Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
〈第15章・ニーチェ〉第10節の試訳のつづきで、最終回。
——
第10節③。
(03) 生を肯定する道徳を受容することのできる生物は、〈Übermensch〉、超人(Overman)だった。
この言葉は、今世紀の初めには「Superman」と呼ばれるようになった。
この語はもともとは〈ツァラトゥストラはこう語った〉に出ており、明瞭な意味をほとんど持っていなかった。
〈Übermensch〉は生を肯定する。
愉快で、無邪気で、本能的で、自分の本能による衝動を持っている。
将来に存在する生物のように見える。というのは、ニーチェはある箇所で、人類を野獣と〈超人〉の間を架橋するものとして描いているからだ。
この生物は、人類がキリスト教や近代自由主義の禁欲的理想からつき離されたときにどのようなものになるかの、ニーチェの理想の類型のように思われるだろう。//
(04) 近年の論評者はこの概念を相当に中立化している。しかし、種々のことが語られていても、全てがおそらくは間違った接近方法をとっている。
疑いなく、ニーチェはその言う〈超人〉としてヒトラーのような人物を想定していなかった。そして〈超人〉は、彼の心の裡でははるかにGoethe のような人物だった。
それにもかかわらず、〈超人〉は明らかにリベラルな諸価値とは相容れないように見える。そして、ニーチェ哲学の多くとともにこの概念を擁護しようとする近年の試みは、19世紀のさらに別の大きな危機と融合しようとするブルジョア文化の試みにすぎないと、私には思える。//
(05) この時代のヨーロッパの知的世界の考察を、本書はRousseau から始めた。
ニーチェでもって終えるのは、偶然ではない。
彼は、Rousseau 的見方に対する最も厳しい批判者の一人だ。
貴族制とブルジョア社会の両方を非難したのは、Rousseau だった。だが、彼の解決策は急進的に平等主義的なものだった。
古代世界で彼が好んだのは、古代の市民的美德であり、この美德は急進的に平等主義ではない社会に宿っていた。
Rousseau が将来に投影したのは、平等主義の展望だった。
彼は、聖書が失墜した世俗的見方から帰結するものとして社会を描いた。
そして、あけすけの意欲の力でもって、道徳的にも経済的にも他の人間に優越する地位を築いた者たちを非難した。
彼の見方では、このような状況が近代社会の虚偽(falseness)につながった。
Rousseau は、急進的な平等主義にもとづいてこれを批判したかった。
また、人間がそのために生命を捧げるべき力として一般意思と市民宗教(Civil Religion)を樹立したかった。//
(06) ニーチェは、このような見方に関する全てを憎悪した。
彼は、優越者たる地位を築いた古代の人物たちを尊敬した。
Rousseau が書いたもの全てに、プラトンとユダヤ・キリスト教の伝統の両方の香りを嗅ぎ取った。
彼はその急進主義にもかかわらず、本当の知的勇気を持たない、とニーチェは考えた。
Rousseau は、確定的ではない生物という自然状態から生まれ来たるものだと、人間を描いた。そのような生物は、自分たちの基本的な性格を作り上げていく必要があるのだ。だが彼は、自分自身の見方の根本的なニヒリズムから離れていた。
ニーチェが提示し、次の世紀のヨーロッパの知的世界の中心に持ち込んだのが、ニヒリズムだった。
人間の本性は、彼にとって、本当に確定的ではない。
人間は、それを確定しなければならない。そして、ニーチェは、彼の世代の者たちが主張する全てのイデオロギーはその任務を果たすには不適切だ、と考えた。//
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第10節、終わり。〈第15章・ニーチェ〉も、終わり。
〈第15章・ニーチェ〉第10節の試訳のつづきで、最終回。
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第10節③。
(03) 生を肯定する道徳を受容することのできる生物は、〈Übermensch〉、超人(Overman)だった。
この言葉は、今世紀の初めには「Superman」と呼ばれるようになった。
この語はもともとは〈ツァラトゥストラはこう語った〉に出ており、明瞭な意味をほとんど持っていなかった。
〈Übermensch〉は生を肯定する。
愉快で、無邪気で、本能的で、自分の本能による衝動を持っている。
将来に存在する生物のように見える。というのは、ニーチェはある箇所で、人類を野獣と〈超人〉の間を架橋するものとして描いているからだ。
この生物は、人類がキリスト教や近代自由主義の禁欲的理想からつき離されたときにどのようなものになるかの、ニーチェの理想の類型のように思われるだろう。//
(04) 近年の論評者はこの概念を相当に中立化している。しかし、種々のことが語られていても、全てがおそらくは間違った接近方法をとっている。
疑いなく、ニーチェはその言う〈超人〉としてヒトラーのような人物を想定していなかった。そして〈超人〉は、彼の心の裡でははるかにGoethe のような人物だった。
それにもかかわらず、〈超人〉は明らかにリベラルな諸価値とは相容れないように見える。そして、ニーチェ哲学の多くとともにこの概念を擁護しようとする近年の試みは、19世紀のさらに別の大きな危機と融合しようとするブルジョア文化の試みにすぎないと、私には思える。//
(05) この時代のヨーロッパの知的世界の考察を、本書はRousseau から始めた。
ニーチェでもって終えるのは、偶然ではない。
彼は、Rousseau 的見方に対する最も厳しい批判者の一人だ。
貴族制とブルジョア社会の両方を非難したのは、Rousseau だった。だが、彼の解決策は急進的に平等主義的なものだった。
古代世界で彼が好んだのは、古代の市民的美德であり、この美德は急進的に平等主義ではない社会に宿っていた。
Rousseau が将来に投影したのは、平等主義の展望だった。
彼は、聖書が失墜した世俗的見方から帰結するものとして社会を描いた。
そして、あけすけの意欲の力でもって、道徳的にも経済的にも他の人間に優越する地位を築いた者たちを非難した。
彼の見方では、このような状況が近代社会の虚偽(falseness)につながった。
Rousseau は、急進的な平等主義にもとづいてこれを批判したかった。
また、人間がそのために生命を捧げるべき力として一般意思と市民宗教(Civil Religion)を樹立したかった。//
(06) ニーチェは、このような見方に関する全てを憎悪した。
彼は、優越者たる地位を築いた古代の人物たちを尊敬した。
Rousseau が書いたもの全てに、プラトンとユダヤ・キリスト教の伝統の両方の香りを嗅ぎ取った。
彼はその急進主義にもかかわらず、本当の知的勇気を持たない、とニーチェは考えた。
Rousseau は、確定的ではない生物という自然状態から生まれ来たるものだと、人間を描いた。そのような生物は、自分たちの基本的な性格を作り上げていく必要があるのだ。だが彼は、自分自身の見方の根本的なニヒリズムから離れていた。
ニーチェが提示し、次の世紀のヨーロッパの知的世界の中心に持ち込んだのが、ニヒリズムだった。
人間の本性は、彼にとって、本当に確定的ではない。
人間は、それを確定しなければならない。そして、ニーチェは、彼の世代の者たちが主張する全てのイデオロギーはその任務を果たすには不適切だ、と考えた。//
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第10節、終わり。〈第15章・ニーチェ〉も、終わり。