秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

あなたは自由か

2506/西尾幹二批判058—「自由」論②。

 (つづき)
  「自由」というものは、それ自体は「善」でも「正」でも「美」でもない、つまり<良いもの>という価値判断を伴ってはいないものだ、と秋月は理解している。
 さしあたり、全面的に支持しているわけでは全くないが、前回に触れたL・コワコフスキの「自由」論を参照すると、そこでは一定の<選択可能性>や一定の<力(能力)>が、「自由」概念のもとで意味されている。
 彼における「自由」の問題領域の一つは、「自由な意思」形成の範囲・能力の問題は別として、<人間>として(厳密にはおそらく「神経系」または「精神」の完全な障害者や乳幼児を含む「未成年者」を別として)元来はもつ、または原理的にもち得る「人間としての自由」だ。この範囲では「良い・悪い」等の価値判断は付着していないと思われる。
 もう一つは「社会の一構成員としての人の自由」を対象とする「社会的な行動の自由(freedom)」だ。ここでは、どのような「社会」の構成員であるかによって「自由」の範囲・内容・強度等は異なってくるが、原理的に「社会の一構成員としての人の自由」と言う場合、それ自体に「良い・悪い」等の価値判断は付着していないと見られる。
 しかるに、西尾幹二の場合はどうか
 西尾幹二の「自由」論の特徴は、第二に、「自由」の観念にすでに一定の、つまり<良いもの>という価値判断を付着させていることがある、ということだ。
 これは、西尾における「自由」の意味の不明瞭さの現れでもあり、同じ一つの書物の中ですら、「自由」の意味がブレていることをも示している。
 すなわち、西尾・あなたは自由か(ちくま新書、2018)の中のつぎの文章に出てくる「自由」は、いったい何を意味しているのだろうか。だが、少なくとも、何か<良いもの>・<素晴らしいもの>を意味させていることは明らかだろう。
 ①「幼くして親元を離れて上野駅に集まった『金の卵』の労働者たち」は、「一人前の大人」・「社会人」となるよう徹底的に叩き込まれた。「生きて、働いて、成功しなければならなかった」。
 「彼らこそほかでもない、最も自由な人たちでした。」—p.81。
 ②「藤田幽谷は天皇を背にして幕府と戦いました。
 あの時代にして最大級の『自由』の発現でした。」
 「私たちもまた天皇を背にして、…グローバリズムに、怯むことなく立ち向かうことが『自由』の発現であるように生きることをためらう理由があるでしょうか。」—p.205。
 これらの「自由」の意味は何か、「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まる」等々の同じ書物の中の<思弁的な>叙述とどういう関係にあるのか、西尾に問うてみたいものだ。
 もっとも、その箇所ごとで懸命に書いた表現・レトリックなのだから意味不明等があって当然だ、「矛盾」・「辻褄」を問題にされること自体が本意に反する、という反駁?を受けるかもしれない。
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 岩田温は西尾・あなたは自由か(2018)で「最も感銘を受けた」のは藤田幽谷に関する逸話であり、上の②の前半の叙述は「日本人であることを強烈に意識し、自らの宿命に生きた幽谷こそが最も自由だったのではないか」という指摘だ、という印象をとくに語っている。
 西尾=岩田温(対談)・月刊WiLL2019年4月号、対談再末尾のp.235。
 岩田温も西尾と同様の「感受性」をもつようだ。
 だが、藤田幽谷に関して、突如として「あの時代にして、最大級の『自由』の発現」だったという表現が出てきたので驚き、新鮮に感じた、というだけのことではないだろうか。
 岩田は、ここでの「自由」の意味を説明できるだろうか? まんまと西尾幹二のレトリックあるいはトリックに引っ掛かっただけのようにも思える。
 もちろん、藤田幽谷が「最大級の自由の発現」者だったかは、その意味も含めて問題になり得る。一部の「勤皇」志士たちを通じて明治維新に一定の影響を与えたとかりにしても、その後の明治の日本は彼の思いとは相当に異なる方向に進んだと考えられる。
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   西尾幹二・あなたは自由か(2018)の第一章に叙述されているFreedom とLiberty の区別に関する論述は、A. Smith の「自由」はLiberty だという認識も含めて間違っている、ということは、すでに何度も触れた。
 したがって、エピクテトスの「自由」は「アダム・スミスのような経済学者がまったく予想もしていない自由」だといった得意げな叙述も(p.43-)、まったく予想できないほどに奇妙だ。
 じつは秋月は、上の書の後半は全く読んでいない。途中で読むのが馬鹿々々しくなったからだ。
 だが、同書「あとがき」によると、出版・編集担当者の湯原法史(当時、筑摩書房)は、原稿一読後にこんな私信を西尾に寄せたらしい(以下は記載されているものの一部)。
 「思いもしない章別構成であるうえに、論旨の展開が寄せては返す波のようで、そこに目を奪われるような解釈と発見が相次いで現われ、…」。
 自ら執筆・出版を依頼した編集担当者だけに、気苦労は大変だったのだろう。自らが責任を持った書物の出版は、会社内ではもちろん「業績」の一つになる。
 ともあれ、「論旨の展開が寄せては返す波のようで」とは、論旨の一貫性のなさ、「自由」という観念が不明瞭なままだらだらと続いていること、を示していると「解釈」することもできる。
 出版社・新聞社の編集者たちはどのような「素養」・「教養」・「(潜在)意識」を持っているのかは、近年の関心の対象の一つだ。
 湯原法史、1951年?生、1974年3月、早稲田大学第一文学部卒業
 ついでながら、つぎの二人も、同じ大学、同じ学部(早稲田大学第一文学部)の出身者のようだ。適菜については少なくとも「早稲田大学」で「西洋文学」を学んだことは確からしい。
 桑原聡(1957年〜、元月刊正論編集代表)、適菜収(1975年〜、かつての月刊正論に「哲学者」だけの肩書きで執筆。藤井聡(京都大学)との対談書あり)。
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  西尾幹二・自由の悲劇(講談社現代新書、1990)での「自由」概念も、一貫して不明瞭だ。
 この書物では、時期・時代の影響があったのは間違いなく、「自由主義(・資本主義)」対「社会主義・共産主義」という構図の中で(曖昧に)「自由」が把握されている。
 そして、近年まで一貫しているわけでは全くないことも興味深いが、つぎのような認識・把握・主張がなされているようだ。この当時の他の書物の一部でのそれらも加える。
 ①社会主義に欠けた「古典的自由」とそれが充たされたうえでのいわば新しい「自由」。
 ②「自由主義(・資本主義)」諸国での「充たされた自由」(または「自由」を獲得した旧社会主義諸国)に潜む「自由」の「悲劇」という深淵(西尾のかつてのお得意のテーゼ・命題?、決まりフレーズだ)。
 ③(スターリンやヒトラーによる)「前期全体主義」ではない言わば新型・後期の「全体主義」が、新しい「自由」から出現する、という予感。
 上の①は別として、それ以外は、<思いつき>、<ひらめき>あるいは<レトリック的妄想>の類で、意味内容やその論拠・徴候が詳細に論述されているわけではない。
 また、どうやら近年では、上のようなことを書かなくなったようだ。
 だが、「自由」に関係して興味深くはあるので、別の機会に言及するかもしれない。
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2505/西尾幹二批判057—「自由」論①。

  「自由」は、西尾幹二にとっての「生涯」の主題のようだ。
 同・あなたは自由か(ちくま新書、2018)で、こう書いている。p.205。
 「完全な自由などというものは空虚で危険な概念です。素っ裸の自由はあり得ない。私は生涯かけてそう言いつづけてきました。」
 また、『自由の悲劇』と題する新書(講談社現代新書、1990)もあり、それを収めた同じ表題の巻が全集の中にある。
 しかし、西尾の<自由論>の最大の特徴は、第一に、上に引用の文も含めて、そもそも「自由」の意味・意義が明瞭ではなく、法学・政治学・経済学等の社会系はもちろん「哲学」系でもなく、ほとんど「文学」的にまたは「文芸評論」的にこの語・概念が把握されていて、おそらくその結果だろう、暫定的、仮定的にすら何の「定義」も示されていないことだ。
 他の多くの言葉と同様に、西尾にとっては、極論すれば、言葉やその集合の文章は「味合う」もの、「感動を与える(べき)」ものであって、厳密に分析したり、正確な意味内容を追求すべきものではないのだ。ここにすでに、少なくとも秋月が不思議さ、大きな違和感を覚える点がある。
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 西尾もまた叙述しながら自分で戸惑うことがあるようで、例えば、同・あなたは自由か(2018)第二章3「自由は量の概念ではなく、量と質の問題でもない」では、こんなことを呟いている。p.115〜p.117。
 「自由」概念をあれこれ語ったが、「その概念にふさわしいものの言い方」をしてきたか、「疑問もあります」。自由の「過剰」を語ったりその「収縮」を語ったりしたが、「自由」は「量的概念として扱われるには決してふさわしい概念ではありません」。「さりとて質的概念」だとして「正反対の概念を持ち出しても」、自由の「説明には役に立ちそうもない」。「質の上下の問題は、結局のところ量的な価値判断に再び還元されてしまうのです」。「こうした場合、本当に自分の自由が増大したのかどうかは誰にも分からないのが常です」。
 人間には「『自由』は存在しない、という明白な認識にあえて踏み込むべきだ」と言っていいいかもしれないが、この当否は「今しばらく不問にしておきたい」
 「不自由」が宿命であるのは「自明の理」だが「生への情念」を抱える以上、その「不自由」を「必然であり、かつ運命であると…説教師ふうに断案することに私はためらいがあります」。
 「さりとて、『自由』は可能であり、どういう瞬間にどういう形態で人間は真の『自由』に襲われるものであるかを、具体的に明らかにすることは私には不可能でもあります」。「考えれば、私は何も分かっていないのです」。
 ここで区切る。以上は新書の二頁ぶんの抜粋引用。こんな文章を読まされる読者は気の毒だし、書き写すのもアホらしいのだが。
 そうなっている根源は、西尾幹二における「自由」という観念が全く明晰ではなく、いわば<情緒>的言葉として使われているにすぎないことにあるだろう。
 同じ表題での最後のまとめ的な部分には。つぎの文章がある。p.118。
 「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まることだけは確かだ、と私は先に申しました。
 おそらく、想像するに、『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう。
 はて、西尾が「想像」するという「自由」は「…何ものか」を、読者は理解することができるだろうか。
 あえて言って、文章書きとして<悲惨>だ。むろん「思想家」ではない。
 読んだときの感想として、手元にある現書のp.115-p.119の余白部分には、違う二箇所にいずれも、「笑」・「わけがわからない」という、たぶん数年前の私の手書き文字が記入されている。
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  この欄に昨年、L・コワコフスキのつぎの著作の一部の試訳を掲載した。邦訳書はない。 
 Leszek Kolakowski, Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 =レシェク.コワコフスキ・自由,名声, 嘘つき,背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 その中に「自由について」(On Freedom)と題する章があった(第13章。第18章まである)。
 小ぶりの書物で、一頁あたり(横書き)26行で、この章はわずか9頁余りあるにすぎない(2回に分けての掲載で済んでいる)。→No.2374〜5/2021.05.25〜05.26.
 大きな期待もせず、所持しているL. Kolakowski の書物だからというだけで試訳してみたのだったが、「自由について」の部分だけで、上の西尾幹二・あなたは自由か(2018年)よりもはるかに分かりやすい。また、再言及はしないが、内容的にも教示的で刺激的だ。
 その根本的理由は、概念や論述対象の明瞭さだ。
 冒頭の、決して長くはない計二段落の文章を、さらに抜粋的に要約してみる。
 ①自由の問題に関する思想領域には、つぎの大きな二つがある。
 第一、太古からある、人間(human being)としての自由(freedom)という問題。「人はその人間性(humanity)だけの理由で自由(free)なのか、換言すると、自由な意思と選択の自由をもつから自由なのか、という問題」。
 第二、「社会の一構成員としての人の自由」を対象とする「社会的な行動の自由(freedom)」の問題。この場合の「自由」は、「Liberty」と称することもある
 ②意味について言うと、第一に、「人間性の本性からして自由だ」と言うことがとくに意味するのは、「人は選択することができる、その選択は、人の良心の及ばない力(forces)に全体として依存しているのではなく、かつまたそれによって不可避的に生じたのでもない、ということ」だ。
 第二に、「しかし、自由とは、現存のいくつかの可能性の中から選択する力(capacity)」だけを意味しはしない。「自由とは、全く新しい、全く予見できない状況を作り出す力でもある」。
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 西尾幹二が、あくまで例えばだが、「『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう」、などと叙述しているのと比べて、何と明晰な概念の意味の明確化(と問題・対象の設定)だろう。
 これを前提として、残りの9頁足らずが「エッセイ(小論)」として論述されているので、外国語ながら、日本語での西尾の長々しい文章よりも理解しやすい。
 若いときに<思想史>の講義を担当していた「思想家」または「哲学者」か、ニーチェのドイツ語文の日本語翻訳とドイツ文学的研究から出発した、たんなる「もの書き」または「文筆業者」か、の違いだ、と言ってよいだろう。 
 ——
 (つづく)

2308/西尾幹二批判020ー「哲学・思想」。

  1999年(『国民の歴史』出版)の10年以上前に、つぎの<講座もの>が出版されていた。 
 新・岩波講座/哲学〔全16巻〕〔岩波書店、1985-1986)。
 各巻の表題はつつぎのとおり。「」を付けず、改行もしない。
 1/いま哲学とは、2/経験・言語・認識、3/記号・論理・メタファー、4/世界と意味、5/自然とコスモス、6/物質・生命・人間、7/トポス・空間・時間、8/技術・魔術・科学、9/身体・感覚・精神、10/行為・他我・自由、11/社会と歴史、12/文化のダイナミックス、13/超越と創造。14/哲学の原理と発展ー哲学の歴史1、15/哲学の展開ー哲学の歴史2、16/哲学的諸問題の現在ー哲学の歴史3。
 当然のことだろうが、「自由」を扱う巻はあり、論考もある。
 この時期はまだソ連・東欧社会主義諸国が存在し、「マルクス主義」哲学者も(日本では)多かったと見られる。
 これらの点は別として、この講座の編集委員(11名。中村雄二郎、加藤尚武、木田元、村上陽一郎ら)による<まえがき>を一瞥すると、つぎのことが興味深い。
 一つは、「哲学の終焉」の危機感などは全く感じさせない、つぎのような叙述をしている。「学問分野としての哲学は、…、研究者の層が厚い。また、前回…が出版された後、研究動向の多彩な展開がみられると共に若いすぐれた担い手たちも育っている」。
 二つに、つぎのような叙述が冒頭にあることが注目されてよいだろう。一文ごとに改行する。
 「…今日、私たち人類はこれまで経験したことのない状況に直面している。
 エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達が人間の生存条件を一片させつつある
 と同時に、文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている。」
 ここで興味深いのは、30年以上前すでに、「文化人類学、精神医学、動物行動学」の成果を参照しなければならないことが(たぶん)意識されていた、ということだ。
 この講座(全集)の第6巻の表題は上記のように、<物質・生命・人間>、第9巻のそれは<身体・感覚・精神>だった。
  西尾幹二が、「哲学」や「思想」にかかわるものとして、「物質・生命・人間」や「身体・感覚・精神」という主題を1999年に意識していたか、その後に何らかの関心を持ってきたかは、相当に疑わしい。
 また、西尾が、「哲学」や「思想」に、「エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達」が関係してくるだろうことを、あるいは「文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている」ということを、どの程度意識してきたかも、相当に疑わしい。このような問題意識は、1999年時点では、ゼロだったのではないか。
 というのは、例えば2018年の西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書)p.36-p.37でも、こんな間違いおよび幼稚なことを書いているからだ。忠実な引用はしない。何回かこの欄で触れてきたからだ。
 ①教育・居住条件の整備(Libertyに対応)と②教育の内容・生活の質(Freedomに対応)は異なる。後者の②は「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」だ。その扱えない問題というのは、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の自由という問題」だ。
 この部分の文章は、<知の巨人>、<思想家>であるらしい、そして1999年著(のとくに前半)は「グローバルな文明史的視野を備えていて」、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」と自賛している西尾幹二の、記念碑的な、後世へも(かりにこの人への関心が続くならば)伝えられるべき貴重なものだろう。
 ここにおける「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の自由」という表現の奥底にるのは、弱者・愚者を含む「各自」ではない、強者・賢者である「自分(西尾幹二本人)の、ひとつひとつの瞬間の心の自由」を尊重し、高く評価せよ、という強い主張ではないか、と想像している。
 この点はともかく、上の哲学講座の構成やその編集委員の「まえがき」からしても、「ひとつひとつの瞬間の心の自由」が「精神医学、動物行動学」あるいは「分子生物学」と無関係ではないことがとっくに示唆されている。
 現在の脳科学は、「意思の自由」・「自由な意思」の存否またはあるとすればどこ・どの点に、を議論している。
 この欄で言及したように、臨床脳外科医・脳科学者の浅野孝雄も、人間の「こころ」に迫っていて、当然に「自由」性を視野に入れている。
 西尾は、「自由」に関する「哲学」はもちろん、彼には当たり前だが<理系>とされる学問分野における「ひとつひとつの瞬間の心の自由」の研究を全く知らず、関心すらないのだ、と思われる。
  西尾幹二が、「哲学」・「思想」に自分は関係していて、「自由」を論じる資格があるなどと考えること自体が奇妙で、不思議なのではないか。
 同旨を、たぶんもう一回書く。

2149/西尾幹二・あなたは自由か(2018)⑥。

 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 西尾幹二に、<あなたは自由か>と問う資格があるのだろうか。
 西尾には、<あなたの「自由」とはどういう意味か>、と問う必要がある。気の毒だ。
 ①p.81-「幼くして親元を離れて上野駅に集まった『金の卵』の労働者たち」は、「一人前の大人」・「社会人」となるよう徹底的に叩き込まれた。「生きて、働いて、成功しなければならなかったのです。/彼らこそほかでもない、最も自由な人たちでした。」
 ②p.205-「完全な自由などというものは空虚で危険な概念です。素っ裸の自由はあり得ない。私は生涯かけてそう言いつづけてきました。」
 ③同上-「藤田幽谷は天皇を背にして幕府と戦いました。あの時代にして最大級の『自由』の発現でした。」
 ④同上すぐ後-「私たちもまた天皇を背にして、<中略>…グローバリズムに、怯むことなく立ち向かうことが『自由』の発現であるように生きることをためらう理由があるでしょうか。」
 ***

2090/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書,2018)③。

 このテーマでの前回②で憲法概説書として「あくまで一例」を示したつもりだが、岩波書店刊行のものであることを気にする人がいるかもしれないので、(日本国憲法に即しての)憲法学における「自由」の分類・体系化の試みの例を、もう一つ示しておこう。
 佐藤幸治・日本国憲法論(成文堂、2011)。佐藤は英米系の憲法論に詳しいはずだが、消極・積極・能動といった分類はドイツの学者のそれを思い起こさせる。一種の「美学」・「アート」だから、「自由」の分類・体系化に絶対的なものはない。
 目次構成から見ると、つぎのとおりだ。一部につき省略や簡略化をする。
 第二編・国民の基本的人権の保障。
  第1章・基本的人権総論。
  第2章・包括的基本的人権。
   第1節/生命、自由および幸福追求権。
   第2節/法の下の平等。
  第3章・消極的権利。
   第1節/精神活動の自由。p.216~。
    1/思想・良心の自由。
    2/信教の自由。
    3/学問の自由。
    4/表現の自由。
    5/集会・結社の自由。
    6/結社・移転の自由。
    7/外国移住・国籍離脱の自由。
   第2節/経済活動の自由。p.299~。
    1/職業選択の自由
    2/財産権
   第3節/私的生活の不可侵。p.320~。
    1/通信の秘密
    2/住居などの不可侵
   第4節/人身の自由および刑事裁判手続上の保障
    1/奴隷的拘束・苦役からの自由
    2~6/<略>。
  第4章・積極的権利。〔生存権、等々〕
  第5章・能動的権利。〔参政権、等〕
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この書が、「自由」として「個人の属性」・「個人的精神」にかかわる<精神的自由>に限ろうとしているようであることを、特段批判するつもりはない。<精神的自由>・<精神活動の自由>といっても、上記も示すように、決して同一内容ではないのではあるが。
 従って、猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中公文庫、2015/叢書2001)のような経済学者による、<自由>を冠する書物を無視していても、問題視できないだろう。
 但し、「自由」論は、Liberty 系列かもしれないが、「リベラリズム」とか「リバタリアニズム」に関係しており、例えば以下の<新書>・<文庫>を秋月の広大な?書庫から見つけ出すことができる。
 森村進・自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門(講談社現代新書、2001)。
 仲正昌樹・「不自由」論-何でも「自己決定」の限界(ちくま新書、2003)。
 井上達夫・自由の秩序-リベラリズムの法哲学講義(岩波現代文庫、2017/双書2008)。
 こうした現代的?議論に西尾幹二は関心がないのかもしれない。それに、上の三つは、法学部出身者か、法学部に在職している人たちの書物だ。このことも、とくに疑問視することはしない、
 もちろん、以下の書物にも関心はないのだろう。
 ジョン・グレイ/松野弘監訳・自由主義の二つの顔-価値多元主義と共生の政治哲学(ミネルヴァ書房、2006)。
 =John Gray, Two Faces of Liberalism (2000).
 そして、巻末の計14頁に及ぶ「主な参考文献」から見ると、<歴史>、<思想・哲学>分野の文献が多い。
 但し、疑問をもつのは、<思想・哲学>での「自由」を表題の一部とする著名かもしれないものを欠落させている、ということだ。邦訳書があって所持しているものに限る。
 H・ベルクソン=中村文郎訳・時間と自由(岩波文庫、2001)。
 このベルクソンの書は、自由意思の存否を検討する中で茂木健一郎も触れていた。
 また、L・コワコフスキの大著は、このフランスの哲学者は、スターリン体制の中で「ブルジョアア」哲学者で「観念論」の代表者として扱われた、とかなり長く言及していた。
 また、L・コワコフスキがフランクフルト学派に関する叙述の中で言及していた中には、つぎの書もあった。
 エーリヒ・フロム=日高六郎訳・自由からの逃走(東京創元社、1952)。
 西尾は第2章の中で「自由が豊富に与えられることは自由をもたらしません。人間は大きな自由に耐えられない存在なのです」と書く(p.76)。L・コワコフスキは1978年(英訳)の書でこのE・フロムの著にも言及し、彼の考え方をこう簡単に叙述している。
 「我々は自由を欲するが、自由を恐れもする。なぜならば、自由とは、責任と安全不在を意味しているからだ。従って、人間は権威や閉ざされたシステムに従順になって、自由の重みから逃亡する。これは、生まれつきの性癖だ。破壊的なもので、孤立から自己諦念への、偽りの逃亡だけれども。」-本欄№2027/2019年8月16日参照。
 タイトルに用いているかだけが重要なのではないとしても、上のベルクソンとE・フロムのニ著は、「自由」に(も)関係するほとんど必須の哲学文献ではないのだろうか。   
 リベラリズムやリバタリアニズムを扱うべきだったとは思わないが、<時間と自由>、<自由からの逃亡>くらいは参照しいほしかったものだ。これは、「ないものねだり」だとは思われない。
 ともあれ、西尾幹二が挙げる「主な参考文献」が本当にきちんと吸収され、この書に利用されているのかを疑うとともに、よくは分からないが、重要な文献が参照されていないのではないかと思える。
 西尾は第1章関係文献として、H・アレント〔アーレント〕の全体主義論・全三巻の邦訳書を挙げている。西尾のこの書に関してまだ第1章にとどまって、ハンナ・アレントにも次回では言及する。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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