のちに上記の映画を観ることがあったが、私の好みの文筆家・関川夏央・昭和が明るかった頃(文春文庫、2004)は、「女性の結婚への希望と家庭への願望の方に重心を大きく傾けた」のが映画ヒットの主因の一つとする(p.376)。
これは間違いだろう。原作もそうだが、「結婚への希望と家庭への願望」は付随的テーマにすぎない。むしろ、青山和子の歌った上記の歌や吉永小百合歌唱の映画主題歌としての「愛と死のテーマ」こそが、フェミニストから見れば許されない程に?、「弱い女」・「慕う女」のイメージで歌詞が作られていて、大島みち子氏の強さと逆に河野実氏の(実在の方に申し訳ないが)弱さを感じさせる原作から見れば違和感がある。
関川はまた言う。大島が死ぬ前に下さいといっている三日のうち、恋人といたいというのはたった一日にすぎない、と。二人の「愛」も、女性の気持ちもそんなものだと言いたげだが、これも間違っている。かりに自由な(そして健康な)三日間が与えられたとすれば、一日を父母・兄妹と過ごし、一日を一人で「思い出と遊ぶ」というのは至極当たり前の気持ちではないか。関川は恋愛至上主義者でもあるまいし、三日間とも恋人と一緒にいたいと書いてほしかったのか。いや、大切な三日のうち一日を「あなた」と過ごしたいと思うだけでも、素晴らしい恋愛であり、河野青年への「愛」だった、と私は思う。この物語、そして映画の主題は20~21歳の男女に実際に成立した恋愛そのものであったからこそヒットしたのであり、「結婚への希望と家庭への願望」に重きを置いたからでは全くないと私は思っている。
一方、関川の、「男性側の『子供っぽさ』『成熟への拒絶』と、期せずして母親の役割を果たさざるを得なかったオトナの女性の『みごとな覚悟』といったすぐれて戦後的な対比をあえて排除」という指摘はほぼ同感で、映画上の浜田は原作の青年の苦しみと弱さをうまく演じてはいないが、これは浜田の責任というより脚本のなせる技だろう。
なお、読書中の浅羽通明・昭和三十年代主義(幻冬舎、2008)には「愛と死をみつめて」は二回しか登場せず(索引による)、しかも「純愛」ものというだけの言及で、本格的な分析・論及は何もない。この本のアヤシゲさの一つの現れでなれればよいのだが。