秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

オークショット

0622/宮沢俊義・元東京大学憲法教授とオークショット・佐伯啓思-「平等」と進歩・保守。

 一 宮沢俊義・新版補訂憲法入門(勁草、1993、初版1950)における<ごった煮「民主主義」観>についてはすでに書いた。
 宮沢俊義・憲法と天皇-憲法二十年・上-(東京大学出版会、1969)にはこんな一文もある-「平等主義は、いうまでもなく、民主主義のコロラリイである」(p.40)。
 宮沢において「民主主義」とは、肯定的に評価されるべきすべての価値・主義が何でも飛び出してくる玉手箱のようだ。上のような文を書いて、恥ずかしくなかったのだろうか。
 最も気の毒なのは、こんな概念・論理関係の曖昧な人物を師と仰ぎ、<尊敬>しなければならなかった東京大学の憲法学の後裔たちかもしれない。
 二 平等といえば、宮沢俊義・憲法講話(岩波新書、1967)は、ルソー・人間不平等起源論の基本的内容を紹介したのち、こんなことを書いている(以下、p.73)。
 自然状態での人間の平等という主張は大昔には実際にそうだったという意味ではない。「この社会に現に存する不平等は、自然のものではなく、すべて人が作ったものであるから、必要があれば、人が変えることのできるものだ」、との意味だ。
 ルソーに好意的な点も含めて、マルクス主義者ではなくともさすがに昭和戦後の<進歩的>知識人の一員らしい文章だろうか。
 だが、ルソーの原意の詮索はさておき、「この社会に現に存する不平等は、自然のものではなく、すべて人が作ったものである」との上の前提的叙述は正しくはないのではないか。
 体力・知力・種々の能力、さらには容貌等も含めて(容貌はもちろん他の要素も客観的な優劣を決めがたいとしても)、「不平等」は「すべて人が作ったものである」という認識は決定的に誤っているだろう。個々の人間は体力・知力・種々の能力、容貌等について、<生まれながらに>平等であるはずがなく、これらの「すべて」について、後天的に人為的な差違を作られた、などと言える筈がない。

 これらの「すべて」が<生まれながらに>平等な人間ばかりの社会は奇妙で、気持ちが悪いに違いない。オーウェルの描いた1984年の社会管理者にとっては好都合かもしれないが。
 ひょっとして宮沢は
、「この社会に現に存する不平等」という語で<社会的>不平等を意味させているのかもしれない。だが、その場合であっても、体力・知力・種々の能力、容貌等についての<生まれながらの>不平等に起因するとしか考えられない<社会的>不平等=異なる社会的取り扱いもあるわけで、「すべて」の<社会的>不平等の解消が望ましく、かつそれは可能だ旨の叙述は、あまりに単純素朴すぎると思われる。
 東京大学教授が、「この社会に現に存する不平等」=<社会的>不平等は「すべて人が作ったものである」ので「必要があれば、人が変えることのできる」と単純(ほとんど=幼稚)に書いてよかったのだろうか。
 いつか触れたように、平等と「自由」の間には、今日的でもある困難な問題がある。単純素朴に<平等化>を説けたのは戦後の一時期か、純粋な平等主義者、すなわち観念上の存在としての共産主義者に限られるだろう。
 東京大学出身で現京都大学教授の佐伯啓思が引用すると些かの反発も生じないとは言えないだろうが、佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)p.23は、オークショットの保守主義論に言及して、オークショットの「保守的であるとは」のあとの文を、次のように紹介している。
 「自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きて行くことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを追求しようとしないことである」。
 むろん一概に「自己のめぐりあわせに対して淡々と」すべきだとは思えない(理不尽な差別的取扱いや不当な批判・非難もありうる)。怒り、闘うべき場合もあるだろう。だが、第一次的又は基本的な考え様として、「自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを追求しようとしないこと」は大切であり、宮沢と比べて、リアルな認識を背景としているように思える。
 戦後の<平等化>思想、そして<平等>教育は、「自己の身に相応しく生き」ようとしない、あるいは「自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを追求しよう」とする大量の人々を生んだ、と考えられる。
 その結果は何だったのだろう。横並びを善とし、<より上>の人々を妬み、誹る心理の蔓延ではなかったか。政治家・上級官僚は当然にその対象になる。朝日新聞、TBSをはじめとするマスメディアもまた、そのような嫉妬の感情を煽り、記者自身がそのような感情にもとづいて記事を書き、キャスターやコメンテイターがテレビで喋る。
 あるいはまた、具体的な他の誰の<責任>でもなく、場合によっては本人の<責任>かもしれない状況について、<生まれながらの、平等に生きる権利>がある筈ではないのか!、それが保障されていないのは国家・政治・社会が悪い!、と思いこみ、鬱屈した生活を送ったり、鬱憤を晴らすために他人を殺傷したりする者が少なからず出現するに至っている。
 「誰でもよかった」などと言って一般国民・市井の人に刃を向ける者が現れたりしているのは、究極的には悪しき<平等主義>・<平等教育>に原因があるのではないか(つい最近の厚生省元事務次官事件ではなくもっと前の秋葉原事件等を想定して書いている)。
 平等、平等、競争しなくてもみな同じ、という学校教育からこそ、あるいはそれを含む<戦後民主主義>の風潮の中からこそ、現実の社会には生じる、あるいは存在する<不平等>=<格差>に対する、不相応の又は過度の又は方向違いの<不平・不満>が結果として多く生まれ出ているのではないか。一億総嫉妬社会(妬み=ねたみ、嫉み=そねみ)
の出現だ。

0508/戦後日本の「保守」主義成立の困難さ-佐伯啓思による。

 佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)p.172-3によると、戦後日本に「保守という思想」がありうるのか、ということから考察する必要がある(それは成立し難いということを(多分に)含意させているようだ)。
 その理由の第一は、佐伯によると以下のことにある。
 「いわゆる保守派」はアメリカの保守思想を手本にしたため、「本当の意味でのヨーロッパの保守主義(とくにイギリスの保守主義)」が日本にうまく「根づかなかった」。
 ヨーロッパ思想も導入されたが、「ほとんどは、いわゆる左翼進歩主義的」なものだった。すなわち、「戦後の思想のスター」は、ルソー、ヘーゲル、マルクス、ウェーバー、ロック、ミル、ハーバーマス、アドルノ、サルトル、「フランス現代思想系の人たち」〔デリダやフーコーらか?-秋月〕だった。一方、エドマンド・バーク、コーク、ブラックストーン、ヒューム、カーライル、バジョット、オークショットらは紹介されなかったか、殆ど無視された。
 前回に続いて、かかるリストアップ、とくに後者の<保守主義>又は<反・左翼>の人名のそれ、をしておきたい気持ちも強くて、紹介した。「イギリスの保守主義」とは、ときに「スコットランド(学派)の保守主義」と称されるものを重要なものとして含んでいるだろう。ともあれ、日本の研究者による外国の思想(家)の紹介や分析が、公平・中立あるいは客観的に行われているわけでは全くない、ということは明らかだ。  日本の思想・政治・文化等の状況に応じて、指導教授や<仲間たち(同業者)>の意向・動向をも気にしつつ、研究者個人がどう「価値」判断するかを直接には契機として、<外国研究>は行われているわけだ。このことは、思想・哲学に限らず、人文・社会系の全ての学問分野にあてはまるものと思われる。
 上に関する理由の第二として、佐伯は丸山真男に次のように論及する。
 「保守」はその国の「歴史や伝統」から出発するが、戦後日本はGHQのもとで「日本の伝統」という「因習的で封建的な」ものを「ほとんど切り捨て」た。東京大学の憲法学者・宮沢俊義も「八月革命説」を唱え、丸山真男は「革命」の起きた八・一五という原点に立ち戻れと繰り返し説いた。となると、「革命」により「生まれ変わった」日本には、「伝統や慣習」を大切になどとの発想がでてくる筈はない。
 以上で要約的紹介の今回分は終わりだが、かかる、丸山真男を典型とする、戦前日本の、そしてまた日本の「歴史や伝統」の(少なくともタテマエとしての)全否定が、「本当の」<保守思想>成立を困難にした、というわけだ。そのような風潮に、所謂<進歩的知識人・文化人>は乗っかり、又はそれを拡大した、ということになる。その影響は今日まで根強く残っているものと思われる。(「外」の力によってであれ)望ましい「革命」があったとするなら、神道や日本化された仏教という<歴史的・伝統的な>ものに関する知識やそれらへの関心が大きく低下したのもしごく当然のことだ。
 「八月革命説」と昭和天皇の現憲法公布文(「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」)はどういう関係に立つのか(立たないのか)、および丸山真男の議論の具体的内容については、いずれまた言及することがあるだろう。

0257/再び参院議員選挙について。

 前々回に「参院選の基本的争点」などという大口を叩いた。産経6/26の正論欄では、村田晃嗣が「選挙への思惑を超えて、取り組むべき長期的な課題し山積している」として、第一に地球環境(温暖化)問題-安倍首相の「美しい星」構想、第二に集団自衛権問題を挙げている。そして、与野党ともに選挙にかまけて「日本外交にとっての長期的な戦略的課題」をなおざりにするなと結んでいる。
 異論はないが、こうした課題に関する議論は選挙の争点又はテーマのいくつかの一つにしても何ら差し支えないものだろう。
 月刊正論8月号(産経)の中西輝政「「年金」を政争の具にする愚かさ」は、政治家の事務所経費問題は「本当は小さな問題」で、これが大きくなったのは「瑣末民主主義」という「日本政治の病理の更なる昂進」の証左であり、政治とカネの問題を軽視するのは怪しからんという「小児病的正論」が歴史的に何をもたらしたのか「マスコミや世論はじっくり考え」るべき旨を述べている(p.78)。まことに正論、と私は感じる。
 中西においてはタイトルどおり、「年金」もまた「政争の具」にされてはならない。同感だ。自民党は街頭演説会等でこの問題に殆どの時間を費やすような愚かなことはしなくてよいのではないか。他の問題も含めて、安倍内閣のこれまでの成果を堂々と訴え、今後の方向を年金問題も含めてこれまた堂々と自信をもって訴えたらよいのではないか。
 中西によれば、年金記録漏れ5000万件の事実は日経が2月に報道し、民主党も認識していたが、5/23の会合で、つまり参院選の時期が近づいてから、小沢一郎・民主党代表は「年金問題を参院選の最大の争点にせよ」と檄を飛ばした、という(p.81)。国家の理念も国益も忘れてもっぱら<選挙に勝つ>ことしか考えていない小沢一郎の戦術は果たして成功するのかどうか。
 再び中西によれば、年金制度は重たい問題で、その変革は超党派で取り組むことが求められるのがスエーデン、ドイツ、イギリスなどの例であり、教訓らしい。戦前のドイツで時の与党を年金問題で攻撃して大躍進したのがヒトラー・ナチスだという。中西によれば、にもかかわらず、日本では「与野党、特に野党の側に自己抑制が働いていない」。
 中西は言う-「ポピュリズムを煽ることしか念頭にないマスコミに煽動された国民の多くはあのずさんな社保庁を放置してきた責任は「与党にある」としかとらえない。マスコミは「政争の具にしてはならない」との声を、単なるレトリックとしてしか見ない。そこにこそ年金問題の本質がある」(p.82)。
 代表者(立法議会議員)を選出する自由な投票こそが「民主主義」の根幹だが、民主主義又は民主制はもともと<衆愚政治>の意味を内包している。「衆愚」というと印象の悪い言葉なので、「大衆民主主義」には弊害又は消極的側面がある、と言った方がよいかもしれない。
 「大衆民主主義」とは現代を表現する学問上の概念だ。阪本昌成の本によると、オルテガやオークショットは「大衆民主主義の影」を気遣い、懸念した、という(同・リベラリズム/デモクラシー第二版(有信堂、2004)p.93)。
 日々の生業・生活に忙しい国民(有権者)の全てが必要な全情報を得たうえで適切かつ合理的に政治的な判断・選択ができる訳がない(これは憲法改正以外の案件に関する国民投票制度や自治体レベルでの住民投票制度の設置や利用に私が消極的で、「代議制」=間接民主主義の方が優れていると考える理由でもある。この点はまた別の機会に)。
 もともとそういう限界があるところに、現代の選挙は「マスコミ」が作るイメージにかなり左右されてしまうという面もある。
 ということもあり、年金問題がなくとも自民党は敗北する(議席減少)予定の選挙だったのだから、敗北(議席減少)はやむをえない。
 だが、安倍首相の退陣だけは是非、何としても避けたいものだ。朝日新聞と日本共産党・社会民主党がこれまでの首相に対するのと比べても安倍首相攻撃・批判を強めてきたのは、安倍が彼らと正面から闘う人物だからだ。彼らにとっては、安倍は怖いのだ。安倍退陣は朝日新聞の若宮某を含む彼らを小躍りさせて喜ばせてしまうだろう。北朝鮮が喜ぶのも目に見えている。
 そのような首相を変えてはいけない。共社両党と妥協したり朝日新聞の主張に部分的にせよ<迎合>するような首相に変われば、近年の数年間の努力は無に帰してしまう。
 保守派からの不満は残ったのだろうが、内閣総理大臣による靖国神社への参拝をともかくも復活させたのは、小泉前首相だった。
 教育基本法も改正され、憲法改正手続法も制定されて、大きな変化の時代を乗り越える準備が現に着々となされ(社保庁解体・公務員制度改革もその一つ)、たんなる準備ではない成果も挙げてきているのだ。首相在任まだ10ケ月の安倍晋三を辞めさせるのは早すぎるし、日本のためにも絶対にならない

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