昨日のサンデー・プロジェクトは珍しく生で見た。読売、毎日、朝日の論説委員長・主幹の三人が登場して憲法改正問題を論じていたが、録画によって確かめてみると、最初の発言の機会の、朝日・若宮啓文の言葉はこうだった(質問者は田原総一朗)。
「九条はそのままにしようということですから、九条に関しては護憲です。ただすべての憲法をこのままで何が何でもということではないという意味では、改憲ではないけど、何が何でも護憲というのではないかもしれないけど、しかし九条に関しては今の方がよい、こういうことです。」
湾岸戦争のようなことが起きたとき、日本は参加するのか? 「平和安保基本法を作ろうという趣旨は、九条はやはり、日本の、きわめて特殊かもしれないけれど、世界に対するメッセージとして、こういう憲法を持ってるんだというのは、資産ではないか。これからいろんな意味で日本が世界のために、世界は大変ですよ、地球のためにいろんな分野で貢献していくうえで、やっぱり九条は持ってた方がよいと、それは国民の多数の意見にもかなうのでないか。
とくにね、読売新聞もそうだし自民党の案もそうだけれど、九条を変えて自衛軍隊にしようというわけですね。軍隊を持つというのは、そりゃまぁ自衛隊はかなりね軍隊に実体は近いかもしれないけれども、あえて軍隊にしようというのはね、世論調査をやっても、かなり低いんですね。だから、さっき朝日新聞の調査で自衛、ごめんなさい、九条を改正してよいという人は33%ですね。33の中にもね、自衛軍にしたいという人も勿論います。いるけれども、今の自衛隊を九条に位置づけるくらいはいいじゃないか、その方が解りやすいという人もいるわけです。自衛隊はだいたい定着しているのだから。」
「まぁそこのところはむつかしいところだけど、僕らの判断として、やはり九条はメッセージ性が強いから、このまま変えないでおいておこうと。その代わり、自衛隊の役割は、憲法の意も体して、こういうものだというようなものを基本法で作ったらいいんじゃないかと。」
太田光の「憲法は世界遺産だ」を社説で取り上げたが、遺産だと思っている?-「遺産というともう終わっちゃった古びたものというんで、遺産という表現がいいかどうかわからないけど、しかし、戦争が終わったときに、日本人の多くも、もうこりごりだ戦争はと思った、アメリカはアメリカでもう日本にこういうことはさせまいと思った。そういうものが合致して、いわば押しつけだけじやなくてね、日本人の多くの意思と合致して、いわば共同で作った、そういう意味での奇跡だと言ってるわけね、彼は」。
安倍さんたちは占領軍の押しつけだというが、そうじゃないと、占領軍の思惑もあるけれど、日本の側にもそういう熱い希望があった、と?
「そうです。もちろん、占領軍の強い意思によって、原文が書かれたのは事実だけれども、日本人の多くがこれを非常にホッとして受け入れたわけですよ。そのことを忘れて、何か押しつけられたんだから、いつまでもこれを持っているのが占領体制の継続だというのは、僕はちょっと……。」
のちの発言もとり上げるとより正確になるだろうが、これだけでも朝日新聞の見解はほぼ分かる。
第一に、九条維持論の中には違憲の自衛隊を解体又は縮小して、九条という憲法規範に現実を合わせようという<積極的九条実現論>という立場がありうるが、朝日はこの立場ではない。
朝日(若宮)は「自衛隊は…軍隊に実体は近いかもしれない」ことを肯定しており、「自衛隊はだいたい定着している」とも言っている。現状に大きな変更を加える意向ではないことは、樋口陽一、長谷部恭男両教授の考え方と同じか近似している。
にもかかわらず、九条は変えないと言っているのだから、自衛隊は憲法上の「軍隊」又は「戦力」ではないというウソを今後もつき続けましょう、というのが朝日の考え方だ。言葉の上だけは<日本は軍隊を持っていないのだ>と思って安心したい、又は自己満足したいのだろう。だが、再三書いているが、国家の基本問題について欺瞞を維持することは、国民の、とくに若い世代の規範意識、道徳観念を麻痺させ、損なってしまう。朝日は今後も「大ウソ」大行進の先頭に立つつもりのようだ。
第二に、「九条はメッセージ性が強いから、このまま変えないでおいておこう」という言葉があるが、「メッセージ性が強い」とはいったいいかなる意味か。リアルな現実ではなく、雰囲気・イメージ・印象を問題にしているとしか思えない。
また、世界の国々や人々が日本は九条二項を含む憲法を持っていることを知って、可愛いよい子だと頭を撫でてくれるというのか。そして恍惚としていたいのか。<文学少女>的嗜好は、いい加減にした方がよい。
第三に、憲法制定時の日本人の意識につき太田光の考えも持ち出して何やら言っているが、正確ではない。
すぐあとで読売の朝倉敏夫がかりに憲法制定過程の初期はそうだったとしても、それは現在に改憲を批判することの根拠にはならないと適切に批判していたが、それはともかく、憲法制定過程の知識が十分ではないようだ。
1.多くの日本人が「戦争はもうこりごりだ」と思ったのは事実かもしれない。だが、多くの護憲論者には論理・概念のごまかしがあると思うのだが、多くの日本人が「もうこりごりだ」と思った「戦争」は「戦争」一般ではなく、「あのような戦争」、すなわち昭和に入って以降の特定の戦争の如き戦争のはずなのだ。日本語には定冠詞・不定冠詞というのがないのだが、日本人がコリゴリだと感じたのは、theが付いた、特定の「昭和戦争」の如き戦争だろう。冷静に考えて、自衛戦争を含む「正しい」戦争まで一般に毛嫌いしたのだ、とは考え難い。
2.占領軍自体が、のちに九条(二項)を桎梏視し始めた、という経緯が語られていない。新憲法の審議過程ではまだ<冷戦>構造の構築は明瞭には見えなかったが、1947年に入るとそそろ見え始め、1949年の東西ドイツの分裂国家誕生、共産中国の誕生、1950年の朝鮮戦争開戦によって決定的になった。
<戦争放棄>、元来の意味での九条二項の趣旨につき占領軍と多くの日本人が一致したとかりにしても、それはせいぜい1946年末までくらいだろう。
立花隆は九条幣原喜重郎発案説に傾いているようだが、万が一かりにそうだったとしても、幣原以外の日本人は知らなかったとすれば、<日本人が提案した>との表現は誤りだろうと思われる。幣原が秘密に個人的に伝えたものにすぎない。
占領軍は、1947年以降に<冷戦>構造が明確になるにつれて、日本に九条二項を「押しつけた」ことを、失敗だった、と反省し始めただろう、と私は思っている。そのような政策の失敗(社会主義国陣営の動向に関する見通しの甘さに起因する)を覆い隠すためにマッカーサーは米国に帰国後、九条は幣原が提案したと書き遺した(証言した?)のだと思われる。
要するに、九条二項は、すみやかに占領軍と米国にとっても邪魔な条項になったのであり、占領軍と多くの日本人の意識が万が一合致したと言えるとかりにしても、それはほんの一時期にすぎない。本当に双方が強く合致していたなら、警察予備隊も保安隊も自衛隊も生まれなかっただろう。
<夢>を語り得た「ロマンティックな」かつての一時期の存在を根拠に、現在の重要な判断を決しようとするのはきわめて愚かなことだ。
テレビを観ていて、読売の朝倉主幹の落ち着き・自信と対照的に、朝日・若宮がややエキセントリックな雰囲気を示しつつ緊張している様子を十分に(私は)感じることができた。朝日・若宮は、自社又は自分の主張が、非現実的な、言葉に必要以上に拘泥する、半分は<夢想>の世界を生きている<文学少女>的なものであることを、心の奥底では自覚しているのではあるまいか。
憲法改正
日本国憲法「無効」論について、小山常実の別冊正論Extra.06上の「無効論の立場から-占領管理基本法学から真の憲法学へ」を読んで、過日簡単に疑問を書いた。主として、1.「無効」の意味・この概念の使い方、2.「無効確認」主体、の問題だったかと思う。
この2.については十分な説明がなく憲法学界が無効確認などできる筈がないなどの頓珍漢な指摘もしたのだが、別の方から、国会で可能だ旨の情報も提供していただいたものの、小山常実・憲法無効論とは何か(展転社、2006)によると、正確にはこうだ。この点にかかわる問題のみを今回は主として扱う。なお、小山・「日本国憲法」無効論(草思社、2002年)も所持しているので、「第一書」としてp.数だけを示しておく。
新憲法制定のための「第一段階の第一作業」は、日本国憲法の「無効と明治憲法の復原を確認すること」で、「法的にいえば、首相他内閣を構成する国務大臣の副署に基づき、天皇が無効・復原確認を行えば十分である」(p.140。第一書、p.248)。
答えは、天皇なのだ。そして、現日本国憲法を<裁可し、公布せしめ>たのは天皇であり、施行文後の御名御璽の後に「副署」したのは当時の首相他の閣僚なので、いちおう-後述の疑問はあるが-論理一貫している。但し、次の文は、いけない。
「ただし、政治的には、国会による決議がなければ立ち行かないだろう。それゆえ、国会による決議を経て、内閣総理大臣他の副署に基づき、天皇が正式に無効と復原の確認行為を行う形がよい」(p.140。第一書にはないようだ)。
これは一体何だろう。「政治的には」とは一体何だろう。法的議論をしている筈なのに、「政治的」又は「現実的」な議論を混淆させている。それに「政治的には、国会による決議がなければ立ち行かないだろう」というのも奇妙なことで、法的に全く問題がなければ、「首相他内閣を構成する国務大臣の副署に基づき、天皇が」行うので、それこそ「十分」な筈なのではなかろうか。
こんな疑問がまず生じるが、できるだけ国民の総意でという形をとるために国民代表で構成される「国会による決議」を経た方が望ましい、という趣旨だと理解することはできる。
だが上にいう「国会」とは何だろうか。日本国憲法制定時には国会は衆議院と貴族院で構成されており、貴族院議員も審議に参加していた。ここでの「国会」とは衆議院なのか、それとも貴族院を復活させるのか(無効確認の段階ではまだ復活していない?)、いや参議院を含めるのか、が明らかではないようだ。
但し、無効・復原確認後の明治憲法改正=真正な新憲法制定については、次のように書いている。
「明治憲法第七三条によれば、天皇が発議して、貴族院と衆議院で可決されて憲法改正が行われる。貴族院はもう存在しないから、参議院によって代替すればよいだろう」(p.144。第一書、p.248)。
何とここではあっさりと、参議院をもって貴族院に「代替」させるのがよい、と明記している。しかし、貴族院と参議院とは、第二院という点では共通性はあるかもしれないが、選出方法・構成はまるで異なっている。第二衆議院とか衆議院のカーボンコピーと言われることもある参議院に貴族院の「代わり」をさせるのは、明治憲法七三条の趣旨に適合的なのだろうか。少なくとも、復原した明治憲法の下での議論としては、「貴族院はもう存在しないから、参議院によって代替すればよいだろう」などと簡単に言い切ってはいけないのではなかろうか(明治憲法が復活したとすれば「貴族院」をいったん復活させて新「貴族院」を設置し(議員の選出・構成は難問だが)、憲法改正だけの任を与えることも考えられよう)。
以上の他、次のような疑問もある。日本国憲法「無効」論が絶対に「正しく」、関係機関又はその担当者は全員がこの考え方を支持してくれる筈だ、という前提に立たないかぎり、当然に生じる疑問だと思われる。
第一に、国会(この意味が不明なことは既述)が日本国憲法を「無効」と考えず、「無効」という「国会による決議」ができないことも想定できる。この場合はどうなるのか。
もっとも、「国会による決議」は「政治的には」あった方が望ましいものであるならば、これを欠いても、無効・復原が確認できないわけではないということになるのだろう。
では第二に、かりに天皇陛下は「無効」と考えられても、「首相他内閣を構成する国務大臣」はそう判断せず、副署もしない場合はどうなるのだろうか。終戦詔勅の場合と同様に首相等の国務大臣は唯々諾々と服従するのだろうか。
逆に、かりに首相等の国務大臣は一致して「無効」と考えても、天皇陛下はそうはお考えにならない場合はどうなるのだろうか。
そんなことはあり得ないということを前提として立論されているのだろうとは思うが、しかし、現実的には、こういう場合も想定しての「法的」議論も用意しておかなければならないのではなかろうか(そういう場合は無効確認ができないだけ、という結論になるのだろうか。それなら簡単だが)。
第三に、より現実的な疑問がある。現日本国憲法を<裁可し、公布せしめ>たのは昭和天皇であり、今上天皇ではなかった。「副署」したのは当時の首相等の国務大臣であり現在の首相等ではなかった。
当時の天皇陛下や首相等の「本心」・「内心」というものが明瞭に分かる資料は恐らく存在しないのだが、昭和天皇は、こんな明治憲法改正・日本国憲法は「無効」だと思われつつも不本意に<裁可し、公布せしめ>たのだろうか。吉田首相等も、こんな日本国憲法は「無効」だと思いつつ不本意にも「副署」したのだろうか。
むろん、天皇も首相等も国家機関の一種であり、担当者(?)が変われば異なる意思を持ちうる、という理屈は成り立つ。従って、「内閣総理大臣他の副署に基づき、天皇が正式に無効と復原の確認行為」を行うことが法的にも事実的にもできなくはない、と考える。
しかし、現実論としては、昭和天皇等が「無効」だと感じつつやむを得ず「裁可」し「副署」したという事情が明瞭に伝えられていないかぎり、今上天皇等が「無効」との判断に至る可能性は極めて乏しく、現実的可能性は0.1%もないものと思われる。それよりは、天皇と首相以下の国務大臣との間で見解が齟齬する現実的可能性の方がほんの少し高いだろう。
むろん、上のような事情は日本国憲法制定・施行後60年の「欺瞞」によるのだ、「大ウソ」の教育・報道等によるのだ、と主張したい(であろう)ことはよく理解できる。だがいかに「正しい」理論でも支持者が微少であれば、現実的な「力」をもちえない。「正しい」理論であれば大多数の者によって支持される筈だ、というのは理想かもしれないが、現実は必ずしもそうはならない。
現在の国会議員にしろ、2005年の両院の憲法調査報告書はおそらく日本国憲法「無効」論に殆ど又は全く言及しておらず、有効論に立っての諸意見を記載しているものと推察される。近年の各政党の有力者の発言を聞いても、日本国憲法「無効」論に立つ発言は一つもない筈だ(日本共産党と社会民主党が現憲法の有効性を前提として、九条墨守論を主張しているのも明瞭なことだ)。
昨5月3日に護憲・改憲両派を「無効」論に立って批判する集会等もあったのかもしれないが、残念ながら(おそらく)一切報道されていないようだ。
このような状況を現内閣構成者は勿論、今上天皇陛下もご存知の筈だ。
日本国憲法「無効」論者にとって、一般国民はまだしも、天皇陛下の支持を獲得することは決定的に重要なことだが、今上(明仁)天皇は日本国憲法を憲法としては「無効」と考えておられるのか。
以上、要するに、法的にも事実的にも、「内閣総理大臣他の副署に基づき、天皇が正式に無効と復原の確認行為」を行うことが不可能だとは思わない。だが、その現実的可能性は極めて乏しく、ほぼ(絶対に近いほどに)絶望的だ、と考えられる。
以上のような判断には、そもそも日本国憲法が「無効」とする論拠が必ずしも説得的ではないという理由づけが付着しているのだが、この問題は今回は省略する。
この機会に別の、誤りだと思う点を指摘させていただく。小山・上掲書p.142はこう書いている。
旧西独は「半年かけてドイツ人自身が起草した「ボン基本法」のことを、占領下ではドイツ人の自由意思は存在しないという理由から、占領下の暫定的な基本法または暫定憲法にすぎないと位置づけた」/「…旧西ドイツは、占領中は少なくとも永久憲法を作ることは出来ないという立場を明確にした」。
私は憲法学者ではないが、次のことくらいは知っている。端的にいえば、「ボン基本法」が「暫定憲法」として位置づけられたのは、「占領下ではドイツ人の自由意思は存在しないという理由から」では全くなく、国土・国民が二つに分裂していたからだ(p.141の条項にいう「ドイツ人民」には東独領域のドイツ人を含むのだ)。
「暫定」ということの意味は、「占領」期間に限ってという意味ではなく、将来東西のドイツが統一するまでの「暫定」、という意味なのだ(首都もフランクフルトにすると永続的印象を与えかねないということであえて小都市・ボンが選ばれた)。
たしかに1949年9月の西独=ドイツ連邦共和国発足前の「占領」中の同年5月に「ボン基本法」(「ドイツ連邦共和国のための基本法律」)は制定・施行されているが、僅か4ケ月というタイムラグを考えても、「ボン基本法」は西独という一国家にとっての正式の憲法的意味あいを持つ法(正確には特別の性格をもつ法律)として施行されたのであり、西独の発足時にいったん「無効」とされたりはしていない。占領中に施行された憲法(・基本法)が無効なら、その改正も全て「無効」となる筈だが、西ドイツは頻繁に「ボン基本法」を改正してきた。
従って、西ドイツの例は、日本国憲法「無効」論のために有利には利用できない。
(なお、東独を吸収・統一して統一国家のための新「憲法」制定となるのかと思ったが、現実的発想というべきか、「ボン基本法」の一条項を利用して東独を併合し、むろん多少の改正をしたうえで「ボン基本法」(正式名称は上記)の名称を改めることなくそのまま旧東ドイツ領域にも適用している。)
ところで、過日、日本国憲法「無効」論に多少の疑問を示す文章を書いたら、すみやかに「改憲論者の ドアホ!」(実際にはもっと大きい)と色付きで大書した一頁をもつブログ等がTBで貼り付けられた。「ドアホ!」という大きな字を見るのは不快なのでTB不許可の設定にしたら、今度は、同じハンドルネームの人から<TB不許可か、「よくやるね」>とのコメントが送られてきた。
これも気持ちが悪いので、もっぱらこの人に対する防御を目的として、今のところTBもコメントも不許可にしている。どうかご容赦願いたい。
小山常実は上の著で、「党派を問わず、「日本国憲法」を憲法と認められない全ての方には、…加わっていただきたい」と書いておられる(p.161)。
私は小山の二つの本を所持し部分的には読み、渡部昇一=南出喜久治の共著も(未読だが)所持している。珍しい、奇特な人間の一人ではないかと思っているが、「改憲論者の ドアホ!」(実際にはもっと大きい)との色付きの大きな字等を貼り付けるなどというのは(色は忘れたし、確認する気もない)、支持者を増やすのを却って妨げることになるのではなかろうか。
議論は好んでするが、従うか・従わないかと詰問されるような雰囲気は、好みではない。
「今の憲法は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、押しつけられたものだ。いつまでも守り続けるのは国辱でもある。自前で全部作り直すのは当たり前だ。だが、誰が作るのかと考えると頭を抱え込んでしまう。/戦後、教育を壊され、祖国への誇りを持たない国民になってしまったからだ。他のどの国とも違う国柄を持つ日本にふさわしい憲法をつくらなければならない。」
短い文だが、日本国憲法が「押しつけられたもの」としつつも「無効」なものとはツユも言及しておらず、その上で、「自前で全部作り直すのは当たり前だ」、とする。
至極まっとうな、常識的な、日本人として「ふつうの」感覚だと思う。
その後の文も共感を覚えるところがある。すなわち、私の言葉を使えば、「自前で」「作り直す」べき主体のほとんどは、戦後の「平等・民主主義・平和・無国籍」教育を受けた者たちなのだ。「他のどの国とも違う国柄を持つ日本にふさわしい憲法」を制定できるだろうか。
よく「保守」派=改憲派といわれる。
だが、筑紫哲也は今年になってからのいつか、テレビニュースの最後に、<戦後に生きてきた者としては、戦後の終わりが新しい戦前の始まりにならないように願っている>とかの旨を言っていた。例の如く、戦争への道を歩まないように、との「サヨク」的偏見に充ちたフレーズなのだが、そこには「戦後」的価値を守りたい、保守したい、との<気分>が表れていた。
護憲派こそ、上のような意味では「保守」派なのだ。改憲派こそが現状を変革しようとする「革新」派に他ならない。
そして、一般的にいって、現状維持の意味での「保守」よりは、「革新」・「変革」の方がじつは困難なのだ。
憲法改正が現実的問題になるのは早くても三年後以降のようだが、かりに現時点で国会が改正の発議をし国民投票がなされれば、否決される(承認されない)可能性の方が高いように思われる。
日本共産党等々はすでに九条二項絶対「保守」のための運動を(各種ブログサイト上も含めて)行っている。
これに対して、改憲派の国民運動など殆どどこにも存在しないのではないか。改正案を作った筈の自民党はその内容を広く国民に知ってもらう運動を十分にしているだろうか。同党は、少なくとも憲法改正に関する思考・議論を誘発するような活動を十分にしているだろうか。
安倍首相が改憲を目標に掲げるのは結構なのだが、今のところはまだ「上滑り」的な印象がある。
私自身が一般マスコミに毒されているのかもしれないのだが、改憲(憲法改正)の時期にはまだ達していない、時機がまだ熟していない、という印象が強い。
別冊正論Extra.06・日本国憲法の正体(産経)に掲載の論稿のレベルの議論がなされているようでは、まだ途は遠いように思える。
下手をして国民投票で否決される(承認されない)ようでは、日本人は「自前」の憲法を二度と持てなくなる懸念・不安がある。
選挙の票には結びつき難いかもしれないのだが、本当に憲法改正=「自前」の憲法を持つことを目指している候補者は、7月の参院選挙でも、訴える事項の一つに<改憲>をきちんと加えるべきだろう。
日本国憲法無効論があるのを知り、この議論がどの程度の影響力をもっているかに関心を持ってネットで探していたら、「南出文庫」という文書ファイル名、「忘れられたもう一つの「憲法調査会」」というタイトルの文書に行き当たった。
渡部昇一との共著がある南出喜久治の文章かと思われ、また1997年5月以降で国会両院に憲法調査会が設立される前に執筆されているようだが、いずれも確定的ではない(なお、「現行憲法破棄!、山河死守!、自主防衛体制確立!」と表紙にある「民族戦線社」のHP内に収載の文書のようだ)。
この文書によると、こうだ。
昭和31年の憲法調査会法にもとづき内閣に設置された「憲法調査会」は国会議員30名、学識経験者20名の計50名の委員で構成され、調査審議し、昭和39年7月3日に本文約二百頁、付属書約四千三百頁、総字数約百万字にのぼる「憲法調査報告書」を完成させて報告した。「ところが、…この報告書には、致命的な欠陥と誤魔化しがあった。それは、当時、現行憲法の制定経過の評価において、根強い「現行憲法無効論」があったにもかかわらず、無効論の学者を一切排除し、有効論の学者のみをもって憲法調査会が構成され、しかも、有効論と無効論の両論を公正に併記し、それぞれ反論の機会を与えるという公平さを全く欠いた内容となっていたからである」。/「この報告書では、当時の無効論をどのように扱ったかと言えば、僅か半頁、しかも実質には約百字で紹介されたに過ぎない。…百万字の報告書のうちのたった百字。一万分の一である。そして、報告書曰わく「調査会においては憲法無効論はとるべきでないとするのが委員全員の一致した見解であった」としている。誰一人無効論を唱える者を委員に入れずして、「委員全員の一致した見解」とは誠に恐れ入った話である」。
上の報告書など読んだこともないが、これで当時の、すなわち1960年代前半の「雰囲気」はほぼ分かる。
ちなみにこの文書の執筆者(南出?)は、次のようにも書く。
「殆どの憲法学者というのは「現行憲法解釈学者」であって、これで飯を食っている御仁である。そのため、現行憲法が無効ではないかという議論がなされてくると、今まで、現行憲法の絶対無謬性を唱えてきた「現行憲法真理教」の教義が揺らぎ、今まで嘘を教えたと学生や大衆から非難され、オマンマが食べられなくなるからである。無効論に説得力がないと思うのであれば、堂々と議論して論破すればよいではないか。しかし、それは死んでもできない。なぜなら、無効論には明確な法的根拠と充分な説得力があるので、これと議論すれば必ず負けるからである」。
現行憲法を有効視しないと「オマンマが食べられなくなる」というのはその通りかもしれない。だが、「無効論には明確な法的根拠と充分な説得力があるので、これと議論すれば必ず負けるからである」という部分には疑問符をつけておきたい。
私は憲法学者(研究者)でも何でもないが、知的好奇心は旺盛なつもりなので、小山常実・憲法無効論とは何か(展転社、2006)も買って少し読んでみた。
南出と渡部の共著は所持しつつ未読なので、南出の無効論と小山の無効論が全く同じなのか、どう違うかはまだ知らないが、少なくとも小山の上の本には、私でも「突っ込める」ところがいく点もある。上の言葉を借りれば、「明確な法的根拠と充分な説得力」があるとは必ずしも思えない。
詳細はここでは省くとして、つぎには、すでに2005年に(内閣に設置ではない、1960年代のとは異なる、新しい)国会両院の憲法調査会がこれまた長い報告書をすでに出しているようなので、そこで「日本国憲法無効論」がどう扱われているかを(むろんすべて本来の仕事の範囲外のことなので、時間を見つけて)調べてみよう。
なお、多数意見が誤っており、少数意見が「正しい」こともありうる。だが、そこでの「正しさ」とはいったい何なのだろう。こうした憲法・法学的分野では、総合的に観てより合理的・論理的で、より説得的なものがより「正しい」意見なのだろう。従って、全ての人間(日本国民全員)を納得させるような「(絶対的に)正しい」見解というのはそもそも存在しないのだと思われる。というような、余計なことが頭に浮かんだ。
立花隆の現憲法九条に関する考えは前回に紹介したところだが、同じコラムの中で、憲法全体については、「押しつけ」られたことを肯定しつつ、こんなことを書いている。
「押し付けの事実と、押し付けられた憲法の中身の評価は自ずから全く別である。押し付けられた憲法は、グローバルスタンダードから見ても立派な憲法であり、グローバルスタンダードからみて全くの“落第憲法”である松本草案などとは全く比較にならない。」
松本(蒸治)草案について立ち入ることはしない。立花が「グローバルスタンダードから見ても立派な憲法」と内容を評価していることが(九条も含めて)憲法改正反対の理由とされていることが窺える。
だが、実証的資料の紹介は省くが、自衛「戦力」・自衛「交戦権」を否定する(と解釈される場合の)九条二項は、当時のグローバルスタンダードでは決してなかった筈だ。そして、立花は、グローバルスタンダードよりも「進んだ」又は「理想に近づいた」条項と理解しているものと推察される。
ここで対立が生じる。そもそもそのように肯定的に評価してよいか、という基本問題だ。例えば、二日前に入手した小山常実・憲法無効論とは何か(展転社、2006)は、「無効」とする12の理由(成立過程、内容、成立後の政治・教育に三分される)のうちの10番め(内容面の二つめ)の理由として、九条二項は国家の「自然権」を剥奪しており「自然法または条理に違反していること」を挙げている(p.128)。
私は後者の<自然法論>を単純に支持はしないが(それに、上の理由は九条二項の「無効」理由でありえても現憲法全体の「無効」理由になるか、という問題もある)、いずれにせよ、この九条二項の評価が、それも現時点の現実をリアルに見たうえでの評価が(「現実」を規範より優先させよとの趣旨ではない)、憲法(とくに九条二項)の改正に関する賛成と反対を分けることになるのだろう。
さらに追記すれば、立花隆のコラムのタイトルは「改憲狙う国民投票法案の愚/憲法9条のリアルな価値問え」だ。
前半に見られるように、彼は国民投票法案にも「改憲狙う」ものとして反対しているわけで、与党案の内容を問題にして反対した民主党とは異なる立場に立っている。そして、現在まで60年間不存在のままの憲法改正国民投票(手続)に関する法律の制定それ自体に反対している共産党・社民党と同じ見解の持ち主だ。
立花隆という人物を評価するとき、上の点も看過すべきではなかろう。
私の憲法に関する「立ち位置」は、今のところという留保を慎重に付けてはおくが、安倍晋三首相と同じだ。
自民党案に全面的に賛成するわけではなく、「9条の2」というような<枝番号>付きの条項を挿入しないで、新たに条数は振り直すべきだと思うし、その他にも気になる改正条文案はある。
しかし、今の日本国憲法を有効な憲法と見つつ、その改正(とくに九条)を希望し、主張する点では、安倍首相と何ら異ならない。
改憲に賛成するのは、現在の国際状況も理由の一つだが、また現憲法の「成り立ち」にはかなり胡散臭いところがあるからでもある。安倍首相はしばしば、現憲法は「占領下」に作られた、憲法を「自分たちの手で書きあげる」といったフレーズを用いているが、推測するに、主権が大きく制限されていた時期に作られた憲法には(無効とまでは言わないにしても)そのこと自体に大きな問題があることを示唆しているように思う。
このような基本的考え方は、おそらく、(勝手に名を出して恐縮だが)八木秀次、百地章らの(少数の?)憲法学者とも共通しているだろう。本を読んだことがないのだが、西修も挙げてよいかもしれない。それに、櫻井よしこ、中西輝政、岡崎久彦等々の多数の方とも同様だろう。
というわけで、私はとりあえずは自分の「立ち位置」を全く疑っていない(かかる「立ち位置」を「日本国憲法」無効論の立場から批判したい者は、私などよりも、八木秀次、百地章、櫻井よしこ、中西輝政、岡崎久彦等々の各氏、さらには現憲法の有効性を前提として改正案をとりまとめた自民党、憲法改正国民投票法案に賛成している自民党等の国会議員全員、そして安倍晋三首相・安倍内閣閣僚全員を「攻撃」していただきたい)。
かかる「立ち位置」に反対で、九条を護持しようとするのが日本共産党が重視している「九条の会」等だが、立花隆も九条護持論者だ。
立花隆は、日経BPのサイト内に4/14付の「改憲狙う国民投票法案の愚/憲法9条のリアルな価値問え」と題するやや長い論稿を掲載している。
もっとも7分されているうちの6までは、九条発案者は幣原喜重郎かマッカーサーかという問題にあてられ、幣原発案説に傾斜したかの如き感想を述べつつ、自ら長々と書いたくせに「私はそのような議論にそれほど価値があるとは思わない」、「いま大切なのは、誰が9条を発案したかを解明することではなく…」と肩すかしを食わせている。
そして最後の7/7になってようやく「憲法9条のリアルな価値問え」という本論が出てくるのだが、その全文はこうだ。
「9条が日本という国家の存在に対して持ってきたリアルな価値を冷静に評価することである。/そして、9条をもちつづけたほうが日本という国家の未来にとって有利なのか、それともそれをいま捨ててしまうほうが有利なのかを冷静に判断することである。/私は9条があったればこそ、日本というひ弱な国がこのような苛酷な国際環境の中で、かくも繁栄しつつ生き延びることができた根本条件だったと思っている。/9条がなければ、日本はとっくにアメリカの属国になっていたろう。あるいは、かつてのソ連ないし、かつての中国ないし、北朝鮮といった日本を敵視してきた国家の侵略を受けていただろう。/9条を捨てることは、国家の繁栄を捨てることである。国家の誇りを捨てることである。9条を堅持するかぎり、日本は国際社会の中で、独自のリスペクトを集め、独自の歩みをつづけることができる。/9条を捨てて「普通の国」になろうなどという主張をする人は、ただのオロカモノである。」
この文章は一体何だろう。最後の最後になって、結論だけを羅列し、その根拠、論拠は一切述べていないではないか。これでよく「評論家」などと自称できるものだ(「知の巨人」なんてとんでもない。末尾の、異見者への「ただのオロカモノ」との蔑言も下品だ)。
過日、九条のおかげで平和と繁栄を享受した旨の呉智英の産経上のコラムを、中西輝政の議論を参照・紹介して批判したことがあるが、かつて「知の巨人」だったらしい立花隆も、平然と(かつ根拠・論拠を何ら示すことなく)「9条があったればこそ」、「苛酷な国際環境の中で、かくも繁栄しつつ生き延びることができた…」と書いている。かかる九条崇拝?はどこから出てくるのだろう。
かつて書いたことを繰り返さないが、カッコつきの「平和」と「繁栄」は憲法九条ではなく、日米安保条約、それも米軍が持つ核兵器によって生じ得た、というのが「リアルな」認識だと思われる。
立花氏はまた奇妙な文も挿入している。-「9条がなければ、日本はとっくにアメリカの属国になっていたろう。」
この文の意味と根拠を、どこかで詳論して欲しいものだ。私にはさっぱり理解できない。
ともあれ、九条二項の削除を含む憲法改正を実現するためには、立花隆氏のこのような議論?を克服していく必要がある。また、影響力のある論者が書いていることには注意を向けていなければならない。
毎日新聞の4/26付社説は、集団自衛権行使不可との憲法九条解釈によってこそ「戦後、日本は戦争に巻き込まれず平和を守ることができたという主張は根強い」と書いている。これは憲法九条自体ではなくその「解釈」にかかわることだから、立花隆の論よりはまだマシだ。
それに同社説は、「一方でこの制約は日米安保体制や国際貢献活動の上で、阻害要因になっているという指摘がある」と続けていて、立花隆の論調よりもはるかに冷静で公平だ。
「首脳会談で集団的自衛権の解釈変更や憲法改正が対米公約になるような踏み込んだ発言は慎んでもらいたい」とも書いているが、かかる指摘自体に大きな問題があるとは思われず、某朝日新聞の社説に漂う「やや狂気じみた」、又は「奇矯で、感情的な」雰囲気と比べれば、少なくともこの社説は、遙かに良い。
朝日新聞がこの程度まで「冷静に」又は「大人に」なってくれればいいのだが(…だが、無理だろう)。
渡部昇一(1930-)という人は不思議な人だ。つい前回、2001年の本では、日本国憲法の三大原則を守ってより良くする改正を、と発言していた、と書いた。
月刊WiLL(ワック)の2007年6月号の彼の戦後史連載講座5回目は日本国憲法を扱っているが、そのタイトルは「新憲法は「占領政策基本法」だ」で、次のように書く(p.239)。
「日本国憲法は条約憲法で、ふつうの憲法ではない…。正確に言えば、占領政策基本法でしょう」。/「日本政府は独立回復時に日本国憲法を失効とし、…ふつうの憲法の制定か、明治憲法の改正をしなければならなかった。日本国憲法をずるずると崇め、またそれを改正していくということをすべきではないのです」。
渡部氏は最近、南出喜久治という人との共著・日本国憲法無効論(ビジネス社、2007.04)を刊行している(私は未読)。この南出の影響を受けたのか、上で語られているのは、明らかに日本国憲法改正反対論だ。十分に丁寧には説明していないが、有効な憲法ではなく占領政策基本法にすぎないのだから、それを改正しても憲法改正にはならない、「日本国憲法」が有効な憲法とのウソを更に上塗りすることになる、という趣旨だろう。
渡部昇一という人は「保守派」の著名な論客だが、対談する、又は一緒に仕事をする人の考え方の影響を受けやすいのだろうか。今頃は改憲の主張を頻繁にしている方がむしろ自然に思えるのに、何と、日本国憲法無効論の影響をうけて(であろう)、2001年の本とは逆に、改憲に反対しているのだ。2001年の本以外にも彼は、現憲法9条2項の改正を主張する等の論稿・発言をこれまで頻繁に公にしてきたのではなかったのか。
考え方が変わる、ということはありうる。だが、70歳を過ぎて基本的な問題に関する考えを変えるとは珍しい。また、改憲に反対とは、そのかぎりで、渡部昇一という人は大江健三郎や佐高信と同意見であることを意味する。客観的には、大江や佐高、そして朝日新聞等々を喜ばせる主張を、彼は月刊WiLL誌上で行っているのだ。
西尾幹二等と比べれば、軽い(噛みごたえの少ない)文章を書く人という印象はあったが、渡部はもはや、かなりの程度、信用できない人のグループに入りそうだ。
ところで、渡部は、「すべての根元はこの〔八月革命説を唱えた〕宮沢俊義東大名誉教授とその門下生です。病的な平和論者に芦部信喜東京大学教授、樋口陽一名誉教授がいます」と書き、「百地章さんや西修さん」は「まっとうな憲法学者」だとする(p.243、p.244)。
渡部がじっくりと各氏の(論文は勿論)教科書類を読んだとは思えないのだが、とくに前半は、はたして、どなたから得た情報又は知識だろうか(なお、上半分のうち、宮沢、芦部両氏は故人の筈で、肩書きに一貫性がない。これは、潮匡人・憲法九条は諸悪の根源p.252-3を参照したからではないか、と推測する)。
もはや古い本だなと思いつつ、渡部昇一=小林節・そろそろ憲法を変えてみようか(致知出版社、2001)を何気なく捲っていたら、渡部のこんな発言が目に入った。
「改悪にならないようにするために…日本国憲法の三大原理である国民主権主義と平和主義と基本的人権の尊重を強化し、私たちの幸福を増進させる方向性の改憲を改正と呼ぶ」と訴え続ける必要がある(p.222)。
この部分は渡部昇一にしては(いや彼だからこそ?)不用意な発言だ。平和主義の中には現憲法九条二項も含まれてしまう可能性がある。また、憲法学者の小林がこの本のもっと前で話したことをふまえているのかもしれないが、日本国憲法の「三大原理」として国民主権主義・平和主義・基本的人権の尊重を挙げるのは陳腐すぎ、かつ疑問視もできるものだ。
こんな基本的なことを話題にするつもりはなかったのだが、八木秀次・日本国憲法とは何か(PHP新書、2003)によると、高校までの社会科の教科書ではたしかに上の3つが憲法の三大原則と書かれている、しかし、1947年に政府が作った、あたらしい憲法の話(中学校副読本)では、憲法前文が示す原則として民主主義・国際平和主義・主権在民主義の3つを挙げ(基本的人権の尊重は入っていない)、本文の項目では、民主主義・国際平和主義・主権在民主義・天皇陛下(象徴天皇制)・戦争の放棄・基本的人権の6つが同格で説明されている(いわば六大原則)、大学生向けの憲法の教科書では必ずしも一致はない。
そして、八木によるとこうだ。1954年に成立した鳩山一郎内閣が自主憲法制定(憲法改正)を提唱したことに危機感をもった「護憲派勢力」が、かりに改憲されるとしても改正できない原則として、上記の三大原則を「打ち出した」のであり、その意味で「政治的主張という色彩が強い」(象徴天皇制は原則とはされないので、天皇制度自体の廃止は可能とのニュアンスを含む)。
自称ハイエキアンで憲法学界の中では少数派ではないかと勝手に想像している阪本昌成(現在、九州大学教授)の広島大学時代の初学者向けの本に、同編・これでわかる!?憲法(有信堂、1998)がある。
この本の阪本昌成執筆部分なのだが、八木の叙述とはやや異なり、「教科書も新聞も、大学生向けの憲法の教科書も」上記の三大原則を挙げる、とする(p.35)。
上の部分の見出しがすでに「インチキ臭い「3大原則」」なのだが、彼は、「日本国憲法の基本原則は、「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」といった簡単なものではな」く、次の6つの「組み合わせ」となっている、とする(p.37-38。()内は秋月)。
1.「代議制によって政治を行う」(代議制・間接民主主義)、2.「自由という基本的人権を尊重する」(自由権的基本権の尊重)、3.「国民主権を宣言することによって君主制をやめて象徴天皇制にする」(国民主権・象徴天皇制)、4.「憲法は最高法規であること(そのための司法審査制)を確認し、そして、「よくない意味での法律の留保」を否定する」(法律に対する憲法の優位・対法律違憲審査制)、5.「国際協調に徹する安全保障をとる」(国際協調的安全保障)、6.「権力分立制度の採用」(権力分立制)。
単純な三大原則よりは、より詳細で正確なような気がするではないか(?)。それに、単純な「民主主義」というだけの概念が使われていないのもよい。また、たんに「基本的人権」の尊重ではなく「自由という基本的人権」とするのがきっと阪本昌成的なのだろう。
なお、日本国憲法の「原則」をどう理解するかは、それが、-八木が示唆しているように-憲法改正の「限界」論(憲法改正手続によっても改正できない事項はあるのか、あるとすればいかなる事項又は「原理」か)と無関係である限りは、さして重要な法的意味があるわけではない。そして、通常は、3つであれ6つであれ、憲法改正の「限界」とは無関係に語られているのではないかと思われる(あくまで私の理解だが)。
憲法の問題は関係文献に逐一触れていると切りがないところがあるのだが、重複を怖れず、ときどきは言及することにする。
「日本国憲法無効」論というのがあるのを知って、先日、小山常実・「日本国憲法」無効論(草思社、2002)と渡部昇一=南出喜久治・日本国憲法無効論(ビジネス社、2007.04)の二つを入手し、おいおい読もうと思っていたのだが、昨日4/22に発売された別冊正論Extra.06・日本国憲法の正体(産経新聞社)の中に小山常実「無効論の立場から-占領管理基本法学から真の憲法学へ」があったので、「無効論」の要約的なものだろうと思い、読んでみた。
大部分については、少なくとも「理解」できる。だが、大部分に「賛同」できるかというとそういうわけではなく、基本的な一部には疑問も生じる。小山氏の最新の憲法無効論とは何か(展転社、2006)を読めば解消するのかもしれないが、とりあえず、簡単に記しておこう。
第一に、無効論者は(憲法としては)「無効」確認を主張しているが、「無効確認の効力は、将来に向けてのみ発生する」(p.109)、いずれの無効論も「戦後六十一年間の国家の行為を過去に遡ってなかったことにするのではない。…それゆえ、国家社会が混乱するわけではない」(p.112)とされる。
このような印象を持ってはいなかったので勉強させていただいたが、しかし、上のような意味だとすれば、「無効」という言葉を使うのは法律学上通常の「無効」とは異なる新奇の「無効」概念であり、用語法に混乱を招くように思われる。
無効とは、契約でも法的効果のある一方的な国家行為でもよいが、当初(行為時又は成立時)に遡って効力がない(=有効ではない)ことを意味する。無効確認によって当初から効力がなかったこと(無効だったこと)が「確認」され、その行為を不可欠の前提とする事後の全ての行為も無効となる。と、このように理解して用いられているのが「無効」概念ではなかろうか。
選挙区定数が人口(有権者数)に比例しておらず選挙無効との訴訟(公職選挙法にもとづく)が提起され、最高裁は複数回請求を棄却しているが、憲法(選挙権の平等)に違反して無効であるが、既成事実を重く見て、請求は棄却する、と判示しているのでは、ない。憲法に違反しているが、無効ではない、という理由で請求を棄却している。無効と言ってしまえば、過去の(全て又は一部の選挙区の)選挙はやり直さなければならず、全ての選挙区の選挙が無効とされれば、選出議員がいなくなり、公職選挙法を合憲なものに改正する作業をすべき国会議員(両院のいずれかの全員)がいなくなってしまうからだ。
余計なことを書いたが、民法学でもその他の分野でもよい、「無効」または「無効確認」を将来に向かってのみ効力を無くす、という意味では用いてきてはいないはずだ(なお、「取消し」も原則的には、遡及して効力を消滅せしめる、という意味だ)。
さらに第一点に関連して続ければ、なぜ「過去に遡ってなかったことにするのではない」のかの理由・根拠がよくわからない。憲法としては無効だが、60年までは「占領管理基本法」として、その後は<国家運営臨時措置法>として有効だという趣旨だろうか。
そうだとすると日本国「憲法無効」論というやや仰々しい表現にもかかわらず、憲法以外の法規範としての効力は認めることとなり、この説の意味・機能、そして存在意義が問題になる。
第二に、「日本国憲法無効」論者は、憲法としては無効で、占領下では「占領下暫定代用法」、占領「管理基本法」又は「占領管理法」、「暫定基本法」又は「講和条約群の一つ」と「日本国憲法」を性格づけるらしい(p.109)。
占領後についての<国家運営臨時措置法>に関してもいえるが、上の「講和条約群の一つ」が「日本国憲法」を条約の一種と見ているようであるものの、その他のものについては、それがいかなる法形式のものであるのか、曖昧だ。
条約は別として、立法形式としては、法律以上では(つまり政令や条例等を別にすれば)、法律と憲法しか存在しないはずだ。
ということは、「占領下暫定代用法」、占領「管理基本法」・「占領管理法」、「暫定基本法」、<国家運営臨時措置法>は法律のはずなのだ。そして、ということは、たんなる法律であれば、事後法、特別法の優先が働いて、その所謂「占領管理基本法」に違反する法律も何ら違法ではない、ということを意味する。法律として、効力は対等なのだ。さらに、ということは、現在は現実にときに問題となる法律の「日本国憲法」適合性は、全く問題にならないことを意味する。「占領管理基本法」等との整合性は(教育基本法もそうなのだが)法的にではなく、政治的に要請されるにとどまる。だが、それにしては、「占領管理基本法」等としての「日本国憲法」は、内閣総理大臣の選出方法、司法権の構成、「地方公共団体の長」の選出方法(住民公選)、裁判官の罷免方法等々、曖昧ではない「固い」・明確な規定をたくさん持っている(「人権」条項は教育基本法の定めと同様の「理念」的規定と言えるとしても)。
「教育基本法」、「建築基準法」等と「~法」という題名になっていても「法律」だ。ドイツには、可決に特別多数を要する法律と、過半数で足りる「普通法律」とがあるらしいが、日本では(たぶん戦前も)そのような区別を知らない。
「日本国憲法無効」論者が「日本国憲法」を憲法以外の他の性格のものと位置づけるとき、上のことは十分に意識されているだろうか。再述すれば、憲法と法律の間に「法」又は「基本法」という中間的な「法」規範の存在形式はないのだ。
さらに第二点に関連して続れば、「日本国憲法」無効論者は瑕疵の治癒、追認、時効(私が追記すれば他に「(憲法)慣習法」化論もありうるだろう。「無効行為の転換」は意味不明だ)等による日本国憲法の有効視、正当化を批判しているが、このような後者の議論と、「占領管理基本法」等として有効視する議論は、実質的にどこが違うのだろうか。「無効」論者が「過去に遡ってなかったことにするのではない」というとき、瑕疵の治癒、追認、時効、慣習法化等々の<既成事実の重み>を尊重する議論を少なくともある程度は実質的には採用しているのではあるまいか。
ちなみに、細かいことだが、<「治癒」できないような絶対的な「瑕疵」>との概念(p.112)は理解できる。だが、そのような概念を用いた議論のためには、「治癒」できる「瑕疵」と「治癒」できない絶対的な「瑕疵」の区別の基準を明瞭に示しておいていただく必要がある。
第三に、(憲法としての)「無効」確認を主張しているようだが、「無効」確認をする、又はすべき主体は誰又はどの国家機関なのか。
p.115は<「憲法学」は…「日本国憲法」が無効なことを確認すべきである>という。
ここでの「憲法学」とは何か。憲法学者の集まりの憲法学界又は憲法学会をおそらくは意味していそうだ。
だが、たかが「学界」又は「学会」が「無効」確認をして(あるいは「無効」を宣言して)、日本国憲法の「無効」性が確認されるわけがない。無効と考える憲法学者が多数派を占めれば「無効」確認が可能だ、と考えられているとすれば、奇妙で採用され難い前提に立っている。
では、最高裁判所なのか。最高裁は「日本国憲法」によって新設された国家機関で、自らの基礎である「日本国憲法」の無効性・有効性を(あるいは「占領管理基本法」等と性格づければ自らを否定することにはならないとしても、いずれにせよ自らの存在根拠の無効性・有効性)を審査するだろうか。また、そもそもどういう請求をして「無効確認」してもらえるかの適切な方法を思い浮かべられない(いわゆる「事件性」の要求又は「付随的違憲審査制」にかかわる)。
現憲法41条にいう「国権の最高機関」としての国会なのか、と考えても、同様のことが言える。(では、天皇陛下なのか?)
要するに、無効である、無効を確認すべきである、とか言っても、一つの(憲法)学説にすぎないのであり、現実的に又は制度的に「無効」が確認されることは、ほぼ絶対的にありえないのではなかろうか。とすると、考え方又は主張としては魅力がある「日本国憲法」無効論も、実際的に見るとそれが現実化されることはほぼありえない、という意味で、やや失礼な表現かもしれないが、机上の空論なのではあるまいか。
第四に(今までのような<疑問>ではない)、「日本国憲法」無効論は、このたび読んだ小山の一文が明示しているわけではないが、現憲法の有効性を前提とする改憲論・護憲論をいずれも誤った前提に立つものとして斥け、「日本国憲法」無効論にこそ立脚すべき、という議論のようだ。
運動論として言えば、そう排他的?にならないで、内容や制定過程の問題も十分に(人によれば多少は)理解していると思われる<改憲派>と「共闘」して欲しいものだ、と思っている。
ただ、次のような文は上のような「夢」を打ち砕く可能性がある。
<将来「日本国憲法」がどのような内容に改正されようとも、改定「日本国憲法」は、引き続き、国家運営のための臨時措置法〔法律だ-秋月〕にすぎない>(p.111)。
このように理解してしまうと、日本は永遠に「真正の」憲法を持てなくなってしまう可能性がある。
もっとも、<「憲法学」は、「日本国憲法」無効論の立場に立ち、明治憲法の復元改正という形で改憲を主張しなければならない>(p.115)とも書かれているので、「明治憲法の復元改正」を経るならば、わが日本国も「真正の」憲法を持てるのだろう。その現実的可能性があるか、と問われれば、ほぼ絶望的に感じるが…。
疑問を中心に書いてきたが、私もまた-別の機会に書くが-現在の憲法学界らしきものに対しては大きな不満を持っている。そして、次の文章(p.111)には100%賛同する、と申し上げておく。
<戦後の「憲法学」は「日本固有の原理」を完全に無視し、「人類普遍の原理」だけを追求してきた。「憲法学者」は、日本固有の歴史も宗教も考慮せず、明治憲法史の研究さえも疎かにしてきた。彼らが参考にするのは、西欧と米国の歴史であり、西欧米国の憲法史であった。取り上げられたとしても、日本の歴史、憲法史は、西欧米国史に現れた理念によって断罪される役回りであった。そして、日本及び日本人を差別する思想を育んできたのである。>
憲法学者のうちおそらくは90%以上になると推定するが、このような戦後「憲法学」を身につけた憲法学者(憲法学の教師)によって法学部の学生たちは「憲法」という科目を学び、他の学部の学生たちも一般教養科目としての「憲法」又は「日本国憲法」を学び、高校までの教師になりたい者は必修科目(たしか「教職科目」という)としての「日本国憲法」を学んできたのだ。
上級を含む法学部出身等の国家・地方公務員、他学部出身者を含むマスコミ・メディア就職者、小・中・高校の教師たち等々に、かかる憲法学の影響が全くなかったなどということは、到底考えられない。そして施行後もう60年も経つ。上に使ったのとは別の意味で、やや絶望的な気分になりそうでもある…。
(不躾ながら、これまでにTBして貰った際の「無効論」のブログ元の文章は、文字の大きさ不揃い、私にはカラフル過ぎ等もあって-一番は「重たい」テーマだからだったろうが-読んでいない。)
扶桑社は産経・フジグループの会社だから扶桑社新書もそのグループの新書というイメージをもつが、それにしては、文春新書や幻冬舎新書の方がラインナップに魅力を感じるのは何故だろう。
勝谷誠彦・偽装国家(扶桑社新書、2007.03)の最後の15頁だけ読んだ。「偽装」とは建築物の耐震強度の「偽装」から来ている言葉だろうし、日本国家の状態がその表現でわからなくもないので「偽装国家」という語は批判しない。
だが、「利権談合共産主義」の方はどうだろう。「利権談合」は「共産主義」の形容詞的に用いられているのか、ほぼ対等の意味をもって用いられているのか。どちらにしても、「共産主義」は、本来、「利権談合」などという生易しい言葉で表現できる主義又は国家体制ではない。こんなふうに簡単に「共産主義」という概念を使うと、共産主義の本質を却って曖昧にしてしまう。
幸いまだ全く一般的になっていない言葉なので、勝谷は、もうこの言葉を使うのは止めたらどうだろう。
最後の「「偽装憲法」を今こそ見直せ」と「おわりに」だけ読んだ。前者の内容に異論はない。
異論はないどころか、大人たちが「自虐史観」にひたり、学校でそんなものを教えておいて、「虐め(=いじめ)はやめようなどと(とは?-秋月)、ちゃんちゃらおかしい」というのは正論で、論理的だ。自国と自国民を「虐めて」いる人たちが「虐め」はやめようという資格はないし、そんな大人を見ている子ども達が「虐めに立ち向かえる」はずがない。そのとおりだ。
また、集団自衛権を否定して友好国の艦船が攻撃を受けたときに「スタコラ逃げるような卑怯な国」の学校で、「友達が虐められたら助けてあげなさい」と教えられだろうか。そのとおりだ。
日本の安全・平和は「憲法神社に9条を飾って、土井たか子みたいな巫女が土下座してお祈り」してくれていたおかげではなく、「本当に偶然」に保たれたという部分については、たんなる「偶然」ではなく理由を別に探せるとは思うが、憲法9条2項の削除だけの限定的改憲の主張も、よく分かる。
勝谷誠彦は某テレビのトーク番組でしばしば安倍首相・安倍内閣を批判し、民主党・小沢一郎氏への親近感を示していた。「小沢さんは安倍さんよりも右ですから」とたしか言っていたこともある。
まさかとは思うが、「おわりに」の最後の、日本を率いるべき、「自分の中に確固たる倫理を持つ」「尊敬されるリーダー」として、小沢一郎を念頭に置いてはいないことだけは、強く期待しておきたい。
「夢想」で終わればいいのだが、仮の話として、日本がつぎのような状態になったら、どういう事態が起きるだろうか。
第一に、「軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊」を保有しなくなる。これは現実的には、現在の自衛隊、および防衛省がなくなることを意味する。なお、すでに上のことの意味に含有されることだが、「軍隊、自衛隊」等が「民間または外国民」によって構成されることもありえなくなる。すなわち、「民間または外国民による軍事力の保持」や「民間、外国民または無国籍者への軍事の委託」もできない。
第二に、「国連により決議され構成された国連軍」を除いて、「外国の軍隊、軍事設備および武器弾薬の、領海、領空を含む日本国内への移動および設置」が禁止される。これは現実的には、現在の日米安保条約が廃棄され、米軍の日本国内(領海・領空を含む)への駐留がなくなることを意味する。米国による日本の「安全保障」の義務などはいかなる意味であれ、一切なくなる。
じつは、以上のことは「日本国憲法2.0開発部」なるものが構想している日本国憲法改正案の一部が本当に憲法の一部になってしまえば生じることだ。
現憲法のもとで、自衛隊や米軍という軍隊の日本駐留が9条2項に違反しないか、という解釈問題があり、一部にはいずれも違憲とする下級審判決もあるようなのだが、上による「新」憲法のもとでは、解釈の問題は生じない。憲法条項の明文に違反して、明らかに違憲だ。かりにこのように改正されれば、すみやかに自衛隊・防衛省を解体させ、日米安保条約(および付随の協定等)を廃棄し、在日米軍を「追い出す」必要がある。
それでは、現憲法でも理念的には否定されていないと解釈されている「自衛権」、日本という国家と日本国民を外国(の軍隊)からの攻撃あるいは「侵略」から守るための、国家に固有の権利とされる権利とその行使はどうなるのだろうか。
上の第一点ですでに明らかではある。「軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊」を保持しないのだから、少なくとも「武力保持部隊」による「自衛」又は「防衛」はありえない。
念のためにか、意味が重複している部分があるとは思うが、上の「2.0」は、「日本は、戦争およびテロを、理由と形態にかかわらず行ってはならない」と書き、さらに次のようにも明瞭に書く。「たとえ、自衛、集団自衛、共同防衛、先制攻撃、先制防御、外国への協力、外国からの協力要請、外国の治安維持、多国籍軍、国連平和維持活動、国連平和維持軍、抑止、報復、対抗、懲罰、局所的事態、緊急事態または人道支援等という名分をもっても、次の各号を直接または間接に行ってはならない。/1 戦争またはテロとしての武力行使/2 武力による威嚇/3 戦争のための役務/物資、武器、資材、弾薬、燃料、食料、飲料、日用品または医薬品の提供、補給または運搬/4 戦争のための情報処理および通信/5 その他戦争の後方支援に属する活動」。
要するに、「自衛」のためであっても一切禁止されるのだ(「戦争」のためなら日用品等の運搬も後方支援も一切禁止される」)。
ということは、外国(の軍隊)による攻撃あるいは「侵略」から守るための日本国家の措置は全て禁止されることになる、と言ってよい。残るのは、国家によるとはいえない、国民個人個人による「自衛」又は「防衛」のみが許されることになりそうだ。だが、原則として銃砲刀剣類の所持すら禁止されている国民が(この点を法律改正すれば多少は異なるかもしれないが)、はたして自分や家族の生命を守るためにどれだけの「自衛」措置を採れるだろうか。
もっとも、「武力保持部隊」の中に、あるいは「武力行使」の中に、<警察>組織あるいは同組織の実力行使は含まれないと解釈できれば、<警察>組織にある程度は頼ることができそうでもある。
そして、上の「2.0」もこう書く-「外国からの武力攻撃またはテロが生じたとき、国民を守る専管機構は、警察である。警察は、領空、領海を含む国内でのみ、犯罪者または攻撃勢力を鎮圧することができる」。
「鎮圧する」するためには何らかの実力行使が必要だと通常は(常識的には)考えられる。しかし、「2.0」によれば「武力保持部隊」・「武力行使」はいかなる目的でも一切禁止されるのだから、「鎮圧する」するための組織と実力行使は「武力保持部隊」・「武力行使」ではない、と<解釈>されることになるのだろう(このあたりにすでに「2.0」の頭の中の破綻が表れているのだが、次に進む)。
そして、「2.0」は念を入れて、「警察を、憲法の禁止している軍隊にしてはならない」とする(ここで、「軍隊」のみが記載されているのは「軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊」の保持の禁止と齟齬しており、本当は、「警察を、憲法の禁止している軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊にしてはならない」と書いてこそ論理一貫するはずなのだが、こう書かない点にも、「2.0」の頭の中の曖昧さと綻びが見られる)。さらには、「警察は、領空、領海を含む国内でのみ、犯罪者または攻撃勢力を鎮圧することができる」とされる。つまり「鎮圧する」するための実力行使も国内でのみ許され、日本「国民が外国において犯罪、テロまたは戦争により危険な状態になった場合の救助」も「当事国または国連と協力して」行うのであり、かつ「外国軍隊、外国警察」等々のための「護身用武器を使用することは禁止」される。言ってみれば、外国滞在の日本国民の保護のために実力行使が必要であっても外国の軍隊・警察任せであり、その外国の組織員が危険になっても自らのための「護身用武器」使用して助けてすらもいけない、というわけだ。
この「2.0」については過日すでに触れて、「単純・素朴・幼稚かつ狂気の教条的平和主義」とのみ簡単に評したのだが、改めてそのときよりはじっくりと条文を読んで見ても、「狂気」に充ち満ちている。
それはともかく、冒頭に書いたことに戻って、かかる「新」憲法になって上述のような状態になり、「警察」の役割も上述のとおりだとすると、どういう事態が起きるだろうか。
端的にいえば、外国(どことは書かないが、二又は三国を現実的に想定できる)による日本の軍事占領であり(その直前の政権は解体・崩壊する)、その後の、当該外国の「軍事力」の脅しを受けての所謂「傀儡」日本政権の誕生か、日本の当該外国の一部化(「併合」と称するのかもしれない)。後者の二つが日本の地域によって分かれて、一部は直接に某外国の領土の一部に、残り一部は「日本」国という名だけは残した某外国の事実上の属国に、ということも考えられる。
日本国内に「軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊」が友好的外国のそれも含めて一切なくなって、このような事態が生じるだろうということを想定できないというのは、すでにそれ自体が「狂っている」と思う。丸裸・丸腰になった、こんな豊かな、インフラの整備された、秀れた工場等も沢山ある国をどの外国も「狙う」ことなどありえない、と本当に考えているとすれば、あるいは、日本(と米国)だけが「軍国主義」化の危険があり、近辺の諸外国は「平和愛好」国で軍事力を日本に対して行使するはずはないと考えているとすれば-戦後教育の、又は従来の「社会主義」宣伝の成果かもしれないが-、幼稚で、莫迦、としか言い様がない。
手元に情報資料はないが、中川昭一・自民党政調会長は現に、将来某外国の属国又は属州になってしまう可能性に言及している。そしてそれは決して荒唐無稽なことではない、と考えられる。ときどき日本の「軍国主義」化を非難している某外国は、戦後の建国後に、ソ連ともベトナムともインドとも「戦争」を実際に行った(チベット「侵略」、フィリピンとも関係する南沙諸島の「軍事力」による「実効支配」化という事実もある)。別の某国は、もう50年以上前だが、「統一」を目指して別の国家に先に「侵入」して「戦争」を始めた。両国ともに日本より遙かに「軍事」を重視している国家だ。
現実を直視できず、外国の「脅威」を言い立てたら本当に「脅威」になってしまうと考えるが如き平和教「言霊」主義者かもしれない人々は、もう少し現実的・建設的な方向に頭のエネルギーを使った方がよろしいだろう。
という程度で、「絵空事」の案に付き合って「頭の体操」を少しして、もう無意味なおつきあいはやめようと思ったのだが、もう一度「2.0」のサイトに入って見ると、こんな文章があった。
「近隣諸国が攻撃してくる可能性があるのに国が無防備でいるわけにもいかないでしょう、という意見があります。/まあ警察や海上保安庁があるのですから、領土侵犯、テロ、武力攻撃を国内で鎮圧したり、飛来するミサイルやテロ予防の対策をとる位は憲法に書かなくても任務のうちでしょう」。
本当に狂っているか、本当の莫迦ではないか。「2.0」の改正案は、「軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊」に含まれない警察(・海上保安庁)の、「武力行使」とはいえない国内での実力行使のみを許容している。「自衛」のためでもこれ以外は許していないのだ。
しかるに、「領土侵犯、テロ、武力攻撃」や「飛来するミサイルやテロ予防」のための実力行使は一切、上の例外的な実力行使に含まれない「武力行使」になることはあり得ない、とでも言うつもりだろうか。言葉の常識的な使い方だと、「飛来するミサイル」への対処、例えば迎撃は、「軍隊」又は少なくとも「武力保持部隊」がすることであり、自衛のためとはいえ「武力行使」だ。それでも、「軍隊」等の「武力保持部隊」による「武力行使」にならないと言い張るなら、それは要するに、(正式の)「軍隊」等の「言葉」・「概念」を絶対に使いたくないだけのことで、実質・本質に変わりはない。
(この「軍隊」等の概念に関係する問題は、現憲法9条2項に即していえば、同項で目的を問わず保持が禁止される(と所謂芦田修正語句に限定的な法的意味を与えない多数説や政府が採っている)「戦力」に「自衛隊」は含まれず、「自衛隊」の存在は合憲だ、との憲法解釈の微妙さ・苦しさ、人によれば、「大ウソ」(だから改正すべき、につながる)に似ている。ここでは、現憲法の解釈の問題にはこれ以上は立ち入らない)。
「まあ警察や海上保安庁があるのですから、領土侵犯、テロ、武力攻撃を国内で鎮圧したり、飛来するミサイルやテロ予防の対策をとる位は憲法に書かなくても…」と書いた時点で、「2.0」の案は完璧に破綻している。「飛来するミサイル」の迎撃は「軍隊」等の「武力保持部隊」による「武力行使」に該当するのでそれも禁止する(着弾し被害が出るままにする)、というのでないと、「教条的平和」憲法としてすら、一貫していないのだ。お解りかな?
「北朝鮮の特殊部隊が壱岐や対馬を占領するというケースが考えられます。/その場合現地警察だけでは防衛は無理で、空軍力、海軍力による敵補給の阻止、そして制海権を保持し、地上軍による奪回作戦が必要になります。/それを警察でやることができますか?/それだけの軍事力を警察に持たせるということでしょうか」との質問に対して、肯定の回答をし、「軍拡論よりよいのは、他国を攻めるような余計な軍備や軍人をもたないことです」なんて書いているようではダメだ。目的を問わず禁止しているはずの「軍事力」あるいは「武力行使」を警察が持つことを認めてしまっている。
また、細かすぎる憲法案を作っておいて、かかる重要なことを「まあ…をとる位は憲法に書かなくても…」とのたまうとは、呆れてしまう。
他にも、ボロボロと妙なことを書いている。全てを挙げないが、例えば、「軍拡憲法によって軍隊が過度に強化されてしまう方が、国中に軍備や軍人が溢れかえることになり、それが国民に向かってこないかむしろ心配です」。このグループは日本の軍事力が日本「国民」に向けられることを懸念している。「軍隊は(市民の)敵だ」との、もう消失したかと思っていた考え方が心底には残っているようだ。
また、「宗教、宗派、人種、国籍などによる偏見を排除した公明正大な活動を日本が行えば、日本が狙われることはより減る」、「日本は国として「良心的兵役拒否」をし、国連に守ってもらう」なんていうのは、少なくとも現時点では、幼稚な願望で、現実的ではない。
長くなったが、最後に、この「2.0」グループはどういう人たちなのだろう。
「(平和・)無防備地域条例」制定運動をしている非・又は反・日本共産党の(と思われる)「左翼」の人たちがいるが、この国連憲章上の「地域」に何ら言及していないことからすると、この運動とは無関係のようだ。
また、日本共産党党員又は少なくとも同党系の日本史学者・大江志乃夫の本を推薦しているところからすると、日本共産党員又はそのシンパで法学部出身の、かつ「ヒマ」な人々かもしれない。さらに、学生時代に「平和憲法」教育に熱心だった法学部の憲法学教授(又は大学によっては「平和学」教授)の元ゼミ生たちが、その教授の指導・示唆を受けて「趣味的」に作業しているのかもしれない(日本共産党系というのと矛盾はしない)。
改正案の内容はもういいが、背景にだけは関心をまだ持っておこう。
憲法学者ではなく日本政治思想史等専攻のようだが、小西豊治・憲法「押しつけ」論の幻(講談社現代新書、2006.07)という本がある。数年前に依頼されたというが、2006年にこんな題の本が出るのも「政治」的な匂い-即ち「押しつけ」論が改憲の方向に寄与する可能性があるためにそれを阻止・緩和するという狙い-を感じなくもない。
改憲論者は、私も含めて、現憲法は「押しつけ」られたものだから、ということを唯一の論拠にしているのでは全くない。従って、憲法「押しつけ」論が否定されたとしても改憲論が否定されたことにはならない、という論理的帰結はきちんと押さえておくべきだ。
さて、斜め読みだが、この本の基本は、a国民主権明記・b天皇の象徴化には日本人の原案があり、それをGHQが採用したのだから「押しつけ」ではない、ということだ。
ただちに次の感想が生じる。
1.憲法現九条は対象外である(=日本人発案者はいない)とされていることになることがむしろ重要だ。
2.当時、各政党、憲法研究者グループ、研究者個人が種々の憲法草案を発表していた。その中に結果として実際に成立した日本国憲法と同じ又は同様の案を一部につき示していたものがあったとして、「「押しつけ」論の幻」の論拠になるだろうか。GHQが参考にしたものもあったかもしれないが、参考にし、採用を決定して原案を作ったのはあくまでGHQではないか。
精読していないが、aとbの発案者は「憲法研究会」という私的研究者集団だとされる。やや離れるが、その研究会で重要な役割を果たしたのは鈴木安蔵(1904-83)らしく、彼にかなりの頁数を割いている。
ところが、この鈴木は著名な日本共産党員又は少なくとも同党系マルクス主義憲法学者で、主権在民論を含むかつての自由民権運動の内容に詳しくて不思議ではないし、共産党系の護憲(憲法改悪阻止)団体の役員を務めたりした。こうした彼の思想的・政治的背景に全く言及せず、「ふつうの」研究者の如く描いているとすれば、著者・小西の個人的「思想」も判明してしまうだろう。
なお、古関彰一の本にも共産党系等々の紹介は避けて鈴木安蔵に肯定的に言及している部分がある。共産党員そのもの又は少なくとも「容共」の憲法関係研究者が今でも多いことを、これらは示している。
古関・新憲法の誕生によれば、民政局行政部内の作業班の運営委員4名のうちケーディス、ハッシー、ラウエルの3名は「弁護士経験を持つ法律家」だった。それがどうした、so what ? と言いたくなる。
小西の著p.101はホイットニー局長と上の3名は「実務経験を持つ法律家」でかつ「会社法専門の弁護士」という点で共通する、ともいう。「会社法専門」でも米国では問題は広く(州)憲法に関係するとの説明も挿入されている。
このように、古関や小西がわざわざ草案作成者は素人ではない、法学的素養をもつ、いやそれ以上の弁護士資格をもつ法律家も加わったメンバーだったのだ、ということに言及し、かつ強調するのは、いかに「護憲」のためとはいえ、「護憲」のための十分な論拠にはなっていない。
上の二冊を見ても、GHQ案の作成者は法律実務家(当時は軍人)で、米国憲法の基礎にある憲法思想・憲法理論の専門家・研究者でなかったことは間違いない。ましてや基本的にはドイツ又はその中のプロイセン(プロシア)の憲法理論を基礎にした当時までの日本の憲法「思想・理論」を熟知していたとはとても言えない。そしてもちろん、日本の歴史・伝統、天皇制度や神道等々の日本に独自のものに対する十分な知識と理解などおそらくは全くないままに、草案は作られたのだ。米国の!弁護士資格をもつ者が草案作成に関与していたことをもって「まともな」憲法だと言うための根拠にするのは、いじましい、嗤われてよい努力だろう。
おそらくは、被占領中に、米国憲法の基礎の表面的な理解のもとで、米国的「憲法」が明治憲法に「強引に」接ぎ木されたのだ。両者に断続があり、今だに(少なくとも私には)自分たちのものではないような感じが残るのも制定経緯からするとやむをえないように思われる。
さらに筆を進めれば、GHQ案作成者の主観的な憲法的素養がどうであれ、米国的「憲法」が日本で採用されたことにより、同憲法を通じて、-原案作成者が十分には予測しなかった可能性が高いが-欧州、とくにフランスや英国の憲法「思想・理論」も<侵入>することとなったのだろう。
ここからさらに論述を展開したいことが出てくるが、この文は小西著の感想ということで、とりあえずここで止めよう。
一つは、テロ対策特別措置法による活動の場合だ。 この法律にもとづき海上自衛隊はインド洋に補給艦・護衛艦を派遣し、多国籍軍の何百という艦船に燃料を補給していて、飛行しながらの高い技量を要する補給活動は諸外国から高い評価を受けているらしいのだが、インド洋上で「戦闘行為」が発生した場合、日本の海上自衛隊は補給活動はむろん直ちに中止し、避難する等をして「危険を回避」することになっている、という。「戦闘行為」になり<味方の>多国籍軍のいずれかが攻撃を受けても援助攻撃をすることはできず、戦闘する多国籍軍を尻目に「逃げて帰るのは日の丸を掲げた海上自衛隊だけである」(p.81-83)。これはテロ対策特別措置法がイラク特別措置法と同様に自衛隊の活動を「武力による威嚇又は武力の行使に当たるものではあってはならない」と定めているからであり、その背景には、自国を守るためだけの最小限の武力行使しか許されないとの憲法九条の解釈がある。
安倍内閣は現在、集団自衛権行使に関する個別事例の検討をする予定で(4/06読売にも出ている)、先日触れた1.同盟国を攻撃する弾道ミサイル、上に記したような2.海上自衛隊と並走する艦船が攻撃された場合、等が含まれる。但し、これらの場合に正面から集団自衛権行使を認めるのではなく、「警察権」の行使とか、海上での同盟国の「戦闘行為」が正当防衛的な場合は海上自衛隊の反撃も「本格的な自衛権」の行使とまではいえず、従って集団自衛権に該当しない、とかの解釈又は理屈を考えているようだ(上の読売の記事による。イザ記事にはこの点は明確には書かれていない)。
潮匡人は月刊正論5月号(産経)で、安倍首相の本・美しい国へ(文春新書、2006)の中で、安倍が上の2.のような事例には集団自衛権が行使できないので「自衛隊はその場から立ち去らなければならない」と書いて集団自衛権の問題と捉えていることを示して、<集団自衛権の行使ではなく~に該当するので反撃可能>というような解釈又は理屈を採用することを予め批判している。
憲法九条二項の改正によって自衛隊が正規の軍隊になれば恐らく、米国との関係でも多国籍軍との関係でも対等な軍隊となり集団自衛権行使も当然に可能なのだろう。問題は憲法改正前に、米国や多国籍軍のいずれかが攻撃を受けた場合に「拱手傍観」して放置又は逃げ去るべきなのか、だ。
潮匡人の方に説得力があると思うが、内閣・行政権としての連続性というのは、実務上いかほどに重たいものなのか、よく判らない。
安倍首相は憲法改正を目指しており、自民党は憲法改正案を既に発表しているが、ほぼ60年も前に施行された憲法を「自分たちの手」で書き直す、「改正」するのは当然のことだ。
その際、全くの白紙ではなく現憲法から出発するとしても、9条2項以外にも議論の必要がある条項がある。
しかし、九条2項をどうするかが最大の争点になることは間違いないだろう。
すでに日本共産党は「九条の会」に結集する、又は職場・地域等で「九条の会」を新設する旨の指示を出し、将来の憲法改正にかかわる「決戦」(具体的には国民投票の場になるだろう)に準備を進めているようだ。
ネット上には改憲・護憲と種々のサイト又は意見が溢れているが、むろん現在以上に日本の軍事力(軍事的防衛力)を減殺する方向での改正案もありうるし、「市民」の立場からの憲法改正案も発表されている。
後者の代表は、ネット上ではなくきちんとした本になっている、江橋崇・市民主権の憲法理論(生活社、2005.11)だろう。
前者の例が、http://blog.goo.ne.jp/nihonkoku_kempou/e/6a8833880d11ebd1fae76eabea76e725
このサイトは「改憲か護憲か?」 を一番大きなサイト名の一部にし、トップページの中に「護憲派」の人も「改憲派」の人も「ぜひご検討下さい」などと書いて、さも、又は一見中立的に装っているが、トップページの上の方にはちゃんと「今の憲法第9条を守っていた方がいいよね」と書いてあるように、9条2項については紛れもなく「護憲派」=変えないという意味では「保守派」のサイトだ。
もっとも全く変えないのではなく、現在よりも日本の軍事力を弱める、又は一切無にする方向での改正条文を作っている。そして、その条文は、戦争一般、軍備一般を「悪」と見る単純・素朴・幼稚な観念にもとづくもので、結果としては狂気に満ちたものになっている。
目にするのもイヤな方々も多いと思うが(私もそうだが)、その狂気ぶりを示すために、こんな連中もいることを知っておくために、引用しておこう。
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「第8章 戦争の防止
第62条【軍隊、軍備の禁止】
日本は軍拡競争に参加せず、自ら体験した悲惨な戦争の再発を厳重に防止するため、また、国際的緊張を緩和するため、人、機械、ロボットもしくはヒト以外の生物からなる軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊を持ってはならない。
(2)(イ)国民の徴兵(ちょうへい)制度および一時入隊制度、(ロ)民間または外国民による軍事力の保持、および、(ハ)民間、外国民または無国籍者への軍事の委託、は、あってはならない。
(3)国連により決議され構成された国連軍を除き、外国の軍隊、軍事設備および武器弾薬の、領海、領空を含む日本国内への移動および設置は、禁止する。これに反する同盟および条約を廃止および禁止する。
(4)日本は国際社会に、軍事力以外しか提供することはできない。これに反する同盟および条約を廃止および禁止する。
(5)日本は国際社会に対して、日本が締結(ていけつ)した条約および確立された国際法規にしたがって、たとえば、次の各号を特色とした貢献を率先して行う。
1 国家間の対話および和平交渉の提案と仲介 2 軍縮の呼びかけと推進 3 本憲法のような平和憲法の研究と推奨 4 暴力によらない紛争解決の呼びかけ 5 災害救助、開発、生活環境改善、教育、疾病予防、疾病治療、リハビリテーション、地雷除去・汚染除去等戦争後始末、戦後復興、被災復興、防災、防犯、武装解除および戦争防止を支援するための人材、資金、物資および技術の提供 6 寄付金および寄付物品の募集、管理、運搬および配布 7 人権擁護と世界の協調を進めるための平和的国際機関活動および諸国との連帯(れんたい) 8 人権活動 9 平和のための教育、報道および情報発信
第63条【戦争禁止】
日本は戦争の生んだ悲劇をふまえて、暴力の不毛(ふもう)さと非暴力による平和の重要性を世界の人々そして次世代の子供達に常に訴え、世界の国々と人々の良識を信じて、暴力によらない紛争解決を率先垂範(そっせんすいはん)しなければならない。
(2)日本は、戦争およびテロを、理由と形態にかかわらず行ってはならない。
(3)日本は、たとえ、自衛、集団自衛、共同防衛、先制攻撃、先制防御、外国への協力、外国からの協力要請、外国の治安維持、多国籍軍(たこくせきぐん)、国連平和維持活動(PKO、Peacekeeping Operations)、国連平和維持軍(PKF、Peacekeeping Forces)、抑止、報復、対抗、懲罰(ちょうばつ)、局所的(きょくしょてき)事態、緊急事態または人道(じんどう)支援等という名分をもっても、次の各号を直接または間接に行ってはならない。
1 戦争またはテロとしての武力行使 2 武力による威嚇(いかく) 3 戦争のための役務(えきむ)、物資、武器、資材、弾薬、燃料、食料、飲料、日用品または医薬品の提供、補給または運搬
4 戦争のための情報処理および通信
5 その他戦争の後方支援に属する活動
そして、国際紛争解決のための手段として、日本は次の各号の行為を直接または間接に行ってはならない。
1 殺傷(さっしょう) 2 逮捕監禁(たいほかんきん) 3 爆撃 4 自爆 5 抑留および拘禁 6 拷問 7 虚偽の宣伝 8 虚偽に基づく提訴 9 精神的暴力 10 マインドコントロール 11 その他暴力
(4)国が国民の平和的生存権を犯す行為を行うとき、国民は、裁判所にその行為の差し止めを求めることができる。
第64条【警察の軍隊化の禁止】
警察は、日本の内外の脅威(きょうい)から国民を守り安全を維持する。警察を、憲法の禁止している軍隊にしてはならない。警察には、国際法上も軍隊の条件を備えさせない。
(2)警察は、消防と協力して、国内外の災害救助、事故救助を行う。国外に派遣される警察は、護身(ごしん)を超えた殺傷(さっしょう)能力のある重火器(じゅうかき)等の武器または武器を内蔵する機器を持ち出さない。
(3)外国からの武力攻撃またはテロが生じたとき、国民を守る専管(せんかん)機構は、警察である。警察は、領空、領海を含む国内でのみ、犯罪者または攻撃勢力を鎮圧することができる。国民が外国において犯罪、テロまたは戦争により危険な状態になった場合の救助は、警察が、本憲法、日本の国内法規、確立した国際的な法規および批准した条約に基づき、当事国または国連と協力して、行う。
(4)警察が、外国軍隊、外国警察または国際機関の要員の保護または外国軍隊、外国警察または国際機関の要員への攻撃への報復のために、護身用武器を使用することは禁止する。
(5)<略>
第65条【武器所持、使用】<略>
第66条【核、生物、化学兵器の禁止】<略>
第67条【有事例外の禁止】
本憲法を破る国家権力の行き過ぎの行使から国民の人権を守るため、たとえ国に武力攻撃、重大テロ、重大事故、重大災害、その他非常事態または非常事態につながる懸念のある事態が生じたとしても、本憲法にも本憲法下の法にも基づくことなく、本憲法および本憲法下の全部または一部の法の、(イ)効力停止、(ロ)廃止、(ハ)読み替え、または、(ニ)恣意的(しいてき)な解釈変更、をすることを、厳重に禁止し、それらは無効とする。
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真面目に考えているようにも見えるが、この人たちは狂っている。最小限度、莫迦、と言っておこう(立法技術上の欠点も見受けられる)。憲法改正および9条2項関係の問題については、いずれもっと詳しく論じる予定だ。
小林節の言うとおりで、憲法改正国民投票法は必要、民主党は参院選対策的すぎる、社民党・共産党は問題外だ。
だが、学者なら、その法案の具体的内容に立ち入っていただく必要がある。先日同じ欄に百地章が現行案の内容の問題点をいくつか指摘していた。民主党が賛成しないならば、民主党との間で合意した修正案にこだわる必要はなく自民党の原案に戻せとの意見も自民党内にはあるようで、もっともなことだ。
というわけで、憲法改正国民投票法の必要性一般の話だけではすでに時機遅れだ。
ところで、小林節は季刊らしいサイトとかの雑誌に出て、自民党の改憲案を同雑誌編集長とともに批判していた。これについては、私の http://www.honey.ne.jp/~akiz/ の01/18で、次のように疑問視しておいた。
以下、そのまま引用する。
2007/01/18 (木)-「リベラル」雑誌上の小林・伊藤両氏は「法律のプロ」か?
小林節・伊藤真両氏は「法律のプロ」との矜持がおありのようで、自民党改憲案を「専門家」らしく批判している所があるが、「言いがかり」のような指摘も見られる。1.二人とも「責務」を国語辞典どおりに「責任と義務」と理解している(p.53、p.62)。
学者執筆と見られる法律学用語辞典にも同旨のものがあるが、「義務より弱い」(p.53)との答の方が適切だろう。法的な又は厳密な意味での「義務」ではない、抽象的・理念的な行動指針的なものを「責務」と称するのだ。ご不審なら、男女共同参画社会基本法8-10条が定める国・地方公共団体・国民の各「責務」を見てみ給え。小林・伊藤は憲法しか知らないのではあるまい。
2.小林は、自民党案9条の2第三項の「自衛軍」の<国際協調活動>につき、国連決議等プラス「日本の国会の決議」に基づく必要があるとする。だが、自民党案は「法律の定めるところにより、…行うことができる」とする。法律は国会が制定するのであり、「決議」以上の力をもつ。あとは法律で十分か事案ごとの逐一の決議まで必要かの問題なのに、「何の歯止めもない」、「そうです」と安易に答えているのには恐れ入った。
3.同様に小林は、自民党案9条の2第四項の「自衛軍の組織…は、法律で定める」を、「あとは国会の多数でよしなに」で「権力を統制しきっていないから危ない」と批判する。これも奇妙だ。
内閣、中央省庁等の組織は現在でも法律で定めているではないか。彼は憲法自体が内閣、中央省庁等の組織を定めていないと「権力を統制しきっていないから危ない」と主張しているのと同じだが、この人が内閣法、内閣府設置法、国家行政組織法、防衛省設置法等が法律であるのを批判しているとは聞いたことがない。「自衛軍」のみ特別扱いする趣旨の主張ならある程度は具体的規定を提案すべきだ。また、憲法で「自衛軍」の組織・統制事項をいったん定めたら憲法改正によらないとそれらを変更できないという大きな短所もある。この人は「法律のプロ」か?
伊藤真も上の2.3.と似たようなことを主張する。「自衛軍には何の歯止めもかかっていない」と言うが(p.66)、デマだ。また、案9条の2第三項の最後の「緊急事態」時の行動につき、「日本の軍隊の銃口が国民に向けられる可能性がある」とさも重大な点の如く批判する。これはむしろ当然のことだ。「緊急事態」時に武器・実力を行使して秩序を破壊することにより日本国政府の行動を制約し又は妨害して少なくとも客観的には外国を利する者たちが存在しうる。国民の全てが「平和」的な人たちではない。法学の優等生・伊藤氏は他の多くの同様の人々と同じく「軍隊」を国民の「敵」と見る「左翼」史観に無意識に冒されていそうだ。
以上。
気持ちは解らぬではない。私は現憲法の内容すべてそのままでもよいから一度国民投票にかけて「自分たちのもの」にしておくべきだとすら思う。もともとは1952年の独立=主権回復の際に国民投票にかけて(そのためには一回だけ通用の特別の法律が必要だっただろうが)、現憲法をオーソライズ(正統化)しておくべきだったと思うし、かりにオーソライズされなければ暫定的に効力を付与しつつすみやかに新憲法・自主憲法の制定に取り組むべきだった、と思う。
当時の吉田茂の、自主憲法制定を政治課題とのしないとの決断は、朝鮮戦争、経済復興等々、米軍駐留によるとりあえずの安全保障といった事情はあるにせよ、現在も後世も評価が分かれてしかるべきだろう。
その後も憲法改正できなかった最大の責任は、国会の1/3以上の議席を占め続けた容共政党+共産主義政党の「戦略としての平和主義」にある。だが、自由民主党の責任も頗る大きい。「国家」を忘れた池田勇人・宮沢喜一系(→河野洋平・加藤紘一)や田中角栄系が主流派になどなってはならなかったのだ。
第三の責任者は、客観的には80%はマルクス主義に直接・間接に影響をうけているとみられる日本の憲法学界(そうした個々の憲法学者)だと思うが、今回はこれ以上の論及は省略する。
元に戻って、呉智英氏の案は現実的では、むろん、ない。奇を衒い、又はウケを狙うのであれば、現憲法の改正条項・96条1項の国会・各議員の発議要件を「三分の二以上の賛成」から「過半数の…」に改正するだけの憲法改正案の提案はどうだろう。これだと今後も各院総議員定数過半数確保政党の「賛成」と実際の投票有権者の過半数の「承諾」で憲法改正できるようになる。政治状況・政治スタイルはまるで変わるだろう。
読売朝刊、盧武鉉大統領不支持率75%と。これで交替させる制度が憲法上ないとは、5年の任期保障は長過ぎということではないか。いろいろ読むところによると「異常」な政権で、まともな韓国々民の「苦労」も思いやられる。
安倍晋三は第一に憲法改正、第二に教育改革(教育基本法改正等)を政策にするとか。朝日・岩波や「進歩的文化人」との正面対決が予想される。長年にわたって対決を避けてきた与党(自民党等)にこそ弱腰で問題があったもいえる。だが、ひところと違って護憲派「進歩的文化人」も小粒になってきた。大江健三郎が最大の「左翼」デマゴ-グ、いや失礼-イデオロ-グと位置づけられている印象もある。同じ作家の井上ひさしも迫力はないし、奥平康弘はその分野(憲法学)では大物だとしても一般的な通用力はない。要するに「カリスマ」がいない。といっても、激しいゲリラ戦的抵抗はあるだろう。
靖国問題(ちくま新書、2005)を書いた高橋哲哉が日本評論社から「憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本」と題する本を出している。当面読むつもりはないが、何ともひどい、詐術的な題名だ。「憲法が変われば戦争になる」という(それこそ議論が必要な)命題を前提として措定しているのだから。
著者はまともな「論理」を語れる学者なのか。日本評論社も少なくとも特定分野については歴史的に有名な「左翼」出版社で、この出版社についても今後何か書くだろう。
渡部昇一他・日本を虐げる人々(PHP、2006)によると、保阪正康の「昭和戦争」(読売用語)観は、GHQ・東京裁判と同じらしい。なるほど、靖国神社を批判し、朝日が保阪に投稿を求めるはずだ。同・あの戦争は何だったのか(新潮新書)は未読のままだが。
終戦後に生まれた「団塊」世代者としては占領の実態は従来よりもきちんと知っておきたいと思っていたのだが、占領(東京裁判もこの時期)を語ることは「あの戦争」の評価・理解、「戦後」史全体の評価・理解にかかわることが判ってきて、まことに重たい。朝日新聞的、かつての教科書的知識のままでいるのと比べれば、はるかに幸福ではある。
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