映画・ドクトル・ジバゴ(1965)は、日本では翌1966年に公開されている。その年か翌1967年に私も観た。じつに、50年前。
その頃に、舟木一夫・内藤洋子主演のその人は昔(松竹)という映画も観た。
自室以外に本棚らしきものはなく、まして一冊の単行本の新刊書も自宅になく(自分の教科書類以外は)、安い文庫の本をときには中古ですら買い求めていた頃に、よくぞ映画はいくつか観ていたものだ、と思う。
「その人は昔、海の底の真珠だった。
その人は昔、山の谷の白百合だった。
その人は昔、夜空の星の輝きだった。
その人は昔、僕の心のともしびだった。
でもその人は、もう今は、いない。」
舟木一夫・その人は昔(1967年)/歌詞・松山善三(映画監督)。
---
ボリス・パステルナークの小説『ドクトル・ジバゴ』は「レーニン時代」の物語でもあると書いたのだったが、二月革命や「十月」ボルシェヴィキ政変がどのあたりに出てくるのか確かめてみた。
Boris Pasternak, Doktor Shiwago (独語, 2011)だと、最終の「詩篇」を除く本文は、p.9~p.645。「二月革命」についての叙述は第4章の最後のp.163に初めて少しだけある。
ちなみに、工藤正廣訳・ドクトル・ジヴァゴ(未知谷、2013)は、最終の「詩篇」を除いて本文は13頁から681頁で、「二月革命」は172頁に出てくる。
それぞれ8頁と12頁を引いて、独書では、155/638、工藤邦訳書では160/669のところに位置する。これは、おおよそ最初の24%あたりの箇所で、つまりは小説の四分の三は1917年「二月革命」以降のことだ。
つぎに「十月」ボルシェヴィキ政変については、独書ではp.238に、工藤邦訳書では254頁に初めて出てくる。230/638と242/669で、これはおおよそ最初から36%進んだ箇所で、三分の二近くは「十月」以降の物語だ。
但し、最後に飛んで1943年頃の、ユリイとラーラの娘・ターニャが出てくる場面はある。しかし、レーニンの死とか指導者の交替といった話題は何も出てこないので、要するに、この小説=ドクトル・ジバゴは少なくとも6割ほどは間違いなく<レーニンの時代>を背景にしている。
そして、語るのはジバゴだったり、ラーラの夫で共産党幹部になるが嫌疑をかけられて自殺するストレーリニコフ(パーシャ)だったり、あるいは作者自身だったりの違いはあるが、かりにレーニンの名はほとんど出てこなくとも(1箇所だけある)、明らかにロシア「革命」やボルシェヴィキに対する、懐疑・皮肉・揶揄や批判的叙述がある。
戦後のソヴィエト国家が、その権威の正当性が帰着する原点を衝かれているので、この本の発刊を国内では許さなかったこともあらためてよく分かる(なお、むろんロシア語で書かれたが、出版はイタリア語版が最初だったようだ)。
以下は、部分的な、試訳だ。
主要登場人物は首都にもモスクワにもいないときの、「二月革命」-「『大変重大な事件が発生。ペテルブルクで街頭騒擾だ。ペテルブルクの守備隊兵団が蜂起者の側に移った。革命だ』。」
独書p.163、工藤邦訳書172頁、江川・新潮文庫/上224頁。
つぎに「十月」、主要登場人物は首都にではなくモスクワにいて、モスクワに関する叙述がまずある。
独書p.237、工藤邦訳書p.250、江川新潮文庫/上334頁が、それぞれ最初。
モスクワでの騒乱-「まさにそのとき、通風口から入ってくる風と同じように急いで、ニコライ叔父が部屋に飛び込んできて、ニュースを伝えた。
『市街戦が始まった。臨時政府を支持している士官学校生とボルシェヴィキの側にいる守備隊兵士たちの間に軍事的衝突が起こっている。/戦闘は一進一退で、蜂起の群衆は数えられないほどだ。』」
「事態はその間にもさらに進展していた。新しい細かいこともあった。ゴルドンは、激しくなっている銃撃戦や、逸れた弾に当たって死んだ通行人について話した。市の交通は途絶えた」。
「事態の帰趨は、もう明らかだった。労働者たちが優勢だという風聞が至るところから伝わってきた。士官学校生の小隊がばらばらになってまだ戦っていたが、お互いに孤立し、指導部との連絡がつかなかった。」
数日後、首都について-「ある十字路で、『最新ニュース』と叫びながら、新しく印刷された束を腕に抱えて、新聞売りの少年が彼〔ジバゴ〕の傍らを通りすぎた」。
「片面だけが印刷された号外版の内容は、人民委員のソヴェトが形成されたこと、ロシアにソヴェト権力が設立されたこと、プロレタリアート独裁が導入されたこと、に関する政府のペテルブルクからの発表を伝えることだった。そのあとに新政府の最初の諸布令(Dekrete)と電報や電話で送られてきた種々の情報がつづいていた。」
この「十月」政変についてのジバゴらの特段の感慨は、すぐには叙述されていない。
機会があれば、明確な懐疑・批判類を訳出してみたいが、パステルナークは、少しだけあとの新しい節の冒頭部分(第6章・篇「モスクワの露営」第9節)で、その後の雰囲気をこう叙述する。独書p.245~。
「予言したとおりに、冬がやってきた。この冬はそれに続いた二つの冬ほどにはまだ悲惨ではなかったけれども、だがすでに似たようなもので、陰鬱さ、飢え、寒さ、そして全ての日常的なものの激変を、特徴としていた。存在の全ての基礎の新たな形成や、滑り去る生活に取りすがろうとする完全に非人間的な努力をだ。//
三回の恐ろしい冬が、つぎつぎに連続した。今17年から18年の冬に起きたと記憶していることの全ても、本当はこの当時ではなく、ことによると、もっと後に起きたのだったかもしれない。この三つの冬は、一つに重なっていて、一つ一つを区別するのはむつかしい。//
旧い生活と新しい秩序は、まだ一致していなかった。両者の間には、一年後の国内戦争(内戦)の間のようなあからさまな敵対関係はなかったけれども、決して結びついてはいなかった。両者は、対峙し合っている、決して合意しない、相互に離れた党派だった。//
至るところで、指導部の新しい選挙が行なわれた。住宅組合、諸団体、職場、公共供給事業体のどこででも。/
構成は変わった。全ての部署に、無制限の権能をもつ政治委員(Kommissare)が任命された。黒皮のジャケットを着て、威嚇措置とナガン銃で武装した、鉄のごとき意思をもつ者たち、めったに鬚を剃らず、もっとたまにしか眠らない者たちだった。//
この者たちは、綱領(基本方針)が命令する全てのことを手中に握って、企業や団体は、別のボルシェヴィキ的なものへと変えられた。」
---
「やっとまた、同じところにいる、ユーロチュカ。神さまは、私たちが再び会うというご褒美を下さった。でも、何と恐ろしい再会なの!
さようなら、私の偉大な人、私の愛した人。さようなら、私の誇り。さようなら、私の深くて激しい河。
まだ憶えてる ? どんなふうに私はあの雪の中で、あなたと別れたのか ?」
---
これは、ジバゴの遺体にとりすがって語りかけるラーラ。ドイツ語版、p.625。途中省略がある。
その頃に、舟木一夫・内藤洋子主演のその人は昔(松竹)という映画も観た。
自室以外に本棚らしきものはなく、まして一冊の単行本の新刊書も自宅になく(自分の教科書類以外は)、安い文庫の本をときには中古ですら買い求めていた頃に、よくぞ映画はいくつか観ていたものだ、と思う。
「その人は昔、海の底の真珠だった。
その人は昔、山の谷の白百合だった。
その人は昔、夜空の星の輝きだった。
その人は昔、僕の心のともしびだった。
でもその人は、もう今は、いない。」
舟木一夫・その人は昔(1967年)/歌詞・松山善三(映画監督)。
---
ボリス・パステルナークの小説『ドクトル・ジバゴ』は「レーニン時代」の物語でもあると書いたのだったが、二月革命や「十月」ボルシェヴィキ政変がどのあたりに出てくるのか確かめてみた。
Boris Pasternak, Doktor Shiwago (独語, 2011)だと、最終の「詩篇」を除く本文は、p.9~p.645。「二月革命」についての叙述は第4章の最後のp.163に初めて少しだけある。
ちなみに、工藤正廣訳・ドクトル・ジヴァゴ(未知谷、2013)は、最終の「詩篇」を除いて本文は13頁から681頁で、「二月革命」は172頁に出てくる。
それぞれ8頁と12頁を引いて、独書では、155/638、工藤邦訳書では160/669のところに位置する。これは、おおよそ最初の24%あたりの箇所で、つまりは小説の四分の三は1917年「二月革命」以降のことだ。
つぎに「十月」ボルシェヴィキ政変については、独書ではp.238に、工藤邦訳書では254頁に初めて出てくる。230/638と242/669で、これはおおよそ最初から36%進んだ箇所で、三分の二近くは「十月」以降の物語だ。
但し、最後に飛んで1943年頃の、ユリイとラーラの娘・ターニャが出てくる場面はある。しかし、レーニンの死とか指導者の交替といった話題は何も出てこないので、要するに、この小説=ドクトル・ジバゴは少なくとも6割ほどは間違いなく<レーニンの時代>を背景にしている。
そして、語るのはジバゴだったり、ラーラの夫で共産党幹部になるが嫌疑をかけられて自殺するストレーリニコフ(パーシャ)だったり、あるいは作者自身だったりの違いはあるが、かりにレーニンの名はほとんど出てこなくとも(1箇所だけある)、明らかにロシア「革命」やボルシェヴィキに対する、懐疑・皮肉・揶揄や批判的叙述がある。
戦後のソヴィエト国家が、その権威の正当性が帰着する原点を衝かれているので、この本の発刊を国内では許さなかったこともあらためてよく分かる(なお、むろんロシア語で書かれたが、出版はイタリア語版が最初だったようだ)。
以下は、部分的な、試訳だ。
主要登場人物は首都にもモスクワにもいないときの、「二月革命」-「『大変重大な事件が発生。ペテルブルクで街頭騒擾だ。ペテルブルクの守備隊兵団が蜂起者の側に移った。革命だ』。」
独書p.163、工藤邦訳書172頁、江川・新潮文庫/上224頁。
つぎに「十月」、主要登場人物は首都にではなくモスクワにいて、モスクワに関する叙述がまずある。
独書p.237、工藤邦訳書p.250、江川新潮文庫/上334頁が、それぞれ最初。
モスクワでの騒乱-「まさにそのとき、通風口から入ってくる風と同じように急いで、ニコライ叔父が部屋に飛び込んできて、ニュースを伝えた。
『市街戦が始まった。臨時政府を支持している士官学校生とボルシェヴィキの側にいる守備隊兵士たちの間に軍事的衝突が起こっている。/戦闘は一進一退で、蜂起の群衆は数えられないほどだ。』」
「事態はその間にもさらに進展していた。新しい細かいこともあった。ゴルドンは、激しくなっている銃撃戦や、逸れた弾に当たって死んだ通行人について話した。市の交通は途絶えた」。
「事態の帰趨は、もう明らかだった。労働者たちが優勢だという風聞が至るところから伝わってきた。士官学校生の小隊がばらばらになってまだ戦っていたが、お互いに孤立し、指導部との連絡がつかなかった。」
数日後、首都について-「ある十字路で、『最新ニュース』と叫びながら、新しく印刷された束を腕に抱えて、新聞売りの少年が彼〔ジバゴ〕の傍らを通りすぎた」。
「片面だけが印刷された号外版の内容は、人民委員のソヴェトが形成されたこと、ロシアにソヴェト権力が設立されたこと、プロレタリアート独裁が導入されたこと、に関する政府のペテルブルクからの発表を伝えることだった。そのあとに新政府の最初の諸布令(Dekrete)と電報や電話で送られてきた種々の情報がつづいていた。」
この「十月」政変についてのジバゴらの特段の感慨は、すぐには叙述されていない。
機会があれば、明確な懐疑・批判類を訳出してみたいが、パステルナークは、少しだけあとの新しい節の冒頭部分(第6章・篇「モスクワの露営」第9節)で、その後の雰囲気をこう叙述する。独書p.245~。
「予言したとおりに、冬がやってきた。この冬はそれに続いた二つの冬ほどにはまだ悲惨ではなかったけれども、だがすでに似たようなもので、陰鬱さ、飢え、寒さ、そして全ての日常的なものの激変を、特徴としていた。存在の全ての基礎の新たな形成や、滑り去る生活に取りすがろうとする完全に非人間的な努力をだ。//
三回の恐ろしい冬が、つぎつぎに連続した。今17年から18年の冬に起きたと記憶していることの全ても、本当はこの当時ではなく、ことによると、もっと後に起きたのだったかもしれない。この三つの冬は、一つに重なっていて、一つ一つを区別するのはむつかしい。//
旧い生活と新しい秩序は、まだ一致していなかった。両者の間には、一年後の国内戦争(内戦)の間のようなあからさまな敵対関係はなかったけれども、決して結びついてはいなかった。両者は、対峙し合っている、決して合意しない、相互に離れた党派だった。//
至るところで、指導部の新しい選挙が行なわれた。住宅組合、諸団体、職場、公共供給事業体のどこででも。/
構成は変わった。全ての部署に、無制限の権能をもつ政治委員(Kommissare)が任命された。黒皮のジャケットを着て、威嚇措置とナガン銃で武装した、鉄のごとき意思をもつ者たち、めったに鬚を剃らず、もっとたまにしか眠らない者たちだった。//
この者たちは、綱領(基本方針)が命令する全てのことを手中に握って、企業や団体は、別のボルシェヴィキ的なものへと変えられた。」
---
「やっとまた、同じところにいる、ユーロチュカ。神さまは、私たちが再び会うというご褒美を下さった。でも、何と恐ろしい再会なの!
さようなら、私の偉大な人、私の愛した人。さようなら、私の誇り。さようなら、私の深くて激しい河。
まだ憶えてる ? どんなふうに私はあの雪の中で、あなたと別れたのか ?」
---
これは、ジバゴの遺体にとりすがって語りかけるラーラ。ドイツ語版、p.625。途中省略がある。