試訳、つづき。下線は試訳者。
——
第6章・歴史家が追求した仕事②。
(4)私が執筆したのは、—カントの言葉を使えば—「批判的」歴史だ。この書物の最初の部分で、私は、概念上の図式を提示する。そして、肉づきや実態(flesh & substance)を示すものなのか否かを判断して、私が再構成して集めた事実を検証する。
私は思想と事実のあいだを操縦して進む。こちらからあちらへと、そしてその逆方向へもあり得る。
私は哲学者ではない。
歴史家はあまりに哲学的になるのを避けるべきだ、と考えている。
歴史家がもつ知識の正当性や限界の問題に絡み取られてしまうと、執筆することができない。
実証主義的な素朴な事実と虚無主義的な相対性の間には、見出されるべき中間の地点がある。今日では、必要不可欠の中間地点だ。我々は、ニーチェ的な漂流の中にいるのだから。
ニーチェによると、事実は存在せず、ただ解釈だけがある。
どこでも、そういう声を聞く。
出現してくる最初の学生は、この近視眼的相対主義を身につけている。
相対主義の一要素は解釈を構成するために重要なのだとかりにしても、煩わしいことだ。
しかし、事実の説明を試みようとする目的があって事実を発掘しないなら、どのようにすれば歴史家であり得るだろうか?//
(5)アメリカ合衆国では、1930年代の共産主義または共産主義的反ファシズムは、〈Partisan Review〉で代表された。これは、パリの知識人とよく似た、ニューヨークの共産主義者かトロツキストである小集団の知識人が編集していた。
ソヴィエト連邦では反ファシズムへと結集していた知識人たちは、そこではソヴィエトの裁判やドイツ・ソヴィエト協定に反発していた。
アメリカ人2000人の旅団が、国際旅団の中でスペイン内戦を闘った。
これは全く印象的だ。
アメリカ人や、とくにイギリス人が今日言うのとは反対に、共産主義思想は、イギリスやアメリカ合衆国の大衆の心をほとんど掴まなかったけれども、知識人界の中には影響をもった。その規模は、大きなものだった。
多数のイギリスの知識人が、体験に影響を受けることなく、生涯ずっと共産主義者のままだった。//
(6)私の書物の目的からすると、知識人たちは主に目撃者として有用だった。
私は知識人の歴史を書きたくはなかった。
その作業は、すでになされている。
私は、明らかな例だと思うサルトル(Sartre)について、語りはしない。
サルトルについて、10ページ以上も書く必要はない。
彼について語りたくないからではなく、すでに多くのことが言われているからだ。そして、何度も行われたことを再点検する価値はない。
私は、分析するのがたぶんもっと面白いBataille、Simone Weil、そしてDrieuから—〈幻想の終わり〉第8章の「反ファシズム文化」で行うように—新しく開始したい。
しかし、 知識人たちは、固有の分野として研究するよりも、特定の時代に流通した世論や思想の再構成者として研究する方が有益だ。
今日では奇妙なことに、共産主義の神秘的教義は大部分は知識人に影響を与えた、と思われている。
これは、全く正しくない。
フランスでは、1945-46年頃、有権者の25パーセントが共産党に投票した。
かりに共産主義は知識人のみを揺り動かすのだとすれば、共産主義は一つの国でこの集団的なメシア(救済主,messianic)的希望を獲得することができなかっただろう。//
——
第6章、終わり。
——
第6章・歴史家が追求した仕事②。
(4)私が執筆したのは、—カントの言葉を使えば—「批判的」歴史だ。この書物の最初の部分で、私は、概念上の図式を提示する。そして、肉づきや実態(flesh & substance)を示すものなのか否かを判断して、私が再構成して集めた事実を検証する。
私は思想と事実のあいだを操縦して進む。こちらからあちらへと、そしてその逆方向へもあり得る。
私は哲学者ではない。
歴史家はあまりに哲学的になるのを避けるべきだ、と考えている。
歴史家がもつ知識の正当性や限界の問題に絡み取られてしまうと、執筆することができない。
実証主義的な素朴な事実と虚無主義的な相対性の間には、見出されるべき中間の地点がある。今日では、必要不可欠の中間地点だ。我々は、ニーチェ的な漂流の中にいるのだから。
ニーチェによると、事実は存在せず、ただ解釈だけがある。
どこでも、そういう声を聞く。
出現してくる最初の学生は、この近視眼的相対主義を身につけている。
相対主義の一要素は解釈を構成するために重要なのだとかりにしても、煩わしいことだ。
しかし、事実の説明を試みようとする目的があって事実を発掘しないなら、どのようにすれば歴史家であり得るだろうか?//
(5)アメリカ合衆国では、1930年代の共産主義または共産主義的反ファシズムは、〈Partisan Review〉で代表された。これは、パリの知識人とよく似た、ニューヨークの共産主義者かトロツキストである小集団の知識人が編集していた。
ソヴィエト連邦では反ファシズムへと結集していた知識人たちは、そこではソヴィエトの裁判やドイツ・ソヴィエト協定に反発していた。
アメリカ人2000人の旅団が、国際旅団の中でスペイン内戦を闘った。
これは全く印象的だ。
アメリカ人や、とくにイギリス人が今日言うのとは反対に、共産主義思想は、イギリスやアメリカ合衆国の大衆の心をほとんど掴まなかったけれども、知識人界の中には影響をもった。その規模は、大きなものだった。
多数のイギリスの知識人が、体験に影響を受けることなく、生涯ずっと共産主義者のままだった。//
(6)私の書物の目的からすると、知識人たちは主に目撃者として有用だった。
私は知識人の歴史を書きたくはなかった。
その作業は、すでになされている。
私は、明らかな例だと思うサルトル(Sartre)について、語りはしない。
サルトルについて、10ページ以上も書く必要はない。
彼について語りたくないからではなく、すでに多くのことが言われているからだ。そして、何度も行われたことを再点検する価値はない。
私は、分析するのがたぶんもっと面白いBataille、Simone Weil、そしてDrieuから—〈幻想の終わり〉第8章の「反ファシズム文化」で行うように—新しく開始したい。
しかし、 知識人たちは、固有の分野として研究するよりも、特定の時代に流通した世論や思想の再構成者として研究する方が有益だ。
今日では奇妙なことに、共産主義の神秘的教義は大部分は知識人に影響を与えた、と思われている。
これは、全く正しくない。
フランスでは、1945-46年頃、有権者の25パーセントが共産党に投票した。
かりに共産主義は知識人のみを揺り動かすのだとすれば、共産主義は一つの国でこの集団的なメシア(救済主,messianic)的希望を獲得することができなかっただろう。//
——
第6章、終わり。