だいぶ前のことだが、10年もは経っていない。
4月初日、ある大学で、新任の教員と職員との合同の会合があった。
当該大学の理念・歴史とか身分取扱い・福利厚生等の共通する部分について、当局からの説明があったわけだ。
そのとき、冒頭だったか、休憩を挟んでの最初だったか、出席者たち各自の自己紹介が行われた。
教員から始まり、数の上では少数の事務職員へと移って数人め、一人の女性が起立して、真っ直ぐ前を向いて(誰にも視線を向けることなく)一気に、こう喋った。
「〜(氏名)です。東京大学大学院教育学研究科前期課程修了、修士論文題目、〜。…」
ほとんどそれだけ言って、彼女は着席した。
少しは異様な印象を本人以外は受けたのではないか。私も、呆気に取られた感があった。
教員も職員も、この女性を除いて誰も、自分の学歴(出身大学等)までは語らなかったし、自己紹介前にそうするよう要請されてもいなかった。
すっくと立って、一人だけ一気に「東京大学大学院教育学研究科前期課程修了、修士論文題目、〜。…」
この人は、いったい何を言いたかったのだろう。
自分は、そういう<高学歴>なんですよ、と言いたかった、あるいは自慢したかった、あるいはそれゆえの特別視を求めた。
しかし、当該大学の事務職員としての仕事をするに際して、とくに新人教員たちに自分の「学歴」を明言しておくことに、どういう意味があったのだろう。それに、その学歴のゆえに当該大学の職員に採用されたのだとは、(証拠はないが)到底思えなかった。
24歳か、25歳。この人にとって、自分の学歴は誰もが認める輝かしいもので、誇らしいものだった、のだろう。
しかし、空気を読めないという以上に、バカだ。
まだ若いからよかった。30歳をすぎ、40歳をすぎ、<私は(オレは)〜大学・大学院出身なんだぞ>と知り合う人ごとにわざわざ言っていたのでは、狂人だと思われかねない。
だが、そのような人物の存在が全く皆無だとは思えないところに、日本の現在の異様さの一面がある。そして、健全な物事の推移と議論の進行を妨げる原因の一つになっている。
4月初日、ある大学で、新任の教員と職員との合同の会合があった。
当該大学の理念・歴史とか身分取扱い・福利厚生等の共通する部分について、当局からの説明があったわけだ。
そのとき、冒頭だったか、休憩を挟んでの最初だったか、出席者たち各自の自己紹介が行われた。
教員から始まり、数の上では少数の事務職員へと移って数人め、一人の女性が起立して、真っ直ぐ前を向いて(誰にも視線を向けることなく)一気に、こう喋った。
「〜(氏名)です。東京大学大学院教育学研究科前期課程修了、修士論文題目、〜。…」
ほとんどそれだけ言って、彼女は着席した。
少しは異様な印象を本人以外は受けたのではないか。私も、呆気に取られた感があった。
教員も職員も、この女性を除いて誰も、自分の学歴(出身大学等)までは語らなかったし、自己紹介前にそうするよう要請されてもいなかった。
すっくと立って、一人だけ一気に「東京大学大学院教育学研究科前期課程修了、修士論文題目、〜。…」
この人は、いったい何を言いたかったのだろう。
自分は、そういう<高学歴>なんですよ、と言いたかった、あるいは自慢したかった、あるいはそれゆえの特別視を求めた。
しかし、当該大学の事務職員としての仕事をするに際して、とくに新人教員たちに自分の「学歴」を明言しておくことに、どういう意味があったのだろう。それに、その学歴のゆえに当該大学の職員に採用されたのだとは、(証拠はないが)到底思えなかった。
24歳か、25歳。この人にとって、自分の学歴は誰もが認める輝かしいもので、誇らしいものだった、のだろう。
しかし、空気を読めないという以上に、バカだ。
まだ若いからよかった。30歳をすぎ、40歳をすぎ、<私は(オレは)〜大学・大学院出身なんだぞ>と知り合う人ごとにわざわざ言っていたのでは、狂人だと思われかねない。
だが、そのような人物の存在が全く皆無だとは思えないところに、日本の現在の異様さの一面がある。そして、健全な物事の推移と議論の進行を妨げる原因の一つになっている。