秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

Anne-Applebaum

2553/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑨。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。最後の第六節。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第六節。
 (01) 飢饉の16周年にあたる1993年の秋は、これまでとは違っていた。
 二年前に、ウクライナは初代の大統領を選出し、圧倒的に独立賛成を票決した。
 政府がつづいて新しい統合条約に署名するのを拒んだことは、ソヴィエト同盟の解体を早めた。
 ウクライナ共産党は、権力を放棄する前の最後の記憶に残ることとして、1932-33年飢饉の責任は「スターリンとその親しい側近が追求した犯罪過程」にあるとする決議を採択した。(注73) 
 Drach とOliinyk は他の知識人たちと合同してRukh という独立の政党を創立した。これは、1930年代初め以降で初めて民族運動を合法的に宣明したものだった。
 歴史上初めて、ウクライナは主権国家となり、それとして世界のほとんどから承認された。//
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 (02) ウクライナは主権国家として、1993年の秋までに、自らの歴史を自由に議論し、記念した。 
 入り混じった動機から、以前の共産主義者と以前の反対派はみんな、熱心に語った。
 Kyiv では、政府が一連の公的な行事を組織した。
 9月9日、副首相は学者の会議を開き、飢饉を記念することの政治的な意義を強調した。
 彼は聴衆にこう言った。「独立したウクライナだけが、あのような悲劇がもう二度と繰り返されないことを保障することができる」。
 それまでにウクライナで広く知られて尊敬されていた人物のJames Mace も、その場にいた。
 彼もまた、政治的結論を導き出していた。「この記念行事が、ウクライナ人が政治的混乱と隣国への政治的依存の危険性を思い出す助けとなることを、希望したい」。
 従前の共産党政治局員である大統領のLeonid Kravchuk も、こう語った。
 「統治の民主主義的形態は、あのような災難から人々を守る。
 かりに独立を失えば、我々は永久に、経済的、政治的、文化的にはるかに立ち遅れることを余儀なくされるだろう。
 最も重要なことは、そうなってしまえば、我々はいつも、わが歴史上のあの恐ろしい時代を繰り返す可能性に直面するだろう、ということだ。外国勢力によって計画された飢饉も含めて。」(注74)//
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 (03) Rukh の指導者のIvan Drach は、飢饉の意義をより広範囲に承認することを呼びかけた。彼は、ロシア人が「悔い改める」こと、罪責を承認するドイツ人の例に倣うこと、を要求した。
 彼は直接にホロコーストに言及し、ユダヤ人は「全世界にその罪を彼らの前で認めるように迫った」ととくに述べた。
 全てのウクライナ人が犠牲者だったと彼は主張しなかったけれども—「ボルシェヴィキ略奪者はウクライナで、ウクライナ人も動員した」—、ナショナリスト的響きを強調した。
 「ウクライナ人の意識を統合する部分になっている第一の教訓は、ロシアは、ウクライナというnation の全面的な破壊にしか関心を持ってこなかったし、今後も持たないだろう、ということだ。」(注75)//
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 (04) 儀式は、週末までつづいた。
 黒く長い旗が、政府の建物から垂らされた。
 数千の人々が記念行事のために、聖ソフィア大聖堂の外側に集まった。
 だが、最も感動的な儀式は、自発的なものだった。
 多数の人々が、Kyiv の中央大通りであるKhreshchatyk に集まった。その通り沿いの三ヶ所に設置された掲示板に、彼らは個人的な文書や写真を載せていた。
 祭壇が一つ、途中に設置されていた。
 訪問者たちは、そのそばに、花やパンを残した。
 ウクライナじゅうからやって来た市民指導者や政治家たちは、新しい記念碑の脚元に花輪を置いた。
 何人かの人々は、土を入れた壺を持ってきた。—飢饉犠牲者たちの巨大な墓地から取ってきた土壌だった。(注76)//
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 (05) そこにいた人々には、その瞬間は確実なものと感じられただろう。
 飢饉は公的に承認され、記憶された。
 それ以上だった。ロシア帝国による植民地化の数世紀後に、ソヴィエトによる抑圧の数十年後に、主権あるウクライナで、飢饉の存在が承認され、記憶された。
 良かれ悪しかれ、飢饉の物語はウクライナの政治と現代文化の一部になった。
 子どもたちは、今では学校でそれを勉強することになる。
 学者たちは公文書館で、物語全体の資料を集めることになる。
 記念碑が建てられ、書物が発行されることになる。
 理解、解釈、許容、論述、そして哀悼の長い過程が、まさに始まろうとしていた。//
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 第15章全体が、終わり。

2552/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑧。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第五節。
 (01) 1986年4月26日、Scandinavia の放射線量測定器が奇妙で異常な測定値を示し始めた。
 ヨーロッパじゅうの核科学者たちは、最初は測定器の異常を疑い、警告を発した。
 しかし、数字は虚偽ではなかった。
 数日以内に、衛星写真は放射線の根源を正確に指摘した。北部ウクライナのChernobyl 市の原子力発電所。
 調査が行われたが、ソヴィエト政府は説明や手引きをしなかった。
 爆発の5日後に、80マイルも離れていないKiev では、メーデー行進が行われた。
 数千の人々が、市内の空気中の見えない放射能に気がつくことなく、ウクライナの首都の街路を歩き過ぎた。
 政府は、危険を十分に知っていた。
 ウクライナ共産党の指導者、Volodymyr Shcherbytskyi は、明らかに苦悩しながら、4月末に到着した。ソヴィエト書記長は個人的に彼に、パレードを中止しないように命じていた。
 Mikhail Gorbachev はShcherbytskyi に、こう言った。「パレードをやり損ったなら、きみは党員証をテーブルに置くことになるだろう」。(64)//
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 (02) 事故から18日後、Gorbachev は突如として方針を転換した。
 彼はソヴィエトのテレビに登場して、一般国民(public)には何が起きたかを知る権利がある、と発表した。
 ソヴィエトの撮影班は所定の場所へ行き、医師や地方住民にインタビューし、起こったことを説明した。
 悪い決定がなされた。
 タービン検査は間違っていた。
 原子炉は、溶解していた。
 ソヴィエト同盟全体から来た兵士たちは、くすぶっている遺物の上にコンクリートを注いだ。
 Chernobyl から20マイルの範囲内にいた者たちは全員が、曖昧なままで、家や農場を放棄した。
 公式には31名とされた死亡者数は、実際には数千名に昇った。コンクリートをシャベルで入れたり、原子炉の上でヘリコプターを飛ばしたりした兵士たちは、放射能のためにソヴィエト連邦の別の地方で死に始めた。//
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 (03) 事故の心理的な影響も、同様に深刻だった。
 Chernobyl は、ソヴィエトの技術能力の神話—多くの者がまだ信じていた数少ない一つ—を打ち砕いた。
 ソヴィエト連邦が国民に、共産主義は高度技術の将来を導くだろうと約束していたとしても、Chernobyl によって、人々は、ソヴィエト連邦はそもそも信頼できるのかという疑問を抱いた。
 より重要なことに、Chernobyl はソヴィエト連邦と世界に、ソヴィエトの秘密主義の過酷な帰結を思い起こさせることになった。Gorbachev 自身は現在とともに過去も議論することを拒むという党の方針を再検討したとしても。
 事故に揺り動かされて、ソヴィエト指導者は〈glasnost〉政策を開始した。
 字義通りには「公開性」、「透明性」と訳される〈glasnost〉によって、公務員や私的個人がソヴィエトの制度や歴史に関する真実を明らかにしようと勇気づけられた。1932-33年の歴史も含めて。
 この政策決定の結果として、飢饉を隠蔽するために張られた蜘蛛の糸の網—統計の操作、死者名簿の破壊、日記を書いていた者たちの収監—は、最後には解かれることになる。(注65)//
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 (04) ウクライナ内部では、過去の裏切り、歴史的大惨害の記憶を事故が呼び起こし、ウクライナ人は自分たちの秘密主義的国家を強く疑うようになった。
 6月5日、Chernobyl 爆発からちょうど6週間後、詩人のIvan Drach は公的なウクライナ作家同盟の会合で、立ち上がって語った。
 彼の言葉は、異様に感情が極まっていた。Drach の子息は適切な防護服を着けないで事故に派遣された若い兵士たちの一人で、今は放射線障害に苦しんでいた。
 Drach 自身は、ウクライナの近代化を助けるだろうとの理由で、原子力発電の擁護者だった。(注66)
 今では彼は、核の溶解、爆発を隠蔽した秘密主義による偽装のいずれについても、またそれらに続いた混乱について、ソヴィエト・システムの責任を追及した。 
 Drach は、公然とChernobyl を飢饉になぞらえた最初の人物だった。
 彼は、長い間喋って、「核の雷波はnation の遺伝子型を攻撃した」と宣言した。
 「若い世代は何故、我々から離れたのか?
 我々が、どう生きたか、今どう生きているかの真実を公然と語らず、話さなかったからだ。
 我々は欺瞞に慣れてきた。…
 1933年飢饉に関する委員会の長であるReagan 〔当時のアメリカ大統領〕を見るとき、1933年に関する真実に迫る歴史の研究所はどこにあるのかと、不思議に思う。」(注67)
 党当局はのちにDrach の言葉は「感情が噴出している」と否定し、彼の演説の内部的な筆写物ですら検閲した。
 「nation の遺伝子型」を攻撃する「核の雷波」—これは直接にジェノサイドを意味していると誤って広く記憶された言葉だった—は、「痛々しく攻撃した」に換えられた。(注68)//
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 (05) しかし、後戻りはできなかった。
 Drach の論評は、当時に聞いた者たちや、のちにそれを反復した者たちの感情を揺さぶった。
 事態は、きわめて迅速に進行した。〈glasnost〉は現実になった。
 Gorbachev は、よりよく機能させようと望んで、ソヴィエト諸制度の作動の欠陥を明らかにする政策を意図した。
 他の者たちは、〈glasnost〉をより広義に解釈した。
 本当の物語と事実に即した歴史が、ソヴィエトのプレスに出現し始めた。
 Alexander Solzhenitsyn やその他のグラクの記録者たちの著作が、初めて印刷されて出版された。
 Gorbachev は、Khrushchev 以来の、ソヴィエト史の「黒点」を公然と語る二番目のソヴィエト指導者になった。
 そして、Gorbachev は先行者とは違って、テレビで発言した。
 「ソヴィエト社会の適切な民主主義化の欠如は、…1930年代の個人崇拝、法の侵犯、恣意性と抑圧をまさに可能にしたものだ。—それはあからさまな、権力の悪用にもとづく犯罪だった。
 数千人の党員と非党員たちが、大量弾圧の犠牲になった。
 同志たちよ、これが苦い真実だ。」(注69)//
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 (06) 同じくすみやかに、〈glasnost〉は不十分であるとウクライナ人には感じられ始めた。
 1987年8月、指導的な反対派知識人であるVyacheslav Chornovil は30頁の公開書簡をGorbachev に送り、「表面的」にすぎない〈glasnost〉を始めたと彼を責めた。それは、ウクライナその他の非ロシア人共和国の「架空の主権性」を維持しているが、これらの国の言語、記憶、本当の歴史を抑圧している、と。 
 Chornovil は、ウクライナの歴史の「空白の問題」の一覧を自分で作成し、人々と事件の名称はまだ公式の説明に含まれていない、とした。すなわち、Hrushevsky、Skrypnyk、Khvylovyi、大量の知識人弾圧、national な文化の破壊、ウクライナ語の抑圧、そしてもちろん、1932-33年の「ジェノサイド的」大飢饉。(注70)//
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 (07) 他の者たちもつづいた。 
 スターリンによる犠牲者を記念するソヴィエトの社会団体である記念館(Memorial)のウクライナ支部は初めて、公然と証言録と回想記を収集し始めた。
 1988年6月、別の詩人のBorys Oliinyk は、悪名高いモスクワでの第19回党大会で立ち上がった。—この大会は史上最も公開的で論議があったもので、初めてテレビで生中継された。
 彼は、三つの論点を提起した。ウクライナ語の地位、原子力発電の危険性、そして飢饉。
 「数百万のウクライナ人の生命を奪った1933年飢饉の理由が、公にされる必要がある。
 そして、この悲劇について責任を負う者たちが、その氏名でもって明らかにされなければならない。」(注71)//
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 (08) このような論脈の中で、ウクライナ共産党は、アメリカ合衆国議会の報告書に対応する用意をしていた。
 困惑していた党は、ソヴィエト連邦が最後に弱体化している年月にしばしば行なったように、委員会を設置することを決定した。
 Shcherbytskyi は、ウクライナ科学アカデミーと党史研究所—これらは〈欺瞞、飢饉とファシズム〉出版の背後にあった組織だった—の学者たちに、一般的な非難に反駁する、とくにアメリカ合衆国の議会報告書が下した結論に対抗する、そのような任務を託した。
 委員会のメンバーたちはもう一度、公式に否定するつもりだった。
 それがうまくいくように、彼らには、公文書資料を利用することが認められた。(注72)//
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 (09) 結果は、予期しないものだった。
 学者たちの多くにとって、諸文書資料は驚嘆すべきものだった。 
 政策決定、穀物没収、活動家たちの抗議、市街路上の死体、孤児の悲劇、テロルと人肉喰い、に関する正確な説明が、諸文書資料には含まれていた。
 欺瞞はなかった。委員会はこう結論づけた。
 「飢饉の神話」も、ファシストの謀みもなかった。
 飢饉は、実際に存在した。飢饉は起きた。それを否認することはもはやできなかった。//
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 第15章第五節、終わり。

2550/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑦。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第四節②。
 (10) 注目した全ての者が肯定的なのではなかった。多くの専門的雑誌は、Conquest 著を全く書評しなかった。
 一方で、何人かの北米の歴史家は、Conquest を政治的右翼の一員であるとともにソヴィエト史のより伝統的な学派の代表者だと見なし、この書物をあからさまに非難した。
 J, Arch Getty は〈London Review of Books〉で、Conquest の見方は保守的シンクタンクのアメリカの起業(Enterprize)研究所から助成を受けていると不満を述べ、「西側にいるウクライナ人エミグレ」と結びついているがゆえに、彼の根拠資料を「パルチザン的」だとして否定した。
 Getty はこう結論した。「その言う『悪の帝国』とともにある今日の保守的な政治的雰囲気の中では、この本は確実に人気を博するだろう」。
 当時、今のように、ウクライナに関する歴史的議論は、アメリカの国内政治によって形づくられていた。
 飢饉の研究がそもそもなぜ「右翼」か「左翼」のいずれかだと考えられるべきなのかについての客観的な理由は存在しないけれども、冷戦時代の学界政治によれば、ソヴィエトの悪業について書くどの学者も、簡単に色眼鏡でもって見られる、ということを意味した。(注56)//
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 (11) 〈悲しみの収穫〉はやがて、ウクライナ自体の内部で反響を見出すことになる。当局はこの書物の流入を阻止しようとしたけれども。
 Harvard の研究企画(project)が1981年に開始されたのとちょうど同じ頃、ウクライナ・ソヴェト社会主義共和国に関する国連使節団の代表たちが大学を訪問して、ウクライナ研究所がその企画を断念するように求めた。
 その代わりとして研究所に提示されたのは、当時としては稀少なことだったが、ソヴィエトの公文書資料の利用だった。
 Harvard 大学は、拒否した。 
 Conquest 著の要約版がトロントの〈Globe and Mail〉に掲載されたあとで、ソヴィエト大使館の第一書記が編集者に対して、怒りの手紙を書き送った。
 その第一書記は、こう出張した。そのとおり、ある程度の者たちは飢えた、彼らはしかし、旱魃とクラクによる妨害の犠牲者だった。(注57)
 いったん書物が出版されると、それをウクライナ人から隠し通すことは不可能だった。
 1986年の秋に、アメリカが後援し、München に基地局のある自由ラジオ(Radio Liberty)で、その書物の内容はソ連内部のリスナーに向けて朗読された。//
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 (12) より手の込んだソヴィエトの反応が、1987年に届いた。〈欺瞞、飢饉とファシズム—ウクライナ・ジェノサイド、ヒトラーからハーヴァードへの神話〉の刊行によって。
 表向きの著者のDouglas Tottle は、カナダの労働活動家だった。
 彼の書物は、飢饉はウクライナのファシストと西側の反ソヴィエト集団によって考案され、プロパガンダされた悪ふざけ(hoax)だと叙述した。 
 Tottle は悪天候と集団化後の混乱が食料不足の原因となったことを承認したけれども、悪意のある国家が飢餓の拡大に何らかの役割を果たしたことを認めるのを拒んだ。
 彼の書物は、ウクライナ飢饉を「神話」だと書いたのみならず、それに関する全ての説明資料は定義上、ナツィによるプロパガンダで成っている、と論じた。
 Tottle の書物は、とりわけ、つぎのように断定した。
 ウクライナ人離散者たちは全員が「ナツィス」だ。飢饉関係の書物や論文集は、西側の情報機関とも結びついた、反ソヴィエトのナツィ・プロパガンダだ。Havard 大学は長く反共産主義の調査、研究、教育の中心で、CIAと連結している。飢饉についてMalcolm Muggeridge が書いたものは、ナツィがそれを利用したがゆえに、道徳的に腐敗している。Muggeridge 自身が、イギリスの工作員だ。(注58)//
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 (13) モスクワとKyiv の両方にある党史研究所は、Tottle の原稿作成を助けた。
 修正や説明のために、未署名の草稿が彼と二つの研究所のあいだを行き来した。
 ソヴィエトの外交部は書物の刊行と進行を支持し、可能な場所ではそれを促進した。(注59)
 やがてその書物は、少数者を惹きつけた。1988年1月に、〈Village Voice〉は「ソヴィエトのホロコーストの探求。55年前の飢饉が右翼に栄養を与える」という記事を掲載した。これはTottle の著作を無批判に用いていた。(注60)//
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 (14) 遡ってみると、Tottle の書物は、ほとんど30年後に何がやってくるかを示す先駆けとして重要だった。
 その中心にある主張は、ウクライナ「ナショナリズム」とファシズムおよびアメリカとイギリスの情報機関との間の連結という想定を基礎にしていた。—ウクライナでのソヴィエトの抑圧やウクライナの独立または主権に関する議論の全てはウクライナ「ナショナリズム」と定義された。
 かなりのちに、同じ連結の一体—ウクライナ・ファシズム・CIA—が、ウクライナの独立や2014年の反腐敗運動に対するソヴィエトの情報キャンペーンで用いられることになる。
 まさに現実的意味で、その情報キャンペーンの基礎は1987年に築かれていた。//
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 (15) 〈欺瞞、飢饉とファシズム〉は、当時のソヴィエトの釈明と同様に、1932-33年にウクライナとロシアで一定の飢えがあったことを承服しはするが、大量の飢餓の原因を、「近代化」の要求、クラクの妨害、言うところの悪天候に求めた。
 真実の一端が、最も手の込んだ糊塗活動に結びつけられたのと同様に、虚偽と誇張とにも結合された。 
 Tottle の書物は、当時に1933年のものとされた写真のいくつかは実際には1921年の飢饉の際に撮られたものだ、と正確に指摘した。
 それはまた、1930年代についての間違ったまたは誤解を与える報告があることも、正確に見抜いた。 
 Tottle は最後に正しく、一定のウクライナ人はナツィスに協力した、ナツィスはウクライナ占領中に飢饉に関してきわめて多くのことを書き、話した、と書いた。//
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 (16) こうしたことは1932-32年の悲劇を消失させたのでも、その原因を変更したのでもなかったけれども、飢饉に関して書く者をそもそも傷つけることを意図して、単純に「ナツィ」と「ナショナリスト」の連想が用いられた。
 ある一定範囲では、この策略は有効だった。飢饉についてのウクライナ人の記憶や飢饉に関する歴史研究者に対抗するソヴィエトの情報活動は、不確定性という汚名を残した。
 Hitchens ですら、〈絶望の収穫〉での彼の論述の中で、ウクライナ人のナツィへの協力に言及せざるをえなかった。また、学界の一部はつねに、Conquest の書物を警戒心をもって扱った。(注61)
 公文書を利用することができなかったので、1980年代には、1933年春の飢饉を引き起こした一連の意図的な諸決定について叙述するのは、まだ不可能だった。
 その余波、隠蔽工作または抑圧された1937年統計調査について詳しく叙述することも、不可能だった。//
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 (17) それにもかかわらず、〈絶望の収穫〉と〈悲しみの収穫〉のいずれをも生んだ研究企画は、さらなる影響をもたらした。
 1985年に、アメリカ合衆国議会はウクライナの飢饉を調査研究する超党派の委員会を立ち上げ、Mace を主任調査官に任命した。
 その目的は、「飢饉に関する世界の知識を拡大し、ソヴィエトの飢饉への役割を明らかにすることでアメリカ国民のソヴィエト・システムに関する理解を向上させるために、1932-33年ウクライナ飢饉に関する研究を行う」ことだった。(注62)
 その委員会は、3年かけて報告書と離散者で飢饉からの残存者の口頭および文書による証言録を取りまとまた。これは依然として、これまでに英語で公刊された最大のものだ。
 委員会がその成果を1988年に発表したとき、その結論はソヴィエトの主張とは真っ向から矛盾していた。委員会は、こう結論づけた。
 「つぎのことに疑いはない。ソヴィエト連邦ウクライナと北部コーカサス地方のきわめて多数の住民が、1932-33年の人為的飢饉によって飢えて死んだ。その原因は、ソヴィエト当局による1932年の収穫の剥奪にある。」//
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 (18) 加えて、委員会はこう述べた。
 「『クラクの妨害』に飢饉のあいだの全ての責任があるというソヴィエトの公式の主張は、虚偽である。
 飢饉は、主張されるような旱魃とは関係がなかった。
 飢えている人々が食料をより容易に調達できる地域へと旅行することを禁止する措置がとられた。」
 委員会はまた、こう述べた。
 「1932-33年ウクライナ飢饉は、農村地帯の住民から農業生産物を剥奪することで惹き起こされた」。言い換えると、「悪天候」や「クラクの妨害」によってではなかった。(注63)
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 (19) こうした知見は、Conquest のそれを反映していた。
 それはまたMaceの威厳を立証し、その後の年月に他の研究者たちが利用することのできる、山のような新しい資料を提供した。
 しかし、委員会が1988年に最終報告書を発表したときまでに、ウクライナ飢饉に関する最も重要な議論が、ヨーロッパやアメリカではなく、ウクライナそれ自身の内部でようやく起こり始めていた。//
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 第15章第四節、終わり。

2549/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑥。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第四節①。
 (01) 1980年、飢饉が近づいてから50周年。北アメリカのウクライナ離散者グループは、もう一度行事を催すことを企画した。
 トロントでは、飢饉研究委員会がヨーロッパと北米じゅうの飢饉残存者と目撃者のインタビューを録画し始めた。(注46)
 ニューヨークでは、ウクライナ研究基金が、ウクライナに関する博士論文を執筆した若い学者のJames Mace に、Harvard 大学ウクライナ研究所で大きな研究プロジェクトを立ち上げることを委託した。(注47)
 かつてと同様に、会議が計画され、デモ行進が組織され、ウクライナ教会やシカゴとWinnipeg の集会ホールで集会が開かれた。 
 だが、このときの影響は異なるものになる。
 フランスの共産主義研究者のPierre Rigoulot は、こう書いた。
 「人間の知識は、石工の仕事に応じて規則的に大きくなる壁のレンガのようには集積しない。知識の発展は、そしてその沈滞も、社会的、文化的かつ政治的な枠組みにかかっている。」(注48)
 ウクライナについては、その枠組みが1980年代に変遷し始め、その十年間を通じて変化し続けることになる。//
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 (02) 西側の受け止めの変化は、部分的には、ソヴィエト・ウクライナ内部での事態の助けがあって生じた。この事態はゆっくり発生したものだったが。
 1953年のスターリンの死は、飢饉に関する公式の再評価をもたらさなかった。
 1956年の記念碑的な「秘密演説」で、スターリンの後継者のNikita Khrushchev はソヴィエトの独裁者を取り囲んでいた「個人崇拝」を攻撃し、1937-38年の多数の党指導者たちを含む数十万人の殺害についてスターリンを非難した。
 しかし、Khrushchev は、彼は1939年にウクライナ共産党の長になっていたのだが、飢饉に関しても集団化に関しても沈黙したままだった。
 これらについて語るのを拒否したことは、その年以降の離散知識人にとってすら、農民たちの運命を明確に理解するのは困難であることを意味した。
 上級の党内部者だったRoy Medvedev は1969年に、スターリン主義に関する最初の「異端」歴史書である〈歴史に判断させよ〉で、集団化に論及した。
 Medvedev は、飢餓で死んだ「数万の」農民について叙述した。しかし、自分はほとんど何も知らないことを認めていた。//
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 (03) それにもかかわらず、Khrushchev による「雪解け」は、システムにある程度の裂け目を開けた。
 歴史家は困難な主題に接近することができなかったが、ときにはそうした。
 1962年、ソヴィエトの文芸関係雑誌は、最初の正直なソヴィエト収容所の描写であるSolzhenitsyn の〈Ivan Denisovich の人生の一日〉を掲載した。
 1968年、別の雑誌が、はるかに知名度が小さいロシアの作家のVladimir Tendriakov の短い小説を掲載した。その中で彼は、「郷土から剥奪されて追放され」、地方の町の広場で死んでゆく「ウクライナのクラクたち」についてこう書いた。
 「朝にそこで死者を見るのに慣れてしまった。そして病院の厩務員のAbram は、荷車とともにやって来て、遺体を積み込んだものだ。
 全員が死んだのではない。
 多くの者は、汚い、むさ苦しい路地をさまよった。象のように、血流がなくて青くなった、水腫の浮いた脚を引き摺りながら。そして、通行人全てから小突かれ、犬のような眼で物乞いをしながら。」(注49)//
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 (04) ウクライナ自体の中では、スターリン主義に対する知識人や文芸関係者の拒絶は顕著にnational な傾向を帯びた。
 1950年代遅くおよび1960年代初頭の抑圧が少なくなった雰囲気の中で、ウクライナの知識人たちは—Kyiv、Kharkiv で、そして、以前はポーランド領土で1939年にソヴィエト・ウクライナに編入されていたLiviv で—、もう一度出会い、書き、national な再覚醒の可能性について議論し始めた。
 多くの者たちは、ウクライナ語で子どもたちに教えた基礎学校で教育されていた。また、自分たちの国の「選択し得る」歴史の見方を両親や祖父母から聞いて成長していた。
 ある者たちは、ウクライナの言語、文学、そしてロシアの歴史とは区別されるウクライナの歴史を普及させることを公然と語り始めた。//
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 (05) こうしたnational identity の影を蘇生させようとする静かな試みに、モスクワは警戒心をもった。
 1961年に、7名のウクライナ人学者が逮捕され、Liviv で裁判を受けた。その中には、Stepan Virun もいた。この人物は、「ナショナリズム追及と数百の党員や文化人の壊滅に伴った不公正な抑圧」を批判する冊子を書くのを助けていた。(注50)
 別の二十数人は、1966年にKyiv で裁判を受けた。
 種々の「犯罪」の中で、ある者は「反ソヴィエト」の詩を含む書物を所有しているとして訴追された。
 その書物は著者名なしで印刷されていたので、警察は、Taras Shevchenko の作品だと見分けることができなかった(当時は彼の著作は完全に合法だった)。(注51)
 ウクライナ共産党の指導者のShelest は、こうした逮捕を主導した。1973年に第一書紀の地位を失ったあと、彼もつぎのような理由で攻撃されたけれども。
 〈O Ukraine, Our Soviet Land〉は、「ウクライナの過去、その十月以前の歴史に長い頁数を与えすぎており、一方で、偉大な十月の勝利、社会主義を建設する闘いのような画期的な出来事を適切に称賛していない」。
 この書物は発禁となった。そして、Shelest は、1991年まで名誉を剥奪されたままだった。(注52)。
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 (06) しかし、1970年代までに、ソヴィエト連邦はもうかつてのように世界から切断されてはおらず、このときの逮捕をめぐっては反響を呼んだ。
 ウクライナの収監者たちは、自分たちの事案に関するニュースを密かにKyiv へと送った。
 Kyiv にいる反対派たちは、自由ラジオ(Radio Liberty)またはBBCと接触する仕方を学んでいた。
 1971年までに、相当に多くの資料がソ連から漏れ出していたので、ウクライナでの証言類を収集した編集本を出版するのは可能だった。その中には、受刑中のウクライナ民族活動家の情熱的な証言録もあった。
 1974年、反対派たちは、集団化と1932-33年飢饉に関する数頁を含む地下雑誌を発行した。
 この雑誌の英語への翻訳版も、〈ソヴィエト連邦でのウクライナ人の民族浄化(Ethnocide)〉という表題で刊行された、(注53)
 西側のソヴィエト観察者や分析者は、ウクライナの反対派は別個の明確な一体の不満をもっていることを徐々に知るようになった。
 1979年にソヴィエトがアフガニスタンを侵攻したこと、1981年にRonald Reagan が大統領に選出されたことは、突如としてデタントの時代を終わらせ、西側の諸国民の相当に広い部分も、ソヴィエトによる抑圧の歴史に改めて注目することになった。その抑圧には、ウクライナ内部でのそれも、含まれている。//
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 (07) 1980年代初頭までに、ウクライナ離散者たちも、変化した。
 以前よりも社会の中核に昇り、財政力も大きくなり—ウクライナ人社会の構成員はもはや貧しい逃亡者ではなく、北アメリカとヨーロッパの中間層の確固たるメンバーだった—、離散者組織は、以前よりも内容のある企画を財政援助することができた。また、散在している資料を書物や映像に変えることもできた。
 カナダでのインタビュー企画は、大きな記録映画(documentary)へと発展した。
 〈絶望の収穫(Harvest of Despair)〉は映画祭で受賞し、1985年春にカナダの公共テレビで放映された。//
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 (08) 合衆国では、この映像を放送しようとしない公共の放送機関の当初の姿勢が、論争の対象になった。—彼らは「右翼」すぎると恐れたのだ。
 PBS は1986年9月についに、「最前線部隊」の特別版として、この映画を放送した。この番組は保守派のコラムニストで〈Natinal Review〉の編集者のWilliam Buckley によって生まれ、彼と歴史家のRobert Conquest、〈New York Times〉のHarrison Salisbury、当時は〈Nation〉のChristopher Hitchens の間の討議の放映が続いた。
 討議の多くは、飢饉それ自体とは関係がなかった。 
 Hitchens は、ウクライナの反ユダヤ主義という論点を提起した。 
 Salisbury は、彼の発言のほとんどで、Duranty〔1884-1957、〈New York Times〉の元モスクワ支局長—試訳者〕に注目した。
 しかし、論評と記事の連続した波がその後に続いた。//
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 (09) より強い関心の大波を生じさせたのは、Conquest 著の〈悲しみの収穫〉(Harvest of Sorrow)だった。これは、数ヶ月後に出版された、Harvard 大学の映像化企画の最も目に見える成果だった。
 この書物は(本書のように)、Harvard ウクライナ研究所の協力を得て執筆された。
 Conquest には、今日では利用できる公文書資料がなかった。
 しかし彼は、Mace と一緒に、存在している情報源—ソヴィエトの公式文書や離散者の中の生き残った人々の口頭証言—を総合して構成した。 
 〈悲しみの収穫〉は1986年に出版され、イギリスとアメリカの全ての大手の新聞や多くの学会誌で書評された。—当時は、ウクライナに関する書物としては先例のないことだった。
 多くの書評者は、このような恐るべき悲劇についてはほとんど何も知らなかった、という驚きを表明していた。
 〈The Times のLiterary Supplement〉で、ソヴィエトの学者のGeoffrey Hosking は、「数年以上を使ってこれだけの資料が積み重ねられた。ほとんどはイギリスの図書館で完全に利用できる」と衝撃を受けた。
 「ほとんど信じ難いことだが、Conquest 博士の書物は、一世紀全体を通じて、最悪の人為的な恐怖の一つと評価しなければならないものの最初の歴史的研究書だ」。
 Frank Sysyn は簡潔にこう述べた。「ウクライナに関するどの書物も、これほど広汎な注目を浴びなかった」。(注55)
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 第四節②へと、つづく。

2548/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑤。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章第三節の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第三節②。
 (07) Pidhainy はカナダで、ロシア共産主義によるテロル犠牲者(Victims of Russian Communist Terror)ウクライナ人協会の設立を始めた。
 また、目立ったエミグレ組織者にもなり、しばしばエミグレ仲間たちに語りかけ、飢饉だけではなくソヴィエト連邦での生活に関する記憶も書きとめておくよう激励した。
 他のエミグレ集団も、同じことをしたか、すでに行なっていた。
 1944年にWinnipeg に設立されたウクライナ文化教育センターは、1947年に回想記録大会を催した。
 第二次大戦に関する資料を収集することを意図していたが、提出された回想録の多くは飢饉に関係しており、やがてそのセンターは豊富な収集物を蓄えることになった。(注38)
 世界じゅうのウクライナ人社会は、München にある離散者新聞による訴えにも反応した。その訴えは、「ウクライナでのボルシェヴィキの専横さを厳しく弾劾するのに役立つ」回想記を求めていた。(注39)//
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 (08) このような努力の結果の一つが、Pidhainy が編集した書物、〈クレムリン黒書〉(The Black Deeds of the Kremlin)だった。
 やがて二巻で構成されて—第一巻は飢饉20周年の1953年に出版された—、〈黒書〉は、飢饉その他のソヴィエト体制の抑圧的側面の分析とともに、数十の回想記を含むことになった。
 執筆者の中には、Sonovyi がいた。
 このときの彼の主張は、英語に要約して翻訳された。
 「飢饉の真実」と題する彼の小論は、あからさまに始まっていた。
 「1932-33年の飢饉は、ロシアによる支配のためにウクライナ反対派の基幹部を破壊しようとするソヴィエト政府によって必要とされた。
 かくして、政治的動機があったのであり、自然が原因の産物ではなかった。」(注40)//
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 (09) 他の人々は、自分自身の体験を記した。
 簡潔で鮮烈な回想記は、死者の素描や写真とともに、長い文字によって過去を思い出させるものだった。
 Poltava の経済学者だったG. Sova は、「私は何回も、穀物、粉末の最後の一オンス、あるいは農民たちが取り去った豆類を見た」と記憶していた。(注41)
 I. Kh-ko は、その父親が家宅探索の際に靴のゲートルの中にいくつかの穀物を何とか隠すことができていたこと、だがそのうちにやはり死んだこと、を叙述した。
 「死体が至るところに散在していたので、父親の遺体を埋めてくれる者はいなかった」。(注42)
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 (10) 編集者たちは〈クレムリン黒書〉を、国じゅうの図書館に送った。
 しかし、カナダでの新聞記事やドイツでの冊子となった〈The Ninth Circle〉と同様に、ほとんどのソヴィエト学者や学界雑誌の主流によって、慎重に無視された。(注43)
 情緒的な農民の回想記と半学問的な小論の混合物では、アメリカの職業的歴史家たちに訴えるところがなかった。
 逆説的にも、冷戦はウクライナ人エミグレたちの行動の助けにならなかった。
 彼らの多くが用いていた言語遣い—「黒い行ない」あるいは「政治的武器としての飢饉」—は、1950年代、1960年代そして1970年代の多くの学者たちにはあまりにも政治的すぎた。
 執筆者たちは、物語を話す「冷戦の闘士」として冷たく拒否された。//
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 (11) ソヴィエト当局が飢饉の物語を積極的に抑圧したことも、不可避的に、西側の歴史家や文筆家に大きな影響を与えた。
 飢饉に関する確固たる情報が完全に欠けていたため、ウクライナ人の主張は少なくとも高度に誇張されたものだ、あるいは信じ難いとすら、感じさせた。
 そんな飢饉があったならば、ソヴィエト政府はそれに対応しようとしただろう?
 自分の国民が飢えているとき、どんな政府も傍観しはしないだろう?//
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 (12) ウクライナ人離散者たちは、ウクライナそれ自体の地位によっても傷つけられた。
 誠実なロシア史研究者に対してすら、「ウクライナ」という観念は、戦争後にはかつて以上に曖昧であるように思えた。
 外国人のほとんどは、ウクライナの短い、革命後の独立の時代があったことを知らなかった。ましてや1919年や1930年の農民蜂起について、知らなかった。
 1933年の逮捕と弾圧のことなど、少しも知らなかった。
 ソヴィエト政府は、その国民はもとより外国人がソヴィエト連邦は単一の統一体だと考えるように仕向けた。
 世界の舞台でのウクライナの公的な代表者は、ソヴィエト同盟の報道官であり、戦後の西側ではウクライナはほとんど一般的にロシアの一つの州だと考えられた。
 自分たちを「ウクライナ人」と呼ぶ人々は、いくぶんか不誠実だと見られることがあり得た。スコットランド人やカタロニア人(Catalan)の活動家がかつて不誠実だと見られたのとかなり似て。//
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 (13) ヨーロッパ、カナダ、アメリカ合衆国のウクライナ人離散者たちは、1970年代までに、自分たちの歴史家や雑誌をもつに十分なほど大きくなり、Harvard 大学のウクライナ研究所やEdmonton にあるAlberta 大学のカナダ・ウクライナ研究所の二つを設置できるほどに裕福になった。
 しかし、こうした努力があっても、歴史学の主流を形成できるほどに強くはならなかった。
 指導的なウクライナ人離散者のFrank Sysyn は、こう書いた。専門分野の「民族化」(ethnicization)で学界のその他の領域から遠ざかったかもしれない、ウクライナの歴史が二次的で価値のない研究対象のように見えるのだから。(注44)
 ナツィによる占領と一定範囲のウクライナ人がナツィスに協力したという記憶もまた、独立ウクライナの擁護者を「ファシスト」と称するのは数十年経ってすら簡単だ、ということを意味した。
 離散したウクライナ人たちが自己一体性(identity)を執拗に強調することすら、多くの北アメリカ人やヨーロッパ人には、「ナショナリスト」的で、ゆえに胡散臭いと思われた。//
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 (14) エミグレたちが「紛れもなく偏見をもつ者」だとして拒否され、彼らの説明は「曖昧な残酷物語」だとして嘲弄される、ということがあり得た。
 「黒書」の編纂はのちに、ソヴィエト史のある有名な研究者によって、学問的価値のない冷戦期の「時代的産物」にすぎないと叙述されることになる。(注45)
 しかし、そのときウクライナ自体で、重要な事態が進展し始めた。//
 ——
 第三節、終わり。

2547/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor④。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第三節①。
 (01) 第二次大戦の終了は、元の状態への回帰を意味したのではなかった。
 ウクライナの内部では、戦争は体制の言語の意味を変更した。
 ソヴィエト連邦に対する批判はもはや「敵」を意味するだけではなく、「ファシスト」または「ナツィス」になった。
 飢饉に関するどんな会話も、「ヒトラーたちのプロパガンダ」だった。
 飢饉の記憶は、箪笥や引き出しの奥深くに閉じ込められ、それに関して議論することは、裏切りになった。
 1945年に、最も雄弁にホロドモールに関する日記をつけていた者の一人であるOleksabdra Radchenko は、まさにその私的な文章を理由として追及された。
 彼女のアパートが探索されているあいだに、秘密警察がその日記を没収した。
 彼女は、つづく6ヶ月間の尋問で、「反革命の内容の日記」を書いたとして責められた。
 裁判では、彼女は裁判官に、こう言った。
 「書いた主な理由は子どもたちに残すことでした。
 社会主義を建設するためにどんな暴力的方法が用いられたかを、20年後に子どもたちが信じないだろうがゆえに、書きました。
 ウクライナの人々は、1930-33年に恐怖で苦しめられました。…」
 その訴えは聞き入れられず、彼女は10年間、収容所に送られた。ウクライナに戻ったのは、ようやく1955年だった。(注32)
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 (02) 新しい恐怖の記憶も、1933年のそれを包み隠した。
 1941年には、Babi Yar 渓谷でのKyiv のユダヤ人の殺害があった。
 Kursk の戦い、Stalingrad の戦い、Berlin での戦い、これらはみな、ウクライナ人兵士がとともに闘ったものだった。
 戦争捕虜収容所、強制労働収容所、帰還者浄化収容所、大虐殺と大量逮捕、燃え落ちた村と破壊された田畑—これらが全て、今ではウクライナの物語の一部にもなった。 
 ソヴィエトの公式の歴史書では、第二次大戦がこう称されるようになった「大祖国戦争」が、研究と記念の中心になった。これに対して、1930年代の抑圧については決して語られなかった。
 1933年は、1941-44年および1945年の背後に隠された。//
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 (03) 戦後の混乱で1946年はすでに良くなかった。苛酷な食料徴発の復活、大旱魃—そして再び、今度はソヴィエトが占領した中央ヨーロッパに食糧を与えるためにだが、輸出の必要—は、食料の供給を崩壊させた。
 1946-47年に、250万トンのソヴィエトの穀物が、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアへ、そしてフランスへすら、輸出された。
 ウクライナ人は都市でも地方でももう一度飢餓へと向かい、ソ連全体でも同様だった。
 食料剥奪に関連した死者数はきわめて多く、また、数百万人が栄養失調になった。(注33)//
 ——
 (04) ウクライナ以外でも、状況は変わった。それは、きわめて異なる方向に向かってだった。
 1945年5月にヨーロッパでの戦争が終わったとき、数十万のウクライナ人は、他のソヴィエト市民と同様に、自分たちがソヴィエト連邦の境界の外側にいることに気づいた。
 多数の者たちが強制労働収容所におり、工場や農場で働くためにドイツに送られていた。
 ある人々はドイツ軍と一緒に退却し、あるいは赤軍に帰還する前にドイツへと逃亡した。その人々は、飢饉を体験していたので、ソヴィエト権力が再び課そうとする何物も持っていないことを知っていた。
 Odessa 出身の農学専門家で飢饉を目撃していたOlexa Woropay は、ドイツの都市のMünster 近傍の「離散者収容所」にいた。 そこで彼とその同僚たちは、「軍用車庫から転換した大きな小屋」で生活していた。
 1948年の冬、彼らがカナダかイギリスに送られるのを待っている間、「何もすることがなく、夜は長くて退屈だった。時間つぶしのために、自分たちが経験したことを話した」。
 Woropay がその物語を書き留めた。(注34)
 数年後に、それはThe Ninth Circle という表題の小さな書物となって出版された。//
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 (05) 当時には影響はほとんどなかったけれども、〈The Ninth Circle〉は今では魅力的な読み物だ。
 飢饉のときにすでに成人で、飢饉をまだ生々しく憶えていて、原因と帰結を考察する時間があった人々の考え方が、その書物には映されている。 
 Woropay は、数年前のSosnovyi と同様に、飢饉は意識的に組織された、スターリンは飢饉を慎重に計画した、飢饉は最初からウクライナを従属させて「ソヴィエト化する」ために意図された、と主張した。
 彼は、集団化のあとの反乱をこう叙述し、それが持った意味をこう説明した。
 「モスクワは、これがさらなるウクライナ戦争だと理解しており、1918-21年の解放闘争を思い出して怖れもしていた。
 モスクワはまた、経済的に自立したウクライナが共産主義に対していかに大きな脅威となるかを、知っていた。—とくに、民族意識が高くて道徳的にも強いために独立し統一したウクライナという考えを抱く、相当に大きい要素が、ウクライナの村落にはある、と。…
 赤色のモスクワはゆえに、3500万人の強固なウクライナnation が抵抗する力を破壊する、最も軽蔑すべき計画を採用した。
 ウクライナの強さは、飢饉でもって破壊されるべきものとされた。」(注35)
 Woropay と同じ離散者のその他の者も、こうした見方に同調していた。
 彼らは至るところで自発的に、ウクライナの歴史の転換点として飢饉に注目し、追悼するために、飢饉に関して論じるのを開始した。
 1948年、ドイツの、多くは離散者収容所にいたウクライナの人々は、飢饉の15周年を記念した。
 Hanover では、飢饉は「大量虐殺」だと叙述するビラを配布し、デモ行進を組織した。(注36)
 1950年、バイエルンにあるウクライナ語の新聞は、占領下のKharkiv で最初に公刊されたSosnovyi 論考を再掲載し、その結論を繰り返した。すなわち、「飢饉は、ソヴィエト体制によって組織された」。(注37)//
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 (06) 1953年、Semen Pidhainy という名のウクライナからのエミグレは、さらに一歩進めた。
 クバーニ(Kuban)のコサック家庭に生まれた彼は、長いあいだ収容所にいた。
 逮捕され、Solovetskii 島の強制収容所に収監されたのち、彼はナツィによる占領の前に解放され、戦争中はKharkiv の市役所で働いていた。
 1949年にトロントに移り、そこでウクライナの歴史の研究と普及に没頭した。
 ドイツにいるウクライナ人と同様に、彼の目標は道徳的であるとともに政治的だった。
 彼は、記憶し、哀悼したかった。しかしまた、ソヴィエト体制の残虐で抑圧的な本質へと西側の人々の注目を引きたかった。
 冷戦の初期の時点では、ヨーロッパと北アメリカの多くの部分にまだ、強い親ソヴィエト感情があった。 
 Pidhainy とウクライナからの離散者たちは、これと闘うことに専念した。//
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 第三節②へとつづく。

2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 試訳のつづき。
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 第15章第二節②。
 (11) 1942-43年に—ウクライナでのナツィの権力の最高時とたまたま一致している—、飢饉後10年を画するために、農民の支持を狙って多数の新聞が資料を刊行した。
 1942年7月、〈Ukrainskiy Khliborob〉という25万人の読者のある農民週刊紙は、「ユダヤ・ボルシェヴィキのいない仕事の年」に関する大きな記事を掲載した。
 「全ての農民が1933年という年をよく憶えている。飢餓が草のように農民たちを刈り取った年だ。
 ソヴィエトは、20年間に豊かな土地を飢餓の土地に変え、その土地で数百万人が死んだ。
 ドイツ軍兵士はこの攻撃を停止させ、農民たちはパンと塩でドイツ兵を歓迎した。ウクライナの農民が自由に仕事ができるように戦う軍の兵士をだ。」(注21)
 別の記事がつづき、何がしかの魅力をもった。
 当時に日記をつけていた一人は、ナツィのプロパガンダはそのいくぶんかは真実だったために大きな影響をもたらした、と記した。
 「我々人民、我々の家屋、畑、床、便所、村役場、我々の教会の廃墟、蠅、汚物を見よ。
 一言でいうと、全てがヨーロッパ人を恐怖心でいっぱいにする。だが、ふつうの人々から距離を置く我々の指導者とその子分たちや現代ヨーロッパの生活水準から無視されている。」(注22)
 Poltava からのある避難者は、占領下での飢饉に関する多数の議論が始まった戦後すぐのインタビューに答えて、語った。
 彼はまた、まるで赤軍が戻ってきたかのように見えた時点で、人々は「さて我々の『赤たち』は何をもたらすのか? 新しい1933年飢饉か?」と問うた、ということを思い出した。(注23)
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 (12) ナツィのプレスの全てと同じく、これらの戦時中の記事は、反ユダヤ主義で満ちていた。
 飢饉は—貧困や弾圧とともに—、繰り返してユダヤ人の責任だとされた。これはむろん以前から流行していた考え方だが、今では占領者のイデオロギーの中を占めていた。
 ある新聞は、ユダヤ人は必要なもの全てをTorgsin 店舗で購入しているので、飢饉を感じていない住民の唯一の部分だ、と書いた。「ユダヤ人には、金もドルもない」。
 別の新聞は、ボルシェヴィズム自体が「ユダヤの産物」だと語った。(注24)
 ある回想者は、戦争中のKyiv での飢饉に関する反ユダヤ・プロパガンダ映画を見せられた、と思い出した。
 それは掘り出された死体の映像を含んでいて、ユダヤ人の秘密警察官の殺害で終わっていた。(注25)//
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 (13) 戦時中のプレスは、とくにナツィのプロパガンダの枠組に適合するよう企画されてはいない飢饉に関する記事を、ごく少数だけ掲載した。
 1942年11月、農業経済学者のS. Sosnovyi は、まさに最初の準学問的研究だったかもしれないものを、Kharkiv の新聞に掲載した。
 Sosnovyi の論考はナツィの特殊用語を使っておらず、起こったことを正直に説明していた。
 彼はこう書いた。飢饉は、ソヴィエト権力に反対するウクライナの農民を破壊することを意図していた、と。
 「自然な原因」の結果ではなかった。「実際に1932年の気候条件は、例えば1920年のときのそれのように異常ではなかった」。
 Sosnovyi はまた、最初に真摯に犠牲者数の概算を示した。
 彼は、1926年と1939年の国勢調査その他のソヴィエトの統計出版物(たぶん知っていただろうが、発禁の1937年国勢調査を含まない)に言及しながら、1932年にウクライナで150万人が、1933年に330万人が、飢餓で死んだ、と結論した。—今日に広く受容されている数字よりも僅かに大きいが、遠く離れてはいなかった。//
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 (14) Sosnovyi はさらに、本当の物語、「選択し得る話」のきわめて多くは事実のあとの10年間なおも生き続けたということを示し、飢饉がどのように発生したかを叙述した。
 「まず彼ら〔ボルシェヴィキ〕は、集団農場の貯蔵所から全てを奪った。—農民が「作業日」(〈trudodni〉)に得た全てのものを。
 ついで彼らは、飼料、種苗を奪い、あらかじめ受け取っていた最後の穀物を農民から奪った。…
 彼らは、撒かれた範囲が狭く、穀物の収穫量は1932年のウクライナでは少ないことを知っていた。
 しかしながら、穀物生産の計画はきわめて高かった。
 これは、飢饉を組織する第一歩ではないか?
 ボルシェヴィキは、調達している間に、極度に少ない穀物しか残っていないことを知った。だが、彼らは全てを運び去り、奪い去った。—これはまさに、飢饉を組織するやり方だ。」(注26)
 同様の思いが、のちに、飢饉はジェノサイド(genocide)だった、nation としてのウクライナ人を破壊する意図的な計画だった、という主張の基盤を形成することになる。
 しかし、1942年では、この言葉はまだ使用されていなかった。そして、こういう観念自体すらが、ナツィ占領下のウクライナにいる誰の関心をも惹かなかった。// 
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 (15) Sosnovyi の論考は淡々として分析的なものだったが、それに付随した詩は、公然とは行えなかった服喪がまだなされていたことの証拠だ。
 Oleksa Veretenchenko が作った「遠い荒廃した北方のどこか」は、1943年を通して〈Nova Ukraina〉に掲載された一連の詩の〈1933年〉の一部だった。
 どの詩も、痛みまたは郷愁の、異なる調子をもっていた。
 「笑いに、何が起きたのか?
 少女たちが真夏の夕べを照らすために用いた焚き火に、いったい何が?
 ウクライナの村民たちはどこにいる?
 そして、家のそばのサクランボはどこに?
 貪欲な炎へと、全てのものが消え失せた。
 母親たちが、その子どもたちを食っている。
 狂った男が、市場で人肉を売っている。」(注27)
 こうした感情の響きの形跡は、人々の家の私的会話でも聞くことができた。
 ソヴィエトとドイツは侵攻に際してウクライナ西部(Galicia、Bukovyna、西部Volhynia)を国のその他の部分と効果的に統合したがゆえに、多数の西部ウクライナ人は、初めて東部へと旅行することができ、そこで見聞したことを記録した。
 飢饉は1933年には広く論じられたけれども、繰り返して語られる飢饉の物語を聞いて、戦時中に中部ウクライナを訪れたBohdan Liubomyrenko には、依然として驚きだった。
 「我々が人々を訪問した至るところで、会話した者は誰もが全て、きわめて恐ろしいこと、彼らが体験した日々について言及した」。
 彼を接遇した者はときどき、「一晩じゅう、彼らの恐怖の体験」を語った。
 「恐怖の時代は、政府が1932-33年にウクライナを満足げに眺める悪魔と一緒に計画した人為的飢饉の時代で、その記憶は人々の中に深く染み込んでいた。
 十年の長さは、殺戮の痕跡を抹消することも、無垢の子どもたちや男女の、飢饉で衰弱して死んでゆく若者たちの、最後のあえぎ声を消散させることも、できなかった。
 悲しみの記憶は、黒いもやのように都市や村落の上になおも掛かっており、飢餓を免れた目撃者たちの間に致命的な恐怖を生んでいる。」(注28)
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 (16) ウクライナ人も、集団化、抵抗、弾圧するために1930年に到来した軍隊について、公然と話し始めた。
 多くの人々には、飢饉の政治的原因は明瞭で、「農民たちが強奪されたこと、全てが没収されたこと、家族には、小さな子どもたちにすら、何も残されなかったこと」を語り、「彼らは全てを没収して、ロシアへと輸出した」と言った。(注29)
 1980年代に、作家のSvetlana Aleksievich はロシアの老人女性に会った。彼女は戦時中にあるウクライナ人女性の側で仕えていた。
 家族全員を飢饉で失った生存者であるその女性は、ロシアの老人に、自分は馬の肥料を食べてようやく生き残った、と言っていた。
 「私は祖国を守りたかった。でも、スターリンを守りたくはない。あの革命の裏切り者は。」(注30)//
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 (17) のちにそうなったのと同様に—また今日でも同様に—、聞いた者全員がこうした物語を信じているわけではなかった。
 ロシアの老人は、彼女の仲間は「敵」か「スパイ」ではないかと懸念した。
 Galicia 出身のウクライナ・ナショナリストですら、国家による飢饉という考えを固く信じるのは困難だと感じた。
 「率直に言って、政府がそんなことをすることができたと信じるのはむつかしいと思った」。(注31)
 スターリンは意図的に人々が飢えて死ぬのを認めたという考えは、スターリンを嫌う者たちにとってすら、あまりにも恐ろしすぎ、あまりにも怪物的だった。//
 ——
 第二節、終わり。


 Applebaum-Faminn02

2544/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor②。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第二節①
 (01) 1941年6月22日、ヒトラーがソヴィエト同盟に侵攻した。
 ドイツ軍は11月までに、ソヴィエト領ウクライナのほとんどを占領した。
 つぎにどうなるかが分からないまま、多くのウクライナ人は、ユダヤ系ウクライナ人ですら、最初はドイツ兵団を歓迎した。
 ある女性はこう思い出す。
 「少女たちはしばしば兵士に花を捧げ、人々はパンを与えたものだ。
 我々はみんな、彼らを見て嬉しかった。
 彼らは、我々から全てを奪って飢えさせた共産主義者から救ってくれようとしていたのだ。」(注7)
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 (02) バルト諸国も、同様にドイツ軍を歓迎した。これら諸国は、1939年から1941年まで、ソ連に占領されていた。
 コーカサスとクリミアも同様に、ドイツ兵団を熱烈に迎えた。これらの住民たちがナチスだったのが理由ではない。
 非クラク化、集団化、大量テロルと教会に対するボルシェヴィキの攻撃によって、ドイツ軍がもたらすものについて、幼稚で楽観的な見方が生まれていた。(注8)
 ウクライナの多くの地方で、ドイツ軍の到来とともに、自発的な非集団化が発生した。
 農民たちは後方地を奪ったのみならず、ラッダイト(Luddite)の憤激のようにトラクターや複式収穫機を破壊した。(注9) 
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 (03) 大騒ぎは、すぐに終わった。—そして、ドイツによる占領のもとでのよりましな生活を望んだ全ての者たちの期待は、すみやかに消滅した。
 つぎにどうなったかの十分な説明は、この書物の射程を超えている。ウクライナにナツィスがもたらした苦難は、広範囲で、暴力的で、ほとんど理解できないほどの規模で残虐なものだったからだ。
 ソ連に来るまでに、ドイツは他国を破壊する多数の経験をもっていた。そしてウクライナでは、自分たちがどうしたいのかを知っていた。
 ただちにホロコーストが始まり、遠く離れた収容所でのみならず、公然と繰り広げられた。
 ドイツ軍は、移送をするのではなく、隣人たちの面前で、村落の端や森の中で、ロマ人やユダヤ人の大量の処刑を敢行した。
 ウクライナのユダヤ人の三分の二が、戦争の全過程を通じて死んだ。—80万人と100万人の間。この割合は、大陸全体で死んだ数百万の現実的部分のそれよりも大きい。//
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 (04) ヒトラーによるソヴィエトの犠牲者の中には、200万人以上の戦争捕虜も含まれていた。彼らのほとんどは病気か飢餓のために死に、また、多くはウクライナの領域で死んだ。
 人肉喰いが、再びウクライナで発生した。
 Kirovohrad の第306捕虜収容所では、監視兵が収監者が死んだ仲間を食べていると報告した。
 Volodymyr Volynskyi の第365捕虜収容所での目撃者は、同じことを報告した。(注10)
 ナツィの兵士と警察官は、その他のウクライナ人を、とくに公職の役人たちから強奪し、打ちのめし、恣意的に殺害した。 
 ナツィの人種階層では、スラヴ人は下層人間(Untermenschen)『“で、おそらくはユダヤ人よりも一階位上だったが、偶発的な抹殺の候補になった。
 ドイツ軍を歓迎した者の多くには、ドイツは一つの独裁制を新しい独裁制に変更した、ということが分かった。とりわけ、ドイツが新たな移送の波を打ち寄せ始めたときに。
 戦争のあいだに、ナツィ兵団は、200万人以上のウクライナ人をドイツの強制労働収容所に送り込んだ。(注11)
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 (05) ウクライナを占領した全ての諸国と同じく、ナツィスも究極的にはただ一つの現実的な関心をもっていた。すなわち、穀物。
 ヒトラーは以前から、「ウクライナの占領は全ての経済的不安から我々を解放する」、ウクライナの領土は「誰も前の戦争のように我々をもう一度飢えさせることができなくなる」のを保障する、と主張していた。
 1930年代の遅く以降、ヒトラー政権はこの願望を現実に変えようとしてきた。
 Herbert Backe という食料と農業を担当した悪辣なナツィ官僚は「飢餓計画」を構想したが、その目標は率直だった。すなわち、「戦争の三年めに全軍がロシアで食べていけてはじめて、戦争に勝つことができる」。
 しかし、軍全体は、ドイツ自体もそうだが、ソヴィエト国民が食糧を奪われてはじめて、自分は食べていくことができる、とも結論づけていた。 
 1941年6月に1000名のドイツの官僚たちに回覧された覚書にもあるが、彼は5月に出版した「経済政策指針」でこう説明した。
 「信じ難い飢餓がまもなくロシア、ベラルーシおよびソヴィエト連邦の産業都市を襲うだろう。Kyiv 、Kharkiv はもちろんモスクワやレニングラードでも。
 この飢饉は偶発的なものではないだろう。目標は、およそ三千万の人々が『死に絶える』(die out)ことだ。」(注12)
 征服した領域の活用を所管する東方経済部員(Staff East)への指針は、厳としてつぎのように述べていた。
 「この領域の数千万もの多数の人々は不必要になり、死ぬかまたはシベリアへと移住しなければならないだろう。
 〈黒土地帯からの余剰分を使って飢餓による死から彼らを救う試みは、ヨーロッパへの供給を犠牲にしてのみ成り立ち得る。
 そのような試みは、ドイツが戦争に踏み出すのを妨げる。
 ドイツとヨーロッパが封鎖に対抗する妨げになる。
 このことは、絶対的に明瞭だ。〉」[強調〔=〈〉〕は原文のまま](注13)
 これは、何倍も大きくしたスターリンの政策だった。飢餓による民族(nations)全体の抹殺。//
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 (06) ナツィスには、この「飢餓計画」をウクライナで完全に実施する時間的余裕がなかった。
 しかし、その影響はその占領政策に感じ取ることができた。
 集団農場からの食料徴発の方が容易だという理由で、自発的な非集団化はすぐに停止された。
 Backe は、「ドイツ人は、ソヴィエトがすでに整えていないならば、集団農場を導入しなければなければならなかっただろう」と報告的に説明した。(注14)
 1941年には、農場は「協同組合」へと転換させることが意図されたが、それは起きなかった。(注15)//
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 (07) 飢餓も、戻ってきた。
 スターリンの「焦土」政策が意味したのは、ウクライナの経済的資産の多くが赤軍を退却させたことですでに破壊されている、ということだった。
 占領によって、状況はそこにとどまった人々にはさらに悪くなった。
 Kyiv が9月に陥落する直前に、帝国経済大臣のHermann Göring は、Backe と会談した。
 二人は、都市部の住民が食物を「むさぼる」(devour)のが許されてはならない、ということで一致した。「もし誰かが新たに占領した領域の住民全員に食を与えたいと望んだとしても、そうすることはできないだろう」。
 SSのHeinrich Himmler は数日後にヒトラーに対して、Kyiv の住民は人種的に劣っており、不要なものとして処分することができる、と言った。
 「彼らの80-90パーセントなしで、容易に済ませられる」。(注16)//
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 (08) 1941年冬、ドイツは都市部への食料供給を断ち切った。
 固定観念とは逆に、ドイツ当局はソヴィエトのそれよりも有能ではなかった。つまり、農民取引者たちは暫定的な非常線を通過した—1933年にそうするのは困難だと気づいていた。そして、数千人の人々が再び食料を求めて道路や鉄道を利用した。
 それにもかかわらず、食糧不足は、占領地帯で増大した。
 もう一度、人々は膨らみ、痩せ、遠くを見つめ、そして死に始めた。
 その冬、Kyiv で5万人が飢餓のために死んだ。
 ナツィの司令官が非常線で遮断していたKharkiv では、1942年5月の最初の二週間で、1202人が飢餓のために死んだ。
 占領期間中の飢餓による全死者数は、約2万人に達した。(注17)//
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 (09) こうした論脈の中で、ウクライナの1933年飢饉に関して公然と語るのが初めて可能になった。—残虐な占領のもとでの苦難と混沌、そして新たな飢饉の発現の中で。
 状況によって、物語の語られ方が形成された。
 占領のあいだ、議論の目的は生存者が嘆き悲しんだり、回復したり、正直な記録を生んだり、あるいは将来のための教訓を学んだりするのを助けることでは、なかった。
 過去を思い出すようなことを望んだ人々は、失望していた。
 飢饉についての秘密の日記類を守り続けた農民たちの多くは、日記類を地下から掘り出し、地方の新聞社へ持ち込んだ。
 しかし、「不幸なことに、編集者たちの多くは、今になっては過去の時代のことに興味がなかった。そして、こうした貴重な歴史的記録は公表されなかった」。(注18)
 その代わりに、この編集者たち—仕事と生活を新しい独裁制に依存していた—のほとんどが、ナツィのプロパガンダに奉仕する記事を掲載した。
 この者たちには、議論の目的は、新しい体制を正当化することだった。//
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 (10) ナツィスは実際には、ソヴィエトによる飢饉について多くのことを知っていた。
 その飢饉が起きているあいだ、ドイツの外交官はベルリンへの報告書で詳細に飢饉に関して叙述していた。
 Joseph Goebbels は、1935年のナツィ党大会の演説で、飢饉に言及した。彼はそこで、500万人が死んだと発言した。(注19)
 ドイツ軍が到着した瞬間から、ウクライナ占領者たちは、彼らの「イデオロギー的工作」のために飢饉を利用した。
 彼らが望んだのは、モスクワに対する憎悪が増幅すること、ボルシェヴィキによる支配の結果を人々が思い出すこと、だった。
 彼らがとくに熱心だったのは田園地帯のウクライナ人に達することで、ドイツ軍が必要とする食料の生産のためにはそうした努力が要求された。
 プロパガンダ用ポスター、壁新聞、時事漫画が、不幸で半ば飢えた農民たちを描いた。
 あるやせ細った母親とその子どもは、「これがスターリンがウクライナにしたことだ」というスローガンのある荒廃した都市を見た。
 別の貧しい一家は、「同志たちよ、生活はよくなった、愉快になった」というスローガンの下で、食物のないテーブルに座っていた。—このスローガンは、有名なスターリンからの引用句だった。(注20) //
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 第二節②へとつづく。

2543/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor①。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 邦訳書は、たぶん存在しない。この書の本文全体の内容・構成は、つぎのとおり。
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 緒言
 序説—ウクライナ問題。
 第1章・ウクライナ革命、1917年。
 第2章・反乱、1919年。
 第3章・飢饉と休止、1920年代。
 第4章・二重の危機、1927-29年。
 第5章・集団化—田園地帯での革命、1930年。
 第6章・反乱、1930年。
 第7章・集団化の失敗、1931-32年。
 第8章・飢饉決定、1932年—徴発、要注意人物名簿、境界。
 第9章・飢饉決定、1932年—ウクライナ化の終焉。
 第10章・飢饉決定、1932年—探索と探索者。
 第11章・飢餓—1933年の春と夏。
 第12章・生き残り—1933年の春と夏。
 第13章・その後。
 第14章・隠蔽。
 第15章・歴史と記憶の中のHolodomor。
 エピローグ・ウクライナ問題再考。
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 すでにこの欄に掲載したのは、冒頭の「緒言」と「序説」。
 以下、第15章(とエピローグ)を試訳する。 
 Holodomor(ホロドモール)の意味は、本文の中で語られるだろう。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール(Holodomor)。
 第一節。
 (01) 飢饉のあとの数年間、ウクライナ人は、起きたことについて語るのを禁止された。
 彼らは、公然と嘆き悲しむのを怖れた。
 大胆にそうしようとしても、祈ることのできる教会はなく、花で飾ることのできる墓石もなかった。
 国家がウクライナの農村地帯の諸団体を破壊したとき、公的な記憶も攻撃された。
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 (02) しかしながら、生存者たちは、私的に記憶していた。
 彼らは、起きたことについて、実際に書き残し、または頭の中に憶えた。
 ある者が思い出すように、日記を「木箱に鍵をかけて」守りつづけ、床下に隠したり、地下に埋めたりした人々もいた。(注2)
 農村では家族内で、人々は何が起きたかを子どもたちに話した。
 Volodymyr Chepur は、彼の母親が彼女と彼の父親の二人は食べるためにあった全てのものを彼に与えようとした、と話してくれたとき、5歳だった。
 自分たちが生き残ることができなくとも、証言することができるように彼が生きるのを、両親は望んだ。
 「私は死んではならない。大きくなったとき、我々とウクライナ人がどのように苦悶の中で死んだかを、人々に語らなければならない。」(注3)
 Elida Zolotoverkha 、日記を残していたOleksandra Radchenko の娘も、子どもたち、孫たち、さらにひ孫たちに、日記を読んで、「ウクライナが体験した恐怖」を記憶しておくように言った。(注4)//
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 (03) 多くの人々が私的には繰り返したこうした言葉は、彼らの痕跡を残した。
 公的な沈黙によって、それらの痕跡はほとんど秘密の力をもった。
 1933年以降、こうした物語は選択し得るいずれかの話になった。飢饉に関する、情緒的に力強い「本当の歴史」か、公的な否認と並んで成立して大きくなる口伝えの伝承か。//
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 (04) 彼らは党が公的議論を統制するプロパガンダ国家で生きたけれども、ウクライナ内の数百万のウクライナ人は、選択し得るこの話を知っていた。
 分裂の感覚、私的な記憶と公的な記憶の乖離、民族的哀悼のうちににあったに違いない大きく裂けた穴。—これらは、ウクライナ人を数十年にわたって苦しめた。
 両親がDnipropetrovsk で飢餓によって死んだあと、Havrylo Prokopenko は、飢饉について考えるのを止めることができなかった。
 彼は学校のために、飢饉に関する物語をそれにふさわしい絵図つきで書いた。
 教師はその作業を褒めたけれども、捨てるように言った。彼が、そして自分が、面倒なことに巻き込まれるのを怖れたからだった。
 このことは彼に、何かが間違っている、という感情を残した。
 なぜ、飢饉のことに触れることができないのか?
 隠そうとしているソヴィエト国家とは何だ? 
 Prokopenko は、30年後に、地方のテレビ局で、「飢えて黒い人々」に関する一節を含む詩歌を何とか読むことができた。
 地方当局からの威嚇的な訪問がそのあとでつづいた。しかし、彼はいっそう確信するようになった。ソヴィエト連邦(the USSR)はこの悲劇について責任がある、と。(注5)//
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 (05) 記念する物が存在しないことで、Volodymyr Samoiliusk も苦悩した。
 彼はのちのナツィの占領を生き延びて第二次大戦で戦闘したけれども、飢饉の体験以上に悲劇的だと思えるものは何もなかった。
 記憶は数十年間彼にとどまり続け、彼は、飢饉が公式の歴史の中に現れるのを待ち続けた。
 1967年に彼は、1933年に関するソヴィエトのテレビ番組を観た。
 彼は画面を凝視して、記憶している恐怖に関する映像を待った。
 しかし、第一次五ヶ年計画の熱狂的英雄たち、メーデー行進、さらにその年からのサッカー試合すら、の画像は見たけれども、「おぞましい飢饉に関しては、一言も発せられなかった。」(注6)
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 (06) 1933年から1980年代の遅くまで、ウクライナ内部での沈黙は、全面的(total)だった。—瞠目すべき、痛ましい、そして複雑な例外はあったけれども。
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 第一節、終わり。

2521/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑦。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 試訳のつづき。序説(Introduction)・ウクライナ問題の最終回。
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 序説・ウクライナ問題④。
 (18) 工業化はロシア化への圧力も強めた。工場の建設はウクライナの諸都市に、ロシア帝国の至る所から外部者を送り込んだからだ。
 1917年までに、Kyiv の住民の5分の1だけがウクライナ語を話した。(19)
 炭鉱の発見と重工業の急速な発展は、とくにウクライナの東端地域にある鉱業と製造業の地域であるドンバス(Donbas)に劇的な影響を与えた。
 この地域の指導的な工業家はたいていはロシア人で、外国人が混じっていることは少なかった。
 ウェールズ人であるJohn Hughs は、元々は彼に敬意を表して「Yuzivka」と呼ばれ、今はDonetsk(ドネツク)として知られる都市の基礎を築いた。
 ロシア語はDonetsk の工場で使われる言語になった。
 ロシアとウクライナの労働者の間で抗争がしばしば発生し、ときには、「ナイフでの決闘という最も乱暴な形態」をとり、両者間の激闘となった。(20)//
 (19) Galicia にある帝国の境界付近の、オーストリア・ハンガリー帝国のウクライナ人とポーランド人の混住地域では、民族主義運動ははるかに小さかった。
 オーストリアはその帝国のウクライナ人に対して、ロシア帝国またはのちのソヴィエト連邦よりも、はるかに大きな自治を認めた。少なからず、ウクライナ人を(オーストリアの観点から)ポーランド人に対する有用な競争相手と見なしたからだった。
 1868年に、Liviv(リヴィウ)の愛国主義ウクライナ人が文化的社会団体のProsvita を設立し、これはやがてウクライナじゅうに多数の会員をもつに至った。
 1899年から、ウクライナ国民民主党(National Democratic P.)がGalicia でも自由に活動し、選出した代表者をウィーンの議会へと送った。
 今日まで、ウクライナの自立的社会団体(self-help society)の従前の本部は、Liviv にある最も印象的な19世紀の建築物の一つだ。
 この建物は、ウクライナ民族様式の装飾を〈Jugendstil〉(若者様式)の外観へと融合した壮麗なものだ。そして、ウィーンとガリツィア(Galicia)の完璧な合成物になっている。//
 (20) しかし、ロシア帝国内部ですら、1917年の革命前の数年間は、多くの点でウクライナにとって前向きだった。
 ウクライナの農民層は熱心に、20世紀の初めの帝国ロシアの近代化に参加した。
 彼らは、第一次大戦の直前に急速に、政治的意識に目覚め、帝国に懐疑的になった。
 農民反乱の波が、1902年にはウクライナとロシアの両方にまたがって勃発した。
 農民たちは、1905年革命でも大きな役割を果たした。
 それに続く騒乱は社会的不安の連鎖を生み、皇帝ニコライ二世を動揺させ、ウクライナにある程度の市民的、政治的権利をもたらした。その中には、公的生活の分野でウクライナ語を用いる権利もあった。(21)
 (21) ロシア、オーストリア・ハンガリーの両帝国が予期されないかたちで、それぞれ1917年と1918年に崩壊したとき、多くのウクライナ人は、ついに国家を設立することができる、と考えた。
 ハプスブルク家が支配していた領域では、この望みはすみやかに消失した。
 期間は短いが血まみれのポーランドとウクライナの軍事衝突は、1万5000のウクライナ人と1万のポーランド人の生命を奪った。そのあとで、最も重要な都市であるLiviv などの西部ウクライナの多民族地域は、近代のポーランドへと統合された。
 その状態は、1919年から1939年まで続いた。//
 (22) ペテルブルクでの1917年二月革命の後の状況は、もっと複雑だった。
 ロシア帝国の解体によって、権力は短い間、Kyiv のウクライナ民族運動の手に渡った。
 しかし、指導者の中には、民間人であれ軍人であれ誰一人、この国の権力について責任を担う心準備をしている者がいなかった。
 政治家たちが1919年にVersailles(ヴェルサイユ)に集まって新しい諸国家の境界線を引いたとき—その中には近代のポーランド、オーストリア、チェコ・スロヴァキアがあった—、ウクライナは国家に含まれないことになる。
 だがなおも、そのときは完全には失われていなかっただろう。
 Richard Pipes(リチャード・パイプス)が書いたように、1918年1月26日の独立宣言は「ウクライナでの国家形成の〈dénouement〉(結果)を示すものではなく、本当の始まりだった」。(22)
 独立した数ヶ月間の騒然状態と民族的一体性に関する活発な議論は、ウクライナを永久に変えることになっただろう。//
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 序説・ウクライナ問題、終わり。

2520/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑥。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 試訳のつづき。序説(Introduction)・ウクライナ問題。
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 序説・ウクライナ問題③。
 (12) 言語と農村地帯との間の結びつきは、ウクライナ民族運動はつねに強い農民的雰囲気をもった、ということをも意味した。
 ヨーロッパの他の部分と同様に、ウクライナの民族的覚醒は田園地帯の言語と習慣の再発見によって始まった。
 民俗学者と言語学者は、ウクライナ農民の芸術、詩、日常会話を記録した。
 国の学校では教えられなかったけれども、ウクライナ語は、一定範囲の反体制的な、反既得権益層のウクライナの作家や芸術家が選択する言語になった。
 ウクライナ語は公式の取引では用いられなかった。だが、私的な文書のやり取りや詩作で使われた。
 1840年に、Taras Shevchenko —1814年に農奴の孤児として出生—は、〈Kobzar〉—「吟遊詩人」の意味—を出版したが、これは、ウクライナの詩歌を最初に本当に素晴らしく収集したものだった。 
 Shevchenko の詩は、浪漫的なナショナリズムと農村地帯の理想的な像を社会的不公正に対する怒りと結びつけ、出現すべき多数の議論の基調となった。
 「Zapovit」(「遺言」)という最も有名な詩の一つで、彼はDnieper の河岸に埋葬されるよう頼んだ。
 「私を埋めよ。そして、あなたたちは立ち上がり、重い鎖を壊し、暴君の血で洗い、自由を獲得する。…」(13)
 農民層の重要性はまた、最初から、ウクライナの民族的覚醒は、人民主義(Populist)やのちにロシア語やポーランド語を話す商人、地主、貴族に対する「左翼」反対派と呼ばれることになるものと同義だったことを、意味した。
 この理由で、ウクライナの民族的覚醒は急速に力強くなり、1861年の皇帝アレクサンダー三世のもとでのロシア帝国の頃の農奴解放が続いた。
 農民層の自由は、実際には、ウクライナの自由のことであり、ロシアやポーランドの主人たちに対する一撃だった。
 より強いウクライナの一体性を目指す運動は、帝国の支配層はよく理解していたことだが、当時ですら、より大きい政治的かつ経済的な平等を求める運動だった。//
 (13) ウクライナの民族的覚醒は国家制度と結びつかなかったため、それはまた、初期の時代から、広汎な、自律的で自由意思による慈善団体の形成を通じて表現された。これは、いま我々が「市民社会」と称するものの初期の例だった。
 農奴解放後の短い期間、「ウクライナ愛国者」はウクライナ青年たちに、自立した学習グループの形成、雑誌や新聞の刊行、日曜学校を含む学校の設立、農民層の識字能力の拡大、を呼びかけた。
 民族的希望は、精神的自由、大衆の教育、農民層の上方可動性を求めることとなった。
 この意味で、ウクライナ民族運動は、最初から、西側の同様の運動の影響を受けており、西側のリベラリズムや保守主義とともに西側社会主義の要素を含んでいた。//
 (14) この短い期間は、続かなかった。
 ウクライナ民族運動が強くなり始めるとすぐに、モスクワは、他の民族運動とともに、それは帝国ロシアの統一性に対する潜在的な脅威だと感知した。
 ジョージア人、チェチェン人その他のグループが帝国内部での自治を追求したように、ウクライナ人はロシア語の優越性に挑戦した。また、ウクライナを「南ロシア」、民族的一体性を有しないたんなる地方、と叙述する歴史のロシア的解釈に対しても。
 彼らは、すでに経済的な影響力を得ていたときには、農民層の力をさらに強くしようとした。
 富裕で、より識字能力があり、うまく組織された農民たちは、大きな政治的権利をも要求する可能性があった。//
 (15) ウクライナ語が、第一の目標だった。
 1804年にロシア帝国最初の大きな教育改革が行われたとき、皇帝アレクサンダー一世は、いくつかの非ロシア語が新しい国立学校で使われるのを許したが、ウクライナ語は認められなかった。表向きは、それは「言語」ではなく一つの方言だ、というのが理由だった。(14)
 実際には、ロシア帝国の官僚は、ソヴィエトの継承者がそうだったように、この禁止を政治的に正当化することを—1917年までつづいた—、およびウクライナ語が中央政府にもたらす脅威を、完全に理解していた。
 キーフ総督のPodolia とVolyn は、1881年に、ウクライナ語と学校の教科書でそれを用いることは高等教育や、さらに立法府、裁判所、公行政でそれを使用することになり、そうして「多大の複雑さと統一したロシアに対する危険な変化」を生むことになる、と宣告した。(15)//
 (16) ウクライナ語の使用が制限されたことで、民族運動は大きな影響を受けた。
 そのことで、識字能力を持たない人々が広がる、という結果にもなった。
 ほとんど理解できないロシア語で教育された多数の農民たちは、上達することがなかった。
 20世紀初めのPoltava のある教師は、「ロシア語での勉強が強いられると、生徒たちは教えたことをすぐに忘れる」と嘆いた。
 別の者は、ロシア語学校の生徒たちは「やる気を失って」、学校に退屈するようになり、「フーリガン」になる、と報告した。(16)
 差別はまた、ロシア化も生じさせた。ウクライナに住む全ての者—ユダヤ人、ドイツ人、その他のウクライナ人などの少数民族—にとって、より上の社会的地位を得る方途は、ロシア語を話すことだった。
 1917年の革命まで、政府の仕事、専門的仕事および商業取引には、ウクライナ語ではなく、ロシア語での教育を受けていることが要求された。
 現実にこのことは、政治的、経済的または知的な志望をもつウクライナ人は、ロシア語での表現能力を必要とする、ということを意味した。//
 (17) ロシア政府はまた、ウクライナ民族運動が大きくなるのを妨げるために、「政治的不安定を生じさせない保障として…、市民的社会団体と政治団体のいずれも」から成るウクライナ人の組織を禁止した。(17)
 1876年、皇帝アレクサンダー二世は、ウクライナ語の書物と定期刊行物を非合法化し、劇場で、そして音楽劇の台本にすら、ウクライナ語を用いることを禁止する布令を発した。
 彼はまた、新しい自発的組織の結成を思いどどまらせるか禁止し、反対に、親ロシアの新聞や親ロシアの組織には助成金を交付した。
 ウクライナの報道機関やウクライナの市民的社会団体に対する明確な敵意は、のちのソヴィエト体制でも維持された。—さらにのちには、ソヴィエト後のロシア政府によっても。
 このように、先例はすでに19世紀の後半にあった。(18)//
 ——
 序説④へと、つづく。

2519/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑤。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年、初版,London)
 試訳のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
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 序説・ウクライナ問題②。
 (08) このような考え方の背後には、確固たる経済的根拠があった。
 ギリシャの歴史家のHerodotus 自身が、ウクライナの有名な「黒土」(black earth)、Dnieper河低地でとくに肥沃な土地について、こう書いた。
 「この堆積地沿いよりも穀物が大きく成長するところはない。穀種が播かれなければ、草が世界で最もよく生える。」(10)
 黒土地域は現代ウクライナのおよそ三分の二を覆い—ロシアとKazakhstan へと広がる—、比較的に温暖な気候と相俟って、ウクライナが毎年二回の収穫期をもつのを可能にしている。 
 「冬小麦」は秋に撒かれて、7月と8月に収穫される。春の穀物は4月と5月に植え付けられ、10月と11月に収穫される。
 ウクライナのきわめて肥沃な土地は、商業者の野望を掻き立てた。
 中世後半から、ポーランドの商人たちはウクライナの穀物を運んで、バルト海ルートで北方と取引した。
 ポーランドの聖職者や貴族は、今日の言葉を使えば起業地区を設定して、耕作してウクライナを開発する意欲のある農民に税や軍役を免除した。(11)
 貴重な資産を保有したいとの欲求は、しばしば植民地主義の論拠の背後にあった。
 ポーランド人もロシア人も、自分たちの穀倉地帯が独立した一体性をもつことを認めようとしなかった。
 それにもかかわらず、隣人たちが考えたこととは全く別に、分離して区別されるウクライナの自己認識(identity)が、現在のウクライナを構成する地域で形成された。
 中世の終わり頃からのち、この地域の人々は、つねにでなくともしばしば、ポーランドやロシアという占領する外国人とは区別される者として自分たちを認識する意識を共有した。
 ロシア人やベラルーシ人のように、ウクライナ人はその起源をキーフ公国の国王にたどり、偉大な東スラヴ文明の一部だと多くの者は自分たちを意識した。
 他の者たちは、自分たちは敗残者または反乱者だと考え、Zaporozhian コサックによる大反乱をとくに尊敬した。これは、Bohdan Khmelnytsky が率いて、17世紀にポーランドの支配に、そして18世紀初頭にロシアの支配に、抵抗したものだった。
 ウクライナのコサック—内部法をもつ準軍事組織である自治団体—は、自己一体性と不服の感覚を具体的な政治的目標に変えた最初のもので、ツァーリから大きな特権とある程度の自律性を獲得した。
 記しておくべきであるのは(確実にのちの世代のロシア人やソヴィエトの指導者は決して忘れなかった)、ウクライナのコサックは1610年と1618年のモスクワでの行進でポーランド軍に加わり、市の包囲攻撃に参加して、その当時のポーランド・ロシア間の対立が終わるの確実にし、少なくとも当時はポーランドの側に立っていた、ということだ。
 のちにツァーリは、ロシアへの忠誠を確保し続けるために、ウクライナ・コサックとロシア語を話すドン・コサックの両者に特別の地位を与えた。それによって、この両者は特別の自己一体性を保持することが認められた。
 これらがもつ特権によって、反抗しないことが保証された。
 しかし、Khmelnytsky とMazepa は、ポーランド人とロシア人の記憶に刻印を残した。ヨーロッパの歴史や文学に対しても同様だった。
 Voltaire はMazepa に関する報せがフランスに広がった後で、「ウクライナはつねに自由になろうと志してきた」と書いた。(12)//
 (09) 数世紀にわたる植民地支配のあいだに、ウクライナの多様な地域は多様な性格を得るに至った。
 東部ウクライナの定住者は、長くロシアに支配されていたが、ロシア語に少しだけ近いウクライナ語の一つを話した。
 彼らはまたロシア正教会派である傾向をもち、Byzantium から伝わった儀礼に従い、モスクワが指導した階層制のもとにあった。
 Volhynia、Podolia やGalicia 地方の定住者は、長くポーランドの支配のもとで生活し、18世紀末のポーランド分割の後では、オーストリア・ハンガリー帝国に支配された。
 彼らはウクライナ語のよりポーランド語的な範型を話し、ローマまたはギリシャのカトリックである傾向があった。正教会に似た儀礼を用いる信仰だったが、ローマ教皇の権威を尊重した。//
 (10) しかし、地域的勢力の境界はたびたび変更したため、上の両者を信仰する者がいたし、以前のロシアと以前のポーランドの境界を分ける両側には、今もいる。
 19世紀までに、イタリア人、ドイツ人、その他のヨーロッパ人が近代国家の国民だと自己を認識し始めたとき、ウクライナで「ウクライナ性」を議論する知識人たちは、正教派にもカトリック派にもいたし、「東部」と「西部」のウクライナのいずれにもいた。
 文法と正書法にある差異にもかかわらず、言語は地域を超えてウクライナを統一した。
 キリル文字のアルファベットを用いることで、ラテン・アルファベットで書かれるポーランド語と区別された。
 (一時期にハプスブルク家はラテン文字を導入しようとしたが、失敗した。) 
 キリル文字のウクライナ型はロシア語とも異なり、追加された文字も含めて違いを保ち、言語が近似しすぎるのを妨げた。//
 (11) ウクライナの歴史上は長く、ウクライナ語は主に田園地帯で話された。
 ウクライナがポーランドの、そしてロシア、オーストリア・ハンガリーの植民地だったとき、ウクライナの大都市は—トロツキーが観察したように—、植民地支配の中心地であり、ウクライナ農民層の大海の中でのロシア、ポーランド、またはユダヤの文化の島嶼部だった。
 20世紀に入っても、都市と農村部は言語によって区分された。たいていの都市住民はロシア語、ポーランド語またはYiddish (ユダヤ人の言葉の一つ)を話し、一方で地方のウクライナ人はウクライナ語を話した。ユダヤ人がYiddish を話せなければ、しばしば国と取引の言語であるロシア語が用いられた。
 農民たちは都市部を、富、資本主義、そして「外からの」—たいていはロシアの— 影響を受けたものと見なした。
 対照的に都市部のウクライナは、田園地帯を後進的で、未開だと考えた。//
 ——
 ③へと、つづく。

2518/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争④。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 緒言につづく、序説(Introduction)・ウクライナ問題、へ移る。
 ——
 序説・ウクライナ問題①。
 (01) ウクライナの地理はウクライナの運命を形づくった。
 Carpathian 山脈は南西部で境界を画した。しかし、国の北西部の穏やかな森林と野原では、軍隊の侵入を阻止することができなかったし、ましてや、東に開いた広原地帯ではそうだった。
 ウクライナの大都市は全て、東ヨーロッパ平原、国土のほとんどに広がる平地にある。—Dnipropetrovsk とOdessa、Donetsk とKharkiv、Poltava とCherkasy、そしてもちろん、古代の首都のKyiv。
 Nikolai Gogol は、ロシア語で書いたウクライナ人だったが、かつて、Dnieper 河がウクライナの中央を貫いて流れ、低地を形成している、と観察した。
 そこから、「河は中心から枝分かれして、一つならず境界に沿って流れ、隣国との自然の境界として役立っている」。
 このことは、政治的な帰結をもたらした。「山脈または海という自然の境界が一方の側にあったならば、ここに定住している人々は政治的な生活様式を保持して、分離した国家を形成していただろう。」(2)
 (02) 自然の境界が存在しないことは、なぜウクライナ人は20世紀の遅くまで主権をもつウクライナ国家を確立できなかったかを説明する助けになる。
 中世後半までに、明確なウクライナ語があった。その起源はSlavic で、関係はあったが、ポーランド語ともロシア語とも区別された。イタリア語とも関係はあったが、スペイン語やフランス語と区別された。
 ウクライナ人は、自分たちの食べ物、習慣、地方的伝統、自分たちの悪魔と英雄、伝説をもった。
 他のヨーロッパの民族のように、ウクライナの自己一体性(identity)の意識は、18世紀と19世紀のあいだに明瞭になった。
 しかし、その歴史のほとんどは、我々が今ウクライナと呼ぶ領域は、Ireland やSlovakia のように、他のヨーロッパの帝国の植民地(colony)だった。//
 (03) ウクライナ(Ukraine)—この言葉はロシア語とポーランド語で「境界地」を意味する—は、18世紀と20世紀のあいだ、ロシア帝国に帰属していた。
 その前は、同じ地域はポーランド、またはポーランド・リトアニア連邦に属した。後者は、1565年にリトアニア大公国を継承したものだ。
 さらに以前は、ウクライナ地域はキーフ大公国(Kyivan Rus' )の中心に位置した。これは、Slavic 種族とViking 貴族が9世紀に建てた中世国家だった。
 そして、この地域の記憶では、ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人がそろって自分たちの祖先だとするほとんど神話的な王国があった。//
 (04) 何世紀にもわたって、帝国軍隊がウクライナの地上で戦闘した。ときには、前線の両者の側がウクライナ語を話す兵団だった。
 ポーランドの軽騎兵が、今はKhotyn というウクライナの町を支配するために、1621年にトルコの精鋭部隊と戦った。
 ロシア皇帝の兵団は、1914年にGalicia 地方で、オーストリア・ハンガリー帝国の軍団と闘った。
 ヒトラー軍は、スターリン軍と、1941年と1945年のあいだに、Kyiv、Lviv(リヴィウ)、Odessa で衝突した。//
 (05) ウクライナ領域の支配を目ざす闘いには、つねに知的な要素があった。
 ヨーロッパ人がnation とナショナリズムの意味を論じ始めて以来ずっと、歴史家、文筆家、報道者、詩人、民族学者は、ウクライナの範囲とウクライナ人の性質について論じてきた。
 ポーランド人は、中世初期の最初の接触のときから、ウクライナ人は言語や文化が自分たちとは違っていることを、つねに承認した。ともに同じ国家の一部であったときですら。
 16-17世紀のポーランドの貴族の称号をもつウクライナ人の多くは、ローマ・カトリックではなく正教会にとどまった。
 ウクライナの農民はポーランド人が「Ruthenian」と呼ぶ言葉を話し、異なる習慣、異なる音楽、異なる食べ物をもつ人々としてつねに描写された。//
 (06) 帝国の全盛時にはモスクワの者たちは承認しようとはしたくなかったけれども、彼らも、ときどきは「南ロシア」または「小ロシア」と称したウクライナは自分たちの北方の故郷とは異なっていることを、本能的に感じていた。
 初期のロシア人旅行者のIvan Dolgorukov 公は、1810年に彼の一行がついに「ウクライナの境界を越えた」ときについて、こう書いた。
 「私の思いは(Bohdan)Khmelnytsky と(Ivan)Mazepa へ向かった」。—この二人は初期のウクライナの民族的指導者だった。
 「そして、消え失せた樹木の街路を思った。…どこも、例外なく。
 粘土の小屋があった、だが、他に施設は何もなかった。」(3)
 歴史家のSerhiy Bilemky は、19世紀のロシア人はしばしばウクライナに対して、北ヨーロッパ人がイタリアに対して抱いた父親的(paternalistic)思いを持っていた、と観察した。
 ウクライナは、理想的な選択し得るnation だった。ロシアと比べてより旧式だったが、同時に、より純粋で、より情緒的で、より詩的だった。(4)
 ポーランド人も、失った後でも長く「自分たちの」ウクライナの土地に対する郷愁に充ちた思いを残しつづけ、ロマンティックな詩や小説の主題にした。//
 (07) だがなお、違いを承認していても、ポーランド人もロシア人もときには、ウクライナnation の存在を傷つけ、または否定しょうとした。
 19世紀のロシア・ナショナリズムの指導的理論家のVissarion Berlinsky は、こう書いた。
 「小ロシアの歴史は、ロシアの歴史という本流に入ってくる支流のようなものだ。
 小ロシアはつねに支流であって、決して一つの人民(people)ではなく、ましてや国家(state)ではなかった。」(5)
 ロシアの学者と官僚層は、ウクライナ語を「全ロシア語の方言、または半方言、あるいは話し方の一つ」として扱ったのであり、「〈patois〉やそのような単語類には独立に存在する権利がない」。(6)
 ロシアの文筆家は、ウクライナ語を口語または農民の話し方を示すために用いた。(7)
 一方で、ポーランドの文筆家は、ウクライナの領域の東方に対する「空白」を強調する傾向があり、ウクライナ領土をしばしば「文明化されていない辺境で、自分たちが文化と国家の形成をもたらした」と叙述した。(8)
 ポーランド人は〈dzikie〉、「荒野」という表現を、東部ウクライナの空虚な土地を描写するために用いた。東部ウクライナ地方は、ポーランド人の民族的想像力では、アメリカで荒れた西部(Wild West)がもったような機能を果たした。(9)//
 ——
 序説②へと、つづく。

2517/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争③。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年、初版,London)。
 試訳のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。下線は試訳者。
 ——
 第二節②—つづき。
 (03) Marta Baziuk が率いるトロントのHolodomor 研究教育協会とLyudmyla Hrynevych が率いるウクライナのパートナー団体は、新しい研究への資金援助を継続している。
 若い研究者たちは、新しい研究方向も開いている。
 Daria Mattingly の飢えている農民から食料を没収した者たちの動機と背景に関する研究や、口述の歴史についてのTatiana Boriak の本は、いずれも傑出している。
 彼女たちはまた、この書物に対して貴重な研究を提供してくれた。
 西側の学者たちの研究も、新たな寄与になった。
 Lynne Viola の集団化とその後の農民反乱に関する雑誌上の研究は、1930年代についての感覚を変えた。
 Terry Martin は初めて、1932年秋にスターリンが下した決定を年月日に即して明らかにした。—そして、Timpthy Snyder とAndrea Graziosi は最初にこの研究の重要性を肯定した。
 Serhii Plokhii とHarvard の彼のチームは、飢饉の地図を作成してどのようにそれが起きたかをより十分に理解できるようにする、独特の努力を傾注し始めた。
 私はこれら全ての研究に、そしてある場合にはこの企図を大いに助けてくれた友情に、感謝したい。//
 --------
 第三節。
 (01) この書物が違う時代に執筆されていたならば、複雑な主題に対するこの短い緒言は、おそらくここで終わっていただろう。
 しかし、飢饉はウクライナ民族運動を破壊したのだから、またその運動は1991年に復活したのだから、さらに現代のロシアの指導者たちはウクライナ国家の正統性に対して今なお挑戦しているのだから、私はここで、飢饉に関する新しい歴史書の必要性を最初に2010年にHarvard ウクライナ研究所の同僚たちと議論した、と記しておく必要がある。
 Viktor Yanukovych が、ロシアの支持と後援を受けてウクライナの大統領に選出されたばかりだった。
 当時のウクライナは、ヨーロッパの他国にほとんど政治的な注目を払われなかった。そしてほとんどの新聞が全く報道しなかった。
 そうしたとき、1932-33年を新たに検討することが何らかの意味での政治的言明だと解釈される、と考える理由は何もなかった。//
 (02) 2014年の広場革命、Yanukovych の抵抗者狙撃決定と国外逃亡、ロシアの侵攻とクリミア併合、ロシアの東部ウクライナ侵攻とそれに付随したロシアのプロパガンダ。—私がこの書物を執筆している間に、これら全てがウクライナを予期しないかたちで、国際政治の中心に置いてしまった。
 私のウクライナ研究は実際に、この国の事態によって遅延した。この事態について私が書いたからでもあり、私のウクライナの仲間たちが起きていることに驚いて立ちすくんでいたからでもある。
 しかし、近年の事態によってウクライナは世界政治の中心にあるけれども、この書物はそれに対する反応として執筆されてはいない。
 ウクライナの何らかの政治家または政党の当否の論拠を示すものではないし、今日にウクライナで起きていることへの反応を書いたものでもない。
 そうではなく、新しい文書資料、新しい証言、先に一括して挙げたような優れた研究者たちによる新しい研究を利用して、飢饉の物語を描く試みだ。//
 (03) ウクライナ革命、ソヴェト式ウクライナ、ウクライナ人の集団弾圧とHolodomor は、現在の事態と関係性を持たない。
 反対だ。すなわち、これらは現在の事態の基礎にあってそれを説明する、きわめて重要な背景だ
 飢饉とその遺産は、現在のロシアとウクライナのそれぞれの自己認識(identity)、両者の関係、ともに有するソヴィエト体験に関する議論に対して、きわめて大きな役割を果たしている
 しかし、これらの議論を叙述したり当否を論評したりする前に、まず、かつて現実に何が起きたかを理解することが重要だ。//
 ——
 緒言、終わり。

2516/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争②。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 試訳のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
 ——
 緒言/第一節②。
 (09) まとめるならば、これら二つの政策—1933年の冬と春のHolodomor およびそれに続く数ヶ月のあいだのウクライナ知識人や政治的階層の抑圧—は、ウクライナのソヴィエト化をもたらした。すなわち、ウクライナの民族思想(national idee)の破壊と、ソヴィエトの一体性に対するウクライナ人の全ての挑戦の抑圧。
 「genocide(ジェノサイド)」という言葉の創設者のポーランド・ユダヤ人法律家のRaphael Lemkin は、この時期のウクライナについて、この彼の概念の「古典的事例」だと語った。
 「ジェノサイド、個人だけではなく文化や一つのnation の破壊の事例だ」。
 Lemkin が初めて使った語である「genocide」は、より狭い、より法学的な意味で用いられるようになった。
 この語はまた、論争を生じさせる試金石にも、ウクライナ内部の諸グループはむろんのこと、ロシア人とウクライナ人の両者によって、政治的な主張を行うために用いられる概念にも、なった。
 こうした理由で、「genocide」の一つとしてのHolodomor かに関する特別の考察が—Lemkin のウクライナとの関係や影響も含めて—この書物のエピローグの一部にあてられる。
 (10) この書物の中心的主題は、もっと具体的だ。1917年と1934年の間に、ウクライナで何が現実に起きたのか?
 とくに、1932-33年の秋、冬、春に何が起きたのか?
 どんな事態の連鎖が、どんな意識構造が、飢饉を招いたのか?
 誰に責任があるのか?
 どうすれば、この恐ろしい事象はウクライナとウクライナ民族運動の幅広い歴史に適合するのか?
 (11) 同様に重要だが、その後はどうなったか?
 ウクライナのソヴィエト化は飢饉で始まったのではなく、飢饉で終わったのでもない。
 ウクライナ知識人と指導者たちの逮捕は、1930年代を通じて継続した。
 それから半世紀以上、歴代のソヴィエト指導者たちは、戦後の暴動であれ1980年代の抗議運動であれどのような形をとろうと、ウクライナ民族主義を過酷に排斥し続けた。
 この時代の中で、ソヴィエト化はしばしばロシア化の形をとった。すなわち、ウクライナ語は格下げされ、ウクライナの歴史は教えられなかった。//
 (12) とりわけ、1932-33年の飢饉の歴史は教育されなかった。
 それどころか、1933年と1991年の間、ソヴィエト連邦は何らかの飢饉がかつて発生したこと自体を認めるのを、単直に拒否した。
 ソヴィエト国家は地方の資料文書を破壊して、死の記録が飢餓を示唆しないことを確実にし、何が起きたかを隠すために、公にされた統計データを変更すらした。(5) 
 ソヴィエト連邦が存続している間は、飢饉とそれに伴った抑圧の歴史について、十分な文書資料にもとづいて執筆するのは不可能だった。
 (13) しかし、1991年、スターリンが最も怖れたときが来た。
 ウクライナは、独立を宣言した。
 ソヴィエト同盟は、ウクライナが離脱する決定をしたことを一つの理由として、終わりを迎えた。
 主権あるウクライナが歴史上初めて誕生し、併せて新しい世代のウクライナの歴史家、文書管理者、報道記者、出版者が出現した。
 この人たちの努力のおかげで、1932-33年の飢饉に関する完全な歴史を語ることができる。//
 --------
 緒言/第二節①。
 (01) この書物は、1917年から、ウクライナ革命と1932-33年に弾圧されたウクライナ民族運動から、始まる。
 終わるのは、現在の、ウクライナの記憶に関する進行中の政策についての論争を語ってだ。
 この書物は、ウクライナでの飢饉に焦点を当てる。それはより広いソヴィエトの飢饉の一部ではあるが、特有の原因と結果をもつ。
 歴史家のAndrea Graziosi は、誰もユダヤ人またはジプシーを迫害したヒトラーに特殊な物語を伴う「ナツィの残忍性」と混同しはしない、と記した。
 同じ論理に従って、この書物は、1930-34年のソヴィエト全体の飢饉を論述するが—とくにKazakhstan と特定のロシア諸州でも多数の死亡者があった—、より直接的にはウクライナに特有の悲劇に焦点を合わせる。(6)//
 (02) この書物は、ウクライナでの四半世紀の学問研究を反映してもいる。
 Robert Conquest は1980年代初めに、飢饉について当時に利用できた公刊物の全てを編集し、1986年に、〈悲しみの収穫〉(The Harvest of Sorrow)という書物を出版した。この本は今でも、ソヴィエト同盟に関する出版物の画期をなすものだ。
 しかし、ソヴィエト連邦の終焉と主権国家ウクライナの出現から30年が経過し、口述の歴史と記憶を収集するいくつかの幅広い国民運動が、国全土からの数千の新しい証言を生んだ。(7)
 同じ時期に、Kyiv の公文書が—Moscow のそれと違って—公にされて簡単に利用できるようになった。
 ウクライナでの分類分けされていない資料の割合はヨーロッパで最も高いものの一つだ。
 ウクライナ政府の基金は学者たちに文書収集物の出版を奨励し、そのことで研究がより正確なものになっている。(8)
 ウクライナでの飢饉やスターリン時代に関するしっかりした学者たちは、再印刷された文書類や口述筆記史料類を含めて、多数の書物や単著を刊行してきた。そうした学者に、Olga Bertelsen、Hennadii Boriak、Vasyl Danylenko、Lyudmyla Hrynevych、Roman Krutsyk、Stanislav Kulchytsky、Yuri Mytsyk、Vasyl Marochko、Heorhii Papakin、Yuri Shapanoval、Volodymyr Serhiichuk、Oleksandra Veselova、Hennadii Yufimenko がいる。
 Olen Wolowyna と人口動態学者のチーム—Oleksander Hladun、Natalia Levchuk、Omelian Rudnytsky —は最近に、犠牲者の数を確定するという困難な仕事を始めた。
 Harvard のウクライナ研究所は、多くの学者とともに研究して、成果を発表し、出版してきている。//
 ——
 第二節②へとつづく。
 

2515/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争①。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 邦訳書は、たぶん存在しない。試訳に際して、一文ごとに改行し、段落の最初に元来はない数字番号を付す。〈〉で包むのは原文で斜字体(イタリック)になっている部分。
 この書の本文全体の内容・構成は、つぎのとおり。未読なので、訳には誤りがあり得る。
 ----
 緒言
 序説—ウクライナ問題。
 第1章・ウクライナ革命、1917年。
 第2章・反乱、1919年。
 第3章・飢饉と休止、1920年代。
 第4章・二重の危機、1927-29年。
 第5章・集団化—田園地帯での革命、1930年。
 第6章・反乱、1930年。
 第7章・集団化の失敗、1931-32年。
 第8章・飢饉決定、1932年—徴発、要注意人物名簿、境界。
 第9章・飢饉決定、1932年—ウクライナ化の終焉。
 第10章・飢饉決定、1932年—探索と探索者。
 第11章・飢餓—1933年の春と夏。
 第12章・生き残り—1933年の春と夏。
 第13章・その後。
 第14章・隠蔽。
 第15章・歴史と記憶の中のHolodomor。
 エピローグ・ウクライナ問題再考。
 ----
 さしあたり、緒言(Preface)から試訳してみる。
 ——
 緒言
 緒言/第一節①。
 (01) 警戒すべき兆候は、十分にあった。
 1932年の初春までに、ウクライナの農民は飢え始めていた。
 秘密警察の報告書やソヴィエト同盟じゅうの穀物栽培地域—北Caucases、Volga 地域、西Siberia—からの手紙が語っていたのは、空腹で膨らんだ子どもたち、草の葉や木の実を食べている家族、食料を探して家から逃亡する農民たち、だった。
 三月、医療委員団は、Odessa 近傍の村落の通りに死体が横たわっているのを発見した。
 遺体を埋葬する力強さを持つ者は、誰一人いなかった。
 別の村では、当局が死亡者の存在を外部者に隠そうとしていた。
 彼らは、村落訪問者の目により明らかになっているときですら、起こっていることを否定した。(1)
 (02) ある者は、説明を求めて、クレムリンに書き送った。
 「スターリン閣下、村民は餓えなければならないと定めるソヴィエト政府の法令がありますか?
 なぜなら、我々、集団農場労働者は、我々の農場で1月1日以降にパンの一切れも食べていないからです。…
 収穫はまだ四ヶ月も先にあって、餓死を宣告されているような状態で、我々はどのようにして社会主義的人民経済を建設することができるのですか?
 戦場で我々は、何のために死んだのですか?
 飢えるためですか? 我々の子どもたちが空腹の苦しみの中で死んでいくのを見るためですか?」(2)
 (03) 別の者は、ソヴィエト国家に責任があり得ると考えるのは不可能だと思った。
 「毎日、村落で、10から20の家族が飢饉で死んでいる。子どもたちは逃げ出し、鉄道駅は逃亡する村民で溢れている。
 農村地帯には、馬も家畜も残っていない。…
 ブルジョアジーはここで、本当の飢饉を生み出した。それは、農民階級全体をソヴィエト政府に対抗させようとする資本主義者の計画の一部だ。」(3) 
 (04) しかし、ブルジョアジーは飢饉を作り出さなかった。
 農民に土地を放棄させて集団農場に加わるようにし、「kulaks」すなわち富裕な農民を郷土から追い立て、そのあとに混乱を続かせたのは、ソヴィエト同盟の残忍な決定によるものだった。
 これらの政策の全てについて責任があるのは、究極的にはJoseph Stalin、ソヴィエト共産党総書記、だった。
 スターリンは、農村地帯を飢餓の縁に追い込んだ。
 1932年の春と夏を通して、多数の彼の同僚たちはソヴィエト連邦じゅうから、危機にあるとする切迫した連絡文を発した。
 ウクライナの共産党指導者たちはとくに絶望的で、そのうち何人かは、助けを乞い求める長い手紙をスターリンに書き送った。
 (05) 1932年の夏遅くには、彼らの多くは、さらに大きな悲劇の発生はまだ避けられる、と考えた。
 体制は、1921年のかつての飢饉のときに行ったように、国際的な支援を求めることができただろう。
 また、穀物輸出を停止するか、制裁的な穀物徴発を全て中止するかを、できただろう。
 飢餓地域の農民たちに援助の手をさし延べることもできただろう。
 —そして、ある程度は、実際にそうした。しかし、とても十分なものではなかった。
 (06) それどころか、1932年秋に、ソヴィエト政治局、つまりソヴィエト共産党のエリート指導層は、ウクライナの農村地帯での飢饉を拡大し深化させ、同時に農民が食料を求めて共和国を出るのを妨げる一連の決定を下した。
 危機が高まったとき、警察官と党活動家の組織立ったチームは、空腹と恐怖および多数の憎悪と策略に満ちた文章に掻き立てられて、農民たちの家屋内に入り、食べられる全てのものを奪った。ジャガイモ、ビート、カボチャ、大豆、エンドウ豆、釜戸にある全て、食器棚にある全て、農場用の家畜、ペット。//
 (07) 結果は、大惨害(catastrophe)だった。ソヴィエト同盟全体で、少なくとも500万の人々が、1931年と1934年の間に、飢え死にした。
 その中に、390万のウクライナの人々がいた。
 この規模を承認するに際して、当時およびのちの移民たち(émigré)の出版物では、1932-33年の飢饉は〈Holodomor〉と表現されている。この言葉は、飢餓を示すウクライナ語—〈holod〉—と絶滅(extermination)—〈mor〉—に由来していた。(4)
 (08) しかし、飢饉は物語の半分にすぎなかった。
 農民たちが田園地帯で死んでいる間に、ソヴィエト秘密警察は同時に、ウクライナの知識人や政治的エリートたちに対する攻撃を開始した。
 飢饉が広がるとともに、ウクライナの知識人、教授たち、博物館員、作家、画家、聖職者、神学者、公務員および官僚層に対して誹謗し、これらを抑圧する宣伝活動が始まった。
 1917年6月から数ヶ月存在した、短命のウクライナ人民共和国に関係した者は全員が、ウクライナ語またはウクライナの歴史を奨励した者は全員が、独立した文学的または芸術的経歴をもつ者は全員が、公的に非難され、収監され、あるいは強制労働収容所に送られるか処刑された。
 Mykola Skrypnyk、最も著名なウクライナ共産党の指導者の一人は、起きていることを見るに耐え切れず、1933年に自殺した。
 彼だけでは、なかった。
 ——
 ②へと、つづく。
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