一 兵庫県・斎藤元彦問題に関心をもつ人の中には同程度に「日本保守党」にも関心をもつ人がいるようで、後者に関するものの一つを読んでいると、「藤岡信勝会長」という言葉が出てきた。
日本保守党(2023.10〜)に大きな関心はなかった。最初は自民党全体よりも「右」からある程度集票する党として期待する者もいたはずだ。最近は「内紛」に陥っているらしい(詳細に関心はないので、正確さを欠く)。
きっとその「内紛」に関連しているのだろう、藤岡は「日本保守党の言論弾圧から被害者を守る会」の会長であるらしい。
この会は、厳密さを欠くまま書くと、2025年4月1日に発足したようだ。
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中身を読んでいないのだが(こんな言い訳ばかりだ)、月刊正論等の「保守」系有力月刊雑誌は、「保守」を謳う政党ではなく、藤岡信勝等々の側に立っているようだ。
<やれやれ>という気もする。
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二 西尾幹二逝去をうけて藤岡は、「西尾幹二氏の教科書への思い」と題する文章を書いた。産経新聞2024年11月18日付。<つくる会>のOffial Web にも掲載。
「新しい歴史教科書をつくる会」のでき方、西尾と藤岡の結びつき方には関心があった。西尾・全集17巻/歴史教科書問題(2018年)ではよく分からなかった、と思う。
上の藤岡の文章によると、こうだ。
1996年1月、西尾と初めて逢う。明記はないが、西尾が自分の主宰する会に藤岡を講師として呼んだように読める。藤岡ら「自由主義主義史観研究会」による産経新聞紙上の連載が同月に始まっていた。
同年の検定結果で、全教科書に「強制連行」による「従軍慰安婦」の記載があると分かった。「私は許せなかった」。
藤岡によると、「全教科書に嘘が書かれているなら、…自分達でつくるほかはないではないか。歴史教科書問題は、こうして始まったのである」。
以下、時期に関する記述はない。
高橋史朗と(たぶん新教科書について)相談した。「高橋氏は西尾氏に持ちかけることを提案し」、三人で会合した。西尾(のたぶん主導・示唆・提案)により、「坂本多加雄氏に参加を呼びかけることにした」。
「こうしてこの四人で幾度となく会合を重ねて会の構想が次第に形を成していった」。
以上。のち、1996年12月に、会設立の記者会見。翌1997年1月正式発足。
これによると、第一に、高橋は上記の西尾主宰の「会」の一員だったからこそ藤岡は相談したとみられることを含めて、中心的・核的な人間群の形成について、西尾幹二の影響力は大きかった。
第二に、西尾が10年余後に<つくる会>について、「<反共>だけでなく<反米>を唱えた運動だった」旨を書いたのは(全集7巻p.711-2参照)、おそらく「大ウソ」だったことも分かるだろう。
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三 藤岡信勝には、期待していることがある。
藤岡信勝(1943〜)は、Wikipedia によると、1963年に日本共産党入党。その後、1991年のアメリカに留学。「司馬遼太郎の著作や渡米経験を通じて…を感じた」。「帰国後に保守派に転向した」。
ところで、同じくWikipedia による「新しい歴史教科書をつくる会」の項は「日本共産党員だった藤岡信勝が…」から始まる。
先の「保守派に転向」という「転向」という語の用い方も「優しく」ないが、上の元共産党員が作ったという説明の仕方も、おそらくは(「左翼」ではなく)「日本会議系」の分裂後の反「つくる会」派の執筆者によると推察される(かつてはもっと露骨に批判的・揶揄的だった)。
なお、「元共産党員」に注目するのは、本当は的外れだ。共産党から離れて「まとも」になった者を「元」を理由に揶揄する、批判的に見る(そう感じさせようとする)のは、心が健やかではない。
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元に戻る。20歳(入党要件)に日本共産党員となった藤岡が、マルクス主義・共産主義、あるいはマルクスとレーニン、日本共産党の綱領類とその「理論」に詳しくなかったはずはないだろう。
それがなぜ、「司馬遼太郎の著作や渡米経験」(上記)で日本共産党を離党することになったのか。30年間近くの「党員」生活は、藤岡にとって、いったい何だったのか。
<つくる会>の歴史教科書は一度検定不合格だったことがあり、また約20年あいだで最大の採択率は1.1パーセントにすぎない(2009年。同会Web による)。分裂後のもう一つの教育再生機構系教科書と合計しても、一回なりとも3パーセントを超えていないだろう。
華々しかった「記者会見」後の約30年後にある、この凄まじい、無様で惨めな現状をどう総括するかも、長いあいだ幹部だった藤岡が行なっておくべき仕事だろう。余計ながら、<方針は正しかったが、力不足でした>という日本共産党が繰り返す総括で済ませることができるはずはない。
さらに、上のこと以上に、「日本保守党」との闘いにエネルギーを注ぐくらいなら、なぜ、日本共産党を離党したのかを、離党決意後の経緯を含めて、詳細に記述して、後世に残していただきたいものだ。
1991年の夏から冬、ソ連共産党が解体し、かつソヴィエト連邦も消滅した(この二つは全く別の次元の問題だ)。
このことの影響が大きかった、と推察することはできる。日本共産党・宮本顕治がこの頃突然に丸山真男批判を開始したのは、離党または党に抵抗しようとする「知識人」に対する<見せしめ>の意味が、少しはあったのではなかろうか。
だが上のことはきっかけで、突如ソ連は社会主義国でなかったとか主張し始めた党中央(不破哲三にほぼ等しい)に対する不満があったかもしれない。日本共産党の歴史観、とくに日本の歴史の捉え方に疑問をもったのかもしれない。マルクス主義そのものの(当時の党文献が伝えるかぎりでの)に種々の点で幻滅したのかもしれない。司馬遼太郎の歴史・日本史「観」も影響を与えたらしくある。
日本共産党を離党した者(除名を含む)の書物をある程度は所持しているが、個人的エピソードは分かっても、日本共産党の理論と政策を批判的に立ち入って論じているものは少ない、と感じられる。
「日本保守党」とのあいだの(私には、あるいは歴史的に見ても)瑣末な問題にかかわるよりも、のちに「保守運動」の有力者の一人になった者が、かつて、なぜ日本共産党を捨てたのかを詳細に語っておくことの方が、歴史的にも、日本の「保守」のためにもはるかに有意義であるのではないか。
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日本保守党(2023.10〜)に大きな関心はなかった。最初は自民党全体よりも「右」からある程度集票する党として期待する者もいたはずだ。最近は「内紛」に陥っているらしい(詳細に関心はないので、正確さを欠く)。
きっとその「内紛」に関連しているのだろう、藤岡は「日本保守党の言論弾圧から被害者を守る会」の会長であるらしい。
この会は、厳密さを欠くまま書くと、2025年4月1日に発足したようだ。
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中身を読んでいないのだが(こんな言い訳ばかりだ)、月刊正論等の「保守」系有力月刊雑誌は、「保守」を謳う政党ではなく、藤岡信勝等々の側に立っているようだ。
<やれやれ>という気もする。
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二 西尾幹二逝去をうけて藤岡は、「西尾幹二氏の教科書への思い」と題する文章を書いた。産経新聞2024年11月18日付。<つくる会>のOffial Web にも掲載。
「新しい歴史教科書をつくる会」のでき方、西尾と藤岡の結びつき方には関心があった。西尾・全集17巻/歴史教科書問題(2018年)ではよく分からなかった、と思う。
上の藤岡の文章によると、こうだ。
1996年1月、西尾と初めて逢う。明記はないが、西尾が自分の主宰する会に藤岡を講師として呼んだように読める。藤岡ら「自由主義主義史観研究会」による産経新聞紙上の連載が同月に始まっていた。
同年の検定結果で、全教科書に「強制連行」による「従軍慰安婦」の記載があると分かった。「私は許せなかった」。
藤岡によると、「全教科書に嘘が書かれているなら、…自分達でつくるほかはないではないか。歴史教科書問題は、こうして始まったのである」。
以下、時期に関する記述はない。
高橋史朗と(たぶん新教科書について)相談した。「高橋氏は西尾氏に持ちかけることを提案し」、三人で会合した。西尾(のたぶん主導・示唆・提案)により、「坂本多加雄氏に参加を呼びかけることにした」。
「こうしてこの四人で幾度となく会合を重ねて会の構想が次第に形を成していった」。
以上。のち、1996年12月に、会設立の記者会見。翌1997年1月正式発足。
これによると、第一に、高橋は上記の西尾主宰の「会」の一員だったからこそ藤岡は相談したとみられることを含めて、中心的・核的な人間群の形成について、西尾幹二の影響力は大きかった。
第二に、西尾が10年余後に<つくる会>について、「<反共>だけでなく<反米>を唱えた運動だった」旨を書いたのは(全集7巻p.711-2参照)、おそらく「大ウソ」だったことも分かるだろう。
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三 藤岡信勝には、期待していることがある。
藤岡信勝(1943〜)は、Wikipedia によると、1963年に日本共産党入党。その後、1991年のアメリカに留学。「司馬遼太郎の著作や渡米経験を通じて…を感じた」。「帰国後に保守派に転向した」。
ところで、同じくWikipedia による「新しい歴史教科書をつくる会」の項は「日本共産党員だった藤岡信勝が…」から始まる。
先の「保守派に転向」という「転向」という語の用い方も「優しく」ないが、上の元共産党員が作ったという説明の仕方も、おそらくは(「左翼」ではなく)「日本会議系」の分裂後の反「つくる会」派の執筆者によると推察される(かつてはもっと露骨に批判的・揶揄的だった)。
なお、「元共産党員」に注目するのは、本当は的外れだ。共産党から離れて「まとも」になった者を「元」を理由に揶揄する、批判的に見る(そう感じさせようとする)のは、心が健やかではない。
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元に戻る。20歳(入党要件)に日本共産党員となった藤岡が、マルクス主義・共産主義、あるいはマルクスとレーニン、日本共産党の綱領類とその「理論」に詳しくなかったはずはないだろう。
それがなぜ、「司馬遼太郎の著作や渡米経験」(上記)で日本共産党を離党することになったのか。30年間近くの「党員」生活は、藤岡にとって、いったい何だったのか。
<つくる会>の歴史教科書は一度検定不合格だったことがあり、また約20年あいだで最大の採択率は1.1パーセントにすぎない(2009年。同会Web による)。分裂後のもう一つの教育再生機構系教科書と合計しても、一回なりとも3パーセントを超えていないだろう。
華々しかった「記者会見」後の約30年後にある、この凄まじい、無様で惨めな現状をどう総括するかも、長いあいだ幹部だった藤岡が行なっておくべき仕事だろう。余計ながら、<方針は正しかったが、力不足でした>という日本共産党が繰り返す総括で済ませることができるはずはない。
さらに、上のこと以上に、「日本保守党」との闘いにエネルギーを注ぐくらいなら、なぜ、日本共産党を離党したのかを、離党決意後の経緯を含めて、詳細に記述して、後世に残していただきたいものだ。
1991年の夏から冬、ソ連共産党が解体し、かつソヴィエト連邦も消滅した(この二つは全く別の次元の問題だ)。
このことの影響が大きかった、と推察することはできる。日本共産党・宮本顕治がこの頃突然に丸山真男批判を開始したのは、離党または党に抵抗しようとする「知識人」に対する<見せしめ>の意味が、少しはあったのではなかろうか。
だが上のことはきっかけで、突如ソ連は社会主義国でなかったとか主張し始めた党中央(不破哲三にほぼ等しい)に対する不満があったかもしれない。日本共産党の歴史観、とくに日本の歴史の捉え方に疑問をもったのかもしれない。マルクス主義そのものの(当時の党文献が伝えるかぎりでの)に種々の点で幻滅したのかもしれない。司馬遼太郎の歴史・日本史「観」も影響を与えたらしくある。
日本共産党を離党した者(除名を含む)の書物をある程度は所持しているが、個人的エピソードは分かっても、日本共産党の理論と政策を批判的に立ち入って論じているものは少ない、と感じられる。
「日本保守党」とのあいだの(私には、あるいは歴史的に見ても)瑣末な問題にかかわるよりも、のちに「保守運動」の有力者の一人になった者が、かつて、なぜ日本共産党を捨てたのかを詳細に語っておくことの方が、歴史的にも、日本の「保守」のためにもはるかに有意義であるのではないか。
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