが褒め讃えた性質ではなかった。
 1920年代の共産党員たちは、階級敵を怖れ、文化的多元主義を許容せず、党の指導部の一体性の欠如に不安をもち、方向と目的意識の感覚を喪失していた。
 彼らは、その革命で世界を変えたかった。しかし、いかに多く古い世界が存続したかは、ネップ期に明瞭だった。//
 共産党員たちにとって、ネップは、偉大なフランス革命が堕落した時期であるテルミドールの匂いがした。
 1926-27年、党の指導部と反対派の間の闘争は、新しい次元の苦しみにまで達していた。
 どちらの側も他方を、革命の陰謀とか裏切りとか言って責め立てた。
 フランス革命との類似性が、しばしば引用された。ときには、「テルミドールの退廃」と関連させて。ときには-不気味にも-、ギロチンが持つ有益な効果に言及がなされて。
 (過去にボルシェヴィキ知識人たちは、革命を食い潰し始めたときに革命は瓦解するということを教える革命の歴史を知っていることを誇った。) (28)//
 また、病気の前の不快な感覚は党のエリートたちに限られてはいない徴候もあった。
 多数の一般党員や同調者たちは、とくに若者たちは、幻滅し始め、革命は行き詰まったと考える方向へと傾斜した。
 労働者たち(党員の労働者を含む)は、「ブルジョア専門家」やソヴェトの行政担当者の特権、悪徳な取引をするネップマンの利得、高い失業率、および機会と生活水準の不平等さの永続にひどく腹を立てていた。
 党の煽動者やプロパガンダ者は頻繁に、「我々は何のために闘ったのか?」という怒った疑問に対応しなければならなかった。
 党の空気を占めたのは、若きソヴィエト共和国がやっと静かな港に入ったという満足感の一つではなかった。
 あったのは焦燥感、不満感の空気であり、辛うじて戦闘気分が抑えられていた。そして、とくに若者の党員たちの間には、内戦期のあの英雄的な日々への郷愁が覆っていた。(29)
 共産党-革命と内戦の経験を通じて塑形され、(レーニンの1917年の言葉では)「腕を組む労働者階級」だと自己をまだ意識していた1920年代の若き党-にとって、おそらくは平和があまりにも早くやって来ていた。//
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 (22) レーニン「我々の革命」(N・スハノフの記録について), <全集>第33巻p.480〔=日本語版全集第33巻「わが革命について/1923年1月17日」500頁。下のとくに**を参照。〕
 *(秋月1) レーニン全集日本語版33巻498頁の訳では、「はてしのないほど」の又は「極端に」「紋切り型」。
 **(秋月2)レーニン全集日本語版33巻500頁の訳文は、こうなっている。
 「私の記憶では、ナポレオンは<On s'engage et puis …on voit>と書いた。ロシア語に意訳すれば、こうなる。『まず重大な戦闘にはいるべきで、しかるのちどうなるかわかる。』
 そこで、われわれもまず1917年十月の重大な戦闘……、しかるのち…がわかったのである。
 そして現在、われわれがだいたい勝利をおさめてきたことは、疑う余地がない」。
 (23) Yu. V. Voskresenskii, Perekhod Kommunisticheskoi Partii k osushchesvleniyu SSSR (1925-1927)(Moscow, 1969), p.162. から引用した。
 (24) スターリン「十月、レーニンおよび我々の発展の展望」, <全集>(Moscow, 1954)vii 所収, p.258〔=日本語版スターリン全集(大月書店)第7巻「十月革命、レーニンおよび、われわれの発展の見通し」261頁以下〕
 (25) こうした議論につき、E. H. Carr, <一国社会主義>, ⅱ, p.36-p.51.を見よ。
 (26) この論争の詳細な検証につき、A. Erlich, <ソヴィエト工業化論争-1924-1926年>(Cambridge, MA, 1960)を見よ。
 (27) Stephen F. Cohen「ボルシェヴィズムとスターリニズム」, Tucker ed. <スターリニズム、ブハーリンおよびボルシェヴィキ革命>(New York, 1973)所収、Moshe Lewin, <ソヴィエト経済論争の政治的底流: ブハーリンから現在の改革者まで>(Princeton, NJ, 1974), を見よ。
(28)テルミドールに関する党の議論につき、Deutscher, <武装していない予言者>(London, 1970), p.312-332. およびMichal Reiman, <スターリニズムの誕生>, 訳George Saunders (Bloomington, IN, 1987), p.22-23. を見よ。
 (29) 若者の疎外感に関する懸念につき、Anne E. Gorsuch, <革命ロシアの若者たち>(Bloomington, IN, 2000), p.168-181. を見よ。
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 第4章(ネップと革命の行く末)の第4節が終わり。第4章の全体も終わり。

1824/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑬。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第13回
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 第4章・ネップと革命の行く末。
 第2節・官僚機構の問題(The problem of bureaucracy)。
 革命家として、全てのボルシェヴィキは「官僚制」(bureaucracy)に反対だった。
 自分たちは党の指導者か軍事指令官だと幸せにも思ってきたのだが、彼らは真の革命家が新しい体制の一官僚(bereaucrat)、<chinovnik>になるのを受忍できたのだろうか?
 行政活動について議論したとき、彼らの言葉遣いは豊富な婉曲語法になった。すなわち、共産党員である行政担当者(officials)は「幹部(cadres)」で、 共産党官僚機構は「ソヴェト権力」の「装置」であり「機関」だった。
 「官僚機構」(bureaucracy)という語は、つねに侮蔑的なものだった。「官僚主義的方法」や「官僚主義的解決」は、何としてでも避けられるべきものだった。そして、革命を「官僚主義の頽廃」から守らなければならなかった。//
 しかし、こうしたことによって、ボルシェヴィキが独裁制を確立した意図は社会を支配しかつまた移行させることにあった、という事実を曖昧にすることはできなかった。
 行政機構なくしてこの目的を達成することはできなかった。彼らは最初から、社会は自主的にまたは自発的に変化を遂げることができる、という考え方を拒否していたのだから。
 かくして、疑問が出てくる。どのような行政機構が必要だったのか?
 ボルシェヴィキは、地方での基盤が解体してしまった中央政府の官僚機構(central government bureaucracy)を引き継いだ。
 彼らは、地方政府の機能を1917年に部分的に奪い取ったソヴェトを有してはいた。
 最後に残っていたのは、ボルシェヴィキ党自体だった。-革命を準備して実行するという従前の機能は、十月以降の状況には明らかに適合しなくなっていた組織だ。//
 かつての政府官僚機構は今はソヴェトの支配下にあったが、ツァーリ体制から継承した多数の行政担当者や専門家をなおも使っていた。そしてボルシェヴィキは、革命的諸政策の実施を拒否したり妨害したりする彼らの能力を怖れた。
 レーニンは1922年に、古いロシアの「被征服国民」は共産主義者という「征服者」に価値を認める過程にすでに入っている、とつぎのように書いた。。//
 『4700名の共産党員が責任ある地位に就いているモスクワについては、あの大きい政府官僚機構、あの巨大な堆積物については、「誰が誰を指揮しているのか?」と問わなければならない。
 共産党員はあの堆積物を指揮している、と本音で言われているのか否かを、私はひどく疑っている。
 本当のことを言えば、共産党員は指揮しておらず、指揮されている。<中略>
 その(かつての官僚制の)文化は悲惨でとるに足らないものだが、我々のそれよりもまだ高いレベルにある。
 現にそうであるように惨めで低くても、我々の責任ある共産党員行政担当者よりも高い。共産党員行政担当者には、行政の資質がないからだ。』(11)
 レーニンは、かつての官僚機構が共産主義の価値を破壊する危険を見ていた。しかし、共産党にはそれによって活動する以外の選択肢はないと考えていた。
 共産党員は、かつての官僚制の技術的な専門知識を必要とした。-行政上の専門知識だけではなくて、政府財政、鉄道運営、度量衡あるいは共産党員に可能であるとは思えない地理測量のような分野の特殊な知識をも。
 レーニンの考えでは、新体制が「ブルジョア」専門家を必要とすることを理解しない党員は全て、「共産主義者的傲慢」という罪を犯していた。この罪は、共産主義者は全ての問題を自分で解決できると考える無知で子どもじみた信念のことだ。
 十分な数の共産党員専門家を党が養成するには、だいぶ時間がかかるだろう。
 そのときまで、共産党員はブルジョア専門家とともに仕事をし、同時にしっかりと彼らを支配し続けることを学ばなければならなかった。//
 専門家に関するレーニンの考えは、他の党指導者たちも一般に受け入れていた。しかし、彼らは一般党員にあまり人気がなかった。
 たいていの党員は、政府の高いレベルで必要な専門技術的知識の性質や種類に関してほとんど何も知らなかった。
 しかし彼らは、旧体制からいる小役人がソヴェトで類似の仕事を何とか苦労してしているとき、あるいは主任会計士がたまたま工場施設の地方党員活動家に同意しないとき、あるいは村落の学校教師がコムソモルで面倒を起こしたり学校で教理問答書を教育する宗教信者だったときですら、地方レベルで専門知識がもつ意味を明確に理解していた。
 たいていの党員は、重要な何かをしなければならないときには党を通じてそれをするのが最善だと明白に思っていた。
 もちろん、日常の行政レベルでは、党中央の機構は巨大な政府官僚機構と競い合うことはできなかった。-党の機構は、あまりにも小さすぎたのだ。
 しかし、地方レベルでは、党委員会とソヴェトがともに最初から設立されており、状況は違っていた。
 党委員会は内戦後に主要な地方機関として出現してきており、一方でソヴェトは、かつてのゼムストヴォと似ていなくもない二次的な役割の担当者になっていた。
 党の命令系統を通じて伝達される方針の方が、大量の布令や非協力的でしばしば混乱しているソヴェトに対して中央政府から伝えられる指示文書よりも、実施される可能性が高かった。
 政府にはソヴェトの人員を採用したり解職するしたり権能がなかった。そして、より効果的な、予算による統制も及ぼすことができなかった。
 党委員会は、これと対照的に、党の上級機関からの指示に従うという党紀律に服する党員を揃えていた。
 委員会を率いる党の書記局員は、形式上は地方党機関が選出した者たちだったけれども、実際には、党中央委員会書記局が転任させたり、交替させることができた。//
 しかし、一つの問題があった。
 党組織-中央委員会書記局を頂点とする諸委員会と幹部の階層制-は、どの点から見ても明らかに、官僚機構(bureaucracy)だった。そして、官僚機構とは共産主義者が原理的に嫌うものだったのだ。
 1920年代半ばの継承者争い(後述、p.108-111)のときトロツキーは、党官僚機構を設立して自分の政治目的のために巧みにそれを操っているとして、党総書記のスターリンを非難した。
 しかしながら、この批判は党全体に対してほとんど影響を及ぼさなかったように見えた。
 その一つの理由は、党書記局員の(選出ではなく)任命は、トロツキーが主張するほどにはボルシェヴィキの伝統から離れているものだはなかった、ということだ。すなわち、地下活動をしていた1917年以前の古い時期には、委員会はつねに、ボルシェヴィキ中央から派遣された職業的革命家たちの指導に大きく依拠していた。そして、1917年に地上に出てきたときですら、委員会が自分たちの地方的な指導性を選択する民主主義的権利を主張するのではなく、ふつうは「中央から来た幹部たち」に執拗に要請した。//
 しかしながら、より一般的な観点からすれば、ほとんどの共産党員は党組織を侮蔑的な意味での官僚機構だとは考えていなかったように思える。
 彼らにとって(Max Weber にとってと同じく)、官僚機構は明確に定義された法令と先例群を適用することによって活動するもので、高い程度の専門性と職業的な専門技術や知識への敬意という特徴ももっていた。
 しかし、1920年代の党組織は顕著な程度には専門化されておらず、(治安や軍事問題は別として)職業的専門家を尊重していなかった。
 党組織の職員は「書物を見て仕事をする」ように指導されてはいなかった。すなわち、初期には、依拠することのできる党の諸指令を集めたものは存在せず、のちには、そのときどきの党の基本的政綱の精神に対応するというよりもむしろ、かつての中央委員会の指令を示す文書にすがっている書記局員は全て、「官僚主義の傾向」があると非難されそうだった。
 共産主義者が官僚機構を欲しないと言うとき、意味しているのは、革命家の命令に対応しようとしない又は対応することのできない行政機構を欲しない、ということだった。
 しかし、それと同じ理由で彼らは、革命家の命令に対応<しようとする>行政機構を大いに持ちたかった。-革命の指導者たちからの命令を進んで受け入れて、急進的な社会変革の政策を実施する意欲のある、そういう職員がいる行政機構をだ。
 そのようなことをするのは、党組織(または官僚機構)が遂行することのできる革命的な作用だった。そして、ほとんどの共産党員は本能的に、そのことを是認していた。//
 ほとんどの共産党員はまた、「プロレタリア独裁」をする機関はプロレタリアのものであるべきだと信じていた。これが意味するのは、従前の労働者が責任ある行政の仕事に就くべだ、ということだった。
 これは、マルクスがプロレタリア独裁でもって意味させたそのものではなかったかもしれない。そして、レーニンが意図したそのものでもなかったかもしれない。
 (レーニンは、1923年にこう書いた。
 労働者は、「我々のためにより良き機構を樹立したがっているけれども、その方法を知らない。
 労働者は、それを樹立することができない。
 労働者は、そのために必要な文化をまだ発展させていない。必要なのは、文化だ」。(12))
 にもかかわらず、全ての党内論議で当然の前提にされていたのは、つぎのことだった。すなわち、組織の政治的健全さ、革命的情熱および「官僚主義的頽廃」からの自由は、労働者階級出身の幹部の割合と直接に関係している、ということ。
 階級という標識は、党組織を含む全官僚機構に適用された。
 この標識は、党自体の新規加入者にも適用された。そして、将来におけるソヴィエトの行政エリートの構成に影響を与えることになる。//
 1921年、工業労働者階級は混乱状態にあり、それと体制との関係は危機に瀕していた。
 しかし、1924年までに、経済の再生によっていくぶんかは困難が落ち着き、労働者階級は回復と成長をし始めた。
 党が数十万の労働者を党員として新規に募集する運動であるレーニン募集(Lenin Levy)を発表し、プロレタリア一体性(proletarian identity)の確約を再確認したのは、その年だった。
 この決定で暗黙に示されていたのは、労働者が行政上の仕事に就くのを促進して「プロレタリア独裁」を生み出し続ける、という確約だった。//
 労働者階級出身党員の大募集から三年後の1927年までに、共産党には一般党員および幹部を含めて総じて数百万を超える党員がいた。そのうち39パーセントは職業上は当時の労働者で、56パーセントは入党したときの職業が労働者だった。(13)
 この二つの割合の違いは、行政上のまたはホワイトカラーの仕事へと永久に移行した労働者共産党員のおおよその数を示している。
 ソヴェト権力になってから最初の10年間に入党した労働者がその後に行政的職務へと昇進する可能性は、(1927年より後の昇進を除いても)少なくとも50対50だった。//
 労働者階級の党員にとって、党組織は、政府官僚機構以上に人気のある目的地だった。その理由の一つは、労働者は党という環境の方が安心感を抱いたからであり、また一つは、教育の不足が、まあ言えば政府の財務人民委員部の課長に比べて、地方の党書記局ではさほど問題にならなかったからだ。
 1927年に、党組織で責任ある地位に就く党員の49パーセントは、従前の労働者だった。これに対して、政府やソヴェトの中の党員の対応する数字は、35パーセントだった。
 こうした乖離は、行政階層の最上位のレベルではもっと顕著だった。
 上位の政府の職務に就く党員にはほとんど労働者階級出身の者はおらず、一方で、地域の党書記たち(<oblast'>、<guberniya>や<krai>といった組織の長)のほとんど半分はかつての労働者だった。(14)
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 (11) レーニン<全集>33巻p.288。
 (12) 「より少なく。しかし、より良く」(1923年3月2日), レーニン・<全集>33巻p. 288.
 (13) I. N. Yudin, <Sotsial'naya baza rosta KPSS>(Moscow, 1973), p.128.
  (14) <Kommunisty v sostave apparata gosuchrezdenii i obshchestvennykh organizatsii. Itogi vsesoyuznoi perepisi 1927 goda>(Moscow, 1929), 25;<ボルシェヴィキ>, 1928, no.15, p.20.
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 第3節・指導者争い(The leadership struggle)。
 レーニンが生きていた間、ボルシェヴィキは彼を党指導者だと認めていた。
 にもかかわらず、党は公式には一人の指導者を持たなかった。そして、党は必ず指導者を必要とすると考えるのは、ボルシェヴィキには不快だつた。
 政治的な混乱状態があったとき、党の同志たちがレーニンは個人的な権威でもって取引しすぎると彼を強く批判するのは、聞かれないではなかった。
 そして、レーニンは通常は自分の主張を押し通そうとする一方で、追従や特別の敬意をとくに示すこと要求することはなかった。
ボルシェヴィキは、ムソリーニや彼のイタリア・ファシストについては侮蔑以外の何ももっていなかった。喜劇オペラの制服で着飾り、統領(Il Duce)に忠誠を誓う政治的には原始的な連中だと見なしていたのだ。
 その上、ボルシェヴィキは歴史の教訓を学んでおり、ナポレオン・ボナパルトが皇帝だと自ら宣言したフランス革命のようにはロシア革命を衰退させるつもりはなかった。
 ボナパルティズム-革命戦争指導者の独裁者への変化-は、ボルシェヴィキ党内でしばしば論議された危険だった。その論議では通常は暗黙のうちに、赤軍創設者であり内戦中の若い共産主義者たちの英雄だったトロツキーが示唆されていた。
 想定されたのは、いかなる潜在的なボナパルトも、奮起させる演説力と壮大な展望力をもつ、おそらくは軍服をまとったカリスマ的人物だろう、ということだった。//
 レーニンは、1924年1月に死んだ。
 しかし、彼の健康は1921年半ば以降は深刻に悪化していて、その後は間欠的にしか政治上の活動をしなかった。
 1922年5月の発作によって部分的に麻痺し、1923年3月の二度めの発作で麻痺が増大して、言葉を発する能力を失った。 
 ゆえに、レーニンの政治的な死は漸次的な過程であり、彼自身は最初の結果を観察することができた。
 政府の長としてのレーニンの責務は、三人の代行者が引き継いだ。その中では、1924年にレーニンを継いで人民委員会議の議長になった Aleksei Rykov (ルィコフ)が最も重要だった。
 しかし、明白なのは、権力の主要な中枢は政府にではなく党の政治局にあり、この政治局はレーニンを含む総員七名で成り立っていた、ということだった。
 他の政治局員は、トロツキー(戦争人民委員)、スターリン(党総書記)、ジノヴィエフ(レニングラード党組織の長・コミンテルン議長)、カーメネフ(モスクワ党組織の長)、ルィコフ(人民委員会議初代副議長(副首相))および Mikhail Tomsky (トムスキー、中央労働組合会議議長)だった。//
 レーニンが病気の間-そして実際にはその死後も-政治局は集団指導制によって活動すると公式に確言し、誰かがレーニンと交代できるとか彼と同様の権限ある地位に就きたいとかいうことを、どのメンバーも強く否定した。
 にもかかわらず、1923年には、秘やかなというよりもむしろ激しい継承者争いが進展した。ジノヴィエフ、カーメネフおよびスターリンの三人組(triumvirate)が、トロツキーに対抗したのだ。
 トロツキー-ボルシェヴィキ党への加入の遅さとそれ以降の輝かしい業績の両方の理由で、指導層から外れた風変わりな人物-は、強く否定していたけれども、最上位を目ざす野心をもつ競争者だと受け止められていた。
 1923年遅くに書いた<新しい行路>(the New Course)でトロツキーは、ボルシェヴィキ党の古き前衛たちは革命的精神を喪失し、「保守的で官僚主義的な党派主義」に屈服し、地位を保つのが唯一の関心である小粒の支配エリートのごとくますます振る舞っていると警告することで、意趣返しをした。//
 レーニンは病気のために指導者として活動できなかったが、彼の継承者になる可能性のある者たちの策略(manoeuvring)をまだ観察することができた。そして、政治局に関して同様に偏見に満ちた見方を作り上げており、それを「少数独裁制」だと描写し始めた。
 1922年12月のいわゆる「遺書」で、レーニンは、-傑出していると認めたスターリンとトロツキーの二人を含む-多様な党指導者たちの性格を概述した。そして、わずかに称賛をしつつ事実上は彼ら全員を酷評した。
 スターリンについての論評は、党総書記として巨大な権力を蓄積しているが、その権力をつねに十分な注意を払って行使しているわけではない、というものだった。
 一週間後、スターリンとレーニンの妻のNadezhda Krupskaya (クルプシュカヤ)との間でレーニン病床体制に関する衝突が生じた後で、レーニンは、スターリンは「粗暴すぎる」、総書記の地位から排除すべきだ、と遺書の最後に書き加えた。(15)//
 この時期、多くのボルシェヴィキ党員は、スターリンがトロツキーと対等の政治的評価を得ていることに驚いただろう。
 スターリンは、ボルシェヴィキが傑出した指導者にふつうは連想する資質を一つも持っていなかった。
 スターリンはレーニンやトロツキーのようには、カリスマ性のある人物でも、優れた演説家でも、抜きん出たマルクス主義理論家でもなかった。
 スターリンは英雄ではなく、労働者階級の実直な息子でも、優れた知性の持ち主でもなかった。
 Nikolai Sukhanov (スハーノフ)はスターリンの印象を「よどんだ灰色」とした。-したたかな裏工作政治家で党内活動の専門家だが、個人的な特徴のない人物だと。
 スターリンよりもジノヴィエフの方が政治局三人組の中の第一のメンバーだと、一般に想定されていた。
 しかしながら、レーニンは、たいていの者よりもスターリンの能力をより十分に評価することができた。なぜなら、1920-21年の党内闘争の間、スターリンはレーニンの右腕だったからだ。//
 トロツキーに対する三人組の闘いは、1923-24年の冬に頂点に達した。
 党内分派が公式には禁止されているにもかかわらず、状況は1920-21年のそれに多くの点で似ていた。そしてスターリンは、レーニンが行ったのと同じ戦略に多く従った。
 第13回党大会に先立つ党内議論と代議員の選挙の際に、トロツキー支持者たちは反対派として運動を行った。一方で、党組織は、「中央委員会多数派」、すなわち三人組、を支持するために動員された。
「中央委員会多数派」が勝利した。中央政府官僚機構、大学および赤軍の党細胞に、トロツキーが支持されるという空白部分があったけれども。(16)
 最初の投票のあとで、親トロツキー諸細胞に対する集中的な攻撃があり、それは、その細胞の多くが多数派へと寝返ることを誘発した。
 わずか数ヶ月のち、そのときすでに近づいている党会議に備えて1924年春に代議員が選出されていたが、トロツキーへの支持はほとんど完全に消滅していたように見えた。//
 これは基本的に、党機構のための勝利だった。-すなわち、総書記であるスターリンのための勝利だった。
 総書記は、ある研究者が「権力の循環する流出物」(circular flow)と名付けたものを操作する地位にいた。(17)
 書記局は地方党組織を率いる書記局員を任命し、望ましくない分派的傾向を示せば彼らを解任することもできた。
 地方党組織は、全国的な党の大会や会議のために代議員を選出した。そして、〔地方の党の〕書記局員が地方代議員名簿の上位へと載せられるのが、ますます一般的になっていた。
 その代わりに、党の全国的会議は、党の中央委員会、政治局および組織局-もちろん書記局の-委員を選出した。
 要するに、総書記は、政治的反対者に制裁を加えるのみならず、その職務に在任することを確認する会議をも操作することができた。//
 1923-24年の深刻な闘いによって、スターリンは、その地位を強固にすることを系統的に進行させた。
 1925年、スターリンはジノヴィエフおよびカーメネフと決裂し、この二人が侵略者のごとく見える防御的な反対者の立場へと追い込んだ。
 のちにジノヴィエフとカーメネフは、トロツキーと一緒になって統一した反対派となった。スターリンは、忠実で意思の堅い仲間たち〔チーム〕の助けを借りて、これを簡単に打ち破った。-その仲間の中には、将来の政府および工業の指導者となる Vyacheslav Molotov(モロトフ)や Sergo Ordzhonikidze (オルジョニキーゼ)もいた。彼らはこのとき、スターリンの周りに結集していた。(18)
 多数の反対派支持者たちは、遠方の州の仕事へと自分たちが任命されていることに気づいた。そして、反対派の指導者たちはまだ党の諸会議に参加することができたが、反対派の代議員はほとんどいなかったので、その指導者たちは党との接点を完全に喪失した無責任な<フロンド党員>のように見えた。
 1927年、反対派の指導者と支持者たちの多くは分派主義を禁止する規約を破ったという理由で党から除名された。
 トロツキーとその他の反対派の者たちは、そのとき、遠方の州へと行政的に〔判決によらずして〕追放された。//
 スターリンとトロツキーの間の論争で対立した争点は、とくに、工業化の戦略と農民に対する政策に関してだった。
 しかし、これらの現実的な問題について、スターリンとトロツキーの考えは大きくは離れていなかった(後述p.114-6)。すなわち、二人はいずれも、農民に対する特別の優しさを持たない、工業化論者だった。1920年代半ばのスターリンの公的立場の方がトロツキーのそれよりも穏健だったけれども。
 そして、数年後にスターリンは、急速な工業化のための第一次五カ年計画についてトロツキーの政策を盗んだとして追及されることとなった。
 一般党員たちは、彼らの個人的性格のいくつかほどには、論点に関する競争者の不一致を明確に感知することができなかった。
 トロツキーは、ユダヤの知識人で内戦時に無情さと華麗でカリスマ的な指導性を示した人物だと(必ずしも好ましいものとは限らなかったが)広く知られていた。
 スターリンは、より中庸的で陰の多い人物で、カリスマ性はなく、知的でもユダヤ人でもない、と知られていた。//
 党機構とその挑戦者の間の対立にあった真の争点は、ある意味では、機構そのものだった。
 こうして、支配的な党派と元々一致していない点が何であったにせよ、1920年代の全ての反対派集団は、同じ主要な不満をもって終焉することとなった。すなわち、党は「官僚主義化」した(bereaucratized)。そして、スターリンは、党内民主主義の伝統を死滅させた。(19)
 このような「反対派」の見方は、晩年のレーニンにすら起因していた。(20) そしてそれは、おそらくある程度は正当だった。レーニンもまた、指導者層の内部から閉め出されていたのだから。但し、レーニンの場合は政治的敗北ではなくて病気が原因だったけれども。
 しかし、多くの点でスターリンの政治的師匠だったレーニンは、党機構に反対して党内民主主義という原理的考え方へと本当に変わったのだ、と理解するのは困難だろう。
 レーニンに関心があったのは権力の集中それ自体ではなく、権力が誰の手に集中されているのか、という問題だった。
 同様に、1922年の遺書でレーニンは、党書記局の権力を減少させることを提案しなかった。
 彼はただ、スターリン以外の誰かが総書記に指名されるべきだと書いたのだ。//
 やはりなお、1920年代のレーニンとスターリンの間の継続性の要素が何であろうとも、レーニンの死と継承者争いは政治的な転換点だった。
 権力を追求するスターリンは、反対派たちに対抗してレーニン主義の方法を使った。しかし彼は、-党でのその個人的権威が長く確立していた-レーニンは決して到達し得なかった完璧さと冷酷さをもってそれを使った。
 一たび権力を握ると、スターリンは手始めにレーニンのかつての役割を果たした。まず最初は、政治局でだった。
 しかし、そうしているうちにレーニンは死んで、過ちや非難を超越したほとんど神のごとき性格を与えられた指導者(the Leader)になり、その遺体は防腐処理されて恭しく、民衆を喚起するためにレーニン霊廟に安置された。(21)
 死後に生じたレーニン崇拝(Lenin cult)は、指導者なき党というかつてのボルシェヴィキの神話を打ち砕いた。
 新しい指導者が抜きん出て初代のそれ以上になることを望んだとすれば、彼には構築しておくべき基盤がすでにあった。//
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 (15) 「遺書」のテキストは、Robert V. Daniels, ed., <レーニンからゴルバチョフまでのロシア共産主義に関する資料による歴史>(Lebanon, NH, 1993)に所収、p.117-8.
 (16) Robert V. Daniels, <革命の良心>(Cambridge, MA, 1960), p.225-230.を見よ。
 (17) この語句はDaniels のものだ。明瞭でかつ簡潔な議論につき、Hough & Fainsod, <ソヴィエト同盟はいかにして統治されたか>, p.124-133, p.144.を見よ。
 (18) 1920年代の分派闘争の経緯におけるスターリンのチームの形成につき、S・フィツパトリク・<スターリン・チームについて-ソヴィエト政治における危険な生活の年代>(Princeton, 2015), ch. 1.を見よ。
 (19) これは1920年代の共産党内反対派の研究であるDaniels の<革命の良心>の統一テーマだ。-このタイトルが示すように、Daniels は、党内民主主義という抗弁は反対派の固有の機能ではなくて革命的な理想主義の表現だと見なしている。
 (20) Moshe Lewin, <レーニンの最後の闘い>(New York, 1968)を見よ。
 選択しうる別の解釈につき、Service, <レーニン>, Chs. 26-28.を見よ。
 (21) レーニン崇拝の出現につき、Nina Tumarkin, <レーニンは生きている!>(Cambridge, 1983)を見よ。
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 第4章(ネップと革命の行く末)の第2節と第3節の試訳が終わった。

1787/ネップと20年代経済②-L・コワコフスキ著1章5節。

 この著には、邦訳書がない。かつての西ドイツでは原ポーランド語からのドイツ語直訳書が1977年~79年に一巻ずつ出版されたようだ。第一巻に限ると、英語版よりも1年早い。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.29~p.33。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争②。
 トロツキーが1920年のしばらくの間は、テロルに他ならないものを基礎とする経済の有効性を疑っていた、そして穀物の徴発を現物税〔食糧税〕に変えるべきだと彼は提案した、というのは本当(true)だ。
 しかし、まもなく彼は考えを変え、ネップ期の間は、「緩やかな」経済に対する、主要な反対者の一人になった。反対したその経済とは、農民層に物質的に譲歩し、自由取引を都市部と村落地域の間の取引の主な態様にするものだった。//
 ブハーリンの考えは一方で、反対の方向へと進展した。
 1920年には、計画経済という考えは幻影(fantasy、お伽ぎ話)の世界に属していた。
 ロシアの産業は破滅していて、輸送はほとんどなく、まさしく苦悩する問題は、共産主義の新世紀をどう始めるかではなくて、迫り来る飢餓から都市をどう救うかだった。
 この悲惨な状況でレーニンがその経済上の教理から退却する号砲を鳴らし、農業生産物の自由な取引、小規模の私的企業の許容によって農民的経済と長期間を共存していこうと決意したとき、ブハーリンも同様にその初期の立場を放棄し、ネップの熱烈な支持者とイデオロギストになった。これはまずはトロツキーに、次いでジノヴィエフ、カーメネフおよびプレオブラジェンスキーに反対するものだった。
 1925年以降、ブハーリンは、反対者に対するスターリンの主要なイデオロギー上の支持者だった。
 彼はレーニンのように、<過渡期の経済学>で説いたプログラム全体が妄想(delusion)だったということを認識するに至った。 そして、指導者たちが逆上(frenzy)した短い間に生命を贖った数百万の犠牲者のことを気にかけなかった。//
 市場経済へと回帰するのを支持するブハーリンの根拠は、-もちろん銀行や主要産業の国有は維持するのだが-主としては経済上のものだが、ある程度はまた政治的なものだった。
 主要な論点は、農業がほとんど全体的に小農民の手にある状況のもとで、経済的手段によって望ましい蓄積のレベルを達成して産業を発展させるために、国家はいかにして商品経済への影響力を行使できるか、だった。
 市場条件のもとで農民から必要な量の食糧を獲得するためには、生産者および消費者の商品と同等の価値のものを村落地域に供給することが必要だ。
 これは、不可能ではなくとも、産業が破滅している国家では困難だ。しかし、そうしなければ、農民たちは産物を売らないだろう。売って収益を得ても買うことのできる商品が何もないのだから。
 付け加えれば、これは、国家経済が農民の慈悲にすがるしかないとすれば、「プロレタリア-ト」、つまりはボルシェヴィキ党、はいかにして支配的な地位を維持できるのか、という問題だった。 
 市場が発展していけば、農民たちの地位はそれだけ強くなるだろう。そうすると、彼らは最後には「プロレタリア独裁」を脅かすかもしれない。//
 プレオブラジェンスキーは、経済問題ではトロツキストだと見なされていて、農民層に譲歩するスターリンとブハーリンの政策に反対した。彼は、つぎのように論じた。
 最初の段階での社会主義国家の主要な任務は、産業の強い基盤を作り出し、蓄積の必要な程度を確保することだ。
 これ以外の全ての経済目的は工業に、とくに産業装置を備えた製造業の発展に従属しなければならない。
 資本主義的蓄積は植民地の強奪によって容易になったが、社会主義国家は植民地を持たず、自分の資源でもって工業化を達成しなければならない。
 しかしながら、国家産業は、それ自体は十分な蓄積の基盤を作り出すことができず、小生産者から、すなわち現実には農民層から資源を吸い取らなければならない。
 私有の耕作地は、国内の植民地化の対象にならなければならない。
 プレオブラジェンスキーは、工業への投資を増大させるために農民の労働から最大限の量の余剰価値を抽出することによる、農民の搾取であることを率直に認めた。
 この「植民地化」の過程は主としては、工業生産物の価格を国家が農業生産物に支払う価格と釣り合う最高限度までに固定することによって、達成するものとされた。
 これは、可能なかぎり短い期間のうちに最大限の援助を奪い取るために、農民層に対する別の形態での経済的圧力によって実施された。
 他方で党指導者たちは、小生産者の側での蓄積を促進し、農民層の福利のために工業を、とくに重工業を軽視する政策を追求した。
さらには、この政策の主要な利得者は、クラク(富農)だった。
 というのは、全てが産業の側からの、これは相対的に強い階級、プロレタリア-トの独裁の側からということになるが、これからの要求を無視して農業の生産性を向上させるためになされていたので、自然のこととして、最大の配当を約束する豊かな農民たちが選択するように貸金や設備が動いたからだ。
 このことは不可避的に、最初は経済的でのちにすみやかに政治的にもなった富農の力を強くした。彼らは、プロレタリア-トの権力を掘り崩し始めるだろう。
 当時の現存の政府のように全ての農民層の経済的要求を充足させて、食糧を売却するよう誘導したい者たちは、交流のある外国との通商政策を押し進め、工業のための生産物の代わりに農民層のために消費用商品を輸入しなければならないだろう。
 このような展開の全趨勢はプロレタリア-ト以外の階級の利益のために歪曲され、その結果は、社会主義国家の存在に対する脅威になるだろう。//
 このような基本的考え方に添って主張して、プレオブラジェンスキーおよび左翼反対派は、農業の集団化に向けて攻め立てた。どのような方法によってそれが達成されるのか、彼らは明瞭には説明しなかったけれども。//
 トロツキーは、これと同じ基本的考え方だった。
 1925年に彼が書いたように、国有工業が農業よりも少ない早さで発展すれば、資本主義の復活は不可避だ。
 農業は国有産業の一部門になるように機械化され、電気化されなければならない。
 こうしてのみ、社会主義は異分子の要素を放逐し、階級対立を解消することができる。
 しかし、このこと全てが、工業が適切に発展するということにかかっていた。
 結局のところは、新しい形態の社会の勝利は、その社会での労働の生産性が果たす。
社会主義は、徐々に資本主義よりも高い生産性を達成する力をもつことを理由として、勝利するだろう。
 こうして、社会主義の勝利は、社会主義的工業化に依存する。
 社会主義とはじつに、その側にあらゆる利点をもつのだ。技術の進歩はすみやかにかつ全般的に応用することができ、私的所有制が生んだ障壁によって遮られることはない。
 経済の中央集中化は、競争に由来する無駄の発生を妨げる。
 産業は消費者の気まぐれに左右されるものではない。そして、国民全体の志気が、高い次元の生産性を保障する。
 中央集中化と標準化は自発的主導性を駄目にするもので、いっそう仕事を単調にすることを意味すると苦情を述べるのは、前工業時代の生産への反動的な憧れに他ならない。
 経済全体が「単純で画一的な自動的機械構造」へと変わらなければならない。そしてそのためには、資本主義的な要素、すなわち小農民生産者に対して絶えざる批判的宣伝運動をしなければならない。この闘いを放棄することは、資本主義への回帰を黙って認めることになる。
 トロツキーは、プレオブラジェンスキーと違って、「社会主義的蓄積の客観的法則」や産業投資のために農民層から最大限に余剰価値を強要する必要性を語りはしなかった。しかし、資本主義に対する経済的な攻勢を呼びかけたので、同じことに帰一した。
 反対者たちがブハーリンを非難したのは、根本的に豊かなクラク(富農)の利益のためのもので、「テルミドールの反動」だ、という理由でだった。
 ブハーリンの政策は社会主義に対する階級的敵対意識を高め、経済における資本主義的要素に特有の危険性を増大させるだろう、と彼らは主張した。
 スターリン、ブハーリンおよびこれらの支持者は答えて、「超(super)工業化」を呼びかけるのは非現実的だ、反対者たちの政策は富農だけではなく巨大な農民中間層を体制の敵に回す、と主張した。
 それは「プロレタリア-トと貧農および中農との同盟」というレーニンの神聖な根本規範に反する。そして、ソヴィエト国家の存在そのものを脅かすだろう、と。
 反対派は継続的に、資本主義的要素を阻止し続けるべきだと要求しているが、-たとえ経済的だけでも-政府からの圧力が強まって農民層の意欲(incentive)が奪われたらどうすべきなのかを語っていないし、国家は警察による強制以外のどんな方法によって食糧の生産と分配を確保できるかについても、何ら語っていない。//
 この当時にスターリンが支持したブハーリンの論拠は、戦時共産主義の時代が十分に証明するように、国家の農民層に対する徹底的な闘いは経済的に非効率で政治的には厄災だ、ということだった。
 国家の経済発展は農民層の最大限の搾取に依存すべきではなく、国家と村落地域の間をを、ゆえに労働者階級と農民層の間を連結する市場を保持することによるべきだ。
 蓄積の程度は流通の効率性と速度にかかっており、このことにこそ尽力は向けられるべ きだ。
 農民が強制または経済的手法によって余剰の全てを剥奪されるならば、自分が食べる以上の食糧を産出しないだろう。
 そのゆえに、農民に強制力を用いることは、国家とプロレタリア-トの瞭然たる利益に反する。
農業生産を増大させる唯一の方法は、物質的な動機づけを与えることだ。
 これは確かに、クラク(富農)に有利になることだろう。しかし、商取引上の協働関係の発展によって、クラクを含む農民全体を、全体としての経済成長を推進する国家統制体制の中に組み込むことが可能になる。//
 工業の発展は、村落の市場にかかっていた。農民層による蓄積は工業製品への需要の増大を意味した。そしてそのゆえに、全ての範疇の農民による蓄積を許容することは、国家全体の利益だった。
 こうしたことから、ブハーリンは1925年に農民に対して「金持ちになれ(Get rich)!」と訴えかけた。-これは、後年にはこの人物の非正統性を紛れもなく示す証拠として、しばしば引用されるスローガンだ。
 ブハーリンの考えでは、裕福な農民に闘いを挑んだり村落地域内での階級対立を搔き立てたりすることは、農業のみならず経済全体を破滅させることになる。
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1784/一国社会主義-L・コワコフスキ著1章4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第4節、 p.21~p.25。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第4節・一国での社会主義。

 1924年の末にかけてトロツキーとその「永続革命」との考えに対抗して定式化された「一国での社会主義」という教理は、長い間、スターリンによるマルクス主義理論への大きな貢献だと考えられてきた。これから推論される帰結は、トロツキズムは一団の反対物たる明確な教条だ-トロツキー自身も明らかに共有するに至る見方-、ということだ。
 しかしながら、現実には、二人の間には、理論上の不一致はもちろん、根本的な政治的対立は存在していなかった。//
 述べてきたように、十月蜂起の指導者たちは、革命の過程はすみやかにヨーロッパの主要諸国に広がるだろう、世界革命の序曲(prelude)でなくしてはロシア革命には永続する希望はない、と信じた。
 初期のボルシェヴィキ指導者の誰も、これとは異なる考え方を抱いたり、表明したりすることはなかった。
 この主題に関してレーニンがいくつか書いたことも紛らわしさが全くないものだったので、スターリンはのちに、それらを著作集から削除した。
 しかしながら、世界革命の望みが少なくなり、共産主義者たちのヨーロッパで蜂起を発生させようとする絶望的な努力は失敗に帰したので、彼らは、その社会がいったい何で構成されるのかを誰も正確には知らなかったけれども、当面の直接の任務は一つの社会主義社会の建設だということにもまた同意した。
 二つの基本的な原理が、受容されつづけた。すなわち、歴史法則によって最終的には世界を包み込む過程を、ロシアは開始した。そして、西側の諸国が自分たちの革命を始めるのを急いでいない間は、自国の社会主義への移行を開始するのはロシア人だ。
 社会主義を実際に一度でもまたは全部について建設することができるのか否かという問題は、真剣には考察されなかった。実際の結論は、答えに訊くしかなかったのだから。
 内戦の後でレーニンが、布令を発することでは、ましてや農民を射殺することでは穀物を成育させることはできないと気づいたとき、そして引き続いてネップを導入したとき、彼は確実に「社会主義の建設」にこだわっており、外国で革命を搔き立てること以上に、国家内部の組織化に関心をもっていた。//
 スターリンが1924年春に「レーニン主義の基礎」という論文を発表したとき-これはレーニンの教理を彼自身に倣って集大成する最初の試みだった-、彼は一般的に受容されていることを繰り返して抽出し、トロツキーを、農民の革命的役割を「誤解」しており、革命はプロレタリア-トによる一階級支配によって開始することができると考えていると、攻撃した。
 彼は、こう論じる。レーニン主義は、帝国主義時代とプロレタリア革命時代のマルクス主義だ。ロシアは、その相対的な後進性とそれが苛んだ多くの形態の抑圧によって革命へと成熟していたがゆえに、レーニン主義が生まれた国になった。レーニンはまた、ブルジョア革命の社会主義革命への移行を予見した。
 しかしながら、スターリンはこう強調した。単一の国のプロレタリア-トだけでは最終的な勝利をもたらすことができない、と。
 トロツキーは同じ年の秋に、1917年以降の自分の著作を集めたものを刊行した。その序言では、自分が唯一のレーニン主義原理に忠実な政治家だとの証明や、指導者たち、とくにジノヴィエフとカーメネフ、は優柔不断でレーニンの蜂起計画に敵対する態度をとったことに対する批判、を意図すると述べた。
 彼はまた、ジノヴィエフがそのときに議長(the chief)だったコミンテルンを、ドイツでの蜂起の敗北や革命的情勢を利用できないことについて攻撃した。
 トロツキーの批判は、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、リュコフおよびクルプシュカヤその他による、集団的な回答を惹き起した。それは、過去の全ての過ちと失敗についてトロツキーを非難し、彼は傲慢であり、レーニンと争論をした、革命に対するレーニンの貢献を貶した、と責めた。//
 スターリンが「トロツキズム」という教理を作りだしたのは、このときだった。
 1917年以前にトロツキーが定式化した「永続革命」という考えは、ロシア革命は継続して社会主義段階へと移るが、その運命はそれが生じさせる世界革命にかかるだろう、と予想するものだった。
 さらに、巨大な層の農民が多数派である国家では、労働者階級は国際的なプロレタリア-トによって支援されなければ政治的に破壊されるだろう、国際プロレタリア-トの勝利だけがロシアの労働者階級の勝利を確固たるものにできる、というものだった。
  「ブルジョア革命の社会主義革命への移行」という問題はその間には対象ではなくなっていたので、スターリンは、トロツキズムは社会主義は明らかに一国では建設され得ないと主張するものだと意味させた。-かくして、スターリンは読者に、トロツキーの本当の意図はロシアに資本主義を復活させることだ、と示唆した。
 1924年の秋、トロツキズムは三つの原理に依拠している、とスターリンは明瞭に述べた。
 第一に、プロレタリア-トの同盟者としての農民という最も貧しい階層のことを分かっていない。
 第二に、革命家と日和見主義者の間の平和的共存を認めている。
 第三に、ボルシェヴィキ指導者たちを誹謗中傷している。
 のちに、トロツキズムの本質的な特徴は、一国での社会主義の建設を開始するのが可能であるにもかかわらずそれを遂行するのは不可能だと主張することにある、と明言された。
 スターリンは<レーニン主義の諸問題について>(1926年)で1924年春の自分自身の見解を批判し、一国での社会主義を最終的に建設する可能性と資本主義者の干渉に対して最終的に自己防衛する可能性とは明確に区別しなければならない、と述べた。
 資本主義が包囲する状況では、干渉に対抗できる絶対的な保障はないが、それにもかかわらず、十分な社会主義社会を建設することができる、と。//
 一国で社会主義を最終的に建設できるのか否かに関する論争の要点は、ドイチャー(Deutscher)がスターリンの生涯について適切に観察したように、党活動家の心理を変えようとするスターリンの意欲にある。
 彼はロシア革命は自己完結的だと強調することで、世界共産主義の失敗が生んだ意気消沈と対抗しているのであつて、理論にかかわっているのではない。
 スターリンは党員たちに、「世界のプロレタリア-ト」の支援の不確実さに困惑する必要はない、我々の成功はそれにかかっているのではないのだから、ということを確かなものにしたかったのだ。
 要するに彼は、もちろんロシア革命は世界全体の革命の序曲だとの神聖な原理を放棄しないで、楽観的な雰囲気を生み出そうとした。//
 トロツキーが1920年代のソヴィエト外交政策とコミンテルンの職責にあったとすれば、スターリンよりも外国の共産主義者の反乱に関心を寄せていただろう、ということはあり得る。しかし、彼の努力が何がしかの成功をもたらしたと考えることのできる根拠はない。
 当然に、トロツキーは、スターリンが革命の根本教条を無視しているためだとして世界の共産主義者の敗北を利用した。
 しかし、欠けているとしてトロツキーが責めた国際主義的な熱情をもってスターリンがかりに活動したとして、彼は何をすることができただろうかは、少しも明確ではない。
 ロシアには、1923年のドイツ共産党や1926年の中国のそれの勝利を確実にする手段がなかった。
 一国社会主義というスターリンの教理のためにコミンテルンは革命の機会を利用できなかった、というトロツキーの後年の責任追及は、完全に実体を欠いている。//
 かくして、社会主義は一国で建設され得ることについての積極的主張と否定という、「本質的的に対立する」二つの理論に関しては疑問はない。
 理論上は誰もが、世界革命を支援する必要性とロシアに社会主義社会を建設する必要性をいずれも、承認していた。
 スターリンとトロツキーは、これの一方または他方の任務に注入すべき活力の割合に関して、ある程度は異なっていた。二人はともに、この違いを想像上の理論的対立へと膨らませたのだ。//
 トロツキーが頻繁に行った党内民主主義は彼らの体制にとって本質的だとの主張は、なおさら信じ難い。
 すでに述べたように、党内部の官僚制的支配に対するトロツキーの攻撃は、彼が事実上党組織への権力を奪われたときに始まった。まだ権力を持っている間は、彼は警察および経済の制度に対する官僚制の、および軍事的または政治的な統制の、最も専制的な先頭指導者の一人だった。
 のちに彼が罵倒した「官僚制化」は、国家の民主主義的仕組みを全て破壊したことの当然のかつ不可避の結果だった。それは熱情をもってトロツキー自身が入り込んだ過程であり、決して後になって否認することはできないものだった。//
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 第4節おわり。第5節「ブハーリンとネップ理論/1920年代の経済論争」へとつづく。

1781/スターリン・権力へ③-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.18~p.21。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇③。
  新しい職〔総書記〕は党の階層の個人的な最高位ではなかったし、そのような職は実際に存在しなかった。
 総書記の職務は党官僚たちの当面の仕事を監督する、官僚機構内での調整を図る、上位者たちを任命する、等々だった。
 洞察すれば、つぎのことを明確に理解することができる。すなわち、全ての他の形態の政治生活が破壊され、党が国家にある唯一の組織された力あるものになれば、その党機構の職責にある個人は、全能になるにちがいない。
 これは、現実に生じたことだ。しかし、この当時は、誰も感知しなかった。
 ソヴィエト国家は歴史上に先例のないものだった。政治の舞台上の演者は、その劇の結末を予見していなかった。
 総書記としてのスターリンは、地方の党の職および最上位を除く中央の職についてすら、自分の味方をそれらの多数派になるよう送り込むことができた。そして、会議や会合を組織する仕事を通じて、その力は高まった。
 もちろん、それはゆっくりとした過程ではあった。
 最初の数年間にはまだ、党内部での論争、対抗集団の形成、異なる基本政策の主張が見られた。
 しかし、時が経つにつれて、それらの頻度は少なくなり、きわめて上位の階層内に限られるようになった。//
 述べてきたように、レーニンが生きている間に党内に反対集団があり、それは専制的で官僚的な統治方法の増大に対して、ある程度の共産党員が不満をもっていることを反映していた。
 最もよく知られる代表者はアレクサンダー・シュリャプニコフ(Alexsandr Shlyapnikov)とアレクサンドラ・コロンタイ(Alexsandra Kollontay)である「労働者反対派(Workers' Opposition)」は、字義どおりの「プロレタリア-トの独裁」、言い換えると、権力は党によってのみならず労働者階級全体によって実際に行使されるべきだということ、を信じた。
 彼らは決して国家民主政への回帰を擁護したのではなく、たわいもなくつぎのように空想した。ソヴィエト体制は、大多数、とくに農民と知識人、に関するかぎりで民主主義的生活様式を廃止したあとで、特権をもつ少数派、つまりプロレタリア-トのそれ(民主主義的生活様式)を維持することができる。
 別の反対派集団は、党の外部ではなく、党内部での民主主義を復活させることを望んだ。官僚機構の力の増大、全ての職の任命システム、および党内議論の減少や空虚な儀式のための選挙に異議を申し立てたのだ。//
 このような夢想家(Utopian)的批判は、ある程度はスターリン死後の共産主義体制の中で感じることとなる「危機的な」傾向を予期させた。すなわち、党の外部にではなく内部に民主主義が覆うべきだとの主張。あるいは、権力は全プロレタリア-トまたは労働者評議会によって、もちろん社会のそれ以外の者たちによってではなく、行使されるべきだとの主張。
 しかしながら、こうした考え方とは別に、初めの数年間に新しい範型の共産主義が出現した。それは、ある意味では、アジア的農民の必要と利益を反映する毛沢東主義(Maoism)の先行型だった。
 この傾向を作りだしたのは、民族的にはバシュキール(Bashkir)、職業は教師の、ミール-サイト・スルタン-ガリエフ(Mir Sayit Sultan-Galiyev)だった。
 この人物は十月革命のすぐ後にボルシェヴィキになっており、ソヴィエト同盟のムスリム(Muslim、イスラム教)圏域内からの数少ない知識人の一人だった。そして早々に、中央アジア民衆に関する専門家だと認められた。
 しかしながら彼は、ソヴェト体制はイスラムの民衆のいかなる問題も解決せず、彼らを別の形態の抑圧に従属させるだけだ、と考えた。
ロシアで独裁的権力を握った都市プロレタリア-トはブルジョアジーに劣らずヨーロッパ人で、やはりムスリム民衆には異邦人だ。
 時代の根本的な対立は発展諸国のプロレタリア-トとブルジョアジーの間にではなく、植民地または半植民地の民衆と産業化した世界全体の間にある。
 ロシアでのソヴィエト権力はこれら民衆を解放するために何もできないばかりか、恒常的な抑圧をし始め、赤旗のもとで帝国主義政策を追求するだろう。
 植民地民衆は、全体としてのヨーロッパの覇権に反対して結束し、自分たちの党とボルシェヴィキのそれから自立したインターナショナルを創設し、そして、ロシア共産主義に対するのと同様に西側の植民地主義者と闘わなければならない。
 彼らはイスラム教の伝統に反植民地イデオロギーを結びつけ、一党システム、および軍事力に支えられた国家組織を創出しなければならない。
 スルタン-ガリエフは、このような基本綱領にもとづいて、ロシアの党とは別にムスリムの党を結成し、そして独立のタタール=バスク国家を設立しようすらした。
  彼のこの運動は、レーニンのイデオロギー、ボルシェヴィキ党およびソヴィエト国家の利益と対立するものだとして、すみやかに抑圧された。
スルタン-ガリエフは1923年に党から除名され、外国の諜報機関の工作員だとして投獄された。これはおそらく、このような理由で責任追及がなされた最初の事例だろう。これはのちにはこのような場合の日常仕事になり、卓越した党員に対して一様になされていった。
 彼は、のちの大粛清(the great purge)の時代の間に処刑された。そして、その考え方は忘れ去られた。
 1923年6月の演説でスターリンは、スルタン-ガリエフは汎イスラムや汎トルコ的考えを理由としてではなく、トゥルキスタン(Turkestan)のバスマチ(Basmach)とともに党への反抗を企てたことを理由として逮捕された、と語った。
 このエピソードは、スルタン-ガリエフの考えとのちの毛沢東の教理または「毛主義的社会主義」範型との間の驚くべき類似性を説明するために記憶しておく価値がある。//
 党またはプロレタリア-トのために民主主義を擁護する反対派集団に関して言うと、これらは急速にかつ一斉に、レーニン、トロツキー、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフを含む党指導者によって粉砕された。
 1921年の党第11回大会は、分派集団形成を禁止すること、それへの加入党員を除名する権限を中央委員会がもつことを宣言した。 
 党の一体性の擁護者が指摘したように、つぎのことはじつに明瞭だった。すなわち、一党制のもとでの党内部の別々の諸集団は、必然的にかつてそれぞれの党派を形成していた全ての社会諸勢力の代弁者になる。ゆえに、かりに「分派(fractions)」が許容されるならば、事実上は多党制になるだろう。
 避けがたい結論は、専制的に支配している党それ自体が専制的に支配されなければならない、ということだ。そして、社会一般の民主主義的諸制度を破壊しておいて、党内部でそれを持ち続けようと考えるのは愚かだ、ということだ。労働者階級全体の利益については尚更だ。//
 にもかかわらず、官僚機構の手中にある受動的な装置へと党が変わっていく過程は、国家の内部で民主主義諸制度が破壊されていくよりも、長くつづいた。そして、1920年代の遅くまではまだ完了していなかった。
 1922-23年には党内での専制(tyranny)の増大に抵抗する強い潮流があった。そして、誰も、それを抑圧するのにスターリンほど長けているとは思っていなかった。
 病気で衰えていたレーニンに伝わる情報を首尾よく統御し、スターリンは、ジノヴィエフとカーメネフの助けを借りて、かつ権力からトロツキーを系統的に排除して、党を支配した。
 トロツキーは、その弁舌の才能と内戦勝利の立役者としての栄光にもかかわらず、早い段階で地位を失った。
 もしすればソヴェト権力の原理と矛盾していたのだろうが、彼は党の外部で見解を発表しようとは敢えてしなかった。このことが、政治生活の唯一の活動源だった党の官僚機構をトロツキーに反対するように動員することを容易にした。
 トロツキーは最後の段階でボルシェヴィキ党に加入し、古い党員たちから信用されていなかった。また、過度の修辞や横柄で傲慢な挙措も嫌われていた。
 スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフは巧みに、あらゆるトロツキーの欠点を衝いた。メンシェヴィキだったという過去、労働者の軍事化(スターリンならば決してこのような専制的言葉遣いをしなかった政策)への渇望、ネップに対する批判、レーニンとの古い論争、およびレーニンはかつて自分を捏造で陥れたとの責任追及。
 トロツキーは、軍事部人民委員および党政治局員として、まだ力があるように思われた。
 しかし、1923年までに彼は、孤立し、無援になっていた。
 彼の昔の心変わりの全てが、自分に向けられてきた。
 自分が置かれている状況に気づくに至ったとき、党の官僚機構化と党内民主主義の抑圧を攻撃した。
 引き降ろされた共産党指導者の全てに似て、トロツキーは権力から排除されるや否や民主主義者(democrat)になった。
 しかしながら、スターリンとジノヴィエフがつぎのように主張するのは、容易なことだった。
 トロツキーの民主主義感情と党官僚制に対する非難は最近のことだ。そればかりか、彼自身が権力をもっていたときは、他の誰よりも極端に専制的だった。さらには、党の「一体性」を守るのを支持してその動きを始めたのだ。-レーニンの政策とは逆に-労働組合を国家の統制のもとに置き、経済全体を警察の強制力に従属させることを望んだ。等々。
 後年になってトロツキーは、かつて支持した「分派」禁止の政策は永久の原理ではなくて例外的な手段と考えてのものだった、と主張した。
 しかし、そうだったとする証拠はない。また、その政策自体に、一時的なものだったと示唆するものは何もない。 
 つぎのことは、記しておいてよいかもしれない。すなわち、ジノヴィエフは、トロツキーを非難することではスターリン以上に激しい熱情を示した-彼を拘禁することに賛成した一つの段階-ということであり、およびそれによって、排除された二人の指導者が遅れて見込みなく、勝利した政敵に対して力をかき集めようとしたときに、スターリンに有用な防御手段を提供した、ということだ。
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 第3節、終わり。第4節「一国社会主義」へとつづく。

1752/スターリニズムの諸段階②-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.8-p.9。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階②。
 一方では、コミンテルンが、数年のうちにソヴィエトの外交政策と諜報の装置へと変質した。
 コミンテルンの政策は、適正であるかを問わず、国際状勢に関するモスクワの評価に合致するように揺れ動き、変化した。
 しかし、この変化は、イデオロギー、教理、あるいは「左翼」と「右翼」の違いとは、何の関係もなかった。
 例えば、ソヴィエト同盟の蒋介石やヒトラーとの協定、スターリンによるポーランドの共産主義者の虐殺、あるいはスペイン内戦へのソヴィエトの関与は、マルクス主義と合致するか、「左翼」または「右翼」政策を示すものだった。
 これら全ての動きは、ソヴィエト国家をどの程度強くするか、どの程度その影響力を増大させるか、に照らして判断することができる。しかし、それらを守るために付けられたいかなるイデオロギー上の根拠も、目的のために案出されたもので、イデオロギーの歴史上の意味はなかった。ソヴィエト国家の<存在理由(raison d'etat)>のための装置という役割を、いかに完全に辱めたかを示したこと以外には。//
 このように叙述したが、我々は、レーニン死後のソヴィエト同盟の歴史を三つの時期に区分してよい。
 第一は1924年から1929年で、ネップの時期だ。
 この時期には、私的商取引のかなりの自由があった。
 党の外にはもはや政治生活は存在しなかったが、指導者層の内部では純粋な論争と対立があった。
 文化は公的に統御されていたが、マルクス主義および政治的服従という制約の範囲内では、意見や討論の異なる諸傾向が許されていた。
 「真の(true)」マルクス主義の性格に関する討議は、まだ可能だった。
 一人の人物の独裁は、まだ制度化されていなかった。そして、社会のかなりの部分-農民、あらゆる種類の「ネップマン」-は、経済の観点からすると、まだ完全には国家に依存していなかった。
 第二の時期は、1930年から1953年のスターリンの死までで、個人的な専制、ほとんど完璧な市民社会の絶滅、恣意的な公的指示への文化の服従、そして哲学とイデオロギーの国家への編入、を特質とする。
 第三の時期は1953年から現在〔秋月注・この著刊行は1976年〕に至るまでで、我々が適正に考察すべき、それ自身の特質をもつ。
 どの特定のボルシェヴィキ指導者が権力をもつかは、一般的に言って、大して重要ではない。
 トロツキストは、むろんトロツキー自身は、彼が権力から排除されたことが歴史的な転換点だったと考える。
 しかし、これに同意できる根拠はないし、我々が見るだろうように、「トロツキズム(トロツキー主義)」なるものは存在しておらず、これはスターリンが考案した、空想の産物だった。
 スターリンとトロツキーの間の意見不一致は、現実に、ある程度まで存在していた。しかしそれは、個人的権力を目ざす闘争によって粗大に誇張されたもので、決して、二つの独立した、明瞭な理論にまで達するものではなかった。
 このことは、ジノヴィエフとトロツキーの間の論争についてもっと本当のことであり、のちのジノヴィエフとトロツキー対スターリンの対立についてもそうだった。
 ブハーリンおよび「右翼偏向者」とのスターリンの対立はより実質的だったが、それもなお、原理に関する論争ではなく、手段と、それを実行に移す行程表に関する論争にすぎなかった。
 1920年代の工業化に関する論議にはたしかに、工業と農業に関する実際的な決定に関して、したがって数百万人のソヴィエト民衆の生活に関して、大きな重要性があった。しかし、根本的な教理上の論争だと、あるいはマルクス主義またはレーニン主義の「正しい(correct)」解釈をめぐるものだと理解するのは、大袈裟すぎるだろう。
 全てのボルシェヴィキ指導者たちは、例外なく、問題に対する態度を急進的に変更したのであって、理論が明瞭に一体になったものだと、あるいは基本的なマルクス主義の教理の諸変形だと、トロツキー主義、スターリニズム、あるいはブハーリン主義を語るのは、無意味だ。
 (この問題に関して、イデオロギーに関する歴史家は、それ自体は二次的な、理解の仕方に関心をもつ。彼には、数百万の民衆の運命よりも教理上の立場の方がもっと重要なのだ。
 これはしかし、客観的な重要性のある問題ではなく、たんに職業上の関心物にすぎない。) 
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 第2節は終わり。

1679/共産党独裁③-L・コワコフスキ著18章4節。

 日本語版レーニン全集36巻(大月書店、1960/14刷・1972)の手元の所在がなぜか分からないので、今回部分の日本語版の参照はできない。後日、追記するかもしれない。<8/01に追記。>
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁③。
 レーニンは、非能率な者をどこにでも投獄することを要求した。そして、なぜ彼らは自分で決定するのを怖れ、可能ならばいつでも上官に問い合わせるのだろうと不思議に思った。
 彼は慎重な監督と徹底的に記録することを要求し、『書記仕事(pen-pushing)』の莫大な多さに驚愕した。
 (『社会主義=ソヴェト権力+電化』という彼の言明は、しばしば引用される。
 革命直後に言った、『社会主義が意味するのはとくに、あらゆることを文書化する(keeping account)ことだ』は、さほど多くは引用されない(中央執行委員会会議、1917年11月17日。全集26巻p.288〔=日本語版全集26巻「全ロシア中央執行委員会の会議/エスエル左派の質問にたいする回答」293頁)。)(+)(*)
 彼は、地方の党や警察機関内部ではいかなる批判も反革命だと見なされ、その批判文執筆者は投獄か死刑の危険に晒される、ということに依拠する制度を作り出し、同時に、労働者人民には、怖れないで国家機関を批判するように求めた。
 官僚主義という癌に関する彼の分析結果は、単純だった。すなわち、教育、『文化』および行政能力、の欠如による。
 二つの処方箋があり、これまた単純だった。すなわち、非能率者を投獄〔=収監〕すること、および実直な官僚から成る新しい監督機関を設置すること。
 レーニンは、スターリンが率いる労働者・農民査察官(Inspectorate)(ラブクリン、Rabkrin)に重要な意味を与えた。これは、全ての行政部署およびその他の監視機関を監督する権限があるものとして任命されていた。そして、彼の考えによれば、官僚主義に対する闘いの成功は、最終的には、この機構の誠実さに依っていた。
 この機構はテロルに関する負担を引き受けたり、あらゆる方向への役立たない指令を発したりしたが、それに加えて、1922年に党の総書記になったスターリンによって、反対者を叩き出す杖として、および党内部の闘争に使う武器として利用された。  
 もちろん、このことを、レーニンは予見しなかった。
 彼は『最後の治療薬』を処方したが、それは、-彼が十分に知っていた-国に離れがたく締め込まれている官僚主義の連鎖へと繋がる形をとる、官僚主義に対する治療薬だった。
 党組織(ヒエラルキー)は、徐々に肥大していった。
 それは、全ての公民を覆う生と死に関する権力を持った。
 最初は真面目な共産主義者によって指導されたが、それは、時の推移のうちに大量の立身出世主義者(careerists)、寄生者(parasites)、追従者(sycophants)を吸い込んだ。そして、数年の間に、彼らが自分たちで描く、統治スタイルの範型になった。//
 レーニンが生きた最後の二年間、動脈硬化と連続する心臓発作という病気が影を投げていた。彼は最後まで、それと闘わなければならなかった。
 1922年12月と1923年1月に党大会の用意として書かれた文章から成る有名な『遺書』は、続く34年の間、ソヴィエトの一般公衆に隠された。
 この文章は、国家の困難さと党組織内部で接近している権力闘争に関する絶望的な感情を表している。
 レーニンは、スターリンを批判する。過度に権力を手中にすることに集中しており、高慢(粗雑、high-handrd)で、気まぐれで、不誠実だ、ゆえに総書記局にとどまるのはふさわしくない、と。
 レーニンはまた、トロツキー、ピャタコフ(Pyatakov)、ジノヴィエフおよびカーメネフの欠点も列挙し、ブハーリンを非マルクス主義者の考えだと批判する。
 彼は、オルジョニキーゼ(Ordzhonikidze)、スターリンおよびジェルジンスキーを、大ロシア民族主義者だ、ジョージア侵攻で使われた手段が残虐だった、と非難する。
 レーニンは、『ロシア人の弱い者いじめに対抗する本当の防御策を非ロシア人に与える』必要性については語らない。そして、つぎのように予言する。
 『我々がツァーリ体制から奪い取ってソヴェトの油脂を少しばかり塗った…国家機構』つまりは同盟〔ソヴィエト同盟〕から離脱できるという約束した自由は、『たんなる紙屑になるだろう。そして、本当のロシア人たちの襲撃から非ロシア人を守ることはできないだろう。そのロシア人の大ロシア熱狂的愛国主義(chauvinist)は、本質において卑劣で暴圧的で、典型的なロシア官僚主義はこうだと言えるようなものだ。』 (+)
 (全集36巻p.605-6〔=日本語版全集36巻「覚え書のつづき-1921年12月30日/少数民族の問題または『自治共和国化』の問題によせて」716頁〕。)//
 こうした訴え、警告および非難には、実際上の重要性がほとんどなかった。
 レーニンは、民主主義的に選出されたメンシェヴィキ政府をもつジョージアを自分の承認を得て赤軍が侵攻したすぐ後に、少数民族の保護や民族自決権について喚起した。
 彼は、中央委員会を拡大することで分派的対立を防止することを望んだ。あたかも、彼自身が実際上は党内民主主義を終わらしめたときと比べて、その大きさが何らかの違いを生じさせ得るかのごとくに。
 レーニンは、主要な党指導者全員を批判し、スターリンの交替を呼びかけた。
 しかし、彼はいったい誰が、新しい総書記になるべきだと考えていたのか?
 -トロツキーは『自信がありすぎる』、ブハーリンはマルクス主義者ではない、ジノヴィエフやカーメネフが『1917年10月の裏切り者』だったのは『偶然ではない』、ピャタコフは、重要な政治問題について信用が措けない。
 レーニンの政治的な意図が何だっただろうとしても、『遺書』は今日では、絶望の叫びのように(like a cry of despair)読める。//
 レーニンは、1924年1月21日に死んだ。
 (スターリンが毒を盛ったという、トロツキーがのちに示唆したことを支持する証拠はない。)
 新しい国家は、レーニンが教え込んだ根本路線に沿って進まなければならなかった。
 防腐(embalm)の措置を施されたその遺体は、今日までもモスクワの霊廟に展示されている。このことは、彼が約束した新しい秩序がすみやかに全人類を抱きしめる(embrace)だろうことを、適切に象徴している。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*) 上記日本語版全集によると、このように続く。-「社会主義は、上からの命令によって作り出されるものではない。社会主義の精神は、お役所的=官僚主義的な機械的行為とは縁もゆかりもない」。
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 第4節、終わり。第5節の表題は、<帝国主義の理論と革命の理論>。 

1661/ロシア革命①-L・コワコフスキ著18章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 この本には、邦訳書がない。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第2節へ。第2巻の単行著、p.473~。
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 第2節・1917年の革命①。
 多様な社会主義集団が革命を期待して存在してきたが、1917年二月の勃発は彼らの助けを借りないままで生じ、彼ら全ての驚愕だった。
 数週間前に、トロツキーはアメリカ合衆国に移り住んで、永遠に欧州を離れることになると考えた。
 レーニンは1917年1月に1905年の革命に関する講演をツューリヒでしたが、その中にはつぎの文章があった。
 『我々、旧い世代の者たちは、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(全集23巻p.253〔=日本語版全集23巻「1905年の革命についての講演」277頁〕。)
 この二月革命に何らかの政党が何か直接に関係しているとすれば、それは、協約諸国に呼応したカデット(リベラルたち〔立憲民主党〕だった。
 レーニン自身は、ロシアはもちろんフランスやイギリスの資本主義者たちはツァーリがドイツ皇帝と分離講和を締結するのを妨害したかった、したがってツァーリの皇位を奪うことを共謀した、と観察した。
 この企みが、飢餓、敗北および経済的混沌によって絶望的になった大衆の反乱と合致した。 
 300年にわたって続いてきたロマノフ王朝は、一夜にして崩壊した。そして、社会のいかなる重要な勢力にもそれを防ぐ用意がない、ということが明白だった。
 八ヶ月の間、ロシアの歴史は最初にして最後の、完全な政治的自由を享受した。何らの法的秩序によってではなく、主としてはどの社会勢力も状況を統御していなかったがゆえに。
 ドゥーマにより設置された臨時政府は、1905年革命を真似て形成された労働者・兵士代表評議会(ソヴェト)と、不確定な権限を共有した。しかしどちらも、大都市の武装した大衆を適切に統制することができなかった。
 ボルシェヴィキは当分の間はソヴィエト内の小さな少数派だった。そして、全政党が、革命が進んでいる行路に関して完全に混乱していた。//
 レーニンは、4月にペテログラードに到着した。ドイツはレーニンに、様々の政党から成る数ダースの帰還者と一緒に、安全な護衛を付けた。
 もちろんレーニンは、皇帝の戦争を助けるためにではなくて革命がロシアからヨーロッパの残りへと広がるだろうと望んで、ドイツからの援助を受けた。
 スイスを出立する直前に書いた<遠方からの手紙>で、レーニンは、その基本的な戦略を定式化した。
 ロシアの革命はブルジョア的なそれなので、プロレタリアートの任務は、人民に食物、平和そして自由を与えることのできない支配階級の欺瞞の皮を剥ぎ取ることだ。そしてその日の命令は、憤激した半プロレタリア農民層に支持されたプロレタリアートに権力を譲り渡す、革命の『第二段階』を準備することだ。
 このような綱領はロシア帰国後にすぐに、有名な『四月テーゼ』へと発展した。
 戦争に対する不支持、臨時政府に対する不支持、プロレタリアートおよび貧農のための権力、議会制共和国をソヴェト共和国に置き換えること、警察、軍隊および官僚制度の廃止、全官僚が選挙されかつ解任可能であること、地主所有地の没収、全ての社会的生産と分配へのソヴェトによる統制、インターナショナルの再結成、〔党名に〕『共産主義』を明示することの党による採択。//
 革命の社会主義段階への即時移行を明確に要求することを含むこれらのスローガンは、社会主義者の伝統を完全に否定するものと見なしたメンシェヴィキによってのみならず、多数のボルシェヴィキ党員からもまた、反対された。
 しかしながら、レーニンの揺るぎなき信念は、全ての躊躇を抑えた。
 同時に、彼は支持者たちに、ソヴェトに支えられているので臨時政府をただちには打倒できない、ということを明確にした。
 ボルシェヴィキは先ずはソヴェトの支配権を握り、そして労働者大衆の多数派を自分たちの側に獲得しなければならない。帝国主義者の戦争はプロレタリアートの独裁によってのみ終わらせることができる、との確信を抱かせることによって。//
 レーニンは7月に、『全ての権力をソヴェトへ』とのスローガンを破棄した。ボルシェヴィキはしばらくの間はソヴェト内での多数派を獲得することができない、支配するメンシェヴィキとエスエルは反革命に転化して、帝制主義の将軍たちのの奉仕者になった、と決定したのだった。
 かくして、革命への平和的な途は、閉ざされた。
 このスローガンの破棄は、ボルシェヴィキがその暴力を示した〔七月蜂起の〕後で起こった。レーニンはのちの数年の間、この暴力行使を猛烈に否定したけれども、おそらくは(probably)、権力奪取の最初の企てだった。
 逮捕されるのを怖れて、レーニンはペテログラードから逃げて、フィンランドに隠れた。そこで党活動の指揮を執り、同時に、<国家と革命>を書いた。
 -この書物は、武装する全人民により権力が直接に行使されるというプロレタリア国家のための、異常なほどに半(semi-)アナキスト的な青写真を描くものだ。
 この綱領の根本的考え方は、ボルシェヴィキ革命の行路によってすぐに歪曲されたのみならず、レーニン自身によって、アナクロ=サンデカ主義的夢想だとして愚弄された。//
 将軍コルニロフ(Kornilov)による蜂起の失敗はますます一般的な混乱を増大させ、ボルシェヴィキにとって事態がより容易になった。
 レーニンの政策は党がコルニロフの反抗を助けることで、ケレンスキー政権の支持へと漂い込むことではなかった。
 彼は、8月30日付の中央委員会あて手紙でこう書いた。
 『この戦争が発展することだけが、<我々を>権力へと導くことができる。しかし、我々は情報宣伝(扇動・プロパガンダ)では、可能なかぎりこれについて言わないようにしなければならない。明日の事態すらもが我々に権力を握らせるかもしれないこと、そのときには我々は決して権力を手放さない、ということを十分に銘記しながら。』(+)
 (全集25巻p.289〔=日本語版全集25巻「ロシア社会民主労働党中央委員会へ」312頁〕。)
 ボルシェヴィキは9月に、ペテログラード・ソヴェトの多数派を獲得した。そして、トロツキーが、その議長になった。
 10月に入って、〔ボルシェヴィキ〕中央委員会の多数派は、武装蜂起に賛同する表決をした。
 ジノヴィエフとカーメネフは、反対した。そして、この彼らの態度は一般に広く知られた。
 ペテログラードでの権力奪取は、比較的に簡単で、無血だった。
 その翌日に集まったソヴェト大会は、ボルシェヴィキが多数派で、土地問題に関する布令と併合や賠償なき講和を呼びかける布令を裁可した。
 純粋にボルシェヴィキの政府が権力を握った。そして、レーニンが約束していたように、それを手放すつもりは全くなかった。//
 レーニンの暴動政策および全ての見込みが、ロシアの革命は世界革命を、少なくともヨーロッパの革命を誘発するだろうとの確固たる予測にもとづいていたことに、何ら疑いはあり得ない。
 こうした考えは、実際、全てのボルシェヴィキ党員に共有されていた。
 革命後、最初の数年間のロシアでは、『一国での社会主義』に関する問題は何もなかった。
 1917年のスイス労働者に対する別れの手紙で、レーニンはこう書いた。
 ロシア農業の性格と満足していない農民大衆の熱望からすると、ロシアの革命はその規模からして、世界の社会主義革命の序曲(prelude)である『かもしれない』、と。
 しかし、この『かもしれない』は、すみやかにレーニンの演説や論文から消えて、次の数年の間のそれらは、西側でのプロレタリアの支配がごく間近に接近している(just round the corner)という確信に充ち満ちていた。
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 段落の途中だが、ここで区切る。
 (+ 注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1655/第一次大戦①-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 これの邦訳書はない。試訳をつづける。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。第2巻単行著の、p.467~。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争①。
 1908年~1911年は、ロシア社会民主主義運動の大きな衰退と解体の時期だった。
 革命後の抑圧のあとで、ツァーリ体制が一時的に安定した。公民的自由はかなり増大し、弱体化した社会構造を官僚制と軍隊以外の別の基盤の上に造ろうとする試みがなされた。 首相のストリュイピン(Stolypin)は、中規模の所有地を持つ強い農民階層を生み出すことを意図する改革を導入した。
 この政策手段は、社会主義者たち、とくにレーニン主義の信条をもつ者たちの警戒心を呼び覚ました。彼らは、かりに農業問題が資本主義によって改革の方法で解決されれば、土地に飢える民衆がもつ革命的な潜在力は取り返しがつかないほどに失われるだろうと気づいていた。
 1908年4月29日の『踏みならされた道を!』と題する論考で(全集15巻p.40以下〔=日本語版全集15巻24頁以下。〕)、レーニンは、ストリュイピンの改革は成功して、農業に関して資本主義発展の『プロイセンの途』を確立するするかもしれないと認めた。
 かりに成功してしまえば、『誠実なマルクス主義者は、率直にかつ公然と、全ての「農業問題」を屑鉄の上にすっかり放り投げるだろう。そして、大衆に向かって言うだろう。「労働者はロシアにユンカー(Junker)ではなくアメリカ資本主義を与えるべく、できる全てのことをした。労働者は、今やプロレタリアートの社会革命に参加するよう呼びかける。ストリュイピン方式での農業問題の解決の後では、農民大衆の生活の経済条件に大きな変化をもたらすことのできる、もう一つの革命はあり得ないのだから。」』//
 ストリュイピンの政策は長くは続かず、期待された結果をもたらさなかった。その政策が実現していれば、のちの事態の推移は完全に変わっているかもしれなかった。
 レーニンは1917年の後に、ボルシェヴィキが土地を没収して農民に分配するというエスエルの綱領を奪い取っていなかったら、革命は成功できなかっただろう、と書いた。
 1911年にストリュイピンの暗殺があったにもかかわらず、ロシアは数年間は、明らかに立憲君主制の基礎原理をもつブルジョア国家の方向へと動いていた。
 この発展は、社会民主主義者の間に新しい分裂を生じさせた。
 レーニンは、この時期に、『otzovists』、すなわち非合法の革命行動を完全に信じているボルシェヴィキ党員たちに加えて、『清算人(liquidators、解党者)』、多少ともメンシェヴィキと同義の言葉だが、を絶え間なく、批判し続けた。
 彼はマルトフ(Martov)、ポトレソフ(Potresov)、ダン(Dan)、そしてたいていのメンシェヴィキ指導者たちに対して、非合法の党組織を精算し、現存秩序の範囲内での『改良主義』闘争へと舵を切って労働者の『形態なき』合法的集団に置き換えようと望んでいると非難した。 
 メンシェヴィキは、実際に、党が非合法活動まですることを望んでおらず、平和的手段により多くの重要な意味を与えて、専政体制が打倒されたときに社会民主主義者が西欧の仲間たちと同様の位置にいることを期待した。
 そうしている間、党内部の古い対立は存在しつづけた。
 メンシェヴィキは、民族問題についてオーストリアの処理法を容認した(『領域を超えた自治』)。一方で、ボルシェヴィキは、継承権を含む自己決定を主張した。
 メンシェヴィキはブント(Bund)やポーランドの社会主義者との連携を主張したが、レーニンはこれらはブルジョア・ナショナリズムの組織だと見なした。
 しかしながら、プレハノフは、ほとんどのメンシェヴィキ指導者とは違って『清算人』政策に反対した。そのことで、レーニンはプレハノフに対する悪罵と論駁の運動をやめて、ロシア社会主義のこの老練者との間の一種の不安定な同盟へと戻った。//
 様々の意見の相違により、党の新しいかつ最終的な分裂が生じた。
 1912年1月、プラハでのボルシェヴィキ大会は党全体の大会だと宣言して自分たちの中央委員会を選出し、メンシェヴィキと決裂した。
 レーニン、ジノヴィエフおよびカーメネフ以外に、この中央委員会の中には、オフラーナ〔帝国政治警察〕工作員のロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)もいた。
 レーニンはマリノフスキーについて、何度もメンシェヴィキから警告を受けていた。
 レーニンはその警告を、『「黒の百」の新聞のごみ屑の山から集めることのできた最も汚い中傷』だと称した。
 (『解党派とマリノフスキーの経歴』、1914年5月。全集20巻p.204〔=日本語版全集20巻319頁以下。〕)  
 マリノフスキーは、実際、レーニンの命令の忠実な執行者だった。オフラーナが、そうするように命じていたので。そして彼には、自分のイデオロギー上のまたは政治的な野望がなかった。
 スターリンは、プラハ大会のすぐ後で、レーニンの側近機関である中央委員会へと推挙された。かくて彼は、ロシアの社会民主主義政治の舞台にデビューした。//
 レーニンは、戦争が勃発する前の最後の二年間、クラカウ(Cracow)およびその近くの保養地のポロニンで過ごした。後者からロシアの組織との接触を維持するのは、より容易だった。
 ボルシェヴィキは、合法的な活動の機会を逃さなかった。
 1912年からサンクト・ペテルブルクで、<プラウダ>を発行した。この新聞は二月革命の後で再刊され、それ以来に党の日刊紙になった。
 ドゥーマ〔帝国議会下院〕には数人のボルシェヴィキ党員がいて、レーニンによって禁じられるまでは、メンシェヴィキと協同して活動した。//
 戦争が勃発したとき、レーニンはポロニンにいた。
 オーストリア警察に逮捕されたが、ポーランド社会党とウィーン(Vienna)の社会民主党が介入したことによって、数日後に釈放された。
 スイスに戻って、1917年4月まで滞在し、インターナショナル〔社会主義インター〕を挫折させた『日和見主義的裏切り者』を非難したり、新しい状勢のもとでの革命的社会民主主義者のための指令文書を作成したりしていた。
 レーニンは、革命的敗北主義を宣言した、ヨーロッパの最初かつ唯一の社会民主主義の指導者だった。
 各国のプロレタリアートは、帝国主義戦争を内乱に転化すべく、自分たち政府の軍事的敗北を生じさせるよう努めるべきだ。
 ほとんどの指導者が帝国主義の奉仕者へと移行してしまったインターナショナルの廃墟から、プロレタリアートの革命的な闘争を指揮する共産主義インターナショナルが、創立されなければならない。//
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 ②へとつづく。 

1595/犯罪逃亡者レーニン②-R・パイプス著10章12節。

 前回のつづき。
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 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁②。
 兵士たちは、7月6日から7日の夜の間に、ステクロフの住居にやって来た。彼らがステクロフの居室を壊して彼を打ちのめそうと脅かしたとき、彼は電話して救いを求めた。
 イスパルコムは、二台の装甲車で駆けつけて、彼を守った。ケレンスキーも、ステクロフの側に立って仲裁した。
 同じ夜に、兵士たちは、レーニンの妹のアンナ・エリザロワ(Anna Elizarova)のアパートに現われた。
 部屋を捜し回ったとき、クルプスカヤは彼らに向かって叫んだ。『憲兵たち! 旧体制のときとそっくりだ!』
 ボルシェヴィキ指導者たちの探索は、数日の間つづいた。
 7月9日、私有の自動車を調べていた兵団がカーメネフを逮捕した。この際には、ペテログラード軍事地区司令官のポロヴツェフの力でリンチ行為は阻止され、ポロヴツェフはカーメネフを自由にしたばかりではなく、彼を自宅に送り届ける車を用意した。
 結局は、暴乱に参加したおよそ800人が収監された。(*)
 確定的に言えるかぎりで、ボルシェヴィキは一人も、身体的には傷つけられなかった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの所有物に対しては、相当の損傷が加えられた。
 <プラウダ>の編集部と印刷所は、7月5日に破壊された。
 クシェシンスキー邸を護衛していた海兵たちが無抵抗で武装解除されたあと、ボルシェヴィキ司令部〔クシェシンスキー邸〕もまた、占拠された。
 ペトロ・パヴロ要塞は、降伏した。//
 7月6日、ペテログラードは、前線から新たに到着した守備軍団によって取り戻された。//
 ボルシェヴィキ中央委員会は7月6に、レーニンのレベルでの叛逆嫌疑の訴追を単調に否定し、詳細な調査を要求した。
 イスパルコムは、強いられて、5人で成る陪審員団を任命した。
 偶然に、5人全員がユダヤ人だった。このことはその委員会について、レーニンに有利だという疑いを、『反革命主義者』に生じさせたかもしれない。そこで、委員会は解散され、新しくは誰も任命されなかった。//
 ソヴェトは実際、レーニンに対する訴追原因について調査しなかったが、被疑者の有利になるように断固として決定することもしなかった。
 レーニンの蜂起は、5月以来のそれと緊密に連関して、政府に対してと同程度にソヴェトに対して向けられていた。それにもかかわらず、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕は、現実と向き合うことをしようとしなかった。
 カデット〔立憲民主党〕の新聞の表現によると、社会主義知識人たちはボルシェヴィキを『叛逆者』と呼んだが、『同時に、何も起こらなかったかのごとく、ボルシェヴィキの同志たちのままでいた。社会主義知識人たちは、ボルシェヴィキとともに活動し続けた。彼らは、ボルシェヴィキとともに喜んだり考えたりした。』(186)
 メンシェヴィキとエスエルは今、以前と今後もそうであるように、ボルシェヴィキをはぐれた友人のごとく見なし、彼らの敵は反革命主義者だと考えた。
 彼らは、ボルシェヴィキに向けられた追及がソヴェトや社会主義運動全体に対する攻撃をたんに偽ったものなのではないかと、怖れた。
 メンシェヴィキの< Novaia zhizn >は、つぎのように、Den' 〔新聞 ND = Novyi den' 〕から引用する。//
 『今日では、有罪だとされているのはボルシェヴィキだ。明日は、労働者代表ソヴェトに嫌疑がかかるだろう、そして、革命に対する聖なる戦争が布告されるだろう。』//
 この新聞はレーニンに対する政府の追及を冷たくあしらい、『ブルジョア新聞』は『嘆かわしい中傷』や『粗雑なわめき声』だとして非難した。
 これは、『意識的に労働者階級の重要な指導者の名誉をひどく毀損』している者たち-おそらくは臨時政府-を強く非難しようとしていた。
 レーニンに対する追及は『誹謗中傷』だとしてレーニンの弁護に飛びついた社会主義者の中には、マルトフ(Martov)がいた。(**)
 こうした主張は、事案の事実とは何も関係がなかった。イスパルコムは政府に証拠の開示を求めなかったし、自分たち自身で詳しい調査をしようともしなかった。//
 そうであっても、ボルシェヴィキを政府による制裁から守るのは多大な痛みにはなった。
 7月5日の早くに、イスパルコムの代表団がクシェシンスカヤ邸へ行き、この事件の平和的な解決に関するボルシェヴィキ側の条件を議論した。
 彼らは全員が、党に対する抑圧はもうないだろう、事件に関係して逮捕されている者はみな解放されるだろう、ということで合意した。
 イスパルコムはそして、ポロヴツェフに対して、いつ何時でもしそうに思えたので、ボルシェヴィキ司令部を攻撃しないように求めた。
 レーニンに関係がある政府文書の公表を禁止する決定も、裁可した。//
 レーニンは自分でいくつかの論考を書いて、自己弁護した。
 < Novaia zhizn >に寄せたジノヴィエフとカーメネフとの共同論文では、レーニンは、自分のためにでも党のためにでも、ガネツキーやコズロフスキーから『一コペック〔硬貨の単位〕』たりとも決して受け取っていない、と主張した。
 事態の全体は新しいドレフュス(Dreyfus)事件または新しいベイリス(Beilis)事件で、反革命の指揮をしているアレクジンスキー(Aleksinsky)によって組み立てられたものだ。
 7月7日、レーニンは、この状況では審判に出席しない、彼もジノヴィエフも、正義が行われると期待することができない、と宣言した。//
 レーニンはつねに、その対抗者の決意を大きく評価しすぎるきらいがあった。
 彼は、彼とその党は終わった、パリ・コミューンのように、たんに将来の世代を刺激するのに役立つだけの運命だ、と確信していた。
 レーニンは、党中央をもう一度外国へ、フィンランドかスウェーデンに移すことを考えた。
 彼は、その理論上の最後の意思、遺言書、『国家に関するマルクス主義』の原稿(のちに<国家と革命>の基礎として使われた)を、最後のものには殺される事態が生じれば公刊してほしいという指示をつけて、カーメネフに託した。
 カーメネフが逮捕されてほとんどリンチされかけたあとで、レーニンはもはや成算はないと決めた。
 7月9日から10日にかけての夜、レーニンは、ジノヴィエフとともに、小さな郊外鉄道駅で列車に乗り込み、田園地方へと逃れて、隠れた。//
 党が破壊される見通しに直面していた際のレーニンの逃亡は、ほとんどの社会主義者には責任放棄に見えた。
 スハノフの言葉によると、つぎのとおりだ。//
 『逮捕と審問に脅かされてレーニンが姿を消したことは、それ自体、記録しておく価値のあることだ。
 イスパルコムでは誰も、レーニンがこのようにして『状況から逃げ出す』とは想定していなかった。
 彼の逃亡は我々仲間にな巨大な衝撃を生み、あらゆる考えられる方法での熱心な議論を生じさせた。
  ボルシェヴィキの間では、ある程度はレーニンの行動を是認した。
 しかし、ソヴェトの構成員のうちの多数派の反応は、鋭い非難だった。
 軍やソヴェトの指導者たちは、正当な怒りの声を発した。
 反対派は、その意見を明らかにしないままでいた。しかし、その見解は、政治的および道徳的観点からレーニンを無条件に非難する、というものだった。<中略>
 羊飼いが逃げれば、羊たちに大きな一撃を与えざるをえないだろう。
 結局、レーニンに動員された大衆が、七月の日々に対する責任の重みの全体を負った。<中略>
 「本当の被告人(culprit)」が、軍、同志たちを捨てて、個人的な安全を求めて逃げた!』//
 スハノフは、レーニンの逃亡は、彼の人生でも個人的な自由行動でもあえて危険を冒さなかったほどの、最も非難されてしかるべきことだと見られた、と付け加える。//
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  (*) Zarudnyi, in : NZh, No. 101 (1917年8月15日), p.2。Nikitin, Rokovye gody, p.158 は、2000人以上だった、とする。
  (186) NV = Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) 8月4日に、ツェレテリが提案して、イスパルコムは、7月事件に関与した者を迫害から守るという動議を、このような迫害は『反革命』の始まりを画するという理由で、採択した。
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 ③へとつづく。

1593/犯罪逃亡者レーニン①-R・パイプス著10章12節。

 前回第11節終了からのつづき。
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 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁①。
 こうした事態が推移していたとき、ケレンスキーは戦線にいた。
 恐れおののいた大臣たちは、何もしなかった。
 タウリダ宮の前の数千人の男たちの叫び声、見知らぬ目的地へと走る兵士や海兵を乗せた車の光景、守備軍団が放棄したとの知識、これらは、大臣たちを絶望感で充たした。
 ペレヴェルツェフによると、政府は、実際には捕らえられていた。//
 『私は、資料文書を公表する前に、7月4日蜂起の指導者たちを逮捕することはしなかった。彼らの決意が彼らの犯罪の活力の十分の一でもあれば、そのときに彼らはすでに実際にはタウリダ宮の臨時政府の一部を征圧して、何の危険を冒すことなくルヴォフ公、私自身そしてケレンスキーの議員団を拘束することができた、という理由でだけだ。』//
 ペレヴェルツェフは、この絶望的な状況下で、兵士たちの間に激しい反ボルシェヴィキの反応を解き放つことを期待して、レーニンのドイツとの関係について、利用できる情報の一部を公表することに決めた。
 彼は二週間前に、この情報を公表しようと強く主張していた。しかし、内閣は、(メンシェヴィキの新聞によると)『ボルシェヴィキ党の指導者に関する事柄には、慎重さを示すことが必要だ』という理由で、彼の提案を却下していた。
 ケレンスキーはのちにレーニンに関する事実を発表したのは『赦しがたい』過ちだったとしてペレヴェルツェフを非難したけれども、ケレンスキー自身が7月4日に騒擾のことを知って、『外務大臣が持つ情報を公開するのを急ぐ』ように、ルヴォフに対して強く迫った。
 ニキーチン総督およびポロヴツェフ将軍と確認したあとで、ペレヴェルツェフは、報道関係者とともに80人以上のペテログラードおよびその周辺の駐留軍団代表者を、彼の執務室へと招いた。
 これは、午後5時頃のことだった。タウリダでの騒乱は最高度に達していて、ボルシェヴィキのクーはすぐにでも達成されるように見えた。(*)
 将来に見込まれるボルシェヴィキ指導者の裁判での最も明確な有罪証拠資料を守るために、ペレヴェルツェフは、持っている証拠の断片だけや、価値がきわめて乏しいものを公表した。
 それは、D・エルモレンコ(Ermolenko)中尉のあいまいな調書で、彼はドイツ軍の戦時捕虜だった間に、レーニンはドイツ軍のために働いていると言われた、と報告していた。
 こうした伝聞証拠は、政府関係の事件では、とくに社会主義者関係のそれでは、多大に有害なものだった。
 ペレヴェルツェフはまた、ストックホルムを経由したボルシェヴィキのベルリンとの金銭関係に関する情報も、ある程度は発表した。
 彼は愚劣にも、信用のないかつてのボルシェヴィキ・ドゥーマ〔帝制国会下院〕議員団長、G・A・アレクジンスキーに対して、エルモレンコの調書の信憑性を調べてほしいと頼んだ。//
 司法省にいる友人、カリンスキーはすぐに、ペレヴェルツェフがまさにしようとしていることをボルシェヴィキに警告した。それによってスターリンは、レーニンに関する『誹謗中傷』の情報をばらまくのを止めるようにイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕に求めた。
 チヘイゼとツェレテリは、ペテログラードの日刊新聞社の編集部に電話をかけ、イスパルコムの名前で、政府が発表したことを新聞で公表しないように懇請した。
 ルヴォフ公も、同じようにした。そして、テレシェンコとネクラソフ(Nekrasov)も。(**)
 全ての新聞社が、一つだけを除いて、この懇請を尊重した。
 その一つの例外は、大衆紙の < Zhivoe slovo >だった。
 この新聞の翌朝の第一面の大見出し--レーニン・ガネツキーと共謀スパイたち--のあとにはエルモレンコの調書と、ガネツキーを通してコズノフスキーとスメンソンに送られたドイツの金に関する詳細が続いていた。
 この情報を記載した新聞紙は、街中に貼られた。//
 レーニンとドイツに関するこの暴露情報は、ペレヴェルツェフの説明を受けた連隊の使者から伝わり、諸兵団に電流を通したかのような効果をもった。
 ほとんど誰も、ロシアはソヴェトと友好関係にある臨時政府によって統治されているのか、それともソヴェトのみによって統治されているのか、などとは気に懸けなかった。敵国と協力していることに関して、感情的になった。
 敵国領土を縦断した旅で生じたレーニンにつきまとう疑念によって、レーニンは兵団にはきわめて不人気になっていた。
 ツェレテリによると、レーニンは制服組から嫌われているのでイスパルコムに保護を求めなければならなかった。
 タウリダに最初に到着したのはイズマイロフスキー守備兵団で、プレオブラジェンスキーと、軍楽隊のあとで行進したセメノフスキーの各兵団が続いた。
 コサック団も、現われた。
 兵団が接近してくるのを見聞きして、タウリダ正面の群衆たちは、慌てふためいてあらゆる方向へと逃げた。何人かは、安全を求めて宮の中に入った。//
 このときタウリダ宮の内部では、イスパルコムとボルシェヴィキ・工場『代表団』との間の議論が進行中だった。
 メンシェヴィキとエスエルたちは、政府が救出してくれるのを期待して、時間を潰していた。
 政府側の兵団がタウリダ宮に入ってきた瞬間、彼らはボルシェヴィキの提案を拒否した。//
 反乱者たちがそれぞれに分散したので、ほとんど暴力行為は行われなかった。
 ラスコルニコフは海兵たちにクロンシュタットへ戻るように命令し、400人をクシャシンスカヤ邸を守るために残した。
 海兵たちは最初は離れるのを拒んだが、勢力が優る非友好的な政府側の軍団に囲まれたときに屈服した。
 深夜までには、群衆は、タウリダにいなくなった。//
 事態の予期せぬ転回によって、ボルシェヴィキは完全に混乱に陥った。
 レーニンは、カリンスキーからペレヴェルツェフの行動を知るやただちに、タウリダから逃げた。それは、兵士たちが姿を現わす、寸前のことだった。
 レーニンが逃げたあと、ボルシェヴィキは会議を開いた。その会議は、蜂起を中止するという決定を下して終わった。
 正午頃に彼らは、大臣職の書類を配布されていた。6時間後には、探索される獲物の身になった。
 レーニンは、全ては終わった、と思った。
 彼は、トロツキーに言った。『今やつらは我々を撃ち殺すつもりだ。やつらには最も都合のよいときだ』。(181)
 レーニンはつぎの夜を、ラスコルニコフの海兵たちに守られて、クシェシンスカヤ邸で過ごした。
 7月5日の朝、新聞紙< Zhinvoe slovo >の売り子の声が通りに聞こえているときに、レーニンとスヴェルドロフは抜け出して、仲間のアパートに隠れた。
 つづく5日間、レーニンは地下生活者になり、毎日二度、いる区画を変更した。
 他のボルシェヴィキ指導者たちは、ジノヴィエフを除いて、逮捕される危険を冒して公然としたままだった。ある場合には、逮捕するのを要求すらした。//
 7月6日、政府は、レーニンとその仲間たちの探索を命じた。全員で11人で、『国家叛逆(high treason)と武装蜂起の組織』で訴追するものだった。(***)
 コズロフスキーとスメンソンは、すみやかに拘引された。
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  (*) NZh = Novaia zhin', No. 68 (1917年7月7日), p.3。この事態に関するペレヴェルツェフの説明は、つぎの編集部あて書簡にある。NoV = Novoe vremia, No. 14-822 (1917年7月9日), p.4。ペレヴェルツェフは、その回想をつぎで公刊した、と言われる。PN = Poslednie novosti, 1930年10月31日。しかしこの新聞のこの号を私は利用できなかった。
  (**) Zhivoe slovo, No. 54-407 (1917年7月8日) p.1。参照、Lenin, PSS, XXXII, p.413。ルヴォフは、早すぎる公表は機密漏洩罪になるだろうと編集者たちに言った。  
  (181) Leon Trotzky, O Lenin (モスクワ, 1924), p.58。
  (***) Alexander Kerensky, The Crucifixion of Liberty (ニューヨーク, 1934), p.324。その11人とは、以下のとおり。レーニン、ジノヴィエフ、コロンタイ、コズロフスキー、スメンソン、パルヴゥス、ガネツキー、ラスコルニコフ、ロシャル、セマシュコ、およびルナチャルスキー。トロツキーはリストに載っていなかった。おそらくは、ボルシェヴィキ党の党員ではまだなかったためだ。彼は7月末にようやく加入した。トロツキーはのちに、収監される。
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 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。②へとつづく。

1547/レーニン帰国②・四月テーゼ-R・パイプス著第10章。


 前回のつづき。
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 第2節・ドイツの助けでレーニン帰還②。
 そこ〔ストックホルム〕で待っていた人たちの中に、パルヴスがいた。
 彼はレーニンと逢いたいと頼んだが、慎重なボルシェヴィキ指導者は拒んで、ラデックに譲った。ラデックは、オーストリア人だったおかげで裏切りだと追及される危険がなかった。
 ラデックは3月31日/4月13日のかなりの部分を、パルヴスとともに過ごした。
 二人の間に何があったかは、知られていない。
 彼らは別れ、パルヴスは急いでペルリンに向かった。
 4月20日(新暦)に、パルヴスは私的に、ドイツの国務長官(state secretary)のアルトゥール・ツィンマーマン(Arthur Zimmermann)と会った。
 この会見についても、記録は残されていない。
 パルヴスは、ストックホルムに戻った。(32)
 文書上の証拠は不足しているが-高いレベルの秘密活動を含む資料についてよくあることだ-、後で起こったことを見てみると、パルヴスがドイツ政府に代わってラデックと逢い、ロシアでのボルシェヴィキを財政的に支援する条件や手続について取り決めた、ということが、ほとんど確実だと思われる。(*)//
 ストックホルムのロシア領事館は、到着を待って入国査証を用意していた。
 臨時政府は、戦争反対活動家たちの入国を認めるかどうかを躊躇したように見える。
 しかし、方針を変更して、敵国領土を縦貫したことでレーニンが政治的に妥協することを期待した。
 一行はストックホルムを立って3月31日/4月13日にフィンランドに着き、三日後(4月3日/16日)の午後11時30分にペテログラードに到着した。(+)//
 レーニンがペテログラードに着いたのは、全ロシア・ボルシェヴィキ大会の最終日だった。
 地方から出てきている多くのボルシェヴィキ党員は知っていて、指導者レーニンを歓迎する用意をしていた。その歓迎ぶりは、その劇場性において、社会主義諸団体でかつて見た全てをはるかに上回っていた。
 ペテログラード委員会は、フィンランド駅へと労働者たちを呼び集めた。
 委員会は、線路に沿って護衛兵と軍楽隊を配置した。
 レーニンが列車から姿を現わしたとき、軍楽隊は『マルセイエーズ(Marseillaise)』を演奏し始め、護衛兵たちは見ようと跳び上がった。
 チヘイゼ(Chkheidze)がイスポルコム(Ispolkom)を代表して歓迎し、社会主義者は国内の反革命と外国の侵略から『革命的自由』を防衛すべく一致団結するという希望を声を出して語った。
 フィンランド駅の外で、レーニンは装甲車の上に昇り、投光器によって照らされながら、簡単に若干の言葉を発した。そのあとでクシェシンスカヤ(Kshesinskaia)邸に向かい、群衆が後を続いた。//
 スハーノフ(Sukhanov)は、その夜のボルシェヴィキ中央司令部での出来事について、目撃証言書を残した。//
 『かなり大きなホールの下に、多数の人々が集まった。労働者たち、『職業的革命家たち』、そして女性たち。
 椅子は足らず、出席者の半分は心地よくなく立っているか、テーブルの上に体を伸ばしていた。
 誰かが進行役に選ばれ、各地域からの報告という形での挨拶の言葉が述べられた。
 この挨拶は、全体としては単調で、長々と続いた。
 しかし、いまそのときに、ボルシェヴィキの「様式(スタイル)」の奇妙で独特な特徴、ボルシェヴィキ党の仕事の独特の流儀(モード、mode)だとの思いが生じた。
 そして、ボルシェヴィキの全作業が、それなくして党員たちは完全に無力だと思い、同時にそれを誇りに思い、中でも自分が聖杯の騎士のごとくそれの献身的な召使いだと感じている、異質な精神的根源の鉄の枠に捉えられている、ということが絶対的な明白性をもって、明確になった。
 カーメネフも、漠然と何かを喋った。
 最後に、彼らはジノヴィエフを思い出した。ジノヴィエフはあまり熱意のない拍手を受け、何も語らなかった。
 そうして、報告の形での挨拶が最後を迎えた…。//
 そのとき、体制の大主人公〔レーニン ?〕が、『反応的に』起ち上がった。
 私は、あの演説を忘れることができない。異端者的に図らずも熱狂的興奮に投げ込まれた私にだけではなく、本当の信仰者たちにも衝撃を与えて驚愕させた、雷光のごときあの演説を。
 誰もあのようなことを予期していなかった、と断言する。
 まるで全ての原始的な諸力が棲息地から起き上がったように思えた。
 そして、全ての自然界破壊の精神的なものが、邪魔する物なく、懐疑なく、人間的な苦しみも人間的な打算もなく、クシェシンスカヤ邸のホールにいる取り憑かれた信徒たちの頭の上で、響き回った。』(35)//
 90分続いたレーニンの演説の基本趣旨は、『ブルジョア民主主義』革命から『社会主義』革命への移行は数ヶ月の問題として達成されなければならない、というものだった。(**)
 これは、帝制が打倒されたあと僅か4週間後に、死刑を執行するつぎの承継者は自分だとレーニンが公に宣言している、ということを意味した。
 こういう前提命題は、彼の支持者たちの大多数の気分とは違っていて、無責任で『冒険主義的』だと思われた。
 その結果として、その夜に残った者たちは、嵐のごとき議論を交わした。その会合は、午前4時に終わった。//
 その日の後で、レーニンは、ボルシェヴィキ党の一団に対して、そして別にボルシェヴィキとメンシェヴィキの合同の会議に対して、一枚の文書を読み上げた。それは、反対を予想して、レーニンの個人的見解による回答を提示するものだった。
 のちに『四月テーゼ(April Theses)』として知られるこの文書は、狂気でなければ完全に現実感を失っていると聞き手には思える行動綱領を概述したものだった。(36)
 レーニンの提示は、こうだった。進行する戦争への不支援、革命の『第二』段階への即時移行、臨時政府への支持の拒絶、全権力のソヴェトへの移行、人民軍を結成するための現軍隊の廃止、全ての地主所有土地の没収と全国土の国有化、ソヴェトの監督のもとでの全銀行の単一の国有銀行への統合。
 そして、ソヴェトによる生産と配分の統制、新しい社会主義インターナショナルの結成。//
 <プラウダ>編集局は、印刷装置が機械的に故障したという偽りの理由をつけて、レーニンの『テーゼ』を印刷するのを拒否した。
 4月6日のボルシェヴィキ中央委員会総会は、レーニンのテーゼに対する否認決議を採択した。
 カーメネフは、レーニンが現在のロシアとパリ・コミューンとの間の共通性を指摘するのは過っている、と主張した。
 一方、スターリンは、『テーゼ』は『図式的(schematic)』で事実に即していないと考えた。
 しかし、レーニンおよび一時期に<プラウダ>編集局に一緒にいたことのあったジノヴィエフは同編集局に発刊を強いて、『テーゼ』は4月7日に掲載された。
 レーニンの論文には、カーメネフの論評が付けられていて、これは党機関の決定から逸脱している、と書いていた。
 レーニンは、『ブルジョア民主主義革命は達成されたという前提から出発し、その革命の社会主義革命への即時移行を唱える』。
 さらにカーメネフは続ける。しかし、中央委員会の考えは異なっており、ボルシェヴィキ党はその決議に従う。(***)
 ペテログラード委員会は4月8日に会議を開き、レーニンの文書について議論した。
 表決は、やはり圧倒的に否定的だった。賛成2票、反対13票、そして保留が1票。
 地方の諸都市の反応も似ている。例えば、キエフとサラトフのボルシェヴィキ組織は、レーニンの基本方針(program)を却下した。後者は、執筆者〔レーニン〕はロシアの状況に疎い、という理由でだった。//
 指導者の宣言文書に関するボルシェヴィキの見解がどうであろうと、ドイツは愉快だった。
 ストックホルムにいるドイツの工作員は、4月17日に、ベルリンへと電信を打った。
 『レーニンの入国は、成功だった。彼は、我々がまさに望んだように仕事をしている』。(41)//
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  (32) ゼーマン=シャルラウ, 革命の商人・パルヴスの生涯 (1965), p.217-9。
  (*) ラデックはオーストリア人で、臨時政府からは敵国人だと考えられた。ロシアへの入国査証の発行を拒否されたので、彼は1917年10月までストックホルムにとどまり、レーニンのために働いた。
  (+) そのあと、ロシア難民のいくつかの一行がさらにドイツを縦貫してロシアに着いた。
  (35) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, III (1922), p.26-27。
  (**) この演説の音源上の記録はない。しかし、レーニンが用いたノートは、同全集・選集類で刊行されている。〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)10頁「われわれはどうやって帰ってきたか」1917年4月4日執筆、同13頁「四月テーゼ擁護のための論文または演説の腹案」1917年4月4-12日の間に執筆/1933年1月22日<プラウダ>上で初公表-「手稿による印刷」。とくに後者が該当しそうだ-試訳者の注記。〕
  (36) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)3頁「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について/テーゼ」<プラウダ> 26号(1917年4日7日)。-注記・試訳者による〕
  (***) Iu. Kamenev in :<プラウダ> 27号(1917年4日8日)2頁。カーメネフは、3月28日のボルシェヴィキ大会の諸決議を参照要求する。
  (41) ゼーマンら編, ドイツとロシア革命 (1958), p.51。
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 第3節につづく。

1470/第一次大戦と敵国スパイ④-R・パイプス著9章10節

 前回のつづき。かつ、とりあえずの(第9章の試訳の)最終回。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵国スパイ。

 1916年4月に、ツィンマーヴァルト会議の続きが、ベルン高原地方のキーンタールで開かれた。
 この会合は社会主義インター委員会により招集され、三年目に入ろうとしている戦争について議論をした。
 インターナショナルの平和派を代表する参加者は、ツィンマーヴァルト左派に従うことを再び拒否した。しかし、前年よりさらに左派に対して柔軟になった。
 会議は『平和問題へのプロレタリアートの態度』という決議で、資本主義の基盤での戦争を非難し、『ブルジョア的であれ社会主義的であれ、平和主義は』人類が直面している悲劇を解消することができない、と強く主張した。//
 『資本主義社会が永続する平和の条件を提示できないならば、その条件は社会主義によって提示されるだろう…。
 <永続平和を目指す闘いは、ゆえに、社会主義の実現を目指す闘いでのみありうる。> 』(133)
 これの実際的な帰結は、『プロレタリアートは即時休戦と講和交渉の開始を求めて呼びかけるべきだ』ということだった。
 再び言おう。反乱を起こすことや銃砲をブルジョアジーに対して向けることの呼びかけではない。しかし、このような行為は決議の前提から排除されてはおらず、多くのことはその中に暗に含まれていたと言うことができるかもしれない。
 ツィンマーヴァルトでしたように、レーニンは、つぎのようなプロレタリアートへの訴えで締め括る、左派のための少数派報告書を書いた。
 『武器を置け。その武器を、共通の敵(foe)-資本主義政府に向けよ。』(*)
 レーニンの声明文の下の(44人の参加者のうちの)12の署名者の中には、ラトヴィアを代表するジノヴィエフ、オランダのそれのカール・ラデックがあった。
 ジノヴィエフの草案にもとづく『社会主義インターナショナル事務局(Bureau)』に関するキーンタールの鍵となる決議は、左派の要求をほとんど満たすもので、この組織がいわゆる<祖国防衛と公民の平和>政策の共犯者に変わることを非難し、また、つぎのように論じた。//
 『インターナショナルは、<プロレタリアートが全ての帝国主義者と狂信愛国主義者の影響から自らを解放し、階級闘争と大衆行動への途を進むことができる>まで、その明確な政治力を有するに至ってのみ、解体を免れることができる。』(134)//
 インターナショナルの分裂を求めるレーニンの主張は再び敗北したけれども、会議が終わったあとで、右派のメンバーの一人、S・グルムバッハは、なおもつぎのように述べた。
 『レーニンとその仲間たちは、ツィンマーヴァルトで重要な役割を果たした。キーンタールでは<決定的な>役割を果たした。』(135)
 じつに、キーンタールの決議は、レーニンが創設した第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕の基礎作業だった。//
 1915-16年におけるツィンマーヴァルトとキーンタールでのレーニンの成功は、社会主義者たちを言葉上だけで信頼させたこと、彼らが美辞麗句(rhetoric)に酔うことを求めたことによっていた。
 これによってレーニンは、外国の社会主義団体の間で小さいがしかし熱烈な支持を獲得した。
 より重要なことは、こうした立場によってレーニンが社会主義運動上の道徳的な高位を掴んだために、彼の反対者たちは弱体化し、彼と闘うことが妨げられたことだ。
 インターの指導者たちは、レーニンの陰謀好きや誹謗中傷を軽蔑した。しかし、自分たち自身と縁を切ることなくして、レーニンと絶縁することはできなかった。
 レーニンはその戦術によって、社会主義インターの運動を徐々に左傾させ、ついには自分の党派から分裂させた。ちょうどロシア社会民主党について行なったように。// 
 これを言ったがまた、レーニンとクルプスカヤには戦時中の数年間は、苛酷な時期、貧困とロシアからの孤立の時代だったことも注記しておかなければならない。
 彼らはスラム街に接した区画に住み、犯罪者や売春婦たちと一緒に食事をして、かつての多数の友人から捨てられたと感じていた。
 以前の何人かの支持者ですら今や、レーニンは変人で、『政治的イエズス会士〔策謀家〕』で、廃人だと見なすようになった。(136)
 かつてレーニンの最も親密な仲間の一人だった、そして今は軍需産業に勤める官僚として快適な生活をしているクラージンがレーニンへの寄付を求められて接近されたとき、彼は二枚の5ルーブル紙幣を差し出して、つぎのように言った。
 『レーニンは、支援に値しない人物だ。
 危険なタイプだ。そのタタール頭に芽生えている狂気がいかなるものかを知ってはならぬ。
 レーニンよ、くたばれ!』(137)//
 レーニンが逃亡している間の唯一の光のひと筋は、イネッサ・アルマンドとの情事だった。彼女は、音楽ホールの芸術家二人の娘で、金持ちのロシア人の妻だった。
 チェルニュインスキーの影響を受けたイネッサは、夫と離婚し、ボルシェヴィキ党に加入した。
 彼女は1910年にパリで、レーニンとその妻に会った。
 まもなく忠実な支持者になるとともに、クルプスカヤの暗黙の了解を得て、レーニンの愛人になった。
 ベルトラム・ヴォルフェはイネッサについて『献身的で情熱的なヒロイン』のように語るけれども、しばしば彼女に逢ったアンジェリカ・バラバノッフは、つぎのように描写する。すなわち、『完全な-ほとんど受動的な-レーニンの指示の実行者』、『厳格にかつ無条件に服従する完璧なボルシェヴィキ党員の原型(prototype)』。(138)
 イネッサ・アルマンドは、レーニンがかつて緊密な人間関係を築いた、唯一の人間(human being)だったように思われる。//
 レーニンは、ヨーロッパ革命がいずれ勃発するという信念を失わなかった。しかし、その見込みは遠いように思えた。
 帝国政府は十分に、1916年に大攻撃を行なうべく1915年の軍事的かつ政治的な危機を見通していた。
 ペテログラードにいる工作員、アレクサンダー・シュリャプニコフが送ってくる散発的な通信によって、レーニンは、悪化するロシアの経済状況や都市住民の不満について知った。(139) しかし、彼はこの情報を無視して、帝国政府にはこのような困難を克服する能力があると明らかに信じていた。
 1917年1月9日/22日にツューリヒの青年社会主義者の集会で講演した際、レーニンは、つぎのように予言した。
 ヨーロッパでの革命は、不可避だ。一方でしかし、『われわれ古い世代の者はおそらく、来たりくる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(140)
 この言葉は、帝国の崩壊の8週間前に、発せられていた。//
  (*) レーニンはこのとき、こう書いた。〔以下、文献を省略〕
 『客観的に見て、平和というスローガンは、いったい誰の利益になるのだ。確実に、プロレタリアートではない。これは資本主義の崩壊を速めるために用いる考え方ではない。』
 これを引用して、アダム・ウラムは、こうコメントする。
 『レーニンは、数百万の人間の生命にとっても「平和というスローガン」が「利益」になりえた、という事実を看過した。』
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 リチャード・パイプス著『ロシア革命』第9章の試訳を、とりあえず、終える。

 

1466/第一次大戦と敵国スパイ①-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。/の左右の日付は、左がロシア暦、右が欧州暦。 
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト、キーンタールおよび敵工作員との関係。

 第一次世界大戦の勃発前の二年間を、レーニンは、クラカウ(cracow、クラクフ)で過ごした。彼はそこから、ロシアの支持者との接触を維持することができた。
 開戦のすぐ前および直後に、レーニンはオーストリアの政府機関、そしてウクライナ解放同盟と関係を結んだ。後者は、ウクライナ人の民族的願望をレーニンが支援する代わりに資金を出し、その革命活動を助けた。(116) 
 その同盟は、ウィーンとベルリンから資金を受け取り、オーストリア外務省の監督のもとで活動していた。
 この活動に加わっていた者たちの一人がパルヴゥスで、彼は1917年には、レーニンがドイツを通って革命ロシアまで確実に通過するのに重要な役割を果たすことになる。 
 ウィーン発、1914年12月16日付で同盟が提示した声明文には、以下の冒頭部分があった。//
 『同盟は、ロシア社会民主党の多数派党派を金銭のかたちで支援し、ロシアとの通信網の構築を援助する。
 その党派指導者、レーニンは、<ウクライナ情報〔新聞〕>で報告されている彼の講演が示すように、ウクライナ人の要求に敵対的ではない。』(117)
 レーニンとグリゴーリ・ジノヴィエフが敵国人でありスパイの嫌疑があるとしてオーストリア警察に逮捕されたとき(1914年7月26日/8月8日)、この団体と関係していることがきわめて役立った。
 オーストリアとポーランドの社会主義運動に影響力のある人物、とくにヤコブ・ガネツキー(ハニエッキ。フュルステンベルクとしても知られる)が、すなわちパルヴゥスが雇っている、レーニンの親密な仲間が、彼らのために穏便にことを済ませてくれた。 
 五日のちに、ルボフ(Lwow〔レンベルク〕)のガリシア総督は、『ロシア帝国の敵』と見なされているレーニンを確保しておくのは好ましくないと助言する電信文を受け取った。(118)
 クラクフの軍事長官は8月6日/19日に、レーニンが収監されていた地域裁判所に電報を打って、即時釈放を命じた。(119)
 レーニン、クルプスカヤ、彼女の母親は8月18日/9月1日に、オーストリア警察の旅券をもって、オーストリア軍事郵便鉄道でウィーンを離れ、スイスに向かった-ふつうの敵国外国人が利用できそうにない輸送手段だった。(120)
 ジノヴィエフとその妻は、二週間後に続いた。
 オーストリアの拘置所からレーニンとジノヴィエフが解放された事情は、ウィーン〔オーストリア政府〕は二人を価値ある資産だと見なしていることを示唆する。// 
 スイスでレーニンはすぐに、戦争反対の基盤に敬意を表して、社会主義インターナショナルの失敗を処理し始めた。// 
 労働者階級の利益は国境を超越し、『プロレタリアート』はいかなる条件のもとでも、市場獲得を目指す資本主義国間の闘争で血を流さない、というのが、国際社会主義運動の根本的な金言だった。
 国際的危機の真っ只中の1907年8月に開催された社会主義インターのシュトゥットガルト大会は、軍事主義と戦争の脅威に多くの注意を向けた。
 二つの傾向があったが、ベーベルによって指導されたその一つは、戦争反対を支持し、かりに戦争が勃発すれば、『早期の終戦』のために闘う、というものだった。
 もう一つの傾向は、三人のロシア代議員-レーニン、マルトフおよびローザ・ルクセンブルク-によって表明されたもので、ロシアの1905年革命の体験に教訓を得て、社会主義者たちが国際的内戦を引き起こすために戦闘を利用することを望んだ。(121)
 後者が強く主張され、大会は、国家の敵対が発生した場合には、以下のことが労働者階級と議会内の労働者議員たちの義務だと決定した。// 
 『終結を速めるために介入すること、戦争により生じた経済的かつ政治的危機を人民を覚醒させるために利用すべく全力を出すこと、そして資本主義階級の支配の廃棄を促進すること』。(122) //
 この条項は、二つの傾向の違いを覆い隠すための左翼少数派に対する右派多数派の修辞的な譲歩だつた。
 しかし、このような妥協にも、レーニンは満足しなかった。
 ロシアの社会民主主義運動で用いたのと同じ軋轢生成的な戦術をとって、レーニンは、社会主義インターの穏健な多数派からの離脱を始めた。革命目的のために将来の戦争を利用する、非妥協的な左翼にとどまることによって。
 レーニンは、平和政策に反対した。その平和政策は、諸国の対立を止めることを意図しており、ヨーロッパの社会主義者に多くに是認されていた。レーニンは実際、戦争を望んだ。悪辣なことに、その理由は、戦争は革命を起こすためのすばらしい機会を提供する、というものだった。
 このような立場は社会主義者にとって一般的ではなくまた受容できないものだったので、レーニンはこの見解を公に表明するのを控えた。
 しかし、あるとき、新しい国際的な危機が生じていた期間の1913年1月に、マクシム・ゴールキへの手紙の中で一度、レーニンは書いた。
 『オーストリアとロシアの間の戦争は、(東ヨーロッパの全てでの)革命にとって最も役立つものだ。しかし、フランツ・ヨーゼフ〔墺〕とニッキー〔ニコライ、露〕は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(123)//
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 ②につづく。

1464/レーニンと警察の二重工作員②-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)②〔つづき〕。  
 ボルシェヴィキ議員団の長が突然に、説明もされずにドゥーマから消え失せた。これによりマリノフスキーの経歴は終わったはずだった。しかし、レーニンは彼の側に立って、『清算人』と中傷して非難しつつ、メンシェヴィキの追及者たちからマリノフスキーを守った。
 この場合には、重要な仲間に対するレーニンの個人的な信頼がその合理的判断を妨げた、と言うのは可能だ。しかし、そうではないように見える。 
 マリノフスキーは、1918年の裁判で、レーニンは自分の前科について知っていたと語った。このような記録があればロシアではドゥーマ選挙に立候補することができないので、内務省がこの情報を使ってマリノフスキーが議会に入るのを阻止しなかったという事実からだけでも、レーニンはマリノフスキーの警察との関係を察知したに違いないだろう。
 ロシアの警察挑発問題に関する重要な専門家だったプルツェフは1918年に、マリノフスキーの裁判で証言した帝制時代の警察官との会話を通じて、つぎのように結論した。
 すなわち、『マリノフスキーによれば、彼の過去には通常の犯罪ではなく自分が警察の手のうちにあった-つまり挑発者だった-ことも隠されているということを、レーニンは理解していたし、理解せざるをえなかった』、と。(110)
 なぜレーニンは自分の組織に警察工作員を維持しようとしたのかについて、帝制時代の上級治安官僚だったアレクサンダー・スピリドヴィッチ将軍が、つぎのように示唆している。
 『ロシアの革命運動の歴史には、革命的組織の指導者がその構成員のうち何人かに政治警察との関係に入ることを認める、いくつかの大きな事例があった。彼ら構成員は、秘密情報員として、警察に瑣末な情報を与える代わりに、その革命的党派にとってもっと重要な情報を警察から引き出そうという狙いをもっていた。』(111)
 レーニンが1917年6月〔いわゆる二月革命のあと、ボルシェヴィキ「七月蜂起」の前-試訳者〕に臨時政府の委員会の前で証言した際、彼は実際にこのような方法でマリノフスキーを使ったのかもしれないことを仄めかした。
 『この事件については、また次の理由にもとづいて、私は挑発者の存在を信じない。かりにマリノフスキーが挑発者であるのならば、わが党が<プラウダ>やその他の合法的な組織全体から得るよりも多くの成果を、オフランカ(Ohkranka〔帝制時代の秘密警察部門〕)は得ていないだろう。 
 ドゥーマに挑発者を送り込み、また彼のためにボルシェヴィキの対抗者〔メンシェヴィキ〕を追い出すなどをしたが、オフランカは、ボルシェヴィキの粗野なイメージに支配されているのだ。-漫画本の滑稽な絵だと言おう。ボルシェヴィキは、武装蜂起を組織するつもりはない。
 オフランカの立場からすれば、あらゆる糸を手繰り寄せるために、マリノフスキーをドゥーマに、そしてボルシェヴィキの中央委員会に入り込ませることは、何らかの価値がある。
 しかし、オフランカがこの二つの目的を達成したときにようやく、マリノフスキーはわれわれの非合法の基地と<プラウダ>とを繋ぐ、長く固い鎖の連結物の一人であることが判明したのだ。』(*)
 レーニンはマリノフスキーの警察との関係を知っていたことを否認したけれども、上のような理由づけは、党の目的を推進させるために警察工作員を使ったことについての、もっともらしい釈明のように感じられる。-つまり、他にとりうる手段がないときに、大衆の支持を獲得するために最大限に合法活動の機会を利用するため、だったのだ。(+)
 マリノフスキーが1918年に裁判での審尋に進んだとき、ボルシェヴィキの訴追者は実際に、マリノフスキーはボルシェヴィキに対してよりも帝制当局に対してよりひどい害悪をなしたと証言するように警察側の証人に圧力をかけた。(112)
 マリノフスキーが自分の自由意思で1918年11月という赤色テロルが高潮しているときにソヴェト・ロシアに帰ってきたこと、そしてレーニンと逢うことを強く求めたことは、マリノフスキーは無罪放免になることを期待していたことを強く示唆している。 
 しかし、レーニンには、もはや彼の使い道がなかった。彼は裁判に出席はしたが、証言しなかった。
 マリノフスキーは、処刑された。//
 マリノフスキーは実際、レーニンのために多くの価値ある仕事をした。
 彼が<プラウダ>および「nashput」の創刊を助けたことは、すでに述べた。
 加えるに、ドゥーマで彼が演説をする際には、レーニン、ジノヴィエフその他のボルシェヴィキ指導者が書いた文章を読んだ。演説の前に彼はそれらの原稿を警察部門の副局長であるセルゲイ・ヴィッサーリオノフに提出し、校訂を受けた。 
 このように方法によって、ボルシェヴィキの宣伝文章は国じゅうに広がった。
 特筆しておきたいのは、マリノフスキーは注意深くかつ忍耐強く、ロシアのレーニンの支持者とメンシェヴィキとが再統合することを妨害したことだ。
 第四ドゥーマが開催されたとき、7人のメンシェヴィキ議員と6人のボルシェヴィキ議員は、レーニンまたは警察が望んだ以上に、協力的精神でもって行動した。実際、レーニンが不一致の種を植え付けるために個人的に出席していない場合には通常のことだったが、彼らは一つの社会民主党の議員団のごとく振る舞った。
 二つの党派を離れさせ、そうしてそれらを弱体化させることは、警察が設定した最優先の使命だった。ベレツキーによれば、『マリノフスキーは、両党派間の溝を深めることのできるいかなる事でもするように命令されていた。』(114)
 それ〔二党派間の溝の深まり〕は、レーニンの利益と警察の利益とが合致している、ということだ。(++)//
 レーニンの独裁的な手法とその完全に欠如した道徳感情は、彼の熱心な支持者をある程度は遠ざけた。陰謀と瑣末な争論に飽き、覆いかかる精神主義(spritualism)の風潮に囚われて、何人かの最も賢いボルシェヴィキは、宗教と観念哲学のうちに慰めを追求し始めた。1909年に、ボルシェヴィキ幹部たちの支配的な傾向は、『神の建設』(Bogostroitel'stvo)として知られるようになった。  
 のちの『プロレタリアの文化』の長のボグダノフやのちの啓蒙人民委員〔大臣〕のA・V・ルナチャルスキーに教え導かれた運動は、非ラジカル知識人の間で有名な『神の探求』(Bogoiskatel'stvo)に対する社会主義者の反応だった。 
 <宗教と社会主義>という書物の中でルナチャルスキーは、社会主義を一種の宗教的体験、『労働者の宗教』だと表現した。
 このイデオロギーの提唱者たちは1909年に、カプリに学校を設置した。 
 こうした展開全体を全く不愉快に感じていたレーニンは、反対の二つの学校を組織した。一つは、ボローニャで、もう一つは、パリ近くのローンジュモで。
 1911年に設立された後者は一種の労働者大学で、ロシアから送られた労働者が、社会科学と政治についての体系的な教条教育(indoctrinnation 〔洗脳〕)を受けていた。教師陣の中には、レーニンや彼の最も忠実な支持者であるジノヴィエフとカーメネフもいた。
 今度は学生に偽装した警察情報者が不可避的に潜入していて、ローンジュモでの教育について報告した。
 『授業の断片を生徒が丸暗記することで成り立っている。なされる授業は疑ってはいけないドグマの性格を帯びており、決して批判的な分析や合理的で意識的な学習を奨励するものではない。』(115) //
  1912年までに、マルトフがレーニンの無節操な財政取引や支配力を得るために多くは不法に獲得した金の使い方を公に明らかにしたあとだったが、二つの党派は一つの党だと装うことを止めた。
 メンシェヴィキは、ボルシェヴィキの行動は社会民主党運動を汚辱するものだと考えた。
 1912年の国際社会主義者事務局の会合で、プレハーノフは公然と、レーニンを窃盗者だと責め立てた。
 メンシェヴィキは、レーニンが犯罪や誹謗中傷に頼ったことや労働者を意識的に誤導したことに唖然としたと表明したにもかかわらず、また、レーニンを『政治的ペテン師』(マルトフ)と呼んで非難したにもかかわらず、レーニンを除名することをしなかった。一方、その咎はエデュアルド・ベルンシュタインの『修正主義』に共感したことだけのストルーヴェは、すみやかに追放された。
 レーニンがこれらを深刻に受け止めなかったしても、何ら不思議ではない。//
 二党派の最終的な分裂は、レーニンのプラハ大会で、1912年1月に起きた。それ以降は、彼らは共同の会合を開かなかった。
 レーニンは『中央委員会』という名前を『私物化』して、もっぱら強硬なボルシェヴィキたちで構成されるように委員を指名した。
 頂部に断絶があるのはもはや完璧なことだったが、ロシア内部でのメンシェヴィキおよびボルシェヴィキの幹部や一般党員は、しばしばお互いを同志と見なし続けて一緒に活動した。//
  (*) レーニンのマリノフスキーに関する証言は、委員会の記録にかかる数巻の出版物にも(Padenie)、レーニンの<選集>にも掲載されていない。
  (+) タチアナ・アレクジンスキーは、中央委員会に警察情報員が加入している可能性についての疑問が生じたとき、ジノヴィエフがゴーゴルの<将軍検査官>から『良い一家は、がらくたすらも利用する』を引用したことを憶えている。〔文献省略〕  
  (++) レーニンがマリノフスキーの警察との関係を知っていた蓋然性(likelihood)は、認められている。ブルツェフに加えて、ステファン・ポッソニー(1964, p.142-43.)によって。
 マリノフスキーの自伝は、ボルシェヴィキは警察がマリノフスキーによってボルシェヴィキに関して知ったよりも少ない情報しか、マリノフスキーから警察に関する情報を得ていないという理由で、この仮説を拒否している(Elwood, マリノフスキー, p.65-66.)。
 しかし、マリノフスキーが彼の二重工作員性に関してレーニンの陳述およびスピリドヴィッチの言明を無視していることは、上に引用した。
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 第10節につづく。
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