第一部第四章の試訳のつづき。
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第一部/第四章・イタリア②。
(12) このような悲劇的事態について、私は相談されなかったし、関与もしなかった。イタリアは、私には全くのパラダイスだった。
学校も軍事教練もなく、Radonski はおらず、〈ablativus absolutus〉(絶対奪格(文法))もアフリカのLimpopo 河もなかった!。
私は毎日をのんびりと、ローマの美術館を訪れ、演奏会やオペラに通い、映画館へ行って過ごした。
ポーランド大使館で世界じゅうの切手を収集し、ドイツ人難民の切手取扱業者に売って、これらを安価に楽しむ入場券代を得た。
イタリア人が入場券を購入するとき、一定の映画鑑賞者がある言葉—「Dopolavoro」—を発しているのに、私は気づいた。これを言うと、半額で、通常は2リラのところを1リラで買うことができた。
この言葉の意味を知ることなく、節約したい思いで、私は映画券を安くするために、さりげなく「Dopolavoro」と言ったものだ。
のちにようやく、Dopolavoro(「労働の後」)とはファシストの労働者組織のことだと知った。
このことはムッソリーニ独裁体制の弛緩ぶりを示している。誰も、私が会員であることの証明を要求しはしなかった。//
(13) ローマには、ほとんど旅行者がいなかった。
今日では混雑してフレスコ画をほとんど見ることのできないSistina Chapel は、いつ行っても、おそらく数人の旅行者しかいなかった。
私は全ての美術館と画廊を訪れて、一度ならず、十分なメモを取った。
スペイン広場の階段の上にあるドイツ芸術図書館で、数時間を過ごした。そこで、Giotto に関する企画書の資料を集めた。
両親を通じて、若いポーランド・ユダヤ人女性と会って、友人になった。この人は、彼女の娘をポーランドから脱出させたいという望みをもって、上海からローマに来ていた。
我々は一緒に美術館を訪れて、時間を過ごした。
彼女は、私の唯一の同伴者だった。彼女が神経衰弱に罹って、彼女を失ったのは気の毒なことだった。//
(14) 私の将来に関して、父親と衝突した。
父親は、今の騒乱した世界では、しっかりした職業か事業を持たなければ私は生きていけないだろうと心配した。
この当時の、1939年12月21日付の私の日記の初めに、こう書かれている。
「私は、父親のつぎのような意見を拒絶した。私が学者になるというのは考え難い、いずれ、カナダのどこかの『チョコレート工場』で父親を継がなければならないだろう。
〈Es kommt ausser Frage〉(問題外だ)、〈kommt nicht in Betracht〉(考慮外だ)、父親が私に言うことは。…
自分のことは自分で決定する、自分がしたいことをするだろう、と私は分かっている。」//
(15) 散発的に書き続けた日記から判断すると、今ではイタリアでの7ヶ月には楽しい思い出しかなかったようだ。しかし、幸せにはほど遠かった。孤独、郷愁に苦しみ、友人たちを懐かしく思い、将来のことで悩んでいた。//
(16) フィレンツェ大学が外国人向けのイタリア芸術と文化の特別コースを提供していることを知り、出席させてくれるよう両親を説得した。
完全に自分で行うこととした最初だった。
3月半ば、母親はフィレンツェまで私に同行し、私がdei Benci 通りのユダヤ人女性の住戸区画の部屋を借りているのを知った。そこは、素晴らしいGiotto のフレスコ画のあるSanta Croce 教会の近くにあった。
私はその頃までに、講義を理解するためのイタリア語を増やしていた。
誰とも親しくならなかったが、必要があるときは学生の誰かに、自分はラテン・アメリカ出身だと言った。
イタリア文学の外国への影響に関する講義のときに、学生の一人が立ち上がって教授に向かって、聴衆の中にラテン・アメリカ人がいると伝えた。
授業のあとで教授に紹介されたとき、その教授は私に向かって「素晴らしい、きみは私の家を訪れてきみの国の文学に関する全てを語ってくれたまえ」と言った。//
(17) この出来事のあと、私は講義に出席するのをやめた。
それ以降、ずっと一人で過ごした。フィレンツェの教会、美術館、そして市を囲む丘陵地を歩き回った。
春で、花がいっぱい咲いていた。
私はきわめて質素に生活した。
主な昼食は、どの日も、種々の肉の欠片がかけられたパスタ、一杯のワイン、デザートのオレンジだった。それに7リラ(25USセント)支払った。快くほろ酔いになった。
朝食と夕食に一日あたり5リラがかかり、家賃は一月120リラだった。
今日まで60年間にあったインフレを少し考える。当時は700リラで一ヶ月を過ごすことができたが、それでは今日では一杯のエスプレッソも飲めないだろう。
私は〈Osservatore Romano〉を読んで、戦争のニュースを追いかけ続けた。その新聞はVatican の公式の日刊紙で、適切な媒体だった。//
(18) 私と同じアパートに、ドイツからの難民一家がいた。歯医者で、妻と娘がいた。
私は本当の自分のことを話さなかったが、彼らは何も疑っていなかった。
ほとんど6年後に、ベルリン出身のユダヤ人歯科医師の名簿をたまたま見る機会があった。
私の知り合いを訪ねて、彼らはSomalia へ行き、そこからPalestine へと移ったということを知って、安心した。//
(19) イタリア政府は、ドイツから、大部分は無視されていたその反ユダヤ諸法を実施するよう圧力を受け続けていた。
1940年4月、政府当局はユダヤ人に不動産を貸すことを禁止する布令を施行した。
私は転居せざるを得なくなり、Lungarno delle Grazie 10 のペンションの一部屋に移った。
そこの賃借人のあとの二人は、フランス人女子学生と、イタリアの予備将校だった。
我々は一緒に食事を摂った。
思い出すのだが、あるときその将校が、かりに政府がフランスと戦闘することを命じたら、自分は武器を置いて降伏するつもりだ、と言った。
私は唖然とした。ポーランドでは、ナツィ・ドイツやソヴィエト・ロシアでは勿論だが、そう発言したことがかりに報告されれば、将校は逮捕されて処刑されていただろう。
ここでは、何事も起きなかった。//
(20) ヨーロッパでは相対的な静穏さが続いていたが、父親は、可能なかぎりすみやかに我々を脱出させる決意だった。
4月末、父親から、家族一の英語半会話者として、ナポリに同行するよう求められた。そこで、アメリカの領事にビザの発行を説くためだった。
我々の要請は拒否された。我々の順番は6月になるだろう、と言われた。
別れるときにアメリカの領事は、「I am sorry」と言った。この表現の仕方を聞くのは、初めてだった。//
(21) ヨーロッパの危機が迫って来ていた。
5月10日、ドイツがベルギーとオランダに侵攻した、とフランスの女の子に告げるために家へと急いだ。
彼女は、出立しようとすぐに荷造りをした。
2日後、両親から、ローマに戻るようにとの電話があった。
両親は、我々の移住ビザが6月1日に用意されると、米国の領事から知らされたようだった。
私は5月13日にローマに戻り、その月の残りをPiamonte 通りで過ごした。
ドイツ軍は再び、驚異的な早さで前進していた。
オランダは5月14日に、ベルギーは5月26日に、降伏した。
ドイツ軍は6月の初めまでに、フランス内部へ深く侵攻し、連合軍は総退却した。
ムッソリーニはもうすぐヒトラーに加わって宣戦するだろう、と予期された。//
(22) 6月3日、母親が、アメリカのビザを受け取りにナポリへ行った。
数日前に、父親は、スペインの通過ビザを得ていた。
戦争熱の高まりの中で、スペインへの移動手段を獲得するのはきわめて困難だった。しかし、父親は、スペインのBalearic 諸島のPalmas 行きの水上飛行機の切符2枚を何とか確保した。
父親と私が、兵役年齢で、それを理由に戦争中は勾留されるかもしれなかったので、その飛行機で出発し、母親は船で追いかける、と決定された。//
(23) 6月5日、父親と私はスペインへと出発した。
間一髪だった。我々はのちに知ったのだが、まさにその日に、イギリスとフランスの国民は人質として役立つべくイタリアを離れるのを禁止された。
我々が自由にすることができるいかなる保証もなかった。
ラテン・アメリカとポーランドの旅券を携帯して、我々はタクシーで空港へ行った。ポーランドの旅券はスペインとアメリカの二つのビザを伴っていたが、イタリアが我々をラテン・アメリカ人として登録するかは不確実だったので、前者はスペインのビザだけだった。
父親が私に、搭乗ゲートにいる職員の後ろを盗み見して、気づかれないように我々の名前の次に公民権が記入されているかを覗くよう、頼んだ。
消極の(記入されていないとの)合図を送ると、我々に同行した友人たちは、ニセの旅券を隠していたオレンジ入りの袋を母親から取り去った。
その友人たちから、戦争後になって、イタリアの警察がその数日後にPiemonte 通りに来て、我々を逮捕しようとした、と聞かされた。//
(24) 飛行機は離陸し、やがてPalmas に着いた。
降りるとき、父親が帽子を挙げて「イタリア、万歳!」と叫んだ。イタリアの航空士は父親をスペイン人と思ったらしく、「エスパーニャ、万歳」と答えた。
我々はその夜、船でバルセロナへ向かった。
その船は、最近に解放された共和国の戦争捕虜たちで満杯だった。その中の一人と、私は会話した。
バルセロナに到着したのは、6月6日だった。//
(25) その間に母親は、ココ(Coco,愛犬)と荷物とともにGenoa へ行き、6月6日に、バルセロナ行きの〈Franca Fassio〉という名の船に乗った。
出航する前に、母親はポーランド・ユダヤの知人が下船させられるのを防いだ。自分は兵役年齢のその青年の婚約者だ、というふりをしてだった。
イタリアの役人たちが、二人の関係を証明できる人物を知りたがった。
母親は、ローマにいるポーランド大使の名を挙げた。
役人たちは実際に、彼に電話した。
大使のWieniawa はすぐに出て、母親と青年はまだ結婚していないのか、と驚きを込めて言った。それで、その青年は解放された。
母親が乗った船はつぎの夜(6月7日)に着岸した。
好ましい別れの挨拶から判断するに、母親は乗船者の半分と親しくなったようだ。//
(26) 我々は、二週間半をスペインで過ごした。
この期間の記憶はほとんど残っていない。例外的に憶えているのは、フランスが降伏したのを知ったこと、ひどいフランス語で発せられ、フランスにイギリスとの同盟を提示したChurchill の演説を聴いたこと、だ。
6月24日に、ポルトガルに向けて出立した。そこで、アメリカ合衆国まで我々を運んでくれる船を見つけるつもりだった。
リスボンに着くまでに、フランスからの避難民が続々と乗り込んできた。多くの人々が同じ目的を心の裡に持っていた。アメリカへ渡ること。
アメリカの乗客には優先権が与えられたので、我々が大西洋を横断することのできる船を見つけるのは、きわめて困難だった。
やっと、〈Nea Hellas 丸〉という小さなギリシアの船に、船室の余裕を発見した。
その船はニューヨークから来ていて、アテネまで航行する途中だった。だが、イタリアが参戦し、地中海は戦闘海域に入った。
それで、乗客を完全に埋めることなく、引き返すことになっていた。
7月2日に、乗船した。そして、翌朝に出航した。
我々は、普通の三等船室で旅行した。
食事は何とか食べられるもので(残しておいたメニュのある料理は「Chou ndolma Horientalep」だ)、ワイン(retsina,ギリシャワイン)は飲めなかった。
ほんの数人のギリシャ人が乗っていた。彼らはアメリカを追放されていて、戻るのは決して不運ではなかった。
最も注目した乗客は、Maurice Maeterlinck で、この人は19世紀遅くの著名な作家かつ戯曲家だった。今では忘れられ、読まれていない。
好天のもとで、彼は一等の甲板で、ヘアネットを付けてゆったりと横になっていた。
私は彼の写真をもらった。
ドイツの潜水艦が停まって我々を探す危険がある程度はあったけれども、何事も起きずに船旅は過ぎた。
(27) 1940年7月11日、New Jersey 州のHoboken に接岸した。
その日は、私の17歳の誕生日だった。
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第一部第四章、終わり。