秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

地方制度

1098/月刊WiLLの藤井聡論考による誤解・謬論の蔓延?

 〇忘れかけていたが、「投稿」欄を見て思い出したので、再び触れる。
 月刊WiLL4月号(ワック)掲載の藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」について<アホ丸出し>と批判して、具体的指摘もした。表現はいささか下品ではあるが、評価に変わるところはない。
 月刊WiLL5月号(同)を見ると、「藤井氏提言に感銘」と題された一読者の投稿文が掲載されている。それによると、投稿者は藤井の「姿勢に心強いものを感じ」ているそうで、とくに次の文を引用して「国家的見地からの国民の利益、幸福を願う思いを強く感じた」と書いている(p.322)。
 「中央集権は悪でも何でもないし。地方分権が善でも何でもない。国家・国民のためには中央集権あっての発展・成長が多々あり、双方のバランスが大切である」(じつは原文と同一ではないが、ほぼ同じ文章が刊WiLL4月号p.202)にある。
 感銘を受けるのはけっこうなことだが、しかし、「双方のバランスが大切」、原文では中央集権と地方分権の「不適切なバランスが悪」で「両者の間の良質なバランスが善」だ、と藤井が言っていることは、誰でも言える、当たり前のことにすぎない
 一般論として橋下徹や大阪維新の会が「中央集権は悪」で「地方分権が善」などとは主張していないはずだ。そのように誤解される部分があるとすれば、それは、日本という国の、戦後の現在という時点での、国政を担う特定の集団(国会議員や国の行政官僚等)を念頭において、<地方分権>の方を重視した主張をしているにほかならないからだろう。
 この点ですでに上の藤井の文章は橋下徹批判になっていないのだが、既述のように橋下徹らは中央集権=国の役割を否定し、「国家」を解体しようとてしいるわけでもない。外交・防衛・通貨発行権等を橋下らは語っていたかと記憶する。
 というわけで、拙劣な・不勉強の藤井論考だけを読んで、橋下徹らの考え方・政策を誤解する人たちがいるとすれば、困ったことだ、言論人の一人のはずの藤井聡の責任は大きい、と感じる。
 加えて、同じ投稿者は次のように書いているが、藤井に影響を受けたのかもしれない―従って藤井の責任が大きい―誤った考え方だ、と思われる。
 すなわち、「地方分権論、道州制の強化は、ますます地方を窮地に追い込むこと必定である。そのような事態にならないよう…」。
 上記のとおり必要なのは「バランス」なので、一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならない、と思われる。
 問題は「強化」の具体的程度・中身にある、と言ってもよい。
 民主党のいう「地方主権」論には、「主権」概念の使用について問題があるが、「地方分権」自体は、現憲法に「地方自治」という章(第八章)があるほどに法的に根付いた(はずの)もので、一般的に批判することはできない(問題はその程度だ)。
 また、道州制にしても、もともとはたしか関経連という財界・経済界が主張した、「保守(・反動)」の側からの「地方自治」破壊論とすら(少なくとも「左翼」からは)目されたもので、「国(国家)」の役割を否定したり無視したりする議論ではまったくない(問題はその具体的な制度設計だ)。
 「地方自治」を重視し「地方」に権限・財源をより多く配分しようとする議論が、自民党政府時代に、ある程度は<政治的に>(つまり憲法解釈論を部分的には超えて)とくに「左翼的」学者によって少なからず唱えられたことは承知しているが、そのような時代と同じように<地方分権>論を「左翼」的だと反発するのは、「左翼」・民主党が国政を担っている時代には、必ずしもそぐわないだろう。
 あるいは逆に、民主党政権だからこそ、橋下徹らは<地方分権>の方を重視するような主張の仕方をしているのだ、と理解することが、少なくともある程度はできる。
 問題は、現実の時代・政治状況を前提として議論されなければならない。一般論としていえば藤井の書くとおり「バランス」が問題なのであり、片方の「強化」も、その具体的意味・内容が明らかにされていないかぎり、論評の仕様がない。上記のとおり一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならないはずで、このような誤解を与えたとすれば、藤井に責任があると言えるだろう。
 〇具体的な国、時代、政治状況を前提にしてはじめて<地方分権>論等の是非も議論できることは、外国の例を見ても分かる。
 古い知識だが、ミッテラン大統領までのフランスはきわめて中央集権的で(=パリ中心で)、「県」知事も戦前の日本と同様に国の任命の国家公務員だったはずだ。現在は多少は地方分権の要素が増大したとされている。
 一方、隣国のドイツはドイツ連邦共和国という国名のとおり連邦制をとる。ということは、連邦のもとに「州(・邦・国)」=ラント(Land)があり、その下に市等の基礎的自治体(Gemeinde)がある。そして、「州」ごとに憲法があり、州ごとに(州法律としての地方自治法にもとづいて)異なる基礎的自治体制度(狭義の地方制度)があり、例えば市長の選び方も州によって異なり、また教育事務は連邦ではなく州が行い、連邦には教育(文部科学)大臣はいない。若干の例を挙げただけだが、フランスと比べれば、もともとドイツは<地方分権>的だ。
 そして、アメリカも同様だが、連邦制を採っているということは、上に州(国)が憲法まで持つ(そして州法律まである)と書いたように、ドイツは、日本でいわれる<道州制>以上に、<分権>的なのだ。
 でははたして、ドイツにおいて国家=連邦は「解体」されているだろうか。そんなことはないことは誰でも知っているだろう。
 地方分権や道州制が、あるいはその強化が「国家」全体を解体させるとか弱体化させるという議論は、一般論としていえば、謬論(誤った見当はずれの議論)にすぎない。
 イギリスもまた「連合王国」と言われるように、少なくともイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという、「国家」の中の「国(・州)」で成り立っていて、日本よりも―ドイツと同じく日本よりも人口は少ないが―<分権>的だ。だからといって、イギリスに中央政府がないとか、「国家」が全体として解体または弱体化しているというわけではない。

 このように若干の国を見ても地方(分権)制度は多様なのだが、それぞれの国の歴史、地理的条件、成り立ち等に由来するもので、「国家」全体の観点からしても、どれが最も優れている、ということにはならない。
 〇大学理科系学部出身の藤井聡はおそらく、上のような具体的なことも何ら知らないで、月刊WiLLの論考を書いている。
 今の日本の、具体的状況の中で、地方分権も「道州制」も議論する必要がある(都道府県制度は明治以降の長い歴史をもつが、いずれ「道州制」に向かわざるをえない時期が来るのではないかと、おそらくは橋下徹と同様に私も予想している)。
 ついでながら、最近に論及した雑誌・撃論+の中の小川裕夫「検証/橋下改革は本当か?」には東京都に独特のシステムとしての「都区財政調整制度」への言及がある。これが<大阪都>においてもそのまま適用されるかどうかは問題だが、ともあれ、藤井聡は「都区財政調整制度」なるものとその内容を知っているのだろうか。専門家面するならば、この程度の知識は持った上で、地方自治・地方分権・大都市制度等に関する文章を書いていただきたいものだ。

1088/道州制と広域連合-橋下徹と藤井聡。

 〇 道州制には、前回にイメージしたもの以外のものもありうる。市町村・都道府県という二層制の上にあるいわば三層めの地方公共団体としてそれを構想することだ。現在よりもさらに複雑になるが、「広域行政」の必要からして、そういう「道州制」もありえなくはない。そして、道州住民の選挙による議会が置かれる可能性とともに、構成員を都道府県(または加えて現在の政令市など特定の市)という団体として住民代表議会を設置せず、構成団体(の長)が道州の「長」(知事・長官)を選出することにする、という構想も考えられる。この後者の場合、「道州制」は現行制度としての「広域連合」に類似しているところがある。
 但し、上の後者の場合であっても、特定の事務のために関係都道府県や市町村が任意に構成員となる広域連合とは違って(従ってその実際の例は関西広域連合があるにすぎないともされている)、「道州」制は<国家のしくみ>の一部としての統治機構である(一般的制度化が想定されているはずの)地方団体であるから、上のようなイメージのもとでも、その「長」は構成長(・代表者)の選挙により、それらの都道府県知事等とは別の者の中から選出されることになろう。
 鳥取県は関西広域連合の構成員の一つであり、現在の当該連合の「長」は兵庫県知事が兼任しているようだ。したがって、鳥取県知事(かつては片山善博)が関西連合の「長」になる可能性は抽象的には(現実的にはともあれ)あるだろう。
 前回言及した藤井聡が紹介する片山善博の発言は、そのような場合の気持ちを表明したものだろう。つまり、広域連合の「長」になっても元来は鳥取県民に直接に選ばれた者なのだから、鳥取県域を超えて「関西」広域全体について「真剣に親身に」なれる自信はない、と言っているのだと解される。
 従って、道州制の「長」が(考えられるその一つの制度設計のもとで)関係都道府県等(の代表)の選挙によって選出される場合だったとしても、特定の都道府県等の長を兼ねていない者が選任されるかぎりは、その者は当該「道州」全体について「真剣に親身に」ならなければならないし、そのようになれない人物は選任されるべきではないことになる。
 前回は想定またはイメージしていなかった「道州」制を構想してみても、やはり片山善博の発言についての藤井聡の理解は結論的には間違っているのだ。お分かりかな? 藤井聡くん。
 それにそもそも藤井は、自ら「道州制」をどのように理解・想定するかを明らかにしていないのだから、あらためて記しておくが、「道州制」や「地方分権」(国・地方関係)に関する論考としては、きわめて拙劣なものだ。
 〇 「道州制」の意味が大阪維新の会・橋下徹らにおいても明確でないと見られることは、既に記したとおりだ。「大阪都」構想との関係も明瞭ではない。
 橋下徹らは走りながら考える、考えながら走っているようなところがあって、研究者的に厳密な検討をすれば不十分なところは多々あるように思われる(藤井の論考は研究者の厳密な検討ではないが)。このことはこれまでも述べてきている。
 但し、「保守」主義の祖のごとく語られるE・バークも、抽象的かつ体系的に「保守主義」論を著したのではなく、現実のフランスの状況(フランス革命の推移)を念頭において、のちに<保守主義>と冠されるような論考を新聞等に発表したのだ。
 橋下徹らの提起する論点・問題が、抽象的ないし論理的に、学者の「書斎」から出ているのではないことは言うまでもない。現在の「国」・民主党政権の実際を念頭に置いて、さらにはそれら至る現実の日本の「統治の仕組み」を現実に・リアルに意識しながら、発せられているものと思われる。
 現実の「国」のありようを無視していかに一般的・抽象的に国・地方関係を議論しても無駄だ。少なくとも現実に建設的な検討結果は生まれないだろう。
 さまざまの現実を眼にした問題意識をもって語られる橋下徹らの言葉尻をとらえて、「書斎」派あるいは「アーム・チェア」派の論者があれこれと批判してみても、生産的な意味を持たず、橋下徹らのいう「既得権」者を利するだけではないか。あるいは、その批判に単純かつ性急なものがあるとすれば、(文章で構成されるマスコミの世界では「売れ」ても)ほとんど積極的な現実的意味をもたず、意識の攪乱を通じてむしろ現実を悪い方向に導くのではないか。
 最近に書いてきたのは、簡単には上のようなことだ。
 〇 何のワクワクした気分もなく、ただ久しぶりにこの欄を埋めて置こうという気分から書いた。本来は書きたいこと、言及・論及したいことが他にたくさんあるのだが、こんなに気軽には書けそうにないので、つい、起稿するのをやめてしまう。

1087/藤井聡-アホ丸出しの橋下徹批判(月刊WiLL4月号)。

 <西部邁・佐伯啓思グループ>の一人、藤井聡が月刊WiLL4月号で、珍妙な(バカ・アホ丸出しの)橋下徹批判を行っている。表紙では第二番めに大きな活字が使われている、藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」(p.198-)だ。
 藤井聡は京都大学土木工学科卒だが、現在の専門は「公共政策論、国土計画論、土木計画学」らしい(p.207の紹介による)。このように広く専門分野を掲げていること自体がすでに、広く浅い知識はかりに持っているとしても、「地方自治(論)」に関する専門的学者ではないことが明瞭だ。
 上の論考でも、粗雑な、かつ専門家ではない私から見ても明確な誤りを含む見解を示していて、橋下「地方分権」に対するまともな批判にはなっていない。それこそ、「致命的欠陥」がいくつか見られる。
 一読して珍妙だと分かる事項を順不同で挙げておこう。
 第一。「地方出先機関の廃止と道州制の推進」を橋下徹らの政策と理解してうえでこれを批判する文脈の中で片山善博元鳥取県知事の発言を一つの論拠として紹介しているが、まったく的はずれだ。
 片山は「広域連合」の長にかりになった場合の心情について語っているのであり、「道州制」への気持ちを語っているのではない。
 藤井は何と初歩的にも、「道州制」と現行制度でもある「広域連合」を同一視または類似視するという「致命的な欠陥」をおかしているのではないか。
 「道州制」をどのように制度設計するか、現憲法の枠内で考えるか、憲法改正も視野に入れて構想するかによって違いが出てくるだろうが、「州」が国の出先機関とされない限りは、「州」に議会が置かれることが常識的には想定される。現憲法を前提にすると、議会議員に加えて「長」も住民によって直接に選出されることになる(藤井は憲法の地方自治に関する規定をきちんと記憶していないし、現行地方自治法の基本的内容も知らないようだ)。憲法上の「地方公共団体」ではないとの前提で構想すれば、州議会が長を選出するという(現在の国の議会・執行府関係のような)制度にすることも考えられなくはない。あるいは、州議会がかりに置かれないとすれば、「州」が国の出先機関ではない限り、長は住民が直接に選挙で選ぶことになるだろう。
 ともあれ、議会議員か長の(またはいずれについても)住民の選挙による選出が「道州制」については想定されるのであり、これが否定され、例えば長が戦前の都道府県のように国の大臣によって任命されるのであれば(戦前は内務大臣による、現在は総務大臣か内閣総理大臣になろう)、それは「国の出先機関」とほとんど変わらず、そもそも「地方自治」制度とは言えない。
 一方の「広域連合」は複数の地方公共団体により構成され、議員や長の選出に住民が直接に関与することはないが、それは現行地方自治法が「特別地方公共団体」の一つと位置づけ、かつそのような住民による選出を定めていないからだ。藤井聡は、さっそく地方自治法の条文を探してみるがよい。
 このように両者は別のもので、「広域連合の長」と「州」の長(知事・長官?)とはまるで異なる。
 藤井はアホらしくも両者を少なくとも似たようなものとイメージしているようで、片山が「広域連合の長」になっても当該「広域」について「真剣に親身に」なれる自信がない、と言っているらしいことを根拠にして、「州政府が実態として大きく活躍することは難しいと言わざるを得ないであろう」と述べているのだ(p.205)。
 こんな、明らかに誤りと言ってよい推論を行っているのでは、藤井論考は、「地方自治」あるいは「道州制」に関する大学院学生の修士論文のレベルにすら達していない、と断じてよい。
 第二。橋下徹らが「公債発行権の分権化」を主張しているとしたうえで、藤井は「公債発行権が地方に『委譲』されれば、…大都会でさえ、十分な財源を確保することができなくなってしまう」と言っている(p.204)。
 この部分の何が珍妙かと言うと、すでに地方公共団体は「公債発行権」を付与されている(委譲されている)からだ。藤井は、現行地方自治法230条等々を見てみるがよい。
 橋下徹らが公債発行権の「分権化」を主張しているとすれば、現行制度上にある「地方債」の発行(起債)にかかる国の行政機関による関与を廃止するか縮減せよ、という趣旨だろう。
 何と藤井聡は、現在の自治体(ここでは地方自治法にいう「普通地方公共団体」)は「公債発行権」を有している(法律によって「委譲」されている)ことを知らないままで、上のように述べて批判しているのだ。
 これまた「致命的欠陥」だ。藤井は別のところでいわく-「税や公債を中央から『地方委譲』してしまえば、どの自治体も(あるいは州政府も)財源が減ってしまうこととな」る。アホらしい論述?で、―「公債」発行と財源の関係についての議論も、地方には「通貨発行権」がないことを理由にするなど相当に怪しいが、ともあれ―前提的認識が誤っている。この点もまた、修士論文においてすら「致命的欠陥」として不合格認定をする十分で決定的な理由になる。
 第三。橋下徹ら(大阪維新の会)の「地方分権」に関する主張を正確に理解したうえで批判しているのか?
 上に二つ述べたような誤った制度理解にも示されているように、かりにきちんと読んでいたとしても、「正確に」その意味・趣旨を理解できる能力自体が藤井にはなさそうだ。
 また、橋下徹らの見解が民主党の「地域主権」論と同一線上にあるかのごとき前提に立って、藤井は批判しているが、それは適切か?
 最近の「維新八策/骨子」によると、「統治機構の作り直し」という大項目の中に、「・中央集権型から地方分権型へ」(「・国と地方の融合型から分離型へ」)や「・道州制」という項目が見られる。但し同時に、「・国の仕事を絞り込む=国の政治力強化」という項目も見られるのであり。「国」の任務が無視されているわけではない。
 民主党の議論がどうだったかは確認しないが、おおよそ「国」の任務・権限を無視した「地方自治」論・「地方分権」論が成り立つはずがない。誰でも理解できる常識的なことだ。
 だが、藤井はあえて、橋下徹らは「国」の任務・権能を無視しているまたは軽視しすぎている、という前提に立って、橋下「地方分権」論を論難しているようだ。
 維新の会の「八策」は「地域主権」の「路線」に立つという叙述(p.207)も含めて、藤井は橋下徹らの見解・政策を歪曲して(批判しやすいように把握=捏造して)理解したうえで、批判していると見られる。
 藤井が「自称保守」なのだとすれば、何やら偉そうな表向きの大言壮語にもかかわらず、「自称保守」陣営に見られる知的水準のレベルの低さを―この藤井だけに限らないが―大いに嘆かなければならない。
 月刊WiLLの編集長・花田紀凱は、自分の編集する雑誌に載っている(ひょっとすれば重要視しているのかもしれない)論考が、上のような水準のものに過ぎないもの、多少の知識を持つ者でもただちに首を傾げるような「致命的欠陥」をもつもの、であることをよく理解した上で、今後の執筆者の選択をしてほしいものだ。
 佐伯啓思についてもまだ書きたいことがあるが、上の藤井の文章を読んで、こちらを優先した。それにしても、<西部邁・佐伯啓思グループ>の一人が、つぎのようなことを橋下徹らについて述べているのは興味深いし、よくもこんなに単純かつ性急に論定できるものだと感心?する。
 ・橋下徹の演技が「国益を損ね、国民の安寧と誇りある暮らしを根底から破壊するものであるのなら」批判するのが「日本国民として正当な振る舞い」だ。
 ・「維新の会」が「次の総選挙に出て大きく勝利するようなことがあれば、国益は大きく損なわれるであろうことを『確信』している」(以上、p.200)。
 「自称保守」論者らしき者が、このように言ってしまっている。嘆かわしいことだ。

0910/井上薫・ここがおかしい外国人参政権(2010)読了。

 10/09に、井上薫・ここがおかしい外国人参政権(2010、文春新書)を一気に全読了。
 大きな注意を惹いておきたいことが一点、基本的な疑問点が一点ある。

 第一。傍論でいわゆる「許容説」を採ったと(ふつうは)理解されている最高裁1995年(平成07年)02.28判決につき、百地章らの保守派らしき論者の中には、<傍論にすぎず>、全体として「許容説」ではなく「禁止説」に立っていると理解すべき旨の主張がある。櫻井よしこも百地章らの影響を受けている。

 井上薫の上の本は、ごく常識的に、素直な日本語文の読み方として、上の最高裁判決は「許容説」=法律によって一定の外国人に地方参政権を付与することは憲法上許容されている(付与しないことも許容される=違憲ではない)という説に立つものと理解している(そしてそれを批判し、井上は「禁止説」に立つ)。
 憲法ではなく上記最高裁判決の「解釈」のレベルでの議論として、百地章の読み方(判決の「解釈」)や櫻井よしこの「読み」方にしばしば疑問を呈してきた。

 自らの憲法解釈に添うように憲法に関する最高裁判決を「解釈」したいという気持ちは分からなくはないが、そして上記最高裁判決が<推進派>の「錦の御旗」(井上p.67)になることを阻止したいという気持ちも理解できるが、法的議論としては、無理をしてはいけない。

 井上薫は書く。例えば、①上記最高裁判決の「中核」は「『定住外国人の地方参政権が憲法上禁止されていない』という点にあります」(p.80)。②上記最高裁判決は三段落からなり、「第二段落」は「外国人のうち…〔中略〕に対し、法律により選挙権を付与することは憲法上禁止されていない」という意味だ。「推進派の錦の御旗」は「憲法理論における『許容説』を採用した、第二段落の部分です」(p.89-90)(『』部分も判決の直接引用ではなく、井上による要約)。

 百地章らは(井上のいう)第一段落と第二段落とは「矛盾」しているとし、かつ第二段落は「傍論」として、全体としては、第一段落を重視して<禁止説>に立つ、と最高裁判決を「解釈」するが、同旨をこの欄ですでに述べているとおり、井上の読み方(理解・「解釈」)の方が素直で、常識的だ。

 従って、最高裁判決も<禁止説>だ、と(無理をして)主張するよりも、上記最高裁判決自体を批判すべきだ、ということになる。

 また、上記判決の「第二段落」=いわゆる「傍論」部分を主導したとされる園部逸夫裁判官(当時)の退官後の「証言(?)」を引き合いに出して上記判決の権威を事実上貶めようとすることも政治運動的には結構なことだが、何を当時の裁判官が喋ったところで、かつての最高裁判決の法的意味が消滅したり変化するわけでもない(このこともいつか書いた)。

 第二。井上薫は憲法解釈として「禁止説」を採り、上記最高裁判決を批判する。その結論自体に賛同はするが、論旨・議論の過程には疑問もある。

 井上は、他のこの人の本にすでに書いていることだが、判決理由中の(判決の)「主文を導く関係にない部分」を(関係のある「要部」に対して)「蛇足」と呼び、そのような蛇足を含む判決を「蛇足判決」と称する(p.103)。そして、これこそが重要だが、「蛇足」(を付けること)は「実は違法」で、「蛇足判決は先例にも判例にもならない」、という「蛇足判決理論」なるものを主張する(p.119)。

 そのうえで、上記最高裁判決の「第二段落は蛇足だ」(p.126の小見出し)とし、第二段落は「裁判所の違法行為の産物」で、「後世の人が先例と見なしたり、判例として尊重するということは、許されない」と断じる(p.130)。

 上の結論的部分に全面的には賛同できないのだが、それはさて措くとかりにしても、例えば次の一文は自己の「理論」に対する<買いかぶり>ではないだろうか?

 「こうして〔外国人地方参政権付与〕推進派の根拠は、蛇足判決理論によって完膚なきまでに破壊されました」(p.137)。

 外国人参政権付与法案の上程かという切羽詰まった時期になって、あらためて関係最高裁判決の「読み方」に関する議論やその最高裁判決も一つとする憲法「解釈」論の展開があったりして、外国人地方参政権付与推進派が勢いを減じていることは確かだろうが、推進派の「根拠」が「完膚なきまでに破壊され」ているとはとても思えない。

 また、かりに勢いが大きく減じているとしても、そのことが井上の「蛇足判決理論」による、とはとても思われない。

 以上が、読後に感じた、重要な二点だ。

 「蛇足」をさらに二点。第一に、井上は上記最高裁判決の「第二段落」を「裁判史上永遠に残る大失敗」と断じ、「園部裁判官の空しい弁解」との見出しも付ける(p.129、p.130)。

 すでに述べたことだが、客観的には、園部逸夫は<晩節を汚した>と言ってよいだろう。「韓国や朝鮮から強制連行してきた人たち」を「なだめる意味」、「政治的配慮があった」、日韓関係についての「思い入れ」があった、等と述べたようだが(p.133-4)、判決後にこんなことを(いくら内心で思っていても)口外してしまうこと自体が異様・異常だ。なお、1929年生まれで、私のいう<特殊な世代(1930~1935年生)>(最も強く占領期の「平和・民主主義」・「反日〔>反日本軍国主義〕・自虐」教育を受けた世代)にもほとんど近い。
 第二。判決理由中の「蛇足」部分は(あるいはそれを付けることは)「違法」で、「先例、判例」として無意味だ、と言い切れるのか?

 井上はいくつかの例を挙げており、その趣旨はかなりよく分かるが、しかし、例えば、議員選挙の無効訴訟における請求棄却判決が、理由中で定数配分規定をいったん違憲=憲法14条違反だと述べることは(請求棄却という結論とは無関係だから)「違法」で、<判例>としての意味はないのだろうか?

 「蛇足判決理論」についての、井上以外の他の専門家の意見も知りたいものだ。

0901/櫻井よしこは論理的に緻密か-外国人地方参政権問題。

 産経新聞に報道されていたかどうかは知らないが、週刊新潮7/29号(新潮社)の櫻井よしこの連載コラム(p.148-149)によると、外国人地方参政権問題につき、6/04の政府答弁書は(鳩山内閣時代のものではある)、最高裁1995(平成7年).02.28判決の<本論>のみを引用し、「政府も同様に考えている」と述べているらしい(質問者は山谷えり子)。
 鳩山由紀夫が昨年に上掲最高裁判決の<傍論>部分を援用して<(付与しても)違憲ではないと考えている>と答弁していたのを(ナマか録画のニュースでかは忘れたが)記憶しているので、櫻井よしこの紹介のとおりならば、大きな、重要な変化ではある。
 そして、この政府答弁書とは明確に矛盾した言動を閣僚等がしているとすれば、問題視する必要がある。
 だが、気になったのは、次の点だ。
 上掲最高裁判決の本論は<憲法は積極的には外国人地方政権を保障していない>旨を述べているのだが、櫻井よしこは、これを引用した答弁書を<「外国人参政権は禁止」と読める答弁書>と理解している。すなわち、<積極的に保障はしていない>=<禁止>、というふうに理解している。
 百地章も同様なのだろう。だが、論理的に見て、外国人地方参政権を<積極的に保障はしていない>=~の付与を<禁止している>、ということに単純になるのかどうか。単純にはならないという前提のもとで(裁判官全員一致で)いわゆる<傍論>も書かれたのだ。
 とくに強調してあげつらうつもりはないが、この問題に限らず、訴訟・判決にかかわっても歴史認識等にかかわっても、<保守>論者には概念・論理の明晰さが要求される。
 主題から離れて一般化すれば、具体的論点について、<保守>論者は、概念・論理の明晰さ・一貫性について<左翼>に負けてはいけない。<保守的>気分・情緒だけの表出では、<インテリ>たちを多数とり込んでいる<左翼>に敵わないのではないか。

0869/外国人参政権問題-あらためてその5・憲法学界④

 ⅠとⅡの二冊で憲法全体をかなり詳しく叙述する野中俊彦=中村睦男=高橋和之=高見勝利・憲法Ⅰ〔第四版〕(有斐閣、2006)の第5章「人権総論」は中村睦男が単独執筆している。

 中村睦男は刊行当時は北海道大学学長(!)。なお、高橋和之は刊行当時は明治大学教授とされているが、芦部信喜の指導を受けたと見られる、前東京大学法学部(法学研究科)教授。

 中村は上の章の「第三節・人権の享有主体」の「三・外国人」のうち、「(2)保障される人権の範囲」、そして②の「参政権」の項で、次のように叙述する(p.221-2)。

 ・「国政レベルでの参政権」につき、これは一定の外国人にも保障されるべきとする説(=浦部法穂)もあるが、日本国憲法の「国民主権原理は伝統的な国民主権原理を維持している」と解されるので、「日本国民に限られる」。

 ・「地方公共団体レベルの参政権」については、「禁止説」・「要請説」・「許容説」がある。

 ・上の「禁止説」は憲法93条2項の「住民」は同15条1項の「国民」を前提とすると理由づける。「しかしながら、外交、国防、幣制などを担当する国政と住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務を担当する地方公共団体の政治・行政とでは、国民主権の原理とのかかわりに程度に差異があること」を考えると、「選挙権を一定の居住要件の下で外国人に認めることは立法政策に委ねられているものと解される」。

 このあとで中村は、「最高裁も」として平成7年判決を挙げて、「許容説の立場に立っている」と書いている。

 平成7年最高裁判決や芦部信喜説の影響もあるかもしれないが、中村睦男は明確に外国人地方参政(選挙)権についての<許容説>だ。そして、最高裁平成7年判決の関係部分について、「傍論だが…」と書いていないし、ましてや<傍論だから無視してもよい>とは書いていない。最高裁判例としての意味があるものとして、所謂「傍論」部分を援用していると思われる。

 この中村の叙述内容は、中村が参照要求している浦部法穂や明示はないがこの欄ですでに言及した辻村みよ子の説に比べると、穏当なものだ。国政については明確に「禁止説」で、浦部法穂や辻村みよ子とは異なる。

 しかし、外国人地方選挙権については明瞭に「許容説」だ。したがって、外国人の範囲にもよるが、「一定の居住要件」を充たす外国人に地方選挙権を付与する法律案を支持する、少なくともそれを違憲視することはない、ということになるだろう。

 辻村みよ子が「禁止説」よりも「許容説」が「有力となった」と書いていることはすでに紹介した(同・憲法〔第三版〕p.148)。おそらくそのとおりで、上の中村睦男のような考え方が、芦部信喜のそれも含めて、近時の日本の憲法学界の<主流>ではないか、と思われる。

 <地方>にとりあえず限るが、日本の憲法学界は、外国人の選挙権に<優しい>のだ。こんなこともあらためて知っておいてよいだろう。

 ついでに、国の政治・行政も「住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務を担当」しているし、地方公共団体の政治・行政も例えば「国防」に関係する仕事を担当することがある、国と地方公共団体(の政治・行政)は中村が想定または想像している以上に複雑で複合的な関係にある、とだけ中村の叙述を批判しておこう。

0867/外国人参政権問題-あらためてその4・憲法学界③。

 1.辻村みよ子・憲法〔第三版〕(日本評論社、2008。前回までにいうA)p.149は、(地方・国家を問わず)「選挙権者」の範囲の問題=「定住外国人を含めるか否か」には、「選挙権者」に該当する「具体的な『市民』概念を介在させることも理論上は有効」だとし、そのような「市民」概念を伴った例として、①フランスの1793年憲法、②EUの「欧州市民権」論を挙げる。

 ①についてはすでにコメントした。もう少し語れば、第一に、日本国憲法にかかわる議論になぜフランスの憲法上の議論・理論が「有効」なのか、一般的な(ふつうの)日本人にはほとんど分からないだろう。フランスやアメリカの憲法(理論)上の概念・理論を日本国憲法は継受している、ということを、この人は当然の前提にしているのだ。「選挙権者」の範囲という具体的問題について、はたしてそう言えるのか? また、かりにそうだとしても、欧米憲法(<近代>憲法)は「選挙権」者を「国民」に限っていないと一般的に言えるのか?
 第二に、なぜ、1793年憲法という、200年以上前!の外国の憲法(理論)が「理論上は有効」なのか、これまたさっぱり分からないだろう。

 第三に、フランス1793年憲法とは、成立はしたが施行されなかった、つまり現実に<生きた>憲法ではなかった憲法だ。それでも、その基礎にあった「理論」・考え方は参照に値すると辻村は言うのだろうが、施行されてはいないという事実を一切隠したままでこの憲法に論及するのは、いささか卑劣ではないだろうか。

 繰り返しておこう。200年以上前に成立だけした外国(フランス)の憲法の「理論」・考え方は今日の日本の選挙権の範囲の問題解決に「理論上は有効」だと、辻村は書く。これはいささか常軌を逸しているのではないか。日本の(立派な?)憲法学界内部ならばともかく、多くの日本人にとって説得的な議論の仕方ではないだろう。

 2.つぎに、上の②も奇妙だ。EUでの議論が「理論上は有効」であるためには、現在の日本もまた、EUと同様の法的状況にあることが前提として必要のはずだ。しかるに、今日の日本のどこに、EUと共通する要素があるのか。

 EUの「欧州市民権」論を持ち出すならば、日本を含む東アジア(またはアジア)がEU=欧州連合・欧州共同体のようになっている必要がある。

 鳩山由紀夫が<理想>としている「東アジア共同体」なるものが形成されてから、またはまさに形成されようとしている時期になってから、上のようなことを言ってもらいたい。そして<東アジア(に共通の)市民権>について論じていただきたい。

 現実・実態の違う欧州(EU)を現在の時点で持ち出しても、何の参考にもならないし、むろん「理論上は有効」であるはずがない。

 このように、辻村みよ子の叙述・議論の内容は相当に問題がある。だが、憲法教科書として<あの>日本評論社から刊行されて活字になっており、こんな叙述を読みながら、憲法学・日本国憲法を勉強している学生たちもいるわけだ。
 地方・国政を問わず、一定の外国人(定住外国人)には憲法上、法律によって選挙権を付与することが<要請>されている、とする辻村みよ子の主張(憲法解釈論・憲法学説)自体を問題視する必要がむろんあるが、その根拠・議論の仕方にも大いに疑問視してよいところがある、と言うべきだ。

 3.民主党は世界ですでに30~40カ国は一定の外国人に地方参政権を付与しており、決して<少なくない>と言っているらしい(正確な資料参照を省略する)。また、美辞麗句、君子豹変、八方美人の「言葉の軽い」鳩山由紀夫現内閣総理大臣は、外国人地方参政権問題は「友愛」の問題だと述べたらしい(同)。

 だが、別冊宝島・緊急出版/外国人参政権で日本がなくなる日(宝島社)p.77の、百地章の注記付きの表によると、一定の外国人に地方参政権を付与している国のほとんどは、①欧州(EU)内の国で他のEU諸国の国民(「EU市民」)にのみ付与しているか、②イギリス連邦の構成国(ニュージーランド、カナダ、オーストラリアなど)の国民に二重国籍を認めたうえで英国の選挙権を付与している、というものだ。①・②につき、百地章はいずれも正確な意味での「外国人」参政権付与の例ではない、としている。

 イギリスには特有の歴史的事情があるだろう。また、欧州では、EUという従来とは異なる新しい「国家」の形成の模索中なのだ。不正確だろうが、EU加盟国の国民は半分(?)程度はすでにEUという新しい国家の「国民」だとも見なしうるのだ(だからこそ、上述のとおり、辻村みよ子のように簡単には日本に適用できないのだ。EUには議会すらある。大統領または首相にあたる者、つまり執行権の代表者の一般選挙すら論議されている)。

 このように見ると、世界ですでに30~40カ国という<少なくない>国々が一定の外国人に地方参政権を付与している、という旨の民主党(その他社民党・共産党?)の主張は明らかに<デマ>というべきだ。<世界の趨勢>などという虚偽宣伝に騙されてはいけない。言わずもがなかもしれないが、念のために。 

0866/外国人参政権問題-あらためてその3・憲法学界②。

 辻村みよ子・憲法〔第一版〕(日本評論社、2000=B)は、平成7年最高裁判決を紹介したあと、以下のようにも批判している。

 ①「傍論」での「地方自治制度の趣旨」を根拠にした判示は、「本論」での憲法「九三条解釈にも反映されなければならなかったのではないか」(p.166)。
 これは前回紹介の後藤光男の論と同じく、「傍論」を支持する(少なくとも積極的に反対しない)立場から、簡単には、「本論」をこそ「傍論」に合わせるべき旨を言っているわけで、百地章とは真逆の立場からの「矛盾」の指摘だと理解することもできる。

 辻村みよ子は次のようにも書く。

 ②上記判決の「傍論」が「永住者等」を「国民に準じて考えるべき存在」としているとすれば、この「永住者等」は「地方公共団体と密接な関係をもっているだけではなく、すでに日本の国政にも十分密接な関係と関心をもつ者であり、国政レベルでの参政権についても許容説を導くことができるかどうかが問題となる」。

 語尾は曖昧になっているが、国政レベルでの選挙権付与「要請説」論者だからこそ、このように書けるのだろう。

 辻村の叙述で注目されるのは(A・B同じ)、<永住市民権説>というものに立ち(これは近藤敦も同旨だとされている。Ap.149)、その論拠の一つをフランスの1793年憲法に求めていることだ。

 このフランスの憲法はジャコバン独裁時の、ロベスピエールらによる<人民(プープル)主権>を採用した憲法だが、辻村みよ子は、よほどこの<社会主義を先取りしたような、そして「先取り」したがゆえにこそ施行もされず失敗したとされる>憲法がお好きらしい。

 辻村の文章は次のようなもの。
 「…選挙権者の範囲に定住外国人を含めるか否かの議論の際には、欧州連合条約における『欧州市民』権(…)や…フランスの『人民(プープル)主権』論に基づく1793年憲法(主権主体である人民を構成する市民が選挙権者となる)のように、選挙権者に該当する具体的な『市民』概念を介在させることも理論上は有効である。このような『新しい市民』概念の確立による選挙権者の拡大を図ることが望ましいと考えられる」。

 国籍保持者以外への<選挙権者の拡大>が望ましい=「善」または<進歩的>という発想自体にすでに従えないのだが、ここには、「左翼」の中に多い、そして鳩山由紀夫も影響を受けているようである、(「国民」とは区別された)独特の「市民」概念・「市民」論があるのは明らかだ。

 こういう、既に凝り固まった人を善導?するのはもはや困難かもしれない。
 別冊宝島・緊急出版/外国人参政権で日本はなくなる(宝島社、2010)によると、民主党・自民党・公明党・社民党・国民新党・みんなの党のすべてが「外国人国政選挙権」の付与に反対している(民主党は川上義博の個人見解とされる)(p.80以下)。日本共産党は「積極的な反対でないため回答を保留」したらしい(p.91)。

 平成7年最高裁判決およびこうした諸政党の態度を見ると、「外国人国政選挙権」についての(憲法による)「(付与)要請説」は、きわめて少数の、異様な(?)学説のはずだ。日本共産党よりもはるかに<付与>の方向に傾いた説なのだ。

 だがしかし、この説は、日本の立派な?憲法学界では、決して珍奇でも稀少でもなさそうだ。

 誇ってよいのか、嘆くべきなのか。日本の憲法学界、つまりは百地章等を除く圧倒的多数の憲法学者たちは、親コミュニズムのゆえか、外国の「左翼」的・「進歩的」文献にかぶれているゆえか、健全で常識的な感覚を失っているのだはないか。すでに「日本人」では意識の上ではなくなっており、かつそのことを恥じることもなく、むしろ<誇り>に感じているのではないか。異様な世界だ。
 <法学(憲法学)>の世界にあまり詳しくはない方々には、上のようなことを知っておいていただきたい。東北大学、名古屋大学、早稲田大学といった<有力な>大学の教授たちの学説であることも含めて。

0865/外国人(地方)参政権問題-あらためて、その2・憲法学界。

 1.外国人(地方)参政権問題に関して不思議に思っていることの一つは、すぐれて憲法問題で(も)あるにもかかわらず、現在の日本の憲法学者(研究者)による発言等が雑誌や新聞上でほとんど報道されないことだ。

 産経新聞紙上では、百地章・長尾一紘と近藤敦(名城大学)くらいで、保守系論壇ではほとんど百地章が一手に引き受けて憲法学者としての反対論(外国人参政権否定論)を述べているようだ。

 かかる状況は、憲法学界または憲法学者の対社会影響力、世論形成力の弱さを示しているとも感じられ、果たしてよいことなのかどうか、気になるところだ。

 また、マスメディア(新聞を含む)に従事する人々の<法学>オンチ、または苦手意識からする<法学(・法律)・何となく嫌い>気分が表れているようでもある。

 産経新聞紙上で少なくとも二度は目にした近藤敦(名城大学)は、賛成論者として登場している。

 この問題についての学説はさまざまな観点から分類できるが、被選挙権を含まず、かつ「地方」参政権に限って、長尾一紘は月刊正論5月号(産経)p.55で、3分類(禁止説・要請説・許容説)を示している。

 このうち「要請説」とは、憲法は法律で付与することを「許容」しているのみならず付与を「要請」しているとするもので、厳密にはさらに、①この要請に違反すれば憲法違反になるとする説(付与していない現行法律=公選法は違憲になる)と②立法者=法律制定者に付与するよう努力義務(政治的義務・責務)を課しているだけで、この違反はただちに憲法違反にならないとする説に分けられる。

 長尾は上の①の意味のものを「要請説」と称している。

 2.辻村みよ子(東北大学)、近藤敦(名城大学)の見解はより正確にはどのようなものなのか。その一端だけを、辻村みよ子・憲法〔第三版〕(日本評論社、2008=A)、同・同〔第一版〕(日本評論社、2000=B)によって、見ておく。

 辻村A・Bによると、「学説は、外国人参政権を一切認めない従来の禁止説から脱して、しだいに地方参政権を認める見解(許容説)が有力になった」とされる(Ap.148、Bp.167)。

 辻村Bによると、国政選挙ではなく、地方選挙に限ると、a「禁止(否定)説」、b「積極的肯定説」、c「消極的肯定説(許容説)」に分けられる。ここでのb「積極的肯定説」は「要請説」とほぼ同義のようであり、上記の①の、違憲判断を導く「要請・違憲説」と、上記の②の、ただちに違憲とはしない「要請・政治的義務説」とに分けられている。

 辻村自身の説はいずれか。辻村A・Bによると、「要請説」だ。その中のいずれか、というと、辻村Bは、<「政治的義務説」(ないし「違憲説」)>だという書き方をしている(Bp.167-8)。この部分は、辻村Aにはない。

 ともあれ、辻村みよ子説は、「禁止説」でも<有力な>「許容説」でもなく、「要請説」だ。

 現在の代表的な「左翼」憲法学者の一人・辻村みよ子は、平成7年最高裁判決の「傍論」以上に、一定の外国人の地方参政権付与に積極的であることに、とりあえず注目しておく必要がある。

 なお、「要請・政治的義務説」か「要請・違憲説」かは不明だが、「要請説」であるかぎりで、近藤敦も同じのようだ(辻村著の文献参照による)。

 かかる見解の持ち主だと、民主党(中心)政権は今のところは国会提出を見送っているようだが、一定の外国人への地方参政権付与法案を歓迎しているだろう。

 3.興味深いのは、一定の外国人の「国政」参政権についての辻村等の見解だ。辻村は(上のAでもBでも)「要請説」に立っている。そして辻村Bでは、「地方」の場合と同様に<「政治的義務説」(ないし「違憲説」)>という書き方をしている(Bp.168)。

 「国政」参政権について、「禁止(否定)説」ではない。さらに「許容説」でもなく、それを超えた「要請説」を採っているのだ。辻村著によると、近藤敦も同じ。

 さすがに、「左翼」憲法学者の面目躍如というところだろう。外国人「国政」参政権を法律で付与することが「要請」されるという考え方(憲法解釈?)なのだ。

 「地方」はともあれ平成7年最高裁判決のように「国政」参政権を憲法上否定するのが(「禁止(否定)説」が)憲法学界でも一般的だ、と即断してはいけない。

 上に地方参政権について「許容説」が「有力」との辻村の認識を紹介したが、「国政」参政権についてもかなりあてはまりそうだ。

 辻村著によると、「国政」についての「許容説」論者に、九条の会呼びかけ人の一人・奥平康弘(元東京大学)がおり、「国政」についての「要請説」論者に、辻村・近藤のほかに、浦部法穂(神戸大学→名古屋大学)、後藤光男(早稲田大学)がいる。

 4.後藤光男は、ロ-スクールを含む学生(・同業者?)向けと思われるジュリスト増刊・憲法の争点(有斐閣、2008)の「外国人の人権」の項の中で、以下のように述べる。

 平成7年最高裁判決は「外国人は国政レベルの参政権は有しない」という前提に立っているが「なぜ外国人には地方参政権だけしか認められないのか、…疑問が生じる」。この見解は「住民自治」と「国民主権」を「別個の原理」と見ていて「妥当ではない」。「民主主義」=「共同体の自治」と考えれば「生活の本拠をもつ住民」を「単位」とすることの方が「当然」。「基本的」なのは「共同体の一員」であるか否かであり、「国籍」の有無は「それに付随した技術的なものである」(p.74)。

 何とも見事な、反国家・<ナショナルなもの否定>、そして「左翼」の文章だ。

 百地章は平成7年最高裁判決の「本論」の「禁止説」と「傍論」での地方参政権についての「許容説」を、前者の立場で一貫させよ、という観点から「論理的に矛盾」等と批判していた。一方、後藤光男は、<地方>につき「許容説」を採るならばなぜ<国政>でも採れないのか、と矛盾(?)を指摘しているわけだ。

 後藤と似たようなことを、辻村みよ子も書いていた。(*次回へと続く*)

0863/月刊正論5月号と週刊新潮4/15号(新潮社)から。

 〇潮匡人のコラムの後半(月刊正論5月号、p.51)をあらためて読んでいて、この人が言いたいのは、次のようなことなのだろうか、とふと思った。

 <兼子仁著は、新地方自治法によって国と自治体が「対等」になったとする、つまり地方自治体も国と同様に、かつ国と対等の「権力」団体になった。とすれば、外国人に「国政」参政権が認められないならば、国と「対等」の地方自治体についても、国の場合と同様に外国人参政権は認められないのではないか。>
 これは分かり易い議論・主張のようでもある。だが、かりに潮匡人の主張の趣旨がこのようなものであるとすれば、基本的なところで、やはり無理がある。

 第一に、地方公共団体が国と同様の「統治団体」(または「権力」行使ができる)団体・法人であること、広い意味では地方公共団体もまたわが国の<統治機構>・<国家機構>の一つであること、は戦後(正確には日本国憲法施行後または独立回復後)一貫して認められてきたことであり、2000年施行の改正地方自治法によってはじめてそうなったのではない。
 第二に、地方公共団体と国の「対等」性とは、基本的にそれぞれの行政機関は上下関係には立たないということを意味し、立法権能レベルでは国の法令は地方公共団体の条例に対して優位に立つので(憲法94条参照)、そのかぎりでは決して「対等」ではない。法律自体が「地方自治の本旨」に沿うように旨の注意書き規定が2000年施行の改正地方自治法で新設されたが、合憲であるかぎりは法律の方が条例よりも「上」位にあることは、改正地方自治法の前後を通じて変わりはしない。

 第三に、国と地方自治体(地方公共団体)の「対等」性が、それぞれの議会の議員等の選挙権者の範囲を同一にすべし、という結論につながるわけでは必ずしもない。法律のもとでの「対等」性、とりわけ法的にはそれぞれの行政機関間に上下の指揮監督関係はないということ、と議会議員(や地方自治体の長)の選挙権者の範囲の問題は直結していない。

 かりに潮匡人が上の第一、第二のことを知らないとすれば、幼稚すぎる。かりに日本の地方自治制度を岩波新書(兼子仁著)あたりだけで理解しているとすれば、あまりに勉強不足だろう。
 かりに潮匡人が上の第三のように考えているとすれば、単純素朴すぎる。結論はそれでよいかもしれないが、(いつか何人かの憲法学者の議論を紹介するが)外国人地方参政権付与に賛成している論者に反駁するには弱すぎる。議論はもう少しは複雑だと思われる。

 〇期待もした、長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」(月刊正論5月号)はかなり不満だ。しばしば言及されてきた当人の文章なので読む前には興味を惹くところがあった。しかし、最初の方だけが憲法学者らしい文章で、あとは、政治評論家の如き文章になっている。つまり、憲法研究者としての分析・検討・叙述がほとんどない。最高裁平成7年2月28日判決への言及すらない。

 憲法学者ならばそれらしく、憲法学界での「外国人選挙権」問題についての学説分布などを紹介してほしかったものだ。民主党の政策を批判するくらいは、長尾でなくともできるだろう。1942年生まれで今年に68才。もはや<現役>ではないということだろうか(だが、現在なお中央大学教授のようだ)。

 〇週刊新潮(新潮社)はもっとも頻繁に購入する週刊誌。4/15号もそうだが、また、他の週刊誌についても同様だが、まず初めにすることは、広告および渡辺淳一の連載コラム等々で表裏ともに不要と考える部分を<ちぎって破り捨てる>こと。半分程度に薄くなり軽くなったものを(主要部分を読んだあとで)保存するようにしている。

 渡辺淳一のコラムをいっさい読まず<破り捨てる>対象にし始めたのは、渡辺の田母神俊雄問題に関するコメントがヒドかった号以来。したがって、一昨年秋以降ずっと、になる。この週刊誌を買っても、それ以降は渡辺の文章はまったく読んでいない。

 田母神俊雄論文を渡辺は、<日本は侵略戦争という悪いことをした>という<教条的左翼>の立場で罵倒していた。その際に<戦争を私は知っているが…>ということを書いていた。

 なるほど私と違って、戦時中の苦しさを実感として知っているのかもしれない。だが、1933年10月生まれで敗戦時にまだ11才の少年だった渡辺に、あの戦争の<本質>の何が分かる、というのだ。この人も、占領下の<日本は悪かった>史観の教育によって左巻に染められた、かつての「小国民」だったのだろう。

 〇渡辺淳一の2頁分のコラムに比べて、昨年あたりから始まった1頁に充たない、藤原正彦の文章(巻頭の写真付き連載の「管見妄語」)の、内容も含めての美しさ、見事さ、そして(とくに皮肉の)切れ味は、ほとんどの号において素晴らしい。
 渡辺淳一と、別の週刊誌にコラムを連載している宮崎哲弥と、週刊新潮・新潮社は交代させてほしい。

 〇4/15号の櫻井よしこ連載コラムは「朝鮮高校の授業料無償化は不当だ」。

 こんなまともな意見もあるのに、朝日新聞は仕方がないとしても、読売や毎日新聞の社説は問題視していない(朝鮮高校も対象とすることに賛成している)らしいのはいったい何故なのだろう。

 これまた、<ナショナルなもの>の忌避・否定、<日本(人)だけ>という排他的?考え方をもちたくない、という現代日本の<空気>的な心情・情緒に依っているのではないだろうか。

 社民党・福島瑞穂的な<反ナショナリズム>・<平等主義>には、じつは<ナショナルな>部分をしっかりと維持している点もある、という矛盾がある、ということをいつか書く(こんな予告が最近は多い)。

 〇週刊新潮の、並みの?用紙部分の最後にある高山正之の連載コラム「変見自在」は、ときに又はしばしば、こちらの前提的な知識の不足のために、深遠な?内容が理解不十分で終わってしまうときがある。いつかも書いた気がするが、関係参照文献の掲記(頁数等を含む)がないことと、字数の制約によることも大きいと思われる。

 4/15号の「不買の勧め」は朝日新聞批判で、これはかなり(又はほとんど)よく理解できた。

0861/潮匡人が月刊正論5月号で外国人地方参政権問題に論及するが…。

 外国人(地方)参政権問題につき、最高裁平成7年2月28日判決の「傍論」が述べた、法律で付与することも<できる>(付与しても、しなくとも違憲ではない)という所謂<許容説>は、元東京大学法学部教授の芦部信喜(故人)の説の影響が大きいと言われることもある。

 一度は芦部信喜の本(教科書)を見て確認しておかねば、と思っていたら、月刊正論5月号(産経)の潮匡人の連載コラム(この号は「リベラル派の二枚舌」との題)が芦部信喜『憲法』(岩波書店)の関係部分をそのまま引用してくれていた(何版、何年刊かは不明)。2頁のコラム中に全文引用できるほどに短く、簡単だ。
 「参政権は、国民が自己の属する国の政治に参加する権利であり、その性質上、当該国家の国民にのみ認められる権利である。したがって、狭義の参政権は外国人には及ばない。しかし、地方自治体、とくに市町村という住民の生活に最も密着した地方自治体のレベルにおける選挙権は、永住資格を有する定住外国人に認めることもできる、と解すべきであろう」。
 このあと、「判例も」として、「傍論」と注記をすることなく、上記の最高裁判決の所謂「傍論」部分を紹介しているらしい。
 以上の紹介は有益だ。もっとも、芦部信喜の代表的教科書は有斐閣版だったかとも思うので、あらためて調べて(=探して)みよう。
 しかし、潮匡人が兼子仁・新地方自治法(岩波新書)を挙げて、同著が改正地方自治法(2000年施行)は国・自治体の「『対等』原則を定め、まさに地方自治法制を一新したと言える」等と書いているとし、芦部信喜と兼子仁の二つの著は同じ岩波書店刊なのに、両者の「リベラル」な部分だけを援用する学者らは「二枚舌」だと述べているのは、いかなる意味・趣旨なのか理解に苦しむ。
 両人ともにたしかに<リベラル>で、その「左翼」性は兼子仁の方が高いというイメージ・印象はある。だが、芦部信喜もまた、東京大学の憲法学教授として(?)、<左翼・リベラル>だったと思われるので、潮匡人は<日本を惑わすリベラル教徒たち>の続編には是非、芦部信喜も対象としていただきたいものだ。また、「経済的自由」と「精神的自由」の保障の所謂「二重の基準」に言及するなどして潮匡人は憲法学(理論)にも造詣が深いようだから、新憲法制定時に東京大学の憲法学教授だった宮沢俊義の<思想>もまた、「リベラル教徒」批判の観点からでも、分析・検討していただきたいものだ。
 脱線しかけたが、かつての地方自治法のもとでは、都道府県や市町村の機関(知事や市町村長など)は当該都道府県・市町村自体の仕事ではなく「国」の仕事もかなりしていた。都道府県(の機関)で半分以上、市町村(の機関)で1/3程度とも、言われてきた。これを「機関委任事務」と称した。
 この時代には、知事や市町村長を選挙することは、「国」の仕事も相当程度に任されていた、「国」の下級行政機関を選任することでもあった。したがって、地方参政権は(とくに知事・市町村長選挙の選挙権は)、「国政」と直接に関係する、と言い易かった。あるいは、そのように簡単に断定できた。
 しかし、兼子仁のいう「『対等』原則」を定めた新地方自治法によって、「機関委任事務」は廃止され、都道府県や市町村(の行政機関)の仕事には「国」のものはなくなった。それぞれの仕事は「自治事務」と「法定受託事務」に分けられ、後者は少数だが「国」(の行政部)の仕事ではなく、あくまで地方公共団体の事務であることに変わりはなくなった(以上、改正地方自治法2条参照)。
 それでもなお、地方公共団体の仕事と「国政」との密接な関係を語ることができる。別の機会にこの論考にはもっと言及するが、月刊正論5月号(産経)所載の長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」のp.55-57はそのような例を示している。
 だが、「機関委任事務」を廃止した「新地方自治法」は法的タテマエとしては法律のもとでの国・地方自治体の「対等」を定め、従来の「機関委任事務」の実施に際してのように国の行政機関(要するに中央省庁)の指示・指揮に地方自治体の知事や市町村長等が<法的に>拘束されることはなくなったのは確かなので、兼子仁の叙述は客観性を欠く、<リベラルに偏向>したもの、では全くないと思われる。
 新地方自治法によって<地方分権>が従来よりも進められたのは確かな事実なので(これの評価は多様でありうるとしても)、岩波刊の芦部信喜著と並べて兼子仁の著(の潮匡人の引用部分)に論及する意味は全くわからない。
 潮匡人の文章をもう一度読み直すと、兼子仁著が述べるように新地方自治法による国・自治体の「『対等』原則」の定め、「地方自治法制」の「一新」があったので、「芦部の生きていた時代はともかく」、参政権付与が「自治体レベルなら許される」というのは、「現在では成り立たない見解」だ、ということのようだ(こうしか読めない)。

 しかして、上の叙述の趣旨はやはり???だ。どうしてこんな論理(?)になるのか? 何らかの勘違いがあるとしか思えない。あるいは、叙述ないし説明不足か?
 嫌いではない潮匡人のコラムなので、「程度の軽い瑕疵」(p.51末尾参照)だと見なしておくことにしようか。

 外国人地方参政権問題および関係最高裁判決について、より書きたかったことは別にある。別の機会にする。

0844/外国人(地方)参政権問題・その2。

 一 産経新聞2/19朝刊一面トップは「参政権付与は在日想定」等の見出しで、一定の外国人への地方参政権付与は違憲ではない(付与しなくても違憲でもなく法律レベルで判断できる)旨の「傍論」を明記した平成07.02.28最高裁判決の際の最高裁裁判官の一人だった園部逸夫への取材(インタビュー?)結果を紹介した。そして、園部見解は「外国人参政権推進派にとっては、大きな打撃」になるとの評価を強調しているように読める(署名は小島優)。
 また、かつて上記最高裁判決「傍論」の論旨にあたるいわゆる「部分的許容説」を採っていた憲法学者(中央大学・長尾一紘)が反省しているらしいことも含めて挙げて、翌2/20の産経新聞社説はあらためて<外国人参政権付与>反対を述べた。見出しは「付与の法的根拠が崩れた」。
 こういう報道や主張自体を問題視するつもりは、むろんない。
 但し、厳密には、「付与の法的根拠が崩れた」とまでは言えないだろう。
 なぜなら、平成7年最高裁判決は何ら変更されていないし、その「傍論」部分を否定する新しい最高裁判決は出ていないからだ。
 かりに園部逸夫が「主導的役割を果たしたとされる」(2/19)のが事実だとしても、その園部がのちに何と発言しようと、最高裁判決自体(「傍論」を含む)が取消されるわけではない。問題の最高裁判決の理由(「傍論」を含む)は5名の裁判官が一致した見解として書かれたもので、その内容を修正・限定するいかなる法的権能も、現在は私人にすぎない園部にあるはずがない。
 それにしても、1929年生まれで、私のいう<特殊な世代>(占領期の「特殊な」教育を少年・青年期に注入された、1930-35年生まれの世代。大江健三郎等々を含む)にほとんど近い園部逸夫とはいかなる人物なのか。
 問題の「傍論」部分には「(在日韓国・朝鮮人を)なだめる意味があった。政治的配慮があった」と明言したらしい。
 5人の裁判官の合意の上で書かれたはずの文章部分について、当時の裁判長でもない一人の裁判官だったはずなのに(裁判長であっても許されないが)あとからその趣旨・意図を解説してみせる、というのは、取材記者による誘導があったかもしれないが、かなり異常だ。
 判決理由中で書かれた文章が客観的に社会に残されたすべてであるはずなのに、他の4人に相談することもなく(?)一人で勝手に注釈をつけるのはどうかしているし、その内容も異様だ。
 この点では、テレビ中継は見ていないが、産経新聞3/6によると枝野幸男(行政刷新相)が参院予算委員会で語ったという、「政治的配慮に基づいて判決したのは最高裁判事としてあるまじき行為だ」との批判は当たっている。
 「その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)という裁判官の職責に抵触していない、「良心」と<政治的>配慮は区別し難い場合もあるから、という反論・釈明は可能かもしれないし、もともと園部逸夫の発言の趣旨が厳密に正確に報道されたのか、という問題もあるかもしれない。
 しかし、紙面によるかぎりは、園部逸夫という人が、最高裁裁判官だった者としてふさわしくない発言をしているのは確かだ。
 そして、最高裁裁判官になった人ですら、ひいては最高裁判決ですら<政治的>配慮をすることがある、ということを(あらためて?)一般に知らしめた、ということでも興味深い。
 園部逸夫の歴史認識には正確でないところがあるようだが、いずれにせよ、朝鮮人・韓国人に対する<贖罪意識>が基礎にあるように推察される。そして、かかる<贖罪意識>は、上に触れた<特殊な世代>のみならず、そのような世代の意識を継承した、またはそのような世代によって教育を受けた、より若い世代にも―裁判官を含む専門法曹の中にも―広く蔓延している、と見られる。
 この(中国人に対するものも含む)<贖罪意識>と、日本「国」民ではない多様な文化を背景とする人々との「共生」、<多文化共生社会>を目指そうという一種のイデオロギー-後者は「ナショナルなもの」の無視・否定という戦後の大きな<思潮>に含まれる、またはそこから派生している―が、外国人(地方)参政権付与「運動」の心理的・精神的支柱に他ならないだろう。
 二 某神社(神宮)のグッズ販売所(?)のカウンターに、日本会議という団体発行の月刊「日本の息吹」3月号というのが自由にお取り下さいという感じで置かれてあったので、初めて見たこの雑誌(冊子)を持ち帰り、少し読んだ(ひょっとして有料だったのか?)。
 百地章が「提唱者も否定した外国人参政権」という一文を寄せている(p.12-13)。
 提唱者=長尾一紘も改説して「否定」し、当事者として「主導したと思われる」園部逸夫元裁判官もいわゆる「傍論」を「批判」している、という。
 百地章によると、園部逸夫は三年前の某雑誌(日本自治体法務研究9号、2007年)で、「この傍論を重視するのは俗論である」と「批判」したらしい。百地は「園部氏もさすがに傍論が一人歩きしているのはまずいと多少は責任を感じられたのでしょうか」、「となれば…傍論の当事者たる裁判官によっても否定されたことになります」と続けている。
 二つの感想が湧く。まず第一に、叙上のとおり、いったん書かれた判決理由がすべてであって、裁判官を退いてから、あとで何らかの修正・限定をしようとしているとすれば、そのような文章を書いた園部逸夫は異様だ。それに、百地引用部分のかぎりでは、「傍論を重視する」、「俗論」の意味がいずれも明瞭ではない。前者は要するに<程度>問題だと思われるし、後者の「俗論」とはいかなる意味の言葉なのかもはっきりしない。傍論は「法の世界から離れた俗論」だと言うならば、また、園部は「主観的な批評に過ぎず…」とも書いているらしいが、このような「傍論」の理解は奇妙だと考えられるし、そもそもそのような「法の世界から離れた俗論」にすぎないとされる「傍論」を含む判決理由の作成に参画し合意したのは園部自身ではないか、という奇怪なことになる。
 つぎに、百地章は「したがって部分的許容説はもはや崩壊したも同然です」とまとめているが、ここで「崩壊したも同然」とだけ書かれ、「崩壊した」と断定されていないことに、(少なくとも法的には)注目される必要がある。
 百地章も認めるだろうように、平成7年最高裁判決は変更・否定されずにまだ「生きて」いるのだ。
 提唱学者が改説し、当事者裁判官の一人がその意味を減じさせようとするかのごとき発言をした、と書いて、あるいは報道して、その<政治的>意味をなくそう(または減じさせよう)とすることに反対するつもりはない。だが、平成7年最高裁判決が法律による参政権付与を許容する「一定の在日外国人」の範囲は同判決の文言に照らして厳密に検討する必要があるとしても、「法的」(あるいは「判例」としての)意味が完全になくならないかぎりは、それはなおも<政治的>意味を完全には失わないだろう。
 心ある法学者または憲法研究者がなすべきことは、<傍論>にすぎないとか、提唱者や当事者裁判官も否定・批判(疑問視)しているとかと言い募ることではなく、憲法解釈論としていわゆる「傍論」部分を正面から批判し、判例変更を堂々と主張し要求することではないか、と思われる。
 平成7年最高裁判決について、主文に直接につながる部分と「傍論」とは<矛盾>している、と批判する<保守派>の論調もあるようだ(百地章も上の文章の中で「この奇妙で矛盾した傍論」と書いている)。
 だが、憲法上は権利として保障(付与)されていないが法律で付与することは違憲ではない(法律で付与しなくても違憲ではない)という論理は一般論としては成り立つものだ。憲法上の「人権」等として保障されていなくとも、法律レベルで具体的権利が付与されている例はいくらでもある。
 憲法15条のみの問題として把握するのではなく、国政と地方政治(地方行政)は同一ではないことを持ち出して、憲法92条(「地方自治の本旨」)・93条(「住民」)上のいわば白紙部分を法律で補充することを容認する、という憲法解釈を採用することがまったく不可能とは思えない(そして、そのような旨をいわゆる「傍論」は明言したことになる)。
 このことをふまえたうえで、国政と地方政治(地方行政)は同一ではないが、いずれも広義には「国家」の統治作用であり、明瞭に区別することはできない(=地方政治・行政も狭義の「国」政と無関係ではなく、影響を与える)、等々の議論をして、平成7年最高裁判決のいわゆる「傍論」部分を正面から問題視することの方が、よりまっとうでまともな議論の仕方だろう。
 遅ればせながらの、かつ傍流(?)的感想として。

0707/民主党・鳩山由紀夫の外国人地方参政権容認発言について。

 一 産経新聞・阿比留瑠比のブログによると、民主党・鳩山由紀夫幹事長は、こう発言した、という。順番に、一部抜粋。
 1.「永住外国人地方参政権付与問題、日本人にどういうメリットがあるのか」との問いに対して
 ・「日本人が自信を失っていると。自信を失うと、他の国の血が入ってくることをなかなか認めないという社会になりつつあるなと。それが非常に怖い」。
 ・「定住外国人」は「税金を彼らが納めてるわけですよね。地域に根が生えて一生懸命頑張ってる人たちがたくさんいるわけです。度量の広さをね、日本人として持つべきではないか」。「自信があれば、もっと門戸を開いていいじゃないか」。
 ・「出生率1・32とか低いところにあるわけですから、この出生率の問題だけ考えても、もっと海外に心を開くことを行わないと、世界に向けても尊敬される日本にならないし、また日本の国土を守ることもできなくなってくる」。
 2. 「地方参政権と国政参政権は違う」ことに関して
 ・「地域に根ざして頑張ってる」、「彼らが地域の行政、参政をする、参画をする必要がある」。「ただ、国政になると、まさに国益の議論をもっと深刻に議論しなければいけないときがあると思うので、そこまでいま広げる必要はない」。
 3.その他
 ・「アメリカの良さはそういう度量の広さ、色の白黒の問題もありますけども」。
 ・「自信のあるなしの問題なんですよ。自信があれば、もっと度量を広く持てば、日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから。もっと多くの方がたに参加してもらえるような、喜んでもらえるような、そんな土壌にしないとダメです」。
 ・「日本人がアメリカに何か憧れたりするわけでしょ? 私は例えばオバマ大統領を生んだアメリカってのはすごいと思いますよ。絶対にそのようなことは日本では起こりえないですよ、今のような発想では。もっともっと心を広く持たないと。仏教の心をね、日本人が世界でもっとも持っているはずなのに、なんで他国の人たちが、地方の参政権一つを持つことが許せないのかと。少なくとも、韓国はもう認めているわけですよね。彼らが認めていて、我々が認めないというのは非常に恥ずかしい」。
 阿比留や百地章のコメントは省略。
 二 以上を知って、こんなことを言う、又はこんなことしか言えない人物が民主党の幹事長であることに(そして政権を担う一人になる可能性があることに)慄然とする。細かなことには触れないで、基本的なことのみまず指摘する。
 具体的なことを言えば、第一に、この人は外国人(の一部)が<帰化>して日本人になること(そして日本人として参政権をもつこと)と、外国人のままで(地方)参政権をもつことを混同しているか、同様のことと考えている。つまり、概念的・論理的に上の二つが区別できていない。すなわち、例えば、以下のごとし。
 ①出生率に言及しているのはおそらく人口減を防止するために…、という理由づけだろうが、それは<帰化>者増加による「日本」国民の数の減少防止に関する話で、外国人の参政権の問題とは全く関係がない。
 ②アメリカへの言及があるが、アメリカが多様な人種から成り立っているとしてもそれは基本的には全て「アメリカ」国籍者の出自の多様性を意味しているだけで、「アメリカ人(国籍者)」から見て外国人の参政権の問題とは全く関係がない。
 第二に、国政参政権と地方参政権の区別がきちんと整理されていない。すなわち、鳩山由紀夫がいう、①税金支払い、②日本人は自信(包容力)をもて、という根拠は、地方参政権のみならず、国政への参加権の付与の根拠になりうる。
 なぜなら、外国人でも(少なくとも「定住」者は)所得税や消費税という<国税>を納めている。彼らが負担しているのは、住民税・固定資産税等の<地方税>だけではない。
 また、「度量の広さ」をもて、「心を広く持たないと(いけない)」と主張するならば、国政参政権も認めないと論理的には一貫しない。
 したがって、国政参加権は別だという鳩山の理由づけは、次のように曖昧になっている。
 「まさに国益の議論をもっと深刻に議論しなければいけないときがある」と思うので、そこまで「いま」広げる必要はない。
 国会議員による議論・法律制定等は全て「国益」に関係するのであり、「…ときがある」というような程度・範囲ではないだろう。また、鳩山は、「いま」広げる必要はない、と述べて、将来的には認めても構わない、認める可能性がある、という含みを残している。
 最高裁判決を確認しないが、一定の外国人への国政・地方参政権の法律上の否定は違憲ではない、但し、地方参政権に限っては法律で(現行法上は地方自治法ではなく公職選挙法の改正により)それを認めることもできる(「立法裁量」の範囲内)、という重要な傍論つきだった、と思われる。
 上の国政参加権に関する鳩山由紀夫の発言のニュアンスは、 この最高裁判決に反対する趣旨を含んでいる(最高裁判決批判自体が悪いわけではないが)。
 三 鳩山由紀夫の上記発言は、マクロ的にみると、結局、日本は開放的で寛容な<国際主義>に立つべきで、閉鎖的で偏狭な<ナショナリズム>を持つべきではないという、戦後日本の<主流>派的な、空気のように感じられている、独特の<意識>にもとづくものと考えられる。
 戦後教育を受け、自民党にかつていて共産主義(・社会主義)社会を目指すわけではないが、「さきがけ」を結成したように、とりわけ大都市部の「市民」の<進歩的な>(そして「国際主義的」な>)意識を鳩山(兄)は無意識にせよ形成してきたものと思われる。
 閉鎖的で偏狭な<ナショナリズム>こそがかつての日本を「戦争」に追いやり「敗戦」をもたらした、と(GHQらの史観と基本的に同様に)思い込んだままなのではないか。おそらくはこのとおりなので、鳩山(兄)は、いくら批判されても、疑問視されても、基本的な考え方を変えないだろうと思われる(鳩山由紀夫と同様の地方参政権付与賛成者の多くもそうだろう)。
 したがって、基本的な問題は、現在において、開放的で寛容な<国際主義>と、閉鎖的で偏狭な<ナショナリズム>(あるいは「愛国」主義・「国益重視」主義)、という対立軸を潜在的な意識の上で立ててしまってよいのか、にある。
 あるいは、<国際主義>は「開放的・寛容」で善、<ナショナリズム>は「閉鎖的・偏狭」で悪、という基本的な考え方・意識そのものに問題はないのか、をまず問わなければならない。この点を解きほぐして、基本的な立脚点たる<イメージ>と称してもよいと思われる意識を変えさせないと、鳩山由紀夫は変わらないし、自らの議論の非を認めることはないだろう。
 上のようなア・プリオリな価値判断は抜きにして、<国際主義>か<ナショナリズム>(愛国主義・国益優先主義)かが、それぞれの意味内容自体の議論も含めて、きちんと検討されなければならない(この区別は従来にいう「左翼」・「保守」の区別と必ずしも一致するわけではないと考えられる)。

0221/年金記録紛失問題の浮上は今なぜ?

 年金記録紛失問題がなぜ今頃になって、参議院議員選挙の前に出てくるのか、という疑問は当然に出てくる。
 産経の客員編集委員・花岡信昭の6/06のコラムは、上の問題は「安倍政権の「失政」による」のではない、「社会保険庁という、なんともいかがわしい役所の親方日の丸体質が生んだものだ」、「まじめに働かず、ずさんな仕事を続けてきた体質の根源は職員組合にあった。日教組と並んで批判の的となってきた自治労である。民主党の有力な支援母体だ」などと書いている。
 つづけて同氏の6/13のコラムは経緯についてより詳しく、民主党の要求により社会保険庁の調査で<5000万件未処理>が判明した旨を日経新聞の2/17記事が報道したが当時は殆ど問題にされなかった、5月の国会審議で再浮上し、5/23に小沢一郎・民主党代表は「参院選の最大の争点にするよう指示」、翌5/24にも党会議で「一丸となって取り組む姿勢」をアピールした、等と書いている。
 6/10の「~委員会」と題するテレビ・トーク番組でも話題になっていた。録画から書き写そうかと思ったが、すでに他のブログサイト(「ぼやきくっくり」)に掲載されているので、無断だが利用させていただく(抜粋、一部省略の部分あり)。

 <花田紀凱年金問題は、年金の記録消失というのがなぜ出てきたかといえば、結局、社保庁を解体しようとしてる、それに対して社保庁の職員、自治労の連中が一番現場でああいうことを知ってる。もう昔からああいうふうになってることを、彼らは知ってるわけです。その情報を民主党に流した。」
 社保庁つぶしに対する抵抗なんですよ、あれ。しかも、別に記録が消失したからといって、年金がなくなるわけじゃない。記録を照らし合わせればいい、時間をかけて。だから、民主党のデマゴーグなんです。それが争点になるってこと自体がおかしいんです。そりゃ慌てて安倍さんが対策ねるのはしょうがないけども」。
 宮崎哲弥転記洩れとかね、いろんな記載漏れってのは、わざとやったところがあって、自治労は反合理化闘争の一つとして、オンライン化したりコンピューターが電算化したりすることに反対したわけです。それの闘争の一環としてやられたところもあるから、私は決して自治労がこの問題に対して、えらそうなことは言えないと思う」。
 森本敏今の総理に全部の責任を押し付けるっていうのはどうかしてる」。
 宮崎哲弥自治労にも責任があるわけ」。
 
花田紀凱自治労だよ、一番悪いのは」。>
 社保庁の職員(→自治労)に一番の責任があるようだが、しかし、今年の2月に新聞報道されていたという<年金記録紛失>の事実は、現場の職員ならば、5年前でも、3年前でも、昨年でも、とっくに知っていたことではなかろうか
 にもかかわらず今の時期に大問題化したというのは、職員(自治労?)の側から正確なデータが民主党に渡ったこと、又は朝日新聞等の<思惑のある>マスコミに同じデータが渡ったことに加えて、当該マスコミや民主党が<政治問題化>・<政治争点化>しようとしたことによる、と十分に推測できる。
 ところで、社保庁の職員を問題にするとき、忘れられてならないのは、同じことだが是非指摘されるべきなのは、彼らは1947年以来2000年4月まで、「地方事務官」という特別の(風変わりな)身分の公務員だった、ということだ。
 地方事務官というのは地方自治法施行規程旧69条2号等に根拠をもつもので、「健康保険法、厚生年金保険法、船員保険法、厚生保険特別会計法及び船員保険特別会計法並びに国民年金法及び国民年金特別会計法の施行に関する事務」を担当する職員は都道府県知事の指揮監督を受けて職務を遂行するが、身分上は「国家公務員」というものだった(3号は旧労働省所管の職業安定所関係事務)。事務自体は旧法上のいわゆる機関委任事務(国の事務だが、都道府県知事等が大臣等の指揮監督を受けつつ国の省庁の下級機関として事務処理をするもの)だったようだが、同様に機関委任事務を担当している都道府県等の職員と同様に実質的には都道府県等職員の意識の方が強かった、とも言われる。
 そして、彼らの職員団体は「国家公務員」ならば加入できない筈の自治労に属していたようだ。しかし、推測になるが、もともと「地方公務員」から成る都道府県の職員組合(職員団体)とは同一の職員団体を構成せず、独自の職員団体を作り、自治労という上部組織だけを共通にしていたのではないかと推察される。
 地方自治法施行規程旧69条2号が定める事務が現在どのように整理されているかは複雑だが、国の(直轄又は直接執行)事務と都道府県の自治事務さらに市町村の「法定受託事務」に分かれているようだ(厳密な検討をしておらず、分類の詳細にも立ち入らない)。
 多くの職員が2000年4月以降は本来の法制どおりに国家公務員となった。本省・本庁を除けば都道府県の機関ではない国の地方出先機関としての社会保険事務局又はその下級機構の社会保険事務所で仕事をしていると見られる。
 そして所属の職員団体は国家公務員としてのそれになった筈だ。しかし、1999年6月14日の全 厚生職員労働組合書記長の
「地方事務官制度廃止法案の衆議院通過をめぐっての談話」は、6月9日の自民・自由・民主・公明・社民各党の国会対策委員長会議で自治労の要請を受け入れる形で、「地方事務官から厚生事務官への身分の切替えに当たって、各都道府県の職員団体へ7年間に限って加入を認める」という共同修正が確認されたことを明記している。
 ということは2007年=今年の4月まではなお自治労(全日本自治団体労働組合)に属する職員が多かったものと思われる(その後はどうなっているのか、「7年間」はさらに延長されているのかは私には不明だ)。
 なお、上の厚生労組書記長談話によると、「自治労(国費評議会)は、「国の直接執行事務」とすることは、①地方分権に逆行する。②行政改革に逆行する。③年金制度の崩壊、無年金者の増大につながる。とし、事務処理は都道府県への法定受託事務とし、地方事務官は地方公務員とすべきと主張してきた」。すなわち、2000年以前の、国・地方関係に関する制度設計の段階で、自治労は現在のような仕組みには反対だったのだ。
 もっとも、1999年7月9日の「全厚生職員労働組合」
地方事務官制度廃止にあたっての声明は、 地方分権一括法には「今後の制度改正時に社会保険の事務処理体制、従事する職員の在り方等について、被保険者等の利便性等の視点に立って、検討し必要があると認められるときは、所要の措置を講ずる」との附則が加えられたことを明らかにしているとともに、殊勝にも、私たちは、1980年以来、被保険者等の利便性を確保するために築き上げてきたオンラインシステムをさらに発展させ、民主的な行政運営と事務処理の効率化を通じて、より確かな国民サービスが提供できるよう奮闘するものである」と宣言?している。
 やや長々と無関係なことを記したようでもあるが、上に一部に触れたような複雑な公務員法制・国-地方関係法制の狭間にあって、旧「地方事務官」(地方で知事等の指揮の下で働く国家公務員)が、どの程度、職場倫理、公務員意識、仕事をする志気を涵養していたかは疑わしい、というのが私の推測だ。
 職員団体(又は労組)の役員ならば当然なのかもしれないが、職員の勤務条件を良くし(「楽さ」の確保)、職員団体の結束・維持に心を配り、上のように「…奮闘する」と表向きは言うとしても、仕事・業務の遂行自体が疎かになっていることは殆ど無視してきたのではないか。どの公務員職場にもあるそのような問題が、旧「地方事務官」の職場では複雑な法制をも背景としてさらに大きくなった、というのが私の推測なわけだ。
 それにしても、自分たちの仕事の怠慢を棚に上げて、現在の安倍内閣や自民党等の与党を政治的な窮地に立たせるために、社保庁関係の情報(年金記録紛失)を民主党や朝日新聞に<流した>社保庁関係の職員(職員団体役員?)がいる筈だ。恥を知れ、と言いたい。

0204/井上薫・司法は腐り人権滅ぶ(講談社現代新書)の愛媛県玉串料最高裁判決批判は妥当か。

 愛媛県玉串料訴訟最高裁平成9年4月2日判決は、愛媛県知事白石某の靖国神社・愛媛県護国神社への玉串料等の公金支出を憲法違反(政教分離違反)とした判決として著名だ。
 井上薫・司法は腐り人権滅ぶ(講談社現代新書、2007.05)は、この判決について面白いことを書いている。
 被告の一人だった白石某は判決言い渡し直前の3月30日に死亡した。井上は、白石某を被告とする訴訟は同氏の死亡により終了し、同氏関係の訴えは却下すべきだったとする。
 その根拠は、この訴訟は住民訴訟という地方自治法が認めた特別の訴訟で、被告は公金支出した「職員」に限られるところ、相続人はこの「職員」に該当しない、ということにあるようだ(とくにp.136)。
 私は最高裁の憲法違反(政教分離違反)という結論には納得がいかない部分があるので、そのかぎりでは、井上の、(白石関係では)最高裁は本案判断せず、却下すべきだったという意見に<政治的>には魅力を感じる。
 だが、法的議論としてはどうなのだろうか。かりに、井上の法的見解が妥当だとすれば、最高裁大法廷の15人の裁判官全員、そして井上と同旨の意見を判決後に述べた法律専門家全員本案判断可能を前提にしているので(p.146)、井上のこの本での主張はただ一人の、画期的なものであることになる。
 私見はこうだ。たしかに住民訴訟は特別な訴訟で、地方自治法において訴訟の相続人への承継に関する条項などは何らないようだ。
 しかし、そのことをもって、地方自治法に書いていないから損害賠償義務は相続されない、とは言えないだろう。
 住民訴訟は地方自治体がもつ損害賠償請求権を住民が代位行使するという特別な訴訟なので(但し、現行法は少し変えているようだ)、地方自治法に明記されている者のみが被告や原告になれる、と井上は考察しているのだろう。
 だが、実体法的には、紛争の争点は、地方自治体が問題の「職員」に対して損害賠償請求権を具体的に有するか否かで、通常の(不法行為)損害賠償請求訴訟と変わらない。そして、損害賠償義務者が死亡すれば、その義務は相続人に承継されるのであり、かつ住民訴訟という訴訟形態であっても、これを前提として判断してよいのではなかろうか(p.136の論旨が妥当か否かに帰する)。
 井上はあまりに住民訴訟を特別扱いしすぎており、本体は損害賠償請求権の有無という「主観的」なもの(=「法律上の争訟」たりうるもの)だという側面を軽視しているのではなかろうか。
 元裁判官の井上に主張にあえて楯突く意図はないのだが、最高裁の裁判官全員、最高裁の担当調査官、そして住民訴訟に詳しい者もいる筈の学界等の全員が、基本的な問題点を看過していたとは容易には想定できないのだ(かりにそうだとすると井上氏は謬見を公にしていることになる。私は近年、講談社の出版・編集姿勢に疑問を感じているが、同社の現代新書の信頼性をさらに下げることになろう)。
 政教分離の憲法問題自体には、別の機会に触れたい。

0139/島根県教育委員会、日本教育再生機構主催集会の後援を拒否。

 産経5/11によれば(izaなし)、島根県教育委員会は、八木秀次が理事長の日本教育再生機構が主催の島根県内での3月のタウンミーティングの後援依頼を拒否した、という。
 同記事によると主催者側は、島根県教委はジェンダーフリー等の講演は後援しているのにと判断基準を問題にしている。県教委は、八木氏の「主義主張」や日本教育再生機構のパンフの記述内容を問題にしており、一方、八木氏は「思想差別」と憤っているようだ。
 この記事だけからすると、フェミニズムに立つジェンダーフリー関係集会についての後援例があるのだとすると、島根県教委の後援する・しないの基準は合理的ではない。それに今回は主催団体の冊子(パンフ)までチェックしているようだが、従来の全ての後援例について主催団体の冊子(パンフ)を事前にチェックしてきたのだろうか。そうでない事例があるとすれば、「平等」・「公平」な行政とはいえない。
 なお、島根県教委は日本教育再生機構のパンフが日本を「国の中心に一系の天皇をいただいてきた伝統の国」としていることを問題視したようだが、象徴天皇制であっても、「国の中心」という表現は誤りではないだろう。また、八木らの団体は政府が進めている教育改革を民間の立場から「応援」するものの筈だ。
 島根県教委はいったい何を考えているのか。島根県教組(組合)の意向を気にしているのだとすれば、この県の教育委員会事務局も心理的に教員組合の「不当な支配」の下にあるのではないか。
 島根県議会の中にいるだろう「まっとうな」議員たちは、県教委の「後援」の運用についてもしっかりと監視し、問題があれば注文をつけるべきだ。

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