秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ゴルバチョフ

2552/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑧。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第五節。
 (01) 1986年4月26日、Scandinavia の放射線量測定器が奇妙で異常な測定値を示し始めた。
 ヨーロッパじゅうの核科学者たちは、最初は測定器の異常を疑い、警告を発した。
 しかし、数字は虚偽ではなかった。
 数日以内に、衛星写真は放射線の根源を正確に指摘した。北部ウクライナのChernobyl 市の原子力発電所。
 調査が行われたが、ソヴィエト政府は説明や手引きをしなかった。
 爆発の5日後に、80マイルも離れていないKiev では、メーデー行進が行われた。
 数千の人々が、市内の空気中の見えない放射能に気がつくことなく、ウクライナの首都の街路を歩き過ぎた。
 政府は、危険を十分に知っていた。
 ウクライナ共産党の指導者、Volodymyr Shcherbytskyi は、明らかに苦悩しながら、4月末に到着した。ソヴィエト書記長は個人的に彼に、パレードを中止しないように命じていた。
 Mikhail Gorbachev はShcherbytskyi に、こう言った。「パレードをやり損ったなら、きみは党員証をテーブルに置くことになるだろう」。(64)//
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 (02) 事故から18日後、Gorbachev は突如として方針を転換した。
 彼はソヴィエトのテレビに登場して、一般国民(public)には何が起きたかを知る権利がある、と発表した。
 ソヴィエトの撮影班は所定の場所へ行き、医師や地方住民にインタビューし、起こったことを説明した。
 悪い決定がなされた。
 タービン検査は間違っていた。
 原子炉は、溶解していた。
 ソヴィエト同盟全体から来た兵士たちは、くすぶっている遺物の上にコンクリートを注いだ。
 Chernobyl から20マイルの範囲内にいた者たちは全員が、曖昧なままで、家や農場を放棄した。
 公式には31名とされた死亡者数は、実際には数千名に昇った。コンクリートをシャベルで入れたり、原子炉の上でヘリコプターを飛ばしたりした兵士たちは、放射能のためにソヴィエト連邦の別の地方で死に始めた。//
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 (03) 事故の心理的な影響も、同様に深刻だった。
 Chernobyl は、ソヴィエトの技術能力の神話—多くの者がまだ信じていた数少ない一つ—を打ち砕いた。
 ソヴィエト連邦が国民に、共産主義は高度技術の将来を導くだろうと約束していたとしても、Chernobyl によって、人々は、ソヴィエト連邦はそもそも信頼できるのかという疑問を抱いた。
 より重要なことに、Chernobyl はソヴィエト連邦と世界に、ソヴィエトの秘密主義の過酷な帰結を思い起こさせることになった。Gorbachev 自身は現在とともに過去も議論することを拒むという党の方針を再検討したとしても。
 事故に揺り動かされて、ソヴィエト指導者は〈glasnost〉政策を開始した。
 字義通りには「公開性」、「透明性」と訳される〈glasnost〉によって、公務員や私的個人がソヴィエトの制度や歴史に関する真実を明らかにしようと勇気づけられた。1932-33年の歴史も含めて。
 この政策決定の結果として、飢饉を隠蔽するために張られた蜘蛛の糸の網—統計の操作、死者名簿の破壊、日記を書いていた者たちの収監—は、最後には解かれることになる。(注65)//
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 (04) ウクライナ内部では、過去の裏切り、歴史的大惨害の記憶を事故が呼び起こし、ウクライナ人は自分たちの秘密主義的国家を強く疑うようになった。
 6月5日、Chernobyl 爆発からちょうど6週間後、詩人のIvan Drach は公的なウクライナ作家同盟の会合で、立ち上がって語った。
 彼の言葉は、異様に感情が極まっていた。Drach の子息は適切な防護服を着けないで事故に派遣された若い兵士たちの一人で、今は放射線障害に苦しんでいた。
 Drach 自身は、ウクライナの近代化を助けるだろうとの理由で、原子力発電の擁護者だった。(注66)
 今では彼は、核の溶解、爆発を隠蔽した秘密主義による偽装のいずれについても、またそれらに続いた混乱について、ソヴィエト・システムの責任を追及した。 
 Drach は、公然とChernobyl を飢饉になぞらえた最初の人物だった。
 彼は、長い間喋って、「核の雷波はnation の遺伝子型を攻撃した」と宣言した。
 「若い世代は何故、我々から離れたのか?
 我々が、どう生きたか、今どう生きているかの真実を公然と語らず、話さなかったからだ。
 我々は欺瞞に慣れてきた。…
 1933年飢饉に関する委員会の長であるReagan 〔当時のアメリカ大統領〕を見るとき、1933年に関する真実に迫る歴史の研究所はどこにあるのかと、不思議に思う。」(注67)
 党当局はのちにDrach の言葉は「感情が噴出している」と否定し、彼の演説の内部的な筆写物ですら検閲した。
 「nation の遺伝子型」を攻撃する「核の雷波」—これは直接にジェノサイドを意味していると誤って広く記憶された言葉だった—は、「痛々しく攻撃した」に換えられた。(注68)//
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 (05) しかし、後戻りはできなかった。
 Drach の論評は、当時に聞いた者たちや、のちにそれを反復した者たちの感情を揺さぶった。
 事態は、きわめて迅速に進行した。〈glasnost〉は現実になった。
 Gorbachev は、よりよく機能させようと望んで、ソヴィエト諸制度の作動の欠陥を明らかにする政策を意図した。
 他の者たちは、〈glasnost〉をより広義に解釈した。
 本当の物語と事実に即した歴史が、ソヴィエトのプレスに出現し始めた。
 Alexander Solzhenitsyn やその他のグラクの記録者たちの著作が、初めて印刷されて出版された。
 Gorbachev は、Khrushchev 以来の、ソヴィエト史の「黒点」を公然と語る二番目のソヴィエト指導者になった。
 そして、Gorbachev は先行者とは違って、テレビで発言した。
 「ソヴィエト社会の適切な民主主義化の欠如は、…1930年代の個人崇拝、法の侵犯、恣意性と抑圧をまさに可能にしたものだ。—それはあからさまな、権力の悪用にもとづく犯罪だった。
 数千人の党員と非党員たちが、大量弾圧の犠牲になった。
 同志たちよ、これが苦い真実だ。」(注69)//
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 (06) 同じくすみやかに、〈glasnost〉は不十分であるとウクライナ人には感じられ始めた。
 1987年8月、指導的な反対派知識人であるVyacheslav Chornovil は30頁の公開書簡をGorbachev に送り、「表面的」にすぎない〈glasnost〉を始めたと彼を責めた。それは、ウクライナその他の非ロシア人共和国の「架空の主権性」を維持しているが、これらの国の言語、記憶、本当の歴史を抑圧している、と。 
 Chornovil は、ウクライナの歴史の「空白の問題」の一覧を自分で作成し、人々と事件の名称はまだ公式の説明に含まれていない、とした。すなわち、Hrushevsky、Skrypnyk、Khvylovyi、大量の知識人弾圧、national な文化の破壊、ウクライナ語の抑圧、そしてもちろん、1932-33年の「ジェノサイド的」大飢饉。(注70)//
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 (07) 他の者たちもつづいた。 
 スターリンによる犠牲者を記念するソヴィエトの社会団体である記念館(Memorial)のウクライナ支部は初めて、公然と証言録と回想記を収集し始めた。
 1988年6月、別の詩人のBorys Oliinyk は、悪名高いモスクワでの第19回党大会で立ち上がった。—この大会は史上最も公開的で論議があったもので、初めてテレビで生中継された。
 彼は、三つの論点を提起した。ウクライナ語の地位、原子力発電の危険性、そして飢饉。
 「数百万のウクライナ人の生命を奪った1933年飢饉の理由が、公にされる必要がある。
 そして、この悲劇について責任を負う者たちが、その氏名でもって明らかにされなければならない。」(注71)//
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 (08) このような論脈の中で、ウクライナ共産党は、アメリカ合衆国議会の報告書に対応する用意をしていた。
 困惑していた党は、ソヴィエト連邦が最後に弱体化している年月にしばしば行なったように、委員会を設置することを決定した。
 Shcherbytskyi は、ウクライナ科学アカデミーと党史研究所—これらは〈欺瞞、飢饉とファシズム〉出版の背後にあった組織だった—の学者たちに、一般的な非難に反駁する、とくにアメリカ合衆国の議会報告書が下した結論に対抗する、そのような任務を託した。
 委員会のメンバーたちはもう一度、公式に否定するつもりだった。
 それがうまくいくように、彼らには、公文書資料を利用することが認められた。(注72)//
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 (09) 結果は、予期しないものだった。
 学者たちの多くにとって、諸文書資料は驚嘆すべきものだった。 
 政策決定、穀物没収、活動家たちの抗議、市街路上の死体、孤児の悲劇、テロルと人肉喰い、に関する正確な説明が、諸文書資料には含まれていた。
 欺瞞はなかった。委員会はこう結論づけた。
 「飢饉の神話」も、ファシストの謀みもなかった。
 飢饉は、実際に存在した。飢饉は起きた。それを否認することはもはやできなかった。//
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 第15章第五節、終わり。

2536/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章はこの書全体の最終章で、「判決」(Judgemenrt)との表題のもとでソヴィエト連邦の歴史全体についての何らかの判断、評価、論評が書かれているのかとも、予想した。
 だが、そうではなく、主としては1991年崩壊後の(旧ソ連全体についてではなく)ロシアについて、人物としてはYeltsin やPutin らについて、書かれているようだ(当然に判断、評価、論評を含む)。
 この欄での表題を「ソ連崩壊のあと」に変えて、試訳を続ける。
 ロシアの民衆の多数が「社会主義・共産主義」またはソ連共産党支配を拒否したためにソ連が崩壊・解体したわけではない(O・ファイジズによると)、という指摘等は、今日のロシアやプーティン(Putin)について考えるにあたっても興味深い。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」(1997年、〈日本会議〉設立宣言)という宣明は、とくにロシア国民にとっては、どこか的はずれで幼稚だと、改めて思いもする。
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 第20章・判決(Judgement)
 第一節①。
 (01) Yeltsin によるソ連共産党(CPSU)の禁止を、共産党員は争った。
 この事件は、新設されたロシア憲法裁判所の法廷によって1992年7月から審理され、五ヶ月間テレビで放映された。
 これは「ロシアのニュルンベルク」だと喧伝され、共産党に対する政治裁判と同然になったけれども、1945年のナツィス裁判とは違って、犯罪行為を追及される被告人はいなかった。8月の蜂起〔クー〕の指導者たちですら被告人ではなく、彼らは刑務所からすみやかに釈放され、恩赦を受けていた。//
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 (02) Gorbachev は、証人として出廷するのを拒んだ。見せ物裁判で全ての罪責を負わされる(made scaprgoat)のを恐れたのだ。
 彼は、ニュルンベルク裁判との対比を否定した。のちに、〈回想録〉でこう書いた。
 ニュルンベルクでは、「特定の者たちが特定の残虐行為を行ったとして裁かれた。
 しかし、本当に犯罪者として有罪であるソ連共産党の指導者たちはすでに死亡しており、歴史だけが彼らに対して判決を下すことができる。」(後注1)
 だとすれば、これはいかなる性格の裁判なのか?//
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 (03) Yeltsin の法的チームは、ソ連共産党は正当(proper)な政党ではなく犯罪組織だったと主張すべく、60人以上の専門家の宣誓証言に支えられて、十月革命の歴史の全体に及ぶ36巻の文書資料を作成した。
 スターリンのテロルの犠牲者の一人だったLav Razgon は、収容所で死亡した人々の数の正確な計算を嘆願した。
 他の者たちは、スターリン後の時代の反対派や僧職者を追及すべく証言した。
 共産党員たちは、党の歴史について自分たちの見方を述べ、ソヴィエトの工業化の達成、1945年の勝利、スプートニク宇宙計画を強調した。//
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 (04) 法廷は、ソヴィエトの歴史について判断する権能を自分たちは有しないと声明し、妥協的な評決に達した。Yeltsin によるソ連共産党の禁止を肯認し、一方で共産党員がロシアで党を再建することを許容した。
 ロシア連邦共産党は、法廷での審理直後の1992年11月30日に設立された。
 1993年3月までに、ロシア連邦共産党は、50万人以上の登録党員をもち、ロシアの新しい「民主政」のもとで他をはるかに凌ぐ最大の政党になった。//
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 (05) 党の歴史に関して、いかなる判決を下すことができたのか?
 党の「犯罪」の記録について、いったい誰が評決を下す法的または道徳的な権利を有したのか? 
 ニュルンベルクでは、罰せられるべき明らかな戦争犯罪があり、国際法のもとで裁判権をもつ軍事的勝利者がいた。
 しかし、以前のソヴィエト同盟を裁く司法権をもつ解放勢力は存在しなかった。
 憲法裁判所は、そのような高度の権能を担える立場にはなかった。
 13名の裁判官のうち12名は、かつては共産党員だった。
 彼らは誰に対して判決を下すことができたのか?
 新しいロシア憲法は、ようやく1993年2月に採択された。このことは、党にその政策を実施するほとんど無審査の権力を付与していたBrezhnev の憲法に従って、彼らは法的決定を下す必要があることを意味した。//
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 (06) いったい誰に、判決が下されなければならなかったのか?
 Gorbachev にか?
 党指導部にか? KGB にか?
 あるいは、ソヴィエト・システムを動かしてきた数百万の幹部党員、警察官、監視兵たちにか?
 Yeltsin は大統領布告で、個々の共産党員が党の犯罪について責任を取らされてはならない、と述べた(彼は疑いなく、1976年と1985年のあいだはSverdlovsk の共産党の長だった自分の経歴について、多くを回答できたはずだった)。
 裁判途中にあったテレビ・インタビューで、この穏健な考え方の意味がつぎのように明らかにされた。
 「おそらく我々は、1917年以降初めて、言ってみれば、復讐という過程を開始しなかった。
 そうするのをロシアが抑制した、ということが重要だ。分かるだろう。」(後注2)//
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 (07) 法廷もまた、妥協案に達したとき、ナショナルな統合と和解の必要を考えていた。
 座長が事情聴取の開始に際して述べたように、「当事者が法廷のどちらの側に座っていようとも、白軍と赤軍が行ったように互いに破壊し合うのではなく、のちには一緒に生きていかなければならない」のだった。(後注3)//
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 (08) こうした宥和的な姿勢の結果として、ソヴィエト体制による人権侵害について、誰に対しても正義(justice)が行われなかった。
 従前のKGB やロシアの共産党の官僚に対しては、いかなる訴追も行われなかった。これは、以前のソヴィエト連邦のその他の諸国、とくにエストニアやラトヴィアと異なっていた。これら諸国では、1940年代に大量の逮捕やバルト諸国からソヴィエトの収容所への強制移送を実行した元NKVD職員に対して、明確な意思をもつ審判が行われた。
 東ヨーロッパやバルト諸国にあったような、犯罪に加担した者たちを暴き、上級官職から排除する、浄化(lustration)の法制も政策もロシアにはなかった。//
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 第一節②へと、つづく。

2535/O.ファイジズ・ソ連崩壊⑥。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第六節。
 (01) ソヴィエト同盟の崩壊は、完全な革命ではなかった。
 Gorbachev の改革によって社会は活性化し、政治化したけれども、ソヴェト体制が瓦解したのは、Gorbachev の改革努力によってではなかった。
 かりに今後に歴史が何かを明らかにするとすれば、ロシアにおける長年にわたる民主主義の弱さだ。—民衆が現実的な変化を達成することができないこと。//
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 (02) Gorbachev は自分の挫折を導いた諸事態の鍵となる登場人物だった。
 改革を通じてソヴィエト同盟を救おうとする元来の計画から判断すると、彼は失敗する運命にあったに違いない。
 しかし、彼の意図は自分の見解が進展するにつれて変化し、この期間に多数のことを達成したと評価されるべきだ。とりわけ、ロシアに民主主義の基礎を築いたこと、ソヴィエトの支配からnationsを解放したこと、冷戦を終結させたことで。
 おそらく彼の主要な功績は、ボルシェヴィキが平和的に権力を放棄する舵取りをしたことだ。ボルシェヴィキの権力は、ほとんど4分の3世紀のあいだ、テロルと強制力に依拠していた。
 Gorbachev は、内戦や大きな暴力なくして、ボルシェヴィキの独裁を廃止することができた。これは容易ならない可能性しかなかったことで、これゆえにこそ、彼は現代史上の偉大な人物の一人だという、西側での彼の評価と地位に値する。
 出発したとき、革命を終わらせることは、彼の意図ではなかった。
 Gorbachev は、レーニン主義者として、ソヴィエト・システムを改革することで社会主義を建設するのは可能だと信じていた。
 彼は後年には、共産主義から民主政への行路を指揮するのがつねに自分の計画だという、異なる考えを抱くことになった。
 しかし、真実を言えば、彼は政治上のコロンブスだった。約束された土地を見出すべく出発したが、別の異なる土地を発見したのだ。//
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 (03) 成功した革命かに関しては、政治的エリートを交替させたかが本当の検査対象になる。
 大まかには、これは東欧の諸革命が実現したことだった。
 しかし、ロシアでは、1991年の事件の結果として多くの変化があったのではなかった。
 Yeltsin 政権は、共産主義体制の権力悪用に加担したり高位の職にとどまり続けたりした役人たちを暴いた東ヨーロッパの多くと比べると、浄化するための法制を何ら作らなかった。
 政治家や成功した事業家の大部分は、Yeltsin のロシアでは、ソヴィエト・ノメンクラトゥーラ(nomenklatura)(党指導者、議会議員、工場管理者、等々)の一部だった。 
 Yeltsin の大統領府の4分の3の職、ロシア政府のほとんど4分の3の職が、1999年時点での従前のノメンクラトゥーラ構成員でもって占められていた。
 地域政府では、その割合は80パーセントを超えた。半分以上が、Brezhnev のもとでのノメンクラトゥーラの一員だった。//
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 (04) 1990年代のビジネス・エリートたちも、以前のソヴィエトや党の官僚の出身だった。
 Gorbachev 時代の法的混乱によって、彼らは国有資産を私的な財産に変更することができた。
 1986年以降、コムソモール(Komsomols,共産主義青年同盟)は商業取引をすることを法的に認められ(輸出入業、店舗、そして銀行すら)、書類上の収益を流動的現金に変えた。
 これは、Mendeleev 化学・技術研究所にいるコムソモールの役員から最初の民間銀行の一つのMenamap の総裁になるという、Mikhail Khodorkovsky が歩んだ途だった。
 役員たちは、裕福になった。西側企業との共同事業を立ち上げることにより、またロシアでの銀行市場での現金取引から個人的利潤を得るべく外国債権を用いることにより。
 1987年から、ソヴィエトの公務員は国有資産を購入し始めた。これは、残りの民衆が国有資産から何がしかの分配を受け取ったときよりも、ずっと前のことだった。
 諸省庁は商業化し、一部は上級官僚が営む事業体として経営された。彼らは、自分たちが管理してきた資産を最低価格で自分たちに売った。 
 工場と銀行は、同じように売り払われた。//
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 (05) ソヴィエト・システムの崩壊は、ロシアの富や権力の配分を民主主義化しなかった。
 1991年のあと、ロシア人は、何も大きくは変わらなかったと考えるのを許されてきた。少なくとも、良い方向には変わらなかったと考えるのを。
 疑いなく、ロシア人の多くは、1917年の後と多くは同じことだと思っていた。//
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 第六節、終わり。第19章も終わり。第20章(書物全体の最終章。表題は<Judgement>)へと進むかは未定。

2534/O.ファイジズ・ソ連崩壊⑤。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第五節。
 (01) Gorbachev は、党の一体性を維持することで、1991年のソヴィエト体制の崩壊とともに滅びることを自ら確実にした。
 その崩壊は、1989年に東ヨーロッパでの革命とともに、ソヴィエト帝国の外縁部で始まった。
 モスクワからの軍事的支援がないままで、東ヨーロッパの共産党体制は、民主主義運動に抵抗することができなかった。その運動は、共産党に権力から去ることを要求し、新しい指導者たちを選んだ/
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 (02) ポーランドでは、大衆ストライキと抗議運動によって共産主義者は連帯(Soridarity)との円卓会談を行うことを余儀なくされ、1989年6月に政府が確信を持てない議会での投票と自由選挙に準じたものが行われた。その選挙で連帯は、候補者を立てることが認められた全ての議席を総占めする勝利をかち得た。
 共産主義者の権威は傷ついた。
 Jaruzelski が大統領として返り咲き、連帯の活動家のTadeusz Mazowiecki が首相になった。これは1989年9月のことで、この40年間で東ヨーロッパでは最初の非共産党政権だった。//
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 (03) ハンガリーでは、共産党は自分たちの権力の放棄について民主主義フォーラムの活動家たちと交渉した。後者は新しい議会を構成する複数政党選挙で、最大多数の票を獲得した。
 ハンガリー革命は、ベルリンの壁の崩壊と東ドイツ(GDR)の共産主義体制の瓦解につながった。
 ハンガリーがその国境をオーストリアに開いて数千の東ドイツ人が西側に旅行することを認めたとき、危機が始まった。
 出国(exodus)を食い止めようとする試みは、とくにLeipzig〔当時、東ドイツ〕で大衆的抗議を生み、政府への圧力となった。
 アメリカ合衆国のテレビによって語って、市民は自由に出国しているという印象を政治局の報道官が与えた。—これは、東側で観られていた西ドイツのテレビ局が取り上げた物語だった。
 壁が開いていると考えて、東ドイツの数万の市民たちが、11月9日から国境に到着した。
 政府からの明確な指示がないまま、監視兵は、彼らを西側へと通過させた。
 壁は、壊れた。//
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 (04) チェコスロヴァキアでは、ベルリンの壁の崩壊は、Václav Havel その他の老練な反体制者たちが組織した市民フォーラム(the Civic Forum)が主導した広汎な抗議運動を呼び起こした。
 11月25日までに、80万人の抗議者がプラハの街頭に出現した。
 その二日後、ゼネ・ストに住民の4分の3が加わった。
 共産党体制は自由選挙について譲歩し、権力を手放した。そして、12月29日の連邦議会の満場一致の票決によって、Havel が大統領となった。//
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 (05) 東欧革命は、ソヴィエト同盟内部でのナショナリストの運動に油を注いだ。
 バルト諸nations は、最初に独立を求めた。それに、ジョージア、アルメニア、および実質的にはウクライナとモルダヴィアの地域が、続いた。
 より遅く反応したのは中央アジア諸共和国で、そこではエリート層はソヴィエト・システムに依存しており、民衆が選択するのはIslamic になりそうだった。//
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 (06) Gorbachev の改革は、二つの態様でナショナリスト運動が勃興する条件を生んだ。
 第一に、彼が1990年3月にソヴィエト大統領という新しく作った地位に就任したことは、共和国の指導者たちが自分たちの権力基盤を形成する先例となった。
 1991年6月にYeltsin がロシア共和国の大統領に選出されたことは、ロシア共和国内部では、選出されていないソヴィエト大統領よりも強い権威をYeltsin に与えた。
 第二に、各共和国の最高ソヴェトについての競争選挙の導入によって、ナショナリストはこの最高の議会を統制して、モスクワからの独立を宣言するために利用することができるようになった。
 バルト諸国では、ナショナリストが1990年の選挙で圧倒的な勝利を獲得した。
 この諸国では、共産党は圧力のもとで分裂し、主権をもつことに賛成する党派としてソ連共産党を脱退し、ナショナリストの票を求めて競い合った。//
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 (07) 警察による弾圧も、ジョージアとバルト諸国での独立運動を盛んにさせた。
 Tbilisi 〔ジョージアの首都〕では、ソヴィエトの警察によって1989年4月に、19人のデモ参加者が殺害され、数百人が重傷を負った。
 リトアニアとラトヴィアでは、1991年1月の弾圧によって、17人が殺害され、数百人が負傷した。
 こうした弾圧は大部分は、KGB や軍部にいる共産党の強硬派が主導していた。彼らは、ナショナリストの暴力的反応を挑発しようとしていた。そうなれば、ソヴィエト同盟の瓦解を阻止すべく非常事態宣告の議論をするために用いることができた。
 Gorbachev は、これに抵抗して党を分裂させる危険を冒さずに、強硬派に譲歩し、Boris Pugo を内務大臣に、Gennady Yanaev をソヴィエトの副大統領に任命した。//
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 (08) Gorbachev は、ソヴィエト同盟を再構築しようとする彼の計画のためには、彼らの支持を必要とした。
 彼は、各共和国が国民投票を経て合意するならば、新しい同盟条約について交渉しようと提案した。
 ソヴィエト同盟を一緒に守る連邦構造に合意したかったのだが、彼はそれを力でもって維持するのは間違っていると考えた。
 Gorbachev は、レーニンのように、ソヴィエト同盟は自発的な意思にもとづく同盟として存続し得ると信じた。//
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 (09) 六つの共和国は、完全にソヴィエト同盟から離脱する決意をもち、この国民投票を拒否した(ジョージア、アルメニア、モルダヴィア、バルト三国)。
 他の九共和国では、1991年3月17日の国民投票で、人口の76パーセントがソヴィエト同盟の連邦構造の維持に賛成する票を投じた。
 条約草案がソヴィエト政府と九共和国の指導者たちの間で交渉された(「9+1」合意)。そして、モスクワ近郊のNovo-Ogarevo で署名された。
 この交渉で、Yeltsin(ロシア大統領に選出されたあと、強い立場だった)とLeonid Kravchuk(ナショナリストに変身してウクライナの大統領になるのを狙っていた)は、ソヴィエト大統領から各共和国へと、従前はクレムリンにあった多数の権能を抜き出していた。//
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 (10) 8月までに、九のうち八共和国が、条約草案に同意した。—唯一の例外はウクライナで、1990年の国家主権の宣言を基礎にする同盟に投票した。
 この条約草案は、ソヴィエト連邦を、ヨーロッパ同盟に似ていなくはない、独立国家の連邦に転換していただろう。単一の大統領、単一の外交政策、単一の軍事兵力をもつけれども。
 条約は、ソヴィエト連邦をソヴェト主権共和国同盟と改称していただろう(「社会主義」の箇所が「主権」に変わる)。
 〔1991年〕8月4日、Gorbachev はクリミアのForos で休日を過ごすべくモスクワを発った。8月20日には、新しい同盟条約に署名するために首都に帰還するつもりだった。//
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 (11) 条約は同盟を救うことを意図していたけれども、強硬派は同盟の瓦解を促進することを恐れた。
 強硬派は、行動するときだと決断した。
 8月18日、陰謀者の派遣団がForosu へ急いで行って、非常事態の宣言をすることを要求した。そしてGorbachev が最後通告を拒んだとき、彼らはGorbachev を建物内に拘禁した。
 モスクワでは、自ら任じた国家非常事態委員会が、権力を掌握したと宣言した(これに加わっていたのは、ソヴィエト首相のValentin Pavlov、KGB 長官のVladimir Kruchkov、国防大臣のDmitry Yazov の他に、Yanaev、Pugo ら)。
 疲れていると見えたYanaev 〔Gorbachev 任命の副大統領〕は、両手をアルコール症的に震わせながら、世界のプレスに対して、自分が大統領職を奪取していると、不確かに発表した。//
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 (12) 国家転覆者たちは、ためらいが過ぎて、成功する現実的な可能性を持たなかった。
 おそらくは、最後までシステムを守るに必要な手段を奪うという意思を、彼らすら有していなかった。
 彼らはYeltsin を拘束することができなかった。Yeltsin はホワイト・ハウスへ、ロシア議会(最高ソヴェト)の所在地へ、向かった。そこで彼は。クー・デタに対抗する民主主義防衛隊を組織することになる。 
 国家転覆者たちは、クーへの抵抗を抑止するためにモスクワに持ち込んだ戦車部隊に対して、決定的な命令を発することができなかった。
 いずれにせよ、彼らの味方である上級の軍司令官たちの間にも分かれがあった。 
 ホワイト・ハウスの外側に駐留していたTamanskaya 分団は、Yeltsin に対する忠誠を宣言した。彼は、戦車の一つの上に登って、群衆に向かって呼びかけた。
 流血の事態は起こらないまま、この時点以降は、転覆者たちがホワイト・ハウス攻撃に成功するのは不可能になった。
 だが、彼らは、闘う気分をそもそも持っていなかった。//
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 (13) クーはすみやかに終わった。
 8月22日に、その指導者たちが逮捕された。
 Gorbachev は、首都に戻った。
 しかし、1917年8月のKornilov 陰謀事件の後のケレンスキーのように、Gorbachev は自分の地位が侵食されていることを知った。
 クーは共産党への信頼を大きく傷つけ、主導権を、ロシア共和国大統領で「民主主義の守り手」のYeltsin へ移した。 
 Yeltsin は、8月23日に、クーでのソ連共産党の役割を調査するあいだ同党の活動を停止する布令を発した。
 その日の夜半、群衆が、Lubianka のKGB本部建物の外側にある、チェカ創設者・Dzerzhinsky の立像を倒壊させた。
 翌日、Gorbachev は、ソ連共産党総書記を辞任した。
 8月25日、ソ連共産党の財産は、全ての文書資料と銀行口座も含めて、ロシア(共和国)政府が掌握した。//
 ----
 (14) 〔1991年〕11月6日、Yeltsin は、ロシアでのソ連共産党を禁止した。
 その布令は、法技術的には、ロシアの大統領の権限を超えている点で違法だった。
 しかし、Yeltsin は、歴史的根拠を理由として正当化した。「ソヴィエト同盟の人民が追いやられた歴史的苦境(cul-de-sac)と、我々が到達している解体状態に対して」その党には責任がある、と宣告したのだ。(後注8)//
 ----
 (15) Gorbachev は、同盟条約の交渉をなおも再開したかった。
 しかし、Yeltsin はそれに反対した。ソヴィエト同盟の解体はロシアにとっての勝利だと見たのだ。一方で、その他の共和国、とくにウクライナは、その潜在的な抑圧の力がクーによって暴露されたモスクワとの同盟には、どのようなものであれ警戒するようになっていた。
 Novo-Ogarevo 会談が11月に再び始まったとき、Yeltsin とKravchuk〔ウクライナ〕 は、ソヴィエト政府からのいっそうの譲歩を要求した。
 まるでソヴィエト連邦が主権国家同盟へと変わるように見えた。
 しかし、12月1日に、独立に賛成するウクライナの一票が、ソヴィエトという国家の船に巨大な穴を吹き込んだ。
 一週間後、Yeltsin、Kravchuk とべラルーシの指導者のStanilav Shushkevich は、ベラルーシで会って、ソヴィエト同盟の解体を発表した。
 独立国家共同体(Commomwealth of Independent States, CIS)がこれにとって代わることになる。//
 ----
 (16) 実質的には、三つの共和国の指導者たち(Yeltsin、Kravchuk、Shushkevich)による、ソヴィエト連邦から離脱して自分たちのnational な政権を樹立しようとするクー・デタだった。
 クリスマスの日にクレムリンからテレビで放映された別れの演説で、Gorbachev は、ソヴィエト同盟の廃止を支持することはできない、なぜなら憲法上の手続でまたは民主主義的な民衆の投票で承認されていないのだから、と宣言した。
 世論は〔「共同体」ではなく〕同盟を支持していた。
 ソヴィエト同盟を終焉させたのは、指導者とエリートたちだった。//
 ——
 第五節、終わり。

2531/O.ファイジズ・ソ連崩壊②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
 ——
 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第二節。
 (01) Gorbachev は、レーニン主義の理想から始めた。
 脱スターリン化の基本方針がその政治的発展の契機となったKhrushcev のように、Gorbachev は、「レーニンへの回帰」の可能性を信じた。
 他の指導者たちはソヴィエト国家の創設者に口先だけの賛辞を寄せた一方で、Gorbachev は、レーニン思想は彼が直面している革命的挑戦にとつてなお意味があると信じて、レーニンを真剣に考察した。
 彼は、遺言のレーニンに共感していた。—レーニンが最後に書いたもので、NEP での市場への譲歩の問題に取り組み、内戦で間違った革命の是正には民主主義がより多く必要だとしていた。—彼は、レーニンが考えたことに対応するものを見た。それを60年後に仕立て直さなければならなかったのだ。
 ソヴィエトの民衆と政治的エリートに皮肉な見方が大きくなっているときに、Gorbachev は楽観的なままであり、仕組みを改革する可能性を純粋に信じていた。
 彼は、レーニンの革命を道徳的かつ政治的な刷新を通じて作動させることができると、真摯に考えた。
 この意味で、Gorbachev は、最後のボルシェヴィキだった。//
 ----
 (02) 改革への彼の理想主義的信念を最もよく示す例は、彼が最初にしたことだ。すなわち、1985年4月の布令によって発表された、反アルコール決定。これによってウオッカの価格は3倍になり、ワインとビールの生産は4分の3に減った。
 「ウオッカで共産主義を建設することはできない」と、Gorbachev は言った。
 のちに彼が認めたように、この初期の段階での彼の思考のいくつかは「ナイーヴでユートピア的だった」。(後注2)
 アルコール依存症者たちは、この政策に妨げられることなく、安くて危険な密造酒を闇市場で購入し(砂糖が突然に店舗から消えた)、またはオーデコロンや化粧水を飲んだ。
 国家はウオッカ販売による貴重な収入源を、1985年の総額の17パーセント失い、消費用物品や食料を輸入する力を減らした。それで、購入や飲食を減らした人々は、不満を募らせることになった。//
 ----
 (03) Gorbachev は、党内指導層に改革を支持する多数派をもたず、Khrushcev が辿った運命を回避するためには慎重に事を進める必要があると意識していた。
 1985-86年、彼は経済の「迅速化」(〈uskorenie〉)だけを語った。これは、アルコール禁止にふさわしく、紀律を強化し、生産性を向上させるAndropov の方法を模倣したものだった。
 1987年1月の中央委員会総会でようやく、Gorbachev は、そのペレストロイカ(perestroika)政策の開始を発表し、それは指令経済と政治制度の急進的な再構築という「革命」だと表現した。
 Gorbachev は、自分の大胆な決定を正統化するためにボルシェヴィキの伝統を援用し、つぎの威厳ある言葉で演説を締め括った。
 「我々は懐疑者にすらこう言わせたい。そのとおり、ボルシェヴィキは何でも行うことができる。そのとおり、真実はボルシェヴィキの側にある。そのとおり、社会主義は人間のために、人間の社会的経済的利益とその精神的な向上に奉仕するシステムだ。」(後注3)
 これは、新しい1917年10月の主意主義(voluntarist)の精神だった。//
 ----
 (04) 経済的には、perestroika はNEP と多く共通していた。
 perestroika は、市場メカニズムによって計画経済の構造に対して生産の刺激と消費者の需要の充足を加えることができる、という願望に満ちた想定に依存していた。
 賃金や価格に対する国家統制は、1987年の国家企業体に関する法律によって緩和された。
 協同組合は1988年に合法化され、カフェ、レストラン、小店舗や売店が急に出現することになった。たいていの店でウオッカや(今や再び合法化された)、タバコ、外国から輸入したポルノ・ビデオが売られた。
 しかし、こうした手段では、食糧やより重要な家庭商品の不足を沈静化することができなかった。
 インフレが大きくなり、賃金と価格の統制の緩和によって悪化した。
 計画経済の廃止によってのみ、危機は解消され得ただろう。
 しかし、イデオロギー的に、それは1989年までは不可能だった。その年にGorbachev は、ソヴェト型の思考から決裂し始めた。そして、さらに急進的に1990年8月に合法化し、そのときに、市場にもとづく経済への移行に関する500日計画が、ついに最高ソヴェトによって導入された。
 しかし、そのときまでにすでに、経済の破綻を抑えるには遅すぎた。//
 ----
 (05) Gorbachev は、社会主義的思考での「革命」だとしてperestroika を提示し、—彼自身の理想化した読み方によった—レーニンの言葉で、絶えずそれを正当化した。
 彼は、公務員の本当の選挙を伴う、政府でのさらなる「民主主義」を呼びかけ、従前はタブーの言葉だった「多元主義」について語り、党に対してその創設者の「社会主義的人間中心主義」への回帰を迫った。
 「Perestroika の意図は、理論的および実践的観点からするレーニンの社会主義の観念を、完全に復活させることだ」と、Gorbachev は、十月革命70周年記念集会で宣言した。(後注4)
 この「人間中心主義」や「民主主義」は、レーニンの理論や実践には、ほとんど見出され得ないものだったけれども。
 しかし、Gorbachev は、その改革への党指導層の支持を望むならば、レーニンの名を引き合いに出す必要があった。//
 ----
 (06) 外交政策でこの「新しい思考」が意味したのは、階級闘争という冷戦に関する党の理論的枠組を放棄して「普遍的な人間の価値」の増進に代える、ということだった。
 このことは、ソヴィエト経済の利益を無視することにつながる、より実践的で「常識的」接近を含んでいた。
 また、Brezhnev(ブレジネフ・)ドクトリンを放棄するという意味も包含していた。
 Gorbachev は、東ヨーロッパの共産党指導者たちに、今や彼ら自身の判断で生きるべきことを完全に明瞭にした。
 彼らがその民衆の支持を獲得できなくとも、モスクワは助けるために介入するつもりはない、ということを。
 民衆の支持は東欧の共産党指導者たちが自分たちでperestroika を行なってかち取ることを、Gorbachev は望んだ。
 ——
 第二節、終わり。
 

2530/O.ファイジズ・ソ連崩壊①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 この書物の章順の表題は、つぎのとおり。
 01/出発、02/「舞台げいこ」、03/最後の望み、04/戦争と革命、05/二月革命、06/レーニンの革命、07/内戦とソヴィエト体制の形成、08/レーニン・トロツキー・スターリン、09/革命の黄金期?、10/大きな分岐、11/スターリンの危機、12/退却する共産主義?、13/大テロル、14/革命の輸出、15/戦争と革命、16/革命と冷戦、17/終わりの始まり、18/成熟した社会主義、19/最後のボルシェヴィキ、20/判決。
 これらのうち、「ソ連解体」期に関する19章・20章を試訳してみる。なお、18章はスターリンの死から始まっているようだ。
 書名は「革命的ロシア-1891〜1991」であって「ソ連史」ではないが、大まかには前史を含む<ソ連史>だろう。
 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution (1996, Memorial Edition 2017)という「ロシア革命史」の書物もあり、この欄で一部の試訳を掲載しているが、これとは別の書物。
 各章内の節分けはないが、一行の横線を引いた明確な区分けがあるので、便宜的に各「節」の区切りとして扱う。一行ごとに改行し、段落の初めに元来はない数字番号を付す。
 —— 
 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第一節。
 (01) ソヴィエト体制が突然に終焉するとは、誰も想定していなかった。
 たいていの革命は、轟音ではなく嗚咽とともに死ぬ。
 1989年〜1991年の事態は一つの革命だと、ある人々は言う。
 これは全く正しくはない。
 しかし、体制が崩壊した速さに誰もが驚いたために、革命という名をかち得たのだろう。//
 ----
 (02) 1985年、ソヴィエト同盟はどの国家とも同様に永続的なものに見えた。
 Gorbachev が解決しようとした諸問題のどれも、ソヴィエト体制の存在そのものを脅かしたのではなかった。
 経済は停滞していて、年間成長率は1パーセント以下で、生活水準は西側よりも大きく遅れており、石油価格の急激な下降(1980年価格の3分の1)は、体制の財政に大きな打撃を与えた。
 しかし、事態は、ソヴィエトの歴史上で政治的にもっと不安定だった時期よりもはるかに悪かった。
 人々は物不足に慣れるに至っていて、大衆的な抗議の兆しはなかった。
 体制は、改革しなくとも数年間は踏ん張っていけただろう。
 貧しい生活水準が長く続いても何とか切り抜けた独裁制の例は、豊富にあった。
 それらの多くは、ソヴィエト同盟が1980年代に経験したよりもはるかに悪い経済的環境の中でも生き抜いた。//
 ----
 (03) 軍事予算は重荷になっていて、Reagan のSDI〔戦略防衛構想〕の開始とともにいっそう大きくなり始めた。
 東ヨーロッパの共産主義体制を安い石油と食糧で支援する費用は、やはり深刻な課題だった。
 クレムリンは、ポーランドの1980年危機に対処するためだけに、40億ドルを費やす必要があった。その年、大衆的ストは<連帯>という反対派運動に発展し、Jaruzelsky 政府による戒厳令の施行を強いることとなった。
 しかし、1985年までに、連帯運動は息切れがしたように見え、ソヴィエト帝国は安全だと思えた。//
 ----
 (04) ソヴィエト体制が完全に崩壊した速さを説明するために必要なのは、ソヴィエト同盟の構造的問題にではなく、体制がその頂点から解きほどけていった態様に、目を向けることだ。
 仕組みを急進的に再構成する、切迫した必要性はなかった。
 「危機」があったとすれば、ソヴィエトの現実とソヴィエトの社会主義の理想との間に分裂が大きくなっていることに危機を感じとる、Gorbachev やその他の改革者たちの心理(the mind)の中にあった。
 現実の危機を惹き起こしたのは、Gorbachev の改革だった。すなわち、党の権力と権威の解体。
 観念上の革命が開始されたのは、グラスノスチ(glasnost、情報公開)が人々に体制を疑問視して代替の選択肢を要求するのを認めたことによってだった。
 18世紀のフランスの旧体制についてTocqueville が書いたように、「悪い政府にとつて最も危険な瞬間は、政府が改革を始めるときだ。…。辛抱強く我慢するのが長いほど、政府は矯正不能に見え、人々がいったん政府を排除する可能性を意識すれば、不満は耐え難いものになってしまう」。//
 ——
 第一節、終わり。

1512/リチャード・パイプス-対ソ連冷戦勝利の貢献者②。

 2008年1月13日付米紙『ワシントン・タイムズ(The Washington Times)』のある記事について、この欄の4/16、№1502は、「NSDD-75」=国家安全保障会議防衛指令75号(1983年1月17日)の「真の執筆者はR・パイプス」だった、という部分までで終えている。
 同記事中で、リチャード・パイプス(Richard Pipes)の発言は、続けて、つぎのように紹介されている。
 R・パイプスは「NSDD-75」を「過去〔の政策〕からの明確な決別』と定義し、この新しい外交政策の目標は「ソヴィエト同盟〔ソ連〕との共存」ではなく「ソヴィエト体制を変更させること」で、それは、「外部からの圧力を通じてソヴィエト体制を変更させることのできる力が我々にはあるという信念」に根ざしていた、と語った。
 このあと当時に国務長官だったシュルツ(George Shultz)や再びビル(=ウィリアム)・クラークの言葉を紹介した後、「NSDD-75」の冒頭の文章を引用する。以下は、抜粋。
『米国のソ連との関係』。米国の任務は第一に、『ソヴィエトの膨張』を方向転換させることで、これは『米国軍の主要な対象〔focus〕をソ連に向かって維持し続ける』ことだ。第二に、我々が使える限られた範囲内で、ソ連が、特権支配エリートの権力を徐々に減少させて、より多元主義的な政治、経済制度へと変化するプロセスを促進する』ことだ。
 そして、再びR・パイプスに戻る。
 R・パイプスは、「文書がソ連の改変(reform)を中心的狙いとするように強く主張して、この文章を維持しようと闘った」。
 彼はつぎのように思い出す。『国務省はこれに猛烈に反対した。彼らはこの文章は、ソ連の内部事情への余計な干渉だとし、絶対に危険で無益だと考えていた。我々は固執し、そして勝ち得た(got that in)』。
 「歴史的意義を看過することはできない、すぐには不可能だが予言的な異様なこの文章は、国務省によってほとんど削除」されかけたと記事は書いたのち、R・パイプスの言葉に戻る。
 R・パイプスは、「ビル・クラークの支持とともに、この文章を主張(insist)するロナルド・レーガンの支援〔があったこと、backing〕、を指摘する」。
 記事はさらに進めて、「NSDD-75」の中の東欧、アフガニスタン等々に関する部分に入っているが、割愛する。
 この記事のとおりだとすると、リチャード・パイプスの果たした役割は、むろんR・レーガンがいたからだろうが、かなり大きかった。
 それはまた、現時点で振り返れば、ということにはなるが、R・パイプスの予見や主張は、ソ連のその後の歩みと大きくと変わらなかった、又はその基本的方向へと影響を与えるものだった、と思われる。
 これについては、別の例証となる資料・文献がある。例えば、ゴルバチョフのような人物(上記文書の時点で、特定のこの人物の出現は予見されていない)が登場しなければ、ソ連が大変化することはない、という見通しも、リチャード・パイプスは語っていた。

1502/リチャード・パイプス-対ソ連冷戦勝利の貢献者/レーガン政権。

 ○ 米紙『ワシントン・タイムズ(The Washington Times)』の2008年1月13日付のある記事がネット上で読める。このように書く。
 「25年前の1983年1月17日に、大統領ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)は冷戦勝利の青写真を静かに定式化した」。それは「NSDD-75」=国家安全保障会議防衛指令75号と呼ばれる、「レーガン施政下でのおそらく最も重要な外交政策文書」で、「ソヴィエト共産主義帝国を根本から揺るがそうとする大統領の意図」を具体化するものだった。
 この文書作成を監督したのは「国家安全保障補佐官のビル・クラーク(Bill Clark)」[Bill=William]で、国家安全保障会議でのクラークの副補佐官の一人に、ノーム・ベイリー(Norm Bailey)がいた。ベイリーによれば、「NSDD-75」は「冷戦勝利の戦略計画」だった。
 別の同会議スタッフだったトム・リード(Tom Reed)によると、それは「ゲーム終結の青写真」、「経済的・政治的戦争の秘密宣言文書」だった。
 ”Secret”(秘密)とスタンプされているこの文書の存在・内容を何らかの方法で知ったソヴィエトは、「歴史を脅迫する…新しい指令」と称して警戒感を示した、という。
 ロナルド・レーガン(共和党、元民主党)、1981年1月~1989年1月・米国第40代大統領。すでイギリス・サッチャーは首相になっていて、1981年にフランス・ミッテラン、ドイツ・コールが続き、やや遅れて、日本・中曽根康弘が登場する。
 ソ連では、1985年3月にゴルバチョフがソ連共産党書記長になる。
 そして、レーガン(と特にサッチャー)はゴルバチョフといく度か会談、対ソ連(・東欧)冷戦終結とソ連解体(・東欧諸国「自由」化)への重要な足慣らしをした。
 ○ 2016年は、対ソ連冷戦終結後25年めだった。
 日本もいちおう冷戦「勝利者」だったのだが、祝えるほどの大きな尽力をしたのか否か、米英の指導者やドイツ統一を導いたヘルムート・コール(Helmut Kohl、キリスト教民主同盟=CDU)に比べると、少しは肩身が狭いように感じる。
 それにそもそも、ソ連解体前後を通じて、「反共産主義」の意識・認識がどの程度あったのかは、もちろん米英独各国にも<左翼>または<対共産主義国穏健派>はいたのだが、これら諸国以上に怪しいのではないだろうか。
 日本と日本国民、「保守」を含む学者・研究者や<論壇>は、対ソ連冷戦終結とソ連解体・東欧諸国「自由化」の歴史的意味を、きちんと議論し総括するということをまだしていない、と考える。
 ○ 上にも名の出てきたノーム・ベイリー(Norm Bailey)が2016年発刊の書物の中で一部を担当して書くところによると、「NSDD-75」は同「32」、同「45」、同「54」、同「66」を基礎にしており、各省から集められたグループ(IG, Interdepartmental Group)によって国家安全保障会議の政策文書「米国の対ソ連外交」として原案が1982年8月21日に用意された。
 IGの委員長(議長)は国務副長官のウォルター・ストーセル(Walter Stoessel)。IGの会議でいずれも国務・財務・農務三省の反対でわずか2文だけ削除されたが、あとは一致しての賛成で原案ができた。
 この原案の、従ってさらに「NSDD-75」の「真の執筆者」はリチャード・パイプスだった。
 パイプスは、ハーバード大学を離れて2年間をワシントン(ホワイト・ハウス)で過ごした、「ソヴィエト連邦と東欧問題に責任のあるスタッフだった」
 以上は、Norman A. Bailey, Definig the Sterategy - NSDD75, in : Norman A. Bailey, Francis H. Mario, ed, William P. Clark, foreword, The Grand Strategy That Won the Cold War: Architecture of Triumph <冷戦に勝利した大戦略>(2016/1/14)p.67-68
 ○ リチャード・パイプスの側では、自伝書である、Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger <私は生きたーある非帰属者の回想> (2003)が、上のワシントン時代のことも書いている。「第三部・ワシントン」p.126 - p.211.だ。そのうち、「NSDD-75」に関するのは、p.188 - p.202。
 リチャード・パイプスは、ソ連・東欧問題専門家として、ドナルド・レーガン時代の対ソ連外交方針の形成に大きく関わった。
 R・ニクソン(共和党)は職に就いてから政治の技術・方法として反共産主義を選択したが、R・レーガンは<大統領になる前からの根っからの反共産主義者だった>、ともされる。
 この大統領とともにリチャード・パイプスは、共存でも「デタント」でもない、対ソ圧迫政策を進めるが、究極的にはソ連の瓦解をすら意図していたとされる。
 リチャード・パイプスはロシア専門の学者・研究者(大学教授)だが、その学識からも生成された自身の「反共産主義」性およびソ連の歴史や現状に関する知見でもって、<ソ連解体>の方へと「現実」を変えていく活動を政府の一員としてしたわけだ。
 上の本には、1981-82年頃の、ロナルド・レーガンと二人だけの写真、副大統領だったジョージ・ブッシュ(父ブッシュ)との二人だけの写真も掲載されている。
 ソ連は自分たちだけで自主的にソ連をなくすように追い込んでいったわけではない。「現実」を変えるべく、アメリカでも種々の議論があり「政策」策定もあったわけだ。後者は「見通し」、「計画」であってまだ「観念」ではあるが、それに従えば「現実」も動く、という「観念」もある。それは多くの場合は、おそらく、体系だった、概念も比較的に明確にした、長い文章から成っているのだろう。

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