秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

音・音楽・音響

2660/私の音楽ライブラリー⑥。

 私の音楽ライブラリー⑥。
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 18-01 Schubert, Camille Thomas, Schwannengesang -IV. Ständchen.

 18-02 Schubert, Anne Gastinel, Schwannengesang -IV. Ständchen. 〔Harmonico101〕

 19-01 Brahms, Abbado-WienPO, Hungarian Dance No.4.

 19-02 Brahms, Barenboim-BerlinPO, Hungarian Dance No.4. 〔Irie 1948〕

 20-01 Dvorak, Masur-Leipzig GhO, Slavonic Dance op.20-2.〔EuroArtsChannel〕

 20-02 Dvorak, Ririko Takagi, Slavonic Dance op.20-2.〔高木凛々子ViolinChannel〕
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2659/「ドレミ…」はなぜ7音なのか⑤。

  前回までに作り出す事のできた二種の「5音」音階とは、つぎだ。便宜的に、それぞれX、Zと称しておこう。
 X—①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16、⑥2。
 Z—①1、②32/27、③4/3、④3/2、⑤16/9、⑥2。
 間差の広い箇所に新しい音を設定する。5つある間差の数値は、つぎのとおり。
 X—①②9/8、②③32/27(=(4/3)÷(9/8))、③④9/8、④⑤9/8(=(27/16)÷(3/2))、⑤⑥32/27(=2÷(27/16))。
 最大は32/27で、2箇所ある。残りの3箇所は、9/8。
 Z—①②32/27、②③9/8(=(4/3)÷(32/27)、③④9/8、④⑤32/27(=(16/9)÷(3/2))、⑤⑥9/8(=2÷(16/9))。
 最大は32/27で、2箇所ある。残りの3箇所は、9/8。
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  この最大の(間差が広い=周波数比が最も大きい)32/27を二つの部分に分割しよう。Xでは、②③の間と、⑤⑥の間。Zでは、①②の間と④⑤の間。
 そうすると、32/27は2箇所にあるので、新しい音が二つ増える。そして、既存の5音に加えて、計7音になるはずだ。
 分割方法は無限にあり得るが、つぎの三つの方法を合理的なものとして選択できる、と考えられる。
 まず、すでに9/8という数値を利用していることを参照して、32/27を9/8と残余の部分に分ける方法が考えられる。こも場合は、厳密には二つに分かれる。
 第一に、9/8を先に置き、(9/8)×α=32/27とする。この場合のα=256/243であることが容易に計算できる。
 第二に、9/8を後ろに置き、(256/243)×(9/8)=32/27とする。
 既存の音(の数値)にこれら二つの数値のいずれを乗じるかを決めておく必要があるので、上の第一と第二は区別しなければならない。
 これら以外に第三に、32/27の「中間値」で二つに分割することが考えられる。この「中間値」はもちろん「16/27」ではなく、32/27と64/27の「中間値」である48/27でもない。
 正解は、<2乗すれば32/27となる数値>、すなわち<(32/27)の2乗根>だ。後述もするように、この数値を「β」と称することにする。これを分数表示することはできないし、「無理数」なので、小数化すると無限に数字がつづく。
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  上の三つの方法の順序で、二分割作業を、以下に行なう。結果として計「7音」を得ることができる。その場合の「7音」音階を、便宜的にそれぞれ、XX、ZZと表記しよう。
 第一のXX関連。元の②③、⑤⑥の各間差が、32/27だ。
 (1) 9/8(②)×(9/8)=81/64。なお、(81/64)×(256/243)=4/3で、元の③の数値となる。
 (2) (27/16)(⑤)×(9/8)=(243/128)。なお、(243/128)×(256/243)=2で、元の⑥に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(81/64)と(243/128)の二つの数値が得られた。
 元のXの「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 XXの01
 ①1、②9/8、③81/64、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦243/128、⑧2。
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 次いで、第一のZZ関連。元の①②、④⑤の各間差が、32/27だ。
 (1) 1(①)×(9/8)=(9/8)。なお、(9/8)×(256/243)=32/27で、元の②の数値となる。
 (2) 3/2(④)×(9/8)=(27/16)。なお、(27/16)×(256/243)=(16/9)で、元の⑤に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(9/8)と(27/16)の二つの数値が得られた。
 元のZの「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 ZZの01
 ①1、②9/8、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦16/9、⑧2。
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  次に、(256/243)を先に乗じる、第二の方法を採用する。
 第二のXX関連。元の②③、⑤⑥の各間差が、32/27だ。
 (1) (9/8)(②)×(256/243)=(32/27)。なお、(32/27)×(9/8)=4/3で、元の③の数値となる。
 (2) (27/16)(⑤)×(256/243)=(16/9)。なお、(16/9)×(9/8)=2で、元の⑥に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(32/27)と(16/9)の二つの数値が得られた。
 Xの元の「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 XXの02
 ①1、②9/8、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦16/9、⑧2。
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 次いで、第二のZZ関連。元の①②、④⑤の各間差が、32/27だ。
 (1) 1(①)×(256/243)=(256/243)。なお、(256/243)×(9/8)=(32/27)で、元の②の数値となる。
 (2) (3/2)(④)×(256/243)=(128/81)。なお、(128/81)×(9/8)=16/9で、元の⑤に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(256/243)と(128/81)の二つの数値が得られた。
 Zの元の「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 ZZの02
 ①1、②256/243、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥128/81、⑦16/9、⑧2。
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  第三の方法は、32/27を、「2乗すれば(32/27)になる数値」で分割する。この「(32/27)の2乗根」を、「β」と簡称する。この方法による場合は、間差の32/27を構成する大小のどちらの数値からβでの乗除を行っても、結果は異ならない。
 なお、この「β」=「(32/27)の2乗根」は1.088662…なので、「9/8」(1.125)よりも小さい。
 第三のXX関連。元の②③、⑤⑥の各間差が32/27だ。
 (1) (9/8)×β=(9/8)β。なお、(9/8)β×β=(4/3)。
 (2) (27/16)×β=(27/16)β。なお、(27/16)β×β=2。
 以上で、元の「5音」とは異なる、新しい、(9/8)β、(27/16)βを得られた。
 Xの元の「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 XXの03
 ①1、②9/8、③(9/8)β=約1.225、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦(27/16)β=約1.838、⑧2。
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 次いで、第三のZZ関連。元の①②、④⑤の各間差が32/27だ。
 (1) 1(①)×β=β。なお、β×β=(32/27)。
 (2) (3/2)×β=(3/2)β。なお、(3/2)β×β=(16/9)。
 以上で、元の「5音」とは異なる、新しい、βと(3/2)βを得られた。
Z の元の「5音」にこれらを挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 ZZの03
 ①1、②β、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥(3/2)β、⑦16/9、⑧2。
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  これで、最初のXとZの「5音」音階を基礎にして、計6種の「7音」音階を、秋月瑛二なりに作り出すことができた。
 種々の数字・数値が登場しているが、振り返って、重要な数字・数値を挙げると、つぎのとおりだ。
 第一に、4/3と3/2。この二つは古代人もすみやかに気づいた、核となる数字だっただろう。当初はあるいは(3と1/3ではなく)3/2と2/3だったかもしれない。後者の2/3は容易に4/3に転化した。
 第二に、(3/2)÷(4/3)で得られる、9/8という数字。
 私は<ピタゴラス音律での全音>が(9/8)で<ピタゴラス音律での半音>が(256/243)であることをすでに知っているので、(9/8)から出発すればピタゴラス音律での音階と似たものができるだろうと想定はしていた。
 しかし、9/8とは上記のとおり<(2/3)と(3/2)>という原初的二音の間差(周波数比)なのであり、この数字は論理的には必ずピタゴラス音律につながるものではないように思われる。
 第三に、「5音」設定終了の段階で生じた、相互の音の間差のうち最大の間差(周波数比)を示す、「32/27」という数字。
 第四に、(32/27)を二分割する場合に登場した、(32/27)÷(9/8)の結果としての、256/243という数字。
 最後に、(32/27)から生じる、「(32/27)の2乗根」=「β」。
 これらの数字・数値を組み合わせて、六種の「7音」音階ができたわけだ。ピタゴラス音律での計算方法である、3または3/2を乗じつづけて、かつ2の自乗数で除する(「シャープ系」の場合)ようなことをしなかった。
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  正確には、6種ではない。それぞれの音階を、①数値、②1=ド=Cとした場合の十二平均律での近い数値の音(ドレミ)の順に、並べてみよう。第三の方法による場合は除く。
 ①XX01—1、9/8、81/64、4/3、3/2、27/16、243/128、2。
   —ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド
 ②ZZ01—1、9/8、32/27、4/3、3/2、27/16、16/9、2。
   —ド、レ、ミ♭、ファ、ソ、ラ、シ♭、ド
 ③XX02—1、9/8、32/27、4/3、3/2、27/16、16/9、2。
   —ド、レ、ミ♭、ファ、ソ、ラ、シ♭、ド
  これは②と同じ。「移調」すると、ラ、シ、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラになる。これの並び方を—「移調」することなく—変更すると、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドにもなる。
 ④ZZ02—1、256/243、32/27、4/3、3/2、128/81、16/9、2。
    —ド、レ♭、ミ♭、ファ、ソ、ラ♭、シ♭、ド
  これは、ラ♭がドになるよう「移調」して全体を並べると、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、レ、ミになる。さらにこれの並び方を変更すると、ド〜ドにも、ラ〜ラにもなる。
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 以下は参考として再び付記。
 ⑤XX03—1、9/8、(9/8)×β、4/3、3/2、27/16、(27/16)×β、2。 
 ⑥ZZ03—1、β、32/27、4/3、3/2、(3/2)×β、16/9、2。
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  検討作業がこれで終わったのではない。
 つぎの問題は、これまでの発想や検討作業の過程を継続して、「8音」音階や「9音」音階を作ることはできないのか、できないとすればそれは何故か、だ。
 <「ドレミ…」はなぜ7音なのか。
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2658/私の音楽ライブラリー⑤。

 私の音楽ライブラリー⑤
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 17-01 Albinoni, Hauser, Adagio.

 17-02 Albinoni, Lara Fabian, Adagio.

 17-03 Albinoni, Copernicus ChamberO, Adagio.〔Music Artstrings〕

 17-04 Albinoni, Band Sinfonica, Adagio.〔Banda National De Ukrania〕
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2656/ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定・第二。

 ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定方法の第二は、3で割り続け、2の自乗数を乗じるという計算を12回行うことだ。
 これを論理的には後からできた「五度圏(表)」を使って表現すると、「反時計(左)まわり」の12音設定方法と称することができる。あるいは、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「下旋回」・「下行」方式とも言える。さらに、論理的には後から生まれた表示方法を用いると、「下降」系の意味での「フラット(♭)系」の12音の設定方法だ。以下、「第二方式」とも呼ぶ。
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  計算結果を示すと、つぎのとおり。基音を⓪とする。①〜⑫が何回めの計算かを示す。関係資料を見てはいるが、過半は秋月瑛二が自ら行なって確認している。
 ⓪1
 ①1x1/3x4=4/3。
 ②4/3x1/3x4=16/9。
 ③16/9x1/3x2=32/27。
 ④32/27x1/3x4=128/81。
 ⑤128/81x1/3x2=256/243。
 ⑥256/243x1/3x4=1024/729。
 ⑦1024/729x1/3x4=4096/2187。
 ⑧4096/2187x1/3x2=8192/6561。
 ⑨8192/6561x1/3x4=32768/19683。
 ⑩32768/19683x1/3x2=65536/59049。
 ⑪65536/59049x1/3x4=262144/177147。
 ⑫262144/177147x1/3x4=1048576/531441
  =2の20乗/3の12乗
 この⑫を小数で表現すると、1.97308073709…となる。2とこの数値の差異で<マイナスのピタゴラス・コンマ>が生じる。1に対する比率は、0.9865036854…だ。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉。
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  上の12音(基音を加えて13音)を小さい(周波数比の小さい=高さの低い)順にならべると、つぎのとおり。小数はほとんどに「約」がつく。
 先立ってしまうが、便宜のために、基音1=Cとして、C〜C'の12音階の今日的表示を、右に付す。「第一方式」、純正律、十二平均律の場合と、基音以外の数値は一部を除いて異なる。「第一方式」とはGもFも異なる。また、C♯=D♭等々が成り立たない。
 ⓪1。C。
 ①(上の⑤)256/243=1.053497。D♭。
 ②(上の⑩)65536/59049=1.109857。D。
 ③(上の③)32/27=1.185185。E♭。
 ④(上の⑧)8192/6561=1.248590 。E。
 ⑤(上の①)4/3=1.333333。F 。
 ⑥(上の⑥)1024/729=1.404663。G♭。
 ⑦(上の⑪)262144/177147=1.479810。G 。
 ⑧(上の④)128/81=1.580246。A♭。
 ⑨(上の⑨)32768/19683=1.664786。A。。
 ⑩(上の②)16/9=1.777777。B♭。
 ⑪(上の⑦)4096/2187=1.872885。B 。
 ⑫(上の⑫)1048576/531441=1.973080。C’ 。
 繰り返しになるが、⑫の小数はより正確には1.97308073709…で、1に対する比率は0.98654036854…だ。1とこの数値の差異を<マイナスのピタゴラス・コンマ>と言う。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉だ。
 <プラスのピタゴラス・コンマ>は約0.0136であり、<マイナスのピタゴラス・コンマ>は約0.0135だ。
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2655/ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定・第一。

 ピタゴラス音律の考え方での1オクターブ内12音の設定方法の基本は、一定の音(基音)を1として、これに3を「乗じる」(掛ける)または3で「徐す」(割る)ことを12回し続けることだ。
 その際に、例えば3や1/3ではすでに「1オクターブ内」(1とほぼ2の間)という条件を充足しないので、1〜ほぼ2の間になるように、絶えず2の自乗数で「徐」したり、2の自乗数を「乗」じる
 3→3/2、9→9/8、1/3→4/3、2/3→4/3のごとし。
 ここで、例えば3/4、3/2、3はオクターブは違うが「同じ」音、また例えば1/3、2/3、4/3はオクターブは違うが「同じ」音、ということが前提にされている。
 なぜ12音かという問題にはもう立ち入らない。簡単には、12回めの計算でヒト・人間の聴感覚にとって「現実的な」(1に対する)ほぼ2の数値が得られるからだ。
 ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定方法の第一は、3を乗じ続け、2の自乗数で割るという計算を12回行うことだ。
 これを論理的には後からできた「五度圏(表)」を使って表現すると、「時計(右)まわり」の12音設定方法と称することができる。あるいは、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「上旋回」・「上行」方式とも言える。さらに、論理的には後から生まれた表示方法を用いると、「上昇」系の意味での「シャープ(♯)系」の12音の設定方法だ。以下、「第一方式」とも呼ぶ。
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  計算結果を示すと、つぎのとおり。基音を⓪とする。①〜⑫が何回めの計算かを示す。関係資料を見てはいるが、秋月瑛二において自ら確認している。
 ⓪ 1。
 ① 3x1/2=3/2。
 ② 3/2x3x1/4=9/8。
 ③ 8/9x3x1/2=27/16。
 ④ 27/16x3x1/4=81/64。
 ⑤ 81/64x3x1/2 =243/128。
 ⑥ 243/128x3x1/4=729/512。
 ⑦ 729/512x3x1/4=2187/2048。
 ⑧ 2187/2048x3x1/2=6561/4096。
 ⑨ 6581/4096x3x1/4=19683/16384。
 ⑩ 19683/16384x3x1/2=59049/32768。
 ⑪ 59049/32768x3x1/4=177147/131072。
 ⑫ 177147/131073x3x1/2=531441/262144
  =3の12乗/2の18乗
 この⑫を小数で表現すると、2.0272865295410156…となる。この端数を<プラスのピタゴラス・コンマ>と言う。1に対する比率は、1.01364376477…だ。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉。

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  上の12音(基音を加えて13音)を小さい(周波数比の小さい=高さの低い)順にならべると、つぎのとおり。小数はほとんどに「約」がつく。
 先立ってしまうが、便宜のために、基音1=Cとして、C〜C'の12音階の今日的表示を、右に付す。「第二方式」、純正律、十二平均律の場合と、基音以外の数値はほとんどについて異なる。 
 ⓪ 1 。C。 
 ①(上の⑦)2187/2048=1.067871。C#。
 ②(上の②) 9/8=1.125。D。
 ③(上の⑨)19683/16384=1.201354。D#。
 ④(上の④)81/64=1.265625。E。
 ⑤(上の⑪)177147/131072=1.351524。F。
 ⑥(上の⑥)729/512=1.423828。F#。
 ⑦(上の①)3/2=1.5。G。
 ⑧(上の⑧)6561/4096=1.601806。G#。
 ⑨(上の③)27/16=1.6875。A。
 ⑩(上の⑩)59049/32768=1.802032。A#。
 ⑪(上の⑤)243/128=1.898437。B。
 ⑫(上の⑫)531441/262144=2.027286。C’。
 繰り返しになるが、⑫の小数はより正確には2.0272865295410156…、1に対する比率は1.01364376477…で、この端数を<プラスのピタゴラス・コンマ>と言う。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉だ。
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2654/「ドレミ…」はなぜ7音なのか④。

 以下の一部ずつだけを読んだ。衝撃的に面白そうだ。
 ①小泉文夫・日本の音—世界のなかの日本音楽(平凡社文庫、1977)。
 ②小泉文夫・歌謡曲の構造(平凡社文庫、1996)。
 小泉文夫、1927〜1983。元東京芸術大学教授(民族音楽)。
 日本の音楽・音階についてこの欄に既に記述したことは、書き直しが必要になりそうだ。
 →「2635/<平均律>はなぜ1オクターブ12音なのか②」で、日本の古歌も「西洋音楽」の楽譜で表記され得ることは「西洋音楽」の「広さ・深さを感じさせる」と書いたが、「西洋音楽」を高く評価しすぎかもしれない。
 また、→「2652/私の音楽ライブラリー④」で1963年の「恋のバカンス」は「画期的だった」と(むろん主旋律だけでなく前奏・伴奏を含めての)素人的印象を語ったが、これも単純だったかもしれない。
 すでにこの項の「③」で「律音階」に触れており、今回も「民謡音階」に言及するが、日本の伝統的音階が叙述の主対象ではない。このテーマは、別途、上の小泉文夫著等をふまえて扱いたい。
 このテーマは、「日本音楽」とは何か、「日本民族」とは何か、「日本とは何か」という大きな問題に関連しそうだ。「日本語の成立」過程に関する問題とも、少しは類似性がある。
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  さて、この項の<「ドレミ…」はなぜ7音なのか>は「西洋音楽」での1オクターブ12音をふまえた「ドレミ…」の7音構造の背景に関心をもつものだ。
 1オクターブ内での4/3と3/2の「発見」による1、4/3、3/2(、2)の3音構造の成立に続く9/8と27/16の設定による「5音」音階の成立まで、私ならばどのようにして音階を作るか、を叙述してきた。
 だが、このように迂回しつつ、「西洋」の「ドレミ…」の音階が7音(最後のドを含めて8音)で構成されざるを得なかったことを、「証明」することができる可能性がある、という見通しをもっている。
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  「5音」からさらに数を増やすことを急がず、立ち止まってみよう。
 前回に9/8と27/16を新たに加えたが、それは1×(9/8)と(3/2)×(9/8)の計算結果の採用による。1-(4/3)、(3/2)-2、といういずれも4/3または3対4という広い間差(周波数比)の間に、「小さい」方の数値に9/8を乗じたものだった。
 だが、4/3および2という「大きい」方の数値から9/8だけ小さい数値を計算することによっても、新しい二つの数値が得られるはずだ。次もように、それぞれの「大きい」数値に8/9を掛けることでよい。
 (4/3)×(8/9)=32/27。2×(8/9)=16/9。
 これら二つを1、4/3、3/2、2という「3音」構造に挿入して小さい順に並べると、以下のようになる。
 Z①1、②32/27、③4/3、④3/2、⑤16/9、⑥2。
 これは、前回に記した「5音」(最後を含めて6音)音階の数値と異なっている。前回に記したのは、つぎだった。
 X①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16、⑥2。
 このX は、前回に記したように、今日の〈十二平均律〉の場合に近い音を選んで1=ドとして表現すると、「ド・レ・ファ・ソ・ラ・ド」だ。そして、伝統的音階のうち雅楽に使われる「律音階」にきわめて類似している。
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  上のを、今日の〈十二平均律〉の場合に近い音を選んで1=ドとして表現し直すと、つぎのようになる。
 「ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭・ド」。Xの②と⑤よりもこのZの②と⑤の方が数値が大きいこと(かつその割合は同じだろうこと)は、設定の仕方からして当然のことだ。
 念のための確認すると、つぎのとおり。
 Z②(32/27)÷X②(9/8)=256/243。(=ミ♭とレの間差)
 Z⑤(16/9)÷X⑤(27/16)=256/243。(=シ♭とラの間差)
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  ところで、興味深いことだが、Zの5音(6音)音階の「ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭・ド」=「C-E♭-F-G-B♭」は、日本の伝統的音階のうち、「民謡音階」に相当する、と見られる。
 日本の伝統的音階として四つを挙げること、そして各音階をどう説明するかには、あるいは一致がないのかもしれない。
 ここでは、ネット上で前回に触れた「律音階」とともに「民謡音階」についても以上の叙述と同じ説明をしているサイトを挙げ、その説明を一部抜粋引用しておく。冒頭で記した小泉文夫の著も結局は同様なのだが(というより、小泉の説の影響を受けているように見られるが)、今回は小泉著には直接には触れない。
 →「文化デジタルライブラリー」
 民謡音階—「わらべ歌や物売りの声、日本民謡の中でよく使われている…」。「楽譜の通り、…『ド—♭ミ—ファ—ソ—♭シ—ド』で構成されます」。
 律音階—「『律』という言葉は、中国から入ってきました」。「楽譜の通り、…『ド—レ—ファ—ソ—ラ—ド』で構成されます」。
 →「メリー先生の音楽準備室」
 「民謡音階の構成音は、ド、ミ♭、ファ、ソ、シ♭の5音。わらべ歌や日本の民謡の多くで、この音階が使われています。」
 「律音階で使われている5つの音は、ド、レ、ファ、ソ、ラです。中国から伝来した音楽の基本的な音階で、雅楽にも用いられています。」
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 さらに追記すると、「ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭・ド」=「C-E♭-F-G-B♭-C」をド→その下のラ、C→その下のAへとそのまま「移調」すると、つぎのようになり、「♭」記号は消える。
 「ラ・ド・レ・ミ・ソ・ラ」=「A-C-D-E-G-A」
 「ラ」を主音とする、今日にいう7音(8音)の<短調音階>のうち、「ファ」と「シ」が欠けている。
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  こうして、二種の「5音」音階を作ることができた。
 次回に、「7音」音階に接近してみよう。

2652/私の音楽ライブラリー④。

 私の音楽ライブラリー④。
 日本の<ポピュラー音楽>または<J-POP>はすでに世界的レベルに達していて(但し、下の16追のコメントも参照)、あえて欧米のポップスを渉猟するような時代遅れのことをする必要はない、と考えられる。
 GHIBLI=宮崎駿のアニメ映画=久石譲の音楽という等式が成り立つのかは、宮崎映画を一つも真面目に観ていないのだから全く自信はない。だが、久石譲の音楽は世界の多くの人々の心を捉えているようだ。「専門」教育を受けている久石譲は国際標準の知識と技量をもつとともに、どこか「日本的」な味わいの旋律を作る。たいていを、好ましく感じている。

 13 美空ひばり「東京キッド」1950年〔Mei Wang〕。
 作詞/藤浦洸、作曲/万条目正。
 美空ひばりはこのとき、「専門的・音楽教育」を受けていない。楽譜も読めず、第三者の歌唱かピアノ演奏でこの歌を覚えたのではないか。
 聴いた音楽・旋律を自分の身体と喉で再現し、かつ自分らしく歌唱することに、この人はすこぶる長けていたに違いない。

 14 ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」1963年〔H. Shigeoka1〕。
 作詞/岩谷時子、作曲/宮川泰。
 1960年前後に平尾昌章(昌晃の旧名)らの「ロカビリー」が流行していたが、アメリカからの直輸入だったと思われる。
 単純な旋律の坂本九「上を向いて歩こう」(中村八大作曲)の世界的ヒットとほぼ同時期に、この日本製楽曲が登場した。私は、画期的だった、と感じている。
 この曲は決して「日本的」でなく、国際的な普遍性をもっていたと思われる。作曲者の宮川泰は、クラシック以降の欧米の種々の旋律を知っていて、それらにinspire されていたのだろう。

 15 ペギー・マーチ「忘れないわ」1969年〔HKD Japan〕
 作詞/山上路夫、作曲/三木たかし。
 日本人作詞・作曲の曲を、外国人少女が歌い、ある程度はヒットした。この女性の日本語は、ほとんど違和感がない。

 16 井上あずみ「君をのせて」in 天空の城ラピュタ1989〔hamuhamu aki〕。
 久石譲・作曲。歌詞・宮崎駿。
 「地球はまわる 君をのせて
  いつかきっと出会うぼくらをのせて」
 この歌詞は〈ナショナリズム〉ではない。人種・民族等に関係なく、ヒト・人間は一つの地球の上で生きている。
 「父さんが残した熱い想い
  母さんがくれたあのまなざし」
 親に対する想いは、人種・民族等に関係なく、きっと相当に普遍的だ。 

 16追 森麻季「Stand alone」NHK『坂の上の雲』2009主題歌〔Soprano Channel〕。
 「うじゃうじゃした」または多数の女の子や男の子の合唱?曲に接していると、こんな歌が聴きたくなる。久石譲・作曲、作詞・小山薫堂。
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2649/私の音楽ライブラリー③。

 バイオリンという楽器は、演奏がとてもむつかしそうだ。左右両手は全く別の動きだし、ギターにある「フレット」なしで音程を決める必要がある。
 弦を押さえる左指先の位置で音程が変わることは、伴奏や交響楽団つきではない、つまりソロ・「独奏」でならば、〈十二平均律〉以外の音律で、例えばピタゴラス音律や純正律等で音程を調整できることを意味する。練習と訓練次第で、不可能ではない。そうでなくとも、バイオリン協奏曲(Violin Concerto)の場合は背後の音よりも目立たせるために少し高めに「弦を押さえて」弾くことがある、と何かで読んだことがある。
 さて、下の10の日本人少女、村田夏帆の演奏は「見事」ではないか。
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 09 Hilary Hahn, Bach, Sonata f. Violin Solo No.1 in D-minor -4.Presto (BWV1001)。

 10 Natsuho Murata, Saint-Saens, Introduction & Rondo Capriccioso op.28〔International Music & Arts〕。

 11 Sayaka Shoji, Sibelius, Violin Concerto in D-minor (Israel PhO)。

 12 Julia Fischer, Tchaikovsky, Violin Concerto in D (France Radio PhO)〔Classical Vault 1〕。
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2648/「ドレミ…」はなぜ7音なのか③。

 伊東乾には笑われそうだが、「音階あそび」を続けよう。
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  1オクターブの間に、どのように諸音を設定するか。
 基音を1、その1オクターブ上を2とすると、1と2の間にどのような周波数比の音を選定するか。
 これを、1オクターブ12音とか<ドレミ…>の7音音階とかの知識なく行なえばどのようなことになるだろうか。
 もっとも、1オクターブ12音以外に、なぜ「音階」(または「調」)というものが必要になったのか、「調」の長調と短調への二分はどういう意味で自然で合理的なものなのかは、じつは根本的な所ではまだ納得し得ていないのだが。
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 前回に記したように、3/2、4/3の二つの数値が容易に得られて、1・4/3・3/2・2の3音(最後を含めて4音)音階が得られる。
 一定の弦の長さを1/2にして周波数(振動数)を2倍にすると1オクターブ高い音になる。これを古代の人々が知ったならば、つぎに行なったのは、その一定の弦の長さを1/3または2/3にすることだっただろう。すると、周波数比は3倍、3/2倍になる。そして、1と2の間に、3/2と4/3の数値が得られる。
 なお、弦の長さを3/2倍、2倍、3倍…と長くしていくのは実際には必ずしも容易ではないだろうが、一定の長さの弦の下に支点となる「こま」を置くことによって、周波数(振動数)を3倍、3/2倍等にすることがきる。そのような原理の「モノコード」という器具は、—日本列島にはなかったようだが—紀元前のギリシアではすでに用いられていたと言われる。
 この3/2と4/3の設定までは、結果としてピタゴラス音律や純正律と同じ。
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  ①1、②4/3、③3/2、④2。
 これらの間差は、①-②が4/3、①-③が3/2、①-④が②。
 そして興味深いことに、またはしごく当然に、②-④は3/2(2÷(4/3)=6/4=3/2)で、③-④は4/3(2÷(3/2)=4/3)だ。
 あと一つ、明らかになる数字がある。9/8だ。
 すなわち、(3/2)÷(4/3)=9/8。②-③が9/8だ(③-②は8/9)。
 この9/8を「素人」は利用しようと考える。
 上の4つの音の間の3つの間隔のうち広いのは、①-②と③-④の、いずれも4/3だ。
 この4/3を二つに分割しよう。その際に容易に思いつくのは、①の9/8倍、③の9/8倍の音を設定して、上の二つの間隔をいずれも二つに分割することだ。
 得られる数値は、1×9/8=9/8と、(3/2)×(9/8)=27/16。
 この二つを新たに挿入して、低い(周波数比の小さい)順に並べると、つぎのようになる。
 ①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16、⑥2。
 これで、5音音階(最後を含めて6音音階)を作ることができた。
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  ところで、面白いことにここで気づく。
 先入観が交じるのを避けるために「ABC…」とか「ドレミ…」という表現を避けてきているのだが、上の5音(6音)音階は、①1を「ド」として今日的に(〈十二平均律〉の場合の数値に近いものを選んで)表示し直すと、こうなる。
 ド・レ・ファ・ソ・ラ(・ド)。=C-D-F-G-A(-C)。
 これは、日本の伝統的音階の一つとされる<律>音階(・旋律)と同じだ。この「律」音階は「雅楽」の音階ともされ、日本固有というよりも、大陸中国の影響を受けた音階だとも言われている。
 余計ながら、現在の天皇の即位の礼をかつてテレビで見ていて、古式の「雅楽」の旋律や、たなびく(漢字が記された)幟によって、「和」風というよりも「漢」風を私は感じた。先日のG7サミットでも宮島で「雅楽」が演奏されていたが、「雅楽」というのは、平安時代の「みやび」とも室町時代の「わび・さび」とも少し違うような気が、私にはする。日本のとくに天皇家または「朝廷」に継承されてきた音楽ではないだろうか。
 さらに進むと、上の5音(6音)音階は、日本国歌・君が代の音階でもあるようだ。
 〈十二平均律〉の影響をすでに受けた叙述になるのだが、上の「ド·レ·ファ·ソ·ラ·ド」(C-D-F-G-A-C)は、「一全音」ずつ上げると(=ここでは各音に9/8を掛けると)、♯や♭を使うことなく、同じ周波数比関係を維持したまま「レ·ミ·ソ·ラ·ド·レ」と表現し直すことができる(D-E-G-A-C-D)。「レ」が「主音」になる。
 私が中学生時代の音楽の教科書には、この「レ·ミ·ソ…」は「日本音階」(または「和音階」)での<長調>だと記述されていた。「ミ·ファ·ラ·シ·レ·ミ」が<短調>だった。
 「君が代」の旋律の「レドレミソミレ…」は、まさに日本音階の<長調>であり、近年に知った言葉によると、「雅楽」の音階である「律」音階(旋律)そのものだと思われる(但し、上行ではなく下行の場合は「レ·シ·ラ·ソ…」と「ド」が「シ」に変わる「理屈」は私にはよく分からない)。
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  ともあれ、9/8を利用して、5音(6音)音階ができた。数の上では、あと二つで、「ドレミ…」と同じ7音(8音)音階になる。
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2643/私の音楽ライブラリー②。

 ①で取り上げた、01のSchumann の冒頭和音のあとの旋律と02のMendelssohn の冒頭の旋律は、相対音でどちらも「ミラシド…」だった。Tchaikovsky, “Swan Lake”の「情景」も、「ミラシド…」だ。むろん、各音符の長さは違うし、上昇と下降の違いもある。
 このたった4つの短い音節は若いときからなじみのあるもので、舟木一夫「高校三年生」、小椋佳「春の雨はやさしいはずなのに」、井上陽水の「心もよう」も、冒頭は相対音で「ミラシド…」だ。他にもあるだろう。
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 05 J. S. Bach, St. Mattäus Passion (マタイ受難曲)(Netherlands Bach Society)。

 06 Beethoven, Symphony No. 5 in C-minor (運命)(Seiji Ozawa,NHK SymO)〔小林一夫〕。

 07 Brahms, Symphony No. 4 in E-minor(Tatsunori Numajiri, NHK SymO)。

 08 Mozart, Lacrimosa -平均律·純正律聴き比べ-〔渡邊秀夫〕。
 特定の一曲の演奏が、主要音の周波数比の簡潔さが顕著な純正律による方が「調和性」が高い(表現によれば「より美しい」)ことははっきりしている。日本の戦前の唱歌について純正律によるものがuploadされてもいる。しかし、〈十二平均律〉と比較での優劣をこの点だけをもって判断することはできない。これら二つの音律は「次元」が異なるのだ。なお、Lacrimosa を含む、Mozart, Requiem in D-minor はMozart の中では最も好みの一つだ。
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2642/「ドレミ…」はなぜ7音なのか②。

  1オクターブが12音で構成されるのならば、それら各12音には低い(周波数の小さい)順にA-B-C-D-E-F-G-H-I-J-K-L(イロハニホヘトチリヌルヲ)という符号をあててもよかったのではないか。
 楽譜を五線譜ではなく六線譜にすれば、♯や♭を用いなくとも全12音を線上または線間に表記できるのではないか。
 以上は、素人が感じる疑問。〈十二(等分)平均律〉から音律の歴史が始まっていたとすれば、ひょっとすれば上のようだったかもしれない。しかし、現在の音楽界を圧倒的に支配する〈十二平均律〉もまた、「歴史と伝統」を引き摺っているのだ。
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  「No.2638/「ドレミ…」の7音と白鍵・黒鍵」のつづき。  
 マックス·ウェーバー・音楽社会学(邦訳書1967)でM·ウェーバーは「『圏』状に上行または下行すると…」という表現を用いていたが、同著に付された「音楽用語集」によると、この「」はcircle, Zirkel の訳語であることが分かる。「円環」あるいは「周円」のことだ。
 そして、「圏」はこう説明される。①「ある音を出発点として、上方または下方に向かい、決められた度数によって順次得られる諸音によって作られる圏をいう。… 諸音を得ることの外に、調の近親関係を見わたすための便利な図として利用される。」
 また、「5度圏」はこう説明されている。②「或る音から上方・下方に完全5度音を次ぎ次ぎにとって行くことにより諸音を得る。これを図にしたのが5度圏である。出発点から十二番目の音は、例えばCから出発した場合His〔B♯—秋月〕の様な非常に近い音になる。平均律5度音の場合は十二番目は異名同音的に重なる。」
 少し挿むと、②の最後部分が述べているのは、〈十二平均律〉だとちょうど1オクターブ上の2となって重なるが、(おそらくは)ピタゴラス音律においては重ならない(ピタゴラス・コンマぶんの誤差が生じる)、ということだと考えられる。
 ともあれ、「5度圏(表)」は〈十二平均律〉についてのみ意味があったものではないこと、「5度」または「完全5度」等は〈十二平均律〉におけるそれら(例えば、十二平均律での<今で言うC-G>の間差)を元来は意味したのではなかったということ、が重要だ。
 また、上の①に「諸音を得ることの外に…」とあるが、これは「5度圏」を含む「圏」の表・図の第一の目的が「諸音を得る」ことにあったことを示している。②もまた、「…諸音を得る」とだけ断じている。
 従って、〈十二平均律〉を前提として、「5度圏(表)」を用いて五線譜冒頭の♯や♭の数によってある曲の「調」が分かる(加えて近親「調」が分かる)というのは、「5度圏(表)」の歴史的な本来の役割からすると些細なことだ。トニイホロやソレラミシを「覚える」だけでは空しい。You Tube上の例えば以下のサイトは、「5度圏(表)」の歴史的意味を理解していないと見られる。この人たちには「圏状の上行・下行」(あるいは「螺旋上の上行・下行の旋回」)という表現に当惑するのではないか。
 「音大卒が教える」「音大卒があなたのお困り助けます」
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 以下の文献はピタゴラス音律に関して「音のらせん」という節をもち、「らせん上で3倍することを繰り返す」と題する図も付して、「圏状の上行・下行」あるいは秋月の表現だが「螺旋上の上行・下行の旋回」を、明確に説明している。
 小方厚・音律と音階の科学(講談社ブルーバックス、2018)、p.45-46、p.59。
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  音の周波数が2倍、4倍、8倍、…になるとともに音の高さはちょうど1オクターブ、2オクターブ、3オクターブ、…高くなる。弾く弦の長さを1/2、1/4、1/8、…にするとともに、と言っても同じ。
 このことに、人々は太古から気づいただろう。
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 では、1オクターブ内にどのように音を設定すればよいか。—オクターブだけ異なる「同じ」音では満足できず、「異なる」高さの音によって何らかの「旋律」を生みたい人々は、こう問うたに違いない。
 そして、すみやかにつぎのことを知ったと思われる。
 すなわち、一定のある音と異なり、かつ1オクターブ上(・下)の「同じ」音でもない音は、一定のある音を1とすれば、その1に3/2および2/3を掛けることによって得られる(2/3を掛けるとは3/2で割ると同じ)。
 これは、弦の長さで言うと、ある音が出る弦の長さを2/3倍および3/2倍にするのと同じ(弦の長さと音の高さ(周波数の大きさ)は反比例する)。弦の長さを1/3および3倍にすると表現しても、本質は同じ。
 そして、1×(3/2)=3/2と、1÷(3/2)=2/3の二つの数値が得られる。このうち後者も1と2の間の数値になるように2倍すると(2倍してもオクターブは異なる「同じ」音だ)、3/2と4/3の二つの数値を得ることができる。
 1と2を加えて小さい順に並べると、1、4/3、3/2、2
 オクターブだけ異なる「同じ」音に次いで得られた二つの音は一定の音(1、2)との関係での周波数比が簡潔であるために、一定の音ときわめてよく調和または協和するはずだ。
 さて、音の「度」数表示は〈十二平均律〉の採用以前の古くから行われていたようで、池宮英才「音楽理論の基礎」マックス·ウェーバー・音楽社会学(1967)所収294頁は、ちょうど1オクターブだけ離れた音(2)を「8度」と呼び、「絶対協和音」とする。
 かつ、上の3/2と4/3をそれぞれ「5度」、「4度」と呼び、この二つを「完全協和音」とする。また、両者をそれぞれ、「完全5度」、「完全4度」とも称している。
 ここに見られるように、「完全5度」、「完全4度」とは〈十二平均律〉の場合にのみ語られる用語ではない。
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 〈十二平均律〉を前提とした音程の説明の中で「完全5度」や「完全4度」といった概念を用いている人々がどの程度自覚しているのかは疑わしいが、上の3/2と4/3の二つは、〈十二平均律〉における「(完全)5度」や「(完全)4度」の周波数比の値と異なる。
 ピタゴラス音律および純正律において、オクターブだけが異なる音に次いで最初に設定されると考えてよいと思われる二つの音の周波数比の値は、3/2と4/3だ。どちらの音律でも同じ。
 これに対して、〈十二平均律〉では、「完全5度」、「完全4度」の対1周波数比は、つぎのようになる。
 「完全5度」=1.49830…、「完全4度」=1.33484…。
 これらは「無理数」で、整数を使って分数化することができない。
 対比させるために、少数を使ってピタゴラス音律や純正律での「完全5度」、「完全4度」をあらためて表記すると、つぎのとおり。
 「完全5度」=1.5、「完全4度」=1.33333…。
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 〈十二平均律〉ではこうなるのは、この音律は、1オクターブを隣り合う各音の周波数比が全て同一になるように周波数比を「等分に分割」しているからだ。
 いつか触れたように、Xを12乗すれば2となる数値が最小の単位(「一半音」の周波数比)になり、このXは「2の12乗根」のことだから、(この欄での表記はやや困難だが)「12√2」だ(1√2はいわゆる「ルート2」のこと)。
 「12√2」=「2の12乗根」は、約1.059463
 これをここで勝手にたんに「α」と表記すると、「完全5度」、「完全4度」はそれぞれ、αの7乗、αの5乗であり、計算すると、上に掲記の少数付き数値になる。
 そして、低い順に、αの0乗=1、αの5乗、αの7乗、αの12乗=2、という音の並びになる。
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  以上のかぎりで、ピタゴラス音律と純正律では、1、4/3、3/2、2という「音階」ができることになる。
 「ドレミ…」を<7音音階>と言うとすれば、単純だが素朴な<3音音階>だ。
 さらに新しい音を設定(発見)しようとして、ピタゴラス音律では3/2または3を乗除し続ける。純正律では5/4、6/5という簡潔な分数を見出し、これを全体に生かそうとする(「2と3」から「2、3と5」の世界へ)。
 この二つの音律の歴史的前後関係については、前者の欠点を是正しようとして生まれたのが後者だと理解していた。この場合、ピタゴラス・コンマは最初からないものとされ、<今日にいうC-E-G>の和音の「美しさ」が追求される(但し、純正律では「シントニック・コンマ」※が生まれる等の問題が生じる)。
 但し、両者はほぼ同時期に成立していた旨の説明もある。その場合、2、4、8または3ではない5という自然「倍音」が古くから着目されていたともされる。
 また、今回に言及した池宮英才「音楽理論の基礎」音楽社会学所収も、3/2、4/3の設定・「発見」の叙述のあとで、すでに純正律も考慮したような叙述をしている。
 ※「シントニック・コンマ」。純正律における「大全音」と「小全音」の差で、(9/8)÷(10/9)=81/80。または、ピタゴラス音律での「長3度」と純正律での「長3度」の差で、(81/64)÷(80/64)=81/80。
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 さて、秋月瑛二は、素人的に考えて、つぎの2音を選ぼうとする。
 すると、<5音音階>を簡単に作ることができる。<7音音階>までもう少し、あと2つだ。
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 つづく。

2641/マックス·ウェーバー・音楽社会学(1911-12)。

  マックス·ウェーバー・音楽社会学=安藤英治·池宮英才·門倉一朗解題(創文社、1967)は、創文社刊のM・ウェーバー<経済と社会>シリーズの、第9章のあとの「付論」で、独立した一巻を占める。
 <音楽社会学>というのはいわば簡称で、正式には「音楽の合理的社会学的基礎」と題するらしい(独語)。また、未完の著作だったとされる。
 上掲著は計約400頁で成るが、二つの解説論考(「マックス·ウェーバーと音楽」・「音楽理論の基礎について」)、訳者後記、第二刷あとがき、音楽用語集、人名索引・事項索引等が「解題」者によって付されているので、それらを除くと、本文は約240頁になる。
 しかもまた、本文中の「各章末」の「訳註」は訳者たちによるので、それらを除くと、きちんと計算したのではないが、M・ウェーバー自身の文章は、約240頁のうちの100頁以下だと思われる。
 この<音楽社会学>(「音楽の合理的社会学的基礎」)が執筆された時期は明確でない。安藤英治1911-12年に「草稿として書き上げられ」ていた、とする(p.244)。ウェーバーの死の翌年の1921年7月付の「緒言」が別の学者(Theodor Kreuer)によって書かれており、これも上掲書に訳出されている。
 20世紀前半のドイツの「社会科学者」、少なく見積もっても「社会学者」による「音楽理論」に関する文章は、それだけで興味をそそる。また、一読だけしても、きわめて興味深い。
 以下、冒頭の一部だけ、上掲書からそのまま引用する。訳者によって挿入されたと見られる語句の引用・紹介はしない。
 原訳書と異なり、一文ごとに改行する。「過分数」という語もあるように、分数表記の仕方は前後ないし上下が逆だと思われるが、そのまま引用する。下線は引用者。 
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 〔=第一章冒頭—秋月〕
 和声的に合理化された音楽は、すべてオクターヴ(振動数比1:2)を出発点ととしながら、このオクターヴを5度(2:3)と4度(3:4)という二つの音程に分割する。
 つまり、n/(n+1)という式で表される二つの分数—いわゆる過分数—によって分割するわけで、この過分数はまた、5度より小さい西欧のすべての音程の基礎でもある。
 ところが、いま或る開始音から出発して、まず最初はオクターヴで、次に5度、4度、あるいは過分数によって規定された他の何らかの関係で「圏」状に上行または下行すると、この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない
 例えば、(2/3)12乗にあたる第十二番目の純正5度は、(1/2)7乗にあたる第七番目の8度よりもピュタゴラス・コンマの差だけ大きいのである。
 このいかんとも成し難い事態と、さらには、オクターヴを過分数によって分ければそこに生じる二つの音程は必ず大きさの違うものになるという事情が、あらゆる音楽合理化の根本を成す事実である。
 この基本的事実から見るとき近代の音楽がいかなる姿を呈しているか、われわれはまず最初にそれを思い起こしてみよう。
 ****〔一行あけ—秋月〕
 西欧の和音和声的音楽が音素材を合理化する方法は、オクターヴを5度と4度に、次に4度はいちおうどけておいて、5度を長3度と短3度に((4/5)×(5/6)=2/3)、長3度を大全音と小全音に((8/9)×(9/10)=4/5)、短3度を大全音と大半音に((8/9)×(15/16)=5/6)、小全音を大半音と小全音に((15/16)×(24/25)=9/10)、算術的ないし和声的に分割することである。
 以上の音程は、いずれも、2、3、5という数を基にした分数によって構成されている
 和音和声法は、まず「主音」と呼ばれる或る音から出発し、次に、主音自身の上と、その上方5度音および下方5度音の上に、それぞれ二種類の3度で算術的に分割された5度を、すなわち標準的な「三和音」を構成する。
 そして次に、三和音を構成する諸音(ないしそれらの8度音)を一オクターヴ内に配列すれば、当該の主音を出発点とする「自然的」全音階の全素材を、残らず手に入れることになる。
 しかも、長3度が上に置かれるか下に置かれるかによって、それぞれ「長」音列か「短」音列のいずれが得られる。
 オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在し、いずれの場合にも、二番目の全音が小全音で、それ以外はすべて大全音である。
 ----〔改行—秋月〕
 音階の各音を出発点としてその上下に3度と5度を形成し、それによってオクターヴの内部に次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの「半音階的」音程が生ずる
 それらは、上下の全音階音からそれぞれ小半音だけ隔たり、二つの半音階音相互のあいだは、それぞれ「エンハーモニー的」剰余音程(「ディエシス」)によって分け隔てられている。
 全音には二種類あるので、二つの半音階音のあいだには、大きさの異なる二種類の剰余音程が生ずる。
 しかも、全音階的半音と小半音の差は、さらに別の音程になるのであるから、ディエシスは、いずれも2、3、5という数から構成されているとはいえ、三通りのきわめて複雑な数値になる。
 2、3、5という数から成る過分数によって和声的に分割する可能性が、一方では、7の助けを借りてはじめて過分数に分割できる4度において、また他方では大全音と二種類の半音において、その限界に達するわけである。
 ----〔改行、この段落終わり—秋月〕
 ——
 以下、省略。
 ——
  若干のコメント。 
  M・ウェーバーと音楽・芸術一般の問題には立ち入らない。 
 M・ウェーバーの「学問」において音楽・芸術が占める位置の問題にも立ち入らない。
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  「音楽理論」との関係に限定すれば、つぎのことが興味深く、かつ驚かされる。すなわち、この人は、ピタゴラス音律および純正律または「2,3,5」という数字を基礎とする音律の詳細を相当に知っている。
 そして、上掲論文(未完)の冒頭で指摘しているのは、ピタゴラス音律および「2,3,5」という数字を基礎とする音律が決して「合理的でない」ことだ。
  ピタゴラス音律に関連して、3/2または2/3をいくら自乗・自除し続けても「永遠に」ちょうど2にならないことは、この欄で触れたことがある。
 M・ウェーバーの言葉では、「この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」、「12乗にあたる第十二番目」の音は1オクターブ上の音よりも「ピュタゴラス・コンマの差だけ大きい」。
 さらに、以下の語句は、今日の日本でのピタゴラス音律の説明について秋月瑛二が不満を感じてきたところを衝いていると思える
 「何らかの関係で『圏』状に上行または下行すると…」。
 この「上行・下行」は、ここでは立ち入らないが、「五度圏(表)」における「時計(右)まわり」と「反時計(左)まわり」に対応し、「♯系」の12音と「♭系」の12音の区別に対応していると考えられる。
 さらに、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「上旋回」上の12音と「下旋回」上の12音に対応しているだろう。
 そして、M・ウェーバーが言うように「二つの音程は必ず大きさの違うものになる」であり、以下は秋月の言葉だが、「#系」の6番めの音(便宜的にF♯)と「♭」系の6番めの音(便宜的にG♭)は同じ音ではない(異名異音)。このことに、今日のピタゴラス音律に関する説明文はほとんど触れたがらない。
  <純正律>、<中全音律>等に、この欄で多少とも詳しく触れたことはない。
 だが、上記引用部分での後半は、これらへの批判になっている。
 純正律は「2と3」の世界であるピタゴラス音律に対して「5」という数字を新たに持ち込むものだ。そして、今日にいう<C-E-G>等の和音については、ピタゴラス音律よりも(<十二平均律>よりも)、協和性・調和性の高い音階または「和音」を形成することができる。
 しかし、M・ウェーバーが指摘するように、純正律では、全音には大全音と小全音の二種ができ、それらを二分割してその片方を(純正律での)「半音」で埋めるとしても、大全音での残余、小全音での残余、元来の(純正律での)「半音」という少なくとも三種の半音が生まれる。このような音階は(かりに「幹音」に限るとしても)、<十二平均律>はもちろん、ピタゴラス音律よりも簡潔ではなく、複雑きわまりない。
 なお、「オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在」する、という叙述は、つぎのことも意味していることになるだろう。すなわち、鍵盤楽器において、CとEの間には二個の全音が(そしてピアノではそれらの中間の二個の黒鍵)があり、Fと上ののCの間には三個の全音(そしてピアノではそれらの中間の三個の黒鍵)がある、反面ではE-F、B-Cの間は「半音」関係にある(ピアノでは中間に黒鍵がない)、ということだ。
 彼は別にいわく、「次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの『半音階的』音程が生ずる」。二個というのは、純正律でもピタゴラス音律でも同じ。
 また、長調と短調の区別の生成根拠・背景に関心があるが、この人によると、「長3度が上に置かれるか下に置かれるかによって、それぞれ『長』音列か『短』音列のいずれが得られる」。これは一つの説明かもしれない。
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  引用部分にはなかったが、M・ウェーバーはいわゆる<十二平均律>についても知っており、その「究極的勝利」についても語っている(p.199-p.200)。但し、その弊害にも触れている。
 彼によると、「不等分」平均律と区別される「等分」平均律の一つであり、こう説明される。「これは、オクターヴを、それぞれ1/2の12乗根になるような十二の等しい等間隔に分割することであり、したがって十二個の5度をオクターヴ七つと等置すること」である。「12」という音の個数自体は、ピタゴラス音律や純正律の場合と異ならない。
 なお、完全「5度」、完全「4度」、「長3度」、「短3度」等の表現をM・ウェーバーもまた当然のごとく用いていることもすこぶる興味深い。詳細とその評価に言及しないが、こうした言葉は、1オクターヴは8音の「幹音」で構成される(両端を含む)として、それぞれに1〜8の番号を振って二音間の隔たりを表現する用語法だ。「5度」の一半音上の音は「増5度」になる。馬鹿ばかしくも、一半音は、「減2度」と言う。
 今日の日本の「音楽大学」等での「専門」的音楽理論教育で用いられている術語は、20世紀初頭のドイツでとっくに成立していたようだ(明治期・戦前の日本の「専門」音楽界はそれを直輸入した)。
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2639/私の音楽ライブラリー①。


 音楽を味合うにもコンサート等のライブと録音再生 とでは違い、アナログレコードとCDでも違う。配信される音源にも通常のCDの音質を超えるとされる「ハイレゾ」(Hi-Rez)またはFLacやWav様式のものもある。私は、PCに向かうときは(下の03追以外は)、Hi-Rez対応のスピーカ(と再生機)を用い、またはHi-Rez 同等以上とされるApple-Lossles でSSDにコピーしたものを聴いている。
 だが、以下は全て、Youtube にリンクさせる。Youtube の音質は最高でふつうの「AAC」とされていて、Hi-Rez、Apple-Lossles に及ばない(AppleがLossles に対応したAirPods-Proを売っていないのは不思議だ。iPad 経由でもHi-Rez対応のSony 製イアフォンとAirPods-Proとでは明らかに前者で聴く方が精細さで優る。iPhone もAACなので、高音質にするにはLDacが必要)。
 したがって、満足はしないが、Apple-Music に直接にリンクさせることは困難なようなので、Youtube を利用させていただく。〔〕内は、upload してくれている人・団体の名。
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 01 →Schumann, Cello Concerto op.129 (Jacqueline du Pre)、〔Araks Gyulumysn〕
 冒頭の和音三つで、あっさりと虜になった。相対音で、ミ·ラ·ドは三音のそれぞれに入っているだろうが、不思議な和音だ。そのあとも好ましく、ミラシドラファレファミ·ミレ♯…も美しい。
 もともとピアノ曲よりもバイオリン曲の方がどちらかと言うと好みだが、弦楽器ではチェロも同等にに好きになる契機になった。低音の重厚さはバイオリンでは出し難く、チェロはけっこう高い音も出る。
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 02 →Mendelssohn, Symphony No.3 (Karajan, Berlin PhO)。〔Berlin PhiharmonicOrchestra-Topic〕
 最初の、ミラシドシレラシ·ラドミミレラドシララソ♯という主題はゆっくりと単純で、郷愁を誘うかのようだ。こんな旋律を基調にして交響曲が作られているとは、素晴らしい。
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 03 →Chopin, Nocturn No.20 in C♯-minor, Op Posth (Nobuyuki Tsujii)。〔Classical Vault 1〕
 どちらかというとバイオリンやチェロ曲の方が好きだが、ショパンのピアノ曲にはやはり良いものがある。
 とりわけ、辻井伸行が弾くこの曲は、この曲の演奏の中でも最も秀逸ではないか。
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 03追 辻井伸行といえば、以下にリンクを張りたくなった。
 →Nobuyuki Tujii, La Campanella。〔KogumaMischa〕
 場所はロンドン。本来の演奏が終わったあとに続くアンコールをいったん辞退して舞台から消えるが、それでも鳴りやまないアンコールの拍手に応えて再登場して<ラ·カンパネラ>を弾く。すでに疲れているからか、聴衆の熱気に押されてか、辻井のこの演奏は「激しい」。ウィーンでの同曲の演奏よりも魅かれる。
 辻井伸行が「born blind」、生まれながらに盲目であることについては、「言葉もない」。
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 04 →映画·砂の器-菅野光亮「宿命」-シネマ·コンサート2022。〔PROMAX〕
 この映画を1974年に観た。原作と主題がやや異なるが、音楽の美しさは強く印象に残った。
 そのサウンド·トラックの生演奏の一部を加藤剛がピアノを弾く姿とともに視聴できて、懐かしい。
 冒頭の旋律は、ラシドドミシララ…か。
 映画音楽ですぐに思い出すのは、ドクトル·ジバゴ(1965年)の「ララのテーマ」だ。ほとんどロシアの大自然と音楽(と主人公等の容姿)だけが記憶に残り、当時は「ロシア革命」について何も知らなかったけれども。
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2638/「ドレミ…」の7音と白鍵・黒鍵。

  1オクターブ12(13)音のうち主要なのは、ドレミファソラシ(ド)という7音(8音)だ。あるいは、ABCDEFGの7音だ。
 ピアノ・オルガン類でこれらだけが白鍵で弾かれ これら以外の「派生音」は#または♭が付き、ピアノ・オルガン類では黒鍵で弾かれるのは、いったいなぜだろうか。
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  YouTubeを含むネット上に、「音大卒が教える〜」と称するサイトがある。その他にも、音楽または「音楽理論」の「専門家」の(又はそれらしき)人々が書いた、または語った、「音楽理論」に関する情報が溢れている。
 「現在の音階は古代ギリシャの哲学者・ピタゴラスが作った」と無邪気な間違いを堂々と語っている人がいた。それでも、総じては、役立つ、参考になるものがある。
 しかし、物足りないと感じたり、そのような説明に何の意味があるのか、と疑問に思ったりすることも多い。
 そして、上のに掲げた問題にどのように解答しているかに関心をもつが、この疑問を解消してくれる説明を読んだり見たりしたことはない。
 「幹音」7つと「派生音」5つで1オクターブが構成される。ピアノ等の鍵盤楽器では前者は白鍵で、後者は黒鍵で弾かれる。これらはいったいなぜか、なぜそうなったのか、という問題だ。
 1オクターブは12音で構成されるということと「ドレミファソラシ(ド)」の幹音7つによる音階設定を自然現象のごとく当然視していたのでは、解答することができないだろう。
 なお、「幹音」と「派生音」という用語とこれらの区別が日本の「専門」音楽教育で一般的に定着しているのかは、私は知らない。
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  <音楽情報サイト🎵ハルモニア>が、「ピアノの黒鍵はなぜあの位置に?鍵盤楽器の黒鍵・白鍵の並び方の意味」をつぎのようにまとめている)。
 ①「白鍵と黒鍵の独特な配置により、12種の音の位置が視覚で瞬時にわかる」。
 ②「黒鍵を奥に配置して浮かび上がらせることにより、離れた音でも片手で同時に弾いたり、行き来したりすることができる」。
 納得できるのは後者だけだ。ヒト・人間の手・てのひら・指の大きさからする条件が、鍵盤楽器には課せられるだろう。だが、両手を用いて弾くのなら、この限界は問題でなくなるかもしれない。
 また、この説明では1オクターブ12音と白鍵7音が前提とされているのだろうが、この前提自体に関する説明はない。
 前者は、「独特な配置」の根拠・背景に触れていないので、何も語っていないのとほとんど同じだ。白鍵と黒鍵が交互に並んでいたのでは音の適切な位置が分かりずらい等だけでは不十分だろう。
 なぜ白鍵7つで黒鍵5つなのか、
 加えて、黒鍵5つはなぜ左側に白鍵に挟まれて二つ、右側に白鍵に挟まれて三つ配置されているのか。
 なぜ左側に三つ・右側に二つではないのか。
 あるいは、左側に黒鍵一つだけ、右側に黒鍵四つ(またはその反対)でも、黒鍵5つ、白鍵7つを構成できるのではないか。
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 この問題に適切に回答するためには、「ドレミ〜」の7音の音階の特徴を語る必要がある。以下、いわゆる「長調」に話題を限る。
 すなわち、その重要な特質は、<十二平均律>でもそうなのだが、残る他の7音の間の関係と異なり、E-FとB-Cの間だけは「半音」関係だ、ということだ。
 「全音」と「半音」の厳密な意味(周波数または周波数比の違い)は同一ではないが、ピタゴラス音律でも純正律等でも、幹音相互の関係に、「全音」と「半音」の区別があった(純正律では二種の「全音」があった)。whole-half、ganz-halb の区別があった。
 そして、厳密な高さ(周波数比)は違うが、E-F、B-C の間は「半音」だった。 
 これが<十二平均律>でも維持されている。だから、E-F、B-Cの間には、「全音」を分割する「半音」=黒鍵が置かれないのだ。
 なお、「全音」一つの分割方法は<十二平均律>では単純だが、歴史的にはかなり複雑だ(単純な周波数比ましてや周波数の数値の中間値ではなかった。純正律の場合は「派生音」の周波数の数値自体に諸説があるようだ)。
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  ピタゴラス音律、純正律等(中全音律=ミーントーン等々)において、なぜE-F、B-Cだけは「半音」とされたのかに、さらに立ち戻らなければならない。
 唐突だが、この問題は、<十二平均律>での音階が説明される中でネット上でもしばしば言及される「五度圏」に関係している。
 「五度圏」という術語自体がピタゴラス音律の歴史を引き摺っていると私には思える。
 それはともかく、「五度圏(表)」は相当に興味深いもので、1オクターブ12音自体を疑問視しない限りは、「音楽理論」と多様な関係がある。
 例えば、五線譜での楽譜上で調を発見するのに役立つともされる。
 しかし、(長調の場合は)「シミラレソドファ」または逆の「ファドソレラミシ」を「覚えなさい」という説き方だけでは、音楽「理論」をつまらない知識の集合にしてしまうだろう。
 さて、上の並びは、<調>の探索に際して、楽譜上の最初に付されている調号記号の♭(フラット)が楽譜上の「シ」の位置に一つあればヘ長調、「シとミ」に二つあれば変ロ長調、…、#(シャープ)が楽譜上の「ファ」の位置に一つあればト長調、「ファとド」の位置に二つあればニ長調、…、ということを示す、という意味がある(旋律自体を弾けば又は歌えば容易に判明するので、こんな面倒なことをする人がいるのだろうか、とも思うが)。
 しかし、より重要なのは、上で得られる長調の順序は(#を優先すると)「トニイホロ」になり、その前に調号記号が何も付かない「ハ」長調、とさらにその前に♭が1つだけ付く「へ」長調を加えると、「ヘハトニイホロ」の順序になる、ということだ。
 これは、「ドレミ…」を相対音の表記にのみ用い、絶対音を「ABC…」で表記するとすると、F-C-G-D-A-E-Bの各長調(major、dur)を意味する。つまり、これらを「主音」とする長調の並びを意味する。
 そして、ピタゴラス音律での各音設定過程での出発点である一定の音をかりにFとすると、上の7音はつぎつぎと3/2を乗じて(1-2の範囲内になるよう1/2又はその乗数を掛けて)得られる、ピタゴラス音律での各音に合致している。
 F=1、C=3/2、G=9/8、D=27/16、A=81/64、E=243/128、B=729/512。
 これをC=1にして書き換えると、つぎのとおり。
 F=2/3、C=1、G=3/2、D=9/8、A=27/16、E=81/64、B=243/128。
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 上の7音は全て、♯や♭の付かない「幹音」だ。順序を変えて、小さい順に並べると(但し、1-2の範囲内になるよう、F=4/3とする)、つぎのようになる。
 C(1)、D(9/8)、E(81/64)、F(4/3)、G(3/2)、A(27/16)、B(243/128)。
 これはCをかりに「ド」と言うと、ピタゴラス音律での「ド〜シ」の音階だ。1オクターブ上のCを加えると、「ドレミファソラシド」になる。
 このピタゴラス音律での音階において、各音の差異(周波数比)は、こうなる。
 E-F、4/3÷(81/64)=256/243
 B-C、2÷(243/128)=256/243
 これら以外の、隣り合う各音の差異(周波数比)は、計算過程を示さないが、全て、9/8だ。
 ピタゴラス音律における「全音」は対前音比9/8(=1.125)で、「半音」は対前音比256/243(=約1.0535)ということになる。
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 繰り返す。
 第一。ピタゴラス音律の各音設定過程での(一定の基音の設定を一回と数えて)7回の計算作業で生じる7音は、全てが現在に言う「幹音」で、「ドレミファソラシ(ド)」を構成できる。12音のうち、最初に設定できる7音こそが、現在にいう「幹音」であり、その後の計算作業で残る5音の「派生音」が生まれたのだ。
 第二。7つの幹音の相互関係を吟味すると、E-FとB-Cの差異(周波数比)だけが「半音」で、これら以外は、同じ大きさの「全音」だ。
 これらは、ピアノの白鍵と黒鍵の配置関係にすでに対応している、と言えないか? 例えば、E-F、B-C の間には黒鍵は存在しないことになる。これは、ピタゴラス音律であってもすでに見られる現象だ。現在の<十二平均律>は、具体的数値を変更はしたが、これらを継承しているのではないか。E-F、B-Cの間には黒鍵を置かず、それら以外の「幹音」の間には黒鍵を挿入すると、現在に一般的なピアノ等の白鍵(7)・黒鍵(5)の配置になる。
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2635/<平均律>はなぜ1オクターブ12音なのか②。

  Mac-OSの中に付属しているGarageBand という演奏・作曲補助アプリも、近年開発されているらしい諸コンセプトを告げれば自動的に作曲をするというAIアプリも、坂本龍一の「戦場のメリークルスマス」も、<十二平均律>にもとづいている。
 それによると1オクターブは12音(両端を含めると13音)で構成される。だが、この1オクターブが12音で構成されるということは、決して「自然」または「当然」のことではない。
 一方で、ある音に1あるいは2オクターブ上の音、1あるいは2オクターブ下の音が存在するということは、「自然」の現象だ。
 ある音の周波数を2倍、4倍、1/2倍、1/4倍にしたものを同時に響かせると、最も振幅の短い、多数の周波数をもつ音に全てが吸収されて、人間の通常の聴感覚では「同じ一つの」音に聞こえる、というのは、人為を超えた「自然」なことだ。
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 しかし、1オクターブが12音で構成されるというのは、「人為的・歴史的」な現象だ。なぜ、そうなったのか。
 <十二平均律>では基音の1オクターブ上の音は基音のちょうど2倍の周波数をもつ。そして、その1オクターブの中に高さの異なる12の音を「平均的」に配置したのが<十二平均律>だ。「平均的」=隣り合う音の周波数比が全ての音の間について同一に。
 だが、1オクターブを一定の数の音に「平均」的に配置するだけならば、<10平均律>でも、<15平均律>等々でもよいはずだ。なぜ、<12平均律>なのか。
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 ピタゴラス・コンマを除去する前の(1オクターブ内での諸音設定のための)計算過程では、「12」回めの数値は前回に記したように約2.0273になる(これは基音1に3/2を乗じ続けることを前提としての数値だ。3/2で除し(割り)続けることを前提にすると「12」回めの数値は約1.9731になる)。
 上のような計算を「53」回続けると、計算結果の数値はさらに2に近づき、差異は0.01以下の約2.0042になるとされている(12回を超えて13回、14回と増えるごとに徐々に2に接近していくのではない)。
 素人判断ながら、このことは今日にでも<53平均律>が語られることにつながっていると見られる。
 しかし、1オクターブ内に53の異なる高さの音を配置するのは、人間の通常の聴感覚からして、現実的ではない。なぜなら、ふつうの人間は1オクターブ内の異なる53もの多くの音を聞き分けることができないだろうからだ。
 53というのは、例えばピアノの1オクターブ内に現在の4倍以上の鍵盤を設ける(一つの白鍵・黒鍵をさらに上下左右に分ける?)ことを意味する。
 楽器製作の便宜はともかくとしても、現在に言う「半音」一つがさらに4つ以上に分割された場合、よほどに「耳の良い」人は例外として、聴き分けることができるとは思えない。
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 1オクターブ12音とされる歴史の中で決定的に重要だったのは、ピタゴラス音律の成立過程で、「12」回めの計算でほぼ2という数値(=ちょうどほとんど1オクターブ上の周波数値)が得られたことだと考えられる。
 かつまた、その「12」という数字に魅力、魔力があったからだ、と見られる。
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  「12」という数字の魅力、魔力、「特別の意味」と言うだけでは、厳密な答えにはなっていないだろう。
 だが、この点は、多くの人が容易に思いつくことがあるだろうので、多言は省略する。
 素人論議だが、数点だけ書いておきたい。
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 第一。キリスト教世界では元々、こういう考え方があった、とされる。神は、全てを「完璧に」、「美しく」創造した。音、「音楽」の世界も完璧で美しく構成されているはずだ。
 そして、ピタゴラス音律での1オクターブ「12」音もこれを背景にしている、という旨の説明を読んだことがある。
 たしかに、西欧には1ダース(12個)という日本には元来はない観念があり、13-19とは違って11と12には日本にはない特別の数字用の言葉がある。eleven, twelve、elf, zwoelf で、thirteen,dreizehn と言っても、two-teen、zwei-zehn とは言わない。
 また、キリストには12人の「使徒」がいた、とも言われる。
 そうすると、ピタゴラス音律が結局は1オクターブ12音を採用したことも理解できなくはない。あるいはその前に、弦の長さを調節している過程で、弾いた音がちょうど1オクターブ上になる場合を(長さを3/2または2/3にするのを繰り返して12回めに)発見した、と感じたのかもしれない。
 もっとも、1から出発して3/2または2/3の乗除を続ける計算では「永遠に」ぴったり2にならないことは、古代の数学でも分かっていたと思われる。
 それでもしかし、約2.0273(または約1.9731)は2と同一視できる範囲内だと考えたのかもしれない。またその上に、この端数であるピタゴラス・コンマを除去して正確に2にするために、必ずしも簡単ではない「工夫」を(12種の音の設定自体の過程で)したのかもしれない。
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 第二。東洋でもピタゴラス音律に似た音階設定の考え方はあったとされるのだが、それは別としても、「12」という数字への注目は、東洋にも、そして日本にもあったし、今でもある。
 子丑寅…の<12支>だ。またこれと<10干>を連結した言葉もある(壬申の乱、戊辰戦争等。明治新政府は「邪教」としたのかもしれない「陰陽五行説」の影響が残っている)。薬師如来を守護する仏(神)としての「12神将」というのも知られている(奈良市・新薬師寺に大きいもの、山形県寒河江市・慈恩寺に小さいものが残っている)。
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  これらにも関心は向くのだが、そもそも、「12」というのは、ヒト、人間にとって、太古の昔からきわめて重要な数だったと思われる。
 自分たちが生きる地球と太陽の関係(天道か地道か)を正確には知らなくとも、日出・日没あるいは昼夜の反復ごとに「一日」を感じるのは極北・極南にいないかぎりヒトの発生以降普遍的なことだっただろう(この感覚は、ヒトの「睡眠」神経中枢の形成に関係したかもしれない)。また、寒暖または季節の変化の反復によって、「一年」という感覚も生じただろう。
 同時に、地球と月の関係についての正確な知識はなかったにしても、月の満ち欠けを大昔から知っていたに違いなく、新月または満月の繰返しは、太陽(日)との関係で知覚していた「一年」の間にほぼ12回あるという知識も積み重ねていっただろう。
 暦の歴史に関する知識は全くないが、太陰暦が太陽暦に先行したらしいことも十分に理解することができる。一年を一日以上の単位で区切るとすれば、曖昧な寒暖や四季を別にすると、「12」しかなかったのだ。
 その12ヶ月=一年は、太陽暦になっても維持されている(閏月もなくなって月の実際の干満との不適合が大きくなっても)。「三日月」とか「十五夜」という言葉は、今でも使われている。
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 「とき」、時間をどう把握し、どう区切るかは、人の生活にとって、そして人間集団の諸活動にとって、きわめて重要だったはずだ。
 1、2、4に次いで、3、5、6、8と同程度の意味・重要性を、12はもっていただろう。
 そのことは、現在の「時計」を見てもよく分かる。数字付きであれば、1から12までがある。1時間=60分=5分の12倍。午前12時間、午後12時間。
 日本でも「12支」を使って一日の間の時刻を表現することが行われていた(丑三どき等)。なお、方角の指示も、これによっていた(丑寅・鬼門、巽=辰巳等)。
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  常識的なことを上で長々と書いたかもしれないが、要するに、つぎのようなことだ。
 <平均律>というだけならば、非現実的な<53平均律>でなくとも、<10平均律>でも<13平均律>でも、<15平均律>でもよいはずだ
 1オクターブ内の異なる高さの15-16音くらいまでは、通常の人間の聴感覚で区別できるのではないかと思われる。
 なぜ<十二平均律>になったのかが、疑問とされなければならない。
 直接の背景・根拠だと考えられるのは、純正律でも、その前のピタゴラス音律でも、<1オクターブ12音>が採用されていた、ということだ。このような歴史的背景がある、ということだ。
 この意味で、ピタゴラス音律が「音楽」の世界に与えた影響はきわめて大きかったと思われる。
 そして、そこでの「12音」の採用には、「12」という数字の一般的な重要性も影響した、と考えられる。
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 なお、念のために書いておく。ピタゴラス音律と<十二平均律>は、<1オクターブは異なる高さの12音で構成される>という点では同じだ。しかし、一定の最初の音(基音)以外の11の音の高さ(周波数)は全て、同じではない。1オクターブの中に12の音があることに変わりはないので、ある程度は似たような高さの音が設定されるとしても。
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  欧米で<十二平均律>がすでに支配的になっていた時代に、日本は「西洋音楽」を輸入した。「文明開花」の時代、「西洋文明の継受」の時代だ。この時代には、今日に言う戦前・戦後の間以上の大きな変化があったと思われる。
 音楽の世界では、音楽大学等を通じて、おそらくドイツ(・オーストリア)の「音楽理論」が急いで直輸入された。三Bの最後のブラームスでも、1833年〜1897年没。モーツァルトは、1756年生〜1791年没。シューベルトは、1797年〜1828年没。
 (余計ながら、「完全五度」・「完全四度」、「長三度」・「短三度」等の術語や<十二平均律>を主体にしてピタゴラス音律や純正律等との差異を「セント」という単位を使って説明するという方法は、現在の「専門」音楽教育でも依然として使われているようだ。いいかげんに改めた方がよいと素人の私には感じられるものがある)。
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 そうだとすると、「西洋音楽」の背景にあったかもしれない教会音楽、宗教音楽、そしてキリスト教という宗教の影響を、日本が受けても不思議ではなかった。だが、日本は「表面」または「形式」・「様式」だけを導入した。あるいは「魂」ではなく「技術」だけをすみやかに継受した。
 ところで、「君が代」は古歌・古謡とされ、明治期以前にすでに各地方に「民謡」があったに違いない。だが、日本独自の音階「論」があったわけではなさそうなのは不思議なことだ。仏教寺院での声明(しょうみょう)という経の唱え方は一種の旋律で、楽譜にあたるものもある、とも言えそうだが、仏教界以外の音楽一般へと発展はしなかったようだ。
 むしろ、実際にそうであるように、「君が代」も各種「民謡」も、おそらく「西洋音楽」を前提とした楽譜(高低二種の五線譜)で表現され得るものであることが、「西洋音楽」の広さ・深さを感じさせる(琉球民謡もアラビア風旋律も同じ)。楽譜に写され得ないとすれば、いわゆる半音の4分の1、8分の1程度の微細な高さの違いがあるのだろう。
 楽譜化できる日本音階(和音階)での長調と短調という話題に発展させることができなくもないが、立ち入らない(「君が代」はレミソラドレ(上昇時)という音階による)。
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  12(13)音のうち主要なのは、ピアノでは白鍵で叩かれる、C=ドとしてのドレミファソラシ(ド)という7(8)音だ。あるいは、イロハニホヘト、ABCDEFGの7音。「幹音」とも称される。
 これら以外はなぜ、♯(嬰)や♭(変)付きで表現されるのだろうか。この疑問とほぼ同じ意味であるのも不思議、あるいは興味深いが、ピアノ・オルガン類でこれらだけが白鍵で、その他は黒鍵で弾かれるのは、いったいなぜだろうか。
 この問題についても、素人的な想定・仮説を持っている。やはりピタゴラス音律の生成過程に関係する。別に記してみる。
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2632/<平均律>はなぜ1オクターブ12音なのか。

  音の高さは音波の1秒間の振動数(周波数、frequency)によって表現され、周波数が大きくなると高くなる。周波数の単位はヘルツだ(Hz、学者のHeinrich Hertz の名に由来する)。
 そして、一定の何らかの音(基音と称しておく)の周波数を2倍、4倍、8倍にすると基音の高さのそれぞれ1オクターブ上、2オクターブ上、3オクターブ上の高さの音になり、基音の周波数を2分の1、4分の1、8分の1にすると基音の高さのそれぞれ1オクターブ下、2オクターブ下、3オクターブ下の高さの音になることが知られている。
 88鍵のピアノを想定すると、鍵盤部分の中央やや右にあるA(C=ドとすると、ラ)の鍵盤の音の周波数は440.000Hzだとされる(世界的な取り決めがあるようだ。但し、ソロでピアノ、ヴァイオリン等を演奏する場合にこれを厳密に守る必要はなく、ある程度は「好み」によるだろう)。
 88鍵だと8個のAを弾くことができ、440HzのAは5番めの高さでA4とも記載される(A0が最初)。その1、2、3オクターブ上のA5、A6、A7の周波数はそれぞれ、880Hz、1760Hz、3520Hz、1、2、3オクターブ下のA3、A2、A1の周波数はそれぞれ、220Hz、110Hz、55Hzだ。
 楽器がピアノでなくとも一般に、一定の何らかのの音(基音)とその1オクターブ上の音または下の音の間の1オクターブの間に、基音の周波数と2または1/2の乗数関係のない周波数をもつ別の音を配置して、一連の異なる音から成る何らかの音階を設定することができる。
 現在に圧倒的に多く採用されているのは、一定の基準を使って12の音を設定し、周波数の小さい順に配置するものだ。
 理屈上はどの音からでもよいが、かりにAから始めるとA,A#(B♭),B,C,C#(D♭),D,D#(E♭),E,F,F#(G♭),G,G#(A♭)の12音だ。なお、A#とB♭、D#とE♭等は現在では異名同音だが歴史的には別の音(異名異音)とされたことがある。また、ドイツでは今でも上の場合でのB♭をB、BをHと称することがある。
 問題は、なぜ12音(両端の音を含めると13音)なのかだ。
 また、付随して、上の#や♭の付かない音と付く音(A#やE♭等)の表記方法にも表れているが、ピアノでの12音はなぜ、白鍵で弾く7音と黒鍵で弾く5音に区別されているのか、も疑問だ。この付随問題も鍵盤楽器を用いたピタゴラス音律の確立過程に原因があると推測しているが、以下ではこの問題には全く触れない。
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  現在の1オクターブ12音階は、ギリシア古代のピタゴラス(ピタゴラス音律)に由来すると説明されることが多い。そして、遅くともバッハ(Bach)の時代には確立されていたようだ。
 バッハに「平均律クラヴィーア曲集/第1巻・第2巻」があるが、12音全てを主音とする長調と短調の曲(12×2=24)が2セットある(計48曲)。
 長調と短調の区別がすでに18世紀前半に成立していたようであることも興味深いが、そもそも12の音の区別が前提とされていることが重要だ。
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  バッハの時代に1オクターブ12音階がすでに確立され、ピタゴラス音律が基盤となっていたとしても、それらでもって現在の12音階と12音の設定の方法ないし基準を説明し切ることはできない。
 なぜなら、現在の「音楽」を圧倒的に支配している12音設定方法は<十二平均律>と言われるものであるところ、バッハの時代に<十二平均律>が現在のように圧倒的に採用されていたかは疑わしいからだ。
 上の<平均律クラヴィーア曲集>にしても、ドイツ語ではWohltemperierte Klavier (英語ではWell-tempered 〜)で、正確には<十分に(適正に)調律された〜>を意味し(Klavier はピアノ等の鍵盤楽器のこと)、「平均律〜」とするのがかりに誤訳でないとしても、現在にいう「(十二)平均律」を採用していることを意味してはいないと考えられる。
 また、現在の<十二平均律>の圧倒的採用までに、<ピタゴラス音律>、これの欠点を除去しようとした<純正律>その他の音律・音階が使われていたことが知られている。モーツァルト(Mozart)は広い意味での<純正律>の一つでもって自らのピアノ曲を弾いていた、と言われてもいる。
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  「美しい」かどうか、「より美しい」のはどれかは主観的な判断基準で、その代わりに「調和している」という基準を用いるとすると、少なくとも一定範囲ではまたは一定の諸音の関係では、現在の<平均律>よりも<ピタゴラス音律>や<純正律>等の方が「調和性が高い」、と私は思っている。なお、この調和性も主観的基準だが、一定の音との周波数比の簡潔さはある程度は客観的に判断できそうだ。また、1または2オクターブだけちょうど異なる音を「同じ」と感じる「聴感覚」も、主観的だとは言える。
 詳論は避けて、①C、②E、③F、④G、⑤1オクターブ上のC(に近い音=C’)の周波数比が基音C=1との関係でどうなるかを、結論だけ以下に示す。下4桁まで。ピ音律=ピタゴラス音律。
 ピ音律—1,81/64=1.2656,4/3=1.3333,3/2=1.5,2.0273*
 純正律—1,5/4=1.25,4/3=1.3333,3/2=1.5,2
 平均律—1,1.2599,1.3348,1.4983,2
 (* この余剰分を「ピタゴラス・コンマ」と言い、これを除去してちょうど2になるよう各音の設定の一部を修正したものをピタゴラス音律と言うこともある。この余剰の数値にも議論はある。)
 ピタゴラス音律、純正律では、各12音の全てを分数表示することができる。
 平均律では、できない。隣り合う12の各音(および最後の音と次の1オクターブの最初の音)の周波数比を完全に「同一」にするのが平均律の最大の目的だからだ(その周波数比は2の12乗根で、約1.0595になる)。
 この点は重要だが別論として、C-F,C-Gの周波数比は上記のとおり、ピタゴラス音律と純正律ではそれぞれ4/3,3/2で、これら2音は「よく調和する」と言える。周波数比がより簡潔な数字で表現されていれば、調和性が高いと言うことができる。
 純正律ではさらに、C-Eが5/4で、この2音はよく調和する。この純正律では、C-E-Gの3音は4-5-6という簡潔な周波数比となる(このC-E-Gとは「ドミソの和音」だ)。
 現在に(ジャズでもJ-popでも坂本龍一でも)圧倒的に採用されている<十二平均律>での離れた2音の関係は、少なくともC-F,C-Gについては、調和性が他者に比べて低い(あり得る表現によれば「美しくない」、「濁っている」)。C-F は1.3348、C-G は1.4983という複雑な数値であり、かつこれらには「約」がつく(小数表示は尽きることがない)のだ。
 十二平均律の長所・利点、有用性を私が認めないわけではない。記していないが、純正律には(ピタゴラス音律よりも)大きな欠点があると思われる。
 ここで注目したいのは、その<十二平均律>であっても、ピタゴラス音律・純正律等のこれまでに開発され工夫された音律または音階設定と全く同じく、1オクターブは12音(+1で13音)で構成されることが維持されている、ということだ。
 <平均律>には利点、実用的有用性(とくに転調の可能性)があるのだが、それだけならば、12ではなく、<10平均律>でも、<15平均律>でもよいのではないか。実際に「53平均律」で作られた曲や、現在に通常の半音関係をさらに半分にしたいわば四半音階を使った曲があると何かで読んだことがある(聴いたことはない)。
 <12平均律>が現在の音楽をほぼ支配しているのは、ピタゴラス音律以降の(西洋)音楽の歴史・伝統を継承しているからだ、とは容易に言える(それが明治期に日本に輸入され、日本の音楽界も支配した)。だが、加えて、ピタゴラスもまた重視したのかもしれない「12」という数字に魔力・魅力があったからだろう、と私は素人ながら想定している。
 本当にピタゴラスだったとすれば、そのピタゴラスはなぜ、1とほぼ2の範囲内に収まる数値を見つけるために、1に3/2をつぎつぎと乗じていく回数を「12」回で終え、2.0273…で満足したのだろうか。
 ①3/2→②9/4÷2→③27/8÷2→…→⑫=3の12乗/2の18乗=約2.0273
 「12」という数字に特別の意味を感じ取ったことも、重要な理由の一つだったのではないか。
 音楽は、いろいろな意味で、なおも面白い。
 …
  池田信夫ブログマガジン2023年4月3日号に、池田麻美という人が「私の音楽ライブラリー」欄で、「戦場のメリー・クリスマス」を取り上げて、意味不明のことを書いている。
 「坂本龍一氏が死去しました。最近では、…人も多いかもしれませんが、最盛期はこの映画音楽のころでしょう。その後は音楽が頭でっかちになってつまらない。」
 最後の一文は私には意味不明だ。この人が毎週取り上げているような音楽こそが、特定の音楽分野を嗜好する「頭でっかち」さを感じさせる。この人は、音楽全般を、「平均律」や「純正律」等々を、優れた日本の「演歌」類を知っているのだろうか。坂本龍一もまた用いただろう楽譜はなぜ「五線譜」で、「六線譜」等ではないのか、と疑問に思ったことはあるのだろうか。
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2467/音・音楽・音響⑨。

  昨年12月の全日本フィギュアの男子「規定」で羽生結弦選手が使っていたのは、つぎの曲だった(但し、ピアノ演奏へと編曲したもの)。
 Saens-Saëns, Introduction and Rondo in A-moll op.28.
 この曲は、前回No.2438で記載した「好み」の10曲の中に入っている。
 最も新しく興味を惹いた「美しい」曲に、つぎがある。
 Myaskovsky, Cello Sonata #2 in A-moll op.81.
 Nikolai Myaskovsky という作曲家の名も、これを弾いている、Liliana Kehayova、Marina Tarasova、Natalia Gutmanという三人のCellist の名も知らなかった。Cello の主旋律に、Piano が寄り添ったり、絡みあったりしている。
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  先の10曲よりもずっと前にこの欄で言及したのは、馴染みがまだあった、つぎだった。
 Mendelssohn, Violin Concerto in E-moll op.64.
 これら11曲と上のMyaskovsky,Cello Sonata 以外の、この一年間で聴いて「気に入った」曲を、以下に列挙する。一部は、以前から知っていた。
 ほとんどが聴いた直後にメモしていたもので、聴いたこと自体に、またメモしたこと自体に、種々の偶然はある(体調、気分の状態も影響する)。
 総じて、短調曲が多く、Violin、Cello 中心の曲に偏しているだろう。
 特定の曲・旋律を好きになったり、そうでなかったり、自分も含めて、いったい人間の脳の感覚器官、聴覚細胞、あるいは「美」的感覚・「美」意識というのは、どうやってできているのだろう、と不思議に思う。
 最後の52はViolinist Perlman の全集内のKlezmer曲で、作曲者不明。
 全て、ロシア(・ソ連)を含めての<ヨーロッパ音楽>だ。但し、32のScheherazade には西アジアの風味がある。
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 01 Bach, Violin Concerto #1 in A-moll BWV1041.
 02 Bach, Partita II BWV1004 in D-moll: V Chaconne.
 03 Bach, Harpsichord Concerto in D-moll BWV1052.
 04 Bach, Fantasie & Fugue G-moll BWV524.
 05 Bach, Toccata & Fugue in D-moll BWV565.
 06 Bartok, Romanian Folk Dance Sz.56.
 07 Beethoven, Violin Sonata #4 in A-moll op.23.
 08 Beethoven, Concerto for Violin and Piano #7 in C-moll op.30-2.
 09 Beethoven, Piano Sonata in C sharp-moll op,157.
 10 Beethoven, Triple Concerto in C op.56.
 11 Boccherini, Cello Concerto in Bflat.
 12 Brahms, Symphony #4 in E-moll op.98.
 13 Brahms, Concerto for Violin and Cello in A-moll op,102.
 14 Bruch, Scottish Fantasy op.46.
 15 Chopin, Piano Concerto #1 in E-moll op.24.
 16 Chopin, Impromptu #4 in Csharp-moll op.66.
 17 Dvořák, Symphony #8 in G op.68.
 18 Dvořák, Cello Concerto in E-moll op.104.
 19 Glass, Violin Concerto.
 20 Grieg, Piano Concerto in A-moll op.15.
 21 Grieg, Violin Sonata #3 in C-moll op.45.
 22 Händel, Concerto grosso in G-moll op.6-6.
 23 Haydn, Cello Concerto #1 in C.
 24 Liszt, Piano Concerto #1 in Eflat S.124.
 25 Mendelssohn, Piano Trio #1 in D-moll op.49.
 26 Mendelssohn, Octet in Eflat op.20.
 27 Monti, Csárdás.
 28 Mozart, Symphony #40 in G-moll K.550.
 29 Mozart, Piano Concerto #23 in A K488.
 30 Paganini, Violin Concerto #4 in D-moll.
 31 Prokofiev, Violin Concerto #2 in G op.63.
 32 Rimsky-Korsakov, Scheherazade op.35.
 33 Saint-Saëns, Symphony #3 in C-moll op,78.
 34 Saint-Saëns, Cello Concerto #1 in A-moll op.33.
 35 Sarasate, Zigeunerweisen op.20.
 36 Schubert, Schwannengesange D947, No. 4 Ständchen in D-moll
 37 Schumann, Symphony #3 in Eflat op.97.
 38 Schumann, Symphony #4 in D-moll op.120.
 39 Schumann, Sonata for Violin & Piano in A-moll op,105.
 40 Schumann, Piano Concerto in A-moll op.54.
 41 Schumann, Fantasie in C op.131.
 42 Schumann, Introduction & Allegro for Piano &Orchestra op.92.
 43 Schumann, Violin Concerto in D-moll WoO1.
 44 Shostakovich, Three Duets for two Violins & Piano op.97d.
 45 Shostakovich, Cello Sonata in D-moll op.40.
 46 Tchaikovsky, Symphony #6 in B-moll op.74.
 47 Tchaikovsky, Serenade for String Orchestra in C op.48.
 48 Tchaikovsky, Piano Concerto #1 in Bflat-moll op.23.
 49 Tchaikovsky, Piano Trio in A-moll op.50.
 50 Weinberg, Cello Sonata #2 op.63.
 51 Wieniawsky, Violin Concerto #1 in Fsharp-moll op.14.
 52 Itzhak Perlmann(violin), A Jewish Mother.
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2438/音・音楽・音響⑧。

  小学生高学年か中学生の頃、つぎを聴いて何と「美しい」音楽・旋律なのだろうと感じた。
 ①Tchaikovsky, Swan Lake Suite op.20a, Scene.(白鳥の湖/情景)
 同じ頃、つぎも、よく耳にした「美しい」音楽・旋律だった。
 ②Beethoven, Bagatelle in A-moll WoO59.(エリーゼのために)
 少し長じて、Beethoven, Mozart, Tchaikovsky の三人のいわゆるクラシック曲は、オーソドクスなものとして、ある程度は馴染んだ。あくまで、ある程度は、だったが。
 中間の期間が永くあって、近年に多少意識的にさまざまのクラシック又はヨーロッパ音楽を聴いてみると、何となく聞いたことはあったが作者や曲名を知らなかったものや、初めて聴く曲の中に、とても「美しい」ものがあることを知り、大仰には、生きていてよかったと思う。
 例えば、以下の小曲だ。
 ③Brahms, Hungarian Dances Nr.4 in F sharp-moll.
 ④Chopin, Nocturn #20 in C sharp-moll op.72-2.
 ⑤Dvořák, Slavonic Dances Nr.2 op.72 #2 in E-moll.
 ⑥Saint-Saëns, Introduction & Rondo Capriccioso op.28.
 ⑦Schubert, Schwannengesange D947, Nr. 4 Ständchen in D-moll.
 ⑧Shostakovich, Jazz Suite #2-6 Waltz 2 (=the Second Waltz).
 もう少し長い、本格的なものの中では、世間的には特別に有名でないかもしれないが、例えば、以下は好ましく感じる。
 ⑨Schumann, Cello Concerto in A-moll op.129.
 ⑩Mendelssohn, Symphony #3 in A-moll op.56.
 ほかに、Bach や別のBrahms の曲等々もあるが、今回は省略する。
 なお、上の①〜⑩は全て、短調ミ始まり
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  音の高さ・低さ、大きさ・小ささ、旋律の速さ(テンポ)はヒト・人間がおそらく早い時代から聴き分けてきたのだろう。
 不思議に思うのは、音楽・旋律を「美しい」とか「好ましい」とか、あるいは「厳粛だ」とか「メランコリックだ」とか等々と感じる聴感覚・大脳感覚はどうやって発生したのだろうか、ということだ。
 加えて、ある程度はヒト・人間に共通しているのだろうという側面があるとともに(例えば、陽気・活発と陰鬱・悲嘆)、個人(個体)によって、あるいは人種・民族によって「感じ方」が異なる部分があると思われるが、それは何故、どのようにして生じたのだろうか、ということだ(例えば、ドイツ系・ロシア系・東欧系・ラテン系等々)。
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  現在に日本で聞く種々の曲・音楽のほとんどは、つまるところ、西洋音楽を起源としている。一オクターブを13のいわゆる「半音」で区切り、動きをいわゆる「五線譜」で表現できることは、演歌系・ポップス系等を含めて変わりはない。
 もちろん、Abba やBeatles 等々の歌・曲も、ジャズ等々も、西洋のいわゆるクラシック音楽の系譜の中にある。新奇さの程度の違いはあるとしても。
 日本人には「懐かしく」感じられる戦前や大正時代の<にほん唱歌>も、明治期以降の「西洋化」の過程で吸収され、生まれたものだろう。
 音楽の世界で、日本は(も)ほぼ完全に<西洋の侵略>を受けたわけだ。
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  仏教上の声明(しょうみょう)とか日本の「雅楽」(あるいは三味線や琴)など、日本(またはアジア)に独特の音楽・旋律の世界があったし、あるようであることにも関心はある。
 だが、それに増して興味があるのは、すでにこの欄で少しは触れているが、周波数(Hz)が2倍になるごとに1オクターブ高くなる、その1オクターブが、A〜一つ上のAまでの(あるいはド〜一つ上のドまでの)8音で区切られ、かつE・FとB・C間だけは「半音」で、1オクターブは13音の「半音」で成り立っているのは、いったい何故か、どのような経緯でか、ということだ。
 これは当然のことでも、自然なことでもない。
 だが、普遍性があったからこそ、近代以降に日本も含めて、たぶん世界的に受容されたのだろう。
 だがしかし、それは<西洋音楽>の発展の程度のほか、一種の技術的な導入の容易性のゆえである可能性が高いと思われる。
 というのは、Bach 等によるバロック・クラシック古典派の成立は賛美歌等々の教会音楽を、そしてキリスト教(またはキリスト教的合理性)を背景にしているとされる。そして、キリスト教世界以外の諸国・諸民族は、そこまでも含めて<西洋音楽>(標語的には、「五線譜」と「1オクターブ13半音」=「十二平均律」)を受容した(その侵略を許した)のではないだろうからだ。
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2389/音・音楽・音響⑦。

  この項の前回に、<ピタゴラス音律>の場合の、1オクターブ間の各音階の周波数の比を以下のように記した。C〜(1オクターブ上の)Cの各音階の周波数比だ。
 これが、①一本の長さの弦あるいは竹筒のようなものを2倍、…、1/2倍、…にすると音の高さ(周波数)が1/2倍、…、2倍、…となって、同じ(と感じる)音が重なり合うという「発見」と、②上の長さを1.5倍=3/2倍、または2/3倍=0.66666…倍(その2倍は1.333333…=4/3倍)にすることを試して生じた音を加えた高さ(周波数)を重要な基礎にしているらしい、ということも書いた。
 先走れば、基音を一度として、②の前者は今日では<完全五度>、後者は<完全四度>と一般に称されている。Cに対するGとFだ(ドレミを使うと、ドに対するソとファ)。
 その下に、<純正律>とされる場合の、音階ごとの同様の比を示す。
 ・ピタゴラス音律
 1、9/8、81/64、4/3、3/2、27/16、243/128、2。
 ・純正律
 1、9/8、5/4、4/3、3/2、5/3、15/8、2。
 一見して分かるように、①ピタゴラス音律に比べて、出てくる整数の数が小さい。最大でも15で、前者には243、128、81、64、27、16が出てくる。
 数字の単純さ、その意味での「美しさ」は純正律の方が上回る。
 ②ピタゴラス音律と純正律とで、同じ比になっている音階がある。
 基音の2倍の2は当然として、3/2、4/3、9/8の3者だ。基音をCとすると、G、F、Dの三つだ。ドに対していうと、ソ、ファ、レの三つとなる。
 今日、現代における<完全五度>と<完全四度>の基音対比周波数は、上の二つの音律においては、同じで変わらない。
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  同じく前回に、こう記した。
 「なぜ、1オクターブを12で(再来する元の音階を含めると13だが、間の音階は12)で区切るのか。そう問われて、誰も『正しく』は回答できないのではないか。
 それに、ピアノに特有のことだが、なぜ全て白鍵ではなく5つだけ黒鍵なのか、なぜEF間、BC間だけ半音なのか、という素朴な疑問も湧く」。
 こう書いてしまったが、素人頭であれこれと思い浮かべていると、つぎの「仮説」が生まれた。
 ほんの少しは「音楽理論」に関する書物を捲ったり、文章を読んでみたが、上のような簡単または幼稚な好奇心・知識欲に応えてくれているものを発見できない。
 ①基音とその2倍音を含めて、8音で1オクターブを構成するのは、古来からのほとんど絶対的な要請だった。
 「オクターブ」(octave)という言葉自体、「十月(October)」もそうであるように(8を基礎に、ある理由で2を足した)、「8」を語源としている。 8本足の「タコ」は、英語でOctopus という。
 ②なぜか。「8」を「美しい」と感じたか否かは不明だが、上のように、基音に対する<五度上>・<四度上>は重要な音階(音程)だった。
 合わせてすでに4つになるが、間隔が空きすぎていると感じた?(基音をCとすると)CとFの間、Gと上のCの間に、高さの比が同程度になるように(かつ分かりやすいように)2音ずつを加えた。
 そうすると、現在と同じ<1オクターブ8音構造>(但し、いわゆる白鍵部分のみ)ができ上がる。
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  というような空想はできるのだが、しかし、<1オクターブ8音構造>は今日まで維持されつづけているとしても、<完全五度>と<完全四度>をも含めて、現代で一般的な<十二平均律>では、基音に対する周波数比は維持されていない。
 換言すると、例えばCに対してGは3/2ではなく、Fは4/3ではない。
 <十二平均律>の特徴は、各音階間の周波数比が同一であることだ。
 正確にいえば、旧来の上の二つですでに、(Cを基音とすると)EとFの間とBと上のCの間は、他の音階間とは違って(現在にいう)「半音」になっているので、それら以外のCD間、DE間、FG間、GA間、AB間を二つに分ける上の「半音」に似た「半音」を作ることが前提になっている。
 そうすると、全体は+5で13音になり(上のCを省くと12)、この13音の間の各音の高さ(周波数)の比が、全て同一であるのが、<十二平均律>の特徴だ。そして、旧来の二つでは原則として不可能な、転調や移調が簡単に可能になる。
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  その<十二平均律>での周波数比はどうなっているのか。
 1オクターブ上(例えば上のC)の数字が2であることは絶対の不動であるので、全く同じ数字の比を12回反復すれば1→2となる、その数字を「計算」すればよいことになる。これは、「数学」の問題だ。
 答えは、<2の12乗根>、2の右肩に乗数として1/12を記述した数となる。
 それは、分かりやすい分数にならず、小数点以下6桁までで、1.059463…になる。正確には、これ以下の数字もずっとつづく。
 1を起点として大まかに言えば、1.06ずつ乗していけば、C#、D、D#と少しずつ高くなって、12回めには2になる、ということだ。
 注目してよいのは、旧来の二つの音律ではいずれでも(Cを基音として)、F=1.333…=4/3、G=1.5=3/2だったが、<平均律>ではこうはならない、ということだ。
 すなわち、下5桁までに限定して、<完全四度>=1.33484。4/3に近いが、やや高い、
 <完全五度>=1.49831。3/2に近いが、やや低い。
 だが、このように厳密には旧来の高さ(周波数)は維持されていないが、現在にいう<完全五度>、<完全四度>にほぼあたるものを、音発生道具の長さに着目して、例えば60cm のものだと90cm(3/2)に変えたり、80cm(4/3)に変えたりして試行錯誤しながら、古代の人々が、これら二つにほぼ該当するものをすでに「発見」していた、ということなのだろう。
 そこから、<1オクターブ8音構造>や今日でいう半音を含めての1オクターブ内12音(両端の1つを含めて13)という音階構成も生まれてきた。
 ということは、現在に標準的な<平均律>もまた、音とその響きに関する人間の感覚についての古代からの蓄積を基礎にしている、ということだろう。
 <ピタゴラス音律>が本当にピタゴラスによるものかは知らないが(西欧ではおそらくそのように言われ、書かれてきた)、言うまでもなく紀元前の哲学者とされる人で、その影響は数千年後まで残っていることになる。
 以上、社会、とくに日本社会の変動とは何ら関係のない、趣味的な「好奇心」・個人的な関心が主題の記述だ。なおも続ける。
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 Amazon music HD 等に遅れをとっていたApple Music は、「ロスレス」(Lossless)という、大部分は「ハイレゾ」(Hi-Rez)音質の音楽を6月から配信し始めた。上の「」は行政的または法的概念・術語ではなく、事業者やその団体(全てが加入しているのでもない)が作っている用語。
 「音響」も表題の一つにしているように、音質・音の「解像度」にも秋月瑛二は個人的な関心をもっている。ヒト・人間の聴感覚には大きな違いはないらしいようであることは、すこぶる面白い。

2372/音・音楽・音響⑥—ピタゴラス律。

  人間の耳は、または聴覚は、20Hz〜20000(20k)Hzの音しか聞き取れない、というのは、至極当然の指摘なのかもしれないが、戦慄を感じるほどに重要なことだ。
 つまり、皮膚の色、毛髪の色、眼球の色等々は人種・民族等によって異なっても、ヒト・人間であるかぎり、その基礎的資質には上のように限界が共通してある、ということだ。アジア人の方がよく聞こえるとか、欧米人は高い音がよく聞き取れるがアジア人は低い音をよく聞き取れる、といったことはない。男女差がある、という指摘も全くない。
 いつ頃からかよく分からないが、ヒト(ホモ・サピエンス)というものが成立した頃にはすでにそうだったのだろう。
 聴能力と同じようなことは、視覚、嗅覚等々や走る能力、跳び上がる能力、等々々についても言えるだろう。
 以下にすぐに名を出すピタゴラスは紀元前6-5世紀の人だから、今から3000年前の地球人はとっくに、現代人と同じような音についての(能力と)感覚をすでに持っていたことは間違いない。
 なお、20Hz〜20000(20k)Hz、というのは、おそらく最小限度と最大限度だ。
 すでに書いたように、88鍵のピアノの最低音(A0)は27.5Hzで、最高音(C8)は約4186(4.186k)Hzなので、低い方にはまだ7.5Hzあり、高い方にはまだ15kHz以上の余裕?がある。通常の音楽の世界では25Hz〜4500Hzの間の音を使うのできっと十分なのだろう。
 健康診断に「聴力検査」があることがあって、高低二つと左右二つの音を聞き取れるかが検査されるが、どうやら、低い音は1000 Hz=1kHz、高い音は4000 Hz=4kHzの高さの音らしい。20〜20000の範囲に十分に入るもので、おそらくは、ふつうの人間が日常生活を支障なく行える程度の聴覚の可聴範囲は、20〜20000ではなく、1000〜4000程度だ、と実際的には判断されているのではなかろうか。
 私の場合、20000=20kHzの音を発信されても全く聞こえなかった旨、すでに書いた。とくに聴覚障害が、私にあるわけではない。
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  すでに関連してきているが、以下で書くことは<音楽理論>とか<楽典>といわれるものに全くシロウトの者が書くことなので、専門家や詳しい人々は読まないでいただきたいし、間違ってもいても侮蔑しないでいただきたい。
 至極当然のことと考えられているのだろうが、オクターブが一つ上でも一つ下でも、あるいは何オクターブ上でも下でも、音は「同じ」と感じられている、というのは不思議なことだ。
 ピタゴラスや古代の中国等の人々も同じことにとっくに気づいていたと思われる。
 ピアノではA0からA7まで7オクターブ、C0からC7まで7オクターブ、同じAまたはCであれば、「同じ」に聞こえる。だが高さは全く同一ではないはずだ。しかし、「同じ」に聞こえる。
 これは それぞれのHz数が、ある音(基音)を基礎にすると、2倍、4倍、8倍、16倍…、あるいは2分の1、4分の1、8分の1、16分の1、…になっているからで、つまり、音の波動の形が最も容易または単純に(厳密にはたぶんほとんど)「重なり合う」からだ。
 ギリシアの人だと、弦の長さを2分の1にして爪弾くくと「同じ(ような)」音になる、4分の1の長さにしても同様、中国の人だと竹筒または木筒のの長さを2倍にして吹いてみると「同じ(ような)」音になる、4倍の長さにしても同様、と「発見」したのに違いない。
 彼らもまた、現代人と、そして私と、同じまたは全く似たような「聴覚」・「音感覚」を持っていたに違いない。不思議ではある。
 なお、「Hz・ヘルツ」は音の高さの単位だが、電波・電磁波についても使われる。1ヘルツとは1秒間に1回の振動数(周波数)のこと。20kHzとは、1秒間に20000回の周波数・振動数のことを意味する(周波数が多いと音は「高く」なる)。
 さらに余計ながら、このヘルツはHeinrich Hertz という19世紀のドイツの学者の名に由来する。この彼が「電磁波」を発見する研究をしたドイツのカースルーエ(Kahrsruhe)大学には、今でもこの人の像があるという。
 Kahrsruhe(ドイツ西南部)にはたぶん今でも連邦通常〔民刑事〕裁判所と連邦憲法裁判所が、ドイツ鉄道駅から市街地を東へ抜けた所にある緑地・公園そばにあって、若かりし頃に外から建物だけを見たのだったが、きっと近くにあったに違いない大学とヘルツには、当時は関心が全くなかった。
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  ようやく、<ピタゴラス音律>とか<12平均律>に触れそうになってきた。
 ピタゴラスという人は数字に関心が深くて、1+2+3+4=10というふうに、1から3回一つずつ加えていった数の合計が10になることにも面白さ?を感じらしい。なお、ボーリング遊戯でのピンの並べ方とその数は、前方から1+2+3+4=10で、正三角形のかたちになる。
 基音(周波数1某とする)から出発して、1オクターブ上ずつの周波数は単純に1,2,3,4,5,…と増えていくのではない、ということは重要なことだ。つまり、一つ前の音よりもつねに2倍ずつ増えていくのだから、1、2、4、8、16,…と増えていく。
 さて、ピタゴラスは、あるいは古代の東西の人々は、弦または竹筒・木筒(竹管・木管)の長さが1/2、1/4、1/8と短くなれば「一オクターブ」(にあたるもの)ずつ高くなり、2倍、4倍、8倍と長くなれば「一オクターブ」(にあたるもの)ずつ低くなるが、元の音ときわめてよく調和する、ということを気づいたはずだ。
 そのうえで、種々の「実験」を試み、複数の音が「よく調和する」場合、あるいは連続する複数の音(音階と旋律)の選択の仕方等について、いろいろと試行錯誤したのだろう。
 その場合に、音を出す道具(楽器)のうち長さで区別しやすい弦または竹筒・木筒(竹管・木管)を使って、長さを①3分の2にしてみる、②2分の3(=1.5倍)にしてみる、ということを先ずはしたのではないだろうか。
 この辺りすでにシロウト談義になっているが、1/2にすれば1オクターブ高くなり、2倍にすれば1オクターブ低くなるのだが、その中間にある最も分かりやすい数字は、2/3と3/2しかないだろうと考えられる。
 1/2と1の間に3/4があるが、この3/4は、上の3/2の2分の1で、3/2の長さで「実験」する場合と実質的には異ならない。
 また、1と2の間には4/3もあるが、この4/3は、上の2/3の2倍で、2/3の長さで「実験」する場合と実質的には異ならない。
 さて、「ピタゴラス音律」についての説明を複数の文献・資料で読んでみたが、すでに現在一般に使われている「平均律」、正確には「十二平均律」を前提とする説明の部分が多いようだ。以下でも、それらを参照する。
 一定の基音(1とする)を前提にして、周波数を3/2ずつ乗してしていく、そしてその結果が2を超える場合は2で除すことによって2以下の数字とする。あるいは、周波数を2/3ずつ乗してしていき(3分の2にしていくということだ)、2分の1未満になる場合は2を乗することによって、1/2と1の間の数字とする。
 これをそれぞれを3回ずつ繰り返すと、すでに現代に一般的な音階符号を用いると、それらに近い(決して同じではない)数字の周波数の音が得られるのだという。
 かりに基音をDとすると1回めの×1,5で(上の)A、2回目のその×1,5(1/2)でE、3回めのその×1.5(1/2)でB。
 同じくDを基音として、1回目の×2/3(×2)でG、2回目のその×2/3(1/2)でC、3回めのその×2/3(×2)でF。
 これで現在にいう「全音」(白鍵)のA〜G、または C〜Bの7個(に近いもの〕が揃うことになる。
 上はDを基音としているが、C(ハ長調のド)を基音として(1として)音階を並べると、つぎのようになる、という。()内は、1に対する周波数の比。
 C(1)-D(9/8)-E(81/64)-F(4/3)-G(3/2)-A(27/16)-B(243/128)-C(2)。
 これは、分母に64や128が出てきて細かいようだが、その他のものも含めて、基音の3/2倍、2/3倍の各周波数という、古代人でも(楽器の長さを使って)発生させやすそうな音階だった。その意味では、原始的かつ最も人間的だつたとも言える。
 しかし、つぎの欠点、問題点があった、という。
 ①×3/2や×2/3を無数に繰り返していくと、いくら1/2や×2を使って調整しても仕切れない、つまり完結しない(元のいずれかに戻らない)。
 ②各音階の間が一定しない。
 しかし、この点は、現在でいう二つの「全音」間は上の数字によると全て9/8、「半音」と「全音」間(つまりEとFの間、BとCの間)はいずれも256/243なので、一貫しているとも言える。但し、後者は前者の半分(全音間の半分の17/16)ではない。
 上の②の但し書のような問題があると、今日でいう「転調」は、原則としてできなくなる。
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  そこで、「純正律」が現れ、そして「十二平均律」が現れた。
 これら、とくに後者に立ち入ることは今回はやめて、つぎのことだけを記しておこう。
 現在の音楽や音階上の「理論」では、おそらく「12平均律」が絶対視され、これを前提とする楽譜が書かれているものと思われる。演歌も、ジャズも、パラードも、等々全てそうだ。たぶん一定期以降の<クラシック>という西洋音楽に由来しているものは全てそうだ(但し、「君が代」も12平均律による楽譜で表現できる)。
 しかし、「理論」上絶対的に「正しい」と言えるようなものではなく、歴史的に、人間界(音楽関係者)の便宜が積み重なって、いまのような形になったものと思われる。
 なぜ、1オクターブを12で(再来する元の音階を含めると13だが、間の音階は12)で区切るのか。そう問われて、誰も「正しく」は回答できないのではないか。
 それに、ピアノに特有のことだが、なぜ全て白鍵ではなく5つだけ黒鍵なのか、なぜEF間、BC間だけ半音なのか、という素朴な疑問も湧く(全て白鍵では幅が長くなり過ぎて、両手でも届かないから?)。
 現在でも独特ないし特有の音階というのは一部残って使われているようだが、全世界的な「12平均律」の圧倒的優勢は崩れないだろう(しかし、1000年後のことは分からない)。
 したがって、その約束事に従って「理論」を勉強する必要も出てくる。和声・和音学とかコードとか(テンションとか)、長調・短調の区別とか、あれこれの「冒険」はあってもおそらくは全部そうだろう。
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2355/広島の折鶴とロシアの「つる」(Zhuravli)—英語版Wiki による。

 前回にロシアの「Zhuravli」という歌は広島の原爆被害者の折り鶴と関係があるようだと再確認しないまま書いた。気になっていたので、「再確認」してみた。
 出所は英語版のWikipdia の「Zhuravli」の項目。日本語版のものにはたぶん出ておらず、そもそも「Zhuravli」の項目自体がなく、「(the) Cranes 」で日本語版を検索しても直接には出てこない。
 日本の広島と関係があるのは、以下の<Inspiration>の項だけだが、もっと試訳しておく。
 なお、その項目にしても、英語版Wikiの記述に信頼が100%が措けるかというと、私にはそう断言する資格はない。
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 <Zhuravli>
 1969年に最初に演奏された、第二次世界大戦に関するロシアの最も有名な歌の一つ。
 ○Inspiration.
 ダゲスタン(Dagestan)の詩人、Rasul Gamzatov が広島を訪れたとき、広島平和記念公園と、その市の放射能汚染の結果として白血病に罹ったSadako Sasaki(佐々木禎子)に捧げられた像に印象を受けた(impressed)。
 彼女は日本の伝統に従って、生命が救われるという(空しい)望みをもって、千羽の紙の鶴を折った。
 この少女—今日まで無垢の戦争犠牲者を象徴する一人となっている—が織った紙の鶴の記憶はGamzatov から数ヶ月間離れず(haunted)、今では有名な〔つぎの〕数行から始まる詩を書くよう彼をinspire した。
 「私はときどき感じる。兵士たちは、
  血生臭い平原から帰らず、
  地上に横たわっていないが、
  しかし、白いつるに変わったのだ、と。」
 ○翻訳。
 この詩は元々はGamzatov の母語で書かれ、最初の言葉遣いに近い多様な訳がある。
 有名な1968年のロシア語訳は、傑れたロシア詩人かつ翻訳者のNaum Grebnev によってすみやかに行われ、1969年には歌になった。そして、世界じゅうに最も良く知られたロシア語での第二次大戦のバラード(ballad)の一つになった。
 Gamzatov の詩の最良の英語訳の一つは、アメリカの詩人のLeo Schwarzenberg による2018年のものだ。
 <その英語訳文、省略>
 ○音楽化。
 この詩が雑誌<Novy Mir>に発表されると有名な俳優かつ歌手(crooner)のMark Bernes の注目を惹き、彼は詩を修正し、Yan Frenkel に曲を作るよう依頼した。
 Frenkel がその新しい歌を最初に歌ったとき、Bernes(そのときまでに肺ガンに罹っていた)は、この歌は自分自身の運命だと感じ、泣いた。
 「つるの列には小さな隙き間がある。たぶん、そこは私のためにreserve されている。いつか私はその列に加わるだろう、そして天空から、地上に私が残した人々に呼びかけるだろう。
 歌は1969年の7月9日から録音され、Bernes は、歌の録音後約5週間後の、8月16日に死亡した。その録音は、彼の葬礼の際に流された。
 それ以降、「Zhuravli」は、Joseph Kobzon によって最も頻繁に演奏されることになる。 
 Frenkel によると、「つる」はBernes の最後の録音曲であり、彼の「真の白鳥(swan)歌」だ。
 ○遺産(Legacy)。
 「つる」は、第二次大戦の戦死兵士の象徴になった。
 その影響は広く世界中に及んだので、旧ソヴィエト連邦の記念行事は、飛ぶつるのイメージを特に取り上げた(feature)。いくつかの国家官署には、例えばSt. Petersburg のつる記念館(the Crane Memorial)には、詩碑すらがある。
 今日、「つる」はロシアでは、なおも最も有名な戦争歌の一つだ。
 1986年以降の毎年10月22日、Rasul Gamzatov の生誕地のダゲスタン(Dagestan)・ロシア共和国は、「白鶴〔白いつる〕祭り(Festival)」を開催している。
 1995年、ナツィス敗北後50年の年、ロシアは、第二次大戦戦死者追悼の切手を発行した。その切手は、クレムリンの無名兵士戦争記念館を背景にして飛ぶつるを描いていた。
 2005年、あるロシアの退役兵士が、三羽のつるとロシア語と英語で四行のつるの詩を刻んだ記念碑を、米国カリフォルニア州のロサンゼルス、西ハリウッドのPlummer 公園に建立した。
 9トンの記念碑の費用は、ロサンゼルス第二次大戦退役軍人会のロシア語を話す退役兵士たちの出捐によるものだった。
 第二次大戦終了を記念する地方行事は、五月の勝利の日に定期的に催されている。
 ○ カバーと他メディアでの利用。
 <以下を除いて、全て省略>
 2000年、ロシアのオペラ歌手のDmitry Khvorostovsky が、ソヴィエトの勝利55周年記念式典で、自分自身の翻訳歌詞での歌(his own version)を発表した。
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 その他の記載、省略。
 以上。
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  ①上で省略した英語訳で「最良のものの一つ」(「定訳」ではない)と、②先日にこの欄で依拠した英語訳(動画字幕)とは同じではない。
 例えば、まず冒頭が、①「I feel sometimes」に対し、②では「Sometimes it seemd to me」だ。ここは①の方が短いが、意味はほとんど同じで、「私はときに思う」と前回に試訳したのは、少なくとも間違いではないだろう。
 他に、全部を挙げないが、①の方が総じて長い。つまり、言葉数が多い。詩の訳文としてはあり得るだろうが、先日の「私訳」でも歌の旋律にはなかなか乗らないので、少なくともHvorostovskyが歌っていた旋律には、言葉数が多すぎるだろう。
 例えば、第一に、②で「haven't layed our land.」で「横たわっていない」と私訳した部分は、①「 have not been buried to decay and molder」と長く、そのように意味は理解したがあえて「埋められて」という訳語は避けて試訳したところ、直訳すると<土に埋葬されて腐り朽ちていない>と明瞭に(あるいは露骨に)書いている。
 第二に、印象的な「その列の中に、小さな隙き間がある。たぶん、あの隙き間は、私のために空いている」、の部分。
 ②では、たんに「It is a small gap in this order, Perhaps this place is for me.」だった。
 これに対して①では、「In their formation I can see a small gap, It might be so, that space is meant for me.」と長くなっている。
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  こんな詮索をしているとキリがない。
 もっとはるかに重要なことは、日本語でたどり着ける情報世界と、英語を用いて利用できる情報世界には、格段の差がありそうだ、ということだ。
 こんなことは、日本語の世界での<レシェク・コワコフスキ>に関する情報の限界について、とっくにしみじみと感じたことだったが。
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2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。

  No.2317/2021.03.20にピアノ(88鍵)の鍵盤ごとの音の高さをHz単位で記しているが、有力または定説とみられる情報に従っている。
 絶対音階でのAはA0が27.5であるのを除いて(A1〜A7は)全て整数だが、これはAだからで、他の音はこんなに単純ではない。最高音のCは約4186Hz=4.186kHzだが、正確には端数がつく。
 A4=440Hzで、これが「音叉」の音の高さだと思われる。
 もっとも、ピアノ調律師はこれよりも少し高めに設定することがある、と何かで読んだことがある。また、交響楽団等々によって一定していない、ともいう。
 音には高さだけではなく、強さ(大きさ)や「音色」もあるから高さだけが重要であるのではないが、A4が周波数440Hzと決められているならば、周波数計を使って厳密に設定すればよいのではないか、と素人は考える。音は高さだけではないが、そうすると調律師という職業は要らなくなるだろうか。
 そうはいかないのが、ヒト・人間の感覚・感性に関係する音楽のむつかしい、または微妙なところだろう。
 ところでピアノ(またはバイオリン等)の一台(一本)だけならばどのようにでも?設定すればよいが、多数の楽器で演奏する場合、事前の音程の調整は決定的に重要だろう。リハーサル(Rehearsal)とは、きっと、まずはこのためにあるのだろう。
 余計な追記。ピアノではA0〜A7以上の音域があり、その他の楽器も高い音・低い音さまざまのものがあるのに、なぜ楽譜には、ト音記号のものとへ音記号のものしかないのか。合唱曲用のソプラノとテノールでは(アルトとバスも)同じ高さを示す楽譜を使っているのは奇妙で、女声と男声では、一オクターブ程度の差が本当はあるのではないか。あるいは、オーケストラの全ての楽器について、同じ高さまたは同じ基本音階を示す楽譜が用いられているのか?
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  <Yoasobi(よあそび)>、<Ado(アド)>のいくつかの歌・曲をYouTube で(見つつ)聴いた。曲名やら歌手名やら分からないのが、いつの頃からか多くなった。
 とりあえずこの二人(二組)について、嫌いだ、受けつけられない、ということは全くない。私にはテンポがやや早すぎ、リズム打ちもやや落ち着かないけれども。
 だが、とくに感じるのは、<Ado(アド)>という若い女性の声質と歌唱力だ。テレビによく出ているらしい下手な女の子グループよよりも、数段、いやはるかに声質がよくて、上手いだろう。
 (ところで、この人たちの歌と詩を聴いていると、全く余計ながら、西尾幹二は150年前に生きているのがふさわしい人物だ、と思えてくるのだが。)
 You Tube で(見つつ)聴いたといえば、Nataliya Gudziy がカバーしている<防人の詩>(原曲・さだまさし)はすこぶる印象的だった。
 私の世代だと、いや私に限れば、やはり小椋佳の、広くは知られていないいくつかの曲になお惹かれるところもある。比較的最近に知ったまたは意識した小椋佳の(よい)歌・曲に、つぎの二つがある。
 ①冬木立(初出1978年、小椋佳/作詞・作曲)。
 ②忍ぶ草(初出1978年、同上)。 
 確認してみると、何とYouTube上に二つともあった(すごい)。
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  バイオリンのIzhark Perlman のCDでユダヤ民謡を知ったあと、それに関してあれこれとYouTube を検索していたときだと思うが(それ以外に考えられない)、ロシア民謡とされるつぎの歌・曲を知った。
 Dmitri Hvorostovsky という人が歌っていた。まず感じたのは、歌・曲自体ではなく、この人の歌唱力のすごさだった。バリトンで、このクラスの音量と力強さ、口腔内・体内での響きをもって歌っている人は、日本のテレビでは見聞きしたことがない。バリトンのプロ歌手にはいるのかもしれないが。
 次いで、歌・曲自体に惹き込まれた。私好みの(よく聞けば単純素朴な旋律の)いい曲だ。
 先走って書けば、観たYou Tube上のタイトルは、つぎだ。
 Marvellous: Listen to the most popular Russian song for the last 45 years -Cranes.
 ロシア民謡とされ、上の末尾がタイトルで、(The)Cranes〔鶴、つる〕という。ロシア原語では、<Zhuravli>。
 ロシア語は分からないが、字幕で出てくる英語によると、これは主には戦死者を偲ぶ歌だ。
 やはり(?)、短調ミ始まりだ。
 いろいろと情報を探ってみた。種々考えさせられ、感じるところもある。第二次大戦の勝者・ロシア(ソ連)の<民謡>となっている曲であり、ロシア人の「愛国」の歌だろうからだ。
 しかし、戦死者だけではなく、あるいは戦争と関係なく、母国・祖国に生まれて死んでいった、全ての人々を思い出している(そして自分もいつか死ぬよ、と彼らに告げている)歌だと理解することは不可能ではない。
 二通り以上の英語字幕を見たことがあり、別情報では英語の「定訳」もあるというが、上記のYouTube 欄上に出ている英語字幕から、歌らしくなるように?訳してみよう。試訳であり、私訳。
  +++
 「血なまぐさい平原から帰って来なかった、
  兵士たちは、故郷の土に横たわっていない。
  白いつるに変わったのだと、私はときに思う。
  あの遠い時空からやって来て、つるたちは飛び、私は声を聞く。
  あまりにもたびたびで、とても悲しそうだからか、
  私はふと立ち止まって、静かに天空を見上げる。
  ***
  疲れたつるたちが、群れをなして飛ぶ。
  霧の中を、空の端へと飛んでいく。  
  その列の中に、小さな隙き間がある。
  たぶん、あの隙き間は、私のために空いている。
  その日がいつか来るだろう。あのような群れに入って、
  私は、同じ青灰色の霞の中を飛び、
  鳥のように、天空から語りかけるだろう。
  地上に残る全ての人々に対して。
  ***
  血なまぐさい平原から帰って来なかった、
  兵士たちは、故郷の土に横たわっていない。
  白いつるに変わったのだと、私はときに思う。」
 --------
  さて、この曲には特定の作曲者・作詞者がいるらしい。
 D. Hvorostovsky だけが歌っているのでもない。ロシア民謡と言っても、さほど古いものではなく、1968年頃に作られたようだ。
 これらの詳細は省略するが、一点だけ、書き記しておく必要がある。
 この「つる」というのは、広島の平和祈念公園にある「原爆の子の像」の<折り鶴>と関係がある、という情報がある。たしか英語の情報だ。
 再確認しないで書くと、たぶん広島を訪れた作者(作詞者・作曲者)が、<折り鶴>を織りながら死んでいった少女(2歳で被曝、12歳で発症、13歳で死亡)の話を聞くか、またはそれをもとにすでに築造されていた「像」の下の折鶴を見てからその物語を知って、inspire されて(つまりinspiration を得て)<つる>を用いる歌・曲を作った、というのだ。
 まんざら虚報とは思えないが、そんな話は日本では聞いたことがないし、そもそも上の「つる」というロシアの歌自体が、ほとんど全く知られていないだろう。
 ——
 D. Hvorostovsky 。この人自身、50歳代でもう亡くなっている。1962〜2017。


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2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。

  Felix Mendelssohn,Violin Cocerto in E minor, op.64.
 この曲の以下のCDが増えた。Mullova、Perlman のViolin 演奏のものは、前回記したのとは指揮者・楽団等が異なる。一番下はCDではない。
 Anastasia CHEVOTAREVA, Russian SO, Yuriy Tokachenko, 2003
 Viktoria MULLOVA, O Revolutionnaire et Romantique, John E. Gardiner, 2002
 Itzhak PERLMAN, Concertgebouw O, Bernard Haftink, 1984
 Itzhak PERLMAN, Chicago SO, Daniel Barenboim, 1995
 Akiko SUWANAI, Czech PO, Vladimir Ashkenazy, 2000
 *YouTube* Natsuho MURATA, 2018
 *下はViktoria Mullova とAnastasia Chevotareva のCDジャケット。

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  旋律の記憶はあったが、最近に、この人のこの曲かということを初めて知った曲・旋律がいくつかある。Khachaturian、Sarasate、Saint-Saens らの曲・旋律ならすでに知っていたが。
 下の()は所持するCDの指揮者・演奏者等。
 ①J. S. Bach, Toccata and Fugue BMV565.(Seiji Ozawa, Boston SO)
 ②F. Schubert, Serenade=Ständchen.(Teiko Maehashi など)
 ③J. Brahms, Hungarian Dances, #1, #4, #5 (O. Suitner, Sttatskapple Berlin など)
 ④Rachmaninov, Piano Concerto, #2.(Nobuyuki Tsujii, Y. Sado, Deutsche SO Berlin など)
 この④だけは冒頭でなく、Piano のソロ部分の後の合奏の冒頭の旋律。これは短調ラ(A)から始まる。
 ①〜③はいずれも、短調ミ(E)始まり(Jewdish Melodies の「ユダヤの母」も同様)。
 ②と③のとくにNo.4 は、気づいて良かった。いかにも「美しい」と(私は)感じる。
 いずれも三連符で始まる。EEE,EFE,FD#Eのいずれかの三連符で始まり、Aに上がり、再びその三連符に戻ってつぎはBに上がるというのはよく使われている小旋律だ。上の二つはこれには該当しないが。
 三連符の多用が印象的な日本の歌謡曲類に、石川さゆり「津軽海峡冬景色」(作曲・三木たかし、1977)、井上忠夫(大輔)「水中花」(同作曲、1976)がある。この二つも、短調ミ(E)始まり。
 なお、J. Brahms, Hungarian Dances, No.4 は、つぎと感じがよく似ている。
 A. Dvorak, Slavonic Dances, op.72, No.2
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  「音楽」は、ヒト・人間が聴くことができないと、まず意味がないだろう。
  「音」は「音波」を聴覚・聴神経が「感じる」または「受容する」ことで、人間に「聞こえる」。
 眼・大脳の関係と同じらしいのだが、それによると「耳」(とくに鼓膜)に入り「聴神経細胞」を通って「大脳」(の一部)まで達するまでに一瞬の時間差があって、あまりに速いので「同時に」聞いていると「錯覚」している、ようでもあるが、正しくはそうではない。「聴覚」による感知と大脳による感知は、絶対的に「同時」に発生するらしい。
  「音」には大きさ(=強さ)、高さ、音色の三要素がある。前二者を除いて「音色」という場合と、全部を含めて「音色」という場合があるらしい。
 「音」の大きさ・強さは音波の圧力の差異で、波形図の振幅が示す。ヒト・人間が聴くことができる大きさ・強さの程度の範囲がある。他の動物とは異なる特性がある。
  「音」の高さは、音波の振れ方の密度で、波形図の波の密度が示す。周波数とも言う。単位にはHz(ヘルツ) が用いられる。 
 ヒト・人間が聴くことができる高さ・低さの範囲がある。
 むろん個体により一律ではないが、およそ20Hz〜20kHz(20000Hz)であるらしい。上を16kHzと書く書物もごく一部にある。
 ネット上にいくつかの高さの音を発生させるサイトがあったが、私は10kHzの高さの音を聴けなかった。無音に感じた。
 といっても難聴の部類にたぶん入らない。
 88鍵のピアノの最高音は4186Hz余=4.186Hz余らしいので、かりにピアノの最高音を含む曲の演奏を聴いても、楽々と?聞けるだろう。もっとも、ピアノの最高部のカタカタを含む曲はあまりなさそうだ。
 個体差はあるとしても、およそ20Hz〜20kHz(20000Hz)または20Hz〜16kHz(16000Hz)の間の高さの音しか聴くことができない、というのは不思議なことだ。ヒト・人間に特有なことで、超高周波・低周波数の音を聴く動物もいるらしい。 
 自然界には上の範囲に入らない高さの「音」もある。ということは、客観的には音が鳴っていても、人間が主観的には?「認知」・「感知」できない音がある、ということを意味する。
 これは、面前の物体(絵画でもよい)を「見て」いても、その細部の認識の程度には限度があるのと同じだろう。どんなに凝視しても、区別できない細部、あるいは「高細部」がある。PCのディスプレイの縦横のドット数を100万とか1億とかにしても(技術的に可能でも)、たぶん無駄だろう。つまり、人間にとっての実益、実用性がない。
 4kテレビとか4kモニターとかいうのは、横縦3840x2160画素の「解像度」をもつことを意味するらしいが、この横が7680とか15360、30720(3万超)になって、ふつうの人間(の視覚・視神経)はどの程度精細に見分けられるのか、という問題だ(むろんテレビ画面・モニター画面の大きさにもよる)。
 同様のことは音の高さにもあって、上記の範囲の限界域では聴こえないか、聴こえても同じような高さ・低さの音としか感知・感覚できない場合がきっと多いに違いない。
 個体差が厳密にはあっても、人類はほぼ同じ、一定の範囲内という意味で同じ、というのは、当然のことかもしれないが、新鮮な驚きでもある。
  1オクターブ上とか下とかいう。この1オクターブというのは、周波数(密度)を2倍にしたり2分の1にした場合の、元の音との間隔をいう。
 2倍にすると高くなって、1オクターブ上、2分の1にすると低くなって1オクターブ下。
 どんどん2倍を掛けていったり、どんどん2分の1ずつにしていくと、オクターブ(の基礎音)が変化する。
 不思議なことだが、実際には2とか2分の1、あるいはこれらの乗数の違いがあり、「高さ」は変わっても、同じオクターブ(の基礎音)上にあれば「同じ(高さの)ような音」と感じる(正確には、感じる、らしい)。
 下のド、上のド、そのまた上のド、調和して響きあって、同じ音のように感じる。これは周波数の比が最も単純な2によるためで、音波の波形に共通性・一致性があるからだろう(だが、完全に同じ音ではない。そもそも高さが違う)。
 この1オクターブの間をどう区切るか。
 現在一般的になっているもの(ド・レ・ミ…・ラ・シ・ド)にはいろいろな理屈があるようだが、偶然的な要素もあるのではないかと思われる。
 ラ・Aかド・Cが基礎音とされることが多いだろうが、88鍵のピアノでは7オクターブ余の音(または音階)を弾けるようだ。なお、88÷7=12+4。
 低い方から1オクターブ上の音の周波数(Hz)を、以下に記す。最初は最下のA(ラ)から始まる。すでに触れた可聴範囲の、20Hz〜20kHzの範囲に十分に入っている。
 27.5、55、110、220、440、880、1760、3520(=3.52k)。
 黒鍵を含めてあと3つの音程の音があり、88鍵のピアノの最高音は、上で少し触れたように4186余Hz=4.186k余HzのC(ド)。
 白鍵だけだとなぜA〜G(C〜上のB)の7音で、なぜ黒鍵を含めて12音(7+5)なのだろうか。1オクターブは、どうしてこのように(正確にはピアノでは)区切られるのだろうか。全てが理屈・理論らしきものではなさそうにも思える。なお、88÷12=7+4。
  以上の全て、全くの素人が書いていることだ。よって、「そのまま信じて」はいけない。ここでいったん区切る。
 **

2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.

 Violin の曲をたくさん聴きたくてItzhak Perlman(イツァーク・パールマン、1945-)の箱ものを入手した。素人の感想ながら、さすがに著名な演奏家らしくソツなくふつうに力強く弾いている。そして途中までは特に惹かれることもなかったのだが、CD番号が後半に入って、(私には)思わぬ<掘り出しもの>を見つけた。
 Traditional Jewish Melodies と冠されているうちの曲のいくつかだ。
 無知だったが、Perlman はイスラエル出身でユダヤ系の人のようだ。Israel PO(Dov Seltzer指揮)を背後に弾くKlezmer(東欧等に残るユダヤ人民謡のジャンルらしい)の諸曲・旋律は、この人個人の情感もかなり込められているようで、かなり心惹かれる。
 表題にした‘A Jewish Mother’('A Yuddishe Momma' )はとくにそうだ。
 <ユダヤの母親>は「教育ママ」という隠意を持つこともあるようだ。そんなこととは関係なく、母親を想い出しているような、哀切感溢れる旋律と弾き方になっている。
 毎日のように何度か聴いているうちに、この旋律は、どこかで聴いたことがあるような気がしてきた。懐かしいとすら思えるのは、何故だろうか。
 そして、ふと「横浜の港から」という歌詞が出てきた。
 正しくは「横浜の波止場から」で、またこれは二番の初めだった。
 その曲は、童謡・唱歌の<赤い靴>だ。4x2 の計8小節しかなく、下を一番の歌詞とする短い歌だ。丸数字は歌詞ではない。
 「①赤い靴はいてた ②女の子 ③異人さんに連れられて ④行っちゃった」 
 ‘A Jewish Mother’は、ただちにひらめいたのでは全くないものの、この唱歌を思い出させる。一部がとてもよく似ている。
 ①部分の後半・第二小節の「はいてた」はEEFDE--(相対音階)で、ユダヤ民謡での前奏後の主題部分と全く同じ。その前の①部分の前半・第一小節は、日本のではABCDE--で、ユダヤ民謡のその部分は、(前小節の最後の音符のEから始まる—こういう始まり方を専門用語では何と言うのだろう—)細かく区切ってAABBCCDDだ。よく似ていて、①の第一・第二小節を合わせると、ほぼ同じという感がある。 
 ‘A Jewish Mother’ には上の②の高く上がる部分はないようだ。しかし、③〜④によく似た旋律が、少し後にやはりある(但し、最後の音は、Aに下がって終わるのではなく、Eに上がってつづいていく)。
 ‘A Jewish Mother’は8小節どころではない長い曲で、複雑とも見える伴奏をオーケストラ(イスラエル交響楽団)が奏でている。
 しかし、上の冒頭・前半部分に限って言うと、<赤い靴>とよく似ている。
 <赤い靴>は1921年の野口雨情の詩に、1922年に本居長世が曲を付けて発表された。私に遠い記憶があるくらいだから、戦後も歌われ続けたに違いない。
 1921年は(広義の)ロシアで<新経済政策(ネップ)>導入共産党大会があり、不作と飢饉が継続した年。1922年に日本共産党(コミンテルン日本支部)が設立された。 
 本居長世は音楽大学の学生だったこともあるようだ。
 そこで、思い切り空想・妄想が広がる。
 伝統的旋律というからには、ユダヤ民謡は19世紀中には発生・成立していたのではないか。
 そして、盗作・剽窃とは言わないが、本居は何かでこのユダヤ民謡を知っていて、そこから「ひらめき」・インスピレーションを得たのではないか。そう思いたいほど、部分的にはよく似ている。
 付け加えると、同じCDに収録されている曲はみな同様に切ない、郷愁を誘うような旋律を多く持っていて、とくに、Rozhinkes mit Mandelen、Vi ahin soll ich geyn? などは、日本の大正時代あたりの<唱歌>の雰囲気を持っている。
 ユダヤ民族歌謡と日本のかつての唱歌・童謡曲、どうしてこんなに似ているのだろう。不思議だ。
 併せて、<音楽>の今日に至るまでの<伝搬>の仕方にも関心がつながる。<言葉>の分野とは異なる。明治改元より前にすでに今にいうClassicの世界があり(Mendelssohn も江戸時代の人)、また例えばGustav Mahler は<おぞましい ロシア革命>を知ることなく亡くなっている。この(時期的な)古さには驚く。筒美京平(1940年生〜2020年没)は<洋楽>を参照しつつ、日本の歌謡曲またはJ.Pops を作曲したらしい。
 なお、この欄では元々は、ヒト・人間にほとんど一定の聴細胞・聴覚から現在の「音響工学」(または音楽とAI・人工知能)まで、JBpress に書いている伊東乾のような専門家ではない全くの素人として、新鮮に感じ、考えたことを記すつもりだった。たんなる楽曲感想文の列挙にするつもりはないのだが…。
 ——

 perlman 711

2300/Mendelssohn,Violin Cocerto in E minor.

 昨年から本当にしばらくぶりに、Classic を聴き始めた。イアフォン類によるのではなくして。
 音、音楽や聴覚(聴神経)と「感情」・「情感」等について、いろいろと感じ、考えさせられるところもある。
 すでに知っている曲のうち、つぎのものは10種以上のCDが集まった(作曲者全集、演奏者全集、ジャンルによるものなど収載の仕方は多様)。
 短調のミ(相対音階)始まり、という私の好みの条件を充たしている。
 **
 Felix Mendelssohn,Violin Cocerto in E minor, op.64.
 (F・メンデルスゾーン=ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64番)
 —
 左から順に、Violinist、演奏楽団(P,O,H,Sは略語)、指揮者(conductor,Dirigent)、演奏または録音年。CDかSACD等かの音質の違いがあるが省略。
 Leland CHEN, Royal PO, Jane Glover, 1995
 Midori GOTO, Berliner PH, Maris Jansons, 2003
 Augustin HADELICH, Norwegian Radio O, Miguel Harth-Bedoya, 2015
 Hilary HAHN, Oslo PO, Hue Wolff, 2002
 Jascha HEIFETZ, Boston SO, Charles Munech, 1959
 Lanine JANSN, Leipzig GewandhausO, Riccardo Chailly, 2006
 Teiko MAEHASHI, Tonhalle O Zürich, Christoph Eschenbach, 1993
 Nathan MILSTEIN, Swiss FestivalO, Igor Markevich, 1953
 Nathan MILSTEIN, Wiener PH, Claudio Abbado, 1973
 Viktoria MULLOVA, Boston SO, Seiji Ozawa, 1990
 Anne-Sophie MUTTER, Berliner PH, Herbert Karajan, 1981
 Anne-Sophie MUTTER, Leipzig GewandhausO, Kurt Masur, 2008
 Itzhak PERLMAN, London SO, Andre Previn, 1973
 Sayaka SHOJI, OP Radio France, Myun-Whun Chung, 2005
 Kyoko YOSHIDA, O Ensamble Kanazawa, Seikyo Kim, 2002
 **
 全体・全楽章をじっくりと聴いて比べてみようと思うが、Heifetz は早すぎる。ASM=Anne-Sophie Mutterのどちらかは少し遅すぎる。Violin の音が弦に応じて細すぎるのと適切に力強いのとがある。日本人女性(五嶋みどり、庄司紗矢香ら)もしっかり弾いているが。Violinと楽団のバランスも重要だろう。
 ただ、演奏・録音は一回きりだし(録音用でなければ前者はやり直しできないはずだ)、録音の時期・細密さの程度、再生機器の能力・状態(PCへのrippingの態様も)、聴く者の精神・心理・身体条件によって、同じ構成者による演奏でも全く同じにはならない(同じには聴こえない)。これまた音楽の再生と鑑賞の微妙に不思議なところだ。

2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。

 Nobuyuki Tsujii(辻井伸行)の<それでも、生きてゆく>は、最初はYouTube 上で、<Elegy for the Victims …>として視聴した。辻井は本当に涙をポトポトと落としながら、外国(米国・ニューヨーク、カーネギー・ホール)の舞台上でこの曲を弾いていた(Pianist in tears)。
 別の動画では明らかに、やはり外国で、東日本大震災(・津波〕の犠牲者を偲んで自分で作った曲です、という旨を明言した後で(アンコール)演奏していた。
 やはり伴奏のいっさいない辻井によるピアノ演奏は、2011年にリリースされた<それでも、生きてゆく>(avex)というC Dで聴くことができる。
 但し、これはこのタイトルの(震災とは直接には関係のなさそうな)日本の連続テレビドラマの主題歌の一つとされていて、震災との関係はただちにはよく分からない。しかし、同C Dには、以下の辻井の言葉が付されている。
 「3月末からのアメリカ・ツアーをスタートするにあたって、今回の震災で亡くなられた多くの方々への追悼と、悲しみから立ちあがろうとする人に寄り添えるような曲を書いて、アメリカの人たちにも聴いてもらいたいと思い、新しい曲を作りました」。
 **
 この曲は長さで三分することができ、上のC D上での「オーケストラ版」等では前半三分の一が「追悼」、残り三分の二が「希望」とも称され、別々に伴奏つきで別々に収録されもしている(オーケストラやギター用の「編曲」がなされているのだろう)。
 「追悼」・「希望」という言葉ですでに示唆されてもいるが、前者は短調の旋律で、後者は長調の旋律だ。
 前者は短い前奏後、(相対音階では)ABC-CBAB-、BCD-DEFE-、というじつに単純でよく耳にする旋律で始まっていて、この分かりやすさも、この曲に聴衆を惹きつける理由の一つかもしれない。
 あとは必ずしも単純ではない、切なく美しい旋律がつづく。「哀悼」・「追悼」にふさわしいもので、聴く人によれば、すでに涙がこぼれるかもしれない。
 この前半三分の一については、私でも何とかほぼ全部、「相対音階」を聴き取れることができた。もっとものちに楽譜を見ると(後述)、G♯のほかに、B♭やD♯(相対音階)も使われていた。そこまで意識できなかつたのは、私の「実力」の程度だろう。
 前半が終わると明らかに「転調」があって、長調に変わる。その後は音階の聴き取りは厄介だが、明るい雰囲気に変わっているものの、既出の旋律が短調の雰囲気をももって別の音階で続いているような感じもする。
 この後半部分への転調の仕方と後半の音符が知りたくて、「歌詞」(後述)付きの楽譜冊子を入手してみた。
 ピアノ独奏の場合と同じ高さか否かは確認しないが(絶対音階が聴き取れれば簡単だろうが、私の場合はそうはいかかない)、♯三つ付きのスコアで、前半は嬰ヘ短調、後半は嬰イ長調だ(と思われる)。
 転調部では、主旋律がG#から一オクターブ余下の(#なしの)Gに落ちる(相対音階)。演奏よりも、歌唱の場合により厄介な部分に違いない。
 **
 2013年に、EXILE ATSUSHI によって歌詞が付され、歌詞・歌唱つきの<それでも、生きてゆく>のC Dも発売された。EXILE ATSUSHI & 辻井伸行<それでも、生きてゆく>(Rhythm zone、2013。「ふるさと」付き)。
 歌詞は、楽譜冊子によると 、つぎのとおり(元々は付されてない番号を追記した。また、改行数を減らした)。
 一 夢がなくとも 希望がなくとも
   生きがいがなくても いつかみつかる…
   悲しい事でも つらい事でも
   報われる日がくる そう信じている
   小さな灯火(ともしび)を 消さない様にと
   肩をすくめながら 歩いてきたんだ
 二 心に一筋の 光が見えてきた
   あきらめそうになって 涙が溢れて
   光が涙を 伝い僕の心に
   優しく反射した そんな春の日
   穏やかな風が 優しい旋律が
   ほのかな香りが 胸に迫ってくる
 三 夢がなくとも 希望がなくとも
   生きがいがなくても いつかみつかる…
   悲しい事でも つらい事でも
   報われる日がくる そう信じている
   心に決めたのは 何があっても
   それでも生きてゆく
 **
 すでに「花」開かせたようなグループが<世界に一つだけの花>と題する曲を歌って、<一人ひとり、個人の大切さ>を強調して、激励しているかのごとき歌は、あえて言えばいくばくかの<偽善>を感じて、全く好きになれなかったが(旋律と歌詞にも原因はあるだろう)、上の歌詞は旋律をさほどに乱しておらず、辻井の意図に合致しているようでもあって、受容できる。
 「夢がなくとも 希望がなくとも 生きがいがなくても いつかみつかる」。
 この冒頭部分は、素朴だが、とくに被災者の人々には「身に滲みる」かもしれない。
 歌詞つきで、より広くこの曲が知られるのはよいことだ。外国でもかなり知られている曲のようだから。
 ところで、譜面によると、歌い手の音域は、(絶対音階で)C#から一オクターブ上のCのさらに上のAまで及んでいる(相対音階でいうと、ミから上の上のド)。平均人よりは広く(平均男性はなかなか、上のA=ふつうのハ長調・イ短調では上のラの音は発声できない)、EXILE ATSUSHI はたぶんファルセットを用いているのだろう。また、「転調」部は素人には相当にむつかしそうだ(一オクターブプラス「半音」下への移行)。
 **
 そのうち、<音・音域・音律・音響とヒト・人間>を主題とする書き込みをする予定なので、それも一つの理由として、この投稿を先行させた(歌詞は、西尾幹二の<反大衆>性に関連して、ほんの少しすでに言及した)。
 音楽の専門家では当然にないので、上の記述にも誤りがあるかもしれない。

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