リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
第12章・一党国家の建設。
----
第10節・労働者幹部会の運動②。
(18)もちろんこれは、メンシェヴィキが待ち望んでいたことだった。ボルシェヴィキに幻滅した労働者たちが、民主主義を求めてストライキしようとしている。
メンシェヴィキは元々は、労働者幹部会の運動を支持していなかった。その指導者たちは政治家たちに懐疑的で、諸政党からの自立を欲していたからだ。
しかし、4月頃までにメンシェヴィキは十分に感心して、運動の背後から支援した。
5月16日、メンシェヴィキ中央委員会は、労働者代表者たちの全国的な会議の開催を呼びかけた。(*)
社会革命党が、これに続いた。//
(19)かりに状況が反対だったならば、つまり社会主義者が権力を握っていてボルシェヴィキは反対派だったとすれば、疑いなくボルシェヴィキは労働者の不満を煽り、政府を転覆させるためにあらゆることを行ったことだろう。
しかし、メンシェヴィキと社会主義派の者たちは、そのような行動を断固として行わない、という気風だった。
彼らはボルシェヴィキ独裁を拒否したが、しかしなお、それに恩義を感じていた。
メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、厳しく批判する一方で、ボルシェヴィズムの生き残りには重大な関心があることを読者に理解させようとした。
このテーゼを、彼らはボルシェヴィキが権力を奪取した直後に表明していた。
「とりわけ重要なのは、ボルシェヴィキのクーを暴力的に廃絶することは同時に、ロシア革命の全ての成果を廃絶することに不可避的に帰着するだろう、ということだ。」(152)
また、ボルシェヴィキが立憲会議を解散させたあと、ボルシェヴィキ機関紙は、こう嘆いた。
「我々は、ボルシェヴィキ体制の賛美者ではなかったし、現在も賛美者ではない。そして、ボルシェヴィキの国内および外交政策の破綻を、つねに予見してきた。
しかし、我々の革命の運命がボルシェヴィキ運動のそれと緊密に結びついていることを、我々は忘れなかったし、一瞬たりとも忘れはしない。
ボルシェヴィキ運動は、広範な人民大衆の、歪んで退廃した一つの革命的戦いを表現している。…」。(153) //
(20)このような姿勢はメンシェヴィキの行動する意欲を麻痺させたばかりではなく、ボルシェヴィキとの同盟へと、すなわち、民衆の憤慨を煽り立てるのではなく、消し止めるのを助ける方向へと、向かわせた。(**)
(21)労働者幹部会の会合が6月3日に再開催されたとき、メンシェヴィキと社会革命党の知識人たちは政治的ストライキという考えに反対した。それは、お決まりの、階級敵の手中に嵌まってしまう、という理由でだった。
彼らは労働者の代表者たちにその決定を再考して、ストライキではなく、類似の組織をモスクワで創立する可能性を探るために、そこに代表団を派遣するように説得した。//
(22)6月7日、派遣委員の一人がモスクワの工場代表者たちの集まりで挨拶して発言した。
彼は、反労働者、反革命的政策を追求しているとしてボルシェヴィキ政府を非難した。
このような語りかけは、十月以降のロシアでは聞かれないものだった。
チェカは、事態をきわめて深刻に受け止めた。モスクワは今や国の首都であり、モスクワでの騒擾は「赤いペトログラード」でのそれよりも危険だったからだ。
治安維持機関員が、演説を終えたペトログラードの派遣委員の身柄を拘束した。但し、仲間の労働者たちの圧力によって、解放せざるを得なかった。
モスクワの労働者たちは、同情的ではあるものの、自分たちの労働者幹部会を設立する用意がまだない、ということが判明した。(154)
モスクワとその周辺の労働者たちは、ペトログラードよりも、戦術に長けておらず、労働組合の伝統が少なかった、ということで、これは説明することがてきるかもしれない。//
(23)労働者がソヴェトから離脱していく過程は、ペトログラードで始まり、国の残りの都市へと拡がった。
多くの都市で(モスクワはすぐにその一つとなった)、地方ソヴェトは選挙を実施するのが阻止されるか、または選挙の適格性が否定された。それに対して、労働者たちは、政府の統制が及ばない、かついかなる政党とも関係がない「労働者評議会」、「労働者会議」、「労働者幹部会議会」等を設立した。//
(24)不満の高まりに直面して、ボルシェヴィキは反撃した。
モスクワで6月13日、、ボルシェヴィキは、労働者幹部会運動に加担している56名を拘禁した。そのうち6ないし7名以外は、労働者だった。(155)
6月16日、ボルシェヴィキは、2週間以内に第五回ソヴェト大会を招集すると発表し、これに関連して、全ソヴェトに対して、ソヴェトの選挙を再度実施するように指令した。
この再選挙でもやはり確実にメンシェヴィキと社会革命党が多数派を形成し、政府はソヴェト大会では少数派に追い詰められる立場になるだろう。そこで、モスクワは、社会革命党とメンシェヴィキを全てのソヴェトから、そしてむろんその執行委員会(CEC)から排除することを命じることで、対抗派には被選出資格がないとすることを提案した。(156) CEC 内のボルシェヴィキ議員団総会で、L. S. ソスノフスキ(Sosnovskii)は、つぎの論拠で、その趣旨の布令を正当化した。すなわち、メンシェヴィキと社会革命党は、ボルシェヴィキが臨時政府を転覆させたのと全く同じように、ボルシェヴィキを転覆させるつもりだ。(***)
したがって、投票者に提示された唯一の選択肢は、正規のボルシェヴィキの候補者、左翼エスエル、そして「ボルシェヴィキ同調者」として知られる帰属政党のない幅広い範疇の候補者たちの間にだけあった。
(25)このような歩みは、ロシアでの自立した政党の終焉を画すものだった。
君主制主義政党-オクトブリスト、ロシア人民同盟、国権主義者-は1917年の推移の中で解散しており、もはや組織ある実体としては存在していなかった。
非合法とされたカデット〔立憲民主党〕は、その活動を境界地域に移しており、そこにはチェカの網は届かなかったが、ロシアの民衆の気分からも離れていた。あるいはまた、地下活動に潜って、国民センター(the National Center)と呼ばれる反ボルシェヴィキ連合を形成していた。(157)
6月16日の布令は、明示的にはメンシェヴィキと社会革命党を非合法化していなかったが、政治的には無力にするものだった。
白軍に対する戦いへの彼らの支援のご褒美として、この両党はのちに元の地位を回復し、限られた数だけソヴェトにもう一度加わることが許された。しかし、これは一時的で、政略的なものだった。
本質的には、ロシアはこの時点で一党国家になった。ボルシェヴィキ以外の全ての組織に対して政治的活動を行うことが禁止される、そのような国家だ。//
(26)6月16日、すなわちボルシェヴィキがメンシェヴィキと社会革命党のいずれも出席することができない第五回ソヴェト大会を発表した日、労働者幹部会会議は、労働者の全ロシア会議の開催を呼びかけた。(158)
この組織は、国家が直面している最も緊要な問題を討議し、解決しようとするものとされていた。緊要な諸問題とは、①食糧事情、②失業、③法の機能停止、および④労働者の組織。
(27)6月20日、ペトログラード・チェカの長官、V・ヴォロダルスキ(Volodarskii)が殺害された。
殺人者を捜査する中で、チェカは工場での抗議集会を始めていた何人かの労働者を拘引した。
ボルシェヴィキはネヴァ(Neva)労働者地区を兵団で占拠し、戒厳令を敷いた。
最も厄介な工場であるオブホフの労働者たちは、閉め出された。(159)
(28)ペトログラードでソヴェトの選挙が行われたのは、このきわめて緊張した雰囲気の中でだった。
選挙運動の間、ジノヴィエフは、プティロフやオブロフでブーイングを受け、演説することができなかった。
どの工場でも、労働者たちはソヴェトに二政党が参加することが禁止している布令を無視して、メンシェヴィキと社会革命党に多数派を与えた。
オブロフでは、社会革命党5名、無党派3名、ボルシェヴィキ1名だった。
セミアニコフ(Semiannikov)〔ネヴァ工場群〕で、社会革命党は投票総数の64パーセントを獲得し、メンシェヴィキは10パーセント、そしてボルシェヴィキ・左翼エスエル連合は26パーセントだった。
その他の重要地区でも、同様の結果だった。(160)//
(29)ボルシェヴィキは、こうした結果に縛られるのを拒否した。
彼らは、多数派を獲得するのを欲し、獲得した。それは、通常は選挙権(franchise)を不正に操作することで行われた。ある範囲のボルシェヴィキたちには、1票について5票が与えられた。(****)
7月2日、「選挙」結果が、発表された。
新しく選出されたペトログラード・ソヴェトの代議員総数650のうち、ボルシェヴィキと左翼エスエルに610が与えられ、40だけが社会革命党とメンシェヴィキにあてがわれた。この両党を、ボルシェヴィキの公式機関紙は「ユダ(Judases)」だと非難していた。(+)
このペトログラード・ソヴェトは、労働者幹部会会議の解散を票決した。
その集まりで演説しようとした会議の代表者は、話すのを阻止され、肉体的な攻撃を受けた。
(30)労働者幹部会会議は、ほとんど毎日、会合をもった。
6月26日、会議は、7月2日に一日だけの政治ストライキを呼びかけることを満場一致で決定した。そのスローガンは、「死刑の廃止!」、「処刑と内戦をするな!」、「ストライキの自由、万歳!」だった。(161)
社会革命党とメンシェヴィキの知識人たちは、再び、ストライキに反対した。
(31)ボルシェヴィキ当局は市内全体にポスターを貼り、ストライキ組織者を白軍の雇い人だとし、全参加者を革命審判所に送り込むと威嚇した。(163)
その上にさらに、市〔ペトログラード〕の重要地点に、機関銃部隊を配置した。
(32)同情的な報告者は、労働者は動揺していると記述した。
すなわち、カデットの<Nash>は6月22日に、彼らは反ボルシェヴィキだが識別できない、と書いた。
国内および世界情勢の困難さ、食糧不足、明確な解決策の不在によって、彼らには、「極端に不安定な心理、ある種の抑うつ状態、そして全くの当惑」が発生した。
(33)7月2日の事件は、こうした見通しを確認するものだった。
帝制が崩壊して以降ロシアで最初の政治ストライキは、巻き起こり、そして消失した。
労働者たちは、社会主義知識人たちに失望し、ボルシェヴィキによる実力行使の顕示に威嚇され、自分たちの強さと目的に自信がなく、そして心が折れた。
ストライキ組織者は、1万8000人と2万人の間ほどの労働者がストライキの呼びかけに従うだろうと予想していた。この数は、ペトログラードに実際にいる労働者数の7分の1にすぎなかった。
オブホフ、マクスウェル(Maxwell)、およびパール(Pahl)は、ストライキをした。
他の工場群は、プティロフを含めて、しなかった。//
(34)この結果が、ロシアの自立した労働者組織の運命を封じた。
すみやかに、チェカは地方の支部とともにペトログラードの労働者幹部会会議を閉鎖させ、目立った指導者のほとんどを、牢獄に送った。//
(35)こうして、ソヴェトの自主性、労働者が代表者をもつ権利、そしてなおも多元政党制らしきものとして残っていたものは、終わりを告げた。
1918年の6月と7月に執られた措置でもって、ロシアでの一党独裁制の形成が完了した。
-------------
(*) 労働者議会(Congress)という発想は、1906年にAkselrod が最初に提起した。そのときは、メンシェヴィキとボルシェヴィキのいずれも、これを却下した。
Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
(151) Aronson, "Na perelome, ", p.7-p.8.
(152) NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.1.
(153) NZh, No. 20/234(1918年1月27日), p.1.
(**) 公平さのために、つぎのことを記しておかなければならない。古きメンシェヴィキの小グループ、ロシア社会民主党の創設者たち-プレハノフ(Plekhanov)、アクセルロード(Akselrod)、ポトレソフ(Potresov)、およびV・ザスーリチ(Vera Sasulich)-を含むそれは、異なる考えだった。
そして、アクセルロードは、1918年8月に、ボルシェヴィキ体制は「陰惨な(gruesome)」反革命へと堕落した、と書いた。
そのような彼ですら、ジュネーヴのかつての彼の同志とともに、レーニンに対する積極的な抵抗にも反対した。その理由は、権力を取り戻そうとする反動分子たちを助けることになる、というものだった。
A. Asher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism(Cambridge, Mass., 1972), p.344-6.
プレハノフの姿勢につき、Samuel H. Baron, Plekhanov(Stanford, Calif., 1963), p.352-p.361.
ポトレソフは、そのときおよびのちに、メンシェヴィキの仲間たちを批判した(V plenu u illiuzii(Paris, 1937))。しかし、彼もまたやはり、積極的な反対活動に参加しようとはしなかった。
(154) NZh, No. 111/326(1918年6月8日), p.3.
(155) Aronson, "Na perelome, ", p.21.
(156) Dekrety, II, p.30-p.31.; Lenin, PSS, XXXVII, p.599.
(***) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
NV, No. 96/120(1918年6月19日), p.3.によれば、CEC のボルシェヴィキ会派は、ソヴェトからメンシェヴィキと左翼エスエルを排除するのを拒否した。しかし、CEC からこれらを追放(除斥)することに同意した。
(157) W. G. Rosenberg, Liberals in the Russian Revolution(Princeton, N.J., 1974), p.263-p.300.
(158) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
(159) W. G. Rosenberg in SR, XLIV, No. 3(1985年7月), p.235.
(160) NZh, No. 122/337(1918年6月26日), p.3.
(****) Stroev in NZh, No. 119/334(1918年6月21日), p.1.
ある新聞(Novyi luch。NZh, No. 121/336(1918年6月23日), p.1-p.2.が引用)によると、ペトログラード・ソヴェトへと「選挙され」た130名の代議員のうち、77名はボルシェヴィキ党から、26名は赤軍部隊から、8名は供給派遣部隊から、43名はボルシェヴィキ職員の中から、選び抜かれていた。
(+) NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.
少し異なる数字が、つぎの中にある。Lenin, Sochineniia, XXIII, p.547.
これによると、代議員総数は582で、そのうちボルシェヴィキが405、左翼エスエルが75、メンシェヴィキと社会革命党が59、無党派が43だ。
(161) 例えば、Stroev in NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.を見よ。
(162) NV, No. 106/130(1918年7月2日), p.3.
(163) NV, No. 107/131(1918年7月3日), p.3. およびNo. 108/132(1918年7月4日). p.4.; NZh, No. 128/343(1918年7月3日), p.1.
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第10節、終わり。第12章も終わり。つづく章の表題は、つぎのとおり。
第13章・ブレスト=リトフスク、第14章・国際化する革命〔革命の輸出〕、第15章・「戦時共産主義」、第16章・農村に対する戦争、第17章・皇帝家族の殺害、第18章・赤色テロル、そして「結語」。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
第12章・一党国家の建設。
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第10節・労働者幹部会の運動②。
(18)もちろんこれは、メンシェヴィキが待ち望んでいたことだった。ボルシェヴィキに幻滅した労働者たちが、民主主義を求めてストライキしようとしている。
メンシェヴィキは元々は、労働者幹部会の運動を支持していなかった。その指導者たちは政治家たちに懐疑的で、諸政党からの自立を欲していたからだ。
しかし、4月頃までにメンシェヴィキは十分に感心して、運動の背後から支援した。
5月16日、メンシェヴィキ中央委員会は、労働者代表者たちの全国的な会議の開催を呼びかけた。(*)
社会革命党が、これに続いた。//
(19)かりに状況が反対だったならば、つまり社会主義者が権力を握っていてボルシェヴィキは反対派だったとすれば、疑いなくボルシェヴィキは労働者の不満を煽り、政府を転覆させるためにあらゆることを行ったことだろう。
しかし、メンシェヴィキと社会主義派の者たちは、そのような行動を断固として行わない、という気風だった。
彼らはボルシェヴィキ独裁を拒否したが、しかしなお、それに恩義を感じていた。
メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、厳しく批判する一方で、ボルシェヴィズムの生き残りには重大な関心があることを読者に理解させようとした。
このテーゼを、彼らはボルシェヴィキが権力を奪取した直後に表明していた。
「とりわけ重要なのは、ボルシェヴィキのクーを暴力的に廃絶することは同時に、ロシア革命の全ての成果を廃絶することに不可避的に帰着するだろう、ということだ。」(152)
また、ボルシェヴィキが立憲会議を解散させたあと、ボルシェヴィキ機関紙は、こう嘆いた。
「我々は、ボルシェヴィキ体制の賛美者ではなかったし、現在も賛美者ではない。そして、ボルシェヴィキの国内および外交政策の破綻を、つねに予見してきた。
しかし、我々の革命の運命がボルシェヴィキ運動のそれと緊密に結びついていることを、我々は忘れなかったし、一瞬たりとも忘れはしない。
ボルシェヴィキ運動は、広範な人民大衆の、歪んで退廃した一つの革命的戦いを表現している。…」。(153) //
(20)このような姿勢はメンシェヴィキの行動する意欲を麻痺させたばかりではなく、ボルシェヴィキとの同盟へと、すなわち、民衆の憤慨を煽り立てるのではなく、消し止めるのを助ける方向へと、向かわせた。(**)
(21)労働者幹部会の会合が6月3日に再開催されたとき、メンシェヴィキと社会革命党の知識人たちは政治的ストライキという考えに反対した。それは、お決まりの、階級敵の手中に嵌まってしまう、という理由でだった。
彼らは労働者の代表者たちにその決定を再考して、ストライキではなく、類似の組織をモスクワで創立する可能性を探るために、そこに代表団を派遣するように説得した。//
(22)6月7日、派遣委員の一人がモスクワの工場代表者たちの集まりで挨拶して発言した。
彼は、反労働者、反革命的政策を追求しているとしてボルシェヴィキ政府を非難した。
このような語りかけは、十月以降のロシアでは聞かれないものだった。
チェカは、事態をきわめて深刻に受け止めた。モスクワは今や国の首都であり、モスクワでの騒擾は「赤いペトログラード」でのそれよりも危険だったからだ。
治安維持機関員が、演説を終えたペトログラードの派遣委員の身柄を拘束した。但し、仲間の労働者たちの圧力によって、解放せざるを得なかった。
モスクワの労働者たちは、同情的ではあるものの、自分たちの労働者幹部会を設立する用意がまだない、ということが判明した。(154)
モスクワとその周辺の労働者たちは、ペトログラードよりも、戦術に長けておらず、労働組合の伝統が少なかった、ということで、これは説明することがてきるかもしれない。//
(23)労働者がソヴェトから離脱していく過程は、ペトログラードで始まり、国の残りの都市へと拡がった。
多くの都市で(モスクワはすぐにその一つとなった)、地方ソヴェトは選挙を実施するのが阻止されるか、または選挙の適格性が否定された。それに対して、労働者たちは、政府の統制が及ばない、かついかなる政党とも関係がない「労働者評議会」、「労働者会議」、「労働者幹部会議会」等を設立した。//
(24)不満の高まりに直面して、ボルシェヴィキは反撃した。
モスクワで6月13日、、ボルシェヴィキは、労働者幹部会運動に加担している56名を拘禁した。そのうち6ないし7名以外は、労働者だった。(155)
6月16日、ボルシェヴィキは、2週間以内に第五回ソヴェト大会を招集すると発表し、これに関連して、全ソヴェトに対して、ソヴェトの選挙を再度実施するように指令した。
この再選挙でもやはり確実にメンシェヴィキと社会革命党が多数派を形成し、政府はソヴェト大会では少数派に追い詰められる立場になるだろう。そこで、モスクワは、社会革命党とメンシェヴィキを全てのソヴェトから、そしてむろんその執行委員会(CEC)から排除することを命じることで、対抗派には被選出資格がないとすることを提案した。(156) CEC 内のボルシェヴィキ議員団総会で、L. S. ソスノフスキ(Sosnovskii)は、つぎの論拠で、その趣旨の布令を正当化した。すなわち、メンシェヴィキと社会革命党は、ボルシェヴィキが臨時政府を転覆させたのと全く同じように、ボルシェヴィキを転覆させるつもりだ。(***)
したがって、投票者に提示された唯一の選択肢は、正規のボルシェヴィキの候補者、左翼エスエル、そして「ボルシェヴィキ同調者」として知られる帰属政党のない幅広い範疇の候補者たちの間にだけあった。
(25)このような歩みは、ロシアでの自立した政党の終焉を画すものだった。
君主制主義政党-オクトブリスト、ロシア人民同盟、国権主義者-は1917年の推移の中で解散しており、もはや組織ある実体としては存在していなかった。
非合法とされたカデット〔立憲民主党〕は、その活動を境界地域に移しており、そこにはチェカの網は届かなかったが、ロシアの民衆の気分からも離れていた。あるいはまた、地下活動に潜って、国民センター(the National Center)と呼ばれる反ボルシェヴィキ連合を形成していた。(157)
6月16日の布令は、明示的にはメンシェヴィキと社会革命党を非合法化していなかったが、政治的には無力にするものだった。
白軍に対する戦いへの彼らの支援のご褒美として、この両党はのちに元の地位を回復し、限られた数だけソヴェトにもう一度加わることが許された。しかし、これは一時的で、政略的なものだった。
本質的には、ロシアはこの時点で一党国家になった。ボルシェヴィキ以外の全ての組織に対して政治的活動を行うことが禁止される、そのような国家だ。//
(26)6月16日、すなわちボルシェヴィキがメンシェヴィキと社会革命党のいずれも出席することができない第五回ソヴェト大会を発表した日、労働者幹部会会議は、労働者の全ロシア会議の開催を呼びかけた。(158)
この組織は、国家が直面している最も緊要な問題を討議し、解決しようとするものとされていた。緊要な諸問題とは、①食糧事情、②失業、③法の機能停止、および④労働者の組織。
(27)6月20日、ペトログラード・チェカの長官、V・ヴォロダルスキ(Volodarskii)が殺害された。
殺人者を捜査する中で、チェカは工場での抗議集会を始めていた何人かの労働者を拘引した。
ボルシェヴィキはネヴァ(Neva)労働者地区を兵団で占拠し、戒厳令を敷いた。
最も厄介な工場であるオブホフの労働者たちは、閉め出された。(159)
(28)ペトログラードでソヴェトの選挙が行われたのは、このきわめて緊張した雰囲気の中でだった。
選挙運動の間、ジノヴィエフは、プティロフやオブロフでブーイングを受け、演説することができなかった。
どの工場でも、労働者たちはソヴェトに二政党が参加することが禁止している布令を無視して、メンシェヴィキと社会革命党に多数派を与えた。
オブロフでは、社会革命党5名、無党派3名、ボルシェヴィキ1名だった。
セミアニコフ(Semiannikov)〔ネヴァ工場群〕で、社会革命党は投票総数の64パーセントを獲得し、メンシェヴィキは10パーセント、そしてボルシェヴィキ・左翼エスエル連合は26パーセントだった。
その他の重要地区でも、同様の結果だった。(160)//
(29)ボルシェヴィキは、こうした結果に縛られるのを拒否した。
彼らは、多数派を獲得するのを欲し、獲得した。それは、通常は選挙権(franchise)を不正に操作することで行われた。ある範囲のボルシェヴィキたちには、1票について5票が与えられた。(****)
7月2日、「選挙」結果が、発表された。
新しく選出されたペトログラード・ソヴェトの代議員総数650のうち、ボルシェヴィキと左翼エスエルに610が与えられ、40だけが社会革命党とメンシェヴィキにあてがわれた。この両党を、ボルシェヴィキの公式機関紙は「ユダ(Judases)」だと非難していた。(+)
このペトログラード・ソヴェトは、労働者幹部会会議の解散を票決した。
その集まりで演説しようとした会議の代表者は、話すのを阻止され、肉体的な攻撃を受けた。
(30)労働者幹部会会議は、ほとんど毎日、会合をもった。
6月26日、会議は、7月2日に一日だけの政治ストライキを呼びかけることを満場一致で決定した。そのスローガンは、「死刑の廃止!」、「処刑と内戦をするな!」、「ストライキの自由、万歳!」だった。(161)
社会革命党とメンシェヴィキの知識人たちは、再び、ストライキに反対した。
(31)ボルシェヴィキ当局は市内全体にポスターを貼り、ストライキ組織者を白軍の雇い人だとし、全参加者を革命審判所に送り込むと威嚇した。(163)
その上にさらに、市〔ペトログラード〕の重要地点に、機関銃部隊を配置した。
(32)同情的な報告者は、労働者は動揺していると記述した。
すなわち、カデットの<Nash>は6月22日に、彼らは反ボルシェヴィキだが識別できない、と書いた。
国内および世界情勢の困難さ、食糧不足、明確な解決策の不在によって、彼らには、「極端に不安定な心理、ある種の抑うつ状態、そして全くの当惑」が発生した。
(33)7月2日の事件は、こうした見通しを確認するものだった。
帝制が崩壊して以降ロシアで最初の政治ストライキは、巻き起こり、そして消失した。
労働者たちは、社会主義知識人たちに失望し、ボルシェヴィキによる実力行使の顕示に威嚇され、自分たちの強さと目的に自信がなく、そして心が折れた。
ストライキ組織者は、1万8000人と2万人の間ほどの労働者がストライキの呼びかけに従うだろうと予想していた。この数は、ペトログラードに実際にいる労働者数の7分の1にすぎなかった。
オブホフ、マクスウェル(Maxwell)、およびパール(Pahl)は、ストライキをした。
他の工場群は、プティロフを含めて、しなかった。//
(34)この結果が、ロシアの自立した労働者組織の運命を封じた。
すみやかに、チェカは地方の支部とともにペトログラードの労働者幹部会会議を閉鎖させ、目立った指導者のほとんどを、牢獄に送った。//
(35)こうして、ソヴェトの自主性、労働者が代表者をもつ権利、そしてなおも多元政党制らしきものとして残っていたものは、終わりを告げた。
1918年の6月と7月に執られた措置でもって、ロシアでの一党独裁制の形成が完了した。
-------------
(*) 労働者議会(Congress)という発想は、1906年にAkselrod が最初に提起した。そのときは、メンシェヴィキとボルシェヴィキのいずれも、これを却下した。
Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
(151) Aronson, "Na perelome, ", p.7-p.8.
(152) NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.1.
(153) NZh, No. 20/234(1918年1月27日), p.1.
(**) 公平さのために、つぎのことを記しておかなければならない。古きメンシェヴィキの小グループ、ロシア社会民主党の創設者たち-プレハノフ(Plekhanov)、アクセルロード(Akselrod)、ポトレソフ(Potresov)、およびV・ザスーリチ(Vera Sasulich)-を含むそれは、異なる考えだった。
そして、アクセルロードは、1918年8月に、ボルシェヴィキ体制は「陰惨な(gruesome)」反革命へと堕落した、と書いた。
そのような彼ですら、ジュネーヴのかつての彼の同志とともに、レーニンに対する積極的な抵抗にも反対した。その理由は、権力を取り戻そうとする反動分子たちを助けることになる、というものだった。
A. Asher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism(Cambridge, Mass., 1972), p.344-6.
プレハノフの姿勢につき、Samuel H. Baron, Plekhanov(Stanford, Calif., 1963), p.352-p.361.
ポトレソフは、そのときおよびのちに、メンシェヴィキの仲間たちを批判した(V plenu u illiuzii(Paris, 1937))。しかし、彼もまたやはり、積極的な反対活動に参加しようとはしなかった。
(154) NZh, No. 111/326(1918年6月8日), p.3.
(155) Aronson, "Na perelome, ", p.21.
(156) Dekrety, II, p.30-p.31.; Lenin, PSS, XXXVII, p.599.
(***) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
NV, No. 96/120(1918年6月19日), p.3.によれば、CEC のボルシェヴィキ会派は、ソヴェトからメンシェヴィキと左翼エスエルを排除するのを拒否した。しかし、CEC からこれらを追放(除斥)することに同意した。
(157) W. G. Rosenberg, Liberals in the Russian Revolution(Princeton, N.J., 1974), p.263-p.300.
(158) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
(159) W. G. Rosenberg in SR, XLIV, No. 3(1985年7月), p.235.
(160) NZh, No. 122/337(1918年6月26日), p.3.
(****) Stroev in NZh, No. 119/334(1918年6月21日), p.1.
ある新聞(Novyi luch。NZh, No. 121/336(1918年6月23日), p.1-p.2.が引用)によると、ペトログラード・ソヴェトへと「選挙され」た130名の代議員のうち、77名はボルシェヴィキ党から、26名は赤軍部隊から、8名は供給派遣部隊から、43名はボルシェヴィキ職員の中から、選び抜かれていた。
(+) NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.
少し異なる数字が、つぎの中にある。Lenin, Sochineniia, XXIII, p.547.
これによると、代議員総数は582で、そのうちボルシェヴィキが405、左翼エスエルが75、メンシェヴィキと社会革命党が59、無党派が43だ。
(161) 例えば、Stroev in NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.を見よ。
(162) NV, No. 106/130(1918年7月2日), p.3.
(163) NV, No. 107/131(1918年7月3日), p.3. およびNo. 108/132(1918年7月4日). p.4.; NZh, No. 128/343(1918年7月3日), p.1.
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第10節、終わり。第12章も終わり。つづく章の表題は、つぎのとおり。
第13章・ブレスト=リトフスク、第14章・国際化する革命〔革命の輸出〕、第15章・「戦時共産主義」、第16章・農村に対する戦争、第17章・皇帝家族の殺害、第18章・赤色テロル、そして「結語」。