伊東乾のブログ—001。
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2024.03.11「生成AIに不可能な人間固有の能力とは何か?」
2024.05.10「始まった生成AI時代本番、人間の創造性はどこで発揮されるのか?」
2024.06.03「AI音声を聞きすぎると子どもはバカになる?」
以上、JBpress。
伊東乾を読んでいる者がいることを示すため、最近の上の三つを挙げておこう。要約、引用等はしない。
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AIあるいは「生成AI」の実際の能力を詳しく知ってはいない。(「生成」は「generative」の訳語らしい。「gene」(遺伝子)は子孫への「継承」のみならず自らの<生成>に参画している、という趣旨で、この欄で「gen〜」という語に触れたことがあった。)
伊東がよく知っているだろうように、「生成」が付かなくとも「AI」は音楽と深く関係していそうだ。
ある交響曲を聴かせて、自動的に全て「採譜」=「楽譜化」することは現時点でできるのだろうか。
バッハの曲ばかり(できるだけバッハの全て)記憶させて、拍数等の一定の条件とコンセプトを与えれば、AIは自動的に「バッハらしい」旋律および一曲を「作り上げる」のではないか(その場合、「著作権」はAI操作者には全くないのか)。その際の音律は純正律等か平均律か、という問題はあるけれども。
AIと言わなくとも、電子ピアノでも種々の楽器の「音色」を発することができるらしい。そうすると、オーケストラ並みの多数の楽器(音だけ発する器械)に、一定の(楽器それぞれで異なる)楽譜を与えて=入力して、交響曲を「演奏」させることはできないのか。
器械は「疲れる」ことがほとんどないだろうし、何よりも、厳密に正確な「高さ」と「大きさ」と「長さ」の音を発することができるだろう。いったん入力してしまえば、あとは何度でも<同じように>演奏することができる。音律がピタゴラス音律でも純正律等でも、〈十二平均律〉でも〈五十三平均律〉でも、AI器械は容易に対応するだろう。むろん「指揮者」は不要だ。誰かがスタート・ボタンを押せばよい(上の各音の「長さ」に、便宜的に曲の「テンポ」を含めておく)。
ここでさっそく、AIと「人間」の違いへと発展させる。上のようにして「演奏」された音楽は<美しい>だろうか。通常のヒトの感覚は<美しく>感じるだろうか。例えば、AI楽器はある音から1オクターブ上の音へと瞬時に(同時に)移動させ得るが、人間にとってはあまりに不自然ではないだろうか。
バイオリニストによって演奏するバイオリン協奏曲等に「クセ」があるのは、用いる楽器の違いによるのではなく、きっとわずかな「左手の指」の押さえる位置や強度の違い、右腕の「弾き方」のタイミングや強度等の違いによるのだと思われる(それでも原曲が同じなら、全く違う曲の演奏になるわけではない)。特定の演奏者の<解釈>は素晴らしい、とか音楽評論家によって論評されることもある。
ついでながら、テレビの「クイズ」番組に、人間のような姿をしたAIを登場させれば、全て正確な解答を(かつ迅速に)行ない、競争相手がいれば<優勝>するのではないか。そのAI氏は、「おめでとう」と言われて、どういう「喜び」の言葉を発するのか(または態度を示すのか)。これもまたあらかじめ<仕組んで>おくのだろうか。
こういう空想をしていると、キリがない。なお、ヒトの自然の(本性としての)「聴」感覚の問題には(外界の刺激を受容する「感覚」に関与する「細胞」は数多い)、以上では触れていない。最近の伊東の文章には「視」神経細胞に関するものが多い。
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2024.03.11「生成AIに不可能な人間固有の能力とは何か?」
2024.05.10「始まった生成AI時代本番、人間の創造性はどこで発揮されるのか?」
2024.06.03「AI音声を聞きすぎると子どもはバカになる?」
以上、JBpress。
伊東乾を読んでいる者がいることを示すため、最近の上の三つを挙げておこう。要約、引用等はしない。
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AIあるいは「生成AI」の実際の能力を詳しく知ってはいない。(「生成」は「generative」の訳語らしい。「gene」(遺伝子)は子孫への「継承」のみならず自らの<生成>に参画している、という趣旨で、この欄で「gen〜」という語に触れたことがあった。)
伊東がよく知っているだろうように、「生成」が付かなくとも「AI」は音楽と深く関係していそうだ。
ある交響曲を聴かせて、自動的に全て「採譜」=「楽譜化」することは現時点でできるのだろうか。
バッハの曲ばかり(できるだけバッハの全て)記憶させて、拍数等の一定の条件とコンセプトを与えれば、AIは自動的に「バッハらしい」旋律および一曲を「作り上げる」のではないか(その場合、「著作権」はAI操作者には全くないのか)。その際の音律は純正律等か平均律か、という問題はあるけれども。
AIと言わなくとも、電子ピアノでも種々の楽器の「音色」を発することができるらしい。そうすると、オーケストラ並みの多数の楽器(音だけ発する器械)に、一定の(楽器それぞれで異なる)楽譜を与えて=入力して、交響曲を「演奏」させることはできないのか。
器械は「疲れる」ことがほとんどないだろうし、何よりも、厳密に正確な「高さ」と「大きさ」と「長さ」の音を発することができるだろう。いったん入力してしまえば、あとは何度でも<同じように>演奏することができる。音律がピタゴラス音律でも純正律等でも、〈十二平均律〉でも〈五十三平均律〉でも、AI器械は容易に対応するだろう。むろん「指揮者」は不要だ。誰かがスタート・ボタンを押せばよい(上の各音の「長さ」に、便宜的に曲の「テンポ」を含めておく)。
ここでさっそく、AIと「人間」の違いへと発展させる。上のようにして「演奏」された音楽は<美しい>だろうか。通常のヒトの感覚は<美しく>感じるだろうか。例えば、AI楽器はある音から1オクターブ上の音へと瞬時に(同時に)移動させ得るが、人間にとってはあまりに不自然ではないだろうか。
バイオリニストによって演奏するバイオリン協奏曲等に「クセ」があるのは、用いる楽器の違いによるのではなく、きっとわずかな「左手の指」の押さえる位置や強度の違い、右腕の「弾き方」のタイミングや強度等の違いによるのだと思われる(それでも原曲が同じなら、全く違う曲の演奏になるわけではない)。特定の演奏者の<解釈>は素晴らしい、とか音楽評論家によって論評されることもある。
ついでながら、テレビの「クイズ」番組に、人間のような姿をしたAIを登場させれば、全て正確な解答を(かつ迅速に)行ない、競争相手がいれば<優勝>するのではないか。そのAI氏は、「おめでとう」と言われて、どういう「喜び」の言葉を発するのか(または態度を示すのか)。これもまたあらかじめ<仕組んで>おくのだろうか。
こういう空想をしていると、キリがない。なお、ヒトの自然の(本性としての)「聴」感覚の問題には(外界の刺激を受容する「感覚」に関与する「細胞」は数多い)、以上では触れていない。最近の伊東の文章には「視」神経細胞に関するものが多い。
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