このインタビューまたは対談の記事は、西尾幹二が執筆したものではない、あるいは西尾が事前に用意した文章原稿をそのまま基礎にしていないと見られるため、西尾幹二の「本音」および「本性」が表現されているところがある。
一つは、西尾幹二は自分自身の経歴または「歴史」をどう振り返っているかだ。これをもっと正確に言えば、西尾幹二は「保守」(主義)の評論家・「もの書き」だという自己規定、あるいはそのように(「保守」派だと)外部・世間からは受けとめられているという「自覚」を、いつ頃からもつに至ったのか、という問題だ。
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聞き手の辻田真佐憲はまだ若いためか、西尾の作業、その「歴史」を正確には知っていないようだ。
引用は省略するが、①西尾の大学院修士課程後のドイツ「留学」からの帰国後に(たぶん1962年—秋月)「現在に続く論壇でのお仕事をされるようになったのか」と質問している(全集22A、p.478)。
また、②1964年の雑誌「自由」懸賞論文や1969年年の数冊の書物刊行に西尾が触れたあとで、辻田は「保守言論人としてそこからスタートをされるわけですね」とも(確認的に)質問している(同頁)。
別に触れるが、西尾の回答はいずれについても<違う>だ。
むろん「保守」(主義)の意味にかかわってはいるが、上の問題に秋月が関心をもつのは、この辻田の浅い理解に加えて、つぎのような<評価>が、西尾幹二について行われているからだ。
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a 「真の保守思想家」(の集大成的論考)—西尾・歴史の真贋(2020、新潮社)のオビ。
b 「確乎不抜の保守主義者だった」—吉田信行・月刊Hanada2025年1月号の追悼論稿の表題。
c 「保守論壇『最後の大物』といえる人物だった」—月刊正論2025年1月号追悼特集の前書き(編集部)。
これらの「保守」とは何だろうか。
a で意味の説明がないのは当然として、b、cでの「保守」も、産経新聞「正論」欄担当者(論説委員長)や月刊正論編集部が用いる「保守」(論壇)なのだから、西尾はそれらの雑誌等における「保守」の人物だったと位置付けられているにすぎない。
そして、産経新聞(「正論」欄)や月刊正論は自らを「保守」だと、あるいは「保守」派の新聞・雑誌だと自称または自己評価してきたはずだ。
そうすると、西尾幹二が「保守」の人物だと言うのは、その「保守」に<反共産主義>、<反左翼>程度の意味はあるとしても、産経新聞「正論」欄や月刊正論が原稿執筆を(文章執筆請負業者に)依頼してきた、つまり「起用」してきた人物の一人だった、というのとほとんど同じことだろう。つまりは、ほとんど何を意味しているかが不明の循環論法的言明で、産経新聞・月刊正論等が「保守」系メディアだと言う場合の「保守」とは何かがさらに問題にされなければならないわけだ。
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もう少しは立ち入って、西尾幹二における「保守」を話題にしてみたい。その際、西尾幹二自身による「保守(主義)」に関する議論には重きを置かない。
そうではなく、 <日本会議>との関係に注目したい。1960〜1980年代、西尾幹二は、生長の家・日本青年協議会(→日本会議)と何の関係もなかった。次回に移す。
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ところで、上のb は、関係「評論家」らの没年をかなりまとめて列挙してくれている。c で西尾が「最後の」と形容されていることとの関連でも興味深くはある。以下に紹介しておく。(櫻井よしこ、平川祐弘、加地伸行らは「大物」と見なされていないようであることも面白くはある。年齢で八木秀次、「起用」回数で佐伯啓思は、きっと論外なのだろう)
1994年11月、福田恆存。
1996年02月、司馬遼太郎。
1997年09月、会田雄次。
1999年07月、江藤淳。
2012年・猪木正道、2017年・渡辺昇一、2018年・西部邁、2019年・堺屋太一、2022年・石原慎太郎。
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