Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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第四節/チェカと司法人民委員部の対立①。
(01) 元来の使命に制約されつつも、チェカは、政治的に望ましくない者を処断する無制限の自由を追求した。
これによって、司法人民委員部と衝突することになる。
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(02) 設立された最初から、チェカは、それ自体の権限にもとづき、「反革命」や「投機」を行なっている疑いのある者たちを逮捕した。
犯罪者は、警護つきで、Smolnyi へと送られた。
この手続に、司法人民委員のSteinberg は満足できなかった。この人物は、正義のタルムード的(Talmudic)観念に関する博士論文でドイツで学位を得たユダヤ人法律家だった。
〔1917年〕12月15日、彼は、司法人民委員部の事前の承認がある場合を除き、逮捕された市民をSmolnyi か革命審判所のいずれかに送るのを禁止する決定を行なった。
チェカに拘禁されている犯罪者は、釈放されるものとされた(注44)。
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(03) レーニンによる後援があるとの自信があったようで、Dzerzhinskii は、この指令を無視した。
12月19日、彼は、立憲会議防衛同盟の一員を逮捕した。
Dzerzhinskii のこの行為を知るとすぐに、Steinberg はこれを取消し、犯罪者の釈放を命じた。
この係争は、その日の夕方にあったソヴナルコムの会議の議題になった。
内閣はDzerzhinskii の側に立ち、チェカの犯罪者を釈放したとしてSteinberg を非難した。
しかし、Steinberg はこの敗北に怯むことなく、ソヴナルコムに対して司法人民委員部とチェカの関係を調整するよう求め、「司法人民委員部の権能について」と題する企画案を提出した(注46)。
この文書は、司法人民委員部の事前の裁可なくしてチェカが政治的な逮捕を行なうことを禁止していた。
レーニンと内閣の残りの閣僚たちは、Steinberg の提案を是認した。ボルシェヴィキは、この時期に左翼エスエルと争論するのを望まなかったからだ。
採択された決議は、「顕著に政治的重要性をもつ」者の逮捕に関する全ての命令には司法人民委員部の副署が付いていること、を要求した。
おそらくは、チェカはその固有の権限にもとづいて、通常の逮捕は行なうことはできた。
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(04) しかし、この限定された譲歩ですら、ほとんど直ちに撤回された。
二日のち、たぶんDzerdhinskii の不服に応えて、ソヴナルコムは全く異なる決議を採択した。
その決議は、チェカが調査機関であることを確認しつつ、司法人民委員部その他の全ての機関に対して、重要な政治的人物を逮捕する権限を妨害しないよう言いつけた。
チェカには、事後に司法人民委員部と内務人民委員部に知らせる必要だけがあった。
レーニンは、すでに逮捕されている者は法廷に引き渡されるか釈放される、という条件を追加した(注47)。
その翌日、チェカは、ペテログラードで事務職被用者のストライキを指揮していた中心部を逮捕した(注48)。
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(05) 左翼エスエルは、1917年12月に締結されたボルシェヴィキとの協定の一部として、役員会(Collegium)として知られるチェカを運営する委員会に、代表者を出す権利をもった。
チェカを100パーセント・ボルシェヴィキの機関とするというボルシェヴィキの意図からすると、この譲歩はそれに逆行していたが、レーニンは、Dzerzhinskii の反対を遮ってこれに同意した。
ソヴナルコムは左翼エスエルをチェカの副長官に任命し、役員会にこの党の数人を加えた(49)。
左翼エスエルはさらに、役員会の全員一致の同意がある場合を除いてチェカは死刑を執行しない、役員会は死刑判決に対する拒否権をもつ、という原則を受け入れさせた。
1918年1月31日、ソヴナルコムは、発表されなかった決定で、チェカはもっぱら調査に関する任務をもつ、ということを確認した。
「チェカは、その任務を、諜報活動全般、犯罪の抑圧と防止に集中させる。全ての調査につづく行為や事案の法廷への提示は、革命審判所の調査委員会に委ねられる。」(注50)
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(06) チェカに対するこうした制限は、一ヶ月後に「社会主義祖国の危機!」という布令によって放棄された(注51)。
この文書は、誰が反革命者や新しい国家に対するその他の敵を「その場で射殺する」かについて、述べていなかった。だが、この責任がチェカに譲り渡されたことに疑いはあり得なかった。
チェカはその翌日に、「反革命者」はその場で容赦なく殺戮される、ということを民衆に警告したものだ、と確認した(注52)。
その日、2月23日に、Dzerzhinskii は地方ソヴェトに対して電信で、反体制「陰謀」が広がっていることにかんがみ、ただちに自分たち自身のチェカを設置し、「反革命者」を逮捕し、勾引したどこででも処刑する、という途を進むよう助言した(注53)。
上の布令はこのようにしてチェカを、公式にかつ永続的に、調査機関から完全に自立したテロルの機構へと変質させた。
この変質は、レーニンの同意でもって、行なわれた。
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②へとつづく。
「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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第四節/チェカと司法人民委員部の対立①。
(01) 元来の使命に制約されつつも、チェカは、政治的に望ましくない者を処断する無制限の自由を追求した。
これによって、司法人民委員部と衝突することになる。
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(02) 設立された最初から、チェカは、それ自体の権限にもとづき、「反革命」や「投機」を行なっている疑いのある者たちを逮捕した。
犯罪者は、警護つきで、Smolnyi へと送られた。
この手続に、司法人民委員のSteinberg は満足できなかった。この人物は、正義のタルムード的(Talmudic)観念に関する博士論文でドイツで学位を得たユダヤ人法律家だった。
〔1917年〕12月15日、彼は、司法人民委員部の事前の承認がある場合を除き、逮捕された市民をSmolnyi か革命審判所のいずれかに送るのを禁止する決定を行なった。
チェカに拘禁されている犯罪者は、釈放されるものとされた(注44)。
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(03) レーニンによる後援があるとの自信があったようで、Dzerzhinskii は、この指令を無視した。
12月19日、彼は、立憲会議防衛同盟の一員を逮捕した。
Dzerzhinskii のこの行為を知るとすぐに、Steinberg はこれを取消し、犯罪者の釈放を命じた。
この係争は、その日の夕方にあったソヴナルコムの会議の議題になった。
内閣はDzerzhinskii の側に立ち、チェカの犯罪者を釈放したとしてSteinberg を非難した。
しかし、Steinberg はこの敗北に怯むことなく、ソヴナルコムに対して司法人民委員部とチェカの関係を調整するよう求め、「司法人民委員部の権能について」と題する企画案を提出した(注46)。
この文書は、司法人民委員部の事前の裁可なくしてチェカが政治的な逮捕を行なうことを禁止していた。
レーニンと内閣の残りの閣僚たちは、Steinberg の提案を是認した。ボルシェヴィキは、この時期に左翼エスエルと争論するのを望まなかったからだ。
採択された決議は、「顕著に政治的重要性をもつ」者の逮捕に関する全ての命令には司法人民委員部の副署が付いていること、を要求した。
おそらくは、チェカはその固有の権限にもとづいて、通常の逮捕は行なうことはできた。
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(04) しかし、この限定された譲歩ですら、ほとんど直ちに撤回された。
二日のち、たぶんDzerdhinskii の不服に応えて、ソヴナルコムは全く異なる決議を採択した。
その決議は、チェカが調査機関であることを確認しつつ、司法人民委員部その他の全ての機関に対して、重要な政治的人物を逮捕する権限を妨害しないよう言いつけた。
チェカには、事後に司法人民委員部と内務人民委員部に知らせる必要だけがあった。
レーニンは、すでに逮捕されている者は法廷に引き渡されるか釈放される、という条件を追加した(注47)。
その翌日、チェカは、ペテログラードで事務職被用者のストライキを指揮していた中心部を逮捕した(注48)。
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(05) 左翼エスエルは、1917年12月に締結されたボルシェヴィキとの協定の一部として、役員会(Collegium)として知られるチェカを運営する委員会に、代表者を出す権利をもった。
チェカを100パーセント・ボルシェヴィキの機関とするというボルシェヴィキの意図からすると、この譲歩はそれに逆行していたが、レーニンは、Dzerzhinskii の反対を遮ってこれに同意した。
ソヴナルコムは左翼エスエルをチェカの副長官に任命し、役員会にこの党の数人を加えた(49)。
左翼エスエルはさらに、役員会の全員一致の同意がある場合を除いてチェカは死刑を執行しない、役員会は死刑判決に対する拒否権をもつ、という原則を受け入れさせた。
1918年1月31日、ソヴナルコムは、発表されなかった決定で、チェカはもっぱら調査に関する任務をもつ、ということを確認した。
「チェカは、その任務を、諜報活動全般、犯罪の抑圧と防止に集中させる。全ての調査につづく行為や事案の法廷への提示は、革命審判所の調査委員会に委ねられる。」(注50)
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(06) チェカに対するこうした制限は、一ヶ月後に「社会主義祖国の危機!」という布令によって放棄された(注51)。
この文書は、誰が反革命者や新しい国家に対するその他の敵を「その場で射殺する」かについて、述べていなかった。だが、この責任がチェカに譲り渡されたことに疑いはあり得なかった。
チェカはその翌日に、「反革命者」はその場で容赦なく殺戮される、ということを民衆に警告したものだ、と確認した(注52)。
その日、2月23日に、Dzerzhinskii は地方ソヴェトに対して電信で、反体制「陰謀」が広がっていることにかんがみ、ただちに自分たち自身のチェカを設置し、「反革命者」を逮捕し、勾引したどこででも処刑する、という途を進むよう助言した(注53)。
上の布令はこのようにしてチェカを、公式にかつ永続的に、調査機関から完全に自立したテロルの機構へと変質させた。
この変質は、レーニンの同意でもって、行なわれた。
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②へとつづく。



























































