8月15日には政府主催(厚生労働省所管)で「全国戦没者追悼式」が行なわれる。舞台の中央には、例年、「全国戦没者之霊」と縦に黒書した木製の標柱が立っている。
「慰霊式」・「慰霊祭」、「〜の霊」というのは、馴染みのある、「ふつうの」表現あるいは言葉だ。
当然ながら、「死没者」・「戦没者」には、「霊」がある、ということを前提としている。政府も、広島市等も、そういう<考え>に(「建前」のみでかどうかはさらに言及する必要があるが)立っていることは間違いないだろう。
追加すると、6月23日を「慰霊の日」と定めている沖縄県ではその日に県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が行なわれている。舞台中央には「沖縄全戦没者之霊」と書かれた標柱が立っている。
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広島市の原爆死没者「慰霊碑」(設置・管理主体は広島市)には、よく知られるように、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれている。
問題にされることがあるのは後段の第二文だが、では前段・第一文はどういう意味だろうか。
死没者には、「安らかに眠る」ことができる者とそうでない者がいるだろう、前者になって下さい、という意味だ、とも読める。
だが、そもそも、死者が<安らかに眠る>とは、何のことか。
死者が「安らかに眠る」とは、どういう行為または状態を指しているのだろう。
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原爆死没者や戦没者を例に挙げると、彼らは貴重なまたは特別の死者だから「霊」をもつ、と答えられるのかもしれない。
戦争に出征して死んだ軍人については、とくに「英霊」と称されることもある(靖国神社・護国神社の「祭神」には立ち入らない)。
だが、日本では、一定の、特別の「死者」についてのみ、「霊」の存在が語られているのではない。
「お盆」には「先祖の霊」が帰ってくる、と言われてきた。帰ってきているからだろうか、この時期に「墓参り」する人々もいる。なお、京都の「五山の送り火」は帰ってきた「霊」を再び「送る」行事らしい。
一般的にもそうだが、何らかの事故や事件の犠牲となった人々について「慰霊(式)」がなされることも多い。御巣鷹の尾根への「慰霊登山」というのもある。国や地方公共団体だけが「慰霊(式)」を行なっているのではない。
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二 8月6日の式典での石破茂首相の挨拶の中に、つぎの言葉があった。
「直前まで元気に暮らしておられた方が4,000度の熱線により一瞬にして影となった石」。
原子爆弾の爆心地のような場所では高温の熱線によって人間の肉体は「一瞬にして」消え去る=蒸発する、というのは、「4,000度」程度ではあり得ない、とするのが科学的な知見であるらしい。この温度の程度では骨や焼け滓まで全て消失はしないようだ。
では、発生し得るとして「20,000」度の温度の熱を浴びると、どうなるのだろう。
また、「影」だけ(銀行支店の玄関石段に)残した人は、おそらくほぼ<即死>だったのだろう。
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回り道をしたが、死者の「骨」または「遺骨」というものは、なかなか(物理的に)消滅することがないようだ。
日本の現在に通常の火葬では、「遺骨」が残る。(「遺骨」が「きれいに」残るように温度調整がなされるようだが、)斎場・火葬場での火葬の温度は、おおよそは1,500度程度であるらしい。
世界的には<土葬>の地域が広いようだが、遺体をそのまま土中に埋葬したとしても、いずれは腐食して死んだときの姿をとどめることはない。それでもしかし、「遺骨」だけは長く残るようだ。
もっとも、奈良県明日香村の石舞台古墳には「人骨」はなく、高松塚古墳には石棺や四周の壁の絵の一部はあっても、「人骨」は残っていなかった。
したがって、長期的にみると、種々の(物理・化学的な)原因があるのだろうが、「骨」もまた消失するのかもしれない(佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも「墓」にあたる区画はあっても「人骨」は出ていないはずだ)。
だが、世界のかなり広い地域で、「墓」、「墓地」や「墓園」というのが築かれてきたということは、「骨」=「遺骨」だけは相当に長期にわたって残存する、という知識を、ヒト・人間は古い時代から蓄積してきたからだ、と思われる。
もちろん、「墓」が築かれない、死体・遺体の放棄=投げ捨てによる<風葬>あるいは<鳥葬>というのもあった(ある)。その場合でも、「骨」=「遺骨」だけは長く残る、という知識を、ヒト・人間はずっと昔から得てきただろう。
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「遺骨」があってこそ、ある特定の人間の死を確認することができ、「追悼」、さらには「慰霊」の対象にすることができる。もちろん、種々の例外や補足の余地はあるのだが、こうした<思い>は相当程度に強い、または強くあり続けてきた、と言えるだろう。
「墓」・「墓地」の中心的要素は(<樹木葬>や「納骨堂」であっても)、「遺骨」だ。
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少なくとも日本では多くの場合、「死者」であることを象徴するのは「墓」であり、その中に納められている「遺骨」だ(だった)、ときわめて大まかには言えると思われる。
では、「遺骨」のある「墓」に、死者の「霊」は存在しているのか。ときには高い場所から、子孫たちが住む故郷を「見守って」いるのか。あるいは、時期、季節ごとに、死者の「霊」はもともとの肉体の一部がある「墓」のあたりに<帰ってくる>のか。
あるいは、「墓」の場所に関係なく、死者の「霊」は、宇宙のどこかに(天国に?、極楽浄土に?)存在しているのか。
「霊」の存在を前提にしてこそ「慰霊」を語り得るだろうことは、最初の方で述べた。
死者に「霊」が本当にあるのか。<近代的理性>をもつ人々は、あるいは我々日本人は、この問題にどのように回答し、どのように決着をつけてきたのだろうか。
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