Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
= B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
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第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
第一節・レーニン教(the Lenin Cult)②。
(06) レーニンは、写真家 Gustav Klutsis(1895-1938)の好みの客体だった。
Klutsis は、アヴァン・ギャルドが幾何学的様式で描いていた1920年にはすでに、プロパガンダには画像が必要だ、と主張していた。
彼のモンタージュ写真は、巨大な人物群で覆われていた。それは、新しい世界は社会主義で創造されるという、赤裸々に視覚的に訴えるイメージを描いていた。
「全国土の電化」(1920年)は、地球にまたがり、電力塔を運ぶ巨大なレーニンの風貌を捉えている。(注11)
Klutsis は、レーニンに捧げる一連のモンタージュ写真を製作した(一つはMayakovsky の「ウラジミール・イリイチ・レーニン」の出版本に使われた)。また、「レーニンと子どもたち」と題する本の挿入画像を描いた。
Klutsis は、「レーニンは生きている!」を証明すべく、群衆の光景にレーニンの肖像を挿入した。例えば、1927年のモスクワ・全同盟オリンピックでの競技者たちの中に。
彼は圧力をかけられて第一次五カ年計画の初期の集団的人物像を描いたと言われたが、それでもなお、レーニンおよび(または)スターリンは、何らかのかたちで描かれた。//
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(07) レーニンの遺体を保存すると決定したことは、聖人は腐敗しないとのロシア人の信仰に入り込んだ。そして、異なる次元では、ニーチェ/Fedorov の不死の超人という考え方に入り込んだ。
遺体が腐朽し始めたとき、不朽化委員会は防腐処理を行なうと決定した。
スターリンとKrasinは、彼は以前はVperedist〔レーニンに批判的な一派〕でFedorov を尊敬していたのだったが、この委員会を指揮した。
防腐処理された遺体が1924年8月に展示されたとき、党のプレスはソヴィエト科学の専門性の高さを自慢し、手続や遺体に関して奇蹟は何もないことを明らかにしようとした。
それは、霊験のある遺物ではなかった。
暗黙のうちに、ソヴィエトの科学は、キリスト教だけが約束できたもの—人の不死—を達成していたのだろう。
偉大な人物だけが復活するというKrasin の信念については、何も語られなかった。//
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(08) 職業は技師であるKrasin は、爆発物を製造し、1905-7年には密輸入と「収奪」に従事していた。そして、Bogdanov やスターリンと緊密になって活動していた。(注12)
Krasin は、Granat 百科辞典のための自伝的小論で、Vperedに言及したり自分がレーニンに同意しなかったことを記すことをしなかった。
監獄でドイツ語を学習したこと、GoetheやSchiller のほとんど全ての著作を原語で読んだこと、「Schopenhauer とKant を発見し、Mill の論理とWundt の心理学を全般的に研究した」こと(これは神話の原型の考え方を含んでいた)、は記した。(注13)
ニーチェに言及するのは賢明ではなかっただろう。だが、広く読書していたKrasin は、確実に、ニーチェの思想をよく知っていた。//
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(09) Krasin は1920年に、「科学が全能になるときが来るだろう、科学は死んだ有機体を再生させることができるだろう」と予言していた。
彼は同様に、「科学と技術の全ての力を使った人類の解放が、偉大な歴史的人物を復活させることができるときが来るだろう」ことを確実視していた。(注14)
レーニンは、明白な選択肢だった。
Krasin は1924年2月に、レーニンの墓標の世界的重要性はMecca やJerusalem を上回ると主張し、プレス、労働者や党の集会で、大々たるプロパガンダ運動の一つとして聖廟に関する議論を行なうように迫った。
彼はすでに、レーニンを記念する祝祭の周りに民衆の想像力を動員する運動の始まりとして、聖廟の設計コンペをすることを発表していた。//
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(10) Krasin が望んだのは、聖廟に演説者の講壇を設けることだった。これは、聖廟を劇場型寺院に変えるだろう(Ivanov の考え)。
勝利した設計案は、これを含んでいなかった。しかし、聖廟は全く同様に機能した。
レーニン聖廟は、世界の共産主義の中心たる神宮になった。
構築主義芸術家のVladimir Tatlin(1885-1953)は、一つの巨大な講堂、ラジオ局と二、三百の電話機を備えた一つの情報官署をもつ建築物を造る、そのような工学技術の勝利を聖廟が示すことを願った。
Malevich は、レーニンの遺体を立方体(cube)(四次元の象徴)の中に置くことを提案した。そして、「活動する全てのレーニン主義者は自宅に、カルトを象徴する物質的基盤を設けるべく立方体を置くべきだ」と言った。(注15)
彼は、音楽と詩を備えた完全なカルトを、ロシアの家庭に聖像(icon)の間の代わりにレーニンの間が設けられることを、思い描いた。
立方体(cube)は「ピラミッドの力」をもつソヴィエトの装具になるだろう。Giza の巨大ピラミッドの神秘さをもつ民衆の熱狂物に。//
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(11) 勝利した建築家のAleksei Shchusev(1873-1941)も、聖廟を立法体の形で建築することを提案した。
彼の最初の素描の一つには実際に、三つの立方体があった。これは、聖三位一体神を近代主義的に表現したものだった。
彼は革命以前は教会を設計しており、世界の建築運動とも関係していた。
Shchusev は1905年に、教会建築家たちに対して、中世のロシアの芸術の「美しさと真摯さ」を「創造的に手本にする」ことを要求した。「古い形態を模写して修正する—これは堕落だ—ではなく、民衆と神の間の親交の場所という昔の考え方をかつてと全く同じように美しくかつ真摯に表現する新しい形態を創造する」のだ。(注16)
ソヴィエトの建築分野の政界で、Shchusev はつねに、新古典派の立場にいた。しかし、彼はまた、建築家は「新しいロマン主義を、革命的熱狂のロマン主義を」表現しなければならない、とも公言した。(注17)
聖廟についてのShchusev の完璧な簡潔さは、精神の上では近代主義的だった。
それは結局のところは、立方体だった。
最初の霊廟は、木材で造られた。
それが公開されたあとすみやかに、石製の聖廟作りが発表された。
設計のためのコンペがもう一回行なわれ、Shchusev が勝利した。
建築家のKonstantin Melenikov(1890-1974)は、石棺の意匠についての権利を得た。
建設は1929年7月に始まり、1930年10月、この計画についてスターリンに関心があったために、予定よりもほとんど4年前に、完成した。//
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(12) レーニン・カルトは、学問に対して大きな影響を与えた。
1923年には、レーニンの著作物を研究するためのレーニン研究所、レーニン博物館が創立された。
モスクワ大学でのレーニン主義のセミナー、党とレーニン主義に関する諸講座が、1924-25年に設けられた。
やがてボルシェヴィキおよび非ボルシェヴィキの学者や党活動家たちは、彼らの見解をレーニンの適切な引用でもって防御するようになった。こうして、レーニンが何気なくふと語った言葉は、ドグマ(dogma、教条)に変わった。//
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第7章第一節、終わり。
= B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
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第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
第一節・レーニン教(the Lenin Cult)②。
(06) レーニンは、写真家 Gustav Klutsis(1895-1938)の好みの客体だった。
Klutsis は、アヴァン・ギャルドが幾何学的様式で描いていた1920年にはすでに、プロパガンダには画像が必要だ、と主張していた。
彼のモンタージュ写真は、巨大な人物群で覆われていた。それは、新しい世界は社会主義で創造されるという、赤裸々に視覚的に訴えるイメージを描いていた。
「全国土の電化」(1920年)は、地球にまたがり、電力塔を運ぶ巨大なレーニンの風貌を捉えている。(注11)
Klutsis は、レーニンに捧げる一連のモンタージュ写真を製作した(一つはMayakovsky の「ウラジミール・イリイチ・レーニン」の出版本に使われた)。また、「レーニンと子どもたち」と題する本の挿入画像を描いた。
Klutsis は、「レーニンは生きている!」を証明すべく、群衆の光景にレーニンの肖像を挿入した。例えば、1927年のモスクワ・全同盟オリンピックでの競技者たちの中に。
彼は圧力をかけられて第一次五カ年計画の初期の集団的人物像を描いたと言われたが、それでもなお、レーニンおよび(または)スターリンは、何らかのかたちで描かれた。//
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(07) レーニンの遺体を保存すると決定したことは、聖人は腐敗しないとのロシア人の信仰に入り込んだ。そして、異なる次元では、ニーチェ/Fedorov の不死の超人という考え方に入り込んだ。
遺体が腐朽し始めたとき、不朽化委員会は防腐処理を行なうと決定した。
スターリンとKrasinは、彼は以前はVperedist〔レーニンに批判的な一派〕でFedorov を尊敬していたのだったが、この委員会を指揮した。
防腐処理された遺体が1924年8月に展示されたとき、党のプレスはソヴィエト科学の専門性の高さを自慢し、手続や遺体に関して奇蹟は何もないことを明らかにしようとした。
それは、霊験のある遺物ではなかった。
暗黙のうちに、ソヴィエトの科学は、キリスト教だけが約束できたもの—人の不死—を達成していたのだろう。
偉大な人物だけが復活するというKrasin の信念については、何も語られなかった。//
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(08) 職業は技師であるKrasin は、爆発物を製造し、1905-7年には密輸入と「収奪」に従事していた。そして、Bogdanov やスターリンと緊密になって活動していた。(注12)
Krasin は、Granat 百科辞典のための自伝的小論で、Vperedに言及したり自分がレーニンに同意しなかったことを記すことをしなかった。
監獄でドイツ語を学習したこと、GoetheやSchiller のほとんど全ての著作を原語で読んだこと、「Schopenhauer とKant を発見し、Mill の論理とWundt の心理学を全般的に研究した」こと(これは神話の原型の考え方を含んでいた)、は記した。(注13)
ニーチェに言及するのは賢明ではなかっただろう。だが、広く読書していたKrasin は、確実に、ニーチェの思想をよく知っていた。//
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(09) Krasin は1920年に、「科学が全能になるときが来るだろう、科学は死んだ有機体を再生させることができるだろう」と予言していた。
彼は同様に、「科学と技術の全ての力を使った人類の解放が、偉大な歴史的人物を復活させることができるときが来るだろう」ことを確実視していた。(注14)
レーニンは、明白な選択肢だった。
Krasin は1924年2月に、レーニンの墓標の世界的重要性はMecca やJerusalem を上回ると主張し、プレス、労働者や党の集会で、大々たるプロパガンダ運動の一つとして聖廟に関する議論を行なうように迫った。
彼はすでに、レーニンを記念する祝祭の周りに民衆の想像力を動員する運動の始まりとして、聖廟の設計コンペをすることを発表していた。//
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(10) Krasin が望んだのは、聖廟に演説者の講壇を設けることだった。これは、聖廟を劇場型寺院に変えるだろう(Ivanov の考え)。
勝利した設計案は、これを含んでいなかった。しかし、聖廟は全く同様に機能した。
レーニン聖廟は、世界の共産主義の中心たる神宮になった。
構築主義芸術家のVladimir Tatlin(1885-1953)は、一つの巨大な講堂、ラジオ局と二、三百の電話機を備えた一つの情報官署をもつ建築物を造る、そのような工学技術の勝利を聖廟が示すことを願った。
Malevich は、レーニンの遺体を立方体(cube)(四次元の象徴)の中に置くことを提案した。そして、「活動する全てのレーニン主義者は自宅に、カルトを象徴する物質的基盤を設けるべく立方体を置くべきだ」と言った。(注15)
彼は、音楽と詩を備えた完全なカルトを、ロシアの家庭に聖像(icon)の間の代わりにレーニンの間が設けられることを、思い描いた。
立方体(cube)は「ピラミッドの力」をもつソヴィエトの装具になるだろう。Giza の巨大ピラミッドの神秘さをもつ民衆の熱狂物に。//
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(11) 勝利した建築家のAleksei Shchusev(1873-1941)も、聖廟を立法体の形で建築することを提案した。
彼の最初の素描の一つには実際に、三つの立方体があった。これは、聖三位一体神を近代主義的に表現したものだった。
彼は革命以前は教会を設計しており、世界の建築運動とも関係していた。
Shchusev は1905年に、教会建築家たちに対して、中世のロシアの芸術の「美しさと真摯さ」を「創造的に手本にする」ことを要求した。「古い形態を模写して修正する—これは堕落だ—ではなく、民衆と神の間の親交の場所という昔の考え方をかつてと全く同じように美しくかつ真摯に表現する新しい形態を創造する」のだ。(注16)
ソヴィエトの建築分野の政界で、Shchusev はつねに、新古典派の立場にいた。しかし、彼はまた、建築家は「新しいロマン主義を、革命的熱狂のロマン主義を」表現しなければならない、とも公言した。(注17)
聖廟についてのShchusev の完璧な簡潔さは、精神の上では近代主義的だった。
それは結局のところは、立方体だった。
最初の霊廟は、木材で造られた。
それが公開されたあとすみやかに、石製の聖廟作りが発表された。
設計のためのコンペがもう一回行なわれ、Shchusev が勝利した。
建築家のKonstantin Melenikov(1890-1974)は、石棺の意匠についての権利を得た。
建設は1929年7月に始まり、1930年10月、この計画についてスターリンに関心があったために、予定よりもほとんど4年前に、完成した。//
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(12) レーニン・カルトは、学問に対して大きな影響を与えた。
1923年には、レーニンの著作物を研究するためのレーニン研究所、レーニン博物館が創立された。
モスクワ大学でのレーニン主義のセミナー、党とレーニン主義に関する諸講座が、1924-25年に設けられた。
やがてボルシェヴィキおよび非ボルシェヴィキの学者や党活動家たちは、彼らの見解をレーニンの適切な引用でもって防御するようになった。こうして、レーニンが何気なくふと語った言葉は、ドグマ(dogma、教条)に変わった。//
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第7章第一節、終わり。