L. Engelstein, Russia in Flames—War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
第6部第1章の試訳のつづき。
第1章・プロレタリア独裁におけるプロレタリアート。
——
第一節②。
(9)もちろん、移行を瞬時に行うことはできない。
1918年にはずっと、私的所有制がなおも一般的で、様々な当事者—起業者、労働組合、国家—の間で交渉が継続した。
工場委員会は、私的所有の事業体の中でまだ活動しており、政治的な番犬のごとく振る舞っていた。
1920年4月の第9回党大会になってようやく、委員会は労働組合に従属した。労働組合はいまや国家の腕になっていた。(11)
トロツキーが技術的専門家の利用、職場紀律の賦課、そして実力による強制—赤軍の勝利の背後にあったモデル—を強調したのは、このときだった。
この党大会で、そしてその後の労働組合大会で採択された決定は、労働者委員会を権限ある管理者に服従させた。(12)
レーニンが観察したように、労働者には工場を稼働させる能力がなかった。
国家は、その本来の利益からして、「階級敵」との協働を必要とした。
あるいは、マルクス主義の用語法で言うと、(理論上は)政治権力をもつ階級(プロレタリアート)は、経済的権力を行使することができない。
プロレタリアートの地位は、1789年のフランスのブルジョアジーとは対照的だ。彼らは、政治的権力を獲得する前に経済を先ず支配した。
(10)上意下達の支配と草の根の(プロレタリア)民主主義の間に元々ある緊張関係は、真にプロレタリアートの現実の利益を代表する国家の働きによって解消される、と想定されていた。
ソヴィエトの場合は、この緊張関係は、民衆の主導性の抑圧とプロレタリアートによる支配というフィクションによって究極的には解消された。
しかしながら、その間に、「国家」自体が緊張で引き裂かれた。
中央による支配の達成は、中央においてすら、容易なことではなかった。
市民の主導性をやはり抑圧した、そして戦争をするという挑戦にも直面した君主制のように、ボルシェヴィキの初期(proto)国家は、中央と地方、上部と下部の間のみならず、経済全体の管理と軍隊に特有な需要との間の緊張関係も経験した。
1917年以前と同様に、制度上の観点からする対立が明らかになった。
今では、中央の経済権力(VSNKh)は、生産の動員と物的資源を求める赤軍と競っていた。
実際、軍はそれ自身の経済司令部を設け、VSNKhとともに生産の監督を行なっていた。
中央や諸地方にある多様な機関が、希少な原料と燃料を求めて競争していた。
金属の供給が再び始まったのは、ようやく1919年のウラルの再奪取があってからだった。(14)
(11)経済の崩壊という圧力のもとで出現したもう一つの不安は、労働力不足だった。
人々が食糧を求めて田園地域へと逃亡するにつれて、都市は縮小した。
配給は十月の直後から導入されていたが、配達は不確実で、量は乏しかった。
1917年と1920年の間に、ペテログラードは人口の3分の2を喪失した。モスクワは2分の1を。(15)
全体としては、産業労働力は60パーセント減少して、360万人から150万人になった。
最も気前のよい配給を好む労働者たちの苦痛は、食糧不足と都市部での生活水準の低下を示す指標となった。
工場を去った労働者たちのおよそ4分の1は、赤軍に入隊した。(16)
志願兵は最も未熟な労働者の出身である傾向があった。彼らは、赤軍が提供する多様な物質的な刺激物によって最大の利益を得た。—とくに、食事と金銭手当。
概して言って、多数の労働者は単純に、どんな戦争でも戦闘をしたくなかった。(17)
とどまった熟練労働者たちは、教育を受けたイデオローグたちの政治的見解を共有している傾向にあった。
彼らはしたがって、草の根権力からの逸脱が含んでいる政治的裏切りをより十分に理解することができた。また、ボルシェヴィキ支配により抵抗しがちだった。
(12)労働者を規律に服させることは、最優先の課題になった。
最も熟練した者であっても、プロレタリアートは、経済はむろんのこと工場を運営する能力がなかったということでは済まない。彼らは今や、労働を強いられなければならなかった。
労働人民委員部は、建設、輸送その他の緊急の業務のために人的資源を用いた。
1919年6月に、モスクワとペテログラードで労働カードが導入された。
雇用されていることの証明が、配給券を獲得するには必要とされた。
一般的な労働徴用は、1920年4月に始まった。(18)
だが、長期不在(逃亡)や低い生産性が持続した。
食物は、武器になった。
配給は、労働の種類、熟練の程度、生産率によって割り当てられた。
いわゆる専門家には報償が与えられ、欠勤や遅刻には制裁が伴った。
労働組合は、社会主義原理の侵犯だとして、賃金による動機付けや特別の手当の制度に異議を申し立てた。
1920年頃には、インフレがあって、労働者たちは現物による支払いを要求した。
彼らは、国家に対する犯罪だと見做されていたことだが、工場の財産を盗んで、物品を自分たちのものにした。(19)
労働徴用に加えて、当局はまた別の強制の形態に変えもした。
1920年初めに始まったのだが、多くは非熟練の農民労働者だった動員解除されていた兵士が労働部隊に投入され、鉱山や輸送、工業および鉄道の、燃料のための木材を集めるために使われた、
トロツキーは、第9回党大会で、工場労働力の軍事化も呼びかけた。
労働人民委員部への登録は義務となり、不出頭は脱走だとして罰せられた。(20)
(13)どこでもあることだが、しかし彼らの支持層との関係では驚くことに、ボルシェヴィキは、実力(force)の行使について取りすましてもおらず、かつ釈明的でもなかった。
ブハーリン(Nikolai Bukharin)は1920年に、「プロレタリア独裁のもとでは、強制は初めて本当に、多数派の利益のための多数派の道具となる」と誇った。
レーニンは述べた。「プロレタリアート独裁は強制(compulson)に、そして国家による最も苛酷で決定的な、容赦なき強制(coercion)に訴えることを、いささかも恐れない。先進的階級、資本主義により最も抑圧された階級は、強制を用いる資格がある」。(21)
思うのだが、この場合は、(本当にプロレタリアートであるならば)プロレタリアートは、そのゆえに、自分たち自身に対して強制力を行使していた。
(14)強制はかくして、戦時共産主義として知られるようになったものの基礎的で逆説的な要素だった。—産業の国有化、労働徴用、労働の軍事化、穀物挑発。
これは、彼らが与えようとはしたくない、またはそれを躊躇するものを労働する民衆から絞り出させるというシステムだった。—適正な補償なくして、労働やその果実を奪う、という。
また、民衆の一階層(飢えた労働者)を他者(屈強だか、やはり飢えた農民)に反対するように動員するシステムだった。
労働者たちはある範囲では、赤衛軍や食糧旅団で、国家権力の装置となった。国家権力は彼らを代表するとされたものだったが、ますます彼らを制約した。
農民たちは、兵士であるかぎりでは自ら国家装置に加入したことになる。
農民と労働者のいずれも、抵抗という暴力的形態でもって、この装置に対応することもした。
(15)労働者組織(委員会、組合、ソヴェト、党内からの指導者)—これらは、生まれようとする資本主義秩序に対する反対派を構成し、反対はあらゆる党派の革命的な活動家によって形成された—は、ボルシェヴィキが闘争を策略でもって勝利する基盤となった。
しかし、労働者組織はまた、ボルシェヴィキ支配に対する社会主義者の抵抗の基盤ともなった。
左翼側にあるこの批判は、経済的社会的危機に直面した労働者自身の絶望と怒りに、構造を付与した。
従前のように、土台にある労働者たちはしばしば、自分たちの指導者に反対した。
要するに、帝政を打倒するのを助け、ボルシェヴィキによって培養されて権力奪取に利用されたのと同じ怒りと熱情が、ひとたび彼らが自分たちで権力を振る舞おうとするや、難題を突きつけたのだ。
(16)本質を突き詰めていえば、社会主義の基礎的な諸命題は、労働者や農民が共鳴するものだった。—搾取者と被搾取者の二分論、「民主主義」対「ブルジョアジー」、防衛側にいる者と攻撃する側にいる者の対立、賃金労働者対上司たち。
イデオロギーの素晴らしい点は、抽象的にはほとんど違いをもたらさない。
メンシェヴィキ、エスエル(これらはいずれも内部で分裂した)およびボルシェヴィキの様々な訴えは、特有な状況を反映していた。
工場労働者は、実際には、自分たち自身の制度を創設し、自分たちの指導者を生み出す能力を持っていた。
社会主義知識人たちは、たんに騙されていたのではなかった。しかし、労働者大衆は、激しくて規律のない暴力(violence)を行使することも、自分たちの利益を代表するとする代弁者に反対することもできた。
(17)1917年十月の後で、集団的行動は継続した。—今度は、体制に対して向かった。その体制は、経済生活の最高の主人だと自分たちを位置づけていた。
この最高の主人は、しかしながら、自分の国家装置に対する差配をできなかった。
政策の適用と影響は場所によって、地方的支配の態様によって異なった。
最も先進的な企業や優れた労働組合の所在地であるペテログラードでは、
地方ボルシェヴィキは、労働者組織に対して厳しい統制を敷いた。
モスクワでは、レーニンのプラグマティックな考えによって、妥協はより容易だった。
ウラル地方では、左翼ボルシェヴィキ、左翼エスエル、メンシェヴィキが、影響力を目指して闘った。—その雰囲気は、激烈だった。
そしてじつに、ソヴィエト当局に対する最も激しい労働者反乱が発生したのは、このウラルでだった。(22)
(18)ウラルでの十月の影響は、厄災的だった。
市議会(City Duma)やzemstvo のような市民組織は、瓦解した。
ボルシェヴィキは、非常措置を用いた。—残虐な徴発、身柄拘束、食糧を求めての村落の略奪、私的取引の禁止(没収)。これらは全て、歴史家のIgor Narskii が述べるように、農民たちの抗議の波を誘発しつつも、「枯渇に至るまでの人口の減少」をもたらした。
どの都市も、どの大工業施設も、自ら閉鎖した。そして、窮乏(deprivation)という別の世界に変わった。(23)
——
第一節、終わり。
第6部第1章の試訳のつづき。
第1章・プロレタリア独裁におけるプロレタリアート。
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第一節②。
(9)もちろん、移行を瞬時に行うことはできない。
1918年にはずっと、私的所有制がなおも一般的で、様々な当事者—起業者、労働組合、国家—の間で交渉が継続した。
工場委員会は、私的所有の事業体の中でまだ活動しており、政治的な番犬のごとく振る舞っていた。
1920年4月の第9回党大会になってようやく、委員会は労働組合に従属した。労働組合はいまや国家の腕になっていた。(11)
トロツキーが技術的専門家の利用、職場紀律の賦課、そして実力による強制—赤軍の勝利の背後にあったモデル—を強調したのは、このときだった。
この党大会で、そしてその後の労働組合大会で採択された決定は、労働者委員会を権限ある管理者に服従させた。(12)
レーニンが観察したように、労働者には工場を稼働させる能力がなかった。
国家は、その本来の利益からして、「階級敵」との協働を必要とした。
あるいは、マルクス主義の用語法で言うと、(理論上は)政治権力をもつ階級(プロレタリアート)は、経済的権力を行使することができない。
プロレタリアートの地位は、1789年のフランスのブルジョアジーとは対照的だ。彼らは、政治的権力を獲得する前に経済を先ず支配した。
(10)上意下達の支配と草の根の(プロレタリア)民主主義の間に元々ある緊張関係は、真にプロレタリアートの現実の利益を代表する国家の働きによって解消される、と想定されていた。
ソヴィエトの場合は、この緊張関係は、民衆の主導性の抑圧とプロレタリアートによる支配というフィクションによって究極的には解消された。
しかしながら、その間に、「国家」自体が緊張で引き裂かれた。
中央による支配の達成は、中央においてすら、容易なことではなかった。
市民の主導性をやはり抑圧した、そして戦争をするという挑戦にも直面した君主制のように、ボルシェヴィキの初期(proto)国家は、中央と地方、上部と下部の間のみならず、経済全体の管理と軍隊に特有な需要との間の緊張関係も経験した。
1917年以前と同様に、制度上の観点からする対立が明らかになった。
今では、中央の経済権力(VSNKh)は、生産の動員と物的資源を求める赤軍と競っていた。
実際、軍はそれ自身の経済司令部を設け、VSNKhとともに生産の監督を行なっていた。
中央や諸地方にある多様な機関が、希少な原料と燃料を求めて競争していた。
金属の供給が再び始まったのは、ようやく1919年のウラルの再奪取があってからだった。(14)
(11)経済の崩壊という圧力のもとで出現したもう一つの不安は、労働力不足だった。
人々が食糧を求めて田園地域へと逃亡するにつれて、都市は縮小した。
配給は十月の直後から導入されていたが、配達は不確実で、量は乏しかった。
1917年と1920年の間に、ペテログラードは人口の3分の2を喪失した。モスクワは2分の1を。(15)
全体としては、産業労働力は60パーセント減少して、360万人から150万人になった。
最も気前のよい配給を好む労働者たちの苦痛は、食糧不足と都市部での生活水準の低下を示す指標となった。
工場を去った労働者たちのおよそ4分の1は、赤軍に入隊した。(16)
志願兵は最も未熟な労働者の出身である傾向があった。彼らは、赤軍が提供する多様な物質的な刺激物によって最大の利益を得た。—とくに、食事と金銭手当。
概して言って、多数の労働者は単純に、どんな戦争でも戦闘をしたくなかった。(17)
とどまった熟練労働者たちは、教育を受けたイデオローグたちの政治的見解を共有している傾向にあった。
彼らはしたがって、草の根権力からの逸脱が含んでいる政治的裏切りをより十分に理解することができた。また、ボルシェヴィキ支配により抵抗しがちだった。
(12)労働者を規律に服させることは、最優先の課題になった。
最も熟練した者であっても、プロレタリアートは、経済はむろんのこと工場を運営する能力がなかったということでは済まない。彼らは今や、労働を強いられなければならなかった。
労働人民委員部は、建設、輸送その他の緊急の業務のために人的資源を用いた。
1919年6月に、モスクワとペテログラードで労働カードが導入された。
雇用されていることの証明が、配給券を獲得するには必要とされた。
一般的な労働徴用は、1920年4月に始まった。(18)
だが、長期不在(逃亡)や低い生産性が持続した。
食物は、武器になった。
配給は、労働の種類、熟練の程度、生産率によって割り当てられた。
いわゆる専門家には報償が与えられ、欠勤や遅刻には制裁が伴った。
労働組合は、社会主義原理の侵犯だとして、賃金による動機付けや特別の手当の制度に異議を申し立てた。
1920年頃には、インフレがあって、労働者たちは現物による支払いを要求した。
彼らは、国家に対する犯罪だと見做されていたことだが、工場の財産を盗んで、物品を自分たちのものにした。(19)
労働徴用に加えて、当局はまた別の強制の形態に変えもした。
1920年初めに始まったのだが、多くは非熟練の農民労働者だった動員解除されていた兵士が労働部隊に投入され、鉱山や輸送、工業および鉄道の、燃料のための木材を集めるために使われた、
トロツキーは、第9回党大会で、工場労働力の軍事化も呼びかけた。
労働人民委員部への登録は義務となり、不出頭は脱走だとして罰せられた。(20)
(13)どこでもあることだが、しかし彼らの支持層との関係では驚くことに、ボルシェヴィキは、実力(force)の行使について取りすましてもおらず、かつ釈明的でもなかった。
ブハーリン(Nikolai Bukharin)は1920年に、「プロレタリア独裁のもとでは、強制は初めて本当に、多数派の利益のための多数派の道具となる」と誇った。
レーニンは述べた。「プロレタリアート独裁は強制(compulson)に、そして国家による最も苛酷で決定的な、容赦なき強制(coercion)に訴えることを、いささかも恐れない。先進的階級、資本主義により最も抑圧された階級は、強制を用いる資格がある」。(21)
思うのだが、この場合は、(本当にプロレタリアートであるならば)プロレタリアートは、そのゆえに、自分たち自身に対して強制力を行使していた。
(14)強制はかくして、戦時共産主義として知られるようになったものの基礎的で逆説的な要素だった。—産業の国有化、労働徴用、労働の軍事化、穀物挑発。
これは、彼らが与えようとはしたくない、またはそれを躊躇するものを労働する民衆から絞り出させるというシステムだった。—適正な補償なくして、労働やその果実を奪う、という。
また、民衆の一階層(飢えた労働者)を他者(屈強だか、やはり飢えた農民)に反対するように動員するシステムだった。
労働者たちはある範囲では、赤衛軍や食糧旅団で、国家権力の装置となった。国家権力は彼らを代表するとされたものだったが、ますます彼らを制約した。
農民たちは、兵士であるかぎりでは自ら国家装置に加入したことになる。
農民と労働者のいずれも、抵抗という暴力的形態でもって、この装置に対応することもした。
(15)労働者組織(委員会、組合、ソヴェト、党内からの指導者)—これらは、生まれようとする資本主義秩序に対する反対派を構成し、反対はあらゆる党派の革命的な活動家によって形成された—は、ボルシェヴィキが闘争を策略でもって勝利する基盤となった。
しかし、労働者組織はまた、ボルシェヴィキ支配に対する社会主義者の抵抗の基盤ともなった。
左翼側にあるこの批判は、経済的社会的危機に直面した労働者自身の絶望と怒りに、構造を付与した。
従前のように、土台にある労働者たちはしばしば、自分たちの指導者に反対した。
要するに、帝政を打倒するのを助け、ボルシェヴィキによって培養されて権力奪取に利用されたのと同じ怒りと熱情が、ひとたび彼らが自分たちで権力を振る舞おうとするや、難題を突きつけたのだ。
(16)本質を突き詰めていえば、社会主義の基礎的な諸命題は、労働者や農民が共鳴するものだった。—搾取者と被搾取者の二分論、「民主主義」対「ブルジョアジー」、防衛側にいる者と攻撃する側にいる者の対立、賃金労働者対上司たち。
イデオロギーの素晴らしい点は、抽象的にはほとんど違いをもたらさない。
メンシェヴィキ、エスエル(これらはいずれも内部で分裂した)およびボルシェヴィキの様々な訴えは、特有な状況を反映していた。
工場労働者は、実際には、自分たち自身の制度を創設し、自分たちの指導者を生み出す能力を持っていた。
社会主義知識人たちは、たんに騙されていたのではなかった。しかし、労働者大衆は、激しくて規律のない暴力(violence)を行使することも、自分たちの利益を代表するとする代弁者に反対することもできた。
(17)1917年十月の後で、集団的行動は継続した。—今度は、体制に対して向かった。その体制は、経済生活の最高の主人だと自分たちを位置づけていた。
この最高の主人は、しかしながら、自分の国家装置に対する差配をできなかった。
政策の適用と影響は場所によって、地方的支配の態様によって異なった。
最も先進的な企業や優れた労働組合の所在地であるペテログラードでは、
地方ボルシェヴィキは、労働者組織に対して厳しい統制を敷いた。
モスクワでは、レーニンのプラグマティックな考えによって、妥協はより容易だった。
ウラル地方では、左翼ボルシェヴィキ、左翼エスエル、メンシェヴィキが、影響力を目指して闘った。—その雰囲気は、激烈だった。
そしてじつに、ソヴィエト当局に対する最も激しい労働者反乱が発生したのは、このウラルでだった。(22)
(18)ウラルでの十月の影響は、厄災的だった。
市議会(City Duma)やzemstvo のような市民組織は、瓦解した。
ボルシェヴィキは、非常措置を用いた。—残虐な徴発、身柄拘束、食糧を求めての村落の略奪、私的取引の禁止(没収)。これらは全て、歴史家のIgor Narskii が述べるように、農民たちの抗議の波を誘発しつつも、「枯渇に至るまでの人口の減少」をもたらした。
どの都市も、どの大工業施設も、自ら閉鎖した。そして、窮乏(deprivation)という別の世界に変わった。(23)
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第一節、終わり。