Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
第15章の試訳のつづき。最後の第六節。
——
第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
第六節。
(01) 飢饉の16周年にあたる1993年の秋は、これまでとは違っていた。
二年前に、ウクライナは初代の大統領を選出し、圧倒的に独立賛成を票決した。
政府がつづいて新しい統合条約に署名するのを拒んだことは、ソヴィエト同盟の解体を早めた。
ウクライナ共産党は、権力を放棄する前の最後の記憶に残ることとして、1932-33年飢饉の責任は「スターリンとその親しい側近が追求した犯罪過程」にあるとする決議を採択した。(注73)
Drach とOliinyk は他の知識人たちと合同してRukh という独立の政党を創立した。これは、1930年代初め以降で初めて民族運動を合法的に宣明したものだった。
歴史上初めて、ウクライナは主権国家となり、それとして世界のほとんどから承認された。//
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(02) ウクライナは主権国家として、1993年の秋までに、自らの歴史を自由に議論し、記念した。
入り混じった動機から、以前の共産主義者と以前の反対派はみんな、熱心に語った。
Kyiv では、政府が一連の公的な行事を組織した。
9月9日、副首相は学者の会議を開き、飢饉を記念することの政治的な意義を強調した。
彼は聴衆にこう言った。「独立したウクライナだけが、あのような悲劇がもう二度と繰り返されないことを保障することができる」。
それまでにウクライナで広く知られて尊敬されていた人物のJames Mace も、その場にいた。
彼もまた、政治的結論を導き出していた。「この記念行事が、ウクライナ人が政治的混乱と隣国への政治的依存の危険性を思い出す助けとなることを、希望したい」。
従前の共産党政治局員である大統領のLeonid Kravchuk も、こう語った。
「統治の民主主義的形態は、あのような災難から人々を守る。
かりに独立を失えば、我々は永久に、経済的、政治的、文化的にはるかに立ち遅れることを余儀なくされるだろう。
最も重要なことは、そうなってしまえば、我々はいつも、わが歴史上のあの恐ろしい時代を繰り返す可能性に直面するだろう、ということだ。外国勢力によって計画された飢饉も含めて。」(注74)//
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(03) Rukh の指導者のIvan Drach は、飢饉の意義をより広範囲に承認することを呼びかけた。彼は、ロシア人が「悔い改める」こと、罪責を承認するドイツ人の例に倣うこと、を要求した。
彼は直接にホロコーストに言及し、ユダヤ人は「全世界にその罪を彼らの前で認めるように迫った」ととくに述べた。
全てのウクライナ人が犠牲者だったと彼は主張しなかったけれども—「ボルシェヴィキ略奪者はウクライナで、ウクライナ人も動員した」—、ナショナリスト的響きを強調した。
「ウクライナ人の意識を統合する部分になっている第一の教訓は、ロシアは、ウクライナというnation の全面的な破壊にしか関心を持ってこなかったし、今後も持たないだろう、ということだ。」(注75)//
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(04) 儀式は、週末までつづいた。
黒く長い旗が、政府の建物から垂らされた。
数千の人々が記念行事のために、聖ソフィア大聖堂の外側に集まった。
だが、最も感動的な儀式は、自発的なものだった。
多数の人々が、Kyiv の中央大通りであるKhreshchatyk に集まった。その通り沿いの三ヶ所に設置された掲示板に、彼らは個人的な文書や写真を載せていた。
祭壇が一つ、途中に設置されていた。
訪問者たちは、そのそばに、花やパンを残した。
ウクライナじゅうからやって来た市民指導者や政治家たちは、新しい記念碑の脚元に花輪を置いた。
何人かの人々は、土を入れた壺を持ってきた。—飢饉犠牲者たちの巨大な墓地から取ってきた土壌だった。(注76)//
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(05) そこにいた人々には、その瞬間は確実なものと感じられただろう。
飢饉は公的に承認され、記憶された。
それ以上だった。ロシア帝国による植民地化の数世紀後に、ソヴィエトによる抑圧の数十年後に、主権あるウクライナで、飢饉の存在が承認され、記憶された。
良かれ悪しかれ、飢饉の物語はウクライナの政治と現代文化の一部になった。
子どもたちは、今では学校でそれを勉強することになる。
学者たちは公文書館で、物語全体の資料を集めることになる。
記念碑が建てられ、書物が発行されることになる。
理解、解釈、許容、論述、そして哀悼の長い過程が、まさに始まろうとしていた。//
——
第15章全体が、終わり。
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
第15章の試訳のつづき。最後の第六節。
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第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
第六節。
(01) 飢饉の16周年にあたる1993年の秋は、これまでとは違っていた。
二年前に、ウクライナは初代の大統領を選出し、圧倒的に独立賛成を票決した。
政府がつづいて新しい統合条約に署名するのを拒んだことは、ソヴィエト同盟の解体を早めた。
ウクライナ共産党は、権力を放棄する前の最後の記憶に残ることとして、1932-33年飢饉の責任は「スターリンとその親しい側近が追求した犯罪過程」にあるとする決議を採択した。(注73)
Drach とOliinyk は他の知識人たちと合同してRukh という独立の政党を創立した。これは、1930年代初め以降で初めて民族運動を合法的に宣明したものだった。
歴史上初めて、ウクライナは主権国家となり、それとして世界のほとんどから承認された。//
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(02) ウクライナは主権国家として、1993年の秋までに、自らの歴史を自由に議論し、記念した。
入り混じった動機から、以前の共産主義者と以前の反対派はみんな、熱心に語った。
Kyiv では、政府が一連の公的な行事を組織した。
9月9日、副首相は学者の会議を開き、飢饉を記念することの政治的な意義を強調した。
彼は聴衆にこう言った。「独立したウクライナだけが、あのような悲劇がもう二度と繰り返されないことを保障することができる」。
それまでにウクライナで広く知られて尊敬されていた人物のJames Mace も、その場にいた。
彼もまた、政治的結論を導き出していた。「この記念行事が、ウクライナ人が政治的混乱と隣国への政治的依存の危険性を思い出す助けとなることを、希望したい」。
従前の共産党政治局員である大統領のLeonid Kravchuk も、こう語った。
「統治の民主主義的形態は、あのような災難から人々を守る。
かりに独立を失えば、我々は永久に、経済的、政治的、文化的にはるかに立ち遅れることを余儀なくされるだろう。
最も重要なことは、そうなってしまえば、我々はいつも、わが歴史上のあの恐ろしい時代を繰り返す可能性に直面するだろう、ということだ。外国勢力によって計画された飢饉も含めて。」(注74)//
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(03) Rukh の指導者のIvan Drach は、飢饉の意義をより広範囲に承認することを呼びかけた。彼は、ロシア人が「悔い改める」こと、罪責を承認するドイツ人の例に倣うこと、を要求した。
彼は直接にホロコーストに言及し、ユダヤ人は「全世界にその罪を彼らの前で認めるように迫った」ととくに述べた。
全てのウクライナ人が犠牲者だったと彼は主張しなかったけれども—「ボルシェヴィキ略奪者はウクライナで、ウクライナ人も動員した」—、ナショナリスト的響きを強調した。
「ウクライナ人の意識を統合する部分になっている第一の教訓は、ロシアは、ウクライナというnation の全面的な破壊にしか関心を持ってこなかったし、今後も持たないだろう、ということだ。」(注75)//
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(04) 儀式は、週末までつづいた。
黒く長い旗が、政府の建物から垂らされた。
数千の人々が記念行事のために、聖ソフィア大聖堂の外側に集まった。
だが、最も感動的な儀式は、自発的なものだった。
多数の人々が、Kyiv の中央大通りであるKhreshchatyk に集まった。その通り沿いの三ヶ所に設置された掲示板に、彼らは個人的な文書や写真を載せていた。
祭壇が一つ、途中に設置されていた。
訪問者たちは、そのそばに、花やパンを残した。
ウクライナじゅうからやって来た市民指導者や政治家たちは、新しい記念碑の脚元に花輪を置いた。
何人かの人々は、土を入れた壺を持ってきた。—飢饉犠牲者たちの巨大な墓地から取ってきた土壌だった。(注76)//
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(05) そこにいた人々には、その瞬間は確実なものと感じられただろう。
飢饉は公的に承認され、記憶された。
それ以上だった。ロシア帝国による植民地化の数世紀後に、ソヴィエトによる抑圧の数十年後に、主権あるウクライナで、飢饉の存在が承認され、記憶された。
良かれ悪しかれ、飢饉の物語はウクライナの政治と現代文化の一部になった。
子どもたちは、今では学校でそれを勉強することになる。
学者たちは公文書館で、物語全体の資料を集めることになる。
記念碑が建てられ、書物が発行されることになる。
理解、解釈、許容、論述、そして哀悼の長い過程が、まさに始まろうとしていた。//
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第15章全体が、終わり。