秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

つくる会

2668/西尾幹二批判071—全集第8巻②。

 西尾幹二全集第8巻(2013)の「後記」の第一頁(p.787)には、前回に触れたいくつかの点以外に、注目を惹く文章がある。
 第一に、1980-90年の約10年、「思想家としても、行動家としても、限界までやったという思いももちろんないではない」、とある。
 これは2013年時点の感慨なのか、1990年初頭にすでに抱いたものなのかは明確ではない。
 しかし、少なくとも2013年の時点ですでに、自らのことを「思想家」かつ「行動家」だと書いている。
 秋月瑛二は、2019年1月の文春オンライン上で(私には)「『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家」としての思いがある(だから椛島有三と妥協できなかった)と語った部分が、最初かと思っていた。
 2013年に、何の限定も付けずに、かつ自らの文章で「思想家」(かつ「行動家」)と称していたのだ。
 なお、いつの時点であれ、西尾を本当に「思想家」だと見なしている人は何人いるのだろうか。
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 第二に、「人生で一番よいものの書ける、体力もある充実した歳月に私は教育改革のテーマに集中していた」約10年が経った後について、こうある。一文ずつ改行する。
 「フッと憑きものが落ちたかのように、この世界から離れてしまった。
 そのあと二度とこの種の教育論は書いていない
 日本の教育の行方に絶望したからだともいえるし、教育を考えること自体に飽きたからともいえる。」
 これは、じつに驚くべき文章だ。1990年前半での述懐ならばまだ分かる。
 しかし、西尾幹二はその後、「教育学」研究者の藤岡信勝と出会い、1996-1997年に〈新しい歴史教科書をつくる会〉を設立し(記者会見は1996年12月)、自分が「初代会長」になったのではないか。
 この「つくる会」とその運動は、名称上も「歴史教科書」に関係するもので、日本の「歴史教育」を正面から問題にしていたのではないか。当然に、「教育改革」と関連する。
 それにもかかわらず、いかに「会」とは直接の関係がなくなっていたとは言え、2013年に、1990年初頭以降は「日本の教育の行方に絶望した」または「教育を考えること自体に飽きた」、という旨(こうとしか読めない)を書けるとは、いったいどういう<神経>のもち主なのだろうか。
 この人にとっては、「教科書」も「教育」も大した問題ではなく、これらとは別の次元の「思想」・「精神」または「歴史哲学」に、あるいは自分が「会長」として目立っていて〈有名〉であることに、最も大きな関心があったのかもしれない。
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 第三に、「人生の重要な時間を費やした貴重な体験からもパッと離れ、たちまち遠くなってしまう」ことについて、こうある。
 「ある意味で悪い癖で、私は感動だけを求めていて、これはその後の人生でも繰り返されたパターンである」。
 これは、西尾が「その後の人生」や自己の「癖」について語っていて、興味深い文章だ。
 そして、最も気になる重要な言葉は、「私は感動だけを求めてい」た、という部分だと思われる。
 西尾がそれだけを求めていた(その後でもそうだったとする)「感動」とは何か
 「真実」でも、「正義」でもない、「感動」だ。
 この「感動」は、教育改革に自分の見解が採用された、それに影響を与えた、というものではないだろう。
 そして、教育改革(そのための「臨教審」・「中教審」答申等)をめぐって(当時は2013年時点よりも多様な全国紙を含む)諸情報媒体から、西尾幹二個人の発言または原稿執筆が求められ、西尾の名前が知られ、注目され、〈有名になった〉こと、これこそがこの人にとっての「感動」であったように思われる。
 すでにこの欄に書いたことだが、「真実」、「正義」、「合理」性は、西尾幹二が追求してきたものではない〈有名〉・〈高名〉な「えらい人」と多数の人々に認知されるという「陶酔感」、「感動」を得ることこそが、この人が追求してきた最大の価値だった、と考えられる。
 もちろん、そうした「願望」が実現されたかは、別の問題になる。
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 つづく。

2504/西尾幹二批判056—電気通信大学。

 西尾幹二から2017年刊の『保守の真贋』(徳間書店)を贈呈配布してもらったことがあった。礼状は出さなかった。
 さすがに今年2022年の年賀状は来なかったが、2021年の年賀状は来た。それにはハガキにしては長い文章が活字印刷されていて、<「バイデン」によってアメリカは<「法治国家」でなくなった>旨が書いてあった。情報源はどこに?、と感じたものだ。
 さらに数年前の年賀状には<「歴史教科書」が変われば日本も変わると思っていた>と書いてあった。本当にそう思っていたとすれば、幼稚さが甚だしいと感じたものだ。上のいずれの年も、当方からは新年挨拶状を出してはいない。
 というわけで(というほどに単純ではないかもしれないが)、西尾幹二は「秋月瑛二」の本名やどういう人物であるか(あったか)を知っている。
 したがって、〈ハンドル・ネーム〉で批判するのは卑怯だ、少なくとも好ましくない、という秋月に対する批判は、西尾幹二との関係では的確ではない。
 それに、10年以上使っているこの欄用の名前を変えるのは忍び難いが、少なくともこの数年間は、本名または「正体」が誰に分かってもかまわない、というつもりで書いている。
 それより前に書いていたことだが、秋月瑛二はいかなる組織にも個人にも、政治的にも私的にも、従属していない。 
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  西尾幹二は2006年1月に、「つくる会」名誉会長辞任の挨拶文を会員あてに送った(ようだ)。「名実ともに同会から離れ…」とあるから会員でもなくなる、ということだろうか。
 その文章の中で、こう書いている。同全集第17巻・歴史教科書問題(2018年)、p.709。
 「私は研究上の場所とした日本独文学会を六十歳で退会した。
 私は『個人』として生まれたのだから『個人』として死ぬ。
 どんな学会にも属する必要はないと思ったからである。
 これに続けて、「つくる会」に参加したのも離脱するのも「個人」としてであって、それだけのことだ、と書いて、名誉会長辞任(かつ退会?)の理由としている。
 この文章は、奇妙だ。
 西尾幹二がどの学会に加入しようと退会しようと、自由勝手だ。
 しかし「個人」として生まれて死ぬということは、「どんな学会にも属する必要はない」ということの論理的な理由にはならない。
 かりにこれを一貫させるつもりならば、遅くとも「六十歳で」、つまりは1995年の翌年1996年3月までには、「全ての」組織・団体への加入・帰属をやめなければならない
 西尾幹二は、自分のうちにある「矛盾」に気づいていなかったのだろうか。
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  西尾幹二の詳細な「経歴」・「年譜」を本人自身が明確にしてほしいものだが、「帰属」団体・組織に着目すると、おおよそつぎのことが分かる。
 1958年03月、満22歳、東京大学文学部独文学科卒。
 1961年03月、満25歳、同大学院修士課程修了。
 同年04月、同、(国立)静岡大学人文学部講師。
 ここで区切ると、修士課程の標準は二年だが三年を要したことの理由は、もちろん知らないし、当面の問題とは関係がない。
 後期(博士)課程に進学せずして就職先を得ているのは、のちに現天皇と雅子皇后(当時、皇太子・同妃)の結婚自体について、西尾幹二が<「天皇家」と「学歴主義」の結合>とわざわざ指摘する、その「学歴」または「学歴主義」が背景にあることは明らかだろう。
 西尾個人は当然と思っていたかもしれないし、東京大学の教員・研究者として残れなかったことが不満だったかもしれない。だが、のちには「教育制度改革」問題で批判的に書きもする「学歴主義」の恩恵を、この人自身が相当に享受している。
 また、余計ながら、当時の大学では複数の外国語履修が要求され、第二外国語としてドイツ語かフランス語が選択されやすく(「ドイツ文学」というより)「ドイツ語」の教師の需要が近年よりも高かったことも、背景にあっただろう。
 1964年04月、満28歳、(国立)電気通信大学助教授。のち教授となる。
 1999年03月、満63歳、同大学退職。同時期か不明ながら、「名誉教授」に。
 さて、先に記したことを、もう一度書こう。
 「個人」だから「どんな学会にも属する必要はない」と言うのならば、西尾幹二は、遅くともその学会の退会と同時かそれ以前に、すなわち「六十歳」までには=1995年の翌年1996年3月までには、「全ての」組織・団体への加入・帰属をやめなければならなかったはずだ。
 しかるに、1998年度まで、特定の国立大学の教員だった。これは、当時の国立大学の定年だった満63歳(但し医学部と東京大学の少なくとも法学部は違っていた)と符号している。その年度まで(国立)電気通信大学に帰属し、何らかの職務と多額の?俸給があったはずだ。
 その権利・義務は、特定の学会の会員であるのか否かとは質的に異なっている。学会員には大会・集会出席義務すらなく、所属の意思と会費の納入さえあれば会員であり続ける。
 ともあれ、西尾幹二は60歳以降は「個人」にすぎないのではなかったか?
 なぜ、「学会」はやめても、大学教員ではあり続けたのか?
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  西尾幹二は1996年12月か1997年1月の「つくる会」の設立の重要メンバーで、初代会長にもあった。「日本独文学会を六十歳で〔1995年度中に〕退会した」したというのは、これと関係があると推察される。
 しかるに、1997年度と1998年度は、「つくる会」会長と電気通信大学教授を「兼ねて」いたわけだ。
 後者だけですでに、たんなる「個人」ではない。
 したがって、私は「日本独文学会を六十歳で退会した」、「個人」だから「どんな学会にも属する必要はないと思ったからである」という文章はきわめて奇妙なのだ。
 瑣末な問題かもしれないが、西尾幹二という人物とその文章は信用し難い例として、書いている。
 その場、その場で適当に書いている例が少なくない。いつまで自分が大学教員であったかをうっかりと?失念していたか、あるいは失念するほどに電気通信大学での義務・負担が軽かったかのどちらかだろう。
 電気通信大学等の国立大学は当時は、現行法(国家行政組織法)で言うと「施設等機関」の一つで、国立病院等とともに国家行政組織機構の中にあり、当然にその教職員の法的地位は国家公務員そのものだった(広義の独立行政法人・国立大学法人となっている現在と異なる)。西尾が文部省関連の中央教育審議会の委員として一時期に任用されていたのも、国立大学教員だったことも大きな理由だっただろう。
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  ドイツ文学で出発した「文科系」の西尾がなぜ、「理科系」の単科大学に35年ほども在職し続けたのか。
 いまただちに参照できないが、たしか同全集のいずれかの巻の「後記」の中で、具体的な大学名を明記して、誘われたけれども、世俗的な有名さよりも電気通信大学の「自由」を採ったとか長々と書いていた。西尾幹二という人の「心理」にも関係するので、手元で参照し得たときに再び言及しよう。
 関連して不思議に思うのは、西尾は電気通信大学で学生に対して、いったい何を教えていたのか、だ。「名誉教授」には勤続年数さえあれば誰でも?なれるとはいえ、1964年度〜1998年度の35年というのは、おそらくは基準年数を超えて、じつに長い。
 古田博司は、筑波大学の大学院の某専攻長になって…とか、所属大学の職務に関係することもけっこう書いていた。だが、西尾幹二は、電気通信大学での職務等について、些細なことも含めてきわめて冗舌な人であるにもかかわらず!、全くといいほど触れていない(皆無ではない)。学生に対する「教育」内容については、おそらく一切触れたことがない。
 天下に著名な西尾幹二がニーチェでもShopenhauer でもなく、ドイツ文学でもドイツ哲学でも、ましてや日本史についての「権力・権威二分論」でもなく、まさか35年間以上も初学の学生たちに、ドイツ語の発音や文法の基礎から教えていたとは、想像したくないことだが。
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2495/西尾幹二批判055—思想家?③。

 つづき
 三 1 西尾幹二は、2009年に、「思想家や言論人」について、こう告白?している。政治家の言葉には、誰もが知るように嘘がある、としたあと、こう書く。
 「同じように言葉の仕事をする思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。
 世には書けることと書けないことがあります。
 制約は社会生活の条件です。
 公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう。」
 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 相当に興味深い文章だ。
 「公論に携わる思想家や言論人」の一人だと西尾が自分を見ていることは間違いなく、その点ですでに関心は惹く(ただの「文筆業者」ではないのか?)。
  それはともかくとしても、上が一般論というより、確実に自分自身についての、少なくとも自分を含めての叙述であることが注目される。
 ・「百パーセントの真実を語れる」わけではない。
 ・「書けることと書けないことがあ」る。
 これらですでに、西尾幹二が書いたこと、書いていることの「真実」性、「信憑性」、「誠実さ」を疑問視することができる。
 さらに、つぎもなかなか新鮮で刺激的な?叙述だ。
 ・「私的な心の暗部を抱えてい」る。
 ・「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 これが書かれた2009年2月、「つくる会」は2006年に分裂して、西尾は名誉会長でもなくなっていた。従来の「つくる会」教科書出版会社だった扶桑社(産経新聞社関連会社)は八木秀次らの分かれたグループ作成の教科書を発行しつづけることになった。
 種々の思いがあったに違いないが、2006-7年に西尾は、「つくる会」分裂の経緯・関係人物に対する鬱憤を吐き出すかのごとく、分裂の経緯や関係人物批判等を相当に詳しく、かつ頻繁に書いた。
 それらを含めてまとめたのが西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)で、後記の表題は「あとがき—保守論壇は二つに割れた」。その中で、こう書きもした。
 「保守への期待が保守を殺す。
 私は自分の身が経験したこの逆説のドラマを包み隠さず正直に叙述した。
 なかに個人攻撃の文章があるなどと志の低いことを言わないでいただきたい。個人の名を挙げて厳しく批判している例は一人や二人ではない
 そういう『事件』が起こったのである。
 歴史の曲り角には必ずユダが登場する。」
  首相は、安倍晋三に代わっていた。安倍は、産経新聞・扶桑社とともに<非・西尾幹二派>を支持したとされる。
 西尾は「保守への期待が保守を殺す」と書き、「保守論壇は二つに割れた」という重要な認識を示した。
 かつ同時に、多数の(氏名だけは私も知る)論者たちを「ユダ」として名前を出して批判・攻撃した。10名を超えており、皮肉の対象も含めると、旧「生長の家」活動家とされた者たちのほか、八木秀次はもちろん、岡崎久彦・中西輝政・櫻井よしこ・伊藤隆、小田村四郎等々の多岐にわたる。「産経新聞の渡辺記者」というのも出てくる。
 この「事件」を振り返るのが目的ではない。
 西尾は2009年に、「書けることと書けないことがあ」ると言ったが、2006-7年頃には十分に書いていただろう、書きたいが書くのを躊躇してやめたという部分があるのだろうか、という疑問をここでは書いている。
 西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中ではとくにつぎの表題の項が、分裂の経緯(あくまで西尾から見た)や関係の多数の個人名を知るうえで、資料・史料的価値があるだろう。p.77〜p.173。
 「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」、「小さな意見の違いは決定的違い」、「何者かにコントロールされだした愛国心」、「言論人は政治評論家になるな」。
  2009年の前年の2008年は、西尾幹二が当時の皇太子妃批判を月刊WiLL上で継続し、西尾『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)で単行本化した年だった。
 不確実な情報ならば「書けない」だろうが、西尾は「おそらく」という言葉を使っての推測の連鎖も含めて、相当に「書きすぎた」のではないだろうか。
 2006年に西尾は「保守論壇は二つに割れた」と認識したのだったが、「つくる会」の分裂以降、八木秀次は月刊正論(産経)上の重要な執筆者の位置を獲得する。八木は冒頭の随筆欄に、明らかに西尾幹二に対する<皮肉・当てこすり>を書いたりしていた。
 西尾が月刊正論から一切排除はされなかったようだ。それまでの実績と「誌面を埋める文章力」は評価されていたのだろう。それに、西尾自身が月刊正論では安倍内閣批判も許容してくれた、と何かに書いていた。
 それはともかく、2008年の西尾幹二による当時の皇太子妃批判は、ある程度は月刊WiLL編集部の花田紀凱との共同作業のようだが、2006年以降の西尾幹二の心理的「鬱屈」状態も背景にあったのではなかろうか。つまり、継続的に(従来どおりに?、その言う「保守論壇」の中で)「目立ち」たかった、というのが、重要な心理的背景の一つだったのではないか。 
 そして、2009年時点での「百パーセントの真実を語れる」わけではなく、「書けることと書けないことがあ」る、という言い分と、この人が2008年に実際にしたことの間には、大きな齟齬がある、と考えられる。 
 『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)の刊行自体もまた、「思想家」のすることではなかっただろう。個人全集になぜ収載しないのだろう。自信がないのか、西尾でも恥ずかしく感じているのか。
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   2009年に「書けない」ことがある、と西尾が言った、その「書けない」こととは、いったい何だったのだろうか。
 むろん、文章執筆の「注文主」(雑誌編集者等)の意向とは正反対の、あるいはそれと大きく矛盾する文章を書けはしないだろう。
 西尾は上に引用した部分のあとで、書けなくする「最大の制約」は「自分の心」だなどという綺麗ごと?を書いているが、それは現実には、文章執筆「注文主」の意向を<忖度>する西尾の「心」ではないかと思われる。
 そして、そのような100パーセント「自由に」執筆することができない者を、おそらく「思想家」とは呼ばない。
  さらに、西尾幹二によると、西尾自身を少なくとも含むことが明瞭な「思想家や言論人」は、「私的な心の暗部を抱えてい」て、「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 あきらさまに書いてしまえば「狂人と見なされる」だろうような、「私的な心の暗部」—。
 これが西尾幹二においてはどういうものか、きわめて興味深い。
 そして、この「心の暗部」、あるいは偏執症的な、独特の「優越感と劣等感」(後者は<ルサンチマン>と言えるだろう)をも見出して、指摘しておくことは、この西尾幹二批判連載の目的の中に入っている。
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2491/西尾幹二批判051—神話と日本青年協議会①。

  前回に関連して、つづける。
 私が読んだ順に記すと、西尾幹二は2019年に、「神話」についてこう語った。
 月刊WiLL2019年4月号=岩田温との対談。p.219-p.220。
 ①「神話は歴史とは異なります。…。
 歴史は…、諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。

 2017年にも、ほとんど同じ文を書いていた
 2017年1月/「つくる会」20周年挨拶文—全集第17巻(2018)所収、p.715。
 ②「神話と歴史は別であります。…。
 歴史は諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。

 以上、完全な同文ではないが、ほとんど同じだ。
 なお、この欄でかつて西尾幹二は文章の「使い回し」をしていると批判し、<コピー・ペースト>をしているふうに記したのは誤りで、お詫びして訂正する。「…」の部分も一致していない。
 しかし、ほとんど同じ文だ。①と②を比べて一読すれば、すぐに分かるだろう。西尾は②の印刷文書を見ながら発言したのか、あるいは対談のゲラ段階で②を対談発言の中に書き加えたのか。
 なお、②の文章の前には、つぎの一文がある。上掲同頁。
 「史の根っこをつかまえるのだとして、いきなり『古事記』に立ち環り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、これもそのまま信じられるでしょうか」。
 初めてこの欄に記すが、これは西尾の<保守>派内のライバル・櫻井よしこ批判であり、皮肉または当てこすりだ。
 櫻井よしこは、西尾が上を書く直前に、<古事記の精神を強調>し、「古事記」の精神・価値観を理解して掲げるのが「保守」だ旨を書いていた。「3月号」になっているが、実際にはもっと早く発行されていると見られる。 
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)、p.85-p.86。
 古事記の「精神」を強調する限りでは、西尾と同じで、「歴史」把握のための「いきなり」が良くないのだろうかと、西尾の言い分はやや不思議でもあるのだが。
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  上のような「神話」と「歴史」の区別、<歴史—解釈を許す、神話—解釈を許さず「信じる」だけ>という対置の根拠はいったいどこにあるのだろうと、不可解だった。
 少しは理解できたのは、以下による。
 すなわち、秋月なりに言い換えれば、「理屈」ではない、「神話」とはそもそも「信じるべき」ものなのだ。そのようなものとして西尾は「神話」という語を用いているのだ。そして、日本の「王権」の由来が「神話」にあることも、日本人は「信じるべき」なのだ。
 西尾幹二「神話の危機」2000年10月—同・日本の根本問題(新潮社(編集担当・冨澤祥郎)、2003) 所収、p.210-p.235。
 例のごとく西尾の文章の「論旨」をたどるのは容易ではない。上の点に焦点を当てて、叙述の順に部分的に抜粋引用する。長くなる。
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 ・「古事記の冒頭に、国生みの神話があり、…」、「神の上に神がいる」。日本民族以外と比べると「神らしくない神」だ。
 ・「日本の神様は、規範を持たない。掟を持たない」。仏教、儒教を「取り入れ」、「他の神を自らの神にするということに余りこだわりがない」。ふつうは「神仏習合」と言うが、その前に「神神習合」があったともされる。「神仏習合も神神習合の一つのバリエーションと考えられるのでしょう」。
 ・他の文明圏では「宗教」は血を流す対立を繰り返し、「不寛容」だったが、「日本の神様はどうもそうではない」。
 ・日本の神は「絶対唯一神」ではない。「自らの上に神を持たないがゆえに、すべてが神になり得る構造。…仏もまた神の一種としてとらえることが出来たという構造」、これは、「日本民族の主体性」を「暗黙のうちに自己表現」しているのではないか。
 ・仏教伝来時も、「すべてのものを神として迎え入れる日本の神の概念が非常に包容力を持ったものであったから、これを包み込むことが可能であったのです」。
 ・「死ねば仏になる」と言うが、これは「死ねば神になる」のと同じで、「日本では神は自然万物とつながっており、そこに断絶がない。…明らかに神道と仏教が一緒になっている姿です」。「日本人にとって仏教というものは、難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在だ」と言えるだろう。だから素晴らしい「仏教彫刻」を残したのであり、「日本の神話と仏教信仰とは初めから何らの矛盾なく整合したのだ」。「仏教の導入に象徴される、何でも包容する日本のアイデンティティ…」。
 ・「日本文明の特徴」は「排他性の少ない、自然形成によるアイデンティティの高さのようなもの」でないか。
 ・日本民族は「自分の原理」を主張しなかったのではなく、「何時の頃からか、自分の国を『神の国』と自覚するようになります」。
 ・「神と仏が一つになるという思想が日本の根っこだという考えが、平安末期から北畠親房を経て出来あがった日本の国家観念です」。
 ・「日本の仏教は、…社会的にほぼ幕府に利用される一方で、思想的にはアニミズム的な要素が非常に強いのでインドの哲学のようにはならない」。「そのような体系的思考は日本の仏教には向いていない」のではないか。
 ・「日本人は完結した神話と伝統の中でずっと生きてきたのです。『大鏡』、『愚管抄』、『神皇正統記』—これらの書物はすべて神代と人代とを区別せず、天皇がまっすぐに神代につながっている。天皇譜と神話の神々の世界とが一直線につながっているのです」。
 ・「日本の天皇は神話によって根拠づけられ、神話と王権が直結している」。
 ・「神話とつながるということは、自然万物とつながるということなのです。日本の天皇の場合は神話の世界とも、自然とも全部つながっている。これは世界に類例がありません」。
 ・豪族の祖先も「神話」に出てくるので、「われわれは祖先崇拝を通じて神話とつながっている」。
 ・神話学者は理解できない。「過去の日本人にとっては、神話は学問化されない何物かであり、天皇の存在とつながった信仰の対象でもあったのです」。
 ・「宗教にとって重要なのは自らの信仰であって、知識ではありません」。
 ・「研究の対象が、信仰や神話…になりますと、相手は自然現象ではなく、人間の心です。自分の心の客観化など不可能なことです」。「信仰がどういうことかを知ることは、物体の法則を知ることと同じではない」。
 ・「つまり、信じるということは、一つを信じることであって、あれもこれも信じるということではないのです」。「かように、宗教というものは科学とは正反対なものです」。
 ・「近代科学」、「合理的な学問」に対して仏教にはまだ抵抗力があったが動揺し、「神話はもっと大きな深刻な打撃を受けました」。
 ・「神話を虚構化」した「合理主義者」の津田左右吉を引き継いで戦後に「神話破壊の現象」を出現させた「その筆頭が丸山真男です」。
 ・津田史学は今なお「猛威」を奮っていて、「古代史において『日本書紀』をきちんと読まないで『魏志倭人伝』ばかり持ち上げるのも、同じ合理主義の現れです」。「中国語で書かれた歴史を信じて、なぜ日本人が書いた歴史を信じないのか」。
 ・「日本の神道の場合は、何が入ってきても全部習合したため、無垢でありつづけることができた。しかし、近代化に対峙したときに、今度こそ大きな危機にさらされることになった」。
 ・「日本の神話の危機、日本の神道の危機は、日本そのものの危機と言っていいかもしれない」。
 ・「日本は神の上に神があり、またその上に神があって、絶対の神がない。無限定の神は何をも自らの神にすることが出来るという包容力とフレキシビリティがある。そのことは日本の深い強さであると同時に、近代科学文明というものにさらされたときにはある種の大きな脆さであるようにも思える」。「理論までも外から得て自己を防衛することはできません」。
 ・「日本人の持っている長い歴史には、歴史が物語っている何かがある。…、日本人の中に自ずと宿っている生命感、神秘感といったものを回復することが重要だと思います」。
 ・日本の「神話」は、「物語—こうした神話らしい楽しいお話」がある、「…文学」でもあり、「生命というものを感じさせる話が多い」。それを「ことごとしい科学分析の対象にしても仕方がない」。
 ・「神話がまっすぐ天皇制度につながっているということで、近代以降神話は解体の危機にさらされている」が、「もし王権につながってこないのなら日本の神話はほとんど意味がない」。
 ・「神話が王権の根拠になっていることが、世界史の中で日本民族が自己を保っている唯一のよりどころなのです」。
 ・「日本人は外のものをもう借りない」。自分で「再構成」し、自分が「発信者」になる。そのときに、「日本人のこれからの文明の発展と自己回復力の源」になるのは、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」だと信じている。
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 以上。
 日本・日本人・日本民族への強いこだわりは別として、凡人の秋月でも気づくような「仏教」認識の誤り、<こころ・神話>と<物体・科学>の単純で幼稚な対置・二分論、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」等々の実体がほとんど不明の空疎な言辞、「生命」に言及する等のニーチェの影響があると見られる表現、等々、感じることは多い。
 また、この人にとって、—上の一の2017年、2019年の文章では明確でなかったが、この文章では—「神話」とは王権・「天皇」の生成・存続の根拠であり、かつ「神道」と全くかほとんど同一のものであることも確認できる。
 興味深く、かつ重要なのは、明らかに「仏教」よりも「神道」が優先されていることにも関連して、つぎだ。
 この「危機に立つ神話」は、「日本青年協議会・日本文化研究所共催」の「セミナー」での「講演」記録だと末尾に明記されている。p.235。
 後者は前者の関連団体。
 この講演は、西尾が「つくる会」の会長だった2000年に行われた。 
 しかし、興味深いことに、「つくる会」の実質的分裂または縮小化のあった2006年以降に、西尾幹二は、「日本青年協議会」について、こう発言した。2009年のこと。
 ・「日本青年協議会、これは日本会議の母体で、日本会議はこれの上部団体ですから、今でも日本青年協議会は存在し、組織は日本会議と一体です」。
 ・「日本会議」に「『新しい歴史教科書をつくる会』なんてえらい被害を受けた」。「会はすんでのところで乗っ取られにかかり、ついに撹乱、分断されたんです。悪い連中ですよ」
 ・「日本会議」の「正体がよくわかったので、残された人生の時間に彼らとはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います」。
 以上、西尾幹二=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009)
 →No.2464「四付」
 ——
 以降へと、つづく。

2473/西尾幹二批判046—根本的間違い(続4-1)。

 (つづき)
 六 1 ソ連崩壊により時代は新しくなり、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ(但し、既述の2002年時点での重要な例外がある)、という西尾幹二の間違いの原因・背景の第一は、<日本会議>とその基本的見解だ、と考えられる。第一という順番に大した意味はない。
 「新しい歴史教科書をつくる会」が1996年末に発足したのを追いかけるように、翌1997年5月日本会議が設立された。
 「つくる会」と日本会議は、したがって前者の会長の西尾幹二は、椛島有三を事務局長(現在は事務総長)とする日本会議と、2006年に「つくる会」が(当時の西尾によると)同会に潜入していた日本会議グループによって実質的にに分裂する直前までは、友好関係にあった。
 その日本会議は設立宣言の一部でこう謳った(今でも同サイト上に掲載されている)。 
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時 代に突入している」。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」という一文によって明記されているわけではないが、<マルクス主義の誤りは「余すところなく」暴露された>とあるのだから、「マルクス主義」についてもはや研究・分析する必要はない、という意味も込められている、と見られる。
 そして、日本会議の運動は実際に、「反共」ではなく「日本」・「民族」を正面に掲げるものだった。すなわち、資本主義と社会主義(・共産主義)の対立から<諸国・諸民族>の対立へ、という基本的図式で時代の変化を理解する、というものだ。
 この点が、1990年代半ば以降の(<日本文化会議>が存在した時期とは異質な)日本の「保守」派の少なくとも主流派の主張または基調となる。産経新聞や月刊正論の基調も、今日までそうだと感じられる。反中国ではあっても、「反共」の観点からするのと、「中華文明」に対する<日本民族>の立場からするのとでは大きく異なる。なお、余計ながら、月刊正論(産経)の近年の結集軸はさらに狭まって、<天皇・男系男子限定継承>論(への固執?)だろう。
 「反共」意識が強くて<親英米派>の中川八洋は少数派だったと見られる。というよりも、「保守」の人々の多くが大組織と感じられた?日本会議に結集した、または少なくとも<反・日本会議>の立場をとらなかったために、中川八洋は少数派に見えた(見えている)のかもしれない。
 西尾幹二もまた主流派の輪の中にいたのであり、既述のように、西尾会長時代の「つくる会」と日本会議は友好・提携関係にあった。
 「つくる会」の分裂後の2009年の対談書で西尾は、「残された人生の時間に彼ら(=日本会議)とはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います」とまで発言した。
 しかし、世界情勢の理解という点では、日本会議(派)と基本的には何ら変わらなかった。
 例えば、月刊正論2009年6月号。
 1991年のソ連崩壊により「世界中に…民族主義の炎が燃え広がったわけですから、日本の保守政権も…軍事的、政治的、外交的に自立への道を歩みだすチャンスであったのに、実際にはまるで逆の方向、隷属の方向に進んでしまいました」。
 また、例えば、月刊正論2018年10月号
 「共産主義が潰れて『諸君!』の役割が終わっても、対立軸は決してなくなっておらず、東京裁判史観にどう立ち向かうという課題は依然として残って」いる、という点で渡部昇一と一致しました。
 このような状況・時代の認識において、西尾幹二は基本的なところで日本会議(派)と共通したままだ。
 西尾が「産経文化人」としてとどまっておれるのも、日本会議と共通するこうした基本的な理解+<天皇・男系男子継承>論の明確な支持、による、と考えられる。
 ついでながら、西尾の日本会議に対する意識は、2009年段階での「残された人生の時間…いっさい関わりを持たないでいきたい」から、近年ではまた?変化しているようだ。
 2019年1月時点で公にされたインタビュー記事で、「つくる会」の分裂に関して、こう発言している。 
 2019年1月26日付、文春オンライン(今でもネット上で読める)。
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。
 だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、『つくる会』事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない
 それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。
 しかしですね、私は『つくる会』に対して…だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、…を目ざす思想家としての思いがある。
 だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。そこが私の愚かなところ。」
 以上が、関係する全文の範囲。
 「この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして」おけばよかったかもしれない、と発言しているのは全くの驚きだ。
 かつまた、そうするのは「ずるく立ち回って妥協する」ことで、そうできなかったのは自分の「思想家としての思い」と合理化、自己正当化し、「愚かなところ」と卑下?しているのは、 じつに興味深い。
 ——
 第二の原因・背景へとつづく。

2471/西尾幹二批判045—根本的間違い(続3)。

 (つづき)
  いくつか留保を付しておく必要がある。
 第一に、<根本的間違い>と言っても、それは西尾幹二における日米関係、外交、国際情勢の把握についての<根本的間違い>だ、ということだ。
 そして、西尾はこれらに関する専門家ではなく、おそらくは「頼まれ仕事」として、つまり依頼・発注・注文を受けて執筆した、「請負の」文章としてすでに引用した文章を書いたのだろうから、その点は割り引いた上で論評する必要がある。
 したがって、第二に、西尾が「商売」として執筆した文章に他ならないことに留意しておく必要があろう。
 第三に、西尾幹二について注意を要するのは、「事実」・「現実」や「歴史」についての把握の仕方には独特なものがあり、レトリックによって読者は気づかされずにいることがあっても、多くの(「文学」者以外の)健全な?読者の「事実」(・「現実」)・「歴史」に関する基本的な感覚・意識とは異なるところがある、ということだ。
 この点に関連して興味深いのは、個人全集刊行開始を記念した遠藤浩一との対談で、西尾自身がこれまでの自分の仕事は全て「私小説的自我の表現」だったと明言していることだ。
 月刊WiLL2011年12月号、p.242〜。(ワック)。目次上の表題は「私の書くものは全て自己物語」
 第四に、より本質的なこととして、西尾幹二は自らを「思想家」と主張し、またそう思われたいようで、また『国民の歴史』(1999)の前半は「歴史哲学」を示すものと2018年に自分で明記しているが(全集第17巻・後記)、そこでの「思想」・「哲学」は西尾においていかほど真摯なものかは、厳密には疑わしい、ということだ。
 西尾幹二における<反共・反米>性のうち、<反共>の他に<反米>性にも疑問符が付くことは、予定を変更して、別に扱う。
 但し、簡単にだけ触れると、西尾が「つくる会」会長時代に西部邁や小林よしのりが「つくる会」を退会したのは、西部・小林がより<反米>の立場を採ったのに対して、西尾幹二は明確に、より<親米>的立場を主張するという意見対立が生じたからだった(と思われる)
 その際に西尾は小林よしのりが「人格攻撃」と理解してやむを得ないと(秋月には)思われる文章を書いた。これには、今回は立ち入らない。
 興味深く、また注目されるのは、2001年9月11日事件後のアメリカの「対テロ戦争」を批判しない理由を、西尾がこう明記していることだ。
 以下は、すでにいくつか紹介・引用したように、さんざんにアメリカを歴史の悪役化し、その「陰謀」国家性を指摘している西尾幹二自身の、2002年時点での文章だ。全集に収載されているのか、その予定であるのかは分からない。西尾が会長時代の、かつ「つくる会」関連文章だが、少なくとも第17巻・歴史教科書問題(2018年)には収録されていない。
 ①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
 ②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない
 正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
 (小林よしのり・新ゴーマニズム宣言12/誰がためにポチは鳴く(小学館、2002年12月)、p.75 参照)
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 さて、先に紹介引用したように、西尾幹二はアメリカや中国、日米安保条約についてこう書いた。
 ①2006年—アメリカが厄介で、「中国はそれほど大きな問題ではない」。「アメリカに依存する」ほかないが、「今度はアメリカの呑み込まれてしまうという新しい危機」があり、「これからはこっちの方が大きい」。
 ②2009年—「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国に対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあります。加えて、ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきているのです。
 ③2013年—「私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。」
 また、2013年に、10年後(2022-23年)の日本をこう「予測」した。
 ④「やがて権力〔アメリカ〕が牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 上の④は確言的にせよ「予見」だろうから省くとして、例えば①〜③はどうか。
 論評は簡単だ。上掲の2002年の文章を知ると、萎縮してしまうけれども。
 間違いである。
 かつまた、西尾が2017年に放った(つくる会は)「反共に加えて反米も初めて明確に打ち出した」という豪語の関係では、こうだ。
 矛盾している。 どこに「反共」があるのか。
 したがって、問題は、こうした結論的論評ではなく、西尾幹二はなぜ間違った、あるいは矛盾する言辞を綴るのか、ということになる。
 自らの本来の「正しい」「思想」を例外的に放棄することを正面から肯定する2002年の文章を照合するとかなり虚しくなりもするが、それはさて措いて、以降でこの問題を続けよう。
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 五1を五に、五2を六に変更(1/16)。

2469/西尾幹二批判044—根本的間違い(続2)。

 (つづき)
 四 2 西尾幹二・国民の歴史(1999年)のあと、2001年に同が会長の「つくる会」教科書が検定に合格する(どの程度学校で使用されるかは別の問題)。
 この最初の版を現在見ることはできないが、当時に全体を読んで、大々的に批判した、<保守派>のつぎの書があった。
 谷沢永一・「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する(ビジネス社、2001年6月)。
 谷沢の批判は、「絶版を勧告する」ほどに多岐にわたる。
 そのうち、秋月瑛二が絶対に無視できないのは、谷沢が引用する、原教科書にあったつぎの叙述だ。
 ①これまでは資本主義・共産主義の時代だったが「21世紀を迎えた今、これらの対立もとりあえず終わった」。
 ②「ソ連が消滅したことで資本主義と共産主義の対決は清算された」。
 先には1999年と2006年以降の西尾幹二の<根本的間違い>部分を列挙したが、2001年時点での西尾が会長の「つくる会」自体の教科書も、根本的に間違っていた。
 谷沢永一(1929〜2011)は、上の①を、こう批判した。
 「間違いである。中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国など、れっきとした社会主義国はまだ残っていて、異常な軍拡を続ける中国、何をするかわからない北朝鮮は、日本にとっても大きな脅威になっている。
 また、上の②を引用したあと、こう書いた。
 「これも同じ理由で間違いである。間違いどころかデマである。
 以上、谷沢著の p.281-2、
 秋月瑛二は、谷沢の指摘は完全に正当だった、と考える。西尾幹二の基本的状況認識と比べて、谷沢は明らかに「正常」だ、と考える。
 谷沢は上のあと、中嶋嶺雄が「中国…に旧ソ連の共産党勢力、北朝鮮、ベトナムなどが連なりはじめ、ラオス、モンゴル、ビルマ、ミャンマーなどの旧社会主義圏も、その戦列に加わりはじめている」と指摘している、と追記している。
 さて、ソ連(および東欧社会主義諸国)の崩壊・解体で終わったのは<対ソ連(・東欧)との冷戦>であって、資本主義対共産主義(・社会主義)の対立はまだ終わっていない、国内でも、レーニン主義政党で「社会主義・共産主義」を目指すと綱領に明記する日本共産党はまだ国会に議席を持っているではないか、とこの欄でいく度か書いてきた。
 西尾幹二らと谷沢永一らと、どちらが「正常な状況認識」を示している(いた)のか。
 なぜ、西尾幹二らは「間違った」のか。むろん、一部は、本質は文章執筆請負業者にすぎないことに理由はあるが。
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 根本的間違いの原因、<物書き>としての西尾幹二の生き方とその限界、「反共」に加えた「反米」の意味合い、などに以降で言及する。
 最後の点では、2002年頃の小林よしのりにも登場していただかなければならない。
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2464/西尾幹二批判040—「つくる会」運動②。

  西尾幹二個人編集の同全集17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018)の大きな特徴は、「つくる会」の一定時点以降の自分の文章をいっさい(但し、明記に矛盾する例外がある)収載していないことだ。
 個人全集にはおそらく珍しく、著者自身が各巻にけっこう長い「後記」を付しているが、この巻ではその冒頭で真っ先に、西尾はこう明記する。
 「本巻は『新しい歴史教科書をつくる会』が創立されてから、会長や名誉会長の名で私が総括責任者であることを公言していた約十年間の私の発言記録である」。時期的には、1996年12月から2006年1月まで、の約9年余りにあたる。p.747。
 ただちに生じる疑問は、なぜ上の時期、会長・名誉会長だった時期に限るのか、だ。その論理的必然性は全くない、と言えるだろう。
 なぜか。それは、「後記」の中で「『つくる会』の内紛と分裂」と西尾自ら簡単に書いている(p.759)ものに触れたくなかったからだろう。
 2006年1月以降、西尾が「つくる会」や歴史教科書問題について何ら文章を発表していない、というのであれば、それもやむを得ないかもしれない。
 しかし、秋月ですら、「つくる会」の内紛と分裂について語る文章または発言を含む、つぎの二つを所持している。
 ①西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 ②西尾=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009年12月)。
 「つくる会」の分裂が歴史教科書問題と無関係である筈がない。いわゆる「保守的」な歴史教科書が二種出版される事態が発生し、それは現在まで継続しているからだ。
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  西尾幹二は、自分史(自分の歴史)の中に「つくる会」の内紛と分裂を含めたくないのだろう。
 これと全く無関係だったならば、その合理的理由はある。
 しかし、その内紛と分裂に、西尾自身が不可分に、密接に関係していた。
 そしてまた、その問題と関係のない文章だからだろう、歴史教科書には関係する、2006年1月以降の文章を上の第17巻に収載することを堂々と行なっている。
 ①「同会創立二十周年記念集会での挨拶(代読)」(2017.1.29)。p.710-。
 これは容赦してよいかもしれない。では、つぎはどうか。
 ②「高校の歴史教育への提言」(西尾=中西輝政・日本の『世界史的立場』を取り戻す(祥伝社、2017)の西尾執筆「まえがき」)。p.717-。
 これは西尾が会長・名誉会長として、その期間内に書いた文章ではない。
 にもかかわらず、上に引用した「後記」冒頭の明記とも矛盾して、堂々と?収載している。
 結局は、西尾の「個人編集」の嗜好に依っているわけだ。
 西尾が、自分の「つくる会」との関係について、読者が理解してほしいと望むように、「解釈」の素材を取捨選択して収載している。なお、上の①『国家と謝罪』収録文章のうち、重要なものは割愛して、名誉会長退任挨拶状だけは載せている。
 これはおそらく、西尾幹二の「歴史」観と無関係ではない。この「歴史」には「自分史」も含まれる。
 客観的「事実」に接近するのは少なくともきわめて困難で、結局は残された「文章」によって「解釈」されるほかはない、従って、当事者である自らが「つくる会」・歴史教科書問題との関係を証する文章を選んで全集に残すことによって、その「解釈」を(ある程度、または相当程度)操作することができる、と考えているのではないか。
 --------
  ニーチェ『この人を見よ』の冒頭の一節の最後に、こうある。
 「私の言葉に耳を傾けてくれ! 私はこれこれの者であるのだから。
 どうか、私のことを勘違いしないでもらいたい!」
 訳は、丘沢静也・光文社古典新訳文庫によった。
 これを利用させていただくと、西尾はさらにこう言いたいのではないか。
 私の「つくる会」や歴史教科書問題とのかかわりは、全集第17巻に収載した文章の範囲で、それらのみを素材にして理解してもらいたい。どうか、私のことを勘違いしないでくれ!
 なお、文章の取捨選択はもとより、どのような順番で体系的に?それらを並べるかも、「個人編集者」である西尾は十分に留意して、2018年時点での「構成」を行なっている。
 さらに、「後記」では各文章の「読み方」まで親切に?ガイドし、一部にはその「評価」をも自ら書いている。
 どうか、私のガイドに従って、私が指示する留意点に沿って読み、私がすでに書いているように「評価」してほしい、というわけだ。
 「どうか、私のことを勘違いしないでもらいたい!
 --------
 四 付/上の内紛・分裂の経緯は、今後少しは立ち入るが、私にはよく分かっていない。
 上に掲げた西尾=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009年12月)にここでは限って、これに関係する西尾幹二のこの時点での発言を、以下に記録しておく。「」内は、そのままの引用だ。全て西尾発言。一文ずつ改行する。段落最後には//を付す。
  「保守はカルト汚染を克服できるか」との見出しの項。p.262-。
 ある若い人からこう聞いた。「ある若い方が日本青年協議会という団体の青年部に入って修行しようとしたときに、西洋の思想家の名前などを挙げると、思いが足りないと言って叱られ、それからいろいろ日本の思想家のことを言っても思いが足りない、あの人たちはだめだと言って、硬直したドグマをたたき込まれるんですね。
 葦津珍彦先生、三島由紀夫先生、小田村寅二郎先生、谷口雅春先生のご意志を受け継ぎ、天皇国、日本の再建を目指しますということを宣明させられて、そして次なることを強いられると。//
 いつ何時も天皇陛下が今、何を考え、何を思っていらっしゃるかを考えて、日々、生き抜いていけと説き、それこそが天皇陛下の大御心に従った正しい生き方であると、若い人たちに説いている。
 平和時にこんなことを強いるのはおかしいと思った。
 こういうのって天皇陛下ご自身が迷惑にお感じになるはずです。…」//
 「いまだにそんなことをやっているグループがあると、目を覆うばかりですが、これが日本青年協議会、これは日本会議の母体で、日本会議はこれの上部団体ですから、今でも日本青年協議会は存在し、組織は日本会議と一体です。
 同じ場所にあるんです。
 日本会議と称する一つの団体が何を考えているのか、と不思議でならないですね。」//
 彼らは自分の正体を「隠しているんですね。
 自分たちが隠れて、偉い先生、裁判官とか、大学教授とかを表に並べて、そして実権を握っている事務局は後ろに隠れていて操作しているんです。
 神社本庁も操られているかもしれない。
 それが保守運動を壟断するから困る。
 『新しい歴史教科書をつくる会』なんてえらい被害を受けた。
 ひそかに会の幹部に生長の家活動家が送り込まれていましてね。
 新田均、松浦光修、勝岡寛次、内田智の四人で、それにつくる会の事務局長だった宮崎正治がいて、宮崎が日本青年協議会に関係あることは知っていましたが、彼らがみんな生長の家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
 このうち松浦氏ひとりは生長の家活動家ではなかったと聞いていますが、四人が一体となって動いていたことは間違いありません。
 宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られにかかり、ついに撹乱、分断されたんです。
 悪い連中ですよ。」//
 「『つくる会』にもぐりこんでいた生長の家活動家の内田智氏は弁護士で、彼らが引き起こした『怪メール』事件を私が雑誌に公開したら、いきなり口座番号を書いてきて五〇〇万円を振り込め、と法律家らしからぬ非合法スレスレの脅迫をしてきました。
 そのあと『国家と謝罪』という評論集に私が彼らへの批判文を載せたら本を回収せよ、と版元の徳間書店を威嚇しました。
 怪メールといい、脅迫といい、言論以外のめちゃくちゃなことをする連中であることを読者の皆さんにお知らせしておく。
 これが日本会議の連中のやることなんです。//
 問題は周辺の名だたる知識人が彼らの不徳義を叱責するのではなく、『国民新聞』その他で彼らとぐるになって騒いでいる情けなさですね。」//
  「神社本庁よ、カルトと同席するなかれ」との見出しの項。p.278-。
 「私がうすうす感じていた私とは異質な世界に住む異質な人々を、詳しく丁寧に教えていただいて、ありがとうございました。
 世の中の大半の人は日本会議や国民文化研究会や日本政策センターのような保守系のカルト教団のことは名前も知りません。
 私もずっとそうでした。…」//
 「私は個人尊重の人間で、運動家にはなれません。
 宗教団体に近づいたこともありません。
 そんな私が一時期とはいえ教科書改善運動に関わったのは矛盾であり、失敗でもありました。」//
 「教科書に関わったために右のような保守系団体の関係者に次第に知己ができ、催しものにも参加したことがありますが、馴染めないのはなぜだろうかとずっと考えてきました。
 なにしろ関係する知識人、言論人には特殊な教条主義の匂いがあり、幹部やトップがずっと同一で交替しないのも異様さを感じさせます。…
 私は左の政治団体運動が嫌いだったわけですから、ほぼ同じ理由で、右の政治団体運動にも好意を抱くことはできません。」//
 「民主党が政権についた…。…日本会議はどうするのでしょう。
 ことに地方では他に頼るべき保守的組織がないので、日本会議に無考えで参集する人が多いようですが、日本会議は人を集めて号令を発することは好きでも、汗をかくことを好まないタイプの人が多いとよくいわれるのもむべなるかなと思います。
 私は平田さんの説明で正体がよくわかったので、残された人生の時間に彼らとはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います。」//
 ——
 以上。

2451/西尾幹二批判036—「つくる会」運動。

 一 自らが初代会長だった「新しい歴史教科書をつくる会」の運動について、西尾幹二はこう語ったことがある。
 ①月刊諸君!2009年6月号(文藝春秋)。p.204-5。この雑誌の最終号の8名による座談会で、宮崎哲弥が「つくる会」は戦後保守の最初で「おそらく最後の」「大衆運動」だろうと見ていたと発言すると、西尾はすぐあとにこう発言した。
 「いや、運動はしましたよ。それはさかんに動いたけれども、結局、大勢我に利あらずして、現実を動かしえなかった…、私はそう総括しています。
 保守言論の無力というものを露呈したわけです。
 あのときの中韓との戦い<中略>、日本は負けてしまって…いまだに負けつづけているのです。」
 ②月刊WiLL2011年12月号(ワック)。これを現時点で散逸しているので正確な引用はできない。記憶による。
 西尾が自分が書いたものは全て「自己物語」で「私小説的自我の表現」だった旨を言い、対談者の遠藤浩一が、<そうすると、つくる会という組織の運営は大変だったでしょう>という旨を質問気味に発言すると、西尾は、こう反応した。
 <そうなんです。だから、失敗したのです。>
 (この部分は現物を見て後日修正するかもしれない。)
 --------
  2009年、2011年の時点では、このように「無力」や「失敗」という言葉を用いていた。
 しかし、西尾個人編集の独特な<全集>の2018年の「歴史教科書問題」の巻(第17巻)になると、「つくる会」運動は全くまるで異なったものだったように描かれている(そのように個人編集されている)。
 この2018年刊行本の中に、前年2017年の「つくる会」20周年記念集会用の挨拶原稿が収載されている。その中につぎの文章があることは。すでに何回か触れた。もう少し範囲を拡大して。以下に(再)引用・紹介する。p.711-2。
 「“ジャパン・ファースト”の起点——歴史教科書運動」〔冒頭見出し—秋月〕。
 「ジャパン・ファーストで行こうと声をあげたのは、『新しい歴史教科書をつくる会』にほかなりません。」
 私は機関誌創刊号で「これを『自己本位主義』の名で呼びました」。
 「採択の結果は乏しかったのですが、…流れ出したジャパン・ファーストの精神運動はさまざまな方面の人々に引き継がれました」。保守言論界の雑誌に「集結した人々の文章のみが、今では唯一の国論をリードするパワーです」。
 「グローバリズム」は「国際化」とのスローガンで彩られていましたが、会はそのような「美辞麗句」を嫌い、「反共だけでなく反米の思想も『自己本位主義』のためには必要だと考え、初めてはっきり打ち出しました」。
 「私たちの前の世代の保守思想家、たとえば竹山道雄や福田恆存に反米の思想はありません。
 反共はあっても反米を唱える段階ではありませんでした。」
 三島由紀夫と江藤淳が「先鞭をつけました」が、「しかし、はっきりした自覚をもって反共と反米とを一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です。」
 「われわれの運動が曲がり角になりました。
 反共だけではなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出したのですが、単に戦後の克服、敗戦史観からの脱却だけが目的ではなく、これがわれわれ本来の目的だったということを、今確認しておきたいと思います。」
 以上。
 これが、西尾幹二が2017年時点で確認または総括する「つくる会」運動の積極的意義だ。失敗でも無力さもなかった、そうではなく、格調高い?意義を持っていたのだ。
 もっとも、西尾は「精神運動」、「反米思想」、「歴史観」といった言葉を使っているので、「精神」・「思想」運動のレベルでの意義を語っているのかもしれない。つまり、「教科書採択の成果は乏しかったのですが」とだけ触れつつ、その<現実>の背景・原因・理由には、最初の会長でありながら、いっさい触れず、何の総括も述べていないのだ。たぶん、その点を概括した文章も当時に書かなかったのだろう。
 良い面だけを取り上げる、そして全くかほとんど、「精神」・「思想」面に関心を示す(触れたくない「現実」は無視する)、という、この人物の(特にこの全集・巻の編集に際しての)特徴がよく表れている。
 上に「良い面」と書いたが、西尾にとってのそれで、詳論しないが、根本的間違い、誤った国際情勢把握を、ここでも示している。
 <アメリカからも中国からも自立・独立せよ>、とこの人物は別の論考で明言しているが、妄想・空想の類だ。軍事、食糧、エネルギー、デジタル商品、労働力等々、完全に一国だけで「自立」している国家など、どこにあるのか。西尾幹二のグローバリズム批判と「日本本位主義」は異常の域に入っているように思われる。
 --------
  ついでに。
 上に紹介した2017年の文章をあらためて読んでいると、つぎの印象が生じる。
 この人は、竹山道雄、福田恆存、三島由紀夫、江藤淳に並ぶレベルの「思想家」とでも自らを勘違いしているのではないか。
 竹山と江藤についてはよく知らない。だが、西尾幹二が後世に福田恆存や三島由紀夫と並んで言及されるような、この二人と同列の人物だとは全く思われない。またおそらく、竹山よりも江藤よりも、劣った仕事しかしていないのではないか。
 要するに基本的には、読者をレトリックで煙に巻くことに長けた、かつやたら〈顕名〉=自己顕示を気にする「物書き」=文章執筆請負業者にすぎないだろう。この点は、これからも、この欄で(ニーチェの影響も含めて)述べていこう。
 また、西尾幹二が独特の「個性的」人物であるようであることの一例は、個人編集全集第17巻に即して、次回に書く。
 ——

2445/西尾幹二批判034。

  西尾幹二「雑誌ジャーナリスムよ、衰退の根源を直視せよ」諸君!(文藝春秋)2008年12月号
 西尾はこの論考で、何やら<上から目線>で、「現在の論壇誌がかかえる問題点」を四点指摘しているようだ。p.28-p.35。
 ①政治論が「思想・政策論と政局論を混同している」。
 ②一部経済論客のようにではなく、「経済、政治、歴史を総合的に論じる」必要がある。
 ③「国際政治と国内政治を、まったく無関係のものとして論じる傾向がある」。
 ④以上は「枕」。
 本質的には「イデオロギー」、「なんらかのぬきがたい先入観」を含んでいる。経済論客には「経済価値観イデオロギー」がある。最近さかんな「保守イデオロギー」も「時流に乗る」ようなもので、「日教組流と構造が同じなのではないですか」。
 この論脈でと見られる叙述は概括しづらい。アメリカか中国かと迷っている日本人が多く「自分自身」がない、日本が中心となる「心の準備」をすべきだ、旨の叙述の後、次の文章がある。
 「イデオロギーは、自分の好むひとつの小さな現実を見て、他のすべての現実に目を閉ざそうとする怠惰な心の傾きです。
 反米も反中も、新米も親中も、みんなイデオロギーにすぎません
 そういう状態を脱して、現実—リアリティを回復するのが日本再生 への道であり、論壇誌はその過程にこそ貢献すべきなのです」。
 --------
  本当に指摘しておきたいことは別にあるが(次回とする)、以上で区切って、批判的にコメントしよう。
 第一。西尾はどういう資格があって、「雑誌ジャーナリズム」または「論壇誌」を上のように批判し、または注文をつけることができたのか。西尾自身は上のような欠点や弊害なくして執筆してきたとはいっさい書いていない。また、一方で、自分はできていないが、期待・希望するとの謙虚な?言葉もない。
 この人は2020年に<哲学・歴史・文学>の総合的把握が理想だった旨書いたが(歴史の真贋・新潮社〉、それも覚束ない人物が<経済・政治・歴史>の総合的論述が必要だと、2008年によくぞ書けたものだ。
 第二。立ち入らないが、国際情勢・国際政治について、根本的間違いをしているだろう叙述もある。
 第三。上によると、反米・親米や反中・親中は「イデオロギー」にすぎず、現実・リアリティを回復しなければならない。
 ?? 2017年には同じ人物が、福田恆存らには「反共」だけあって「反米」がなかったが、自分と「つくる会」は最初に「反米」を打ち出した、と書いたのだったが、すでに同会は発足し、運動継続中の時点の2008年の末には、このように書いていたのだ。
 「イデオロギー」の意味の理解を変えている等々、西尾幹二は釈明するのかもしれない。
 だが、要するに、この人は、執筆・発言の時期ごとに、異なる、矛盾すると指摘されても不思議でないことを、平然と執筆・発言できる人だ、と断言して、ほぼ間違いはない。
 簡単に言えば、一定の時点の西尾幹二の主張内容をそのまま信じたり、信頼したりしてはいけない、ということだ。
 第四。「現実・リアリティ」を西尾自身が全く理解できていないことは、上のあとに最後に続く、「日本に迫る最大の危機」という中見出しまである、皇室に関する文章で、明確だ。
 2008年に西尾は皇太子妃批判論を継続し、秋に『皇太子さまへの御忠言』を出版していた。その高揚の気分が残っていたのだろうか、この諸君!12月号では、「あれほど明白になっている東宮家の危機」等々と書いている。
 次の機会に回す。
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2417/西尾幹二批判031。

  西尾幹二は2017年に「つくる会」10周年記念集会にあてて、かつての福田恆存らには「反共」だけがあり「反米」はなかったが、前者に加えて「反米の思想」も掲げたのは<われわれが最初だった>旨を書き送った。全集第17巻712頁(2018年)で読める。この欄でもすでに「根本的間違い」に簡単に言及して引用・掲載した。
 「つくる会」のこととして西尾は書いていたが、「われわれ」の初代会長だった西尾幹二自身も含めている、と理解して差し支えないだろう。
 ここでの論点はいくつかある。
 根本的には、第一に、「新しい歴史教科書をつくる会」という運動団体かつ歴史教科書作成団体は本当に明確に<反共かつ反米>を掲げていたのか、だ。
 私は胡散くさいと思っている。設立当時の文書や『史』という機関誌等を丁寧に読めば、西尾の10年後の「うそ・ハッタリ」は明確になるのではなかろうか。
 第二に、西尾幹二自身が、本当に「反共」かつ「反米」という思想的立場に立っていたのか、だ。
 とくに気になるのは、西尾における「反共」性、「反共産主義」性だ。
 この点は、別途検証するに値する。ここでは、西尾の文章の中には、マルクス、レーニン、スターリンの文章の引用はもちろん多少とも内容のある紹介や論評は全くないと見られる、とだけ記しておく。「反共」と言いつつ、この人は、「共産主義」とはどういうものかをまるで知っていないままだと見られる。この人がまだ若い頃の、ソ連「遊覧」旅行の記録でもそうだ。
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  秋月の語法では「反共」性と称してよいと考えるが、その点は措くとしても、西尾幹二においては「反中国」性が弱いということはこれまでも数回は触れた。
 この人は「反米」的主張をかなり明確に行なってきた。この点を知りつつも、私自身もまた素朴な愛国主義者であり、素朴なナショナリストであり(以上、小林よしのりと同じ)、日本が欧米と同じになる必要はなく、同じになることがある筈もないと思っているので、西尾の「反米」主張も、その限りで諒としてきた経緯はある。
 中川八洋が西尾を<民族派>の中に含めるのも奇妙だと感じてきた。単純な<民族派>ではないものが西尾にはある、と理解していたからだ。
 それに、少なくとも2010年前後には<保守>が「親米(保守)」と「反米(保守)」に分類されることがあったのはすこぶる奇妙なことだったが、西尾自身が自分は<反米でも親米でもない>と書いているのを読んだ記憶がある。
 また、いずれかの雑誌上で岩田温が<保守>論者を「親米」か「反米」かを二つのうちの一つの対立軸として分類整理する図表を載せていたが、そこでは西尾幹二の名は、「親米」と「反米」を区切るまさにその線上に置かれていた(この記憶に間違いはない)。
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  前置きが長くなった。
 二で記した経緯からするとやや驚きでもあるのだが、「下掲」の2006年末の雑誌上で、西尾幹二は明確に、「反中国」よりも「反米」を優先し、強調する発言を行なっている。
 これは、やはり、西尾の<根本的間違い>を示している。これでは<民族派>と一括されてもやむを得ない。また、「反米(保守)」派の主張でもあっただろう。
 ついでに。「反米」も「対米自立」も、日本共産党の基本的主張だ。アメリカ帝国主義に「従属」している(未だ「独立」していない)、というのが、この党の状況認識だ(現綱領上の表現を確認はしていない)。
 西尾にはきっと不本意だろうが、これで「反共」性がないか乏しいとなると、「民族主義」政党でもある日本共産党とどこがどの程度違うのか、という根本的疑問も出てくる。
 もっとも、これは西尾幹二についてだけ当てはまるのではない。1997年の設立時にソ連崩壊により「マルクシズムの誤謬は余す所なく暴露された」と書いて、もはや共産主義・マルクス主義との闘い、これらの分析・研究は必要がないと宣言したがごとき日本会議についても言える。
 西尾と日本会議が結局は同質・同根であるようであるのも、不思議ではない、と言うべきか。
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 2006年の安倍晋三内閣発足1月後の座談会で、西尾は、「『真正保守』を看板に掲げた安倍氏」の不安材料、期待できそうにない理由を計4点挙げているが、最後の点として、こう明言している。
 「同盟国としてのアメリカの存在です。
 私は、安倍さんが日本の保守再生に取り組む際に、実はこれがもっとも厄介な問題になってくると考えています。
 中国はそれほど大きな問題ではない。
 つまり、中国に対抗するためにはアメリカに依存するほかないけれど、あまりに依存を続けていくと今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機。
 これからはこっちのほうが大きい。
 座談会「保守を勘違いしていないか」諸君!2006年12月号(文藝春秋)75頁。
 ソ連解体をもって「冷戦」は終わった、これからは各国の各「国益」追求の対抗・競争の時代だ、と考えてしまった、日本の「保守」の主流かもしれない部分の悲劇が、ここにも示されている。
 地理的・地域的に近接した欧州諸国やそれらと文化的共通性のあるアメリカの論壇が、そういう論調だったのは、理解できなくもない(しかし、共産主義・マルクス主義の研究者・専門家たちは、L・コワコフスキも含めて、中国等の存在になお注目していた)。
 本来、常識的なことのはずだが、ソ連解体で終了したのは<対ソ連(・東欧)との関係での冷戦>だった。
 中国、北朝鮮、ベトナム等の存在を、東アジアに位置する日本の論者が無視または軽視してよい筈はなかった。
 そして今や、<いわゆる保守>は、中国・韓国に「民族」意識で対抗し、男系天皇制度の維持を最大目標として結集しているようだ。悲惨、無惨。
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2410/日本の保守ーアホで危険な櫻井よしこ④。

  櫻井よしこ・教育が拓く未来(PHP、2004)は、広島県尾道市立小学校長・陰山英男の「陰山メソッド」に肯定的に注目しつつ、当時の文科省の<ゆとり教育>政策を批判している。
 その中で、小学校での社会科教育にも言及し、6年生から始まるという「歴史」教育にも論及する。
 櫻井が東京書籍の社会科教科書の中の日本「歴史」叙述で当初に問題にし、批判しているのは、<仏教伝来>に関する記述が存在しないことだ。
 つぎのように、櫻井は書く。p.99。2004年刊行の書物でだ。
 「中国の進んだ文化や技術を取り入れ、さらには文字をも取り入れて、その上に独自の工夫を加えつづけた日本人にとって、仏教の伝来は、それ以前に輸入したどんな文化や知識よりも、驚くべき新しい知識だった。
 日本古来の神々を否定し、この国を根源的に揺るがしかねない新しい教えは、日本の国造りにとって非常に大きな出来事だった」。仏教の受容過程は「その後日本が、各時代に新たな価値観と遭遇し吸収していったプロセスとも重なってくる」。
 「その最初の事例であり象徴でもある仏教伝来に、教科書では触れていない。」
 また、聖徳太子を、櫻井はこう形容した。p.100。 2004年の時点。
 「伝来した仏教と日本の神々への信仰を巧みに両立させ、古代日本の国造りの基本を構築した聖徳太子」。
 そして、その聖徳太子「には触れないが、実物大の大仏を校庭に描く」といった馬鹿らしいことに「授業の時間が費やされている」、と批判する。
 さらに、こうも書く。p.102。
 「教科書が聖徳太子に触れるのは、太子が亡くなって約200年も過ぎ奈良時代が終了した段階でのことであり、“おまけ”として取り上げた印象は否めない」。
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  しかし、おそらくはすでに2006-7年に、櫻井よしこの理解または主張の仕方は、よく言えば進化・発展して、悪く言えば変質して、仏教についても聖徳太子についても、上とは明らかに異なる様相を呈し始める。
 この後の時期での櫻井よしこの言明を、この欄ではむしろしばしば指摘してきた。
 日本や天皇家と「仏教」との密接な関係を、櫻井は無視している、と何度も指摘してきた。
 典型的には、聖徳太子に関する、つぎのような櫻井よしこの記述に対してだ。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)。p.84-5。
 ・聖徳太子の「十七条の憲法」は「中国とは全く異なる、大和の価値観」を打ち立てた。
 ・「聖徳太子が対中国大陸外交で明確にしたのは、日本は隋とは全く異なる価値観で国を治めるという決意であり、隋の属国にはならないという大決断でした」。
 ここには、仏教やその「伝来」と聖徳太子との関係にかんする言及は、全くない。
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  大きな違いは、つぎの点にも見られる。こちらの方がより重要かもしれない。
 すなわち、上の2004年著では、日本の「歴史」や「歴史教育」における日本書紀・古事記、あるいは <日本神話>の重要性についての言及は、これらの語が全く出ていないわけではないが、なきに等しい。
 しかし、その後の櫻井よしこが古事記等の重視へと、発展・進化というよりも「変質」したのは明らかだった。
 仏教受容の原因を神道の「寛容」性に求めている(週刊新潮2017年3月、2019年1月等)のは、2004年著には見られなかった理解だ。
 また、上の2017年3月号でも、「大和の道」は聖徳太子に始まり天武天皇・「古事記」へとつながった、「古事記」は日本文明の独特性や「日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる、と書く。
 そして、「古事記」が示す価値観を「高く掲げていく気概を保守は持つべきだ」という旨を書いて、「古事記」と現代日本の「保守」とを連結させることすらしている。p.86。
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  西尾幹二にも見られる今日の<いわゆる保守>の惨状を櫻井よしこは早くから示してきた。天皇譲位問題、安倍9条改憲論問題、明治維新観等々について、何度もこの欄で取り上げた。
 不思議なのは、この程度の、基礎的素養も思考力も不十分な人物が、「保守」の代表的論者とされていることだ。
 あるいは、上は以前からずっとそうだったのではなく、2004年頃とは異なる理解を示し、主張をすることによって櫻井よしこは現在の「地位」を築いていると見られるが、その基礎となった<変質>は、なぜ、どのようにして生じたのか、だ。
 正確な確認の手間を省くが、2005〜2006年に、日本会議派の介入によって、「新しい歴史教科書をつくる会」は分裂した(少なくとも元生長の家グループまたは現日本会議派の浸透を「政治」感覚に欠けた西尾幹二らは気づかなかった)。
 かつて小沢一郎は<御輿(総裁・首相)として担ぐのはバカがよい>と言ったとか伝えられている。
 やや状況は異なるが、日本会議、当時の椛島有三らが西尾らに対抗して八木秀次らを盛り上げ、自分たち(産経新聞社もこれに与した)の広告塔・宣伝係として強引に取り込んだのが、その頃までは神道や古事記への<偏愛>を示していたわけではなかった櫻井よしこではなかったか。
 上の旨は、すでに書いたことがある。
 ここではさらに、新たな推測または憶測を記しておこう。
 その素養や学問的側面を含む能力からして、櫻井よしこが国家基本問題研究所の理事長となっているのは、いかにも奇妙であり、不思議なことだ。櫻井にある最大のものは、関係文献を読んであるいはインタビューをして要領よくまとめて文章化することのできる能力だろう。
 それだけの人物のもとで、結構多数の大学教授やら名誉教授らが役員となって協力しているのは不思議な現象だ。月刊WiLL や月刊HANADAの編集者が集っているのは理解できるとしても。
 そこで、こう推測する。
 櫻井よしこは、椛島有三ら日本会議派の「軍門に下る」、いや彼らに「協力する」見返りとして、国家基本問題研究所のような研究所の設立、その代表者的立場に自分が就くこと、を求め、日本会議派はそれに応じて、事務的、実務的な点も含めて櫻井の要望に答えたのではないか。
 学術的著作は何もない櫻井よしこは、なぜ上記研究所の理事長でおれるのか。不思議なことだ。今回も一端を指摘した櫻井の主張の変質もやや目立つほどに奇妙だ。
 日本会議派の勢力維持・拡大の意欲と櫻井よしこ個人の<処世>あるいは<個人的生き方>にかかわる願望の結合。
 左であれ右であれ、斜め上であれ斜め下であれ、現実的で生々しい<人間的欲望>で物事が動くのは、何ら不思議な現象ではない。
 国家基本問題研究所設立は、2007年12月。「つくる会」分裂は2005-2006年。
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2365/西尾幹二批判025a—『国民の歴史』⑦a。

  西尾幹二・国民の歴史(1999年)を手にしたのは発刊直後ではなく、2000年代半ばから後半で、このブログサイトを始める前だった。
 その頃は今から思えば単純に<反朝日新聞>・<反日本共産党>・<反共産主義>だったから、そのような自分の立場?と同じ陣営?にいる人の書物として入手した。
 そして、そのような基本的立場にだけ満足して、少しはじっくり見てさすがに「日本的」だと感じたのは挿入されている仏像の写真だけで、本文にはほとんど目を通さなかった。
 それが近年までつづいたのだが、最近に少しは熟読してみようと捲ってみると、10数年の時の経過もあってか、<粗さ>が目につき、ひどい。
 10数年前にじっくりと読んでいたら、この奇妙さ、単純に<つくる会>は立派なことをした(している)とは言えないことに、気づいただろうか。
 年寄りになっても、間違いを冒すものだ。
 自分もまた、二者択一的、二項対立的な思考、いや「思い込み」をしていたものだと、きわめて恥ずかしくなるし、貴重な日々と時間を西尾幹二らの文章を読んで無駄にしてきた、とも思う。
 しかし、責任はあげて自分自身にある。全てを自分が「引き受け」なければならない。
 --------
  朝日新聞・日本共産党・共産主義に最も積極的に反対し、「闘って」いそうだ(そうに違いない)といわゆる<保守>について思い込んだのが、そもそも間違いだった。
 <保守>=反共というのは大いなる「錯覚」だった。この点が不満で、「反共」意識、「反共」性が乏しいか曖昧だと、この欄にしきりと書いていた時期があった。
 しかし、日本の<保守>の中枢点は決して「反共」、その意味での(江崎道朗の造語とは異なる意味での)「自由主義」ではないようだ。
 そのあたりを表現するために「観念保守」とか「原理保守」という言葉を作ってみたりもした。最近では「いわゆる保守」という語を用いている。
 「いわゆる保守」の結節点は「反共」・「自由主義」ではない。「日本」であり、「愛国」、そして「日本民族主義」だ。かつてのイメージの「右翼」に近い。
 「天皇」も挙げてよいかもしれないが、この点では「いわゆる保守」は、男系天皇制度死守で一致している。櫻井よしこも、西尾幹二も同じ。
 「保守」派といっても、「女性」・「女系」天皇容認派とは、かなり思考の仕方が異なる。
 かつて「生長の家」活動家によって、あるいは「つくる会」を追いかけるように設立された日本会議の活動家によって、例えば八木秀次を引っこ抜かれたりして?、「つくる会」が撹乱されて分裂に至った責任の重要な一つは、初代会長・西尾幹二にある。
 ある程度は推測になるが、そのような活動家の事務局や理事の中への浸透に気づかなかった西尾幹二の「政治的音痴」ぶりは甚だしいものがあるように思える。
 しかも、今日ではこちらの方が重要だが、そのような「痛い目」にあったにもかかわらず、日本会議主流派、櫻井よしこ、八木秀次等と同じく「男系」天皇は日本の伝統とうそぶいて、彼らと歩調をともにしているのが西尾幹二という「知識人」あるいは「売文業者」(=文章執筆請負自営業者)のなれの果てだ。
 かつて八木秀次等や日本会議に対して激しい批判をしたにもかかわらず、また櫻井よしこついても皮肉っぼい言辞を吐きながら、なぜ「仲間」でいるのか。それは、「正論」欄に原稿発表の場を設けてくれる(そして全てをまつめて一冊の本にしてくれたりする)産経新聞社に恩義を感じているからだろう。
 「恩義」というより、「寄生して拠り所としたい」という気分だろうか。
 西尾幹二は<産経文化人>にとどまることを選び、そこに最後の「身の置き所」を見出しているのだ。文章執筆を依頼してくれるところがあり、文章「発表」の場をもつというのは、経歴からしても<骨身に染み込んだ最低限の希求>であるに違いない。
 秋月瑛二には想像し難いことだが、誰からも、どの新聞社からも、どの雑誌編集部からも「お呼びがかからない」という状態には、この種の「知識人」・「売文業者」にはきっと耐えられないのだろう。
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  西尾幹二『国民の歴史』(1999、2009、2017)の最初あたりで、西尾はしきりと「神話」と「歴史」の関係等に関心をむもって叙述しているが、疑問も多いこと、のちの叙述と矛盾もあることはすでに触れた。
  すでに、一定の「矛盾」もこの欄で指摘してきた。
 ①1999年『国民の歴史』第6章にはこんな見出しがある。
 ・「歴史と神話の等価値」。・「すべての歴史は神話である」。
 文章を引用すると、例えばこうある。
 ・「古事記」や「日本書記」の「ばかばかしいつくり話に見える神話は歴史ではない」と決めつけてよいのか。
 ・「あえて言うが、広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである」。
 ・漢書や魏志倭人伝も「広い意味での歴史解釈の材料の一つとして、少なくとも神話と等価値に扱われるべき性格のものである」。
 以上、全集版(16巻)、p.105-6。
 ②しかし、2017年の「つくる会」20周年集会への挨拶文にはこうある。全集第17巻、p.715。
 「歴史の根っこ」の把握のためいきなり「古事記」に立ち還ろうとする人がいるが、「そのまま信じられるでしょうか」。
 「神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません」。
  ついでに記すと、上の前者には、こんな文もある。「歴史」に対してというより、「科学」と対比しているようでもある。
 ①「神話を知ることは対象認識ではない。どこまでも科学とは逆の認識の仕方であらねばならぬ」。
 「認識とは、この場合、自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い。」。
 上の後者も「神話を前にして」「解釈の自由」はないと述べて、神話の「対象認識」性を否定しているようにも見えるが、以下のようにも語る。約20年を隔てて、共通性がないとは言えない。
 ②「神話は不可知な根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません」。
 このあたりの論述の趣旨はよく分からない。というのは、西尾が100パーセント自分の頭から生み出した考えではなく、誰か別の者の著書を参照しているに違いないと思われるが、詳細な議論はなく、「認識」や「解釈」等の語についての立ち入った意味説明は全くないからだ。
 <歴史>に対しては「解釈の自由」があるが、<神話>に対してはない、というのが西尾の主張の骨子のようだ。しかし、その根拠・論拠は不明だ。
 なお、ニーチェがかつてもったこの人への影響力から思い切って推測・憶測だけすると、「悲劇」→「ギリシア悲劇」→「ギリシア神話」という連想が生まれる。
 西尾は、<ギリシア神話>に関するヨーロッパ(の誰か)の議論を、日本の「神話」へと単純に当てはめているのではないだろうか。もちろん、「日本の神話」に関する日本人文筆家に許されることでは全くないが。 
 さて、さらに言うと、1999年の文章の一つで、漢書や魏志倭人伝も「広い意味での歴史解釈の材料の一つとして、少なくとも神話と等価値に扱われるべき性格のものである」と述べるとき、この文のかぎりでは、「神話」も「広い意味での歴史解釈の材料」であることを前提にしているようだ。そうだとすると、「解釈」の対象にならないという言明と、矛盾している。
  どうせ<書きなぐっている>文章だとして、あまり詮索しない方がよいかもしれない。
 ただ、さらについでに、指摘しておくべき価値のあることがある。
 上の1の②の後半は、月刊Will2019年4月号の対談(11月号別冊・歴史通)でもそのまま使われている。
 西尾幹二は、同じ文章を<使い回している>。
 「神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません」。

 月刊WiLL2019年11月号別冊・歴史通、p.219。(=全集第17巻、p.715。)
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 (この項、つづく)
 季刊雑誌・佐伯啓思監修『ひらく』の編集委員でもある新潮社出版部の冨澤祥郎さん、「真の保守思想家」(西尾2020年著『歴史の真贋』(新潮社)のオビ)とは一体、どういう意味かね?

2348/西尾幹二批判024—根本的間違い。

  西尾幹二における人格、自我、自己認識の仕方も、おそらくは他の時代や国家では見られない戦後日本(の社会、学校教育界・出版業界)に独特のものがある。この点も、きわめて興味深い。
 西尾は2011年に自ら「私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした」と発言し、かつ「私小説的な自我のあり方で生きてきた」のかもしれないと明言しつつ、大江健三郎には「私小説的自我の幻想肥大」があると批判した。月刊WiLL2011年12月号(ワック)。
 「私小説自我」のあり方で生きるのとその「幻想肥大」の間に、明確な境界はない。あるとすればほとんど<言葉の違い>だけだ。別の者から見れば、西尾幹二の「私小説的自我」にも、十分に「幻想肥大」がある。
 以上は冒頭の文章に関連して言及したもので、今回の主題ではない。
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  西尾幹二がとった<政治的立場>・<立ち位置>の根本的誤謬は、つぎの文章のうちに示されている。西尾に限らず、日本会議を含むかなりのいわゆる保守または「自称保守」が冒してきた、根本的誤りだ。
 立ち入ると長くなるので、まずは、一括して引用だけする。「つくる会」自体またはその全体が本当に以下のとおりだったかは問題にしない。
 1991年のソヴィエト連邦解体後の日本と世界を基本的にどう把握するか、という問題。一文ずつ改行する。
 「グローバリズムは、その当時は〔1990年代後半−秋月〕『国際化』というスローガンで色どられていました。
 つくる会は何ごとであれ、内容のない幻想めいた美辞麗句を嫌いました。
 反共だけでなく、反米の思想も『自己本位主義』のためには必要だと考え、初めてはっきり打ち出しました。
 私たちの前の世代の保守思想家、たとえば竹山道雄や福田恆存に反米の思想はありません。
 反共はあっても反米を唱える段階ではありませんでした。
 国家の自立と自分の歴史の創造のためには、戦争をした相手国の歴史観とまず戦わなければならないのは、あまりにも当然ではないですか。
 三島由紀夫と江藤淳がこれに先鞭をつけました。
 しかし、はっきりした自覚をもって反共と反米とを一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です。
 われわれの運動が曲がり角になりました。
 反共だけでなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出したのですが、単に戦後の克服、敗戦史観からの脱却だけが目的ではなく、これがわれわれの本来の思想の表われだったということを、今確認しておきたいと思います。」
 2017年1月29日付「同会創立二十周年記念集会での挨拶(代読)」西尾幹二全集第17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018)712頁所収。
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  設定されていた問題は、反共だけか、反共+反米か、というような単純な問題ではなかった。グローバリズムかナショナリズムか、という幼稚な問題でもなかった。
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2291/西尾幹二批判014+池田信夫ブログ023。

 西尾幹二におけるレトリック・<概念の揺れ>の一例を挙げる。
 2017年、「つくる会」創立20周年記念集会での挨拶。全集第17巻p.714。
 ひと続きの文だが、一文ごとに改行。
 「ですから江戸時代は『前近代』でも『初期近代』でもないのです。
 『近代』そのものなのです。
 むしろ明治以後において、われわれは『近代』を再び失っているのかもしれません。
 そういうとびっくりされるてしょうが、『近代』は動く概念です」。
 そのあと、「近代」概念を用いる、つぎの二つの文もある。
 ・「漢唐時代の官僚制度に私は、『近代』を認めるのにやぶさかではありません」。
 ・「中国や韓国のようになぜいつまでも日本のように近代文明を手に入れることができないのかを、…」。
 以上。 
 「そういうとびっくりされるでしょうが」と書いて、文字通り「びっくりさせる」、あるいは意表をつく、常人?とは異なる表現方法を意識的に使う、というのは、西尾幹二の文章にときにみられる、その特徴の一つだ。
 しかし、何やら意味深いことを言っているつもりなのかもしれないが、このような概念の「揺れ」を用い、「〜」は「動く概念です」と明認していけば、<何とでも言える>。
 秋月でも、こんな文章を<作る>ことができる。
 「最も美しいものの中にこそ、最も醜いものがあるのではないでしょうか」。
 「正義の中にこそ、本当の不正義が含まれているのです」。
 「賢者と言われる者こそ、本当は愚者でしょう」。
 「〜での前近代とは、まさに近代そのものであったのです」。
 等々。
 詩・小説等は<創作>であり、フィクションであり、言ってみれば全編にわたって<建て前としては>「捏造」なのだから、何とでも言え、何とでも書ける。
 しかし、西尾幹二は小説家(・フィクション作家)ではない(はずだ)。
 そのような西尾がフィクション作家のようにして歴史・社会・政治を「評論」してはならないだろう。とくに同じ文章の中では、同じ言葉、「概念」を上のように「揺らして」はいけないのではないか。
 この人において、自分が用いる言葉・概念の「意味を明確にしておく」という姿勢は相当に乏しい。上の「近代」もそうかもしれないが、「歴史・神話」の意味もそうだ。
 ——
 池田信夫ブログマガジン2021年2月1日号の中に<名著再読/法と革命>があり、H・J・バーマン『法と革命』(邦訳書)をとり上げている。
 この本では「近代」または「近代西欧に特有の契約社会」の成立の背景等を、宗教史ないし法制史の学者・研究者が論述しているらしい(日本の「法学」界では、自分たちの「基礎」を疑わしめるものであるためかどうか、ほとんど読まれていないと思われる)。
 「近代」についてではない。西尾幹二批判との関係で注目を惹いたのは、池田の紹介に誘われて入手した上の邦訳書/宮島直機訳・法と革命I—欧米の法制度とキリスト教の教義(中央大学出版部、2011)の冒頭(・序論)すぐに、ニーチェのつぎの言葉が引用されていることだ。ニーチェのどの書のどの部分のどのような論脈の中でのものかは分からない。
 「歴史のなかにあって、たえず変化しているものは意味を定義できない」。 
 「たえず変化しているものは意味を定義できない」—西尾幹二はニーチェのこの言葉または文章を知っているのではないか。
 そうだとしても、西尾幹二は自分をニーチェと同等の「思想家」だと考えているのか?
 そもそも、「意味を定義できない」「たえず変化しているもの」とは何か?
 上の言葉は、西尾幹二における「概念の揺れ」、「定義のなさ」を正当化するか?
 こんな関心を惹き、疑問をもたらしたニーチェの言葉だった。
 ところで、著者・バーマンは、前後をもう少し引用すると、つぎのような論脈の中で、ニーチェの言葉を用いている。一文ずつ改行する。
 「ヨーロッパ」、「法制度」、「伝統」、「革命」という「4つのキーワードの意味は、歴史に言及するなかで説明して行くことにして、いま、その意味を定義することはしない
 なぜなら、ニーチェ Friedrich Nietzsche がいっているように、『歴史のなかにあって、たえず変化しているものは意味を定義できない』からである。
 ただ誤解を避けるために、つぎのことだけは、あらかじめ断っておくことにする。」
 このあと、「ヨーロッパ」について邦訳書で3頁余の論及があり、「法制度」と「伝統」について5頁余の論及がある(まだ「序論」)。
 さすがに、学者・研究者だと思われる。提示する主題で用いる概念の「意味」、「定義」が問題になることを十分に弁えた上で、そのことを知った上で、「意味」の確定、全体的定義をするのを先に延ばしつつ、すでにある程度の叙述をかなり詳しく行なっているわけだ。 
 「歴史のなかにあって、たえず変化しているものは意味を定義できない」とかりにしても、西尾幹二の叙述・発言の姿勢とは、まるで異なるだろう。西尾には、レトリックとして?、あえて言葉の意味を「曖昧に」しておく、「一次的・暫定的な定義も行わない」で、意表をつく?論述をする、という傾向がある。

2289/西尾幹二批判013。

 前回に取り上げた遠藤浩一を聞き手とする西尾幹二の発言をあらためて読んでいると、面白い(=興味深い)箇所がある。
 月刊WiLL2011年12月号(ワック)、p.247。
 西尾幹二の他の人物論評の仕方として、別の点も、とり上げてみよう。
  西尾は上で言う。大江健三郎の「文学の根源的なところ」には「私小説的自我の幻想肥大かある」、と33歳のときに書いた、と。
 興味深いのは、つぎだ。
 「幻想的な自我は石原慎太郎氏も同じ」と書いた。
 石原慎太郎はどちらかと言うと<保守>派とされるが、こういう批判・揶揄?は、西尾幹二において<保守>派に対しても向けられていたわけだ。
 ついでの記載ということになるが、「幻想的な自我」をもつという石原慎太郎は、西尾幹二よりもはるかに、注目されるべきで、将来もまた注目されつづけるだろう、と秋月瑛二は評価している。
 石原慎太郎=曽野綾子・死という最後の未来(幻冬社、2020)。
 昨年秋には、この欄で言及していないが、上の曽野綾子との対談書を購入して読んだ。
 石原慎太郎(1932〜)。国会議員、複数の大臣、東京都知事、政党(日本維新の会)代表。
 これだけで西尾幹二とは全く異なる。政治的・社会的「実践」の質・程度は、<つくる会>会長程度の西尾の比ではない。
 さらに加えて、作家・小説家、芥川賞受賞者。これまた、西尾幹二が及びもつかない分野だ。
 さらに、量・数だけではあるいは西尾の方が多いかもしれないが、石原慎太郎には、政治・社会評論もある(全7巻の全集もある)。
 加えて、<宗教>への傾斜を隠しておらず、<法華経>に関する書物まである。読んでいるが、いちいち記さない。
 異なるのは、出身大学・学部のほか、石原慎太郎には、産経新聞・月刊正論グループへの「擦り寄り」など全くない、ということだろう。
 アメリカで西尾は無名だが、石原慎太郎はある程度は知られているだろう。かりに同じ反米自立派だとしても、西尾とは比較にならない。
 石原慎太郎は、全ての広い活動分野について、<左派>側からも含めて、その人物が総合的に研究・論評されるべきだろう。
 ところで、「私小説的自我の幻想肥大」は、西尾幹二に(も?)見られはしないか? 既に見たように、2011年に西尾自ら「私小説的自我のあり方で生きてきた」と明言し、遠藤浩一は「私小説的な自我の表現こそ、西尾幹二という表現者の本質ではないか」、と語ったのだ。
  出典をいちいち探さないので正確な引用はできないが、西尾幹二は、古い順に、明らかに以下の旨を書いた。記憶に間違いはない。
 ①<(この時代は)左翼でないと知識人にはなれなかった、と言われますが、…>。
 ②<保守派のN氏(原文ママ—秋月)は、左翼でないと知識人とは言われなかったのです、と言っていた(言っていましたが、…)。>
 ③<西部邁氏は、左翼でないと知識人とは見なされなかったのです、と言ったことがある
 ③は西部邁の死後に追想を求められて、発言(執筆)したもの。 
 「左翼でないと知識人にはなれなかった」とは西部邁が大学入学直後に日本共産党(当時)に入党し、<左翼>全学連活動家となったことについて西部自身が言っていたことのようだが、西尾幹二に個人的・私的に言ったかどうかは別として(その点も気にはなるが)、のちに<保守>派に転じた?西部邁にとって、少なくともどちらかと言えば、触れられたくはない点だったように推察される。
 そして、彼の生前にはせいぜい「N氏」でとどめていたのを、西尾はその死後に、この発言主の名を明瞭にした、暴露したわけだ。
 これはいったい、西尾の、どのような<心境>・<心もち>のゆえにだろうか。
 西尾は、西部邁、渡部昇三らに対するライバル心を、<左派>論者に対する以上に持っていた、と推測できる。端的に言って、<同じような読者市場>の競争相手になったからだ。そして、その<ライバル心>を、ときに明らかにしているのだ。
 なお、櫻井よしこに対してすら、その<ライバル心>を示していることがある。櫻井よしこ批判には的確なところがあることも否定はできないけれども。
  2019年6月〜7月にこの欄で「西尾幹二著2007年著—『つくる会』問題」と題して何回か「西尾幹二著2007年著」=『国家と謝罪』(徳間書店、2007年)の一部を紹介したのは、明記しなかったが、つぎの理由があつた。
 それはすでに刊行されていた『西尾幹二全集17・歴史教科書問題』(2018年)が、西尾が「つくる会」結成後の会長時代の文章に限って収載していることを奇妙に(批判的に)感じたからで、実質的な分裂やその理由・背景に関するこの人の文章を、とくに『国家と謝罪』の中にまとめられている文章の一部を、この欄に掲載して残しておこうと感じたからだ。
 <個人>全集であるにもかかわらず、設立前から「会長」時代のものに限る、という、西尾個人の<個人編集>の奇妙奇天烈さには、つまり『国家と謝罪』等に収録したものは無視し、実質的分裂の背景・原因にかかる歴史的記録にとなり得るものは除外する、という<個人編集>方針に見られる異常さには、別にまとめて触れなければならない。
 <つくる会>運動については、きちんとした総括が必要であって、西尾は立派なことだけをしました、という『全集』編集方針は、「歴史」関係者の(そのつもりならば)姿勢としても、間違っているだろう。現在の<運動>関係者(とくに実務補助者の方)は気の毒に思っているが、割愛する。
 上のことはともあれ、今回指摘しておきたいのは、八木秀次に対する批判の「仕方」だ。八木秀次の側に立つわけでも、彼を擁護したいわけでもない。
 西尾は、No.1994で引用・紹介のとおり、こう八木を批判する。 
 ①「現代は礼節ある紳士面の悖徳漢が罷り通る時代」だ。「高学歴でもあり、専門職において能力もある人々が」社会的善悪の「区別の基本」を知らない。「自分が自分でなくなるようなことをして、…その自覚がまるでない性格障害者がむしろ増えている」。「直観が言葉に乖離している」。「体験と表現が剥離している」。「直観、ものを正しく見ることと無関係に、言葉だけが勝手にふくれ上って増殖している」。「私が性格障害者と呼ぶのはこうした言葉に支配されて、言葉は達者だが、言葉を失っている人々」だ。
 ・「私は八木秀次氏にも一つの典型を見る」。
 この①は、「性格障害者」という言葉と<レッテル貼り>がひどいが、まだマシかもしれない。では、つぎはどうか。
 ②「他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。
 言葉の向こうから語り掛けてくるもの、言葉を超えて、そこにいる人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない。
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す」。
 以上の②のような人物批判「方法」は、特定の人物についての本質分析論かつ本質還元論と言ってもよいもので、<本質的に〜だ>、そして<本質的に〜の人間だから、〜という過ちをおかしている>という批判の「論法」・「方法」だ。
 これではいけないし、八木秀次は、のちの人生を通じて、西尾と「和解」する気には決してならなかっただろう。
 今回に書いたのは、西尾幹二という人間の「本質」、「個性」、「人柄」に垣間見える<異常さ>・<歪み>と言ってもよいものだ。
 そうだから、という論証の仕方を、あるいは<人間本質分析論>かつ<本質還元論>的叙述を一般的にする気はない。但し、一回だけ参考材料とてして紹介しておくことにした。
 ——
 追記しておくと、<右翼的・保守的>だから「敵」(味方)だ、逆に<左派的・リベラル的>だから「敵」(味方)だ、というのは、上に記したよりもはるかに単純または純粋に、徹底して、<本質>あるいは基本的立場(・立ち位置)を理由として(それを見究めたつもりになって)、脊髄反射的に、論評・評価(敵か味方か)・結論を決めてしまうようなもので、アホらしいことだ。
 このような発想・推論しかできない人々が、なぜある程度は生じるのか?
 それは、<自分で考えて立ち入って判断するのは面倒くさい>、<簡単に回答を得たい>、<楽をしたい>という、「脳細胞の劣化」・「自分の脳に負担をかけたくない」という、それなりに合理的な?理由があるものと思われる。
 人間には、少なくともある程度の範囲の人々にとっては、問題・論点にもよるが、<簡単なほどよい>、<少しでも自分自身の判断過程を省略したい>という「本能」が備わっている。

2280/西尾幹二批判010・『国民の歴史』②。

  前回(批判009)の補足。
 西尾が書いているとおり、『国民の歴史』の「14」は表題自体が「『世界史』はモンゴル帝国から始まった」となっていて、最初から19頁め(全集18巻版)に、こうある(p.289)。
 「以上、『モンゴルと中国の関係略史』(一)(二)は岡田英弘氏から直かにご教示いただいて記述したが、文責は私にある」。
 「文責」、つまり文章化・要約・作文は西尾にあるが、計5頁ほどの「内容」は岡田英弘に依っていることを認めている。長々とした一連の文章群の内容は西尾幹二自身によるものではない。
 二 『国民の歴史』の「6 神話と歴史」から、気になる点をさらにいくつか挙げておこう。まず、第一。
 その11「神話の認識は科学の認識とは逆である」p.128(全集版)にこうある。
 「すでに神を感じない社会」に生きる我々が「神々によって宇宙が支えられていると感じる古代社会の言葉と感性と同じはずはない」。
 何となく読み過ごしてしまいそうな文章だが、このような「古代」の人々の「感性」の理解・認識は適切なのだろうか。
 つまり、彼らはほんとうに「神々によって宇宙が支えられていると感じ」ていたのだろうか? 西尾の一見「深遠な」言明は、じつは「適当に」発せられていることが少なくないのではないか。
 古代の人々はどういう「感性」で生きたのだろうと想像することは、私には楽しい。しかし、「神々」の意識・感覚はかなり高度なもので、なかなか発生しないのではないか、と考える。
 生きていること、そのための呼吸と心臓の鼓動を意識し、死とそれが訪れるとやがて身体は腐敗していくことを知っていたに違いない(なお、もっとのちの日本の文献によく出てくる「もがり」は再生・蘇生しないことを確認するための儀式だったように思われる)。
 また毎日昇って消えていく太陽、およそ(今でいう)一月ごとに形の満ち欠けを変えながら「この地」を回っている月、日の出・日の入りの太陽の位置が寒暖の季節ごとに異なりおよそ(今でいう)一年ごとに同じになることを、早くから知っていただろう。
 さらに、むろん、生きていくために「水」・「食料」が必要であることも。「空気」(中の酸素)はひょっとすれば所与のものとして意識しなかったかもしれないが、海中や高山では生き難いことは知っていたはずだ。
 これはヒト・人間をとり巻く「自然」にかかわることであって、いつの時点から「神」なるものを意識したのかは、よく分からないことだ。
 だが少なくともヒト・人間は、縄文時代の人々も、「神々によって宇宙が支えられていると感じ」てはいなかっただろう。「宇宙」=地球全体の感覚はまだないはずだ。「宇宙」=「自然」という意味では「宇宙」を感じていただろうとしても。
 繰り返すが、「神」という意識・感覚の発生はかなり高度の精神作用を必要とするのであって、古代の人々が何となく自然に身につけるようなものではないのではないか。むろん、「必然」ないし「規則・法則」的なことと「偶然」・「事故」的なことの区別くらいのことは当然に意識し、知っていただろうが。
 第二。西尾はもっぱら「言葉」と「文字」の関係一般に着目して、日本文明(縄文原語)と中国文明(漢字)を記述しているように見えるが、私の関心は他にもある。
 日本書記における「年」の表記の仕方には十干十二支を利用したもの、「天皇」の在位年数を利用したもの、年号(大化等)を利用したものの三種あるとされる。最初の<十干十二支>は、令和日本の現在でもなお用いられることがあるが、どのようにして、いつ頃から、日本列島の人々は利用し始めたのだろう。中国からの「輸入」以後でないとすると、それまではいったいどのようにして「年数」を数え、記憶・記録していたのだろうか。
 西尾の著書には、これに関する叙述はないのではないか。のちのちの、<陰陽五行説>についても。これらは、「仏教」・仏教典の一部にあるのではないはずだ 。
 より重要な第三は、以下。
 既述のとおり、「6」章の節名を利用すれば、この章での西尾幹二の出張したいことの重要な一つは、章名とともに以下にあると理解しても決して誤りではない。 
 ・「歴史と神話の等価値」。・「すべての歴史は神話である」
 しかし、この書物(全集版)が刊行された2017年とまさに同じ年に、西尾幹二は、つぎのように明言している。そして、翌年2018年刊行の全集の別の巻(17巻)に収載している。一文ずつ改行する。
 「歴史の根っこをつかまえるのだとして、いきなり『古事記』に立ち還り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、…そのまま信じられるでしょうか。
 神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。
 神話は不可知な根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません
」。
 西尾幹二全集第17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018年)p.715、「『新しい歴史教科書をつくる会』創立20周年記念集会(2017年1月29日)での挨拶文」の一部(原出、月刊正論2017年4月号)。
 西尾幹二に真面目に訊ねたいものだ。『国民と歴史』のうちの6章「神話と歴史」に関する叙述と上の「挨拶文」の内容は、矛盾しているのではないか。少なくとも、どういう関係に立っているのか。
 つづけて、第四
 西尾幹二のために、「助け船」を出すことはできる。すなわち、歴史と神話の関係・異同に関する言明は真反対のように見えてもいわば<レトリック>であって、主眼はそれぞれの「解釈」の方法の違いの指摘にあるのだ、と。
 たしかに『国民の歴史』には、こういう文章もある。18巻、p.129。
 「神話を知ることは対象認識ではない。どこまでも科学とは逆の認識の仕方であらねばならぬ」。
 「認識とは、この場合、自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い。」
 後者の「自分が神の世界と一体となる」は、前者の「神話」を前にしては<解釈の自由はない>という指摘と似ているとは言える。
 しかし、前者は(西尾によくあることだが)突然に「科学」という言葉・概念を持ち出し、「歴史」=「科学」(の一部)という前提に立っているようだが、「歴史」、「科学」等の概念の丁寧な説明はない。そして「逆の認識の仕方」とだけ述べて、<解釈・選択の自由がある>という旨を明確に語ってもいない。
 少なくとも、同じ2017年の発言と刊行書の内容の間の齟齬・矛盾を指摘しても、何ら厳しすぎることはないだろう。
 なお、<「神話」は解釈を許さない>という言明がなぜ、どのように根拠づけらるのか?
 これは、バカバカしいので、省略する。「神々」の時代も含めて、それ以降についても、日本書記、古事記の種々の「解釈」がなされており、議論があることは、高校生でも知っていることだろう。西尾幹二の「解釈」にはこの人に独自の(ほとんど誰も理解できない我流の)意味があるのだろうか。
 第五。そもそも、日本書記、古事記は、全体として「神話」なのか。
 西尾幹二は上の二つとも「神話」だという前提に立って、中国の「歴史」書との「等価値」性を指摘し、後者も広義では「神話」だとする。
 しかし、そもそも論として、日本書記、古事記のいずれも、全体として「神話」だ、という認識は決定的に誤っているだろう。
 よく知られるように、日本書記は計30巻から成るが、そのうち巻第一は「神代上」、巻第二は「神代下」とされ、巻第三以降・巻三十までが「天皇」を中心とする叙述になっている(神武〜持統)。   
 今日の目で見て、「史実」とは感じられないような叙述があるのだとしても、作者・編纂者は、巻第三以下は真面目に?日本国家の「歴史」書だとして記述したと考えられる。そして、彼らが「神」の時代の「話」=「神話」だと明瞭に意識して記述したのは、巻第一・第二の「神代」だけだ。
 これに関連して、日本書記の今日の「解説」者は、こう記す。
 「巻三以下巻三十まで、すべて天皇名で標題とすることは、明らかに中国史書の『帝紀』に相当するわけで、『日本書記』という書名は『日本書の帝紀』の意であることも首肯できる」。「ただ異なるのは、巻一・二が『神代』となっている点である。中国の史書は『神代』を語ることはないからである」。
 この文は巻第三以下を「人皇代」と称してもいる。
 日本書記・上(小学館日本古典文学全集、1994)「解説」の西宮一民担当部分
 一方、古事記は上つ巻・中つ巻・下つ巻の三部に分かれるが、中つ巻が神武〜応神、下つ巻が仁徳〜推古の各天皇の時代を叙述しており、上つ巻が日本書記の用語では「神代」に当たる。
 こう区別されているところを見ると、また内容から見ても、上つ巻だけは「神たちの時代」と意識されているとしても、それ以下は、作成者の「主観」においては古代の日本「歴史」だった可能性が高いものと思われる。
 このような日本書記、古事記を、例えば仁徳天皇以下も含めて、西尾幹二はすべて「神話」だ、ということから出発しているわけだ。
 全てが「史実」を記述しているとは秋月も考えないが(なお、安本美典は熱心な応神天皇実在論者だ)、「史実」であって、またはそれをかなり反映していて、決して簡単に「神話」だと認定できない部分をいずれも含んでいる、と考えられる。これは、常識ではないか。
 しかるに、西尾幹二は最初からこれらが「神話」だとしている。それから出発している。
 日本書記も古事記も実際には、全くまたはほとんど「読んだことがない」西尾の面目躍如というところだろう。
 西尾幹二はこれらの「歴史」書性をできるだけ否定しようとしする戦後「進歩的」歴史学に、最初から屈服している、とも言える。
  ついでに、ということになるが、上に二の第三で引用した2017年の「挨拶文」の一部は、一部を除き(古事記うんぬんの部分)全く同文で、対談中の発言であるはずの以下でも用いられている。
 実際の対談後の「原稿化」の過程で追加されたように思われる。
 西尾幹二は、一つながりの文章群を<使い回し>ているのだ。一粒で二度おいしい。<古事記>への言及は欠落しており、元来は別の論脈の中での文章だ。
 「神話は歴史と異なります。
 「歴史は…、諸事実の中から事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてはわれわれはそういう自由はありません。
 神話は不可知の根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません
」。 
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」月刊WiLL2019年4月号(ワック)
 西尾幹二という人物は、こういう<文章の使い回し>を(こっそりと)平気で行う人物だ、と知らなければならない。言いたいことがたまたま?同じだから、という釈明は成立しない。

1994/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題④。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)所収の同「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。
 西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ③のつづき。直接の引用には、明確に「」を付す。原文とは異なり、読み易さを考慮して、ほぼ一文ごとに改行している。
 --- 
 2006年4月30日「理事会」での鈴木尚之「演説」の、西尾幹二による「一部」引用。これをさらに秋月によって「一部」引用する。
 ***
 ・「西尾先生宅に送られた4通の怪メール(FAX)」の「一通〔往復私信〕は私が八木さんに渡したものである。
 もう一通〔怪文書〕は、3月28日の理事会に出席していなければ絶対に書けない内容のものであり、4通はすべて関連している内容のものである。
 八木さんは<諸君!>で『私のあずかり知らないことである』ととぼけているが、そんなことで言い逃れできるはずがない。
 これもまた、八木さんの保守派言論人としての生命に関わることである。」
 ・2006年4月4日午後2時に「私と会った産経新聞の渡部記者は、『鈴木さん、申し訳ありません』と」「謝り、『とにかく謀略はいけません、謀略はいけません。八木・宮崎にもう謀略は止めようと言ったので、もう謀略はありませんから……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕。私は、産経新聞を首になるかもしれない』と言ったのである」。
 ・この産経新聞の渡部記者は「同じことを藤岡さんにも言った」とのことがのちに明らかになり、「このことを知って私は、八木さんに『産経の記者があなたにどんな話をしているのかわからないが、藤岡さんに話したことと同じことを私にも言っているのだから、これはもう重大なことですよ。最悪のことを考えて対処しないと大変なことになりますよ。とにかく記者は顔色をなくして私にこう言ったのだから。謀略はいけない、謀略はいけないと』。
 そのとき八木さんは、『謀略文書をつくったのは産経の渡部君のくせに……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕。彼は、1通、いや2通つくった。これは出来がいいとか言ってニヤニヤしていたんだから……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕』とつぶやいたのである」。
 ・「以上のことは、4月30日の理事会で、特別の許可を得て私がした報告の内容である」。
 「八木さんを糾弾するために言ったのではない。
 八木さんが、このような『禁じ手』を使ってしまったことを反省し謝罪しないかぎり、八木さんに保守派言論人としての未来はないという危機感を持ったから」だった。
 「それでも八木さんは、謝罪することなく、『つくる会』を去って行った」。
 ***
 (以下は、西尾幹二自身の文章-秋月。)
 ・「この鈴木氏の手記から見ても、怪文書事件には八木、宮崎、渡部の三氏が関与していた疑いを拭い去ることができない(渡部記者は新田均氏のブログにこの証言への反論を載せている)」。
 「八木氏が、もしこれを『私はやっていない』『他の人がやったのだ』と言いつづけ、与り知らないことで嫌疑をかけられることには『憤りを覚える』などと言い募るとすれば」、…と同じ「盗人猛々しい破廉恥漢ということになる」。
 ・付言しておくと、「怪文書事件のほんとうの被害者は私ではなく、藤岡信勝氏である」。
 「公安調査庁の正式の文書を装って」、氏の経歴の偽造、日本共産党離党時期の10年遅らせ等の文書が「判別した限りで6種類も、各方面にファクス」で送られた。
 理事たちは「本人に聞き質すまで」混乱して疑心暗鬼に陥った。しかも氏の「義父を侮辱する新聞記事」まで登場して「私の家にも」送られた。「はなはだしい名誉毀損であり、攪乱工作である」。
 ・「現代は礼節ある紳士面の悖徳漢が罷り通る時代」だ。「高学歴でもあり、専門職において能力もある人々が」社会的善悪の「区別の基本」を知らない。
 「自分が自分でなくなるようなことをして、…その自覚がまるでない性格障害者がむしろ増えている」。
 「直観が言葉に乖離している」。「体験と表現が剥離している」。「直観、ものを正しく見ることと無関係に、言葉だけが勝手にふくれ上って増殖している」。「私が性格障害者と呼ぶのはこうした言葉に支配されて、言葉は達者だが、言葉を失っている人々」だ。
 ・「私は八木秀次氏にも一つの典型を見る。
 他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。
 言葉の向こうから語り掛けてくるもの、言葉を超えて、そこにいる人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない。」
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す。
 今度の件で保守言論運動を薄汚くした彼の罪はきわめて大きい。
 言論思想界がこの儘彼を容認するとすれば、…を難詰する資格はない」。
 ・「それなのに八木氏らをかついで『日本再生機構』とやらを立ち上げる人々がいると聞いて、…ほどに閑と財を持て余している世の人々の度量の宏さには、ただ驚嘆措く能わざるものがある。」
 ---
 見出しなしの最初の段落のあとの、<怪文書を送信したのは誰か>につづく<言葉を失った人々>という見出しのあとの段落が終わり。つづける。

1985/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題③。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)所収-初/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。
 西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ②のつづき。直接の引用には、明確に「」を付す。原文とは異なり、読み易さを考慮して、ほぼ一文ごとに改行している。 
 ----
 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」/この一文は前回②と重複。
 *以下の第三節に当たるものの見出しは「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。
 ・「まさか、と人は思うかもしれないが、恐るべき巧妙な仕掛けがもうひとつあった」。
 「怪文書中の『藤岡は<私は西尾から煽動メールを受け取ったが反論した>と証拠資料を配りました』における『証拠資料』は理事会には勿論配られなかったが、私の自宅には件の怪文書と同時に送られて来ていた」。
 ・「『証拠資料』とは私と藤岡氏との間に2月3日に交された『往復私信』である。
 私は会の事務局長代行の鈴木尚之氏のことを取り上げ、『鈴木氏はあなたの味方ではないですよ』『あなたは会長になるのをためらってはいけない』の主旨のファクスを送り、その紙の空白に藤岡氏が『鈴木氏は自分の味方である』『自分は会長になる意志はない』と簡単に反対意見を記した返信を再びファクスで送ってきた」。
 この『往復私信』は私と藤岡氏しか知らないはずである。
 ところが、怪文書の作成者はこれを知っているどころか所有している。
 しかも怪文書とともにこれを私に送りつけてきた。」
 ・「私はギョッと一瞬たじろぐほど驚いた。
 一体怪文書の作成者は何者で、藤岡氏からどうしてこの私信が渡ったのか。」
 ・「私は早速藤岡氏に問い質したところ、『鈴木氏は自分の味方である』という個所を読ませたくて、鈴木氏に渡したというのである。
 一方、鈴木氏は藤岡氏に会長を狙う意志がないことを示して安心させるために、ここだけのこととして八木氏に渡した。」
 ・「その際、誰にも渡らないように、ほかの人に渡すとすぐに八木氏からのだと分る印がつけてあるから、と注意して渡した。
 他への流出を恐れて渡されたこの『印がついた西尾藤岡往復私信』がなんと不用意にも、『証拠資料』として怪文書と一緒に、私の自宅に送られてきたのだ。
 とすれば、『福地はあなたにニセ情報を流しています。…、小泉も承知です。岡崎久彦も噛んでいます。CIAも動いています』の例の怪文書の送り主はほかでもない、八木氏その人だということになる。」
 ・「この間に起こった鈴木氏のあせりや問い合わせ、八木氏の電話のたじろぎ、沈黙などはいま全部省略する。
 印があることが確認された三度目の電話で八木氏はやっと認め、謝り、犯人は自分ではない、新田氏に転送したと逃げたのである。」
 ・「この間のいきさつは『SAPIO』(6月14日号)にも書いたが、ここでは新情報として4月30日の理事会で当の鈴木氏が行った長い演説を後日まとめた手記の一部を紹介する。鈴木氏は次のように語っている。」
 ----
 さらにつづける。

1966/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題②。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ①のつづき。一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。一部の太字化は、秋月による。
 ----
 ・「しかもここには古いしがらみをもつ党派的な人間関係もあった。
 前出の四人組と宮崎前事務局長は、松浦氏を除いて、若いころ旧『生長の家』の右派系学生政治運動に関係していた古い仲間であるという。
 執行部側は知らなかったが、いつの間にか別系列の党派人脈が会にもぐりこんでいたのである。
 彼らの結束が固いのも道理である。
 この学生政治運動には日本会議の事務総長椛島有三氏、日本政策研究センターの所長伊藤哲夫氏も参加していたという
 (後日分るが、郵政解散で議席を失い、安倍首相の肝煎りで自民党参院選候補に戻って、ひとしきり話題になった衛藤晟一氏も旧い仲間の一人であった)。
 がっちりとスクラムを組んだ彼らの前近代的仲間意識の強さにはただならぬものがあることをやがて知る。」
 ・「私は、八木氏はかねて遠藤浩一氏や福田逸氏に共感を寄せていたので、近代西洋思想に心を開いた人で、いわゆる国粋派ではないと思っていた。
 新田氏は、<中略…>ゼミで彼の先輩に当るという。
 要するに八木氏は思想的にどっちつかずで、孤立を恐れずに断固自分を主張するという強いものがそもそもない人なのである。
 会議でもポツリポツリとさみだれ式に話すだけで、全体をリードする人間力がなく、雄弁でもない。
 応援してくれる人がいないと一人では起ち上がれない弱々しい人だ。
 『僕には応援してくれる人がたくさんいます』という科白をわざわざ先月号の原稿の最後に吐くことに稚気を感じる。」
 ・以上は、2005年末頃~2006年1月17日の、「私〔西尾〕が退会した前後にいたる出来事」にもとづく。
 〔*以下の第二節に当たるものの見出しの原語は「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。〕
 ・「八木氏は藤岡氏の日共〔日本共産党-秋月注〕離党平成13年というガセネタのメールを公安調査庁に知人がいて確証を得たとして、あちこち持ち歩き、理事会の反藤岡多数派工作と産経記者籠絡の言論工作に利用した。
 つづいて私が退会して2ヶ月たった4月1日夜私の自宅に、次に掲げる薄気味の悪い怪文書を証拠資料と共に番号のつかないファクスで送ってくるものがいた。
 この脅迫めいた文書を作成し送信した者が八木氏であるかどうかを決めつけることはさておき、氏でなければ書けない内容も含まれ、少なくとも八木氏に近い人々による共同作業であったことだけは確かで、これには後述するような新しい証言がある。」
 ・「その頃なにかと理事会情報を私に伝えてくれたのは、福地惇氏だった」。
 福地氏は、「元文部省主任教科書調査官(歴史)」、「東大教授の伊藤隆氏の教え子」である。
 *以下、<怪文書>内容(秋月)。
 「福地はあなたにニセ情報を流しています。
 伊藤隆に言い含められて八木支持に回りました。」
 理事会で西尾幹二を相手にしないようにしようと言い出したのは「福地です」。
 「『フジ産経グループ代表の日枝さんが私に支持を表明した』と八木が明かすと会場は静まり返りました。
 宮崎は明日付で事務局に復帰します。」
 藤岡信勝は<西尾からの煽動メールに反論した>との「証拠資料を配りました」。
 彼は「代々木党員問題はうまく逃げましたが、妻は党員でしょう」。
 「高池はやや藤岡派、あとは今や全員八木派にならざるを得なくなりました。
 八木はやはり安倍晋三からお墨付きをもらっています。
 小泉も承知です。
 岡崎久彦も噛んでいます。
 CIAも動いています。」
 ・「私〔西尾〕が深夜読んで十分に不安になる内容であった理由を以下説明する。
 私は『小泉も承知です』の一行にハッと思い当ることがあった。」
 2005年12月25日の理事会の帰り際に「八木氏」は私〔西尾〕の新著「『狂気の首相』で日本は大丈夫か』を非難がましく言い」、「官邸は」西尾に「黙っていない、って言ってますよ」と「脅かすように告げたことがある」。
 ・「『誰が言ったのですか』」、「『知っている官邸担当の政治記者です』。」
 「『それはいつですか』。聞けば私のこの本の出る前である」。
 「そういうと『先生はすでに雑誌に厳しい首相批判を書いていたでしょう。西村〔真悟〕代議士がやられたのは『WiLL』での暗殺容認のせいらしい』」、「『私はそんな不用意なことを書いていないよ』」。
 ・2005年「12月25日は八木氏がにわかに私にふてぶてしく、居丈高にもの言いする態度急変の日だった」。
 「彼は安倍官房長官(当時)に近いことがいつも自慢だった。
 紀子妃殿下のご懐妊報道の直前、日本は緊張していた。
 あのままいけば、間違いなく『狂気の首相』が満天下に誰に隠すところもなく露呈してしまう成り行きだった。
 国民は息を詰めていた。
 制止役としての安倍官房長官への期待が一気に高まった。
 八木氏は安倍夫人に女系天皇の間違いを説得する役を有力な人から頼まれたらしい。
 まず奥様を説得する。搦め手から行く。」
 ・「八木氏はこの抜擢がよほど得意らしく、少なくとも二度私は聞いている。
 彼は権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人だった。」
 ・「右の怪文書の最後のCIAは関係あるのかもしれない深い謎だが、岡崎久彦氏の名は、いや味である。
 私の教科書記述のアメリカ批判内容を岡崎氏によって知らぬ間に削られ、親米色に替えられ、私が怒っていたことを八木氏はよく知っていたからである。」
 ・「伊藤隆氏が、つくる会理事退任届を出すに際し、過去すべての紛争の元凶は藤岡氏にあったとのメッセージを公開したことは、関係者にはよく知られている。
 伊藤氏の藤岡氏への反感は根が深く、伊藤氏が元共産党員であった、私などには分らぬ近親憎悪の前歴コンプレックスがからんでいる可能性は高い。」
 ・伊藤氏の大学の教え子の福地惇氏と八木氏・宮崎氏は2006年3月20日に会談した。
 「福地氏を反乱派の仲間に引きこむためである」。
 伊藤氏の反藤岡メッセージと「公安が保証したという藤岡党歴メール」を福地氏に見せて「このとき多数派工作を企てた」。福地氏について、「3月末の段階ではまだそういう期待もあった」。
 「こうして4月1日私に深夜送られて来た怪文書の最初の二行は、八木一派の工作動機を暗示している願望にほかならない」。西尾・福地間を「裂こうとする願望」も秘められている。
 ・「西尾がすでに退会しているので、クーデターの目標は藤岡排除の一点に絞られつつた」。
 西尾の口出しも排除したいが、「しかし何といっても藤岡が対象である」。
 「その執念には驚くべきものがあった」。
 ・私は「深夜の怪文書の一行目『福地はあなたにニセ情報を流しています』を信じてしまい」、理事会欠席の私に「親切な理事の一人が福地氏のウラを教えてくれた」のだと思った。
 「そういうことをしてくれる人は田久保忠衛氏以外にないと思い、氏に夜中に謝意をファクスで伝えた。
 翌日電話で全くの誤解だったことが明らかになり、田久保氏と二人で大笑いになった。
 しかしよく考えれば笑えない話である。」
 あのまま…ならば「3月28日の理事会はこういうものだったと死ぬまで信じつづけることになっただろう」。
 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」
 <つづく-秋月>

1963/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題①。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 記録しておく価値があるだろう。上掲書の一部。p.77~。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。
 八木秀次論というよりもむしろ、いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>にかかわって。
 一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。
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・諸君!2006年5月号の八木秀次氏の私(西尾)に関する文章は「私の虚栄心をくすぐってくれた題である。これにリードがついて『執拗なイジメの数々…私〔秋月-八木のこと〕は林彪のごとく<つくる会>を去っていくしか術はなかった』と氏の行動が表現されている」。
 ・「一人の男として、会のトップに立つべき人として、足を引っ張られたとか、イジメられたとかは口が裂けても言ってはならないはずだが、全文を読み終ると、八木氏はこのリードの通り弁解めいた弱音をさらけ出し、〃ボクちゃんはイジメられたけど正しかったんだよお〃と訴えているように読める。」
 ・私(西尾)は2006年1月17日に<つくる会>の名誉会長を辞任した。
 「振り返れば、前年〔2005年-秋月〕の12月初旬、八木氏は突然、私に対して態度が大きくなり、ふてぶてしくなり、あっと驚く非礼があり、執行部の中心にいた彼が『宥和』を図ると称して執行部に反対する四人組(新田均氏、勝岡寛次氏、松浦光修氏、内田智氏の四理事)+宮崎正治・前事務局長の反乱側にひそかに寝返ったのである。
 執行部会議に名誉会長、すなわち西尾は出て来るべきではないと彼が私に面と向かって言ったのは12月25日だった。
 私は困難が発生したから乞われて執行部会議に臨時に出ていただけなのに、そういう言い方だった。
 執行部を中心とした良識派は八木氏の急激な変貌ぶりに危機感を覚え、守りを固めた。」
 ・私(西尾)は2006年1月16日の理事会で「『お前はなぜそこにいる』という意味の重ねての無礼な反乱側の挑発に腹を立て、名誉会長の称号を返上した」。
 ・「…渡りに船でもあり、辞任に不満はないが、クーデターは許せないと思った」。
 「平時に」理事会にも出ないが、大事なのでと執行部側から出席を求められ、「名誉会長の最後の義務だと思ってやりたくもない務めを果たしていた」。
 「しかし何度もいうが、会の精神を変えてしまうクーデターは許せない」。
 ・「というのは、単なるポストをめぐる争いではなく、会を教科書をつくる会ではなく、なにかまったく別の違ったものに変質させてしまう考え方をもつ人々による計画的簒奪であることが、後日少しずつ分るようになるからである。」
 ***
 ・「すでに反乱側の少数派は12月の段階で会を乗っ取ろうとし、事務局まで割って、執行部側の事務局員をイジメて追い出そうとしていた(実際に二人追い出された)。
 今思えば11月半ばから八木氏の会長としての職務放棄、指導力不足は意識的なサボタージュで、彼によってすでに会はこの早い時期に分裂していたといえる。」
 ・八木氏は先月号=2006年5月号で「悲劇の主人公を演じている」が、「六人のうち私と藤岡氏を除く三副会長、遠藤浩一、工藤美代子、福田逸の諸氏のうち工藤、福田の両氏を副会長に指名したのは八木氏その人だった」。
 「彼はその三副会長に背中を向け、電話もしない。
 六人の中で孤立したのではなく、他の五人から自分の意志で離れて『四人組+宮崎』派にすり寄ったのである。
 しかも何の説明もしなかった。
 三副会長は怒って辞表を出した。
 それでも八木氏は蛙の面に水である。
 都合が悪くなると情報を閉ざし、口を緘するのが彼の常である。」
 ・言いたいことはガンガン言えばよい。「しかし彼は黙っている」。
 「語りかける率直さと気魄がない。
 それで後になって自分は置き去りにされていたとか、自分の知らない処でことが進んでいたとか繰り言をいう。
 すべてそういう調子だった。」
 ・「今考えると、サボタージュを含むすべての行動は計画的だったのかもしれない。
 しかし前記の論文では自分はイジメられて追い出されたという言い方をしている。//
 自分がしっかりしていないことを棚に上げて、誰かを抑圧者にするのはひ弱な人間のものの言い方の常である。」
 <つづく-秋月>

1711/「日本会議」20周年。

 日本会議(事務総長・椛島有三)の設立は1997年で、昨11月25日に20周年記念集会とやらを行ったらしい。
 何を記念し、何を「祝う」のか。政党でもないこの民間団体の元来の目標は何で、その目標はどの程度達成されたのか。もともと設立の「趣旨」自体に疑問をもっているので、この点はさて措く。
 もっとも、この団体の機関誌は、この20年間に行ってきた活動実績を20ほど列挙して、<実績>としている。
 その一覧表を見ていて、少なくともつぎの大きな二つの疑問が湧く。
 第一、この20項目の列挙は、誰が決めたものなのか。同じ機関誌に代表・田久保忠衛と追随宣伝者・櫻井よしこの対談があるが、この二人は20項ほどの<実績>に何も触れていない。
 おそらく間違いないこととして推定されるのは、この実績一覧表は、「日本会議」内部のおそらくは正式の決定手続を経ないで、椛島有三を長とする事務局(事務総局)によって選定されている、ということだ。
 「日本会議」の諸役員先生方は、それでよしとするのか?
 民間団体の意思決定手続・20年の総括文書(・活動実績一覧表つくりを含む)決定手続に容喙するつもりはないが、この団体の内部には、<万機公論に決すべし>という櫻井よしこが誤っていう「民主主義そのもの」は存在していないようだ。
 20年間も事務局長(総長)が同じ人物であるというのは、西尾幹二もどこかで複数回指摘していたように、異常であり、気味が悪い。
 類似のものに気づくとすれば、ロシア・ソ連共産党のトップ在任期間の長さ(とくにスターリン)、中国共産党のトップの在任期間の長さ、そして日本共産党のトップの在任期間の長さだ。
 これらの党では、いまは日本共産党は少し違うが、共産主義政党はトップのことを書記長・総書記・第一書記・書記局長とか称してきた。「事務総長」とよく似ている。
 日本共産党のトップは、1961年以降、宮本顕治・不破哲三・志位和夫の三人しかついていない。56年間でわずか3人だが、平均すると20年に満たず、何と椛島有三の方が長い。
 いや、「日本会議」には代表がいて、という反論・釈明は成り立ちえない。
 そのことは、上記対談で代表・田久保忠衛が「あらためて設立趣旨を読んでみますと…」などとのんびりした発言をしていることでも分かる。
 やや唐突かもしれないが、現在の中国で、上海市長と共産党上海市委員長(正確な職名を知らない。共産党上海市総書記)とどちらが「偉い」のか。上海大学の学長と、上海大学内の共産党のトップ、いわば党「事務総長」の、どちらが「偉い」のか。
 椛島有三一人で事務局長・事務総長を20年。「日本会議」の役員先生方は、これをどう感じているのか。
 長谷川三千子は?、潮匡人は?、等々。
 元に戻れば、この20年の活動実績の選定は、公表されている項目で、役員先生方は、本当によろしいのか?
 第二。20年の活動実績の選定を見ていて、容易に気づくことがある。
 一つ、北朝鮮による拉致被害者救出・支援活動に全く触れていない。この団体は、活動実績の中にこれを含めることができないのだ。
 二つ、教科書・とくに歴史教科書の改善運動に全く触れていない。私見では、「つくる会」を分裂させたのは椛島有三や伊藤哲夫ら「日本会議」幹部そのものだ。そしてまた、この団体は、歴史教科書に関する運動を、20年間の活動実績として挙げることができない。
 三つ、椛島有三の2005年の著にいう「大東亜戦争」にかかる通俗的な、そして1995年村山談話・2015年安倍談話に見られるような、<歴史認識>を糺す、少なくとも疑問視するという、この団体にとっては出発の根本的立脚点だったかもしれない、<先の戦争にかかる歴史認識>をめぐる運動に、全く触れていない。
 靖国神社や戦没者に関するこの団体の運動を全否定するつもりはない。しかし、根本は、<先の戦争に関する歴史認識>にあるだろう。そうでないと、戦没者は、その遺族は、浮かばれない。
 にもかかわらず、「日本会議」は2015年安倍談話を批判せず、一部でも疑問視せず、代表・田久保忠衛はすぐさま肯定的に評価するコメントをしたらしい(櫻井よしこによる)。
 笑うべきだ。嗤うべきだ。そして、悲しむべきだ。
 日本の現状を悪くしている重要な原因の一つは、「保守」の本砦のようなつもりでいるらしい、「日本会議」の運動にある。20年間、この運動団体に所属する人たちは(そして、産経新聞社は、月刊正論は、等々ということになるが、立ち入らない)、いったい何をしてきたのか。
 悲痛だ。 

1704/谷沢永一・正体見たり社会主義(1998)③など。

 谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998/原1994)。
 メモ書きをつづける。マルクスについて要領のよいと思われる批判が並ぶ。
 「国家なき社会の運営のプラン」はマルクスになく、レーニンにも「何もなかった」。p.164。
 「レーニンは、プロレタリア-トの独裁によって過渡的な形でできる国家は、勝利獲得後、ただちに死滅しはじめると考えた」。
 レーニンは「マルクス主義とアナーキズムには類似性があると認めるところまでいっていた」。「国家の代わり」の「実務のみの社会」は「人間の善意のみで運営」される村役場あるいはバザールで、「極端な復古主義」だ。p.166-7。
 レーニンは当初は「プロレタリア-トの党については、考えていなかった。革命さえ起こせば、すべてが解決する」はずだった。<国家と革命>には「党のことはほとんど触れられていなかった。これは歴然たる事実なのである」。p.168-9。
 上の最後はほとんど同趣旨が、L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1974、英訳1976)の中にある。他の部分も、L・コワコフスキが叙述していることと似たようなことを書いている。
 谷沢はL・コワコフスキ著をある程度知っていたかとも思わせるが、党については、革命直前の<国家と革命>研究書・論評書は多かったりするので、常識的なことなのかもしれない。
 但し、革命前の運動期の<何をなすべきか>では独自の、職業家から成る意識的・純粋な党の像を語り、メンシェヴィキと対立した。革命後の党の役割、国家と党の関係等には熟考のないまま、「革命」=権力剥奪に進み切った(好機があれば逃さなかった)のだろう。権力奪取の後の政治・行政の<付け焼き刃>。
 何が根拠なのか、レーニンに「甘い」部分もある。
 「レーニンが考えた党の独裁とは、合議制による運営」で、「レーニン個人による独裁」でなかった。スターリンがこれを踏みにじった。p.192。
 「独裁」の意味にもよるが、ソヴェトの内部での一党支配、ソヴェト自体からの自立、を経ての国家=一党支配体制におけるレーニンの位置は、<立法・行政>権ともに持ちかつ<司法権>を下部に置く「人民委員会議の議長(首相とも紹介される)」かつ党中央委員会委員長だ。その人民委員会議や中央委員会が「合議制」というのは全くの建前で、レーニンの意思・意向に反することは決められていない。
 但し、スターリンは党内部の政敵・意見対立者を「殺した」が、レーニンはそこまではしなかった(反面では、党「外部」者、例えば左翼エスエル指導者、対しては行なった)。
 スターリンによる<大テロル>(1935-38年又はより短くは1936-38年)は、今日では日本共産党すらが大々的に批判している。
 谷沢p.203によると、1935-38年の4年間に、10月「革命」時の名のある指導者たちの「ほとんど全部が、トロツキストの汚名のもとに逮捕投獄された」。しかも「その多くが」「処刑されていった」。1934年党大会で選出された中央委員・同候補のうち「7割の98人」、同大会代議員の「過半数」が「処刑ないし追放された」。p.203。
 逮捕・拘束-「自白(強要)」-刑法典等による「処刑」もあれば、陰に陽にの「暗殺」=不意打ちの突然の殺戮もあった。スターリンの「意」をうけた殺戮者グループがいた。
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 ところで、この本については、10年以上前に、この欄の前のサイトで言及していた。
 2006年9月下旬にすでに。ぼんやりとある程度読んだ記憶があるだけで、書き込んだことまではすっかり失念していた。こんなことは他にもしばしばあるので、イヤになる。 №--0044・2006年09/23付でこうある。谷沢関係部分の全文。
 「谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998)を2/3ほど読んだ。
 平易な語と文章で解りやすい。この本は同・『嘘ばっかり』で七十年(講談社、1994)の文庫化で、題名どおり日本共産党批判の書だ。
 今でいうと「…八十年」になるだろう。もっとも終戦前10数年は壊滅状態だったので、1945年か、実質的に現綱領・体制になった1961年を起点にするのが適切で、そうすると『嘘ばっかり』の年数は少なくなる。
 それにしても谷沢は日本近代文学専攻なのに社会主義や共産党問題をよく知っている。戦前か50年頃に党員かシンパだったと読んだ記憶があるが、『実体験』こそがかかる書物執筆の動機・エネルギ-ではなかろうか。」
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 谷沢永一の没後、昨年に、二巻選集が刊行された。
 浦安和彦編・谷沢永一・二巻選集/上・精撰文学論(言視舎、2016.01)。
 鷲田小弥太編・谷沢永一・二巻選集/下・精撰人間通(言視舎、2016.09)。
 とくに後者を一瞥したが、鷲田小弥太の解説・解読も読む価値がある。また、谷沢のすさまじい知識ぶりにも感心する。
 もっとも、誤っていると思われる事実認識や論評も散見される。
 こうした「知識人」が存在したことについて、種々、感じることもある。
 ①戦後日本の「大学」というもの、「大学教授」というものの存在。谷沢永一の生活を支え、こうした「自由」な言論ができたのも、「大学(教授)」という制度が存在したからだ。
 ②関西と東京(または首都圏)。中西輝政ですら、京都・関西と東京(首都圏)の言論人・論壇人(?)との<距離>について、何かで語っていた。
 東京集中のメディアと出版業界も関係する。京都よりさらに東京から「遠い」大阪にいたことも、<谷沢永一>を生んだに違いない。
 司馬遼太郎についてもまた、この観点を無視できないだろうと思われる。
 ③上に関係があるのかどうか、谷沢永一は<新しい歴史教科書をつくる会>の教科書を批判した。まだ生ぬるい、あるいは<左翼的・自虐的>だ、というのがおおよその理由だったかと思う。
 日本の<保守>論者、<保守>的言論の歴史も複雑だ。
 ④上の「下」に収載の<日本通史>(別に単行本になっていて、所持している可能性が高い)は、一人でここまで書ける<文学評論家>がいたのかと驚かせる。
 だが、反・非マルクス主義的であるものの、<天皇・皇室>を肯定的な意味で重視したり(なお、「天皇制」という語をマルクス主義概念だとして拒否する)、昭和天皇を称えたりと、ある意味では、1990年代までの(今もつづく?)「左翼・自虐史観」に反対するがゆえだと思われる、明治維新以降に関する歴史叙述があるのも印象的だ。
 この「知識人」もまた、時代の制約から全く「自由」ではなかった、と思われる。
 全く「自由」だった人、全く「自由」な人、はいるのか、と問われると、皆無と答えるしかないのかもしれない。
 個々の人間が、時代環境、所属する国家、思考するために使う言語、成長過程も含めて学校教育あるいは文献読書で入手した知識・情報から「自由」でないはずはない、ということだろう。
 上の③や④は別に触れるかもしれない。

1662/藤岡信勝・汚辱の近現代史(1996.10)。

 藤岡信勝・汚辱の近現代史(徳間書店、1996.10)。
 この本の一部、「自由主義史観とは何か-自虐的な歴史観の呪縛を解く」原/諸君!1996年4月号。
 この本自体は、<つくる会>発足直前に出版されている。この会とも関連してよく読まれたかもしれない(読んだ自信はないが、かつて読んだかもしれない)。
 計わずか11頁。半分ほどは、教科書を問題にする中で、明治維新、ロシア革命、「冷戦」に触れつつ日本共産党の歴史観・コミンテルンの歴史観を叙述する。そして言う。
 「アメリカの国家利益を反映する『東京裁判史観』と、ソ連の国家利益に由来する『コミンテルン史観』が『日本国家の否定』という共通項を媒介にして合体し、それが戦後歴史教育の原型を形づくった」。p.77。
 間違っているとは思えない。
 むしろ、つぎの点で優れている。
 戦後歴史教育の原型、つまり戦後の支配的歴史観を<東京裁判史観+コミンテルン史観>と明記していること、つまり、前者に限っていないことだ。
 「諸悪の根源は東京裁判史観だ」と何気なく、あるいは衒いもなく言ってのけた人もいた。
 慣れ親しんだかもしれないが、この欄で既述のとおり、こういう表現の仕方は、占領・東京裁判にのみ焦点を当て、実際上単独占領であったことからアメリカの戦後すぐの歴史観のみを悪玉に据える悪弊がある。
 つまりは、より遡って、少なくとも<連合国史観>とでも言うべきであり、ソ連・スターリン体制がもった歴史観も含めるべきなのだ。
 アメリカに対する<ルサンチマン>(・怨念)だけを基礎にしてはいけない。
 その観点からして、東京裁判史観とは別に<コミンテルン史観>を挙げているのは適確だと思える。
 <東京裁判史観+コミンテルン史観>とは何か。
 藤岡信勝から離れて言うが、先の大戦(第二次大戦)を、基本的には、<民主主義対ファシズム>の闘いとして捉える歴史観だ。
 そして、ここでの<民主主義>の側にソ連・共産主義もまた含めるところが、この考え方のミソだ。
 つまりは秋月瑛二のいう、諸相・諸層等の対立・矛盾の第一の段階の、克服されるべき<民主主義対ファシズム>という対立軸で世界・社会・国家を把握しようとする過った<歴史観>・<世界観>だ。
 これこそが、フランソワ・フュレやE・ノルテも指弾し続けた、<容コミュニズム>の歴史観だ。
 これの克服で終わり、というわけではないが、この次元・層でのみ思考している日本国民・論者等々は数多い。<民主主義>を謳う日本共産党も、巧妙にこれを利用している
 <東京裁判史観>とだけ称するのは、この点を隠蔽する弊害があるだろう。
 そのような<保守>論者は、民主主義に隠れた共産主義を助けている可能性がある。
 離れたが、つぎに、「自由主義史観」という概念について。
 いつかこれが「反共産主義」史観という意味なら結構なことだと書いたが、正確には同じではないようだ。しかし、大きく異なっているわけでもないだろう。藤岡信勝いわく。
 ①「健康なナショナリズム」、②「リアリズム」、③「イデオロギーからの自由」、④「官僚主義批判」。
 ④が出てくるのは、よく分からない。スターリン官僚主義、あるいは日本共産党官僚主義の批判なのか。
 しかし、残りは、とくに歴史教科書や歴史教育という観点からすると当然のことだ。当然ではないから困るのだが。 
 第一。①にかかわる明治維新の捉え方は種々でありうる。
 しかし、「江戸時代を暗黒・悲惨」ともっぱら否定的に見てはいけない、「一般化して言えば、歴史について発展段階説的な先験的立場をとらない」、と書くのは、至極まっとうだ。
 当然に、とくに後者は、マルクス主義史観あるいは「日本共産党」の基礎的歴史観の排除を意味する。
 第二。先の戦争の「原因」について、こう言い切っているのが注目される。
 「日本だけが悪かったという『東京裁判史観』も、日本は少しも悪くなかったという『大東亜戦争肯定論』もともに一面的である」。p.79。
 ここで「悪かった」か「悪くなかった」かという言葉遣いに、私はとくに最近は否定的だ。
 正邪・善悪の価値判断を持ち込んではいけない。
 しかし、趣旨は、理解できる。
戦争に「敗北」して、少しも問題はなかった、とは言い難いだろう。やはり「敗北」であり「失敗」したのだという現実は、そのまま受容する他はないのではないか。
 共産主義者が誘導したとか、F・ルーズベルトは「容共」で周辺にソ連のスパイや共産主義者がいた、という話も興味深いが、しかし、そのような<策略>に「敗北した」ことの釈明にはならないのではないか。「負けて」しまったのだ。
 いや「敗北」したのではない、アジア解放につながり、実質的には「勝利」した、とかの歴史観もあるのだろう。
 ここで「敗北」とか「勝利」自体の意味が問題になるのかもしれない。
 しかし、こういう主張をしている人たちがしばしば唾棄するようでもある「戦後」は、あるいは「日本国憲法」は、あるいは出発点かもしれない「東京裁判」そのものが、軍事的「敗北」と「軍事占領」(つまりは究極的には、実力・軍事力・暴力による支配だ)の結果として発生している。
 この<事実>は消去しようがない。
 こう大きく二点を挙げたが、すでにここに、藤岡信勝と今日の「日本会議」派または櫻井よしこらとの違いが明らかなようだ。
 つまり、「日本会議」派はおそらく、また櫻井よしこは確実に、明治維新を(そして天皇中心政治を)「素晴らしかった」として旧幕府に冷ややかであり、2007年の<大東亜戦争>をタイトルに掲げる椛島有三著にも見られるように、日本の先の大戦への関与について、可能なかぎり<釈明>し、日本を<悪く>は評価しないようにしている。
 少なくとも1996年著に限っての藤岡信勝「史観」と「日本会議・史観」は両立し得ないだろう。共産党所属の経歴の有無などは関係がない。
 しかし、歴史教育または歴史教科書レベルではなお融和できるのではないか、という問題は残る。「日本会議」派がコミンテルン史観・共産党史観を排除しているならば、いわゆる<自虐史観>反対のレベルでは一致できただろう。
 だからこそ、「日本会議」派は(あるいはごく限っても八木秀次は?)、たぶん2005年くらいまでは、「つくる会」騒動を起こすつもりはなかったかに見える。
 少し余計なことも書いた。もっと書きたくなるが、さて措く。

1629/西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断(PHP,1996年)。

 「許してくれるだろうか、僕の若いわがままを。
  解ってくれるだろうか、僕の遙かな彷徨いを。/
  僕の胸の中に語りきれない実りが、たとえ貴女に見えなくとも。」
  小椋佳・木戸をあけて(1971年)より。
 ---
 西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断-歴史教科書が危ない!(PHP文庫、2000.05/原書1996)。
一 この書の関連年表によると、前月に記者会見ののち、1997年1月、「新しい歴史教科書をつくる会」設立総会。初代会長は、西尾幹二。
 西尾幹二・国民の歴史(産経、1999/文春文庫、2009)等とともに、この「つくる会」に対する社会的反応はすごかった。当時に日本共産党および「左翼」系の、これに反発する書物は小さいのを含めると100冊を超えたのではないか。また、「新しい教科書」不採択運動も、日本共産党を中心に繰り広げられた。
 当時はまだ、<分裂>していなかった。産経新聞-扶桑社-育鵬社が、2007年以降に、「つくる会」とは別の教科書を発行するに至った。「つくる会」系二教科書とか、あいまいに言われる。
 ついでながら、菅野完・日本会議の研究(2016)は、なぜか<扶桑社新書>
 二 上の本を見てみると、計8章のうち共産主義・社会主義を扱うのは一つだけで、<第4章・ソ連崩壊にも懲りない社会主義幻想-時代遅れの学説で綴られる「独断」史観>だ。但し、他の章でもマルクス主義等に言及があることは、目次で分かる。
 <保守>論者の共産主義(・マルクス主義・社会主義)に関する本(!あるかどうか)や論考類・雑誌記事等をかなり見てきたが、この本程度でも、まだ優れている方だ。
 かつて戦後にも、林達夫(『共産主義的人間』)とか猪木正道(『共産主義の系譜』)とかの骨太反共産主義知識人・研究者はいたと思うが、かつ文芸評論家的<保守>はこんな仕事ができないと思うが、なぜかほとんど消えてしまった。
 中川八洋は<反共産主義>で優れていると思うが、欧米等の戦後から最近までの共産主義・「左翼」運動や議論について、詳細にフォローしていないし、たぶんL・コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』も(この人はたぶん英語を簡単に読めるが)知らないのではないかと思われる。
 また、日本の近年の<共産主義・社会主義陣営>の動きを精確に把握しているわけでもない。基礎にある理論的・理念的な知識・教養が、この人を支えているのだろう。
 三 さて、もう少し細かく、上の本(のとりあえず上の章)を見る。
 まず生じる感想は、スターリン批判が強いが、レーニンまで、あるいは<レーニン主義>まできちんと目が配られていない。当時の私自身の認識・理解ぶりはさて措く。
 例えば、西尾は語る。①「スターリンの犯罪を個人の犯罪と片付けて」いいのか。p.135。
 そのとおりだが、レーニンもまた、すでに「犯罪」者だった。
 ②「ナチス」国家と「スターリン型独裁体制との近似性・類似性…」、ハンナ・アレントはヒトラーのシステムは同じ1930年代に「スターリンの帝国にすっかり類似の形態をとって」具現化していたと指摘した。p.135-6。
 そのとおりだが、しかし、①と同旨だが、レーニン時代はよくて又はまだましでスターリン時代に「全体主義」国家になったのではない(そんなことはハンナ・アレントも言っていない)。
 ③「シュタージ(東独)」と「ゲシュタポ(ナチス)」は構造と様態がよく似ている。p.137。
 そのとおりだろうが、レーニン時代、すでに1918年早くには、ゲペウにつながるソ連の秘密政治警察が作られている(チェカ、初代長官・ジェルジンスキー)。
 東ドイツの類似のものは、スターリンそしてレーニンに行き着く。
 総じて、この時代の日本の知的雰囲気を考えると(悲しいことに現在もまだよく似ているが)、スターリンの批判はまだ許されても、レーニン批判までは進まないことが多い。
 なぜか。レーニン・ロシア革命を擁護する、そしてスターリンは厳しく批判する日本共産党とその周辺共産主義者と「左翼」がいた(いる)からだ。出版社、マスコミを含む。
 スターリンを厳しく批判してレーニンを美化する点では、<トロツキスト>も変わりはないし、日本共産党を離れたりあるいは同党から「除名」されたりした者も、共産主義者・容共産主義で残るかぎりは、日本の特定の共産党を批判しても、レーニンとロシア革命は「否定」しない。
 日本の<保守>派もまた影響を受けているか、そもそも、レーニンとスターリンの違いなどに全く興味を示さない、<そんなことはもう片が付いた、天皇・愛国・日本民族こそ大切>という者が多い。涙が出るが、いずれかがほとんどだ。
 日本でも、<スターリンとヒトラー>を比較した欧米の書物はたぶん複数邦訳書となって出版されている。
 最近に気づいたが、<レーニン、スターリンとヒトラー>と並べた欧米文献はあるが、全く日本では翻訳書が刊行されていない。これは、別にきちんと述べよう。
 四 誰についてもそうだが、西尾幹二は情報のソースまたは思考の方法の根源について、何によっているのだろうと、考えることがある。
 私自身がほんの少しは欧米文献や欧米歴史学界等の雰囲気を知って気づいたことがある。
 それは、西尾幹二は、ドイツのエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)の議論を知っている、ということだ。昨年あたりにようやく気づいたのだから、何の自慢にもならないが、西尾はとくに明記していないものの、1990年代までに、Ernst Nolte の書物を複数、何らかのかたちで参照している。
 長くなったので、もう1回書く。


1623/日本の保守-2006-2007年に何が起こったか①。

 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)。
 こう書くと西尾の本が後で刊行されているが、その内容のほとんどは前年までに、おそらくは前者よりも早く書かれている。ともあれ、同年の刊行。
 その「あとがき」の副題は、「保守論壇は二つに割れた」だ(2007年6月)。
 その中に収載の「小さな意見の違いは決定的違い」は、2006年夏・秋のことを書いている。
 2007年。この年の初め、第一次安倍晋三内閣だった。まだ2007年の参院選挙はなかった。
 この年の3月下旬、<秋月瑛二の…つぶやき日記>がかつてあった産経・イザ上で始まった(このとき、産経新聞社が運営とは知らなかった)。
 この年の12月、櫻井よしこを理事長とする、(公益財団法人)国家基本問題研究所が発足した。
 2000年頃と、この年のこの時期までの間に(ということはこの年のおそらく前半には)、櫻井よしこは<華麗なる変身>を遂げたもののと見られる。
 つまりは、国家基本問題研究所関係者のむしろ多くが知らないのかもしれないが、椛島有三や伊藤哲夫たちの、つまり「日本会議」派と仲良くなった。あるいは、仲間になった。あるいは、前者が後者に<取り込まれた>。冒頭の著者の椛島は、言わずもがなだが、<日本会議事務総長>。
 この年以降、つまり2008年以降の櫻井よしこの論調と、2000年頃の櫻井よしこの論調は、明らかに異なる。
 西尾幹二は、上の書物全体をその全集には収めてはいないようだ。全集とはいえ、本人編集かつ追記だから、いろいろな想いが重なるのだろう。
 2007年というのは、前年またはさらにその前の年から始まった、新しい歴史教科書を「つくる会」の激変時でもあった。
 「日本教育再生機構」とやらができ、安倍内閣に「教育再生会議」なるものも設置された(今これはどうなっているのか?)。
 これの重要人物が、八木秀次。今年になって私が名づけた天皇譲位問題に関する「アホ」の一人(櫻井よしことともに)。
 この欄で言及した記憶があるが(たぶん雑誌上のものを読んで)、西尾は上の本に「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」と題する文章を収載している(諸君!2006年年8月号のもの)。
 こうしたものを含む単行本が7月末日付で刊行されており、上の椛島有三著は4月が刊行月になっている。そして、この年の最後の月、櫻井よしこは「研究」所理事長になった。
 以上のことは、いつでも記せるような内容だった。
 小林よしのりの本を併せて読むと、もっといろいろなことが分かるはずだ(所持しており、読んではいる)。
 10年後の今に残る「分裂」・「対立」について、誰かがきちんと総括しておかないと、日本の<保守>に未来はないのではないか。
 中西輝政は、いったいどうやって<世渡り>をしてきたのか。さらに言えば、西尾幹二ですら、その後どうやって<世渡り>をしてきたのか。なぜ月刊正論や産経新聞に執筆できるのだろう。
 無名の、大洋の底の貝のごとき秋月瑛二が、何かを記しておく意味がほんの少しはあるかもしれない。
 もう一度書いておこうか。
 ①2006年~2007年、櫻井よしこは<変身>した。あるいは<変節>した。あるいは、<狂信>先が明確になった、と思われる。
 ②この頃のことを、誰かがきちんと総括しておかないと、日本の<保守>はダメだ。もっとも、秋月瑛二は<自由と反共産主義>に執着しており、<保守>か否かは全くの副次的な関心主題にすぎないのだが。

1550/「つくる会」は小池百合子、「日本会議」は増田寛也を支持した。

 ○ もう一年近く前になるが、桝添要一辞任後の東京都知事選挙で、「新しい歴史教科書をつくる会」は小池百合子を支持し、「日本会議」は増田寛也を支持した
 前者が印象に残り、こうして今まで憶えている。
 有力三候補のうち、政権与党および東京都の支部の支援を受けたのは増田寛也だった。有力政党で小池支持はなかったかと思われる。
 選挙の結果が「正しい」とは限らない。あるいは、「正しい」か「誤り」かという問題設定をすること自体に問題があると、最近は感じている。<現実>はそれなりの必然性あるいは「やむをえなさ」によって生じたと<合理的に>推認したい人たちも多いのかもしれないが、それは過ちだ。
 ともあれしかし、都知事となるという<現実>を手にしたのは小池百合子で、増田ではなかった。増田寛也には何の個人的な好悪の情はないし、小池についても全く同じ。
 しかし、やはり興味深いのは、自民党等が公式に(都連も含めて)支持・推薦した候補が圧倒的に敗れたことで、これは、好ましい<選択肢>が自民党等(の候補)以外にもう一つあれば有権者のかなりの部分が、 「自民党」の名前とか機関決定に関係なく、もう一つの「選択肢」に投票する可能性があることだ。立ち入らないが、似たことは最新の大阪府知事・大阪市長の選挙でも起きた(反自民・反民主の<維新の会>候補の圧勝だった)。
 自民党と安倍晋三内閣は、国政レベルでは「もう一つの選択肢」の欠如のゆえにこそ、支持率をまだ高く維持しているようであることを知らなければならないだろう。
 もう一つ興味深いのは、略称「つくる会」の、結果としては<現実>と同じになった小池支持の判断(役員決定だろう)だ。小池の方が増田よりも「歴史認識」が近い、または「つくる会」の活動に理解をより示してきた、というのが根拠だったかと思われる。
 これに対して、<現実>にはまたは結果としては無様(ぶざま)な判断だったことになったのは「日本会議」だ。おそらくこの団体・組織は、自民党が支持・推薦する候補を支持・推薦する、というほとんどルーティン的な思考と決定をしたものと思われる。
 そのかぎりでは、はるかに「つくる会」の方が<自由な>あるいは<柔軟な>思考ができていたわけだ。
 ○ 2007年3月に正規にこの欄を立ち上げたとき、「新しい歴史教科書をつくる会」という団体があるのを知っていたが、<分裂>等々に関する知識はほとんどなかった。
 但し、一度だけ、西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中の、とくに手厳しい、全人格的な(または学者・研究者ないし<保守>活動家全面についての)八木秀次批判についてこの欄で言及したことはある。
 今では、例えば、以下の書物を持っているし、たぶんとっくに熟読し終わっている。
 したがって、種々の経緯については、その頃よりもはるかに詳しい。
 小林よしのり責任編集/新しい歴史教科書をつくる会編・新しい歴史教科書を「つくる会」という運動がある(扶桑社、1998)。
 鈴木敏明・保守知識人を断罪す-「つくる会」苦闘の歴史(総和社、2013)。
 小林よしのり・ゴーマニズム戦歴(ベスト新書、2016)の関係部分。
 西尾幹二・藤岡信勝らの書物等は除く。
 こうした「歴史」を知ると、いろいろなことが分かる。
 例えば、なぜ、八木秀次は、産経新聞または月刊正論で継続的に「重用」され続けているのか。
 10年ほど前に西尾幹二が感じていたことと、私は基本的に同感で、八木秀次は「信用できない」。
 また、ついでに記せば、天皇・皇室敬慕を謳っているにもかかわらず、譲位問題についての今上天皇に対する<きわめて個人的な嫌悪感>を示す、最近の文章部分に喫驚したこともある。
 また、渡部昇一がいわば初期または第一次の(西尾幹二理事長時代の)「つくる会」には何ら関与しておらず、西尾幹二の退任後に関係をもち始めたことも、私には興味深い。
 屋山太郎がどうやら反西尾・反藤岡側で、産経新聞社・扶桑社側に立って<政治的>活動をしたのも、なるほどと思わせる。この人は、八木秀次とともに「教育再生会議」に関与していたはずだ(屋山太郎批判はさんざんこの欄でした。国家基本問題研究所の立派な「理事」の一人だ)。
 櫻井よしこは、「つくる会」の運動とは関係がなかった。さらに言及したいが、2000年刊行の憲法とは何か(小学館)は自衛隊違憲論のほかにも「左翼的」議論がある(政教分離という基本問題への言及が全くないことには既に触れた)。
 この人は、今のごとき<保守派のラウド・スピーカー>(某左翼論者-名前を忘れた-)ではなかった。
 また、櫻井よしこが2015年夏の安倍内閣・戦後70年談話の評価を、のちにまとめた本の当該部分の「追記」で実質的に反対方向に変えるという<信じがたい荒業>をしていることをこの欄で指摘したが、その際に支持するとして明記したのは、「中西輝政、伊藤隆」の月刊正論上等の論考による安倍談話の「歴史認識」批判だった。
 それを記載しているときにも感じたのだが、中西輝政はともかく、安倍70年談話の「歴史認識」批判者としては、少なくともその次に「西尾幹二」の名を明記してよかっただろう。
 しかし、おそらくあえて、櫻井よしこは意識的に西尾幹二を除外している
 <保守>的論壇の人間関係など私が知る由もないが、おそらく、西尾幹二と櫻井よしこの間の人間関係は、良くはないようだ。
 もちろん、このように二者択一的に提示されれば、私は西尾幹二の側に立つし、西尾幹二により近い。
 しかし、西尾幹二には語ってみたいこともある。いや、もう少し、「つくる会」について書いてからにしよう。

1294/日本共産党のデマ-安倍首相らは「ネオナチ」か。

 デマゴギーとは、政治的目的をもって、または政治的効果を狙って、意図的に発信・流布する虚偽の情報のことらしい。略して、デマ。これを行なう者をデマゴーグという。
 日本で歴史上も現在でも最大の、手のこんだデマゴギー流布団体は、日本共産党だ。
 マルクス(・レーニン)主義自体が、古代史家の安本美典が適切に、端的に語るように、<大ホラの体系>だろう。これを「科学的社会主義」と言い換えていること自体、「科学」を愚弄するデマゴギーだと言える。
 日本共産党・不破哲三が前衛2015年3月号で、安倍晋三首相らを「日本版『ネオナチ』そのものだ」と言っている(p.135)。あるいは、「安倍内閣-…日本版『ネオナチ』勢力」という見出しをつけている(p.131)。
 このように断定する論拠は何か。つぎのような論旨の展開がある。
 ①河野談話や細川護煕首相の1993.08の「侵略戦争」発言に危機感をもった自民党内「戦争礼賛」派が同月に党内に「歴史・検討委員会」を作った。当選1回生の安倍晋三も参加した。
 ②上の委員会は1995.08に検討結果を著書・大東亜戦争の総括(展転社)でまとめた。この戦争の呼称自体が戦争を「美化」するもので、同書は、「アジア解放と日本の自存・自衛の戦争、正義の戦争」だったとし、南京事件も慰安婦問題も「すべてでっち上げ」だとした。
 ③かかる「戦争礼賛」論を教育に持ち込むために「礼賛」派を集めてその戦での歴史教科書づくりを始めた。新しい歴史教科書をつくる会発足が1996.02。
 ④上の運動を「応援」する国会議員団〔名称省略〕を1997.02を発足させ、事務局長に安倍晋三がなった。2001.01に「戦争美化」のつくる会教科書が文部省の検定に合格した。
 ⑤このように、安倍晋三は「戦争礼賛」の教科書づくりの「張本人」。要職を経て、「大東亜戦争」肯定論という「異様な潮流の真っただ中で育成され、先輩たちからその使命を叩き込まれて」、2006年に首相になった。
 ⑥政権と自民党を安倍晋三を先頭とする「戦争礼賛」の「異様な潮流」が「乗っ取った」状態にあるのが現在。
 ⑦上の潮流に属する「ウルトラ右翼の団体」のうち、「最も注目」されるのは、「日本会議」と「神道政治連盟」。それぞれ国会議員懇談会をもち、安倍晋三は首相就任後も前者の特別顧問、後者の会長だ。また、第二次安倍内閣の閣僚は全員かほとんどが上のいずれかに属しており、内閣は「ウルトラ右翼」性をもち、「侵略戦争の美化・礼賛一色の内閣」だ。
 ⑧「ネオナチ」とは要するに「ヒトラーの戦争は正しかった」というもの。
 ⑨安倍首相中心の日本の政治潮流は「ヒトラーと腕を組んでやった日本の侵略戦争」を「あの戦争は正しかった」と言っているのであり、「主張と行動そのもの」が「ネオナチ」と「同質・同根」。あの戦争を「礼賛」する「安倍首相率いるこの異質な潮流こそ、日本版『ネオナチ』そのものだ」。
 さて、間にいくつかのことを挿んでいるが(新しい歴史教科書をつくる会を結成させたのは自民党(の一潮流)という書き方だが、事実に即しているのだろうか。それはともかく)、安倍首相らは「ネオナチ」だとするその論旨は、A/安倍らはあの戦争を「美化」・「礼賛」している。B/あの戦争は「ヒトラー〔ナチス〕と腕を組んでやった」ものだ。C/したがって、安倍らは「ネオナチ」だ、という、じつに単純な構造を取っている。
 不破哲三とはもう少しは概念や論理が緻密な人物かと思っていたが、上の論理展開はヒドいだろう。政治的目的をもって、政治的効果を狙って、あえて虚偽のことを述べている、と思われる。
 まず、上のAは適切なのか。物事を、あるいは歴史を、単純に把握してはいけないことは、別の問題については、日本共産党はしきりと強調している。戦争の「美化」・「礼賛」とだけまとめるのは、単純化がヒドすぎる。
 大東亜戦争の総括(展転社)を読む機会を持ってはいないが、安倍首相らの<歴史認識>がこれほどに簡単で単純なものとは到底考えられない。たしかに、日本共産党のような?GHQ史観または東京裁判史観にそのまま立ってはいないだろうが、もう少し複雑にあるいは総合的に、あるいは諸局面・諸要素ごとに判断しているように思われる。
 また、例えば、より具体的には、安倍首相らの「潮流」に属する団体としてとくに「日本会議」が挙げられているが、田久保忠衛は同会の代表役員であるところ、田久保・憲法改正最後のチャンス!(2014、並木書房)を読んでも、-この点は別の機会にも触れるが-田久保があの戦争を全体として「美化」・「礼賛」しているとは到底感じられない。長谷川三千子も同じく代表役員だが、GHQ史観・東京裁判史観に批判的だったとしても、あの戦争を単純に「美化」・「礼賛」しているわけではないだろう。
 さらに、今手元にはないが、初期のいわゆるつくる会の歴史教科書を読んだことのある記憶からしても、まだ十分に<自虐的>だと感じたほどであり、あの戦争の「美化」・「礼賛」一色で叙述されていたとは到底思えない。そのような教科書であれば、そもそも、検定には合格しなかったのではないか。
 いずれにせよ、安倍首相らを批判し、悪罵を投げつけたいがための、事実認識の単純化という誤り(虚偽)があると考えられる。批判しやすいように対象や事実を単純化して把握することによって、じつは、存在しない異なる対象や事実を批判しているにすぎなくなる、というのはデマ宣伝にしばしば見られることだ。
 つぎに、ドイツ(・ナチス)と<腕を組んだ>戦争という、あの戦争の理解は適切なのか。なるほど、日独伊三国同盟というものがあった。しかし、日本とドイツは共同しての戦闘は行っていないし、その同盟の意味は時期によって異なる。ドイツ(・ナチス)と「社会主義」ソ連が「腕を組んだ」時期もあったのだ。また、政府ではないにしても、南京事件に関してドイツ人の中には<反・日本>で行動した者もあったことはさておくとしても、<保守派>の中には、ドイツと同盟したことを批判的に理解する者もいる。「日本会議」や「神道政治連盟」の役員の中にも、そういう論者はいるだろう。
 詳しくは歴史あるいは日独関係の専門家に任せるとして、<ドイツ・ナチスと手を組んだ戦争を「礼賛」しているから「ネオナチ」だ>というのは、子供だましのような幼稚で杜撰な論理だ。安倍首相らを批判し、悪罵を投げつけたいがための、論理展開の単純化という誤り(虚偽)があると考えられる。
 このような論法を日本共産党について採用したらどうなるのだろうか。上の論理よりももっと容易に、「ネオ」大粛清組織、「ネオ」大量殺戮組織、「ネオ」人さらい組織、「ネオ」侵略戦争支持組織、等々と批判することができる。
 「ソ連型社会主義」とか称して、誤りはあるものの(生成途上の)「社会主義」国だと見なしていたはずのソ連を、1991年末にソ連が崩壊した後では平然と<社会主義国ではなかった>と言い繕えることができるように、「ウソ、ウソ、ウソ」を得意とするコミュニスト集団・日本共産党のことだから、別に驚きはしない。言ったところで無駄だろうが、いちおう言っておきたい。党員と熱心なシンパにだけ通用するような、幼稚で単純なデマを撒き散らすな。
 

0590/西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)を読む-つづき。

 一 西尾幹二・国家と謝罪-対日戦争の跫音が聞こえる(徳間書店、2007.07)は「つくる会」問題でのみ八木秀次を批判しているわけではなく、安倍内閣の「教育再生会議」に対応した民間版応援団体?「教育再生機構」の理事長に八木秀次が就いたことについても、政治(家)と民間人(ブレイン)の関係等に注意を促し、「八木氏は知識人や言論人であるには余りに矜持がなさすぎ、独自性がなさすぎ、羞恥心がなさすぎる」(p.150)などと批判したりしている。
 そういえば、福田内閣になり<教育>が大きな政治的争点でなくなった後、この「日本教育再生機構」はいったい何をしているのだろう。
 月刊正論9月号(産経新聞社)によると、「日本教育再生機構」は某シンポの主催団体「教科書改善の会」の「事務局」を担当しているらしい(p.272の八木発言)。「教科書改善の会」という団体の「事務局」が「日本教育再生機構」という団体だというのは、わかりにくい。組織関係はどのように<透明>になっているのだろうか(ついでに、このシンポは、あの竹田恒泰とあの中西輝政・八木秀次が同席して「日本文明のこころとかたち」を仲よく?語っているのでそれだけでも興味深い)。
 二 西尾幹二対八木秀次等という問題よりも本質的で重要なのは、西尾が「あとがき」の副題としている「保守論壇は二つに割れた」ということだろう。
 何を争点・対立軸にして「割れた」かというと、小泉内閣が進めて安倍内閣も継承した<構造改革>の評価にあるようだ。これはむろん、アメリカの世界(経済)戦略をどう評価し、日本の経済政策をどう舵とるべきか、という問題と同じだ。この点で、小泉内閣等に対して厳しく、アメリカに批判的だったのが西尾幹二で、小泉内閣・安倍内閣、とくに後者にくっつき?、そのかぎりで<より親米的>でもあったのが八木秀次等だ、ということになる。
 西尾幹二と八木秀次はどうやら、西尾が小泉純一郎についての『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』を出版した頃から折り合いが悪くなったようだ(上掲書p.82-83)。
 西尾によると八木秀次は「権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人」で、八木は、安倍晋三が後継者として有力になっていた時期での小泉批判を気に食わなかった(戦略的に拙いと思った?)らしく思われる。
 個人的な対立はともあれ、上記の問題に関する議論は重要だ。「保守論壇は二つに割れ」て、<保守>派支持の一般国民が迷い、方向性を失いかけるのも当然だろう。
 八木秀次は<より親米>の筈なのだが、中西輝政との対談本では中西輝政の<反米>論に適当に相槌を打っている。もともと、佐伯啓思が論じてきたような<アメリカニズム>あるいは<グローバリズム>についての問題意識自体が、おそらくはきわめて乏しかった、と思われる(法学者とはそんなものだ)。
 今日の混迷、見通しの悪さも上記の問題について「保守論壇」に一致がないことを一因としている。はたして「保守」とは何か。あるいは<より適切な保守>とは、現実の政策判断(とくに経済・社会政策)について、<アメリカ>とどう向き合うべきなのか? 日本の<自主性・国益(ナショナリズム)>と対米同盟(友好)関係の維持(反中国・反北朝鮮というナショナリズムのためにも必要)はどのように調整されるべきなのか。

0589/西尾幹二の2007年の本による八木秀次批判。ついでに新田均。

 一 憲法学者・樋口陽一はしばしば元ドイツ大統領のワ(ヴァ)イツゼッカーの<有名な>演説に言及している。ドイツはきちんと謝罪している、それに比べて日本は、という文脈で語られることが多い。これもまた<デマ>であることを確認的にいつかメモしておこうと思うが、西尾幹二・国家と謝罪-対日戦争の跫音が聞こえる(徳間書店、2007.07)を手にしたのも、題名からして<謝罪>問題をテーマとする本だろうと思ったからだった。
 実際に見てみると、全く無関係ではないが、発刊日近く(「あとがき」は2007年6月下旬)以前の西尾幹二の雑誌掲載諸論稿をまとめたものだった。
 二 新しい教科書をつくる会の組織問題については西尾のプログで何か読んだ記憶はあったが、安倍晋三内閣をめぐる動きの方に関心が強く、また同問題は自分とほとんど(あるいは全く)関係がないと思っていた。
 現在でもほとんど(あるいは全く)関係がないのだが、西尾幹二による、上掲本の中の八木秀次批判はスゴい。p.73~p.165は「つくる会」問題で八木秀次批判が中心になっている(他の箇所にも八木秀次(ら)批判の文章はある)。
 混乱を大きくする意図はないが(いや、一般論として、かりに意図はあったとしてもこんなブログメモにそんな実際の力はない)、若干の引用メモを残しておこう。
 ・(2005年)11月半ばからの八木秀次の「会長としての職務放棄、指導力不足は意識的なサボタージュで、彼によってすでに会は…分裂していた」。
 ・八木は自分で2副会長(工藤美代子、福田逸)を指名した。この二人と遠藤浩一(つまり5人中、西尾幹二と藤岡信勝以外)に「背中を向け、電話もしな」かった。5人の副会長の中で「孤立した」のではなく、「自らの意志で離れて」別のグループに擦り寄った。だが、何の説明もなかったので3副会長(遠藤、工藤、福田)は「怒って辞表を出した」。
 ・それでも八木は「蛙の面に水」。「都合が悪くなると情報を閉ざし、口を緘するのが彼の常」だ。
 ・「彼は黙っている。語りかける率直さと気魄がない」。
 ・「自分がしっかりしていないことを棚に上げて、誰かを抑圧者にするのはひ弱な人間のものの言い方の常である」。
 ・要するに八木は「思想的にはどっちつかずで、孤立を恐れずに断固自分を主張する強いものがそもそもない人」だ。(以上、p.79-p.80)
 ・八木秀次は某の日本共産党在籍歴というガセ情報を流して「反藤岡多数派工作と産経記者籠絡」に利用した。また、八木の周辺者(又は八木本人)から奇怪なファクスが送られてきた。
 ・八木の「藤岡排除」の「執念には驚くべきものがあった」。(以上、p.81-82、p.84)
 ・「他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。/…言葉を超えて、そこにいるその人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない」。
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す。今度の件で保守言論運動を薄汚くした彼〔八木秀次〕の罪はきわめて大きい」。
 ・そうした八木をかついで「日本教育再生機構」を立ち上げる人々がいるらしいが、「世の人々の度量の宏さには、ただ感嘆措く能わざるものがある」。(以上、p.89-90)
 とりあえず今回はこの程度にしておく。八木秀次はこうした西尾による批判に対して反論又は釈明をきちんとしたのだろうか。こうまで書かれるとはタダゴトではない(と常識的には感じる)。
 西尾幹二をこの問題で全面的に支持するつもりはないし(判断材料が私にはたぶん欠けている)、西尾「思想」の全面的賛同者でもないのだが、西尾による八木秀次評、すなわち、「言葉を超えて、そこにいるその人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない」という文章には同感するところが大きい。
 八木秀次の本も文章もいくつかは読んでいるし、月刊正論中のコラムも読んでいるが、「確かな存在感」はない。また、ハッとするような論理の鋭さも、広くかつ深い思想的造詣も感じることはできない。
 すでに書いたことだが、その八木秀次が中西輝政との対談本『保守はいま何をなすべきか』(PHP、2008)で<保守の戦略>を語ろうとしたり、<保守思想の体系化>をしたい旨を語っているのを読んで、とてもこの人の力量でできることではないと思った(そして、内心では嗤ってしまった)。また、八木秀次の問題性にはこのブログで何回かつづけて触れた(「言挙げしたくはないが-八木秀次とは何者か」というタイトルだったと思う)。
 そのような意味との関係でも、上の西尾幹二の八木秀次に関する文章も興味深く読んだ。
 三 ところで、最近の月刊正論9月号(産経新聞社)誌上の論稿に言及した新田均に対しても、西尾幹二は上掲の本で批判している(p.89)。そして、「つくる会」問題にかかわっても、新田均はどうやら八木秀次を支持する、そして西尾幹二に反対する立場にあったようだ(p.86)。ということは、今回の皇室・皇太子妃問題よりも以前から、西尾幹二と新田均は対立していたようだ。 
 それはそれでもよいのだが、だとすると、新田均は、皇室・皇太子妃問題にかかわって西尾幹二のみを批判するのは公平ではない。大仰に言えば<党派>的だ。何回か言及したように、八木秀次も(中西輝政も)「君臣の分限」をわきまえないような、西尾幹二と類似の主張をしているのだから。

-0056/「底のない泥沼」と秋山社長も嘆く「朝日新聞の惨状」。

 今日のタイトルは週刊新潮10/26号p.32~35の記事と同じだ。
 朝日新聞紙上の週刊新潮の広告にはそのまま掲載されただろうか。これまで何度も、かかる言葉を朝日の広告面にそのまま載せるか否かで両者は「揉め」てきたのだ。
 それはともかく、同記事によれば、朝日新聞社現社長が某会合で同社の広告収入額の急激な減少を嘆き、具体的に90年に1981億円だったが05年は1413億円と500億円以上減少し今年も前年を上回ることはなさそう、と語ったという。広告収入は景況にもよるのだろうが、読者数の変化等の新聞に対する評価にも影響を受けるだろう。少なくとも、この記事は朝日新聞への評価の高まり・読者数の増加を示してはいない。そしてそれは当然だろうと感じる。
 朝日新聞の「偉業」はだいたい知っているつもりだが、次の件は知らなかった。
 1995年3/29の同紙栃木版で都知事立候補の石原信雄への同県幹部の餞別渡しを批判的に報道したが、写真まで掲載した「御餞別栃木県一同」と表に書かれた祝儀袋は同紙宇都宮支局記者自身が用意したものだった、という(3/31に朝日はお詫び記事掲載)。
 さすがに、いろいろな場所、いろいろなレベルで、なかなかやりますねぇ。
 今日買った高山正之・歪曲報道(PHP研究所、2006.10)の帯には「あなたは、まだ彼らを信じられますか? 朝日新聞、NHK、TBS…。」とあり、見事に一番目に名指しされており、当然に本文中で多くの朝日の「偉業」が言及されている。
 読了は未だだが、すでに何かで読んでいたとはいえ、2005年08/13の朝日が「つくる会」教科書採択の杉並区役所に2つの「市民団体」が押しかけて抗議した旨を報道したが、同日付の産経によると朝日のいう「市民団体」とは「過激派の中核派が支援する」某団体と「共産党と友好関係にある」某団体だった(p.110~1)、というのは面白かった。
 かかる団体を朝日は「市民団体」と書き、靖国参拝団体や「つくる会」支援団体は「右翼団体」と書いて区別する、というのはよく知られたこと。
 上の二つの事例は、国際・外交等に直接は無関係だから、まだ「かわいい」。
 最近の北朝鮮核問題に関する朝日新聞の記事は週刊文春10/26号p.127の櫻井よしこによれば「それでも米が悪い」旨書いたりしつつ「迷走」している。
 10/12の天声人語の「人類益の立場」で対処をなんて、口先だけでの抽象的なことなら何とでも言える、の好例だ。今のままでは朝日の退潮傾向は止まらないだろう。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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