Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
——
第八節・トロツキーの敗退②。
(08) 1923年10月8日、トロツキーは中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の民主主義手続を放棄していると指導部を攻撃した。(注205)
(ここでの民主主義手続は党内だけだった。—彼の書簡について議論すべく開かれた総会に対して、トロツキーが「同志諸君がよく知るように、私は決して『民主主義者』でなかった」と思い起こさせたように。)
突然に提起された動議は、分派活動について知る者はGPU または適切な党機関に情報提供することが要求される、とのDzerzhinskii が行なった主張だった。(注206)
この準備行動が自分とその支持者たちに向けられていることをトロツキーは十分に知っており、これは党の官僚主義化の兆候だと彼は解釈した。
彼は知りたかったのだが、ともかくもそうする義務を履行することを共産党員に要求する特別の指令が発せられなければならなかったのか?
彼は、攻撃の対象をnaznachenstvo の実務からの選抜、中央による地方党組織の書記たちの任命による、階層の頂部への権力の集中に定めた。
「党の官僚主義化は事務職員の選抜手続の結果として、かつてないほどに増大した。…
政府と党の組織機構の中に、党員職員の広大な階層が作り出された。彼らは少なくとも表面的には、まるで職員階層が党の見解を作り、党の決定を行う機構を代表していることを当然視しているかのごとく、自分たち自身の見解は完全に捨て去っている。
自分自身の見解の表明を抑制している党員職員階層の下には、広汎な党員大衆がいる。彼らには全ての決定が、すみやかな召喚または命令の形でやって来る。」(注207)
彼は「古くからのボルシェヴィキ」には特別の地位をもつ権利があることを認めつつ、彼らはきわめて少数派にすぎないことを想起させた。そして、こう結論した。
「党員職員による官僚主義に終止符を打たなければならない。
党内民主主義は—ともかくも、硬直化や腐敗の脅威が生じない範囲内でのそれは—、当然の権利を獲得しなければならない。」(注208)//
----
(09) 全ては十分に正しかった。だが、トロツキー自身が三年前に、全く同じ異論を「形式主義」、「呪物崇拝」だとして却下していた。
新しい立場のトロツキーは、とくにいわゆる「46のグループ」から、ある程度の支持を獲得し、支持者たちは、彼の趣旨での手紙を中央委員会に送った。(注209)
しかしながら、党の指導機関は、回答を用意していた。すなわち、諸書簡は、不法な分派の結成につながり得る「基盤」だ。(注210)
長い反論文で、トロツキーについて、こう決めつけた。
「二、三年前に同志トロツキーが中央委員会の多数派に反対して『経済』宣言を開始したとき、レーニン自身が彼に何度も経済問題は簡単に成功することのない問題領域であって、重要な結果を達成するには辛抱強い持続的な年月を必要とする、と説明した。…
国の経済生活の適切な指揮を単一の中心に確保し、その中に最大限度の計画化を導入するために、1923年夏の中央委員会はSTOを再編成し、それに人数的に多数の共和国の経済指導者を含めた。
中央委員会はその中に、同志トロツキーも選出した。
しかし、同志トロツキーは、STOの会議に姿を見せることを考慮しなかった。多年にわたってソヴナルコムの会議に出席せず、同志レーニンのソヴナルコム議長代理者の一人になるようにとの提案を拒んだのと全く同じように。…
同志トロツキーの不満、その大きな苛立ち、長年にわたる中央委員会に対する攻撃、党を揺さぶろうとするその決意、これら全ての基礎にあるのは、同志トロツキーは中央委員会が彼自身と同志[A. L.]Kolegaev に我々の経済生活に関する責任を持たせることを望んでいる、ということだ、
同志レーニンは長くこのような人事に反対した。そして我々は、彼は完全に正しかったと考える。…
同志トロツキーは、ソヴナルコムおよび再編されたSTO の構成員だ。
彼はまた、同志レーニンから、ソヴナルコム議長の代理職の地位を提示された。
同志トロツキーが望むならば、これら全ての地位を活用して、実際に全党に対して、自分が経済と軍事の分野で事実上無制限の権限を託される人間であることを例証できたはずだっただろう。
しかし、同志トロツキーは、異なる行動を選択した。それは、我々の見解では、党員の義務と両立し得ないものだ。
彼は、同志レーニンの指導中と引退後のいずれの期間も、ソヴナルコムの会議に一度なりとも出席しなかった。
彼は、旧であれ再編後であれ、STO の会議に一度なりとも出席しなかった。
彼は、ソヴナルコムでもSTOでも一回も提案をしなかった。あるいはGosplan でも、経済、財政、予算等々の諸問題に関するいかなる提案もしなかった。
彼はまた、代理職への同志レーニンの提示をきっぱりと拒んだ。この役職をどうやら彼は、自分の威厳よりも低いと見なしたようだ。
彼は、『全か無か』の定式に従って行動している。
同志トロツキーは実際のところ、経済と軍事の分野で独裁的権力を認めるか、さもなくば経済領域で仕事をするのを拒否し、毎日の困難な業務をしている中央委員会の系統的な破壊を行なう権利だけを自分に留保しようとするか、という態度を、党に対してとってきた。」(注211)/
この反応は、トロツキーの書簡が提起した政治的問題に答えていなかった。その代わりに、レーニンとトロツキーが政治的論争に関して長く確立してきた原理的考え方に従って、トロツキーを個人的に激しく攻撃した。
この攻撃は力強いもので、共産党員たちのあいだでトロツキーの信用をさらに傷つけたに違いない。//
----
(10) 10月23日、トロツキーは大胆不敵にも、中央委員会総会宛て書簡で、提起した論点を拡大しつつ、党の分裂を促進しているとの非難を否定した。(注212)
歩み出すことをトロツキーが拒否したことに着目して、総会は102対2(保留が10)の票決で、彼を「分派主義」に従事したとして譴責した。
また、党指導部の行動を「完璧に肯定」した。(注213)
カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーを党から除名しようとした。だが、スターリンはそれは思慮深さを欠くと考えた。彼の強い主張によって、二人の動議は否定された。
政治局はPravda に、トロツキーに不適切な振舞いがあったいもかかわらず、彼なくして仕事を継続することは考え難い、と言明する決議を掲載した。党最高諸機関での彼の協力の継続は「絶対に必要不可欠」だ。(*)
スターリンは、「トロイカ」体制への批判が増えてきていることに気づいて、逸脱した同僚だが貴重な人物として保持するのを望んでいると装うのが得策だと考えた。
のちに、こう説明することになるように。
「ジノヴィエフとカーメネフには同意しなかった。隔絶の方針は党にとって危険を伴っている、隔絶という手段は流血の手段だ、ということを我々は知っているからだ。
隔絶は危険であり、感染症的だ。ある一人を今日に遮断する。明日はもう一人。その次の日に三人め。そして、党には誰もいなくなってしまうだろう。」(注213)
いつものように、スターリンは分別と妥協の人物だった。
----
(脚注*) Pravda, No. 287 (1923.12.18), p.4. ブハーリンはのちに、1923年にジノヴィエフはトロツキーが逮捕されるのを望んだと、ジノヴィエフに思い出させた。Pravda, No. 251/3, 783 (1927.11.2), p.3. レーニンの反応については、既述 p.467〔第9章第五節〕を見よ。
----
後注。
(205) IzvTsK, No. 5/304 (1990.5), p.165-.173.
(206) Ibid., p.165. 〔IzvTsK=Izvestiia TsK KPSS〕
(207) Ibid., p.170.
(208) Ibid., p.173.
(209) Ibid., No. 6/305 (1990.6), p.189-191.
(210) Ibid., No. 5/304 (1990.5), p.178-9, No. 7/306 (1990.7), p.176-189.
(211) Ibid., No. 7/306 (1990.7), p.177-9.
(212) Ibid., No. 10/309 (1990.10), p.167-p.181.
(213) Ibid., p.188-9.
(214) Vasetskii Likvidatsiia, p.37 から引用。
——
③へと、つづく。
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
——
第八節・トロツキーの敗退②。
(08) 1923年10月8日、トロツキーは中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の民主主義手続を放棄していると指導部を攻撃した。(注205)
(ここでの民主主義手続は党内だけだった。—彼の書簡について議論すべく開かれた総会に対して、トロツキーが「同志諸君がよく知るように、私は決して『民主主義者』でなかった」と思い起こさせたように。)
突然に提起された動議は、分派活動について知る者はGPU または適切な党機関に情報提供することが要求される、とのDzerzhinskii が行なった主張だった。(注206)
この準備行動が自分とその支持者たちに向けられていることをトロツキーは十分に知っており、これは党の官僚主義化の兆候だと彼は解釈した。
彼は知りたかったのだが、ともかくもそうする義務を履行することを共産党員に要求する特別の指令が発せられなければならなかったのか?
彼は、攻撃の対象をnaznachenstvo の実務からの選抜、中央による地方党組織の書記たちの任命による、階層の頂部への権力の集中に定めた。
「党の官僚主義化は事務職員の選抜手続の結果として、かつてないほどに増大した。…
政府と党の組織機構の中に、党員職員の広大な階層が作り出された。彼らは少なくとも表面的には、まるで職員階層が党の見解を作り、党の決定を行う機構を代表していることを当然視しているかのごとく、自分たち自身の見解は完全に捨て去っている。
自分自身の見解の表明を抑制している党員職員階層の下には、広汎な党員大衆がいる。彼らには全ての決定が、すみやかな召喚または命令の形でやって来る。」(注207)
彼は「古くからのボルシェヴィキ」には特別の地位をもつ権利があることを認めつつ、彼らはきわめて少数派にすぎないことを想起させた。そして、こう結論した。
「党員職員による官僚主義に終止符を打たなければならない。
党内民主主義は—ともかくも、硬直化や腐敗の脅威が生じない範囲内でのそれは—、当然の権利を獲得しなければならない。」(注208)//
----
(09) 全ては十分に正しかった。だが、トロツキー自身が三年前に、全く同じ異論を「形式主義」、「呪物崇拝」だとして却下していた。
新しい立場のトロツキーは、とくにいわゆる「46のグループ」から、ある程度の支持を獲得し、支持者たちは、彼の趣旨での手紙を中央委員会に送った。(注209)
しかしながら、党の指導機関は、回答を用意していた。すなわち、諸書簡は、不法な分派の結成につながり得る「基盤」だ。(注210)
長い反論文で、トロツキーについて、こう決めつけた。
「二、三年前に同志トロツキーが中央委員会の多数派に反対して『経済』宣言を開始したとき、レーニン自身が彼に何度も経済問題は簡単に成功することのない問題領域であって、重要な結果を達成するには辛抱強い持続的な年月を必要とする、と説明した。…
国の経済生活の適切な指揮を単一の中心に確保し、その中に最大限度の計画化を導入するために、1923年夏の中央委員会はSTOを再編成し、それに人数的に多数の共和国の経済指導者を含めた。
中央委員会はその中に、同志トロツキーも選出した。
しかし、同志トロツキーは、STOの会議に姿を見せることを考慮しなかった。多年にわたってソヴナルコムの会議に出席せず、同志レーニンのソヴナルコム議長代理者の一人になるようにとの提案を拒んだのと全く同じように。…
同志トロツキーの不満、その大きな苛立ち、長年にわたる中央委員会に対する攻撃、党を揺さぶろうとするその決意、これら全ての基礎にあるのは、同志トロツキーは中央委員会が彼自身と同志[A. L.]Kolegaev に我々の経済生活に関する責任を持たせることを望んでいる、ということだ、
同志レーニンは長くこのような人事に反対した。そして我々は、彼は完全に正しかったと考える。…
同志トロツキーは、ソヴナルコムおよび再編されたSTO の構成員だ。
彼はまた、同志レーニンから、ソヴナルコム議長の代理職の地位を提示された。
同志トロツキーが望むならば、これら全ての地位を活用して、実際に全党に対して、自分が経済と軍事の分野で事実上無制限の権限を託される人間であることを例証できたはずだっただろう。
しかし、同志トロツキーは、異なる行動を選択した。それは、我々の見解では、党員の義務と両立し得ないものだ。
彼は、同志レーニンの指導中と引退後のいずれの期間も、ソヴナルコムの会議に一度なりとも出席しなかった。
彼は、旧であれ再編後であれ、STO の会議に一度なりとも出席しなかった。
彼は、ソヴナルコムでもSTOでも一回も提案をしなかった。あるいはGosplan でも、経済、財政、予算等々の諸問題に関するいかなる提案もしなかった。
彼はまた、代理職への同志レーニンの提示をきっぱりと拒んだ。この役職をどうやら彼は、自分の威厳よりも低いと見なしたようだ。
彼は、『全か無か』の定式に従って行動している。
同志トロツキーは実際のところ、経済と軍事の分野で独裁的権力を認めるか、さもなくば経済領域で仕事をするのを拒否し、毎日の困難な業務をしている中央委員会の系統的な破壊を行なう権利だけを自分に留保しようとするか、という態度を、党に対してとってきた。」(注211)/
この反応は、トロツキーの書簡が提起した政治的問題に答えていなかった。その代わりに、レーニンとトロツキーが政治的論争に関して長く確立してきた原理的考え方に従って、トロツキーを個人的に激しく攻撃した。
この攻撃は力強いもので、共産党員たちのあいだでトロツキーの信用をさらに傷つけたに違いない。//
----
(10) 10月23日、トロツキーは大胆不敵にも、中央委員会総会宛て書簡で、提起した論点を拡大しつつ、党の分裂を促進しているとの非難を否定した。(注212)
歩み出すことをトロツキーが拒否したことに着目して、総会は102対2(保留が10)の票決で、彼を「分派主義」に従事したとして譴責した。
また、党指導部の行動を「完璧に肯定」した。(注213)
カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーを党から除名しようとした。だが、スターリンはそれは思慮深さを欠くと考えた。彼の強い主張によって、二人の動議は否定された。
政治局はPravda に、トロツキーに不適切な振舞いがあったいもかかわらず、彼なくして仕事を継続することは考え難い、と言明する決議を掲載した。党最高諸機関での彼の協力の継続は「絶対に必要不可欠」だ。(*)
スターリンは、「トロイカ」体制への批判が増えてきていることに気づいて、逸脱した同僚だが貴重な人物として保持するのを望んでいると装うのが得策だと考えた。
のちに、こう説明することになるように。
「ジノヴィエフとカーメネフには同意しなかった。隔絶の方針は党にとって危険を伴っている、隔絶という手段は流血の手段だ、ということを我々は知っているからだ。
隔絶は危険であり、感染症的だ。ある一人を今日に遮断する。明日はもう一人。その次の日に三人め。そして、党には誰もいなくなってしまうだろう。」(注213)
いつものように、スターリンは分別と妥協の人物だった。
----
(脚注*) Pravda, No. 287 (1923.12.18), p.4. ブハーリンはのちに、1923年にジノヴィエフはトロツキーが逮捕されるのを望んだと、ジノヴィエフに思い出させた。Pravda, No. 251/3, 783 (1927.11.2), p.3. レーニンの反応については、既述 p.467〔第9章第五節〕を見よ。
----
後注。
(205) IzvTsK, No. 5/304 (1990.5), p.165-.173.
(206) Ibid., p.165. 〔IzvTsK=Izvestiia TsK KPSS〕
(207) Ibid., p.170.
(208) Ibid., p.173.
(209) Ibid., No. 6/305 (1990.6), p.189-191.
(210) Ibid., No. 5/304 (1990.5), p.178-9, No. 7/306 (1990.7), p.176-189.
(211) Ibid., No. 7/306 (1990.7), p.177-9.
(212) Ibid., No. 10/309 (1990.10), p.167-p.181.
(213) Ibid., p.188-9.
(214) Vasetskii Likvidatsiia, p.37 から引用。
——
③へと、つづく。