=Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
第6章の試訳を行う。
上のうち、これまでのL・コワコフスキ著の試訳とは異なり、ドイツ語訳書を第一に用いる。適宜、英訳書も参照する。いずれによるかによって、文構造や表面上の訳語はかなり異なる。いずれも分冊版で、独訳書、p.151~。英訳書、p.132~。
第6章の第1節にあたるものの前には見出しがないので、たんに「(序)」とした。
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第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
(序)
(1)1844年、マルクスはパリで、論考を執筆していた。それは政治経済学を批判し、経済学上の基本概念を一般的哲学的に分析しようとするものだった。経済学上の基本概念とは、資本、地代(Grundrente, rent)、労働、所有権(Eigentum, property)、貨幣、需要(Bedürfnisse, needs)、賃金(Arbeitslohn, wages)。
この論考は完成せず、1932年に初めて公刊され、「1844年の経済学哲学草稿」という表題で知られる。そして、マルクスがスケッチ風に叙述したものだったにもかかわらず、公刊後には、マルクス主義の進展に関する研究者が依拠する、最も重要な典拠の一つになった。
マルクスは実際に、社会主義を一つの総体的世界観として叙述しようとしている。社会主義を社会改革の綱領としてのみならず、経済学の諸範疇を自然と人間の間の哲学的に解釈される関係へと統合しようとしている。その際、この関係は、認識論上の問題と形而上学上の問題を論述するための基礎にもなっている。//
(2)マルクスは、ドイツの哲学者や社会主義著作者だけではなく、彼がそれらの著作の研究を開始していた、政治経済学の創設者たちも、その出発点としていた。すなわち、ケネー(François Quesnay)、A・スミス、リカルド、セイ(Jean-Baptiste Say)、ジェイムズ・ミル(James Mill)。//
(3)自明のことだが、『草稿』から『資本』の全内容を抽出することができるというのは、完全に誤っている。
それでもしかし、『草稿』は、マルクスが生涯の終わりまで書き続け、最終型が『資本』と称される書物の、輪郭(Umriß)だ。
最終型は決して初めの型を否定しておらずその発展型だ、ということを支持する重要な根拠がある。
「成熟した」形でのマルクス主義の基礎だと考えられている価値理論も剰余価値理論も、『草稿』には存在しない。
特殊マルクス的内容をもつ価値理論は(すなわち抽象的価値と具体的価値の区別や労働力の商品性の承認と連結させたものは)、しかし、疎外労働の理論の明確な範型に他ならない。//
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第1節・ヘーゲルへの批判・人間の基礎としての労働。
(1)ヘーゲルの『精神現象学』は、とりわけ疎外(Entfremdung, alienation)の理論と疎外過程としての労働の理論は、マルクスにとっての消極的な準拠点(Bezugspunkte)だった。
マルクスにとって、ヘーゲルの否定の弁証法の偉大さは、人間の自己生産の過程を疎外とその止揚(Aufheben, transcendence)の連続的段階だと把握する、という点にある。
ヘーゲルによると、人間はその種としての本質をつぎのようにして明らかにする。まずは具象的な状態での自分に固有の諸力と関係づけ、次いで言わば外部からそれらを再び自己のものとする(=同質化する)ことによって。
人間の本質(menschliches Wesen, essence of man)を実現するものとしての労働は、ヘーゲルにとってはそのゆえに、もっぱら積極的な意義をもつ。それ自身の外部化を通じて人間性が発展する、そのような過程なのだ。
しかしながら、ヘーゲルによっては、人間の本質は自己意識と同一視され、労働は精神的活動と同一視される。
したがって、その本来の形態での疎外は自己意識の疎外であり、全ての具体的実在は疎外された自己意識だ。
ヘーゲルによると、人間が自分の本質を改めて我が物とすることは、具体的対象の止揚であり、それを人間の精神的本質へとそれを帰還させることなのだ。
人間の自然との統合は、精神の次元で行われる。その理由で、マルクスにとっては、抽象的で表面的なものになる。//
(2)マルクスはこれに対し、人間を考察するに際して、フォイエルバハに従って、自然との肉体的(sinnlich, phiysical)な交渉という意味での労働を、出発点に据えた。
労働は人間の全ての精神活動の条件であり、人間は労働のうちに自己の創造力の対象である自然はもとより、自分自身を創り出す。
人間が必要とする対象は、ゆえに人間がその本質を発見して実現する対象は、人間とは別個のものだ。すなわち換言すれば、人間は被る(leidend, passive)存在でもある。
だが、人間はたんに自然的存在であるのではなく、人間自体のための存在(Fürsichsein, being-for-himself[対自存在])だ。したがって、事物は人間にとって、人間・対象・存在という状況を考慮しないで済む(=人間の対象であるということとは無関係の)単純なものとして、存在しているのではない。
「ゆえに、<人間の>対象は、人間に直接に提示される自然的対象ではない。また、直接的な<人間の感覚(Sinn)>は、<人間的感覚(Sinnlichkeit)>や人間的な対象でもない。」(1)
従って、疎外されたものとして対象を止揚することは、ヘーゲルが言うのとは反対に、対象たるものの止揚では全くあり得ない。
人間が自然と対象を再び我が物とする可能性は、疎外労働のメカニズムを通じて明らかになる、疎外という現実の現象が発生する態様を明確にすることによって、初めて生まれる。//
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(1) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 579.〔マルクス=エンゲルス全集補巻第一部、579頁〕
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「序」と第1節、終わり。