レフとスヴェータ、No.13。
(New York, 2012)
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第4章①。
(01) グラクは、手紙のやり取りに関する細かな規則を定めていた。
この規則は状況に応じて変更されたが、各労働収容所(labor camp)ごとの異なる厳格さをもって、適用された。
受刑者が受け取れる手紙の数の多さは、受けている判決の内容や生産割当て達成の程度によって変わった。//
(02) 木材工場群では、公式には検閲後に毎月1通が認められた。
これは、一年に数通にすぎない他の収容所に比べると、多かった。
1946年8月1日の叔母オルガ宛てのレフの手紙は、受け取ることのできる手紙や小包みの数について制限はない、と書いていた。
「手紙や印刷物〔banderoli〕はここには2-3週間で届きますが、モスクワからは7-8日で届く場合もあります。
検閲のために長く留め置かれることはありません。…。
書いて下さるなら、順番どおりに数字を書くのを忘れないで下さい。そうすれば、手紙を全部受け取っているかどうかを調べることができます。
おそらく用紙と鉛筆以外には、何も送っていただかなくて結構です。」
(03) レフが書いたことは、全部が本当ではなかった。
彼はしばしば、手紙に関する収容所での条件を思い浮かべた。
実際には手紙類は一ヶ月に2-3回配達され、受刑者は一度に数通を受け取ることがあり得た。
しかし、これはまだよい方で、確実に1930年代のグラク収容所よりもはるかによかった。かつては、受刑者は数年間に一通の手紙も受け取らずにすごしていたからだ。
検閲は比較的に緩やかだった。-検閲のほとんどを行っていたのは、収容所監視官やその他の役人たちの夫人たちで、彼女たちは完全には手紙を読み通すことができず、仕事をしていることを示すために若干の無害な語句を黒く塗りつぶすだけだった。
しかし、受刑者たちはそのことを知らず、自分たちの文章について自主検閲(self-censorship)を行なった。//
(04) 小包みや印刷物については、そう単純ではなかった。
これらを送るためには、ムィティシ(Mytishchi)または他のモスクワ近郊都市に行くことを含めた複雑な官僚的手続が必要だった。グラク労働強制収容所への小包みはソヴィエトの首都から送ることができず、検査されて登録されるために数時間の長い質問に耐える必要があった。
8キログラム以上の重さの小包みは、受理されなかった。
収容所に届いたときにも、それらを受け取るための同じように複雑な手続が必要だった。
木材工場群ではMVD官僚のところに集められ、権限ある監視官が全ての中を開け、しばしば勝手に自分のものにし、その後で内容物の残りを受刑者に与えた。
食糧、金、および暖かい衣服はほとんどつねに監視官に奪われた。そこでレフは、友人や親戚の者たちに、書物以外の物は送らないように頼んだ。書物についても、外国文学書は、とくに1917年以前に刊行されたものは没収されそうだったので、警戒が必要だった。。
そのことの注意を、レフは最初の手紙でスヴェータに求めた。
「きみやオルガ叔母さんが本を送ってくれるときは、必ず安価なものにして下さい。
安くてぼろいほど好いです。そうだと、失ったときに金を無駄遣いしないで済みます。
外国語の文学書を送ってくれるなら、ソヴィエト版のもの、また古書専門店からのではないものにして下さい。そうしないと、検閲で誤解を招いて私が受け取れない可能性があります。」
(05) レフの第一の手紙は、スヴェータが8月7日に書き送っていたとき、まだ届いていなかった。
「私の親愛なるレフ、私は一にちじゅう、7月12日に送った手紙を受け取ったのかどうかと気を揉んですごしています。
受け取った?」
レフは受け取っていなかった(その翌日、「重要な」8日にそうした)。
スヴェータは彼の最初の手紙を23日に受け取った。それは、別荘から帰っあとすぐのことだった。
スヴェータは、その日の午後に書き送った。
「私もまた、運命論者になりました。
私が第一の手紙を書いているとき、あなたは二番めを書いている。
でも、私が二番めを送るのは、あなたが私の一番めを受け取っているときです。
そして、私が三番めを書いているのは、あなたの一番めを受け取ったときです。
-<La Traviata>〔椿姫〕がラジオで流れています!」
レフは、8月11日にスヴェータへの二番めの手紙を送って、9月10日の彼女の誕生日に確実に間に合うようにと考えた。そしてまさにその日に、彼の一番めの手紙に対する彼女の返事を受け取った。
レフはその夕方にスヴェータに書いた。
「私にはプレゼントでした。
この日には、全てのプレゼントはきみのためのものであるべきなんだけれども。」
(06) こうして、二人の会話が始まった。
しかし、たどたどしくて戸惑いのある会話だった。
スヴェータは、9月6日に、レフに対してこう書いた。
「あなたの手紙を、今日26日に受け取りました。
そして、その前に8日付と11日付のあなたの手紙も。
でも、あなたの21日付はまだ受け取っていません。
レヴィ、手紙の間隔が合わせて数カ月になると、お話しするのがむつかしい。
私の気持ちを理解するまでに、あなたはもう別の気分になっているかもしれない。」
(07) 遅配だけがいらいらの原因ではなかった。
検閲があるという意識もまた、会話を制限した。
どの程度までになら明確に書いても問題にならないのか、確信がなかった。
レフは三番めの手紙で「明確な限界」について書いて、内心を明らかにしている。
「スヴェータ、手紙を書くことを決して怠けてはいません。
だから、心の中ではきみと24時間のうち16時間も話していると言っても、信じて下さい。
頻繁には書けないとしても、それは書きたくないからではなく、明確な限界の範囲内できみに書く方法を私は知らないからだ、ということが分かるでしょう。」
レフは、手紙に書けることについて慎重に考え、現実に書く前に数日間は頭の中でこしらえた。
営舎を離れるときに他の受刑者が紙タバコ用に使うのを心配して、書き終わっていない手紙をポケットに入れて運んだ。そのために、書き終えたときには、手紙はしばしばよれよれになっていた。
(08) レフが伝えたい意味は、行間で読まれなければならなかった。-遠回しの言葉が用いられた。MVDの役人(「叔父」、「親戚」)、グラク制度(「雨傘」)、贈賄金(金を意味するden'gi から「ビタミンD」)。また、収容所内での日常生活の不条理さを伝えるために、文学的隠喩(とくに19世紀のNikolai Gohol やMikhail Saltykov-Shchesrinのそれ)も用いられた。
友人や縁戚者たちの名前は決して明記されず、イニシャルでまたは通称を使って隠された。
(09) レフが元々もっていた怖れは、受刑者から手紙を受け取ることでスヴェータが危険に晒されるのではないか、ということだった。
スヴェータへの最初の手紙で、彼は「局留め」(poste restante)にしようかと提案していた。
スヴェータは回答した。
「局留めにする必要は全くありません。
私たち二人は、隣人たちをみんな知っています。」
のちに彼女は考えを変えて、隣人たちがそのブロックの入口そばの郵便受けを見たときに「注意を惹かないように」、レフが封筒上の宛先から彼女の名前を省略することを提案した。
しかしとりあえずは、スヴェータは受刑者に手紙を書いていることを明らかにし、彼女の家族や親友たちはそれに好意的だった。//
(10) スヴェータも、慎重に手紙を書いた。
草稿を書き、修正し、かつ自分が考えたことを正確にしておくために複写をすることになる。そして、レフを危険にすることは何も書かなかった。
スヴェータは自分の手紙がうまく届くかに自信がなかった。そのため、草稿を置いておくことは安全確保のための最後の手段だった。
彼女は、小さく、ほとんど読み難い手書きの文字を、白紙または最も間隔が細い線の入った便箋に書いた。その文字は、一枚の紙全体を埋め尽くした。
スヴェータはどの手紙にも、何枚かの白紙を挿入した。レフが返事を書けるようにだった。
彼女は、自分の家にいるときの夜に、手紙を書いた。
「手紙を書くには家にいて、また(誰もが眠れるためにも)一人でいる必要があります。私の頭が邪魔されず、眠りたいと思わないために、また落ち着いた気分でおれるために。
これらの目的(「fors」)は、必ずしもつねには一致しませんが。」
(11) スヴェータは、自分の日常生活、家族、仕事と友人たちに関する新しい知らせや詳細で手紙をいっぱいにした。
彼女は自分の手紙を通じて、レフのために生きた。
スヴェータの文章は表面的には、ロマンティックな感傷に欠けているようにも思える。
これはある程度は、ソヴィエトの技術系知識人世界-そこで彼女は育てられた-にあるあっさりとして質素な言語上の性格だ。一方で、レフは、彼の祖母や19世紀のロシア紳士階層がもつ、より表現的な言葉遣いに慣れていた。
スヴェータは、自分は感情を奔出させるのが好きではないと、認めていた。
実際的な人柄で、感情はたっぷりとあり、愛情についてもしばしば熱いものがあった。しかし、ロマンティックな幻想に負けてしまうほどに実直でも単純でもなかった。
「愛に関する感傷的な言葉(高慢で安っぽいの両方)は、私には広告と同じような効果を生みます。
私へのあなたの言葉と同じく、あなたへ私からの言葉も。
それから生まれるのは、終わることのない哀しみです。
心の中で、つぎの文章をいつも聴いています。
『与えよ、そしてその見返りを得ようと手を出すな。-これは、心を全て開くためには不可欠だ』」。
感傷的な言葉がスヴェータの手紙に少ないことは、誤魔化しでもあった。
彼女が引用するサーシャ・コルニィ(Sasha Chorny)のつぎの詩は、手紙を毎回書いてレフに示す愛情を完璧に表現している。
「窮状を終わらせる最良の決定をしたとしても
脚の重いハイエナが、世界全体を漁り回るだろう!
空を飛ぶ本能的な愉しみ…に恋をすれば
魂のすべてが解き放たれる
兄弟、姉妹、妻、あるいは夫であれ
医師、看護師、あるいは芸術の達人であれ
自由に与えよ-しかし、震える手を出して見返りを求めるな
これが、心を全て開くためには不可欠だ」
(12) スヴェータはレフに、自分の生活を説明しつづけた。
自分が仕事に行く途中のモスクワの風景を描写し、レフが憶えている自分の衣服に関する少しばかりの詳細を付け加えた。
「モスクワっ子は自分が残しているものは何でも着ます。-皮のコート、綿入りジャッケット(私が電車で仕事に行く朝のお気に入り)。
工場は8時に始まり、研究所は9時に始まり、役所は11時…。
冬用コートを持っていません。古くて黒いコートは破りたい熱情の犠牲になりました。破壊願望は二本脚の全ての動物の特性ですが、ママが強く言い張ったので、良いスーツに再利用しました。…。
灰緑色のコートは、まだ使っています。…。
まだ他にどうなっているか、知っていますか?
買っていた靴。これはいつも側にあって、とても軽いので、いま研究所まで履いています。…。
私の生活の様子で書いておかなけれけばならないのは、以上です。
-あなたが思い浮かべているだろうと私が思うほど好くはありません。」
(13) レフは、モスクワに関する知らせを待ち望んだ。
スヴェータからモスクワについて知るのをとても好んだ。
彼は収容所で、アニシモフやグレブ・ワシレフ(Gleb Vasil'ev)のようなモスクワ仲間とその都市について、数時間もかけて想い出話をした。ワシレフは、スヴェータと同じ学校で勉強をした、金属工場にいる機械工で、1940年に逮捕されたときはモスクワ大学物理学部の第一年次を終えたばかりだつた。
ペチョラの荒涼とした北西部の風景から、自分の手紙が夢のモスクワへと彼を運んでくれるのを願った。
「今日は、灰色で、一面に曇っています。
秋が静かに、瞞すようにして忍び寄ってきましたが、頑固さを主張するように、ペチョラの上、森林の上、堤防上の家屋の上、そしてわれわれの産業入植地の建物や煙突の上、無表情で厳しい松…の上は、蜘蛛の巣のように覆われています。
モスクワには、Levitan やKuindzniにふさわしい秋があるでしょう。木の葉が落ち、乾いた葉っぱが足元でさらさらと音を立てる、そんな黄金の季節です。〔原書注-Isaac Levitan(1860-1900)とArkhip Kuindzni(1842-1910)は、ロシアの風景画家。〕
全てが、何と遠く感じることでしょうか。
でも、モスクワの夕べはかつてと同じに違いないと、私は思い浮かべます。-人々はかつてと同じで、街路は変わっていないままです。
そして、きみがかつてそうだったのと同じだということも。
そして、今なお見えているのは、消え失せる幻想だとは、思いたくはありません。
ああ、この紙に何度『そして(and)』を書いたことだろう。そして、何と論理的でないことか。
これは手紙ではなくて、感情を支離滅裂に束ねたものです。」//
スヴェータは、現実的な描写をして、レフの郷愁を挫いた。
9月10日に、こう書いた。
「モスクワでは、もう黄金色は見えません。
モスクワは、あなたが思い浮かべるようでは全くありません。
人々の数が、多すぎます。
街路電車では、それは愉快ではありません。
人々は、苛立っています。
人々は口論をし、喧嘩して組み打ちすらします。
メトロ(地下鉄)はいつも満員です。
あなたが乗り換えていた地下鉄駅では、もうそれはできません。」
(14) スヴェータが最初の手紙で約束していたように、彼女はその仕事について、レフにより詳しく書いた。
研究所は計650人が働く工場と実験所で成る大複合体で、技師120名、研究者および技術助手50名、そして残りは労働者だった。-整備工、組立て工、機械工。
これら労働者の多くは戦争前に建てられていたラバー(ゴム)工場用の古い木造宿舎で、家族と一緒に生活していた。
スヴェータが仕事をする実験室では、合成ゴム(重炭酸ナトリウム)からタイアを製造する新しい方法を試験していた。
彼女の仕事は多数の研究と教育を含んでいたが、西側の最新の発展に追いつくために英語を学習することももちろんだった。西側の最新の状況を、スヴェータは博士号申請論文「ラバーの物理構造について」で論述しなければならなかったからだ。//
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第4章②につづく。
(New York, 2012)
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第4章①。
(01) グラクは、手紙のやり取りに関する細かな規則を定めていた。
この規則は状況に応じて変更されたが、各労働収容所(labor camp)ごとの異なる厳格さをもって、適用された。
受刑者が受け取れる手紙の数の多さは、受けている判決の内容や生産割当て達成の程度によって変わった。//
(02) 木材工場群では、公式には検閲後に毎月1通が認められた。
これは、一年に数通にすぎない他の収容所に比べると、多かった。
1946年8月1日の叔母オルガ宛てのレフの手紙は、受け取ることのできる手紙や小包みの数について制限はない、と書いていた。
「手紙や印刷物〔banderoli〕はここには2-3週間で届きますが、モスクワからは7-8日で届く場合もあります。
検閲のために長く留め置かれることはありません。…。
書いて下さるなら、順番どおりに数字を書くのを忘れないで下さい。そうすれば、手紙を全部受け取っているかどうかを調べることができます。
おそらく用紙と鉛筆以外には、何も送っていただかなくて結構です。」
(03) レフが書いたことは、全部が本当ではなかった。
彼はしばしば、手紙に関する収容所での条件を思い浮かべた。
実際には手紙類は一ヶ月に2-3回配達され、受刑者は一度に数通を受け取ることがあり得た。
しかし、これはまだよい方で、確実に1930年代のグラク収容所よりもはるかによかった。かつては、受刑者は数年間に一通の手紙も受け取らずにすごしていたからだ。
検閲は比較的に緩やかだった。-検閲のほとんどを行っていたのは、収容所監視官やその他の役人たちの夫人たちで、彼女たちは完全には手紙を読み通すことができず、仕事をしていることを示すために若干の無害な語句を黒く塗りつぶすだけだった。
しかし、受刑者たちはそのことを知らず、自分たちの文章について自主検閲(self-censorship)を行なった。//
(04) 小包みや印刷物については、そう単純ではなかった。
これらを送るためには、ムィティシ(Mytishchi)または他のモスクワ近郊都市に行くことを含めた複雑な官僚的手続が必要だった。グラク労働強制収容所への小包みはソヴィエトの首都から送ることができず、検査されて登録されるために数時間の長い質問に耐える必要があった。
8キログラム以上の重さの小包みは、受理されなかった。
収容所に届いたときにも、それらを受け取るための同じように複雑な手続が必要だった。
木材工場群ではMVD官僚のところに集められ、権限ある監視官が全ての中を開け、しばしば勝手に自分のものにし、その後で内容物の残りを受刑者に与えた。
食糧、金、および暖かい衣服はほとんどつねに監視官に奪われた。そこでレフは、友人や親戚の者たちに、書物以外の物は送らないように頼んだ。書物についても、外国文学書は、とくに1917年以前に刊行されたものは没収されそうだったので、警戒が必要だった。。
そのことの注意を、レフは最初の手紙でスヴェータに求めた。
「きみやオルガ叔母さんが本を送ってくれるときは、必ず安価なものにして下さい。
安くてぼろいほど好いです。そうだと、失ったときに金を無駄遣いしないで済みます。
外国語の文学書を送ってくれるなら、ソヴィエト版のもの、また古書専門店からのではないものにして下さい。そうしないと、検閲で誤解を招いて私が受け取れない可能性があります。」
(05) レフの第一の手紙は、スヴェータが8月7日に書き送っていたとき、まだ届いていなかった。
「私の親愛なるレフ、私は一にちじゅう、7月12日に送った手紙を受け取ったのかどうかと気を揉んですごしています。
受け取った?」
レフは受け取っていなかった(その翌日、「重要な」8日にそうした)。
スヴェータは彼の最初の手紙を23日に受け取った。それは、別荘から帰っあとすぐのことだった。
スヴェータは、その日の午後に書き送った。
「私もまた、運命論者になりました。
私が第一の手紙を書いているとき、あなたは二番めを書いている。
でも、私が二番めを送るのは、あなたが私の一番めを受け取っているときです。
そして、私が三番めを書いているのは、あなたの一番めを受け取ったときです。
-<La Traviata>〔椿姫〕がラジオで流れています!」
レフは、8月11日にスヴェータへの二番めの手紙を送って、9月10日の彼女の誕生日に確実に間に合うようにと考えた。そしてまさにその日に、彼の一番めの手紙に対する彼女の返事を受け取った。
レフはその夕方にスヴェータに書いた。
「私にはプレゼントでした。
この日には、全てのプレゼントはきみのためのものであるべきなんだけれども。」
(06) こうして、二人の会話が始まった。
しかし、たどたどしくて戸惑いのある会話だった。
スヴェータは、9月6日に、レフに対してこう書いた。
「あなたの手紙を、今日26日に受け取りました。
そして、その前に8日付と11日付のあなたの手紙も。
でも、あなたの21日付はまだ受け取っていません。
レヴィ、手紙の間隔が合わせて数カ月になると、お話しするのがむつかしい。
私の気持ちを理解するまでに、あなたはもう別の気分になっているかもしれない。」
(07) 遅配だけがいらいらの原因ではなかった。
検閲があるという意識もまた、会話を制限した。
どの程度までになら明確に書いても問題にならないのか、確信がなかった。
レフは三番めの手紙で「明確な限界」について書いて、内心を明らかにしている。
「スヴェータ、手紙を書くことを決して怠けてはいません。
だから、心の中ではきみと24時間のうち16時間も話していると言っても、信じて下さい。
頻繁には書けないとしても、それは書きたくないからではなく、明確な限界の範囲内できみに書く方法を私は知らないからだ、ということが分かるでしょう。」
レフは、手紙に書けることについて慎重に考え、現実に書く前に数日間は頭の中でこしらえた。
営舎を離れるときに他の受刑者が紙タバコ用に使うのを心配して、書き終わっていない手紙をポケットに入れて運んだ。そのために、書き終えたときには、手紙はしばしばよれよれになっていた。
(08) レフが伝えたい意味は、行間で読まれなければならなかった。-遠回しの言葉が用いられた。MVDの役人(「叔父」、「親戚」)、グラク制度(「雨傘」)、贈賄金(金を意味するden'gi から「ビタミンD」)。また、収容所内での日常生活の不条理さを伝えるために、文学的隠喩(とくに19世紀のNikolai Gohol やMikhail Saltykov-Shchesrinのそれ)も用いられた。
友人や縁戚者たちの名前は決して明記されず、イニシャルでまたは通称を使って隠された。
(09) レフが元々もっていた怖れは、受刑者から手紙を受け取ることでスヴェータが危険に晒されるのではないか、ということだった。
スヴェータへの最初の手紙で、彼は「局留め」(poste restante)にしようかと提案していた。
スヴェータは回答した。
「局留めにする必要は全くありません。
私たち二人は、隣人たちをみんな知っています。」
のちに彼女は考えを変えて、隣人たちがそのブロックの入口そばの郵便受けを見たときに「注意を惹かないように」、レフが封筒上の宛先から彼女の名前を省略することを提案した。
しかしとりあえずは、スヴェータは受刑者に手紙を書いていることを明らかにし、彼女の家族や親友たちはそれに好意的だった。//
(10) スヴェータも、慎重に手紙を書いた。
草稿を書き、修正し、かつ自分が考えたことを正確にしておくために複写をすることになる。そして、レフを危険にすることは何も書かなかった。
スヴェータは自分の手紙がうまく届くかに自信がなかった。そのため、草稿を置いておくことは安全確保のための最後の手段だった。
彼女は、小さく、ほとんど読み難い手書きの文字を、白紙または最も間隔が細い線の入った便箋に書いた。その文字は、一枚の紙全体を埋め尽くした。
スヴェータはどの手紙にも、何枚かの白紙を挿入した。レフが返事を書けるようにだった。
彼女は、自分の家にいるときの夜に、手紙を書いた。
「手紙を書くには家にいて、また(誰もが眠れるためにも)一人でいる必要があります。私の頭が邪魔されず、眠りたいと思わないために、また落ち着いた気分でおれるために。
これらの目的(「fors」)は、必ずしもつねには一致しませんが。」
(11) スヴェータは、自分の日常生活、家族、仕事と友人たちに関する新しい知らせや詳細で手紙をいっぱいにした。
彼女は自分の手紙を通じて、レフのために生きた。
スヴェータの文章は表面的には、ロマンティックな感傷に欠けているようにも思える。
これはある程度は、ソヴィエトの技術系知識人世界-そこで彼女は育てられた-にあるあっさりとして質素な言語上の性格だ。一方で、レフは、彼の祖母や19世紀のロシア紳士階層がもつ、より表現的な言葉遣いに慣れていた。
スヴェータは、自分は感情を奔出させるのが好きではないと、認めていた。
実際的な人柄で、感情はたっぷりとあり、愛情についてもしばしば熱いものがあった。しかし、ロマンティックな幻想に負けてしまうほどに実直でも単純でもなかった。
「愛に関する感傷的な言葉(高慢で安っぽいの両方)は、私には広告と同じような効果を生みます。
私へのあなたの言葉と同じく、あなたへ私からの言葉も。
それから生まれるのは、終わることのない哀しみです。
心の中で、つぎの文章をいつも聴いています。
『与えよ、そしてその見返りを得ようと手を出すな。-これは、心を全て開くためには不可欠だ』」。
感傷的な言葉がスヴェータの手紙に少ないことは、誤魔化しでもあった。
彼女が引用するサーシャ・コルニィ(Sasha Chorny)のつぎの詩は、手紙を毎回書いてレフに示す愛情を完璧に表現している。
「窮状を終わらせる最良の決定をしたとしても
脚の重いハイエナが、世界全体を漁り回るだろう!
空を飛ぶ本能的な愉しみ…に恋をすれば
魂のすべてが解き放たれる
兄弟、姉妹、妻、あるいは夫であれ
医師、看護師、あるいは芸術の達人であれ
自由に与えよ-しかし、震える手を出して見返りを求めるな
これが、心を全て開くためには不可欠だ」
(12) スヴェータはレフに、自分の生活を説明しつづけた。
自分が仕事に行く途中のモスクワの風景を描写し、レフが憶えている自分の衣服に関する少しばかりの詳細を付け加えた。
「モスクワっ子は自分が残しているものは何でも着ます。-皮のコート、綿入りジャッケット(私が電車で仕事に行く朝のお気に入り)。
工場は8時に始まり、研究所は9時に始まり、役所は11時…。
冬用コートを持っていません。古くて黒いコートは破りたい熱情の犠牲になりました。破壊願望は二本脚の全ての動物の特性ですが、ママが強く言い張ったので、良いスーツに再利用しました。…。
灰緑色のコートは、まだ使っています。…。
まだ他にどうなっているか、知っていますか?
買っていた靴。これはいつも側にあって、とても軽いので、いま研究所まで履いています。…。
私の生活の様子で書いておかなけれけばならないのは、以上です。
-あなたが思い浮かべているだろうと私が思うほど好くはありません。」
(13) レフは、モスクワに関する知らせを待ち望んだ。
スヴェータからモスクワについて知るのをとても好んだ。
彼は収容所で、アニシモフやグレブ・ワシレフ(Gleb Vasil'ev)のようなモスクワ仲間とその都市について、数時間もかけて想い出話をした。ワシレフは、スヴェータと同じ学校で勉強をした、金属工場にいる機械工で、1940年に逮捕されたときはモスクワ大学物理学部の第一年次を終えたばかりだつた。
ペチョラの荒涼とした北西部の風景から、自分の手紙が夢のモスクワへと彼を運んでくれるのを願った。
「今日は、灰色で、一面に曇っています。
秋が静かに、瞞すようにして忍び寄ってきましたが、頑固さを主張するように、ペチョラの上、森林の上、堤防上の家屋の上、そしてわれわれの産業入植地の建物や煙突の上、無表情で厳しい松…の上は、蜘蛛の巣のように覆われています。
モスクワには、Levitan やKuindzniにふさわしい秋があるでしょう。木の葉が落ち、乾いた葉っぱが足元でさらさらと音を立てる、そんな黄金の季節です。〔原書注-Isaac Levitan(1860-1900)とArkhip Kuindzni(1842-1910)は、ロシアの風景画家。〕
全てが、何と遠く感じることでしょうか。
でも、モスクワの夕べはかつてと同じに違いないと、私は思い浮かべます。-人々はかつてと同じで、街路は変わっていないままです。
そして、きみがかつてそうだったのと同じだということも。
そして、今なお見えているのは、消え失せる幻想だとは、思いたくはありません。
ああ、この紙に何度『そして(and)』を書いたことだろう。そして、何と論理的でないことか。
これは手紙ではなくて、感情を支離滅裂に束ねたものです。」//
スヴェータは、現実的な描写をして、レフの郷愁を挫いた。
9月10日に、こう書いた。
「モスクワでは、もう黄金色は見えません。
モスクワは、あなたが思い浮かべるようでは全くありません。
人々の数が、多すぎます。
街路電車では、それは愉快ではありません。
人々は、苛立っています。
人々は口論をし、喧嘩して組み打ちすらします。
メトロ(地下鉄)はいつも満員です。
あなたが乗り換えていた地下鉄駅では、もうそれはできません。」
(14) スヴェータが最初の手紙で約束していたように、彼女はその仕事について、レフにより詳しく書いた。
研究所は計650人が働く工場と実験所で成る大複合体で、技師120名、研究者および技術助手50名、そして残りは労働者だった。-整備工、組立て工、機械工。
これら労働者の多くは戦争前に建てられていたラバー(ゴム)工場用の古い木造宿舎で、家族と一緒に生活していた。
スヴェータが仕事をする実験室では、合成ゴム(重炭酸ナトリウム)からタイアを製造する新しい方法を試験していた。
彼女の仕事は多数の研究と教育を含んでいたが、西側の最新の発展に追いつくために英語を学習することももちろんだった。西側の最新の状況を、スヴェータは博士号申請論文「ラバーの物理構造について」で論述しなければならなかったからだ。//
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第4章②につづく。