秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

コミンテルン

1270/<保守>派の情報戦略-櫻井よしこ・週刊新潮連載コラムを読んで1。

 櫻井よしこ週刊新潮1/22号(新潮社)の連載コラム639回で「外交も戦争も全て情報戦が決める」と題して、「情報戦」の重要性を説いている。そのことにむろん異論はないが、書かれてあることには、不満が残る。
 櫻井はビーアド・ルーズベルトの責任/日米戦争はなぜ始まったか(開米淳監訳、藤原書店)を読んで、先の戦争時におけるルーズベルトや同政権の認識・言動等をおそらくは抜粋して紹介している。しかし、対ドイツ関係のグリアー事件(1941年)に関することを除いて、すでに何かで読んで知っていたようなことだ。
 また、ビーアドの書物がどこまで立ち入って書いているのかを知らないが、櫻井よしこがここで紹介しているかぎりでは、なおも突っ込みが足りないと感じる。まさかとは思うが、櫻井よしこはビアードのこの本によってここで書いてるようなことを知ったのではないだろう。そして、ビーアドの叙述による事実・現象のさらにその奥・背景が(も)重要なのだと思われる。
 例えば、ビーアドによると、大多数のアメリカ人には対日戦ではなく対ドイツ・ヒトラー戦争こそが重要だったにもかかわらず、ルーズベルトは1941年7月に「在米日本資産を凍結し、通商を停止し、日本を追い込みつつ」対日戦争を準備していた、ということのようだが、「在米日本資産を凍結し、通商を停止し、日本を追い込」んだ原因・背景がアメリカにも日本にもあったはずで、ルーズベルトの個人的な意思のみを問題にしても不十分だろう。
 また、「日本に事実上の最後通牒であるハルノートを突きつけ」ながらも、日本政府がこれを受諾しないで開戦してくるという確信をルーズベルトは隠していた、という旨も書き、さらに、春日井邦夫・情報と戦略(国書刊行会)によりつつ、ルーズベルトはハル・ノートの手交当日にも戦争準備をしており、日本の真珠湾攻撃を「待ち望んでいた」「口実」として対日戦争・参戦を始めた、という旨も書いている。
 何で読んだかは忘れたが、上のようなことは私はおおむねすでに知っていたことだ。
 問題は、ハル・ノートの作成・手交や開戦前の日米交渉において、ルーズベルトだけではなく、同政権内部の誰々がどのような役割を果たしたか、同様に同時期の日本政府は、具体的には誰々が、どのように判断してどのように行動決定したかの詳細を明らかにすることだろう。別の機会に関係コメントは譲るが、コミンテルン(・ソ連)およびその工作員・スパイの役割に論及する必要があると思われる。櫻井は、コミンテルンにもコミュニズム(共産主義)にも何ら触れていない。
 最後に櫻井は、「情報戦の凄まじさ、恐ろしさを実感する。いま、日本は中国の情報戦略で深傷(ふかで)を負わされつつある」と書いて、「情報戦」を戦う強い意思を示している。このことに反対しないが、しかし、揚げ足取りまたはないものねだり的指摘になるかもしれないが、<情報戦略>をもって日本に対応・対抗しているのは、中国だけではない。アメリカも韓国も北朝鮮も、その他の諸国も、多かれ少なかれ、日本に対する<情報戦>を行っている。そして、それに応えるような、日本を謀略に自ら陥らせるような「報道」の仕方をするメディアが、それに巣くう日本人が、日本国内には存在する。
 「情報戦」は、朝日新聞等々の、日本国内の<左翼>・<容共>勢力との間でも断固として行わなければならない。歴史認識、「憲法改正」等々、戦線はいくらでもある。朝日新聞のいわばオウン・ゴール?で少しは助かっているようにも見えるが、日本国内の<左翼>・<容共>勢力の「情報戦略」は決して侮ってはいけないレベルにある。
 私が懸念しているのは、<保守>・<自由>・<反共>陣営にはどのような「情報戦略」があるのか、だ。

1268/先の戦争へのコミュニズムの影響ー藤岡信勝・中西輝政らによる。

 〇 栗田健男中将はなぜレイテ海戦の際に「反転」したのか、といった戦記ものあるいは個々の戦術ものには、ほとんど関心を持たないできた。それは戦後生まれのものにとって敗戦は既定の事実で今さら敗戦の戦術的・技術的原因を探ることがほとんど無意味と思われたことや、占領期についてでも複雑なのに、もっと複雑そうな戦時中の細かな歴史について勉強しておくことの時間的な余裕はないと感じられたことによる。
 但し、1930年代には日本共産党はとっくに壊滅していて一部の者が獄中で念仏のごとく「反戦」を唱えていたかもしれないこと程度で、戦争は日本共産党とは対極にある<右翼的・反共的>グループが継続したというイメージが強かったところ、日本国家あるいは日本の軍部・政治家等に対するコミュニズムやコミンテルンの影響やアメリカのルーズベルト政権自体の<容共左翼>性の指摘があることを知って、にわかに先の戦争と「共産主義(コミュニズム)」の関係についての関心が高まってきた、という経緯が私にはある。
 それは、アトランダムに言えば、先の戦争は<民主主義対全体主義・ファシズム>の戦争だったなどと単純には言えないだろうこと、ソ連や大戦の結果生まれた中国共産党主導の新中国は「民主主義」陣営であるはずはなく<左翼全体主義>の国家ではないか、なぜアメリカはそのようなソ連と手を組んだのか、アメリカは<共産中国>を新たに生み出す結果をもたらした(そしてそれは今日でも大きな悪い影響・問題を生じさせている)戦争をなぜしたのか、なぜアメリカは(中国ではなく)日本を執拗に敵視したのか、といった認識や疑問と関係してくる。
 〇 隔月刊・歴史通2015年1月号(ワック)のいくつかに少しばかり言及する。
 藤岡信勝「戦後レジームの自壊が始まった」の中で藤岡が1995年の「自由主義史観研究会」立ち上げの頃は「私も日本が満州から北支に進出したことは咎められるべきだと思っていました」と率直に「告白」しているのが興味深い(p.41)。その時期からまだ20年ほどしか経っていない。藤岡は、しかしもちろん?、「中国側の絶え間ない挑発に日本は対応していたに過ぎず、侵略行為とは言い難い」、「日本は挑発行為に乗せられて戦争の道に走っていったと見るべき」だ等の今日の認識を示している(同上)。
 「中国側の絶え間ない挑発」は日本の<南侵>を誘導する中国共産党、その背後のコミンテルンの戦略をおそらく意味しているのだろう。l
 岡部伸「近代日本を暗黒に染めた黒幕」はカナダ人のハーバート・ノーマンを扱うもので、「日本を貶めた最大の敵ではなかったか」との基本的主張・認識があり、戦前の日本を「封建的要素が残った、いびつな近代社会」と理解する、講座派的な日本「暗黒史観」の持ち主で、戦後当初には日本共産党を「民主主義」勢力とみなした、等々を叙述している(p.70-)。ハーバート・ノーマンを自殺に追い込んだ?アメリカの戦後のマッカーシズムの評価やノーマンと都留重人、尾崎秀実やゾルゲとの関係など、すでにある程度は知っているが、もっと詳細かつ明確な研究成果を読みたいものだ(この最後の部分は岡部の一文を批判するものではない)。
 中西輝政と北村稔の対談「日米・日中/戦争の真犯人」も興味深い(p.94-)。
 北村稔は彼の「学生時代、日本史研究と東洋史研究の分野ではマルクス主義の影響がものすごく強かった」と述べているが(p.103)、とくに日本近現代史の分野では、今日までその現象は続いているのではないだろうか(従って、私は、高校教育における「日本史」必修化には、教科書の書き手からするその内容と、教える教師の、推測される「左翼」=親マルクス主義的傾向のゆえに、現時点では簡単に賛成はできない)。
 中西輝政は例のごとく?、真珠湾攻撃に関するルーズヴェルト陰謀説に近い議論は「日本の国際政治や歴史の学会ではほとんど相手に」されなかったと、<左翼アカデミズム>の支配の一端を語っている(p.104)。
 中西はまた、今後の研究・検証が必要なテーマをいくつか挙げている。例えば、①永田鉄山らの「華北分離」・<南侵>路線の背景-背後にコミンテルンの工作か。②「国民政府を相手にせず」声明(第一次近衛声明)の背景-尾崎秀実が糸を引いていたか等。③海軍の戦争推進・拡大方針の批判的検証。④近衛の「東亜新秩序建設」声明(第二次声明)の背景。
 〇 上に最後に述べた諸点とコミンテルンまたはそのスパイ(・エージェント)の関係はまだ明確には分かっていない、ということなのだろう。
 もっとも、精読したわけではまだないが、すでにある程度の自信をもって確言している論者もいる。
 中川八洋・近衛文麿とルーズベルト―大東亜戦争の真実(PHP、1995)、同・近衛文麿の戦争責任―大東亜戦争のたった一つの真実(PHP、2010)だ。ハル・ノート(日本に開戦させるための強硬な最後通牒?)についても、<保守派>あるいは「自由主義史観」では通説的かもしれない理解とは異なる評価を下しているようだ。
 かなり飛躍するかもしれないが、憲法改正論の具体的内容と同様に、<保守派>あるいは<産経史観>?の論者においても、先の大戦の具体的な認識や評価は一様ではないと見られる。簡単には表現し難いが、欧米「帝国主義」からアジアを解放するための戦争だったという評価と、共産主義者・コミンテルンに誘引されてずるずると嵌まり、拡大してしまった戦争という評価では、大きく異なると感じざるをえない。
 西尾幹二が続けている、戦後にGHQにより「焚書」された戦前・戦中の日本人の諸文献の研究・解明によって、上のような論点はどの程度明らかになるのだろうか(すべて所持しているが、わずかしか熟読していない)。
 戦前・戦中に共産主義者・コミンテルン(・工作員等々)が日本に対してはたした役割、行った悪業にだけは関心をもって、諸文献・論考等を読んでいくことにする。 

1213/戦争中・占領期当初のコミンテルン・共産主義者の暗躍-江崎道朗著。

 江崎道朗・コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾(展転社、2012)のタイトルは、コミンテルンとその影響をコミンテルン(・共産主義者スパイ)から受けた米大統領によって、敗戦後の日本に対して「時限爆弾」があらかじめ仕掛けられていた、という意味だろう。
 なぜアメリカは戦前に<反日・親中>だったのか、なぜ日本には攻撃的で中国には融和的だったのか。その判断は、のちには中国共産党による大陸中国の「共産化」や南北朝鮮の分離・北朝鮮の「社会主義」化につながり、資本主義国アメリカにとっては大きなミスだったのではないか。そのような判断ミスそして政策・戦略ミスは何故生じたのか、というのはかねて持ってきた疑問だった。
 近年になって、ルーズヴェルト大統領の側近にコミンテルン(モスクワ)のエイジェントがいて、共産主義・マルクス主義に対して「甘かった」同大統領とソ連(・スターリン)とを
結びつけ、アメリカは<反日・親中>政策を採ったことが明らかになってきている。

 中西輝政監訳・ヴェノナ(PHP、2010)についてはこの欄で触れたことがある。
 江崎の冒頭掲記の著書も、主として第三章「アメリカで東京裁判史観の見直しが始まった」で、コミンテルン・同スパイ・アメリカ共産党等の運動・行動について扱っている。
 その内容を簡単にでも紹介することは避けるが、江崎の本よりも第一次資料・史料といえる文献で邦訳されているものやその他の日本語文献があるようなので、以下にリスト・アップしておく。
 第一節「外務省『機密文書』が示す戦前の在米反日宣伝の実態」より(p.126-)
 ①馬暁華・幻の新秩序とアジア太平洋(彩流社)

 ②山岡道男・「太平洋問題調査会」の研究(龍渓書房)

 ③H・クレアほか・アメリカ共産党とコミンテルン(五月書房)

 ④レーニン・文化・文学・芸術論(上)(大月書店)

 ⑤中保与作・最近支那共産党史(東亜同文会)

 第二節「ヤルタ協会を批判したブッシュ大統領と保守主義者たち」より(p.146-)

 ⑥H・フィッシュら=岡崎久彦監訳・日米・開戦の悲劇(PHP文庫)

 第三節「アメリカで追及される『ルーズヴェルトの戦争責任』」より(p.162-)

 ⑦エドワーズ=渡邉稔訳・現代アメリカ保守主義運動小史(明成社、2008)

 第四節「『ヴェノナ文書』が暴いたコミンテルンの戦争責任」より(p.178-)

 ⑧中西輝政監訳・ヴェノナ(PHP、2010)〔所持〕

 ⑨A・コールター・リベラルたちの背信-アメリカを誤らせた民主党の六十年(草思社)

 ⑩クリストファー・アンドルーほか・KGBの内幕・上(文藝春秋)

 ⑪楊国光・ゾルゲ、上海ニ潜入ス(社会評論社)

 ⑫エドワード・ミラー・日本経済を殲滅せよ(新潮社)

 第五節「コミンテルンが歪めた憲法の天皇条項」より(p.203-)

 ⑬ウォード・現行日本国憲法制定までの経緯

 ⑭ビッソン・ビッソン日本占領回想記

 以上 

0687/「ヴェノナ」文書と米国のマッカーシズム。

 中西輝政が「ヴェノナ」文書なるものを使って、種々書いていた。
 別冊正論Extra.10(産経新聞、2009)の福井義高「東京裁判史観を痛打する『ヴェノナ』のインパクト―ソ連-アメリカ共産党の諜報工作と第二次大戦」によると、「ヴェノナ」とは解読プロジェクトのコードネームで、何の解読かというと、第二次大戦中から戦後にかけてソ連がアメリカや他国で活動するKGB・GRUの工作員のモスクワの本部間の暗号電信を米軍の情報機関であるNSAが入手していたもの。作業は1943~80年に行われ、未解読部分等がまだあるものの、ソ連崩壊以降、一部が「公開」されるようになった(NSAのHPで閲覧できるらしい)。
 むろん、「ヴェノナ」文書によって何が明らかになったのかが強い感心の対象になる。
 以下では、マッカーシーの「赤狩り」についてのみ言及する。マッカーシーの「赤狩り」又は<マッカーシズム>は、親コミュニストではなくても、反共主義者の行きすぎた弾圧だという印象を持っているごく平凡な「左翼」あるいはアメリカ(史)研究者が多いと見られるからだ。そうした人々はおそらく、別冊正論を購入しないだろう。目にとまることを期待しながら、抜粋的に引用する。
 ・300人以上のアメリカ人(又は永住権者)が「ソ連のエージェント」で、中には「何人もの」ルーズベルト政権高官もいた。「政府内部にソ連のスパイが多数入り込んでいるという、『赤狩り』で悪名高いジョセフ・マッカーシー上院の荒唐無稽とされてきた主張は、少なくとも一般論としては正しかったのである」(p.93)。
 ・アメリカでは共産党は進歩勢力の最左派で「民主的体制下での批判勢力」にすぎず、戦後アメリカの反共政策はマッカーシーが代表する「根拠のないデマに基づく進歩派弾圧」だとの主張が「一種通説」だった。だが、アメリカ共産党の「ブラウダー書記長以下、アメリカ人エージェントのほとんどが共産党員であり、アメリカ共産党が組織的にソ連のスパイ活動の一翼を担っていたことが明らかとなった」。しかもその周囲には「スパイ活動を知りつつ彼らを擁護するジャーナリストや知識人が存在した」。
 ・共産党員=ソ連のエージェント、「親ソ知識人の背後にソ連影」、は「絶対確実」ではないとしても、「作業仮説、デフォルト・ポジションとしては有効」だった。1945~50年代の「赤狩り」を政府は適正手続のもとで慎重に行っていたが、「マッカーシーの必ずしも証拠に基づかないセンセーショナルな追及方法」は正当な行為にも汚名を着せることで「かえってソ連とその同調者を利する」こことなり、「皮肉にもマッカーシーこそソ連の最大の『味方』」になった(以上、p.94)。
 ロバート・デ・ニーロ、アネット・ベニング出演の映画「真実の瞬間」(1991)も映画業界(ハリウッド)内の共産党員(少なくともその疑いをかけられた者)を被害者として描き、調査・弾圧する側が「悪」であるという前提で作られているはずだ。こうしたシェーマ(図式)で理解してしまうことが誤りである可能性も少なくないことに留意しておくべきだろう。

 日本でも戦時中に政権中枢又は周辺にソ連又はコミンテルンの「エージェント」がいたことは間違いない(そして、例えばその代表者・リヒァルト・ゾルゲを英雄視するかのごとき映画が近年の日本で制作されていたりするのだから、日本は(少なくとも一部は)狂っているとしか言いようがない)。
 今日における日本人(日本国民)の中にも、どのような肩書きであっても、ひょっとしてときには本人の自覚かなくても、中国(中国共産党)、北朝鮮、そしてアメリカの「エージェント」はいるに違いない。日本国籍を有しないで日本に在住している外国人の中にそのような者たちがいても当然だ。政府、政党、マスコミ界等の中には、あるいは官僚、経済人、文化人・マスコミ人(作家等を含む)等々の中には、「日本」以外の国家に役立つことを少なくとも客観的にはしており、対価・代償であることが不明瞭にされたまま他国との何らかの「つきあい」をしている者は、けっこう多いと思われる。そうした可能性を多少意識しているだけでも、新聞の読み方、諸行事、諸事件の理解は少しは変わってくるかもしれない。

0535/中国共産党の「欺瞞」的外交・情報戦に負けるな-中西輝政。

 中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)のつづき(最後)。
 中国共産党系工作員だった者(=「中国共産党の国際的秘密工作ネットワーク」と結びついていた者)は、スメドレー、ラティモア、セオドア・ホワイトらで、直接にコミンテルン工作員だった者(=「より直接にモスクワのコミンテルンと結びついて」いた者)は、ハリー・ホワイト、ロークリン・カリー、ハーバート・ノーマンだった。前者のネットワークを中西は「チナミンテルン」と称する。
 上の二つのうち、第二次大戦末期には国際共産主義ネットワークのイニシァティブは中国共産党(中共)にあった。アメリカ政府内のコミンテルン工作員の多くは50年代にモスクワではなく北京に逃げた。戦後の日本共産党の伊藤律・徳田球一らの逃亡先もソ連ではなく北京だった。1952年の札幌での白鳥事件に関与したとされた日本共産党員も中国に渡った。2000年逮捕の重信房子も、日本と北京の間を極秘に往復していた。
 近衛内閣のブレインでゾルゲ事件に連座して投獄された西園寺公一は、戦後に参議院議員になったのち北京に「移住」し、「日中国交回復」の旗頭となり中国共産党から「人民友好使者」の称号を付与された。
 ここで挿むと、本多勝一、大江健三郎、立花隆が中国政府(南京「大虐殺」記念館を含む)から厚遇されたことはすでに触れた。これも既述だが、日本の政治家、マスコミ関係者、学者等々に対して、今日でも何らかの「工作」が続けられていることは明らかだと思われる(「工作」とそれに「嵌(はま)る」という意識が生じないことこそが巧い「工作」だ)。共産主義者の本質は、陰謀・謀略・策略・嘘・嘘・…にある
 中西輝政は次のように上の点をまとめている。論文全体の最後ではないが、紹介はこれで終えておく。
 「今日なお共産党一党独裁を維持し、…卓抜な外交手法で世界の資本を引きつけ、そして『冷戦は終わった』といいながら歴史問題で『ブラック・プロパガンダ』を展開して日本国内の分断、さらには日米の分断を謀る中国共産党の言動が、いかに欺瞞に満ちたものかを認識し、中国の仕掛ける『歴史問題』という名の外交・情報戦に対処しなければ、日本は単なる敗戦にとどまらず、いよいよ国家としての存立が危ぶまれることになりかねない」(p.315)。

0531/ハーバート・ノーマン(コミンテルン工作員)の所業-中西輝政による。

 中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)の紹介のつづき。
 中西は「コミンテルン工作員」であるハーパート・ノーマンのしたことを、四点にまとめている(p.312-3)。
 第一。石垣綾子(スメドレーの親友)・冀朝鼎都留重人らとともに、アメリカ国内で、「反日」活動をした。日本に石油を売るな・日本を孤立させよ等の集会を開催し、1939年の日米通商航海条約廃棄へとつなげた。
 第二。GHQ日本国憲法草案に近似した憲法案を「日本人の手」で作らせ、公表させる「秘密工作」に従事した。この「秘密工作」の対象となったのが鈴木安蔵。そして、鈴木も参加した「憲法研究会」という日本の民間研究者グループの案がのちにできる。
 中西によると、現憲法は、「GHQ憲法」というだけではなく、「ディープな」「陰の工作」を基礎にしている点で、「ノーマン憲法」、さらに「コミンテルン憲法」という方が「本質に近い」。
 コメントを挿むと、ここのくだりは<日本国憲法制定過程>にとって重要で、この欄でも複数回にわたって取り上げた、小西豊治・憲法「押しつけ」論の幻(講談社現代新書、2006.07)という本の価値・評価にもかかわる。小西は日本人たる鈴木安蔵らの研究会が当時の日本政府よりも<進歩的な>草案を作っていて(但し、現九条は含まず)GHQはそれを参照したのだから(アメリカ又はGHQによる)<押しつけ>ではない、と主張しているからだ。
 中西輝政が根拠資料としている文献も小西豊治の本を読んだあとに入手しているので、別の回にこの問題にはより詳しく論及する。
 少し先走れば、結論的にいって、中西の叙述は誤りではないが、より詳細な説明が必要かと思われる。小西豊治もノーマン・鈴木の接触に言及しているが(上記講談社現代新書p.126-7)、ノーマンを共産主義者・コミンテルン「工作員」と位置づけていない(又は知っていても隠している)小西は、ノーマンに「甘く」、ノーマン・鈴木の接触の意味を何ら感じていないか、その<解釈>が中西とは大きく異なる。
 第三。都留重人の縁戚の木戸幸一を利用して、近衛文麿の(東京裁判)戦犯指名へとGHQを動かした。近衛文麿は出頭期日の1945.12.16に自殺した。
 第四。「知日派」としての一般的な活動として、GHQの初期の日本占領方針の「左傾」化に大きな影響を与えた。
 以上。あと1回で終わるだろう。
 今回紹介したことに限らず、感じるのは、コミュニスト、当時でいうとコミンテルンやソ連・中国各共産党の謀略・陰謀の<スゴさ>だ。この点を抜きにして、いかなる(アジアの)第二次大戦史も書かれ得ないだろう。終戦直後も同様であり、またコミンテルンがなくなってからは主として各国共産党(とそれらの連携。日本では日本社会党(とくに左派)を含む)が謀略・陰謀を担うようになっていき、現在まで続いている、と考えられる(日本社会党は消失したが社民党・民主党「左派」として残存)。
 文藝春秋・スペシャル2008年季刊夏号/日本人へ-私が伝え残したいこと(文藝春秋、2008.07)というのが出版されていて、半藤一利・保阪正康の二人の名前(対談)が表紙にも目次にも大きく載っている。
 すでに書いたことだが、半藤は松本清張と司馬遼太郎に関する新書を書きながら、松本の親共産主義と司馬の反共産主義には何の言及もせず、骨のない戦後日本史の本を書き、かつ<九条の会>よびかけ賛同者、一方の保阪は朝日新聞紙上で首相靖国参拝によって「無機質なファシズム」が再来したと振り返られたくはないとか書いて小泉首相靖国参拝を強く批判した人物。
 こんな二人に、日中戦争や太平洋戦争についての<本質的な>ことが分かる筈はない。優れた又は愚かな軍人・政治家は誰だったとか等々の個別の些細な問題については比較的詳しくて何か喋れる(出版社にとって)貴重な=便利な人たちかもしれないが、この二人はきっと、<共産主義=コミュニズムの恐ろしさ>を何ら分かっていない
 文藝春秋は自社の元編集長(半藤)を厚遇しすぎるし、小林よしのりも<薄ら左翼>と評している保阪正康をなぜこんなに<昭和史に関する大評論家>ごとき扱いをするのか。不思議でしようがない。商売のために、多少は<左・リベラル>の読者・購買層を確保したいという魂胆のためだろうか。諸君!の出版元だが(そして「天皇家」特集で売りたいのだろうが)、文藝春秋も、言うほどには<とても立派な>出版社ではないな、と思う。

0526/中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」の続き。尾崎秀実、都留重人…。

 一 5/28に紹介した中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」(初出2006.09)同・日本の岐路(文藝春秋、2008.05)における「共産主義」論は、もちろん現在の共産主義にもあてはまるものとして読む必要がある。中国や北朝鮮が「共産主義」国又は「共産主義を目指す」国かどうかについて<理論的には>議論の余地があるだろうが、中国共産党にとってマルクス・レーニン(・毛沢東)がその思想的始祖であることに疑いはない。北朝鮮についても同様で、ソ連共産党(モスクワ)から「共産主義の子」として北朝鮮に戦後に<派遣>されてきたのが、金正日の父親、名前を変えた「金日成」(将軍)だった。
 日本国内の「共産主義」にもあてはまる。日本で最大の大衆的支持を得ている共産主義組織は日本共産党。自由主義国・日本だからこそ許容されている「自由」を最大限に活用しつつ、「自由と民主主義を守る」宣言とかを出す等々の<偽装>をし、多くの共産党員は表面的には紳士的・友好的を装いつつ、内心では又は仲間うちだけでは、表面的・対外的な言葉とは異なることを考え、語り合っている。大小の嘘・謀略・策略は、この政党と無縁ではない。
 二、以下は、5/29に続き、中西輝政の上の論文のp.302~の要約的紹介。
 1 ①1927年(昭和2年)、イギリスでのモスクワ・イギリス共産党の謀略の発覚(アルコス事件)、蒋介石による上海の中国共産党の弾圧(四・一二クーデター)により、スターリン・コミンテルンの対日本戦略の、「表面からは全く目に見えない一層ディープな秘密工作」等への見直しが迫られた(p.302-3)。
 ②上海はコミンテルンの「対日工作基地」で、「左翼」ジャーナリスト、「中国に同情的なふりをした」共産主義学者・文化人が集まっていた尾崎秀実、サルヌィニ、アグネス・スメドレー、陳翰笙、エドガー・スノー(のち『中国の赤い星』)ら(p.303)。
 ③昭和4-5年には、上海の「東亜同文書院」にコミンテルンの工作は浸透し、同書院の学生だった中西功(のち日本共産党国会議員)・西里龍夫の指揮で、学生たちは昭和5年(1930年)に「国際共産党バンザイ」・「日本帝国主義打倒」のビラを撒いた。この二人を「指導」していたのは、尾崎秀実。尾崎や中西功は日本共産党やモスクワと関係をもつ以前から中国共産党と「連携」しており、その中で「コミンテルンに間接的にリクルートされていった」(p.304-5)。
 ④尾崎秀実は「ただのスパイ」ではなく、「朝日新聞記者の身分で近衛内閣の中に嘱託として入り込み、…日本の国策を大きくねじ曲げた」。尾崎らは近衛を動かして支那事変を「泥沼の戦争」に陥らせ、「日本の破滅」・対米戦争「敗戦」へと向かわせる上で「重大な役割」を果たした。尾崎は、1937年(昭和12年)~1941年(昭和16年)、「共産主義者であることを隠し、『中国問題専門家』として近衛文麿内閣のブレーン」となり、「英米との衝突を策して南進論を唱え」、対米戦争に追い込む「大きな役割」をした(p.305)。
 2 ①<アジアの第二次大戦>をコミンテルン・中国共産党の「秘密工作、謀略」をふまえて総括すると、勝者はソ連・中国共産党・戦後に「大ブレーク」した「日本の左翼」で、敗者は日本・アメリカ・蒋介石だった。日本の「戦後左派」は自分たちを「戦勝国民」と思っていなかったか。朝日新聞の今日までの「執着」は、「左翼の勝利」という歴史観に発する。アメリカが敗者だというのは、日本を打倒してしまったため、戦後、朝鮮戦争・ベトナム戦争・中台対立で自ら「大変な苦難」を背負ったからだ(p.306)。
 ②なぜアメリカは、ソ連・中国共産党と対峙した日本を「叩く」という「愚かな選択」をしたのか。それへと「最大の役割」を果たしたのは、アメリカ国内での「コミンテルンや中国共産党の秘密工作員たちの活動」だった。彼らは真の意味で「アメリカの敵」で、同時に「日本の敵」、「蒋介石の敵」でもあった(p.306-7)。
 ③「日本の敵」の重要な人脈はゾルゲと尾崎秀実、二人を結びつけたアグネス・スメドレー、オーエン・ラティモア、そしてセオドア・ホワイト。ホワイトは、所謂「南京大虐殺」プロパガンダに協力したハロルド・ティンパーリと同様に、「中国国民党中央宣伝部国際宣伝処」に勤務していた。同「宣伝処」には、「アメリカの言論界に対し嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだとアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい」という「方針」すらあった(p.307-8)。
 ④ホワイトは戦後・1985年にも、「再び中国と組んで、日本を挟み撃ちにする」必要があるとの論文を書いた。アグネス・スメドレーは所謂<南京大虐殺>を「初めて大々的に」世界に宣伝したジャーナリストで、日米開戦・今日の日中の「歴史問題」に果たした「ネガティブな役割」は非常に大きい(p.308-9)。
 ⑤ラティモアは1941年11-12月、ルーズベルト大統領の「個人代表」として重慶・蒋介石政府の「顧問」をしていた。ロークリン・カリーは「中国担当大統領補佐官」だが、同時に「コミンテルンのスパイ・エージエント」だった(1995年に確証された)。1941年(昭和16年)の開戦直前の日米交渉で開戦回避案で妥結する可能性が出てきた際、その可能性を「潰す」ためにカリーは重慶のラティモアに電信を打ち、それに従ったラティモアの蒋介石説得により、蒋介石はルーズベルトに、「交渉を妥結しないように迫る電文」を送った。この電文は最低でも二通あり、日付は11/24と11/25。対日本最後通牒のハル・ノートは11/26だった。ラティモアが重慶にいなければ、日米交渉は妥結していた可能性は大だった。ラティモアと(コミンテルン工作員)カリーの関係こそ、「日本滅亡」への「恐るべき対日謀略の工作線」だった(p.309-310)。
 ⑥ハル・ノートの原案を作ったもう一人のホワイト、ハリー・デクスター・ホワイトも「日本滅亡への引き金」を引いたが、「日本の敵」の「真打ち」は、ハーバード・ノーマンだ。カナダ外交官・知日派学者のノーマンはマルクス主義者で「ほぼ間違いなくコミンテルン工作員」だった。留学中にイギリス共産党に入党した。「経歴をすべて秘密にして」カナダ外務省に就職し「日本専門家」として出世していくが、ハーバードにいた都留重人と知り合ったのち、1940年(昭和15年)に日本駐在となった(そして『日本における近代国家の成立』を刊行して一躍著名になる)。日米開戦後にアメリカに戻る途中、アフリカの港で都留重人と偶然に遭遇したが、都留はノーマンに、ハーバードに残したアメリカ共産党関係極秘資料の処分を頼んだと、のちに都留を取り調べたFBI捜査官は議会で証言した(p.310~311)。
 ⑦都留重人を「アメリカ共産党の秘密党員」と見ていたFBIは、ノーマンが帰国後にハーバードの都留の下宿に寄ったことを確認した。ノーマンは<マッカーシー時代>に「スパイ疑惑」を追及され、1957年に自殺した(p.311)。
 ここで区切るが、まだ終わっていない。都留重人(1912~2006)は、一時期、朝日新聞の論説顧問。雑誌「世界」(岩波)の巻頭を飾っていた記憶もあり、丸山真男よりも、<進歩的文化人・知識人>の一人だったという現実感は残っている。アメリカ・ハーバードでの前歴を知ると、戦後の彼の言動も不思議ではない。戦後の<左翼>的雰囲気は、こういう人を大切にしたのだ。一九七〇年代に、一橋大学の学長にすらなる。まさに<戦後・左翼の勝利>という時代があったし、その雰囲気は、今日まである程度は(かつて以上に?)継続している。

0522/中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」による、コミンテルン・中国共産党の対日工作。

 一 第二次大戦は<民主主義対ファシズム>の戦争だった、良き民主主義陣営は勝ち、悪しきファシズム陣営は負けた。と、こう学校教育で自分自身が教育されたかどうかの明瞭な記憶はない。ファシズムという語は小学生や中学生にはまだむつかしくて、「軍国主義」から「民主主義」へと時代・世の中は変わった、という程度のことは少なくとも教育されただろう(現在の歴史や公民等の教育用書物がどう書いているか興味があるが、別の機会に確かめてみたい)。
 しかし、どうやら上の冒頭の文のような内容で第二次大戦を理解するのが戦後の少なくともタテマエのようだ。そしてそれは、勝者の一国であり日本を占領したアメリカの歴史観でもあるようだ。
 もっとも、戦後当初又は1970年代頃までは別として、現在でも戦前(昭和)日本について「ファシズム」国家という性格づけがなされ続けているかのかは勉強不足で知らない(この点も、現在の教科書類を別の機会に確かめてみたい)。丸山真男をはじめとして、マルクス主義歴史家たちは<天皇制ファシズム>を語っていたはずなのだが、かかる概念はまだ生きて?いるのだろうか。かりにそうだとすれば、日本における「ファシズム」とは、いかなる要素・いかなる部分が「ファシズム」であり、いかなる人々が「ファシスト」だったのか丸山真男の、学問とは思えないファシズムの「担い手」・「社会的地盤」論については言及したことがあり、一笑に付しておく-丸山真男「日本ファシズムの思想と運動」の5参照)。
 二 迂遠な又は余計なことを書いたが、中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)所収を読んで、第二次大戦の勝利者たちが自分たちに都合のよい<第二次大戦観>(つまり<民主主義対ファシズム>の戦争だった…等の見方)を作りだしたのであり、将来においてかかる歴史観は書き換えられる可能性もある、と思った(読んだのは初めてではなくそう思ったのも最近が初めてではない可能性があるが、こうして文章に残すのは初めてだろう)。
 単純に考えても上の如く、日本はいかなる意味で「ファシズム」国家だったのか、ソ連はいかなる意味で「民主主義」国家だったのか、といった疑問はただちに出てくる。
 1 中西輝政によれば、しかし、このような疑問程度では済まない。
 中西によると、「第二次世界大戦の真の本質」は、「共産主義勢力が、公然たる革命運動によっては成し得ないことを戦争や謀略によって実現しようとした」ことにある(p.296)。
 2 以下、中西の叙述の<流れ>を大掴みに紹介してみる。
 ロシア革命(1917年)により生まれた共産主義ロシアは、①「自由主義国家」の諸自由を利用して「秘密工作や謀略、宣伝」により「知識人やマスコミを反権力的・反国家的になるように煽動し」、その国の「転覆」を図る、②「自由主義国家間の亀裂・対立」に「直ちにクサビを打ち込み」、必要な場合は「自由主義国家同士の戦争や紛争を起こ」すことにより、自国を維持しようとした。
 1910年代末期にコミンテルンを創設してドイツ等で革命を起こそうとしたが失敗したためアジアに目を向け、「国際共産主義運動」のため(=ソ連防衛のため)中国共産党を設立し(1921年)、「国共合作」も実現させた(1924年)。インド独立運動に対しても積極的な(共産主義導入)工作を展開したが、これは成功しなかった。
 日本は、国際社会において、必然的に「共産主義に対する『防波堤』とならざるを得なかった」。シベリア出兵の動機も、日本の「領土的野心」ではなく、「共産主義の対南膨張」の阻止だった(以上、p.296-7)。
 アメリカとソ連に挟撃される日本、これが「大東亜戦争の本質的構造的原因」だった。新興大国・アメリカは「アジアにおける『ソヴィエトの脅威』に一切気付こうとせず」、むしろ日本の動きを「膨張への野心」・「日本軍国主義の発露」だと疑った。ここに、「戦前日本の大きな苦悩」があり、「日米関係の大きな悲劇の出発点」があった
 レーニン以来のソ連の最大の「敵視」国は、日本だった。最近接の「帝国主義」国だったし、日ロ戦争への「怨念」と「人種差別意識」があったからだ。そこで、日本を「自由主義国」の中で「最も弱い環」と見なして「日本をターゲットにしたアジア戦略」を立てた。
 日本は1925年(大正14年)に日ソ基本条約を締結し、いち早くソ連承認・外交関係の樹立をしたが、ここには「日本が一貫して、共産主義の謀略や浸透工作に主要国の中で最も鈍感」だったこと、「当時、共産主義とソ連の工作はすでに広く深く日本国内にエリート層を中心に浸透していた」ことが示されている。日本は治安維持法を条約と同時に制定したが、この条約により日本の「赤化」は「さらに急速に進」み、治安維持法は「日本の国家中枢への工作の浸透には全く無力だった」。
 治安維持法は「本質的には対外防衛、国家安全保障のための措置」だったが、「欧米の反共法」と比較すると「実質的には緩やかな」、「甚だ不備な」ものだった。「思想」のみを問題にしたため、「共産主義者の『偽装』を簡単に見逃し、『天皇制』支持を唱えさえすれば…多くの『偽装転向者』を社会のエリート層に受け入れてしまった」。このことは、日本にとって「誠に不幸な歴史の巡り合わせ」だった。
 ロシア革命後半年以内の「米騒動や過激な労働争議」の続発、「各種の過激な破壊衝動」の広がりは、日本のインテリ層・エリート層に共産主義が「進歩的」と映ったこともあるが、「大規模な対日秘密工作」という要因も大きかった。
 その工作の代表例が、尾崎秀実〔一時期、朝日新聞社員〕だ。1922年(大正11年)に日本共産党=コミンテルン日本支部が発足したが、主要な活動家の多くは、尾崎も入会した「東大新人会」で、この会等に集まった東京帝国大学の共産主義シンパの学生たちは「すぐに共産党を離れ、直接にモスクワの指令で動く工作員」になった。
 彼らの多くは昭和10年代に「革新官僚」になる。「企画院事件」も起こした。また、陸軍軍人もドイツ留学や東大国内留学(「依託学生」)によって「共産主義の洗礼を受け」、昭和10年代に「陸軍統制派」として力を奮った。代表格は池田純久で、その思想的背景の一つには、「天皇制」と「共産主義」は共存できるとの北一輝の論があつた。「軍人や高級官僚に蔓延」したかかる「思想的混迷」が日本を「あの悲劇に導いた最大の要因の一つ」だった。「当然、ソ連・中国共産党の工作はそこを突いてきた」。
 エリート軍人の多くは「直接、意識的に」コミンテルンと関係をもったわけではないが、「共産主義者」・「コミンテルン・エージェント」たることを隠した尾崎秀実のような人物の「接近を許し、無意識のうちにその工作を受け入れ、モスクワや延安の意図に沿って動かされた」者は「少なくなかったはず」だ。かかるモスクワ・延安(=ソ連・中国共産党)の工作は「各ネットワーク全体を体系的にオーケストレート(総合化)して徐々に日本を、対蒋介石そして英米戦争へと誘い込んでいった」。「満州事変前から」、かかる「大目的をもったコミンテルンや中国共産党の対日工作の影響が、日本の指導者層には、それこそ充満していた」(以上、p.298-302)。
 以上で区切って、さらに続けるが、内容的になかなか空恐ろしい叙述だ。むろん、ソ連解体前の戦後のソ連共産党や現在までの中国共産党が以上で記した時期のような「工作」を、日本と日本人(官僚、政治家、有力マスコミ関係者、有力学者等々)に対して行ってこなかった、とは言えないことは明らかだ。

0264/荒木和博・拉致-異常な国家の本質(2005)を読む。

 荒木和博・拉致-異常な国家の本質(勉誠出版、2005)は北朝鮮拉致被害者救出運動に密接に関与している人の本で、詳しい情報・当事者だからこその指摘・主張がある。
 それとともに興味を惹いたのは荒木の歴史観・戦争観だ(p.103-)。
 1.「20世紀の歴史に関する私の基本的見方」は同世紀の「最大の思想的害悪はマルクス・レーニン主義(科学的社会主義あるいは共産主義)であるということだ」。ずばり全く同感だ。
 荒木は根拠資料を示すことなく「この思想によって20世紀に命を失った人が億を下らないのは言うまでもない」と述べる(p.104)。いくつかの本に従って8000万~2億人と書いてきたようにが、<少なくとも1億人>以上というのは、おさらく確実なところだろう。
 2.敗戦の原因につき、私はきちんと整理して考えたことはないが、長らく、「悪い戦争」又は「侵略戦争」だったから負けたのではなく、結局は軍事力等を支える技術・科学を含めての「国力の差」だった、と感じてきたように思う。
 荒木はこう言う-「侵略戦争をやったから負けた」、「陸軍が暴走し勝算のない戦いに突入し物量の差で負けた」とかなのではなく、a「当時の政治家や軍の指導層の切迫感のなさ、無責任」と、b「それに乗じたゾルゲ・尾崎秀実などの謀略の成功」にあった(p.105)。
 また言う-「日本の最大の過ちは国家としての明確な戦争指導方針を欠いたこと」だ、あの戦争は「謀略に乗せられ、なし崩し的に突入せざるをえなくなった、失敗した自衛戦争」だった(p.107)。
 中西輝政等も言及しているが、中国国民党を同共産党と組ませて抗日に向かわせたコミンテルンの「戦略」(又は謀略)、米国ルーズベルト政権に入り込んでいた共産主義者たちの反日・親中姿勢等々が<日本敗戦>の大きな原因だったようだ。おそらくは上の荒木の認識は、教科書的な認識ではない。
 しかし、戦時中にもまた「共産主義という悪魔」の謀略があったことはたしかで、<情報戦争>に負けた、彼らの<情報謀略>に勝てなかった、という側面があったのは事実だろう。
 ソ連共産党のエージェント(スパイ)だったとされるゾルゲにつき、篠田正浩監督の映画<スパイ・ゾルゲ>(2003)は、観ていないのだが、彼と尾崎秀実らをドイツ・ナチスや日本軍国主義と闘った<ヒーロー>の如く描いているらしい(6/18の潮匡人氏に関する部分参照)。そのような映画の製作・上映もまた、今日の、一つの<情報謀略>ではないかと思われる。

0249/日本共産党員<嶋1971>氏が何か言っているようだ。

 頻繁にではなく、ときに、「秋月瑛二」のウェブ上での扱いに関心をもって検索してみることがある。
 
すると、私が6/11に書いた「嶋1971・たしかな野党を応援し続ける勇気を!というブログ」に対する<嶋1971>氏の6/16付の反論らしきものを見つけた。
 個別のブロガー?相互のやりとりはこうして公にするものではないかもしれないが、私自身が蒔いたタネなのでやむをえない。さらに反応しておくことにする。
 嶋?氏の文は同氏のブログ中にではなく、なぜか2チャンネル上でなされている。発表媒体の問題はともかく、同氏の文は正確には反論文ではない。
 私は「嶋1971・たしかな野党を応援し続ける勇気を!」というブログの運営者が「日本共産党の支持者」とか「私は支持者とはいえ日本共産党の主張・政策に共感を持つ時も持たない時もある…」とか<ブロフィール>で書いていることについて、「大ウソ」であり、日本共産党員だとほぼ間違いなく言えるとしてその理由も書いた。
 これについて嶋氏は<私は絶対に日本共産党員でない>と主張してくるなら反論だろうが、同氏は「私は秋月瑛二氏について、私のブログへのリンクを無断で貼ってこない事を理由に「紳士」と感じていたが撤回する事にした。/彼は自身のブログで私の事を「自己紹介でウソをついている。」などと書いたためだ」としか反応していない。要するに、批判してきたから「紳士」との印象を撤回する、というだけのことだ。このことは、嶋氏が自分が日本共産党員であることを認めたに等しい、と私は理解する。
 なお、次のような抗議・不服らしい文も付いている。→「一般ブロガーの自己紹介に対しては「はあ、そうですか」程度に受け止めるのが普通だと思う。
 ここでの「一般ブロガー」の意味は私には解りにくいが、それは別として、はたして、上のように「自己紹介に対しては「はあ、そうですか」程度に受け止めるのが普通」なのだろうか。
 むろん殆どの場合、
「はあ、そうですか
という程度で受けとめるしかない。ブロガーの自己紹介の真否をいちいち確かめる方法などありはしないからだ。また、いちいち真偽につき質問をしまくるヒマな人もいないだろう。
 だが私は、いちおう、「反共産主義」を一つの柱にしたブログを書いてきている。そして、ネット上には所謂ネットウヨのみならず、九条護憲派や日本共産党員のブログ(ネットサヨ?)が意外に多いことに気づいているのだが、そうした関心を元来もつ者が、ほとんど明瞭に共産党員であることが確実な経歴を書き本文も書いているブロガーが、自己紹介欄で
「日本共産党の支持者」・「「代々木レッズ」のサポーター」などと書いているのを知るに至った場合、「ウソ」をつくな、と感じ、その旨を自分のブログ・エントリーで書いても、いかなる非難の対象にもならないと考える(個別のブログを対象にしてよかったかという<政策的判断レベルの>問題は私も感じているが、それを禁止するルールはない筈だ。そうでないとコメント等もできなくなる)。
 嶋氏は私を「卑怯」だともいう→秋月氏は「自分のブログが私のブログよりも「週間IN」の数が多いのをいい事に、私の名誉を傷付ける事を書くのだとしたら卑怯だと思う。/私の秋月…氏への評価は「卑怯」とする。
 ご自由にご判断を、という所だが、私は「
自分のブログが私のブログよりも「週間IN」の数が多いのをいい事に」
嶋氏の自己紹介ぶりを批判したわけでは全くない。嶋氏のブログが上位にあっても同じことをしただろう。従って、「だとしたら」という前提条件が間違っているので、「評価は「卑怯」とする。」と断定的文も取消ししておいて欲しいものだ(どうでもいいが)。
 同じ前提に立って、秋月氏は「自分のブログよりも「週間IN」が少ないブロガーしかたたく事が出来ないほど肝っ玉が小さいんだろう」とも書いている。ここまで来ると、気の毒としかいいようがない。
 なぜ自分が批判の対象になったのかについて、プロフィールに「ウソ」を書いたのが原因であることを忘れたくて、自分のブログの方が(特定のランキングサイトの)人気順位が下だから批判されたのだ、と別の理由によることにしたいのだ(こういうのを心理学的に何て言うのだろう?)。
 繰り返しておくが、「ウソ」を明瞭に感じたからこそ取り上げたのだ。考え方が違うからといって、日本共産党員と堂々と名乗っている者のブログの内容を個別的に批判するつもりは(少なくとも現時点では)ない。ましてや、ランキングが偶々下位のブログだから批判したのだろうと想像するのは、哄笑に値するほどの、<げすの勘ぐり>だ。
 いま一つ、秋月氏も「記事捏造の記者と同じじゃないかと思う」と書いている。これは意味不明だ。嶋氏に関して、捏造をした覚えはない。すべて嶋氏が公にしている情報をもとに書いた。謂われなき誹謗中傷とは、きっと、こういうのを言うのだろう。そして「科学的社会主義」の政党の党員も、こういう事実無根の誹謗を平気で書いているわけだ。
 以上だが、2チャンネル上の他の人の情報だと、「嶋1971」氏は男性らしく、しかも本名まで書かれていた(真偽は知らない)。じつは私は文章の感じから、女性かと思っていた。
 ついでに、きわめて例外的だが、ブログの内容について、この人のものに関してのみ2件コメントしておく。
 「君が代」斉唱時不起立教員解雇訴訟東京地裁判決(東京都側勝訴)が出たあと嶋?氏の上記ブログ6/21は書く-「「君が代」の歌唱や伴奏なんてやりたい人だけにやらせればいいじゃない、と思います」。
 さすが、日本共産党員。いや、何という単純・幼稚さ。
 6/24にいわく-「私は今後9年以内2016年までに、日本共産党が国政で政権入りすると予想しています」。根拠は定かでなく、米国の通告による日米安保の廃棄が前提になっているようだ。
 私、秋月の予想では、現状並みか、それ以下の「泡沫政党」化している(=「諸派」の一つとなっている)。そして消滅(=解党)への途を順調に歩んでいる
 日本共産党の勢力が伸張する根拠・条件など、どこにもない。かりに万が一一時的に議員数が増えることがあっても与党や他党の失策に対する批判票の受け皿になるだけのことで、積極的な日本共産党支持者が増えたわけではなく、ましてや社会主義(・共産主義)の理想が浸透してきた、などというような冗談話は全くありえない。 
 日本共産党とその追随勢力に未来はない。
 日本共産党は1922年にコミンテルン(国際共産党)日本支部としてロシア(ソ連)共産党の理論的・財政的援助のもとで、マルクス・レーニン主義という外国産の「悪魔の思想」に依拠して設立された。
 マルクス・レーニン主義を基礎とするという点で、共通の祖先を持つものに、旧ロシア(ソ連)共産党のほか、中国共産党、北朝鮮労働党(金日成父子)、カンボジア・旧ポルポト派、東欧の旧ルーマニア共産党(チャウシェスク)、旧東独社会主義統一党(ホーネッカー)等々、日本のかつてのブンド(共産主義者同盟)、日本赤軍、現在の(革共同)革マル派・中核派等々がある。
 同じ「親戚」のフランス共産党は今年6月の下院議員選挙で22→15と議席数を減少させた(第一回投票後は9~13の範囲内で半減の予想だったので、それに比べればまだ「善戦」した)。かつて1980年代、仏社会党とともにミッテラン大統領を支えた頃に比べると、見る影もない。イギリス、ドイツにはもともと(戦後~)、イタリアには今や、「共産党」と称する政党は存在していない。

0206/雑誌・幻想と批評(はる書房)は共産主義との闘いを目指す。

 雑誌・幻想と批評(はる書房)の1号~4号(2004~2006)を所持している。この雑誌は、<共産主義にとどめをさすことを目的とする>雑誌だ。
 1号の黒坂真「共産主義国の戦争政策とマルクス主義経済学」は、明確に日本共産党の、レーニンに誤りはなくスターリンになってソ連は「社会主義(をめざす)国」でなくなったとの日本共産党の「理論」・「宣伝」を否定している。
 上の点が論文の主題ではないが、1919年のロシア(ソ連)共産党綱領は61年まで続いており、スターリンの権力継承によって変えられていない。レーニンはポーランド侵攻(戦争)や富農等の粛清を命令している。要するに「スターリンはレーニンの正当な継承者」で「スターリンがレーニンの理論・思想に依拠して大虐殺を断行した」、という(p.159)。
 同誌上の兵本達吉報告も、ソ連崩壊は特定個人の誤りによるのではなくマルクスに遡る「システムの失敗」だとの学者の論や、「ロシアの悲劇の最大の責任者はレーニンです」とのロシア人のNGOの言葉を紹介している(p.123-、p.137)。現在の日本共産党のソ連に関する主張は「願望」又は「言い逃れ」だろう。
 上の黒坂論文は日本共産党員たる経済学者の今の動向にも触れていて興味深い。
 かつての社会主義国の悲惨な経済・凄惨な歴史をまともに研究せず、かといって日本の国家や革命を正面から論じることもなく、資本主義経済の内在的問題を指摘して「維持可能な内発的発展」等を喧伝し、「地方分権」・「まちづくり」、「民主主義」・「人権」を唱えている、という。そして、「党員であることから得られる人脈」を維持し、雑誌・前衛や経済に起用してもらうために「言論の自由」(学問の自由)を自ら放棄している、とまで指摘している。
 同様のことは経済学者に限らず、(とくに欧州・ロシア圏に関する日本の)歴史学者(や欧米思想に影響を受けた、とくにマルクス主義に親近的な法学者)についても言えるのでないか。
 1号の創刊の辞によると、ソ連共産党により殺害された者6200万(1997、モスクワ放送)、KGBによる銃殺死者は本部のみで350万、地方支部も含めて500万(推定)、全世界の共産主義による被殺害者8000万-1億(1998、パリでの「共産主義フォーラム」)とされている(()は典拠)。また、「多くは「裁判も抜きで」「その場で」「見せしめのために銃殺」(レーニン)され」たが、これらの人びとの「九九・九九%が、無実の罪であった」という(1998.01.19元KGBシェバルシン議長代行次官が読売新聞記者に言明)。
 スターリンがすでに実権を握っていた頃にコミンテルン(国際共産党)日本支部として日本共産党が結成され、スターリンのもとで三二年テーゼも作成され、日本支部(日本共産党)に伝えられた。
 こうして生まれた、外国産の思想・マルクス主義(「科学的社会主義」)の政党・日本共産党のどこに<未来>があるのか。日本共産党とその追随者に未来はない。
 
20歳代~30歳代の若い人たちよ、日本共産党に近づくな、日本共産党に入党するな。すでに入党している人は、すみやかに離党を。まだ間に合う。虚偽と腐臭に充ちた「思想」と政党に、せっかくの、一度だけの人生を賭ける意味は全くない。お願いだから、せっかくの貴重な人生を無駄にするな、と心から訴えたい。

0069/産経4/13-ゾルゲの指示で、尾崎秀実の助けも借りて情報収集したコミンテルン参加中国人。

 4/11の22時台に中西輝政の叙述に依拠してコミンテルンの宣伝工作に言及したが、産経4/13に、次のような、上海・前田徹特派員の記事がある。産経購読者には不要だろうが、紹介しておく。
 中国の著名経済学者・中国国際文化書院々長の某の大半が散逸していた自伝が見つかり、次のことが明らかになった。この人(陳幹笙)は1926年にコミンテルン(国際共産主義運動)に加わり、上海で「工作員として活動を始め、表向き…国民政府所属社会科学院で学者として従事する一方、対国民政府対策と同時にゾルゲと共に対日工作に関与」した。上海にいたアグネス・スメドレーの紹介でゾルゲと知り合った。「ゾルゲはスメドレーを通じて陳氏に日本で活動するよう指示」したので、彼は妻と共に来日し、日本で情報収集にあたったが、「その際、当時、朝日新聞記者だった尾崎秀実の支援を受けていた」。1935年04月にモスクワからの某と日本で密会する予定だったが、その某が上海でスバイ容疑で逮捕されたことを知って離日し、スメドラーらに匿われた後モスクワへ脱出し、さらに米国で、表向き「太平洋問題調査会(IPR)」の仕事をしつつ「海外中国人向け雑誌の抗日宣伝活動に傾注した」。
 この種の情報収集や宣伝工作は今日でも行われているに違いない。海上自衛隊員の中国人配偶者の中に、その類の任務をもつ者がいても不思議ではない。

0061/コミンテルン直結のミュンツェンベルク・マシーンによる「大いなる嘘」の宣伝工作。

 諸君!5月号(文藝春秋)の中西輝政論文のタイトルは「「大いなる嘘」で生き延びるレーニン主義」だ(元来は連載ものの第19回。p.217-227)。全文引用したい程だが、以下に要約又は抜粋してみる。
 ソ連型共産主義という共産主義の特殊バージョンは崩壊したが、今日の東アジアにつき、共産主義の本質を見失ってはならぬ。その共産主義の本質とは「対外的には、極度にシニカルで同時に意図と接線を隠した系統的な「敵対的宣伝」と、秘密警察的な国内支配」だ。民主主義諸国でも対外宣伝工作を行っている。だが、今日の米国での対日慰安婦決議問題の根源でもあるが、共産党による対外国世論工作は「全く次元を異にした深さと規模」をもつ。マルクス主義は死んでも死なない。  レーニン主義の本質とは、1.西側諸国の自由の徹底的利用による宣伝、2.西側経済人を「利潤という餌」で取り込んで西側での世論工作の先兵とすること、3.共産主義のためには「大いなる嘘」がつねに必要だとする、道徳を排しシニシズムに徹した宣伝・煽動・洗脳、だ。
 ウィリー・ミュンツェンベルク(1889-1940)は共産主義のもつ「倒錯とシニシズムの世界」の王者だったが、彼の下で働いたアーサー・ケストラーはその「世界」から帰還し、「人間性と普遍的価値に目覚め共産主義宣伝の危険を初めて告発した」。
 1920年代からの「太平洋問題評議会」(IPR)による米国での反日宣伝活動はミュンツェンべルクが仕掛けた。この宣伝工作により、米国の世論は1938年には方向を決していた。
 ミュンツェンべルクは1921年にレーニンからコミンテルンによる「秘密宣伝」のほぼ全権を委ねられ、日本共産党・モスクワ経由の指令系統とは別に、1323年の関東大震災直後には救援を名目にコミンテルンの地下ネット構築に着手した。蝋山政道、有沢広巳らが始めた研究会に高野岩三郎、土屋喬雄、蜷川虎三千田是也らが参加し、周辺には平野義太郎、勝本清一郎、小林陽之助、野村平爾らがいたが、彼らは欧州とくにベルリンに留学していた日本の若い国費留学生で、すでに大正時代末から「ミュンツェンべルク・ネットワーク」と意識的・無意識的に関係を持ったと見られ、在独日本軍人・外交官・ビジネスマン等々にも「取り込み」の魔手が延びていたと見られる。ソ連は1920年代から一貫して日本を敵視していた。ミュンツェンべルクの工作は英国や米国にも及び、とくに今日にもその影響が残る映画界・演劇界にも多大の資金が投入された。こうした工作は1930年代の容共的人民戦線運動の源流でもあった。
 トーマス・マンアンドレ・ジッドは「クレムリンの糸」に気づいて訣別したが、無意識にコミンテルンの戦略に利用された著名人も多かった。戦後日本の「進歩的文化人」についても将来は同様の跡付けが可能となろう
 カール・ラデックはミュンツェンべルクの兄貴分で、「「嘘の芸術」を極限まで高めた「革命的シニシズム」が、宣伝とメディア操作の核心である」ことを植えつけた。ラデックはKGB創設者ジェルジンスキーの「文字通りの同志」だった。
 ミュンツェンべルクはベルリンでゾルゲを取り込み、訓練していたアグネス・スメドレーと結びつけたと考えられ、ゾルゲが日本に来るとき、スメドレーが上海に赴いたとき、二人はいずれもドイツの高級新聞の特派員証を手にしていた。
 彼のマシーンの中にはオットー・カッツもいて、カッツはドイツ国会議事堂放火はナチス自らが共産党を弾圧するために行ったとのベストセラー本を書いた。カッツはロンドンで出版人・ゴランツと逢うが、ゴランツはのちに、ハロルド・ティンパーリの「南京大虐殺」の種本(戦争とは何か)を出版した。ティンパーリは中国国民党のエージェントであったのみならず、コミンテルン又は「ミュンツェンべルク・マシーン」とも「深い繋がり」があったと見られる。
 マシーンの一員だった英国のマリーはアンソニー・ブラントをリクルートし、ブラントがケンブリッジでハーバート・ノーマンをスカウトした。ノーマンは帰国後IPRに拠って反日宣伝に従事し、GHQの占領政策の「左傾化」の中心人物になった。
 孫文の未亡人・宋慶齢は「ミュンツェンべルクのエージェント」だとの証言もある。だとしたら、国民党・共産党間の中国政治史上の多くの疑問は氷塊し、中華人民共和国そのものが「対外宣伝のための「大いなる嘘」」であることが明瞭になる。
 中西輝政氏はVoice5月号(PHP)でも伊藤貫氏との対談で(p.96以下)、「とくに怖いのは中国の仕掛ける対日心理戦で、日本人の世論操作」だ、「日本のメディアはアジア大陸からの操作にとても弱い」、日本の「エリート層のなかにも工作が急速に浸透しています。この十年で、ひたひたと進んでいる空気を感じる」等々と、中国の米国への働きかけも含めた<情報戦>に正面から言及している。
 かつての歴史もまさに今日の諸状況も、共産主義者又は共産党の公然・非公然のプロパガンダ=「大量宣伝工作」によって作られたし、かつ作られている可能性が極めて高い。  北朝鮮による日本国民の拉致や核実験実施が明白になっても、なお無邪気さ・お人好しさ・脳天気さを失わない日本人がいる。平然と人の生命を奪い、平然と微笑とともに「大嘘」を吐く者たち=共産主義者(およびその強い影響を受けた者たち)が現実には存在することを、強く、強く、胆に銘じておくべきだ。
 ちなみに、ゾルゲ(1895-1944)とは所謂「ゾルゲ事件」で検挙され、1944年に尾崎秀実とともに断罪されたスパイ・リヒャルト・ゾルゲ。スメドレーは、中国寄り(=反日)の報道を世界に流し続け、中国贔屓(=反日)の本も書いた米国人。1947年にスパイ容疑が浮かんだが、英国に逃亡した、という(1892-1950)。
 ついでに、余計ながら、また多少は上品でない気もするが、渡部昇一=中川八洋・皇室消滅(ビジネス社、2006)のp.26-27に、中川のこんな、本質を衝く言葉がある。
 「共産党には、その教理から、正直であることは戒律的に許されていません。他人を騙すことをやめることは共産主義者として信仰義務の放棄です。共産主義者として、嘘、嘘、嘘は、毎日、実践しなくてはなりません
」。

0011/日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか。

 腑に落ちない、こと又はもの、は沢山あるが、ソ連崩壊に関係する日本共産党の言い分は最たるものの一つだ。
 同党のブックレット19「『社会主義の20世紀』の真実」(1990、党中央委)は90年04月のNHKスペシャル番組による「社会主義」の総括の仕方を批判したもので、一党独裁や自由の抑圧はスターリン以降のことでレーニンとは無関係だなどと、レーニン擁護に懸命だ。昨日に触れたが、2004年の本で不破哲三氏はスターリンがトップになって以降社会主義から逸脱した「覇権主義」になったと言う。そもそも社会主義国ではなかったので、崩壊したからといって社会主義の失敗・資本主義の勝利を全く意味しない、というわけだ。
 だが、後からなら何とでも言える。後出しジャンケンならいつでも勝てる。関幸夫・史的唯物論とは何か(1988)はソ連崩壊前に党の実質的下部機関と言ってよい新日本出版社から出た新書だが、p.180-1は「革命の灯は、ロシア、…さらに今日では十数カ国で社会主義の成立を見るにいたりました」と堂々と書いてある。「十数カ国」の中にソ連や東欧諸国を含めていることは明らかだ。ソ連は社会主義国(なお、めざしている国・向かっている国も含める)でないと言った3年前に、事実上の日本共産党の文献はソ連を社会主義国の一つに含めていたのだ。判断の誤りでした、スミマセン、で済むのか。
 また、レーニンの死は1924年、スターリンが実質的に権力を握るのは遅くても1928年だ。とすると、日本共産党によると、1928年以降のソ連は、そしてコミンテルン、コミンフォルムは、社会主義者ではなく「覇権主義」者に指導されていたことになる。そしてますます腑に落ちなくなるのだが、では、コミンテルンから日本共産党への32年テーゼはいったい何だったのか。非社会主義者が最終的に承認したインチキ文書だったのか。コミンフォルムの1950年01月の論文はいったい何だったのか。これによる日本共産党の所感派と国際派への分裂、少なくとも片方の地下潜行・武装闘争は非社会主義者・「覇権主義」者により承認された文書による、「革命」とは無関係の混乱だったのか。
 1990年頃以降、東欧ではレーニン像も倒された。しかし、日本共産党はレーニンだけは守り、悪・誤りをすべてスターリンに押しつけたいようだ。志位和夫・科学的社会主義とは何か(1992、新日本新書)p.161以下も参照。  レーニンをも否定したのでは日本「共産党」の存立基盤が無になるからだろう。だが、虚妄に虚妄を重ねると、どこかに大きな綻びが必ず出るだろう。虚妄に騙される人ばかりではないのだ。
 なお、私的な思い出話を書くと、私はいっとき社会主義・東ドイツ(ドイツ民主共和国が正式名称だったね)に滞在したことがある。ベルリンではない中都市だったが、赤旗(色は付いてなかったがたぶん赤のつもりのはずだ)をもった兵士のやや前に立って、十数名の兵士を率いて前進しているレーニン(たち)の銅像(塑像)が、中央駅前の大通りに接して立っていた。
 数年前に再訪して少し探して見たのだが、レーニン(たち)の銅像が在った場所自体がよく分からなくなっていた。
 レーニンまでは正しくて、スターリンから誤ったなどとのたわけた主張をしているのは日本共産党(とトロツキスト?)だけではないのか。もともとはマルクスからすでに「間違って」いたのだが。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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