Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014).
この書の対象は<ロシア革命史>ではなく、ほぼ<ソヴィエト連邦史>だ。したがって、Orlando Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution(1998)に比べて、〈ロシア革命〉期の叙述は詳細さで劣る。
O. Figes, Revolutionary Russia の方は、第7章、第8章、第9章、第19章、第20章の試訳を、すでにこの欄に掲載した。
各章題は、第7章/内戦とソヴィエト体制の形成、第8章/レーニン、トロツキーおよびスターリン、第9章/革命の黄金期?、第19章/最後のボルシェヴィキ、第20章/判決。
しばらくぶりに、〈第6章/レーニンの革命〉に戻って、試訳を続ける。
「* * *」による区切りまでを「節」とし、一行ごとに改行する。段落ごとに、原書にはない数字番号を付す。
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第6章・レーニンの革命①。
第一節。
(01) 1917年7月8日、ケレンスキーは首相になった。
彼は、民衆の支持がありかつ軍司令部がまだ受け容れられる唯一の大政治家で、国を再統合して内戦に向かう流れを止めることのできる人物だと見られていた。
新しい連立政府(7月25日形成)の基本方針はもはや、二月の後の二重権力構造の基盤であるソヴェトの同意があるという民主主義原理に、基づいていなかった。
ケレンスキーは、Kadets 〔立憲民主党〕の要求に従い、公共の集会に新規の規制を行ない、前線兵士を対象とする死刑を復活させ、軍事紀律を回復すべく兵士委員会の影響力を削減した。そして、Korniov 将軍を新しい最高司令官に任命した。
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(02) Kornilov は国家の救済者だとして、事業家、将校たち、右翼的団体に歓迎された。
彼はこれらの支援を受けつつ、反動的な措置を執った。その中には、民間人に対する死刑の復活、鉄道や国防産業の軍事化、労働者の組織の禁止があった。
ソヴェトに対する明瞭な脅迫として、これらの措置は戒厳令の発布につながることになるものだった。
ケレンスキーは動揺したが、8月24日に結局は同意した。このことはKornilov に、ケレンスキーまたは彼自身による軍部独裁の樹立が可能だと期待させた。
このクー〔軍部独裁〕を阻止しようとボルシェヴィキが蜂起するとの噂を聞いて、最高司令官たるKornilov は、首都を占拠し、連隊を武装解除するために、コサック軍団を派遣した。
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(03) この時点で、ケレンスキーはKornilov に反対する側に回った。
ケレンスキー自身の幸運は急速に落下していたのだが、この<反転(volte-face)>により幸運が蘇るだろうと彼は考えた。
ケレンスキーは、Kornilov を「反革命」、政府に対する裏切り者と非難して最高司令官を解任し、民衆にペテログラードを防衛するよう訴えた。
ソヴェトは、首都防衛の軍事力を結集すべく、全政党で成る委員会を結成した。
ボルシェヴィキは、七月事件のあとの抑圧が終わって名誉回復をしていた。
何人かの指導者が釈放された。その中に、トロツキーがいた。
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(04) ボルシェヴィキだけに、労働者や兵士たちを動員する能力があった。
北部の工業地域では、「反革命」と闘う革命委員会が一時的に結成された。
赤衛隊は、工場の防衛隊を組織した。
Kronstadt の海兵たちが、彼らは七月事件のときは臨時政府を打倒しようと最後にペテログラードへやって来たのだったが、再びやって来た。今度は、Kornilov に対抗して首都を防衛するために。
結局は、闘う必要がなかった。
Kornilov が派遣したコサック軍団は、ペテログラードへの途上で北部コーカサスからのソヴェト代表団に遭遇し、武器を置くよう説得された。
内戦はのちの日まで、延期された。
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(05) Kornilov は、「反革命陰謀」に加担したとして、30人の将校たちとともに、Mogilev 近くのBykhov 修道院に収監された。
政治的殉教者としての右派から見ると、「Kornilov 主義者」はのちの義勇軍や白軍を生み出す基礎的な核になった。白軍は、内戦で赤軍と戦うことになる。
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(06) つまるところ、「Kornilov 事件」は、ケレンスキーの地位を強めたのではなく、むしろ掘り崩した。
ケレンスキーは、右派からはKornilov を裏切ったと非難された。一方、左派からは、「反革命」行動に関与していた、という疑惑を持たれた。
Kadets (明らかにKornilov 運動に一定の役割を果たした)は、このような左翼の疑念を増幅させた。
ケレンスキーの妻はこう書いた。「ケレンスキーと臨時政府の威信は、Kornilov 事件によって完全に破壊された。そして夫は、ほとんど支援者がいないままで、とり残された」(注01)。
春の人民の英雄は、秋には人民の反英雄(anti-hero)になった。
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(07) 一般の兵士たちは、将校層がKornilov を支持したのではないかと疑っていた。
そのために、8月末から、軍の規律の顕著な非厳格化が生じた。
兵士集会は、講和と権力のソヴェトへの移行を呼びかける決議を採択した。
軍からの脱隊の率が、急激に上がった。数万人の兵士が毎日、軍の分団を離れた。
脱隊兵のほとんどは農民出身で、故郷の村落に帰りたかった。そこは今、収穫真っ盛りの季節だった。
武装しかつ組織化して、彼ら農民兵士たちは、領主を攻撃した。これは9月からいっそう激しくなった。
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(08) 大きな工業都市では、Kornilov 危機の中で、似たような過激化が進行していた。
ボルシェヴィキはKornilov 事件の第一の受益者で、8月31日に初めて、ペテログラード・ソヴェトの多数派になった。
Riga、Saratov、モスクワのソヴェトも、その後にすみやかに同様になった。
ボルシェヴィキの好運が上昇した理由は、主として、非妥協的に「全ての権力をソヴェトへ」と叫び続けた唯一の政党だったことにある。
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(09) この点は強調しておく必要がある。なぜなら、十月革命に関する最大の誤解は、ボルシェヴィキはこの党に対する大衆の支持の波に乗って権力へと到達した、というものだからだ。
そうではない。
十月蜂起は、民衆のごく少数派の支持を得ての、クーだった。ソヴェト権力という民衆の理想にとくに着目した社会的革命の真只中で、それは起きた。
Kornilov 事件のあと、工場、村落、軍団から突如として、ソヴェト政府の樹立を求める決議が噴出した。
しかし、ほとんど例外なく、それらが呼びかけた政府は、全ての社会主義政党が参加する政府だった。そして諸決議はしばしば、社会主義政党間の対立については著しく寛容だった。
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(10) Kornilov 事件の現実的な重要性は、つぎのことにある。すなわち、ソヴェトに対する「反革命的」脅威がある、という民衆がもつ信念が強化されたこと。ボルシェヴィキは、この脅威を、十月に赤衛隊その他の闘争的な者たちを動員するために利用することになる。
Kornilov 事件は、この意味で、ボルシェヴィキによる権力奪取のための衣装稽古(dress rehearsal)だった。
ボルシェヴィキの軍事委員会が、Kornilov に対する闘争の中で新たな力を得て、—七月以降にすでにあった—地下から出現してきた。
赤衛隊もまた強化された。赤衛隊員のうち4万人が、Kornilov 事件の中で武装した。
Trotsky がのちに書いたように、「Kornilov に反対して立ち上がった武装集団は、将来に十月革命のための部隊となるべき軍団だった」(注02)。
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第一節、終わり。
この書の対象は<ロシア革命史>ではなく、ほぼ<ソヴィエト連邦史>だ。したがって、Orlando Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution(1998)に比べて、〈ロシア革命〉期の叙述は詳細さで劣る。
O. Figes, Revolutionary Russia の方は、第7章、第8章、第9章、第19章、第20章の試訳を、すでにこの欄に掲載した。
各章題は、第7章/内戦とソヴィエト体制の形成、第8章/レーニン、トロツキーおよびスターリン、第9章/革命の黄金期?、第19章/最後のボルシェヴィキ、第20章/判決。
しばらくぶりに、〈第6章/レーニンの革命〉に戻って、試訳を続ける。
「* * *」による区切りまでを「節」とし、一行ごとに改行する。段落ごとに、原書にはない数字番号を付す。
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第6章・レーニンの革命①。
第一節。
(01) 1917年7月8日、ケレンスキーは首相になった。
彼は、民衆の支持がありかつ軍司令部がまだ受け容れられる唯一の大政治家で、国を再統合して内戦に向かう流れを止めることのできる人物だと見られていた。
新しい連立政府(7月25日形成)の基本方針はもはや、二月の後の二重権力構造の基盤であるソヴェトの同意があるという民主主義原理に、基づいていなかった。
ケレンスキーは、Kadets 〔立憲民主党〕の要求に従い、公共の集会に新規の規制を行ない、前線兵士を対象とする死刑を復活させ、軍事紀律を回復すべく兵士委員会の影響力を削減した。そして、Korniov 将軍を新しい最高司令官に任命した。
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(02) Kornilov は国家の救済者だとして、事業家、将校たち、右翼的団体に歓迎された。
彼はこれらの支援を受けつつ、反動的な措置を執った。その中には、民間人に対する死刑の復活、鉄道や国防産業の軍事化、労働者の組織の禁止があった。
ソヴェトに対する明瞭な脅迫として、これらの措置は戒厳令の発布につながることになるものだった。
ケレンスキーは動揺したが、8月24日に結局は同意した。このことはKornilov に、ケレンスキーまたは彼自身による軍部独裁の樹立が可能だと期待させた。
このクー〔軍部独裁〕を阻止しようとボルシェヴィキが蜂起するとの噂を聞いて、最高司令官たるKornilov は、首都を占拠し、連隊を武装解除するために、コサック軍団を派遣した。
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(03) この時点で、ケレンスキーはKornilov に反対する側に回った。
ケレンスキー自身の幸運は急速に落下していたのだが、この<反転(volte-face)>により幸運が蘇るだろうと彼は考えた。
ケレンスキーは、Kornilov を「反革命」、政府に対する裏切り者と非難して最高司令官を解任し、民衆にペテログラードを防衛するよう訴えた。
ソヴェトは、首都防衛の軍事力を結集すべく、全政党で成る委員会を結成した。
ボルシェヴィキは、七月事件のあとの抑圧が終わって名誉回復をしていた。
何人かの指導者が釈放された。その中に、トロツキーがいた。
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(04) ボルシェヴィキだけに、労働者や兵士たちを動員する能力があった。
北部の工業地域では、「反革命」と闘う革命委員会が一時的に結成された。
赤衛隊は、工場の防衛隊を組織した。
Kronstadt の海兵たちが、彼らは七月事件のときは臨時政府を打倒しようと最後にペテログラードへやって来たのだったが、再びやって来た。今度は、Kornilov に対抗して首都を防衛するために。
結局は、闘う必要がなかった。
Kornilov が派遣したコサック軍団は、ペテログラードへの途上で北部コーカサスからのソヴェト代表団に遭遇し、武器を置くよう説得された。
内戦はのちの日まで、延期された。
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(05) Kornilov は、「反革命陰謀」に加担したとして、30人の将校たちとともに、Mogilev 近くのBykhov 修道院に収監された。
政治的殉教者としての右派から見ると、「Kornilov 主義者」はのちの義勇軍や白軍を生み出す基礎的な核になった。白軍は、内戦で赤軍と戦うことになる。
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(06) つまるところ、「Kornilov 事件」は、ケレンスキーの地位を強めたのではなく、むしろ掘り崩した。
ケレンスキーは、右派からはKornilov を裏切ったと非難された。一方、左派からは、「反革命」行動に関与していた、という疑惑を持たれた。
Kadets (明らかにKornilov 運動に一定の役割を果たした)は、このような左翼の疑念を増幅させた。
ケレンスキーの妻はこう書いた。「ケレンスキーと臨時政府の威信は、Kornilov 事件によって完全に破壊された。そして夫は、ほとんど支援者がいないままで、とり残された」(注01)。
春の人民の英雄は、秋には人民の反英雄(anti-hero)になった。
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(07) 一般の兵士たちは、将校層がKornilov を支持したのではないかと疑っていた。
そのために、8月末から、軍の規律の顕著な非厳格化が生じた。
兵士集会は、講和と権力のソヴェトへの移行を呼びかける決議を採択した。
軍からの脱隊の率が、急激に上がった。数万人の兵士が毎日、軍の分団を離れた。
脱隊兵のほとんどは農民出身で、故郷の村落に帰りたかった。そこは今、収穫真っ盛りの季節だった。
武装しかつ組織化して、彼ら農民兵士たちは、領主を攻撃した。これは9月からいっそう激しくなった。
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(08) 大きな工業都市では、Kornilov 危機の中で、似たような過激化が進行していた。
ボルシェヴィキはKornilov 事件の第一の受益者で、8月31日に初めて、ペテログラード・ソヴェトの多数派になった。
Riga、Saratov、モスクワのソヴェトも、その後にすみやかに同様になった。
ボルシェヴィキの好運が上昇した理由は、主として、非妥協的に「全ての権力をソヴェトへ」と叫び続けた唯一の政党だったことにある。
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(09) この点は強調しておく必要がある。なぜなら、十月革命に関する最大の誤解は、ボルシェヴィキはこの党に対する大衆の支持の波に乗って権力へと到達した、というものだからだ。
そうではない。
十月蜂起は、民衆のごく少数派の支持を得ての、クーだった。ソヴェト権力という民衆の理想にとくに着目した社会的革命の真只中で、それは起きた。
Kornilov 事件のあと、工場、村落、軍団から突如として、ソヴェト政府の樹立を求める決議が噴出した。
しかし、ほとんど例外なく、それらが呼びかけた政府は、全ての社会主義政党が参加する政府だった。そして諸決議はしばしば、社会主義政党間の対立については著しく寛容だった。
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(10) Kornilov 事件の現実的な重要性は、つぎのことにある。すなわち、ソヴェトに対する「反革命的」脅威がある、という民衆がもつ信念が強化されたこと。ボルシェヴィキは、この脅威を、十月に赤衛隊その他の闘争的な者たちを動員するために利用することになる。
Kornilov 事件は、この意味で、ボルシェヴィキによる権力奪取のための衣装稽古(dress rehearsal)だった。
ボルシェヴィキの軍事委員会が、Kornilov に対する闘争の中で新たな力を得て、—七月以降にすでにあった—地下から出現してきた。
赤衛隊もまた強化された。赤衛隊員のうち4万人が、Kornilov 事件の中で武装した。
Trotsky がのちに書いたように、「Kornilov に反対して立ち上がった武装集団は、将来に十月革命のための部隊となるべき軍団だった」(注02)。
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第一節、終わり。