秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

憲法改正

0992/もはや解散・総選挙以外にない+渡部昇一の妄論。

 〇「もはや解散・総選挙以外にない」-遠藤浩一・産経新聞3/02正論欄。なお、この人は法学部出身。

 〇とりあえずごく簡単に書いておく-渡部昇一監修・日本は憲法で滅びる(総和社、2011.02)の「はじめに」を渡部昇一が書いていて、日本国憲法は「占領対策基本法」で憲法としては「無効」なので「無効宣言」をすべし、というこれまでもいろいろな所で書いてきている妄論を主張している(「憲法改正」反対論の一種。p.3)。

 たんなる渡部個人の著・論考ならまだよいが、「憲法」をタイトルに打った本の監修者の「はじめに」となると、座視できない。

 日本国憲法「無効」論については渡部昇一以外の者の詳論も読んで検討したことがある(今回は急いでいるのでかつてのエントリーへのリンク省略)。結論は、「無効論」に値せず(「無効」概念の誤用がある)かつ<憲法改正>または<自主憲法の新制定>を遅らせるだけの、議論の混乱を招くだけの妄論だ、ということだった。

 「無効宣言」すべしとする一部の論者に尋ねたいが、その宣言主体はいったいどの国家機関なのか(あるいはどのような手続を経てどの国家機関が行うのか)? 「国会」とする論者もあるようだが、渡部昇一は上の「はじめに」で、「その手続は意外と簡単」だなどと空論を述べ、「日本政府」がとにかく一度でも「無効宣言」すればよい、と説く(p.3、p.5)。

 そこで渡部昇一に一つだけ尋ねる。「日本政府」とはいったい何か。国会も含めて広く統治機構を「政府」と称する語法もあるが、現憲法(および大日本帝国憲法)の概念だと「内閣」をおそらく想定しているのだろう。そうでないと、漠然と「日本政府」と言うだけでは国家機関を特定したことにはならない。あるいは渡部は緻密に思考していないので、内閣を代表する内閣総理大臣を念頭に置いているのだろうか。その場合でも以下の論旨は同じ。

 しかして、渡部昇一のいう「日本政府」=「内閣」(または内閣総理大臣)は旧憲法上のものか、渡部昇一のいう日本国憲法=「占領対策基本法」上のものか??

 前者はすでに存在していない、と認識するのが(規範論としても現実論としても)妥当だろうと思われる。

 後者だとして、渡部昇一のいう日本国憲法=「占領対策基本法」にもとづく、かつそのもとで制定されてきた法律(「内閣法」)によっても構成されてきた内閣(または代表・内閣総理大臣)に、自らを生んだ日本国憲法=「占領対策基本法」を「無効」と判断し「宣言する」権限はあるのか??。自らの祖先を殺すようなもので、こういうことを平気で述べる著名な<保守>論客が存在すること自体が、悲痛な想いにさせる。

 「国会」を「無効宣言」の主体と考えても、同じことがいえる。衆議院と参議院から成る国会は日本国憲法のもとでの国家機関で、日本国憲法が生み出したものだ(旧憲法では構成も異なる「帝国議会」)。

 渡部昇一は、「日本政府」なのものの意味をより明確にするとともに(日本国憲法には前文を除き「政府」概念はない。旧憲法でも同じ)、その国家機関を「法的に」生み出した出所を明らかにされたい。

 占領下において、日本国憲法を上回る超憲法的な「権力」があり、諸施策が行われたことを否定はしない。現憲法が禁止する「検閲」はあったし、超憲法・超法規的に公職追放等もなされた。

 だが、そのようなことは、現在における日本国憲法「無効」論の根拠にはならない。

 不思議に思うのだが、渡部昇一の「はじめに」以外は未読だが、各執筆者のうち南出喜久治を除いて、その他の者は、例えば西尾幹二も(現憲法下の法制のもとでの)「法曹」資格ある稲田朋美も法学部出身の遠藤浩一も、監修者・渡部昇一の日本国憲法「無効」論・「無効宣言」すべし論に与しているのだろうか??

 一見新鮮なようでいてじつは無駄な議論だと、南出以外の者は感じていないのだろうか?

 そのように一致しているとは思えない主張を、監修者たる資格で渡部昇一はよくも堂々と書けたものだと思う。

 このような者が、<保守>の代表的な論者とされているのかと思うと、日本の将来に、やはり暗澹たる思いがする。かかる妄論が一冊の初めに堂々と主張されているようでは、「九条の会」参集者も、渡部昇一のいう「憲法を食い物にする敗戦利得者」=現在の日本の憲法学者(憲法研究者)のほとんども、せせら嗤って、何ら痛痒を感じないだろう。

 百地章、西修、稲田朋美、ついでに八木秀次らは、渡部昇一という名前に怯む?ことなく、日本国憲法「無効」論・「無効宣言」すべし論を批判すべきだ。こんな「はじめに」をもつ、<憲法>をテーマとするがごとき書物が<保守>派によって刊行されてよいのか? 百地、西、八木に学者としての「良心」はあるのか?

 以上述べたことは、個別の各論考にかかわるものではない。

 これまでこの欄でほとんど渡部昇一の本・主張を採り上げなかったのは、渡部が日本国憲法「無効」論にだらしもなく影響をうけていることが明瞭だったからでもある。誰か、勇気のある者は、退場勧告をつき突けた方が(日本の将来のためにも)よい。

0940/戦後史②-遠藤浩一著の2。

 <戦後>とは何だったか、については直接・間接にいろいろと言及してきた。かつて、類似タイトルの田原総一朗の本の内容に触れたこともある。

 あらためて、より包括的に、だが当面は遠藤浩一と佐伯啓思の本を手がかりにして、<戦後史>を考える。

 日本の<戦後>の第一の区切りは1952年の講和条約発効だったかに見える。だが、1950年の朝鮮戦争と警察予備隊発足による日本の事実上の<再軍備(軽装備だが)>の始まりと、その前提としてのアメリカの占領基本方針の変更(変更前の「成果」こそが1947年施行の日本国憲法だった)の時点の方が政治的意味は大きいかもしれない。

 1947年初め(日本国憲法はすでに公布されていた)までを<戦後第一期>とすれば、その後が<戦後第二期>で、今日にいう<戦後>とは、この<第二期>の、アメリカの軍事力に守られて(軽軍事力のままで)経済成長にいそしむ、という「体制」に他ならないだろう。

 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)p.216(2010、麗澤大学出版会)は、そのような「戦後というものの継続」が確定したのは、1952年でも、(政治学者はしばしば画期として用いる保守・左翼政党のそれぞれの統一年である)1955年(「1955年体制」)でもなく、「昭和三十年代半ば以降」だったとする。

 昭和30年代の半ば、昭和35年は1960年で、<六〇年安保騒擾>の年。この年に岸内閣は退陣し、池田勇人内閣に変わる。

 池田は「朝鮮特需の頃」(1950年)から「助走」を始めていた「高度成長に棹さすことによって所得倍増政策を推進」した(p.217)。

 1963年10月に池田勇人は「在任中、憲法改正はいたしません」と宣言した(p.221)。

 遠藤浩一によると、池田政権の発足ととともに「軽武装・対米依存・経済成長優先」という「吉田路線」が復活し、「戦後」は終わらないまま「池田時代から本格化した」(p.221)。

 最近しばしば目にする<吉田ドクトリン>の内容とその評価はなおも留保したいが、<60年安保騒擾>後の数年間で、現在の日本の基本的姿は決まってしまった、という趣旨には同感する。

 すなわち、この時期に、政権党・自民党は、憲法改正(自主憲法制定)を実質的にあきらめてしまったのだ。

 どうしてだったのだろう? この時期に憲法調査会の報告もあったはずだが、改憲反対勢力が国会で1/3以上を占めていたので、改正の現実性は低かった。

 しかし、憲法改正(自主憲法制定)を訴え続け、国会内勢力を憲法改正発議が可能なように改める努力を、なぜ自民党政権はしなかったのだろうか。

 いつかも書いた気がするが、この時期に憲法改正=「自衛軍」の正式な(憲法上の)認知がなされていれば、今日まで残る基本的な諸問題のかなりの部分はすでに解決されていた。 三島由紀夫の1970年の自裁はなかった可能性がむしろ高いだろう。

 表向きはまたは身近は「平和」な状況のもとで快適で豊かな「物質的生活」を望んだ国民の意識が背景にはあるのだろう。しかし、国民の意識あるいは「欲望」に追随し阿るのが政治家・政党ではあるまい。

 岸信介は、「経済は官僚でもできる。だが、外交や治安はそうはいかない」と語ったらしい(遠藤浩一・下p.217)。

 なぜ、憲法改正はこの時期に挫折し、その後実質的には政治的課題・現実政治的な争点にならなくなったのだろうか。

 改憲反対勢力が国会で1/3以上を占めていた、あるいはそのような状態にさせていた「力」は、いったいどこから来ていたのだろう、という問題ともこの疑問は関連するはずだ。

0933/佐藤幸治の紹介する「戦略的護憲論」と井尻千男の唱える「憲法改正是非国民投票」。

 〇佐藤幸治・憲法とその”物語”性(2003、有斐閣)は、日本国憲法についての改憲論、護憲論にはそれぞれ二種ある旨を述べている。

 前者・改憲論には①根本理念を否定的に評価する「全面的改憲論」と、②全体としては「受け入れ」つつ「九条」の改正を主張する「部分的改憲論」(p.62)。

 記憶に頼るが、櫻井よしこは国民の権利義務の章についても疑問を呈しているので、上の①。八木秀次は人権条項等には間違っていないものもある旨を書いていたことがあるので(この点はこの欄で触れているが、自分の文章ながらも検索しない)、上の②に近いだろうか。

 いわゆる改憲論者は、自分が上のどちらに属するのか、明確な自己確認をしておいてよいだろう。私は理論的には、あるいは望ましい改正の姿からすれば、①の「全面的改憲論」に立つ。

 自民党の改憲案は現行憲法を前提として一部に削除・追加等をするもので、②に近いものと考えられる。

 本来は、自民党案のような<継ぎ接ぎ(つぎはぎ)改正>ではなく、条項名も内容も一新した全面改正が望ましいと考えられる。それによってこそ、日本と日本人は<自立>できるだろう。

 だが、現実的には、九条2項削除(+新設規定)による国防軍(自衛軍)の正式認知が可能ならば、そして法技術的観点等も含めてその方がより容易ならば、<継ぎ接ぎ改正>という<妥協・譲歩>もやむをえない、と考えている。

 元に戻る。佐藤幸治によると、後者・護憲論には、①「全面的擁護論」と、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」いわば「戦略的護憲論」とがある。なお、①も「自由主義」から「社会民主主義」までの「多様な立場を包摂」する、とされる(p.62)。

 興味深いのは、佐藤幸治が、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」いわば「戦略的護憲論」なるものの存在をきちんと認知し、かつどちらかといえば消極的評価のニュンスを匂わせていることだ。

 まさしく、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」「戦略的護憲論」はある。日本共産党の護憲論、日本共産党員の護憲論、日本共産党員憲法学者の護憲論はこれにあたる。

 日本共産党のみが現行憲法制定(旧憲法「改正」)時に「反対」投票をしたことはよく知られている。それも、固有の自衛権の行使のための「戦力」保持を禁止する九条2項を当時の日本共産党は問題視したのだ。

 それが近年では<九条の会>運動の担い手になっているのだから、笑わせる。

 吉永小百合もそうだし、その他の空想的・理念的<平和主義>者もそうだが、日本共産党の<戦略>としての護憲論(いやこの党は<憲法改悪阻止>と表現しているかもしれない)に騙されてはいけない。社会主義・共産主義社会という「別種の理想社会」への「過渡的措置を実現」するための<戦略>としての護憲論に騙されて、<ともに闘う仲間だ>などという甘い考えを持ってはいけない。

 〇月刊日本11月号(K&Kプレス)に井尻千男「今こそ憲法改正の好機だ」(インタビュー回答)が掲載されている(p.28-)。尖閣事件を契機とするもので、最近に言及した産経新聞11/03の田久保忠衛「正論」と似たようなものだ。

 しかし、上の中で井尻千男がこう言っているのには目を剥いた。
 <民主党だ自民党だと争っている場合ではない。与野党を超えて一致団結すべきだ。そこから「政界再編」もありうるが、「憲法改正の是非を問う国民投票をまず実施するべきだ」。>(p.31)。

 現時点で憲法改正に向けて「与野党」が一致できるかという現実認識の当否は別としておくが、「憲法改正の是非を問う国民投票をまず実施」すべきだ、とは、この人は何を寝ぼけたことを言っているのだろう。

 憲法改正を論じながら、現憲法上の「改正」手続に関する諸条項の内容すら知識としてもっていないようだ。他にどんなことを言っても、三島由紀夫が1970年に述べた「果たしえていない約束」を果たすべきだ等と言ったところで、上の部分で、ズッコケる。

 「憲法改正の是非を問う国民投票」などが「まず」必要になるのではない(むしろ不要だ)。最近書いたように、そんな思いつき(?)よりも、内閣を変えること、そのために総選挙をして国会議員の構成を変えること、の方がはるかに「憲法改正」に近づける。じつに常識的なことを書いているつもりなのだが。

0886/西部邁には「現実遊離」傾向はないか①。

 1970年の三島由紀夫の自決の際の<檄文>が憲法と自衛隊に触れていることから、隔月刊・表現者29号(ジョルダン、2010.03)の「憂国忌・記念シンポジウム/現代に蘇る三島由紀夫」によると、西部邁は憲法や法律について、つぎのように発言している(p.272)。<檄文>への言及部分は省く。
 ①憲法と自衛隊は本来は「二者択一」。
 ②「元来、憲法なんてアメリカ人が書いた草案」で、日本側が拙速で翻訳して日本の「帝国議会」で「認められただけの存在」だ。
 ③「成文憲法」を書き「その憲法の条文に従って」行動するというのは「変な」のだ。「憲法に合うように自分の存在を変える」、これ自体を「歴史感覚をもった国民ならば」「とんでもないと思うべき」。「特定の人物」の「適当な興味による文章ごとき」に「国家のあり方とか人格のあり方まで左右される」こと自体が「非常に近代主義的な誤謬」だ。「あんな成文憲法は…あってもいいけれども」、「本来ならば自分たちの歴史の…良識なり常識として」「国防なり軍隊」をどう「作るかが決定的に大事だ」。
 ④「法律は大事」だが、その前に「常識」がある。それをもたらすのは「日本の歴史その他」で、この方が「遙かに大事」だ。
 ⑤「今の日本人」は「尚かつ憲法というものに依存」しているが、「そんなもの日本の歴史と無関係」。「歴史」の方が「人間精神、意識として決定的に大事」。「どんな憲法の条文」があろうが、「そんなことは二の次三の次」ということを「今の日本人は全く分からずにいる」。
 さて、西部邁はいったい何を言いたいのか?
 上の①・②はよい。あとは「憲法」の部分を1947年施行の<日本国憲法>ときちんと読み替えると趣旨・気分は理解できそうだ。
 だが、いかに現憲法に対する嫌悪感・拒否感情が強くとも(私も多分に同感だ)、現憲法やその下位の法律よりも「日本の歴史」の方が重要だ、という旨の部分は、一種の<憲法・法ニヒリズム>につながるところがあるようで、脆いところがあると感じる。
 上の③のように、「憲法の条文に従って」行動するというのは「変な」のだ、「憲法に合うように自分の存在を変える」、これ自体を「歴史感覚をもった国民ならば」「とんでもないと思うべき」だ、と西部邁が言ってみたところで、現実の日本の政治・社会(・人々の行動)は現憲法によって方向づけられ、制約されてきたことは疑いえない。
 いかに現憲法の生誕の奇異さを指摘し、その内容の日本の歴史と無関係の「近代主義」性を強調しても、現憲法施行後は現憲法の定めにのっとり、加えて国会法等の法律に従って両議院の議決によって「法律」は制定されてきた。同じく加えて公職選挙法等の法律に従って両議院の議員は選出されてきた。そして現憲法に従って、小泉内閣も鳩山由紀夫内閣も生まれてきた、という現実を否定することはできない。
 そのような意味で、西部邁が渡部昇一のように現憲法「無効」論を主張しているのかどうかは知らないが、西部邁にはいくぶんは<現実遊離>の趨きがある。
 西部邁自身が憲法改正に関する提言類を執筆しているように、現実的に力を持ちうるのは、<憲法よりも歴史が大事、憲法は「二の次三の次」>といった主張ではなく、「日本の歴史」を組み込んだ新憲法を作ること=憲法を改正すること、そのための主張・提言・議論をすることに他ならないだろう。
 西部邁は「法律」にも言及して「日本の歴史その他」がもたらす「常識」の方が「遙かに大事」だとも語る。気分は分かるが、しかし、例えば―あくまで一例だが―、「法律」が定めるべき、両議院議員の選出方法(定数配分等を含む)、消費税率、社会的福祉的給付の具体的内容は、「日本の歴史その他」がもたらす「常識」によってどのように明らかになるのか、具体的な例を示していただきたい。
 国有財産の管理方法、道路管理の仕方や道路交通の諸規制、あるいは各種「公共」事業の実施を国・地方公共団体・独立行政法人・その他の<外郭団体>・「公益法人」・<ほとんど純粋な民間セクター>にどう配分するのか等々は、「日本の歴史その他」がもたらす「常識」によって、どのように、どの程度、明らかになるのか?
 現実に多数ある政策課題(そして、どのような内容の法律にするかという諸問題)を前にしてみれば、「法律」よりも「日本の歴史その他」がもたらす「常識」の方が「遙かに大事」だ、という見解を述べたところで、ほとんど<寝言に等しい>
 実際にも、憲法改正をめぐって、あるいは諸法律案をめぐって(公務員制度改革、高速道路の料金の決め方、外国人選挙権、夫婦別姓等々々)<政治的>闘いが繰り広げられているようだ。
 そのような「憲法」や「法律」の具体的内容に関する諸運動に対して、西部邁の上のような発言は、<水をぶっかける>こととなる可能性が全くないとは思われない。
 もともと「憲法」(一般)・「法律」と道徳(規範)や歴史とは決して無関係ではない。あえてこれらの違いを強調することの意図はいったい奈辺にあるのだろう。
 このシンポジウムの司会者・富岡幸一郎は三島由紀夫の<檄文>が提起した一つは「憲法改正の問題」だと明確にかつ正当に述べている(p.270)。
 したがって、「憲法改正」の具体的内容・戦術が語られてもよかったのだが、西部邁は「成文憲法」・日本国憲法なんて「二の次三の次」だ、「大事」なのは「日本の歴史」だなどと発言して、論点をズラしてしまっている。こんな西部の議論を、憲法(とくに現9条2項)護持論者はきっと喜ぶだろう。

0880/朝日新聞5/3の憲法に関する世論調査結果報道。

 一 憲法記念日、5/3の朝日新聞。一面左上に、「憲法について朝日新聞社が実施した全国世論調査」の結果の要点が載っている。
 付されている見出しで最大のものは「9条改正67%反対」、続いて「『平和に役立つ』7割」。
 この見出しの付け方は、世論調査の結果のうち朝日新聞にとって好ましい部分を特記している。これらの見出しの内容自体が調査結果から逸脱しているのではなさそうだ。だが、これらを選ぶこと自体が、朝日新聞の<体質>を表している。一面記事の署名は、「石原宗幸」。「左翼」心情者あるいは九条護憲教の信者なのだろう。
 二 3面に正確な諸データが載っている。
 1.一面に最小の活字で書いてはいるが、<憲法全体についての改正の要否>の問いについては、改正の「必要がある」47%、「必要はない」39%。朝日新聞はこの数字は軽視したいようだ。
 改正必要・改正不要の理由の問いもあり、改憲派の「15%」が「9条に問題があるから」、10%が「自分たちで新しい憲法を作りたいから」。一方、護憲派の「33%」が「9条が変えられるおそれがあるから」。
 これによると、9条護持を理由としての改正不要(護憲)派は、39%×33%で約13%。一方、9条を問題視しての改正必要(改憲)派は47%×15%で約7%になる。これに「自分たちで新しい憲法を作りたいから」も加えると、47%×25%で約12%だ。
 朝日新聞が報道したい見出しからする印象よりも、9条にかかわる憲法改正問題の世論調査において、改正必要(改憲)派はかなり頑張っている(なお多く存在している)と評すべきではなかろうか。
 9条護持のための護憲派13%に対して、9条を問題視する改憲派は7%、「自主」憲法作りを理由とする改憲派をも含めると12%になる。ほぼ拮抗している、とも言える。
 2.「9条改正67%反対」という見出しの根拠になっている数字が出ている問いの文章は、「憲法は9条で『戦争を放棄し、戦力は持たない』と定めています。憲法9条を変える方がよいと思いますか。変えない方がよいと思いますか」。回答は前者24%、後者が(見出しになっている)67%。
 この数字もなお24%というほぼ1/4が9条改正賛成であることを示しており、かなり明確な9条改憲「潮流」はあることを示している、とも読めるだろう。
 上のことよりも気になるのは、朝日新聞の質問が、「憲法は9条で『戦争を放棄し、戦力は持たない』と定めています」という文のようであることだ。戦争についての侵略戦争と防衛(自衛)戦争の区別はなく、9条1項と2項の意味の違いも何ら説明もしていない。
 細かいことを言っても読者(素人)は分からないとバカにしているのかもしれないが、こんな質問文が通用しているがゆえにこそ、9条の1項と2項の意味の違いを知らずに、たんに9条全体が「『戦争を放棄し、戦力は持たない』と定めて」いる、というだけの理解が大多数国民に蔓延しているのだと思われる。
 3.つぎの質問に対する回答結果はかなり興味深い。質問は「いまの憲法9条は、これからの日本の平和や東アジアの安定に、どの程度役立つと思いますか」。回答は、「大いに」16%、「ある程度」54%、「あまり役立たない」19%、「まったく役立たない」3%。
 9条の<平和>貢献度につき、計22%が「あまり」または「まったく」役立たないとしていることも興味深い。ほぼ5人か4人に一人が<クール>に見ている。
 より興味深いのは、一面見出しには「『平和に役立つ』7割」と謳っているにもかかわらず、そのうち「大いに」は16%にすぎないことだ(「ある程度」も含めて「7割」になる)。
 ギリギリ捏造見出しにはならないだろうが、それはともかく、「これからの」ではあれ「日本の平和や東アジアの安定」に9条が「大いに役立つ」とするのは16%にすぎない
 社民党は全体として、共産党や同党員の少なくとも一部は、<9条があったからこそ、日本の平和は守られてきた>と理解し、主張してきたはずだ。この主張・見解をそのままに支持している者は16%程度しか存在しない、ということを意味しているように思われる。国民はけっこうリアルに判断し、感じているのではないか。むろん、こんなことを、朝日新聞は指摘したり、強調したりはしていない。さすがに、「左翼」朝日新聞。
 朝日新聞5/3の記事についてはまだ書きたいことがあるが、別の機会にする。

0827/三島由紀夫全集第35巻の大野明男関連文章(1969)を読む。

 一 ①「大野明男氏の新著にふれて―情緒の底にあるもの」、②「再び大野明男氏に―制度と『文化的』伝統」の二つが、決定版三島由紀夫全集第35巻(新潮社、2003)に収載されている。
 契機となった大野著とは『70年はどうなる-⦅見通し⦆と⦅賭け⦆』で(出版社等不明)、上の三島由紀夫の文章は、毎日新聞1969.08.08夕刊、同1969.08.26夕刊が初出で、いずれも三島・蘭陵王(新潮社、1971)に所収。
 大野明男は当時「全共闘」支持の「左翼」論者だったようで、三島由紀夫がこういう文章を書いて、<保守>の立場での一種の<時事評論>をしていたとは詳しくは知らなかった。小説・戯曲を書いたり、一般的な文化・思想論を展開したりしていただけではなかったのだ。そういえば、<東大全共闘>と討論?し、それを本にしていた。けっこう、現実具体的な問題に介入していたのだ。なるほど、そうでないと、1970年11月の市ヶ谷での一種の<諫死>も理解はできない。
 さて、大野・三島論争?自体に立ち入らない(立ち入れない)。大野の文章全体を正確には知らないから。
 二 興味深い一つは、三島由紀夫の<憲法(とくに日本国憲法)>観が示されていることだ。
 三島によると、大野は「憲法」はその名のためではなく「成立を導いた『革命』のような政治過程の根本理念を表現した」ものであるがゆえに尊く、他に「優越」する、と書いたらしい。この部分を引用したあと、三島は書く。
 「なるほど新憲法に盛込まれた理念はフランス革命の人権宣言の祖述であるが、その自由民権主義はフランスからの直輸入ではなくて、雑然たる異民族の各種各様の伝統と文化理念を、十八世紀の時点における革命思想で統一して、合衆国といふ抽象的国家形態を作り上げたアメリカを経由したものである。しかもアメリカ本国における幻滅を基調にして、武力を背景に、日本におけるその思想的開花を夢みて教育的に移植されたものである。『血みどろの過程を通って』獲得されようが、されまいが、それが一個の歴史的所産であることは否定できない。
 私は新憲法を特におとしめるわけではないが、これも旧憲法と等しく、継受法の本質をもち、同じ継受法でありながら、日本の歴史・文化・伝統のエトスを汲み上げる濃度において、新憲法は旧憲法より薄い、とはっきり言へると思ふ。
 …継受法も一種の歴史的所産であるなら一国民一民族の歴史的文化的伝統との関わり合ひにおいて評価せねばならぬ、というのが私の立場である。憲法に対して客観主義的立場の人がその保持に熱狂し、憲法に対して主観的主体的立場をとらうとする人が必ずしも熱狂的ではない、といふところが面白い」。(全集第35巻p.603-4)。
 三島は1969年に44才(1945年に20才)。東京大学法学部で誰のどのような憲法の講義を受講したのだろうか。美濃部達吉か宮沢俊義か。いや(在学期間を確認すれば判明することだが)新憲法自体が1947.05施行なので、そのときはすでに卒業していて、旧憲法を前提とする講義を聴いたのだろう。
 いずれにせよ、大学教育によって上のような知見に至ったわけではあるまい。そして、日本国憲法についての、その理念は「フランス革命の人権宣言の祖述であるが、その自由民権主義はフランスからの直輸入ではなくて、雑然たる異民族の各種各様の伝統と文化理念を、十八世紀の時点における革命思想で統一して、合衆国といふ抽象的国家形態を作り上げたアメリカを経由したもの」という理解の仕方は正確なもののように思われる。1969年当時の大学法学部のほとんどにおいては、このような日本国憲法の説明は(憲法教育は)なされていなかったと思われるし、今日でもおそらく同様だろう。
 そしてまた、旧憲法も「継受法」だとしつつも、新憲法の方が「日本の歴史・文化・伝統のエトスを汲み上げる濃度」が旧憲法よりも「薄い」と明言して、新憲法に対する違和感・嫌悪感を表明している、と考えられる。
 大野明男は(反体制派「かつ」、あるいは「しかし」)<護憲>派だったようなのだが、新憲法(日本国憲法)に対する親近と嫌悪、これは今日にも続いている国論の分裂の基底的なところにあり、九条二項や「アメリカ」経由の欧米的理念の色濃い現憲法諸規定の<改正=自主憲法制定>に反対するか、積極的に賛成するかは、(公務員制度や政治家・官僚関係に関する議論・対立などよりもはるかに)重要な対立軸であり続けている、と考えられる。
 現憲法に対する態度は、結局は<戦後レジーム>に対する態度・評価の問題にほとんど等しい。これは、公務員制度や政治家・官僚関係に関する議論・対立などよりもはるかに大きな対立軸だ。そして、民主党のほとんどあるいは民主党中心新政権は<戦後レジーム>(現憲法)護持派なのであり、自民党の中には(民主党内に比べてだが)<戦後レジーム>脱却派=自主憲法制定派(改憲派)が多い(党是からは消えていない筈だ)、という違いがあることになろう。
 三 興味深い第二は、三島によると、大野明男は次のように書いたらしい(以下の「」は三島による引用内)。
 「日本の生産的労働階級」は「千余年の間、『天皇』などは知らずに、営々として『日本』を生きてきた…。心を『天皇』に捕えられるのは、つまり三島氏が『国民的メンタリティ』などと…持出しているのは、特殊な『明治以後』的なもの、正確には『日清戦争以後』的な、膨張と侵略の時代のメンタリティにすぎないのである」。
 おそらくは三島が「日本の歴史・文化・伝統のエトス」の中心に「天皇」を置く、又は少なくともそれと不可分の要素として「天皇」を考えているのに対して、大野は、日本の庶民の対「天皇」心情あるいは「天皇」中心イデオロギーは明治時代以降の産物で、「日本の歴史・文化・伝統」ではない、と主張したいのだろう。
 三島は大野の文を引用したのち、「これはよくいはれるルーティンの議論で、別に目新しいものではない」と応じ、<制度>・<感情>・<文化的伝統>等に論及している(上掲p.604-5)。
 この二人の議論と似たような議論が最近にもあったことを思い出す。
 すでに言及したが、隔週刊・サピオ11/11号(小学館)誌上で、小谷野敦のブログによる『天皇論』批判に対して、小林よしのりが反論している部分だ。
 大野明男にあたるのが小谷野敦で、三島のいう「よくいはれるルーティンの議論」をしていることになる。三島にあたるのが小林よしのりで、三島よりも<実証的に>江戸時代にとっくに庶民は「天皇」の存在を知っておりかつ敬慕していた「旨」を明らかにしている(なお「敬慕」の語はここで用いたもので、とくに拘泥したい語でもない。小林よしのりもこの語は用いていなかったかもしれない)。
 「左翼」の教条的な「ルーティンの議論」は40年を経て、なお生き続けていることにもなる。ウソでも100万回つけば…。「左翼」は捏造・歪曲にも執拗だ。

0802/憲法改正による天皇制度廃止を可能にする議席を民主党等に与えてよいのか。

 民主党300-320?、自民党100-140?。こうした予想を見ていると、民主党(中心)政権の与党は320という、衆院議席の2/3を超えそうだ。
 来年の参院選でも与党側(民主党ら)が勝利してしばらくは衆議院議員選挙がないとすると、大いに危惧されるのは、憲法改正による「天皇」条項の削除、すなわち、公的又は憲法秩序としての<天皇制度>の廃止への動きだ。国会が各議員2/3以上の多数で「天皇」条項の削除=<天皇制度>の廃止を発議すれば、今の国民は過半数でもってそれを支持しかねないと思われる。
 すでに天皇・皇室(制度)に対する攻撃がなされていることは知られている。もともと日本共産党は戦後当初から(いや戦前から)「天皇制」を(本音では)廃止したかっただろうし、現在の社民党も同様に見える。民主党の中にもこれを積極的に推進したいはずの「左派」議員はいる。
 また、今年のNHK番組の中に<反天皇>宣伝と見られるものがいくつかあったことも周知のこと。朝日新聞はイザとなれば(?)<天皇制度>廃止に賛成するに決まっている。岩波書店も同様。
 そのうち、皇族のための皇居は広すぎる、「主人公・国民」にもっと利用させよ、皇居下に地下鉄を走らせれば速く・近くなる、皇族への国費出費は多すぎる、皇族にも人権を、天皇陛下をもっとお楽に(現憲法上の公務なしにしてもっぱら祭祀に)、等々の意見が、共産党・社民党・民主党「左派」系や、朝日新聞・岩波書店お気に入りの「学者・知識人」、あるいは一般「庶民」の声として、チラホラと出てくるようになるのではないか。
 きっと誰かが、あるいは何らかのグループが、国会の多数を利用しての<天皇制度>廃止の策謀を仕掛けるに違いない(すでになされている可能性も高い)。
 改憲=憲法改正は九条(2項)改正をほぼ意味するとして反対する者たちの中には、「第一章・天皇」の削除ならば改憲大賛成の者も多いだろう。
 <天皇制度>廃止とは、「日本」国家の喪失、亡国に他ならないだろう。この方向へ動いていくのを強く憂慮せざるをえない。
 (なお、「天皇制」は勿論<天皇制度>という語の使用にも、「制度」ではないとの理由で反対する論者がいる。では、どう表現すればよいのか。一つの公的「制度」であることに違いはないのではないか。)

0685/五百旗頭真・日米戦争と戦後日本(講談社、2005)の一部(現憲法論)を読む。

 一政治学者・大学教授の理解としても興味深いが、現在の防衛大学校長のそれでもあるとなると、重要度は増すだろう。
 
五百旗頭真(1943-、元神戸大学教授)・日米戦争と戦後日本(講談社学術文庫、2005)は、日本国憲法の制定経過・内容的評価等について、以下のように叙述している(要約・抜粋する)。
 ・ポツダム宣言第10項(「民主主義的傾向」への「障碍」の「除去」)は日本政府に「憲法改正の責務を負わせた」と「考えられた」(p.218)。
 さっそく挿むが、「考え」た主体は誰なのか? またそもそもポ宣言による新憲法制定(明治憲法改正)の「責務」化という認識・解釈は正しいのだろうか。少なくとも日本側から積極的に憲法改正を言い出したのではない。1945年秋に有力な日本の憲法学者は<憲法改正不要>論だったことはすでに書いた。
 ・マッカーサーも上の考えに沿って「日本政府に改正作業を命じた」。日本政府による<自主的>対応という外見が日本国民の将来の支持のために必要との考えもあった。しかし、マッカーサーはソ連等を含む極東委員会の介入を嫌い、また幣原内閣下での松本烝治委員会案も意に添わなかったため、1946.02.03に「マッカーサー三原則」を示して民政局に憲法草案の作成を命じ、同局は「合宿状態の突貫作業」で02.13に草案を「完成」した。この草案をマッカーサーは日本政府に示し、「戦争放棄」を含む草案受諾は「天皇制」存続に効果的だ旨を述べた(p.219-220)。
 ・幣原首相・吉田茂外相等は「抵抗を試みた」が02.22に「結局受け入れ」、03.06に「憲法改正草案要綱」を発表、04.17に「口語体・ひらがな書き」の「憲法改正草案正文」を発表した。
 ここで以下を挿む。これ以降、議会での審議が始まったわけだが、衆議院を構成するこの当時の衆議院議員の選挙は1946.04.10に行われている(五百旗頭p.213)。従って、この総選挙(戦後第一回)の時点で有権者や立候補者が知っていた(又は知り得た)のは条文の形をとっていない「改正草案要綱」にすぎなかった。また、岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP、2002)は、憲法改正案の是否はこの総選挙の主要な争点ではなかった旨を叙述している(すでにこの欄に記したことがある)。
 ・「この日本国憲法案が発表されると、国民は熱く歓迎した」(p.221)。「事実関係から言えば押しつけ」だが、「日本政府は〔明治憲法が定める〕正規の手続によってこの案を検討・修正のうえ、決定した」。「さらに、この憲法を国民の圧倒的多数が、内容的に歓迎したのである」(p.222)。
 上に挿んだように、日本国民は「日本国憲法案」なるものは「草案要綱」しか知り得ていないし、岡崎久彦によれば04.10総選挙での主要な争点にもならなかった。にもかかわらず、五百旗頭真は、いかなる実証的根拠をもって、「日本国憲法案」の発表を「国民は熱く歓迎した」とか、「この憲法を国民の圧倒的多数が、内容的に歓迎したのである」とかと、自信をもって?書けるのだろうか。
 五百旗頭真の頭の中での<物語>の創出にすぎないのではないか、との疑問が湧く。
 ・「壮大なフィクションとしての『大東亜共栄圏』や『八紘一宇』などに狂奔した」のは「どんなに空しかったか」。「貧しくても、平和で公平な社会を再建したい-という気持ちが、戦後の日本国民には非常に強かった。少なくとも、もう一度武器をとることだけはごめんだ、というのが国民の広範な願いだった。それだけに…日本国憲法に対しては、これこそわれわれが望んでいたものだった、という反応が強かった」(p.222)。
 この文章は、<歴史>の叙述なのだろうか。<歴史>が究極的には<物語>たらざるをえないとしても、あまりにも五百旗頭の<主観>に合わせて作られた<物語>にすぎるのではないか。日本国憲法施行時に3~4歳にすぎなかった五百旗頭は、何をもって、「戦後の日本国民」の気持ち・「国民の広範な願い」・「望んでいたもの」を、上のように自信をもって?書けるのだろうか。不思議でしようがない。現憲法を「正当」視するために、後から考えた(<後づけ>的な)一種の<こじつけ>に近いのではなかろうか。
 ・「国民は日本国憲法を歓迎した。その意味で『押しつけ憲法論』は一面的であり、経緯はともかく、内容的には国民の意に反するものでなかったことを忘れてはならない」(p.223)。
 国民による「歓迎」(<受容)を理由として「押しつけ」論は「一面的」だと批判し、「経緯はともかく、内容的には」国民の意思に反していなかった、と述べる。かかる論理づけは、日本国憲法の制定過程とその(とくに内容の)評価について、<左翼>憲法学者たちが述べていることと全く同じだ。この五百旗頭という人物は、紛れもなく、現憲法=「戦後民主主義」まるごと擁護の立場に立つ、その意味で<進歩的な=左翼的な>、現在までの<体制派>のど真ん中にいる人だ。この人が現在の防衛大学校長?! 悪い冗談を聞くか、悪夢を見ている気がする。
 ・「日本国憲法は成立のいきさつが押しつけであるから我慢できぬ、民族の誇りが許さぬという『押しつけ憲法』論に対して、その…憲法下で自然に育った世代は、どこがいけないのかと考える」。参議院の弊害等の「具体的弊害」を言うならよいが、「そもそも憲法をご破算にしなければならないなどという議論は、いいかげんに大人になって卒業したらどうか、と諫〔いまし〕めたくなる性質のものである」(p.223-4)。
 この文章はかなりひどい。冷静な「大人」の文章ではない。
 「憲法をご破算にしなければならないなどという議論」とは何を意味させているのだろう。改憲論(現憲法改正論)一般を意味させているとすれば、五百旗頭の主張が成り立つ筈がない。100年後も200年後も、現憲法を「護持」していなければならない筈がない。
 現憲法「無効」論を意味させているとすれば、現在の改憲論(現憲法改正論)の大勢は、現憲法を「無効」と考えてはいないのだから、間違った、的外れの批判をしていることになる。
 肝心の「ご破算(にする)」の意味が不明なのだから、困った文章だ。参議院制度等の「具体的」 問題を論じるのはよいようだが、五百旗頭において、「具体的弊害」の問題と<基礎的・一般的>弊害の問題とはどのように区別されているのだろう。例えば、現憲法九条(とくにその第二項)の削除の可否は、いったいどちらの問題なのか??
 今では60歳代の半ばになる五百旗頭真は、単純素朴な日本国憲法観から、少しは「大人になって卒業したらどうか、と諫めたくなる」。こうした五百旗頭真の叙述・議論に比べて、佐伯啓思の日本国憲法論の方がはるかに奥深いし、自主的で冷静な思索の存在を感じさせる。五百旗頭は、つまるところ、アメリカ(GHQを含む)が行ったこと、関与したことを非難できない、批判しない、そういう心性が堅く形成されてしまっている人物なのではないか、というのが一つの仮説だ。 

0684/佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)を読む-その4・戦後憲法。

 一 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)をさらに読みつなぐ。なおも憲法にかかわる。
 ・「近代憲法の正当性の根拠」は欧州でも問題がなかったわけではなく、二つの立場があった。一つは、「ロック流の個人の社会権という社会契約というフィクション」を必要とした、「革命」により「近代社会」(普遍的「人権」等を内包する)が始まり、「その精神を憲法化する」、というやり方。フランスやアメリカで、これらには「近代社会」の「神話」を受容する「歴史的な構造」があった。もう一つは、イギリスのように「歴史的連続性」を強調するもので、統治・権利の原則を元来「イギリス人がもっていたもの」という伝統に遡及させる。「革命」という断絶は回避され、歴史の中の「本来の経験」に戻ろうとする(p.151-2)。
 ・では、日本の戦後憲法は上のどちらなのか? 明治憲法の「改正」手続を採った点で(形式的には)「歴史的連続性」が踏襲されているが、一方、実質的には、八月「革命」説のように「戦前との断層」に存在意義を主張していると見られる。ここに「日本国憲法の歴史に例を見ない奇妙な性格がある」。現憲法の「ユニークさ」はただ第九条にのみあるのではない(p.152)。
 ・欧米憲法において、国民(人民)主権原理のもとでは主権者たる国民(人民)が(議会・政府を通じて)自らの権力を制限するが(「集合的な権力の主体としての国民」)、これとは別に、そのような「権力」を超えた、「普遍的な権利をもった一人一人の個人」という範疇も成立する。国民(人民)主権を支えた、現実の「国民の一体感」・「愛国心」こそが、この二つの範疇の矛盾をとりあえず「隠蔽」し、「辛うじて調和させ」た(p.153)。
 ・アメリカ憲法修正1~10条は「連邦議会から個人の権利を守る」目的のものだが、ここでの「個人」は「抽象的で普遍的な」それではなく、アメリカ国民(人民)であり、連邦政府を作った張本人たちだ。これとは別に、「連邦政府の権限の以前に」、「自由な個人」が想定されていて、彼ら「個人」の「基本的な権利は不可侵」なのだ。
 ・日本国憲法においてはどうなのか? その11条によると「基本的人権」を保障するのは「この憲法」に他ならないが、元のGHQ案の表現では、「基本的人権」の根拠は「多年にわたる人類の自由への戦い」という歴史の「普遍性」にあった。この辺りが、現憲法では「一切不明確なまま」だ(p.156-7)。
 〔なお、ここで挿んでおくと、現憲法97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と、-その具体的な法的意味は他の条項に比べて違和感があるほど不明確だが-書いている。この条文によっても佐伯の提出する問題は残るだろうが、佐伯がこの97条の存在を意識しているかは定かでない。〕
 ・「憲法の専門家たち」がどう説明しているのか知らないが、戦後憲法において「国民の意思」、「その由来するところ」は「きわめてあいまい」ではないか? その原因は直接にはGHQ案に基礎をもつことにあるだろうが、「もっと根本的には」、「近代憲法の正当性の基盤」という困難な問題を「回避」したことによる(p.159)。
 ・既述のように、フランス型憲法における、「革命」により「普遍的人権に基づく近代社会」の創設という「ストーリー」を支えたのは「人民の一体感をともなった愛国心」・「国民意識」だったが、「戦後日本にはそのようなものはほぼ皆無だった」(p.159-160)。
 ・「戦後の体制変革は革命ではなく占領政策」だった。「愛国心や国民意識は…打ち砕かれていた」。そんな状態で「普遍的人権」に依拠した「近代憲法を創設する」ことができるわけがない。「国民」に憲法制定能力がないとすれば、「憲法の正当性は明治憲法の改正という手続」に求めるほかはない。そうだとすると、(改正の最終的主体としての)「天皇制度の維持はきわめて重要な事項」だった(p.160)。
 ・「良かれ悪しかれ、天皇制度を国家の(象徴的な)骨格としたのが日本の歴史の連続性」で、明治憲法も「その改正を天皇の勅令をもって帝国議会に付すべきこと」を規定していた。従って、明治憲法の中核である「天皇制度…を廃止するような改正」は「事実上不可能」だったのだ。だとすれば、その存続がマッカーサーの政治的判断であろうとなかろうと、「天皇制度」は「憲法のロジックにしたがって生き延びることになる」(p.161)。
 二 以上、あまり読んだことのないような指摘、問題設定、説明等がなされている(「国民」と「人民」は意識して区別されることなく叙述されている)。
 現に生きている日本国憲法は、そもそも何によって憲法として「正当化」されているのか? (憲法前文の前の告諭が明示するように)天皇が「裁可し、公布せしめ」た現憲法が、所謂「天皇」主権を廃して「国民主権」原理を採用している(とされている)ことはどう説明されるのだろうか。「告諭」は「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび」から始まるが、「日本国民の総意に基いて」と、なぜ言えたのだろう。
 ぎりぎり間接的には「国民代表」者から成る衆議院による可決を経ているが、国民(有権者)投票が行われたわけではなく、逆に、「枢密顧問の諮詢」という明治憲法上の規定もなかった枢密院での審議・可決手続を経ており、また、新憲法によって廃止されることとなっていた「貴族院」での審議・可決すらあったのだ。
 戦後日本は、<不思議な>来歴の憲法の下で国家運営がなされてきた、とあらためて感じる。法的・論理的には、完璧な説明はできないのではないか。そのような憲法が60年以上も生き続けてきたことに、大多数の国民が違和感を持たなかったのだから、憲法学者を含むその<鈍感さ>にあらためて驚くとともに、占領期の日本人の<思考停止>状態におけるGHQの力の大きさも感じる。
 新憲法制定・施行を「祝う」行事・催事がなされたはずだし、何といっても天皇陛下が「裁可し、公布せしめ」たとあっては、大多数の国民は(その内容に関係なく)新憲法を(少なくとも当面は)「支持」せざるを得なかったものと考えられる。
 だが、その「支持」は、はたして「内容」をも全面的に支持するものだったのかどうか。表面的にはともかく(占領下に新憲法反対の国民運動が起こせる筈もない)、実感としては違和感も覚える憲法条項もあったのではなかろうか。そうした違和感を潜在的には多少とも覚えつつ、建前としては「支持」しているうちに、<ごまかした>まま60年が経過してしまった、というところだろうか(直接には「護憲」派が国会で少なくとも1/3以上を占め続けたことによる)。
 当時の国民の全てが、あるいは圧倒的多数の国民が、手続的にはともかく「内容」的に支持し、受容した、という、少なからぬ(と思われる)憲法学者等の説明は、信頼できない、と思われる。

0678/佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)を読む-その3・現憲法の「正当性」。

 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)には、佐伯にしては珍しく、日本国憲法の制定過程にかかわる叙述もある。
 ・日本国憲法は形式的には「明治憲法の改正」という手続をとった。これは、イタリア・ドイツと異なる。イタリアでは君主制廃止に関する国民投票がまず行われ、その廃止・共和制採用が多数で支持されたあとで、「憲法会議」のもとの委員会により新憲法が作成された(1947年)。ドイツでは西側諸国占領11州の代表者からなる「憲法会議」により「基本法」が策定された(1949年)。
 ・日本国憲法の特徴は、内容以前に「正当性の形式」に、さらに言えば「正当性という問題が回避され、いわばごまかされた」点にある。明治憲法の「改正」形式をとることにより、「正当性」を「正面から議論する余地はなくなってしまった」。
 ・むろん、新憲法の「出生の暗部」、つまり「事実上GHQによって設定された」ことと関係する。さらに言えば、日本が独自に憲法を作る力をもちえなかった、ということで、これは戦後日本国家・社会のあり方そのものの問題でもある。
 ・「護憲派」は、「仮にGHQによって設定されたものであっても、それは日本国民の一般的感情を表現したものであるから十分に国民に受容されたもの」だ、と弁護する。かかる議論は「二重の意味で正しくない」。
 ・第一に、「受容される」ことと「十分な正当性をもつ」ことは「別のこと」だ。新憲法は形式的な正当性はあるが実質的なそれにはGHQによる「押しつけ」論等の疑問がつきまとっている。「問題は内容」だとの論拠も、問題が「正当性の根拠」であるので、無意味だ。「GHQによって起草」されかつ趣旨において「明治憲法と大きな断想」がある新憲法を明治憲法「改正による継続性」確保によって「正当性を与え」ることができるか、はやはり問題として残る。
 <たとえ押しつけでも、国民感情を表現しているからよい>との弁護自体が、「正当性に疑義があることを暗黙のうちに認めている」。
 ・第二に、「国民感情が実際にどのようなものであったかは、実際にはわからない」。それが「わからないような形で正当性を与えられた」ことこそ、新憲法の特徴だ。少なくともマッカーサー・メモ(三原則)は日本側を呆然とさせるものであったし、「一言で言えば、西洋的な民主化が、決してこの当時の日本人の一般的感情だなどとはいえないだろう」。「もし仮に、この〔GHQの〕憲法案が国民投票に付されたとしても、まず成立したとは考えにくい」。
 以上、p.147-p.151。
 現憲法の制定過程(手続)については何度も触れており、結果として国民に支持(受容)されたから「正当性」をもつかの如き「護憲派」の議論は論理自体が奇妙であること等は書いたことがある。
 1945年秋の段階では、美濃部達吉や宮沢俊義は明治憲法の「民主的」運用で足り、改正は不要だとの論だったことも触れた。
 さらには、結果として憲法「改正」案を審議することになった新衆議院議員を選出した新公職選挙法にもとづく衆議院選挙において、憲法草案の正確な内容は公表されておらず、候補者も有権者もその内容を知らないまま運動し、投票した、という事実もある(岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP、2002)に依って紹介したことがある)。従って、新憲法の内容には、国民(有権者)一般の意向は全くかほとんど(少なくとも十分には)反映されていない、と見るのが正しい。
 ついでに付加すれば、衆議院等での審議内容は逐一、正確に国民に報道されていたわけでもない。<占領>下であり、憲法(草案作成過程等々)に関してGHQを批判する、又は「刺激」するような報道を当時のマスコミはできなかった(そもそもマスコミが知らないこともあった)。制定過程の詳細が一般国民に知られるようになるのは、1952年の主権回復以降。
 「押しつけられた」のではなく、国民主権原理等は鈴木安蔵等の民間研究会(憲法研究会)の案が採用されたとか、九条は幣原喜重郎らの日本側から提案したとか、反論する「護憲派」もいる。のちには日本共産党系活動家となった鈴木安蔵は、「日本の青(い)空」とかの映画が作られたりして、「九条の会」等の<左翼>の英雄に最近ではなっているようだ。立花隆は月刊現代(講談社)誌上の連載で、しつこく九条等日本人発案説を(決して要領よくはなく)書き連ねていた。
 だが、かりに(万が一)上のことを肯定するとしても、日本の憲法でありながら、その策定(改正)過程に、他国(アメリカ)が「関与」したことは、「護憲派」も事実として認めざるを得ないだろう。彼らのお得意の言葉遣いを借用すれば、かりに「強制」されなくとも、「関与」は厳としてあったのだ。最初の「改正」への動きそのものがGHQの<示唆>から始まったことは歴然たる事実だ。そして、日本の憲法制定にGHQ又は米国が「関与」したということ自体がじつに異様なものだったことを、「護憲派」も認めるべきだ。
 ところで、長谷部恭男(東京大学)は、一般論として<憲法の正当性>自体を問うべきではない旨のわかりにくい論文を書いている。
 この点や本当に新憲法は国民に「受容」されたのか等々を、佐伯啓思の上では紹介していない部分に言及しつつ、なおも扱ってみる。

0657/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その4。

 前々回のつづき。江藤淳責任編集・憲法制定過程(講談社)の江藤「解説」による。
 ・宮沢俊義のポ宣言十二項(とその受諾)を根拠とする「国民主権主義」への「八月革命」説につき、一年余後の「改造」1947年5月号で河村大介(当時最高裁判事)はポ宣言十二項の「国民の自由に表明する意思」等々は天皇・貴族院の排除を意味しない「政治的」な意味で、ポ宣言・受諾により「直接に即座に」明治憲法73条を変更する法的効果が生じたと解するのは無理だとし、現憲法の成立を「革命という概念」により説明することを疑問視した(p.405)。
 ・以下は江藤の判断が混じる。宮沢が上の河村説は「至極穏当」なものであることを「知らなかったはずはない」。「敢えて知りながら」「八月革命」説を唱えた「不可思議かつ不自然な変貌の秘密」は、既に言及の1946年の「改造」論文(3月)と「世界文化」論文(5月号)の間の「微妙な不整合のなかに隠されている」。
 「微妙な不整合」とはポ宣言に対する態度だ。「改造」論文で宮沢俊義は同宣言第十二項を必ずしも憲法改正の根拠とせず、改正はむしろポ宣言を「逸脱することを辞せず、それを超えた『理念』にもとづ」くべきことを述べたが、それは米国の「初期対日基本方針」の理念を「反映」したものだった。
 だが「世界文化」論文では再びポ宣言に改正の根拠を求める。但し、第十項ではなく第十二項に根拠条項を求め、「いったんポツダム宣言の枠の外に出た」かの如きだった宮沢はその「枠内に戻り」、「枠はなかった」、ポ宣言の「受諾そのものが”革命”だった」と叫んだのだ。
 かかる(ポ宣言からの)「逸脱」と「革命」は、異なるように見えて、しかし、ポ宣言が「本来日本と連合国の双方に課していた拘束を否定し去ろう」とする点では「全く一致している」。「世界文化」5月号論文は、実質的に、米国の「初期対日基本方針」の合理化の試みに他ならない。換言すれば、「八月革命説」は米国「初期対日基本方針」の「意図を隠蔽しつつ、同時にこれを合理化しよう」とする「手品のような学説」だった。(以上、p.406-7)
 ・憲法改正にかかる貴族院での審議に、議員の宮沢は「マッカーサー草案の基本線を積極的に支持する立場」(小林直樹による)で参加した。一方、改正草案が枢密院に諮詢されたとき〔なお、この手続は明治憲法には明記されていない-秋月〕、美濃部達吉は、明治憲法73条〔改正条項〕による改正なのだとすると、勅命により議案が提出され、廃止されようとしている貴族院にも付議され、天皇の裁可により改正成立となるが、一方で草案前文は「国民がみずから憲法を制定」と書いていて、これは「まったく虚偽」だ、等々と批判し枢密院でただ一人「否」票を投じた。佐々木惣一(京都帝国大学)・貴族院議員も「反対討論」をした〔内容省略〕。枢密院議長(公法学者)・清水澄は枢密院可決を「深く痛憤して」1947.09.25に投身自殺をした。
 ・江藤は憲法「改正」にかかる宮沢俊義の「変節」・「転向」を「責める」つもりはないが、「明らかにせずにはいられなかった」、と書いたあと、次のように言う。長々と紹介してきたが、本来はこの部分こそがメモしておきたかった箇所だ。
 「東京帝国大学(のち東京大学)法学部憲法学教授という職務は、きわめて重要な公職である。であるからこそこの公職は、占領軍当局にとっては何を措いても確保すべき戦略拠点だったに相違なく、現職の教授だった宮沢氏に、どれほどの圧力が掛けられたかも想像に難くない」。
 江藤は、東京(帝国)大学法学部憲法担当教授を「占領軍当局」が「確保」するためにとった「圧力」を具体的に示しているわけではない。
 だが、「想像に難くない」のであり、客観的にはいわゆる<工作>と言えるような行為・措置・「圧力」がGHQによって宮沢に対して執られたのではあるまいか。そして、客観的に見て宮沢が「応じた」(厳しくいえば客観的には「屈した」)のだとすれば、そのような対応は、戦時中に<体制>に積極的・消極的に順応・協力した、そして戦後になって批判された人々の行為と全く変わりはないのではないか。
 ・江藤は最後に、①宮沢俊義の「八月革命」説が「後進」の小林直樹・芦部信喜(いずれも元東京大学法学部憲法担当教授)らによって継承され、「定説」となって全国の大学で講じられ、「各級公務員志望者」によって「日夜学習されているという事実」、そして②米国の「初期対日方針」にもとづく米国の政策が「今日、依然として一瞬も止むことなく若い人々の頭脳と心に浸透しつつあるという事実」の喚起・銘記を求めて「解説」を終えている。
 これらにこそ、まさに今日的・現代的な問題点がある。東京大学法学部の<権威>?をもって、日本国憲法に関する<進歩的(左翼的)通説>が、今日・現在の公務員界(官僚たち)・マスメディア等々を実質的に「支配していること」、日本国憲法に関する<進歩的(左翼的)通説>の教育を受けた者たちが今日まで行政官僚・司法官(裁判官)・政治家や朝日新聞等々のマスコミの要職についてきたし、現在も就いているのだ、ということの明瞭な認識が必要だ。
 占領期の米国の政策は、「歴史認識」の実質的<押しつけ>も含めて、すでにほとんど、「若い人々の頭脳と心に浸透」してしまっているのではなかろうか。種々の恐怖・憂慮の<真因>はここにあるように思われる。
 そして、GHQの政策・考え方(・戦争の評価を含む「歴史認識」)等を客観的には支持し、擁護した、丸山真男を含む<進歩的知識人・文化人たち>(大学教授ら大学所属者を当然に含む)の果たした役割はきわめて犯罪的だった、と言わなければならない。
 この項を終える。
 

0642/大石眞・憲法講義Ⅰ(有斐閣、2004)-日本国憲法はなぜ有効か。

 一 激しい議論にはかりになっていなくとも、日本国憲法の制定過程との関連で、①この現憲法は「無効」か有効か、②有効だとして、旧憲法(明治憲法・大日本帝国憲法)との関係で現憲法は「改正」憲法か「新」憲法か、という基本問題がある。
 憲法学者はほとんどこの論点に立ち入らないか、<八月革命説>(→「新」憲法説)を前提として簡単に説明しているだけかと思っていた。
 喜ばしい驚きだが、現在は京都大学(法)教授の大石眞・憲法講義Ⅰ(有斐閣、2004)は、「憲法制定史上の諸問題」という項目を設け(p.42-)、まず、現憲法制定は「占領管理体制の下におけるいわば強いられた『憲法革命』」で、それは(1946.02の)マッカーサー草案提示後の憲法草案起草過程にも議会での審議過程についても言えるとする。そして、「憲法自律性の原則(芦部信喜)」は「むしろ破られたとみるのが正当な見方であろう」と書く(p.42)。
 その上で、現憲法無効論と有効論とがあり、後者にはさらに次の4つがあるという。
 ①(明治憲法改正)「無限界論」-佐々木惣一。
 ②八月革命説(主権転換がすでにあったとする)-宮沢俊義。
 ③段階的主権顕現説(議会での審議過程で国民主権が次第に確立したとする)-佐藤幸治。
 ④法定追認説(主権回復時=平和条約発効日を基準に、現憲法の適用・履行によって完全に効力をもったとする)-長尾龍一。
 大石眞は最後の④説に立つ。
 二 大石は現憲法無効論については、1.(明治憲法改正限界論を前提にして)この限界を超え、無効というが、<瑕疵>あることと<無効>とは異なる(瑕疵があってもただちに無効とはならない(民法にもみられる取り消しうべき瑕疵と無効の瑕疵との区別)、2.今日までの法令・制度を「すべて無にしてしまう」という実際上の難点がある、として採用しない。
 現憲法無効論の論拠は明治憲法改正限界論だけではない(被占領下で改正・新制定できるのかという論点もある)。また、今日までの法令等を「すべて無にしてしまう」という正確な意味での<無効論>ではない<無効論>もある(「無効」という語の誤用としか考えられない)ので、上の実際的批判は、この不正確な<無効論>にはあてはまらない。
 だが、結論自体は、妥当なところだろう。
 つぎの<有効説>の論拠は、私見では、①説でよいのではないか。何と言っても、昭和天皇が議会に諮詢し、天皇の名で「改正」を公布している、という実態は、「改正説」に有利であり、かつ、明治憲法期に憲法改正限界論(例えば「主権」変更はできない)が通説だったとしても1946年ではそのような考え方は学界・政治界そして天皇陛下自身において放棄されていた、と理解できるのではなかろうか。枢密院への諮詢等という明治憲法下での慣行をなおも維持した手続を経て現憲法は作られたのだ。できるかぎり日本人の頭と手で現憲法が作られたという外観・印象を与えたかったGHQの意図に応えてしまうことにはなるが、この説が最も無難だと思える(改正の諮詢自体が、そして議会の審議自体が日本側の自由意思でなかったことは明らかだが…)。
 <八月革命説>を大石は(私も)採らない。
 大石は、この説には、①「ポツダム宣言の文言やバーンズ回答をめぐる問題」、②「国家主権なき『国民主権』論は虚妄ではないか」、③「ラジカルな国際優位一元論は不当」、④「非民主的機関」、つまり「枢密院や貴族院」の関与やこれらによる修正をどう見るか、などの問題がある、という。
 丸山真男も依拠していた宮沢俊義の<八月革命説>は成り立たないのではないか。  そういう否定的見解がきちんと書かれてあるだけでも意味がある。「法定追認説」なるものには分からない点もあるので、長尾龍一の文章を直接に読んで、なおも検討する。

0607/岩波講座・憲法1の編集責任者・東京大学の井上達夫。

 一 本体・中身は未読だが、岩波講座・憲法1(岩波書店、2007.04)の編集責任者であるらしき、かつ東京大学法学部・法学研究科の「法哲学」担当教授であるらしき井上達夫という人物は、「哲学」の一種の専攻者である筈にもかかわらず(?)、沈着冷静ではなく、なかなかに<感情的>心性をお持ちのようだ。
 井上達夫による「はじめに」の最初の2~3頁は、皮肉を込めていうのだが、読みごたえがある。
 井上は次のように冒頭から書く。
 ・現憲法は還暦を迎えたが、「改憲論が政治的に高揚する中、祝福慶賀の声より、『憲法バッシング』の声の方が喧しい」。
 ・敬意を表するどころか、「昂然と侮蔑するような」態度が横行している。「『戦後憲法は紙屑だ』などと吐き捨てる」言動は、「右派知識人」・「草の根保守の民衆」にのみ見られるのではない。
 ・公権力の担い手・首相や閣僚たちも「靖国公式参拝を執拗に繰り返し、憲法の政教分離原則をまさに『紙屑』扱いしている」。
 冒頭の6行が上のとおりだ。冷静・沈着な落ちついた叙述とはとても言えない。改憲論者に対する<呪詛>の感情に溢れている。
 私にはよくわからないのだが、「『憲法バッシング』の声」とは具体的に誰のどのような言葉なのだろう? 改憲論=「憲法バッシング」とは論理的には言えない筈だ。また「『戦後憲法は紙屑だ』などと吐き捨てる」言動をしているのは具体的に誰々のことなのだろう?

 また、上では「靖国公式参拝」は憲法を「『紙屑』扱い」するものとも述べているが、「靖国公式参拝」が政教分離原則に反する違憲のものという前提らしきものそのものは適切なのだろうか? 首相・大臣らの伊勢神宮参拝も政教分離原則違反なのだろうか? 靖国神社だけを特別扱いしているとすれば、それは何故なのだろう。A級戦犯合祀がその理由なら、それは政教分離原則とは別の次元の問題ではないか?

 こんな疑問がつぎつぎに湧くが、井上は微塵も疑っていないかの如く、首相や閣僚たちは「靖国公式参拝を執拗に繰り返し、憲法の政教分離原則をまさに『紙屑』扱いしている」と断定しているのだ。恐れ入る。 
 二 井上達夫は、護憲論者の多くと同様に、現憲法に対する<押しつけ(られた)憲法>という批判を相当に気にしているようだ。
 上記のように書いたのち、井上はいう-憲法は制定時の反対勢力のほかに「後続世代の政治的意思に対しても、『押し付け』的性格を多かれ少なかれ内包している」。憲法は元来「押し付け」の性格をもつのだから、「憲法の出自にかかわる『押し付け』問題に拘泥」するのは憲法の真の問題性を暴くものではない。
 興味深い論調だ。ここには、「押し付け」概念の拡散・横すべりがあり、争点隠しの心情が読み取れる。
 「強制」で旗色が悪くなると、「関与」という概念に逃げ込んで満足しているのと、どこか似ているところがある。
 改憲論の論拠は、米国又はGHQによる「押し付け」、つまり日本国民・当時の国会議員の自由な議論を経ずして現憲法が制定された、という手続的(・形式的)問題にのみあるわけではない。

 だが、井上があえて上のように書かざるを得ないのは、手続的(・形式的)問題はやはりなお護憲論者たちの弱点なのだろうと推察される(鈴木安蔵たち日本人の原案があったとする「押し付け」論回避・批判論も近時はさかんなようだが)。
 三 改憲論者憎しの感情は先に紹介の部分でも窺えるが、表紙カバーの見開き面裏側にはこんな言葉がある。
 「空疎な改憲論が横行するなか、いま、改めて立憲主義というキーワードへの関心が高まっている」。
 岩波書店の編集担当者の文章かもしれないが、この巻の編集責任者である井上達夫が承認・同意を与えたものだろう(あるいは井上自身が書いた文章である可能性もある)。
 上の一文において、「空疎な改憲論」と空疎ではない改憲論とは区別されているのだろうか。「横行」しているのは「空疎な改憲論」だというのだから、改憲論はすべて又は殆ど「空疎」だ、と言っているに等しいものと思われる。
 それではなぜ「空疎」なのか。むろん、これに応える文章はない。
 要するに、「改憲論」を悪玉にするためのそれこそ「空疎」な決めつけ、あるいは思い込みに他ならないだろう。
 四 東京大学法学部・法学研究科には現在もれっきとした「左翼」が棲息している。
 また、個々の論文の執筆者とその内容について一律に判断するつもりは全くないが、「九条の会」の事務局的役割を果たしていると思われる岩波書店の憲法関係の出版物は、<政治的>色彩を帯びていることをあらためて確認しておく必要があるものと思われる。

0558/<言挙げ>したくはない、しかし。-八木秀次とは何者か・4。

 一 1 渡部昇一月刊Will7月号(ワック)の日下公人との対談(「『恋愛結婚制』と皇室伝統」)の中で、同誌上の「西尾論文を読んで非常によいと思ったのは、今の皇太子殿下が皇位を継承しなくてもよいという主旨のことが書かれていた」ことだ、と述べている(p.45)。次回に扱うが、<現皇太子皇位継承不可論>とでも称すべき<怖ろしい>主張を、八木秀次とともに明らかにしていることになる。
 上の点は、では誰が皇位を継承するのか、現皇太子殿下の皇太子たる地位はどのようにして否定(「廃太子」?)するのか、新しい皇太子はどのような根拠と手続でもって定めるのか、等の複雑な問題を生じさせるのだが、渡部昇一はそういった点には立ち入らず、いわば<思いつき>で発言しているようなところがある。
 2 そのような<思いつき>発言は、皇室典範にかかわって述べられる、次にも見られる、と思う。
 「あの〔占領〕時代に作られた法律はすべてご破算にして、一度、明治憲法に戻るべきです。その上で、日本国憲法のよい部分を入れ込めばよい」(上掲誌p.47)。
 上のことの厳密な意味、そしてそのために採るべき手続について、渡部昇一はきちんと考えているのだろうか。
 こんなことを書くのも、1年余り前に触れたことがあるが、渡部昇一は<日本国憲法無効論>の影響を受けていると見られるからだ。上では現憲法無効論のみならず、いわば<占領期制定法律無効論>も述べているようだ。  <日本国憲法無効論>は、①その正確な内容を理解するかぎりでは、「無効」概念の使い方を誤っている、②現国会による<無効決議(宣言)>を必要とする点で、将来の新憲法制定(現憲法改正)を却って遅らせる機能を果たす(また、現憲法を「無効」と考えている国会議員は現在一人もいないと思われる)、という大きな欠点をもつもので、とても採用できるものではない。
 なお、これを支持していると見られる者に、兵頭二十八(軍事評論家)、畠奈津子(漫画家)がいる。
 二 1 八木秀次・日本国憲法とは何か(PHP新書、2003)を全部は読んでいないが、八木秀次は<日本国憲法無効論>には立っておらず、問題点・限界を指摘しつつ「改憲すべきはどこか」(p.206-)等を論じていると見られる(p.180に<日本国憲法無効論>への言及があり、好意的ニュアンスもある。しかし、p.181には大日本帝国憲法「改正無限界論」に立てば現憲法は「有効に」成立している、「改正限界論」の帰結が<日本国憲法無効論>と所謂<八月革命説>だ、との叙述もある。何より、国会による<無効決議(宣言)>の必要性などには全く触れるところがない)。
 また、<日本国憲法無効論>の立場の者のブログの中で、八木秀次や百地章等は現憲法を有効視する(その上で改正を目指す)論者として厳しい批判(・攻撃)の俎上に乗せられていた記憶もある。
 2 そういう八木秀次ならば、渡部昇一が<日本国憲法無効論>者か、少なくともそれに影響を受けている者だくらいのことは知っているだろう。あるいは、むしろ、知っておくべきだろう。現実問題としては<日本国憲法無効論>の力は小さく、無視又は軽視をして、<小異を捨てて大同につく>のでよいのかもしれない。しかし、八木秀次は憲法学者(の筈)なのだ。渡部昇一について、<日本国憲法無効論>の少なくとも影響を受けている者だとの認識とそれにもとづく対応があっても何ら不思議ではないと思われる。
 3 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人々(PHP、2008)には、渡部が現憲法無効を主張するような部分はなかったように思われる。だが、稲田朋美は「渡部先生が説明されたことへの反論ではないのですが」と述べつつ、講和条約11条についての渡部昇一とは異なる解釈を堂々と述べたりしている(p.139-140)のに対して、八木が渡部昇一の所説・議論に異を唱えている部分は全くなさそうだ(この点は、中西輝政=八木秀次・保守はいま何をすべきか(PHP、2008)での中西輝政に対する態度と同じ。なお、中西は<日本国憲法無効論>者ではない)。
 また、「鼎談を終えて」に見られる八木秀次の渡部昇一の評価はきわめて高いものがある。八木は次のように書く。
 「渡部先生はいつもながらの大旦那の風格で、泰然として」話に応じて「下さった」、「私は最近、渡部先生の若い頃の著作を読むことが多いが、その該博な知識と見識には敬服するばかりである」(p.266)。
 渡部昇一が「該博な知識」の持ち主であることを否定しないが、八木秀次は、渡部が<日本国憲法無効論>の少なくとも影響を受けている者だとの認識をもって、「見識には敬服するばかりである」などと書いたのだろうか。憲法学者にとっては、現憲法の有効・無効はその出発点的論点の筈だ。腑に落ちない。上のような認識がなかったのか、それとも、認識していながら、年輩の渡部に(儀礼的・表面的にのみ?)賛辞を送ったのか。
 ともあれ、八木秀次の書いている(語っている)ことに奇妙さ・不思議さを感じる点が、ここにもある。

0472/天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき4。

 天皇・皇室による宮中での祭祀のための費用(および伊勢の神宮等の特定の神社への幣帛等のための費用若しくは幣帛料そのもの)は現行法令上は皇族の<私的>行為・活動のための「内廷費」から支出されている。これはいかにも奇妙であり、憲法上の<政教分離>原則と辻褄を合わせるための<大ウソ>ではないか、というのが当初に抱いた問題関心だった。
 政教分離に関する重要な最高裁判決がいくつかあり、関係下級審判決も出ていることは知っているが、判決例には立ち入らない。
 私がもったような問題関心は、しかし、当然だろうが誰かがすでに似たようなことを指摘しているもので、少なくとも一部の学識者によって共有されている。
 八木公生・天皇と日本の近代・下-「教育勅語」の思想(講談社現代新書、2001)は<天皇と日本の近代>二冊の最後の部分で(p.324~7)、天皇・祭祀・憲法の関連に言及して、締め括っている。論理展開(とくに敗戦前の状態の記述)を詳述することを得ないが、こんなふうに指摘する。
 <「政教分離の原則」のもとで「天皇の祭祀を宗教活動とみなして」憲法条項上の明記を排除したのは「明治国家に内在したあやまち」を逆の意味で繰り返している。「祭祀と宗教の混同」が、換言すれば、「祭祀行為」を「一定の教義の承認という意味での信仰」と見なす過ちがある。>
 そして、八木公生は実質的には憲法改正問題に、次のように論及する。
 <「日本国」のありようは「天皇の祭祀行為」を憲法に「いかに規定するか、あるいは逆に規定しないか」にかかっている。すなわち、「現憲法第一条の、さらにその前提として」、「天皇の祭祀行為」を「日本国」とのかかわりで「いかに規定するか」(いわば「憲法第0条」をどう表現するか)という「一点」に、「現在のわたしたちの課題がある」。>
 なかなか鋭い指摘だ。また、惜しくも故人となった坂本多加雄は<天皇制度>に関する大著ももっているが、亡くなる1年半ほど前の月刊ヴォイス2001年5月号(PHP)(憲法特集)にこんなことを書いていた。以下はごく簡単な要約。
 <九条・「平和主義」問題もあるが、「より立ち入った理論的検討が必要」なのは、「天皇とそれに関する国家の儀礼」をどう位置づけるか、さらに「国民主権」との関係をどう理解するか、にある。/「皇室行事は、天皇が天皇であることの証明」であり、とすれば天皇を「象徴」とする日本国の国民にとっても、それは「たんなる天皇家の私的行事ではないはず」で、「何らかの公的な意味づけが必要」だろう。/「国民主権」をフランス的に解釈する必要はないし、「君主」の存在と「国民主権」が矛盾なく並立している国は多数ある。/日本の「一般の国民」は「天皇のもとで議会政治が興隆した日本の近代史に対応」して今日の「天皇制度」を支持しつつ「議会政治」も支持しているだろう。/「生硬な政教分離や国民主権の観念」に振り回されることなく、「日本の歴史と国民の常識に即」して、考察する必要がある。>(坂本多加雄・同選集Ⅱ(藤原書店、2005.10)p.55~59に所収のものを参照した。他にもこの問題を論じた坂本の論稿はあると予想されるが未読。)
 坂本は上で「天皇とそれに関する国家の儀礼」と表現しているが、これがほぼ<天皇の祭祀行為>を意味していることは明らかだ。そして、それの<政教分離>や<国民主権>との関係を「日本の歴史と国民の常識」に即して議論すべきだ旨を説いている。
 もっとも、天皇に許容された行為を現憲法が列挙する「国事行為」に限定し、あとはすべて天皇が一個人・一人間として行う行為又は<趣味>的な行為等の<私的行為>と考えている、マルクス主義者らしき憲法学者(浦部法穂)もいることはすでに触れた。
 また、別の論者(歴史研究者)は日本共産党系の出版物で、さすがに(本音では)<天皇制>廃止をめざす論者らしきことを述べている。別の回に委ねる。

0451/小沢一郎はかつて「保守の最も右に位置する立場」に(も?)同調。

 過日、先月の3/03に、高市早苗編・小沢民主党は信用できるか(PHP、2008.03)に収載されている中西輝政「小沢一郎の悲劇」(初出は月刊ヴォイス2007年10月号)に言及したが、何気なくもう一度読んでいると、先月にこの欄には書いていない興味深い指摘がある。他にもあるが、とりあえず、同じ小テーマの一連の文章の中で一気に書かれている、つぎの二点だ。
 第一は、小沢一郎の見解・主張が全く一貫していないことは周知のことだが、その一例で、自由党時代の彼は、月刊・文藝春秋の1999年9月号で、憲法改正国民投票手続法の早期制定を自由党は提案していることを誇らしく書いていた、という。しかるに、まだ記憶に新しいが、昨年(2007年)には小沢一郎代表の民主党は憲法改正国民投票手続法案に反対した。自民党と民主党の両党の議員が積み上げてきた「与野党協議のすべてをひっくり返し」、民主党・枝野幸男をして「責任は安倍首相と小沢代表にある」と言わしめたのだった(p.153。月刊ヴォイス2007年10月号p.54)。
 中西輝政は福田康夫首相への「退場勧告」を月刊正論5月号(産経新聞社)に書いているが、福田首相「退場」後の首相が小沢一郎では、福田よりもはるかに悪い、と思う。もっとも、中西は福田首相「退場」後の具体的展望または具体的予想には立ち入っていないように思える。彼の見込みが民主党に政権を委ねるということであれば、次回衆院選挙で民主党が勝利すればそういうことになるのだろうが、-既述のことだが-まだその期待?(どうせ短期間で倒壊する筈だから?)・予想は早すぎるように思うのだが。
 元に戻って、第二。中西輝政によると、小沢一郎は「保守の最も右に位置する立場の意見に呼応して、いったん日本国憲法の無効を宣言し、そのうえで新しい憲法をつくり直す選択肢もあるとすら述べていた」。(p.153。月刊ヴォイス2007年10月号同上)。
 ここにいう「保守の最も右に位置する立場」とは、日本国憲法無効論を主張する立場を意味していることは明らかで、この日本国憲法無効論については(最近は論及していないが)かつて何回か消極的評価を述べた。
 そして、この「立場」でもって昨年の参院選挙に候補者を立てた政党・政治団体は、維新政党・新風だと思われる。同党のHPでは日本国憲法無効・その旨の国会での宣言を明確には謳っていないが、それらしき(無効論に近い又は矛盾しない)表現をかつて(昨年参院選頃に)確認したことがある。
 要するに、中西は、小沢一郎はかつて「
保守の最も右に位置する立場」に共感するかの如き発言又は文章執筆をしていた旨を書いて、その<無節操ぶり>を指摘しているわけだ。
 ところで、中西輝政の二つの指摘の話題から離れていくが、このイザ!ブログサイトも含めて、昨年参院選の前には、日本国憲法無効論や維新政党・新風を支持するプログが現在よりも多くあり、積極的に書き込みをするブロガー(と言うのだったか?)も多かった印象がある(と同時に、日本共産党支持のブログ・ブロガーも多かった)。
 ブログサイト上では日本国憲法無効論や維新政党・新風の支持者はけっこう多いような印象で、維新政党・新風が参院選挙でどの程度の票を獲得するかは、じつは私の大きな関心の一つだった。
 結果はどうだったか。比例区での「新風」の総獲得票は、田中康夫有田芳生「新党日本」はもとより「女性党」にも天木直人らの「九条ネット」にも負けて、170、515(得票率0.29%。獲得議席0。最高の個人名票は瀬戸弘幸の14、676)。これは、黒川紀章・若尾文子らの「共生」が146、986(得票率0.25%。獲得議席0)だったのにかなり近い。
 ネットあるいはブログ世界上の印象とはケタ外れの少なさだったことが印象に残っている。17万とは全くの微小ではないにしても、投票者330人余のうち1人の支持がある程度の、議員数ゼロでは、現実の政治を動かせない。むろん、日本国憲法無効宣言(決議)を国会が行うこともできない。日本国憲法無効論は理論的には成立し得るかもしれないが、現実の国会議員の中に(おそらく)一人も同論を支持する者がいないとなれば、現実的・政治的には、この「理論」が現実化する可能性はほとんどゼロに近いのではないか(むろん<それでも地球が回っている>と主張することはできる)。
 ブログのアクセス数やランキングは必ずしも閲覧者の「関心」の程度を正確に反映しているわけではない、<政治活動家>による意図的・組織的な(アクセス数等の)操作もあったのではないか、と感じたことだった。
 アクセス数やランキングを気にすることは私はほとんど止めた(矛盾することを書けば、3/15以降の約20日間でアクセス数は2.5万以上増えた…)。
 日本国憲法無効論の「理論」的検討を止めてしまったわけではなく(その必要性の程度を低く感じているのは確かだが)、この論について書き切っていないところもあるので、またいずれ言及することにする。

0449/戦後日本を支える「大ウソ」-非武装・政教分離。

 現憲法九条全体の護持を主張するのは自由だが、そのような護持派について奇妙に感じるのは、現実に(法律にもとづき)存在する自衛隊や(条約と国内法律にもとづき)現実に存在する在日駐留米軍をいったいどう見ているのか、ということだ。
 現憲法九条2項が「保持」しないとする「陸海空軍その他の戦力」に現在の自衛隊は該当するのではないか。該当しないならば、どういう<理屈>で自衛隊は「…その他の戦力」ではないのか。いずれかの回答になる筈だが、九条の会の面々も含めて、護持派(九条護憲派)はきちんと<思考>しているのだろうか。
 上の問いの最初を肯定して自衛隊は「陸海空軍その他の戦力」に該当するというなら、自衛隊は憲法違反(違憲)の存在であり、根拠法令も含めて無効視して自衛隊の廃止を主張しなければならない筈だ。
 しかるに、-同旨のことは過去にも書いたが-九条護憲派がそのエネルギーを<自衛隊の廃止>に傾注しているとはとても感じられない。<廃止>でなくとも、憲法適合的な限度内への縮小・削減の主張でもよいが(「弱体化」でもある)、そのような<縮小・削減の主張>が真剣に主張されているという印象は全くない。
 現実の(違憲の)自衛隊の存在は暗黙に承認しつつ、言葉・観念の上でだけは九条護持を主張しているのだとすれば、考えと現実関係実践が一致していない、<観念的平和主義>と批判されてもやむをえない。九条護持を主張し、自衛隊が九条(2項)違反だと判断するなら、自衛隊の縮減又は廃止をなぜもっと必死に唱え、その方向で活動しないのか?
 九条2項があるのに(あるために?)自衛隊は「陸海空軍その他の戦力」ではないとする政府等の<解釈>は、いわば国ぐるみの<大ウソ>だろう。そのような<大ウソ>を、九条護持派の大半もじつは共同して吐き続けているかに見える(自衛隊=違憲→廃止で積極的に活動している人々・団体の存在を否定はしない)。
 (駐留米軍についても同様のことが言える。日米安保条約が違憲というなら、その廃棄に向けて積極的に運動すべきだ。米軍自体の立ちのきを要求することなく、佐世保港等に入る特定の戦艦について入港反対とのデモ・集会を行うといったことは些細で<チンケ>なことだ。かつて日本社会党・日本共産党は明確に<安保廃棄>(→駐留米軍の帰国・解消につながる)を掲げ、集会・デモをしていた。)
 そんな国全体を覆っている「大ウソ」を政治家を含む大人たちがついてきておいて、子どもたちに<ウソをついてはいけない>という道徳・倫理を「しつける」ことができるだろうか。
 上と基本的には同様のことをじつは政教分離についても私は感じている。
 厳格に政教分離条項を貫くならば、皇室の<神道>による宗教的儀式・行事に(皇室費>内廷費という名目であれ)「公金」が使われるのは、憲法に違反しているのではないか。あるいは、年頭に内閣総理大臣(・その他の大臣の一部)が伊勢神宮にとくに参拝するのは、特定の宗教・特定の神社を<特別扱い>するもので、政教分離の「精神」からすれば、それを厳格に貫いていないのではないか。
 以上のような疑問が生じるのだ。むろん憲法解釈論としてはそのような結論に至る必要はないということを最近に書いたが、しかし、<曖昧さ>・<あやふやさ>が残っていることは間違いないだろう。
 この問題もまた、九条関係とは全く同じ脈絡ではないが、いったん採用された憲法規範と、日本の歴史・伝統をふまえた「現実」との矛盾・衝突の一現象だろうと思われる。
 国家と宗教の厳格な分離を掲げるなら、それは<神道>と不可分の<天皇制度>と矛盾なく両立するはずがないのだ。
 両立させる、あるいは憲法違反を避けるために、皇室の社寺との関係を全て「私的」な行為と位置づけ、「私費」としての「内廷費」から支出する、というのも、私は一種の<大ウソ>ではないか、と考えている。
 憲法上、「象徴」であると認められ(1条)、かつ「世襲」とも明記されている(2条「皇位は、世襲のものであつて…」)天皇の祖先を皇居内で祀ること、天皇の祖先を祀る神社(・寺院)に財政的援助を与えること、これらをすべて「私的」行為と位置づけるのは、常識的には、あるいは素朴な感覚では、やはり奇妙なのではないか
 こうした<大ウソ>――規範と現実の乖離、欧米的・タテマエ的理念と日本的な伝統的「精神」に由来する現実との間の矛盾を粉塗するために、他にもたぶん<大ウソ>がつかれているだろう。
 戦後とは、あるいは戦後民主主義、あるいは戦後の自由・民主主義とは、ある種の<大ウソ>で支えられた虚構ではなかったのか
 ここ数年間の私の主たる関心は、自分自身が生きてきた<戦後日本>とはいったい何だったのか、にある。そして、最後には、それを生み出したGHQの占領の時期-そこには日本国憲法の成立も東京裁判も含まれる-に立ち戻らなければならない、とも考えている。
 そのための準備としても、大きな思想史、文明史の流れに関心をもって佐伯啓思等の本も読んできているのだ。

0420/樋口陽一・「日本国憲法」-まっとうに議論するために(みすず)の気になる三点。

 樋口陽一・「日本国憲法」/まっとうに議論するために(みすず)を読んでいて、気になる箇所がある。以下、二、三点だけ挙げる。
 第一は日本国憲法の成り立ちに関係する。
 樋口は「だれにとっての「おしつけ」?」という見出しを付けた文章の中で、新憲法は国民一般に抵抗なく受容されたが(日本国民自身の)「広範囲で強い動きの結実」としてできたものではないとしつつ、「当初は受け身で歓迎された」憲法がその後「借り着が…だんだん合ってくるように、人びとの間でなじんできたという積極面を、重んじたい」と言う(p.30、p.32)。
 「おしつけ」られたとは言わなくとも、樋口もまた日本国憲法が日本国民にとっては受動的に与えられたものであることを肯定している(と見られる)ことにまずは着目したい。だが、そのような憲法が「人びとの間でなじんできた」というのは何故「積極面」と評価されることになるのかは必ずしもよく解らない。日本国憲法(の内容)を「積極」的に評価したいという結論が先取りされているような気もする。
 気になるのは上の点ではなく、むしろ次の点だ。
 樋口はつづいて「外来のものが定着した例」という見出しを立て(p.32)、憲法についてもそのような例はあるとする。
 まずは、日本国憲法が「外来のもの」であることを樋口自身も肯定していると読める見出し・内容になっていることが注目される。
 問題は、憲法について「外来のものが定着した例」として西ドイツ憲法を挙げていることだ(そのようにしか読めない)(p.33)。
 西ドイツ憲法はドイツ人自らが(ヘレン・キーム・ゼー湖畔又は島で)議論して草案を作ったのであり、日本国憲法の場合のマッカーサー草案なるものに該当するものがあったわけではない。決して「外来のもの」ではないのであり、この点では明らかに誤った叙述をしている。
 もっとも、東西統一後も旧東独地域にそのまま適用され「しっかりと定着して」いることをもって、旧東独国民にとっての「外来のもの」が旧東独国民に「定着」している、という趣旨なのかもしれない。
 だが、後者のように理解するとしても、元来は同一又は同様の文化・歴史をもちワイマール憲法という同一の憲法下にあった国民のうちの旧東独国民にとって西ドイツ憲法=「(ボン)基本法」が「外来のもの」だというのはかなりの牽強付会だろう。ましてや、その例だけを示して<外来の憲法が定着した例>だとし、かつ日本国憲法にあてはめて、「借り着をぬぎ捨て」るか「自分自身の自己表現のシンボルにまで高める」か(p.33)、と後者の方向を主張するための論拠とするのは(そのようにしか読めない)、相当に無理がある、論理展開に飛躍がありすぎる、と論評すべきだろう。
 第二は、改憲論にかかわる。樋口は随所でそれとなく改憲論を批判する又は皮肉る表現を用いているが、p.144では、「九条改憲の論拠は、世の中の流れに応じて少しずつ変わってきました」と述べたうえで、こう続けている。
 <「戸じまり」論からはじまって、「西側陣営の一員」、「シーレーン防衛」(〔略))、「邦人救出」(〔略))、「国連協力」……というふうに。今では武力行使を正当化する最大のものは「人権・人道のため」です。>(p.144)
 これが「九条改憲の論拠」だと樋口が理解しているとすれば、かなり皮相的で、憲法改正論の基本的趣旨・立脚点を―ここでは立ち入らないが―理解できていない、と評してよいように思われる。そして、そのあとの叙述も含めて、批判しやすいように対象を歪めて描いておいてから、実像ではないものに唾を吐きかけている、というような印象が―やや下品な表現となったが―ある。
 第三に、ついでに加えておくが、司馬遼太郎の議論又は認識の理解に誤りがあるように思われる。
 樋口によると、司馬遼太郎は(日本を愛していたからこそ)「日本の近代」をあえて「異胎」と呼んだ。
 たしかに引用されている司馬の文章からすると(p.148。正確かどうかは確認していないが、正確なことを前提にする)、上のように理解できる。
 だが、司馬が(かりに明治維新以降から昭和戦前を「日本の近代」と称するならば)「日本の近代」を丸ごと、あるいは全時期にわたって<異様な>ものだったとは理解していないことは、彼の文章・小説を読めば容易にわかることだ。
 「日本の近代」すべてを「異胎」だと感じる一方で、幕末から日清・日ロ戦争頃までについて長短ともに多数の小説を書き、その時代の諸人物を情熱をかけて描く作品を生み出すことなどできるわけないだろう。
 司馬が批判し嘆いていたのは「日本の近代」全体なのではなく、端的にいえば<昭和・戦前期>だった、と間違いなく思われる。その趣旨の指摘・文章を彼は多数残している(このような所謂<司馬史観>に対する批判も少なくないのだが、立ち入らない)。
 したがって、樋口が引用する司馬の『この国のかたち』の中の文章でいう「日本の近代」という語は形式的に理解されてはならず、一種のレトリック、あるいは「日本の近代」の中の特定の時期を実質的には指している、と読むべきものと思われる。
 樋口は自説・自分の論述の流れに都合のよいように司馬の文章を利用している可能性が高い。
 むしろ、樋口自身に対して訊いてみたいものだ。日清・日ロ戦争も<非難されるべき「侵略戦争」だった>のか?、明治期の主流派政治家の動きはすべて<非難されるべき「日本帝国主義」を生んだものだった>のか?、つまりは幕末期に明確な萌芽が出現してきた<「日本の近代」全体が―少なくとも「基本的」・「本質的」には―「異胎」だった>と考えているのか?、と。

0335/愛敬浩二・改憲問題(ちくま新書)。

 愛敬浩二・改憲問題(ちくま新書)につき、宮崎哲弥は言う。
 同・1冊で1000冊(新潮社、2006.11)p.282-3→「現行憲法の制定時の日本に言論の自由があったって? 改憲はいままでタブー視されたことがなかったって? 九条改定で日本が「普通でない国家」になるだって? もう、突っ込みどころ満載」。
 同・新書365冊(朝日新書(古書)、2006.10)p.344-5→「左翼リベラル派の「癒し」路線を狙って失敗」、「頭が悪く見える『護憲』本の代表。現行憲法の制定時の日本に言論の自由があっただの、改憲がいままでタブー視されたことがなかっただの、九条を改定すると日本が「普通でない国家」になるだの、とても真っ当な学者の書とは思えない世迷い言のオンパレード」。
 宮崎がこうまで書いていると、所持していても愛敬のこの本を読む気はなくなる。
 日本共産党員又はそのシンパが日本共産党とその支持者にわかる論理と概念を使った<仲間うち>のための本を書いても、全社会的には通用しないことの見本なのではないか。
 愛敬は「とても真っ当な学者の書とは思えない世迷い言のオンパレード」と自書を批判されて、今度は朝日新書あたりで再挑戦する勇気と能力がある人物なのかどうか。

0330/三島由紀夫の日本国憲法論の一つ。

 「新憲法に盛込まれた理念はフランス革命の人権宣言の祖述であるが、その自由民権主義はフランスからの直輸入ではなくて、雑然たる異民族の各種各様の伝統と文化理念を、十八世紀の時点における革命思想で統一して、合衆国といふ抽象的国家形態を作り上げたアメリカを経由したものである。しかもアメリカ本土における幻滅を基調にして、武力を背景に、日本におけるその思想的開花を夢みて教育的に移植されたものである。」
 以上は、三島由紀夫「再び大野明男氏に」決定版三島由紀夫全集35巻p.603(2003、文藝春秋。初出1969.08.26)からの引用。
 一部の憲法学者には自明のことかもしれないが、日本国憲法について近年何となく私が感じていたことを、とっくに三島由紀夫は簡潔に述べていた。
 異能の天才に感心する。憲法、とくに日本国憲法の成り立ちと内容等々についても、きちんと勉強し、考察していたのだ。他にも憲法改正等、憲法にかかわる彼の論稿は多い。ほとんどすべてに目を通してみたい。

0277/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その6。

 10番目ということにしておくが、立花隆という人は、内容のない罵詈雑言的言辞を好む品性の物書きのようだ。
 私自身もかなり批判的な言葉を使うこともあるので完全に他人事にすることはできないが、立花の表現技術?もなかなかのものである。
 月刊現代8月号p.44によれば、彼のいう「自明の理が見えない政治家は愚か」で、「自明の理が見えずに改憲を叫ぶ政治家は最大限に愚か」で、「金の卵を産む鵞鳥の腹を裂いて殺してしまう農夫と同じように愚か」である。この「愚か」というのは、立花隆お得意の批判の言葉のようだ。相手を見下して、<莫迦>と言っているわけだ。
 こうも言う-「いまの改憲論者のほとんど」は「安倍首相も含めて」、「憲法に関して基本的知識をちゃんと持ち、深くものを考えた上での改憲論者というよりは、頭の中が軽くて浅いだけの軽佻浮薄な改憲論者か、時の勢いに安易に乗るだけの付和雷同型の改憲論者と思われる」。
 本人は気持ちよく書いているのかもしれないが、論理も内容もないこうした殆ど罵倒だけの文章は、改憲論者に対して何の影響も与えないだろう。少なくとも私に対してはそうだ。
 私から見れば、立花隆こそが、「憲法に関して基本的知識をちゃんと持ち、深くものを考えた上での」護憲論者ではない。彼が「頭の中が軽くて浅いだけの軽佻浮薄な、「時の勢いに安易に乗るだけの付和雷同型の」護憲論者である可能性も十分にある。護憲論、とくに九条護持論は巷に溢れており、その中には「軽佻浮薄」あるいは「付和雷同」的なものも多いからだ。
 ところで立花隆は「いずれ軽佻浮薄派と付和雷同型が多数を占めて、憲法改正が実現してしまう日がくると私は見ている」とやや唐突に書いている(p.45)。
 これは一体何だろう。この人が「私の護憲論」を書いているのは憲法改正を阻止したいからではないのか。だとすれば、かりに内心思っていても、こんな予想を書くべきではないのではないか。
 この文を見て、立花隆という人は、歴史又は政治の当事者では全くなく、安全な場所に身を置いて社会を論評する、無責任な評論家だとあらためて感じた。結局は、現実がどうなってもよい、あれこれと自由に論評でき、駄文を綴れる自由があればよいとだけ考えている、歴史という舞台の鑑賞者にすぎないのではないか。
 第一一に、立花隆は憲法九条が「占領軍の押しつけではなく、日本側の発案でできたものだということを明らか」にする、という。
 ここでの「日本側」とは幣原喜重郎のことで、マッカーサーと二人での密室の会談において幣原が提案したという、これまでも語られた又は主張された歴史上の理解の一つだ。但し、支配的見解ではない。
 さて、幣原がかりに提案したのだとしてもそれを「日本側」の発案と表現するのは厳密にはおかしい。内閣の承認を受けた内閣総意の発案ではないし、国会の多数派の意見でも(天皇の意見でも)ないからだ。
 そんなことよりも、そもそも、憲法九条が「占領軍の押しつけではなく、日本側の発案でできたものだということを明らか」にすることによって、立花隆は何が言いたいのだろうか。
 <押しつけ>られたのではなく「日本側の発案」によるものだから、現在及び今後いっさい改正してはならない、ということなはならないことは明らかではないか。
 このことをじつは立花隆も認めている。日経BPのサイト上の連載コラム「改憲狙う国民投票法案の愚・憲法9条のリアルな価値問え」において、立花自身がこう書いていたのだ(今年4月)。
 「
憲法9条を誰が発案したかについては、いまだに多くの議論があり、いずれとも決しがたい。参照すべき資料はすでに出尽くした感があり、いまつづいている議論は、どの資料をどう解釈するかという議論である。同じ人物の同じ発言記録をめぐって、そのときその人がそう発言していたとしても、その真意はこうだった(にちがいない)というような形で、いまだに延々と生産的でない議論がつづいている。
 
私はそのような議論にそれほど価値があるとは思わない」。
 「いま大切なのは、誰が9条を発案したかを解明することではなく(究極の解明は不可能だし、ほとんど無意味)、9条が日本という国家の存在に対して持ってきたリアルな価値を冷静に評価することである」。
 立花隆は月刊現代誌上で、自らつい最近に「生産的でない」とか「それほど価値があるとは思わない」と書いた議論を展開するつもりのようだ(まだ終わっておらず、9月号へと続く)。
 私は幣原発案説は採用し難いと考えている。だが、そんなことよりも、幣原発案説の正しさを論証しようとし、かつかりに論証し得たとして、一体何に役立つのか。立花隆自身が4月に述べていたように、「大切なのは、誰が9条を発案したかを解明することではなく」、9条の現在・今後の存在意義ではないか。
 立花隆は月刊現代の誌面を無駄に費しそうだ。
 なお、このブログでも既述だが、憲法<押しつけ>論に対しては、国民主権原理の明記や基本的人権条項のいくつかは「日本側」の私的な研究会(鈴木安蔵らの「憲法研究会」)の案がかなりの影響を与えた、あるいは採用されたとの議論があり、小西豊治・憲法「押しつけ」論の幻(講談社現代新書、2006)がほぼ全面的にこのテーマを扱っており、実教出版の高校「政治経済」教科書にまで書かれている(執筆はおそらく浦部法穂。6/14参照)。
 立花隆はなぜか、こちらの方には関心はないようで、「憲法全体は基本的に押しつけだったのに、どうも問題の憲法九条だけは…」(p.49)という書き方をしている。
 立花の議論は、どうやら、かなりムラがありそうな気もがする。せっかくの「日本側」の鈴木安蔵らの「憲法研究会」案には一切の言及がないのだから。
 月刊現代9月号発売は先のことになる。とりあえず「嗤う」シリーズはこれで終えておこう。
 立花隆、老いたり、の感が強い。

0276/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その5。

 立花隆「私の護憲論」を嗤う、を続ける。対象は月刊現代7月号から8月号(講談社)に移る。
 すでに書いた(批判した)ことなので新しい番号は振らないが、立花隆はこの号でも「日本を世界一の成功国家にした「戦後レジームの国体」とは何であるか。それは、昭和憲法そのものである。なかんずく憲法九条がもたらした国家的リソースの配分のゆとりが、戦後国家日本を成功にみちびいた最大要因」と反復している。
 戦後レジームと日本国憲法の同一視という論理的誤謬をも含むこのような信仰又は<迷信>に嵌ってはいけない。
 「憲法九条がもたらした国家的リソースの配分のゆとり」という部分には、二重の欺瞞が隠されている。
 一つは、正規の軍隊を持った(西)ドイツも韓国も戦後に「成功」した国家の一つと言えるからだ。
 二つは、憲法九条にもかかわらず、立花自身ものちに触れている自衛隊(←保安隊←警察予備隊)が存在し、それに一定のリソースを割かざるを得なかったという事実、及び米軍の駐留経費も相当部分を負担してきたという事実だ。これらを全く無視して立花は論を進めている。
 そして、上に引用した部分のことを<自明の理>とまで言い切っている。失礼ながら、上品ではないが、アホか、と言いたくなる。
 日本の<繁栄>・<成功>の原因は、前回に書いたとおりだ。立花隆の文章を借りれば、前回に私が書いたような「自明の理が見えない立花隆は愚かである。この自明の理が見えずに改憲反対を叫ぶ立花隆は最大限に愚かである」。この<立花隆>の部分に、憲法九条(二項)のおかげで平和と繁栄を達成できたという理由で九条(とくに二項)絶対護持を主張しているどなたを入れても構わない。
 さて、嗤いたい点の第八はつぎのことだ。立花隆は、改憲論の中に「環境権」や「知る権利」を加えたらよいとの加憲論があるが「「環境権」も「知る権利」も、いまさら憲法を改正しなくても、すでにとっくに現行憲法の枠内で十分に認められている」と書く。
 私は大いに嗤いたい。
 立花隆なら知人に弁護士(又は裁判官)も多数いるだろう。その法律専門家に尋ねていただきたい、「環境権」も「知る権利」も、現行憲法の枠内で十分に認められている>か、と。ふつうの専門家であれば、否、と答えるに違いないのだ。
 民事上の「環境権」存在の主張・学説はあるかもしれないが、裁判例は民事上の「環境権」などは一度も認めてはいない(公法上も)。「知る権利」も同様で、憲法によってではなく、情報公開法(法律)や情報公開条例によってはじめて情報開示請求権が認められた、と解されているのだ。憲法(たぶん13条)から直接に導かれる権利とは、せいぜい<私事権(プライバシーの権利)>くらいではないか。
 抽象的・理念的に憲法が援用される程度では「権利」性を語るには十分ではない。
 この上の記述によって、立花隆は自分では憲法・法律に詳しいと思っているのかもしれないが、じつは<法律の素人>であることがよく分かる。
 第九に、立花隆は、憲法を改正しなくても、「自衛隊は憲法違反の存在ではない」と明言する。そして、自衛隊法という「組織法」がちゃんとあり、「毎年約五兆円にも及ぶその存在を支える資金も、毎年の国会審議を経た上で、国家財政から出ている」、「自衛隊は堂々たる合法存在である」と言ってくれている。
 上の方で引用した成功の原因としての「国家的リソースの配分のゆとり」とここで言う「毎年約五兆円
」がどういう関係に立つのか気になるところだが、そして「毎年約五兆円」くらいならまだ「ゆとり」はある(あった)とでも説明しておいてほしいところだが、この問題には言及はない。
 それはともかく、立花隆が「法制局」まで持ち出して言っていることは、要するに、政府解釈と同じく、自衛隊は、憲法九条二項でいう「陸海空軍その他の戦力」に該当しない、ということだ。立花隆においては、今日までの政府の言い分と同じく、自衛隊は「軍」又は「戦力」ではない(それ以外の)「実力」組織なのだ。
 私は、自衛隊は「軍」・「戦力」ではないというのは、きちんと憲法改正されて正規に自衛軍が持てるまでの、<戦後レジーム>の<大ウソ>の最たるものだと考えている。
 世界で有数の上位国となる「毎年約五兆円」の国費が支出され、20万人以上の隊員がおり、迎撃ミサイルも保有している「実力」組織は、常識的にみれば、疑いなく「軍」・「戦力」だろう。
 立花隆は改憲=九条二項の削除による「自衛軍」の認知に反対するために、これまではむしろ政府側がついてきた<大ウソ>に乗っかっているとしか思えない。
 1960年に20歳になった立花隆は、学生としておそらく所謂60年安保反対のデモに参加しただろう。その頃、彼は自衛隊は憲法九条に違反する違憲の組織と考えていなかっただろうか(旧日本社会党は、日本共産党もだが、違憲と主張していた)。その立花隆は考え方を改めたように思われる。いつの頃からかは興味の湧くところだ。
 自衛隊を自衛軍として正規に「軍」・「戦力」と認知するためには、姑息な解釈(「大ウソ」つき)によるのではなく、憲法改正>現九条二項の抹消が必要だ。従って、少なくともこの部分についての改憲は、立花隆がいう「「必要性の誤信」にもとづく」「軽々の変更」(p.44)にはあたらない。<つづく>

0273/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その4。

 立花隆月刊現代7月号上の「護憲論」批判を続ける。
 前回からの続きで第五に、立花は、1962年に南原繁が憲法制定過程への不信の発生を予言していた等と高く評価している(p.43)。
 具体的な問題はさておき、立花隆による南原繁の肯定的評価は、同じ彼による<戦後レジーム>の肯定的評価と両立できない、矛盾するものだ。
 南原繁は、1950年5月に吉田茂首相によって「曲学阿世の徒」と揶揄されたが、それは南原が所謂<全面講和>論を唱えた一人だったからだ。<全面講和>論とはソ連や中国との国交回復を伴う、これらの社会主義国をも含めて<講和>すべきとする論で、多数の自由主義国との<講和>による再独立を急いだ吉田茂内閣の方針に反対するものだった。
 しかして、<戦後レジーム>とは何か。立花隆はこの語について詳細な又は厳密な意味づけをしていないので分かりにくいが、日本の<戦後レジーム>の基礎にあるのは、あるいは日本の<戦後レジーム>の前提条件は、日本が自由主義諸国の一員となり、資本主義経済の国として生きていく、ということだろう。
 南原繁が真に日本が社会主義国になることを願っていたかどうかは分からない。しかし、彼を含む<左翼>的又は<進歩的>知識人は、<全面講和>論を主張して、客観的にはソ連や中国の利益になる、少なくともこれらの国に対して<媚び>を売ることをしたのだ。
 ということは、南原繁は、日本の再独立後のそもそもの<戦後>のスタートに際して、現実に築かれた<戦後レジーム>には反対していたのだ。
 一方で南原繁を高く評価し、他方で<戦後レジーム>も肯定的に評価する。これは、大いなる矛盾だ。論理的にも、決定的に破綻している。立花隆が<戦後レジーム>を肯定的に評価するのならば、少なくとも南原繁らの<全面講和>論を厳しく批判しておくべきだ。こうした批判の欠片も語らない立花隆が、知的に誠実な人物とは思えない。<戦後レジーム>を基本的な点で担ったのは、南原繁らとは異なる、別のグループの、現実的かつ良識的な人びとだったのだ。
 ちなみに、岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP文庫、2003。初出2002)p.366はこう書く-「日本のいわゆる進歩的文化人のあいだでは中ソを含む全面講和論が高まっていた。…振り返ってみると、やはりソ連共産党-日本共産党-共産党前衛組織-進歩的文化人というつながりによって、日米講和反対というクレムリンの政策が日本の言論に反映される仕組みになっていたのであろう。…当時の共産主義勢力としては当然やるべきことはやっていただろうことは推察にあまりある。…全面講和論というのは、日本を自由主義陣営の一員として安全に保つという吉田構想による平和条約をつぶすということである」。
 
第六に、これは批判ではなく検討課題として残したい点だが、立花隆は新憲法下の最初の国会開会直後にマッカーサー司令部は憲法「修正」の必要性を「日本政府側に確認して」いるが、「衆議院も参議院も再改正の必要はないとちゃんと回答しているんです」と記述している。
 いったん成立し施行された日本国憲法の改正をGHQも認めていたのに、従って、改正の機会はあったのに、日本側が放棄したのだ、と言いたいように読める。
 上の事実について立花が何を典拠にしているかは分からない。しかし、<再改正の必要なし>との回答は十分にありうるし、非難されるべきものではない。
 なぜなら、GHQの占領が継続している限りはその政策の範囲内でしか憲法改正ができなかっただろうことはほぼ明らかなことで、講和=主権回復を待ってから<自主>的に憲法を改正しようと政府あるいは両議院は考えていたとすれば、それは適切なものだったと思える(現に1955年結成の自由民主党は「自主」憲法制定を謳った)。
 なお、岡崎久彦の上の著p.218-9によると、日本国憲法公布後の1947年1月3日にマッカーサーは吉田茂宛書簡で「憲法施行後一、二年ののち、憲法は公式に再検討されるべきであると連合国は決定した」と通告した、という。また、芦部信喜・憲法第三版(東京大学出版会、2002)p.29にも「極東委員会からの指示で、憲法施行後一年後二年以内に改正の要否につき検討する機会が与えられながら、政府はまったく改正の要なしという態度をとった」との記述がある。
 立花隆が上に書く憲法施行後初の国会開会直後の話は、岡崎の著や芦部の著には出てこない。さらには、 芦部信喜・憲法学Ⅰ(有斐閣、1992)にも、大石眞・日本憲法史〔第二版〕(有斐閣、2005)にも、立花隆が上に書いたような新国会開会直後の話は記載されていない。
 いずれにせよ、1947年1月の段階で将来の憲法改正の可能性を語られても、その時に占領が解除されているかどうかが分からない状況では、岡崎も示唆しているように、吉田茂はいかんとも反応しようがなかっただろう。
 第七に、立花隆は南原繁が国民投票の提案をしていたとし、「そのとき国民投票を行って日本国民の意思を確認していたら、文句なしに、当時は新憲法支持者が圧倒的という結果が出たでしょう」と書いている。
 問題なのは「そのとき」とはいつか、だ。立花はその前に1962年の南原繁の論文から一部引用しているので1962年だとすると、上のように「文句なしに」という結果が出たとは全く考えられない。自主憲法制定(九条改正)を党是とする自民党が第一党だったのであり、国民投票は過半数で決するのだとすると、「確認」ではなく「否認」決定が出た可能性だって十分にある。
 国民投票については上に岡崎久彦著に関して触れた1947年1月3日のマッカーサー書簡も、連合国が必要と考えれば「国民投票の手続を要求するかもしれない」と書いていたようだが(岡崎p.219)、国民投票で「文句なしに」新憲法支持が「圧倒的」に示され得たのは、占領期間中か、法的な疑念を回避するためという目的をもって政府が主導した場合の主権回復直後すみやかな時期(1952年秋くらいまで)ではなかろうか
 その後はとくに鳩山一郎内閣成立以降、憲法改正をめぐっての対立が続き、改憲派が過半数ではなく発議に必要な2/3の議席を獲得できない状況が続いて数十年間は終熄したのだ。
 立花隆は「そのとき」がいつかを明確にしないまま、国民投票をすれば「新憲法支持者が圧倒的」だっただろう、などと書くべきではない。時期によれば、これはとんでもない誤りである可能性が十分にあるというべだ。

0272/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その3。

 立花隆の月刊現代7月号上の「護憲論」批判を続ける。
 第三に、立花隆は現憲法が「押しつけ」られたものであることは簡単に肯定し、「押しつけられた」おかげで「歴史上最良の憲法」を持っている、とする。そして、「この憲法のおかげで」「戦後日本というレジームは、日本歴史上最大の成功をおさめ」た、「安倍首相は、戦後レジームをネガティブに捉え、これを根本的に変革」しようとしているが、「戦後レジームこそ、数千年に及ぶ日本の歴史の中で最もポジティブら捉えられてしかるべきレジームだ」とする(p.40-41)。別の箇所から同趣旨を反復すれば、「日本国憲法、とくに憲法九条がつくりだした戦後レジームをなぜそれほどまでに高く評価するかというと、それはこの憲法が、…歴史上最も繁栄させてきたからです。戦後レジームこそ、日本の繁栄の基礎だったからです」。
 さて、ここでの立花の議論の特徴は、<戦後の繁栄>←日本国憲法←とくに九条という単純な思考によっていることだ。九条関係は次に触れることとして、次のような疑問がある。
 第一に、歴史を全面的に又は100%、是か非に評価することはできない。安倍首相もまた、立花が上に言うようには<戦後レジーム>を全面的に又は100%否定しようとしているとは思われない。立花隆には<戦後レジーム>がもたらした日本国家・日本社会・日本人に対する問題点・課題等々が一切見えていない(少なくとも一切記述がない)。彼は全面的に又は100%、<戦後レジーム>を肯定しているのだ。こんな大まかな議論をして、よくぞ評論家・文筆業と名乗っていられるものだと感じる。
 第二に、戦後レジームと日本国憲法をほとんど同一視しているのも特徴だ。憲法の定めに関係なく、又は憲法に制約されない範囲内で、人びとの生活や国家活動がなされうることをこの人は看過している。
 万が一<戦後レジーム>を全面的に又は100%肯定するとしても、そのことは日本国憲法(とくに九条)を全面的に肯定的に評価することには、論理的にも、ならない。憲法外的に又は憲法の範囲で形成されてきた<戦後レジーム>もあるのだ。
 第三に、かりに戦後日本が日本の歴史の中で最も「繁栄」していた(この「繁栄」の意味を立花は詳細には述べていない)ということを認めるとしても(かりに、である)、そのことは<戦後レジーム>を維持すべきであるとの結論には、論理的にも、全くつながらない。
 なぜなら、<戦後レジーム>が今日までで「最もポジティブ」に捉えられるべきレジームだったとしても、そのことは、より高い又はより大きな「繁栄」を将来において導く、<よりよいレジーム>の存在を否定することには全くならないからだ。
 一般的に言って、いかなるレジームにも<賞味期限>があるだろうし、<制度疲労>も生じているだろう。<戦後レジーム>の悪しき部分又は問題点を改めて、新しい時代に対応する<よりよい21世紀レジーム>づくりを目指すべきだ
 立花隆の文章に横溢しているのは、見事な「保守的」気分だ。<戦後>は良かった、今後も維持したい、という、それだけの気分だ。
 現在の日本が抱える国際・国内の具体的問題・課題を忘れて、きわめて大雑把な、きわめて大まかな議論を展開しているにすぎない。
 第四に、立花隆は憲法九条のおかげで軍事費を少なくすることができ諸リソースを民生用に回せたことが、戦後の「未曾有の経済復興と経済成長による国家的繁栄をつくった」、とよく見かける議論を展開している。
 この俗論が誤りであることは、すでに何回か触れたことがある。この議論によるならば、憲法九条二項のような条文を憲法に持たず正規軍を有しているドイツや韓国や、さらにはアメリカもフランスも<経済的繁栄>をしていない筈だが、立派に<繁栄>しているのではないか。軍隊をもつドイツも韓国も、「未曾有の経済復興と経済成長」を遂げた、と言いうるのだ。
 経済的繁栄と軍事費の間には、ほとんどの場合は有意の関係はない。但し、旧を含む社会主義国においては、軍事費の負担が大きすぎて崩壊した国もあったし、崩壊寸前である国家もある。
 立花隆は「この憲法のおかげで…平和のうちに繁栄を続けている」と述べている。但し、立花は、自衛隊という<軍隊まがい>のものがあり、それに世界各国中で上位の費用支出がなされていることには全く言及していない。まるで<実質的軍事費>が戦後一貫してゼロだったかの如き書き方だ。防衛省・自衛隊の存在を考慮せずして、軍事費のなさを経済的繁栄を簡単に結びつけることのできるとは、すばらしく大胆な論理展開だ。
 上の自衛隊の点は別としても、立花隆は、日本人であるなら、次のことくらいは常識として知っておいてほしい。
 戦後日本の平和は、憲法九条(とくに二項)によるのではなく、核兵器を保有してにらみ合った両大国間の冷戦体制、そして日米安保体制のおかげだった。日米安保がなかったならば、日本国憲法の条文がどう書いていても、ソ連軍又は中国軍による<侵略>を受けただろう。あるいは<間接侵略>、すなわち、ソ連共産党や中国共産党と意を通じた勢力が日本の政権を握って、<日本人民共和国>ができ、社会主義的な憲法に変わっていた可能性もある。
 経済的繁栄もまた憲法九条(とくに二項)とは関係がない。ドイツ・韓国の例による反証は上に既に書いたが、「繁栄」という言葉を使うなら、日本が所謂「西側」、自由主義陣営に属して、同じ自由主義諸国に大量に良質の製品を輸出できたからこそ、経済的に「繁栄」できたのだ。むろん日本人(民族)の誠実な努力、独特の技術力や会社経営の仕方等も「繁栄」に寄与しただろう。
 立花隆には戦後の歴史がきちんと「見えて」いるのだろうか。憲法(とくに九条二項)のおかげで「繁栄」した、などという謬論、いや<大ウソ>をつかないで欲しい。自らの声価を将来において決定的に落とし、侮蔑の対象となる原因になるだけだろう。

0271/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その2。

 立花隆による月刊現代7月号(講談社)の「護憲論」の嗤うべき点の指摘を続ける。
 前回に続けていうと第二に、立花隆は「たしかに、最終案を煮詰める過程は二週間ほど」だが、「その過程に入る前に、実は数年間にわたる先行研究があるんです」と書く(p.38-39)。
 まるで憲法草案の作成作業が数年間にわたって行われた如くだが、彼の表現を使えば、数年間にわたる先行研究の対象は、戦後の「日本の体制をどう変えればいいか」、「戦争が終わったらどうするか」なのだ。その中に、新しい憲法草案の起草が含まれている筈がない。立花自身がそのように理解されるのを注意深く避けつつ、しかし、そのように誤解されてもよいようにも書いてあり、かなり巧妙な文章になっている。わずか一週間(立花のいう二週間ですらない)で条文原案作りがなされたということを立花隆すら、隠したいのだろう。
 GHQ側の憲法改正の内容に関する考え方が明瞭に示されたのは、松本蒸治委員会案が新聞で報道されたあと、1946年2/03のマッカーサー・ノートによる「三原則」だろう。それは、1.天皇制度の存置、2.戦争放棄、3.封建遺制の排除だった。この時点までは、GHQはこれらの基本的考え方以上の具体的な草案などは全く用意していなかった。立花隆の上の文章はこの点を誤魔化すものだ。
 なお、立花は現憲法三章の「基本的人権の部分は、非常によくできた部分であって、国際的にも評価が高い」としし、さらに現憲法97条を特筆して重要な条文だと言っている。
 考え方の違いになるが、初めて日本国憲法の内容を知ったとき(小学生高学年か中学生だっただろう)、私が一番違和感を持ったのは97条だった(「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」)。というのは、他の条項はそれぞれ何らかの内容を持っているのに、この97条は「基本的人権」一般の性格を述べているだけで、かつ国民の<心構え>をお節介にも述べているように感じたからだ。今の時点で言えば、これは<美しい作文>であるとの疑問を持ち、自然法による、又は自然権としての基本的人権という考え方にも違和感を持った、ということかもしれない。
 この条文の内容を「人類の共有財産」・「人類共通の遺産」等と高く評価する立花隆は、「人類」の中に全アジア・全アフリカ、イスラム圏の人びとも含めているはずだが、その点は措くとしても、多くの憲法学者とともに、<美しいイデオロギーに嵌っている>。

0269/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その1。

 立花隆とは、2年前の中国での反日デモが、日本での1964年東京五輪を前にした1960年安保改定反対の国民的盛り上がりに相当するものと<直感的に>捉え、北京五輪を前にした中国の経済成長段階が日本の1960年頃に達していることの表れとも書いた、その程度の評論家に少なくとも現在は堕落している。
 日本の過去と共産党支配の中国の経済成長段階とを単純に比較しようとする立花隆の感覚は、私の<直感>からして、まともな、冷静なあるいは論理的な評論家・文筆業者ではない(又は、なくなっている)ことを明瞭に示している。
 その立花隆が、月刊現代7月号(講談社)以降に「私の護憲論」なるものを連載している。大いに嗤わせてくれる論文?だ
 立花隆は安倍内閣成立時にも昨年8/15の南原繁関係のシンポジウムの原稿をほとんどそのまま用いて、大部分を南原繁のことに費し、最後にその南原繁の基本的考え方と異なるとする安倍首相を批判するという、タイトルと中身が相当に異なる「安倍晋三「改憲政権」への宣戦布告」と題する論文?を月刊現代の昨年10月号に載せていた。
 今回の護憲論も5/6の講演「現代日本の原点を見つめ直す・南原繁と戦後レジーム」を加筆・修正したもののようだ(p.43の注記参照)。元々はタイトルに<憲法>も<護憲>も入っていないのに、立花隆も出版元の講談社も、講演記録の焼き直しを「護憲論」と銘打ってよくぞ書き、書かせると思うが、昨年のものよりは内容が憲法に相当に関係しているので、まぁ許せる。
 だが、月刊現代のために書き下ろした文章ではないことは確かで、立花隆という人は、こういうふうに一つの原稿をタネにして二度も三度も同じようなことを喋り、執筆して、儲けているわけだ。
 さて、最初の10頁は私には退屈だったというだけだが、妙な記述が10頁めを過ぎると出てくる。以下、嗤いたい点を列挙する。
 第一に、安倍首相が4/24に「現行憲法を起草したのは、憲法に素人のGHQの人たちだった。基本法である以上、成立過程にこだわらざるを得ない」と発言したのを<安倍首相「素人」発言の不見識>との見出しののちに紹介し、「それは全然違うんです。あの草案を作ったのは、全部法律の専門家です。それこそハーバード大学の法科大学院を出て、法曹資格をとり、プロの弁護士をしてきたような連中が陸軍の内部にちゃんと法務官として在職していたわけです」と反論している。
 安倍首相の発言は適切だ。
 立花隆よ、ウソをつくな
 私は4/09にこう書いた。<古関〔彰一〕・新憲法の誕生〔1995、中公文庫〕によれば、民政局行政部内の作業班の運営委員4名のうちケーディス、ハッシー、ラウエルの3名は「弁護士経験を持つ法律家」だった。/小西〔豊治〕の著〔憲法「押しつけ」論の幻(講談社現代新書、2006)〕p.101はホイットニー局長と上の3名は「実務経験を持つ法律家」でかつ「会社法専門の弁護士」という点で共通する、ともいう。「会社法専門」でも米国では問題は広く(州)憲法に関係するとの説明も挿入されている。
 九条護持論者のこの二人の本に依っても、あの草案を作ったのは、全部法律の専門家」などとはとても言えない。運営委員4名のうち3名が「弁護士経験を持つ法律家」だったのであり、1名は異なる。
 さらに、<米国では問題は広く(州)憲法に関係する>とされつつも3人ともに「会社法専門の弁護士」だったと小西著は明記している。そして私はこう書いた。
 <上の二冊を見ても、GHQ案の作成者は法律実務家(当時は軍人)で、米国憲法の基礎にある憲法思想・憲法理論の専門家・研究者でなかったことは間違いない。ましてや基本的にはドイツ又はその中のプロイセン(プロシア)の憲法理論を基礎にした当時までの日本の憲法「思想・理論」を熟知していたとはとても言えない。そしてもちろん、日本の歴史・伝統、天皇制度や神道等々の日本に独自のものに対する十分な知識と理解などおそらくは全くないままに、草案は作られたのだ。米国の!弁護士資格をもつ者が草案作成に関与していたことをもって「まともな」憲法だと言うための根拠にするのは、いじましい、嗤われてよい努力だろう。
 あらためて別の本を参照してみると、百地章・憲法の常識/常識の憲法〔文春新書、2005)p.にはこう書かれてある。
 「草案の起草にあたった民政局のスタッフは、総勢二十一名、アメリカのロ-スクールを出たエリート弁護士等はいたものの、憲法の専門家は含まれていなかった」。
 これによると、民政局行政部の憲法担当幹部の中にはたしかに米国のロ-スクール出身者はいたが、憲法の専門家ではない。また、彼ら以外には、上の「総勢二十一名」の中にロ-スクール出身者はいなかった、というのが実態だ。草案作りの最初の作業をしたのはまさに「法律の素人」の者たちであり、幹部又は上司の中にいたのも、
「会社法専門の弁護士」ではあっても<憲法の専門家>でなかった。「法律の専門家」と<憲法の専門家>とはむろん同じではない。「法律の専門家」であれば<憲法>に関しても専門家だろうというのは、それこそ<素人>判断だ。
 それに、上のかつての私の文章でも指摘しているように、米国の法律等を勉強した米国の法律家が、どれほど的確に又は適切に、歴史も文化も異なる日本の憲法草案を起草することのできる資格があったのか、極めて疑わしい、と言うべきだろう。
 また、中川八洋・正統の憲法/バークの哲学(中公叢書、2001)p.204にはこう書かれてある。
 現憲法の第三章の基本的人権等の諸規定と第十章の97条(これは元来は第三章の一部だった)の「原案は、憲法の素人ばかりのたった三名が書いた。主任がロストウ中佐〔秋月注-法律家とされる上記の三名に入っていない〕、次が…H・E・ワイルズ博士、三人目がベアテ・シロタ嬢であった」。
 重要な<国民の権利及び義務>(現在の章名)について草案諸規定を起草したのは「法律の専門家」では全くない。なお、ベアテ・シロタは百地著によると当時22歳、中川著によると5歳~15歳の間日本に滞在していて語学力が買われ、タイピストとして雇われていた(という程度の)人物だ。
 立花隆よ、<あの草案を作ったのは、全部法律の専門家ですという大ウソをつくな。この辺りの見出しは<立花隆「素人」記述の不見識>が適切だ。
 なお、メモ書きをしておくが、日本政府内に憲法問題調査委員会が作られ(委員長は松本蒸治国務大臣・商法学者)、1945年12/08に松本四原則を発表ののち1946年2/08に改正案を
GHQに提出したが、拒否された。松本改正案の内容を事前に察知していたGHQは1946年2/03にホイットニーに対して草案起草を命じ、一週間後!の2/10に草案(マッカーサー草案)を完成させ、2/13に日本政府に<突きつけた>。  *つづく* 

0258/憲法現九条の目的は「日本を永久に武装解除」すること。

 産経7/01のワシントン・古森義久「憲法の生い立ち想起」との記事は、彼が1981年4月に元GHQ・民政局次長で日本国憲法草案起草に携わったケイディスに長時間インタビューしたことの記録又は記憶によるもので(インタビュー時ケイディス氏は75歳)、日本国憲法の制定過程に関心をもつ者としては興味深い。
 歴史的に重要な意味をもつ点に関係しているので、すでに古森氏は書物にしているのかどうか、私は知らない。もし未だならば、新聞の、かつ中途半端な月日に掲載するようなものではないだろう、という気がする。
 さて、インタビューへの回答内容の記述を信頼するとして、ケイディスは、1.日本国憲法現「第9条の目的」について、「日本を永久に武装解除されたままにおくことです」とあっさり答えた、という。また、2.上司が示した「日本は自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する」との案を、自衛権がなければ国家でなくなるとして採用しなかった旨発言した、という。さらに、3.現9条2項冒頭の「芦田修正」の採用につき、上官と協議する必要はないと芦田氏に答えたと言った、という。
 「永久に武装解除」はするが自衛権による「戦争」=「自衛戦争」は認めるというのは分かりにくいが、前者は「自衛戦争」以外の「戦争」のための「武装」の「解除」の「永久」化という意味であるとすると理解できる。
 それはともかく、「武装解除」することによって米国に二度と刃向かうことができなくする、そのかぎりで日本を軍事的に弱体化することに九条導入(採用要求)の目的があったことはこれまでも指摘されてきたことで、とくに新しい情報ではない。
 鈴木安蔵らの<憲法研究会>案にも現九条にあたるものはなかった。幣原喜重郎発案説をのちにマッカーサーは述べたが、信憑性は低いと思われることはすでにいつか述べた。
 あとは、東京裁判での天皇訴追を免れさせる代わりに現九条受容が要求されたという話がかなり有力だが(今回の古森記事は天皇制度との関係には言及がない)、これは信頼してもよいのではないか、と感じている。
 このように見ると、平和を希求する米国人が<世界平和>に向けた一つの<理想>を実現するために現九条の案を作った、というのはとんでもないデマ話だということになる。
 再述すれば、日本の軍事力の復活を米国が怖れたからこそ、九条ができたのだ。
 しかるに、そのように日本を弱体化させるために制定された九条をもって、<世界平和>を追求するための、世界で先進的な、当時としては<最も理想的な>憲法条項だったなどと理解する<お人好し>の日本人が少なくない(憲法学界では多数派?)のはまことに奇妙で、倒錯した感覚だとしか思えない。
 なお、どなたかがすでに書いていたのを読んだか、私の推測がある程度は混じるのかは明瞭でないが、GHQは九条を日本に「押し付け」たことをすみやかに後悔しただろう、と思われる。
 憲法改正(又は新憲法制定)を要求した1946年2月頃から議会審議等を経て公布する同年11月頃まではギリギリ<冷戦>構造の発生は鮮明でなかったかもしれないが、その後<冷戦>の発生=東西両陣営の対立が明確になり、1950年の朝鮮戦争を米国は日本「軍」の助けなく闘わなければならなかったからだ。また、ソ連・中国に対抗する又は日本を防衛するために米軍の本格的な日本駐留が余儀なくなったからだ。
 この両者の矛盾から出てきたのが、警察予備隊→保安隊→自衛隊に他ならない。
 元に戻って、九条は平和を希求した米国人の<善意>だったなどという呆けた理解をすべきでないことは、今回紹介されたケイディスの言葉によっても明らかだ。

0242/「9条ネット」共同代表・北野弘久の憲法改正限界論は通説ではない。

 「9条ネット」のサイト内の資料を見ていると、面白いものに出くわした。共同代表の北野弘久の「日本国憲法9条2項と憲法改正の法的限界」という文章で、「共同代表の部屋」に今年の3月15日付で掲載されている。この文章の一部(しかし根幹)はこうだ。
 「①国民主権、②基本的人権の尊重、及び③9条2項に象徴される平和主義は、日本国憲法の根幹である。それは、国民主権の行使である憲法制定権力の表現である。96条(改正規定)の憲法改正権によって日本国憲法の根幹に関する原理を改正することは憲法学理論からはできない。何故なら、日本国憲法の根幹を改正することは、96条による憲法改正権の法的限界を越えるからである。/最重要の根幹である9条2項を改正することは、学問的には法的革命でありクーデターである。/日本国憲法の根幹の改正は憲法改正権の法的限界を越えることについては憲法学界の支配的見解といってよい。
 5/24に、常岡せつ子の、九条二項改正は改正の限界を越え許されない(クーデターだ)とするのが「通説」だ旨の朝日新聞への投書を「大ウソ」と断定し、その後もいくつか補強資料を追加した(常岡説と類似の説も見つけた)のだったが、常岡が直接に依拠したのは、上の北野弘久の文章ではなかろうか。「クーデター」という語を使っている点も同じだ。
 しかし、上の北野は「憲法学界の支配的見解」と言うが、「日本国憲法の根幹の改正」についてはかりにそうだとしても、その「根幹」の中に九条二項の規定内容までが含まれているかを、憲法学界の通説又は有力説は否定していることは、すでに紹介したとおりだ。芦部信喜、辻村みよ子、佐藤幸治各氏の教科書は九条二項は改正できないなどとは書いていない。むしろ前二者は、改正の限界の対象には含まれないのが「通説」と明記しているのだ。
 従って、北野の上の論述は、「
根幹の改正は憲法改正権の法的限界を越える」→「根幹」の中に「9条2項に象徴される平和主義」も入る、という単純な理解に立つもので、成り立つとしても「通説」とはとても言えない。それに北野弘久は、憲法とは無関係でないとしても憲法学者ではなく、税法(租税法)学者だ。かりに常岡がかなり年上の信頼できる先生というだけで、上の文章を信じて朝日新聞に投書したのだとすれば、気の毒にも、人生の大きな蹉跌と「恥かき」の原因になってしまった。
 ところで、天木直人は「九条ネット」のメンバーの筈だが、上の北野の文章を読んだ気配はない。というのは、常岡の投書が掲載されてのちに、<そうだ。これが通説なのだ>と感激して、安倍首相らが「クーデター」しようとするなら、それを拒否してわが国初の「民主革命」をしよう、などとの訳の分かりにくいことを喚いていた(5/27に紹介)。上の北野の文章を先に読んでいれば、常岡投書にあんなに感激し昂奮する必要もなかった筈だ。
 ということは、いつから「共同代表の部屋」に北野の3/15の文章が載ったのかは知らないが、天木は「九条ネット」のメンバーであるにもかかわらず、そのサイト上の「共同代表の部屋」を覗いていない、という可能性も高い。
 些細なことだが、ネットを散策しているとときどき面白いものに出逢う。

0239/森達也の憲法九条理解は誤っている。

 森達也という人の本は、たぶん少なくともまともには読んだことがない。この人が週刊文春6/28号で保阪正康監修・解説の50年前の憲法大論争(講談社現代新書、2007)の書評をしている。
 字数の半分弱が対象書の紹介・論評で残りは憲法(改正)に関する自論の展開というのも大いに気にかかる。さらには、不正確なことを平気で?書いているのでますます気になる。こう書く。
 「改憲派は自衛権を否定するのかと九条二項の撤廃を主張する。ここがまずは勘違い。自衛権は自然権でもある。…つまり九条二項は自衛権を否定するものではなく、自衛権の行使としての武力を否定する理念なのだ」(p.146)。
 森達也が「高揚した危機管理意識と被害者意識が突出するばかりのこの状況で、…憲法を絶対に安易にいじるべきではない」と主張する<護憲>派だから、指摘しておくのではない。上の短い文章(5つの文)には二つの大きな誤りがある。
 第一に、「改憲派は自衛権を否定するのかと九条二項の撤廃を主張」している、という認識は誤っている。「ここがまずは勘違い」と返しておく。
 
第二に、「
九条二項は自衛権を否定するものではなく、自衛権の行使としての武力を否定するものだとの認識は、概念用法が正確ではなく、結果として誤っている。
 まず、改憲派は自衛権が国家にありつつもその自衛権を「陸海空軍その他の戦力」によって行使することを認めていない九条二項の削除を主張している。
 したがって、「九条二項は自衛権を否定するものではなく、自衛権の行使としての戦力(の保持)を否定するものだと説明するならば正しいが、「戦力」に代えて「武力」という概念を用いるのは適切ではない。
 なぜならば、現実に存在する自衛隊は、政府・内閣法制局の言葉遣いによれば、九条二項がいう「陸海空軍その他の戦力」ではない、「武力」又は「実力」なのだ。九条二項にいう「戦力」ではないからこそ自衛隊の存在は合憲だと政府・内閣法制局は説明してきているのだ。
 九条二項の理念が「自衛権の行使としての武力を否定する」ことと述べる森達也が現実に存在する「武力」装置としての自衛隊をどう評価しているのかは不明だが、ともあれ、上のような、一見正しそうできちんと読むと誤っている憲法九条に関する言説を撒き散らす評論家・著述業者等々が-今回発見した森達也も含めて-少なくないので、ああやれやれという気がする。
 今後も、中途半端な九条理解にもとづく、一知半解の議論も多くなされるだろう。警戒が要。
 それにしても、書評欄の半分を対象著書とは無関係の自分の見解で埋め、かつ上のような基本的な誤りを含む文章を書き、さらについでに書けば最後の字数埋めのためか「今の政治家の質が悪くなっていると僕は書いた。これはすなわち、彼らを選ぶこの国の民意が、この半世紀で激しく劣化していることと同義なのだ」と、じつに陳腐な、まことに平凡な内容の文章で終えて、おそらくは結構高い原稿料を出版社(文藝春秋)から貰えるとは、週刊誌文筆商売というのは、何とイイカゲンでかつ何とオイシイものだろう。

0214/「戦後体制からの脱却」とは何か-産経6/09森本敏コラムに寄せて。

 産経6/09の正論コラム欄の森本敏「真の「戦後体制からの脱却」とは何か」には、全くと言っていいほど異論がない。軍事・防衛の観点からの「戦後体制からの脱却」の意味は、長い文章ではないが、殆どここに書かれていることに尽きるのでないか。そして、「戦後体制からの脱却」とは軍事・防衛の面の問題に限られないとしてもそれが中心になるだろうと考えられるかぎりで、「…からの脱却」の意味の重要部分が指摘されていると思われる。
 要するに、「戦後半世紀、ぬるま湯の中に漬かって米国に国家の生存を依存して一人の自衛官の戦死者も出さないことを自慢にして生存してきた。こうした幼児のような平和概念から脱却する事こそ、求められている」のだ。
 あるいは、「ぬるま湯の中でほろ酔い加減になって自分をごまかすことはやめよう。湯の外は寒くて厳しい」のだ、「現実政治の中で、国家として当然の試練を受け入れることこそ戦後体制からの脱却と言える」のだ。
 軍隊を保持すれば戦死者が生じるかもしれない。しかし、国家が偽善者のままでいるよりは、-単純に死者の数によって優劣を判断するつもりはないが-失われた尊い兵士の生命に真摯に哀悼を捧げる(シャキッとした、骨格のある)社会になって、親子間の殺害、少年男女のいじめによるものも含めた自殺等の死者が激減すれば、その方が遙かによいではないか。
 「一人の自衛官の戦死者も出さ」なかった代わりに、戦後の日本社会は無駄な又は無為な死者をむしろ多数生んできたのではないだろうか(親子間の殺害の犠牲者、いじめによる自殺者等の他に少年による集団リンチの犠牲者となったホームレスの人もいた筈だ)。
 だが、上に語られているような<覚悟>を日本人の多くがすでにしているとは考えられない。私も同旨のことを書いたことがあるが、森本も「現時点でこうした〔自衛軍を設置する〕憲法改正案が国民投票によって否定される可能性は高いと思わざるを得ない」と書く。
 朝日新聞の論陣の張り方や朝日の読者の多さ等々を考慮すると、九条二項改正による軍隊の正規容認が容易になされるとは思われない。朝日新聞等の他に、日本共産党、社会民主党は必死の抵抗を試みるだろう。
 しかるに、九条二項改憲の側の運動が活発になされているという印象は私にはない。
 むろんまだ三年はあり、いずれは日本の進むべき方途が明確になるだろう。それまで、国論の大分裂のままで、緊張した月日が続くだろう(かかる観点からは、日本と同一状況にあるのではないが、フランス大統領選の53%対47%という数字は興味深かった。勝者は敗者の1.13倍しか得票していない。私には大接戦に思える)。
 それにしても、九条二項改正に反対の人びとはいったい日本をどのような国家にしたいのか、日本社会をどのようにしたいのか、よく分からない。
 日本共産党や社民党の党員たちは論外だが、客観的には彼らと「共闘」して九条の会に集ったり、安倍首相をヒドい言葉で批判し罵倒し続けている人びとは、いったい何を目指しているのだろうか。よく分からない。
 あえて想像し、かつあえて挑発的に書いておけば、戦争や軍隊のことを考えもせず(客観的には米国の核兵器の付いた日米安保体制のもとで)、ぬくぬくと、ある程度の豊かさと安全と個人的趣味に当てられる時間を確保しながら、適当に為政者の悪口を自由に言うこともできる生活を<保守>したいだけではないのか
 国家・公共についての理想など持っておらず、ただ、個人的な小さな幸福をめざした、それなりに安逸で気侭な日々を失いたくないだけではないのか
 朝日新聞となると、それ以外の目的も加わる。権力を批判し弱者の立場に立って<正義づら>をするという、格好のよい、インテリ的立場(もちろん彼らは高収入でもある)というものを守りたいだけではないのか。口先だけで空想的な偽善的言葉を吐いて、そういうスタンスのままでやはりヌクヌクと生きていきたいのだろう(「口舌の徒」という語がぴったりだ)。
 私の推測では、九条二項改正反対派の者たちの方が改憲派の人びとよりも高い収入や地位など「守りたい」ものを多く持っていそうな気がする。彼らは戦後の歴史の中で獲得してきたそれらを<保守>したいのだ。自分自身の個人的な利益のために、将来の予想がし難い<変化>を怖れているのだ
 九条二項改正反対派の人たちは、かかる推測に(もっと上で書いたことを含む)どう反論するだろうか。
 ここで<保守主義>とは何かが、私には気になる問題として登場してくる。
 すなわち、<戦後民主主義>・上で簡単に触れられている<戦後的平和>・<戦後的個人主義>はすでにある程度は、日本の伝統・歴史・精神にしっかりとなってしまっているのではないのか
 そして<保守主義>を説くことは、これらを<保守する>ことに反対することにはならないのではないか。
 結局、<戦後体制>の意味や<保守>の対象の問題に帰一する。
 <戦後的価値>という言葉を使っておくと、もはやこれを100%否定することはできないだろう。安倍首相もそこまでは考えていないはずだ。ただ、<戦後的価値>を今後もずっと維持したいという立場と<戦後的価値>の中には問題・欠点が明らかになってきたものもあるのでそれを是正する(その意味で<戦後的価値>を修正する、又は「戦後体制からの脱却」をする)必要があるとする立場が対立しうる。現在見られる対立は、このように説明又は表現できるかもしれない。
 だが、ここでも、<戦後的価値>とは何か、是正・修正すべき<戦後的価値>とは何かという問題がつきまとう。
 表面的な非難・批判合戦に終わらせるのではなく、本当は、上に抽象的に述べた問題について、言葉の意味を明確にさせながら、かつ具体的な論点に即して、対話あるいは対論がきちんとなされるべきだろう。
 だが、どうやら大分裂したままで最後の<勝負>の場に直面してしまうような気もする。日本人は、日本民族は、本当はもう少し<叡智>を持っている筈なのだが…。

0211/櫻井よしこの憲法論-期待と不安と。

 日本最初の女性首相にとかの応援ブログサイトもある櫻井よしこは、憲法改正問題にも積極的に発言している。
 週刊新潮5/31号の連載コラムの中の「もっと闊達にしたい改憲論議」と題する記事では、明治憲法の制定前には主要なもので65の憲法試案が発表された等々と記して、「官僚支配」のない、憲法改正に関する「闊達な議論と国民の参加」を訴えている。
 その通りで、とくに期待されるのは、専門の憲法学者たちだろう。しかし、今の憲法の全体が完璧だとは考えていない筈なのに、九条問題に関係したくないのか、さらには九条(二項)の改正に反対であるためか、憲法学者による改憲に向けた議論は殆どないように見える。先だって言及したジュリスト1334号特集・日本国憲法60年に執筆されている諸論文も各テーマについて改正案を提示する又は改正に関する論点を整理するという性格のものではないようだ(殆ど読んでいないが)。
 櫻井に話を戻すと、憲法(改正)問題に十分な関心をお持ちになっていることはよく分かるし、尊敬もしている方だが、さすがに憲法の専門家ではないこともあって、(直接に改正問題とは関係はないが)やや脆うい議論もなさっている。
 週刊新潮5/24号の連載コラムでも「憲法改正、偽りの衣を捨て去る時」と題して憲法問題を扱っているのだが、一部に奇妙な叙述がある、と少なくとも私は感じた。概略だが、こういう旨の叙述だ。
 近代憲法は国家と国民を対立関係に置き、国家からの自由という人権保障等を掲げた、だが国家を悪・圧力とのみ看做すことはできず、「社会権」という国家権力の積極的な行使を必要とする権利保障の考え方が出てきた。そのための法的根拠を国家に与える必要があるとの考えを「授権規範」という。しかし、日本では米国やフランスよりも早く「国家と国民の融合のなかで授権規範の考え方を実践してきた」、それは、604年の十七条憲法や1889年の明治憲法にも示されている。
 櫻井は月刊・正論7月号(産経)の「いざ改憲へ、私の提言/日本人の価値観が宿る改正を」でも同旨のことを述べている(p.99-100)但し、こちらの方では「授権規範」という語は使っておらず、上の二つの他に「五カ条の御誓文」が加わっている。
 「十七条憲法」や「五カ条の御誓文」は<憲法>かという、<憲法>概念にかかわる問題をここではとり上げない。
 感想の第一は、次のことだ。多少とも憲法学を囓ったことのある人、いや高校で政治経済の教科書を読んだことのある人でもご存知のとおり、「近代」になって以降の国家と個人の関係に関する変遷は「消極国家」から「積極国家」へ、あるいは「自由(放任)国家」から「福祉国家」へ(後者はドイツふうには「社会国家」という。「社会主義国家」ではなく平たくいうと櫻井も用いている「社会権」保障に配慮する国家のことだ)と、図式的には表現される。
 たいていこのような説明がなされるので櫻井を批判することは全くできないが、1.英国、米国、フランス、ドイツ、どの国にせよ、上の変化がいつあったのか、本当に「自由放任」(とくに経済)の時代などあったのか、という問題がある。要するに、上のような図式自体も疑ってみなければならないのではないか、という問題がある。
 また、中川八洋阪本昌成の本にも?影響されていうと、2.「福祉国家」(「社会国家」)という段階は本当に成立するのか、国家目標たりうるのか、という問題がある。つまり、所得再配分による弱者救済(=格差是正)のための「福祉」施策は当然に巨大な国家財源を要するものであるため、「大きな政府」をもたらし、「平等」のために「自由」を犠牲にすることになるが、そのような国家を現在において当然の所与又は目標としたままでよいのか、だ(結局は<程度>の問題に行き着くのだろうとは直感的には思うが)。
 かつては(マルクス主義的歴史観だと今でも)「自由(消極)国家」→「福祉(社会)国家」→「社会主義国家」→「共産主義」という発展史が想定されていたが、あとの二つが存在しないとなると、「福祉(社会)国家」なるものの意味や意義ももっと厳密に検討されてよい、ということになると思われる。
 上の二点を櫻井的概念を使ってまとめると、個人と国家の<対立>から両者の<融合>へという図式はもともと欧米においてすら歴史(憲法思想史でもよい)の叙述としても適確か、という問題があり、将来修正される可能性が全くないとは思えない、ということだ。
 第二に、週刊新潮5/24号で用いられている、「社会権」保障の国家権力行使に法的根拠を与える必要があるとの考えを「授権規範」という、という叙述は、私には意味不明だ。
 この「授権規範」という語は、国家又は国家機関に何らかの権限を授与する規範の意味で用いられているかもしれないが、概念それ自体からして、「社会権」にのみ関係している概念だとは思われない。それに、「授権規範」とは何らかの<考え方>を示す語ではないだろう。
 ついでに、「社会権」保障に配慮することをもって「国家と国民の融合」と表現してよいかは、厳密には、あるいは学問的には、議論が必要なところだろう。
 以上は多少は櫻井自身に注意を向けたいことでもあるが、むしろ感じるのは、櫻井のような論客に対して、適切に知識・考え方を提供する専門の憲法学者の不在又は不足だ。
 櫻井の本を読んでいて、参考文献に八木秀次西修らの憲法に関する本が挙がっているのを見たことがある。しかし、それでもおそらく相当に不足しているのではなかろうか。
 もとはと言えば、多数いる(1000人以上?)憲法学者の中に櫻井よしこと基本的な「考え方」・「歴史観」・「国家観」が同様な者が殆どいない(と思われる)ことにそもそもの問題がある、ということかもしれない。ある意味では、極めて憂うべき事態だ、と受けとめる必要がある。
 なお、若干を追加しよう。櫻井の主張する「日本人の価値観が宿る改正を」に、私も大賛成だ。どうせ改正するなら、日本の歴史・伝統と「精神」を生かした法文にして欲しいと思っている。
 だが、具体的にどう書くかとなると問題はむつかしい。
 また、櫻井は、「日本こそ、欧米人が試行錯誤の末、たどり着いた国家と国民の融合の域にどの国よりも先に到達していた」、「わが国では、…福祉の価値観もとうの昔に体現していました」と言う(正論7月号p.99、p.100)。
 そうかもしれない、欧米とは違う日本の国家・個人関係の歴史はあると思いつつ、しかし一方では、「融合」とか「福祉」の意味にもよるのだろうが、こんなに簡単に言い切れるのだろうか、という疑問が残らないでもない。
 櫻井は憲法改正に関連して、極めて微妙な問題に(自覚無くしてかもしれないが)<触っている>と思えなくもない。今後も不安と期待を持ちながら、彼女の憲法関係の文章を読まなければならないようだ。むろん櫻井の言論内容を基本的に支持しつつ、反対勢力から不要な<突っ込み>を受けていただくことのないように、と勝手に<心配>しているからだが。

0201/現憲法制定過程-古関彰一・新憲法の誕生(中公文庫、1995)を読む。

 現憲法制定過程に関する言及を続ける。1946年前半の関係日付の一部は既に記したが、背景状況に関するものとして、5/03に所謂東京裁判が開廷したが天皇の処遇は不明で検事による天皇不訴追の言明は6/18だったこと、5/12に「朕はタラフク食ってるゾ。汝人民飢えて死ね」のプラカードで知られる米よこせ世田谷区民集会の皇居デモに見られるように食糧事情は不十分だったこと(これは「公職追放」が家族を含めての生活苦をもたらし得ることを意味した)を追記しておく(なお、吉田内閣発足は5/22)。
 これまで、古関彰一・新憲法の誕生(中公文庫、1995、初出1989)という本が別にあることを承知で、かつ読まないままで書いてきた。今回はこの本に言及する。
 この本によると、2/13にGHQ(ホイットニー民政局長ら計4名)から憲法草案の手交を受けたのは松本烝治の他吉田茂外相、白州次郎他1名。その後の最初の閣議は2/19。この閣議上で松本が2/13のGHQ側の発言内容を紹介したその内容が問題になったようで、古関によれば、松本はGHQ案不採用だと「天皇の身体を保障することはできない」とホイットニーが「脅迫的に」述べ、これがのちの新憲法「押しつけ」論の「究極の根拠」になっているが、芦田均日記によれば「むしろ逆に、天皇を護る警告」の如く記されており、後者が適切だという(p.167)。
 しかし、この分析は奇妙だ。p.157-8に長く引用されている会議録上のホイットニー発言の内容を読んでも、受容しないと天皇を護れないとの「脅迫」と、受容すれば天皇を護れるとの「警告」とは、「むしろ逆」のものではなく、同じことの別表現ではないか。
 古関によれば次に、2/19以降の閣議でGHQ案の英文全文は配布されたことがなく(松本・幣原・吉田の他に閣僚でない白州・佐藤達夫のみが保有したらしい)、GHQ案の受容を決定した2/22の閣議には第一章(天皇)・第二章(戦争放棄)のみの日本語訳文が配布され、日本語訳全文が配布されたのは2/26の閣議だった(p.170-2)。かかる経緯につき古関は、内閣には「冷静に議論する土台すらできていなかった」、「天皇制を護ること…以外に、思想らしい思想をたたかわす憲法論議はないままに、GHQ案受け入れへと歴史の歯車は大きく回った」と述べた後、こう結論づける-「これは8月15日につづく第二の敗戦であった。「押しつけとは武力による敗戦に続く、政治理念、歴史認識の敗北であり、憲法思想の決定的敗北を意味した」(p.172-第五章の末尾)。
 古関の今回言及の著は九条の日本人発案説を採っているわけではない。また、上の如く新憲法についての「GHQ案受け入れ」は「第二の敗戦」だったと明言している。
 この著の
第五章のタイトルの「第二の「敗戦」―「押しつけ」とはなんであったのか」という設問への回答は、上に引用の「武力による敗戦に続く、政治理念、歴史認識の敗北であり、憲法思想の決定的敗北」(p.172)ということになるのだろう。そしてかかる結論は「押しつけ」だったことの肯定を前提にしている、と常識的には理解してよいだろう。
 しかし、先に紹介したように、新憲法「押しつけ」論の「究極の根拠」になっているという2/19の松本発言の理解を彼自身は否定していることとの論理的関係がよく分からない。
 古関によれば、彼自身が日本国憲法「押しつけ」論の「究極の論拠」となったとする松本の「脅迫的」理解は誤りで、(前回指摘したように矛盾していないと私は思うが)「天皇制を護る警告のごとく」理解すべきなのだ(p.167)。p.166-7とp.172はどう整合しているのか、矛盾してはいないのか、よく解らない。
 また、GHQ案受容は「政治理念、歴史認識」、「憲法思想」の「敗北」であり、「第二の敗戦」と古関は言うが、憲法改正に関してGHQ又は米国と「政治理念、歴史認識」、「憲法思想」を対等に闘わせることのできる時代状況にあったのだろうか。そもそもが降伏後半年後の「占領下」に占領軍最高司令部により「案」が示され、昭和天皇一身の将来も不明、国民生活は困窮、経済復興・発展は未展望という状況だったのであり、「政治理念、歴史認識、憲法思想」を対等に闘わせることを期待する方が無理というものではないか。
 さらには、自国の憲法改正(新憲法制定)につき他国(米国・GHQ)による提案・関与があったこと自体が「異様」なのであり、「憲法思想」等の外国との闘い(勝利・「敗北」)を語ること自体が「異様」なのでないか。
 付記すれば、古関は「敗北」を日本国・日本人のそれと理解しているのか、日本の当時の「支配層」の敗北と考えているのか。少し言い換えると、「敗北」という語を彼自身を含む日本国・日本人の問題としてGHQ・米国に対する怒りの感情も含めて使っているのか、それとも日本の当時の「支配層」に対する怒りが主で、敗北につき当時の日本政府の「責任」を追及する気分で使っているのだろうか。
 「押しつけ」か否かは、通常は日本国憲法の出自の正当性の問題として論じられ、私もその観点から関心をもつ。だが、古関が「押しつけ」た側の責任若しくは「押しつけ」られた側の責任を問題にしようとしている、又は「押しつけ」た側と「押しつけ」られた側のどちらが「悪かった」のか(どちらに「責任」があったのか)という「正邪」を問題にしようとしているのだとすれば、それは論点・問題をズラし、肝心の問題を避ける議論であり、客観的な評論家的立場を「装った」奇妙な議論だと思える。
 古関のこの本で次に興味深いのは、1945年12月公布の衆議院議員選挙改正法に基づく男女同等の普通選挙が実施され、「憲法制定議会」の意味を実質的にもちうるはずの46年4/10の衆院選挙で、憲法改正がどの程度争点になったかに関する部分だ。
 GHQ案がそのまま日本語訳されて改正案になったわけではなく、「日本化」の努力がなされある程度は成功して3/06に内閣の「憲法改正案要綱」が発表されたのだが(九条は実質的・内容的には変更なし)、全国ではなく8選挙区の535名の候補者の公報のうちこの「要綱」に触れるもの17.4%、触れないもの82.6%だという。古関とともに「あまり争点とはならなかったと言えそう」だ(p.208-9)。  また、公表されていたのは「改正案要綱」であり、選挙後の4/17に「改正案全文」が発表された(p.210)。これでは、新選挙法に基づき国民=有権者が、憲法「改正案」の内容を正確に知ったうえで、かつ候補者の憲法「改正案」への態度を知ったうえで投票し、実質的な「憲法制定議会」を構成したとは、とても言い難いだろう。
 その次の関心事項は、岡崎久彦著に依ってすでに簡単に記したが、衆院等により憲法「改正案」がどのように審議されたか、国民はどの程度自由にどのような議論を展開したかだ。議会での「日本化」の努力や国会外での各種改正論議に関する古関の叙述は「憲法制定過程の通史」(p.436)としての資料的価値はあるのだろうが、基本的には「占領下」でのGHQが許容する範囲内での、1946年当時のGHQの政策方針の範囲内での修正や議論だった、という大きな枠の存在の意識が十分ではないという印象がある。
 古関著は、新憲法公布後の1947年1/03に吉田茂がマッカーサーから新憲法施行後の一定期間内に(48年5/03-49年5/02)新憲法は「日本の人民…国会の正式な審査に再度付されるべき」で「国民投票…の適切な手段を更に必要とするであろう」等の書簡を受け取り、実際に48年3/10成立の芦田均内閣は再検討作業を行ったが、後継した同年10/19成立の第二次吉田内閣は具体化しなかった旨を述べた後、「憲法改正の機会はあった…。与えられていた…。その機会を自ら逃しておきながら「押しつけ憲法」論が語りつがれ、主張され続けてきた」と言う(p.380)。
 この叙述は現憲法は「押しつけ憲法」ではない、と主張しているのと同じだ。そのように理解するのが自然だ。しかし、最初の制定(明治憲法改正)がかりに「押しつけ」だったとすれば、「再検討」の機会がのちに与えられたことによって「押しつけ」ではなくなる、と論理的に言えるのだろうか。許容されなければ再検討できないということ自体がそもそも「異様」ではないのか。古関説はこの点でも奇妙だ。
 今述べたことを
補足しておく。1.吉田茂は「憲法の基本理念を変えることはGHQがいる限り不可能」と考えたと古関は推測する(p.379)。後段が占領下では=主権回復がなければ、との意味である限り、吉田は適切だったと考える。占領下で再改正しようとしてもその内容を「自由に」判断できたとはとても思われないからだ。
 2.「再検討」の意向はGHQよりも極東委員会に強かったようだ(p.369、p.381)。
 3.しかし、48年秋には北朝鮮成立等すでに「冷戦」構造の形勢が明らかになっていて、米国は日本の「非軍事化、民主化政策はもはやこれ以上に必要ない」(p.382参照)との方針へと傾斜していた。かくして、47年初頭の意味での「再検討許容」方針は事実上放棄されたと見られる。
 引用しないでさらに付言するが、p.380に吉田の回想記の一部を引用して「押しつけ憲法」論否定の補強資料としているようだが、吉田が米国・GHQの「強圧」・「強制」によって日本国憲法は制定された、と「回想記」に記すはずがないではないか。引用部分を参照すれば、GHQ側が新憲法制定を「可成り積極的に、せき立ててきたこと、また内容に関する注文のあったことなど」を吉田が肯定し明記していることで、事態の真相はほぼ明らかだ。つまり、吉田は<押しつけられた>と感じていた、とほぼ確実に言えると思われる。
 以上に述べて又は指摘してきたように、古関彰一・新憲法の誕生という本は、論旨が一貫していないか、少なくとも解りにくい部分を残しており、事実の評価についても十分に疑問視できる箇所が少なくない。まさかとは思うが、この本が憲法学者による現憲法制定過程に関する決定版の本で、最も信頼できる、という評価を与えられてはいないだろう。かりに本人がそう思って自信を持っているとすれば、それは<錯覚>というものだ。
 ところでこの古関彰一という憲法学者は、憲法制定過程(および強いて言うと九条)の他にきちんと憲法学の研究を広範囲にわたってしているのだろうか。教科書・概説書がないのはもちろん、他の個別の論点についての研究や発言にどんなものがあるかも全く知らない。
 

0200/岡崎久彦著等による現憲法制定過程と説得力なき古関彰一・九条護持論。

 主として岡崎久彦・吉田茂とその時代に依りつつ、他の文献にも言及しながら、憲法制定過程への論及を続ける。
 岡崎著p.151は1946年2月頃の幣原喜重郎について言う-「大筋として、今後必ず平和主義憲法をつくり、そしてそれは占領軍の強制ではなく、日本側の発意だったとすることを約束する以外になかったのである」。
 前回言及の古関彰一の冊子p.19以下は同年3/06の閣議後の新憲法案要綱発表に際しての天皇「勅語」にはGHQ作成の原文があった旨を示す点で新味があるが、幣原又は吉田茂は現九条の内容を発案してはいないとする点では岡崎等の研究と同じだ。
 孫引きだが、憲法学者・元北海道大学教授の深瀬忠一は「戦争放棄の発想の起源は幣原首相」だ、「幣原提言なくして、第九条が生まれたか疑問」としていた(古関・前掲書p.8参照)。九条は「押しつけられた」又は「与えられた」のではなく日本人の発案だと主張したいのだろう。
 古関も引用し、私も購入している元東京大学教授・芦部信喜(高橋和之補訂)・憲法第三版(岩波、2002)p.55は幣原首相の発案らしき事実を信頼して九条は「日米の合作とも言われる」等と書く。憲法学界ではかかる理解が有力であるかに見える。
 だが、再び孫引きをするが、五百旗頭真によれば、のちにマッカーサーが書いたように「幣原首相のほうから憲法に戦争放棄と戦力不保持の規定を入れることを提案したと信ずる研究者は皆無に等しい」(岡崎・前掲書p.136)。
 少なくとも古関の冊子は別のようだが、「皆無に等しい」はずの研究者が憲法学界には多数いるようであるのは、日本の憲法学界の「異様さ」を、先走って言えば「政治性」を示してはいないか。
 今回の冒頭に紹介した岡崎の文と類似のことを古関p.27-p.28もGHQと昭和天皇について言う-GHQの米政府宛報告書が天皇は「幣原に、最も徹底的な改革を…全面的に支持すると勧告された」と記したのは、「昭和天皇は、明治天皇下の昭和天皇とはまったく異なり、…平和と人権の擁護者として、日本国憲法の制定に積極的にかかわったことを米国はじめ連合国に示す必要があった」からだ。
 こうして見ると岡崎と古関は九条制定史につき同様の理解に立つといえる。しかし、古関が「岩波」の冊子に書いているように、彼は不思議なことに?九条改正反対論者だ。その論理を辿ってみると、結局は九条は日本国民に支持された、受け入れられた、ということを根拠にしているに過ぎず、かつ―立ち入らないが―相当に杜撰な論理展開だ。また、「九条は、単に日本が戦争をしないというだけではなく、…二度と戦争をしないということを連合国、あるいはアジアの戦争被害国にたいして誓った誓約書でもある」等としめ括るが(p.47)、九条はGHQ又はマッカーサーの「戦略」の所産だったという前半での叙述と整合しているのか、不思議極まりない
 古関・岩波冊子の九条改正反対論の根拠は何か。これを直接の主題にしていないため解りにくいが、結局はほぽ、日本国民に支持されたということを述べるにとどまる。世論調査を援用して1954年頃には護憲論が改憲論を上回り97年頃まで続いたとする(p.43-45)。世論調査結果をどの程度議論に援用できるかは慎重な考慮が必要と思うが、それは別としても、事実上改憲の是非が争点になったという1956年の総選挙で護憲政党が議席の1/3以上を獲得して改憲が阻止されたことを世論上護憲論が優勢だったとの流れの中に位置づけるのは(p.44)殆ど詭弁だろう。
 たしかに1/3以上の改憲反対勢力が国会を占有し続けたことは重要なことだが、あくまで1/3~1/2であり、旧社会党等の「革新」勢力が多数派を形勢したことは一度もない(90年代半ば以降の複雑な展開は捨象する)。1/3以上と過半数とを混同してはいけない。過半数で改正発議可能との憲法条項であったなら、自民党も改憲を諦念せず、既に「自主」憲法に変わっていた可能性の方が高い。
 国民世論を根拠にするならば、古関自身がいう97年以降は改憲やむなしという結論になるのが自然だが、その論法を彼は採らない。ということは、世論調査結果を援用したのも所謂「ご都合主義」、有利な材料は何でも使えの類の議論であり、九条は維持すべきとの彼自身の根拠が別にあることになる。
 その根拠を探ってみると、1.前回引用した九条は世界への「戦争しないとの誓約書」との理解、2.「刀狩り」以降の武力による紛争解決を好まない日本人の心性、3.「軍備を持ち、戦争のできる国になったら高枕で寝ていられる」のか、「むしろ、近隣諸国を刺激することによって、軍備競争を加速化する…」、をさしあたり挙げうる。
 これらのうち3.となると、もはや議論は噛み合わない。この古関某という人は九条さえあれば「戦争」に巻き込まれないと本当に考えているのだろうか。九条があっても「戦争」(他国からの他国領土内への武力攻撃と理解しておく)を仕掛けられれば、現状でも自衛隊等による自衛権の発動をせざるをえないのではないか(米軍の行動も加わるがとりあえず省略)。
 すでにいつか書いたが九条があれば戦争は起きない、九条がなくなれば戦争をする国になる、というのは大変なデマだ。九条と無関係に「戦争」は起こりうるし、九条のもとでも日本には自衛隊という九条二項の「戦力」ではないとされる「武力」はある。九条を変えて日本を「戦争のできる」国にしようとしているという護憲論者の主張(p.41も参照)は大ウソだ。
 丁寧な歴史分析の能力をある程度もつかに見える人でも現実問題となると「九条教」・「九条言霊主義」に陥るのは、日本にあるいくつかの不思議の最たるものの一つだろう。

0199/現憲法制定過程-主として岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP文庫、2003)を読む。

 岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP文庫、2003)は、最終章、10-12章、8-9章、1-5章というヘンな順序で読み継いで、昨年12月に全読了した。読み終えてから、古書で単行本も入手した。
 この本は日本政治外交史第5巻・戦後占領期とでも題した方が内容に即しており、より多く売れたのではないか。貴重な分析・示唆に富んでいて逐一の感想は書けない。岡崎は1930年生れだから自身が生きた時代に添って書いたわけではなく、多数の文献を渉猟し、分析し、凝縮して叙述している。
 いま印象に残っている一つは、GHQの指示による数次の公職追放の結果、「明治、大正、昭和初期の平和な時代に、深い教養を培い、海外経験も豊かで、大正デモクラシーから軍国主義への移り変わりの時期を、責任ある地位にいてすべて経験した世代が失われ」、そして「軍国主義時代に中途半端な役職を務めた経験しかなく、海外経験も乏しい世代、あるいは、その後の個性を没却した軍隊教育を受けた世代が戦後長きにわたって日本の支配層になった」という「弊害」の指摘だ(p.101)。
 海外で戦死した青年・中堅の人々、米軍の攻撃により死んだ一般の人々、戦犯として処刑死した人々、敗戦後に自殺した人々、彼らの中には生きていれば戦後日本の発展に重要な貢献をしたと思われる真摯で優秀な人たちも多くいたに違いない。勿体ない、と溜息をつきたい想いがする。それに、戦後に生まれた「団塊」世代等を含む日本社会の「支配層」だったのは、岡崎によれば要するに<二流>の人たちだったのだ。公職追放されてものちに解除されたはずだが、僅か数年間にせよ、恣意的な基準による公職追放によって、日本に残された最優秀・最強力の人々の叡智・努力による日本の再建設は不可能になった、ということなのだろう。
 この本のp.134-156(ほぼ5章の全て)とp.205-219は、現憲法制定史に関する叙述としても重要だ。
 1.主権のない又は少なくとも制限された国家(と言えるかどうか)で憲法制定(・改正)という通常の国家にとっての根本的な行為ができるのか、2.ポツダム宣言受諾と明治憲法改正という手続は矛盾しないのか、3.国会で「完全に」自由な審議ができたのか、4.マスコミ(ラジオ・新聞・雑誌等)で(国会議員を含めてもよいが)議員以外の「知識人」等の言論人や一般国民は、憲法案の内容につき「自由に」論評し、議論できたのか。当時16歳以上だった1930年生れ以前の(76歳以上の)人なら何となくの実感は残っているかもしれないが、私(たち)は文献で読むしかない。
 上の3.につき岡崎の上掲書p.206は言う。-「新憲法の国会審議は、…ごく少数の例外を除いては、ほとんど占領軍のいいなりであった」。さらにp.207-「憲法草案は押しつけられたものかもしれないが、国民の自由意思で選出された国会議員の多数に支持されたものであるというような形式論は、占領下の実態とはかけ離れたものである」。
 岡崎の上掲書に主として依ると、1946年2/03にマッカーサーは、1.天皇制護持、2.戦争放棄、3.封建制度廃止の原則のもとで憲法草案の起草を部下職員に命じ、10日後の2/13に米国(GHQ)案が幣原内閣(松本蒸治大臣)へ手交され、2/21にマッカーサー・幣原会談があり、3/06の閣議は「憲法改正草案要綱」を了解した。4/10の総選挙後に成立した第一次吉田内閣のもとで、6/25に新憲法案は国会(まずは衆院)に上程された。敗戦詔勅から10月足らず、降伏文書調印から9月半しか経っていない。この国会での審議は「完全に自由」なものでは全くなかった。占領下であり国会外での議論が新聞等も含めて「自由」だったのでもない。GHQ批判は禁止され検閲又は自主規制が一般にまかり通っていた。「武力」をもつ占領軍の「権威」は今日では想像し難いものと思われる。
 一般的な言論統制に加えて、国会議員には、その1946年の1/04に発せられた公職追放指令の対象に自らもなりはしないかとの「恐怖」があった。国会で自由に発言したのはこの時期には追放の心配がなかった日本共産党議員のみだったとされる(p.212)。
 九条については共産党・野坂参三が戦争には「正しい戦争」もあると主張し、吉田茂が「正当防衛権を認めることは有害」と(思わず?)反論したのは興味深い(同党は九条のゆえに新憲法に反対投票した)。
 より重要なのは、東京裁判の被告が未だ決まっておらず、ソ連も含めて天皇制廃止の意見も有力にあり憲法改正も検討すべきとされていた極東委員会が2/26に発足した時期において、この九条が天皇制護持を前提とする一条以下と密接な関係をもつこと-、つまり九条に疑問・反対論も提出し得るが、天皇を戦犯とせず天皇制を(象徴等としてであれ)維持するためにはマッカーサーの要求(九条導入)に服従せざるを得なかった、マッカーサーとしては日本が「戦争放棄」憲法を自ら制定してまで軍国主義を否定して再出発しようとしていることを極東委員会構成各国やワシントンに示したかった、という旨の指摘・分析だろう(文はかなり変えているが、基本的趣旨は岡崎に依る)。
 古関彰一・憲法九条はなぜ制定されたか(岩波ブックレット、2006)p.26にも「戦争放棄条項は、昭和天皇を戦犯から除外するための戦略として憲法に盛り込まれたといえましょう」とある。しかし、古関は自分の本を読む者は岡崎の本は読まない、又はその逆、と思っているのかどうか知らないが、この文に至る叙述内容にも共通部分のある岡崎久彦の本が2002年(文庫化は翌年)にすでに刊行されていたにもかかわらず、岡崎の本に何ら言及していない。「ブックレット」だから許容されるのかもしれないが、学術論文ならば、重要文献の見落とし又は意図的な無視と論評されうるのでないか。
 古関の本を登場させたので、ここで一区切りとする。

0181/福島瑞穂の憲法学の先生?小林直樹も常岡説と異なる。

 社民党の福島瑞穂は、誰から、又は誰の本を読んで憲法を勉強したのだろうか。
 この人は1955年生れ、1974年東京大学入学、1980年同卒業、1984年に司法試験合格、1987年弁護士登録、という経歴のようだ。
 東京大学の当時の憲法学の教授は、まず、小林直樹(1921-)かと思われる。福島が大学入学した年は、小林氏が53歳になる年の筈で、現役バリバリだっただろう。そしてこの人は日本社会党のブレインで、マスコミや雑誌類への露出度は(次の芦部に比べて)はるかに高かった。
 もう一人は、故芦部信喜(1923-99)だ。福島が大学入学した年、芦部もまた51歳になる現役教授だった。
 他にも助教授も含めていたかもしれないが、主としてはこの二人の憲法学を中心にして憲法を学んだのだろうと推測される。
 そして、小林直樹は上記のとおりだが、芦部信喜もまた、その憲法教科書の九条や制定過程あたりを読むと、日本の憲法学者としては別に珍しくもないのだろうが、明瞭に「左翼」だ。
 福島は、こうした「先生」たちの本や講義で日本国憲法を学んだ優秀な学生だったのだろう。そして九条の意味も「しっかりと」伝授されたのだろう。もっとも、29歳の年の司法試験合格は決して早くないし、「優秀な学生」だったことと、「優秀な政治家」又は「優秀な人間」かどうかは全く別のことだが。
 話題を変える。古書のため1972年刊とやや古いが、小林直樹・憲法講義〔改定版〕(東京大学出版会)の憲法改正権の限界に関する部分を見てみた(この本は、福島が勉強に使った可能性もある)。p.864は、次のように叙述している。
 「前文および第9条の平和主義そのものは、憲法の基本原則として確定しているかぎり、その削除や否認は許されないであろう。しかし、…非武装規定(9条2項)も、同様に考えるべきかどうか、問題になる。「…永久にこれを放棄する」という規定から、…改正することは「憲法の同一性を失わせることになる」(鵜飼・憲法、25頁)、と解する見解にも十分な理由があろう。しかし、平和主義とそれを実現するための手段(軍備の放棄もしくは禁止)とは、法理論上はいちおう別個であり、平和主義の立場を守りながら一定限度の軍隊をもつために後者を改正(削除)しても、民主憲法の同一性は失われない、と解してよいだろう。したがって、具体的にいえば、対外侵略の意図も能力ももちえない限度での自衛の軍備のための改定は-…-その政策的是非をまつたく別にすれば、法的に不可能なこととはいいがたい」。
 小さい活字の次の注記のような文が続いている。
 「…。再軍備は、たしかに徹底した平和主義をとろうとした日本国憲法に、大きな変更を加えることになるけれども、それが直ちに根本的な「憲法破壊」を意味するものではなく、憲法の同一性は、それによって失われない…。それはあくまでも、高次の憲法政策の問題であり、そのようなものとして、政治の場で徹底的に是非論が闘わさるべきだ、と思う」。
 憲法学者として朝日新聞に最近投書した常岡せつ子には不利な文献をまた一つ見つけたことになるようだ。
 1971年といえば、日本社会党の影響力はまだ強く、九条二項の改定の現実的可能性などなかった頃だが、芦部信喜とは別の東京大学教授によっても、上のようにきちんと、九条二項の改正は「憲法的に不可能なこととはいいがたい」と明記されていたのだ。
 但し、常岡せつ子(?)と同じと思われる考え方を説く憲法教科書もついに?見つけた。浦部法穂(1946-)・憲法学教室Ⅰ(日本評論社、1988)だ。p.25は改正できない規定に関する叙述だが、本文の中のカッコ書きでこんなふうに書いている。
 「九条二項の非武装規定については、…説と…説とに分かれている。けれども、日本国憲法の掲げる平和主義の画期的な意味は、まさに非武装規定にあるから、改正限界説に立ちながら、これを改正できるとするのは、おかしい」。
 さすがに、日本評論社出版の本だという感じもある。また、この人は東京大学出身で、この本の時点では神戸大学教授だが、のちに名古屋大学教授になっている。
 こう見ると、上で小林直樹が言及している鵜飼信成(この人の本は所持せず)とこの浦部法穂の二人は、いわば<九条二項憲法改正範囲外説>に立っていることになる。だが、この説がとても「通説」とは言えないことは、何回も述べた。<ゼロ人説>ではなく「ごく少数説」と言ってよいが、「通説によれば」と表現することは絶対にできず「大ウソ」だ。常岡せつ子には、失礼乍ら、何らかの<錯覚>があるようだ。

0179/現在国会議員を有する全政党が<改憲>政党。

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0178/芦部信喜・憲法学Ⅰ憲法総論(有斐閣)も常岡せつ子を支持しない。

 現憲法九条二項は憲法改正の限界を超えるとするのが「通説」だという<大ウソ>を朝日新聞に投書した自称・憲法学者らしき人(常岡せつ子)がいたことは既に触れた。
 <大ウソ>であることの根拠はすでに十分に示し得ていると思うが、さらに追記しておこう。
 すでに名を出した故芦部信喜に、同・憲法学Ⅰ憲法総論(有斐閣、1992)という、先日言及したものよりも詳しい別の本がある。
 この本は、憲法改正の限界につき無限界説と限界説、限界説の場合のその具体的内容を殆どは客観的に坦々と叙述しているが、平和主義・九条二項については次のように自身の見解を明瞭に述べている。
 「国内の民主主義(人権と国民主権)と国際平和の原理は、不可分に結び合って近代公法の進化を支配してきたと解されるので、平和主義の原理もまた改正権の範囲外にあると考えなければならない。ただし、平和主義と軍隊の存在とは必ずしも矛盾するわけではないので、憲法九条二項の戦力放棄の条項は理論的には改正可能とみるべきである」(p.78。「人権と国民主権」を「国内の民主主義」という語で統合するのは解り難く、民主主義原理から「人権」が出てくるのではないと阪本昌成なら批判しそうだが、立ち入らない)。
 この本は現在も発売され、(私が確認したかぎりでは)少なくとも2005年までは増刷されている。
 上記の自称・憲法学者らしき人は、上の文を全く見ていないか、前半だけを見たのだろう。
 芦部信喜は「平和主義と軍隊の存在とは必ずしも矛盾するわけではない」と正しく明瞭に述べ、「憲法九条二項の戦力放棄の条項は理論的には改正可能とみるべきである」と自己の意見としてこれまた明瞭に述べていたのだ。
 憲法学界のことをむろん詳細には知らないが、この元東京大学教授の主張とは反対の意見が「通説」だとは、通常は考えられないのではないか。現に、芦部信喜氏が指導した世代の一人の辻村みよ子氏、その中間の佐藤幸治氏、という有力と見られる人の教科書が、上記の自称・憲法学者らしき人の言う「通説」とは異なることを叙述していることはすでに紹介したとおりだ。
 上記の自称・憲法学者らしき人は朝日新聞に訂正する投書をすべきではないか。または朝日新聞の「声」欄担当者は異なる意見の投書を掲載して実質的に修正しておくべきだはないか。そうしておかないと、これまた過日紹介した天木直人氏のブログのように、著名な(?)知識人(?)までが、「そうだ、これが通説なのだ」などと言って、誤った知識にもとづいてハシャぐことになる。
 ところで、読売新聞社は、1994年、2000年、2004年と憲法改正試案を発表してきている。読売新聞社編・憲法改正読売試案2004(中央公論新社、2004)の安全保障の部分を見てみたが、現憲法九条二項を全面改正(削除)して、1994年試案では「自衛のための組織を持つことができる」、2000年試案では「自衛のための組織」を「自衛のための軍隊」と改め、2004年試案もこれを維持している。
 かりに憲法九条二項が憲法改正の対象のならない(そもそも改正できない)とするのが憲法学界の「通説」ならば、そのことに何かの言及があっても不思議ではないが、上記の書物にはいっさいそうした部分はない。改正可能であることを前提として、新しい法文を試案的に提示しているのだ。
 (また、読売試案に対して、憲法改正の限界を超えるというという観点からの強い批判意見が出された、という記憶はない。)
 なお、のちに発表された自民党新憲法草案と比べると、第一に、自民党案は「自衛軍」とし、読売案は「自衛のための軍隊」と表現する、第二に自民党案は「自衛軍を保持する」とし、読売案は「自衛のための軍隊を持つことができる」とする、という違いがある。第二点は、自民党案では自衛軍保持は憲法上の義務(又は当然予定されたこと)になり、読売案では義務にならない(すなわち、<持たないこともできる>ことになる。保持が憲法によって許容はされているので、法律レベルでの判断に委ねられる)、という違いをもたらす。

0176/1956年3月衆議院内閣委員会での神川彦松公述人と石橋政嗣委員の質疑。

 50年前の憲法大論争(講談社現代新書)に1956年3月の衆議院内閣委員会での公述人・神川彦松と委員(議員)石橋政嗣(日本社会党、のち書記長・委員長)のやりとりが掲載されていて、興味を惹く。
 神川彦松は他の二人の公述人(中村哲・戒能通孝)と違って「日本国憲法」を占領下憲法・マッカーサー憲法とか称して、制定過程・日本人の民主憲法ではないことを問題にする「公述」をした。
 これに対して、石橋政嗣は、「民主主義と平和主義と基本的人権尊重主義の三つの偉大なる原則」をもつことを「自民党諸君」も不可とはしていない、「現行憲法の三大原則-これが生命であります。これを是認しておる」ということは、「どのような成立の経過を経ようとも、りっぱなものではないか」、とまず言う(p.89-90)。
 ここで、1956時点でとっくに、1.「民主主義と平和主義と基本的人権尊重主義」という「三大原則」が語られていること、2.内容がよければ「どのような成立の経過を経ようとも」よいではないかとの考え方が示されている、ということが興味深い。
 以上のあと、石橋は神川に対して、内容は立派でも「制定の由来」からして「無効」と考えているのか、と問うている。そして、1.占領下だったからというなら独立と同時に「無効宣言」してもいいのに「自民党の諸君」がそれをする勇気がないのはおかしい、2.明治憲法の改正手続によっているので「無効」というなら了解もできる、とまで付け加えている。
 神川彦松の答えはこうだ。1.国際法上は占領終了と同時に「日本国憲法」は「失効」している。2.しかし、国内法上は「失効させるだけの手続」が必要だ。いくつか方法はあるが、「ひとつの方法は…、国会において…国際法上無効であるから失効すると宣言をしてよろしい」。
 国際法と国内法の関係は単純にそうなのか(国際法上無効→憲法も国内法上無効?)はよく解らないが、この1.2.はいちおうは理解の範囲内に収めることができる。だが、次の3.4.がややこしい。そのままの引用では相当に意味不明なのではなかろうか。
 3.「マッカーサー…ですらあれだけ驚くべきことを断行」しながら「明治憲法の七十三条」を利用したのだから、「われわれもマッカーサーの故知にならいまして…憲法九十六条の手続に従ってやったほうが穏当」。
 4.だが、「法理」的には「日本の憲法制定権を代表している日本の国会が無効の宣言をし、…続いて国民投票についていちおう念のためにやってみて、…大多数が大賛成と言えば…私はよろしい、こう思う」(p.100-1)。
 この神川の発言に対して、石橋政嗣は、最初に「理論の矛盾をみずから露呈」したと指摘し、「帝国憲法の七十三条の手続きを踏んでいるんだから無効を宣することはできないということは、…実質的に現憲法をお認めになっている」、これは「理論が一貫しておらない」と述べている(p.102)。
 以上は神川・石橋<論争>のごく一部にすぎないが、私には、噛み合っていないと思える。
 すなわち、解説者・保阪某は何ら言及していないのだが、石橋は神川意見を<明治憲法の改正手続によっているので無効宣言できない>旨理解しているが、その理解は正しくはないのでないか。
 神川は上の2.4.で明らかに国会による無効確認又は無効宣言が可能である旨を述べている。問題は3.だが、その趣旨は、マッカーサーは国民主権原理の憲法を明治欽定憲法の改正手続で<作らせた>くらいだから、「日本国憲法」の改正条項(96条)を利用して実質的には「改正」ではない(「日本国憲法」の無効を前提とする)新憲法を制定するくらいの<巧緻>さがあってもよい、ということではないか、と思われる。上の限定された部分だけをとっても、国会が無効宣言をできないとは一言も言っていないのだ。
 細かなことだが、こんなふうに論旨が噛み合っていない、相手の趣旨を正確に理解しないままでの議論のやりとりが明瞭に見られるのは、個人的には、又は<頭の体操>的には、相当に<面白い>。
 そんなことよりも、つぎの点の方が、憲法改正に関する議論にとっては重要かもしれない。
 第一に、神川は上の4.で「国会が国民の憲法制定権を代表」していると言っているが、「日本国憲法」の無効宣言はできるがそれまでは有効なので憲法制定権は「日本国憲法」により国民に移ったと理解しているようだ。実質的・本質的に「無効」ならば明治憲法の効力がなお残る余地がありそうで、その点は少なくとも議論の対象にはなりそうだが、こんなに簡単に、自らが国際法は「無効」で国内法的にも「無効宣言」できるとする「日本国憲法」の新原理を承認してしまっていいのだろうか。
 一方、「国民投票」は「念のために」するもので不可欠のものではないようだが、「国民の憲法制定権」を語るなら、1947年憲法に即して、「国民投票」は法的に必要なのではないか。むしろここに<論理一貫性>のなさを私は感じる。
 なお、既述のことだが、以下でも言及する現在の日本国憲法「無効」論者・小山常実の本は、「無効確認」に国会が関与することを法的に必要なものとは見ていない。
 第二に、上で<巧緻>という言葉を用いたのは私だが、神川が3.で「法理」的には厳密でなくとも、、「日本国憲法」の改正条項(96条)を利用して実質的には「改正」ではない(「日本国憲法」の無効を前提とする)「新」憲法を制定してもよい、と主張した(と思われる)のは興味深い。「法理」的にはともかく、その方が「穏便」だとの旨も述べている。
 この点は、現在の日本国憲法「無効」論者の方々に注目していただきたいものだ。
 大目的が<占領憲法>(日本国憲法)を廃止して<自主憲法>を制定することにあるならば、日本国憲法「無効確認」・明治憲法復原確認→明治憲法の殆どの効力停止→「日本国憲法」の殆どの条項を内容とする臨時措置法(法律)による自衛軍の創設→明治憲法の改正条項の改正等々という複雑な手続(小山常実・憲法無効論とは何かp.139以下による)をとることを要求することなく、(むろん相応しい内容に関する議論は必要だが)端的に現憲法96条を「利用」して実質的には「新しい」自主憲法を制定すればいいのではないか(かりに万が一、現憲法が「無効確認」できるような性格のものだったとしても、そのような純粋な「法理」を貫くことは決して<最高の価値>ではないのではないか。専門的法律家はあまり言わないだろうが、「法理」よりも大切なものはある)。
 これと同様のことをかつて、神川彦松は、少なくとも示唆していた、と理解できるのだ。神川の発言の中では、むしろこの点に着目したい。

0173/天木直人-常岡せつ子氏の「大ウソ」を信じて大失態。

 元外務省官僚・天木直人の本は読んだことはないが、小泉前首相の外交政策を批判する文章を何かで読んだような気はする。
 その天木直人の(公式)ブログの5/18付のタイトルは「集団的自衛権をめぐる議論の結論はこれできまりだ」で、首相の私的懇談会による検討は無意味で、朝日新聞5/18付の元内閣法制局長官・秋山収の意見のとおり、<集団的自衛権の行使を認めるためには憲法改正しかない>、「これで決まり」だ、と主張している。
 この点も重要な問題だが、そのあとの文章が目を惹いた。
 すなわち、「同じく5月18日の朝日新聞の「声」の欄に、常岡せつ子という横浜在住の53歳の大学教授の次のような意見が掲載されていた」として憲法尊重擁護義務の問題に触れたあと、次のように書く。
 常岡せつ子氏は「為政者に改憲の発案権があるとしても、改憲の限界、つまり、どのような「改正」も認められるかという問題が残ります…。憲法の基本原理を変える変更は、現憲法の否定であり、もはや「改憲」とは呼べないというのが学説の通説となっています…(ですから憲法9条を変えることは)新憲法制定、またはクーデターとも言うべきものです。96条の(改憲の)手続きで行うのは国民を欺くものです…。」と書いている。
 「その通りである。これが通説なのだ。すなわち集団的自衛権行使を容認すると言う事は、安倍首相とその取り巻きによるクーデターなのである。そう考えると、国民投票で為政者の改憲の試みを拒否することは、国民の側のクーデターである。私が繰り返し声を上げてきた日本の歴史上はじめての民主革命であるということだ。やっと日本国民も欧米諸国がとうの昔に成し遂げた民主革命を手にする時が来たのだ。/こう考えれば雲が晴れたようにすべてハッキリとする。マスコミはこの点を繰り返し強調すべきだ。国民がこの事に気づくならば、為政者の改憲の企ては吹っ飛んでしまう。政権そのものが民衆の目覚めで倒されてしまう。安倍首相はとんだやぶへびの失敗を犯そうとしている。愚かだ。
 天木直人は余程小泉→安倍政権が嫌いなのだろう。常岡氏が「通説によれば」九条二項は憲法改正の限界外でこれを変えるのは「クーデター」となると書いているのを真に受けて、「その通りである。これが通説なのだ」と喜ぶ。そして、安倍首相側のクーデターである改憲を阻止することは「国民の側のクーデター」だとして、大袈裟にも、「日本の歴史上はじめての民主革命」だ、とまで言う。
 政権側のクーデター阻止が国民側のクーデターで同時に「民主革命」だ、という言い方もよく分からないところがあるが、既述のとおり、そもそも常岡の述べていることは「通説」では全くない。「その通りである。これが通説なのだ」とは言っておれないのだ。
 とすれば、あとの昂奮した文章はすべて砂上の楼閣で、全く意味がなく、残念ながら、ただちに崩れ落ちる。「
マスコミはこの点を繰り返し強調すべきだ。国民がこの事に気づくならば、為政者の改憲の企ては吹っ飛んでしまう。政権そのものが民衆の目覚めで倒されてしまう。安倍首相はとんだやぶへびの失敗を犯そうとしている。」なんて言うことは全くできないのだ。天木が安倍首相に投げつけている言葉を使えば、全く「愚かだ」。 
 常岡の言明を「信じた」天木は可哀想なことだ。
 そして、専門家・憲法学者が「通説」かどうかに関する「大ウソ」を書いてしまうことが犯罪的な、社会的議論を混乱させる役割を果たすことを、この天木のブログ文章は典型的に示しているだろう。
 常岡せつ子は天木に対して、謝りの手紙くらい出しておいた方がよい

0170/「平和主義」と自衛軍・憲法改正権の限界の関係。

 自民党新憲法草案の前文の中に、「…平和主義…は、不変の価値として継承する」との文言がある。
 この前文改正案は要点を箇条書きしたような出来のよくない文章で成り立っていると感じるが、それはともかく、このように「平和主義」を継承する、と書きつつ、周知のように、同草案九条の二では「…自衛軍を保持する」と定めている。
 この案も前提としているだろうが、平和主義と軍隊の保持は矛盾するものではない
 いつぞや阪本昌成の言明を紹介したように、「平和主義」の中にも<非武装による平和主義>もあれば、<武装・軍備による平和主義>もあるのであり、「平和主義」を自衛戦争の放棄や非武装(=軍隊不保持)主義と理解するのは、特定の(偏った)理解の仕方にすぎない。
 (このような曖昧な「平和主義」という概念を前文の中に書き込むかは再検討されてよい。平和を愛好する、平和を志向するということ自体は殆ど当たり前のことだし、阪本昌成氏が指摘していたように-後述の常岡氏のように-「誤解」へと意図的に?導く人々も生じうる。)
 さて、常岡せつ子の朝日新聞への投書が話題にしていた憲法改正の限界の問題だが、野中俊彦=中村睦男=高橋和之=高見勝利・憲法Ⅱ〔第四版〕(有斐閣、2006)p.397は「限界説に立った場合、…内容的には、…国民主権、…人権尊重主義ならびに平和主義の諸原理があげられる」(野中俊彦・法政大学教授執筆)と書いている。
 また、伊藤正己=尾吹善人=樋口陽一=富松秀典・注釈憲法〔新版〕(有斐閣新書、1983)は、「基本原理」である「国民主権と基本的人権の原理が憲法改正の限界をなすという説、ないしすすんで平和主義の原理を含めてそう解する説が支配的」で、「憲法改正」条項も含める説が「有力」だ、と書いていた(樋口陽一・東京大学名誉教授執筆)。
 4/25の17時台に「日本国憲法は三大原則か六大原則か」と題してエントリーしたのだが、上の二つの本は、「三大原則」とされるもの、すなわち国民主権・基本的人権保障・平和主義が憲法改正の限界の対象になる旨を書いている、と言える。
 この4/25の段階では憲法上の「原則」が何かは「憲法改正の「限界」とは無関係に語られているのではないかと思われる(あくまで私の理解だが)」と書いていた。同時に、八木秀次氏が「三大原則」は1950年代に「護憲派勢力」が憲法改正によっても変更できないものとして「打ち出した」と述べているとも紹介していたが、「私の理解」は少し足らなかったようだ。
 だが、上の二つの本もたんに「平和主義」と書いているだけであり、具体的にその中に九条二項が含まれることを明示してはいない。少なくとも、九条一項のみか、九条二項も含まれるのか、という議論がなお生じる書き方になっている。
 常岡せつ子は、上のような叙述をする本があるのを知っており、かつ改正できない「平和主義」の中には九条二項も含まれるという、いわば<非武装の平和主義>という特定の理解に立って、九条二項の削除は憲法改正の限界を超える(範囲外だ)と主張したものと推察される。
 しかし、明瞭ではないが、かりに上の二つの本が改正できない「平和主義」の中に九条二項を含めているとしても、そのような考え方が「通説」かどうかは別の問題だ。
 第一に、通説と明瞭に言えるためには、例えば上の二つの本が、より明確に九条二項に論及し、明確に改正不可の旨を書いている必要があるだろう。
 第二に、上の二つとは異なり、明瞭に九条二項は憲法改正の対象にならないことはないとするのが「通説」である、と明記する芦部信喜、辻村みよ子の本があり、平和主義・九条二項に何ら言及しない佐藤幸治の本もあることは既に書いたとおりだ。
 従って、常岡せつ子が「大ウソ」をついた、という判断に何ら変わりはない。
 この人は、1.憲法の基本原理は改正できない、2.その基本原理の中には「平和主義」も含まれる、3.「平和主義」の条項には九条二項も含まれる、という、八木によれば「護憲派勢力」が1950年代に「打ち立てた」戦略にそのままのっかった、それぞれ議論になりうる論点についての特定の単純な理解にもとづいて「通説」だと主張してしまったのだ。
 そのような考え方もありうるのだろうとは思う。しかし、そのことと、そのような考え方が「通説」だと喧伝できるかどうかは全く別の問題だ。
 公正かつ慎重であるべき学者・研究者が自己の特定の単純素朴な理解が「通説」だなどという<大ウソ>をついてはいけない。
 なお、常岡せつ子が<九条の会>賛同人として寄せている長文の「メッセージ」は以下のとおりだ。
 「「国民一人ひとりが九条を持つ日本国憲法を、じぶんのものとして選び直す」ことが必要だという「九条の会」アピールに心から賛同いたします。ただ問題は、九条をどのように解釈した上での九条の「選び直し」かという点にあるのではないでしょうか。昨今のマスコミの論調は、例えば六月三〇日付の朝日新聞の社説にもありますように、戦後憲法学界が積み重ねてきた「九条は一切の戦争を放棄している」という九条解釈を敢えて無視し、憲法学界が従来解釈改憲であるとして批判してきた政府の九条解釈に則った上で、「自衛隊が海外で武力行使する」ことを可能にするような「改正」には問題があるのではないかというものにシフトしてきているように思われます。九条にどのような意味を読み取るかという点において〝発起人〟の皆様の間で何らかの合意がなされているのでしょうか。それとも九条解釈を問題にすることは、むしろ「立場を超えて手をつなぎ合う」ことへの障害になるとお考えなのでしょうか。私自身は九条は集団的自衛権はもとより、個別自衛権も放棄していると理解した上で「九条の選び直し」が必要と考えております。

0169/朝日新聞「声」欄上での「九条の会」メンバーのやりとりだった。

 前回に「常岡せつ子」の主張内容の「通説」との説明を問題にしたのだが、さすがにネット界?は多様な情報が豊富で、常岡の投稿の背景についての次のような興味深い説明を見つけた。
 「朝日新聞を叩き潰す掲示板」という名のサイトへの投稿者による情報だ。  朝日新聞の5/15の「声」欄に「上田武郎」(医師、鳥取市、50歳)という人が「安倍氏が…首相として改憲を進めようとすることに違憲の疑いはないのか、専門家のご意見を伺いたいと考えます」と書いた。大臣等の憲法尊重擁護義務(憲法99条)との関係での質問(のような疑問の提示)で、論点としては存在しうる。
 これに「専門家」として「常岡せつ子」(大学教授、横浜市泉区、53歳)という人(と妙な表現はしているが、実在の人物だ)が応えたのが、朝日5/20(18?)の「声」欄だったことになる。そして、常岡は、上田氏の質問への回答以上のことを語ってしまった、と言えるだろう。
 ところで、上の掲示板情報によると、上田武郎は「九条の会・医療者の会」の活動家で、常岡せつ子は「九条の会」の呼びかけ「賛同者」の一人。従って、「これら二本の投稿は、共産党系の「9条の会」の身内によるバトンリレーでした」、ということになる。
 私自身もネット上で確認をとってみた。上田武郎との氏名は「九条の会・医療者の会」の「中国・四国」の部分に「医師」として出ている。

 また、アサヒ・コム内には「鳥取市九条の会」の代表の上田務という79歳の医師(鳥取県歯科医師会名誉会長)が登場しているが、この人は上田武郎氏の父親かもしれない。

 一方、常岡せつ子は「九条の会」の呼びかけ「賛同者」の一人であることに間違いはなく、賛同者の中で最も長いのではないかと思われる「メッセージ」を書いている。
 要するに、「九条の会」のメンバーが朝日新聞を利用して、キャッチボールをした、とも言える。朝日新聞はたんに利用されたのではなく、積極的に彼らに意見表明の場を与えたのだと思われる。朝日新聞もまた改憲反対の「(政治的)運動団体」だからだ(上に言及の鳥取市九条の会代表の取り上げ方でも分かる)。
 以上、あるネット情報を再確認してみました、ということのみ。

0168/常岡せつ子-主張・見解はいいが「大ウソ」はつくな。

  
 常岡せつ子
という大学の先生は、特筆すべき勇気を持っている。「大ウソ」を書いて朝日新聞に投稿するという勇気、だ。
 朝日新聞5/22(18?)の「声」欄の常岡氏の投稿文の要点は、見出しにもなっているが、1.「憲法の基本原理を変える変更」は「現憲法の否定」で「改憲」ではないとするのが「学界の通説」だ。
 2.「9条2項を削り「自衛軍」保持を記す自民党案は、通説に従えば」「改正」案ではなく、「新憲法制定」又は「クーデター」だ。
 要するに、9条2項は「憲法の基本原理」の一つでこれを削除するのは「改憲」・「改正」ではなく、「クーデター」だ、と言っている。
 さらに言い換えると、憲法改正権にも限界がありその限界(範囲)を超えることはできないが、九条二項を削除(改正の一つ)することは憲法改正権の限界を超える=違憲であり、もしもするなら、「クーデター」になる、と言っている。
 「クーデター」(か「革命」?)になるとは<法的連続性>が絶たれるとの趣旨だろう。
 これがたんに一つの主張又は学説とした語られているならまだよい。
 だが、上の文章は、2.の部分についても「通説に従えば」と明記して、上に要約したような内容は「通説」だと述べているのだ。
 そんな筈はないだろうと思って、所持しているいくつかの憲法概説書・教科書を開いてみた。そして、上の内容は1.は一般論としては通説だが、2.は全く「通説」ではないことが容易に分かった。
 常岡氏は「大ウソ」を書いている
 まず、元東京大学教授の芦部信喜(高橋和之補訂)・憲法第三版(岩波、2002)p.367は書く。-「国際平和の原理も、改正権の範囲外にあると考えなくてはならない。もっとも、それは、戦力不保持を定める九条二項の改正まで理論上不可能である、ということを意味するわけではない(現在の国際情勢で軍隊の保有はただちに平和主義の否定につながらないから)、と解するのが通説である」。
 つぎに、常岡と大学院時代の指導教授が同じかもしれない現東北大学教授の辻村みよ子・憲法第2版(日本評論社、2004)p.570は上の芦部著を参照要求しつつ書く。-「憲法の平和主義の改正には限界があるとしても、戦力不保持を定めた九条二項を修正しえないのかどうかについては議論があり、通説はその改正までは理論上不可能としているわけではない(芦部・憲法三六七頁)」。
 上の二つの本が岩波、日本評論社という「左翼的」(「進歩的」?)出版社から出ているのは偶然かもしれないが、芦部も辻村も、九条護持派又は「九条保守派」の論者の筈だ。その二人がいずれも、九条二項は憲法改正権の対象外だということはない(対象となりえ、改正できる)と明瞭に述べ、かつそれが「通説だ」と叙述しているのだ。
 想像するに、常岡せつ子が九条二項について述べているようなことを書いている日本国憲法に関する本は一つもないのではないか。
 常岡の説に従えば、九条二項については「改正」の議論すらできない。常識的に考えてもそんな馬鹿なことはないだろう。
 第三に、前京都大学教授の佐藤幸治・憲法〔新版〕(青林書院、1990)p.38-39は、改正の限界につき、1.「憲法制定権力の担い手の変更」(秋月注-国民主権原理のことと思われる)、2.「同一性を失わせるようなもの」、「例えば…「自然権」的発想を否定するような改正」、3.改正手続規定、の三点を指摘している。どこにも「九条二項」など出てきていない
 (なお、佐藤氏の<「自然権」的発想>うんぬんは解りにくいし、欧米的理論による日本国憲法の解釈・説明は止めて欲しいとも思うが、ここでは無関係なので省略。
 さらに、佐藤氏はこんなことも書いている。-改正限界肯定説・否定説両方があり、限界肯定説からすれば限界を越えた行為は「改正ではなく…無効ということになるが、新憲法の制定として完全な効力をもって実施されるということは十分にありうる。そして、改正の「限界」内にとどまるのか否かの判定権が改正権者の手にあるとされる限り、理論上新憲法の制定とみざるをえないものが改正の名において行われることはありうる」。(p.39)
 憲法理論上の改正の限界を超えた「改正」でもそのような「改正」案を
改正権者=国民が承認すれば、(国民は改正の限界を超えるとは判断しなかったとも考えられるので)改正とも言える、というような趣旨だろう。
 とりあえず、上の三つの本だけを紹介した。元東京大学教授(東京大学出身)、現東北大学教授(一橋大学出身)、前京都大学教授(京都大学出身)の三人の本はいずれも、常岡せつ子の主張することとは異なることを書いていることは明瞭だ。常岡が自らの説を「通説によれば」として説明できるためには、少なくとも上の三人のうち一人くらいは同じ又は殆ど同じ主張をしていなければならないのではないか?
 さらに他の、所持している憲法学の本を見て追記することもありうる。
 <主張、見解>を述べるのは、あるいは新聞に投書するのは、研究者として、新聞読者として、自由だ。
 しかし、自己の<主張、見解>が学界において「通説」である旨の「大ウソ」を述べてはいけない。
 常岡は、上の意味において大学教員としての<適格性>を欠いている、と考える。雇用主(使用者)たる所属学校法人は、あるいは所属学部教授会は一体どのようにこの人の処遇を考えるのか。この人の勤務先はフェリス女学院大学らしい。そして国際交流学部に所属しており、「比較憲法」を研究分野としている(さらにネット情報によると、一橋大学社会学部出身で、進学した大学院が同大学の法学研究科)。 
 表現の自由も学問の自由もある。しかし「大ウソ」を吐き、教える「自由」はない。これを、常岡もご承知のとおり、自由の「内在的制約」とか言うのだ。
 朝日新聞の「声」欄の担当者がかりに法学部出身者だったら、常岡の「声」が事実ではないと気がついたか、少なくとも不審に思うことができた筈だ。法学部出身者でなくとも、朝日新聞社には、代表的な憲法学教科書の若干も置かれていないのだろうか(そんなことはあるまい)。そして、上の芦部信喜の本でもちょっと見れば「通説」うんぬんが事実ではないことに容易に気づく筈なのだ。
 朝日新聞の「声」欄の担当者がかりに常岡のいう「通説」うんぬんが事実ではないと知りつつあえてそのまま掲載したのだとすれば、そして「9条2項削除/改正の枠逸脱」と見出しをつけたのだとすれば、さすがに朝日と言うべきだが、これまた怖ろしい。

0167/日本国憲法「無効」論とはいかなる議論か-たぶんその3。

 再び、小山常実・憲法無効論とは何か(展転社、2006)に言及する。
 .こう主張する(p.131)。「失効・無効の確認がなされるまでは、本来無効な「日本国憲法」が、一応有効であるとの推定を受ける」。
 <一応有効であるとの推定を受ける>という表現は、とくに「推定を受ける」は厳密にいうとややキツいだろう。
 より正しくは、<事実上、有効なものとして通用する>ではないかと思われる。その事実上の<通用力>のあることを認め、従うべきことが要求されている、ということではないか。
 どちらでもいいような細かなことだが、<有効性の推定>という表現はやや気になる。
 .「無効確認」の意味・効力につき、こう主張する。「無効確認の効力は、将来に向けてのみ発生するのであり、過去に遡ることはない」(p.141)。
 こうした「無効」または「無効確認」という語の使用法は通例の「無効」概念とは違うのではないか、ということをすでにたぶん4/28に次のように書いた。
 このように<「無効」という言葉を使うのは法律学上通常の「無効」とは異なる新奇の「無効」概念であり、用語法に混乱を招くように思われる。/無効とは、契約でも法的効果のある一方的な国家行為でもよいが、当初(行為時又は成立時)に遡って効力がない(=有効ではない)ことを意味する。無効確認によって当初から効力がなかったこと(無効だったこと)が「確認」され、その行為を不可欠の前提とする事後の全ての行為も無効となる。と、このように理解して用いられているのが「無効」概念ではなかろうか。
 こうした感想は今でも変わらない。「無効確認」がなされるまではそうではないが、「無効確認」が正規になされれば(その主体・手続につき議論がありうることは既述)、当初に遡って効力がなくなり、それを前提としていた全ての行為の有効性もなくなる(無効となる=法的にはなかったことになる)、というのが「無効確認」の意味であり、そういう意味があるからこそ「無効確認」決定をする必要もあるのだ、というのが通例の用語法だろう。民事訴訟(行政訴訟を含む)において問題になる(使われる)「無効」とは、このような意味なのではないか。
 異なる意味で用いると言うのならば、それを明確にしておけば問題はない、ともいえる。ただ、やはり新奇の「無効」概念だと私には思える。
 .上のように「無効」という語が使われるので、「違法確認」との区別がないか、少なくとも不明瞭だ、と感じる。
 著者も前提としておられるだろうように、違法な又は瑕疵ある国家行為がそのゆえにただちに「無効」となるわけでもないし、「無効確認」の要件が満たされるわけでもない。
 違法な又は瑕疵ある国家行為であっても有効なことはあるし、また正規の「無効」確認がなされるまでは有効との外観を呈することもある。だが、「無効」と判断できるだけの強い違法性又は瑕疵があれば「無効」確認をして、無効=効力が最初からなかったものとして扱うことができることは、上でも述べた。
 だが、将来においてのみ効力をなくすというのであれば、正規の「違法確認」行為がなされた場合とどう違うのだろう。違法→無効ではないことは上述のとおりだが、手続的に正規の「違法確認」行為・決定がなされれば、違法=少なくとも将来に向かっては効力がなくなる(という意味での「無効」)とするのが原則であり、それが(法の支配又は)法治主義の要請するところだろう。
 現在において「違法確認」することは、その行為の過去の効力に影響を与えない筈だ。とすると、主張されている「無効」論は「違法」論とどう違うのだろう。
 読解不足、私の知識不足かもしれないが、どうもよく分からない。
 .将来に向かってのみ「日本国憲法」の効力を否定することの意味・意義はそもそもどこにあるのだろう。
 著者によれば、新憲法制定までの<手続>・<段階>はこうだ。
 第一に「無効確認」と(ほぼ)同時に明治憲法の復原の確認がなされる。第二に、新憲法制定までの間は改正規定(明治憲法73条)以外の明治憲法の諸規定の「効力を停止し」、臨時措置法を制定する。この臨時措置法の内容は、前文・九条・改正手続規定(96条)以外は「日本国憲法」の条文を「基本的に採用する」。5-10年後に、第三に、明治憲法73条にもとづいて明治憲法を改正する新憲法制定に移るのだが、まずは改正手続規定である明治憲法73条を改正し「日本国憲法」96条のような規定にする。その上で、第四に、実質的には「日本国憲法」96条を内容とすることとなった明治憲法73条により国会の発議・国民の承認という手続で(明治憲法の改正による正当な)新憲法を制定する。
 何とも複雑な手続で容易には解りにくく(私は何とか理解できたが)、まさに<アクロバティック>な手続を経る必要があることになる。
 日本国憲法「無効」論のほとんど不可欠の帰結であるらしいこのような手続と、現在の日本が「現実」に置かれている状況と比較すると、今の現実は、上の第三までは終わっており、第四の段階に移ろうとしている段階にある。
 ということは、「現実」と比較すると、日本国憲法「無効」論とは、上の第一~第三の「段階」を余計に踏ませるための議論なのだ、と言い得る。
 むろん、日本国憲法が「無効」なのだからそうしないと「正統な」憲法は生まれない、ということなのだろうが、それにしても解りにくく複雑だ。また、日本国憲法を無効と考えていない者にとっては、<全く不要で余計な、かつ複雑な>行為の連鎖を要求していることにもなる。
 この説に従うと、(もともと議会による無効確認決議、天皇の裁可等の「現実」的可能性はほぼゼロだと思うがその点は別としても)現憲法の改正は「現実」よりもかなり遅れるだろう。現憲法九条は、臨時措置法の制定によってとりあえず削除されるようだが、日本国憲法無効確認と明治憲法の復原確認の後になることには変わりはなく、「現実」が進もうとしている時期よりも遅くなることは間違いないだろう。
 この議論の「現実」的通用性は別として論理的に言っても、<日本の現実は、そんなに悠長なことを言っておれる状況なのだろうか?>
 .著者のいう日本国憲法の「無効」事由には立ち入らない。説得的なものもあれば、首を傾げるものもある。
 芦部信喜(高橋和之補訂)・憲法第三版(岩波、2002)p.29がのどかにも?「完全な普通選挙により憲法改正案を審議するための特別議会が国民によって直接選挙され、審議の自由に対する法的な拘束のない状況の下で草案が審議され可決されたこと」を現憲法の制定過程は「不十分ながらも自律性の原則に反しない」ということの根拠の一つに挙げていることに比べれば、より現実に即していると思える部分もある。
 .だが、もう端的に結論だけ示しておきたいが、今頃になって日本国憲法の「無効」を主張するのは遅すぎる。主権回復後早々に同様の主張がなされて(明治憲法の改正手続を利用するか、制憲議会の設立・国民投票を特別に行うか等の問題は残るが)日本人のみによる「正統」な憲法制定がなされればまだ良かったかもしれない(「無効」論に全面的に組みしている訳ではない)。
 だが、憲法施行後60年も経った主権回復後でも55年も経った。<憲法学者等に騙されてきたのだ>と主張されるのかもしれないが、その55-60年の間、圧倒的多数の国民が、政府関係者、裁判所関係者、そしておそらくは昭和天皇も今上(明仁)天皇も、日本国憲法は「有効」な憲法だと信じて国政を運営し、生活を営み、現憲法を前提として皇位の継承も行われたのだ(正確な記録は持っていないが、昭和天皇も今上(明仁)天皇も何度も「日本国憲法に則り」とか「日本国憲法に基づき」とかの言葉を用いられた筈だ)。
 議論のために天皇陛下の主観を利用するつもりはない。再述すれば、天皇や皇室はかりに別としても、圧倒的多数の国民は日本国憲法は「有効」な憲法だと考えてきたのだ(そのことは現在の国会議員の全員が有効性を前提としていることでも証されるだろう)。
 それを今頃になって「無効」と主張し、「無効確認」を国家機関にさせようと主張するのは、第一に、民法でいう「権利濫用」にあたる、国家機関による<権限濫用>をそそのかしている疑いがある。関連して第二に、民法でいう「信義則」にあたる、国家行為への国民の<信頼の保護>原則を大きく損なう可能性がある。
 いちおう分けたが、国家行為への国民の<信頼の保護>を大きく損なうがゆえにこそ、無効確認行為は国家機関による<権限濫用>になる可能性が極めて高い、と言い換えてもよい。
 著者が言及している論点だけが、この問題に関係する論点なのではない。国家の<権限濫用>も国民の<信頼保護>も視野に入れるべきだ。
 さらに、法原理の中には、抽象的・究極的ではあれ、<法的安定性の維持・確保>という要請もある。違法又は無効の国家行為についてこの一般原理を濫りに使うべきではないのはいうまでもないが、しかし、55-60年という長期間の経過を考えると、<法的安定性の維持・確保>も視野に入れるべきだ。視野に入れているからこそ「無効確認」の効力は将来にのみ及ぶと主張していると反論されるかもしれないが、無効確認、そして明治憲法の復原確認という行為そのものが<法的安定性>を十分に害する、と考える。
 日本国憲法「無効」論は、現憲法の制定過程の<いかがわしさ>を明らかにし、現憲法を(当然に同96条と最近成立した憲法改正手続法に基づいて)改正して、日本人(のみ)による新憲法の制定=改憲をするために有利な議論として、個人的には利用させていただきたい、と考えている。

0166/小山常実の日本国憲法無効論に寄せて-その2。

 小山常実氏の日本国憲法無効論(同・憲法無効論とは何か(展転社、2006))について5/04に若干の感想を記した。以下はいちおうは第二回めになる。
 最初の感想又は意見と異なるのは、次の点だ。5/04では、無効確認手続について「政治的には、国会による決議がなければ立ち行かないだろう」(p.140)とあるのを疑問視し、「政治的」又は「現実的」な議論を混淆させている等のコメントを付した。
 だが、国会の決議が「政治的」にのみ要請されるとするのは疑問で、法的にも必要ではないか、という気がしてきた。少なくとも、後者の説も成り立ちうると思われる。
 理由は次のとおり。大日本帝国憲法(明治憲法)の改正手続、ポツダム宣言、現実のGHQや日本政府、昭和天皇の言動等々が複雑に絡む現「憲法」の制定過程の問題の処理又は論点整理がまずは必要なのだろうが、それらは今回は省略する。
 第一に、かりに明治憲法の改正手続によって現憲法が制定されたのだとすれば(改正内容が改正限界論を超えるとの論、さらにそれが無効事由となる論があるのは承知だが、とりあえずは措く)、その手続は、天皇が「議案ヲ帝国議会ノ議ニ付」し、「両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席」して「議事ヲ開」き、「出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得」て「改正ノ議決ヲ為ス」ことによって行われた(明治憲法73条1項・2項)。
 明治憲法の制定は法的には明治天皇によってなされたが、その改正については同憲法は天皇の専権とはせず、「両議院」の議員の各々2/3以上の出席と2/3以上の賛成による議決を要求していた。議会議員の意思を重視していた、と言ってよい。上の要求を充たさないと、天皇が憲法改正を「裁可」することはできなかったのだ。
 このことに着目すると、「法的に言えば」首相他の国務大臣の副署に基づき天皇が無効確認すれば「十分」である(p.140)ということにはならないように思える。
 改正(制定)時点で議会が重要な関与をしていたのだから、無効確認手続の場合も議会にしかるべき関与の機会を与えるのが「法的」な筋道のように見える。
 第二に、明治憲法の改正手続をとったのは全くのマヤカシだったということになると、現憲法の有効性を説明するためには、<国民の自由意思…>という言葉のあるポツダム宣言を受諾したことにより、<革命>によって憲法改正権力が国民に発生したという所謂<八月革命説>を採用するしかないのだろう(たぶん)。
 この場合も、無効であっても「失効・無効の確認がなされるまでは…「日本国憲法」が、一応有効であるとの推定を受ける」(p.131)のだとすれば、国民主権下における国民代表議会、あるいは「国権の最高機関」とされている国会(現憲法41条)による無効確認決議がやはり「法的」に必要なのではないか。
 (尤も、後述のように、第一の場合の議会と第二の場合の議会は同じか、衆議院のみか参議院も含むのか、等の問題はある)。
 第三に、<八月革命説>を批判してこれを採用しなくとも、しかし、もう一度書けば、無効であっても「失効・無効の確認がなされるまでは…「日本国憲法」が、一応有効であるとの推定を受ける(p.131)のだとすれば、同じことになるのでないか。
 小山において、上の部分に続けて「有効であるとの推定を受ける以上、失効・無効確認があるまでは、「日本国憲法」は守らなければならないことは当然である」と明言されているのだ(p.131)。
 但し、「日本国憲法」無効論を前提とする無効確認決議についてまで、「一応有効であるとの推定を受け
」るものであっても、日本国憲法41条等が適用されるのかはどうかはなおもよく解らないところがある。
 次に、無効確認をすべき議会とは何を意味するかいう問題に移ると、現実には貴族院が存在しないことを前提とすると、上の第一の立場からすると衆議院のみを意味することになるかもしれない。上の第二、第三の立場だと、衆議院の他に参議院も含まれることになるだろう。
 だが、第一の場合も、基本的な趣旨は選挙で選出された議員で構成された議会の意思を尊重するということなので、同じく国民(有権者)の選挙で選出された議員により成る参議院も含めてよいようだ。
 つまり、貴族院を「参議院によって代替させる」(p.144)というのではなく、実質的には又は基本的には衆議院と類似の性格をもつ参議院を無視しない、という意味で、あるいは衆議院のみよりは参議院も加えた方が選挙民の意思をより反映するだろうという意味で、参議院も加えるわけだ。
 なお、「憲法としては」無効とされる日本国憲法が無効確認手続がなされるまでは「一応有効であるとの推定を受ける」という場合、それは「憲法」として「一応有効」
との趣旨なのか、別の性格の法規範として「一応有効」
なのかは、読解に問題があるのかもしれないが、よく分からない。次回あたりで扱ってみよう。
 -というようなことを書いたが、私にとっては極めて興味を惹く法的問題に関する「頭の体操」に近いところがある。そして、<そんなアクロバティックな説明や手続要求をしなくても、日本にとって相応しい内容の憲法を日本人の手で作りあげる、ということに傾注すればいいのではないか、その方が生産的・建設的で日本国家のためにもなるのではないか>という想いを禁じえない。
 以上のような想いは次のような「現実」にもよる。
 「日本国憲法」無効論に立つ政党又は政治団体もあるようだ。しかし、管見の限りでは、各種選挙に候補者を立てているのかもしれないが、国会議員はゼロの筈だ。
 つまり、自民党・国民新党から共産党まで、少なくとも現時点では、全ての国会議員が、日本国憲法有効論に立った上で改憲賛成・反対等の議論をしているものと考えられる。このことの原因・背景として、むろん(「憲法」を「生業」とする)憲法学者の圧倒的大勢の考え方の影響も挙げうるかもしれないが、やはり「無効」論そのものに問題があることも挙げておいてように思われる(この点は別の機会に触れよう)。
 両院に設置された憲法調査会の報告書も、きちんと読んでいないので正確には言えないが、「日本国憲法」無効論には言及すら殆どしていないのではなかろうか。
 むろん、これからの選挙において、「日本国憲法」無効論に立つ議員が増えていく可能性はないとは言えない。しかし、そのような考え方が過半数を制するとはとても想定できないだろう。
 ということは、いかに衆議院単独または衆議院+参議院による現憲法「無効確認」決議は可能であるとしても、実際にそのような決議がなされることはほぼ100%期待できないのではないか。
 それでも「日本国憲法」は無効で国会は「無効確認」決議をすべきだ、と主張し続けることは、勿論自由にできる…。

0164/朝日新聞社説子は「自由・民主・人権」の意味・関係をきちんと説明できるか。

 しばらく朝日新聞の社説を読む機会がなくWeb上で見ることも忘れていた。
 憲法改正手続法(国民投票法)衆議院通過後の朝日の4/17社説について、同日のブログで<「メディア規制の問題、公務員の政治的行為の制限、最低投票率の設定など、審議を深めてほしい点がある」という理由だけしか書けず、致命的な又は大きな欠点・問題点を堂々と指摘できないのでは、「廃案」→「仕切り直し」という主張のためには不十分だろう。>と書いた。
 まさかこの文の影響ではないだろうが、ネット情報等によるとその後朝日は<最低投票率制度を導入によ(それがないから反対)>という主張をしたようだ。国会審議前にこの具体的主張をせず、参議院に送付されてからこんな主張をし始めるとは、朝日新聞はやはり<たいした>言論機関だ。いよいよ成立しそうになってからの<反対のための反対の理由>を挙げただけではないのか。
 この最低投票率制度の問題にはもはや立ち入らない。
 保存するのを忘れたが、憲法改正手続法案が参議院の委員会で議決された後の朝日の社説(5/12(土)?)は興味深かった。翌週早々に参議院本会議でも議決されて成立する見込みとなって、まるで水の中(池でも河でもよい)に落とされた犬が必死で陸に這い上がって、投げ落とした者に対して<うらみ・つらみ>の泣き言を喚いているような文章の社説だったからだ。
 もっとも、5/15(火)の社説は「投票法成立―「さあ改憲」とはいかぬ」と題して、何とか元気を取り戻した様子だったが。
 さて、最近の朝日社説にいくつかコメントをしておく。
 一.上の5/15の社説の中に、自民党の新憲法草案九条の二に関する次のような文がある。
 「つまりは、現在の自衛隊ではなく、普通の軍隊を持つということだ。自民党は、今後つくる安全保障基本法で自衛軍の使い方をめぐる原則を定めるとしている。だが、たとえ基本法に抑制的な原則をうたったとしても、憲法9条とりわけ2項の歯止めがなくなれば、多数党の判断でどこまでも変えることが可能だ
 二点指摘できる。第一に、「現在の自衛隊ではなく、普通の軍隊を持つということ」という表現の仕方、とりわけ「普通の軍隊」
という言葉の使用は、自衛隊も<普通の軍隊ではないが軍隊だ>という意味を含むとも解釈することができ、興味深い。
 第二に、「基本法に抑制的な原則をうたったとしても、…多数党の判断でどこまでも変えることが可能だ。」という部分は、別の機会にも指摘したかもしれないが、「民主主義」の価値を大いに謳っている新聞社にしては、国民の代表を通じての議会制民主主義の意味を理解できていないかの如くだ。つまり、「
多数党」
ということは、国民の多数が支持している政党を意味する筈であり、その政党の判断が国会の意思となり、何らかの事項を「変えて」いくことに一体何の問題があるのか。
 自社に気に入らない決定をする国会の場合には<多数党の横暴>といい、自社の主張に即した決定をする国会の場合には<議会制民主主義を守れ。少数党は自制せよ>という主張をしそうな、つまり所謂<ご都合主義>に毒された新聞が朝日新聞ではないのか。
 二.5/17社説「党首討論―もっと憲法を論じよう」にも面白い部分がある。
 同社説は「時間が少なかったし、そう問われなかったということもあっただろう。だが、この60年、憲法の下で民主主義人権平和主義を培ってきた国民の「成果」に対する肯定的な評価は、安倍氏からはまったく聞かれなかった」と安倍首相を批判している。
 ここでも二点指摘したい。第一に、この文の前で、<首相は戦後日本を次のように批判する。/「経済は成長したが、価値の基準を損得だけにおいてきた」「損得を超える価値、例えば家族の価値、地域を大切にし、国を愛する気持ち、公共の精神、道徳を子供たちに教える必要がある」>と安倍首相の発言を紹介している。
 「問われなかったということもあっただろう」
が、朝日社説は、上の安倍首相発言の内容に賛成とも反対とも、自らの見解を全く述べていないのだ。安倍首相が語らなかった部分に文句をつける前に、明確に語った部分について何らかの評価を明示したらどうか。批判したいけれども批判し難い、というのが本音なのだろうか。あるいは、さらにそのずっと前の辺りにある「復古主義」という言葉で批判しているつもりなのだろうか。
 朝日は安倍首相等を不明瞭・曖昧等と批判することがあるが、自社の社説はすべて明瞭で曖昧さはないと言い切れるのか、少しは反省してみるがよい。
 第二は、より大きな問題だ。朝日は5/20社説でも、古屋圭司氏を会長とする所謂「価値観議連」に参加した議員たちの発言をとり上げて、「右派の熱心なテーマばかりだ。これがめざす「真の保守主義」なのだというが、「自由・民主・人権」というより、復古的な価値観に近いのではないか」と疑問視又は批判している。
 ここでも朝日社説は守るべき価値として「民主主義・人権(保障)」等を考えているようだ。この二つの他に5/17では「平和主義」を、5/20では「自由」を挙げている。
 私の現在の強い問題関心は、「自由」・「民主」・「人権」等は現在においていかなる理念的意義を持ち得るのか、またそれぞれがどのような関係に立つのか、にある。
 とくに1990年代以降、これらの意義が少なくともある程度は疑問視され再検討される必要が出てきた、というのが私の時代認識だ。
 卑近すぎるかもしれないが、「人権」と「平等」のある意味での<いかがわしさ>は、地方自治体の行政の<腐臭>の源の発覚によって、露わになってしまったのではなかろうか。
 かかる問題意識は、私一人のものではないと思われる。
 つい先日紹介したように、ジュリスト誌上で、棟居快行・大阪大学教授は、「どうも近代立憲主義の憲法学の武器庫はかなり空になりつつある。あるいは残りをこの10年で使い切ってしまっている可能性もある」と述べていた。
 「近代立憲主義の憲法学の武器庫」には、<民主主義>も<自由>も<人権>も当然に含まれる筈だ。
 また、リベラリズム/デモクラシーを途中まで読んだ後に入手した阪本昌成・「近代」立憲主義を読み直す-<フランス革命の神話>(成文堂、2000)はその「はしがき」の中で、憲法学は<裸の王様>だと”市民”は「肌で感じ取ってきている」のではないか」とし、その理由を阪本は「暫定的に」次のように述べている。
 「憲法学は、「自由」、「民主」、「平等」、「人間性」、「自然法」、こうしたキー・ワードにさほどの明確な輪郭をもたせないまま、望ましいことをすべて語ろうとして、これらのタームを乱発してきたのではなかろうか」。
 こんなことを憲法学者の少なくとも一部は明言しているのだが、朝日新聞の社説子は、「
民主主義人権平和主義」を、あるいは自由・民主・人権」をいかなる意味で、それぞれがいかなる関係をもつ概念として用いているのかを、きちんと明瞭に説明できるのか。朝日の社説子もまた、明確な輪郭をもたせないまま、望ましいことをすべて語ろうとして、これらのタームを乱発して」はいないか?
 日本の<戦後民主主義>が当然視してきたようなことが当然ではなくなっているのが、現在だ。ソ連型「社会主義」崩壊、経済のグローバル化、「情報社会」化、中国・北朝鮮の新たな動向等々は、上に挙げたような基礎概念の意味を絶えず問うているのだ。
 朝日の社説子にはそれだけの時代認識もなさそうに見える。<フランス革命の神話>という言葉の含意を理解できる論説執筆者がどれほどいるのか。「民主主義、人権、平和主義」を、あるいは自由・民主・人権
」を<お経>の如く唱えているだけではないのか
 まだ、最近の朝日の社説についてコメントしたい点はあるが、今回はここで終わっておこう。

0148/産経5/15・志方俊之「護憲派の不思議な論理を笑う」。

 産経5/15の志方俊之「正論/護憲派の不思議な論理を笑う」は、ほとんど異論なく読める。
 「護憲派」の奇妙な意識につき、例えば、こう指摘している。
 1.「護憲派の多くは日米防衛協力に反対で、米国離れの自主的な日本をと主張しているのだが、自主憲法を唱えることだけは御法度だというのだから笑止千万」だ。
 2.「護憲派の多くは、自主を標榜しながら、米国の核の傘を万全と信ずる不思議な思考の持ち主」だ。
 3.「護憲派の多くは核の問題となると核廃絶を唱えて現実から逃避するのが常である」。
 要するに、「護憲派の多く」は自分たちを含む日本国民の「安全」と東アジアの「平和」が、米国の<核の傘>付きの日米同盟によって辛うじて守られているという現実を知らないか、知ろうとしていないのだ。
 そして、志方の言うとおり、「米国の核の傘を否定するならば、残る選択肢は(1)核には目を瞑(つむ)って国民を無防備の危険に曝(さら)しておく(2)中国かロシアの核の傘に入る(3)独自の核を持つ-の3つで、いずれも非現実的だ」、ということになるものと思われる。
 志方はこれまでの自民党も批判しており、正当だ。
 「与党だった自民党も怠慢に過ぎた。自民党は改憲の遅れを説明するのに、まず「時機が熟さない」といい、次に「解釈で実は得ている」といい、党を挙げて憲法改正の機を熟させる努力をしてこなかった」。「自民党は憲法には交戦権を有しないとしてあるから「自衛隊は軍隊ではない」と言ってきた」。
 そして、つぎの言葉は、憲法(九条二項)改正の必要性をずばり衝くものだ。-「国民の目にも近隣諸国民の目にも、誰が見ても自衛隊は軍隊そのものではないのか。軍隊が軍隊であることが悪いのではない。悪いのは軍隊を軍隊ではないと言いくるめることであって、国際社会はそんな変な国を国連安保理の常任理事国に推すとは到底思えない」。
 志方は米国を無条件に信頼することの不可、日本の自主的な防衛努力の必要性も指摘している。
 「日米同盟は「かけがえがない」といっても、米国が自国の国益を最優先に考えて幾つかの戦略的・戦術的な対応を取ることは、当然で何の不思議もない。/
わが国が米国の国益を守るために諸肌を脱がないのと同じだ。国益がほぼ合致したときにのみ同盟は力を発揮するのであって、それが同盟の限界であり国際政治の現実だ」。
 「わが国は…自らは何ら核に対する備えを行ってこなかった。非核三原則を堅持し、敵地攻撃能力の整備も進めず、最近ようやくミサイル防衛の配備と集団的自衛権行使の再検討に着手したに過ぎない。
核の傘があっても、直ちに核によって反撃されることの実効性が不確かな場合もあり、信頼度を高めるため多方面での努力を惜しむべきではない。非核三原則を二原則にするとともに、早急に弾道ミサイル早期警戒能力や敵地攻撃能力の整備は急ぐべきだ」。
 分解しての紹介だけになったが、「まっとう」な主張だと思う。


0146/日本国憲法-「八月革命」説による<新制定>か「改正無限界」説による<改正>か。

 明治憲法(大日本帝国憲法)の憲法改正条項は同憲法73条で、つぎのとおりだった(カタカナをひらがなに直した)。
 「第73条 1項 将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし

 2項 此の場合に於て両議院は各々其の総員三分の二以上出席するに非されは議事を開くことを得す出席議員三分の二以上の多数を得るに非されは改正の議決を為すことを得す
 現憲法96条が各議院の<3分の2以上>の賛成を「発議」要件としているのも、この旧憲法を踏襲したかに見える。
 それはともかく、この条項にもとづく明治憲法の改正という形で日本国憲法が成立したことは周知のとおりだ。
 日本国憲法の施行文はこう言う。-「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる
 このあとに、御名御璽、計15人の内閣総理大臣・国務大臣の連署、前文、第一章第一条…と続く。
 憲法学の専門家には当たり前のことを書いているだろうが、天皇が定めた「天皇主権」の欽定憲法である明治憲法の「改正」の形で「国民主権」の日本国憲法を制定できるのか、という、<憲法改正権の限界>という問題があった。
 形式的・手続的には明治憲法の改正であっても<憲法改正権の限界>を超えるもので、新憲法の制定に他ならず、ポツダム宣言の受諾によって「国民主権」への革命があったのだとするのが<八月革命説>で、宮沢俊義・東京大学法学部教授が1946年になってから唱えたこの説がどうやら主流の説らしい。
 だが、GHQができるだけ日本人の意思によって憲法が制定(改正)されたかの印象を作りたかったからかどうか、少なくとも表面的には、天皇の発議により両議院(衆議院と貴族院)が審議し、議決し、天皇が裁可し、公布せしめたのが日本国憲法だ。
 枢密顧問への諮詢を経て帝国議会に憲法「改正」案(じつはGHQ作成の原案に若干の修正を加えたもの)を附議した際の天皇の言葉は、「朕…国民の自由に表明した意思による憲法の全面改正を意図し…」だった。
 上の段落は、阪本昌成が憲法の制定過程やその「有効性」をどう叙述しているかに関心を持って見た、阪本昌成・憲法Ⅰ(国制クラシック)p.108(有信堂、2000)による。
 阪本は自説を展開することはなく、「学界では、主権在民をうたう新憲法(民定憲法)護持の立場が圧倒的で、改正無限界説からの分析は精緻になされることはなかった」とのみ記述している。改正無限界説に多少の<未練>はあるかの如き印象をうける。
 実際になされた天皇の発言、天皇に始まる手続、天皇による裁可と公布を見ると、<八月革命説>は相当にフィクションであり、<改正無限界説>に立って、明治憲法の「改正」により現憲法が生まれた(天皇自身も無限界説的な理解をしていた)、と説明する方が私にはわかりやすい。
 天皇主権と国民主権、欽定憲法と民定憲法とはそれぞれ正反対のようでもあるが、欽定憲法と言っても明治天皇が大日本憲法の具体的条文を策定されたわけでは全くないし、天皇主権といっても天皇の実際上の権限・地位が相当に限定された、殆ど「象徴」的なものだったことはよく知られている筈で、少なくとも天皇の地位については現憲法との<連続性>の方がむしろ強調されてもよい、と思われる。「革命」が起こった、と理解したのは一時期の(一部の者の)<熱狂>と<昂奮>の結果で、説明の仕方としては合理的ではないのではないか。
 天皇が自ら(および子孫の誰か)を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とすることに異存がなかったとすれば、<改正の限界>を超えていた、と理解する必要はなかったのではなかろうか。
 ここでこんなことを書いても無意味かもしれない。但し、現憲法の制定に昭和天皇の「意思」が深く関係していると思われることは確認しておきたい(占領下だったのであり、100%の「自由」な意思に基づくものだったとは一言も言っていない。念のため)。
 当初の関心の対象だった現憲法の「有効」性については、阪本昌成はいっさいこれを疑っていないようだ。憲法学の中の少数派と見られる阪本の教科書において、<日本国憲法無効論>は本文中のカッコの中で「無効だ、と主張する少数説もないではない」と言及されているにとどまる。これでもひょっとして<親切>な方かもしれない。

0137/自民党新憲法草案は同党の「最終」案である筈がない。

 安倍晋三首相はカイロでの記者会見で、自民党の新憲法草案について、二次案を作る考えはあるか等の記者(所属は不知)の質問に答えて、<我々はもうすでに案を持っており、それを示すのであり、二次案などは考えていない>との返答をした。生で見ていた際の私の記憶による。正確には、「自民党の新憲法草案を基本に与党、全党で国民的な議論をしていきたい。第2次案の作成はまったく考えていない」と述べたようだ。
 そのときも感じたのは、参院選に向けてはたしかに現在の案しかなくそれを自民党案として示し「国民的な議論」の対象にしてもらうしかないが、最終的な発議や国民投票は早くても4-5年先なので、それまでに<より良い>第二次案、第三次案を考えていけばいいのではないか、現在のものを最終案の如く理解する(その旨自民党総裁たる安倍首相が言明する)必要はないのではないか、ということだった。
 たしかに現在の草案でも党内で相当の複雑な過程を経たもので、それなりの重みが十分にあるのだろう。だが、別の国会議員グループ(民主党議員を含む)はより<保守色>な前文を含む改正要綱を作って5/03に発表した。個人的には、私にだって述べておきたい意見がある。また、2/3以上の賛成を得るためには、この改正要綱とは異なる方向で、または別の点で、現在よりも<譲歩>する政治的判断が必要となることも考えられよう。
 可能ならば、民間憲法臨調の5/03の会合で櫻井よしこや遠藤浩一拓大教授らが話題にしたようだが、「改正の名に値する改正が肝心だ」し、安倍自民党の「保守らしさ」のある改正がむろん望ましい。しかし、国会各院の2/3以上の議員の賛成を獲得できないことには改正発議もできないのだ。
 まだ政治情勢や、各院の議席配分がどうなるかは明瞭ではない。表向きの言い方はともかくとしても、現在の自民党草案がさらに<改正>されるべきなのは当たり前のことと思えるのだが。

0132/日本語条文の日本人大学教員による読み方の(政治的)「悪例」。

 第8章 地方自治
 第91条の2(地方自治の本旨)
 ① 地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施することを旨として行う。
 ② 住民は、その属する地方自治体の役務の提供をひとしく受ける権利を有し、その負担を公正に分任する義務を負う。
 第91条の3(地方自治体の種類等)
 ① 地方自治体は、基礎地方自治体及びこれを包括し、補完する広域地方自治体とする。
 ② 地方自治体の組織及び運営に関する基本的事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律で定める。
 第92条(国及び地方自治体の相互の協力)
 国及び地方自治体は、地方自治の本旨に基づき、適切な役割分担を踏まえて、相互に協力しなければならない。
 第93条(地方自治体の機関及び直接選挙)
 ① 地方自治体には、法律の定めるところにより、条例その他重要事項を議決する機関として、議会を設置する。
 ② 地方自治体の長、議会の議員及び法律の定めるその他の公務員は、当該地方自治体の住民が、直接選挙する。
 第94条(地方自治体の権能)
 地方自治体は、その事務を処理する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
 第94条の2(地方自治体の財務及び国の財政措置)
 ① 地方自治体の経費は、その分担する役割及び責任に応じ、条例の定めるところにより課する地方税のほか、当該地方自治体が自主的に使途を定めることができる財産をもってその財源に充てることを基本とする。
 ② 国は、地方自治の本旨及び前項の趣旨に基づき、地方自治体の行うべき役務の提供が確保されるよう、法律の定めるところにより、必要な財政上の措置を講ずる。
 ③ 第83条第2項の規定は、地方自治について準用する。

 長く引用したが、これは自民党新憲法草案の<地方自治>に関する章(第八章は現行と同じ、95条は削除。枝番号付きの条項は新設)だ。これらに関するコメント・感想を述べたいのではない。
 この案を見て、市販の本の中で次のように語
っている大学教員がいるのだ。
 「草案の『地方自治』に関する条文から読み取れるのは『教育の財政責任はすべて地方自治体にある』ということ。…地域による教育格差が広がることは否めません」。
 上の草案条項のどこから、かかることが「読み取れる」のだろうか。「教育」経費につき第94条の2①(第一項)のみを見て、②(第二項)「国は、…法律の定めるところにより、必要な財政上の措置を講ずる」等の他の条項は全く見ていないことは明らかだ。
 悪意を持って見れば、ふつうの?花も毒と棘を持っているように「歪んで」見えてしまう好例だ。日本語文の悪しき(全体を見ない)読み方の典型なので、学校の国語の時間や文章読解の時間に(あるいは大学・教育学部の「国語」に関する科目の時間に)「悪い実例」として利用すればいいのではないだろうか。
 上のように「読み取れる」としたのは、前回言及の、新潟大学・世取山洋介別冊宝島1421の日本国憲法特集p.106にちゃんと載っている。
 ついでにこの本(ムック)のさらに若干のものを見てみたのだが、後藤武士「日本一人権を制限されている人」(p.100-)は、天皇陛下にはほとんどの人権が認められていないことを気の毒がっており、じつは天皇制度を無くしたらどうかと示唆していると「読める」<気味の悪い>一文。憲法学者のようである日笠完治による「Q&A入門・日本国憲法」は、10年前でもありそうな、護憲派による陳腐な憲法の説明だった。

0131/別冊宝島・日本国憲法特集号の「奇怪」と新潟大学准教授・世取山洋介の「愚劣」。

 一昨日、軽い読み物のつもりで、大和撫吉・日狂組の教室(晋遊舎、2007)と別冊宝島1421・施行60年!ビジュアル日本国憲法(宝島社、2007.05)を買い、前者は夕食までのあっという間に半分程読んでしまった。
 後者が問題で、元イラク先遣隊長・佐藤正久のインタビュー記事があったりするのだが(未読)、全体として何が主張したいのか、どのような観点から日本国憲法の今日的問題点を整理しているのか、さっばり分からない。
 例えば、兵頭二十八・文となっている「シミュレーション小説・日本が攻められる時/沖縄にある日、C国軍が」は、首相が現憲法は無効と声明しさえすれば、自然法に基づく自衛権により「正規の武力」によってC国軍に対抗できるのに、「誰にも理性と度胸がない」から、沖縄の一小島をC国軍が「実力占拠」するのを「指をくわえて見ているしかない」、と最後の方に書いている(p.98)。
 何と、日本国憲法「無効」論に依って書かれているのだ(兵頭二十八の名は知っていたが、現憲法「無効」論者とは知らなかった)。しかも、実際の防衛が現在の法制と自衛隊によってもこうではないだろうと考えられるデマを紛れこませている(本当に軍事専門の人が書いたのかとの疑いがある)。
 と思ったら、木附千晶「教育基本法改正の真の姿」は、日本で教育基本法が改正された頃の、日本が「取り組もう」としているのと「そっくり」の米国の教育改革はジョージ・オーウェルの小説「一九八四年」の世界そっくりでないか、から始まる。そして、日本の教育基本法改正と将来の憲法改正に明瞭に反対の論調で終わっている。
 だが、この一文はとてもまともな「論文」などではなく、上に紹介した冒頭も含めて、ガサツな思考と論理で喚(わめ)いているだけだ。
 その中で新潟大学の「教育法」専攻者としての「世取山洋介助教授」(4月より助→准)のコメントがけっこう長々と紹介されているが、私は大いに笑って(同時に「嗤って」)しまった。
 彼は、例えばいう。現憲法13条の「公共の福祉」を削り「公益及び公の秩序」に代える自民党憲法草案のように改正されれば、「何が「公益」で何が「公の秩序」を決めるのは国会(国)です。つまり、国会の裁量で個人の自由を伸縮できるのです。これでは明治憲法に逆戻りです」(p.105-6)。
 馬鹿ではないか。現憲法のもとでも何が「公共の福祉」であるかは国会が裁量的に判断しており、その「立法裁量」の合憲性は最終的には最高裁が決定する。「公益及び公の秩序」に変わっても同じことだ。それに、憲法の範囲内で国民代表たる国会が制定する法律が「個人の自由を伸縮」しているのは、これまでも今後も、行われてきたし、行われるだろうことなのだ(規制の強化・緩和によって自由も縮小・拡張する)。
 本当にこんな人がいるのかと思って新潟大学のHPを調べて見たら、たしかに、「世取山洋介」という准教授がいた。しかし、法学部ではなく教育人間科学部。出身大学院は教育学研究科で、要するに「法」には素人なのだ。助言しておくが、「教育法」などという専攻を雑誌に記載させない方がよい。また、このような人に話を聞いた木附千晶の立場も自ずから分かる。
 それにしても、この「世取山」某という人は東京大学大学院教育学研究科で学んだようなのだが、この人と執筆者の木附某の教育観・国家観のヒドさは何だろう。教育学もまた、マルクス主義・共産主義・反権力(国家)幻想に相当に冒された学問分野で、そうした傾向を支持する教育関係運動もあるのだろう(木附某氏は教育関係団体関係者のようだ)。
 木附某によると、今の政府が進める「新自由主義的教育改革をひと言で表現するなら「教育の国家統制」である」らしい(p.106)。また、小泉政権下の2005年の「規制改革・民間開放推進3か年計画」によって「日本の教育は、憲法原理と完全に訣別した」、その後「準憲法」としての教育基本法まで「改正」されたのだ、という(p.108)。
 木附某に尋ねてみたいものだ。今の教育のままで放っておいて貴氏のいう「人間性と個人の尊厳のある「自由な国」」(p.109)は生まれるのか、上記の大和撫吉・日狂組の教室が描くような問題は貴氏には一切見えないのか、「教育の国家統制」はなく
「教育の組合(日教組・全教)統制」なら満足なのか、と。
 というようなわけで、日本国憲法「無効」論者と<極左的>国家観・教育観の持ち主の書いたものが同居している、訳の分からない出版物が別冊宝島1421だ、と思われる(全部を読んでいないが、読む気を失った)。
 憲法問題なら売れると思って、適当に編集したとしか思えない。あるいは全体として「左」の印象だが、議論の質は低い。「創刊人・蓮見清一、共同発行人 富永虔一郎、藤澤英一」とは別冊宝島全体についてなのだろうか。とすると、この本(ムック)については「編集・小林大作」、「制作責任者・伊藤俊之」だ。
 「世取山洋介」とともに、この辺りの人は自らを「恥ずかしく」思った方がよい、と思う。

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