岡田英弘・同著作集Ⅲ・日本とは何か(藤原書店、2014)、p.490以下の、「歴史と神話をどう考えたらよいか」より。
・「本来、歴史を持っている文明は、シナ文明と地中海文明の二つだけであり、…。日本文明の歴史というのは、もちろんシナ文明のコピーである」。
・「日本書記」編纂の「過程はちょうど日本の建国の時期に当たっていた。その編纂は建国事業の一環だった。そのためになるべく古いところに日本国と天皇の起源を持ってゆく必要があった」。
「シナ文明圏では、王権の正統性を保障するのは歴史であり、そのパターンから日本は抜け出せない」。「神武天皇以下、16代応神に至る架空の天皇を発明した」。「神武天皇の建国を紀元前660年となり、秦より400年以上古い」という「操作に神話は使われた」。
・「今でも歴史を論じるとき、なにかと神話に戻りたがる人がいる。神話から史実を読み取ろうとするのだ。しかし、歴史で神話を扱う際には、こうした神話の性質を充分わきまえておかねばならない」。
・「神話が与えてくれるロマンは、現実からの逃避には都合がいいだろうが、そうした情緒的ニーズと合理的な歴史を混同してもらっては困る」。
岡田英弘上掲書の「おわりに」で、岡田はこう書いてもいる。p.532。
「本巻の内容は、彼ら保守派で愛国者である私の友人たちの間でも、賛否両論を巻き起こすだろう」。
「彼ら」、「私の友人たち」の中には西尾幹二の名が明記されている。同頁。
**
西尾幹二は、岡田・上掲書の「月報」に以下のことを書いている。月報p.5-p.7。
①岡田から「漢字」という文字の限界を「講話」してもらって、その内容を『国民の歴史』で「二ページにわたって」記した。
(秋月注記−西尾・国民の歴史(全集第18巻版)p.118-9。)
②岡田の別の文章にある、日本とヨーロッパに近似性があるが、「中間にあるモンゴル帝国から世界史が始まった」との説は衝撃的で、自分ははこれを『国民の歴史』14で採用した。
③岡田は「日本という国号が生まれる7世紀まで日本は存在しなかったのだ、縄文も弥生もまだ日本ではない」と語った。しかし、「日本語と中国語は根本から異なり、縄文原語が推定され得るので、日本は大陸とは独立した別の文明と見る」のは許されないのか(いつか訊ねてみたい)。
上の①はそのとおりで、内容は省略して、前回(批判008)でも触れた。
上の②は文春文庫版の『国民の歴史』で明示した、という。時間的前後は別として、このように、他人の説を存分に<利用>するのは西尾幹二の文章・思考の特徴の一つだろう、と考えられる。というのは、モンゴルを中心にして、ヨーロッパ・日本への「文明」の拡散という図式?は、その後の西尾幹二において、しばしば見られるからだ。その際に岡田英弘等の名前を西尾は明記しない。そして私は、いったいどこからこのような説を<導入>したのだろうと感じてきた。西尾自身が「発見」できるような事柄ではない、と思っていたからだ。
櫻井よしこにも江崎道朗にもより下品なかたちで見られる<コピー・ペイスト>の原型は、西尾幹二にもある、と言ってよい。
上の③の二人の言葉は、<噛み合っていない>可能性がある。
というのは、岡田のいう「日本」と西尾の「日本」が同じ意味ではない可能性も十分にあるからだ。また、西尾は「日本は大陸とは独立した別の文明」だとしきりに強調しているのだが、いつかの時点での<古代>に限ってのこの言明の当否は「日本」・「大陸」(中国)・「独立した」・「別の」・「文明」という言葉・概念の意味の捉え方によって異なるので、簡単に論じることはできない。
常識的には、日本書記も古事記も「漢文」で書かれたのだから(但し、後者は日本的な漢字利用)、前者の一部は中国人を母語とする者が執筆したとされているのだから、さらには日本の藤原京(明日香の北)以降の「都」の条坊制は中国の洛陽等をモデルにしているのだから、等々、<中国文明>の完全な一部ではないにせよ、その強い影響下にあった、影響を受けた、ということはおそらく言えるだろう。
もともと大陸・半島から日本列島に多数の人間が渡って来ている。列島に原住の人々がいたとして、その人々が有していた「文化」だけが日本「文明」だというのはやや苦しいだろう。それに、列島が形成されておらず、いまの日本は大陸・半島と地続きの長い時代もあった。西尾の「視野」はどこまで及んでいるのだろう。かりに縄文・弥生時代以降に限るとしても、<日本か大陸か>ということにさほどに拘泥する意味はどこにあるのだろうか。長い歴史の中では些細なことのようにも感じられる。
**
西尾『国民の歴史』「6神話と歴史」について、前回に論及しなかった点に触れようと思って書きはじたのだったが、長くなったので、次回に委ねる。