秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

コロンタイ

2613/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三章序。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 「第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917」の「第3章・ニーチェ的マルクス主義者」の「序」の試訳。邦訳書は、ない。
 以下に名が出てくるA. Lunacharsky は、1917年「十月革命」後の初代の<啓蒙(=文化·教育)人民委員(=大臣)>。
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  第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
  第3章・ニーチェ的マルクス主義者。
  序。
  (01) George I. Kline は、「ニーチェ的マルクス主義」という用語を作って、その中に、Aleksandr Bogdanov(出生名はAleksandr Malinovsky、1873-1938)、その義弟のAnatoly Lunacharsky(1875-1933)、Maxim Gorky(Aleksei Peshkov、1868-1936)、V. A. Bazarov(V. Rudnev、1874-1939 )、Stanilav Volsky(Andrei Solokov、1880-1936)を包摂した。(注1)
 私は、Aleksandra Kollontai(1872-1952)も含める。
 これらのマルクス主義者たちは、マルクスとエンゲルスが軽視した問題—倫理、認識論、美学、心理学、文化、その他の諸価値—を強調した。そして、神話がもつ政治心理的(psychopolitical)有用性を承認した。//
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 (02) 彼らは全てが芸術的文化的創造性の問題に敏感で、自由な発意と意欲を強調した。しかし、意欲や創造性がとる形態は個人なのか集団なのかに関しては一致していなかった。
 彼らにおける集団性は、義務的なものを意味してはいなかった。
 彼らは、人々が義務の意識から集団に従属するのではなく、自分たちを集団と一体視することを望んだ。
 ニーチェが助けたのは、Plekhanov がほとんど抹消して革命的人民主義の精神の中に含めてしまった、マルクス主義の「英雄的」で主意主義的(voluntaristic)な側面を取り出すことだった。//
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 (03) ニーチェが〈平等への意思は、権力への意思だ〉と言ったとき、論理(logic)について語っていたが、彼の観察は、政治と社会に適用することができるものだった。「平等への意思」が既存の権威を廃して代わりに新しい権威を就かせる、という意味を含んでいる場合には。
 ニーチェ的マルクス主義者は、プロレタリアートを権威に就かせることを望んだ。
 彼らは、「ロマン派革命家たち」、「ボルシェヴィキ左派」としても知られている。Gorky が公式にはボルシェヴィキではなく、Kollontai は1915年まではメンシェヴィキだったとしても。
 レーニンは、Bogdanov の「マッハ主義」認識論に因んで、彼らを「Machians」(ときどき「マッハ主義者」(Machists)と翻訳される)と称した。//
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 (04) ニーチェ的マルクス主義者は、第一章と第二章で叙述した表象主義者や哲学者たちと議論した。
 思想についてBerdiaev が意欲の重要性を強調したこと(意欲は人間の行動を喚起する)は、Bogdanov の認識論への関心を掻き立てた。
 Bogdanov とLunacharsky は、新観念論者の雑誌〈哲学と心理学の諸問題〉にいくつかの初期の論考を発表した。
 Bogdanov は〈観念論の諸問題〉を論評し、〈実在論的世界観に関する小考〉(1904)という対抗シンポジウムを組織した。(注2)
 Gorky とLunacharsky は、宗教哲学学会の会合やIvanov の社交的集まりに出席した。
 他に多くの交流の例を挙げることができる。//
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 (04) Bogdanov は、Gorky とLunacharsky が行ったほどに頻繁には、ニーチェに言及しなかった。そして、無味な「科学的」語彙を用いた。そのために、彼に対するニーチェの影響はより分かりづらい。
 しかしながら、芸術と神話がもつ意識を変革する力についての彼の信念、神話創造の自分自身の試み、そして文化革命の呼びかけには、プロレタリアートの立場からする「全ての価値の再評価」が含まれていることが明らかだ。
 最もよく分かるのは、Bogdanov は「イデオロギー」という語を肯定的に用いており、「イデオロギー」は虚偽の意識であって支配階級の利益のための現実の神秘化または歪曲を意味したマルクスやエンゲルス(MER,p.154-5.)とは大きく違っていた、ということだ。 
 Bogdanov は、「社会におけるイデオロギーの客観的役割、イデオロギーがもつ不可欠の社会的機能を不明瞭な」ままにした、「イデオロギーは組織する形態だ、同じことだが、全ての社会的実践のための組織的手段だ」として、マルクスとエンゲルスを批判した。(注3)
 イデオロギーはたんに社会経済的構造を反映するのではなく、社会を「組織する」、ゆえに創造するに際してきわめて重大な役割を果たす。
 イデオロギーは、正当化する形態であるだけではない。それは構築的な現象だ。
 Bogdanov の著作においては、イデオロギーは神話とほとんど同義だ—合理的に構成された神話。
 彼はときおり、Ivanov の語である「神話創造」(myth-creation)を用いた。しかし、理性的な意識の役割を強調した。//
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 (05) Bogdanov の小論である「人間の集結」(〈Sobiranie cheloveka〉,1904)は、つぎの三つの標語でもって始まる。
 「社会的存在が意識を規定する」(マルクス)。「神は自ら自身の像で人間を創造した」(創世記I、27)。「人間は橋渡しであって、目標ではない」(ニーチェ)。(注5)
 〈Sobiranie〉は、「集団」または「集合」と翻訳することもできる。そして、認識論的には〈Sobornost〉という観念と結びついている。
 考え得る他の訳語の「統合」を用いると、〈Sobiranie〉はスラヴ人好みの全体(wholeness)という観念をその意味に含んでいる。
 Bogdanov にとって、進歩とは「意識的な人間生活の全体と調和」を意味した。(注6)
 彼は、職業上の専門化と労働の区別がそうしているように、個人主義は、個人と社会の調和を破壊する、と考えた。
 とくに、精神労働と身体労働の分離に反対した。—これは、青年マルクス、Mikhailovsky、そしてFedorov が思考した主題だった。
 彼が疎外の克服を強調したのは、まだ知られていなかった1844年のマルクスの草稿を先取りしていた。 
 Bogdanov がとくに好んだ言葉の中に、「調和」があった(ニーチェの語彙の一部ではなく、Fourier その他の夢想的社会主義者たちによって多くは使われた)。また、「支配」や「支配すること」(mastery, to master)(〈ovladenie〉,〈ovladet〉)もあった(これは、「把握(すること)」または「所有(すること)」とも翻訳することができる)。
 彼の用語法での「支配」およびこれに関連する言葉は、複数の意味を含んでいた。知識や技術をmasterしている労働者、自然をmaster している専門家(〈chelovechestvo〉)、奴隷がmaster になる、地上の新しい主人としてのプロレタリアート。
 彼が最も好んだ言葉である「組織化」はLavrov の戦略に立ち戻るものだったが、Bogdanov の用語法では、Apollo 的側面があった。
 Apollo は統合し、構造化する。
 Bogdanov は、「組織化への意思」によって駆り立てられていた、と言っても誇張ではないだろう。
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 第一編第1章「序」、終わり。

2586/R・パイプス1994年著第9章第三節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。日本共産党が「創立」され、コミンテルンの支部となった1922年のことにも論及がある。
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 第三節・「労働者反対派」③。
 (14) Shliapnikov は、「統一」は至高の目標だと認めた。しかし、党員たちとの意思疎通の欠如のゆえに、党は過去、つまり権力奪取以前に有していた統一を失った、と論じた。(注84)
 この断絶は、ペテログラードでのストライキの波やKronstadt 暴乱で示されている。 
 問題は、労働者反対派ではない。「我々がモスクワや他の労働者都市で見ている不同意の原因は労働者反対派につながるのではなく、クレムリンに向かっている」。
 労働者たちは強制的に党から遠ざけられたと感じている。
 伝統的にボルシェヴィズムの基盤だったペテログラードの金属労働者の中には、2パーセント以下の党員しかいない。
 モスクワでは、入党している冶金労働者の割合はわずか4パーセントにまで落ちた。(*) 
 Shliapnikov は、経済の破綻は「客観的」要因から、とくに内戦から生じた、とする中央委員会の論拠を否認した。
 「我々の経済に今観察しているのは、我々とは関係のない客観的原因の結果のみではない。
 我々が見ている崩壊の責任の一部は、我々が採用したシステムにもある。」(注85) 
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 (脚注*) 1922年前半のペテログラードからレーニンの書記局への秘密報告書は、その市で工場労働者のわずか2ないし3パーセントだけが共産党に加入していると述べて、Shliapnikov の評価の正しさを確認している。RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 11.
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 (15) 労働者反対派の動議は票決に付されず、代議員たちは、レーニンが提案した二つの決議案への賛成か反対かを投票することで意見を表明することができた。二つの決議案とは、「党の統一について」と「我々の党におけるサンディカリスト的およびアナキスト的逸脱について」で、これらは労働者反対派の議論を批判し、支援者たちを非難していた。
 前者は25の反対票、2の保留票に対して413の賛成票を獲得し、後者は30の反対票、3の保留票、1の無効票に対して375の賛成票を獲得した。(注86)
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 (16) 労働者反対派は決定的な敗北を喫し、解散を命じられた。
 これは最初からの宿命だったが、強く確立していた中央党機構の利益に挑戦したことだけが理由ではなく、反対派は一党国家という思想を含めた共産主義の非民主主義的諸前提を受容していた、という理由からでもあった。
 労働者反対派は、イデオロギー的に、そしてますますその構造上、民衆の意思を無視するようになっていた党内の民主主義的手続を擁護した。
 反対派が党の統一は至高の善だといったん認めてしまえば、その破壊だという責任追及を自らに招くことなくして、進み続けることはできなかった。//
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 (17) 共産党の歴史上の挿話的事件について、多くの紙面を割いた。労働者反対派は初めて、そして判明するように最後に、基本的に異なる方途を示して党に対抗した、というのが、その理由だった。
 支持基盤が国民全体の中のきわめて薄い層に縮小した党は、その一般的には言われる主人である労働者出身の自分たちの党員からの反乱に、今や直面した。
 党は、その事実を承認して退くか、さもなくば、それを無視して権力に居座り続けるか、どちらかをすることができた。
 後者を選ぶ場合は、国を運営するために採用したのと同じ独裁的方法を、党に持ち込むほかに選択の余地はなかっただろう。
 レーニンは後者を選んだ。かつ、支持者たちの熱心な支持を得て、そうした。その中には、のちにその方法が自分たちに向けられたときに、人々の護民官と民主主義擁護者のふりをすることになる、トロツキーやブハーリンもいた。
 レーニンは、この運命的な歩みをとることによって、一般党員に対する中央機構の優越性を確実にした。
 そして、スターリンが中央機構の確固たる主宰者になろうとしていたときだったので、レーニンは、スターリンの優越的支配力をも確実にした。//
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 (18) 党内にこれ以上に反対が出現するのを不可能にすべく、レーニンは、第10回党大会で、「分派」形成を不法とする、新しくかつ致命的な規約を採択させた。「分派」は、自分たち自身の基盤をもつ組織的集まり(organized groupings)と定義された。
 「党の統一について」という決議の鍵となる最後の文章は、当時は秘密にされていたが、違反者に対して厳格な制裁を与えようとするものだった。
 「党内部での、および全てのソヴィエト諸活動での厳格な紀律を維持するために、そして全ての分派主義を排除して最も偉大なる統一を獲得するために、大会は中央委員会に対して、紀律違反または分派主義の復活や容認がある場合には、党からの除名までをも含む全ての手段を用いることを授権する。」(+)
 除名には、中央委員会委員と委員候補の三分の二の投票が必要だった。
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 (脚注+) Desiatyi S"ezd RkP(b): Stenograficheskii otchet (1963), p.573. この条項は、トロツキーを非難するために、1924年1月の党会議で、スターリンによって初めて公にされた。I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.15.
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 (19) レーニンと彼の決議に賛成投票をした多数派はその潜在的な意味に気づいていなかったように見えるけれども、これはきわめて深刻な結果をもたらした。
 Leonard Shapiro は、この条項を共産党の歴史における決定的な出来事だと見なしている。(注87)
 トロツキーの言葉によると、単純に述べれば、支配者は「国家を覆っている政治体制を、支配している党の内部生活へと」移し換えた。(注88) 
 これ以来、党もまた、独裁制によって運営されることになった。
 反対は、個人的な、つまり組織されていないものであるかぎりでのみ許容されることになる、
 決議は党員から、中央委員会によって統御された多数派に異議を唱える権利を剥奪した。個人的反対はつねに代表されていないものとして無視することができ、一方で組織的反対は違法(規約違反)だったからだ。
 「官僚主義的厳格さを確実にすることほど、うまく考案されたものはなかった。この官僚主義的厳格さが、共産主義運動でまだ生きていた全てのものを最終的に窒息死させた。
 なぜなら、レーニンが1922年に総書記(書記長)という役職を作り、スターリンがその役職の初代に就くのに同意したのは、主として分派禁止を実行するためだったのだから。/
 分派禁止の帰結は、翌年〔1922年〕の第11回党大会での光景で、可視的になった。
 労働者反対派を「アナクロ・サンディカリスト的逸脱」と非難するレーニンの決議案に第10回党大会で反対票を投じる勇気があった30人の代議員のうち、6人以外は粛清され、より従順な代議員に換えられていた。
 Molotov は、党内分派は全て排除された、と勝ち誇った。(注90)
 1923年に開かれた第12回党大会の頃までには、残存していた6人のうち3人は同様に排除され、Shliapnikov がその一人だった。(注91)
 このような見えない粛清が、中央委員会の確固たる支配を確実にした。中央委員会は、その地位と利益を維持したい代議員たちで党大会を埋め尽くさせた。
 敢えて示せば、第12回党大会(1923年)の代議員の55.1パーセントは党の仕事だけを行なっている常勤職員で、30パーセントは非常勤の職員だった。(注92)
 第12回党大会で、そしてその後で、全ての決議が満場一致で採択されたのは、何ら驚くことではない。
 モスクワ公国時代の「全国集会」のように、この大会は(歴史家のVasilii Kliuchevskii の言葉では)「政府が自分の機関に意見を諮問する」ものだった。//
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 (20) このような恐るべき障害に直面しても、労働者反対派はなお継続しようと努めた。
 金属労働者組合内の共産党員派は、党の決議を無視して、1921年5月に120対40の票決でもって、中央によって提示された役員名簿を拒絶した。
 中央委員会はこの票決を無効とし、この組合その他の労働組合の指揮権を奪った。
 労働組合の一員であることが義務となり、これ以降は労働組合の財政は国家の援助によって賄われた。(注93)//
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 (21) 反分派決議は労働者反対派を非合法の団体にし、これを迫害する根拠になった。
 レーニンは、復讐心をもって、指導者たちをしつこく攻撃した。
 彼は、1921年8月に中央委員会総会に対して、彼らを除名するよう求めた。しかし、彼の動議は、必要な三分の二に1票不足して挫折した。(**)
 そうであっても、労働者反対派の指導者たちは嫌がらせを受け、あれこれの口実のもとで党の役職から排除された。(注94)
 意見聴取を受けることができなかったので、労働者反対派は愚かにも、この事案を、コミンテルンの執行委員会へと、事前にロシア代表団の同意を得ておくことなく、持ち出した。
 今やすでにロシア共産党の一部門であるコミンテルン執行委員会は、訴えを却下した。
 1923年9月、ストライキの波のあとで、労働者反対派の支持者たちは逮捕された。(注95)
 スターリンは、全員が殺害されるのを確実にすることになる。
 Kollontai は、唯一の例外だった。彼女は1923年にノルウェイに、つぎにメキシコへ送られた。最後にはスウェーデンに送られ、大使として務めた。—外交代表団の長となった歴史上初めての女性だ、と言われた。
 これは、自由恋愛の国で自由恋愛の主導者の彼女にスターリンの代わりをさせるという、彼の下品なユーモア感覚を満足させたように思われる。
 Shliapnikov は、1937年に射殺された。
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 (脚注**) Lenin, PSS, XLV, p.526-7; Odinadtsatyi S"ezd, p.748.
 この場合のレーニンの行動は、彼が職責にある間は、どの党指導者もどの党集団も除名や除名による威嚇をされなかったという、レーニン崇拝者がしばしば語った主張と矛盾している(例えば、Vadmin Rogovin, Byla li al'ternativa? 1992, p.25.)。この著者は彼のRussian Revolution (p.511) でも同じ誤りを冒している。
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 後注。 
 (84) Desiatyi S"ezd, p.71-76.
 (85) Ibid., p.361.
 (86) Ibid., p.571-6, p.769.
 (87) Schapiro, Origin of the Communist Autocracy, p.319-320.
 (88) Leon Trotsky, The Revolution Betrayed (1937), p.96.
 (89) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed: Trotsky, 1921-1929 (1959), p.115-6.
 (90) Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.602, p.646.
 (91)  Desiatyi S"ezd, p.778; Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.597; Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.729-759.
 (92) Vadmin Bogovin, Byla li al'ternativa? (1992), p.89.
 (93) S. Volin, Deiatel'nost' Menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti (メンシェヴィキ運動史に関する国際研究, No.13, 1982), p.87.
 (94) V.V. Kosior in Odinadtsatyi S"ezd p.127; Molotov, ibid., p.54-55 も.
 (95) Carr, Interregnum, p.292-3; Isaac Deutscher, Stalin (1967), p.258.
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 第三節、終わり

2585/R・パイプス1994年著第9章第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第三節・「労働者反対派」②。
 (06) ロシアの労働組合の指導者たちは、彼らの国は「プロレタリアート独裁」だという主張を、真面目に受け取った。論法の微妙さに馴染みのない者たちだったので、彼らは、知識人で成り立っている党指導部がどのようにして労働者自身以上に労働者にとっての利益を知っているのか、理解できなかった。
 彼らは、工業経営から労働者代表を排除することや、従前の工業指導者が「専門家」を装って権限ある地位に復帰することに反対した。
 これらの者たちは旧体制下で行なってきたのと同じように自分たちを扱う、と不満を述べた。
 はて、何が変わったのか? 革命とは何のためにあったのか?
 彼らはさらに、赤軍に指揮階層を導入することや軍内の身分制の復活にも反対した。
 党の官僚主義化と中央委員会への権限の集積にも、反対した。
 彼らは、地方の党役職が中央によって任命されるという実務を、非難した。
 党が労働大衆と直接に接触するように、党の命令機関の人員は頻繁に交替すべきだ、そうすれば本当の労働者たちに心を開いて近づけるだろう、と提案しもした。(注70)//
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 (07) 労働者反対派の出現は、19世紀末に遡る敵愾心がまだ燻っていることを明るみに出した。すなわち、政治的に積極的な労働者たちの少数派と彼らを代表し、彼らのために語っていると主張する知識人たちの間の反目関係を。(注71) 
 マルクス主義よりも通常はサンディカリズムに傾斜した急進的な労働者たちは、社会主義知識人層と協力し、彼らに指導された。政治経験が不足していることを知っていたからだ。
 しかし、彼らは、自分たちと相手の間にある溝を意識することをやめなかった。
 そして、今や「労働者国家」が誕生したとすれば、「白い手」の権威に服従する理由はもうなかった。(*) //
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 (脚注*) Krupskaiaは1925年に、Clara Zetkin に対して、「農民と労働者の広範な層は、知識人を大土地所有者やブルジョアジーと同一視している。人々のあいだでの知識人界への憎悪は強い」と書き送った(IzvTsK, No. 2/289, 1989.2, p.204.)。
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 (08) 労働者反対派が表明した問題点は、1921年3月の第10回党大会の討議の中心になった。
 開催される直前に。Kollontai は党内用に小冊子を発行し、体制の官僚主義化を攻撃した。(注72) 
 (党の規約は党内論争を公にするのを禁じていた。)
 彼女は、もっぱら労働者男女から成る労働者反対派は党指導部は労働者の気分を喪失したと感じている、と論じた。昇っていく権限の階梯が高くなるほどに、労働者反対派への支持が少なくなっている、と。
 こうしたことが起きているのは、ソヴィエト組織が共産主義を見下す階級敵に奪われているからだ。小ブルジョアジーが官僚機構の統制権を掌握し、一方で、「専門家」を偽装した「大ブルジョアジー」は産業経営と軍事指揮権を奪取したのだ。//
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 (09) 労働者反対派は第10回党大会に、二つの決議を提出した。一つは党組織に関係し、もう一つは労働組合の役割に関係していた。
 独立の決議—すなわち中央委員会が発議していない決議—が党大会で討議されるのは、これが最後となる。
 第一の文書は、内戦中に採用された軍事指揮についての慣例が永続化したこと、および指導部が労働者大衆から疎遠になったことによって生じた、党の危機を語っていた。
 党の事務は〈glasnost〉(公開性)も民主主義もないまま、労働者を信頼していない者たちによって官僚主義的に処理されている。それによって、労働者たちは党への信頼を失い、大挙として離党している。
 この状況を是正するためには、党は全体的な粛清を行なって、日和見主義分子を除去し、労働者の参加を増大させるべきだ。
 全ての共産党員に、少なくとも一年毎に三ヶ月の肉体労働が要求されなければならない。 
 全ての役職者は党員から選出され、党員に対して責任を負わなければならない。中央による任命は例外的な場合だけに限定されるべきだ。
 中央諸機関の人員は、定期的に交替されるべきだ。役職の過半は、労働者のために留保されなければならない。
 党の事務の焦点は、中心にではなく、細胞に当てられなければならない。(注73)//
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 (10) 労働組合に関する決議案も、同様に過激だった。(注74)
 これは、「事実上ゼロ」の状態にまで減じた労働組合の弱体化に抗議した。
 国の経済の再建には、大衆の最大限度の参加が必要だ。「面倒な官僚主義機構にもとづく組織編成の制度と方法」は、生産者の「創造的な主導性や自立性を損なっている」。
 党は、労働者とその組織への信頼を示さなければならない。
 国家の経済は、生産者たち自身によって底辺から再組織されるべきだ。
 やがては、大衆が経験を積むにつれて、経済の管理は、共産党が任命するのではなく労働組合と「生産者」団体が選出した、新しい組織の全ロシア生産者会議に移管されるべきだ。
 (この決議に関する討論で、Shliapnikov は、「生産者」に農民が含まれることを否定した。)(注75)
 このような組織編成のもとで、党は、経済の指揮を労働者に委ねて政治に集中することができるだろう。//
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 (11) 労働者出身の老共産主義者たちによるこれらの提案は、ボルシェヴィキの理論と実務について明らかに無知だった。
 レーニンは、最初の挨拶で、「明瞭なサンディカリスト的逸脱」を示すと明確に非難した。
 彼は続けた、このような逸脱は、経済が危機にあり武装蛮族が国に蔓延している状況でないならば、危険ではないだろう、と。ここで武装蛮族という言葉で意味させたのは、農民反乱だった。
 「小ブルジョア的」自発性の危険は、白軍が提起するそれよりも大きい。かつて以上に、党の統一がいっそう必要だ。(注76)
 コロンタイについては、レーニンは冗談めいた雑談として明らかに彼女の労働者反対派の指導者との個人的関係に言及して、彼女の主張を斥けた。
 (「ああ神よ、同志Kollontai と同志Shliapnikov は『階級的紐帯と階級意識』で結ばれている」。)(+)
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 (脚注+) Lenin, PSS, XLIII, p.41. Angelica Balabanoff, My Life as a Rabel (1973), p.252 を参照。
 レーニンは、Kollontai が労働者反対派に加わったことに激怒し、彼女に語りかけることも、彼女に関して語ることすらも、拒んだ。Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.97-98.
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 (12) 労働者反対派は、レーニンとその仲間に、一つの問題を突きつけた。
 「プロレタリアート」が背を向けているときに、どのようにして「プロレタリアート」の名前で統治するのか?
 一つの解決策は、ロシアの労働者階級を無視することだった。
 今ではしばしば、「本当の」労働者は内戦に生命を捧げており、代わって存在するのは社会的残りかすだ、と語られた。
 ブハーリンは、ロシアの労働者階級は「農民化」しており、「客観的に言って」労働者反対派は農民反対派だ、と主張した。またチェカの一人はメンシェヴィキのDan に、ペテログラードの労働者は本当のプロレタリアートが全て前線へ行ったあとに残った「滓」(〈svoloch〉)だ、と語った。(注77)  
 レーニンは、第11回党大会で、ソヴィエト・ロシアにマルクスの意味での「プロレタリアート」がいる、ということすら否定した。産業労働の階層は詐病者と「あらゆる種類の臨時要員」で充ちている、というのがその理由だった。(注78) 
 Shliapnikov は、このような主張に反駁して、労働者反対派を支持する第10回党大会の代議員41人のうち16人は1905年以前にボルシェヴィキ党に加入しており、全員が1914年以前に入党している、と特に言及した。(注79)//
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 (13) (労働者反対派の)挑戦に対処するもう一つの方策は、「プロレタリアート」を抽象概念と解釈することだった。この見方では、党はその定義上「人民」(people)であり、生きている人民が何を望んでいると考えていようとも、人民のために行動する。(注80)
 これは、トロツキーが採用した方途だった。
 「党のいわば革命的で英雄的な優越性という意識を、持たなければならない。この優越性は、重要な勢力(〈stikhiia〉)が一時的に躊躇していても、必然的に党の独裁制を断固として主張する。労働者の中にすら一時的な動揺がある場合であっても、それにもかかわらずだ。…
 この意識がなければ、党は、転換点の一つごとに目的を持たないまま衰亡するかもしれない。そのような転換点は多数ある。…
 党は全体として、形式的要因の上に超えたところに党の独裁制があり、その独裁制は労働者階級の気分が動揺しているときでもその根本的な利益を擁護する、という理解のもとで、一緒になって統合している。」(注81) 」
 言い換えると、党はそれ自体で当然に存在しているのであり、その存在が労働者階級の利益を反映しているというまさにその事実によって存在している。
 生きている人民—〈stikhiia〉—の生きている意思は、たんなる「形式的」要因にすぎない。
 トロツキーはShliapnokov を、「民主主義の物神崇拝(fetish)」だと批判した。
 「労働者運動内部での選挙の原理が、言ってみれば、党の上に置かれている。まるで党は、その独裁制が労働者民主主義内部での刹那的な気分と一時的に衝突するという事態にすら、この独裁制を断固として主張する権利を有しないがごとくに。」(注82)
 経済管理を労働者に委ねるのは不可能だ。彼らの中にはほとんど共産党員がいないという理由だけでも。
 これとの関係で、トロツキーはつぎの趣旨のジノヴィエフを引用した。国の最大の工業中心地のペテログラードでは、労働者の99パーセントが共産党を選択していないか、または選好していてもメンシェヴィキや黒の百人組にもある程度は共感している。(注83)
 換言すると、共産主義(「プロレタリアートの独裁」)と労働者支配のどちらも支持できるが、しかし、どちらもそうしないこともあり得る。民主主義は、共産主義を破滅させる宿命にある。
 トロツキーまたは他の共産党指導者がこのような見方の馬鹿々々しさを理解していた、ということを示すものは何もない。
 例えば、ブハーリンは、共産主義は民主主義と両立することはできない、ということを明示的に承認した。
 1924年、非公開の中央委員会総会で、彼はこう言った。
 「我々の任務は、二つの危険の存在を認めることだ。
 第一は、我々の党機構の中央集権化から発生する危険だ。
 第二は、政治的民主主義の危険だ。これは、民主主義が縁を超えて進めば発生し得る。
 反対派は、第一の危険—官僚制—だけを見ている。
 官僚主義の危険の背後には〈政治的民主主義の危険があることを、反対派は見ていない〉。…
 プロレタリアートの独裁を維持するためには、我々は党の独裁を支持しなければならない。」(**)
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 (脚注**) Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/1 (1989), p.197. 強調を追加した〔〈〉内の斜字体部分—試訳者〕。
 ブハーリンは自分の考えをトロツキーに宛てて書いていた。トロツキーは、後述する理由で1924年までにその考え方を変え、労働者反対派が早くに主張していた考え方の強い擁護者になった。
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 後注
 (70) Desiatyi S"ezd, p.240.
 (71) これにつき、私〔R. Pipes〕のSocial Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) を見よ。
 (72) Rabochaia oppozitsiia(限定私家版). 英語版は、The Workers' Opposition in Russia (London, n.d.).
 (73) Desiatyi S"ezd, p.651-6.
 (74) Ibid., p.685-691.
 (75) Ibid., p.359-360, p.362, p.530.
 (76) Ibid., p.27-29.
 (77) Ibid., p.223-4; F. Dan, Dva goda skitanii (1922), p.122.
 (78) Odinadtsatzyi S"ezd, p.37-38.
 (79) Desiatyi S"ezd, p.530.
 (80) RR, p.131-2 を参照。
 (81) Desiatyi S"ezd, p.351-2.
 (82) Ibid., p.350.
 (83) 上述、p.373 〔第8章第二節・農民反乱〕を見よ。
 ——
 ③へと、つづく。

2584/R・パイプス1994年著第9章第三節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第三節へ。
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 第三節・「労働者反対派」①。
 (01) 1920年夏、共産党は反対派(heresy)によって揺さぶられた。その反対派を党支配層は「労働者反対派」(Workers' Opposition)と名付けた。
 これは、ボルシェヴィキの工業労働者の不満を反映していた。知識人たちが国を支配しているという不満、より明確には工業の官僚主義化と、それと同時に生じている、労働組合の権限と自立性の縮小、に対する不満を内容としていた。
 報道担当者は古くからの共産主義者だったけれども、この運動は、党に所属したりメンシェヴィキに傾斜したりもしていない労働者の多数派の気分をも表現していた。
 主要な支持基盤は、労働者反対派が〈gubkom〉を握ったSamara、ドンバス地域、ウラルだった。
 大きな影響力をもったのは、冶金、鉱業、織物工業だった。(注64)
 長のAlexander Shliapnokov は、国で最強の労働組合で伝統的にボルシェヴィキにはきわめて友好的な、金属労働者の組合を動かしていた。
 労働者を基盤とする上級のボルシェヴィキ活動家で、第一次大戦中にShliapnokov は、ペテログラードの地下活動を指揮し、1917年十月に労働人民委員部を掌握した。
 彼の愛人のAlexandra Kollontai は、この運動の最も明瞭な理論家だった。
 労働者反対派とともに、「民主主義的中央派」として知られる第二の反対派が出現した。
 著名な共産主義知識人で構成されていて、党の官僚主義化と「ブルジョア専門家」の工業界への採用に反対した。
 これの支持者たちは、ソヴェトがもっと権力をもつことを望み、経済運営での主要な役割を要求する労働組合には反対した。
 指導者の一人で、やはり労働者出身の古くからのボルシェヴィキであるT. V. Sapronov には、党大会でレーニンを「無学」(〈nevezhda〉)で「独裁的」だと呼ぶ向こうみずさがあった。(*) 
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 (脚注*) 記録が印象に残って、この形容句はスターリンが1924年に初めて公にした。Stalin, Ob oppozitsii (1928), p.73.
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 (02) 労働者反対派は、熱烈なボルシェヴィキだった。
 彼らは、党の独裁、労働組合での党の「指導的役割」を承認していた。
 「ブルジョア的」自由の廃棄や諸政党に対する抑圧にも、同意した。
 農民層への党の対応には何も間違いはない、と考えていた。
 1921年のKronstadt 暴乱のときには、彼らは、暴乱鎮圧のために形成された赤軍軍団に最初に自発的に加わった。
 Shliapnokov の言葉によると、レーニンとの違いは目標にではなく、手段にあった。
 彼らは、新しい官僚機構に組み入れられている知識人層が国の支配階級である労働者を遠ざけているのは受け入れ難い、と感じた。
 なぜなら、国の「労働者」政府はじつに一人の労働者も権限ある地位につけていない。指導的役人たちのほとんどは、工場や農場で働いたことがないばかりか、しっかりした仕事に就いたことがない。(注65) //
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 (03) レーニンは、この異論をきわめて深刻に受け取った。彼は「労働者の自発性」を無視するつもりはなかった。それはボルシェヴィキ党の創立以来つねに闘ってきたものだったが。
 彼は、労働者反対派はメンシェヴィズムとサンディカリズムの一種だと非難して、すみやかにそれを粉砕した。
 しかし、そのために、共産党内に残っていた民主主義の要素を最終的に破壊する手段を用いた。
 レーニンは、労働者の望みを無視しつつボルシェヴィキ独裁制は労働者の政府だというフィクションを維持する一方で、本来の支持者からすら政府を確実に離反させた。//
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 (04) 労働者反対派は、第9回党大会(1920年3月)で出現した。それは、工業に単独者経営を導入するというモスクワの決定に関係していた。
 それまでは、ソヴィエト・ロシアの国有化された企業は、委員会によって運営されていた。その委員会には、技術的専門家や党職員と並んで、労働組合と工場委員会の代表も加わっていた。
 このような仕組みは非効率であることが分かり、工業生産の崩壊の原因だと批判された。
 党指導部はすでに1918年に、単独者による経営への移行を決定していた。だが、労働者側の抵抗があったため、その実施は困難だった。
 内戦が終わった今や、第9回党大会は、「上から下まで、所定の仕事については所定の人間が責任を負うという、頻繁に語られた明確な原理」を実施することを決議した。「審議や決定の過程である程度の位置を占める〈合議制〉は、執行の過程では無条件に〈個人主義(独任制)〉に道を譲らなければならない」。(注66)
 この決議を予期して、ソヴィエト労働組合中央評議会は、1920年1月に、単独者管理に反対することを票決していた。
 レーニンは、この要求を考慮しなかった。 
 同様に、ドンバスの労働者たちの意向も無視した。彼らの代議員たちは、20対3で、工業の運営での合議制を維持することに賛成票決をしていた。(注67)
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 (05) 1920年と1921年に全国的に導入された新しい制度のもとで、労働組合と工場委員会はもはや決定には参画せず、職業的経営者が下した決定の執行にのみかかわった。
 レーニンは、労働組合が経営に干渉することを禁止する決議を、第9回党大会に採択させた。
 彼は、このような推移をつぎのような論拠で正当化した。搾取階級を排除した共産主義のもとでは、労働組合は労働者の利益をもはや守る必要がない。それは政府によって行なわれるからだ。
 労働組合の固有の役割は、生産を改善し、労働紀律を維持して、政府の代理者として行動することにあった。
 「プロレタリアート独裁のもとでは、労働組合は資本家という支配階級に対する労働の売り手の闘争のための組織から、支配する労働者階級の道具へと変容したのだ。
 労働組合の任務は主として、組織化と教育の領域にある。
 これらの任務を労働組合は、自己完結的な、組織的に離れた勢力としてではなく、共産党に導かれるソヴィエト国家の道具として、履行しなければならない。」(注68)
 換言すれば、ソヴィエトの労働組合は、これ以来、労働者ではなく、政府を代表すべきものになった。
 トロツキーはこのような見方に賛成し、「労働者国家」では労働組合は雇用主を敵と見る習癖から脱して、党の指導のもとで生産性を高める要因に変質しなければならない、と論じた。(注69)
 労働組合の役割に関するこのような見方が現実に意味したのは、労働組合の役員は組合員によって選出されるのではなく、党が指名した、ということだった。
 ロシアの歴史過程でしばしば生じたように、自分たちの利益を守るためにある社会集団が設立した組織は、国家によってその国家自体の目的のために奪い取られた。//
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 後注。
 (64) Shliapnikov to Lenin, 1921.8.21, RTsKhIDNI, F. 2, op.1, delo 24625.
 (65) Rigby, Lenins' government, p.149-p.156.
 (66) Deviatyi S"ezd Rkp(b): Protokoly (1960), p.411.
 (67) Ibid., p.177.
 (68) Ibid., p.417.
 (69) Desiatyi S"ezd, p.813-5.
 ——
 ②へと、つづく。
 

2406/O.ファイジズ・人民の悲劇(1996)第15章第2節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
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 第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師⑤。
 (18)革命の「夢想家たち」(dreamers)は、新しい芸術形式とともに、社会生活の新しい形態についても実験をしようとしていた。
 これもまた人類(mankind)の本性を変えるために利用できる、と想定されていた。いや、正確に書けば、女性人類(womankind)のそれも。//
 (19)女性解放は、新しい集団的生活の重要な側面だった。党の指導的なフェミニストたち—Kollontai、Armand、Balabanoff—が予想したように。
 地域共同の食事室、洗濯場、保育室は退屈な家事労働から女性たちを解放し、革命での積極的な役割を与えることができるだろう。
 あるソヴィエトのポスターには、「ロシアの女性たち、鍋を投げ棄てよ!」と書かれていた。
 婚姻、離婚、堕胎に関する法制のリベラルな改革によって「ブルジョア的」家族は次第に解体され、女性たちを夫たちの専制から解放する、と想定された。
 1919年に設置された党中央委員会書記局女性部(Zhenotdel)は、女性たちを地方の政治的業務に動員して教育的情報宣伝をすることで、「女性を再様式化 (refashion)」することを任務とした。
 1920年のArmand の死によって書記局女性部長になっていたKollontai もまた、女性を解放するために性の革命を主張した。
 彼女は、二人の対等な仲間としての男女間の「自由恋愛」や「エロティックな友情」を説き、女性たちを「婚姻という隷従」から、両性を一夫一婦制の重みから、解放しようとした。
 これは、長く継続した夫や愛人たちとともに彼女自身が実践してきた哲学だった。夫や愛人の中には、1917年に結婚した17歳年長のボルシェヴィキ軍人のDybenko がおり、とりわけ、1930年代に在Stockholmの(最初かつ女性唯一の)ソヴィエト大使として彼女を採用したスウェーデン国王がいた。//
 (20)Kollontai は、社会福祉人民委員として、この新しい性的関係の条件づくりをしようとした。
 売春を撲滅し、子ども手当を増大させる試みがなされたが、どちらの分野でも、内戦中はほとんど進展がなかった。
 不幸なことに、いくつかの地方人民委員部は、Kollontai の仕事を導入する意味を理解することができなかった。
 例えばSaratow では、地方福祉部署は「女性の国有化に関する布令」を発した。これは婚姻を廃止して、公認の売春宿で性的要求を充たす権利を男たちに与えるものだった。
 Kollontai の部下たちはVladimir に「自由恋愛事務局」を設置し、18歳から50歳までの全ての未婚の女性たちに彼女たちの性的交際相手を選択して登録することを義務づける布告を発した。
 この布告は、18歳以上の全ての女性は「国有財産」であり、男たちに「事態の利益」に応じた生殖行為のために、彼女たちの同意がなくても登録した女性を選択する権利を与えた。(25)//
 (21)Kollontai の仕事のほとんどは、現実には理解されなかった。
 性的革命という彼女の展望は多くの点できわめて理想主義的だったが、一方で現実には、1917年以降のロシアじゅうを風靡した乱れた性的関係と道徳的アナーキーを促進しているものと広く受けとめられた。
 レーニンはこのような問題に時間を割く余裕がなかった。そして、彼自身は上品ぶる人物で、Kollontai によるものとされた性的問題に関する「一杯の水」論—共産主義社会では、人の性的欲求の充足は一杯の水を飲むことのように率直で正直なものでなければならない—を「完全に非マルクス主義的」だと非難した。
 レーニンはこう書いた。「確かに、渇きは癒されなければならない。しかし、ふつうの人間が排水溝で横たわってその水溜まりで水を飲もうとするだろうか?」
 地方のボルシェヴィキたちは「女仕事」を軽侮していて、
Zhenotdel(党書記局女性部)のことを(農民の妻の意味の「baba」から)「babotdel」と呼んだ。
 女性たち自身も、とくに男性優位的考えが依然としてあった農村部では、性的解放という理想に懐疑的だった。
 多くの女性たちは、地域の共同保育室は自分たちの子どもを奪い去って国家の孤児にしてしまうのでないか、と怖れた。
 彼女たちは、1918年の離婚自由化法は男性が彼らの妻や子どもたちに対する責任から免れるのを容易にしただけだ、と不満を言った。
 統計も彼女たちを支持していた。
 1920年代初頭までに、ロシアの離婚率はヨーロッパで抜群の高さに達した。ーブルジョア的ヨーロッパの26倍になった。
 労働者階級の女性たちは、Kollontai が説いた自由な性的関係に強く反対し、男たちが自分たちを粗末に扱う公認書を与えるようなものだと見なした。
 彼女たちがより大きな価値を置いたのは農民家庭の家計に根ざした旧様式の結婚観念であり、その家計とは家庭を維持するための労働を両性で分け合う共同経営だった。(26)
 (22)レーニンが同意しなかったのは性的問題だけではなかった。
 彼は芸術問題について、19世紀のブルジョアと全く同様に保守的だった。
 レーニンには、アヴァンギャルドのための時間はなかった。
 彼はその前衛芸術の革命上の地位は社会主義の伝統を<嘲って歪曲するもの〉だと考えていた。
 四頭の象の上に立つマルクス像建立が企画されたとき、レーニンは激怒した。また、mayakovsky の有名な詩の「15億人」を「とても無意味で愚かな馬鹿さかげんと自惚れ」だとして却下した(多数の読者は同意するかもしれない)。
 レーニンは、内戦が終わると、Proletkult の活動を立ち入って検討した。ーそして、閉鎖することに決定した。
 1920年の秋に、それに対する財政援助が劇的に削減された。
 Bogdanov は指導部から解任され、レーニンはその原理的考え方に対する攻撃を始めた。
 ボルシェヴィキ党指導者は、Proletkult の因襲打破的偏見に苛立ち、過去の文化的成果を基礎にして形成していく必要を強調した。また、それがもつ自立性によって政治的脅威は大きくなると判断した。
 彼が見たのは、Proletkult はBogdanov 一派だ、ということだった。
 確かにProletkult は労働者反対派と多くの点で共通しており、「ブルジョア専門家」の雇用によりまだ示されているようなブルジョアジーの文化的主導性を打倒する必要を強調した。そしてじつに、NEP の直後でもそうしていた。
 この意味では、Proletkult の反ブルジョア感情とスターリン自身の「文化革命」との間には直接の連結関係があった。
 レーニンの目からすると、Proletkult の閉鎖はNEP への移行のための不可欠の要素だった。
 NEP は経済分野でのテルミドールだったが、「ブルジョア芸術」に対する闘争のこの中断は、文化分野でのそれだった。
 どちらの由来も、ロシアのような後進国では古い文化の成果は維持されなければならず、その基礎の上に社会主義社会は建設される、という認識にあった。
 共産主義への近道などは存在しないのだ。//
 (23〉レーニンはこの時期に、「文化革命」の必要性について何度も執筆した。
 彼は、労働者国家を生むだけでは十分でない、と論じた。社会主義への長い移行のための文化的条件もまた、生み出さなければならない。
 文化革命という概念で彼が強調したのは、プロレタリアの文学や芸術ではなく、プロレタリアの科学と技術だった。
 Proletkult は芸術を人間の解放の手段として位置づけたのに対して、レーニンは、科学こそを人間の変革の手段だと見た。人間の変革とは、人々を国家の「歯車」に変えることだ。(*)
 〈 (*)原書注記ースターリンはしばしば、人々は国家という巨大な機械の「歯車」(vintiki)だと述べた。〉
 レーニンは、「悪質で」「識字能力のない」労働者たちが「資本主義の文化で教育される」ことを—そして技能をもち紀律のある労働者となって子供を技術学校へ通わせることを—望んだ。そうすれば、社会主義への移行に際してこの国の後進性を克服できるだろう(27)。
 ボルシェヴィズムとは、近代化のための戦略でないとすれば、何物でもなかった。//
 (24)レーニンが入念な科学的訓練の必要を強調したことは、1920-21年の間の教育政策の変化を反映していた。
 ボルシェヴィキは、教育を人間の変革の主要な道筋だと見なした。学校や子供たちと青年のための共産主義同盟(Pioneer とKommsomol〉を通じて、次の世代へと新しい集団的生活様式が教え込まれるだろう。
 ソヴィエトの教育の率先者の一人だったLitina Zinoviev が、1918年の公教育大会で、こう宣言したとおりだ。/
 「我々は、若い世代を共産主義の世代へと作り込まなければならない。
 子どもたちは柔らかい蝋のごとくきわめて柔軟かつ従順であって、良い共産主義者へと鋳造されるに違いない。……
 我々は、家庭生活の有害な影響から子どもたちを救わなければならない。……
 我々は、彼らを国有化(natinalize)しなければならない。
 小さな生命の最も早い時期から、共産主義の学校の愛情溢れた影響のもとにいることを知らなければならない。
 彼らは、共産主義のABCを学習するだろう。……
 母親に子どもをソヴィエト国家に捧げることを義務づけること—これが我々の任務だ。」//
 (25)ソヴィエト式学校の基本的モデルは、1918年に設立された統合労働学校(Unified Labour School)だった。
 この学校は、子どもたち全員に対して14歳になるまで自由な普通教育を与えることを意図していた。
 しかしながら、内戦による実際的な困難があったため、その目的は現実にはごく僅かの学校で達成されたにすぎなかった。
 1920年に多数のボルシェヴィキ党員と労働組合指導者たちは、幼年期から職業訓練を行う限定された制度づくりを主張し始めた。
 彼らは、トロツキーの軍事化計画の影響を受けて、教育制度を経済的需要に従属させる必要を強調した。ロシアには熟達した技術者が必要であり、それを生み出すのは学校の仕事だ、と。
 Lunachartsky はこれに反対し、この主張は自分がVpered 主義者だった時代から追求してきた革命の人間中心主義的目標を放棄する誘因となる、と見なした。
 彼はこう主張した。
 労働者の名のもとで権力を奪取したボルシェヴィキは、「産業の支配人」になれる知識人のレベルにまで引き上げる子どもたちの教育を強いられている。だが、見習う前に読み書きの仕方を教えるだけでは十分ではない。
 そうすれば、資本主義の階級分化、知識をもつという力により分離される支配人と男たちの文化を再生産してしまうだろう。
 Lunachartsky の力により、1918年の科学技術の考え方は基本的には維持された。
 しかし、実際には、狭い職業訓練教育の考え方が増大した。それによって子どもたちは、とくに孤児たちは、9歳か10歳の早い時期から工場の実習生になることを強いられた。//
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 ⑥へとつづく。

1674/共産党独裁②-L・コワコフスキ著18章4節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 この第18章とは、第2巻(部)の第18章のことだ。各巻が第1章から始まる。
 前回のつづき。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁②。
 非ボルシェヴィキの組織や定期刊行物の閉鎖、数百人の主要な知識人のロシアからの追放(この寛大な措置はまだ採られていた)、全ての文化的組織での迫害、あらゆる日常生活内に入り込んだテロルの雰囲気-これら全てが、社会対立がボルシェヴィキ党それ自体の内部で反映されるという、企図していない、だが当然の結果をもたらした。
 そしてこれは、つぎには、党が社会に対して行使したのと同じ専制的支配という原理を、党の内部に適用することへと導いた。
内戦は、経済的破滅と一般的な消耗をもたらした。そして、強さがなくなった労働者階級は、平和的建設という事業においてかつて戦闘の場で示したのと同じような熱狂と自己犠牲を示すようにとの訴えに敏感でなくなった。
 ボルシェヴィキが労働者階級全体を代表するということは、1918年以降は一つの公理(axiom)だった。それは、立証できないものだった。立証するための仕組みが何も存在していないのだから。
 しかしながら、プロレタリア-トは、怒りと不満を示し始めた。最も烈しかったのは、1921年3月のクロンシュタット蜂起で、これは、大量の死者を出して鎮圧された。
 クロンシュタットの海兵たちは、労働者階級の大多数と同じく、ソヴェトの権力を支持していた。しかし、彼らは、それを単一の支配政党による専政と同じものだとは考えなかった。
 彼らは、党による支配に反対して、ソヴェトによる支配を要求した。
 党自体の内部で、プロレタリア-トの不満は強い『労働者反対派』へと反映された。これは、中央委員会では、アレクサンドロ・シュリャプニコフ(A・Shlyapnikov)、アレクサンドラ・コロンタイ(A・Kollontay)その他が代表した。 
 このグループは経済の管理を労働者の一般的組織、すなわち労働組合に委託することを求めた。
 彼らは報酬の平等化を提案し、党内からの支配という専制的方法に異議を唱えた。
 つまりは、彼らは、レーニンが革命前に書いていた『プロレタリア-トの独裁』を求めた。
 彼らは、労働者のための民主主義と党内部での民主主義は、何か他のものに代わって民主主義が存在しない場合ですら安全装置でありうる、と考えていた。
 レーニンとトロツキーは、もはやそのようないかなる幻想をも抱かなかった。
 この二人は、『労働者反対派』はアナクロ=サンディカ主義的逸脱だと烙印を捺し、彼らの代表者を様々な嘘の理由をつけて党の活動から排除した。投獄したり、射殺したりはしなかったけれども。//
 この事件は、ソヴェト体制での労働組合の位置と機能に関する一般的な議論を生んだ。
 三年早い1918年3月に、レーニンは、『プロレタリア-ト階級の独立性を維持し強化するという利益のために、労働組合は国家組織になるべきではない』と主張したとして、メンシェヴィキを厳しく罵倒した。
 『このような考え方は、かつても今も、最も粗野な類のブルジョアの挑発であるか、極端な誤解であって、昨日のスローガンのスラヴ的な繰り返しだ。<中略>
 労働者階級は、国家の支配階級になりつつあるし、またそうなった。
 労働組合は、国家の組織になりつつあるし、社会主義を基盤として全ての経済生活を再組織化することに第一次的な責任を負う、国家の組織にならなければならない。』 (+)
 (全集27巻p.215〔=日本語版全集27巻「『ソヴェト権力の当面の任務』の最初の草稿」218頁〕。)
 労働組合を国家の組織に変えようとする考えは、論理的には、プロレタリア-ト独裁の理論から帰結する。
 プロレタリア-トは国家権力と同一視されるので、労働者が国家に対抗する利益を守らなければならないと想定するのは、明らかに馬鹿げていた。
 トロツキーは、こうした考えを持っていた。
 しかし、レーニンは上に引用した二つの点のいずれについても、考え方を変更した。
 1920年にソヴェト国家は官僚主義的歪みに苦しんでいると決定したあと、彼は自分自身が最近まで述べていた考えを抱いているとしてトロツキーを攻撃し、つぎのことを明確に宣告した。労働者を守るのは労働組合がする仕事だ、しかし、労働者を彼ら自身の国家から守るのもそうかというと、そうではなくて悪用(abuse)だ、と。
 彼は、同時に、組合は経済を管理するという国家の機能を奪い取るべきだとの考えに、烈しく反対した。//
 そうしているうちに、レーニンは、反対する集団が将来に党内部で発生するのを防止する措置を講じた。
 党内での分派(factions)の形成を禁止し、党大会で選出されていたメンバーの内部から排除する権限を中央委員会に与える規約が、採択された。
 こうして、自然な進展として、最初は労働者階級の名において社会に対して行使されていた独裁は、今や党それ自体についても適用され、ワン・マン暴圧体制(tyranny)の基礎を生み出した。//
 レーニンの最後の数年にますます重要になってきたもう一つの主題は、言及したばかりだが、『官僚主義的歪み』の問題だった。
 レーニンは、つぎのことに、ますます頻繁に不満を述べる。国家機構が必要もなく無制限に膨張している、かつ同時に何も処理する能力がない、煩わしくて形式主義的だ、役人たちは党の幹部官僚にきわめて些細な問題について照会している、等々。
 このような当惑の根源は、彼がつねに強調したように、制度全体が法制にではなくて実力にもとづいていることにある、ということは、レーニンには決して思い浮かばなかったようだ。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ③へとつづく。

1572/レーニンらの利点とドイツの援助③-R・パイプス著10章6節。

 前回のつづき。
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 ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツの資金援助③。
 これらの出版物は、レーニンの考え方を広めた。しかし、隠した内容で、だった。
 採用した方法は『プロパガンダ(propaganda)』で、読者に何をすべきかを伝える(これは『アジテーション(agitation)』の任務だ)のではなく、望ましい政治的結論を自分たちが導く想念を読者に植え付けることだった。
 例えば、兵団に対する訴えで、ボルシェヴィキは、刑事訴追を受けさせることになるような脱走を唆しはしなかった。
 ジノヴィエフは、<兵士のプラウダ>第1号に、新聞の目的は労働者と兵士の間の不滅の緊密な関係を作り出し、結果として兵団員たちが自分たちの『真の』利益を理解して労働者の『集団虐殺』をしないようにさせることにある、と書いた。
 戦争の問題についても、彼は同様に用心深かった。//
 『我々は、いま<銃砲を置く>ことを支持しない。
 これは、決して戦争を終わらせない。
 いまの主要な任務は、全兵士に、何を目ざしてこの戦争は始まったのか、<誰が>戦争を始めたのか、誰が戦争を必要とするのか、を理解させ、説明することだ。』(91)//
 『誰が』、もちろん、『ブルジョアジー』だった。兵士たちは、これに対して銃砲を向けるようになるべきだ。//
 このような組織的な出版活動を行うには、多額の資金が必要だった。
 その多くは、ほとんどではなかったとしても、ドイツから来ていた。//
 ドイツの1917年春と夏のロシアでの秘密活動については、文書上の痕跡はほとんど残っていない。(*)
 ベルリンの信頼できる人間が、信頼できる媒介者を使って、文書に残る請求書も受領書も手渡すことなく、中立国スウェーデン経由で、ボルシェヴィキに現金を与えた。
 第二次大戦後にドイツ外交部の文書(archives)が公になったことで、ボルシェヴィキに対するドイツの資金援助の事実を確かなものにすることができ、そのある程度の金額を推算することができるが、ボルシェヴィキがドイツの金を投入した正確な用途は、不明瞭なままだ。
 1917-18年の親ボルシェヴィキ政策の主な考案者だったドイツ外務大臣、リヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuelmann)は、ドイツの資金援助を主としてはボルシェヴィキ党の組織と情報宣伝活動(propaganda)のために用いた。
 キュールマンは1917年12月3日(新暦)に、ある秘密報告書で、ボルシェヴィキ党派に対するドイツの貢献を、つぎのように概括した。//
 『連合諸国(協商国、Entente)の分裂およびその後の我々と合意できる政治的連結関係の形成は、戦争に関する我々の外交の最も重要な狙いだ。
 ロシアは、敵諸国の連鎖の中の、最も弱い環だと考えられる。
 ゆえに、我々の任務は、その環を徐々に緩め、可能であれば、それを切断することだ。
 これは、戦場の背後のロシアで我々が実施させてきた、秘密活動の目的だ--まずは分離主義傾向の助長、そしてボルシェヴィキの支援。
 多様な経路を通して、異なる標札のもとで安定的に流して、ボルシェヴィキが我々から資金を受け取って初めて、彼らは主要機関の<プラウダ>を設立することができ、活力のある宣伝活動を実施することができ、そしておそらくは彼らの党の元来は小さい基盤を拡大することができる。』(92) //
 ドイツは、ボルシェヴィキに1917-18年に最初は権力奪取を、ついで権力維持を助けた。ドイツ政府と良好な関係をもったエドュアルト・ベルンシュタイン(Edward Bernstein)によれば、そのためにドイツがあてがった金額は、全体で、『金で5000万ドイツ・マルク以上』だと概算されている(これは、当時では9トンないしそれ以上の金が買える、600~1000万ドルになる)。(93)(**)//
 これらのドイツの資金のある程度は、ストックホルムのボルシェヴィキ工作員たちを経由した。その長は、ヤコブ・フュルステンベルク=ガネツキー(J. Fuerustenberg-Ganetskii)だった。
 ボルシェヴィキとの接触を維持する責任は、ストックホルム駐在ドイツ大使、クルツ・リーツラー(Kurz Riezler)にあった。
 B・ニキーチン(Nikitin)大佐が指揮した臨時政府の反諜報活動によると、レーニンのための資金はベルリンの銀行(Diskontogesellschaft)に預けられ、そこからストックホルムの銀行(Nye Bank)へと転送された。
 ガネツキーがNye 銀行から引き出して、表向きは事業目的で、実際にはペテログラードのシベリア銀行(Siberian Bank)の彼の身内の口座へと振り込まれた。それは、ペテログラードのいかがわしい社会の女性、ユージニア・スメンソン(Eugenia Sumenson)だった。
 スメンソンとレーニンの部下のポーランド人のM・Iu・コズロフスキー(Kozlovskii)は、ペテログラードで、表向きは、ガネツキーとの金融関係を隠す覆いとしての薬品販売事業を営んでいた。
 こうして、ドイツの資金をレーニンに移送することができ、合法の取引だと偽装することができた。
 スメンソンは、1917年に逮捕されてのちに、シベリア銀行から引き出した金をコズロフスキー、ボルシェヴィキ党中央委員会メンバー、へと届けたことを告白した。
 彼女は、この目的で銀行口座から75万ルーブルを引き出したことを、認めた。
 スメンソンとコズロフスキーは、ストックホルムとの間に、表向きは取引上の連絡関係を維持した。そのうちいくつかは政府が、フランスの諜報機関の助けで、遮断した。
 つぎの電報は、一例だ。//
 『ストックホルム、ペテログラードから、フュルステンベルク、グランド・ホテル・ストックホルム。ネスレ(Nestles)は粉を送らない。懇請(request)。スメンソン。ナデジンスカヤ 36。』(97)//
 ドイツは、ボルシェヴィキを財政援助するために、他の方法も使った。そのうちの一つは、偽造10ルーブル紙幣をロシアに密輸出することだった。
 大量の贋造された紙幣は、七月蜂起〔1917年〕の余波で逮捕された親ボルシェヴィキの兵士や海兵から見つかった。//
 レーニンは、ドイツとの財政関係を部下に任せて、うまくこうした取引の背後に隠れつづけた。
 彼はそれでもなお、4月12日のガネツキーとラデックあての手紙で、金を受け取っていないと不満を述べた。
 4月21日には、コズロフスキーから2000ルーブルを受け取ったと、ガネツキーに承認した。
 ニキーチンによると、レーニンは直接にパルヴス(Parvus)と連絡をとって、『もっと物(materials)を』と切願した。(***)
 こうした通信のうち三件は、フィンランド国境で傍受された。
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  (91) <兵士のプラウダ>第1号(1917年4月15日付) p.1。
  (*) 1914年~1917年のロシアの事態にドイツが直接に関与したことを示すと称する、『シッション文書(Sission Papers)』と呼ばれるひと塊の文書が、1918年早くに表れた。これはアメリカで、戦争情報シリーズ第20号(1918年10月)の<ドイツ・ボルシェヴィキの陰謀>として、公共情報委員会によって公刊された。ドイツ政府はただちに完全な偽造文書だと宣言した(Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命 1915-1918, ロンドン, 1958, p.X.。さらに、ジョージ・ケナン(George Kennan) in: The Journal of Modern History, XXVIII, No.2, 1956.06, p.130-154、を見よ)。これは、レーニンの党に対するドイツの財政的かつ政治的支援という考え自体を、長年にわたって疑わせてきた。
  (92) Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命, p.94。
  (93) <前進(Vorwaerts)>1921年1月14 日号, p.1。
  (**) ベルンシュタインが挙げる数字は、ドイツ外務省文書の研究で、大戦後に確認された。そこで見出された文書によると、ドイツ政府は1918年1月31日までに、ロシアでの『情報宣伝活動』のために4000万ドイツ・マルクを分けて与えた。この金額は1918年6月までに消費され、続いて(1918年7月)、この目的のために追加して4000万ドイツ・マルクが支払われた。おそらくは後者のうち1000万ドイツ・マルクだけが使われ、かつ全てがボルシェヴィキのためだったのではない。当時の1ドイツ・マルクは、帝制ロシアの5分の4ルーブルに対応し、1917年後の2ルーブル(いわゆる『ケレンスキー』)にほぼ対応した。Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik <ドイツの東方政策> 1918 (ウィーン・ミュンヘン, 1966), p.213-4, 注19。
  (97) Nikitin, Rokovye gody, p.112-4。ここには、他の例も示されている。参照、Lenin, Sochineniia, XXI, p.570。  
  (99) Lenin, PSS, XLIX, p.437, p.438。
  (***) B. Nikitin, Rokovye gody (パリ, 1937), p.109-110。この著者によると(p.107-8)、コロンタイ(Kollontai)も、ドイツからの金を直接にレーニンに渡す働きをした。ドイツの証拠資料からドイツによるレーニンへの資金援助が圧倒的に証明されているにもかかわらず、なおもある学者たちは、この考え(notion)を受け容れ難いとする。その中には、ボリス・ソヴァリン(Boris Souvarine)のようなよく知った専門家もいる。Est & Quest, 第641号(1980年6月)の中の彼の論文 p.1-5、を見よ。
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 第7節につづく。
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