Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
邦訳書は、たぶん存在しない。試訳に際して、一文ごとに改行し、段落の最初に元来はない数字番号を付す。〈〉で包むのは原文で斜字体(イタリック)になっている部分。
この書の本文全体の内容・構成は、つぎのとおり。未読なので、訳には誤りがあり得る。
----
緒言
序説—ウクライナ問題。
第1章・ウクライナ革命、1917年。
第2章・反乱、1919年。
第3章・飢饉と休止、1920年代。
第4章・二重の危機、1927-29年。
第5章・集団化—田園地帯での革命、1930年。
第6章・反乱、1930年。
第7章・集団化の失敗、1931-32年。
第8章・飢饉決定、1932年—徴発、要注意人物名簿、境界。
第9章・飢饉決定、1932年—ウクライナ化の終焉。
第10章・飢饉決定、1932年—探索と探索者。
第11章・飢餓—1933年の春と夏。
第12章・生き残り—1933年の春と夏。
第13章・その後。
第14章・隠蔽。
第15章・歴史と記憶の中のHolodomor。
エピローグ・ウクライナ問題再考。
----
さしあたり、緒言(Preface)から試訳してみる。
——
緒言
緒言/第一節①。
(01) 警戒すべき兆候は、十分にあった。
1932年の初春までに、ウクライナの農民は飢え始めていた。
秘密警察の報告書やソヴィエト同盟じゅうの穀物栽培地域—北Caucases、Volga 地域、西Siberia—からの手紙が語っていたのは、空腹で膨らんだ子どもたち、草の葉や木の実を食べている家族、食料を探して家から逃亡する農民たち、だった。
三月、医療委員団は、Odessa 近傍の村落の通りに死体が横たわっているのを発見した。
遺体を埋葬する力強さを持つ者は、誰一人いなかった。
別の村では、当局が死亡者の存在を外部者に隠そうとしていた。
彼らは、村落訪問者の目により明らかになっているときですら、起こっていることを否定した。(1)
(02) ある者は、説明を求めて、クレムリンに書き送った。
「スターリン閣下、村民は餓えなければならないと定めるソヴィエト政府の法令がありますか?
なぜなら、我々、集団農場労働者は、我々の農場で1月1日以降にパンの一切れも食べていないからです。…
収穫はまだ四ヶ月も先にあって、餓死を宣告されているような状態で、我々はどのようにして社会主義的人民経済を建設することができるのですか?
戦場で我々は、何のために死んだのですか?
飢えるためですか? 我々の子どもたちが空腹の苦しみの中で死んでいくのを見るためですか?」(2)
(03) 別の者は、ソヴィエト国家に責任があり得ると考えるのは不可能だと思った。
「毎日、村落で、10から20の家族が飢饉で死んでいる。子どもたちは逃げ出し、鉄道駅は逃亡する村民で溢れている。
農村地帯には、馬も家畜も残っていない。…
ブルジョアジーはここで、本当の飢饉を生み出した。それは、農民階級全体をソヴィエト政府に対抗させようとする資本主義者の計画の一部だ。」(3)
(04) しかし、ブルジョアジーは飢饉を作り出さなかった。
農民に土地を放棄させて集団農場に加わるようにし、「kulaks」すなわち富裕な農民を郷土から追い立て、そのあとに混乱を続かせたのは、ソヴィエト同盟の残忍な決定によるものだった。
これらの政策の全てについて責任があるのは、究極的にはJoseph Stalin、ソヴィエト共産党総書記、だった。
スターリンは、農村地帯を飢餓の縁に追い込んだ。
1932年の春と夏を通して、多数の彼の同僚たちはソヴィエト連邦じゅうから、危機にあるとする切迫した連絡文を発した。
ウクライナの共産党指導者たちはとくに絶望的で、そのうち何人かは、助けを乞い求める長い手紙をスターリンに書き送った。
(05) 1932年の夏遅くには、彼らの多くは、さらに大きな悲劇の発生はまだ避けられる、と考えた。
体制は、1921年のかつての飢饉のときに行ったように、国際的な支援を求めることができただろう。
また、穀物輸出を停止するか、制裁的な穀物徴発を全て中止するかを、できただろう。
飢餓地域の農民たちに援助の手をさし延べることもできただろう。
—そして、ある程度は、実際にそうした。しかし、とても十分なものではなかった。
(06) それどころか、1932年秋に、ソヴィエト政治局、つまりソヴィエト共産党のエリート指導層は、ウクライナの農村地帯での飢饉を拡大し深化させ、同時に農民が食料を求めて共和国を出るのを妨げる一連の決定を下した。
危機が高まったとき、警察官と党活動家の組織立ったチームは、空腹と恐怖および多数の憎悪と策略に満ちた文章に掻き立てられて、農民たちの家屋内に入り、食べられる全てのものを奪った。ジャガイモ、ビート、カボチャ、大豆、エンドウ豆、釜戸にある全て、食器棚にある全て、農場用の家畜、ペット。//
(07) 結果は、大惨害(catastrophe)だった。ソヴィエト同盟全体で、少なくとも500万の人々が、1931年と1934年の間に、飢え死にした。
その中に、390万のウクライナの人々がいた。
この規模を承認するに際して、当時およびのちの移民たち(émigré)の出版物では、1932-33年の飢饉は〈Holodomor〉と表現されている。この言葉は、飢餓を示すウクライナ語—〈holod〉—と絶滅(extermination)—〈mor〉—に由来していた。(4)
(08) しかし、飢饉は物語の半分にすぎなかった。
農民たちが田園地帯で死んでいる間に、ソヴィエト秘密警察は同時に、ウクライナの知識人や政治的エリートたちに対する攻撃を開始した。
飢饉が広がるとともに、ウクライナの知識人、教授たち、博物館員、作家、画家、聖職者、神学者、公務員および官僚層に対して誹謗し、これらを抑圧する宣伝活動が始まった。
1917年6月から数ヶ月存在した、短命のウクライナ人民共和国に関係した者は全員が、ウクライナ語またはウクライナの歴史を奨励した者は全員が、独立した文学的または芸術的経歴をもつ者は全員が、公的に非難され、収監され、あるいは強制労働収容所に送られるか処刑された。
Mykola Skrypnyk、最も著名なウクライナ共産党の指導者の一人は、起きていることを見るに耐え切れず、1933年に自殺した。
彼だけでは、なかった。
——
②へと、つづく。
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
邦訳書は、たぶん存在しない。試訳に際して、一文ごとに改行し、段落の最初に元来はない数字番号を付す。〈〉で包むのは原文で斜字体(イタリック)になっている部分。
この書の本文全体の内容・構成は、つぎのとおり。未読なので、訳には誤りがあり得る。
----
緒言
序説—ウクライナ問題。
第1章・ウクライナ革命、1917年。
第2章・反乱、1919年。
第3章・飢饉と休止、1920年代。
第4章・二重の危機、1927-29年。
第5章・集団化—田園地帯での革命、1930年。
第6章・反乱、1930年。
第7章・集団化の失敗、1931-32年。
第8章・飢饉決定、1932年—徴発、要注意人物名簿、境界。
第9章・飢饉決定、1932年—ウクライナ化の終焉。
第10章・飢饉決定、1932年—探索と探索者。
第11章・飢餓—1933年の春と夏。
第12章・生き残り—1933年の春と夏。
第13章・その後。
第14章・隠蔽。
第15章・歴史と記憶の中のHolodomor。
エピローグ・ウクライナ問題再考。
----
さしあたり、緒言(Preface)から試訳してみる。
——
緒言
緒言/第一節①。
(01) 警戒すべき兆候は、十分にあった。
1932年の初春までに、ウクライナの農民は飢え始めていた。
秘密警察の報告書やソヴィエト同盟じゅうの穀物栽培地域—北Caucases、Volga 地域、西Siberia—からの手紙が語っていたのは、空腹で膨らんだ子どもたち、草の葉や木の実を食べている家族、食料を探して家から逃亡する農民たち、だった。
三月、医療委員団は、Odessa 近傍の村落の通りに死体が横たわっているのを発見した。
遺体を埋葬する力強さを持つ者は、誰一人いなかった。
別の村では、当局が死亡者の存在を外部者に隠そうとしていた。
彼らは、村落訪問者の目により明らかになっているときですら、起こっていることを否定した。(1)
(02) ある者は、説明を求めて、クレムリンに書き送った。
「スターリン閣下、村民は餓えなければならないと定めるソヴィエト政府の法令がありますか?
なぜなら、我々、集団農場労働者は、我々の農場で1月1日以降にパンの一切れも食べていないからです。…
収穫はまだ四ヶ月も先にあって、餓死を宣告されているような状態で、我々はどのようにして社会主義的人民経済を建設することができるのですか?
戦場で我々は、何のために死んだのですか?
飢えるためですか? 我々の子どもたちが空腹の苦しみの中で死んでいくのを見るためですか?」(2)
(03) 別の者は、ソヴィエト国家に責任があり得ると考えるのは不可能だと思った。
「毎日、村落で、10から20の家族が飢饉で死んでいる。子どもたちは逃げ出し、鉄道駅は逃亡する村民で溢れている。
農村地帯には、馬も家畜も残っていない。…
ブルジョアジーはここで、本当の飢饉を生み出した。それは、農民階級全体をソヴィエト政府に対抗させようとする資本主義者の計画の一部だ。」(3)
(04) しかし、ブルジョアジーは飢饉を作り出さなかった。
農民に土地を放棄させて集団農場に加わるようにし、「kulaks」すなわち富裕な農民を郷土から追い立て、そのあとに混乱を続かせたのは、ソヴィエト同盟の残忍な決定によるものだった。
これらの政策の全てについて責任があるのは、究極的にはJoseph Stalin、ソヴィエト共産党総書記、だった。
スターリンは、農村地帯を飢餓の縁に追い込んだ。
1932年の春と夏を通して、多数の彼の同僚たちはソヴィエト連邦じゅうから、危機にあるとする切迫した連絡文を発した。
ウクライナの共産党指導者たちはとくに絶望的で、そのうち何人かは、助けを乞い求める長い手紙をスターリンに書き送った。
(05) 1932年の夏遅くには、彼らの多くは、さらに大きな悲劇の発生はまだ避けられる、と考えた。
体制は、1921年のかつての飢饉のときに行ったように、国際的な支援を求めることができただろう。
また、穀物輸出を停止するか、制裁的な穀物徴発を全て中止するかを、できただろう。
飢餓地域の農民たちに援助の手をさし延べることもできただろう。
—そして、ある程度は、実際にそうした。しかし、とても十分なものではなかった。
(06) それどころか、1932年秋に、ソヴィエト政治局、つまりソヴィエト共産党のエリート指導層は、ウクライナの農村地帯での飢饉を拡大し深化させ、同時に農民が食料を求めて共和国を出るのを妨げる一連の決定を下した。
危機が高まったとき、警察官と党活動家の組織立ったチームは、空腹と恐怖および多数の憎悪と策略に満ちた文章に掻き立てられて、農民たちの家屋内に入り、食べられる全てのものを奪った。ジャガイモ、ビート、カボチャ、大豆、エンドウ豆、釜戸にある全て、食器棚にある全て、農場用の家畜、ペット。//
(07) 結果は、大惨害(catastrophe)だった。ソヴィエト同盟全体で、少なくとも500万の人々が、1931年と1934年の間に、飢え死にした。
その中に、390万のウクライナの人々がいた。
この規模を承認するに際して、当時およびのちの移民たち(émigré)の出版物では、1932-33年の飢饉は〈Holodomor〉と表現されている。この言葉は、飢餓を示すウクライナ語—〈holod〉—と絶滅(extermination)—〈mor〉—に由来していた。(4)
(08) しかし、飢饉は物語の半分にすぎなかった。
農民たちが田園地帯で死んでいる間に、ソヴィエト秘密警察は同時に、ウクライナの知識人や政治的エリートたちに対する攻撃を開始した。
飢饉が広がるとともに、ウクライナの知識人、教授たち、博物館員、作家、画家、聖職者、神学者、公務員および官僚層に対して誹謗し、これらを抑圧する宣伝活動が始まった。
1917年6月から数ヶ月存在した、短命のウクライナ人民共和国に関係した者は全員が、ウクライナ語またはウクライナの歴史を奨励した者は全員が、独立した文学的または芸術的経歴をもつ者は全員が、公的に非難され、収監され、あるいは強制労働収容所に送られるか処刑された。
Mykola Skrypnyk、最も著名なウクライナ共産党の指導者の一人は、起きていることを見るに耐え切れず、1933年に自殺した。
彼だけでは、なかった。
——
②へと、つづく。