秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ジェルジンスキ

2947/R.Pipes1990年著—第18章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第四節/チェカと司法人民委員部の対立①。
 (01) 元来の使命に制約されつつも、チェカは、政治的に望ましくない者を処断する無制限の自由を追求した。
 これによって、司法人民委員部と衝突することになる。
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 (02) 設立された最初から、チェカは、それ自体の権限にもとづき、「反革命」や「投機」を行なっている疑いのある者たちを逮捕した。
 犯罪者は、警護つきで、Smolnyi へと送られた。
 この手続に、司法人民委員のSteinberg は満足できなかった。この人物は、正義のタルムード的(Talmudic)観念に関する博士論文でドイツで学位を得たユダヤ人法律家だった。
 〔1917年〕12月15日、彼は、司法人民委員部の事前の承認がある場合を除き、逮捕された市民をSmolnyi か革命審判所のいずれかに送るのを禁止する決定を行なった。
 チェカに拘禁されている犯罪者は、釈放されるものとされた(注44)。
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 (03) レーニンによる後援があるとの自信があったようで、Dzerzhinskii は、この指令を無視した。
 12月19日、彼は、立憲会議防衛同盟の一員を逮捕した。
 Dzerzhinskii のこの行為を知るとすぐに、Steinberg はこれを取消し、犯罪者の釈放を命じた。
 この係争は、その日の夕方にあったソヴナルコムの会議の議題になった。
 内閣はDzerzhinskii の側に立ち、チェカの犯罪者を釈放したとしてSteinberg を非難した。
 しかし、Steinberg はこの敗北に怯むことなく、ソヴナルコムに対して司法人民委員部とチェカの関係を調整するよう求め、「司法人民委員部の権能について」と題する企画案を提出した(注46)。
 この文書は、司法人民委員部の事前の裁可なくしてチェカが政治的な逮捕を行なうことを禁止していた。
 レーニンと内閣の残りの閣僚たちは、Steinberg の提案を是認した。ボルシェヴィキは、この時期に左翼エスエルと争論するのを望まなかったからだ。
 採択された決議は、「顕著に政治的重要性をもつ」者の逮捕に関する全ての命令には司法人民委員部の副署が付いていること、を要求した。
 おそらくは、チェカはその固有の権限にもとづいて、通常の逮捕は行なうことはできた。
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 (04) しかし、この限定された譲歩ですら、ほとんど直ちに撤回された。
 二日のち、たぶんDzerdhinskii の不服に応えて、ソヴナルコムは全く異なる決議を採択した。
 その決議は、チェカが調査機関であることを確認しつつ、司法人民委員部その他の全ての機関に対して、重要な政治的人物を逮捕する権限を妨害しないよう言いつけた。
 チェカには、事後に司法人民委員部と内務人民委員部に知らせる必要だけがあった。
 レーニンは、すでに逮捕されている者は法廷に引き渡されるか釈放される、という条件を追加した(注47)。
 その翌日、チェカは、ペテログラードで事務職被用者のストライキを指揮していた中心部を逮捕した(注48)。
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 (05) 左翼エスエルは、1917年12月に締結されたボルシェヴィキとの協定の一部として、役員会(Collegium)として知られるチェカを運営する委員会に、代表者を出す権利をもった。
 チェカを100パーセント・ボルシェヴィキの機関とするというボルシェヴィキの意図からすると、この譲歩はそれに逆行していたが、レーニンは、Dzerzhinskii の反対を遮ってこれに同意した。
 ソヴナルコムは左翼エスエルをチェカの副長官に任命し、役員会にこの党の数人を加えた(49)。
 左翼エスエルはさらに、役員会の全員一致の同意がある場合を除いてチェカは死刑を執行しない、役員会は死刑判決に対する拒否権をもつ、という原則を受け入れさせた。
 1918年1月31日、ソヴナルコムは、発表されなかった決定で、チェカはもっぱら調査に関する任務をもつ、ということを確認した。
 「チェカは、その任務を、諜報活動全般、犯罪の抑圧と防止に集中させる。全ての調査につづく行為や事案の法廷への提示は、革命審判所の調査委員会に委ねられる。」(注50)
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 (06) チェカに対するこうした制限は、一ヶ月後に「社会主義祖国の危機!」という布令によって放棄された(注51)。
 この文書は、誰が反革命者や新しい国家に対するその他の敵を「その場で射殺する」かについて、述べていなかった。だが、この責任がチェカに譲り渡されたことに疑いはあり得なかった。
 チェカはその翌日に、「反革命者」はその場で容赦なく殺戮される、ということを民衆に警告したものだ、と確認した(注52)。
 その日、2月23日に、Dzerzhinskii は地方ソヴェトに対して電信で、反体制「陰謀」が広がっていることにかんがみ、ただちに自分たち自身のチェカを設置し、「反革命者」を逮捕し、勾引したどこででも処刑する、という途を進むよう助言した(注53)。
 上の布令はこのようにしてチェカを、公式にかつ永続的に、調査機関から完全に自立したテロルの機構へと変質させた。
 この変質は、レーニンの同意でもって、行なわれた。
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 ②へとつづく。

2946/R.Pipes1990年著—第18章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第三節/チェカの起源。
 (01) チェカは、実質的に秘密に生まれた。
 保安機構を設置する決定—基本的には帝制時代の警察とOkhrana の復活—は、1917年12月7日にソヴナルコム(人民委員会議)によって採択された。これは、事務職の被用者によるストライキを意味する「サボタージュ」(sabotage)との闘いに関するDzerzhinskii の報告にもとづいていた。(脚注1)
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 (脚注1) <Iz istorii Vserossiiskoi Chrezvychainoi Kommissii 1917-1921 gg.>(Moscow, 1958), p.78-p.79. この趣旨の決議を採択した農民大会の圧力を受けて、ボルシェヴィキは軍事革命委員会を解散した(Revoliutsiia, VI, p.144)。チェカは、これの後継組織だった。
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 ソヴナルコムの決定は、このとき、公表されなかった。
 最初に活字で発表されたのは1924年で、虚偽の部分のある不完全なものだった。1926年により完全だが虚偽を含むものが、そしてようやく1958年に完全で真正なものが、明らかにされた(注33)。
 1917年には、ボルシェヴィキの新聞に、ソヴナルコムは「反革命およびサボタージュと闘う非常委員会」を設置した、役所はペテログラードのGorokhovaia 2番地に位置するだろう、という短い、二文だけが掲載された(注34)。
 この建物は革命前は、市長の事務局および警察の地方支部として使われていた。
 チェカの権能も、責任も、何ら説明されていなかった。
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 (02) ボルシェヴィキ政府が創設時にチェカの役割や権限を公表しなかったことで、チェカには不吉な効用が生じた。チェカがもとうと意図していた権限を要求するのが可能になったからだ。
 今では知られているが、チェカの使命は、帝制時代の保安警察を範として、国家に対する犯罪を捜査し、阻止することだった。
 チェカは、司法的権力を有しないものとされた。ソヴナルコムは、チェカが政治的犯罪の容疑者を訴追と判決のために革命審判所に引き渡すことを想定していた。
 チェカを設立する秘密の決定の関係条項には、つぎのように書かれていた。
 「(非常)委員会の任務 (1) ロシア全国で各区画での反革命と怠業の全ての試みと行為を抑圧し、絶滅すること。(2) 全ての怠業者と反革命者を革命審判所の法廷に引き渡し、彼らと闘う手段を考え出すこと。(3) 委員会は[反革命と怠業を]阻止するために必要な範囲内で、前審での審問のみを行なう。」(注35)
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 (03) 最初に発表された決定(1924、1926)では、一つの重要な言葉が変わっていた。
 今は知られているように、決定の原稿では「抑圧する」—「presekat」—という言葉が「pre-seklat」の省略形として用いられていた。
 最も早い発表では、この言葉は「presledovat」に変更され、これは「訴追する」を意味した(注36)。
 若干の文字の交換や置き換えは、チェカに司法的権限を与える、という効果をもった。
 スターリンの死後にようやく明らかになったこの偽作によって、チェカとその後継組織(GPU、OGPU、NKVD)には、非公開で行われる略式の手続で、政治的収監者に対して、死刑を含む全ての範囲の制裁を課す判決を下すことが認められた。
 ソヴィエトの保安警察はこの権限を剥奪された。このことは、1956年だけで数百万の生命に関係した。
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 (04) 通常は官僚主義的儀礼に几帳面なボルシェヴィキは、秘密警察に関しては、重大な例外を設けた。
 のちには体制を救ったと信頼されたこの機構には、長いあいだ、法的な立場がなかった(注37)。
 1917-18年の法令集では無視されていて、形式的な一体性をもっていなかった。
 これは、意図的な政策方針だった。
 1918年の初めに、チェカは、自らが承認した場合を除いて、チェカに関する情報を発表するのを禁止した(注38)。
 この差止め命令は厳格に守られたのではなかったが、チェカに関するそれ自身や社会での役割に関する一定の像を与えた。
 この点で、ボルシェヴィキは、正規の勅令なくしてロシアの最初の秘密警察、Preobrazhenskii の役所、を設置したピョートル大帝の先例に従っていた。(脚注2)
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 (脚注2) この機構は内密に設けられたので、歴史家は今日まで、これの設立を根拠づける布令の所在を突き止める、または発せられただろう大まかな時期を決定する、ということができていない。Richard Pipes, Russia under the Old Regime(London, 1974), p.130.
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 (05) チェカは、少人数の事務職員と若干の軍事部隊で出発した。
 三月に政府とともにモスクワへ移った。そこでは、Bolshaia Lubianka 11番地にあるIakor 保険会社の広い区画を利用した。
 このとき、わずか120人の被用者がいた、とされた。但し、本当の数字は600人近くだった、と見積もる研究者もいる(注39)。
 チェキストのPeters は、つぎのことを認めた。チェカは人員を新しく補充するのが困難だった。なぜなら、ロシア人には帝制時代の警察の像がまだ鮮やかで、「感情的に」反応し、旧体制の迫害と新しいそれとの区別がつかず、彼らは加入するのを拒んだからだ(注40)(脚注2)
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 (脚注2) 当時の多くの者が報告しているが、この混乱は一部は、看守を含む多くのチェカ被用者は帝制下でも同じ仕事に従事した、ということによるのかもしれない。
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 その結果として、チェカ活動家のうち高い割合を占めたのは、非ロシア人だった。
 Dzerzhinskii はポーランド人で、彼に近い同僚の多くはラトヴィア人、アルメニア人、ユダヤ人だった。
 チェカが共産党員の官僚や重要な収監者を守るために用いた警護者は、もっぱらラトヴィア人ライフル部隊から選抜された。ラトヴィア人はより冷厳で、賄賂をより受けにくいと考えられていたからだ。
 レーニンは、外国人たちへのこの信頼を強く支持した。
 Steinberg は、ロシア人の民族的性格へのレーニンの「恐怖」を思い出す。
 レーニンは、ロシア人には断固さがない、と考えた。彼はこう言ったものだ。「ロシア人は穏やかだ。穏やかすぎる。革命的テロルという過酷な手段を行使することができない。」(注41)
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 (06) 外国人を雇用することには、つぎのような利点が追加的にあった。すなわち、血縁の紐帯によって潜在的な犠牲者たちと結びつくのがなさそうであること、ロシアの地域共同体からの非難によって躊躇することはないこと。
 例えば、Dzerzhinskii は、強いポーランド民族主義の雰囲気の中で育ち、若いときは、ポーランド人に加えた迫害を理由として「ロシア人(Muscovites)全員を絶滅」させたかった(脚注3)
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 (脚注3) PR, No.9(1926), p.55. のちにレーニンは、彼とジョージア人のスターリンを、ロシア排外的愛国主義だと批判した。
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 ラトヴィア人は、ロシア人を軽蔑していた。
 Bruce Lockhart は、1918年9月にチェカに拘禁されていた短いあいだに、ラトヴィア人警護者が「ロシア人はのろくて汚い」、戦闘のときはいつも「彼らに失望した」と言うのを聞いた(注42)。
 ロシアの民衆にテロルを加える外国人をレーニンが信頼していたことは、イワン雷帝の実務を想起させる。イワン雷帝(Ivan the Terrible)のテロル装置であるOprichnina には、多数の外国人が、とくにドイツ人が、いた。
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 (07) 社会主義国の政治警察につきまとう悪評を除去するために、ボルシェヴィキは、政治的であるチェカの主要な任務を、通常の犯罪と闘う任務と結びつけようとした。
 ソヴィエト・ロシアには殺人、略奪、強盗が蔓延しており、市民たちはこれらをなくそうと必死だった。
 体制側はまた、新しい政治警察をより受け入れやすいものにするために、チェカに対して山賊行為や「投機」を含む通常の犯罪を撲滅減する責任を割り当てた。
 1918年6月のメンシェヴィキの日刊紙のインタビュー記事で、Dzerzhinskii はチェカには二つの任務があると強調した。
 「(チェカの任務は)ソヴィエト当局の敵および新しい生活様式に対する敵と闘うことだ。
 このような敵は、我々の政治的対抗者および蛮族、窃盗、投機者その他の社会主義秩序の基盤を破壊する犯罪者の双方だ。」(注43)
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 第三節、終わり。

2942/R.Pipes1990年著—第18章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第一節/レーニンとテロル③。
 (16) レーニンのJacobin 的確信の根源にあったのは、ボルシェヴィキが権力を維持してさらに拡張させるべきだとすれば、「ブルジョアジー」と烙印される「邪悪な」思想や関心が具現化したものを物理的に廃絶しなければならない、ということだった。
 ボルシェヴィキは「ブルジョアジー」という言葉を大まかに二つの集団のために用いた。第一は、工業上の百万長者であれ余剰の農地をもつ農民であれ、出自や経済上の地位のおかげで「搾取者」として機能している者たち。第二は、経済的または社会的地位とは無関係に、ボルシェヴィキの政策に反対している者たち。
 このようにして、主観的におよび客観的に、その者がもつ見解によって、「ブルジョア」に分類することができる。
 レーニンが、内閣にいた頃についてのSteinberg の回想録に猛烈に怒った、という証言が存在している。
 レーニンは1918年2日21日に、「危機にある社会主義の祖国」と称される布令案を内閣に提出した(注12)。
 これの刺激になったのは、ブレスト=リトフスク条約に署名するというボルシェヴィキの失敗につづくドイツ軍のロシアへの前進だった。
 布令案の文書は、国と革命を防衛するために立ち上がることを人々に訴えていた。
 レーニンはその中に、「その場での」—すなわち裁判手続を経ないでの—処刑を認める条項を挿入した。処刑対象とされたのは、「敵の代理人、投機者、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイ」と烙印された、広くて曖昧な悪者の範疇に入る者たちだった。
 レーニンは、布令への民衆の支持を得るために、通常の犯罪者(「投機者、押し込み泥棒、ごろつき」)に対する略式の司法手続を含ませた。民衆が犯罪に苦しんでいたからだが、レーニンの本当の狙いは、「反革命煽動者」と呼ばれる彼の政治的対立者たちだった。
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 (17) 左翼エスエルは、このような措置を批判し、政治的対立者に対する死刑の導入に原理的に反対した。
 Steinberg は、こう書く。
 「私は、この残虐な脅迫は、宣言がもつ哀れみを殺してしまう、として反対した。
 レーニンは嘲弄しつつ、こう答えた。
 『逆に、ここにこそ本当の革命的哀れみがある。
 まさに最も乱暴な革命的テロルなくして我々は勝利できると、きみは本当に考えているのか?』/
 この点でレーニンと議論するのは困難だった。我々はすぐに、行き詰まった。
 我々は、きわめて広い範囲に及ぶテロルの潜在的可能性がある厳格な警察の措置について討論した。
 レーニンは、革命的正義という語を出して私の意見に対して怒った。
 私は憤慨してこう言った。
 『では、我々は何のために司法人民委員部を置いているのか?
  率直に、<社会的絶滅のための>人民委員部と呼ぼう。そして、司法人民委員部はなくしてしまえ!』
 レーニンの顔が突然に輝いて、彼はこう答えた。
 『よし。…それはまさしく行なうべきことだ。…しかし我々は、そう言うことができない』」。(脚注)
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 (脚注) Steinberg, In the Workshop, p.145. Steinberg は間違って、この布令の草案起草者をトロツキーだとしている。
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 (18) レーニンは長い間ずっと赤色テロルを主導し、しばしばより人間的な同僚たちを甘言を用いて誘導しなければならなかったけれども、自分の名前をテロルと切り離そうときわめて大きな努力をした。
 彼は全ての法令に自分の署名を付すことに執拗にこだわった。しかし、国家による暴力行使に関係する場合はいつでも、これを省略した。この場合に彼が好んだのは、(ボルシェヴィキ)中央委員会議長や内務人民委員その他の当局者が行なったとすることだった。そのような当局者の中には、偽って皇帝家族の虐殺の責任を取らせたUral 地方ソヴェトもあった。
 レーニンは、自分が煽動した非人間的な行為が自分の名前と歴史的に結びつけられることを、懸命に避けようとした。
 あるレーニンの伝記作家は、こう書く。
 「彼は、テロルやLubianka 〔チェカ本部が所在する建物/試訳者〕その他の地下室での殺害を行なった個人的行為が自分自身とは切り離されて抽象的にのみ語られるよう、気を配った。…
 レーニンは、自分はテロルから離れていると振る舞い続けたので、彼はテロルに積極的には関与していない、全ての決定はDzerzhinskii によって行なわれた、という伝説が生まれて、大きくなった。
 これは、あり得ない伝説だ。なぜなら、レーニンはその性格上、重要な問題に関する権限を委ねることができない人間だったからだ。」(注13)
 実際に、一般的な手続に関するものであれ重要な収監者の処刑に関することであれ、重要性をおびる全ての決定には、ボルシェヴィキの中央委員会(のちには政治局)の承認が必要だった。レーニンはその中央委員会の、永遠の事実上の議長だった(注14)。
 赤色テロルは、レーニンの子どもだった。父親であることを必死で否定しようとしたのだったとしても。
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 (19) この認知されていない子どもの保護者は、チェカの創設者であり監督者である、Dzerzhinskii だった。
 この人物は、革命勃発時にほとんど40歳になっていた。Vilno の近くで、愛国的なポーランドの地主階層の家庭で生まれた。
 その家庭の宗教的、民族主義的な継承物と決別し、リトアニア社会民主党に加入した。そして、職業的な革命組織家および煽動家になった。
 帝制時代の監獄で重労働をしながら、11年を過ごした。
 これは過酷な年月であり、彼の精神に拭い去ることのできない傷跡を残した。そしてそれは、癒すことのできない復讐への渇望とともに不屈の意思を形成した。
 彼は、考え得る最も残虐な行為を、愉しみではなく理想家の義務として、行なうことができた。
 レーニンの指示を、宗教的献身さをもって、無駄なくかつ素っ気なく、「ブルジョア」や「反革命者」を射撃部隊の前に送って、実行した。その際に、同じく愉しみのない強迫意識があったのだが、それは、数世紀前であれば異端者を火炙りの刑に処すことを命じたような意識状態だっただろう。
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 第一節、終わり。

2822/R.パイプス1990年著—第14章㉒。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧③。
 (18) 実際には、ボルシェヴィキは、尋常ではない寛容さでもって左翼エスエルを処理した。
 数日後にボルシェヴィキがすることになるIaroslavl での場合のように、ボルシェヴィキに対して一致して戦った者を大量に殺戮しはしなかった。そうではなく、収監者を簡単に尋問しただけで、ほとんどの者を釈放した。
 ボルシェヴィキは、Popov の派遣団からの12人の海兵を処刑した。
 むろん、逃亡しようとしていた鉄道駅で捕えたAleksandrovich はそうした。
 Spiridonova と一人の同僚はクレムリンに連行され、ラトビア人警護兵が監視する暫定の監獄に収容した。
 彼女は2日後にクレムリン内の二部屋の区画に移され、1918年11月に行われた審問の日まで、比較的快適に過ごした。
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを非合法化せず、機関紙の発行を許した。
 <プラウダ>は、左翼エスエルを「放蕩息子」と称し、やがて復帰するという希望を表明した(注128)。
 ジノヴィエフはSpiridonova を「黄金の心」をもつ「素晴らしい女性」と褒めちぎり、彼女が収監されたときは一晩中起きていた(注129)。
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 (19) このような寛大さをボルシェヴィキが敵に対して示したことは、前にも後にも、一度もなかった。
 こうした異様な行動によって、じつに、歴史家の中にはつぎのように疑う者も出現した。Mirbach 殺害と左翼エスエル反乱は、ボルシェヴィキによって演出された、と。しかし、このような手の込んだ欺瞞を行なう動機を見出したり、関係者からこれを隠し通した方法を説明するのは困難だ(注130)。
 しかしながら、何らかの陰謀理論に頼らなくとも、説明は不可能ではない。
 ボルシェヴィキは7月に、展望の見えない状況にあった。チェコ軍団に攻撃され、Iaroslavl とMurom では武装蜂起に直面し、ロシア人労働者と兵士は離反し、ラトビア人兵士の忠誠さすら確かでなかった。
 ボルシェヴィキは左翼エスエルの支持者を敵に回しそうだったのではなかった。
 しかし、とりわけ、彼らが畏れたのは、自分たちの生命だった。
 Radek は、ドイツの友人に打ち明けたときに、ボルシェヴィキは復讐を恐れて左翼エスエルを寛大に扱った、と語りはしなかった(注131)。
 左翼エスエルの党員たちは、教条のために自分たちを犠牲にすることを全く厭わない狂信者でいっぱいだった。Spiridonova 自身も狂信主義的だった。彼女は、監獄から出したボルシェヴィキ指導部への書簡で、自分の死によってボルシェヴィキが「正気に戻る」ことを怖れたがゆえに処刑されなかった、それは残念だった、という旨を表明するまでした。
 Mirbach の後継者のKarl Helfferich も、ボルシェヴィキは左翼エスエルを根絶させることを恐れていた、という見解だった(注133)。
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 (20) 1918年11月に、革命審判所は左翼エスエル中央委員会の審理を行なった。もっとも、ほとんどのメンバーは逃亡するか地下活動に入っていたのだが。
 審理を受けたSpiridonova とIu. Sablin は、一年の有期刑を受けた。
 Spiridonova は最後まで服することなく、1919年4月に左翼エスエルの助けでクレムリンの監獄から脱出した(脚注)。
 彼女は残りの人生を監獄に入ったり出たりして過ごした。
 1937年、「反革命行為」の罪で25年の刑を受けた。
 1941年、収監されていたOrel にドイツ軍が接近した。ドイツ軍は彼女を連れ出し、射殺した(注134)。
 Mirbach 暗殺者たちのいずれも、老齢になるまで長くは生きなかった。
 Andreev は、翌年に、ウクライナでチフスのために死んだ。
 Bliumkin は地下にいたが、1919年5月に自首した。
 悔い改めて、許されたばかりか、共産党への入党を認められ、トロツキーの補佐に任命された。
 1930年後半、ロシアにいるトロツキー支持者に連絡文書を伝えるという誤った判断をし、逮捕され、処刑された(注135)。
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 (脚注) Spiridonova は脱出する前に、ボルシェヴィキ中央委員会あてに長い手紙を送った。それは翌年に支持者によって、Otkrytoe pis’mo M. Spiridonovi Tsentral’monu Komitetu partii bol’shevikov (Moscow, 1920)との表題で公表された。フーヴァー研究所図書館にa copy がある。
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 (21) 七月蜂起のさ中、左翼エスエルは、二つの派に分裂した。一方はこれを是認し、他方は離脱した。
 両派はやがて共産党に合流した。但し、地下活動を続けた、ごく少数の集団を除く。
 ジェルジンスキは、職務を停止された。
 のちのMirbach 暗殺犯の審問で証人となるために、公式にはチェカの議長とその一員であることを辞した(注137)。だが、ボルシェヴィキが通常のように法的厳密さに拘泥せず、またそのような審問も行われなかったので、辞職は体面を保つ儀礼にすぎなかった。
 ジェルジンスキの職務停止は、ほとんど確実に、彼は左翼エスエルの陰謀に関与していたのではないかとのレーニンの疑いによっていた。
 Latsis が秘密警察を指揮したが、8月22日にジェルジンスキが復職した。
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 (22) 左翼エスエルがぶざまに失敗したのは、明確な目標をもたず、政治的帰結への責任を負う意欲がなかった、という理由だけによるのではない。彼らは、ボルシェヴィキとドイツの反応を、完全に見誤っていた。
 のちに分かったように、ボルシェヴィキとドイツは、あまりにも多くの問題を抱えていたため、左翼エスエルによるドイツ大使の殺害によって挑発さるというほどではなかった(このことは、ウクライナでの左翼エスエルによる陸軍元帥Hermann Eichhorn 殺害でも続いた)。
 ドイツ政府はMirbach の殺害を事実上無視し、その指示を受けたドイツのプレスも重視しなかった。
 実際には、1918年の秋、ロシアとドイツはかつて以上に緊密になった。
 ボルシェヴィキは、対抗相手の選択について、きわめて幸運だった。
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 第12節、終わり。

2819/R.パイプス1990年著—第14章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧①。
 (01) 暗殺犯たちは、逃げたときに文書を忘れていた。その中には、大使館への入館許可書があった。
 Riezler から提供されたこの資料と情報から、ジェルジンスキは、銃撃者はチェカの代表者だと名乗ったことを知った。
 彼は完全に驚愕し、Pokrovskii 営舎へと急いだ。そこに、Bol’shoi Trekhsviatitel’skii Pereulok 1番地のチェカ闘争分団があった。
 営舎は、Popov の指揮下にあった。
 ジェルジンスキは、Bliumkin とAndreev を自分の前に突き出すよう命じた。その際、左翼エスエル党の中央委員会全員を射殺させると威嚇した。
 Popov の海兵たちは、服従しないで、ジェルジンスキを拘束した。
 彼は人質となって、Spiridnova の安全を保障するために役立つことになっていた。彼女は、ロシアはMirbach から解放されたと発表すべく、ソヴェト全国大会へと行っていた(注109)。
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 (02) この事件は、雷鳴が伴なう激しい雨の中で起きた。モスクワはやがて、濃い霧に包まれた。
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 (03) レーニンは、クレムリンに戻る途中で、ジェルジンスキがチェカで捕えられたことを知った。Bonch-Bruevich によると、彼がこの報せを聞いたとき、「レーニンは青白くならなかった。白くなった」(注110)。
 レーニンは、チェカが自分を裏切った、と疑い、トロツキーを通じて、チェカの解体を命じた。
 M. La. Latsis が新しい治安警察を組織することになった(注111)。
 Latsis はBolshaia Lubyanka のチェカ本部へと急いで行き、建物もまたPopov の統制下にあることを知った。
 Latsis をPopov のいる本部まで護送した左翼エスエル党員は、その場で彼を射殺しようとした。だが、左翼エスエルのAleksandrovich が間に入って、救われた(注112)。
 役割が逆になってAleksandrovich がチェカの手に落ちた数日後にLatsisが返礼しようとしなかったのは、仲間としての素ぶりだった。
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 (04) その夕方、左翼エスエル党員の海兵と兵士たちは、人質を取ろうと街路に出た。自動車が止められ、それらから27人のボルシェヴィキ活動家が排除された。
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 (05) 左翼エスエルが利用できたのは、2000人の武装海兵と騎兵、8台の大砲、64本の機関銃、4ないし6の装甲車だった(注113)。
 モスクワのラトビア兵分団が郊外で休憩しており、ロシア人連隊の兵士は反乱者側にいるか中立であるかだったことを考えると、このような武力は、恐るべきものだった。
 レーニンは、かつての十月のケレンスキーと同じ屈辱的な苦境に陥っていると感じた。国家の長でありながら、自分の政府を防衛する武力をもっていなかったのだ。
 この時点で、左翼エスエルが望んでいたならば、彼らがクレムリンを掌握し、ボルシェヴィキの指導部全員を逮捕するのを妨げるものは何もなかっただろう。
 左翼エスエルは、武力を行使する必要すらなかった。彼らの中央委員会構成員は、クレムリンへの通行証を携行していたからだ。かつまた、それによって、レーニンの役所と私的住宅へも入ることができた(注114)。
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 (06) しかし、左翼エスエルにはそのような意図がなかった。ボルシェヴィキを救ったのは、左翼エスエルの権力に対する嫌悪だった。
 彼らが狙ったのは、ドイツを挑発し、ロシア人「大衆」の意気を掻き立てることだった。
 左翼エスエル指導者の一人は、捕えられているジェルジンスキに、こう言った。
 「君の前には既成事実がある。
 ブレスト条約は無効だ。ドイツとの戦争は回避できない。
 我々は、権力を欲しない。ウクライナのようになるとよい。
 我々は、地下に入る。
 君たちは権力を維持し続けることができる。だが、Mirbach の下僕であるのはやめなければならない。
 ドイツにロシアを、 Volga まで占領させろ。」(注115)
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 (07) こうして、P. P. Proshian が率いた左翼エスエルの軍団は、クレムリンへと行進してソヴィエト政府を打倒しないで、中央逓信局へと進んだ。そこを彼らは無抵抗なままで占拠し、そこから、ロシアの労働者、農民、兵士ならびに「全世界」に対して、訴えを発した(脚注)
 この訴えは混乱し、矛盾していた。
 左翼エスエルはMirbach 殺害について責任があるとし、ボルシェヴィキを「ドイツ帝国主義の代理人」だと非難した。
 彼らは、「ソヴェト制度」を擁護すると宣言したが、他の全ての社会主義政党は「反革命的」だとして拒絶した。
 一つの電報では、「権力にある」と宣言した。
 Vatsetis の言葉では、左翼エスエルは「優柔不断に」行動した(注116)。
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 (脚注) V. Vladimirova in PR, No. 4/63(1927), p.122-3; Lenin, Sochi neniia, XXIII, p.554-6; Krasnaia Kniga VChK, II (Moscow, 1920), p.148-p.155. Proshian は、その年の前半、逓信人民委員だった。
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 (08) Spiridonova は、午後7時にボリショイ劇場に到着し、大会に対して、長い、散漫な演説を行なった。
 別の左翼エスエルの演説者が、それに続いた。
 彼らは、完全に混乱していた。
 午後8時、代議員たちは、武装したラトビア人兵団が建物を包囲し、入り口を封鎖していることを知った。その入り口から出て、ボルシェヴィキは去っていた。
 Spiridonova は、支持者たちに対して、休憩して二階に集まるよう求めた。
 そこで彼女は、テーブルに跳び上がって、叫んだ。「ヘイ、君たち、国よ、聞け!、君たち、国よ、聞け!」(注117)。
 劇場の一翼に集まったボルシェヴィキ代議員たちは、自分たちが攻撃しているのか、それとも攻撃されているのかを、判断できなかった。
 ブハーリンはのちに、Isaac Steinberg にこう言った。
 「我々は君たちが我々のいる部屋に来て、我々を逮捕するのを待っていた。…
 君たちはそうしなかったので、我々は代わりに、君たちを逮捕することに決めた。」(注118)
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 (09) ボルシェヴィキが行動する好機だった。しかし、数時間が過ぎ去り、何も起きなかった。
 政府は恐慌状態にあった。信頼できる真面目な実力部隊がいなかったからだ。
 政府自身の推測によると、モスクワに駐在していた2万4000人の武装兵士のうち、三分の一は親ボルシェヴィキで、五分の一は信頼できず(つまり反ボルシェヴィキで)、残りは不確定だった(注119)。
 しかし、親ボルシェヴィキ兵士たちですら、動員することができなかった。
 ボルシェヴィキ指導部は絶望的な苦境にあり、クレムリンから避難することを考えた。
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 (10) ラトビア人ライフル兵団の司令官、I. I. Vatsetis は、モスクワ軍事地区司令官のN. I. Muralov から、司令本部へと召喚された。
 Podvoiskii もそこで、彼を待っていた。
 二人は状況を要約して伝え、作戦計画を立案するよう求めた。
 同時に、衝撃を受けているラトビア兵団長に対して、別の将校に作戦実行の任務を課すつもりだ、と言った。
 このように信頼が措かれていなかった理由は、確実に、クレムリンの側のVatsetis に関する知識にあった。彼はドイツ大使館と接触していると考えられていたのだ。
 別のラトビア人に指揮権を委ねるという試みに失敗した後で、Vatsetis は、彼の兵団に、「自分の長」とともに勝利することを保障した。
 このことは、クレムリンに報告された(脚注)
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 (脚注) ドイツ大使館は左翼エスエルに反対して行動するようラトビア人兵団に賄賂を送らなければならなかった、ということが、Riezler の回想録から知られている(Erdmann, Riezler, p.474.)。
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 ②へとつづく。
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