秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

カプラン

2950/R.Pipes1990年著—第18章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第五節/レーニン暗殺未遂②。
 (10) 尋問のあと、Kaplan は短いあいだLubianka の地下室に勾留された。その部屋は、共犯の容疑でその夜遅くにチェカに逮捕されたBruce Lockhart が勾引されたのと同じ部屋だった。
 彼は、こう書く。
 「(8月31日の)朝6時に、一人の女性が部屋に送り込まれた。
 彼女は黒い衣服だった。髪は黒く、じっと凝視する眼の下には大きい黒いリングがあった。
 顔には色がなかった。強くユダヤ人系の特徴は、魅力的でなかった。
 年齢は20歳と35歳のあいだのどれかだっただろう。
 我々はこれがKaplan だと思った。
 ボルシェヴィキは疑いなく、彼女が我々に知っているという何らかの合図を送るのを期待していた。
 彼女の落ち着きぶりは不自然だった。
 窓へ向かって行き、手の上に顎を乗せて、外に日光を見ていた。
 そこにとどまり。動くことなく、話すことなく、明らかに運命を諦めていた。そして、番兵がやって来て、彼女を連れ去った。」(注57)
 彼女は、Lubianka からクレムリンの地下室の一つに移動させられた。そこは、たいていの重要な政治的犯罪者が監禁されていた場所で、生きて出た者はほとんどいなかった。
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 (11) そのあいだに、医師たちの一団がレーニンを診察した。彼は生と死のあいだを彷徨っていたが、医師たちがボルシェヴィキ党員だと確認するほどに、意識の状態を回復していた。
 血液が肺の一つに入ってはいたが、体調の回復の見込みはあった。
 レーニンの献身的な秘書のBonch-Bruevich は見守っていて、宗教的光景が浮かんだ。その光景は「突然に、聖職者、司教、金持ちに虐待されたあとで、十字架から降ろされるキリストを描いたヨーロッパの有名な絵を、私に思い出させた。…」。
 このような宗教的連想はすみやかに、レーニン崇拝(Lenin cult)の分かち難い要素になった。奇跡的な生存の物語とともに始まった。
 崇拝の気分は、ブハーリンを編集長とする〈Pravda〉9月1日付の畏敬に満ちた叙述で明らかだった。レーニンは、「世界革命の天才、プロレタリアートの世界的大運動の心と頭脳」、「世界の無比の指導者」、その分析力によって「ほとんど預言者的な予見する能力をもつ」人物だった。
 Kaplan の襲撃のあとただちに起きたことについて、現実離れした記事が書かれるにまで至った。Kaplan は、現代のCharlotte Corday—Marat の暗殺者—として、嘲弄された。
 「二度射撃され、肺を貫通され、大出血をしたレーニンは、助けを拒み、自分で進む。
 生命の危険がまだあった翌朝に、彼は新聞を読み、聴き、知り、観察する。そして、我々を世界革命へと導く車のエンジンが休まず動いているのを見る。」
 このような表象は、確実な死を免れた者の神聖さを信じるロシアの大衆に訴えかけることを意図して、用いられた。
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 (12) 8月31日付の〈Izvestia〉の第一面にSverdlov の署名付きで掲載された公式の発表は、断固として非キリスト教的な調子だった。
 この発表記事は、当局は「ここにも右翼エスエルの、…イギリスやフランスの雇われ者の指紋が発見されるだろうことを、疑っていない」と何の証拠も示すことなく、主張した。
 こうした非難は、8月30日午後10時40分の日時付きの文書で行なわれた。この時刻は、Kaplan が最初の尋問を受ける1時間ほど前だった。
 その記事は、こうつづく。
 「我々は全ての同志に対して、完璧な静穏さを維持すること、反革命分子との闘争を強化することを呼びかける。
 労働者階級は、諸力をさらに強固にし、革命の全ての敵に対する容赦なき大量テロルでもって、指導者に対する襲撃に反応するだろう。」
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 (13) その後の数週間、ボルシェヴィキのプレス(非ボルシェヴィキのプレスはこの頃までに禁止されていた)は、同様の奨励と威嚇で溢れた。しかし、驚くべきことに、殺害計画についてもレーニンの健康の実際の状態についても、ほとんど情報が提供されなかった。素人が理解できない、定期的な医療小記事は別として。
 こうした資料を読んで得る印象は、ボルシェヴィキは意識的に、レーニンに対して起きたことは全てしっかりと統制されていると公衆を納得させるよう、事件を控えめに報じた、というものだ。
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 (14) 9月3日、クレムリンの司令官、P. Malkov という名の元海兵は、チェカに呼び出され、チェカはFannie Kaplan に死刑宣告をした、と告げられた。
 彼は、ただちに判決を実行するものとされた。
 Malkov が叙述するように、彼は怯んだ。「人間を、とくに女性を、射殺するのは容易でない」。
 彼は、遺体の処理について尋ねた。
 Sverdlov に相談するように言われた。
 Sverdlov は、Kaplan は埋葬されない、と言った。
 「彼女の遺体は、跡形もなく破壊される」。
 Malkov は、処刑の場所として、クレムリンの大宮殿に隣接し、軍用車両の駐車場として使われている狭い中庭を選んだ。
 「私は自動車戦闘部隊の司令官に、囲い地から数台のトラックを動かすこと、エンジンをかけておくこと、を命令した。
 また、乗用車を見えない裏小路に移して門に向かわせるようにも、命令した。
 誰も立ち入らせないよう命じた二人のラトヴィア人兵士を門に配置し、私はKaplan を迎えに行った。
数分後、彼女を中庭に連れ出していた。…
 『車の中へ!』、私は鋭い口調で命令した。
 私は、袋小路の端にある自動車を指し示した。
 肩を発作的に捻らせて、Fannie Kaplan は一歩を踏み出した。ついで、第二歩…。
 私は、拳銃を持ち上げた。…」(脚注)
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 (脚注) P. Malkov, Zapiski komendanta Moskovskogo Kreml ia(Moscow, 1959), p.159-p.161. 1961年に出版された第2版では、この部分は削除されている。第2版では、Malkov はたんにつぎのように言わされた、になっている(p.162)。「私はKaplan に、以前から用意されていた車に入るよう命じた」。処刑に関する短い発表が、9月4日の〈Izvest iia〉(No.190/454, p.1)に掲載された。
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 (15) こうして、ロシアのCharlotte Corday と蔑まれた若い女性は、死んだ。見せかけの裁判手続すらなく、背後から撃たれた。悲鳴をかき消すように、トラックのエンジンは大きな音を出していた。死体は、生ゴミのように処分された。
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 第五節、終わり。

2949/R.Pipes1990年著—第18章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。 
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 第五節/レーニン暗殺未遂①。
 (01) ロシア皇帝ならば、いかに過激なテロリズムのもとでも、レーニンほどには生命の危険を怖れなかった。また、皇帝は、レーニンほどには十分に警護されなかった。
 皇帝たちは、ロシアや外国を旅行した。彼らは公的行事を楽しみ、姿を現わした。
 レーニンは、四六時中ラトヴィア人ライフル部隊に警護されて、クレムリンの煉瓦の壁の中に隠れていた。
 ときに市内へ行くとき、通常は事前の告知はなかった。
 1918年3月に首都がモスクワに移動したときと1924年の彼の死のあいだ、レーニンは、革命の勝利の舞台だったペテログラードをわずか二回しか再訪せず、国を見たり民衆と交流したりするためには一度も旅行しなかった。
 彼が最も遠くまで出かけたのは、モスクワの近くの村のGorki で静養するためにRolls-Royce で旅したときだった。静養したGorki の場所は、レーニンが使うために徴発されていた。
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 (02) トロツキーは、より大胆だった。司令官に話すためにしょっちゅう前線へ行き、暗殺の企てを空振りさせるために頻繁に予定と日程を変更した。
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 (03) 1918年9月以前は、レーニンやトロツキーの生命を狙う深刻な暗殺の企ては行なわれなかった。それ自体が秀れたテロリストの党であるエスエルが、ボルシェヴィキに対する積極的な抵抗に反対していたからだ。
 エスエルが皇帝やその官僚層に対抗して用いた手段に訴えようとしなかったことは、二つの考慮に由来していた。
 第一は、エスエル指導部が、時勢は自分たちの側にあり、じっと耐えて、ロシアに民主主義が復活するのを待つことが肝心だ、と考えたことだ。
 彼らの見方によれば、ボルシェヴィキの指導者を殺害することは確実に、反革命の勝利につながる。
 第二は、ボルシェヴィキによる報復と大虐殺を恐れたことだ。
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 (04) 全てのエスエル党員がこの考え方だったのではなかった。
 党中央委員会の是認を得てまたは得ないで、ボルシェヴィキに対抗して武器を取る気持ちの者もいた。
 1918年の夏、モスクワのチェカのまさに鼻先で、このようなグループの一つが形成され始めた。
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 (05) モスクワの様々な場所で、金曜日の午後か夕方に、労働者や党員に向けて演説を行なうのは、レーニンを含むボルシェヴィキの指導者たちの習慣だった。
 レーニンが登場することは、通常は事前には発表されなかった。
 8月30日、金曜日、レーニンは、二つの集会に出席する予定だった。一つは、Basmannyi 地区の穀物日用品販売所の建物で、もう一つは、市の南部にあるMichelson 工場で。
 その日の早くに、ペテログラード・チェカの主任、M. S. Uritskii が射殺された、という報せが届いた。
 暗殺者はユダヤ人の青年のL. A. Kannegisser で、穏健な人民社会党の党員だった。
 のちに、彼は友人の処刑に復讐するために自分で行動した、ということが明らかにされた。
 しかし、そのときは知らされず、おそらくはテロリストの組織的行動が進行している、という恐怖が巻き起こった。
 憂慮した家族がレーニンに出席を控えるよう迫ったが、彼はいつもと違って、危険に向き合うことを選んで、信頼する運転手のS. K. Gil が運転する車で市内へ向かった。
 彼はまず、穀物日用品販売所に現われ、そこからMichelson 工場へと進んだ。
 聴衆は半分はレーニンを期待していたけれども、彼が来るのが確実になったのは、自動車が中庭に入ってきたときだった。
 レーニンは、西側の「帝国主義者たち」を攻撃するいつもの用意された演説を行なった。
 彼は、「死ぬか勝利するかだ」という言葉で結んだ。
 Gil がのちにチェカに語ったところによると、レーニンが演説しているあいだ、白い服を着た女性がやって来て、レーニンは内部にいるのかと尋ねた。
 彼は、捉え難い曖昧な返事をした。
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 (06) レーニンが密になった群衆を抜けて出口に向かっていたとき、彼のすぐ後ろの誰かが滑って倒れて、群衆を塞いだ。
 レーニンは、数人を従えて、中庭に入った、
 まさに車に乗ろうとしたとき、一人の女性が接近して、パンが鉄道駅で没収されたと不満を言った。
 レーニンは、パンに関するその実務を止めるよう指示がなされている、と言った。
 動いている踏み板に足を乗せたとき、三発の射撃音が響きわたった。
 Gil は、振り向いた。
 彼は、数歩離れた場所から銃撃した人物がレーニンについて調べていた女性だと認識した。
 レーニンは、地上に倒れた。
 パニックに襲われた見物者たちは、四方に逃げ去った。
 Gil は、回転銃を取り出して、暗殺者を追って走った。だが、彼女を見失った。
 中庭に残っていた子どもたちは、彼女が逃げ去った方向指し示した。
 数人だけが、彼女を追っていた。
 彼女は走りつづけたが、突然に立ち止まり、追跡者に対して顔を向けた。
 逮捕され、Lubianka のチェカ本部に連れていかれた。
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 (07) レーニンは意識のない状態で車の中に運び込まれ、車は最高の速さでクレムリンへと急いだ。
 医師が、呼ばれた。
 そのときまで、レーニンは、ほとんど動くことができなかった。
 彼の心拍は微かになり、大量の血を流していた。
 レーニンは、死にかけているように見えた。
 医師の検査によって、二カ所の傷が明らかになった。一発の銃弾は比較的に無害で、腕の中にとどまっていた。もう一発は潜在的に致命的で、顎と首の連結部にあった。
 (のちに知られたが、第三の銃弾はレーニンが狙撃されたときに彼と会話していた女性に当たっていた。)
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 (08) つづく数時間、テロリストはチェカの機関員によって5つの尋問を受けていた。(脚注1)
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 (脚注1) これらの尋問の調書は、PR, No.6-7(1923年)p.282-5 に公表された。Peters によると、何を意味しているのであれ、主要な尋問者、現存する事件の記録は「きわめて不完全」だった。〈Izvestiia〉, No.194/1, 931(1923年8月30日), p.1.
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 彼女はほとんど口を開かなかった。
 名前は、Fannie Efimofvna Kaplan。生まれ名は、Feiga Roidman またはRoitblat。
 父親は、ウクライナで教師をしていた。
 少女のときにアナキストに加わっていたことが、のちに知られた。
 アナキストがKiev の知事を殺害するために彼女の部屋で組み立てていた爆弾が爆発したとき、16歳だった。
 野戦軍事法廷は彼女に死刑判決を下し、そのあと無期の重労働刑に変更した。この判決に、彼女はシベリアで服した。
 そこでSpiridonova その他の確信あるテロリストと遭遇し、彼らの影響を受けて、エスエルに加入した。
 1917年の早くに、政治的恩赦を受けて、中央ロシアに戻った。最初はウクライナ、あとでクリミアに住んだ。。それまでに、彼女の家族はアメリカ合衆国に亡命していた。
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 (09) 宣誓供述書によると、彼女は、1918年2月に、立憲会議の解散と接近しているブレスト=リトフスク条約の締結に報復するために、レーニンを暗殺することを決めた。
 だが、レーニンに対する反感は、もっと深い所にあった。彼女は、チェカにこう言った。
 「レーニンは裏切り者だと考えているので、射撃した。
 彼は、数十年で実現するはずの社会主義の考えを延期した。」
 さらに、こうも言った。どの政党にも帰属していないが、Samaraの立憲会議委員会に共鳴する、Chernov が好きで、ドイツに対抗するイギリスとフランスの同盟に賛成だ。
 彼女は、仲間の存在を一貫して否定し、誰から銃砲を与えられたかを言うのを拒んだ。(脚注2)
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 (脚注2) その銃、Browning 銃は、犯罪の場所から消失した。1918年9月1日に〈Izvestiia〉(No.188/452, p.3)は、この銃の存在場所に関する情報を求めるチェカの声明を掲載した。
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 ②へ。
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