秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

歴史

2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。

 岡山県真庭市・木山寺—2023年6月
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 神仏混淆(・習合)や神仏分離について学校や家庭でとくに教えられないままで育った。歴史教科書の明治維新の項に書いてあったかもしれないが、記憶していなかった。
 だから、この15年ほどの間に神社仏閣、とくに寺院を訪れて、驚き、また興味深く感じることもあった。
 談山神社(奈良県桜井市)を訪れて、拝礼のときに、ここは寺だったか神社だったか一瞬迷ったことがあったことは、だいぶ前にこの欄に書いた。小ぶりの十三重塔の存在は原因の一つだった。豊川稲荷(愛知県)は今は寺院だと訪問時に知って驚いた。そのうちに、今は寺院だが、境内や本堂のすぐ前に「鳥居」があるのにも慣れてきた。「聖天」と付く寺院はそうだろう。宝山寺(奈良県生駒市)、世義寺(伊勢市)など。
 今年になって、神社本庁が「本宗」としている神宮(伊勢神宮)にもかつては一体だった寺院があった、五十鈴川を挟んだ丘陵の中腹にかつてはあって今は破壊されたままだ、と書いてある文献を読んで、驚いた。伊勢神宮にすら、江戸時代には、ペアとなる仏教寺院があったのだ。
 今年2023年の6月に特段の大きな期待なく木山寺(岡山県真庭市、高野山真言宗)を訪れてみて、神仏が物理的にも一体になっている、正確には仏教的本堂のすぐ後ろに神道的建物(「鎮守社」)がくっついて存在しているのをこの目で見て、驚くというよりも、感心した。神仏混淆そのままだ、と。
 下の写真のように、仏教上の本尊は薬師如来と観音菩薩、「鎮守社」の祭神は「木山牛頭天王」と「善覚稲荷明神」。本堂・鎮守社の建物の他に、境内には四つの「稲荷大明神」を祀る「末社」の祠等々もあった。
 この寺院はもともと現在もある木山神社と一体だったようで、山の上の方の木山寺に対して、下の方に今の木山神社の本殿等がある。
 しかし、かつては神社の本殿(正殿)だったらしい現在の「奥宮」は、一つだけ道を隔てて、木山寺のすぐ近くにある(下の写真の8枚めが「奥宮」)。
 木山神社の現在の本殿の祭神は「須佐之男命」で、その隣の別の大きい木造建物は「善覚稲荷神社」とされている。両者のあいだに「天満宮」(菅原道真が祭神)もある。牛の石像が前にある。
 「牛頭天王」とは現在の京都・八坂神社の祭神と同じで、元々は中国・朝鮮半島由来の「神」だったところ、諸説があるようだが、日本的に「素戔嗚」に転じることがあるらしい。そして、アマテラス系の神を祭る神社(全国の数の上では少ない)とは別のグループの神社群を形成している。スサノオ(>牛頭天王)系を祭神とする神社に限っている、八坂神社を含む<朱印帳>がある(正確には、かつて八坂神社の朱印が捺されたその朱印帳を所持していた)。
 京都・八坂神社(祇園社)の境内には、かつて薬師如来を本尊とした仏教建築物もあるはずだ(確認しない)。
 牛頭天王・蘇民将来命は「疫病」から人々を守ってくれる神だったはずなのに、昨年までコロナ禍の数年間、「祭り」である「祇園祭り」自体が挙行されなかったのだから、その「ご利益」は本当は信じられていないのではなかろうか。最も健康のための仏神であるはずの(左掌に薬壺を乗せる)薬師如来を本尊とする京都の著名寺院も、数年間は「拝観」停止にしていたのだから、似たようなことが言えるだろう。
 肝心のときに祭りが行われず、拝礼も遠慮させるとは、いったい何のための宗教なのか、と問題にしたくもなる。本格的に立ち入るつもりは全くない。比叡山延暦寺と北野天満宮の僧侶・神職者は、同日・同場所で<ご霊会>を開催したり(2020年9月4日、500年以上ぶり)、関西薬師霊場(49+α)構成寺院は同日に一斉に<祈願法要>をした(2020年5月2日)、といったことはあったのだけれども。逸れてしまったので、元に戻ろう。
 木山寺の「鎮守社」の造形は見事だ(と素人には感じさせる)。かつて見た、高千穂神社(宮崎県)の本殿を思い出した。それが寺院の本堂に接続して後ろにひっそりと?存在しているわけだ。これほど明確に、神仏混淆の名残りを感じさせられたことは、これまで他にない。
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2641/マックス·ウェーバー・音楽社会学(1911-12)。

  マックス·ウェーバー・音楽社会学=安藤英治·池宮英才·門倉一朗解題(創文社、1967)は、創文社刊のM・ウェーバー<経済と社会>シリーズの、第9章のあとの「付論」で、独立した一巻を占める。
 <音楽社会学>というのはいわば簡称で、正式には「音楽の合理的社会学的基礎」と題するらしい(独語)。また、未完の著作だったとされる。
 上掲著は計約400頁で成るが、二つの解説論考(「マックス·ウェーバーと音楽」・「音楽理論の基礎について」)、訳者後記、第二刷あとがき、音楽用語集、人名索引・事項索引等が「解題」者によって付されているので、それらを除くと、本文は約240頁になる。
 しかもまた、本文中の「各章末」の「訳註」は訳者たちによるので、それらを除くと、きちんと計算したのではないが、M・ウェーバー自身の文章は、約240頁のうちの100頁以下だと思われる。
 この<音楽社会学>(「音楽の合理的社会学的基礎」)が執筆された時期は明確でない。安藤英治1911-12年に「草稿として書き上げられ」ていた、とする(p.244)。ウェーバーの死の翌年の1921年7月付の「緒言」が別の学者(Theodor Kreuer)によって書かれており、これも上掲書に訳出されている。
 20世紀前半のドイツの「社会科学者」、少なく見積もっても「社会学者」による「音楽理論」に関する文章は、それだけで興味をそそる。また、一読だけしても、きわめて興味深い。
 以下、冒頭の一部だけ、上掲書からそのまま引用する。訳者によって挿入されたと見られる語句の引用・紹介はしない。
 原訳書と異なり、一文ごとに改行する。「過分数」という語もあるように、分数表記の仕方は前後ないし上下が逆だと思われるが、そのまま引用する。下線は引用者。 
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 〔=第一章冒頭—秋月〕
 和声的に合理化された音楽は、すべてオクターヴ(振動数比1:2)を出発点ととしながら、このオクターヴを5度(2:3)と4度(3:4)という二つの音程に分割する。
 つまり、n/(n+1)という式で表される二つの分数—いわゆる過分数—によって分割するわけで、この過分数はまた、5度より小さい西欧のすべての音程の基礎でもある。
 ところが、いま或る開始音から出発して、まず最初はオクターヴで、次に5度、4度、あるいは過分数によって規定された他の何らかの関係で「圏」状に上行または下行すると、この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない
 例えば、(2/3)12乗にあたる第十二番目の純正5度は、(1/2)7乗にあたる第七番目の8度よりもピュタゴラス・コンマの差だけ大きいのである。
 このいかんとも成し難い事態と、さらには、オクターヴを過分数によって分ければそこに生じる二つの音程は必ず大きさの違うものになるという事情が、あらゆる音楽合理化の根本を成す事実である。
 この基本的事実から見るとき近代の音楽がいかなる姿を呈しているか、われわれはまず最初にそれを思い起こしてみよう。
 ****〔一行あけ—秋月〕
 西欧の和音和声的音楽が音素材を合理化する方法は、オクターヴを5度と4度に、次に4度はいちおうどけておいて、5度を長3度と短3度に((4/5)×(5/6)=2/3)、長3度を大全音と小全音に((8/9)×(9/10)=4/5)、短3度を大全音と大半音に((8/9)×(15/16)=5/6)、小全音を大半音と小全音に((15/16)×(24/25)=9/10)、算術的ないし和声的に分割することである。
 以上の音程は、いずれも、2、3、5という数を基にした分数によって構成されている
 和音和声法は、まず「主音」と呼ばれる或る音から出発し、次に、主音自身の上と、その上方5度音および下方5度音の上に、それぞれ二種類の3度で算術的に分割された5度を、すなわち標準的な「三和音」を構成する。
 そして次に、三和音を構成する諸音(ないしそれらの8度音)を一オクターヴ内に配列すれば、当該の主音を出発点とする「自然的」全音階の全素材を、残らず手に入れることになる。
 しかも、長3度が上に置かれるか下に置かれるかによって、それぞれ「長」音列か「短」音列のいずれが得られる。
 オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在し、いずれの場合にも、二番目の全音が小全音で、それ以外はすべて大全音である。
 ----〔改行—秋月〕
 音階の各音を出発点としてその上下に3度と5度を形成し、それによってオクターヴの内部に次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの「半音階的」音程が生ずる
 それらは、上下の全音階音からそれぞれ小半音だけ隔たり、二つの半音階音相互のあいだは、それぞれ「エンハーモニー的」剰余音程(「ディエシス」)によって分け隔てられている。
 全音には二種類あるので、二つの半音階音のあいだには、大きさの異なる二種類の剰余音程が生ずる。
 しかも、全音階的半音と小半音の差は、さらに別の音程になるのであるから、ディエシスは、いずれも2、3、5という数から構成されているとはいえ、三通りのきわめて複雑な数値になる。
 2、3、5という数から成る過分数によって和声的に分割する可能性が、一方では、7の助けを借りてはじめて過分数に分割できる4度において、また他方では大全音と二種類の半音において、その限界に達するわけである。
 ----〔改行、この段落終わり—秋月〕
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 以下、省略。
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  若干のコメント。 
  M・ウェーバーと音楽・芸術一般の問題には立ち入らない。 
 M・ウェーバーの「学問」において音楽・芸術が占める位置の問題にも立ち入らない。
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  「音楽理論」との関係に限定すれば、つぎのことが興味深く、かつ驚かされる。すなわち、この人は、ピタゴラス音律および純正律または「2,3,5」という数字を基礎とする音律の詳細を相当に知っている。
 そして、上掲論文(未完)の冒頭で指摘しているのは、ピタゴラス音律および「2,3,5」という数字を基礎とする音律が決して「合理的でない」ことだ。
  ピタゴラス音律に関連して、3/2または2/3をいくら自乗・自除し続けても「永遠に」ちょうど2にならないことは、この欄で触れたことがある。
 M・ウェーバーの言葉では、「この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」、「12乗にあたる第十二番目」の音は1オクターブ上の音よりも「ピュタゴラス・コンマの差だけ大きい」。
 さらに、以下の語句は、今日の日本でのピタゴラス音律の説明について秋月瑛二が不満を感じてきたところを衝いていると思える
 「何らかの関係で『圏』状に上行または下行すると…」。
 この「上行・下行」は、ここでは立ち入らないが、「五度圏(表)」における「時計(右)まわり」と「反時計(左)まわり」に対応し、「♯系」の12音と「♭系」の12音の区別に対応していると考えられる。
 さらに、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「上旋回」上の12音と「下旋回」上の12音に対応しているだろう。
 そして、M・ウェーバーが言うように「二つの音程は必ず大きさの違うものになる」であり、以下は秋月の言葉だが、「#系」の6番めの音(便宜的にF♯)と「♭」系の6番めの音(便宜的にG♭)は同じ音ではない(異名異音)。このことに、今日のピタゴラス音律に関する説明文はほとんど触れたがらない。
  <純正律>、<中全音律>等に、この欄で多少とも詳しく触れたことはない。
 だが、上記引用部分での後半は、これらへの批判になっている。
 純正律は「2と3」の世界であるピタゴラス音律に対して「5」という数字を新たに持ち込むものだ。そして、今日にいう<C-E-G>等の和音については、ピタゴラス音律よりも(<十二平均律>よりも)、協和性・調和性の高い音階または「和音」を形成することができる。
 しかし、M・ウェーバーが指摘するように、純正律では、全音には大全音と小全音の二種ができ、それらを二分割してその片方を(純正律での)「半音」で埋めるとしても、大全音での残余、小全音での残余、元来の(純正律での)「半音」という少なくとも三種の半音が生まれる。このような音階は(かりに「幹音」に限るとしても)、<十二平均律>はもちろん、ピタゴラス音律よりも簡潔ではなく、複雑きわまりない。
 なお、「オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在」する、という叙述は、つぎのことも意味していることになるだろう。すなわち、鍵盤楽器において、CとEの間には二個の全音が(そしてピアノではそれらの中間の二個の黒鍵)があり、Fと上ののCの間には三個の全音(そしてピアノではそれらの中間の三個の黒鍵)がある、反面ではE-F、B-Cの間は「半音」関係にある(ピアノでは中間に黒鍵がない)、ということだ。
 彼は別にいわく、「次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの『半音階的』音程が生ずる」。二個というのは、純正律でもピタゴラス音律でも同じ。
 また、長調と短調の区別の生成根拠・背景に関心があるが、この人によると、「長3度が上に置かれるか下に置かれるかによって、それぞれ『長』音列か『短』音列のいずれが得られる」。これは一つの説明かもしれない。
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  引用部分にはなかったが、M・ウェーバーはいわゆる<十二平均律>についても知っており、その「究極的勝利」についても語っている(p.199-p.200)。但し、その弊害にも触れている。
 彼によると、「不等分」平均律と区別される「等分」平均律の一つであり、こう説明される。「これは、オクターヴを、それぞれ1/2の12乗根になるような十二の等しい等間隔に分割することであり、したがって十二個の5度をオクターヴ七つと等置すること」である。「12」という音の個数自体は、ピタゴラス音律や純正律の場合と異ならない。
 なお、完全「5度」、完全「4度」、「長3度」、「短3度」等の表現をM・ウェーバーもまた当然のごとく用いていることもすこぶる興味深い。詳細とその評価に言及しないが、こうした言葉は、1オクターヴは8音の「幹音」で構成される(両端を含む)として、それぞれに1〜8の番号を振って二音間の隔たりを表現する用語法だ。「5度」の一半音上の音は「増5度」になる。馬鹿ばかしくも、一半音は、「減2度」と言う。
 今日の日本の「音楽大学」等での「専門」的音楽理論教育で用いられている術語は、20世紀初頭のドイツでとっくに成立していたようだ(明治期・戦前の日本の「専門」音楽界はそれを直輸入した)。
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2438/音・音楽・音響⑧。

  小学生高学年か中学生の頃、つぎを聴いて何と「美しい」音楽・旋律なのだろうと感じた。
 ①Tchaikovsky, Swan Lake Suite op.20a, Scene.(白鳥の湖/情景)
 同じ頃、つぎも、よく耳にした「美しい」音楽・旋律だった。
 ②Beethoven, Bagatelle in A-moll WoO59.(エリーゼのために)
 少し長じて、Beethoven, Mozart, Tchaikovsky の三人のいわゆるクラシック曲は、オーソドクスなものとして、ある程度は馴染んだ。あくまで、ある程度は、だったが。
 中間の期間が永くあって、近年に多少意識的にさまざまのクラシック又はヨーロッパ音楽を聴いてみると、何となく聞いたことはあったが作者や曲名を知らなかったものや、初めて聴く曲の中に、とても「美しい」ものがあることを知り、大仰には、生きていてよかったと思う。
 例えば、以下の小曲だ。
 ③Brahms, Hungarian Dances Nr.4 in F sharp-moll.
 ④Chopin, Nocturn #20 in C sharp-moll op.72-2.
 ⑤Dvořák, Slavonic Dances Nr.2 op.72 #2 in E-moll.
 ⑥Saint-Saëns, Introduction & Rondo Capriccioso op.28.
 ⑦Schubert, Schwannengesange D947, Nr. 4 Ständchen in D-moll.
 ⑧Shostakovich, Jazz Suite #2-6 Waltz 2 (=the Second Waltz).
 もう少し長い、本格的なものの中では、世間的には特別に有名でないかもしれないが、例えば、以下は好ましく感じる。
 ⑨Schumann, Cello Concerto in A-moll op.129.
 ⑩Mendelssohn, Symphony #3 in A-moll op.56.
 ほかに、Bach や別のBrahms の曲等々もあるが、今回は省略する。
 なお、上の①〜⑩は全て、短調ミ始まり
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  音の高さ・低さ、大きさ・小ささ、旋律の速さ(テンポ)はヒト・人間がおそらく早い時代から聴き分けてきたのだろう。
 不思議に思うのは、音楽・旋律を「美しい」とか「好ましい」とか、あるいは「厳粛だ」とか「メランコリックだ」とか等々と感じる聴感覚・大脳感覚はどうやって発生したのだろうか、ということだ。
 加えて、ある程度はヒト・人間に共通しているのだろうという側面があるとともに(例えば、陽気・活発と陰鬱・悲嘆)、個人(個体)によって、あるいは人種・民族によって「感じ方」が異なる部分があると思われるが、それは何故、どのようにして生じたのだろうか、ということだ(例えば、ドイツ系・ロシア系・東欧系・ラテン系等々)。
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  現在に日本で聞く種々の曲・音楽のほとんどは、つまるところ、西洋音楽を起源としている。一オクターブを13のいわゆる「半音」で区切り、動きをいわゆる「五線譜」で表現できることは、演歌系・ポップス系等を含めて変わりはない。
 もちろん、Abba やBeatles 等々の歌・曲も、ジャズ等々も、西洋のいわゆるクラシック音楽の系譜の中にある。新奇さの程度の違いはあるとしても。
 日本人には「懐かしく」感じられる戦前や大正時代の<にほん唱歌>も、明治期以降の「西洋化」の過程で吸収され、生まれたものだろう。
 音楽の世界で、日本は(も)ほぼ完全に<西洋の侵略>を受けたわけだ。
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  仏教上の声明(しょうみょう)とか日本の「雅楽」(あるいは三味線や琴)など、日本(またはアジア)に独特の音楽・旋律の世界があったし、あるようであることにも関心はある。
 だが、それに増して興味があるのは、すでにこの欄で少しは触れているが、周波数(Hz)が2倍になるごとに1オクターブ高くなる、その1オクターブが、A〜一つ上のAまでの(あるいはド〜一つ上のドまでの)8音で区切られ、かつE・FとB・C間だけは「半音」で、1オクターブは13音の「半音」で成り立っているのは、いったい何故か、どのような経緯でか、ということだ。
 これは当然のことでも、自然なことでもない。
 だが、普遍性があったからこそ、近代以降に日本も含めて、たぶん世界的に受容されたのだろう。
 だがしかし、それは<西洋音楽>の発展の程度のほか、一種の技術的な導入の容易性のゆえである可能性が高いと思われる。
 というのは、Bach 等によるバロック・クラシック古典派の成立は賛美歌等々の教会音楽を、そしてキリスト教(またはキリスト教的合理性)を背景にしているとされる。そして、キリスト教世界以外の諸国・諸民族は、そこまでも含めて<西洋音楽>(標語的には、「五線譜」と「1オクターブ13半音」=「十二平均律」)を受容した(その侵略を許した)のではないだろうからだ。
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2412/「日本人」の祖先。

 雑多な報道に反応していると、キリがない。しかし、2021年9月18日頃のつぎのニュースは興味深いものがあった。
 日本のいくつかの大学の研究チームが国内発見の人骨12体の「遺伝情報」を解析した結果によると、現代の日本人の祖先には①縄文祖先、②北東アジア(中国東北部)祖先、③東アジア祖先の三種があり、当時の①が「縄文人」だとすると、①と②で「弥生人」が、①・②・③で「古墳時代人」および現代人ができている、という。「縄文人」が渡来人と混血した「弥生人」が現代日本人の祖先だとする従来の有力説と異なる結論らしい。
 いくつかが興味深い。
 第一。従来の有力説によっても、「縄文人」は現代人の直接の祖ではない。「弥生人」が祖なのだとしても、この「弥生人」には、「縄文人」由来の者と北東アジア(中国東北部)由来の者とがいる。
 第二。「古墳時代」とは紀元後3世紀頃から続いた時代だが、その時代に、「弥生人」とは別の、東アジア由来の人々が流入してきて、合わせて「古墳時代人」となり、これが基本的に現在まで続く。
 第三。もともと従来の有力説によっても「縄文人」→現代日本人ではなく「弥生人」→現代日本人なのだが、上によると、「古墳時代人」→現代人(本州)だ。
 これが何を意味するかというと、現代の日本人(のほとんど)の祖先をさかのぼっていくと、「古墳時代人」の由来となっていた①日本列島上の「縄文人」、②「北東アジア」・③「東アジア」の各人々のいずれかにたどりつくのであり(もちろん種々の混血はある)、①「縄文人」だけではない、ということだ。
 第四。読売オンラインは、「縄文人」→「弥生人」→「古墳時代人」→現代日本人という(「直系」と称してよいかどうか)血統にあるのは約15%かそれ以下、という数字を明記している。残余は全て、すでに古墳時代までに「北東アジア」・「東アジア」の人々の血統につながっている。
 ついでに。西尾幹二・国民の歴史(1999年)は、われわれ日本人の祖先は「縄文人」だ、という素朴な理解に立っているように見える。外国?との混血のあった「弥生人」も、日本列島的?純粋性を維持していた、というイメージだろうか。なお、日本列島は1.2〜2万年前に大陸から切り離されてでき、長い「縄文」時代があったのだが、その「縄文人」自体もまた、切り離される前の大陸・半島人と共通の祖先を持っていただろうことは言うまでもない。
 古墳時代よりあと、西暦800年をまたいで生きた桓武天皇の生母は記録上明確に「百済人」、またはより広く「朝鮮半島人」だった、というようなことを書き出すのはやめる。

2399/L·コワコフスキ・Modernity—第一章③。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
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 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・際限なく審判されるModernity ③。
 (10)Modernity の淵源をどの程度昔まで遡るべきかは、むろん、この観念で我々が何を意味させようと考えるかに依っている。
 かりに大事業、合理的計画、福祉国家、そして続いて起きている社会関係の官僚主義化がそれなのだとすると、Modernity の範囲は数世紀というよりも数十年の単位で測ることができるだろう。
 しかしながら、Modernity の基礎が科学にあると考えるとすれば、17世紀の前半に淵源があるとするのが適切だろう。その頃に、科学研究の基本的なルールが形成され、まとめられ、科学者たちは、—主としてガレリオと彼の継承者のおかげで—物理学は経験が伝えるものだと理解してはならず、決して完全には経験的状態に具現化されない抽象的なモデルを練り上げたものだと理解しなければならない、ということを認識した。
 だが、さらに過去へと遡って検証することは妨げられない。現代科学の最も重要な条件は、黙示録から世俗的な理性を解放しようとする運動だった。そして、人文学(art)の諸分野を中世の大学の神学のそれから自立させようという闘いは、その過程の重要な一部だった。 
 11世紀以降のキリスト教哲学から出てきた、自然の知識と神から得られる知識の区別こそが、その変わり目で、その闘いの観念上の基礎となった。
 そして、どちらが先だったかを決定するのは困難だろう。純粋に哲学上の知識の二つの領域の分離か、それとも知的な都市階層の者たちが自治の要求を獲得する手段となった社会的過程か。//
 (11)では、我々の「Modernity」は11世紀に投射させるべきで、聖Anselm とAbelard は(それぞれ無意識に、意図的に)その主唱者だったのか?
 このように拡張することに観念上の誤りは何もない。しかし、どちらもきわめて役立つというものではない。
 もちろん我々は、曖昧にしたままで、我々の文明の根源を跡づけようとすることができる。しかし、我々の多くが取り組んできた問題は、いつModernity は出発したかではなく、—明示的に表明されているかは別として—現代に蔓延する<文化のうちの不快感>(Unbegahen in der Kultur)の核にあるのは何か? だった。
 ともあれ、Modernity という言葉が有用なものであれば、前者の疑問の意味は、後者への回答に依存していなければならない。
 そして、自然に心の裡に浮かんでくる前者の答えは、もちろん、Weber 的な<暴露(脱魔法化)>(Entztäuberung)—魔力からの解放(disenchantment)—、あるいは同じ現象を大まかに表現する何らかの類似の言葉にある。//
 (12)我々は、いわゆる西洋文明の世俗化、表向きは宗教的遺産の進歩的な霧散、かつ神なき世界の悲しい光景、のもつ破壊的影響に関する今日の議論を追ったりそれに参加したりして、圧倒的でかつ同時に屈辱的な既視(deja vu)の感覚を経験する。
 我々はまるで突然に目覚めて、慎ましくて必ずしも高い教養をもっていない聖職者がこの3世紀の間に見ている—そして我々に警告している—事態を、そして彼らが毎日曜日の訓話で繰り返して非難してきた事態を、感知しているようだ。
 彼らは信者たちに、神を忘れた世界は善と悪の区別自体を忘れ、人間生活を意味のないものにし、虚無主義(nihilism)に陥った、と語りつづけた。
 今では、社会学的、歴史的、人類学的な知識をいっぱい身につけて、我々は、同じ単純な叡智を発見している。その叡智を我々は、僅かばかり洗練された語句を用いて表現しようとしているのだが。//
 (13)古くて単純であっても叡智は必ずしも真実ではなくなることはない、と私は認める。そして実際に私は、真実だと考える(いくつかの条件付きで)。 
 Decartes〔デカルト〕は最初の、かつ主要な元凶だったのか?
 たぶん、そうだ。彼は哲学的に、彼の以前から既に進んできていた文化的趨勢を集大成(codify)した、という仮定条件のもとであっても。
 彼は、明らかに—あるいはそう思えるのだが—、つぎのことを行うことで、Cosmos〔体系的宇宙〕という観念を、そして自然の目的ある秩序という観念を、排除した。物質を拡張物と同一視することで、したがって物理的な宇宙(universe)の現実の多様性を廃棄することで、この宇宙を若干の単純な、かつ全てを説明し得る力学法則に従わせることで、そして神を論理的に必要な創造主と支援へと変えることで—しかし、経常的で、そのためにどんな個別の事案も説明するという意味を奪われた支援。
 世界は魂のない(soulless)ものになった。そして、この前提条件のもとでのみ、modern 科学は進展することができた。
 奇蹟も、神秘も、事態の推移への神聖なまたは悪魔的な干渉も、もはや想定することができなくなった。
 古くからのキリスト教の叡智といわゆる科学的世界観の間の衝突を取り繕おうとする、のちの継続的な努力の全ては、この単純な理由で説得力がなくなるのを余儀なくされた。//
 (15)たしかに、この新しい宇宙(universe)の意味が明らかになっていくのには時間を要した。
 大量の自覚的な世俗主義は、比較的に近年の現象だ。
 しかしながら、我々の現在の見通しから言うと、容赦なく教養ある階層に進行している信仰心の風化は、避けることができないように見える。
 信仰心は残存し得ているかもしれないが、多数の論理的仕掛けによる合理主義の侵食から僅かにしか守られておらず、無害でかつ無意味だと思える片隅へと追いやられている。
 何世代もの間、多数の人々が、自分たちは二つの両立し難い世界の住人であることを認識しないで生きることができた。かつまた、一方では進歩、科学的真実およびmodern 技術を信頼しながら、薄い貝殻でもって信仰心という慰みを守っていくことができた。//
 (16-01)この貝殻は、やがて破壊されることとなった。最終的に破壊したのは、ニーチェ(Nietzche)の荒々しい哲学的ハンマーだった。
 ——
 ④へとつづく。

2389/音・音楽・音響⑦。

  この項の前回に、<ピタゴラス音律>の場合の、1オクターブ間の各音階の周波数の比を以下のように記した。C〜(1オクターブ上の)Cの各音階の周波数比だ。
 これが、①一本の長さの弦あるいは竹筒のようなものを2倍、…、1/2倍、…にすると音の高さ(周波数)が1/2倍、…、2倍、…となって、同じ(と感じる)音が重なり合うという「発見」と、②上の長さを1.5倍=3/2倍、または2/3倍=0.66666…倍(その2倍は1.333333…=4/3倍)にすることを試して生じた音を加えた高さ(周波数)を重要な基礎にしているらしい、ということも書いた。
 先走れば、基音を一度として、②の前者は今日では<完全五度>、後者は<完全四度>と一般に称されている。Cに対するGとFだ(ドレミを使うと、ドに対するソとファ)。
 その下に、<純正律>とされる場合の、音階ごとの同様の比を示す。
 ・ピタゴラス音律
 1、9/8、81/64、4/3、3/2、27/16、243/128、2。
 ・純正律
 1、9/8、5/4、4/3、3/2、5/3、15/8、2。
 一見して分かるように、①ピタゴラス音律に比べて、出てくる整数の数が小さい。最大でも15で、前者には243、128、81、64、27、16が出てくる。
 数字の単純さ、その意味での「美しさ」は純正律の方が上回る。
 ②ピタゴラス音律と純正律とで、同じ比になっている音階がある。
 基音の2倍の2は当然として、3/2、4/3、9/8の3者だ。基音をCとすると、G、F、Dの三つだ。ドに対していうと、ソ、ファ、レの三つとなる。
 今日、現代における<完全五度>と<完全四度>の基音対比周波数は、上の二つの音律においては、同じで変わらない。
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  同じく前回に、こう記した。
 「なぜ、1オクターブを12で(再来する元の音階を含めると13だが、間の音階は12)で区切るのか。そう問われて、誰も『正しく』は回答できないのではないか。
 それに、ピアノに特有のことだが、なぜ全て白鍵ではなく5つだけ黒鍵なのか、なぜEF間、BC間だけ半音なのか、という素朴な疑問も湧く」。
 こう書いてしまったが、素人頭であれこれと思い浮かべていると、つぎの「仮説」が生まれた。
 ほんの少しは「音楽理論」に関する書物を捲ったり、文章を読んでみたが、上のような簡単または幼稚な好奇心・知識欲に応えてくれているものを発見できない。
 ①基音とその2倍音を含めて、8音で1オクターブを構成するのは、古来からのほとんど絶対的な要請だった。
 「オクターブ」(octave)という言葉自体、「十月(October)」もそうであるように(8を基礎に、ある理由で2を足した)、「8」を語源としている。 8本足の「タコ」は、英語でOctopus という。
 ②なぜか。「8」を「美しい」と感じたか否かは不明だが、上のように、基音に対する<五度上>・<四度上>は重要な音階(音程)だった。
 合わせてすでに4つになるが、間隔が空きすぎていると感じた?(基音をCとすると)CとFの間、Gと上のCの間に、高さの比が同程度になるように(かつ分かりやすいように)2音ずつを加えた。
 そうすると、現在と同じ<1オクターブ8音構造>(但し、いわゆる白鍵部分のみ)ができ上がる。
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  というような空想はできるのだが、しかし、<1オクターブ8音構造>は今日まで維持されつづけているとしても、<完全五度>と<完全四度>をも含めて、現代で一般的な<十二平均律>では、基音に対する周波数比は維持されていない。
 換言すると、例えばCに対してGは3/2ではなく、Fは4/3ではない。
 <十二平均律>の特徴は、各音階間の周波数比が同一であることだ。
 正確にいえば、旧来の上の二つですでに、(Cを基音とすると)EとFの間とBと上のCの間は、他の音階間とは違って(現在にいう)「半音」になっているので、それら以外のCD間、DE間、FG間、GA間、AB間を二つに分ける上の「半音」に似た「半音」を作ることが前提になっている。
 そうすると、全体は+5で13音になり(上のCを省くと12)、この13音の間の各音の高さ(周波数)の比が、全て同一であるのが、<十二平均律>の特徴だ。そして、旧来の二つでは原則として不可能な、転調や移調が簡単に可能になる。
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  その<十二平均律>での周波数比はどうなっているのか。
 1オクターブ上(例えば上のC)の数字が2であることは絶対の不動であるので、全く同じ数字の比を12回反復すれば1→2となる、その数字を「計算」すればよいことになる。これは、「数学」の問題だ。
 答えは、<2の12乗根>、2の右肩に乗数として1/12を記述した数となる。
 それは、分かりやすい分数にならず、小数点以下6桁までで、1.059463…になる。正確には、これ以下の数字もずっとつづく。
 1を起点として大まかに言えば、1.06ずつ乗していけば、C#、D、D#と少しずつ高くなって、12回めには2になる、ということだ。
 注目してよいのは、旧来の二つの音律ではいずれでも(Cを基音として)、F=1.333…=4/3、G=1.5=3/2だったが、<平均律>ではこうはならない、ということだ。
 すなわち、下5桁までに限定して、<完全四度>=1.33484。4/3に近いが、やや高い、
 <完全五度>=1.49831。3/2に近いが、やや低い。
 だが、このように厳密には旧来の高さ(周波数)は維持されていないが、現在にいう<完全五度>、<完全四度>にほぼあたるものを、音発生道具の長さに着目して、例えば60cm のものだと90cm(3/2)に変えたり、80cm(4/3)に変えたりして試行錯誤しながら、古代の人々が、これら二つにほぼ該当するものをすでに「発見」していた、ということなのだろう。
 そこから、<1オクターブ8音構造>や今日でいう半音を含めての1オクターブ内12音(両端の1つを含めて13)という音階構成も生まれてきた。
 ということは、現在に標準的な<平均律>もまた、音とその響きに関する人間の感覚についての古代からの蓄積を基礎にしている、ということだろう。
 <ピタゴラス音律>が本当にピタゴラスによるものかは知らないが(西欧ではおそらくそのように言われ、書かれてきた)、言うまでもなく紀元前の哲学者とされる人で、その影響は数千年後まで残っていることになる。
 以上、社会、とくに日本社会の変動とは何ら関係のない、趣味的な「好奇心」・個人的な関心が主題の記述だ。なおも続ける。
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 Amazon music HD 等に遅れをとっていたApple Music は、「ロスレス」(Lossless)という、大部分は「ハイレゾ」(Hi-Rez)音質の音楽を6月から配信し始めた。上の「」は行政的または法的概念・術語ではなく、事業者やその団体(全てが加入しているのでもない)が作っている用語。
 「音響」も表題の一つにしているように、音質・音の「解像度」にも秋月瑛二は個人的な関心をもっている。ヒト・人間の聴感覚には大きな違いはないらしいようであることは、すこぶる面白い。

2217/岡田英弘「歴史と神話」(1998年)-著作集Ⅲより。

 岡田英弘「歴史と神話をどう考えたらよいか」同著作集Ⅲ・日本とは何か(藤原書店、2014)p.490以下。初出、月刊正論(産経)1998年・シンポジウム/古代史最前線からの眺望・基調報告(著作集によるとこれの「採録」)。
 なお、翌年刊行された西尾幹二・国民の歴史(扶桑社、1999)も、「歴史/神話」問題に触れている。
 以下、岡田論考の抜粋的引用。上掲書、p.493~p.502。
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 ・「中世」という時代区分には「歴史には一定のゴールがある、という考え方が潜んでいる。「歴史には法則性がある、という考え方」はこれから派生している。
 「この世で起きることは、すべて偶発事件であり、その偶発事件の積み重なりで、この世界はあちらへよろよろ、こちらへよろよろする。歴史に法則などあるわけがない」。
 ・「歴史家の仕事は、歴史に法則を見つけ出すことにあるのではなく、さまざまな史料から取捨選択して筋道を立て、過去の世界に合理的な解釈を施すこと、世界を理解することにある」。
 「要するに、歴史は、世界を理解する仕方の一つ」だ。「世界とは、もちろん人間の住む世界」だ。
 「世界を理解するための道具として、たとえば物理学も数学も哲学も使えるだろうが、歴史という見方もそうしたアプローチの一つなのだといえる」。
 「歴史家の存在を危うくする暴論」ではなく、先に「歴史は世界に対する解釈」だと記したように、「歴史とは一つの文化なのである」。
 ・「本来、歴史を持っている文明は、シナ文明と地中海文明の二つだけであり、他の文明はみなこの二つのどちらかから、歴史という文化をコピーしている。
 日本文明の歴史というのは、もちろんシナ文明のコピーである」。
 シナでは「変化しない世界」、地中海世界では「変化する世界」をそれぞれ書くのが「歴史」だ。「水と油」だが、「この世界を空間だけではなく、時間の軸に沿っても捉えよう」とする点でどちらも「歴史」だ。
 「時間の軸に沿い、今見えなくなった世界も実在する世界であると見て、まとめて理解しようとするのが歴史なのだ」。
 ・「では、『理解する』とは、どういうことなのか」。
 「ストーリーを受け入れる、ということ」だ。「ストーリー(物語と言ってもいい)」は頭に入りやすく、「因果関係」で結ぶと受け入れられる。
 「この世界は、本当は偶発的事件ばかりの積み重ねで、なんの筋書きもないのだが、歴史はそれにストーリーを与える機能を持っている。
 言ってしまえば、文学なのである。だから歴史をつくっているのは言葉であって、ものではない。」
 ・「18世紀末までが古代、19世紀以降は現代」だ。「国民国家」の登場は後者で、それ以前にはなかった。
 ・ヘロドトスの歴史叙述は「ギリシア神話」を利用した。
 司馬遷も、「天上の神々であった五帝を地上の人間のように書き直し、そうすることで皇帝権の起源を説明」した。
 「日本最初の歴史書『日本書記』も同様である」。編纂過程は「日本の建国の時期」だったので、「建国事業の一環」として、「なるべく古いところに日本国と天皇の起源を持ってゆく必要があった。
 そのために、「神武天皇以下、16代応神天皇に至る架空の天皇を発明した」。また、「壬申の乱に際し天武天皇が伊勢で発見した地方神」の「アマテラスオホミカミを中心とした神話を新たにつくり、神武天皇の話の前にくっつけ」た。「神様を人間に」し、「幽冥界から死んだ天皇を呼び出してくる」といったやり方で、「歴史をつくった」。
 「どんな国の歴史」も初めて書かれるときはそんなもので、「神話が歴史に読み替えられるのである」。
 ・「『日本書記』が建国の時期をなるべくむかしに持ってゆこうとしたのは、シナを意識してのことである」。
 シナは紀元前221年・秦の始皇帝のときに国が初めてできたので、「シナに対抗するには、それよりも建国を古くしなければならない。日本の天皇のほうが、シナの皇帝よりも古い起源を持っているのだ、と言わねばならない」。
 「シナ文明圏では、王権の正統性を保障するのは歴史であり、そのパターンから日本は抜け出せない」。神武天皇の建国を紀元前660年で、秦より400年以上古い、という「操作に神話は使われた」。
 ・「今でも歴史を論じるとき、なにかと神話に戻りたがる人がいる。
 神話から史実を読み取ろうとするのだ。
 しかし、歴史で神話を扱う際には、こうした神話の性質を充分わきまえておかねばならない」。
 「もっとも、一般の人たちが神話に戻りたくなる気持ちも、わからないではない。
 古代というのは、いまだに神代と同意義に使われていて、なんでもありの異次元空間なのである。そこでは現実世界の法則は通用せず、なんでもできる。…。
 そういう神話が与えてくれるロマンは、現実からの逃避には都合がいいだろうが、そうした情緒的ニーズと合理的な歴史を混同してもらっては困る。」
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2171/レフとスヴェトラーナ-第1章①。

 レフとスヴェトラーナ。
 *オーランド・ファイジズの文章の試訳。
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 第1章①。
 (01) レフはスヴェトラーナを初めて見た。
 モスクワ大学の入学試験に呼び込まれるために、中庭に三列を作って待っている一群の学生たちがいた。その中にすぐに、彼女に気がついたのだった。
 彼女は物理学部の建物の入口に向かう道沿いに、レフの友人と一緒に立っていた。その友人はレフを手招きして、前の学校のクラス友だちだとスヴェトラーナを紹介してくれた。
 二人は、学部の入口が開くまでに、一言か二言だけをを交わした。そのあと、学生の一群に加わって、階段を上り、試験が実施される大講堂に入った。
 (02) 最初に逢ったときは、恋でも愛でもなかった。二人ともに、そう分かっていた。
 レフはきわめて用心深かったので、簡単に恋に落ちることはなかった。
しかしそれでも、スヴェトラーナはすでに彼の注意を惹いた。
 彼女は背の高さは中くらいで、ほっそりしていて暗い茶色の髪だった。顎の骨が尖っていて顎先も尖っており、青い眼は落ち着いた知性で輝いていた。
 スヴェトラーナは、ソヴィエト同盟で最良の物理学の学部に入学した5-6人の女性の一人だった。レフも一緒に、別の30人の男子とともに1935年に同じ学部に入学した。
 暗色の羊毛服と短い灰色のスカート。スヴェトラーナは女子学校生と同じ衣服を見にまとい、男子ばかりの雰囲気の中で目立っていた。
 彼女は愛らしい声をもっていて(のちに大学合唱団で歌うことになる)、肉体的な魅力にそれを加えていた。
 彼女は人気者で、活発で、ときには軽薄で、鋭い辛辣な言葉によって知られることとなった。
 スヴェトラーナは自分を崇拝する男子に不足することはなかったけれども、レフについては、何か特別な思いをもった。
 レフは背が高くも、体格が力強くもなかった。-彼の背の高さはスヴェトラーナよりも少し低かった。また、同世代の若い男たちのようには容貌に自信がなかった。
 彼は、当時の写真全部で、いつも同じ古い上衣を着ている。-当時のロシア様式で、最上部のボタンは留め、ネクタイをしていない。
 レフは、外観上は、男性というよりも、まだ少年だった。
 しかし、女の子のように、柔らかい青い眼とふっくらした唇をもつ、優しくて思いやりのある顔をしていた。
 (03) 第一学期の間、レフとスヴェータ(彼は彼女をこう呼び始めた)は、頻繁に逢った。
 二人は講義室で一緒に並んで座り、図書館でお互いにうなづき、新進の物理学者や技術者で成る同じサークルの方へと動いた。そのサークルの者たちは学生食堂で一緒に食事をし、図書館への入口に近い学生クラブ室に集まった。そこには、ある者はタバコを喫むために、他の多くはただ脚を伸ばしておしゃべりをするためにやって来た。 
 (04) のちにレフとスヴェータは、友人たちのグループから離れて、劇場や映画館に行くようになる。そしてそのあと、彼は歩いて彼女の家まで送ったのだが、スヴェータの家の近くにあるプーシキン広場からポクロフスキ兵舎までの庭園大通り沿いのロマンティックなコースを選んだ。この大通りは、夕方に恋人たちが散歩するところだった。 
 1930年代の大学生の世界では、婚約する以前の男女関係についての伝統的な考えがまだ残っていて、ロマンティックな礼節が尊重されていた。
 1917年以降のある時期には、性的な振る舞いの解放が喧伝されたけれども。
 モスクワ大学では、ロマンスは真剣で純真なものだった。通常は男女二人が多くの友人たちのグループから離れてから始まり、男子が女子をその家まで送っていくことから出発する。
 そのときが親密に二人きりで会話する好機で、たぶんときどきは、好みの詩を誦み合ったりする。詩は、愛に関する会話の手段として受容されていた。そして、彼女の家で別れる前には、キスをする機会があったかもしれない。
 (05) レフは、スヴェータが好きになって、自分は孤独ではないと知った。
 彼は、彼女を自分に紹介してくれたリャホフと一緒に、スヴェータがクレムリン近くのアレクサンドラ公園を歩いているのを見た。
 レフは遠慮して、スヴェータとの関係をリャホフに尋ねなかった。しかし、ある日、リャホフが言った。「スヴェトラーナ、あんな素晴らしい娘はいない。でも、とても頭がよい。恐ろしく頭がいい」。
 リャホフはそのようにして、自分が彼女の知性におじけづいていることをレフに伝えようとしたのだ。
 レフはすみやかに気づいたのだが、たぶんスヴェータは気紛れで、他人に批判的で、そして、自分と同じように賢くはない人間には我慢できなかったのだろう。
 (06) ゆっくりと、レフとスヴェータは親しくなった。
 レフは思い出す。二人にはともに「深い好意」が芽生えた、と。
 70年以上のちに自分の居間に座って、彼は最初の感情的な結びつきを思い出して、小さく微笑んだ。
 つぎの言葉を選ぶまで慎重に考えていた。
 「突然に恋に落ちたのではない。だが、深くて永遠につづくような親近さを感じた」。
 (07) 二人はついには、お互いを恋人だと考えるようになった。
 「私は他のどの女性にも一人では逢わなかったので、みんな、スヴェトラーナは自分の恋人だと分かった」。
 二人のどちらにもそのことが明確になったときがあった。
 ある午後、カラルメニュイのスヴェータの家近くの静かな通りを二人が歩いていたとき、彼女が彼の手を取って、「あちらに行きましょう。私の友だちに貴方を紹介するわ」と言った。
 彼らは行って、スヴェータの親しい友人たちに逢った。彼女の前の学校からの友人たちで、イリーナ・クラウゼは外国語学校でフランス語を勉強していた。アレクサンドラ・チェルノモルディクは、医学生だった。
 レフは、これは自分に対する彼女の信頼の証しなのだと理解した。親愛の徴しとして、自分の子ども時代の友人たちに逢わせてくれたのだ。
 (08) まもなく、レフはスヴェータの家に招かれた。
 イワノフ家は大部屋二つと台所のある私的な住戸を持っていた。
 -これは、スターリン時代のモスクワではほとんど知られていない贅沢なことだった。モスクワの標準的な共同住宅では、一家族について一部屋で、台所とトイレは共用だった。
 スヴェータと妹のターニャは、両親と一緒に一部屋で生活していた。
 娘たちは、折り畳むとベッドになるソファの上で寝ていた。
 娘たちの兄のヤロスラフ(「ヤラ」)は、妻のエレーナと一緒に別の部屋で生活していた。そこには大きな衣装箪笥、前面にガラスのある書籍棚、グランド・ピアノがあって、家族みんなで使っていた。
 イワノフ家の住戸には、高い天井と古風な家具があった。そして、労働者国家の首都であるモスクワの知識人たちが集まる、小さな島だった。
 (09) スヴェータの父親のアレクサンドル・アレクセイヴィチは50歳台半ばで、背が高くて髭を生やしていて、注意深い目と塩胡椒色の髪の毛をもっていた。
 老練なボルシェヴィキで、1902年にカザン大学の学生のときに革命運動に参加した。
 流刑に遭って収監されたが、のちにペテルブルク大学物理学部に再入学した。
 そこで、第一次大戦の前には、化学者セルゲイ・レベデフとともに合成ゴムの開発に従事した。
 1917年の十月革命の後は、ソヴィエトのゴム生産を組織する指導的な役割を果たした。
 だが、1921年に、党を去った。
 表向きの理由は体調の悪さだったが、実際には、ボルシェヴィキの独裁に幻滅するに至っていたからだった。
 彼はその後10年間、仕事のために2回、西側を旅行した。そして、1930年に、家族とともにモスクワに転居した。
 この頃は、五カ年計画がソヴィエト同盟を工業化するために施行中の真只中だった。
 また、「ブルジョア専門家」に対して、スターリンの最初のテロルの大波が襲っていた。そのときに、アレクサンドルの多数の友人や仕事仲間たちが「スパイ」とか「反逆者」だとかして非難されて、射殺されるか強制労働収容所へと送られるかした。
 アレクサンドルに外国旅行の経験があったことは政治的に危険だったが、彼は何とかして生き延び、ソヴィエトの工業のために仕事を続け、ロシア合成樹脂研究所の副所長にまでなった。
 彼の家族には、技術と科学の精神が染み渡っていた。子どもたちはみな、技術または科学を勉強するように言われて育った。ヤラはモスクワ機械建設研究所に進み、ターニャは気象学を勉強しており、そしてスヴェータは物理学部に通っていた。
 (10) スヴェータの父、アレクサンドルは、レフを歓迎して、家に招き入れた。
 父親は、もう一人科学者がいるのを愉しんでいた。
 スヴェータの母親は、もう少し疎遠で、控えめだった。
 アナスタシアは肉づきが良くて、ゆっくり動く40歳台半ばの婦人で、手の疾患を隠すために手袋を填めていた。
 彼女はモスクワ経済研究所のロシア語教師で、教育については厳格な態度をとった。
 アナスタシアは眼を上げて、厚い縁の眼鏡を通してレフをじっと見つめた。
 レフは長い間、母親には怯えていたが、彼とスヴェータの大学一年次の終わり頃に、全てを大きく変化させる出来事があった。
 スヴェータは欠席した講義のノートを、レフから借りていた。
 最初の試験のためにそれを返してもらおうとしてレフが来たとき、アナスタシアは彼に、貴方のノートはとても良いと思う、と告げた。
 多大なではないが小さな、そして予期していなかった褒め言葉だった。
 そして、母親の声の柔らかさで、レフは、アナスタシアに、つまりはスヴェータの家族の関門に、受け入れられた徴しだ、と感じた。
 レフは思い出して言う。「私はその言葉を、彼女の家に入る合法的パスのようなものだと理解しました」。
 「私はもっと足繁く、臆病にならずに、彼女たちの家を訪れました。」
 試験が終わったあとの1936年の長くて暑い夏、レフは夕方になるといつもスヴェータに逢いにくることになる。そして、自転車の乗り方を教えるために、ソコロニキ公園へと彼女を連れて行く。
 (11) レフがスヴェータの家族に受け入れられたことは、二人の関係にとってつねに重要な一部だった。
 レフには直属の家族がなかった。
 彼は1917年1月21日に生まれた。-世界を永遠に変えた二月革命の激変の直前だ。
 母親のヴァレンティナは小さな地方の公務員の娘で、幼いときに両親を喪ったあと、モスクワにいた二人の叔母に育てられた。
 彼女は市立学校の一つで教師をしていて、そのときに、レフの父親と会った。
 父親のグレブ・ミシュチェンコはモスクワ大学物理学部の卒業生で、そのときは、技師になるために鉄道研究所で勉強していた。
 ミシュチェンコとは、ウクライナの名前だった。
 グレブの父のフョードルは民族主義ウクライナ知識人の中の著名な人物で、キエフ大学で言語学の教授をしており、また、古代ギリシアの文章のロシア語への翻訳家だった。
 十月革命後、レフの両親はシベリアのベリョゾボという、トボルスク州の小さな町に引っ越した。その町のことを、鉄道技師としての調査旅行で知ったのだった。
 ベリョゾボは、18世紀以来の流刑地として、ボルシェヴィキ体制から遠く離れた場所で、比較的に豊かな農業地域にあった。
 また、モスクワにテロルと経済的な破滅を持ち込んだ内戦(1917-21年)を避けることのできる、良い位置にあったように見えた。
 家族はヴァレンティナの叔母とともに、大きな農民家庭の家屋の一室を借りて生活した。
 父のグレブは学校教師と気象学の仕事を見つけ、母のヴァレンティナも教師として働いた。
 レフは、母親の叔母のリディアによって育てられた。彼はこの叔母を「祖母」と呼んだ。
 彼女はレフに童話を語り聞かせ、神への祈りを教えた。レフは、生涯にわたって、このことを憶えていた。
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 ②へとつづける。

2162/「邪馬台国」論議 と八幡和郎/安本美典⑦。

 A/安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)。
 安本のこれ以前の文庫・新書本にも同種の図表があるが、これが最も分かり易いようだ。
 B/安本美典・古代年代論が解く邪馬台国の謎(勉誠出版、2013)。
 これにも、安本の同旨の<年代論>が述べられている。
 以下、原則としてAによって、日本の天皇の時代・代数別の在位平均年数の資料を紹介する。
 p.122に、最も簡明な、1988年刊行の新書=同・新版/卑弥呼の謎(講談社)にもあった、つぎの図表が載せられている。
 (1)日本の天皇の平均在位年数(その1)。
  A/17~20世紀・17天皇・延べ379年-平均22.29年
  B/13~16世紀・29天皇・延べ453年-平均15.62年
  C/09~12世紀・33天皇・延べ404年-平均12.24年
  D/05~08世紀・20天皇・延べ218年-平均10.88年
  第31代とされる用明天皇~第124代とされる昭和天皇までの99天皇・延べ1454年が対象とされる。
  総平均は、14.69年だ。
  それ以外の各時代の最初・最後の各天皇名等は、明記されていない(代数の数字とおおまかな世紀数で探ってみると判明するかもしれないが、その作業は省く)。
  いずれにせよ、時代が古くなると、それだけ平均在位年数は短くなる。
 (2)時代別平均在位年数(その2)。
 p.263とp.264には、別の分類による、平均在位年数の図表がある。
 前者は第32代崇峻天皇以降を「歴史的事実」とする図表があり、後者には、第22代清寧天皇~第31代用明天皇を「準歴史的事実」として加えた図表がある。
 これらを併せると、つぎのようになる(つまり後者と同じ)。
  A/徳川時代+現代  ・17天皇-平均21.90年
  B/鎌倉+足利+安土桃山・25天皇-平均15.11年
  C/平安時代     ・32天皇-平均12.63年
  D/崇峻天皇+奈良時代・18天皇-平均10.78年
  E/清寧天皇~用明天皇・10天皇-平均10.07年
 時代が古くなると、それだけ平均在位年数は短くなる、という結果に変わりはない。
 Aは、108代・後水尾天皇~124代・昭和天皇(17代)。Bは、第83代・後鳥羽天皇~第107代・後陽明天皇(25代)。Cは、50代・桓武天皇~81代・安徳天皇(32代)。Dは、32代・崇峻天皇~49代・光仁天皇(18代)。Eは、22代・清寧天皇~31代・用明天皇(10代)。これらのうち、C~Eについては、明記がある。
 第82代・後鳥羽天皇(1183-1198)の扱いが秋月にはよく分からないが、詮索を避ける。
 また、安本の上のB著(2013年)p.90には、上とやや分類が異なる図表がある。卑弥呼~雄略天皇を省略して、紹介しておく。
  (3)平均在位年数(その3)。
  A/徳川時代+現代  ・18天皇-平均22.28年
  B/鎌倉+足利+安土桃山・25天皇-平均16.13年
  C/平安時代     ・32天皇-平均12.69年
  D/飛鳥時代+奈良時代・29天皇-平均10.36年
  Dは、21代・雄略~30代・敏達と明記されている。従って、(その2)のEと対象が異なる。ここでのA・Bが(その2)と異なるのは、Aに107代・後陽明天皇を、Bに82代・後鳥羽天皇を含めているためではないか、と推察される。
 ところで最後に、安本の上の著A(2003)には、「新しく定義しなおし」た計算にもとづくとされる図表が掲載されている。
  (4)天皇の一代平均「在位年数」(その4)。
 A/106正親町~124昭和天皇 ・代差18・年計402年01月・平均年22.34。
 B/082後鳥羽~106正親町天皇・代差24・年計388年10月・平均年16.20。
 C/049光仁 ~082後鳥羽天皇・代差33・年計416年10月・平均年12.63。
 D/031用明 ~049光仁天皇 ・代差18・年計193年11月・平均年10.77。
 古い時代ほど、天皇一代の年数は短くなる。
 上の「計算」で新しい旨が明記されていると見られるのは、①在位期間を年のみならず月単位まで計算していること(8カ月で0.67年、10カ月で0.83年になる)、②旧暦(和暦)を(月も)新暦で計算し直していること、だろう。
 但し、031代-(差18代)-049代-(差33代)-082代-(差24代)-106代-(差18代)-124代、という表記の仕方をしているので、各時代がどれどれの天皇の在位期間を考察・計算対象にしているのかが、必ずしもよく分からないところがある(厳密にフォローすれば明瞭になるのかもしれない)。
 なお、以上の全てについて、重祚の場合は2代と数えられている。
 南北朝時代については、きちんと確認しないが(安本美典による明示的論及はない)、正統と(明治期以降に)される南朝側の諸天皇とその在位期間のみを対象としているように思われる。
 ***
 安本美典著を見て、読んできただけで、自ら計算してみようと思ったことはこれまでなかった。
 安本著には厳密には分かりにくい点もあるので、秋月が自分で計算して、表を作ってみよう。
 ①皇統譜上の代数表記による。②重祚は2代とする。③南朝側の天皇のみを対象とする。
 ④講談社・天皇の歴史各巻所載の「歴代天皇表」上の在位期間による。在位期間は「月」を無視して、「年」のみを考慮する。例えば、1000年12月~1010年2月の場合、実際には9年3月であっても、在位年数は11年となる。
 ⑤上に在位期間の記載のある第29代・欽明天皇から第123代・大正天皇までを対象とする。この間の代数は、123-29+1=95だ。大正天皇までとするのは、大きな意味があるのでなく、昭和天皇の60年超の在位が明らかに平均年数を高める要因になるだろうことを考慮したにすぎない。
 ⑥つぎのように時代区分する。おおよそA/江戸以降、B/鎌倉以降、C/平安時代、D/それ以前(欽明以降の飛鳥+奈良)だ。
 ⑦安徳天皇退位は1185年、後鳥羽天皇即位は1183年なので、3年の重複があるが、そのまま計算する。
 A/123代・大正天皇~108代・後水尾天皇、代数(123-108+1)は16。
 B/082代・後鳥羽天皇~107代・後陽明天皇、代数(107-082+1)は26。
 C/050代・桓武天皇~081代・安徳天皇、代数(81-50+1)は32。
 D/029代・欽明天皇~049代・光仁天皇・代数(49-29+1)は21。
 上の前提のもとでの、秋月瑛二の計算
 A/大正~後水尾・16代・年数243年・一代平均年-19.75年。
 B/後鳥羽~後陽成26代・年数429年・一代平均年-16.50年。
 C/桓武~安徳・32代 ・年数405年・一代平均年-12.65年。
 D/欽明~光仁・21代 ・年数243年・一代平均年-11.57年。
 上の注記の④にあるように、在位年数は実際よりも少し大きくなり、従って平均年数も実際よりも少し大きくなっているだろう。
 しかし、古い時代ほど平均的な天皇在位期間は短くなり、欽明天皇頃になってくるとほぼ10年~12年だ、ということが分かる。
 そうすると、もっと前の古代天皇の在位期間の平均は、9-10年まで下がってくるのではなかろうか?
 ***
 八幡和郎の「頭の中」には、こういう、天皇在位平均年数という考慮要素はない。
 まず、改めて、応神天皇から崇神天皇までの、出生・即位、在位年に関する、八幡和郎と安本美典の違いを示してみよう。
 八幡については、八幡和郎・最終解答・日本古代史(PHP文庫、2015)による。安本については、改めて上の著(2003)Aのp.260-1の図表(横グラフ)から目視した(すでに紹介した安本推測と①と②でやや異なる)。安本の仲哀期は、神功皇后称制期をも含む。。
 ①15応神天皇-出生346年/即位380年頃。安本・在位410年~424年。
 ②14仲哀天皇-出生310年/即位4世紀中。安本・在位390年~410年。
 ③13成務天皇-出生265年/即位4世紀前。安本・在位386年~390年。
 ④12景行天皇-出生260年/即位300年頃。安本・在位370年~386年。
 ⑤11垂仁天皇-出生235年/即位3世紀後。安本・在位357年~370年。
 ⑥10崇神天皇-出生210年/即位3世紀中。安本・在位343年~357年。
 崇神天皇について、約100年の違いがある。
 ***
 八幡和郎は、つぎの著では、神武天皇の時代も推測していた。
 八幡和郎・八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2011)。
 これのp.30-1によると、「神武天皇から数えて崇神天皇が10世代目というのなら、神武天皇はだいたい西暦紀元前後、つまり金印で有名な奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったころの王者だということになります。
 しかし、10代めというのは少し長すぎるので、実際には数世代くらいかもしれないとすれば、2世紀のあたりかもしれません。」
 前段は神武を「西暦紀元前後」と見ている。この根拠は分かりにくいが、この頃の天皇の即位後の生存年数または在位年数を約「25年」と見ているのが根拠である可能性が高い。
 上の表に見られるように、八幡は、12代・景行から10代・崇神まで「25年」間隔で皇位継承された、と推定しているからだ。
 これを崇神以前にさか上らせた出生年は、9代・紀元185年、8代・160年、7代・135年、6代・110年、5代・85年、4代・60年、3代・35年、2代10年、初代・神武紀元前15年となる。この神武の紀元前15年出生というのは、紀元前後に神武が即位した(初代天皇として)という推定の、有力な計算根拠になり得るかもしれない。
 しかし、この「25年」というのは八幡独自説ではなくて、明治以降の複数の学説が示してきたものだ。かつまた、神武即位は紀元前後というのは、那珂通世およびこれを支持した学者たちと全く一致している。八幡和郎が「自分の頭」から生み出したものでは全くないと推察される。
 上の後段は、神武~10代・崇神という10代の「実在」を、<三王朝交替説>の影響によるのかどうか、さっそく?疑問視している。この人物に定見はないのだろう。
 また、安本美典は「在数」と「世数」を区別しているが、直系男子継承(父子継承)であって初めて、「25年」の隔たりで天皇が交替していく、ということが言える。
 日本書記によると、21代・雄略天皇は16代・仁徳天皇よりも「5代」あとの天皇だが、雄略は仁徳の孫とされるので「3世」の子孫だ。「5代将軍」徳川綱吉は、徳川家康の曽孫で「4世」の孫。
 八幡和郎は神武以降の「実在」を肯定しつつ「直系男子」(父子)継承とすると奇妙だと感じているのだろうか。
 かりに初代~10代・崇神までの「全」天皇が実在していたとしてすら、全てが父子継承ではなかったとおそらくほぼ断言できるので(安本美典も同じ)、単純に25×9または25×10年さかのぼらせて神武の時代を推定しようとすること自体が、「思考方法」として間違っているだろう。
 それにそもそも、15代・応神~10代・崇神を原則として在位「25年」で継承したとするのも、安本美典説を知っていれば、安本の推定根拠の重要な部分も上で示したように、そもそも間違っている可能性が高い。
 もともとは、八幡和郎による応神天皇出生346年という「基準年」自体が間違っているだろう(なぜか八幡は外国文献である<新羅本紀>の記載年・記載事項を「そのまま」信じ、かつそれだけを利用している、という問題もある)。
 加えて「25年」説を採用したのでは、各天皇の実際の在位時期は、ますます古くなりすぎているだろう、と推察される。
 これはシロウト秋月瑛二の幼稚な推測だが、15代・応神~10代・崇神の間は9~11年、それ以前は6~9年ごとに、「大王」・「天皇」は交替したのではないだろうか。
 安本美典の推定はこれに比べると穏便で、上の著p.260-1の表は、あくまでさしあたりなのだが、清寧~用明は平均在位年数・10.07年、卑弥呼~雄略は平均在位9.45年としてグラフを作ったうえで、さらにその他の諸考慮要素を含めて、最終的な「推測」、「安本案」にしている。
 八幡和郎の「頭の中」は、中学校の高学年か高校生くらいなのではなかろうか。
 原史資料を日本書紀を除いては読まず、主立った関係文献のうち通説または有力説だけを調べて、八幡和郎程度の「推測」は可能だろう。参照文献を一切載せることなく、まるで「自分の頭」でゼロから考え出したフリをすることも可能なのだ。
 八幡和郎の崇神天皇年代論にもとづくと、容易に(八幡は北九州説なので見向きもしていないが)、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説(箸墓=倭迹迹日百襲姫陵=卑弥呼の墓説)も出てくる。これにはまた別に言及するだろう。

2157/岡田英弘著作集第一巻・歴史とは何か(2013)②。

 過去になった歴史に、正しい/間違い、よかった/悪かった、正統/逸脱、という違いなどない。少なくとも単純・幼稚には、この区別を想定したり、論じたりしてはならない。本質的には、これらを問題にしても<無意味>だ。
 <歴史の教訓>は大切かもしれないが、それからどのように「学ぶ」かは、各人の現在の主観的・「政治的」な願望を反映している。
 岡田英弘著作集第一巻・歴史とは何か(藤原書店、2018)。前回のつづき。
 ・「歴史には一定の方向がある、と思いたがるのは、われわれ人間の弱さから来るものだ。
 世界が一定の方向に進んでいるという保証は、どこにもない。
 むしろ、世界は、無数の偶発事件の積み重ねであって、偶然が偶然を読んで、あちらこちらと、微粒子のブラウン運動のようによろめいている、というふうに見るほうが、よほど論理的だ。」
 ・「しかし、それでは歴史にならない」。人間の「理解」とは「ストーリー」・「物語」を与えることだ。「名前」を付けることも「名前という短い物語」を作ることだ。「物語」がなければ「人間の頭では理解できない」。
 「だからもともと筋道のない世界に、筋道のある物語を与えるのが、歴史の役割なのだ。
 世界自体には筋道がなくとも、歴史には筋道がなければならない。
 世界の実際の変化に方向がないこと、歴史の叙述に方向があることは、これはどちらも当然のことであって、矛盾しているわけではない。」
 ・「世界はたしかに変化しているけれども、それは偶然の事件の積み重なりによって変化するのだ。
 しかし、その変化を叙述する歴史の方は、事件のあいだに一定の方向を立てて、それに沿って叙述する。
 そのために一見、歴史に方向があるように見えるのだ。」 以上、p.145。
 ・マルクス主義の史的唯物論の根底には「歴史が、古代のローマ帝国から、…19世紀の西ヨーロッパの段階に進化しようとして、<中略>足踏みを続けてきて、今ようやく資本主義の時代にまで進化したのだ、という感じ方がある」。
 さらに遡ると、マルクス主義の起源は「古代ペルシアのゾロアスター教」につきあたる。ゾロアスター教では世界は「光明(善)」と「暗黒(悪)」の二原理から成り、両者は闘っているがいずれ前者が勝利し、両者は分離して時間も停止し世界も消滅する。「その前に光明の子が下界に降臨して人類の王者となり、理想の世が実現する期間がある」。
 「この思想が、ユダヤ教によってメシア思想になり、ユダヤ教のメシア思想が独立してキリスト教の『終末論』と『千年王国』の思想がマルクス主義に入った」。
 だから、「共産制のような理想の社会を想定する」のは「マルクスが合理的に考えつめた結果」の「独自に到達した未来像ではない」。「ゾロアスターというペルシア人の思いつきが、今もなお生き続けているにすぎない」。以上、p.144。
 ・マルクス主義者は、「世界の究極のあるべき姿が、社会主義、共産主義だ、という」。
 「これは、思想というよりも気分だ。情緒的な枠組みと言ってもいい」。
 「この世界が最終的にどうなるかは、目の前の現実には関係なく、あらかじめ決まっている、という信仰は、現実にとまどい、対応しかねている凡人にとっては、わかりやすく、受け入れやすい、安心できるものだった」。
 ・「明快は明快だけれども、非現実的な空想だったマルクス主義は、<中略>…が、それでもマルクス主義の影響は、まだきわめて深刻だ」。「発展段階説の影響は、歴史の捉え方にありありと残っている」。以上、p.145。
 ***

2156/岡田英弘著作集第一巻・歴史とは何か(2013)①。

 人間は「時間」をどう感得し、認識してきたか。
 ヒトが誕生し、何らかの知的関心が芽生えたそのときから、地球上のほとんどで、明るい・暗い、昼と夜、という繰り返しを判別することができたに違いない。
 その「一日」という感覚は、まさに「日」という語でも表現されているが、「地球が自分の軸のまわりで一回時点する」時間的距離をいい、明暗は太陽の存在による。太陽は朝昇り、夕方に沈み、夜になった。
 太陽に次いで、または同時に、「月」も意識されたに違いない。月はほぼ真っ黒から満月になり、欠けていく。この循環から、人間は、まさに「月」という語でも表現されているが、「一月」という感覚をもった。そして、「一月」はおおよそ28ー30日だということも、早くから知ったに違いない。一月は「月が地球のまわりを回る公転一回転」に要する時間的距離だ。
 また、赤道真上か両極上でないかぎり、おおまかには春・秋あるいは冬・夏という感覚ももち、春夏秋冬があるということも、地球上の立地にある程度はよるが、気づいただろう。そして、おおよそは12月余でその一周・一循環が過ぎる、そして再び新しい循環が始まる、ということも知ったに違いない。「一年」という感覚だ。ここになるとある程度の注意力の蓄積が必要だつたかもしれない。集団的記憶・知識の累積が必要だっただろう。
 では、「一年」より先は、時間をどうやって捉えたのか。
 一年の繰り返しだから、その数を記憶していけばよいが、起点は人間によって異なって普遍的ではないし、個々の「人生」の長さには限りがある。
 一個人にとってすら、「生まれてから」何年かは生後に教えられなければ分からないし、記憶が始まってから数えても、50~100回以上も数えることはできない。
 「そこで、個人の範囲の限界を超えた時間を、どうやって管理するか、という根本的な問題が起こる」。
 ***
 岡田英弘著作集第一巻・歴史とは何か(藤原書店、2013)。
 上は、この本のp.136ー7に刺激を受けて書いた。長い「」内は、これからの引用。
 すでに№2152(2/09)でこう書いてしまっている背景も、たぶん同じだ。
 「太古の日本人(日本列島居住者たち)は「時間」や「方位」をどうやって感得し、把握したのだろうか。
 何らかの知識を蓄えていたに違いない。そうでないと、生き残ることはできない。
 だが、おそらくは公式の仏教伝来以前から、半島や大陸の人々との交流を通じて、「時間」(=つまり「暦」)や方向・方位に関する、より綿密で体系的な「知識大系」を得てきたのだろうと推察している。」
 「一日」・「一月」・「一年」を発見した日本列島人はどうやって、「一年」の反復以上の時間を感得し、認識したのだろうか、ということも上には含めている。
 古墳や考古資料にどういうものがあるのかの正確な知識はないが、日本列島の独特の「紀年法」あるいは「暦」があったようには思えない。かりに言語があり、列島の人々に断片的「認識」があったとしても、まだ<理論>・<体系>とは言い難かっただろう。
 日本書記もその少し前の古事記も、時間・「年」を、①天皇即位年や②元号の初年を基準としていることがあるようだ。しかし、①は「天皇」または「大王」の所在を前提とし、②はもっと遅れて、「元号」の使用を前提とする。
 これら以外では一般には、③いわゆる<干支>が用いられたようだ。この<干支>は日本創始のものではないと考えられる。
 乙巳の変(645年)、壬申の乱(672年)、戊辰戦争(1868年)等々、今日でもこれを使って歴史事象が表現されることがある。「甲子園」というのもある。
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 再び、岡田英弘著作集第一巻・歴史とは何か(藤原書店、2013)。
 第Ⅱ部・歴史の定義と国民国家/第1章・あらためて歴史を定義する。
 これの「1・歴史の定義」の中に上で参照した文章がある(p.136ー7)。
 この「1」のまとめ的文章は、つぎのとおりだ。p.141。
 「直進する時間の観念と、時間を管理する技術と、文字で記録をつくる技術と、ものごとの因果関係の思想」、この「四つがそろうことが、歴史が成立するための前提条件である」。
 「2・時代区分は二つ」の中にも、有益な文章はある。これら1・2の原書にあたるのは岡田英弘・歴史とは何か(文春新書、2001)の一部だとされている。
 歴史学とは総合人間学そして総合人文学であり、人文・社会・自然を超えた<総合・統合>学だということがあらためて感じられる。いわゆる狭義の「文学」者がよくなし得るものではない。

2155/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典⑥。

 八幡和郎が崇神天皇=「壱与」(卑弥呼の次世代)と同時代とするために346年を「基準」年としていることはすでに触れた。
 346年=神功皇后新羅出征年・応神天皇誕生年、だ。なお、日本書記に従うと、応神の誕生は、仲哀天皇の死の同年か翌年になる。
 A/八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。
 この著によると、前回までには紹介を略したが、①346年と⑤崇神=「3世紀中頃(から後半)」までは、つぎのように「推理」される。p.131ー2。
 ②応神には兄がいるので父・仲哀天皇と「30歳以上は離れているとみるべき」だ。そうすると、仲哀の誕生年は、「310年代後半ごろ」だ。
 ③仲哀の父・ヤマトタケルは「若くして死んだらしい」ので、両者の年齢差は小さく、ヤマトタケルの「活躍」時期は、「4世紀初頭あたりということになる」。
 ④ヤマトタケルは父・12代景行天皇の「比較的若いころの子供のよう」だ。
 ⑤その景行天皇の祖父・10代崇神天皇の「全盛期」は「三世紀のなかごろということになる」。「そうすると」、崇神天皇は卑弥呼の後継者である「イヨの同時代人」ということになる。
 はなはだ漠然としていると思える。
 B/八幡和郎・最終解答・日本古代史(PHP文庫、2015)。
 このB著で八幡和郎は、崇神以降の「推定生年」および神武天皇以降の「推定即位年」を記した表まで示している。
 その際の根拠として、先の書の「346年基準」のほか、つぎを加えていると見られる。
 ①「若いころの子か年を取ってからの子かなどというあたりを加味」する。p.67。
 ②各世代の差を(仲哀ー応神36年のほかは)「25歳」とする(=25歳のときの子だとする)。p.79。仲哀ー応神を36年とするのは、応神には異母兄がすでに二人いたことからの推定だ。p.78。
 なお、③「系図」(+実在)は正しいとする、というのが前提。p.67。
 八幡による崇神以降応神までの即位年・出生年の推定(左)とすでに記した安本美典による推定(右)を比較してみよう。②の安本は、仲哀+神功皇后。
 ①15応神天皇-出生346年/即位380年頃。安本・在位402年~425年。
 ②14仲哀天皇-出生310年/即位4世紀中。安本・在位390年~402年。
 ③13成務天皇-出生265年/即位4世紀前。安本・在位386年~390年。
 ④12景行天皇-出生260年/即位300年頃。安本・在位370年~386年。
 ④11垂仁天皇-出生235年/即位3世紀後。安本・在位357年~370年。
 ⑤10崇神天皇-出生210年/即位3世紀中。安本・在位343年~357年.
 この項の前回までの比較表よりも詳しく、八幡によるその点は無視するが、微細に異なる点もある。
 安本推計については、同じく前々回④の記述を参照。
 そこで参照したのは、安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)だった。
 それとおそらく全く同じ表(と叙述)が、以下にも掲載されている。
 安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)。
 ともあれ、崇神天皇について、約100年の違いが出ている。
 この違いは、01/安本の「基準年」は応神出生=346年ではない。02/安本は一代(世代ではなく天皇在位の代)の差を<10~11年>と見る(詳細は省略)、03/安本は八幡が考慮しない要素も考慮する、ということにあり、決定的には01と02によるだろう。
 ところで、八幡和郎が上のように推定している主目的は、(最終的には邪馬台国大和説の否定(北九州邪馬台国僭称説)で)、卑弥呼・壱与の時代は崇神とほぼ重なっており、前者が大和王権の祖ではあり得ない、と主張することにある。
 上のBでこう書かれる。
 「壱与が女王だった時期が崇神天皇の在世中あたりだつたということはかなりの確率で間違いありません」。p.80。
 上のAでは、こうだった。p.132ー3。
 「邪馬台国は大和朝廷の前身だという可能性は、普通には完全に排除されるべきものだろう」。
 「4世紀に…朝鮮半島に軍事介入した大和朝廷は、邪馬台国に卑弥呼という女王がいて、洛陽の都に使いを送ったことをまったく記憶していなかったことは確かだ」。
 ところで、八幡和郎は、上のB(2015年)で、上の部分を含む表を見よとしつつ、つぎの<おそろしい>ことも書いている。
 「中国政府は、…〔中国の〕古代史の実年代についての公的解釈を統一しましたが、日本政府も是非するべきだと思います」。
 日本書記と古事記で一致がなく、また古代諸天皇の「実在」否定説も有力にあるにもかかわらず、八幡は、「日本政府も是非」、「古代史の実年代」を統一すべきだ、と主張するのだ。
 よほど、自分の推定に「自信」があるのに違いない。
 「『日本書記』の系図や統一過程は全面的に信用できる」。p.64の見出し。
 「崇神天皇から応神天皇までの実年齢を推定するのは簡単」。p.73の見出し。
 「古代天皇の実年代はこうだ!」。p.77の表のタイトル。
 異様であり、傲慢だとしか思えない。
 学者でも一致がないか、議論すらしていない事項について、八幡は「日本政府も是非」、「古代史の実年代」を統一すべきだ、というのだ。道徳・倫理についての<教育勅語>〔1890年)による緩やかな統制よりも、おそろしい提唱ではないか。
 ***
 八幡和郎は、学説上の根拠文献・参照文献を、上の点に特定しては、一つも挙げていない。
 八幡和郎の「頭の中」に関して、いぶかしく感じているのは、少なくともつぎだ。
 第一に、八幡は崇神天皇の「全盛」年を3世紀中頃とか3世紀中頃以降後半とかとも書いている。上のBでは「出生210年/即位3世紀中」とやや特定した。
 崇神天皇の在位年は日本書記によると(干支年の「翻訳」が必要だが)紀元前97年~紀元前30年とされるが、「繰り上げ」があって信頼性がないするのが通説だろう。
 一方、古事記の<分注・没年干支>によると解釈により258年と318年のいずれかだとされる(60年周期で干支は同一になる)。
 これを八幡は考慮していないようだといつぞやは書いたが、八幡の崇神出生210年という推定は、前者の258年(没年)にかなり近い。
 安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)のp.190やp.205によると、那珂通世(紀年論先駆者)や水野祐(三王朝交替説論者)は記載がある場合の<古事記・没年干支>を信頼できるものと考え、前者は258年説、後者は318年説に立った、という。
 八幡和郎は、これらの説を知っている可能性がある。そのうえで、那珂説に傾斜して自らの出生年推定を導いているのではないか。
 第二に、その意味自体については争いがない<古事記・没年干支>によると、応神の父とされる仲哀天皇の没年は362年、応神天皇の没年は394年だ。八幡はこれについて何ら言及することなく、応神には兄がいたうんぬんだけ述べて、仲哀ー応神を36年とする。
 差は古事記によれば32年、八幡によれば36年。これは偶然だとは感じられない。八幡は、古事記による記載をある程度は信頼して「安心して」、両者は「30歳以上は離れているとみるべき」などと書いているのではないか。
 第三に、八幡は、各世代の差を(仲哀ー応神36年のほかは)「25歳」と想定する。在位期間と即位後の生存期間は同じ意味ではないが、父子直系継承の場合はこれら二つは同じだと見てもよいだろう。しかし、「25年」の根拠はいったい何か?
 上の安本美典著(2003年)によると、古代の天皇一代の長さについて、津田左右吉は20~25年(安本p.159)、直木孝次郎・井上光貞は20~30年(p.160)、那珂通世はほぼ30年(p.177)と想定して、各(実在)天皇の在位期間等を推定した、という。
 これらと八幡和郎が推論根拠とする「25年」もまたおおよそ一致しており、八幡はすでに何らかの学説・文献上の知識にもとづいて、「安心して」書いているとみられる。
 安本美典はこれを<長すぎる>とする。
 いずれにせよ、八幡和郎は、まるで自分の「頭」でだけ考察したかのごとく記述し、かつまたこれら学者たち以上に?傲慢にほとんど断定し、「政府」が古代の「実年代」を確定せよという趣旨まで書いてしまう。これは、異常・異様だろう。研究書の体裁をとらない新書・文庫では、何を書いてもよいのか。

2148/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典⑤。

 日本の天皇(さらに卑弥呼・天照大御神まで)に関する安本美典の「年代論」は、すでに言及している、つぎの一部にも書かれている。
 安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)。
 つぎの著にも、興味深い資料が掲載されているので、紹介しておこう。
 安本美典・新版/卑弥呼の謎(講談社現代新書、1988)。
 この著p.93以下によると、徳川幕府の各将軍、足利幕府の各将軍、鎌倉幕府の将軍・執権の「在位」年数の平均は、ぎのようになる。それぞれについて、各将軍等ごとの「補任・辞任」の年の一覧表(後二者については「月」も)掲載されているがここでは省く。
 最終的にはつぎのとおり。Bでは空位期間を含む/含めないの二つがある。
 A/徳川幕府・15代・1603~1867年-平均17.67年
 B/足利幕府・16代・1338~1573年-平均14.69年/13.50年
 C/鎌倉幕府・19代・1192~1333年-平均08.32年
 日本の3例の比較だが、時代が古くなればなるほど短くなっている。
 中国の「王」の在位年数の、世紀別平均年も掲載されている。根拠となる史料は、東京創元社・東洋史辞典の巻末「アジア各国統治表」のうちの「中国歴代世系表」上の、「即位・退位」時期のようだ。複数の王朝に分立している場合は、それら全てを合算して計算していると見られる。
 A/17~20世紀・15王・延べ334年-平均22.27年
 B/13~16世紀・33王・延べ476年-平均14.42年
 C/09~12世紀・96王・延べ1308年-平均13.63年
 D/05~08世紀・83王・延べ845年-平均10.18年
 E/01~04世紀・96王・延べ965年-平均10.05年
 時代が古くなればなるほど、短くなっている。計算の詳細な過程は書かれていないけれども。
 何のために安本美典がこういう作業をしているかというと、日本の各天皇の「在位」のおおよその期間を推論するためだ(なお、卑弥呼または天照大神の世代にまで及ぶ)。
 安本美典は、珍しく?、欠史八代も含めて、神武とそれ以降の天皇の「実在」を想定する。この点で、八幡和郎と同じだ。
 但し、安本はさらに神武以前の天照大御神までの「世代」数(5)も、日本書記に書かれているとおりだと仮定する。但し、日本書記上の生没年等の記事は(ある天皇以前は)全く信用しないし、直系継承ではなかっただろうともほぼ断定する。
 一方、八幡和郎による「崇神」=「壱与」までの推論の計算根拠は定かではなく、神武と崇神の間の代数については、「実在」か否かを疑っているフシもある。以下がその部分の叙述だ。下掲書、p.30ー31。
 「もし、神武天皇から数えて崇神天皇が10世代目というのなら、神武天皇はだいたい西暦紀元前後、つまり金印で有名な奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったころの王者だということになります。
 しかし、10代めというのは少し長すぎるので、実際には数世代くらいかもしれないとすれば、2世紀のあたりかもしれません。」
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2011)。
 八幡によると、崇神天皇は「3世紀中頃から後半」(上掲書p.30)。
 上の前半は神武~崇神をおよそ250-270年間とするようだ。かりに神武「全盛」期を紀元0年前後とし、崇神の「3世紀中頃から後半」を260年だとし、そして10世代・10天皇で割ると、一天皇在位平均は、26年になる。280年だとすると、28年になる。
 上の後半では、「数世代」=「3世紀中頃から後半」マイナス「2世紀のあたり」だ。
 かりに「数世代」=2~4世代で、かりに「3世紀中頃から後半」を260年、「2世紀のあたり」が110年、だとすると、260-110=150を前提として、1世代=150÷2~4で、平均は37.5年~75年、ということになる。しかし、「かりに」が多い。いずれにせよ、八幡和郎における「推論」・「推測」の計算根拠はよく分からない。

2147/岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(2014)②。

 岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(藤原書店、2014)。
 以下、第Ⅴ部・発言集より。
 <日本の神話の起源
 ・「日本の神話の起源を論じるときには、二つの点から考えなければならない。
 一つは、神話というのは「現実を説明する方途」の一つだ、という点である。
 これは歴史と同じ機能なので、神話と古代史は混同されやすいのである。」
 ・日本の神話も「実際に行われていた祭りや宗教儀式の説明として、『日本書記』が編纂される過程で、新たにつくりだされていったのであろう」。
 ・「日本の神話は、時系列に沿って物語が進行する特異な構造になっている。それがギリシア神話などと大きく違うところである。
 『日本書記』を書いた人々は、『史記』、とくに「五帝本紀」の叙述の仕方を、明らかに意識していたと思われる。
 「五帝本紀」の「帝」というのは、天の神であり、また大地母神の夫であり、「五帝本紀」は、五人の帝が交代で天下を統治する、という筋書きである。
 『日本書記』を歴史に組み替えるとき、「五帝本紀」を意識して、同じようなパターンで神々の行動を時系列に並べた、ということであろう」。
 ・「もう一つの点は、神々の中心をなす神格が、アマテラスオホミカミになっていることである。…。それなのに中心の神格となっているのは、壬申の乱はアマテラスオホミカミの庇護によって成功した、という当時の人たちの認識が働いているからである。
 アマテラスオホミカミが中心に据えられていること一つをとっても、日本神話が今のような形をとった年代がわかる。」
 以上、p.505-p.506。初出、シンポジウム「古代史最前線からの眺望」月刊正論(産経)1998年5月号p.319-p.320。
 <古代から大和民族は存在したか
 ・「民族というのは、20世紀になって発生した観念である。19世紀に興った国民国家という体制が生んだ観念だと言っていい。
 現実に、大東亜戦争のあと、…独立した諸国を見ると、初めはそこに民族などない。独立してから民族をつくり始めている。」
 ・「大和民族はどうか。じつは日本人のあいだで民族という観念が共有されるようになったのも、20世紀に入ってからのことである。そもそも「民族」という言葉には外国語の用語がない。
 20世紀になって、日本で発明された純粋の日本語なのである。」
 ・「7世紀の日本天皇の出現で大和民族が生まれたのではないか、と疑問を持つ人がいるに違いない。じつは、そのときできたのは、民族ではなく、いわば日本というアイデンティティなのである。」
 ・「当時の日本列島には倭人のほかに、新羅人も百済人も高句麗人もいた。韓半島を見ても、新羅には高句麗人も百済人も漢人もいたし、百済には倭人も新羅人も高句麗人も漢人もいた。…。
 つまり、日本列島も韓半島も、さまざまな人たち、異質の者たちの雑居状態だった。」
 ・「こうした状況を変えたのは、シナにおける唐の勃興である。
 唐の皇帝に対して独立を保つために、日本という政治的アイデンティティが急遽発明された。
 白村江の敗戦以前にも倭王はいたが、日本列島全体を支配していたわけではなかった。日本はいわば連合組織だったのだが、唐という脅威を前に、その連合組織が団結した。
 3世紀、倭人の諸国が寄り集まって選挙で卑弥呼を女王に立て、後漢王朝が滅びた大混乱に対処したのと同じようなことが、このとき繰り返されたのである。
 天皇という王権に人々が結集した。そこから新たに日本文明が発達をし始めるのである。」
 以上、p.511ーp.513。初出、、シンポジウム「古代史最前線からの眺望」月刊正論(産経)1998年5月号p.327ーp.330。
 *** 

2146/岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(2014)①。

 岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(藤原書店、2014)。
 これのうち、第Ⅰ部/<日本の歴史への基本的視点>のうちの「倭国をつくったのはだれか」より。
 ・「『日本書記』に特徴的な記述の第一は、紀元前660年に最初の天皇・神武が即位して日本が生まれ、日本は紀元前7世紀以来、天皇によって統一されていたとしていることにある。
 これが嘘であることはだれが見てもわかるのだが、『日本書記』のそもそもの目的からすると、そのようにしなければならなかった。」
 ・…。「こうした構成がとられたのは、舒明系統の流れをくむ日本の皇室が、みずからの尊厳を正当化するという目的があったからだ。神武以来の、架空の「万世一系」の系譜をつくり、みずからの王権の古さと由緒の正しさを主張すること、ここにこそ『日本書記』編纂の目的があった」。以上、p.31。
 ・「日本が建国される以前の日本列島には何があったか。
 先に触れたが、そこには「倭国」と呼ばれる有力な王国があった。
 この倭国はけっして日本列島を統一していなかったし、倭国王が列島のなかの唯一の王だったかどうかはきわめて疑わしい。
 7世紀のシナの史料『隋書』や『北史』の「倭国伝」をそのまま解釈すると、倭国は日本列島を統一するような国ではありえなかった」。以上、p.32。
 ・「紀元57年の「漢委奴国王」の金印に触れた記事が、『後漢書』の倭伝にある。
 …。倭人の代表を「王」に任命したということは、倭人が今後漢の皇帝と交渉しようとする場合、その窓口にいる倭人の「王」を通さなければならない、という「お墨付き」を与えたことになる。
 奴国は博多湾にあり、韓半島に渡る出発地だった。倭人社会の出入口に位置する場所の酋長に「王」の称号を与えて、いわばシナの名誉領事的な地位を授けたのである」。p.43。
 ・「それから50年経った107年に倭国王・帥升が歴史に現れる」。
 その頃の後漢王朝は内外ともに混乱していた。「困難な情勢を乗り切るために後漢が演出したのが、倭国王・帥升の使いだった。 
倭国王の使者は、107年に生口(奴隷)を従えて洛陽に現れ、倭国王が自身で来朝して皇帝に敬意を表したいと申し出た。…。
 「王」の使者の来朝は、シナの政治の安定に重要な意味を持った。
 朝貢を受けた皇帝には、異種族を感化する徳がある、という証明にもなるからである。
 この朝貢は、あくまでシナ側の都合によって演出された事件だった」。以上、p.44。
 岡田英弘、1931~2017。
 少なくとも近年の西尾幹二の「取り憑かれ」ぶりよりは、冷静だ。

2139/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典④。

  八幡和郎が考えるように、邪馬台(ヤマト)国と大和朝廷・「天皇」・「日本」は連続していないとすれば、後者の皇統にある者たちがのちに「倭」とか「大倭」という語を国名や天皇の和風諡号に使ったのは、とんでもない間違いをしていたことになるだろう。
 その理由を論理的に想定できるのは、つぎの可能性だ。
 本当は「邪馬台国」も「卑弥呼」も自分たちとは関係がない、本当は遠い先祖や先輩たちでなかった。それにもかかわらず、天武・持統や日本書記編纂者等は<勘違い>をして、自分たちは魏志東夷伝倭人条に出てくる「邪馬台国」や「卑弥呼」の後継者だと思い込んだ。そして、この大いなる誤解のもとで、正規の文書や史書でも「倭国」とか「倭根子…」という語を使ってしまった。
 こんな大きな勘違いをしたのだろうか。しかし、中国(魏)の史書を見ただけで、自分たちは「倭国」の「倭人」たちの後裔だと思い込んでしまうものだろうか。
 それに、のちに「邪馬台国が滅びて数十年たったあと」で「その故地を支配下に置いた大和王権」は、その九州の土地で、大陸とやり取りのあった「女王の噂」など本当に「何も聞かなかった」のだろうか。
 八幡和郎は、「女王の噂など何にも聞かなかったというだけで、すべて問題は解決する」と言う。しかし、八幡によると崇神天皇は「壱与」と同世代なのだが、崇神の孫の景行天皇または崇神の曽孫のヤマトタケルが九州を支配したとき、その土地の人々の全てがはかつての「女王国」・「邪馬台国」に関する記憶を全く失っていたのだろうか。それほどまでに完璧な「邪馬台国の滅亡」があったのだろうか。
  シロウトの気楽さで、もう少し八幡和郎の「頭の中」を覗いてみよう。
 万世一系の天皇と邪馬台国は何の関係もないはずなので、八幡は論及する必要もないのだが、上記のとおり、崇神天皇は「卑弥呼」の後継者とされる「イヨ」の「同時代人」だとほとんど断定している。
 A/八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。
 p.132-「邪馬台国の卑弥呼の没年は240年代とされ、そうすると崇神天皇はその後継者であるイヨの同時代人ということになる」。
 崇神天皇についての推測は、こうも記述されている。
 B/八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 p.30-「だいたい、崇神天皇は3世紀の中頃から後半にかけて活躍されたということになります」。
 p.46-「さらに、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は3世紀のなかごろと推定されます」。
 専門家でも学者・研究者でもない八幡和郎は、なぜこう大胆に書けるのだろうか。
 崇神天皇=「イヨ/トヨ(壱与・台与)」と同時代=3世紀の中頃ないし後半。
 このように八幡が「推論」する、その論理を辿ってみよう。これは紀年論・年代論だ。
  上のBも同旨だが、Aの方が少しは詳しいようなので、以下は、ほとんど上のAを検討対象にする。 
 崇神天皇でもどの天皇でも、歴史上存在しなかった天皇であれは、その在位期間を推測するのは当然に無駄なことだ。実在していたとしても生没年や践祚・即位と退位の年が文献等の上で明確でない場合にこそ、何らかの「基準」となる年を想定・固定して、そこから諸資料を通じて活動・在位の時期を<推論>・<類推>していくということになる。
 講談社の<天皇の歴史>シリーズ(全10巻、2011)にはどの巻末にも歴代天皇表が5頁にわたって掲載されていて、29代・欽明天皇以降については「在位期間」の年月日が記載されている。おそらく、欽明についての539年~571年以降は(月日省略)争う余地が全くないと考えられているのだろう。
 但し、26代・継体の507年即位というのもほぼ史実のように見えるし、稲荷山古墳出土の鉄剣の刻み文字から、21代・雄略天皇の活動年は471年を跨ぐ前後ということも、学界でもおそらくほとんど一致して承認されているかと思われる。
 不分明になるのは日本書記が記す天皇没年(これはふつうは次代天皇の践祚または即位の年だ)と全天皇についてではないが古事記が記載する没年(古事記没年干支)とが一致していない天皇からだ。
 それでも継体までは辛うじて「ほぼ一致」と言えるが、それ以前はかなり異なっている(允恭についての453年・454年、雄略についての479年・489年はまだマシだ)。
 崇神天皇については、日本書記では没年は紀元前29年とされ、古事記では(干支は明確でも60年毎に同じ干支になるので)318年説と258年説があるらしい。
 後者の258年というのは、八幡「推論」の結果とかなり近いが、八幡が干支年にこだわって上の後者を採用しているわけではない。
 さて、八幡和郎が確からしいとして「基準」とする年はいつなのだろうか。
 上のAによると、つぎのとおり。
 神功皇后の朝鮮半島への遠征年=応神天皇の出生年、346年。p.130-1。
 神功皇后による<三韓征伐>の記録・伝承を背景として、つぎの①と②の二つを根拠としていると見られる。そして、これらから、③の<推論>が行われる。
 ①<新羅本紀>によると、「倭人」が新羅の首都・金城を包囲したのは、346年と393年の2回。神功皇后の遠征年はこれらのうちいずれかだ、と八幡は考える。
 ②石上神宮にある国宝「七支刀」の刻み文字から、「369年」に百済王から倭王に送られたものだと分かる(この説が「多い」)。
 ③このときすでに「対百済外交」が行われていただろうから、①の346年と392年のうち、早い方の346年の「ことだろう」、とする。
 七支刀については、八幡自身によって「『日本書記』で神功皇太后に贈られたとされている」と説明されている。
 この日本書記の原文(但し、現代語訳文)は、つぎのとおり。秋月がつぎの著で確認する。
 新編日本古典文学全集/日本書記1・巻一~巻十(小学館、1994)、p.461。
 「〔神功〕摂政52年秋9月の丁卯朔の丙子(10日)に、…らは千熊長彦に従って来朝した。
 その時に、七枝刀一振・七子鏡一面をはじめ種々の重宝を献った。
 そうして謹んで、『…。…。この水を飲み、そうしてこの山の鉄を採って、永く聖朝に献上いたします。次いで、「百済王が孫の…に語って、……」と言いました』と申し上げた。これより後は、毎年相次いで朝貢した。」
 ここにある一振りの「七枝刀」が、現存する上の「七支刀」のことだと(たぷんほぼ一般的に)考えられているようだ。
 さて、出発点としての「基準」年はむろん最も重要なはずだが、このような論拠と推論でよいのだろうか。
 むろんよくは分からない。しかし、つぎの重要な疑問が生じる。
 第一に、神功皇后の遠征「年」を、倭人が「新羅の首都・金城を包囲」した記録が残るという、上の二つの年に限定しまうのは、それでよいのか。
 346年と393年の二つだけで、しかもこれらは47年も隔たっている。
 神功は、半島にまで身重で出征して帰国して現在の福岡県宇美町で応神天皇を生んだ、とされる。
 「新羅の首都・金城を包囲」していなくとも、神功皇后が半島にまで出向いたと理解してよい年は、ほかにもあるのではないか。
 当時の半島には百済・新羅・高句麗の三国があったが、高句麗に向かったかもしれないし、新羅への軍に同行したが首都を「包囲」するまでには至らなかった、ということもあり得るだろう。
 安本美典・神功皇后と広開土王の激闘(勉誠出版、2019)。
 上の安本著は、高句麗の「広開土王碑の碑文」には、つぎのことも書かれていた、という。p.95-96。
 01/391年-倭が「海を渡ってきて、新(?)羅を破り、これを臣民とする」。
 02/400年-倭が「新羅城のうちに満ちあふれていた」。
 03/404年-倭が「不軌にも帯方界に侵入」した。
 また、<新羅本紀>と日本書記には、八幡の挙げる393年のほか、つぎの情報も記述されている、という。
 04/402年-「王子の未斯欣が、倭の人質になった」。
 この04の新羅王子「未斯欣」は、上記の日本書記1p.431に出てくる「微叱己知」と同じ人物だろう。
 また、この「微叱己知」を「質」にした記事は、こういうことも書いている。神功皇后が新羅まで行っていることは(日本書記上でだが)明らかだ。
 05/402年?-新羅王を誅殺しようとある者が言ったが、皇后は「自ら降伏してきた者を殺してはならない」と言い、新羅王の縛を解いて、地図・文書等を収め、「矛を新羅王の門に立て」た。
 これら5件はいずれも、八幡が基準とする346年よりもかなり後のことだ。
 第二に、「七支刀」は神功皇后の時代に献上された、と日本書記は確かに記述している(摂政52年9月の条)。
 しかし、八幡自身がp.130で「これを贈られたのが本当に神功皇太后だったかどうかはともかくとして」と明記するように、誰がもらった刀なのかが、刀自身から明確になるわけではない。せいぜい「倭王」としか理解できないだろう。
 従って、七支刀が刻む年号=369年を手がかりとして、346年と392年のうち369年より前の346年を選択する、という八幡の推論方法が適切だとはとても思えない。
 なお、安本の上掲書p.256によると、古事記の「応神天皇記」に、百済・照古王が「横刀と大鏡」を献上した旨の記載がある、という。神功皇后ではなく応神天皇の時代に関する叙述だ。
 さて、346年=神功皇后の「活躍」年=仲哀死後十月十日で応神天皇を生んだ年
 これを「基準」とするのは、かなり危ないように見える。
  八幡和郎は上を「基準」年として、崇神天皇の「全盛時」は、「3世紀のなかごろということになる」、と推論結果を叙述する。
 「基準」年が大幅に間違っていると、推論結果も間違っている可能性が高いだろう。
 安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)。
 この書は末尾に、推古天皇~卑弥呼の間の、天皇在位・「活躍」期間を想定した安本による図表(・グラフ)がとじ込みで添付されている(厳密な数字化はされていない)。
 この1987年書での図表・グラフを現在の安本は放棄したわけでもなさそうなので、応神~崇神に限って、八幡和郎による想定と比較してみよう。*は、神功皇后と計。安本推定の細かな数字は、グラフに対する秋月の目視による。
 ①15応神天皇-八幡・出生/346年。  安本・在位/402年~425年。
 ②14仲哀天皇-八幡・出生/310年代後半。安本・在位/390年~402年*。
 ③12景行天皇-八幡・全盛/3世紀末? 安本・在位/370年~386年。
 ④10崇神天皇-八幡・全盛/3世紀半以降。安本・在位/343年~357年
 このとおりで、崇神天皇について約100年の開きが出ている。
 その結果として、八幡においては神武天皇は卑弥呼よりも前の(昔の)人物であるのに対して、安本によれば、神武天皇は卑弥呼よりも後の(新しい)人物になる。
 知的な「推論」過程・方法の差異に関心がある。もう少しつづけよう。

2137/東大寺二月堂修二会と「御霊」。

 いつだったか、たぶん今年になってから、東大寺二月堂の法会の一つ、修二会に関する興味深い記述を読んだ。最初は下記ではなかったようにも思うが、この著の導入部分のp.10~p.24はほとんど東大寺修二会の話なので、関心をもった部分を要約して、まとめておく。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
  修二会という法会は他寺院でも行われるが、東大寺では752年開始。聖武天皇の時代。
 〔*長屋王の変/729年・藤原四兄弟疫病死/737年ー秋月〕
 「薬師悔過・阿弥陀悔過・吉祥悔過など」の本尊による「悔過会」の規模は東大寺修二会が最大で、「諸行事・諸作法」が全て出揃っていた。-今日に残るのは貴重。
 第5日・第12日には「過去帳の奉読」がある。東大寺や修二会に「ゆかりの深い」人物を読み上げる作法だ。
 「大伽藍聖武帝」に始まり「聖母皇大后宮」、「光明皇后」、「行基菩薩」、「本願孝謙天皇」、「不比等右大臣」、「諸兄左大臣」、「根本良弁僧正」、「当院本願実忠和尚」と続き、中世・近世そして現代に至る。
 平安期末までの歴代天皇を抜き出すと、<聖武・淳仁・光仁・桓武・嵯峨・淳和・仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上・冷泉・円融・一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉・後三条・白河・堀河・鳥羽・近衛・後白河>の29人。「崇道天皇」=早良親王も出てくる。「なぜ数人の天皇だけが抜けているのか」。
  「過去帳」奉読の由来・起源の特定は困難だ。「呪術作法は明らかに真言密教の呪禁」で、「当院本願実忠和尚」の時代には存在しなかった。
  毎日読み上げられる「神名帳」(じんみょう-)も興味深い。
 日本全国から1万3700余の「神々」を勧請し、加護を祈る儀礼だ。
 「金峰大菩薩」・「八幡三所大菩薩」等の大菩薩号の「神々」→「廿五所大明神」・「飯道大明神」等の大明神。それぞれが大和の「神々」から全国に及んでいく。
 「過去帳」が時間軸で形成されているなら、「神名帳」は空間秩序を表現している。
  「神名帳」が最終段(全九段のうち)に入ると、「奉読にあたる練行衆は急に声をひそめ、重々しい声で『御霊』の名を唱え始める」。
 「八島御霊、霊安寺御霊、西寺御霊、普光御霊、天満御霊、先生御霊、氷室御霊、木辻御霊、大道御霊、塚上御霊、葛下郡御霊」。
 この11柱(「天満先生」を一つとすると10柱)のうち、①「八島御霊」=崇道天皇(早良親王)、②「霊安寺御霊」=井上内親王〔光仁天皇の廃后〕、③「天満天神」=菅原道真であることは「明瞭」だ。「あとはよくわからない」。
 863年(貞観5年)の「神泉苑御霊会」では、①早良親王、②伊予親王、③藤原吉子、④藤原仲成、⑤橘逸勢、⑥文屋宮田麻呂の6人が「疫病をもたら御霊として祀られた」。
 「八所御霊」と使用する場合には、a 「吉備真備・菅原道真」が加わったり、b 「伊予・仲成に代えて」、「井上内親王・他戸親王」が入れられる、ということもある。
 「これらが修二会神名帳の御霊とほとんど重複している可能性は高い」。
  「ともあれ、修二会には御霊信仰が含みこまれていた。敗残・憤懣のなかに死んだ王族や貴族が祟りをなす、それゆえ彼ら・彼女らを祀り慰撫しようとする信仰。その起源もまた、平城京の時代にあった」。
 「亡魂」信仰の初出史料は757年の「橘奈良麻呂の変」に見られるが、729年に「謀殺」された長屋王も、「その怨霊が深く恐れられたと推定されている。いずれも皇位継承をめぐる政争、もっと具体的に言えば、聖武天皇の後継者争いにおける敗北者が、怨霊として畏怖されていることになる」。
 仏都平城京は「御霊信仰の揺籃の地」で、「聖武天皇の存在が大きく関与していた」。
 「神仏習合と御霊信仰の発生は奈良時代の天皇に関わる問題として、深く追及される必要があるだろう」。
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 いつぞやこの欄で触れ、上でも吉川著が言及しているように、今は京都市の「御池通り」の北に接する、「池」をもつ神泉苑で、863年に初回の(公式の)御霊会が開かれた。
 この神泉苑という今では明確に仏教寺院は、<祇園祭>が有名になったためか、祇園祭の「発祥」の地だと宣伝?しているようだ。
 しかし、祇園祭に最も関係のある八坂神社(祇園社)は「神道」の「神社」なのではないか、とすぐに感じる。
 とはいえ、こう簡単ではないのが「ややこしい」ところで、「祇園」という語自体が仏典上の言葉だったこととともに、祇園社はもともとは「日本の神々」を祀った社ではない。前回の所功著によると、例えば、こう叙述されている。
 所功・京都の三大祭(角川ソフィア文庫、2014/原著1996)。
 p.112-八坂神社の呼称は新しく、1868年(慶応4年=明治1年)の神仏分離令にもとづき、「八坂郷」にある「感神院祇園社」を「八坂神社」と改称すると布告されたことによる。
 p.118-「もともと薬師如来を本尊としていた『観慶寺』」が「天神(午頭天王)」を祀る「祇園社(天神堂・感神院)」と称されるようになった。
 p.119-祇園社には「仏教と神道だけでなく、陰陽道などの要素も習合していた」。
 p.123-祇園社には創立まもない935年頃から、①「薬師本尊などを安置する本堂と礼堂」、②「午頭天王などを祀る神殿と礼堂(礼拝殿)」が並存していた。等々々。
 修二会というのは(諸種の習合した)「御霊信仰」の仏教寺院への発展形かもしれないのだが、このあたりにしよう。

2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。

 所功・京都の三大祭(角川ソフィア文庫、2012/角川選書1996)。
 京都の三大祭の論述の前提として書かれているが、上の著の冒頭部分は京都の神社の種々の体系化・分類に役立つ。幕末での天皇の行幸先とか祈祷・神祭を命じる神社についていろいろな神社の名が出てきたりするので、主立った神社を特定して整理したいと思っていたのだが、この書の始めの部分が役立つことに気づいた(すでに傍線まで引いてあった。そして忘れていた)。
 神社本庁とかによる書でどう書かれているのかを調べるのは億劫だ。
 以下、序章(p.13~p.42)から、まとめる。
  延喜式(927年)・神名式にその名が登載されている神社を「式内社」という。全国で3232座・2861所。これ以外を「式外社」という。
 式内社には、神祇官から幣帛を受ける「官幣社」と国司から売ける「国幣社」がある。 官幣社は、京・山城では161座・約100神社、現在の京都市域では88座になる。
 「式外社」のうち、<六国史>に記載のある神社を「国史見在社」といい、山城地域に10数社ほどある。
  平安遷都以前のおおきくは2種の「古い」神々・神社。
  A/「当地にいた人々による」。
  ・左京区岩倉の石座神社・山住神社(のち式外社)の巨岩。
  ・松尾大社・稲荷大社の社殿背後の山、神山(上賀茂神社)・御蔭山(下鴨神社)。
  ・北野「天神」(のちに北野天満宮か)。
  B/渡来氏族による。
  ・月読神社(今は松尾大社の摂社)。
  ・平野神社ー百済出身「今来」の奉斎神。
  ・木島坐天照御魂神社(蚕の社)。
  ・秦河勝による「蜂岡寺」。
  ・秦都理や秦伊侶巨人による松尾大社・稲荷大社の神殿建立。
  ・宮中内の「園韓神社」-内裏造営の際に移転せず。
  ・高麗人後裔による八坂法観寺、新羅から「牛頭天王」の招来。
  平安初期の新しい神社。
  ①平野神社(桓武天皇外戚(高野新笠の父)神で奈良から遷祀)。
  ②梅宮神社(仁明天皇外戚神)。
  延喜式前後。
  A/官幣大社のうち「名神祭」と「祈雨神祭」が重なって、重視。 
  ①上賀茂神社・下鴨神社、②松尾神社、③貴布禰(貴船)神社。
 B/その他、式内社以外。
  ①大原野神社、②吉田神社、③石清水八幡宮、④八坂祇園社、10世紀に⑤北野天満宮。
  平安中期-畿内と近辺の「二十二社制」/朝廷から特別の奉幣。
  うち、京・山城はつぎの11。A「式内古社」・B「式内新社」に分ける。
  A/①賀茂(上・下)、②松尾大社、③平野神社、④伏見稲荷大社、⑤梅宮大社、⑥貴布禰(貴船)神社。山城でないが、近江の⑦日吉社も近い。
  B/①石清水、②大原野、③吉田、④祇園、⑤北野。
  上のうち、「天皇行幸」等慣例化は、つぎの八社。
  ①賀茂、②松尾、③平野、④稲荷、⑤石清水、⑥大原野、⑦祇園、⑧北野。
  室町時代-八社(・六社)への実質的限定。
  ①伊勢、②春日(奈良)/。③石清水、④賀茂、⑤平野、⑥松尾、⑦稲荷、⑧北野。
 歴代足利将軍は、①石清水、②北野に各何十回も参詣。前者は源氏由緒の八幡神(応神天皇)。
 応仁の乱以後、①吉田神社が、②賀茂、③松尾、④稲荷と並ぶ地位を築く。
  明治維新・A/神仏分離。
  1. 石清水「八幡大菩薩」→「八幡大神」。
  2. 愛宕山「大権現」→愛宕神社(へと純化)。
  3. 北野天満宮-境内の観音堂・毘沙門堂・多宝塔等を仏像・教典とともに全て撤去。
  4. 伏見稲荷-境内の文殊堂・大師堂や領内の浄安寺等を撤去。
  B/1872年。
  ・全国社寺「上知令」-境内以外の領地・境内付属地の収公。
  〔*秋月-現在の円山公園は長楽寺の境内地だつた、とされる。〕
  ・世襲社家の一斉解職。陰暦廃止・陽暦(西洋暦)の採用。
  新社格制度(1872年)。
  A/官幣大社-①上賀茂と下鴨、②石清水八幡宮、③松尾神社、④平野神社、⑤稲荷神社、⑥八坂神社(、のち⑦吉田神社)。
  B/官幣中社-①梅宮神社、②貴船神社、③大原野神社、④吉田神社、⑤北野神社。
  C/別格官幣社(官幣小社と同格)-①豊国神社(1874、豊臣秀吉)、②護王神社(1873、和気清麻呂)、③建勲神社(1875、織田信長)、④梨木神社(1885、三条実万)。
  のちの天皇神霊社。
  ①白峯神宮(1873年・官幣中社列格、崇徳天皇。のち1940年・官幣大社)。
  ②平安神宮(1895年・官幣大社列格、桓武天皇。のち1940年、孝明天皇を合祀)。
  戦後。
  すべて、一宗教法人。京都市内の宗教法人神社は300社余り。
 以上。
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 これらの神社のうち、岩や山は別として、愛宕山登山に近いらしい愛宕神社を除き、全て訪問・参詣したことがある。今宮神社が出てこないのは残念だし、不思議。「蚕の社」の三柱鳥居も見た。ー3鳥居が三角形になって向かい合う。建勲神社は船岡山にあるが、眺望は期待できない。
 一般の京都旅行者に、最も知られていない、馴染みがないのは、勝手な推測だが、梅宮大社(四条大宮と松尾大社の間)、ついで御所のすぐ近くだが、護王神社、ではないだろうか。
 下は、木島坐天照御魂神社(蚕の社)の三柱鳥居。ネット上より。


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2131/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章④。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964)。
 第1章・神道の語の種々の意義。紹介のつづき。
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  「神」の語が形容詞として用いられることもある。なお、古典的シナ語では品詞の区別が語形に現れない。
 道家の「神人」の「神」は「道を得た人」の形容であり、シナを「神州」、天下・帝位を「神器」とするのも同じ。いずれも「宗教的意義での神」から転化したものだろう。
 後世でも同様だが、「道教」で「人の形を備えた」「神」への崇拝が始まったように、変化もある。これは「仏または仏教に伴って伝えられたインドの神に関する知識」が誘った趣もある。「仏そのものが神と称せられてもいた」のだから。そして、「仏を宗教的祭祀の対象」と見たからで、「シナにもとからあった神」との区別のために「胡神戎神」という語も作られた。六朝時代の仏教徒が主張した「神不滅」論では、「神」は「形」に対するものだが、現代的意味での「霊魂」の性質をも付与されていたようだ。
  以上のとおりだから、「神道」に種々の意義があるのは当然だ。
 「神」の語は「宗教的意義」をもって、「とくに祭祀の対象」として用いられたから、「祭祀祈祷」または広く「宗教」が自然に「神道」と称せられることとなる例は多く、「仏教もまた神道と言われてきた」。
 「神道」の語は「神を祭る道」、「神についての道」の意味だろうが、「神」を形容詞と見てもよいようだ。そして、形容詞として使われつつ、「宗教的意義」のない「神道」という呼称もある。「道家の道が神道と呼ばれたことがある」のもその例だ。道家が「虚静無為の境地にあるもの」を「神」と称したとすれば、「神道」は「神を説く道」かとも思われるが、「道家の道」=「神道」というのはむしろ、晋代に「易」と道家が結びついたことによるのだろう。
 呪術・その他の方術を「神道」と称するのは、「神」を「不可思議な働き」の意味で用いてその「術」を形容したものだ。
  日本書記で「日本の民族的宗教としての神の崇拝が神道と称せられている」のは、「宗教的意義での神道の名を日本に適用してもの」だ。「ただ、仏が神と言われ、仏教が神道と称されていた実例がシナには多く、日本でも仏が神と呼ばれたことがあるから、仏教に対立するものとしての従来の民族的宗教に神道の名を負わせたことは、この点から見て少しく異様の感があるようでもある」。
 だが、「久しい前からカミの語には神の字があてられていたのと、書記編述のころには、仏を神と呼ぶ習慣もすたれていたようであるのと、この二つの事情から、こういうことが行われたのであろう」。
  こうして「神道」との名称が用いられはじめたが、後世には日本語化して、「神の道」と言うようにもなった。もとの日本語に「神の道」という語があったのではない。「道」という語をこういう趣旨で使うのはシナに限られる。
 人が歩行する道の意味が転じて、「人の行為の規範」、「事物に対する理法」、そしてこれらに関する一定の「教説」、現代語での「主張」の如きもの、または「特殊の知識技術」を指すに至ったのであって、「神道」の「道」もそういう転化しての意味だ。
 日本でも後に、慈遍が「皇道」を、真淵が「神代の道、皇神の道」、宣長が「神の道、日の大神の道、日のみこのうけつたへます道」、「神のみ国」等を言うのは、シナの用例に倣ったものだ。真淵や宣長が「特に」こういう言い方をするのは、「道」を日本語で表現しようとしたからだろう。
 たんに「神道」でも大きな支障はないにもかかわらずこうした語を作った点に「彼らの国学者的態度がある」けれども、「そのじつ、こういう意義で道ということを言うのは、シナ思想を受け継いだものである」。彼らがこうした語を作ったのは「旧来の神道」を非として自分たちの主張は「違う」と示そうとしたのだろうが、「道の語を用いた」ことは、以上のように「考えねばならぬ」。
  「神ながらの道」という語は〔平田〕篤胤に由来するのかさらに〔本居〕宣長に由来するのかは不明だが、「宣長の門下のもの」が使い始めたようだ。
 「神ながら」の語は続紀上での宣明や万葉の歌にもしばしば出るが、これは「道の名でもなく道とすべきことでもない」。古典には「神ながらなる道」は決して見えない。
 篤胤は「惟神」、「神随」を「カミナガラ」に当てた。書記・孝徳天皇大化3年「惟神」の訓読みとその条の注記があるために、「カミナガラ」と「神道」に何らかの関係がある、またはこの語が「神道の中心観念」の表現であると憶測され、「神なからの道」の語が思い浮かばれたのだろう。そして、いったんこの語が出現すると「神道」と同じ昔から、いや「それよりも古く」からあったと世間で「錯認」され、「神なからの道」の語も用いられるようになった。明治初年の大教宣布の詔にも公式に、「惟神之大道」という語がある。
 しかし、「惟神」の二字は「カミナガラ」の語を写しておらず、独立した概念ではなくて、文章の主語はあくまで「神」で、「惟」は発語にすぎない。誤った訓み方が定着し、「後の学者もこれらのことに気づかず」、そうして「神ながらの道」という語が作られ、かつ「古い語」のように思われてきたのだ。
  ①「神道の名に種々の意義」があること、②それが元々は「シナの成語を適用した」ものであること、③それが「いかにしていかなる意義で日本に用い初められるようになった」かは、上記で「ほぼ明らかにせられたと思う」。
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 以上で、第1章は終わり。

2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。

 廬山寺・慶光天皇陵で見た(写真で撮っていた)石製の墓碑・墓基のかたちが気になっていたが、一つは、「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」と呼ばれる種類のものであることが分かった。もう一つは未だに分からない。
 仏教そのものにも、仏像にも仏塔等にも詳しくないから(というよりも無知だから)やむを得ないが、もともとは仏舎利(釈迦の骨)を納める多様な塔(ストゥーパ)に由来するもので、日本では、五輪塔とともに、宝篋印塔は墓基・墓碑または供養塔としてよく用いられてきた様式らしい。五輪塔の方がより一般的で、宝篋印塔はより「貴人」のために用いられたという。五輪塔の大きなものは高野山・奥の院への参道に並んでいるから、何となく知っていた。しかし、「宝篋印塔」なるものには意識も関心も向かわなかった。もちろん、一般的庶民はこんな形の墓基の下に葬られることはなかったし、「墓」というものがなかった死者も一般には多かったのだろう。
 宝篋印塔なる石塔のうちまず目を惹いたのは、中央に立つ円形で重なる九重の石だが、これは「相輪」と呼ぶ部分らしい。そして三重塔・五重塔の先端の「相輪」もやはり九重らしい。三重塔・五重塔を何度見ても、上の方にあるし、数えたことがなかった。
「相輪」部分の下の「笠」のような部分の四隅にあるのは、「耳」・「隅飾り」といい、年代が新しいほど反りが強いとも言われる。「相輪」と「笠」のごとき部分の間にもにもいろいろパーツがあるようだが、省略する。
 なぜ「九重」かというと、「五智如来」と「四菩薩」を全て集めるという意味だったようだが、仏教宗派によってどの如来・菩薩かは異なるらしい。また、三重塔・五重塔でもそうかもしれないが、宝篋印塔の九重の「相輪」製作者・参拝者がそのような意味を逐一意識したかは疑わしいようにも思える。
 九重という点では同じだが、泉涌寺直近の月輪陵・後月輪陵にある多数の陵墓脇の「九重石塔」は、明らかに宝篋印塔ではない。
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 浅井長政は浅井氏三代めで、織田信長の妹の「お市の方」と結婚し、茶々〔淀君〕・初・督(ごう)三姉妹の父となった。
 その浅井氏三代の菩提寺は長浜市にある徳勝寺で、もともとは同市の北方の小谷城跡近くにあったらしい。
 その徳勝寺に三代(亮政・久政・長政)の墓基が並んで残っており、その様式は明確に「宝篋印塔」だ。左が長政。下の写真2枚を参照。
 そんなことを意識しながら他の寺院をめぐっていると、または昔に撮った写真を見ていると、明らかに「宝篋印塔」の供養塔または墓碑らしきものがある。実際には、全国に多数残っているだろう。写真下段の左は、同じ長浜市・総持寺内、右は神戸市・無動寺(福地)内。
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 ところで、泉涌寺直近の月輪陵・後月輪陵に見られる「九重石塔」は石塔としては珍しい種類ではないかと思える。というのは、既に記して、一部は写真も掲載したが、「十三重石塔」が実際にはよりしばしば見られるからだ。
 宇治市・宇治川の中島内の石塔は「十三重石塔」だけで通用するらしい。この十三重の石塔のような建造物を見たがゆえに談山神社(奈良県桜井市。中臣鎌足と中大兄皇子が「談」じた場所とされ、鎌足が主祭神)は寺院なのか神社なのかと拝礼時に一瞬迷ったのだったが(歴史的には神仏習合そのものだったのだ)談山神社の<十三重塔>は木造で日本(・世界)唯一のものらしい。
 談山神社を訪れたとき、そんなことを読んで知ったかもしれないが、忘れてしまうものだ。奈良県室生寺の五重塔は可愛く小さいので、この木製の十三重塔を幅を2-3倍にして、13を5に減らして塔身の「階層」部分を見せれば、小さな五重塔になるのではないかと、幼稚なことを考える。
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2110/大和(おおやまと)神社。

  №2108/2019/12/24 で、本筋にはなくても差し支えない文だったが、「大和神社」にこう触れた。
 日本書記の崇神天皇の項には「倭大国魂神」という神の名も出て来る。「現在にも奈良盆地内ある大和神社(やまと-)は、北にある石上神宮や南にある大神神社ほどには全国的には知られていないが、この『倭大国魂神』を祀っている、とされている」。
 7-8世紀編纂の書の記載とはいえ日本書記の崇神天皇時代に遡るというのだから、大和神社の「歴史」・由緒は古い。
 大和神社の名は「おおやまと・じんじゃ」が正しいので、さっそくに改める。
 この神社で入手できる<由緒略史>には、日本書記の記載と同じまたはほとんど同じことも書かれている。
 三祭神の「中央」に座すのは、「日本大国魂大神」。最初は天照大御神とともに宮中で「同殿共床」で祀られていたが、崇神天皇が「神威」を怖れてこの地に「遷御」させた、その土地にある。この主祭神は「大地主大神」ともいう。
 東京・府中市に(武蔵)大國魂神社がある(拝殿・北向き)。主祭神は同じで、この大和神社の方がおそらく(由来は)古い(拝殿・東向き)。天照大神-大国主命、伊勢-出雲、卑弥呼-男弟、といったことも連想するが、触れない。
  先に戦艦大和の模型を中心に置く小建物があるとだけ記したが、大和神社の<由緒略史>によると、「末社」の一つに「祖霊社」があり、戦艦大和「戦没英霊」2736柱を祀り、1972年9月以降は戦闘巡洋艦矢矧外〔やはぎ〕駆逐艦8隻の戦没将士英霊も合祀して、計3721柱を祀っている。
 戦没者は、全国に(専用朱印帳の記載のみで)53ある護国神社や靖国神社だけに「英霊」として祀られているわけではない。供養塔・紀年碑に当たるようなものが仏教寺院の中に建てられていることがあるし、当該地域出身の兵士たちの墓地が、寺院境内に区画されて存在していることもある。墓なのか供養塔なのか、3基だけの、第二次大戦出征者・戦死者用の仏塔がある小さな寺院を見たこともある。
 上記の大和神社境内には、近傍地区出身者の多数の戦没者氏名を裏面に刻んだ、大きな石碑がある。
 早々に日本会議を連想するのも楽しくはないが、同団体は戦没者慰霊も重要な運動対象にしているはずだ。
 靖国神社公式参拝を、とかを唱える前に、戦没者を祭神として祀ったり、供養している全国の神社・寺院に関する情報を全て把握しているのだろうか。
 <いわゆる保守>=「右翼」系三雑誌、つまり月刊正論(産経)、月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)には靖国神社は出てくるが、「護国神社」に関する情報を(少なくともしばしば読んでいた頃は)見出すことはできなかった。ましてや、その他の、戦没者の墓地や慰霊施設(その他の神社や寺院)に関する情報はおそらく全く掲載されていない。
 いつかも書いたが、沖縄・摩文仁の戦没者祈念碑のすぐ近くに、多少は宗教(=仏教)的な要素も入っているかと感じたが、沖縄戦での戦没者の出身県ごとのかなり立派な慰霊施設についても、当地を訪れるまでは知らなかった。
 「英霊」=戦死者を、現在での<政治>運動のために利用してはいけない。
 「慰霊」、「霊魂」の(とくに生者にとっての)意味には、立ち入らない。
  北の石上神宮、南の大神神社(おおみわ-)と比べると、大和神社への参拝者・訪問者は少ないだろう。
 ひっそりとしていて、そのぶん古さも十分に感じさせて、なかなか魅力的な神社だ。
 観光寺院・神社化している京都・奈良のいくつかの神社仏閣よりは、はるかに、何度も訪れてみたい気分になる。最寄りのバス停・鉄道駅からの田園・住宅地も、上の二神社と同等にあるいはそれ以上に、<大和(やまと)>的だ。

2056/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳。最終章へと移る。分冊版、p.450~。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第1節・「脱スターリニズム化」①。
 (1)Joseph Vissarionovich Stalin は、1953年3月5日に脳卒中で死んだ。
 彼の後継者たちが権力をめぐって立ち回り、誤導的にも「脱スターリニズム化」と称された過程を開始したとき、世界はその報道をほとんど理解することができなかった。
 ほとんど3年後に、それは頂点に達した。そのとき、Nikita Khrushchevが、ソヴィエト共産党に、そしてすみやかに全世界に、進歩的人類の指導者、世界の鼓舞者、ソヴィエト人民の父、科学と知識の主宰者、最高の軍事的天才、要するに歴史上最大の天才だったスターリンは、実際には、妄想症的(paranoiac)拷問者、大量殺戮者、ソヴィエト国家を大敗北の縁に追い込んだ軍事的無学者だった、と発表した。//
 (2)スターリン死後の3年間は劇的瞬間に満ちた時期だった。ここでは簡潔にのみ言及する。
 1953年6月、東ドイツの労働者の反乱が、ソヴィエト兵団によって粉砕された。
 そのすぐあと、クレムリンの幹部の一人で国家保安局の長官だったLavrenty Beriya が多様な犯罪を冒したとして逮捕された(彼の裁判と処刑は12月まで報道されなかった)。
 同じ頃(西側はもっと後で非公式に知ったのだが)、いくつかのシベリアの強制収容所の収監者たちが、反乱を起こした。
 これらの反乱は残虐に鎮圧されたが、おそらくは抑圧制度の変化をもたらした。
 スターリン崇拝者たちは、スターリン死後の数カ月以内に多くは排除された。
 党が1953年7月に50周年を記念して宣言した「テーゼ」では、スターリンの名はわずか数回しか言及されず、いつもは随伴していた称賛の言葉がなかった。
 1954年、文化政策に若干の緩和があり、その秋には、ソヴィエト同盟がユーゴスラヴィアとの和解する用意があることが明らかになった。これが意味したのは、東ヨーロッパ全体の共産党指導者たちを処刑する口実となってきた「Tito主義者の陰謀」という責任追及を撤回する、ということだった。//
 (3)スターリン崇拝とスターリンの疑いなき権威は長年にわたり世界の共産主義イデオロギーの楔だったので、こうした転回が全ての共産党に混乱と不確実さもたらし、その全ての側面について-経済的愚鈍さ、警察による抑圧、文化の隷従化-、社会主義システムに対するますます厳しいかつ頻繁な批判を呼び起こしたことは、何ら疑うべきことではなかった。
 批判は、1954年末以降に「社会主義陣営」の中に広がった。
 最も激烈だったのはポーランドとハンガリーで、これらの国では、修正主義運動-と呼ばれたのだが-は、共産主義のドグマの例外なく全ての側面に対する全面的な攻撃へと発展した。//
 (4)1956年2月のソヴィエト同盟共産党第20回大会で、フルシチョフは、「個人崇拝」に関する有名な演説を行った。
 これは非公開の会議で行われたが、外国の代議員も出席していた。
 この演説はソヴィエト同盟では印刷されなかった。しかし、そのテキストはいく人かの党活動家に知られており、のちにすみやかにアメリカ合衆国国務省によって公表された。
 (共産主義諸国の間では、ポーランドは、信頼されていた党員によってテキストが「内部用に」印刷して配布された唯一の国だったように見える。
 西側の共産主義諸党は、このテキスト文の真正さを承認するのを長い間拒否した。)
 フルシチョフは演説文の中で、スターリンの犯罪と妄想症的幻想、拷問、処刑および党官僚の殺戮に関する詳細な説明をした。しかし彼は、反対派運動をした党員たちのいずれについても名誉回復を行わなかった。彼が言及した犠牲者たちは、Postyshev、Gamarnik、およびRudzutak のような疑いなきスターリニストたちで、Bukharin やKamenev のような独裁者のかつての反対者たちではなかった。
 この演説は、どのようにして、またいかなる社会的条件のもとで血に飢えた妄想狂が25年にわたって無制限の専制的権力を2億の住民をもつ国家に対して行使することができたかに関して-その国家はその間ずっと人間の歴史上最も進歩的で民主主義的な統治のシステムだと祝福されてきたのだったが-、何の手がかりも提示しなかった。
 確実だったのはただ、ソヴィエトのシステムと党自体は完璧に無垢であり、僭政者の暴虐について何の責任もない、ということだった。//
 (5)世界のコミュニストたちに対するフルシチョフ演説の爆弾的効果は、それが含む新しい情報の量によるのではなかった。
 西側諸国では、学問的性質のものであれ第一次資料であれ、すでに多数の文献を利用することができた。それらは、相当に確信的にスターリン体制の恐怖を叙述するもので、フルシチョフが言及した詳細は、一般的な像を変更したり多くを追加したりするものではなかった。
 ソヴィエト同盟や従属諸国では、共産主義者も非共産主義者も、個人的な経験から真実を知っていた。
 共産主義運動に対する第20回大会の破壊的な効果は、その運動の二つの重要な特質によっている。すなわち、第一に共産党員の心性(mentality)、第二に統治システムにおける党の機能。
 (6)国家当局が情報が外部世界に浸み出ることを阻止すべくあらゆる手段を用いた「社会主義ブロック」のみならず、民主主義諸国でも、共産党は、「外部から」の、すなわち「ブルジョア」的源泉から来る全ての事実と議論からの影響を完璧に受けない、という心性を生み出した。
 ほとんどの場合、共産党員たちは魔術的思考の犠牲者だった。その魔術的思考によれば、免疫的源泉が外部からの情報に汚染しないように清めてくれるのだ。
 基本的な係争点に関する政治的敵対者は全て、個々のまたは事実の問題で自動的に間違っているに違いなかった。
 共産党員の心性は、事実と理性的な論拠による攻撃に対して、十分に武装されていた。
 神話的システムでのように、真実は(むろんイデオロギー上の手引きでではないけれども)実践において、実践から生じる源泉でもって明確になる。 
 「ブルジョア的」書物や新聞に書かれているかぎりで何も怖れを生じさせない諸報告は、クレムリンの託宣が確認したときには雷鳴のごとき効果をもつ。
 昨日には「帝国主義者のプロパガンダによる卑劣なウソ」だったものは、突如として、呆れるほどの真実に変わった。
 さらに、落ちた偶像は誰か別の者に脚台を占められただけではなかった。 
 スターリンが冠を剥がれたことは一つの権威が崩壊したことを意味したのみならず、制度全体の崩壊を意味した。
 党員たちは、最初の者の誤りを糾すための第二のスターリンに希望を託すことができなかった。
 スターリンは悪だったが党とシステムは無欠だという公的な保証を、彼らはもはや真面目に受け止めることができなかった。//
 (7)つぎに、共産主義の道徳的破滅は、瞬間的に、権力のシステム全体を揺るがした。
 スターリン主義体制は、党の支配を正当化するイデオロギーという接合剤なくしては、存在することができなかった。そして、このときの党装置は、イデオロギー上の衝撃に対して敏感だった。
 レーニン=スターリン主義社会主義では権力システム全体の安定性は統治する機構のそれに依存していたので、官僚機構の混乱、不確実さおよび士気喪失は、体制の構造全体を脅かした。
 脱スターリニズム化とは共産主義が二度と治癒することのできない病原菌であることが判明することとなった。何とか一時的な態様をとってであれ、その病に適応すべく努力はしたのだけれども。//
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 第一節②へとつづく。第二節以降の表題は、つぎのとおり。
 第二節・東ヨーロッパの修正主義。
 第三節・ユーゴ修正主義。
 第四節・フランスでの修正主義と正統派。
 第五節・マルクス主義と「新左翼」。
 第六節・毛沢東の農民マルクス主義。

1929/ロシア革命史に関する英米語文献②。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 上の新書本のいわゆる「オビ」にこうある。
 「日英米を戦わせて、世界共産革命を起こせ-。
 なぜ、日本が第二次大戦に追い込まれたかを、
 これほど明確に描いた本はない

 中西輝政氏推薦」
 そもそも上の江崎の本は「なぜ日本が第二次大戦に追い込まれたか」を第一主題にしているものではない。しかし、かりにそうだったとしても、「これほど明確に描いた本はない」と評価できるような代物では全くない。悲惨で無惨な、体系性・完結性もない奇書だ。
 「オビ」の文章を書くと、あるいは考案すると、又は推薦者として名前を出すだけで、一件あたりいかほどの「収益」になるのだろう。
 中西輝政は、いくら本の中で「インテリジェンス」研究等について感謝されているとはいえ、中身をまるで読まないで、上のような「推薦」をしているに違いない。
 本の表紙等に自分の名前が出るのは、それほどに心地よいものなのか。
 ときには、きわめて恥ずかしいことになる(またはそう評価される)こともあるはずだ。ああ、恥ずかしい。
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 欧米の書物には日本的な「オビ」は付かないようだが、書物のカバー類に(通常は)肯定的な論評文、つまりは「推薦」になるような著者以外が執筆した文章を印刷していることがある。
 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 前回の①で言及した、2017年刊の「ロシア革命史」本の一つ。
 McMeekinは1974年生まれというから、1923年生まれのR・パイプスより50年以上後の人物で、1941年生まれのS・フィツパトリクよりも一世代ぶんは若い。
 この人の上の著の裏表紙カバーに4つの「論評」文が掲載されている。
 そのうち何と三つが、短い文章の中でロシア革命と「ドイツ」の関係にとくに言及しているのが気を惹いた。
 なお、①ではR・パイプスとO・ファイジズの各著に言及があることも、前回に述べたことを補強するものだ。
 ①フーヴァー研究所主任研究員のNiall Ferguson によるもの(全文/試訳)。
 「Richard Pipes がロシア帝国でのボルシェヴィキによる権力奪取に関する歴史書を刊行してから四半世紀、ソヴィエトの崩壊に続いてのOrland Figes の<人民の悲劇>から20年、これらは決定的(definitive)だと思われた
 しかしここに、Sean McMeekin が、新しい証拠資料を用い、独自の地政学的な見方を提示しつつ、生き生きとした新しい説明を加えて、登場する。
 レーニンがドイツの活動員(operative)だった、その完全で衝撃的な範囲が、ここに明瞭になる。『革命的敗北主義』が蔓延する前にボルシェヴィキを破滅させておかなかつたケレンスキーの過ちの重大さも明瞭になるとともに。
 McMeekin は、力強く歴史を叙述する。
 彼の<The Russian Revolution>は読者の心を<掴む(grip)>。」
 ②『ロマノフ一族』の著者のSimon Sebag Montefiore によるもの(一部/試訳)。
 「ロシア革命に関するSean McMeekin の新しい歴史書は、よく知られた物語を…叙述でもって、しかしそれだけではなく、とりわけドイツによるボルシェヴィキへの財政支援(funding)について、刺激的な〔魅惑的な〕新しい資料を明からにすることを付加して〔飾って〕、叙述している。」
 ③<A Mad Ctastrophe>の著者のGeoffrey Wawro によるもの(一部/試訳)。
 「…。McMeekin のレーニンは、英雄的ではなくて、いかがわしい(seedy)。
 彼によるボルシェヴィキの勝利は、ブルジョア亡命者がペトログラードでレーニンの最初の妨害物になる前にレーニンのポケットに10億ドルを詰め込んだドイツ軍によって設計された、裏切り行為だ。」
 レーニンまたはボルシェヴィキとドイツ(ドイツ帝国)との関係については、Richard Pipes の1990年著も(ソ連解体前の資料によりつつも)相当程度に立ち入って明確な第一次資料を使って記述しており(送金先のペトログラードの個人または商会など)、1917年4月にレーニンがロシア(・ペトログラード)に帰還する途上の某地で某と送金額・送金方法等の「協議」をしただろうとの「推測」まで記している(試訳済み。確認を省略する)。
 先行の研究がないわけではないだろうが、上のような紹介を含む論評からすると、ドイツとレーニン・ボルシェヴィキの関係に関する「新しい」情報を知りたくなる。
 もっとも、冒頭で記した日本での江崎道朗/中西輝政のような「推薦」の例もあるので、英米語圏でのこうした論評・紹介類によって多大な「期待」を抱かない方がよいのかもしれない、とは言える。
 なお、ドイツとの関係は、十月「革命」までのみならず、ブレスト=リトフスク条約、ラパッロ条約から独ソ不可侵協定(・対独「祖国大戦争」)まで、ロシア・ソ連史の重要な対象であるはずだろう。

1927/ロシア革命史に関する英米語文献①。

 Anne Applebaum, Gulag- A History (2003).
 =アン・アプルボーム=川上洸訳・グラーグ―ソ連集中収容所の歴史(白水社、2006年)
 2004年度ピューリツァー賞を受けたらしい、この強制収容所(Gulag)に関する書物は、第一部<グラクの起源-1917-1939>の第一章<ボルシェヴィキの始まり>の冒頭で1917年10月のボルシェヴィキの権力掌握あたりまでを。2頁で素描している。
 その際に参照文献として注記しているのは、つぎの二著だけだった。本文p28.、注p.524.
 右端の頁数は、参照要求される当該文献の頁の範囲。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution 1889-1919 (1990). pp.439-505.
 ②Orland Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution (1996). pp.474-551.
 いずれも、邦訳書はない。後者の<人民の悲劇>は、M・メイリア<ソヴィエトの悲劇>(邦訳書あり。草思社・白須英子訳、1997年)と少し紛らわしい。
 以上については、すでにこの欄に、より簡単には書いたことがある。
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 2017年のロシア・十月革命「100周年」の年に、英米語文献としては少なくともつぎの三つの著がロシア革命に関する「通史」的なものとして新しく刊行された。
 右端の頁数は、索引等を含めての総頁数。
 A/S. A. Smith, Russia in Revolution: An Empire in Crisis, 1890 to 1928 (2017). 計455頁。
 B/Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 C/China Miéville, October: The Story of the Russian Revolution (2017). 計369頁。
 いずれもまだ、邦訳書はないと見られる。
 上の二つは専門の研究者によるものだ。
 最後のものはそうではなさそうだが、しかし、多数の文献を読んで参照していることは分かる。なお、このChina Miéville の本は本文(序などを除き)計10章で、第1章は1917年前史、第10章は「赤い十月」、そして残りの2 章以降はそれぞれ2月、3月、…を扱っていて、表向きはきわめて読みやすそうだ(内容はほとんど見ていない)。
 China Miéville は「さらなる読書」のために、以下の「通史」文献以外に50ほどにのぼる文献(論文・記事類ではない)を挙げる。
 「通史(General Histoties)」として挙げられる9の文献を刊行年の古い順に変えて紹介すると、つぎのとおり。同一の著者の書物が二件以上挙げられている場合もある。
 ①Leon Trotsky, History of the Russian Revolution (1930).
 ②Victor Serge, Year One of the Russian Revolution (1930).
 ③Willam Henry Chamberlin, The Russian Revolution 1917-1921 (1935).
 ④E. H. Carr, The Russian Revolution, 1917-1923, 1-3.vols (1950-53).
 ⑤Tsuyoshi Hasegawa, The February Revolution, Petrograd: 1917 (1981).
 ⑥Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 ⑦Alexander Rabinovich, Prelude to Revolution: The Petrograd Bolsheviks and the July 1917 Uprising (1991),+ The Bolsheviks Come to Power (2004).
 ⑧Orland Figes, A People's Tragedy (1996).
 ⑨Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (2ed edition), (2008).
 以上
 ⑨の第4版(2017)が、この欄で最近まで「試訳」していたもの。2017年だったからこそ、新版にしたのだろう。
 上で興味深いのは、冒頭でも言及した、二つの著、つまりRichard Pipes とOrland Figes の著が⑥と⑧でやはり挙げられていることだ。
 その対象や範囲を考慮すると、邦訳書が早くからある初期のトロツキーやE. H. カーよりは新しいこれらの邦訳書が存在しないことは、いかにも日本らしい気もする。⑨も、邦訳書がない。
 山内昌之がたぶん歴史(世界史?)関係の重要な何冊かを挙げて紹介する新書版の本で、ロシア革命についてはE. H. カーのものを挙げてきたが、トロツキーのものに変更したとか、書いていた(山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007))。
 日本共産党の不破哲三・志位和夫がロシア革命に関連して肯定的に名を挙げるE. H. カーの本は、山内によるとどうも不満があるらしい。今日の英米語圏でもベストとはされていないようで、明確に批判する論者もある。執筆当時に存在した表向きの(これも程度があるが)資料・史料だけ使って「実証的に」叙述しただけでは、結局は「現実を変えた」または「現実になった」者たちや事象を<追認>し、<正当化>するだけに終わる可能性のあることは-日本の「明治維新」についてもそうだが-留意されてよいだろう。
 元に戻ると、上のCは背表紙の下に「VERSO」と横書きで打たれていて「VERSO」なる叢書の一つのようでもあるが、「VERSO」は出版元の「New Left Books(新左翼出版社)」のImprint だとされている(原書の冒頭近く)。
 よくは知らないが、その「新左翼」に引っかかって上の各著に対するChina Miéville のコメントを読むと、明らかに、⑥R・パイプスと⑨S・フィツパトリクのものには批判的な部分がある。例えば-。
 ⑥について-「左翼に対する敵意」、「ボルシェヴィキ恐怖症(-フォビア)」、…。
 ⑨について-<レーニン→スターリン>「不可避主義者」、…。
 これら自体興味深く、この二人の著が少なくとも一部に与える印象も理解できるところがある。
 しかし、それよりもさらに興味深いのは、この二人の著をChina Miéville も、きちんと列挙している、ということだろう。
 R・パイプス、O・ファイジズ、S・フィツパトリクの<ロシア革命本>は、今日の英米語圏では、どのような政治的立場を現在にとるのであれ、ロシア革命に関する、ほとんど<must read>のあるいは「鉄板」の書物になっているのではないか。
 ひるがえって、やはり日本のことを考える。日本の学界や「知的」活動分野について、考える。
 日本でいう「左翼」とは何か、「リベラル」とは何か。<ロシア革命>はとっくに過去の事象で、これらと何の関係もない、今日では関心の対象にならないものなのか?
 日本の国会議員を堂々と有する政党の中に、ほとんど直接に「ロシア革命」と関係がありそうな党はなかっただろうか。はて。

1849/池田信夫のブログ、例えば9/21から。

 池田信夫のブログは、その日のうちにたいてい読んでいる。
 圧倒する印象は、頻度、投稿の回数の多さだ。
 そのうち、第一に、原子力、経済政策、放送・通信あたりの議論は、こちらに専門知識がないか乏しくて、お説拝聴という場合が多い(原発再稼働問題は除く)。
 第二に、ときに、間違い、簡単すぎる、と感じることもある。
 典型は、もう古くなったが、自然災害-水害対策としての土地利用規制計画の見直し、<危険地帯に住まない>方向への誘導を説いていた、7/23だ。
 土地利用規制計画の見直しは一般論としてはそのとおりだが、特定の地域への居住を禁止して転居?に補助金を、とかの政策の実施は、おそらく「私的財産権」の利用制限(または剥奪)とそれに対する補償の必要の関係で、実現不可能であるか、相当の立ち入った計算・見込みがないとほとんど無理だろう。
 その中には、災害発生の「確率」(リスクあるいはハザード)の問題、日本における「私的財産権」絶対意識の強さも視野に入れなければならない。
 第三に、最も多いのは、適度に想念や思考を刺激してくれるものだ。
 池田が何らかの文献・書物を紹介しながら書いている文章は、アマゾンとの関係でいくらの収益をもたらしているのか知らないが、そして池田自身の言葉かそれとも当該書物の内容に沿ってたんに紹介しているのかが不分明であるときがあるのがタマにキズ?だが、思考を適度に刺激してくれる。
 とりわけ、広く歴史や「学問」にかかわるものだ。
 トルーマンによる日本への原爆投下に関する、8/15、9/17もそうだ。
 いちいち書き出すとキリがない。
 ***
 江戸時代から戦前日本までの欧米との対比は池田の関心でもあるようで、9/21の「実学」関係も、「科学・学問」にもかかわって興味を惹く。
歴史上ほとんどの学問は既存の価値体系にもとづいて新しい事実を解釈する技術であり、大事なのは体系の整合性だけなので、それを脅かす異端を排除すれば、学問の権威は守れる」。
 この文章は含蓄、含意が多い。これをすっと書いたのだとすると、相当のものだ。
 「天動説は…『反証』されたが、それによって否定されなかった」。
 「キリスト教とアリストテレスを組み合わせた神学大系」でたいていは説明できたが、「植民地支配」の結果として、「実証主義」等の新しい<理論>が必要となり、生まれた。
 以上は、池田からの引用か、その要旨。
 キリスト教的ヨーロッパによる<異文化>との接触こそが新しい<理論>動向を生んだ。
 マクロにはそうなのかもしれない。その大きな潮流の中に、マルクスもおり、マルクス主義もあったに違いない。
 福沢諭吉はかつての観念大系=「実学」そのもの、「身分制度」正当化、の儒学を捨てて「洋学」に向かった、と池田は記す。
 儒教・儒学・朱子学あたりは「明治維新」を生んだイデオロギーだとされもするので、このあたりはなかなか複雑だ。「天皇」と明治維新。
 池田によると、丸山真男に依拠しているのか、福沢が「下級」武士出身だったからこそ、上のようにできた。
 もっとも、そこで「明治維新の元勲と同じく、」と書かれてしまうと、「明治維新の元勲」たちのもった「イデオロギー」は何だったかに関して、疑問が出なくもない。
 五箇条の御誓文の最終案をまとめたのは木戸孝允(桂小五郎)だとされ、この人物も「明治の元勲」の一人だろう、たぶん。
 しかし、木戸は決して「下級」武士ではなかったと思われる。
 萩(山口県)に木戸の旧宅も残っているが、藩医(典医)だった父親のその邸宅はとても「下級」武士のものだったとは感じられない。
 もっとも、木戸孝允は、明治6年政変(「征韓論政変」)頃にはすでに、精彩を欠いている。
 木戸(桂)の当初の「夢」に対して、維新の「現実」はどうだったたのだろうか、という関心も持つのだが、池田信夫を契機とする今回の駄文はここまで。

1827/読書しないでメモ。

 WiLL8月号増刊・歴史通(ワック、2018)。
 歴史通(ワック)というのはワックの季刊誌かと思っていたが、今は月刊誌の増刊号という扱いなのだろうか。
 表紙に、<朝日・NHKが撒き散らす「歴史」はフェイクだらけ>とある。
 朝日・NHKが撒き散らす「歴史」はフェイクだらけ、だとして、では、月刊Willの執筆者(・編集者)が撒き散らしている、いや失礼、適切に?伝播させている「歴史」には、「フェイク」はないのだろうか
 月刊正論、月刊Hanada、月刊WiLLの歴代編集者や執筆人の多くは、<日本会議史観>に染まってはいないのだろうか。「東京裁判史観」とか故渡部昇一のように言い出すと、すでにおかしい。
 櫻井よしこは国家基本問題研究所理事長だが、この「研究所」の評議員を務める編集者もいた。
 そして、伊藤哲夫、櫻井よしこ、江崎道朗らは、なぜかまず、聖徳太子の<十七条の憲法>を高く評価する。
 聖徳太子は皇族だったとされる。しかし、聖徳太子は神道よりも仏教に縁が深く、かつ政治的には敗北者だった。
 聖徳太子および近接の天皇・皇族たちの墓地(御陵)は飛鳥を含む奈良盆地にはなく、いまの大阪・南河内にある(太子町!)。伊藤哲夫、櫻井よしこ、江崎道朗らは、なぜかを説明できるのだろうか。
 日本にもかつて<憲法>があったなどという<言葉・概念>の幼稚なトリックに嵌まっていなければ幸いだ。
 つづいてなぜか、1000年も飛んで、後醍醐天皇も通過して、<五箇条の御誓文>を褒め讃える。
 そして、江崎道朗は、十七条の憲法・五箇条の御誓文・大日本帝国憲法は「保守自由主義」で一貫しているのだとのたまう。
 こういう単純化はたいていか全てそうだが、間違っている。<フェイク>の最たるものだ。
 ところで、こういう増刊ものは、新しい論考や座談だけではなくて、すでに発表されている論考等を再度掲載していることがある。
 <一粒で二度おいしい>のは出版社(・編集者)と執筆者(余分の収入になるとすれば)であり、迷惑なのはきっと<知的に誠実な>、新鮮な情報を期待している読者だろう。
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 八幡和郎・「立憲民主党」・「朝日新聞」という名の"偽リベラル"(ワニブックス、2018)。
 入手して、「はじめに」だけ一瞥した記憶がある。
 八幡和郎は文筆で「食って生きている」人物のようで、多数の安っぽい書物を敬遠してきたのだが、意外によいことを書いていることを、この半年くらいに、この人のブログで知った。したがって、現在は敬遠してはいない。
 池田信夫・所長とどういう関係にあるのか詳しく知らないが、親しくはあるようだ。
 そして、池田が八幡に対して「新手の皇国史観」だと批判したら、八幡が「それはそうかもしれないけれど」とか反論していたのが面白かった。
 面白かったというのは、内容もそうだが、たぶん同じ共同ブログサイトの執筆者でありながら、相互に批判し合っていたからだ。
 内容の当否に立ち入らないが、こういう<自由さ・率直さ>はなかなか面白く、よいと思われる。
 産経新聞の「正論」欄編集者が元原稿にあった特定の人物(批判された櫻井よしこ)の名を事実上削除した感覚とは、かなり異なるだろう。
 さて、上の本。「読まない」で書くが、第一に、望むらくは、秋月瑛二が<敵視している>勢力のことをやはり批判している、と理解したいものだ。立憲民主党と朝日新聞が明記されているところをみると、大いに期待できるだろう。
 第二、私は、「左翼」または共産主義(・社会主義)者・日本共産党および<容共>の者たちを、この欄で批判している。簡単には「左翼」または「容共」論者だ。
 しかして、八幡和郎のいう「偽リベラル」とはいったいどういうつもりの呼称なのだろう。
 もちろん、「本当の」・「真の」リベラルではない、ということは簡単に理解できる。
 中身を読めば書いているのかもしれないが(そう期待したいが)、リベラルまたはリベラリズムの概念論争に決定的な意味があるとも思えない。
 気になるのは、八幡和郎は「偽リベラル」を何と簡単に呼称しているかだ。立憲民主党や朝日新聞等でははっきりしない。要するに、共産主義(・社会主義)者・<容共>者ときちんと呼称して、対決しているか否かだ。
 私の理解では、立憲民主党と朝日新聞が「左翼」の中核にいるわけでは決してない。
 しかし、<特定保守>論壇もそうなのだが、商売として<左翼>をやっている気配がたぶんにある立憲民主党と朝日新聞を攻撃すればよい、というのでは不十分だろう。
 批判の矢はきちんと、日本共産党「等」の今に残る共産主義(・社会主義)者に向けられなければならない。
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 以上の二者。いずれも、本当に「読まないで」書いてしまった。
 八幡の本は入手して数ヶ月、本棚のどこかに置いたままだ。「本来の」リベラルの立場からするという、原理的「左翼」あるいは原理的護憲派、憲法九条死守派に対する批判など、簡単に想像できそうであるからでもある。大きく間違っていれば、幸いだ。

1713/西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」…(2017)。

 西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」を取り戻す(祥伝社、2017)。
 対談や座談会の内容を文字にした、安易に造られる書物が多すぎる、とは断定しないでおこう。
 何しろ、相対的にはきわめてマシな、優れていると感じている「保守」派論客の対談本なのだから(司会は柏原竜一)。
 まえがきを2017年3月に西尾幹二が書き、あとがきを10月に中西輝政が書き、同11月付で出版されている。この時期に、西尾と中西の二人は何を語るのか。
 目次全体を眺め、一章まで読了した(~p.70)。
 西尾幹二によると、日本国民の「歴史認識を永いあいだ分裂させ、歪めてきた当のもの」である<世界史に日本がなく、日本史に世界がない>という「変則状態」の「欠を埋め、ここで自覚を新たにしたいというおもい」で起ち上がり作成された書物だ、という。p.4。
 司会者・柏原竜一は「問題提起-『西洋近代』のいかがわしさ」と題する第一章の冒頭で(しかし、本書全体の意図のごとく)、こう言う。
 「昭和における日本人の精神性の覚醒を正しく位置づける」ためにも、「大局から、『近代』というもの、『西洋近代』というものを見直す必要がある」との問題意識で、(二人に)「対談をお願いする」ことになった。
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 まだ70頁までしか読んでいないが、大きな期待は持てそうにない、と直感的に思った。
 目次から、章名および節(に当たるもの)の名・タイトルにどのような言葉・概念が並んでいるかを見てみる。
 日本-14。最多のようだが、これは当然かもしれない。
 アメリカ-11、近代・西洋近代・西洋文明・欧米・ヨーロッパ-計8、中国-1。
 ロシア(・ロシア革命)・ソ連-ゼロ。共産主義・コミュニズム・マルクス主義・社会主義-ゼロ。
 あくまで目次上のタイトルで使用されている言葉・概念だ。
 しかし、この書のおおよその内容を掴む手がかりにはなるだろう。
 今年はロシア革命100年。だが、この書に関するかぎりでは、西尾幹二も中西輝政も、ロシア革命や「共産主義」の「世界史的」意義・意味、その今日に至るまでの日本に対する「日本史的」意義・意味には、とんと関心がないように見える。正確に再述しておく-「…かぎりでは」、「…ように見える」。
 中西輝政は、いつぞや「ネオ共産主義」という言葉を使って、まるで現在に現実としてある「共産主義」国家・「共産主義」体制は、<元来の・本来の>共産主義とは異なるとでも理解しているかのような文章を書いていた。この人にとって<真の>または<本来の・元来の>「共産主義」とはどういうものなのか。したがってまた、西尾との対談でもこれを(たぶんほとんど)話題にしないのは当然かもしれない。
 中西は、とっくに「マルクス主義の過ちは証明されている」ので、これ(マルクス主義・共産主義等)に拘泥するのは、遅れている、旧い発想だ、と考えているようにも思えた。
 このような発想は、じつは「日本会議」と同じだ。
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 「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判をテーマとする書物は、すでに多数ある。
 かつて私もよく読んだが、佐伯啓思がしてきた仕事のほとんどは、これだ。あるいはこれの繰り返し、しつこいまでの反復、だ。
 そして、大切なこととして指摘しておきたい。「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判は、マルクス主義者・共産主義者もまた、共有する。
 彼らは、「市民革命」思想らしきものを都合よく利用しつつ、<自由と民主主義>をブルジョアジーが被支配者を「欺瞞」するための道具だとも考えた(考えている)。
 <西洋近代>の嫡出か鬼胎かはともかく、<近代>は共産主義もまた生み出したし、一方で共産主義は<近代>を克服しようとした(とする)考え方・運動だ。
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 多くの<西洋近代>懐疑・批判書と違って、二人のこの本は、アメリカを主対象とし、アメリカ批判を主とするもののようでもある(しかし、トランプ等々、アメリカの現代政治を扱っているのでもなさそうだ)。
 オビに、こうある。
 「戦後日本を縛りつけているものは何か?/いまも世界を支配する歴史の亡霊。その体現者・アメリカの正体を暴く!」。
 この対談書によるかぎりで、西尾幹二と中西輝政にとって、現時点で「大局的には」、中国共産党体制よりも北朝鮮よりも、アメリカの方が<歴史的に?>大切な、重大な関心事なのだろう。
 しかし、素朴につぎのように考えてしまう。
 二人が語るアメリカ(の歴史等)とロシア(・ソ連)や中国等との関係はいったいいかなる<世界史的>関係にあるのか。日本史を語る際にも、少なくとも幕末以降の日本・ロシア関係、そして何よりも第一次大戦中のロシア革命(1917年)や終戦後のコミンテルン(1919年)との関係は重要な関心事でなければならないだろう。いやすでに北一輝にも見られるように、ロシア革命以前から、マルクス主義(・思想)の影響は日本に強くあったのだ。
 また、つぎのようにも思う。
 反アメリカ、あるいは「アメリカの正体を暴く」というだけでは、基本的には佐伯啓思ら多数の者がしてきた仕事の、新味のあるらしき、焼き直しにすぎないだろう。
 また、日本共産党もまた<反アメリカ>のナショナリスト政党だということを、あらためて強く指摘しておかなければならない。アメリカを批判的に考察し、「アメリカの正体を暴く」、というのは、決して日本共産党が嫌がることではない。
 この政党は十分に、民族主義的・対米自立の「自主・独立」、そして「愛国」政党でもある。
 さらに、北朝鮮がいまだに「アメリカ帝国主義」と称しているのも、中国が決してアメリカと全面的には同調しないのも、根源的には、その「共産主義」性、あるいはマルクス主義(・思想)がある。反資本主義・反「帝国主義」の心性を、彼らは失っていない。
 日本共産党についても同じ。アメリカを歴史的に批判することは、少なくとも一面では、あるいは一部は、日本共産党等の日本の共産主義者および「左翼」もまた喜びとするものであることを、強く意識しておく必要があるだろう(この点は、佐伯啓思の<左翼との通底性>にもかかわる)。
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 さて、第一章。
 <「近代」とは何か>はでたらめのタイトルのごとくで、キリスト教に関する話が多すぎる。
 国家と宗教の分離、そこでの宗教について話題にするな、とは言わない。しかし、とりわけ、中西輝政の、「ピューリタニズム」に関する話が長すぎる。
 この機会にと、中西は最近に勉強?(研究?)したことを披瀝したかったのかもしれない。新しい知識も(いかほどに確かなのかは分からないが)、得られる。
 しかし、大発見のごとく勇んで強調するほどのことなのか。それで?、とも尋ねたくなる。
 中西輝政が上についてきちんと発言したいのならば、<欧米・ピューリタニズムと日本>とでも題する本格的な、300-500頁から成る専門的研究書を執筆・刊行して、世に問うていただきたい。
 もう一つ、中西輝政の発言には、気になる部分がある。別の日に。

 

1708/日本三園-偕楽園・兼六園・後楽園。

 かつて小学校中学年以降に、日本三景とか日本三園(三公園)とかを憶えた、または憶えさせられたような気がする。
 調べないままで書くが、これらの選定は、昭和戦後ではなく明治か大正にすでに文部省あたりによってなされていたのではないだろうか。
 上の計六箇所を、この10年以内にも訪れている。
 三公園についていうと、庭園自体で最も優れていると感じられるのは、金沢・兼六園だ。水戸・偕楽園はこれに比べてやや狭そうだし、岡山・後楽園は樹林のない広場ふうの緑地が大きすぎる。
 三園ともに旧藩またはその城址と関係があるようだ。そして、城・天守閣の展望という点では、むろん岡山・後楽園が最良だ。兼六園からは見えても石垣だけだし、偕楽園は城址から離れていると思われる。再建天守閣らしいが後楽園から望む宇喜多家・岡山城は立派で風格がある(但し、「全国百名城」めぐりもしているので、その他の城・天守閣と比較してベストだと断定しているのではない)。 
 しかし、城址との関係を除くと、展望という点で気に入ったのは、水戸・偕楽園だ。
 すなわち、高台にある偕楽園の南縁から眺める千波湖の水景が清々しく、光も反射して美しかった。鉄道好きにはたまらないだろう、ときどきすぐ下の公園と湖との間を、常磐線の電車が行き来していく。
 この千波湖に関する知識をあらかじめ持っていなかったので、意外性もあった。都市・街(まち)の真ん中にこんな手頃な大きさの小湖があるのは素晴らしい。
 もっとも、三園ともに旧藩・関ヶ原や江戸時代のイメージがくっついてはくる。また、現時点での三都市・三つの街自体の機能美・構成美については別に言及しなければならない。

1632/西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断(1996)②。

 西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断-歴史教科書が危ない!(PHP文庫、2000.05/原書1996)。
 1995-96年の二人の対談を内容とするこの本で、西尾幹二は「全体主義」について-これは下記の頁ではスターリン、ヒトラー、中国を含むものとして用いられている)、とくに、「運動としての全体主義」、「きわめて能動的な運動としての全体主義」ということを指摘している。p.136。これに対比されるのは、「単なるイデオロギーではありません」ということのようだ。p.136。
 他の本にもあったような気がする。しかし、必ずしも理解しやすい指摘ではない。静態的・状態的にではなく、動態的・行動的に把握すべきとの趣旨だとは分かる。
 しかし、批判しているのでは勿論ないが、昨秋に以下のE・ノルテの本が早くにあることに気づいて、何やら納得した。
 Ernst Nolte, Die Faschistischen Bewegung (独語, 1966).
 これには、つぎの邦訳書がある。しかし、元々の書名は、<… Bewegung>、つまり、<…の運動>が正確だ。
 ドイツ現代史研究会訳・ファシズムの時代/上・下(植村出版、1972)。
 この研究会の代表格は、「訳者あとがき」によると山口定(欧州政治史、立命館大・大阪市立大)だと見られる。
 ともあれ、「ファシズム運動」よりも「ファシズムの時代」の方が、類似の「…時代」と訳せる表題のE・ノルテの書物が未邦訳であることもあり、選ばれたかに見える。
 E. Nolte, Der Faschismus in seiner Epoche(独語, 1963(Taschenbuch, 1984)). 〔ファシズムとその時代=ファシズムの時代(未邦訳)〕
 本体・内容に立ち入らないので、些細な、かつ推測しての、したがって何ら確実性のないことだが、E・ノルテの複数の書物をある程度は読んだ上で、西尾幹二はあえて上のように「運動としての…」ということを強調したかったのではないか。
 リチャード・パイプスはその1994年の著<ボルシェヴィキ体制下のロシア>=Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)でこう書いていた。試訳は、この欄の3/29付・№1473も参照。
 「1956年にカール・フリートリヒとズビグニュー・ブレジンスキーが発表した、左翼と右翼の独裁制の最初の体系的な比較もまた、歴史的分析というよりも静態的な分析を提示するものだった」。
 ソヴィエト(スターリン?)、ナチスおよびイタリア・ファシズムには共通性がある、つまり一括りできるとたぶん戦後早くに指摘したのだったが、上のごとく「静態的な分析」だとも見られた。
 読まないままで言うのだが、西尾幹二は上記のように、あえて「運動」性を強調している。おそらくは、リチャード・パイプスの上の書物を読んではいない(たぶん、E・ノルテのものは見ている)。
 些細かもしれない情報源探しを、もう一つする。
 西尾幹二は、上の本では(まだ)発見できなかったが、何度か、世界大戦、とりわけ第一次の世界大戦について、ヨーロッパ(欧州)の「内戦」だった、と指摘している。
 この点が重要な論点として選ばれて、指摘されているわけではない。しかし、複数回にわたると、読み手である私の印象に残った。
 たしかに、「世界」大戦を戦った諸国は、第二次とされるものを含めても、多くはヨーロッパ諸国だ。とくに第一次とされるそれは、最初はトルコが、遅れてアメリカと日本が関与しているものの、ほとんど欧州諸国がほとんど欧州の領域内で行った戦争だ。
 <ヨーロッパ内戦>という見方は、十分に首肯できる。また、こういう命名を勝手にして、日本の歴史学もそのまま受容して(させられて)いるのだから、欧州人の<ヨーロッパ=わが世界>という見方がよほど根強いものであるかを感じさせられる。
 今はかつてほどではなく、アジア・日本やイスラム世界への関心は強くはなっているかもしれないが、しかし、欧州又は欧米中心主義はなおも根強いだろう。
 知的世界、学問・研究の分野でも、英語を母国語とする英米(・カナダ)と、ドイツとフランス(・イタリア)およびその他の欧州といったあたりで、いちおうは<完結>しているような印象がある。日本の研究者・読者などは気にすることなく、母国である国の研究者・読者と上の広狭はあるが<欧米>の研究者・読者を意識しておけば足りる。
 日本の学界の閉鎖性・そして世界に(欧米に?)稀な<容共産主義>性は、日本語だけの世界で、日本だけでいちおう<完結>しているためではないか、と思っている。
 また、日本に独特の<特定保守>の存在も、日本語だけで通じさせるしかない、<島国>に特有なことだろう(一般に日本固有のことを否定はしない)。
 学界もメディアも「論壇」も、ある程度の人口と「市場」をもつ日本という国の中で、<閉鎖的に>、<自己完結して>、つまりは日本語の分からない欧米人の批判の目にほとんど全く晒されることなく、活動している。日本共産党なるものの存在もまた、その一つ。
 ソ連解体後に<ユーロ・コミュニズム>もまた解体したことの意味を、ほとんどの日本人は理解していないように思われる。消極的意味での、日本の<特殊性>だ。
 想定外に迂回した。
 世界大戦を「欧州の内戦」と捉えるのは、じつはE・ノルテがずばり行っていたことだった。
 Ernst Nolte, Der europaeische Buergerkrieg 1917 - 1945: Nationalsozialismus und Bolschewismus (独語, 2000). 〔1917年-1945年のヨーロッパ内戦-ナチスとボルシェヴィズム〕
 1917年・「ロシア革命」と1945年・二次大戦終焉=ヒトラー・ナチス崩壊の間の時期を、一つの時代、つまり<ヨーロッパの内戦>の時代と把握する。
 西尾幹二は、これをまた、参照しているのではないか。
 ついでに書くと、E・ノルテはドイツでの<歴史家論争>の一方当事者で、その<歴史観>(敢えて簡潔化すれば、レーニン→ヒトラ-)は、むしろ<多数派>だったのではないかと見られる<左派>のユルゲン・ハーバマス(Jurgen Habermath)らに批判された。
 日本では、ユルゲン・ハーバマスの書物は多数翻訳されていて、岩波書店はこの人の論考類をわざわざ日本で一つにまとめた一冊の書を刊行している。
 しかし、エルンスト・ノルテの上の本は、邦訳書がないまま、15年以上を経た。
 なぜか。ドイツの戦後の書籍の紹介や翻訳でも西尾幹二には奮闘してほしかったと思うのだが、無い物ねだりなのかもしれない。
 西尾幹二を批判しているのではない。立場の違いはあれ、欧州で広く読まれかつ意識されていると思われるE・ノルテ、さらにはフランスのフランソワ・フュレの扱いは、日本では奇妙だ。反共産主義へと進まないようにする、産経新聞社も含む日本のメディア・出版業界での<自主規制>があると考えられる。もちろん、「左翼」学者・研究者が加担しており、朝日新聞社や岩波書店は、それを当然だと思っている。
 <自主規制>。そう、まだ日本は「閉ざされた言語空間」の中にいる。占領が終わって全ての傾向の欧米世界の書籍・論考等が「自由」に流入していると思ったら、大間違いなのだ。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)。この人の「マルクス主義」に関する大著の邦訳書すらない。しかも英訳版発行の1978年から、もうほとんど40年になる。このことを知ったのが、今年になって最も衝撃的なことだった。かなり逸れてしまった。

1613/理性・理念・理論と感性・情念・怨念-現実の歴史。

 人が何か行動するときの<衝動>・<駆動力>といったものについて考えている。
 例えば、本郷和人が、つぎの本を書いて刊行したのは、たんなる学究意欲ではないだろう。
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、1917年01月)。
 執筆依頼があったのかもしれないが、「いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさん」いて、中には「知っていてわざとウソをついているのでは」という人もいる、という現状に抗議したい気持ちが強かったのが一つの動機だったのではないだろうか。
 文章や原稿の執筆、書物の刊行、人はなぜこんなことをするのか。
 「食べて生きていく」本能がそうさせている場合もありうる。当然ながら、原稿料・印税等に魅力がある(こんなものは、この欄の秋月瑛二には全くない)。
 自分の<思想>・<考え方>を広く知ってもらいたいとの動機の場合もありうる(大洋の海底に生息する秋月瑛二にもほんの少しだけある)。
 いろいろな衝動・駆動力が混じっているように思われる。
 青少年期に、親その他の肉親・親族、あるいは親しいまたは敬愛する人の死を体験し、かつその死後の遺体を見てしまった若者たちは、その後の人生への影響を何ら受けないだろうか。
 もちろん、人間関係の近さにもよるし、死の原因にもよるし、遺体の処理は時代によって異なるので、時代にもよる。
 いま関心を持っているのは、レーニンの人生とその若年期における実兄の帝制下での刑死との関係だ。
 知りうる情報を増やして、また触れる機会があるかもしれない。
 吉田松陰(1830~1859)。
 子細に立ち入らない。テロルではなく、少なくとも当時においては、「合法的に」処刑された。死罪。井伊直弼、坂本龍馬、大久保利通らがのちに<テロル>に遭って殺されたのとは異なる。しかし、<殺された>ことに変わりはないとも言える。
 この松陰の遺体・死体を現に見て、埋葬した者も当然にいた。
 秋月瑛二でも知っている、のちの著名人、明治維新の功労者とされる者が二人いた。
 おそらくは当然に、松陰と同じ長州藩の者になる。
 桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文(-俊輔)。
 瀧井一博・伊藤博文-知の政治家(中公新書、2012)は、松陰の処刑後について、伊藤を中心において、こう書いている。
 「たまたま木戸孝允の手附として江戸に在勤」していて、「木戸とともに遺骸を引き取る」ことになった。/「変わり果てた師の姿が多感な青年の心に大きな衝撃を与えたことは想像に難くない」。
 伊藤博文、1841~1909年。この年に、満18歳になる。
 但し、瀧井によると、松陰と伊藤はタイプが違い、「松陰の影響から脱した時点」から伊藤の伊藤たる所以が始まるともいえる、とする。
 泉三郎・伊藤博文の青年時代(祥伝社新書、2011)は、根拠史料は分からないが、虚構ではなくして、つぎのように書く。
 伊藤は木戸らとともに、松陰の「遺体の受取」に行く。
 「桶に入れられた遺体は丸裸で、首は胴から離れ髪は乱れて顔には血がついており、見るも無惨な姿だった」。二人らは、「憤慨し、涕泣した」。
 そして、「顔を洗い、髪を整え、桂〔木戸〕の着ていた襦袢で遺体をくるみ、伊藤の帯を使って結び、首を胴体にのせて棺に収めた」。同じく処刑された橋本左内の墓の傍らに「埋葬」した。
 「幕府への憤り、その理不尽な酷刑への憤慨は、十九歳の伊藤に強烈なインパクトを与えた」。
 古川薫・桂小五郎(上下/文春文庫、1984/原書1977)は、小説だ。上の場面をつぎのように描写している。
 「粗末な棺桶」に役人が案内して、「吉田氏の死体です」と言った。一人(尾寺新之丞)が「走り寄ってその蓋をとった」。
 「首と胴の離れた人間の遺体が、無造作に投げこまれている。全裸にされていた」。
 「先生!」。尾寺が「泣き声で首を取り出し、乱れた髪を束ねた」。
 桂が「松陰の顔や身体を丁重にぬぐい清め」、伊藤が「首と胴をつなごうとすると」、役人に制止された(後日の検視の際に叱られると)。
 「小五郎は襦袢を」脱ぎ、遺体に着せて「伊藤は帯を解いてそれを結んだ」。
 「ようやく衣類にくるまれた松陰の胴体を、小五郎がかかえあげ、甕の中におさめた」。
 「まるで子供のような松陰の軽い体重に、強い衝撃を覚えて」、桂は思わず「ああ」と声を洩らす。<中略>
  「松陰の体重の、あまりにも軽すぎる感触が、いつまでも小五郎の手にのこった」。それは「人の命のはかなさ」に驚いたというよりも、そんな「矮小な肉体しか持ち得ない人間が抱く巨大な思想のふしぎさ」に心打たれたのだろう。上巻p.175-177。
 木戸孝允=桂小五郎、1833~1877年。この年に、満26歳だった。
 とくに結論を導こうとしているのではない。
 ただ、人は理念・理屈・理想だけでは動かないだろう。木戸孝允(桂小五郎)や伊藤博文にとって、一時期であれ「師」だった吉田松陰の<死に様>を見たことは、その後の彼らの人生に何らかの影響を与えたに違いないだろう、と推測できる、またはそう推測できるのではないか、というだけのことだ。
 吉田松陰に限らず、他のとりわけ長州藩の仲間たちの「死」を体験してきたに違いない。そのような桂や伊藤たちは、いったいどのような<情念>らしきものを抱くいたのだろうと、想像してみる。
 別に彼らに限らない。幕末・維新時の記録に残る全ての者たちが、理想・理念で全て動いていたわけではなくて、何らかの感情・執念・情念・怨念で行動していたに違いない、と思っている。
 西郷隆盛も、徳川(一橋)慶喜も、等々々、みんなが。
 表向きの、<声明文>とかの公式文書類だけに頼って、歴史が叙述できるはずはない。
 もっとも、例えば、日本共産党・不破哲三のように、もっぱらレーニンの文献だけ(たぶん全集だけ)を読んで、<レーニンの時代>を理解しようとしている者もいる。
 あるいはまた例えば、<五箇条の御誓文>のような(権力所在未確定の時期も含めて)薩長・新政府の公式発表文を読むだけで、<明治維新>の意味が分かるはずがないだろう。伊藤哲夫や櫻井よしこらの明治維新理解に、その弊はないか。

1597/若き日のマールブルク(Marburg)。

 フランス・パリの地下鉄の中で、母親に連れられた小学校に上がる前に見えた男の子が、<モンパルナッス>と発音した。
 何しろ初めてのパリで、仏語にも詳しくなく、北の方のモンマルトル(Montmartre)と南の方のモンパルナス(Montparnasse)の違いが(ともにモンが付くために)紛らわしかったところ、その<ナッ>のところを強く発音してくれていたおかげで、両者の区別をはっきりと意識できた。
 モンパルナッスも<リ->を強く発音するシャンゼリーゼ(Champs-Élysées 通り)も、フランスらしい地名だ。シャルル・ドゥ・ゴール(人名/広場=凱旋門広場)というのもそうだが。
 ドイツでは、フランクフルト(Frankfurt)はまだしも、デュッセルドルフ(Duesseldorf)となるとあまりドイツふうの感じが(私には)しない。
 そうした中で、マンハイム(Mannheim)はドイツらしくかつ美しい響きだ。最初にアクセント。実際にも、中心の広場周辺は魅力がある。
 旧東ドイツの都市のイェナ(Jena)という名前も、東欧的感じもしてじつに可愛い気がする。
 但し、ライプツィヒ(Leipzig)からニュルンベルクまでの電車の中から、停車駅でもあったので少し眺めただけだ。教会の尖塔も見えた。しかも、どうも、イェーナと発音するらしくもある。「イェナ」の方が(私には)好ましい響きなのだが。
 かつてから、マールブルク(Marburg)という大学都市のことは知っていた。そして、気に入った、好ましい、ドイツ的響きのある名前だと思ってきた。
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 まだ若かった。
 いったいどこからの寄り道だったのだろうか。ひょっとすると、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』に由縁があるヴェツラー(Wetzler)を訪れた後だったのかもしれない。
 まだ明るいが夕方で、電車駅を下りて、山の中を渓谷沿いにマールブルクの中心部へと歩いた。
 日が暮れかかっていて、あまり時間もなかった。
 しかし、山の上の城(城塞建物)と街を一瞥はしたはずだった。その中におそらく、マールブルクの大学の建物もあったはずだ。
 当時のことで、たぶん写真も残していない。
 だが、自然(つまりは山の緑と渓谷)が近くにある、小ぢんまりとした綺麗でかつ旧い街だとの印象は残った。
 もうおそらくは、訪れることはないだろう。
 この都市と大学の名を想い出す、いくつかのことがあった。
 まず、マーティン・ハイデッガー(Martin Heidegger)が教授をしていて、この大学の女子学生だったハンナ・アレント(Hannah Arendt)と知り合い、親しくなった。
 猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中央公論新社・中公文庫、2015。原書・中公叢書、2001)、という本がある。
 この本によると、ハイデッガーは9ヶ月だけナチス党員になりヒトラー支持発言もしたが(1933-34)、のちは離れたにもかかわらず、終生<ナチス協力者>との烙印がつきまとった、という。p.189。
 但し、猪木はマールブルクに触れつつも、そことハイデッガーとの関係には触れていない。
 なお、上の二人は、ドイツ南西部のフライブルク(Freiburg ibr.)の大学でも会っているはずだ(このとき、ハイデッガーは一時期に学長)。
 二つめ。『ドクトル・ジバゴ』の作者のボリス・パステルナーク(Boris Pasternak、1890-1960)が、1912年、22歳の年、<ロシア革命>の5年前に、マールブルク大学に留学している。この人の経歴を見ていて、気づいた。
 ドイツもロシアも帝国の時代、第一次大戦開始の前。
 パステルナークはずっとロシア・ソ連にいたような気もしていたが、若いときには外国やその文化も知っていた。
 この人は<亡命>をなぜしなかったのだろうとときに思ったりするのだが、よく分からない。
 最後に、上の猪木武徳の本
 ドイツに関する章の中に「マールブルクでの経験」と題する節もあり、パステルナークのほかに、大学ゆかりの人物として、ザヴィニー(Friedrich Carl von Savigny)、グリム兄弟、そしてスペインのホセ・オルテガ・イ・ガセット( José Ortega y Gasset、1983-1955)の名前を挙げている。p.179。
 1900年代にマールブルクに勉強に来たらしいこのオルテガの名前は、西部邁がよく言及するので知っているが、読んだことはない。<大衆>に関して、リチャード・パイプス(Richard Pipes)も、この人の著作に言及していた。。
 それにしても、なかなかの名前が揃っているように見える。私が知らない著名人はもっとたくさんいるだろう。
 あんな小都市の山の中に大学があり、けっこうな学者たちを一時期であれ育てているのも、ドイツらしくはある。
 たぶんイギリスとも、フランスとも異なる。
 なぜか、と議論を始めると、私であっても長くなりそうだ。
 若き日の、一日の、かつ数時間だけのマールブルク(Marburg)。
 やはり、美しい名前だ。最初にアクセントがある。

1588/マルクス主義・共産主義・全体主義-Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、フランソワ・フュレ(François Furet)はいずれも1927年(昭和2年)の生まれだ。前者は10月、後者は3月。
 フランソワ・フュレは1997年の7月12日に、満70歳で突然に亡くなった。
 その報せを、ドイツにいたエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は電話で知り、同時に追悼文執筆を依頼されてもいたようだ。
 トニー・ジャット(Tony Judt)は、1997年12月6日付の書評誌(New York Review of Books)に「フランソワ・フュレ」と題する追悼を込めた文章を書いた。
 その文章はのちに、妻のJeniffer Homans が序文を記した、トニー・ジャットを著者名とする最後と思われるつぎの本の中に収められた。
 Tony Judt, When the Fact Changes, Essays 1995-2010 (2015).
 この本の第5部 In the Long Run We are ALL Dead 〔直訳だと、「長く走って、我々はみんな死んでいる」〕は、追悼を含めた送辞、人生と仕事の概括的評価の文章が三つあり、一つはこのF・フュレに関するもの、二つめは Amos Elon (1926-2009)に関するもので、最後の三つめは、 レシェク・コワコフスキに関するものだ。
 L・コワコフスキは、2009年7月17日に亡くなった。満81歳。
 トニー・ジャットが追悼を込めた文章を書いたのは、2009年9月24日付の書評誌(New York Review of Books)でだ。かなり早い。
 前回のこの欄で記したように、トニー・ジャットはL・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>の再刊行を喜んで、2006年9月21日付の同じ雑誌に、より長い文章を書いていた。それから三年後、ジャットはおそらくはL・コワコフスキの再刊行の新著(合冊本)を手にしたあとで、L・コワコフスキの死を知ったのだろう。
 トニー・ジャット(Tony Judt)自身がしかし、それほど長くは生きられなかった。
 L・コワコフスキに対する懐旧と個人的尊敬と中欧文化への敬意を滲ませて2009年9月に追悼文章を発表したあと、1年経たない翌年の8月に、T・ジャットも死ぬ。満62歳。
 死因は筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリック病)とされる。
 トニー・ジャットの最後の精神的・知的活動を支えたのは妻の Jeniffer Homans で、硬直した身体のままでの「精神」活動の一端を彼女がたしか序文で書いているが、痛ましくて、訳す気には全くならない。
 フランソワ・フュレの死も突然だった。上記のとおり、トニー・ジャットは1997年12月に追悼を込めた、暖かい文章を書いた。、  
 エルンスト・ノルテがF・フュレに対する公開書簡の中で「フランスの共産主義者(communist)だった貴方」とか書いていて、ここでの「共産主義者(communist)」の意味は昨秋の私には明瞭ではなかったのだが、のちに明確に「共産党員」を意味することが分かった。下掲の2012年の本によると、F・フュレは1949年に入党、1956年のハンガリー蜂起へのソ連の弾圧を期に離れている。
 つまり、L・コワコフスキは明確にポーランド共産党(統一労働者党)党員だったが、F・フュレも明確にフランス共産党の党員だったことがある。しかし、二人とも、のちに完全に共産主義から離れる。理論的な面・原因もあるだろうが、しかしまた、<党員としての実際>を肌感覚で知っていたことも大きかったのではないかと思われる。
 なぜ共産党に入ったのか、という問題・経緯は、体制自体が共産主義体制だった(そしてスターリン時代のモスクワへ留学すらした)L・コワコフスキと、いわゆる西側諸国の一つだったフランスのF・フュレとでは、かなり異なるだろう。
 しかし、<身近にまたは内部にいた者ほど、本体のおぞましさを知る>、ということは十分にありうる。
 F・フュレが通説的またはフランス共産党的なフランス革命観を打ち破った重要なフランス人歴史家だったことは、日本でもよく知られているかもしれない。T・ジャットもむろん、その点にある程度長く触れている。
 しかし、T・ジャットが同じく重要視しているF・フュレの大著<幻想の終わり-20世紀の共産主義>の意義は、日本ではほとんど全く、少なくとも適切には、知られていない、と思われる。原フランス語の、英訳名と独訳名は、つぎのとおり。
 The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentithe Century (1999).
 Das Ende der Illusion - Der Kommunismus im 20. Jahrhubdert (1996).
 これらはいずれも、ふつうにまたは素直に訳せば、「幻想の終わり-20世紀における共産主義」になるだろう。「幻想」が「共産主義」を意味させていることもほとんど明らかになる。
 この欄で既述のことだが、日本人が容易に読める邦訳書のイタトルは以下で、どうも怪しい。
 <幻想の過去-20世紀の全体主義>(バシリコ, 2007、楠瀬正浩訳)。
 「終わり」→「過去」、「共産主義」→「全体主義」という、敢えて言えば、「書き換え」または「誤導」が行われている。
 日本人(とくに「左翼」およびその傾向の出版社)には、率直な反共産主義の書物は、<きわめて危険>なのだ
 フランスでの評価の一端について、T・ジャットの文章を訳してみよう。
 『この本は、大成功だった。フランスでベストセラーになり、ヨーロッパじゅうで広く読まれた。/
 死体がまだ温かい政治文化の中にあるレーニン主義の棺(ひつぎ)へと、過去二世紀の西側に広く撒かれた革命思想に依存する夢想家の幻想を剥ぎ取って、最後の釘を打ったものと多くの論評家は見た。』
 後掲する2012年の書物によると、1995年1月刊行のこの本は、1ヶ月半で7万部が売れた。6ヶ月後もベストセラーの上位にあり、1996年6月に10万部が売れた。そして、すみやかに18の外国語に翻訳されることになった(序, xi)。(時期の点でも邦訳書の2007年は遅い)。
 やや迂回したが、フランソワ・フュレ自身は満70歳での自分の死を全く想定していなかったように思える。
 ドイツ人のエルンスト・ノルテとの間で書簡を交換したりしたのち、1997年6月、突然の死の1月前には、イタリアのナポリで、E・ノルテと逢っているのだ。
 また、1996年から翌1997年にかけて、アメリカ・シカゴ大学で、同大学の研究者または関係者と会話したり、インタビューを受けたりしている(この辺りの事情については正確には読んでいない)。
 そして、おそらくはテープに記録されたフランソワ・フュレの発言をテキスト化して、編者がいくつかのテーマに分けて刊行したのが、2012年のつぎの本だ。邦訳書はない。
 François Furet, Lies, Passions & Illusions - The Democratic Imagination in the Twentirth Century (Chicago Uni., 2014. 原仏語, 2012).〔欺瞞、熱情および幻想〕
 この中に、「全体主義の批判(Critique of Totaritarianism)」と題する章がある。
 ハンナ・アレント(Hannah Arendt)の大著について、「歴史書」としては評価しない、「彼女の何が素晴らしい(magnificent)かというと、それは、悲劇、強制収容所に関する、彼女の感受性(perception)だ」(p.60)と語っていることなど関心を惹く箇所が多い。
 ハンナ・アレントに関する研究者は多い。フランソワ・フュレもまた「全体主義」に関する歴史家・研究者だ。 
 エルンスト・ノルテについても、ある面では同意して讃え、ある面では厳しく批判する。
 <最近に電話で話した>とも語っているが、現存の同学研究者に対する、このような強い明確な批判の仕方は、日本ではまず見られない。欧米の学者・知識人界の、ある種の徹底さ・公明正大さを感じとれるようにも思える。
 内容がもちろん重要で、以下のような言葉・文章は印象的だ。
 <民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽観念にはまったままの日本人が多いことを考えると、是非とも邦訳してみたいが、余裕があるかどうか。
 <共産主義者は、ナチズムの最大の犠牲者だと見なされるのを望んだ。/
 共産主義者は、犠牲者たる地位を独占しようと追求した。
そして彼らは、犠牲者になるという驚異的な活動を戦後に組織化した。」p.69。
 <共産主義者は実際には、ファシズムによって迫害されてはいない。/
 1939-41年に生じたように共産主義者は順次に衰亡してきていたので、共産主義者は、それだけ多く、反ファシスト闘争を利用したのだ」。p.69。
 日本の共産主義者(日本共産党)は、日本共産党がのちにかつ現在も言うように、「反戦」・「反軍国主義」の闘争をいかほどにしたのか?
 最大の勇敢な抵抗者であり最大の「犠牲者」だったなどという、ホラを吹いてはいけない。
 以上、Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet 等に関する、いいろいろな話題。

1407/ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む②。

 一 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある。
 スターリン時代のソ連のドイツ人戦争捕虜は35万7000人が死亡した、日本、ルーマニア、フィンランド、イタリアの戦争捕虜「数万人」の生命も奪われた。ボーランド人戦争捕虜のうち14万人が生きて帰れなかった。全部で「100万人近くの捕虜が死亡した」(p.22)。
 ミンスクの近くにある埋葬場所から1980年代後半に「20万体」の骨が掘り起こされた。よく知られるようになつたのは、1939年にソ連がポ-ランドを占領したあとのポーランド人捕虜についてだ。
ポーランド人将校14,736名が三つの収容所におり、同政治犯10,685名が刑務所にいたが、処理案の文書を示されたスターリンは「書記長」のサインをして了解した。文書(1940.03.05)には、「出頭は求めず、起訴状を見せることなく終わらせる。/「特別な措置によって解決することとし、最高刑を適用する。銃殺。」等と記されていた。ポーランド人は元将校・官吏・工場所有者・憲兵等々で、帰国後にはポーランドの再建にとって重要な人物たちも含まれていた(p.23-24)。
 約2万5000人の被殺戮者の遺体は埋められて、のちに発掘された場所が<カティンの森>だったことから、<カティンの森虐殺事件>と呼ばれるようになった、上に出てくるのは、それにかかわる指令文書のことかもしれない。しかし、ブレジンスキーは「カティン」と明記していないので、はっきりしない。
<カティン事件>についていうと、当初はスターリン・ソ連政府はドイツ・ヒトラー軍によるものとして否定し続け、第二次大戦後になって初めてソ連政府・軍が関与したことを認めた。
 将来の国家(ポーランド)の幹部になる可能性があるものを2万人以上殺害してその芽を<あらかじめ>摘み取っておくとは、想像し難い発想だ。
二 岩波講座・世界歴史23-アジアとヨーロッパ(岩波、1999)はロシア・ソ連に関する独立の論考を含んでいないが、概論である山内昌之「アジアとヨーロッパ-日本からの視覚-」(p.3~)は、冒頭で上に見たブレジンスキー: OUT OF CONTROLを注記しつつ、つぎのように言う。
 「…、革命の残忍さとテロルの普及、ファシズムと共産主義が生み出した人間無視などは、…20世紀につきまとった。ソビエト社会主義のもとにおける厳しい飢饉や大量テロル、ナチズムのユダヤ人ホロコーストなどに象徴されるように、人間の生命が鴻毛のように軽く扱われたのは驚くほかない。…『大量死(メガデス)』というコンセプトで計算するなら、今世紀の大量死者数は1億8700万人ということになる」。
 この数字は、ブレジンスキーが挙げていた数度と同じ。山内はこれにもとづき、つぎのように書く。
 「それは1900年の世界人口の10人あたり1人以上に相当する」。
 1914年-1945年までの戦争、共産主義国内・ファシズム国内およびその後の東欧(東独を含む)・中国・北朝鮮等々によって、20世紀は人口の10分の1を失った。これはまた、彼らが将来に生む可能性のあった人間が生まれなかったことも意味する。
 これらに愕然とする「感性」をもたなければならない。
 歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的「感性」を率直に示して、何ら問題がないはずだ。

1406/ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む①。

  ズビグニュー・ブレジンスキー(鈴木主悦訳)・アウト・オブ・コントロール(草思社、1994)の「はじめに」と「第一部・組織化された狂気の政治」p.5-p.57。
 第一部は「第一章・大量死(メガデス)の世紀」、「第二章・全体主義のメタ神話」、「第三章・強制的なユートピア」から成り立つ。
 原書は、Zbigniew Brzezinski, Out of Control - Global Turmoil on the Eve of the 21st Century(Charles Scribner's Sons, 1993)
 一 ブレジンスキーにはすでに次の著もあり、「20世紀における共産主義の誕生と終焉」を語っていた。
 Zbigniew Brzezinski, The Grand Failure - The Birth and Death of Communism in the Twentieth Century (Macmillan Publishing, 1989)=ブレジンスキー(伊藤憲一訳)・大いなる失敗-20世紀における共産主義の誕生と終焉(飛鳥新社、1989)
 二 とりあえず上記の部分のみについてだが、すでに考えさせる、または刺激的な叙述に溢れている。
 この人は冒頭(表紙裏)に「ジミー・カーターに捧げる」と書いているようにアメリカの民主党系の学者だ。リチャード・パイプス(1923生)よりも5歳だけ若く(1928年生)、パイプスが共和党系であるのと異なる。但し、この二人ともポーランド生まれの、民族的にはポーランド人だ、と見られる(アメリカに帰化)。
 フーバーとF・ルーズヴェルトの違いを知ると、共産主義についての見方に共和党と民主党には大きな差違があるようにも思える。しかし、ポーランド生まれであることが関係しているのかどうか、ブレジンスキーは(も)<反共産主義>を鮮明にしている。これが、やや驚きでもある第一点だ。
 「はじめに」の最後の段落の文章を、やや長いが引用してみよう。邦訳書p.15-16。
 「20世紀は妄想の政治とおぞましい殺人の世紀でもあった。過去に例をない規模で狂気が制度化され、まるで大量生産を思わせる組織的なやり方で人間が殺された。人類を幸福にするはずの科学の可能性と、実際に歯止めがかけられなくなった政治の邪悪さは、おそろしいほどに対照的である。人類の歴史を振り返っても、殺人がこれほどあちこちで起こり、多くの人命が失われたことはなかった。不合理な目的のために、特定の人間を絶滅させるべく、これほど集中的にかつ持続的な努力が傾けられたこともなかった。/
 たしかに、…。中世には、…。…。しかし、このほかの暴力が激化した例を見ても、それらは基本的には突発事件だった--激しい暴力のために多くの血が流されたが、それは持続しなかったのである。大量虐殺、とりわけ非戦闘員のそれは、…、念入りな計画にもとづく一貫した方針にそって行なわれたわけではなかった。20世紀という時代が政治史に悲惨な足跡を残したとすれば、まさに念入りな計画にもとづく一貫した方針によって大量虐殺が行なわれたことなのである。」
 「20世紀の大量殺人」、「組織化された狂気の時代」の「大量殺戮」によってブレジンスキーは何を意味させているか。彼はその原因を①戦争・局地戦争・内戦、②全体主義>共産主義、③宗教・民族問題に分けて論じているようだが、ほとんどは<共産主義>によるものについてだ。
 ブレジンスキーによれば、①による(「実際の戦闘」による、民間人も含む)死者数は8700万人(広島を含む)。③によるものは、「300-400万人」。そして、②+③の「イデオロギーや宗教上の理由」により「意図的に殺された」人間は「8000万人を超える」(p.28)。
 合計の約1億7000万人は、仏・伊・英の三国の人口数の合計にほぼ等しく、アメリカの人口の3分の2以上(p.28)。
 ブレジンスキーは、20世紀を「大量死(Megadeath)」の時代、と称する(p.17)。Mega とは、10の6乗の数。
 ②の「『強制的なユートピア』をつくろうという全体主義的な試み」によるものについての叙述はかなり詳しい。以下は、抜粋引用的な紹介。
 「道徳的観点からすると、戦争の犠牲者の数さえ見劣りするかもしれないその数字こそ、20世紀を大量死の世紀と正当に位置づける根拠となる」。その数こそが「主義に名を借りた憎悪や感情のせいで、計画的に死に追いやられた無防備な人びとの数」だ(p.20)。
 この「政治的な動機による大量殺人」の原因は、つぎの4人の人間だった。
 すなわち、ヒトラー、レーニン、スターリン、毛沢東。
 「推定」数字だが、「重要なのは規模であって、正確な数字ではない」(p.18))
 ヒトラーによって、約1700万人。レーニンによって、「およそ600万人から800万人」。
 スターリンによって、「控えめに見積もっても、2000万人以上が、おそらくは2500万人が殺された」(p.21)。中国の指導部は「秘密」にしているが、推計では、毛沢東の「文化大革命」により、「100万人から200万人が殺された」(p.26)。
 その他、「東欧、北朝鮮、ヴェトナム、キューバ」で、「少なくとも300万人」。カンボジアでその3分の1、つまり約100万人。
 「共産主義は人類が歴史上最も大きな犠牲を払って失敗した試みだった」(p.27)。
 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある(p.22以下)。
 <以下、続ける。>

1400/「二項対立」思考や「言葉・観念」思考ー仲正昌樹から。

 読書メモと関連つぶやき。
 1.仲正昌樹・知識だけのあるバカになるな!(大和書房、2008)のp.77-142、第2章「今の日本で大勢を占めている『二項対立』思考の愚について」。
 現在の月刊正論編集部と渡部昇一はいちど読んでみた方がよいと思う。この「二項対立」思考は、2.で言及している「言葉・観念依存」思考とも関係があるだろう。
 日本共産党や日本の「左翼」は当面敵視する対象を安倍晋三内閣に置いているようであり、何があっても安倍晋三の言動を褒め称えることはない。閣議決定された安倍70年談話が村山談話を継承するものであっても、その点を褒めることはなく、付随する別の部分の文章にケチをつける。
 最近はさらに、安倍内閣の背後にある悪の巣窟を「日本会議」に見ているようだ。青木理の本も読んだが、ワッハッハ、という感じ。彼らが畏怖し恐れるような「保守」団体が本当に現存するとすれば、何と頼もしく、愉快なことだろう。
 日本会議、青木理等の本や、日本会議の代表、社会民主主義者に対する好感をも述べていた田久保忠衛について、いずれ書かなければならない。のんびりと神社参拝について書いたりしているように見えるかもしれないが、秋月瑛二は神社組織や神社本庁、あるいは「神道」・神社の現状について、知らないわけではない。
 元に戻る。敵を「保守」または「右翼」勢力、あるいは「ファシズム」・「軍国主義」に見て「たたかう」つもりの二項対立的な「左翼」に対して、彼らとは逆に「保守」政権だとする安倍政権を「味方」だとして擁護するだけでは、同じ土俵に立って<二項対立>思考の愚を冒しているだけだろう(安倍政権、現在の自民党は「保守」かという問題も厳密にはあるが立ち入らない)。
 彼ら「左翼」よりは、冷静で多面的な思考をしなければならない。
 いや、ある意味では、彼らは表向きは「冷静で多面的な」、そして「客観的な」論述をしていると見える場合がある。とりわけ、現在の人文社会系<アカデミズム>を基本的には牛耳っているかもしれない「左翼」学者・論者たちは、少なくとも渡部昇一やその他の一部の<観念的・原理主義的な保守派>学者・論者よりは、表向きは概念・論理がしっかりしていて<知的刺激>には溢れていることがある。もちろん、一読してすぐに、あるいは容易に、観念的・教条的な「左翼」学者・論者だと分かる場合もあるが。
 このブログサイトは「反日本共産党・反共産主義」を掲げており(8/08頃に「反朝日新聞・反日本共産党」から改めた)、日本の「保守」派を論難するのが主目的のものでは全くない。にもかかわらず「(自称・表向き)保守」を批判したい気になることがあるのは、そんな文章・論理、こんな雑誌であれば、ほとんど<左翼>に勝てないだろう、<左翼>にバカにされるだろうと、と警告し、嘆きたいからだ。
 2.三宅正樹・スターリンの対日情報工作(平凡社新書、2010)のp.7-55、はじめにと第1章「クリヴィツキーの諜報活動」。
 レーニン関係文献は(可能な範囲で)ほぼ入手し、一読はした(しかし記憶にすべて残しているわけではない)と思っているので、ようやく、気になっていたこの本を読み始めることができた。よくよく考えれば、レーニンやソ連・共産主義と相当に関係がある本なのだった。共産主義とファシズム(とくにヒトラー・ナツィズム)の「近接」の現実にも関係がある。すなわち、1939年8月の独ソ不可侵条約。
 キーロフも、クリヴィツキーも、スターリンの指示によって「暗殺」された、との説がある。
 独ソ関係や「暗殺」から離れて、すさまじいと感じるのは共産主義者による諜報活動、そしてデマゴギー、プロパガンダだ。
 1945年にソ連が日本に参戦するまで、対米交渉の「あっせん(・協力)」を日本政府はソ連に求めていたというのだから、そのソ連「無知」、諜報戦の敗北ぶりは、何とも嘆かわしい。嘆かわしいというより、日本の悲痛な過去だ。そうしたこともまた、ゾルゲや尾崎秀実らの跳梁を許した共産主義またはソ連「幻想」の強さと強い関係があるのだろう。
 さらに離れて、<プロパガンダ>に関連して、「言葉」というものについて考える。あたりまえのことを、改めて確認したくなる。
 言葉・概念またはそれらを使った論理(・命題)には大きくは二種あるだろう。すなわち、事実・現実を意味・叙述するものと、こうだろう又はこうあるべきだということを意味させ、叙述するもの。
 要するにsein とsollen の区別なのかもしれないが、最低限度、この区別・違いくらいは知って文章を読み、言葉を理解・解釈しなければならない。
 日本共産党綱領が現在の状況を変えようとして書いてある諸基本政策や将来展望は、言うまでもなく上の後者の世界のもので、実際にそうなるかは(将来展望については実際にそうなる「はず」だ、と日本共産党は「主張」するのかもしれないが)分からない。この党の当面の諸政策も、「自由と民主主義」の宣言も、実際にそれらの内容が実現されるかは、さらにはこの政党が実際に実現するように努力するかは、彼らが実際に「権力」を掌握してみなければ、分からない。
 かつての歴史的宣言文書類にも、そのようなものが多くある。<十七条の憲法>や<五箇条の御誓文>を見て、それらの内容が当時の現実を表現するの、その内容が現実に存在したと理解する日本人はおそらくいないだろう。
 フランス革命時の<人権宣言>も同じ。また、制定して施行されれば少しは法規範としての意味をもち現実に対して作用した(つまり現実化した)といえるかもしれないが、制定されても施行されなかった<フランス1793年憲法>も同じ。
 これらがまるで現実化されたかのごとく理解するのはもちろん誤りだが、また、表面の言葉・文章だけで<理念・理想が素晴らしい>と感激してしまうのは、井沢元彦のいう「言霊主義」あるいは言葉・概念・(言葉による)命題によって歴史を評価してしまう、致命的な、認識の誤りに陥ってしまう可能性がある。
 ロシア10月革命後、1918年の「勤労被搾取人民の権利宣言」も同じ。また、その直後の憲法上の文言をもってロシア・ソ連は<男女平等>や<生存権(保障)> の方向に向かう世界史上の大きな役割を果たした、とか日本共産党・不破哲三や党員又は「左翼」の学者がほざいていることがあるが、これまたロシア・旧ソ連の「事実」を無視し、「言葉」にだけほとんど着目した空論にすぎない。
 憲法と現実の乖離は日本についても言われることがある。しかし、社会主義・共産主義国の「憲法」がほとんど<建前>または表向き・外国向けのフロパガンダ文書にすぎないことは、典型的には現在の北朝鮮に、相当程度に中国(共産チャイナ)についてあてはまることを見ても明らかだ。
 日本人のかなりは<言葉>というものに弱い。<ふつうの人はウソをつかない、又はウソつきは悪いことだ> という感覚を相当にもった<お人好し>の傾向がある。
 たしかに個別の国民間等の契約文書は、将来の行為の約束にすぎないが、国家・裁判所によって履行が(暴力=実力的にでも)強制されている、とふつうは言える。
 しかし、現在でも、国家間の約束事(条約等)には暴力・実力による担保は、建前はともあれ、実質的にはほとんど存在していない。現在についてすらそうなのだから、過去の、歴史上の「宣言」・「条約」類が実態をおよび「真意」を示しているわけでは全くないわけだ。第一次大戦後の多数の条約・協定・宣言類についても、注意深く、拘束力の程度や各国の「真意」を見定める必要がある。表向きの<美辞麗句>に騙されてはいけない(<民主主義対ファシズム>という図式も、この時期の「言葉」に由来した、幻惑させるものである可能性が高い)。
 少し戻ると、言葉・観念を弄ぶ、一見深遠で優れていそうにみえるが、じつは訳の分からない空虚な議論は、やはり「左翼」に多いようだ。
 「民主主義」とか「人権」とか「平和」とか(あるいは「戦後民主主義」とか)、そのような言葉それ自体が何か価値があり実態を伴っているかのごとき<感覚>・<幻想>に嵌まって、観念の上だけでの議論・主張をしている文章をたくさん見てきた。
 本当の「保守」派は、その「保守」という言葉自体は別の語でもよいが、観念の上だけでの、または相当にそれに傾斜した、議論・主張をしてはならない、と思っている。 言葉・概念の必要性・有用性を、むろん一般に否定しているわけではない。それらの作成・使用はある程度不可避なのではあるが。

1398/日本の「保守」-奇書・月刊正論11月号(産経)02。

 一 あくまでかつての月刊正論(産経)の主論調・特集設定を示す例だが、二年前2014年7月号の背表紙には「歴史・外交・安保/中国・韓国への反転大攻勢」とあり、同年8月号のそれには、「日本を貶めて満足か! 朝日新聞へのレッドカード」とあった。他の「保守」系雑誌と同じく「中国」や「韓国」がしばしばでてくるのはいかがかという気もしていたが、(朝日新聞が「虚報」の一部を認めたこともあり)論調自体はかなり明確だった。
 2016年11月号の背表紙は「昭恵・蓮舫・クリントン」
 これはいったい何が言いたいのか、何の特集なのか ? ? 女性政治家特集なのか。いや安倍昭恵は政治家ではないはずだが。
 と思ったりして目次を見て少し捲ってみると、三人について計4論考があるだけで、統一したテーマがあるのでもなさそうだ。
 しかも表表紙と目次冒頭には「特集/安倍政権の敵か味方か」とある。
 この特集名に即した論考は、熟読していないので断言はできないが、何と渡部昇一のもの一つだけのようだ。
 なるほど客観的には、安倍昭恵インタビューも八木秀次・潮匡人の蓮舫ものも、ヒラリー・クリントンについての三浦瑠麗論考も、安倍政権を支持していることになるのかもしれない(熟読していないので確言しかねる)。
だが、少なくとも、これらは「安倍政権の敵か味方か」という問題設定のもとで、これを主テーマとして、執筆または構成された文章ではない、と見られる。
 このような編集部(代表・菅原慎太郎)設定の「特集」名そのものが、じつはかなり政治的で、読者を(そして日本国民を)幻惑させるものになっている。それは、この「特集」に最も近い問題関心のもとで書かれたとみられる渡部昇一の文章の「意図」と同様に、<卑劣な>ものだという印象を拭えない。
 二 前回にかなり引用した水島総は、連載ものの執筆者ということもあり、月刊正論編集部の意図におそらく反して、「正論」を書いている。
 当該編集部と渡部昇一が主張し、意図しているのは、<日本の「保守」派のみなさん、安倍政権を支持しないのですか ?、みなさんは安倍政権の「敵か味方か」どちらなのですか ?>という問いかけを発することだろう。
 これは問題のスリカエだ。
 西尾幹二、伊藤隆らが理解し主張しており(秋月瑛二も同様)、また中西輝政が「さらば、…」とする契機となった理解は、<安倍晋三戦後70年談話は、戦後体制の基本的歴史観を維持している>、<…、(当の月刊正論や産経新聞も批判してきたはずの)村山富市戦後50年談話を踏襲している>、<…、東京裁判史観を継承している>ということなのであり、安倍晋三・自民党内閣を全体として支持しない、安倍政権は「敵」だということではない。
 中西輝政の言いたいことの中心もまた、当面の<安倍内閣の当否>ではない、と思われる。なるほど中西は安倍晋三を「敵」とするような表現の仕方をしているが、中西輝政の敵は言うまでもなく、「戦後レジーム(体制)」であり日本国民が自主的な歴史観を育めない根因にある「東京裁判史観」にある、と考えられる。水島総が驚くほど明瞭に語っているように、「東京裁判史観」にまだ拘束されざるをえない、現在の日本国総理大臣の<宿命>・<哀しさ>を感じなければならない(むろん、アメリカというものの存在にかかわる)。
 問題は安倍晋三個人にあるのではなく、談話に誰も反対しなかった内閣の閣僚にもあり、自民党そのものにあり、あのような内容の安倍談話を許してしまった(阻止できなかった)月刊正論や産経新聞を含む「保守」系メディア・論壇にもある。
 問題を、<安倍政権を支持しますか ?>、<安倍政権の敵と味方のどちらですか ?>に歪曲してはならない。これは、卑劣な問題設定、主題設定だ。
 渡部昇一にも、月刊正論編集部(代表・菅原慎太郎)にも念のために言っておきたいが、<安倍談話は東京裁判史観(と言われるもの)を維持しているか否か>という問題には、比較的容易に答えることができる。
 いろいろな装飾・アクセサリーやレトリックが安倍談話には介在しているので幼稚な者には見抜けないのかもしれないが(その装飾・レトリック部分を朝日新聞等の「左翼」は批判し、一方でそれらを産経新聞は好意的に論評する根拠にした)、素直に読めば、東京裁判史観や村山談話等の「これまでの内閣」の立場との関係での基本的趣旨は明らかだ。
 しかし、<安倍政権を支持するか否か(安倍政権は味方か敵か)>という問題には、単純には答えられない。それは、貴方は<自民党を支持するか ?>、<自民党は味方か敵か>という質問に簡単には、つまり二者択一的には答えられないのと同じだ。
 月刊正論編集部や渡部昇一は、上の質問に<支持>・<味方>と答えるのかもしれない。
 だが、問題は、政治・政策の当否は、そのように二者択一的に判断できるとは限らない。選挙の投票に際して、いずれかの政党を一つだけ選択するのともさらに異なる、多様な評価がありうることを知らなければならない。
 つまり安倍政権であれ、自民・公明連立政権であれ、自民党という政党であれ、例えば100点満点の評価から、80、60、…20点、といった多様な評価がありうるのだ。
 上に月刊正論編集部や渡部昇一は、安倍政権を<支持>し<味方>するのかもしれないと書いたが、自民党・安倍政権が進めようとしているようでもある配偶者関連税制の「改正」も、<消費税>関連政策・方針も、種々の労働政策も、<女性を含む一億総活躍>方針も-あくまでまったくの例示にすぎないが-、<すべて>支持するのか ? 自民党が、したがって安倍政権もまた継承している<男女共同参画>行政もすべて支持するのか ? 自民党の文教政策あるいは例えば安倍政権・文科省が行っている<大学再編>政策もすべて支持するのか ?
 渡部昇一や月刊正論編集部にとって、安倍政権は「100点満点」の政権なのか ? ?
 真面目に又は厳密に考慮すれば、<分からない>とか<支持しかねる>という政治方針・政策もあるはずだ。
 渡部昇一や月刊正論編集部に訊きたいものだ。
 安倍政権はかりに<保守>政権だとして、そして自分たちをかりに<保守>派だと考えているとして、安倍首相や安倍政権の言動・政策・行政を<すべて>支持しなければならないのか ? つねに、あらゆる論点について、安倍政権の「味方」でないといけないのか ?
 農業・水産業等々の国民、タクシー事業従事者、「非正規」労働の人、コンビニの経営者あるいは個々の従業員、…、それぞれの利害は多様だ。高齢者と若者という違いもある。
 そのような多様な国民が、あるいは雑誌読者が、「保守」系と自らを感じている者が多いかもしれないとしても、いったいなぜ、渡部昇一や雑誌編集部によって、「安倍政権の敵か味方か」と問われなければならないのだ ? ?
 渡部昇一は卑劣にも、自らが1年前に<安倍談話は100点満点>、<戦後体制を脱却した談話>、<大宰相の談話>とか「手放しで」褒め称えたことについては全く触れないままで、「安倍政権の敵か味方か」という特集名のもとで、安倍晋三首相を支持し<信頼する(信頼し続ける)>ということを長々と述べているだけだ。
 しかも、最後の方を捲ると、例えばつぎのような一文の末尾は、いかなる(実証的 ?)論拠にもとづくものなのだろう。笑わせるではないか。
 94頁-「安倍さんはそういう可能性を感じているかもしれません」。
 95頁-「彼はそう考えを変えたのだと思っています」。
 同-「安倍さんは…を手にすべく精を出しているのだと考えています」。
 同-「彼は機をうかがっているのだと思います」。
 同-「…かもしれません。そうした兆候は…、明白に表れていると思います」。
 同-「…時、粛々と変えるべく安倍氏は動くものと信じています」。
 渡部昇一は、可能であるならば、自らが1年前に<安倍談話は100点満点>等々ときわめて高く評したことの論拠を、再度詳細に述べるべきだ。渡部昇一をめぐる争点・問題は、まさに1年余り前の自らの文章の適否にある。<安倍政権は敵か味方か>などと問題をスリカエて、逃げてはいけない。
  三 同じ雑誌の同じ号にほとんど真反対の方向の理解・主張の文章が別の論者によって書かれていること、「特集」名にかかわらず、それに対応していると思えるのは渡部昇一の文章一つにすぎないこと、背表紙の「昭恵・蓮舫・クリントン」という意味不分明の文字の羅列、そして「特集」名設定から推察される編集部の意図…。
 月刊正論11月号(産経)が「奇書」だという理由が、判っていただけただろうか。
 このような雑誌に、あるいは渡部昇一も登場する号にだけでも(一緒には)、論考を執筆したくない、という「先生」方が現れることを期待したい。
 四 このような投稿に時間を費すのは、本当は愚かなことだ。
 渡部昇一は、かつて、その清水幾太郎の<右>旋回に関する発言で、福田恒存によって「売文業者」と称されて批判されたことがある。
 福田恒存評論集・第12巻(麗澤大学出版会、2008)の中の107頁以下の「問い質したき事ども」の半ば辺り以降を参照(原文は1981)。
 このことを、私と同じく渡部昇一の安倍談話支持を厳しく批判する、千葉展正・「売文業者」渡部昇一の嘘八百を斬る(kindle版、2016)によって知った。
 この電子書物( ?)は渡部昇一による安倍談話支持を、この秋月の欄よりもはるかに詳細に「斬って」、批判している。千葉展正には、反フェミニズムの本もある。

1358/Hoover: Freedom Betrayed, p.875-883〔フーバー回顧録〕。

 以下は、Hoover: Freedom Betrayed, p.875-883の本文の「試訳」だ。
 いずれ翻訳権者による正規の訳書が公刊され、結果としては誤りや不適切な訳が明らかになるだろうが、このまま残しておく。すべての文章とすべての語句に意を払ったが、その結果として堅い、こなれていない日本語文章になっているだろう。秋月瑛二はアメリカ政治史の専門家ではないし、英文学・英語学の専門家でもない。大学卒業程度の英語力を使っての「試訳」にすぎない(英語文の「構造」自体が分からなかった文章もいくつかあった)。
 また、以下はH・C・フーバーの大著のうち10頁に充たない部分を対象にしているにすぎず、(編者も冒頭に記すように)注でも参照要求されている等のフーバーの長い叙述の「要約」である。フーバーの理解、評価、考え方を正確に知るには当然に他の部分を読まなければならず、フーバーはアメリカの対日戦争を批判していても、日本の「戦争」全体を擁護しているわけではない。あくまで、アメリカの<愛国者>の一人だと思われる。
 日本に関連して興味を惹く別の部分の文章は、別に「試(私)訳」することがあるかもしれない。
 全体について、藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)も参照。
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 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳
 文書18  "正当な政治の喪失/政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.875-883
 〔編者(George H. Nash)はしがき〕
 以下は、フーバーの大作の1953年版の最後の章(89章)にある、最終的で思潮的なページ(p.994-p.1001)である。これのタイトルを、フーバーは一時期、「政治家資格失墜」〔正当な政治の喪失〕(Lost Statesmanship)とした。この諸ページはおそらく、1953年の早くに、1952年の大統領選挙の後にほどなくして書かれた。この章でフーバーは、ルーズベルト=トルーマン外交記録に対する彼の修正主義者(revisionist)的告発を、刮目すべき熱心さと強さでもって要約した。「私は、戦争および戦争にかかるすべての段階の政策に反対した」と彼は書いた。そして、「私は、釈明をしないし、後悔もしない」、と。
 この文書は、フーバー研究所文書の中の、Herbert C. Hoober 書類、Box11、"Box11, M.O.21" にある。

  〔序節〕 政治家資格失墜/正当な政治の喪失-7年に19度の-に関する省察
 世界に生起したすべての惨害についてヒトラーとスターリンを非難することによって、なおもルーズベルトとトルーマンを擁護する人々がいる。彼ら〔ヒトラーとスターリン〕が人間の歴史における悪魔的で不吉な人物だったことには、何らの論証も必要としない。
 しかしながら、彼ら〔ヒトラーとスターリン〕との交渉におけるアメリカやイギリスでの正当な政治の喪失〔Lost Statesmanship〕についていかなる省察をしても、歴史の弁明の余地はない。この(正当な政治の喪失という)巨大な過ちがなければ、この惨害は西側世界に生じ得なかったであろう。
 私は、この錯綜した諸行為の中で読者が、何がありいつあったか〔what and when〕に対する責任がいったい誰にあるのかを忘れてしまうことのないように、以下に、主要な出来事を列挙〔list〕することとする。私は読者に、この回想録中の諸章を注記する。そこ(その諸章)には、彼らが有罪であるとする事実と理由が述べられている。

 〔第一節〕 一九三三年の世界経済会議
 第一。ルーズベルトが国際的な政治家資格を失墜するに至った第一回め(でかつ重要なもの)は、一九三三年の世界経済会議を破壊したことであった。この会議は英国の首相・マクドナルドと私自身〔フーバー〕が準備したもので、一九三三年一月に開催することになっていた。ルーズベルトが(大統領に)選出されたため、六月に延期された。あの頃、世界は全世界的不況からまさに回復し始めていた。しかし、世界はひどい通貨戦争に引き込まれており、貿易障壁を拡大していた。初期の仕事は、専門家たちによってなされていた。ルーズベルトは十名の首相たちをワシントンに呼び集め、国家間の決済における金標準(本位)制を復活することに合意した。〔にもかかわらず、〕この会議の途中で突然に、ルーズベルトはこうした企図を覆し(「爆弾投下))、会議を挫折させ、達成したものが何もないままで死に至らしめた。ルーズベルト自身の国務長官であったハルは、この行為こそが第二次世界大戦の根源であったと、明白に非難した。(注1.)
 注1…第1章参照(編者〔George H. Nash〕注記-この文書の脚注はすべてフーバーによるものである。)

 〔第二節〕 一九三三年に共産主義ロシアを承認したこと
 第二。ルーズベルトにおける第二の正当な政治の喪失は、一九三三年に共産主義ロシアを(国家として)承認したことにあった。四代の大統領たちと五代の国務長官たちが-民主党であれ共和党であれ-(国際共産主義の目的全体と手法に関する知見をもって)このような行為〔国家としての承認〕を拒否していた。共産主義者たちは宗教的誠実さ、人間の自由および諸民族の独立を破壊する胚種を運び込むことによってアメリカ合衆国に侵透することができるだろうと、彼らは知っていたし、そう言った。ソヴィエト・ロシアを(国家として)承認することは他諸国の間での威信と力をそれ〔ロシア〕に与えるであろうと、彼らは考えていた。共産主義者たちは我々〔アメリカ合衆国〕の国境の内部では悪辣なことをしないという、ルーズベルトの共産主義たちとの間の幼稚な合意のすべては、四八時間も経たないうちに、履行不能の登録簿に載ってしまった。共産主義者とその同調者たちの長い車列は、政権の高いレベルにまで入り込んだ。第五列の活動が、国全体に広がった。こうして、ルーズベルトが大統領職にあった一二年の間に、長く続く裏切りの諸行為がなされたのである。(注2.)
 注2…第2章参照。

 〔第三節〕 ミュンヘン
 第三。私は、つぎの理由では、ズデーテンのドイツ人たちを帝国〔ドイツ帝国=ヒトラー・ナチス〕に譲り渡す1938年9月のミュンヘン協定を非難する気にはなれない。それ〔譲渡〕はベルサイユ条約により生じたおぞましい財産で、同条約からしてそれは不可避だったのだ、という理由では。しかしながら、ミュンヘン協定によって、ヒトラーは、ロシアを侵攻するというその再三の決意を達成する諸ゲートを開いたのだ。〔ルーズベルトによる〕正当な政治の喪失は、独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕の間の不可避の戦争に備えることから離れてしまい、そして、怪物たち〔monsters=ヒトラーとスターリン〕がお互いを殺し合うのを止めようとしていた。 

 〔第四節〕 一九三九年にイギリス・フランスがボーランドとルーマニアを保証したこと
 第四。正当な政治の第四の深刻な喪失は、イギリスとフランスが一九三九年の三月にポーランドとルーマニアの独立を保証(garantee)したときになされた。まさにそのとき、欧州の民主主義諸国は、ヒトラーとスターリンの間の不可避の戦争から手を引くという従来の政策を変更したのであった。
 このことは、欧州の勢力外交の全歴史のうちで、おそらくは最大の過ちであった。イギリスとフランスは、ポーランドを侵略から救い出す力を持っていなかった。しかし、この行為〔独立の保証〕によって、彼らは民主主義の政体〔ボーランド・ルーマニア〕をヒトラーとスターリンの間に投げ込んだ。彼らのこの行為によって、彼らはスターリンをヒトラーから守っただけではなく、スターリンに自らの影響力を最も高価な買い手に売ることができるようにした。(イギリスとフランスという)同盟国は入札したが、スターリンが示したのは、よるべない人々が住むバルト諸国および東部ポーランドの併合という、同盟国がとても応じることのできない人道的な対価であった。スターリンは、ヒトラーからその対価を獲得したのである〔=ヒトラーが入札に勝ったのである〕。だがヒトラーは、南東ヨーロッパにまで膨張し、モスクワの共産主義者の聖地(Vatican)を破壊するという決心を放棄するつもりはまったくなかった。しかし今は、ヒトラーはその必要上まずは西側民主主義諸国を中立化しなければならない、そしてそのように進め始めた。
 おぞましい第二次世界大戦の長い連鎖〔列車〕は、ポーランドの保証というこの過ちから出発した。ルーズベルトはこうした勢力外交にいくばくか参加していた。しかし、それがどの程度であったかを測定するには、諸記録文書があまりに不完全すぎる。チャーチルは、まだ政権に入っていなかったが、ミュンヘンでの宥和(-政策)のあとの絶望的な行為へとチェンバレンを駆り立てることによって、何がしかの寄与をなした。(注3.)
 注3…第18章、第19章、第27章参照。

 〔第五節〕 合衆国の宣告なき戦争
 第五。政治家としての第五の大失敗は、1941年の冬にルーズベルトが合衆国をドイツと日本との宣告なき戦争に放り込んだときだった。それは、数週間前に彼が選出された大統領選挙の際の公約に全く違反していた。(注4.)
 注4…第30章参照。

 〔第六節〕 慎重な待機策をとらなかった過ち
 第六。レンド・リース法〔武器貸与法〕の(施行)前、そして軍事費がアメリカの人々の肩に課される前の数週の間に、ルーズベルトは、ヒトラーがロシアを攻撃しようと決意していることを明確に知った。そして彼は、その情報をロシアに伝えた。彼はドイツとの宣告なき戦争を回避すべきであった。また、レンド・リース法(の適用)を、軍需品、糧食や船舶を購入するための金融支援という、イギリスに対する単純な援助に限定するべきだった。そうすれば、国際法の範囲内にとどまったままでいた。正当な政治〔 Statesmanship〕は、あの瞬間において、粛然として、注意深く待機する政策をとることを要求していたのである。(注5.)
 注5…第32章参照。

 〔第七節〕 スターリンとの同盟
 第七。まさにアメリカの全歴史上の最大の正当な政治の喪失は、ヒトラーが1941年6月に侵撃したときに、共産主義ロシアと隠然たる同盟関係をもったこと、かつそれ〔共産主義ロシア〕を支援したことであった。アメリカの軍事力はイギリスを救うために必要とされていたという誤った考え方ですら、今や明らかに消失してしまっていた。ナツィ(Nazi)の狂熱がロシアの沼地へと方向転換したことによって、何人もイギリスとすべての西側世界の安全をもはや疑うことはできなくなっていた。この怪物的な独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕は、どちらが勝とうと、互いに消耗させ合うことになるはずであった。ヒトラーが軍事的勝利を得たとしてすら、ヒトラーは数年間は、隷属状態の人々を保持しようとする窮地に陥っていたであろう。また、ロシアは、ヒトラーが望んでいたかもしれない、いかなる種類の軍需品をも破壊したに違いなかった。彼〔ルーズベルト?〕自身の将軍たちも、彼の行動に反対した。
 ロシアに対するアメリカの援助は、スターリンの勝利を、かつ共産主義の世界中への蔓延を意味した。正当な政治は再び、傍観するように、歯をくいしばって油断なく備えておくように、そして彼らの相互破壊を待つように求めて、切羽詰まって泣き叫んでいたのである。そのような日がやって来たとすれば、アメリカ合衆国とイギリスには、自由主義の世界に真実の平和と安全保障とをもたらすために彼らの力を用いる機会が、存在したであろう。平和を永続させるためのこれほどの大きな機会は、ある大統領にはかつて来ていなかった。その人物〔ルーズベルト〕は、しくじった。(注6.)
 注6…第33章参照。

 〔第八節〕 日本に対する一九四一年七月の経済制裁
 第八。ルーズベルトの政治における第八の巨大な過ちは、一ヶ月のち、一九四一年七月末の、日本に対する全面的経済制裁であった。この制裁は、砲弾発射を除くすべての意味(本質)における戦争であった。ルーズベルトは再三にわたって自分の部下から、このような挑発は遅かれ早かれ戦争への報復を生み出すだろうとの警告を受けていた。(注7.)
 注7…第37章参照。

 〔第九節〕 近衛の和平提案の受諾を拒絶したこと
  第九。一九四一年九月の、太平洋平和のための近衛首相の和平提案をルーズベルトが侮蔑的に拒絶したことによって、第九の正当な政治の喪失が完全になされた。近衛の諸提案を受諾するように、アメリカやイギリスの日本駐在大使たちは祈るような気持ちで強く働きかけていた。近衛が提案した諸条件に従えば、おそらくは満州(注8.)の返還を除いて、アメリカはすべての目的を達成したことになっていたであろう。その満州返還ですら、まだ議論する余地を残していた。 皮肉家(犬儒学者)は、ルーズベルトはこの些末な問題をきっかけにして大きな戦争を起こそうと意図していた、そして共産主義ロシアに満州を与えた、と想起するであろう。(注9.)
 注8…満州はすでに、1933年5月31日の塘沽(Tang-Ku)合意においてシナによって日本に譲与されていた。
 注9…第38章参照。

 〔第十節〕 三ヶ月の冷却期間をおく日本との合意の受諾を拒絶したこと
 第十。第十の正当な政治の喪失は、一九四一年十一月に、三ヶ月の冷却期間をおくことを合意しようという、彼の大使が知らせた日本の天皇からの提案の受諾を拒絶したことであった。我々の軍官僚たちは、ルーズベルトに対して受諾するように強く働きかけた。そのとき日本は、ロシアが同盟国・ヒトラーに対して勝利するかもしれないと警戒していた。九十日間の引き延ばし(delay)があれば、日本は戦意をすべて喪失していたであろう、そして太平洋には戦争が生じないままだったであろう。スティムソン日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその官僚たちは、日本人たちが明白な犯行をするように挑発する方法を探していたのである。こうして、ハルは馬鹿げた最後通牒(ultimatum)を発し、我々はパール・ハーバーで敗北した。
 全南アジアの占領地域における継続した損失と日本の勝利は、計算できなかったものであった。さらに、制海権を失ったので、ヒトラーとTogo〔Tojo=東條が正確だと見られる/秋月〕は、我々の海岸線から見えるところで我々の船舶を破壊することが可能であった。(注10.)
 注10…第38章、第39章参照。

 〔第一一節〕 無条件降伏を要求したこと
 ルーズベルトの政治における第十一の巨大な過ちは、一九四三年一月にカサブランカで「無条件降伏」を要求したことであった。そこではルーズベルトは、我々の軍隊の助言なく、チャーチルの助言すらなくして、新聞一面の見出し(headline)〔「無条件降伏」が新聞に大きく取り上げられること〕を狙っていた。この要求は、全敵国の軍国主義者や広報担当者に入り込んだ、そしてドイツ、日本およびイタリアとの戦争を長引かせた。最後には、降伏の際の大きな譲歩が日本とイタリアの両国には与えられた。〔一方、〕この要求は、ドイツ人がナチスを除去したとするならば、彼らには和平へのいかなる希望も与えなかった。苦難の結末となる戦争は、ドイツが再建するための基礎らしきものの一切を、残さなかったのである〔から〕。 (注11.)
 注11…第42章参照。

 〔第一二節〕 一九四三年一〇月にモスクワでバルト諸国と東部ポーランドを犠牲にしたこと
 第十二。正当な政治を喪失する十二番めの過ちは、一九四三年十月、モスクワでの外務大臣会合において、自由な諸国民を犠牲にしたことであった。この会合では、自由とか民主政とかの言葉が使われる真っ只中で、バルト諸国、東部ポーランド、東部フィンランドおよびブコヴィナ(Bukovina)を併合しようとする周知のロシアの意図に対して、一言の異議の言葉も発せられなかった(このことを彼〔ルーズベルト?〕はヒトラーと合意していた)。この黙認は、四つの自由のうちの最後の言葉〔=<恐怖からの自由>〕および太平洋憲章を放棄することを示すものであった。(注12.)
 注12…第46章参照。

 〔第一三節〕 テヘランおよびさらなる七つの国家の犠牲
 第十三。第十三の、そしておそらくルーズベルトとチャーチルの政治家資格失墜を示す錯乱した迷走の最大の一つは、テヘランにおいて、一九四三年十二月になされた。ここでは、諸併合に関するモスクワ会合での黙認が〔正式に〕追認された。また、"友好的な境界線国家"の周縁部-七つの国家を覆う傀儡共産主義政権-についてのスターリンの原則〔doctrin〕が、受容された。国際的な道義や諸民族と自由な人々の独立性に関する彼ら自身の約束に忠実であるならば、ルーズベルトとチャーチルは、テヘランで、一度だけでもスターリンに確固として反対する必要があった。このときまで、これらの合意、黙認そして宥和を正当化できるだろうような、スターリンが分離した平和を作り出す、軍事的な危険は全く存在しなかった〔にもかかわらず〕。(注13.)
 注13…第47章参照。

 〔第一四節〕 ヤルタ-諸国家崩壊についての秘密協定
 第十四。正当な政治の十四度めの致命的な喪失は、ルーズベルトとチャーチルによって一九四五年の二月にヤルタでなされた。十二カ国の独立に対するスターリンの侵食のすべてが承認されたばかりではなく、一連の秘密協定でもって、何世代にもわたって世界を国際的な危険を感染させつづけるだろう不吉な力が作動してしまった。スターリンがすでに七つの国家を覆う共産主義政権を作り出していたことを知って、ルーズベルトとチャーチルは、彼らの政治家資格の失墜を隠蔽(カモフラージュ)しようとした。それには、"自由で独立した"選挙とか、"あらゆるリベラルな分野をもつ代表制"とかの言葉で表現された仕掛け(gadget)が伴っていた。テヘランでの宥和を軍事的な根拠でもって最も強く擁護する者たちですら、ヤルタでのそれをもはや擁護することができなかった。ここでは少なくとも、風格や自由な人類を追求する姿勢が、示され得たであろう。そうであれば、アメリカには、よりクリーンな手と自由な人々からの道徳的な尊敬が与えられ、残されることができていたであろう。(注14.)
 注14…第54章、第55章参照。
 
 〔第一五節〕 一九四五年五月~七月の日本の和平提案を拒絶したこと
 第十五。十五度目の正当な政治の喪失は、日本に関して、一九四五年の五月、六月そして七月に見られた。トルーマンは、日本人たちの白旗〔=降伏のサイン〕に注意することを拒絶した。ルーズベルトの「無条件降伏」に愚かにも従う義務は、トルーマンにはなかった。それ〔無条件降伏の要求〕は、欧州のアメリカ自体の軍事指導者によっても非難されていた。日本とは、ただ一つの譲歩さえすれば和平は達成できていたであろう。その一つとは、ミカド(Mikado)の地位を保全することであった。ミカドは、精神的にも世俗的にも国家の頂点にあった。その地位は、一千年にわたる日本人の宗教的信念と伝統に根ざしていた。そして、我々が最後にようやくこれに譲歩したのは、数十万人の人命が犠牲になってしまった後のことであった。(注15.)
 注15…第61章参照。

 〔第一六節〕 ポツダム
 第十六。第十六の盲目の政治を示したのは、ポツダムでのトルーマンであった。(アメリカ政治の)権力はいまや、民主主義諸国での未経験な人物たちに渡っており、〔一方、〕共産主義者たちはすべての重要な地点に進出していた。ポツダムでの合意のすべては、一連の、スターリンに対するそれまでの降伏の正当化と敷衍であった。共産主義者による併合や傀儡化のすべてが、スターリンとの関係をさらに堅くした。のみならず、ドイツやオーストリアの統治に関する諸条項は、これら両国の一部がスターリンの懐に入ってしまうようにするものであった。賠償政策の結果として、アメリカの納税者たちには怠惰なドイツ人の救済費用として数十億(ドル)の負担が課せられ、ドイツの再興、そうしてヨーロッパのそれが、数年にわたって厳しく抑えつけられることとなった。戦争捕虜に対する悪意ある奴隷化や多数の諸民族の母国地からの放逐は、ヤルタ(密約)によって裁可され敷衍された。
 これに加えて、指導者〔高官〕たちの助言に逆らって、日本に対して無条件降伏を要求する最後通牒が発せられた。その最後通牒には、アメリカの経験ある多くの専門家の意見によれば推奨されていた、ミカドの地位を維持することを許す例外条項は存在しなかった。日本人は回答としてこの点での譲歩のみを求めたのであったが、原子爆弾に遭遇した--そうして、最後に譲歩がなされた。(注16.)
 注16…第61章、第62章参照。

 〔第一七節〕 原子爆弾の投下
 第十七。アメリカの正当な政治の第十七の揺らぎは、日本人たちの上に原子爆弾を投下せよとの、トルーマンの非道徳的な命令であった。日本は繰り返し和平を求めていたのだということだけではなく、この命令は、アメリカのすべての歴史において比較のしようのない残忍な行為であった。これは、アメリカ人の良心に対して、永遠に重くのしかかるであろう。(注17.)
 注17…第62章参照。

 〔第一八節〕 毛沢東にシナを与えたこと
 第十八。正当な政治の喪失の十八度めの歩みは、シナに関してトルーマン、マーシャルおよびアチソンによってなされた。まずはルーズベルトが共産主義者〔中国共産党〕との連合政権(設立)を蒋介石に対して執拗に要求し、それにシナに関するヤルタでのおぞましい秘密協定が続いた。その密約は、モンゴルを、そして実質的には満州を、ロシアに与えるものであった。トルーマンは、彼の左翼的(left-wing)な助言者たちの主張によって、また彼らの意向を実現しようとするマーシャル将軍を任用することによって、全中国を共産主義者たちに犠牲として捧げたのである。トルーマンは、最終的には四億五千万のアジアの人々をモスクワが支配する共産主義傀儡国家〔毛沢東の中華人民共和国〕に組み入れてしまったこうした政策について、巨大な政治の過ちをしたと、査定(評価=asses)されなければならない。(注18.)
 注18…第51章、第82章参照。

 〔第一九節〕 第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth)
 第十九。モスクワ、テヘラン、ヤルタ、ポツダムの諸会議およびシナに関する政策から、第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth、厄災の種)が世界のいたるところにばら撒かれた。そして我々は、何年もの「冷戦」を、ついにはおぞましい朝鮮戦争を、体験することとなった。そして、アメリカが再び勝利することを危うくする、北大西洋同盟の弱々しさをも。(注19.)
 注19…第82章、第83章、第84章参照。

 〔最終節〕 結語
 この文書(諸巻)を終えるには、数行以上の文章は必要でない。私は、戦争および戦争にかかるすべての段階の政策に反対した。私は、釈明をしないし、後悔もしない。
 私はアメリカの人々に何度も、巻き込まれることに対する警告を発した。私は繰り返し、その唯一の結末は世界中に共産主義を蔓延させてしまうことだろうと述べた。我々は合衆国と全世界とを弱体化させてしまうだろう、と。今日の世界の状況は、私の正しさを証明している。
 物質的な損失や道徳的かつ政治的な大失態にもかかわらず、また国際的な愚挙にもかかわらず、アメリカ人は、我々は再び強くなるであろうという確信を持つことができる。進歩の行進はいずれまた再出発するであろう、との確信を。集団主義への漂流にもかかわらず、政府の堕落にもかかわらず、デマゴギーに溢れた知識人たちにもかかわらず、政府の腐敗と我々国民の道徳的な頽廃にもかかわらず、我々は、キリスト教精神をなおも保持している。そして、我々の科学や産業の進歩についての古くからの知恵をなおも持っている。我々は、諸学校を通じて前進している三千五百万人の、より高度の学習のために諸研究施設にいる二百五十万人の子どもたちを持っている。いつぞや、彼らの力はアメリカ人の生活にある苦難に対して勝利するであろう。より偉大なアメリカという約束は、国土中にある数百万の小家屋(cottages)に生き続けている。そこでは、青少年男女たちは、自由のために生きようとなおも決心している。彼らの心には、アメリカの精神がまだ生きている。そうした郷土(homes)から育つ青少年男女たちは、いつの日か、厄災と挫折を追い払うであろう、そして、彼らのアメリカを再び創出するであろう。
 一九五二年の共和党政権にかかる選挙は、このような方向転換の兆しである。
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1354/共産主義の罪悪とナチス①ーヘインズ=クレーア。

 Haynes, J.E.とKlehr, H.の二人は、中西輝政監訳の日本語訳書(PHP、2010)もある、1999年刊行の "Venona-Disclosing Soviet Espionage in America"(ヴェノナ)の著者だ。
 同じ二人の著書である、In Denial-Historians, Communism & Espionage(2003、Encounter Books -New York, London)の Introduction に目を通していて、他でも読んだことがあるような表現に出くわした。とりあえず、あまり辞書を引かないようにして、「Introduction」の最初から訳してみよう。Communism、Communistは、「共産主義(者)」ではなく、コミュニズム・コミュニストという訳語にする。
 「50年以上前、アメリカ、イギリス、そしてソヴィエトの軍隊はナツィ・ドイツをやっつけて人類史上最も殺人狂的な体制の一つを破壊した。その崩壊は、ファシズムへの関心やそれとの関わりがなくなることを意味しなかった。年月が経るにつれて、ナツィズムは、その主な犠牲者であったユダヤ人の記憶ばかりではなく、その復活を許さないと決心した世界中の多くの人々の記憶において、seared であり続けた。ホロコーストを"normalize"しようとする努力やその恐怖を極小化しようとする努力は、怒りや嫌悪感を誘発し続けている。
 ソヴィエト同盟の崩壊やそれがかつて指導したコミュニスト世界の融解から、10年とほんの少ししか経っていない。コミュニストの諸体制は、ナツィ・ドイツよりも長く生き延びた。そして、それら〔コミュニスト諸体制〕の犠牲者数全体は、欧州のファシズムによって殺戮された人々の数をはるかに上回る。にもかかわらず、まだ、コミュニズムによる莫大な人的犠牲は、アメリカ人の知的生活にほとんどregister されていない。さらに悪いことに、かなり多くのアメリカの中心的知識人たちは、今や公然と、人類史上の最も血塗られたイデオロギーの一つに喝采を浴びせ、そのために弁明している。そして、彼らは、社会のはみ出し者として扱われるのではなく、アメリカの高等な教育や文化生活の中で顕著な地位を占めている。ナツィによる犯罪の記憶が新しいままでいる一方で、コミュニストによる犯罪の記憶がかくも速く消失してしまったのは、いったいどのようにして可能であるのか?
 冷戦は諸国家間の闘いであったのみならず、諸国家の内部でのイデオロギー闘争でもあった。アメリカの知識人たちの間には明確なファシスト傾向はなかったが、一方で、合衆国は、その他の民主主義諸国のように、明確なコミュニスト運動を匿った(harbored)。それ〔コミュニスト運動〕は、知識人たちによる支持を不相当にも引き出したのである。かくして、合衆国におけるコミュニズムのノスタルジックな余生は、世界中の現実のコミュニスト諸体制のほとんどを延命させてきている。冷戦は地上ではなくなったにもかかわらず、しかし、歴史上の冷戦は荒れ狂っており、学者たちの間でのたんなる口喧嘩以上のものである。コミュニズムを修復しようとする彼らの意識的な努力によって、覚えられるだろうものは何か、忘れられるだろうものは何か、に関するアメリカ人の彼ら自身の国民的な経験の記憶を、そして21世紀の挑戦についての我々の理解を形成するだろうあの歴史からの教訓を、多数の著述家や教授たちが変形しようとしている。」
 <p.1-2、以下の段落は省略>
 「他でも読んだことがあるような」、というのは、クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書<ソ連篇>のやはり最初の方だ。
 <つづく>

1351/資料・史料ー安倍晋三首相・戦後70年談話。

 安倍晋三首相/戦後70年談話 2015.08.14
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 平成27年8月14日 内閣総理大臣談話

 [閣議決定]
 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
 そして七十年前。日本は、敗戦しました。
 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。
 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

 平成二十七年八月十四日
 内閣総理大臣  安倍 晋三
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1349/日本共産党の大ウソ・大ペテン17。

 今回は「休憩」して、若干のメモを残すにとどめる。
 1 不破哲三・レーニンと「資本論」7ー最後の三年間(新日本出版社、2001)p.90-196(とくにp.120-2)、レーニン全集第33巻(大月書店、1959/1978の26刷)のとくにp.79-109。この二つを比較・確認しつつ読んだ。
 不破、そして志位和夫、そして日本共産党の<大ウソ>・<大ペテン>は明らかだ。
 何回かあとに詳しく述べる予定だ。
 気になること。兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞出版、2005)も関係文献で、「28項」の「ロシア革命は何であったか?」はネップにも分かりやすく言及している。
 しかし、p.443で兵本は、レーニンは「1922年秋頃」になるとトーンに「明らかな変化」を見せ、「我々は、社会主義に対する我々の見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない」と書いた、としている。この発言または文章は「市場経済を通じて…」論に有利であるかにも見えるが、進んで引用・紹介しそうなものなのに、不破哲三の上掲書には引用・紹介されていない(と思われる)。レーニンのいつの、(全集掲載ならば)レーニン全集各巻のどこに載っているのだろうか。1922年秋の11月にはコミンテルン大会でのレーニン生前最後の演説があったりするが、稲子恒夫・ロシアの100年(既出)の年表類でも上の旨の発言・文章は確認できない。
 2 ソ連について触れようとしつつ、いつから「共産党」になったのか、ソ連はいつ結成されたのかと迷うことがある。つぎのようにメモしておく。
 ①「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党(ボルシェヴィキ)」への名称変更-1918.03.
 ②「共産主義インターナショカル(コミンテルン)」<第三インター>結成大会-1919.03(→最後の第7回大会は1935.07-08)
 ③「ソヴィエト社会主義共和国連邦」結成-1922.12. 
 *1924.01、レーニン死去
 ④「ロシア共産党(ボ)」から「全連邦共産党(ボルシェヴィキ)」への改組-1925.12.
 3 日本共産党、不破哲三らの書いていること、主張していることは時期により大きくまたは微妙に異なっているので、いつの時期の文章か、とりわけいずれの綱領(改定)に関する報告等であるのか、に意識・留意しておかなければならない。以下もメモ。
 現在の日本共産党(宮本→不破→志位)は1961年綱領から出発していると理解しているので、それを含めてその後、以下の8つの綱領があったことになる。
   ①日本共産党1961年綱領 1961.07第08回党大会
   ②1973年、同・一部改定 1973.11第12回党大会
   ③1976年、同・一部改定 1976.07第13回臨時党大会
   ④1985年、同・一部改定 1985.11第17回党大会
   ⑤1994年、同・一部改定 1994.07第20回党大会
   ⑥ 2004年、同・全面改定 2004.01第23回党大会
   *④と⑤の間に<ソ連崩壊>があった。
以上。
 

1347/日本共産党の大ペテン・大ウソ16。

 二(つづき)
 E・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)には、ネップ(新経済政策)とその時期について、次のような叙述もある。抜粋的に紹介・引用する。
 ・ネップが目指した「農民との結合」の必要性を疑う者は数年間は稀で、1921-22年の「悲惨な飢餓」ののちの農業の回復等によりネップの正当性は立証された。しかし、危機が去って「戦時共産主義」の窮乏が忘れられてくると、「社会主義」からの徹底的な離脱への不安感が生じた。結局「誰かが」農民への譲歩の「犠牲を払った」のであり、「ネップの直接、間接の帰結のあるものは、予期も歓迎もされない」ものだった。2年以内に、新たな危機が生じ、農業以外の全経済部門に影響を与えた。(p.70)
 ・工業への影響は「主として消極的」だった。重要な修正はあったが、レーニンのいう「管制高地」である大規模工業は「国家の手に残った」。
 ・ネップ導入後、想定された現物的商品交換は売買に変化したため、商業過程への「公的統制」が図られた。それはむしろ「ネップマン」=新商人階級の活動を容易にし、小売商業が活発になり、「繁栄の空気が資本の裕福な方面」に戻ってきた、ネップの受益者には、「未来はバラ色」に見えた。(以上、p.71-73)
 ・しかし、「ネップのより深い含意が、相互に関連する危機」を伴って現れた。最初は、狂気じみた価格変動による「価格危機」だった。農産物価格の高騰・工業製品価格の下落は「労働の危機を招来」し「失業」を生んだ。雇用者は労働者に現金支払いではなく「現物支給」をした。
 ・労働組合と雇用者又は経済管理者の間の交渉で紛争解決が図られたが、労働者の不満は「赤い経営者」=かつてのツァーリの将校あるいはかつての工場経営者・工場所有者に向けられた。彼らは高い給料をもらい、工業経営・政策への発言権も持ち始めた。彼らへの非難は、<革命>とは逆転した状況への「嫉妬と憤慨の徴候」だった。(以上、p.74-77)
 ・「失業の到来」は労働者に、「ネップ経済におけるその低下した地位を最も強く意識させた」。ネップは農民を厄災から救ったが、「工業と労働市場」は「混沌寸前の状況」だった。「革命の英雄的旗手たるプロレタリアートは、内戦と産業混乱の衝撃の下で、離散、解体、極端な数的減少」を被っていた。「工業労働者はネップの継子になっていた」。
 ・「金融上」の危機が別の側面だった。ルーブリの価値が急落したため、1921年末の党協議会決定により「金ルーブリ」を貨幣単位とする紙幣等が発行されたものの、実際上の効果は少なかった。こうした状況の結果として、1923年に「大きな経済危機」が起き、労働者の不満は同年の「夏から冬に、不穏な状態とストライキの波をひきおこした」。(以上、p.77-79)
 まだ叙述は続いていくが、このくらいにしよう。
 1923.03.03-レーニン、3度目の脳梗塞により言語能力を失う。
 1924.01.21-レーニン死去。
 省略しつつも、かつ上の部分以降には全く言及しないものの、かなり長く引用・紹介したのは、日本共産党は、レーニンが「ネップ(新経済政策)」導入を通じて、「市場経済を通じて社会主義へ」という<新しく正しい>路線を明確にした、この「正しい」路線をスターリンが覆した、と理解しているからだ。
 また、既に紹介のとおり、志位和夫は、1921年10月のレーニン報告は「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった、「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した、「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方」は、「画期的な新しい領域への理論的発展」で、レーニンが「情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ、などと書いているからだ。
 志位和夫がエピゴーネンとして依拠している不破哲三の本も一瞥しているが、いわゆる戦時共産主義とレーニンの死の間の時期、ネップ期とも言われることもある時期・時代の歴史は、上のコンパクトなカーの書物においてもすでに明らかなように、日本共産党や志位和夫・不破哲三が描くような単純なものではない。
 また、個人、例えばレーニンが「頭の中」で考えて手紙等で記したことと、党の会議での発言内容(・提出文書)と、そして党(ボルシェヴィキ)の公式・正式決定として承認されたもの(レーニンの原案であれ)は、党にとってもロシアにとっても意味は同じではないと思われ、それぞれ区別しておく必要があると思われる。
 上の点での厳密な史料処理はなされていないと思われるし、また、「観念」・「意識」と「現実」は違うはずだ、という基本的な点が日本共産党、不破哲三らにおいてどう理解され、方法論的に処理されているのかについても疑問がある。
 つまり、いくら<考え>あるいは<党決定>がかりに適切な(正しい)ものであったとしても、<現実>とは異なるのであり、前者に応じて後者も変わったということを、別途叙述または論証する必要があるだろう。
 不破哲三らはレーニンが何と言ったか、書いたかの細かな(文献学的な)詮索をしているが、かつての、1920年くらいから1924年くらいまでの現実の具体的な歴史の変遷を細かく確認する作業は怠っているように見える。
 そして、レーニンの生前と死後とで政策方針と現実が質的に大きく変わったかのごとき単純化は、誤っている、とほとんど断じてよいものと思われる。なお、レーニン生前の、「革命」後の党決定等には、スターリンも党幹部として関与している。
 三 ネップ期に限っても別の文献を紹介することはできるが、当然のことだが、ネップ期の前や10月「社会主義革命」まで(さらには2月「ブルジョワ革命」まで?)遡らないと、レーニンとロシア(・ソ連)についての理解は困難だ。
 今のところ所持している関係文献に、以下がある。すでに言及しているものも含む。
 ①稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)。
 ②D・ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/上・下(1995、日本放送出版協会)。
 ③M・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史1917~1991/上・下(1997、草思社)
 ④R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(2000、成文社)。
 ⑤クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書/ソ連篇(2001、恵雅堂出版/文庫版もある)。
 ⑥E・H・カー・ボリシェヴィキ革命1~3(1967・1967・1971、みすず書房)。
 ⑦E・H・カー(塩川伸明訳)・ロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年(1979、岩波現代新書)。
 カーの書物はソ連解体前のもので、それ以降に明らかになった史料は使われていない。
 カーは、「ソ連型社会主義」が<失敗>したと理解したとすれば、その原因をスターリンに求めるのだろうか、「革命」後のレーニンに求めるのだろうか、それとも「ロシア革命」自体に求めるだろうか、あるいはマルクス自体に?
 上の諸文献を利用しつつ、さらに、レーニンとスターリンの異同をめぐる日本共産党の<大ペテン>・<大ウソ>に論及していくこととする。

1302/歴史関係団体「性奴隷」声明と日本共産党。

 一 歴史科学協議会(れっかきょう)などの歴史関係団体の2015.05.25声明は、<日本軍による「慰安婦」強制連行>は「事実」だとしていわゆる河野談話を擁護するとともに、朝日新聞や元記者の植村隆を明確に応援している。
 その場合に「強制」はどのような意味で理解されているかが問題だが、次のように述べている。
 「強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(…)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含むものと理解されるべきである」。
 また、「慰安婦」とされた女性は「性奴隷」だったと述べたのち、次のように述べている。
 「近年の歴史研究は、動員過程の強制性のみならず、動員された女性たちが、人権を蹂躙された性奴隷の状態に置かれていたことを明らかにしている。さらに、『慰安婦』制度と日常的な植民地支配・差別構造との連関も指摘されている。たとえ性売買の契約があったとしても、その背後には不平等で不公正な構造が存在したのであり、かかる政治的・社会的背景を捨象することは、問題の全体像から目を背けることに他ならない」。
 つまり、「動員過程の強制性」がある場合のみならず、「たとえ性売買の契約があったとしても」、背後の「不平等で不公正な構造」・「政治的・社会的背景」を捨象しないで理解すれば、「強制」だった、と言っているようだ。
 このような「強制」概念の用法は、当初の概念の拡大・変質であり、かつ問題の本質をはぐらかすものだ。
 すなわち、もともとの問題・争点は、日本国家・日本軍による<慰安婦>とするための女性の「強制」連行があったか否か、もう少しだけ広く言っても、日本国家・日本軍によって<慰安婦>となるよう「強制」された女性がいたか否か、だったはずだ。
 にもかかわらず、この声明では、「本人の意思に反した連行」はすべて日本国家・日本軍によるものであるかのような不当な叙述をしており、また、背後に「日常的な植民地支配・差別構造」がある場合の「性売買の契約」もまた日本国家・日本軍による「強制」だったと理解している。
 ほとんどが日本共産党系団体だと思われるので別に驚きはしないが、「本人の意思に反した連行」はすべて日本国家・日本軍の「強制」、そして私人間の契約(あるいは私人間の勧誘・働きかけ等)であってもすべて日本国家・日本軍の「強制」だったというのだから、無茶苦茶だ。とても「歴史」を正視しているとは思えない。
 二 このような声明がなぜ出されのか。おそらくは、日本共産党中央による、歴史関係団体に属して役員等になっている同党構成員=日本共産党員に対する働きかけがあったものと思われる。したがって、たんに日本の大学の文科系学部の実態を問題視するだけでは足りないようだ。
 2014年08月以降、ネット情報によると、日本共産党の小池晃らは、次のような発言をしている。
 2014.08.10のフジテレビ番組で小池晃-「(「慰安婦」問題で問われている)強制性というのは、無理やり連れて来たかどうかという手段だけの問題ではない。甘言や人身売買などで、本人の意思に反して連れてくれば、それは強制です」。これは後日、新聞・赤旗に掲載されている。
 この部分は、上の声明における「強制」概念の用法とほとんどか全く同じだ。
 「甘言や人身売買などで、本人の意思に反して連れてくれば、それは強制」だ、というのは一瞬は分かりやすい表現かもしれない。<意思に反して=強制して>というのは通りやすいかもしれない。しかし、問題の本質は、「甘言や人身売買などで、本人の意思に反して連れてく」ることが日本国家・日本軍によってなされたか否かだ。日本共産党・小池晃の発言にはゴマカシ、あるいはペテンがある。
 なお、2014.10.21の国会委員会で山下芳生-「ひとたび日本軍『慰安所』に入れば、自由のない生活を強いられ、強制的に多数の兵士の性の相手をさせられた、性奴隷状態とされた事実は、動かすことができない」。
 ここでは「慰安所」内のことに「強制」という語が使われている。これまた、問題の本質をゴマカすものだ。
 ややはずれるが、このような言い方をすれば、当然に、小池晃や山下芳生は日本共産党(の上位者)によってこのような発言をするようにきっと「強制」されたのだろう、ということになる。
 三 というわけで、必ずしもはっきりはしないが、上の声明と日本共産党・小池晃発言は対応している。
 日本共産党・小池の発言内容を支持し補強するために歴史関係団体の声明が使われている、という見方をすることは不可能ではない。
 また、あらためて言えば、重大なのは、上の声明が「強制」の有無の判断に、「日常的な植民地支配・差別構造」、背後の「不平等で不公正な構造」、かかる「政治的・社会的背景」を持ち込んでいるこんでいることだろう。
 こんな論法を採ることが許されるならば、戦時中の現象はすべて日本国家・日本軍の「強制」だったということも可能になってしまう。呆れてしまう物言いだ。
 さらには、次のようにも言える。上の声明は、<戦後日本>の現在の、日本共産党が公然と存在する「政治的・社会的背景」のもとで、日本共産党によって「強制」されたものだ。そのような「強制」に喜んで従っているのかもしれないが。

1252/朝日新聞を読むとバカになるのではなく「狂う」。

 一 桑原聡ではなく上島嘉郎が編集代表者である別冊正論Extra20(2013.12)は<NHKよ、そんなに日本が憎いのか>と背表紙にも大書する特集を組んでいた。月刊WiLL(ワック)の最新号・9月号の背表紙には<朝日を読むとバカになる>とかかれている。
 こうした、日本国内の「左翼」を批判する特集があるのはよいことだ。月刊正論にせよ、月刊Willにせよ、国内「左翼」批判よりも、中国や韓国を批判する特集を組むことが多かったように見えるからだ。中国や韓国なら安心して?批判できるが、国内「左翼」への批判は反論やクレームがありうるので産経新聞やワック(とくに月刊WiLLの花田紀凱)は中国・韓国批判よりもやや弱腰になっているのではないか、との印象もあるからだ。昔の月刊WiLLを見ていると、2005年11月号の総力特集は<朝日は腐っている!>で、2008年9月号のそれは<朝日新聞の大罪>なので、朝日新聞批判の特集を組んでいないわけではないが、しかし、中国等の特定の<外国>批判よりは取り上げ方が弱いという印象は否定できないように思われる。
 それに、「本丸」と言ってもよい日本共産党については批判的検討の対象とする特集など見たことがないようだ。日本共産党批判は、同党による執拗な反論・反批判や同党員も巻き込んだ<いやがらせ>的抗議を生じさせかねないこともあって、<天下の公党>の一つを取り上げにくいのかもしれない。しかし、中国共産党を問題にするならば、現在の中国共産党と日本共産党の関係はどうなっているのか、日本共産党は北朝鮮(・同労働党)をどう評価しているのかくらいはきちんと報道されてよいのではないか。しかるに、上記の月刊雑誌はもちろん、産経新聞や読売新聞でも十分には取り上げていないはずだ。
 特定の「外国」だけを批判していて、日本国内「左翼」を減少または弱体化できるはずがない。むろん報道機関、一般月刊雑誌の範疇にあるとの意識は日本共産党批判を躊躇させるのかもしれないが、1989年以降のソ連崩壊・解体によって、欧州の各国民には明瞭だった<コミュニズムの敗北>や<社会主義・共産主義の誤り>の現実的例証という指摘が日本ではきわめて少なく、その後も日本共産党がぬくぬくと生き続けているのも、非「左翼」的マスメディアの、明確にコミュニズムを敵視しない「優しい」姿勢と無関係ではないように見える。
 二 さて、<朝日を読むとバカになる>だろうが、「バカになる」だけならば、まだよい。あくまで例だが、月刊WiLL9月号の潮匡人論考のタイトルは「集団的自衛権、朝日の狂信的偏向」であり、月刊正論9月号の佐瀬昌盛の「朝日新聞、『自衛権』報道の惨状」と題する論考の中には、朝日新聞の集団的自衛権関係報道について「企画立案段階で本社編集陣そのものが狂っていた」のではないか、との文章もある。すなわち、「バカ」になるだけではなく、本当の狂人には失礼だが、朝日新聞は<狂って>おり、<朝日を読むと狂う>のだと思われる。昨年末の特定秘密保護法をめぐる報道の仕方、春以降の集団的自衛権に関する報道の仕方は、2007年の<消えた年金>報道を思い起こさせる、またはそれ以上の、反安倍晋三、安倍内閣打倒のための<狂い咲き>としか言いようがない。
 むろんいろいろな政治的主張・見解はあってよいのだが、種々指摘されているように、「集団的自衛権」の理解そのものを誤り、国連憲章にもとづく「集団(的)安全保障」の仕組みとの違いも理解していないようでは、不勉強というよりも、安倍内閣打倒のための意識的な「誤解」に他ならないと考えられる。
 一般読者または一般国民の理解が十分ではない、又はそもそも理解困難なテーマであることを利用して、誤ったイメージをバラまくことに朝日新聞は執心してきた。本当は読者・国民をバカにしているとも言えるのだが、集団的自衛権を認めると「戦争になる」?、「戦争に巻き込まれる」?、あるいは「徴兵制が採られる」?。これらこそ、マスコミの、国民をバカにし狂わせる「狂った」報道の仕方に他ならない。
 長谷部恭男が朝日新聞紙上でも述べたらしい、<立憲主義に反する>という批判も、意味がさっぱり分からない。長谷部論考を読んではいないのだが、立憲主義の基礎になる「憲法」規範の意味内容が明確ではないからこそ「解釈」が必要になるのであり、かつその解釈はいったん採用した特定の内容をいっさい変更してはいけない、というものではない。そもそも、1954年に設立された自衛隊を合憲視する政府解釈そのものも、現憲法施行時点の政府解釈とは異なるものだった。「解釈改憲」として批判するなら、月刊正論9月号の中西輝政論考も指摘しているように、多くの「左翼」が理解しているはずの「自衛隊」は違憲という主張を、一貫して展開すべきなのだ。
 安倍首相が一度言っているのをテレビで観たが、行政権は「行政」を実施するために必要な「憲法解釈」をする権利があるし、義務もある(内閣のそれを補助することを任務の一つとするのが内閣法制局だ)、むろん、憲法上、「行政権」の憲法解釈よりも「司法権」の憲法解釈が優先するが、最高裁を頂点とする「司法権」が示す憲法解釈に違反していなければ、あるいはそれが欠如していれば、何らかの憲法解釈をするのは「行政権」の責務であり義務でもあるだろう。
 1981年の政府解釈が「慣行」として通用してきたにもかかわらず、それを変更するのが立憲主義違反だというのだろうか。一般論としては、かつての解釈が誤っていれば、あるいは国際政治状況の変化等があれば、「変更」もありうる。最高裁の長く通用した「判例」もまた永遠に絶対的なものではなく、大法廷による変更はありうるし、実際にもなされている。それにもともと、1981年の政府解釈(国会答弁書)自体がそれまでの政府解釈を変更したものだったにもかかわらず、朝日新聞はこの点におそらくまったく触れていない。
 三 そもそも論をすれば、「戦争になる」、「戦争に巻き込まれる」、「徴兵制が採られる」あるいは安倍内閣に対する「戦争準備内閣」という<煽動>そのものが、じつは奇妙なのだ。日本国民の、先の大戦経験と伝承により生じた素朴な<反戦争>意識・心情を利用した<デマゴギー>に他ならないと思われる。
 なぜなら、一般論として「戦争」=悪とは言えないからだ。<侵略>戦争を起こされて、つまりは日本の国家と国民の「安全」が危殆な瀕しているという場合に、<自衛戦争>をすることは正当なことで、あるいは抽象的には国民に対する国家の義務とても言えることで、決して「悪」ではない。宮崎哲弥がしばしば指摘しているように<正しい戦争>はあるし、樋口陽一も言うように、結局は<正しい戦争>の可能性を承認するかが分岐点になるのだ。むろん現九条⒉項の存在を考えると、自衛「戦争」ではなく、「軍その他の戦力」ではない実力組織としての自衛隊による「自衛」のための実力措置になるのかもしれないが。
 朝日新聞やその他の「左翼」論者の顕著な特徴は、「軍国主義」国家に他ならない中国や北朝鮮が近くに存在する、そして日本と日本国民の「安全」が脅かされる現実的可能性があるという「現実」に触れないこと、見ようとしないことだ、それが親コミュニズムによるのだとすれば、コミュニズム(社会主義・共産主義)はやはり、人間を<狂わせる>。
 四 率直に言って、「狂」の者とまともな会話・議論が成り立つはずがない。政府は国民の理解が十分になるよう努力しているかという世論調査をして消極的な回答が多いとの報道をしつつ、じつは国民の正確な理解を助ける報道をしていないのが、朝日新聞等であり、NHKだ。表向きは丁重に扱いつつ、実際には「狂」の者の言い分など徹底的に無視する、内心ではそのくらいの姿勢で、安倍内閣は朝日新聞らに対処すべきだろう。
 朝日新聞が「狂」の集団であることは、今月に入ってからの自らの<従軍慰安婦問題検証>報道でも明らかになっている。

1249/NHK・ニュース9又は大越健介は訂正して詫びるのか。

 NHK会長が交代して、ニュース9のキャスター・大越健介も交代かと期待していたのだが、そうはならなかった。個別の人事にまで経営委員会は容喙できないようだ。
 そのNHKニュース9と大越健介だが、もともと午後7時からのNHKニュースよりも<偏向・倒錯>度が高いと思っていたところ(7時半からの国谷某女性の番組は午後7時からのNHKニュースには入らない)、7月17日放送の大越健介のセリフを聞いて、<またやってしまった>と思った。
 すでに、週刊新潮7/31号p.38-39、月刊WiLL9月号p.29-30(西村幸祐)が取り上げている。また、朝日新聞の百田尚樹批判を批判する中で産経新聞7/26の「産経抄」も論及している。これだけあると、記憶に頼らなくとも引用ができる。週刊新潮上掲によるカッコ付きの大越健介の発言は、以下のとおりだった。いわゆる「在日」の人々の結婚観の変化をテーマとする特集?の中で述べた。
 「在日一世のコリアン一世の方たちというのは、韓国併合後に強制的に連れてこられたり、職を求めて移り住んだきた人たちで、大変な苦労を重ねて生活の基盤を築いてきた経緯があります」。
 後段の「在日」の「方たち」に対する優しさも気にならないではない。「大変な苦労を重ねて生活の基盤を築いてきた」のはおおむねは事実なのかもしれないが、かりにそうだったとしても、それは「祖国」とくに韓国へは戦後に帰国できたにもかかわらず、自由な意思によって日本在住を選択した結果でもあろう。安易に偽善的な優しさを示してもらっても困る。
 むろん重大なのは、「在日一世のコリアン一世の方たちというのは、韓国併合後に強制的に連れてこられたり…」という部分にある。大越健介又は原稿を書いたディレクター若しくは記者の理解によると、現在の「在日」の人々の半分は日本国家によって「強制的に連れてこられた」者たちの子孫であることになる。この部分を先に述べていることからすると、「職を求めて移り住んだきた人たち」よりも多い印象を与える言葉にもなっており、 「在日一世のコリアン一世の方たち」のうち「韓国併合後に強制的に連れてこられた」のは50-55%にはなる、という理解に基づいているようでもある。
 週刊新潮の記事で鄭大均が、月刊WiLL9月号で西村幸祐が批判しているので、大越らNHKニュース9制作者の「歴史認識」の誤謬をここではもはやくり返さない。私自身は大越の言葉を耳にしたあと放任できないと思い、NHKに対する意見の窓口、0570-066-066又は050-3786-5000にクレームの電話を当番組の時間内にかけた者の一人だった。
 さて、ニュース9又は大越健介は、この問題をどう処理するつもりなのだろうか。歴史的に事実ではない報道をすれば、訂正し、正確な情報に改め、かつ詫びる=謝罪するのが、まっとうな社会あるいは会社・団体のあり方だろう。
 その後、大越健介は7/17の報道(新聞で言えば「記事」の一部になる)の誤りを訂正し、謝罪したのか?
 まさか、<ネトウヨ>が騒いでいるだけと頬かむりしたままを続けるつもりではないだろう。
 かりに、そんな気分で訂正も謝罪もしないとすれば、「国民運動」を起こしてでも、ニュース9の当該部分の担当者と大越健介を更迭しなければならない。
 もともと、ニュース9と大越健介には、<保守>からの批判よりも<左翼・リベラル>からの批判を避けたいという気分をうかがうことができた。例えば、半年以上前、特定秘密保護法をめぐる<街の声>について、午後7時からのニュースでは賛成意見2名を先に、反対意見2名をその後で紹介していたが、 同じ日のニュース9では反対意見2名、賛成意見1名(順番は今では忘れた)を紹介する、という違いがあった。「政治部記者」の大越健介の<イデオロギー>又は個性にもよるのだろうが、番組担当のディレクターのそれの方が大きいのかもしれない。
 ところで、さらに近日中に知ったのだが、経営委員の百田尚樹が7/17の大越発言を7/22の経営委員会で批判したらしい。これを朝日新聞が「百田尚樹氏、大越キャスター発言」という見出しの記事でとり挙げて、<放送への介入>と言いたいらしき批判をしたらしい。
 朝日新聞は放送法32条違反だと言いたいようだが(例のごとく断定はしていない)。同条は「①委員は、この法律又はこの法律に基づく命令に別段の定めがある場合を除き、個別の放送番組の編集その他の協会の業務を執行することができない。②委員は、個別の放送番組の編集について、第三条の規定に抵触する行為をしてはならない」と定め、同法3条は「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と定める。
 放送法に関する定着した解釈らしきものがあるのかどうかは知らないが、委員会での委員の(番組放送後の)発言が個別の番組の「編集」その他の「実行」にあたるはずはない。また、委員会での委員の特定の番組又はその内容に関する発言が「放送番組」への「干渉」に当たるのだとすれば(文理上は該当すると解釈できる可能性があることは否定しないが)、そのように解釈してしまうと、かりに「経営」にも重大な影響そうな個別の番組についてであっても委員は一言も質問や発言をできなくなってしまう。もともと、経営委員会の発言内容が朝日新聞にだけは漏れているようであるのも奇妙なのだが、朝日新聞が大きくは問題視しない(騒がない)意向のようであるのも、上の形式的な解釈を採るつもりはないのかもしれない。
 上記の「産経抄」 は、「経営委員会は、経営の基本方針を決める機関だが、受信料の徴収率に直結する番組について質問をするのは不思議でも何でもない。『放送番組は何人からも干渉されない』と規定する放送法に抵触する、とはヤクザのいいがかりに近い」と述べた。最後の比喩は厳しいが、内容的には穏当なところではないか。
 そのことよりも、朝日新聞の記事(7/26)の問題は、大越健介の発言内容の当否ついては、全く言及していないことだ。「在日」の由来に関する自らの、又は自社の見解を示して初めて、百田発言を問題にできるのではないか。
 一般論としていうと、内容・中身について世論を説得できない、多数派を形成できない場合には、<手続>又は<形式>に重点を変えて批判の対象にする、というのは「左翼」、そして朝日新聞がこれまで戦後ずっととり続けてきた論法でもある。今回は立ち入らないが、集団的自衛権閣議決定の翌朝の社説の最初の文章は「民主主義」破壊という観点からの批判であったことには訳が分からず、かつ呆れた。
 ついでに書けば、上記「産経抄」子は「大越氏の発言は、視聴者に「強制連行」を印象付けたといってもよく、東大出のニュースキャスターの歴史認識がこの程度では、百田氏ならずとも心配になってしまう」、と述べている。
 「東大出のニュースキャスターの歴史認識」を心配してもよいが、問題はもっと深刻だと思われる。その深刻さへの感度が少し鈍いように感じる。公共放送と言われるNHKの代表的なニュース番組において、キャスターが、「在日一世のコリアン一世の方たち」の少なくとも半分は日本国家が「韓国併合後に(朝鮮半島から)強制的に連れて」きた、という歴史「認識」を示したのだ。こんな誤ったイメージ操作を許してはならないだろう。
 ニュース9又は大越健介は訂正して詫びるのか。詫びるべきだ。ついでにいうと、産経新聞は、そういう論調に立つべきだ。

1238/安倍首相が靖国神社を参拝してなぜいけないのか。

 〇朝日新聞12/27朝刊は「狂い咲き」をしていた。
 安倍首相靖国参拝をうけて「参拝制止を一蹴」が最大の活字での一面橫見出しになるのだから、奇怪な新聞だ。
 毎日新聞も一瞥してみたが、かなり似ている。
 〇日本の首相の靖国神社参拝には種々の論点があることを、あらためて考えさせられる。
 安倍首相が堂々とむろん疚しい心理など一切示さずに発言していたのには感動したが、同首相の同日の「談話」の内容を全面的に支持しはしない。わざわざ談話など出し、また外国語訳して各国に伝えることをしなければならないのは、本来は異常なことだ。
 それよりも、<不戦の誓い>をすることは構わないが、「日本は、戦後68年間にわたり、自由で民主的な国をつくり、ひたすらに平和の道を…」等と述べて戦後日本を全体として肯定的に評価しているようであるのは、安倍本来の<戦後レジームからの脱却>という思想とは少なくとも完全には合致していない、と感じる。ともあれ、それは政治的判断の混じった「談話」だとして、ここではこれ以上は触れない。
 アメリカは自国の都合と利益のために「失望」という声明を出した。これを、朝日や毎日は「援軍」のごとく理解して喜んでいるようだ。このアメリカの立場にも触れないが、靖国神社の祭神となっている(合祀されている)いわゆるA級戦犯を作り出したのは他ならぬアメリカ主導の「東京裁判」であったのだから、<A級戦犯認定=東京裁判>批判との印象が生じる可能性のある靖国神社参拝を、いかに現在の「同盟国」の首相の行為であろうとも、少なくとも素直には支持・応援できないだろうことは不思議ではない。靖国神社参拝は、従って当然に、「反米」的性格または側面をもつに至っている、とも言える。
 〇日本の首相の靖国神社参拝についての種々の論点については、この欄で断片的にせよ何回も言及してきた。論点の所在と簡単なコメントを記しておく。
 第一に、憲法上の「政教分離」に反しないか。12/26朝刊では朝日新聞よりも毎日新聞がこの論点の所在に触れて批判的な記事を書いている。そして、平野武(龍谷大名誉教授)の<首相在任中は避けるべき>との旨のコメントを紹介している。この点にやや立ち入れば、月刊WiLL2014年1月号で加地伸行が、「平野武という人物」が伊勢神宮「遷御の儀」に安倍首相が臨席したことを「政教分離に反し、違憲性があると言う」と紹介したうえで、「平野某は政教分離ということの初歩的な意味も分かっていない」等と批判している(p.18)。平野武にとってみれば、一貫した主張なのかもしれない。なお、社民党・福島瑞穂も今回の靖国参拝を「政教分離」違反だと主張したらしい。
 だが、この欄でも述べたことがあるが、「政教分離」違反であるならば、A級戦犯合祀問題以前の憲法問題であり、吉田茂も佐藤栄作も中曽根康弘も小泉純一郎も憲法違反の行為をしてきたことになる。
 毎日新聞はこれまでの首相靖国参拝のそのつど、「政教分離」違反または疑いという報道・主張をし続けてきたのだろうか。今回に限って、またはA級戦犯合祀以降に限って「政教分離」違反という論点を持ち出すのは、論理的には成り立ちえないことだ。
 それに何より、毎年正月の4日あたりに首相が伊勢神宮に参拝することはほとんど「恒例」になっているが、伊勢神宮もまた戦後は神道という宗教の一施設であるところ、毎日新聞は(朝日新聞も)何ら問題にしてきていないのではないか。そのくせ、靖国神社についてだけ「政教分離」違反問題を持ち出すのは論理的に完全に破綻している。なお第一に、社民党が民主党と連立政権を組んで福島瑞穂が大臣だったときもあったかと思うが、民主党の鳩山由紀夫も菅直人も野田佳彦も首相として伊勢神宮参拝をしたはずだ。民主党・社民党連立政権時代、福島瑞穂は、伊勢神宮正月参拝に反対する旨を大々的に主張したのか? 第二に、上記の加地伸行の文章によれば、平野武は首相の伊勢神宮正月参拝は(少なくとも明示的には)問題にしていないらしい(p.19)。学問的に一貫させるつもりならば、首相の伊勢神宮正月参拝を「違憲」視する大?論文を書くべきだろう。
 大きな第二に、靖国神社は首相が参拝すべきではない「死者」が祭神として祀られているか。これが最大の問題だが、いくつかの基本的論点やさらに細かな論点に分岐していく。
 朝日新聞の東岡徹は12/27朝刊で「侵略された中国や、植民地支配を受けた韓国の人々には、靖国神社への嫌悪感が強い」とあっさりと書いている。先の戦争は中国「侵略」戦争で、当時は韓国を「植民地支配」していたということを当然のごとく前提にしている。そのような<悪業>をした指導者たちは断罪されるべきであり(だからこそ「A級戦犯」であり)、彼らを合祀する靖国神社参拝はすべきではない、という理屈のようだ。
 上の前提自体に、少なくとも論じられるべき余地がなおある。1+1=2のごとき当然の前提にしてはならない。前者にも大きな疑問があるが、後者の「植民地支配」という概念の使用にも私は疑問をもっている。ドイツ(・ナチス)の侵攻によるチェコ、ポーランド、バルト三国等の支配は「植民地支配」だったのか。同様に朝鮮(大韓帝国)についても「合邦」か少なくとも日本の事実上の施政権の地域的対象の拡大であって、決して「植民地」として支配したわけではないのではないか。この問題はこの欄でまだ言及したことがない、かねてより有してはいた関心事項だ。
 さてここでの基本的な第一の論点だが、かりに日本がかつて「侵略」や「植民地支配」をしていたとして、その当時の(といっても時期により異なるが)日本の政治指導者たちの「責任」はどのように問われるべきなのか。
 上の「政治指導者たち」という言葉の範囲は不明確だ。「東京裁判」法廷は「平和に対する罪」という新奇の犯罪概念を作り出し、<A級>戦犯という犯罪者として刑罰を下した(ということになっている)。
 ここでむろん、「東京裁判」なるものの合法性・正当性、そして具体的な<A級>戦犯者の範囲の特定の正確さ・合理性・適切さ、という別の第二の論点も出てくる。そしてまた、なぜ特定の25名が<A級>戦犯被告として判決をうけ、なぜそのうち7名は「死刑」だったのか?も論点になりうる。 <A級戦犯合祀の神社参拝はけしからん>と主張する者は、「死刑」ではなくのちに死亡した者も含む被合祀者14名(のようだ)のそれぞれの「罪状」をきちんと語り、説明できなければならない。
 「東京裁判」あるいは実質的にはアメリカまたはGHQ任せで「侵略」・「植民地支配」の指導者の範囲を画定してしまうのは、他人・他国任せのじつに無責任なことではないのか。
 なお、7名の死刑が執行されたのは、1948年12/23で今上天皇(当時、皇太子)の誕生日で、むろん偶然ではない(起訴は4/29で昭和天皇の誕生日)。
 基本的な第三に、絞首刑にあった者は生き返らないが、それ以外の者は「終身(無期)刑」を受けた者も日本の再独立後(主権回復後)には関係各国の同意を得て解放され、政治家として活躍した者もいる。そしてその前提として、もはや「犯罪者」扱いはしない旨の国会決議までなされている。そのうえで、「B・C級戦犯」としての刑死者の遺族に対しても遺族年金が給付されている。「A級戦犯」だった者も、犯罪者扱いしてはいけない、と言うことができる。死刑と終身刑の区別が正確にまたは厳格になされたとはとても思われず、終身刑だった賀屋興宣がのちに大臣になったことを考えると、「A級戦犯」としての刑死者(法務死者、昭和殉難者といいうらしい)は、死刑判決でさえなければ、政治家等としてのちの人生を全うできたかもしれない。
 要するに、日本人は「A級戦犯」者をもはや犯罪者として扱ってはいけないのではないか、という論点がある。朝日や毎日は「A級戦犯」合祀を問題にはしても、そしてこれにかかわる昭和天皇の発言らしきものを「政治利用」しつつも、上記の国会決議等のその後の法律レベルの問題にはまったく言及していない。不正確で、不当な記事づくりではないか。
 これに関連して第四に、サンフランシスコ講和条約で主権回復に際して日本が東京裁判の「諸判決を受け容れ」た、ということの意味が論点になりうる。この欄で触れたことがせあるが、民主党の岡田克也が国会・委員会で条約と法律とはどちらが上位かと質問して、サ講和条約(の理解)に日本はその後ずっと拘束されるのではないか旨を主張した論点だ。
 「裁判」と訳そうと「諸判決」と訳そうと本質的な違いはない(渡部昇一の言説は的を射ていない)。この点は、この欄で紹介したが、稲田朋美は私と同旨のことを記していた。
 この問題は、あるいはサ講和条約の当該条文の意味は、終身刑判決を受けた者や期限のきていない有期刑者は、「諸判決」どおりにきちんと執行する(そうしない場合は関係各国と協議し同意を得て解放する、という趣旨を含む)、という趣旨だ、と解釈して差し支えないと考えている。つまり、日本を当事者とする先の戦争が「侵略」戦争だった等の「東京裁判」の基礎にある考え方または歴史認識まで受容したわけではない、と私は理解している。
 とりあえず思い浮かぶのが、以上のような大きな論点、基本的な論点だ。
 A級戦犯も合祀されている靖国神社を日本の首相は参拝すべきではない、という主張の前提にある、A級戦犯=「犯罪者」=「悪い」政治指導者=「侵略」・「植民地支配」をした「悪者=犯罪者」、という理解は、それぞれの等号=同一視の段階で、きちんと吟味すべきではないのか、とりわけ日本の報道機関は。中華人民共和国や大韓民国の「御用新聞」(・ご注進機関)でないかぎりは。
 その他、「村山談話」などというややこしいが大きな論点もあったが、今回はこれくらいで。

1237/資料・史料-靖国神社参拝後の安倍晋三内閣総理大臣談話。

資料・史料
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 靖国神社参拝・安倍晋三内閣総理大臣談話
    平成25年(2013年)12月26日

 本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました。また、戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも、参拝いたしました。
 御英霊に対して手を合わせながら、現在、日本が平和であることのありがたさを噛みしめました。
 今の日本の平和と繁栄は、今を生きる人だけで成り立っているわけではありません。愛する妻や子供たちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら、戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります。
 今日は、そのことを改めて思いを致し、心からの敬意と感謝の念を持って、参拝いたしました。
 日本は、二度と戦争を起こしてはならない。私は、過去への痛切な反省の上に立って、そう考えています。戦争犠牲者の方々の御霊を前に、今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を、新たにしてまいりました。
 同時に、二度と戦争の惨禍に苦しむことが無い時代をつくらなければならない。アジアの友人、世界の友人と共に、世界全体の平和の実現を考える国でありたいと、誓ってまいりました。
 日本は、戦後68年間にわたり、自由で民主的な国をつくり、ひたすらに平和の道を邁進してきました。今後もこの姿勢を貫くことに一点の曇りもありません。世界の平和と安定、そして繁栄のために、国際協調の下、今後その責任を果たしてまいります。
 靖国神社への参拝については、残念ながら、政治問題、外交問題化している現実があります。
 靖国参拝については、戦犯を崇拝するものだと批判する人がいますが、私が安倍政権の発足した今日この日に参拝したのは、御英霊に、政権一年の歩みと、二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことの無い時代を創るとの決意を、お伝えするためです。
 中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは、全くありません。靖国神社に参拝した歴代の首相がそうであった様に、人格を尊重し、自由と民主主義を守り、中国、韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っています。
 国民の皆さんの御理解を賜りますよう、お願い申し上げます。
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1229/共産主義者は平然と殺戮する-日本共産党と朝鮮労働党は「兄弟」。

 北朝鮮で張成沢の「死刑」執行される。死刑とはいってもいかなる刑事裁判があったのかはまるで明らかではなく、要するに、<粛清>であり、共産主義・独裁者の意向に反したがゆえの<殺戮>だ。
 日本共産党は現在はいちおう紳士的に振るまっているが、歴史的には目的のためには殺人を厭わないことを実践したこともあった。宮本賢治は暴行致死という一般刑罰も含めて網走刑務所に十年以上収監されていた。1950年前後には分裂していた日本共産党の一方は、公然と<武力>闘争を行った。
 1961年綱領のもとで、不破哲三の命名によるいわゆる「人民的議会主義」という穏健路線をとり、また綱領では明確に<社会主義・共産主義>社会をめざすと謳いつつ、とりあえずは<自由と民主主義>を守るとも宣言した。
 だが、だいぶ前に書いたことがあるが、現在の日本共産党員でも、その「主義」に忠実であるかぎりは、自分たちの「敵」の死を願い喜ぶくらいの気持ちは持っており、誰にも認知されない状況にあれば、例えば何らかの事故で「死」に貧しているのが「敵」の人物である場合は、救急車を呼ぶことなく放置し、「死」に至らせてよい、という気分を持っている、と思われる。
 生命についてすらそうなのだから、彼らが「敵」あるいは「保守・反動」と見なす者の感情を害するくらいのことは、これに類似するが<精神的にいじめる>くらいのことは、日本共産党員は平気で行ってきたし、現に行っている、と思われる。
 そのような共産主義者のいやらしさ・怖さを知らないで、日本共産党員学者が提案した声明類に賛同する、結果としてはあるいは客観的には<容共>の大学教授たちも日本には多くいるのだろう。
 20世紀において大戦・戦争による死者数よりも共産主義者による殺人の方が多く、ほぼ1億人に昇ると推定されている(政策失敗による餓死等による殺戮、反対勢力の集団的虐殺、政治犯収容所に送っての病死・餓死、政敵の<粛清>等)。
 「権威主義」は<リベラル>に極化すれば<社会主義(共産主義)>、<保守>に極化すれば<ファシズム>になる。という説明をする者もいる。ハンナ・アレントは<全体主義・ファシズム>には「左翼」のそれである<社会主義(共産主義)>と「右翼のそれである<ナチズム>があるとした。社会主義(共産主義)とファシズム(または全体主義)は対立する、対極にある思想・主義ではなく、共通性・類似性があるのだ。
 また、日本共産党が今のところは「民主主義」の担い手のごとく振るはってはいても、それは「民主主義」の徹底・強化を手段として社会主義(共産主義)へ、という路を想定しているためであり、「真の民主主義」の擁護者・主張者だなどというのは真っ赤なウソだ。フランス革命は<自由と民主主義、民主主義>の近代を生み出したとはいうが、そこでの民主主義の中には、早すぎた<プロレタリア独裁>とも言われる、ロベスピエールの、政敵の殺戮を伴う「恐怖政治」(テルール)を含んでいた。そしてまた、マルクスらの文献を読むと明記されているが、マルクス主義者はフランス革命の担い手に敬意を払い、レーニンらはそれにも学んでロシア革命を成功させた。民主主義の弊害の除去・是正こそ重要な課題だと筆者は考えるが、「民主主義」の徹底・強化を主張する、「民主化」なるものが好きな日本共産党は、市民革命(ブルジョワ革命)から社会主義革命への途へ進むための重要な手段として「民主主義」を語っているにすぎない。北朝鮮の正式名称が「朝鮮民主主義人民共和国」であるように、彼らにとっては「民主主義」と「共産主義」は矛盾しないのだ(だからこそ、<直接民主主義>礼賛というファシズム的思考も出てくる)。
 日本共産党員学者に騙されている大学教授たちに心から言いたい。対立軸は「民主主義」対「ファシズム(または戦前のごとき日本軍国主義)」ではない。後者ではなく前者を選ぶために日本共産党(員)に協力するのは、決定的に判断を誤っている。
 日本での、および世界でもとくに東アジアでの対立軸は、<社会主義(共産主義)>か<自由主義>かだ。誤ったイメージまたはコンセプトを固定化してしまって、共産主義者・日本共産党を客観的には応援することとなる<容共>主義者になってはいけない。
 日本共産党はコミンテルンの指令のもとで国際共産党日本支部として1922年に設立された。日本共産党に32年テーゼを与えたソ連共産党の実権はとっくにスターリンに移っていた。北朝鮮が建国したときにはコミンテルンはなくなっていたが、その建国時に金日成を「傀儡政権」の指導者としてモスクワから送り込んだのは、スターリンだった。
 してみると、日本共産党と「傀儡政権」党だった朝鮮労働党は<兄弟政党>であり、後者ではその後「世襲」により指導者が交代して三代目を迎えていることになる。
 歴史的に見て、日本共産党は北朝鮮の悲惨さ・劣悪さ・非人道ぶりを自分たちと無関係だなどとほざいてはおれないはずだ。まずは、マルクス主義・共産主義自体が誤りだったとの総括と反省および謝罪から始めなければならない。
 だが、ソ連が消滅してもソ連は「(真の)社会主義」国家ではなかったと「後出しじゃんけん」をして言うくらいだから、中国共産党や朝鮮労働党が崩壊・解体しても、いずれも「(真の)社会主義・共産主義」政党ではなかった、と言いだしかねない。なおも<青い鳥>のごとき<真の社会主義・共産主義>社会への夢想を語り続けるのかもしれない。もともと外来思想であって、日本人の多数を捉えることができるはずのない思想なのだが、それだけ、<マルクス幻想>、ルソーの撒き散らした<平等>幻想は強い、ということなのだろう。

1206/山村明義・本当はすごい神道(2013)と伊勢の式年遷宮ほか。

 〇山村明義・本当はすごい神道(宝島社新書、2013)を、たぶん先週初めに読了。同・神道と日本人(新潮社、2011)も所持していて、より重要なようだが、重たい感じで、冒頭掲記のものを先に読んだ。
 最初の方で、知らなかったことをいくつか知り、宗教(・神道)に関する現在の日本のマスメディアの異様さも感じる。以下は、知らなかったこと(~p.61)。

 ・2011-12年サッカー・ワールドカップの直前、日本代表チームは男女ともに「熊野三山」に参拝した。選手・関係者でかなりの人数になる。なぜ熊野かは省略する。私も熊野三山(本宮・新宮・那智)を二回は巡拝している。
 ・トヨタ自動車のある豊田市には「トヨタ神社」ともいわれる豊興神社があり、毎年年頭、トヨタグループの幹部たちは参詣する。三菱グループの「守護」神社は大阪市西区にある土佐稲荷神社、三井グループのそれは東京都墨田区の三囲神社、等々。いわば「企業神社」は多数ある。

 ・出光興産のそれは、出光佐三の郷里近くの宗像大社

 ・海上自衛隊護衛艦「いせ」には伊勢神宮の祠があり、同「ひえい」には東京・日枝神社の神札が貼られいる、等。

 ・朝日新聞社にすら、東京・中央区築地に波除稲荷神社という「氏神神社」がある。社の新車にはこの神社で「新車祓い」をする。関連会社の朝日浜離宮ホールは、歳末の舞台挨拶の日に波除稲荷神社の神職者が神事を行っている。

 政教分離とかの問題では小うるさい朝日新聞にも特定の「守護」神社があるとは愉快ではないか。

 〇東京巨人軍が宮崎神宮に、阪神タイガースが(西宮神社ではなく)広田神社(西宮市街地の北)に、シーズン開始前に必勝または優勝祈願をすることは、毎年のようにテレビのスポーツ番組で報道されている。

 上の点では、特定の、といえなくもない宗教、すなわち神道に対しておおらかとも見えるマスコミも、他の点ではほとんど宗教・神道関係の報道を避けている。

 最初に記したサッカー団体によるこぞっての熊野参拝は知らなかった。サッカー関係者にとっては大行事のはずだが、マスコミは取りあげていないのではないか。

 今年は出雲大社の60年ぶりの遷宮、伊勢神宮の式年遷宮の年だ。前者はすでに終わったはずだが、テレビではおそらく全く報道していない(地元・島根県は別かもしれない)。
 伊勢神宮の式年遷宮に関する報道もおそらくまったくなされていない。週刊誌や雑誌が取りあげ、それだけでの特集をする雑誌・ムック類も多数出版されているが、テレビや一般新聞はおそらく何も
報道していない。遷宮ですらこうなのだから、外宮境内に「遷宮館」が完成していることなどは全国ニュースとしてテレビ・一般新聞で報道されたことはないだろう。

 どこか異常ではないか。むろん、様々の信仰をもつ視聴者・読者がいるから<特定の>宗教に関する報道はできない、という理屈によるのだろう。

 しかし、かつてこの欄で伊勢神宮や神道、それらと皇室との関係についてかなり熱心に言及したことがあるのだが、宗教といわれるものの中で、少なくとも「神道」だけは別扱いがされてよい、されるべきだ、と考えている。
 法的理屈がまったくなくはない。世襲の天皇制度を現日本国憲法も認めているが、天皇家の宗教はいうまでもなく「神道」だ。神宮の式年遷宮の祭主代理は現皇太子殿下の妹の黒田清子さん(祭主は今上天皇の姉の池田厚子さん)であることにも示されているように、また遷宮の細かな準備日程は今上天皇の「許可」(正式用語ではない)にもとづいているように、伊勢神宮の式年遷宮とは実質的または本質的には天皇家の行事に他ならない

 この式年遷宮に対しても天皇・皇室はもちろん何らかの費用を負担しているが、それが「内廷費」といういわばポケットマネー、「お手持ち金」として支出されるのも奇妙なことだ。テレビや家具あるいは皇居内用の自動車を購入する費用と、法律上はまったく同質のものと扱われているのだ。

 そもそもは1945年の「神道指令」にもとづき、また現憲法の「政教分離」原則によってこうなっている。しかし、憲法上の存在である「天皇」の宗教が一貫して神道であることは占領期にも、日本国憲法制定時にも公知のことだったはずだ。天皇制度を維持するかぎり、何らかの配慮または特別の考慮が払われてしかるべきだったはずなのだが、何もなされなかった。
 その結果として、現在のテレビや一般新聞の神道に対する「冷たさ」がある。むろん一般国民はそんなマスコミの態度にかかわりなく、初詣をし、七五三行事をし、パワースポット巡りをしているのだが…。

 富士山が世界遺産とされたのは「自然遺産」ではなく、「文化遺産」としてだったことの意味を、テレビ局・一般新聞の関係者はしっかりと考えるべきだろう。「文化」には宗教も含まれている。富士山という山岳のみが世界遺産指定をされたのではなく、<富士山信仰>のあることを前提として、富士宮浅間神社を含む種々の宗教施設も含めて世界遺産とされたのだ。

 思うに、世界遺産指定関係者、ユネスコの方が、日本のマスコミよりもはるかに宗教に対して大らかだ。どういう国の者が指定メンバーなのかは知らないが、彼らは日本には日本独自の宗教がある、ということを、ごく自然な、ごく当たり前のこととして、神社等を含む「富士山」を世界遺産の中の「文化遺産」として指定したのだと思われる。

 日本には日本独自の文化があり、日本独自の宗教がある。当たり前のことではないか。日本のとくに「左翼」マスコミは、「日本独自の」ものが嫌いなのに違いない。NHKも含めて、伊勢神宮の10月初旬の遷宮行事がどう報道されるのか、注目しておきたい。

1199/安倍首相は河野談話を見直す気がどれほどあるのか。

 慰安婦問題・河野談話については、この欄でも何度も触れたはずだ。
 今年ではなく昨年の8/19、産経の花形記者・阿比留瑠比は「やはり河野談話は破棄すべし」という大見出しを立てて、産経新聞紙上でつぎのようなことを書いていた。

 ・①「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」。②慰安婦の「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」。これらが河野談話の要点(番号は秋月)。

 ・「関与」、「甘言、強圧」の意味は曖昧で主語も不明確だが、この談話は<日本政府が慰安婦強制連行を公式に認めた>と独り歩きし、日本は<性奴隷の国>との印象を与えた。

 ・「日本軍・官憲が強制的に女性を集めたことを示す行政文書などの資料は、いっさいない」。談話作成に関与した石原信雄によるとこの談話は「事実判断ではなく、政治判断だった」。
 ・この談話によって慰安婦問題は解決するどころか、「事態を複雑化して世界に誤解をまき散らし、
問題をさらにこじらせ長引かせただけではないか」。
 以上はとくに目新しいことはないが、最後にこう付記しているのが目につく。安倍晋三は、「今年」、つまり今からいうと昨年2012年の5月のインタビューでこう述べた、という。

 「政権復帰したらそんなしがらみ〔歴代政府の政府答弁や法解釈など〕を捨てて再スタートできる。もう村山談話や河野談話に縛られることもない」。

 この発言がかつての事実だとすると、第二次安倍政権ができた今、「もう村山談話や河野談話に縛られることもない」はずだ。

 安倍晋三第二次内閣は「生活が第一」を含む経済政策・経済成長戦略や財政健全化政策の他に、いったい何をしようとしているのだろうか。初心を忘れれば、結局は靖国参拝もできず、村山談話・河野談話の見直し・否定もできず、支持率を気にしながら<安全運転>をしているうちに、第一次内閣の二の舞を踏むことになりはしないか。「黄金の三年」(読売新聞)は、簡単にすぎてしまうだろう。

 さらに、橋下徹が慰安婦問題について発言した今年5月、自民党議員、安倍内閣、そしてついでに産経新聞は、いったいいかなる反応をしたのだっただろうか。

1198/資料・史料-1993.08.04河野談話・1995.08.15村山談話。

 資料・史料-いわゆる<河野談話>・<村山談話>

 

 1.<河野談話>

 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話

 平成5年8月4日

 「いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。」

 

 2.<村山談話>

 村山内閣総理大臣談話

 「戦後50周年の終戦記念日にあたって」
 
平成7年8月15日

 「先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 『杖るは信に如くは莫し』と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。」

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