Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
試訳のつづき。p.778-9。注記は箇所だけ記す。
——
第一節・革命の孤児。
(9)このような行為はたんに道徳の退廃か精神異常の兆候だ、と言うのはたやすい。
しかし、人々を人肉喰いへと駆り立てたのは、しばしば哀れみの気持ちだった。
自分の子どもたちがゆつくりと死んでいくのを見守るという激しい苦悩によって、人々は何でもすることができると思った。そして、そののような異常な環境のもとでは、正邪に関する規範的指針などはどうでもよいように思えた。
実際にインタビューを受けたとき、人肉を食べた者は全く理性的に見え、しばしば彼らの行為を正当化する新しい道徳規準を作っていた。
彼らの多くは、こう主張した。「土壌の虫けらたちの食料としてのみ」残っている彼らの肉体から、生きている魂はすでに分離しているのだから、彼らの肉を食べることは罪ではありえない、と。
また、人肉は飢えている人々が食べれば容易に生き延びることができるもので、それを欲しがることは、いずれかの社会階層に特有なことではない、と。
飢えた医師たちは、飢饉地域での長期間の救助の仕事のあとで、しばしば人肉を食べるという欲求に屈服した。そして彼らもまた、経験した中での最悪の部分は、人肉を求める「打ち克ち難い、かつ心地よくない切望感」だった、と述べた。(*7)//
(10)1921年7月まで、ソヴィエト政府は飢饉が存在すること自体の承認を拒否していた。
これは、大きな厄介事だった。
1891年の危機のときと同じく、プレスは「飢饉」という言葉を用いることを禁止された。
NEP〔ネップ。1921年3月党大会決定による『新経済政策』〕の導入後の田園地帯は順調だ、という報道が続いた。
無視するという意図的政策は、ウクライナでより明確に公言された。そこで飢饉が起きているという噂は1921年秋までにはあったけれども、モスクワは翌年の夏まで、大量の穀物をヴォルガへと移出し続けた。
もちろんこれは、飢えている地方から奪って、より飢えている別の地方に与えることだった。
しかし、Robert Conquest が1930-32年の飢饉について説得的に論じているように、ボルシェヴィキ体制に反抗していることを理由としてモスクワはウクライナの農民に罰を与えようとした、ということだったかもしれない。(*8)//
(11)1891年のように、公的団体や外国の団体が救援運動する余地はあった。
Gorky は、先頭に立った。
7月13日、彼は、『全ての誠実な人々へ』との訴えを発した。それは以下の文章で、のちに西側の諸新聞に掲載された。
「Tolstoy、Dostoevsky、Mendeleev、Pavlov、Mussorgsky、Glinka その他の世界的に称賛される人々の国に、悲劇がやって来ている。
人道的(humanitarian)な考えと感情を、—悲惨な戦争と敗者に対する勝者の無慈悲さによって、その社会的重要性への信頼はぐらついているが—こうした考えや感情の創造的な力への信頼を、 復活しなければならず、復活することができるとすれば、私は言いたい、ロシアの不幸は、人道主義の力を示すことのできる、またとない素晴らしい機会を提供している、と。
私は全ての善良なヨーロッパとアメリカの人々に、ロシアの人々に対する援助を要請する。
パンと医薬品を与えよ。
Maxim Gorky」/
Gorky は、その他の著名な人物たちのグループとともに、飢饉からの救済のための自発的団体を組織するのを許すよう、レーニンに訴えた。
その結果として7月21日に設立された飢餓援助全ロシア公共委員会、略してPomgol は、共産主義体制のもとで設置された、最初で最後の自立した公的団体だった。
レーニンがこの組織の設立に同意したのは、一つはGolky に対する譲歩からであり、また一つは、外国からの援助を確保するためだった。
73名のメンバーの中には、指導的的文化人(Gorky、Korolenko、Stanislavsky)、リベラル派政治家(Kishkin、Prokopovich、Kuskova)、帝制時代の大臣(N. N. Kutler)、老練の人民の意思主義者(Vera Figner)、著名な農学者(Chayanov、Krondatev)や工学者(P. I. Palchinsky)、医師、そしてトルストイ主義者、がいた。
トルストイの娘のTolstaya すらもいた。彼女は、この4年の間を、チェカの牢獄や労働収容所を入ったり出たりして過ごしていた。
Pomgol は、1891年に国を救った公共精神を蘇生させようとした。すなわち、国内外の公衆に対して、救援運動に寄付をするよう訴えた。
30年前に救援活動に参加したLvov 公は寄付金を集めて、パリのZemgor 組織を通じて食糧を送った(国外追放中でも、彼はzemstvo の仕事を継続していた)。
ボルシェヴィキは、Pomgol が政治に介入しないように、カーメネフが率いる12人の有名な共産党員をそれに配属させた。
レーニンは断固として、1891年の飢饉のときと同じような公的反対派を発生させてはならない、と考えていた。(*9)//
(12)Gorky の訴えに応えて、Herbert Hoover〔1929-33年の米国大統領(共和党)—試訳者〕はロシアに、アメリカ救援本部(ARA, American Relief Administration)を派遣した。
Hoover は、戦後のヨーロッパに食糧と医薬品を送るためにARA を設立していた。
Hoover は二条件を提示した。第一に、共産主義当局の介入なしに独立して活動することが許されること、第二に、全てのアメリカ合衆国市民がソヴィエトの牢獄から解放されること、だった。
レーニンは、激怒した。—「フーヴァーを制裁しなければならない。全世界が見れるように、あいつの顔を平手打ちしなければならない」と毒づいた。
だが、乞う者はみなそうであるように、えり好みはできなかった。
Pomgol がアメリカの援助を獲得するや、レーニンは、カーメネフやGorky の激しい反対にもかかわらず、終了を命じた。
8月27日、全ての公的メンバーは—Gorky とKorolenko を除いて—チェカに逮捕され、あらゆる態様の「反革命活動」をしたとして訴追された。そしてのちに、国外に追放されるか、国内の限定された区域に送られた。
Gorky ですら、レーニンによって「健康のために」国外へ行くように説得された。(*10)//
——
⑤へとつづく。
試訳のつづき。p.778-9。注記は箇所だけ記す。
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第一節・革命の孤児。
(9)このような行為はたんに道徳の退廃か精神異常の兆候だ、と言うのはたやすい。
しかし、人々を人肉喰いへと駆り立てたのは、しばしば哀れみの気持ちだった。
自分の子どもたちがゆつくりと死んでいくのを見守るという激しい苦悩によって、人々は何でもすることができると思った。そして、そののような異常な環境のもとでは、正邪に関する規範的指針などはどうでもよいように思えた。
実際にインタビューを受けたとき、人肉を食べた者は全く理性的に見え、しばしば彼らの行為を正当化する新しい道徳規準を作っていた。
彼らの多くは、こう主張した。「土壌の虫けらたちの食料としてのみ」残っている彼らの肉体から、生きている魂はすでに分離しているのだから、彼らの肉を食べることは罪ではありえない、と。
また、人肉は飢えている人々が食べれば容易に生き延びることができるもので、それを欲しがることは、いずれかの社会階層に特有なことではない、と。
飢えた医師たちは、飢饉地域での長期間の救助の仕事のあとで、しばしば人肉を食べるという欲求に屈服した。そして彼らもまた、経験した中での最悪の部分は、人肉を求める「打ち克ち難い、かつ心地よくない切望感」だった、と述べた。(*7)//
(10)1921年7月まで、ソヴィエト政府は飢饉が存在すること自体の承認を拒否していた。
これは、大きな厄介事だった。
1891年の危機のときと同じく、プレスは「飢饉」という言葉を用いることを禁止された。
NEP〔ネップ。1921年3月党大会決定による『新経済政策』〕の導入後の田園地帯は順調だ、という報道が続いた。
無視するという意図的政策は、ウクライナでより明確に公言された。そこで飢饉が起きているという噂は1921年秋までにはあったけれども、モスクワは翌年の夏まで、大量の穀物をヴォルガへと移出し続けた。
もちろんこれは、飢えている地方から奪って、より飢えている別の地方に与えることだった。
しかし、Robert Conquest が1930-32年の飢饉について説得的に論じているように、ボルシェヴィキ体制に反抗していることを理由としてモスクワはウクライナの農民に罰を与えようとした、ということだったかもしれない。(*8)//
(11)1891年のように、公的団体や外国の団体が救援運動する余地はあった。
Gorky は、先頭に立った。
7月13日、彼は、『全ての誠実な人々へ』との訴えを発した。それは以下の文章で、のちに西側の諸新聞に掲載された。
「Tolstoy、Dostoevsky、Mendeleev、Pavlov、Mussorgsky、Glinka その他の世界的に称賛される人々の国に、悲劇がやって来ている。
人道的(humanitarian)な考えと感情を、—悲惨な戦争と敗者に対する勝者の無慈悲さによって、その社会的重要性への信頼はぐらついているが—こうした考えや感情の創造的な力への信頼を、 復活しなければならず、復活することができるとすれば、私は言いたい、ロシアの不幸は、人道主義の力を示すことのできる、またとない素晴らしい機会を提供している、と。
私は全ての善良なヨーロッパとアメリカの人々に、ロシアの人々に対する援助を要請する。
パンと医薬品を与えよ。
Maxim Gorky」/
Gorky は、その他の著名な人物たちのグループとともに、飢饉からの救済のための自発的団体を組織するのを許すよう、レーニンに訴えた。
その結果として7月21日に設立された飢餓援助全ロシア公共委員会、略してPomgol は、共産主義体制のもとで設置された、最初で最後の自立した公的団体だった。
レーニンがこの組織の設立に同意したのは、一つはGolky に対する譲歩からであり、また一つは、外国からの援助を確保するためだった。
73名のメンバーの中には、指導的的文化人(Gorky、Korolenko、Stanislavsky)、リベラル派政治家(Kishkin、Prokopovich、Kuskova)、帝制時代の大臣(N. N. Kutler)、老練の人民の意思主義者(Vera Figner)、著名な農学者(Chayanov、Krondatev)や工学者(P. I. Palchinsky)、医師、そしてトルストイ主義者、がいた。
トルストイの娘のTolstaya すらもいた。彼女は、この4年の間を、チェカの牢獄や労働収容所を入ったり出たりして過ごしていた。
Pomgol は、1891年に国を救った公共精神を蘇生させようとした。すなわち、国内外の公衆に対して、救援運動に寄付をするよう訴えた。
30年前に救援活動に参加したLvov 公は寄付金を集めて、パリのZemgor 組織を通じて食糧を送った(国外追放中でも、彼はzemstvo の仕事を継続していた)。
ボルシェヴィキは、Pomgol が政治に介入しないように、カーメネフが率いる12人の有名な共産党員をそれに配属させた。
レーニンは断固として、1891年の飢饉のときと同じような公的反対派を発生させてはならない、と考えていた。(*9)//
(12)Gorky の訴えに応えて、Herbert Hoover〔1929-33年の米国大統領(共和党)—試訳者〕はロシアに、アメリカ救援本部(ARA, American Relief Administration)を派遣した。
Hoover は、戦後のヨーロッパに食糧と医薬品を送るためにARA を設立していた。
Hoover は二条件を提示した。第一に、共産主義当局の介入なしに独立して活動することが許されること、第二に、全てのアメリカ合衆国市民がソヴィエトの牢獄から解放されること、だった。
レーニンは、激怒した。—「フーヴァーを制裁しなければならない。全世界が見れるように、あいつの顔を平手打ちしなければならない」と毒づいた。
だが、乞う者はみなそうであるように、えり好みはできなかった。
Pomgol がアメリカの援助を獲得するや、レーニンは、カーメネフやGorky の激しい反対にもかかわらず、終了を命じた。
8月27日、全ての公的メンバーは—Gorky とKorolenko を除いて—チェカに逮捕され、あらゆる態様の「反革命活動」をしたとして訴追された。そしてのちに、国外に追放されるか、国内の限定された区域に送られた。
Gorky ですら、レーニンによって「健康のために」国外へ行くように説得された。(*10)//
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⑤へとつづく。